『婦系図』のあらすじは省略し、ここでは早瀬主税・お蔦の家、酒井俊蔵の家、河野英吉の家がどこにあるかを中心にみていくことにしたい。
早瀬主税は静岡生まれの27、8歳。細君のお蔦は23歳。この家には、お源という女中がいる。物語はお蔦が神楽坂の縁日に行って来たところから始まるが、続いて江戸前の魚屋が登場する。め組と呼ばれる魚屋は、徳川慶喜が静岡へ下ったおり、2年ほど静岡に暮らしたことがあるという。今は八丁堀に住んでいる。
京橋川を外濠から、大根河岸、魚河岸と進んで、北櫻河岸・南櫻河岸一帯が八丁堀である。そのまま行くと、隅田川へ流れ込んで行く。八丁堀は江戸初期に掘られ、長さが8丁あったところから名づけられ、堀は明治になって桜川と改称。戦後、埋め立てられて公園になった。八丁堀という地名は現在も使用され、京葉線などの駅名にもなっている。
主税の大恩ある先生、酒井俊蔵は文学士、大学教授で専門はドイツ文学。照陽女学校へ通う妙子という娘がいる。妻の名は謹。けれども、妙子は俊蔵と柳橋の芸者小芳の間に生まれた子どもらしい。酒井の家が真砂町にあることは、たびたび書かれており、「真砂町の先生」として知られている。
真砂町は本郷台地の南西端にあたり、真砂坂を下ると小石川の低地に出る。かつての本郷区真砂町は、現在の文京区本郷4丁目にあたる。妙子が通う照陽女学校は実在しない。けれども、鏡花が金沢で今日の北陸学院の源流となる愛真(真愛)学校に通ったことを考えると、キリスト教系の女学校を念頭においたのではないかと私は推察している。後篇で静岡へ舞台を移して、河野の家を、かつて慶喜が暮らした草深に設定しているが、同地にはキリスト教系の静岡英和女学校(現、静岡英和女学院)がある。真砂町から通いやすいキリスト教系の女学校と言えば、駿河台には駿台英和女学校(1875~1921年、当時、駿河台袋町10)、猿楽町には佛英和女子学校(1881~白百合学園)がある。どちらも水道橋を渡って1キロほどで、鏡花の伯父が住む猿楽町一帯に校地がある。駿台英和女学校は小規模ながら評価は高く、佛英和女子学校は赤レンガ校舎が有名だった。
主税の友人で学士になった河野英吉は27歳。静岡に住んでいる軍医監河野英臣の長男で、姉ひとり、妹五人。姉は静岡に住み、婿が医者をしている。妹のうち二人は嫁ぎ、あとの三人と英吉、それに祖母が南町の家に住んでいる。東京における河野の家は、南町にあることが繰り返し出てくる。可能性のある麹町区・神田区・牛込区・本郷区・小石川区において、「南町」は「牛込南町」「牛込早稲田南町」の二町のみ。南町はこのどちらかであるが、後篇で牛込南町と記された箇所がある。神楽坂から地蔵坂を上って袋町を過ぎると、牛込北町・牛込中町・牛込南町が並んでいる。紅葉の家から300メートルほどの至近の距離である。
主税とお蔦の家は「柏家」の項で、俊蔵が明らかにしている。強引に主税を連れて「柏家」にやって来た俊蔵が、お蔦の居場所について言葉を濁す小芳らを前に、《
おい、蔦吉は、當時飯田町五丁目の早瀬主税の處に居るよ。
》と、見得を切るように言っている。飯田町五丁目(麹町区)は現在の千代田区飯田橋三丁目(4丁目の地域かも)。
「男金女土」から「電車」の項にかけて、本郷薬師の縁日で俊蔵に出会った主税が、いっしょに主税の家まで行く場面が描かれている。本郷薬師というのは、1670年に建立された真光寺境内(本郷4丁目)にある薬師堂で、8日・12日・22日が縁日。『婦系図』が書かれた頃、神楽坂の善国寺毘沙門天の縁日と並んで、にぎやかであった(『本郷界隈を歩く』p48)。
本郷薬師は俊蔵の住む真砂町に隣接する。帰宅せず、酔い覚ましに水道橋まで歩くという俊蔵に、主税も従うことになる。二人は本郷三丁目交差点から南へ中山道(本郷通り)を進み、右折して壱岐坂(壱岐殿坂)を下って、小石川へ出た。ここで俊蔵は「お前の許でも皆健康か。」と不意打ちをかける。主税は安からぬ心地がする。突き当りの砲兵工廠はつぎのように表現されている。
砲兵工廠の夜の光景は、樂天的に視(示ヘンに見ル)ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕はしたやうで、轟々と轟く響が、吾妻橋を渡る車かと聞為さるゝが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
東京砲兵工廠は1879年、水戸藩邸跡に造られ、石炭滓をまき散らす高い煙突をもった工場や、倉庫が建ち並んでいた。公害の発生源として嫌われモノかもしれないが、日清、日露の戦争を経て国家主義・軍国主義の風潮が強まる中で、重要な軍需工場である砲兵工廠を批判するわけにもいかず、鏡花も皮肉っぽい表現をしている。そして、『婦系図』の後を追うように書かれた、漱石の『虞美人草』においても、《
駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠の鉄砲玉は鉛を溶かして鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である
》と表現されている。
左折して砲兵工廠に沿って歩くと、《
蒸氣が眞白な瀧のやうに横ざまに漲つて路を塞いだ
》。二人は水道橋の袂に着き、ここから外濠線の電車に乗って、四つ目の神楽坂下で下車。現在の中央線では水道橋から飯田橋まで一駅である。御茶ノ水から水道橋、神楽坂下、四谷見附へと外濠線の電車が開通したのは1905年である。歩けない距離ではないが、開通してまだ二年の電車に乗ってみたい気持ちはわかる。