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7.『爛』の中の東京
『妾』という題名が良さそうな作品
『爛』(初出『たゞれ』)は1913年3月から8月まで、「国民新聞」に連載された。
『爛』の主人公は「お増」である。お増はある遊里(花街)から浅井に見受けされ、妾になった。浅井はやがて正妻お柳を追い出し、お増と夫婦になる。結局、お柳は狂い死ぬ。お増は遠縁の少女お今に浅井を奪われそうになるが、妻の座を守り通す。これが『爛』のあらすじである。
『爛』には、お増以外にも何人か女性が登場する。
お雪は、遊里において、お増と同じ家にいたが、公使を務める黒田という男に見受けされ、妾になり、女の子まで生まれた。しかし、お雪は正妻になれないどころか、縁を切られ、破天荒な新劇俳優青柳のもとに走った。子どもは黒田が連れて行ってしまい、会うことができない。
お芳は、日本橋でかつて羅紗問屋をしていて、根岸の方に隠居している男性の妾である。根岸から神田へ転居して、洋酒・缶詰・タバコなどを売る店を出し、才覚を発揮している。
浅井とお柳の離婚をめぐって、お柳の兄から依頼された小林弁護士にも、芸者あがりの妾がいる。
赤坂に住むお増の近所に、大学教授の妾が住んでいる。この女性は逗子にある教授の別荘に召使として住込みで働いていたが、教授との間に男の子を生んだ。教授は小石川に本宅があり、年に4、5回、この女性のもとを訪れる。
この作品に登場する男性たちは、これだけでは物足りないようで、浅井はお増を妻に迎えてからも、赤坂や芝など各所に「女」をつくっている。青柳は好きになったお嬢さんをだまして、家に入れるため、お雪を追い出そうとし、結局、お嬢さんに逃げられる。根岸の隠居は、東京近在から来ている召使の少女を妊娠させたとして、少女の伯父を名乗る人物からねじ込まれる。
これでは、『爛』というより、『妾』という題にした方が良さそうである。しかも、秋聲はお増を通して、
そんな時には、浅井の活動ぶりも、一層目ざましかった。収入も多かったし、自分のわがままも利いた。お増はその隙に、家をつめて物を拵えたり、金で除けたりすることを怠らなかった。
(三十五)
そして小林弁護士の妾などとの会話の部分で、
「あまりやかましく言っちゃ駄目ですよ。遊ぶような時でなくちゃ、お金儲けは出来やしないの」
(略)
「浮気されると思や、腹も立つけれど、きりきり稼がしておくんだと思えば、何でもないじゃないの。私はこのごろそう思っていますの。」
(三十五)
と、「妾肯定」発言をさせている。そして、お柳は「妾」に妻の座を奪われ、心身共に疲れ果て死んでいくが、「妾」たちの方は落ち込んではいない。お芳は商売に才能を発揮し、活き活きとしている。お増も妻の座をお柳から奪い取り、洋々としているように見える。これでは、女性は「妾」になることによって幸せになれるという錯覚に陥る。お今などは、「妾」に憧れているように見受けられる。こんな女性が多くなれば、秋聲などは嬉しいだろう。まさに、秋聲自身の浮気、女遊びを正当化する、「男の身勝手」を絵に描いたような作品である。
「妾」と「東京生活」に憧れるお今
お今は、お増の遠縁の娘で、郷里は同じであろう。料理・裁縫学校へ通うため上京し、浅井、お増といっしょに暮らし始めていた。紫の袴は当時流行であり、どこの女学校か特定できないが、女子に学問などいらないという風潮がまだまだ強い中、東京の女学校に入れたのは、実家がそれ相応の家であることを示している。
当初、お増を女性としてお今を意識していなかった。お今は子どもであった。ところが、
伊豆へ立つときも、このごろ何かのことに目をさまして来たらしいお今のことが、気になってしかたがなかった。浅井の傍に、飯の給仕などをしている、処女らしいその束髪姿や、弾みのある若々しい声などが、お増を多少やきもきさせた。お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。
(略)
お今は何の気もつかぬらしい顔をして力一杯背を擦っていた。
(三十一)
それほど心配なら、浅井の背を洗わせるようなことをさせなければ良いのであるが、まだお今を半分子どもと思っていたのだろう。
そのお今に郷里で縁談話が持ち上がった。
