ごあいさつ
東京にあこがれて、文学にあこがれて、文学をテーマに東京の街歩きをしてみたいと思ったのがきっかけで、いつしか夏目漱石にはまってしまいました。
2016年の漱石没後100年、2017年の漱石生誕150年。節目の年を過ぎようという今、次の節目の年にむかって、漱石を引き継いでゆきたいと、勝手に「漱石文学館」を開館しました。この文学館が、漱石を知り、語り合う場になれば嬉しいです。
2017年10月
勝手に漱石文学館
館長 北野豊
今日のつぶやき
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅3⦆

1918年夏から秋へ
1918年8月。源作は60歳。前年生まれた亮吉(堀ノ内に住む長男幸三郎の長男)は13日、具合が悪く、静岡へ出て来て柴医師の診察を受けている(9月1日には柴医師から、食事の加減をするよう指示されている。)。源作の腹具合も良くない。14日の日記には、
 昨夜市中各所にて米価高騰のため下級民市中を練り回り三番町松山 宮崎友太郎 小林貞雄氏等にて物を傷付けやや乱暴をなしたりと
 記され、翌日には軍隊も出動したが効果なく、数十カ所が被害を受けたと書かれている。いわゆる「米騒動」(7月22日~9月12日)である。
9月に入っても源作は、8月から引き続き腹の具合が悪く、下痢も時どきみられる。16日、アメリカのシアトルから野球チームが横浜を経て訪れ、親善試合をおこなっている。
10月12日、源作は熊本でおこなわれる茶業大会出席のため、静岡を発ち、岡山を経て、14日、博多に到着した。この間、幸三郎次男郁平が生まれている。源作は25日まで九州各地に滞在し、京都・大阪を経て、30日、静岡に戻った。
ところがこの時すでに、スペイン風邪は爆発的流行を迎えている。とくに流行の早かったのは、神奈川・静岡・福井・富山・茨城・福島、これに埼玉・山梨・奈良・島根・徳島と続き、9月下旬から熊本・大分・長崎・宮崎・福岡・佐賀、10月中旬には山口・広島・岡山・京都・和歌山・愛知、東京・千葉・栃木・群馬と拡がっていく。北海道と沖縄は遅く、北海道は10月下旬、沖縄は11月上旬になってからである。
とにかく、源作が旅行した地域のほとんどが大流行地域になっており、福岡県では、10月10日、筑紫高等女学校で県内初の患者が発生し、1ヵ月で4400人ほどが亡くなっていたのである。大分県でも10月だけで756人が死亡している。
こうした状況の中で、源作は博多・熊本・人吉・鹿児島・都城・宮崎・延岡・佐伯・別府などまわり、各地で会食し、旅館に宿泊している。静岡に戻っても、10月30日、九州行きの報告会をおこない、31日・11月1日には野球会も開催されている。日記を読む限り、スペイン風邪が猛威をふるっているなど、一言も記されていない。

1918年秋から冬へ
とにかくスペイン風邪は今までのインフルエンザと明らかに違う威力をもっていた。スペイン風邪は発症すれば40℃近い高熱が出て、数日間で呼吸困難になり、死亡する例も多くみられた。とくに15歳から35歳の健康な若い人が多く、軍隊はじめ、中学校や高等女学校での流行が大きかった。これは「サイトカイン・ストーム」と呼ばれる現象で、健康な若者は生体の防御免疫機能が活発で、ウイルスの感染によって過剰反応を起こしやすいためである。
学校は休校が相次ぎ、運動会・修学旅行も見合わせが続出した。電車の運転本数は減り、炭鉱も休業。東京府では、10月28日から毎日平均200人以上亡くなり、全国各地で火葬場が満杯になり、処理できない状態になっていった。
芥川龍之介も発症した。11月2日には「僕は今スペイン風※でねてゐます。」(※風邪)「熱があつて咳が出て甚苦しい。」とつづられている。龍之介は一週間ほどで回復したが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなった(二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺して話題になった)。
抱月が東京で亡くなった翌日の11月6日、谷口留五郎・福岡県知事は、他人と談話する時は1.2メートル以上隔て、マスクをし、咳・くしゃみをする時は布で鼻・口を覆うように、宿屋・汽車・汽船などは感染しやすいので、旅行はなるべく控えるように、注意喚起を発表している(11月8日付「福岡日日新聞」)。新型コロナウイルス感染に対しても、同様のことを言っているのだから、100年経っても、人間は進歩していないと思うが、感染症の基本対策は100年経っても変わらないことを示している。
源作の日記も11月に入ると、様相が変化してくる。
