ごあいさつ
東京にあこがれて、文学にあこがれて、文学をテーマに東京の街歩きをしてみたいと思ったのがきっかけで、いつしか夏目漱石にはまってしまいました。
2016年の漱石没後100年、2017年の漱石生誕150年。節目の年を過ぎようという今、次の節目の年にむかって、漱石を引き継いでゆきたいと、勝手に「漱石文学館」を開館しました。この文学館が、漱石を知り、語り合う場になれば嬉しいです。
2017年10月
勝手に漱石文学館
館長 北野豊
今日のつぶやき
犀星、脚色された人生

かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)
犀星が『我が愛する詩人の傳記』で書いた高村光太郎に関する一節です。1917年頃の光太郎と智恵子。智恵子は1936年に亡くなり、光太郎は戦時中、岩手県太田村に疎開します。犀星は『我が愛する詩人の傳記』をさらに続けます。
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪に凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもだえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。(略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。(略)しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。
どう考えても、このような一連の場面を光太郎が目撃させるはずはありません。明らかに犀星の創作です。『我が愛する詩人の傳記』が出版されたのは1958年ですから、69~70歳の犀星がこの文章を書いたのです。そして、翌1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表します。
『蜜のあわれ』には、つぎのような会話がある。
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、(略)」(略)
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
「性慾」という言葉は1956年から57年にかけて書かれた『杏っ子』にもたびたび出てきます。
このように犀星が性欲にこだわるのは、70歳前後になっても女性に対する欲望があり、それを抑制しないで表現したと言えばそれまでですが、私は犀星の出生に対する皮肉だったのではないかと思うのです。
小畠吉種がある女性と肉体関係をもち、犀星が誕生した時、吉種は満63歳。船登芳雄は『評伝室生犀星』で吉種の実年齢はさらに4歳上だったとしています。まさに犀星が『杏っ子』を書いていた年齢の時に、吉種は子をもうけたのです。自分が吉種の子であるならば、自分もまた、今、どこかの女性との間に子どもをもうける能力があるのではないか。けれども現実は、欲望はあってもそれにともなうものが欠けていることに犀星は気づいていたでしょう。欲望は作品の中でしか満たすことができない。犀星はここへ来て、吉種が実父ではないことを確信した、私はそう思います。
世間の関心はともかく、犀星はかなり早い段階で生母が山崎千賀であることを知ったのではないかと、私は思います。1908年12月に希望して金石へ転勤したのも、金石で生まれた生母の情報を得るためであったと言えるのではないでしょうか。犀星の疑問はむしろ「実父は誰か」という点に移っていたようです。1929年、犀星は生種の長男悌一に「僕のオヤヂの名前をしらせて下されたく、年譜をつくる必要があるのです」と問い合せています。通説としてのオヤジの名を、当然犀星は知っていたはずで、あえて聞く必要もないことです。この通説に犀星自身が疑問を感じたからこそ、探りを入れたのでしょう。それに対して、母は山崎千賀としながら、父の名は吉種という返事でした。
すでに生母の名を知っていた犀星は母の名にはまったく興味を示さず、父に関してはこれ以上追究しても無駄だと思ったのでしょう。
1943年発表された、《夏の日に匹婦の腹に生まれけり》という犀星の句は、遊郭で働く千賀の素性を知っていたことを裏付けています。しかし実父に関して、犀星は結局、何の確証も得ることができなかったのです。
自分の出生すら脚色された犀星。それなら、とことん自分の人生を脚色してやろうではないか。犀星の自伝的小説は、そして犀星の文学はそのような側面から、今一度捉え直してみる必要があるのではないか、私はそう考えます。


(『館長のつぶやき』より)
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