東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄か何ぞのような雰囲気のなかに、お今の心を涵しはじめるのであった。
(略)
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
(三十六)
すっかり「東京生活」を好きになったお今は郷里へ戻りたくなかったが、結局、帰郷せざるを得なくなった。年を超えて1月にお今が上京して来た。縁談がうまくいかなかったのである。
「今年ほどつまらないお正月はございませんでしたよ。」お今は次へさがって、行李から取り出して来た土産物を、そこへ出すと、やっと落ち着いたような顔をして言い出した。「それに、行って見て、つくづく田舎の厭なことが解りましたわ。どんなことをしても、私東京で暮そうと思いましたわ。」
(四十)
破談になったものの、お今に惚れた室鎮雄は、親の反対を押し切って上京。日本橋にある出張所に職を得て、生計の目途も立ち、浅井夫婦にも積極的に働きかけてきた。室と結婚しても大好きな東京に住むことができるのだから、良さそうなものだが、お今は乗り気ではない。真面目そうな室と合わないという側面もあっただろうが、どうもお今は妾から正妻になって羽振りの良いお増を見ていて、結婚より妾になることの方が幸福になる近道と思い込んだようである。
室が上京して来ると、お今は彼から逃げるように浅井に接近していく。
帰郷前よりも一層潤沢をもって来たお今の目などの、浅井に対する物思わしげな表情を、お増は見遁すことができなかった。
(四十一)
秋聲の描写によると、あいの子のような、愛くるしい目をしたお今は、なかなかの美少女で、それが《
女ぶり
》をあげて、浅井に色仕掛けを始めてしまったのだから、お増の心中は今までに増して穏やかでない。お増とお今の確執が激しさを増し、いざこざが絶えなくなり、お増は自分も追い出され、お柳と同じ運命をたどるのではないかと、恐怖感が募っていった。
お増は浅井がしばらく田舎へ行っている間に、小林弁護士に用意を依頼してあった家にお今を移させた。その年も涼風の立ちはじめるころであった。それでも、
「姉さんのところへ来ると、ほんとうに気がせいせいしてよ。」気づまりな宿の二階に飽きて、お増の方へ遊びに来たお今は、道具などに金のかかった綺麗な部屋のなかや、掃除の行き届いた庭などを眺めながら言った。
(五十三)
と、お今はお増を訪ねて来る。反対に、お今のところへ、室も顔を出す、浅井もお増も顔を出す、静子がいっしょに行くこともあると言う状態になっていった。とうとう浅井は、この頃色稼業を止めて、芝の方に化粧品屋を出した女のところの帰りがけに、独りでお今を訪ねるようになった。ある朝、酔い覚ましに立ち寄った浅井は、お今のところで昼過ぎまで眠って、帰りがけに、「私もそこまで出ましょうかしら。」と、お今も連れ立って出ようとする。
「ねえ、いけないこと?」お今は甘えるようにそういって、鏡の前で髪などを直していた。
(略)
「どこへ行くね。」浅井は調子づいたような女に、興のさめた顔をして訊いたが、淡いもの足りなさが、心に沁み出していた。「どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。」
(略)
電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥いだ舗石のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。「こんなところ、いつ来たって同じね。」お今は蓮葉なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟巻きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧らせていた。「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」お今は体を浅井に絡みつくようにして低声で言った。
(五十六)
当時の銀座通りの雰囲気が伝わって来るようだ。
