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7.婦系図
湯島天神
鏡花の代表作の一つ『婦系図』は1907年1月から「やまと新聞」に連載された。鏡花は前年2月に祖母を失い、体調をそこねて7月に逗子田越へ転居していた。したがって『婦系図』は逗子で書かれた。
『婦系図』は大きく前篇と後篇に分けられ、前篇は東京、後篇が静岡を舞台としている。主人公早瀬主税、お蔦と言えば湯島天神を思い出す。とくに、
切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
というセリフは有名である。が、それは芝居の話で、原作に湯島天神はまったく出て来ない。私は初めて『婦系図』を読んだ時、このセリフの出て来ることを楽しみに読み進み、ついに前篇が終わり、後篇に入って突然、静岡へむかう汽車の中で、すっかり裏切られた気分になってしまった。
『婦系図』は原作が発表された翌年、紅葉一門の柳川春葉によって脚色され、9月には新富座で初演された。秋谷高志は「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」で、当時の舞台構成を紹介しているが、計8幕(仝返し含む)のうち、三幕目に「湯島天神境内」がある。湯島天神は鏡花でなく、春葉の発案である。
鏡花は原作で、お蔦と後篇で登場する菅子を同列においていた。むしろお蔦を従においていた。けれども春葉の台本は、静岡に関するのは1幕だけで、鏡花も《
お蔦だけでは見せ場はなかろう、と思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になったり。
》と評している。どんな名作も視聴率を稼げなかったらテレビドラマとして成り立たないのと同様、鏡花が描こうとした大きなテーマは、お蔦・主税の悲恋物語へと、どんどん集約され、ついに鏡花自身も1914年に明治座公演のために、お蔦・主税の別れの場面を描いた『湯島の境内』を書くまでになっていった。テレビドラマも誰が脚本を書くかによって、視聴率まで大きく左右される。その意味で、興行を成功に導き、今日まで語り継がれる『婦系図』を仕立て上げていった春葉の、脚本家としての才能は大きかったと言えるだろう。
それにしても、どうして原作にはまったく出てこない湯島天神が、お芝居に登場することになったのか。春葉にきかなければわからないのだが、鏡花は『湯島の境内』で、《
切通しを帰るんだわね。おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような。
》というセリフを、お蔦に最後のセリフとして言わせている。この辺りにヒントがあるかもしれない。湯島天神は切通坂に面している。
今日でも、湯島天神へ行くと、『婦系図』や鏡花は色あせていない。『婦系図』は鏡花の予期せぬことで湯島天神と結びついてしまった。鏡花はどう思っていたのか。私にはわからないが、湯島天神前には花街が広がり、湯島天神から望まれる下谷一帯は、鏡花の母すずの故郷である。何か天神さまが鏡花を引き寄せてくれた、そんな因縁さえ感じるのである。ついでながら、加賀藩前田家の紋は梅花。私は金沢の正月菓子、福梅が大好きである。
登場人物の家
『婦系図』のあらすじは省略し、ここでは早瀬主税・お蔦の家、酒井俊蔵の家、河野英吉の家がどこにあるかを中心にみていくことにしたい。
早瀬主税は静岡生まれの27、8歳。細君のお蔦は23歳。この家には、お源という女中がいる。物語はお蔦が神楽坂の縁日に行って来たところから始まるが、続いて江戸前の魚屋が登場する。め組と呼ばれる魚屋は、徳川慶喜が静岡へ下ったおり、2年ほど静岡に暮らしたことがあるという。今は八丁堀に住んでいる。
京橋川を外濠から、大根河岸、魚河岸と進んで、北櫻河岸・南櫻河岸一帯が八丁堀である。そのまま行くと、隅田川へ流れ込んで行く。八丁堀は江戸初期に掘られ、長さが8丁あったところから名づけられ、堀は明治になって桜川と改称。戦後、埋め立てられて公園になった。八丁堀という地名は現在も使用され、京葉線などの駅名にもなっている。