11月3日、源作の孫にあたる富美(ふみ子、幸三郎の四女、1915年生まれ)が静岡へ来て発熱。38.5℃になったため、松岡医師の往診を受けている。5日には全快し、堀ノ内へ帰った。13日には欧州戦争の休戦条約が締結され、14日、富士製茶の製函工場から出火し全焼した。17日には源作の妻とき子病気の記述があり、18日にはとき子と七男の七郎が風邪で床にあるとの記述がみられる。七郎は平熱に下がっている。23日には次女で末っ子のせい(セイ子、1908年生まれ)が発熱。熱が下がらないため松岡医師に診てもらっている。24日、せいは朝の体温37.5℃、夕方38.5℃。27日には解熱し、日記には「大いによし」と記されている。翌28日には堀ノ内の幸三郎が風邪で37.5℃。29日には源作も風邪気味で早めに床についている。このすべてがスペイン風邪によるものかわからないが、ここへ来て、原崎家も異常に風邪が多く、清々しない11月を過ごしている。
そして、ついに12月3日、つぎのような記述が出てくる。
堀ノ内幸三郎方にて流行感冒にて子供その他家に籠り居ると電話来るにつき、とき子見舞いに行く。
この時、長男幸三郎の家には、幸三郎の他、妻もと、長女はつ(1909年生まれ)、次女や江、三女美江、四女富美、長男亮吉、次男郁平がいた。どの範囲まで発症したかわからないが、スペイン風邪の家庭内感染が濃厚な最初の記述である。9歳から生まれたばかりの乳児まで6人の子どもがおり、たいへんなことだったと思われる。4日に「堀ノ内病人、大いによし」ということで、手伝いに来る人もあって、とき子は一旦静岡に戻ったが、7日には再び赴き、一泊した。ところが、8日には、
きく子又風邪にて籠り居、下女も風邪にて具合悪いにつき
とき子は急きょ、静岡へ呼び戻された。きく(きく子、源作長女、1898年生まれ)は、「又」と書いてあるので、日記には記されていないが、少し前にも風邪症状を示したものと思われる。12日には源作が悪寒、もたれ。発熱37.8℃。翌日は37.2℃まで下がり、15日には「風邪大いによし、少しは起きてみる。」と記している。この間、毎日、松岡医師の往診を受けている。源作は予後が悪く、18日に松岡医師の診察を受け、咽喉の具合が悪いと言うことで吸入を施されている。
20日になると、幸三郎の妻もと(もと子)が発熱。40℃。21日になっても39℃で、静岡から柴医師が往診に出向き、24日になっても40℃で、柴医師が再び往診している。母親が病気になっているため、郁平は22日に静岡へ連れて来られた。24日になっても熱は40℃で、一番町の本間医師が堀ノ内まで往診に出かけている。もとは27日になって「病気大いによろし」の病状は改善し、29日、「昨日より食事を粥となせし」という状態になり、31日には36℃の平熱に戻った。おそらく12月初めの家族内集団発症のおり、もとは発症しなかったのだろう。31日の日記には、
堀ノ内預かり小児郁平 昼健康勝れ皆々喜び居る。生乳1合 コンデンスミルク2時間に4オンス又は5オンス(17・8倍)にて大便 上々なり。
と、記されている。生後2ヵ月余の乳児に母乳を与えることができない場合の対処法として貴重な資料である。
(『館長のつぶやき』より)
新着
連載 漱石こぼれ話』に『25.田端点描』を追加しました。
連載 漱石気分』が完結しました。
21世紀の木曜会』へのご参加、お待ちしてます。
長年の漱石研究の成果をもとに、何ものにも囚われない在野の視点から、漱石を描きます。今までの常識がひっくり返るような事実も浮かび上がってきます。順次、新しい章を追加、掲載していきます。お楽しみに。
漱石に関わる単発のテーマを、思いつくまま、気のむくままに、順次、掲載していきます。漱石気分に書き入れることができなかった「こぼれ話」です。お楽しみに。
漱石に関係あること、ないこと。館長が勝手気ままにつぶやきます。
漱石のもとを訪れる人が増え、漱石の負担を心配した弟子たちが、木曜日に限って漱石のもとに集まるという申し合わせをするようになりました。こうして生まれた木曜会には漱石も顔を出し、集まった人たちも忌憚のない意見を出し合いました。
「21世紀の木曜会」。連載に対する意見、感想をはじめ、漱石に関すること何でも、お互いに語り合い、意見交換、情報交換していきましょう。発言、お待ちしております。
北野豊著『漱石と歩く東京』『漱石と日本国憲法〜漱石からのメッセージ』の紹介と購入方法が書かれています。
漱石の作品を読みたい方、どうぞご利用ください。
クリックすると、「青空文庫」の漱石掲載作品一覧のページへ移動します。
クリックすると、現在リンクされているサイトの一覧が表示されます。参考文献などにもリンクしていますので、どうぞご利用ください。
私のふるさと金沢が生んだ三文豪、泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星に関するコーナーです。鏡花については漱石もかなり注目をしており、漱石は鏡花・秋聲に朝日新聞連載の便宜を図っています。犀星は漱石最後の、そしてもっとも才能ある門下生と言われる芥川龍之介と親しくなり、龍之介は漱石が果たせなかった金沢訪問を実現しています。そのような三文豪について、順次、私が書いた文章を掲載していきます。
© 2017-2019 Voluntary Soseki Literature Museum