若いお今にとって、東京は華やいだ世界でなければならないし、まだ見ぬ世界をもっていなければならなかった。田舎には両方なかったし、室と結婚して住む東京には両方とも期待できなかった。ただ東京に住むだけでは、お今は満足できなかった。自分の思いを実現するには、浅井の妾になることだと考えていた。
しかしながら、現実は甘くない。浅井にとって、お今はちょっとした遊びであって、芝の女の方へ株券や貴重な書類の入った手提げ金庫を運んでいる。そのことがわかったお増は、敵がお今ではなく、芝の女であることを知って、一度は死のうとするが、自分は「お柳のようにならない」と決めて、思いとどまった。
爛れた人びと
『爛』も『黴』と並んで、読みたくなるような題名ではない。秋聲はなぜこのような題名をつけたのだろうか。『黴』という作品には、「黴」という言葉がほとんど出て来ないし、出て来ても「黴」が特別な意味をもつことはない。『爛』には、「爛れ」という言葉が4回出て来る。そして、「黴」に比べれば意味を持っている。
今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛れていた。
(五)
この箇所で心が爛れているのは、お雪と青柳である。
爛れきった霊が蘇った
(三十)
爛れ切ったのはお増の心である。それが東京を離れ、田舎で過ごすうちに癒えたというのである。
お今の若々しい束髪姿が、そんな時の浅井の心に、悪醇い色にただれた目に映る、蒼いものか何ぞのように、描かれていた。
(三十四)
浅井は、爛れたような肉の戦くような薄寒さに、目がさめた。
(五十五)
爛れているのは浅井の目であり、肉体である。
書かれてはいないが、他に登場する人びとも、身も心も爛れているのであろう。
『爛』に登場する男性で、浅井の年齢はわからないが、小林弁護士は47、8歳。根岸(のちに神田)の隠居は53、4歳。いずれも「妾」をもった連中である。これに対して、お増は25歳前後。お芳も30歳になっていない。お雪はお増の大先輩にあたるが、「30歳に手が届く」程度である。二十歳代と言えば、現在では明らかに「若い女性」の部類であるが、秋聲の時代はそうではない。そして、すでに彼女たちも爛れていたことになる。
女性について、『爛』にはお増の言葉として、つぎのような一文がある。
「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年をとるとまったく駄目ね。」
(三十八)
まさにお今はその真っ盛りであり、お増はそれを超えた辺りである。浅井を巡って、子どもとして見ていたお今が有力な競争相手になった。それを予感させる言葉である。そして、三十歳に手が届くお雪は、
「こら、こんなに禿が大きくなったよ。」
(略)
「もう十年も経ったら、このへんはまるで毛がなくなってしまうよ。」
(二十五)
と、嘆いている。もう若くない。
お雪の禿は16、7歳からの苦労の現れという。漱石の作品によれば、妻鏡子にも禿があった。そう言えば、私の母にも禿があった。「昔の人はみんな髪を結ったから、禿があるんだよ。」と聞かされた。
ところで、この作品には見逃せない女性、と言うより、女の子がいる。静子(しいちゃん)である。初め、静子は浅井とお柳の子どもかと思われる。しかし、二十八において、静子が日本橋の方の料理屋の女中と学生のあいだに生まれた子で、それを浅井がもらって来て、お柳といっしょに育てていたことが明らかになる。浅井はお柳と縁を切ると、お増と住む家に連れて来た。
お増は自分も子どもを産んでみたいと言いながら、そしてなかなか母親の気持ちになれないと言いながら、静子を受け入れている。浅井、お増、静子の三人で、浅草や動物園を歩く姿はどう見ても仲の良い親子連れであろう。お今も静子の世話をしている。静子が肺炎で入院すると、みんなで心配している。静子のところへは、近所に住む男の子も遊びに来る。大学教授と妾の間に生まれた子である。
お今が体良く家を出て行った後、浅井とお増、静子が住む家には、浅井の姉の子という男の子が同居するようになり、若い女中もひとり雇われている。
心傷つき、爛れることも多いが、血縁関係のない子を育て、東京に住む人間の宿命として、郷里から出て来た親戚の面倒をみる。そんな人間の温かさ、寛容も描かれている。「爛れた社会」は、「爛れを癒す力」ももっている。そのような思いが伝わって来る。このようなところが秋聲作品の魅力なのかもしれない。