主税の大恩ある先生、酒井俊蔵は文学士、大学教授で専門はドイツ文学。照陽女学校へ通う妙子という娘がいる。妻の名は謹。けれども、妙子は俊蔵と柳橋の芸者小芳の間に生まれた子どもらしい。酒井の家が真砂町にあることは、たびたび書かれており、「真砂町の先生」として知られている。
真砂町は本郷台地の南西端にあたり、真砂坂を下ると小石川の低地に出る。かつての本郷区真砂町は、現在の文京区本郷4丁目にあたる。妙子が通う照陽女学校は実在しない。けれども、鏡花が金沢で今日の北陸学院の源流となる愛真(真愛)学校に通ったことを考えると、キリスト教系の女学校を念頭においたのではないかと私は推察している。後篇で静岡へ舞台を移して、河野の家を、かつて慶喜が暮らした草深に設定しているが、同地にはキリスト教系の静岡英和女学校(現、静岡英和女学院)がある。真砂町から通いやすいキリスト教系の女学校と言えば、駿河台には駿台英和女学校(1875~1921年、当時、駿河台袋町10)、猿楽町には佛英和女子学校(1881~白百合学園)がある。どちらも水道橋を渡って1キロほどで、鏡花の伯父が住む猿楽町一帯に校地がある。駿台英和女学校は小規模ながら評価は高く、佛英和女子学校は赤レンガ校舎が有名だった。
主税の友人で学士になった河野英吉は27歳。静岡に住んでいる軍医監河野英臣の長男で、姉ひとり、妹五人。姉は静岡に住み、婿が医者をしている。妹のうち二人は嫁ぎ、あとの三人と英吉、それに祖母が南町の家に住んでいる。東京における河野の家は、南町にあることが繰り返し出てくる。可能性のある麹町区・神田区・牛込区・本郷区・小石川区において、「南町」は「牛込南町」「牛込早稲田南町」の二町のみ。南町はこのどちらかであるが、後篇で牛込南町と記された箇所がある。神楽坂から地蔵坂を上って袋町を過ぎると、牛込北町・牛込中町・牛込南町が並んでいる。紅葉の家から300メートルほどの至近の距離である。
主税とお蔦の家は「柏家」の項で、俊蔵が明らかにしている。強引に主税を連れて「柏家」にやって来た俊蔵が、お蔦の居場所について言葉を濁す小芳らを前に、《
おい、蔦吉は、當時飯田町五丁目の早瀬主税の處に居るよ。
》と、見得を切るように言っている。飯田町五丁目(麹町区)は現在の千代田区飯田橋三丁目(4丁目の地域かも)。
「男金女土」から「電車」の項にかけて、本郷薬師の縁日で俊蔵に出会った主税が、いっしょに主税の家まで行く場面が描かれている。本郷薬師というのは、1670年に建立された真光寺境内(本郷4丁目)にある薬師堂で、8日・12日・22日が縁日。『婦系図』が書かれた頃、神楽坂の善国寺毘沙門天の縁日と並んで、にぎやかであった(『本郷界隈を歩く』p48)。
本郷薬師は俊蔵の住む真砂町に隣接する。帰宅せず、酔い覚ましに水道橋まで歩くという俊蔵に、主税も従うことになる。二人は本郷三丁目交差点から南へ中山道(本郷通り)を進み、右折して壱岐坂(壱岐殿坂)を下って、小石川へ出た。ここで俊蔵は「お前の許でも皆健康か。」と不意打ちをかける。主税は安からぬ心地がする。突き当りの砲兵工廠はつぎのように表現されている。
砲兵工廠の夜の光景は、樂天的に視(示ヘンに見ル)ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕はしたやうで、轟々と轟く響が、吾妻橋を渡る車かと聞為さるゝが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
東京砲兵工廠は1879年、水戸藩邸跡に造られ、石炭滓をまき散らす高い煙突をもった工場や、倉庫が建ち並んでいた。公害の発生源として嫌われモノかもしれないが、日清、日露の戦争を経て国家主義・軍国主義の風潮が強まる中で、重要な軍需工場である砲兵工廠を批判するわけにもいかず、鏡花も皮肉っぽい表現をしている。そして、『婦系図』の後を追うように書かれた、漱石の『虞美人草』においても、《
駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠の鉄砲玉は鉛を溶かして鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である
》と表現されている。
左折して砲兵工廠に沿って歩くと、《
蒸氣が眞白な瀧のやうに横ざまに漲つて路を塞いだ
》。二人は水道橋の袂に着き、ここから外濠線の電車に乗って、四つ目の神楽坂下で下車。現在の中央線では水道橋から飯田橋まで一駅である。御茶ノ水から水道橋、神楽坂下、四谷見附へと外濠線の電車が開通したのは1905年である。歩けない距離ではないが、開通してまだ二年の電車に乗ってみたい気持ちはわかる。
柏屋
お蔦が家にいることを知られては困るので、主税はとっさに言い訳をするが、見透かした俊蔵は付いて来るように命じ、両国行きの電車に乗る。おそらく冬青木坂下にある電停から乗車したのであろう。電車は始発の大曲(新小川町)から現在の明治通りを走って、九段下から現在の靖国通りのルートへ入り、神保町・小川町・須田町・万世橋・和泉橋・浅草橋を経て、両国へむかう。二人は浅草橋で下りると、そこは両国広小路。それから、神田川に架かる浅草橋を渡ると、《
淺草橋を渡果てると、富貴竈が巨人の如く、仁丹が城の如く、相對して角を仕切つた、横町へ、斜めに入つて、
》柳橋の花街を歩き、柏家(柏屋)に到着した。
ここで気になるのが、富貴竈と仁丹。
富貴竈とは、1900年頃から薪炭の高騰、ガス器具の使用にともなってつくられるようになった薪炭・ガス両用の炊飯専用竈。梅田仙吉商店が梅田竈とよばれたのに対し、阿部彦四郎商店製は富貴竈とよばれた(『日本近代社会における熱源変動の家庭調理に及ぼした影響(第1報)』26ページ)。阿部彦四郎商店は浅草区茅町1丁目2番地、つまり両国広小路から浅草橋を渡って、川沿いの道のつぎの道、浅草下平右衛門町の真ん中を隅田川へむかう道の角にあった。アイスクリーム製造機や葡萄酒冷器なども販売する商店で、重厚な立派な建物だったのだろう。
相対する仁丹はおそらく4番地にあたると思われる。城の如くという表現から仁丹塔を思い浮かべるが、仁丹塔が初めて造られたのは確かに1907年だが、東京ではなく大阪である。翌年、東京神田の開花楼の上に広告塔が造られた。浅草の仁丹塔は1932年に造られている。したがって、『婦系図』が書かれた当時、東京に仁丹塔や類似するものはなく、おそらく「大礼服マーク」が入った突き出し看板が取り付けられた薬店が角にあったと推定される。森下南陽堂(現、森下仁丹)は1900年、梅毒新剤「毒滅」を発売、目立つ突き出し看板を全国の薬店に取付、宣伝に努めていた(「森下仁丹」ホームページ参照)。梅毒は花柳病とも言われており、花柳の街柳橋の入口に仁丹の看板を掲げた薬店があっても不思議はない。
柏家には、俊蔵ひいきの小芳、その妹分の綱児。お蔦(蔦吉)もこの柳橋の出である。『婦系図』は鏡花が神楽坂の芸者すずを落籍し、所帯をもったことを、師である紅葉に咎められ、二人の仲が引き裂かれた体験をもとにしていると言われているが、鏡花はお蔦を神楽坂の芸者と設定することを避け、柳橋に設定した。おそらく神楽坂の方が書きやすいはずだが、鏡花にとって神楽坂ではあまりにも生々しかったのであろう。
【参考文献】
秋谷高志:演劇批評「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」、2019年、
ネット公開
高瀬恭章編著:『本郷界隈を歩く』(江戸・東京文庫⑧)、2002年、街と暮らし社
柏木麻由美・平井聖・石川松太郎:『日本近代社会における熱源変動の家庭調理に及ぼした影響(第1報)』、2004年、日本家政学会誌Vol.55No1、ネット公開
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