お増は故郷で茶屋奉公に出され、若旦那との噂が立って、東京の遊里(花街)へやって来た。どこの遊里かわからない。浅井の事務所を日本橋界隈と設定して、たびたび訪れることができる近隣の花街だけでも、新橋・柳橋を筆頭に、日本橋・葭町・新富町・数寄屋橋など、数は多い。
とにかくお増は浅井に見受けされて自由の身になり、春の末、浅井が用意した「下谷(現、台東区)の家」に住むようになった。向かいにはお千代という女性が下の息子といっしょに住んでいたが、長男が浅井の友人であった。
下谷の家は賑やかな上野広小路の通りから少し裏へ入った、ある路地の中の小さな平屋だった。
上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞こえる台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
(一)
これだけでは、家の設定場所を「ここ」と特定することはできないが、松坂屋のところから東へ伸びる小路を入った一帯、徒町二丁目あるいは竹町辺りが設定地であろう。現在の台東3丁目・4丁目にあたる。すぐ北隣の西町(現、東上野1丁目)は漱石養父塩原昌之助が住んでいたところで、漱石はこの辺りを『道草』で克明に描いている。
島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などは始終浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てる積でいるらしかった。(島田は主人公健三の養父。)
この「じめじめ感」は『爛』『道草』に共通する。上野広小路辺りで言えば、御成道(中央通り)から東側地域の特徴である。江戸時代には佐竹氏などのお屋敷があり、多数の堀が見られた。『道草』にはその様子も描かれている。
自由の身になったお増は、後に関東大震災でまたたく間に火事が広がった、下町の狭い家の中に押し込められ、することもなく、「不自由」な生活を強いられた。そこへもって、浅井は昔付き合っていた女性と切れていないようだし、妻までいることがわかって、《
「私はうまく瞞されたんだよ。」
》と、浅井に莨の火を押し付けるまでになっていった。
さらに、浅井の妻お柳が探し当てて、お増のもとにやって来るようになり、暑い夏、お増は麹町へ移された。麹町区内でも番町地区ならば「番町」と書かれたはずで、お増が移されたのは、甲州街道(新宿通り)沿線の麹町地区であろう。
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音が、聞こえたりするきりであった。二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
(十四)
お増が与えられた家はどこか。《
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画
》という表現に該当しそうな地区は、当時の地図を見ると、紀尾井町6番地(現、上智大学校地、聖イグナチオ教会・ソフィアタワーの建っている区域)、元園町1丁目31番地付近(現、麹町2丁目、麹町小学校南側の区域)の二カ所が認められる。
前者は迷宮にふさわしい区画であるが、麹町10丁目の隣接地で四ツ谷駅前と言っても良い。後者は麹町の中ほどに近いが、迷宮と言うほど複雑ではない。《
かなり距離のある大通りの明るみへ
》という表現は、麹町10丁目から1丁目に、片道1キロの道を歩く表現としてはふさわしい。「麹町」という言葉に惹かれて後者としたいところだが、秋聲には前者のイメージがあったかもしれない。
大通りは甲州街道(新宿通り)で、江戸時代から町屋が並んでいた。新宿から四谷見附を通ってやって来た市電に乗れば、半蔵門から右折して、三宅坂・桜田門を経て、日比谷や銀座は直通である。半蔵門から左折して神保町へむかう電車に乗ってしまうと、両国から築地まで回らされてしまうから要注意である。
麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
(十三)
麹町には浅井の本宅、つまり正妻お柳の住む家がある。お増は本宅も教えてもらい、昼間、その家の前を通って見たりした。
ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
(十四)
浅井がこんなキケンなところにお増を置いたのは、近ければお柳とお増の間を頻繁に行き来し、両方に良い顔できると考えたからのようだ。浅井の事務所を日本橋界隈とすれば、上野広小路は市電1本。ところが麹町は須田町乗換えになる。これでは、お増の方が有利である。お増を麹町に移し、本宅と同じ方向にしたものの、結局、浅井の足は本宅から遠のいていった。
用心していた浅井とお増だが、ついにお柳に家を知られた。浅井が飼っているポチという犬をお柳が見かけ、後をつけたのである。外出中にお柳が訪ねて来て、お今が対応した。戻って来た二人はその話しにあわてて、とにかく電車に乗って、思案の末、本郷の知人の家に一晩泊り、浅井はお増のために下宿を探した。
その年もぐっと押し詰まってから、お増は赤坂の方で新たに借りた二階建ての家に落ち着いた。
洒落た花形の電気の笠などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊の赭い煉瓦の兵舎の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑やかな通りの方から、楽隊の囃などが、聞えて来た。
(二十)
三聯隊というのは近衛歩兵第三聯隊で、現在ではTBS放送センター・赤坂Bizタワーなどが建ち並ぶ赤坂サカスになっている。兵舎は敷地の境界に沿ってぐるりと取り囲むように建っており、周囲どこからでも望むことができたので、設定地がどこか限定できないが、北側は起伏に富んでおり、南側か東側であろう。東側なら赤坂一ツ木通りはすぐで、当時も繁華な場所であった。
お増は暮の町を珍しがるお今を連れて、幾度となく買物に出ている。赤坂見附から市電に乗れば、三宅坂から桜田門を経て銀座へ直通であり、田町4丁目の電停から乗れば虎ノ門や新橋へ直通。いわゆる都心に出るのは便利なところで、とにかくお増はたいそう気に入って、《
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
》と言っている。ここから秋聲は「お増夫婦」という表現を用いており、正妻の座を得たと言うお増の思いが、赤坂の家に込められているのであろう。『爛』の中でこの後、お増夫婦が転居することはない。