東京を転々とする「お増」
お増は故郷で茶屋奉公に出され、若旦那との噂が立って、東京の遊里(花街)へやって来た。どこの遊里かわからない。浅井の事務所を日本橋界隈と設定して、たびたび訪れることができる近隣の花街だけでも、新橋・柳橋を筆頭に、日本橋・葭町・新富町・数寄屋橋など、数は多い。
とにかくお増は浅井に見受けされて自由の身になり、春の末、浅井が用意した「下谷(現、台東区)の家」に住むようになった。向かいにはお千代という女性が下の息子といっしょに住んでいたが、長男が浅井の友人であった。
下谷の家は賑やかな上野広小路の通りから少し裏へ入った、ある路地の中の小さな平屋だった。
上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞こえる台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
(一)
これだけでは、家の設定場所を「ここ」と特定することはできないが、松坂屋のところから東へ伸びる小路を入った一帯、徒町二丁目あるいは竹町辺りが設定地であろう。現在の台東3丁目・4丁目にあたる。すぐ北隣の西町(現、東上野1丁目)は漱石養父塩原昌之助が住んでいたところで、漱石はこの辺りを『道草』で克明に描いている。
島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などは始終浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てる積でいるらしかった。(島田は主人公健三の養父。)
この「じめじめ感」は『爛』『道草』に共通する。上野広小路辺りで言えば、御成道(中央通り)から東側地域の特徴である。江戸時代には佐竹氏などのお屋敷があり、多数の堀が見られた。『道草』にはその様子も描かれている。
自由の身になったお増は、後に関東大震災でまたたく間に火事が広がった、下町の狭い家の中に押し込められ、することもなく、「不自由」な生活を強いられた。そこへもって、浅井は昔付き合っていた女性と切れていないようだし、妻までいることがわかって、《
「私はうまく瞞されたんだよ。」
》と、浅井に莨の火を押し付けるまでになっていった。
さらに、浅井の妻お柳が探し当てて、お増のもとにやって来るようになり、暑い夏、お増は麹町へ移された。麹町区内でも番町地区ならば「番町」と書かれたはずで、お増が移されたのは、甲州街道(新宿通り)沿線の麹町地区であろう。
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音が、聞こえたりするきりであった。二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
(十四)
お増が与えられた家はどこか。《
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画
》という表現に該当しそうな地区は、当時の地図を見ると、紀尾井町6番地(現、上智大学校地、聖イグナチオ教会・ソフィアタワーの建っている区域)、元園町1丁目31番地付近(現、麹町2丁目、麹町小学校南側の区域)の二カ所が認められる。
前者は迷宮にふさわしい区画であるが、麹町10丁目の隣接地で四ツ谷駅前と言っても良い。後者は麹町の中ほどに近いが、迷宮と言うほど複雑ではない。《
かなり距離のある大通りの明るみへ
》という表現は、麹町10丁目から1丁目に、片道1キロの道を歩く表現としてはふさわしい。「麹町」という言葉に惹かれて後者としたいところだが、秋聲には前者のイメージがあったかもしれない。
大通りは甲州街道(新宿通り)で、江戸時代から町屋が並んでいた。新宿から四谷見附を通ってやって来た市電に乗れば、半蔵門から右折して、三宅坂・桜田門を経て、日比谷や銀座は直通である。半蔵門から左折して神保町へむかう電車に乗ってしまうと、両国から築地まで回らされてしまうから要注意である。
麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
(十三)
麹町には浅井の本宅、つまり正妻お柳の住む家がある。お増は本宅も教えてもらい、昼間、その家の前を通って見たりした。
ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
(十四)
浅井がこんなキケンなところにお増を置いたのは、近ければお柳とお増の間を頻繁に行き来し、両方に良い顔できると考えたからのようだ。浅井の事務所を日本橋界隈とすれば、上野広小路は市電1本。ところが麹町は須田町乗換えになる。これでは、お増の方が有利である。お増を麹町に移し、本宅と同じ方向にしたものの、結局、浅井の足は本宅から遠のいていった。
用心していた浅井とお増だが、ついにお柳に家を知られた。浅井が飼っているポチという犬をお柳が見かけ、後をつけたのである。外出中にお柳が訪ねて来て、お今が対応した。戻って来た二人はその話しにあわてて、とにかく電車に乗って、思案の末、本郷の知人の家に一晩泊り、浅井はお増のために下宿を探した。
その年もぐっと押し詰まってから、お増は赤坂の方で新たに借りた二階建ての家に落ち着いた。
洒落た花形の電気の笠などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊の赭い煉瓦の兵舎の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑やかな通りの方から、楽隊の囃などが、聞えて来た。
(二十)
三聯隊というのは近衛歩兵第三聯隊で、現在ではTBS放送センター・赤坂Bizタワーなどが建ち並ぶ赤坂サカスになっている。兵舎は敷地の境界に沿ってぐるりと取り囲むように建っており、周囲どこからでも望むことができたので、設定地がどこか限定できないが、北側は起伏に富んでおり、南側か東側であろう。東側なら赤坂一ツ木通りはすぐで、当時も繁華な場所であった。
お増は暮の町を珍しがるお今を連れて、幾度となく買物に出ている。赤坂見附から市電に乗れば、三宅坂から桜田門を経て銀座へ直通であり、田町4丁目の電停から乗れば虎ノ門や新橋へ直通。いわゆる都心に出るのは便利なところで、とにかくお増はたいそう気に入って、《
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
》と言っている。ここから秋聲は「お増夫婦」という表現を用いており、正妻の座を得たと言うお増の思いが、赤坂の家に込められているのであろう。『爛』の中でこの後、お増夫婦が転居することはない。
お増の東京
お今は多少なりとも東京に憧れ、夢を抱いてやって来ただろうが、お増は違っていた。故郷で茶屋奉公に出され、若旦那との噂が立って、東京の遊里へやって来た。自由の身になってからも、浅井の手によって次つぎ移され、自分の意思は入り込む余地もなかった。
室と結婚した後のお今は描かれていないが、独りでも東京の街を楽しみそうである。それに対してお増は、知り合いに会いに行く時や、気分がくさくさする時に外出することがあっても、東京を楽しむ様子は見られない。
『爛』の中に、お増の東京に対する思いは書かれていないが、つぎの場面が参考になるのではないだろうか。
盆過ぎに会社から休暇を貰った浅井は、お増、静子とひと月近くそっちこっち旅をした。お増は、
一日青々した山や田圃を見て暮したり、ぴちぴちする肴に、持って来た葡萄酒を飲んだり、胸のすがすがするような谿川の音にあやされて、温泉場の旅館に、十幾年来覚えなかった安らかな夢を結んだりした時には、爛れきった霊が蘇ったような気がしたのであったが、濁った東京の空気に還された瞬間、生活の疲労が、また重く頭に蔽っ被さって来た。汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙に黝んだ夏木立の下陰へ来たころまでも、水の音がまだ耳に着いていたり、山の形が目に消えなかったりした。長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった。「静ちゃん。もう東京よ。」お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。日暮里へ来ると、灯影が人家にちらちら見えだした。昨日まで、瀑などの滴垂りおちる巌角にたたずんだり、緑の影の顔に涼しく揺れる白樺や沢胡桃などの、木立の下を散歩したりしていたお増の顔には、長いあいだ熱鬪のなかに過された自分の生活が、浅ましく振り顧られたり、兄や母親たちと一緒に、田舎に暮しているお柳の身のうえが、哀れまれたりした。「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう。」お増は涙含んだような目色をして、良人に呟いた。子供の時分、二、三度遊びに行ったことのある、叔父の住まっている静かな山寺のさまが、なつかしく目に浮かんだりした。「あなたに棄てられたら、私あすこへ行って、一生暮しますよ。」気を紛らすもののない山の生活が、孤独のたよりなさと、生活のはかなさとに、お増の心を引き入れて行った。「何といったって、自分の家が一番いいのね。」
(三十)
この文章の流れのあいだに、お増たちは王子や日暮里を過ぎ、上野駅に着き、市電に乗って、途中乗り換えて、赤坂の自宅に着いている。
当時、東北線(高崎線)は現在の京浜東北線のルートを通っていた。赤羽を過ぎ、台地の崖下に沿うように、王子、田端、日暮里を通って、上野に到着する。東京へ戻って来る秋聲は、王子・日暮里という駅名に、東京へ近づくことを感じたのだろう。王子は1875年に製紙工場(王子製紙)がつくられて以降、薬品、肥料、火薬などの工場が建ち、工業地域が形成されていた。《
煤煙に黝んだ夏木立
》という表現は当時の情景をよく言い表している。日暮里まで来ると、東京市街地へ入るため、家々が線路近くまで迫る。
お増たちは各地を旅したようだが、白樺など出て来るところから、旅行地には信州も入っていたのであろう。お増は旅によって、《
爛れきった霊が蘇ったような気がした
》が《
濁った東京の空気に還された瞬間、生活の疲労が
》のしかかる。田舎の景色にお増は、《
「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう。」
》と言っている。
こうしてみてくると、お増は東京より田舎での生活を望んでいるように見受けられる。ところが秋聲は、《
長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった。
》と、矛盾するような表現を入れている。さらに、浅井に棄てられたら山寺で一生暮すと、お増に言わせながら、《
気を紛らすもののない山の生活が、孤独のたよりなさと、生活のはかなさとに、お増の心を引き入れて行った。
》というのである。
いつの話しなのか
『黴』は秋聲の年譜を置いて、転居時期を重ね合わせていくと、作品に描かれた出来事の設定時期が見えて来る。それでは、『爛』はどうだろう。一カ所だけ設定時期を特定できる描写がある。
冬になってから、お増は浅井といっしょに伊豆の温泉場へ出かけた。浅井が二日ばかりで帰京してしまい、
三週間というのを、やっと二週間そこそこで切り揚げて来たお増は、嶮しい海岸の断崖をがたがた走る軽便鉄道や、出水の跡の心淋しい水田、松原などを通る電車汽車の鈍いのにじれじれしながら、手繰りつけるように家へ着いたのであった。
(三十三)
この「出水の跡」という表現は、1910年8月の関東一帯を襲った大水害を想起させる。漱石が伊豆修善寺の菊屋旅館に宿泊し、危篤状態に陥った、いわゆる「修善寺の大患」が起こった、あの8月である。したがって、二人が伊豆の温泉場へ出かけたのは1910年の冬である。
ついでながら、お増夫婦が行ったのは熱海である。当時の東海道線は国府津から御殿場を経由して沼津へ至るルートで、国府津から小田原まで鉄道馬車が開通したのが1888年。1900年に電化された。小田原・熱海25キロは、1896年に豆相人車鉄道が開通。1907年に軽便鉄道が走るようになり、所要時間は4時間から2時間半に短縮された。と言っても時速10キロくらいだから、じれじれしたことだろう。伊豆にはたくさんの温泉があるが、この描写は熱海しか当てはまらない。熱海から先、伊東へは鉄道は開通していない。湯河原はまだ相模で、伊豆ではない。
さて、はっきり定められる1910年の冬を基点に、『爛』の始めの時期へ逆算してみよう。
盆過ぎにお増夫婦が静子を連れて一カ月ほど旅行に出た(三十)のは、1910年の夏。大水害の直後である。お増たちの家は赤坂にあり、浸水被害はなかったのだろう。芥川龍之介は本所小泉町で被災し、新宿で実父新原敏三が経営する牧場「耕牧舎」へ一家あげて転居。漱石の門弟森田草平は裏の崖が崩れて家が全壊。本人も負傷した。この家は樋口一葉終焉の家である。秋聲はすでに本郷森川町の高台に一家を構えているので、被害はなかった。犀星はこの年の5月に初めて上京しているので、8月には東京に住んでいた。犀星自身何も書いていないので、被害はなかったのであろう。
とにかく東京中、大騒ぎをしている中で旅行に出たのは、災害後の混乱で、浅井は商売にならなかったのであろう。それならいっそのこと、混乱した東京を離れてのんびりしようと思ったのではないだろうか。
お増夫婦は赤坂へ引越して、間もなく新年を迎えている(二十一)。1909年から1910年に、年が改まったのである。お増は浅井に見受けされ、自由の身となって下谷に住み始めたのが春の終わり頃。三カ月ほど過ぎ、秋になって麹町へ移され、年末に赤坂へ。つまり、『爛』は1909年春の終わりから出発する。
さて、お増が熱海の湯治から帰京し、田舎でお今の縁談話が持ち上がる。年暮、お今はイヤイヤ田舎へ帰るが、1911年1月10日過ぎ、破談になったと言って、お増夫婦のもとに戻って来る(四十)。
破談になったものの、お今を好きになった室鎮雄が上京。意欲的な求婚活動が功を奏して結婚の方向へ。1911年10月末、お増夫婦はお今を連れて三越へ婚礼衣装を見に行く(五十四)。
この後、お今は気が進まない中、結納、内輪だけの婚礼へと進んでいくが、《
年のうちに内祝言だけを、東京ですますということに話が決まるまでに、
》(五十四)という一文から、1911年の11月末から12月くらいに内輪だけの婚礼がおこなわれ、
「私たちと、あの人を頼んで、一度お杯をしてみたいじゃないの。」お増は晴れ晴れした顔をして、奥へ着替えにたって行った。
(六十)
こうして『爛』は終了する。間もなく1912年。明治最後となる年を迎える。『爛』の連載は明治から大正に変り、大正2年になった1913年3月から始まる。
『爛』の設定期間。1909年から1911年。作品ではただ人間模様だけが移り過ぎていく。世の中、何ごともなかったかのようである。しかし、設定時期を特定し重ね合わせてみると、じつにさまざまなことが起きている。まさに日本の大きな転換点であった。
お増が麹町に移った頃、10月26日、伊藤博文がハルビンで暗殺され、1910年に入って、6月に幸徳秋水・管野スガ子が湯河原で逮捕され、後に「大逆事件(幸徳事件)」と呼ばれる出来事が始まり、8月に朝鮮(韓国)を併合、東京大水害。1911年1月24日には幸徳秋水らが処刑されている(管野スガ子は25日)。お今が破談になり、田舎から戻って来て間もなくである。
漱石は、お増が下谷から麹町へ移る頃、満州(現、中国東北区)・朝鮮(韓国)の旅をしていた。10月には漱石の推薦を受けて鏡花の『白鷺』が朝日新聞に連載されている(12月まで)。漱石は1910年に入って『門』を朝日新聞に連載(3月~6月)。その後、長与胃腸病院に入院。8月に修善寺に転地療養。危篤。10月に東京へ戻り、翌年2月まで長与胃腸病院入院。その後、体調も回復し、関西方面に講演旅行したが、胃潰瘍が再発し、8月から9月にかけて大阪胃腸病院(現、湯川胃腸病院)へ入院した。この間、8月21日、警視庁に特別高等警察課が設けられている。漱石が東京へ戻ってしばらくして、お増夫婦はお今を連れて三越へ婚礼衣装を見に行っている。
秋聲が当時の出来事で唯一残したのは「出水の跡」だけである。社会的な転換点も、生活者の目線から見れば、視野に入って来ないものばかりであったのか。これが庶民というものなのだろうか。どちらが良いということではなく、隙間、隙間に社会の動きを織り交ぜた漱石の手法とはずいぶん異なるように思われる。
【参考文献】
人文社編集部:『古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩』、人文社、2003年「東京市十五区番地界入地図(明治40年)」
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