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7.谷根千を舞台に――或る少女の死まで
1918年、『愛の詩集』『抒情小曲集』と相次いで詩集を出版した犀星は、1919年に入って、『抒情詩時代』『幼年時代』『性に眼覚める頃』と小説を発表し始めた。『幼年時代』は幼年時代、『性に眼覚める頃』は少年時代の自分と重ね合わせた小説を書いてきた犀星が、続いて初めて上京した青年時代を描いたのが『或る少女の死まで』である。
三作品とも自叙伝ではない。あくまで小説である。すべてが事実でもなく、すべてが虚構でもない。その辺の見極めが難しい。
東京へ出て来た私
朝、私(室生)の下宿に駒込署の刑事がやって来て、同行を求められた。昨夜のS酒場における暴行事件に関する事情聴取であった。
S酒場は団子坂からやや根津寄りにあり、おかみと共に、鶴のようにやせた12、3歳の女の子がいた。昨夜、HとO、医科の学生も飲んでいたが、ふとしたことから淫売屋の亭主とケンカになり、相手も負傷した。事件は示談になったが、私は谷中もやや根津の通りに近い高台の、とある坂の上に小さな離れをみつけて引っ越した。
引っ越した先には、二つの家族が住んでいた。一つは年寄夫婦。もう一つは鹿児島出身の母子で、子どもの名前は、9歳の女の子がふじ子、6歳の男の子が敬宗。父は満州に行っているとのこと。私は女の子と親しくなり、部屋へ遊びに来るようになったり、いっしょに動物園へ行ったこともあった。父が来たら、みんなで植物園へ行こうという話しなどもした。
ある日、千駄木町時代に共に苦しんだ画家のSが私を訪ねてやって来た。Sはふじ子を見て、「あのふじ子さんという女の子を見ていると、僕らと人間の種類が異っているような気がするね」と言った。しばらくして、Sはふじ子の肖像画を持って来た。私とSは街かどの小さなカッフェで呑んだ。その後、Sは「Sバーへ行ってみよう。あそこの子供の顔を見にゆこう」と言い出した。私はS酒場に二度と行きたくなかったが、女の子がどうしているか気になったので、行くことにした。けれども、女の子はいなかった。おかみは女の子が病気で「医者がむずかしい」と言っていると話した。私もSも、女の子はきっと死ぬと確信して、池之端を広小路まで来て、別れた。
私を訪ねて、駒込署高等掛刑事がやって来た。S酒場の一件以来、警察というと、恐怖に襲われた。今流に言うと、「フラッシュバック」である。刑事は「××という雑誌が発売禁止になったのは、あなたの詩からではないのですか」と話し、「急行列車」という詩に言及し、S酒場の一件も話し、「いや大変お邪魔をしました。私が来たって御心配に及びませんから」と出て行った。私は優しい魂につつまれた姉を思い出し、いっさいから別れてあの緑深い国へ行こうと思った。私はふじ子とSにそのことを話した。
今夜9時30分の直行で出発という時、ふじ子一家の夕食に招かれ、一家に見送られて駅へむかった。ふじ子は涙ぐんでいた。こうして、明治44年(1911年)10月3日、私は第一回の都落ちをした。越えて12月、ふじ子の父からの手紙は、ふじ子が腸に病を得て亡くなったことを伝えていた。当時、疫痢・腸チフスなどの感染症が頻繁に流行し、1916年には徳田秋聲の長女瑞子が疫痢で亡くなっている。
二人の少女
『或る少女の死まで』を読み始めて、S酒場の少女が登場し、題名から「この少女が亡くなるのだろう」推察される。そこへもうひとり、ふじ子という少女が登場して、「これはどういうことだ」。けれども、ふじ子は快活でとても亡くなるようには思われない。やがて、S酒場の少女が病気で、もう助からないかもしれないという情報がもたらされる。「あの子はきっと死ぬ」という確信的な表現もみられる。ところが、結末は、ふじ子の死で、まさに「どんでん返し」。これが小説である。読者は、S酒場の少女の運命を想像するしかない。
この作品には二人の少女が登場する。二人の少女のモデルはあるのだろうか。思い出されるのは石尾春子と村田艶(ツヤ)である。
『評伝』(p152~)によると、春子は1896年2月生まれで、犀星が金石に勤務している時に知り合った。利発な小学生であった。春子の母は女の子二人を抱えて離婚し、上の娘を養女に出して、春子といっしょに父親が勤める金石小学校の小使室に住み込んでいた。小学校の向かいが犀星の勤務先であった。1914年8月7日の夜行で、「緑深い金沢」へ帰った犀星は、開館した真新しい映画館「菊水倶楽部」の切符売りとして働いていた春子と再会し、心ひかれていったが、春子の母の反対で恋は成就しなかった。犀星25歳、春子18歳。犀星が次なるターゲットに選んだのが艶である。艶の養母は、犀星養母ハツと親しく、その関係で艶と犀星は幼なじみであった。艶19歳。色白の艶にも心ひかれたが、これまた艶の養母の反対で成就しなかった。
私はS酒場の少女に特定のモデルは存在しないが、ふじ子に関しては、石尾春子との金石時代の思い出が重ねられているのではないだろうかと考える。小学生の春子は顔見知りになった犀星お兄さんと、話しをしたり、下宿へ遊びに行くこともあったかもしれない。さらに『評伝』(p153~)は興味深いことを伝えている。朔太郎から北原白秋宛葉書(1914年11月5日付)である。
まさかと思つたことがいよいよ事実になるらしい、大変な事件です、室生が春子を殺すのです、拒絶したんで凶悪少年の部下をシソオして暗殺する計画なんです
犀星が本気でこのようなことを計画したとは思われないし、朔太郎もそれを承知で白秋に知らせたのだろうけど、数年後に小説の中で亡き者にしたとするならば、ふじ子のモデルは春子であったと推論するのも間違いではないだろう。
もちろん、「殺す」というのは、相手を殺すのではなく、自分の中から記憶を消していくということである。前年の1918年、とみ子と結婚した犀星は、『或る少女の死まで』で、春子や艶、あるいはその他にも好きになった女の子がいたかもしれないが、この作品を書くことですべてを消去しようとしたのかもしれない。
春子は菊水倶楽部の映写技師と結婚し、東京へ出たが、1926年夏、二人の子どもを残して病没。艶はまもなく結婚したが離別。再婚したが1944年に亡くなった(『評伝』p154、p158)。結局、二人とも犀星より先に亡くなってしまったことになる。
『或る少女の死まで』を読んで、印象に残るのは「警察」の影である。S酒場における暴行事件で、駒込署に同行を求められ、それがトラウマになって、常に「警察」におびえる私(室生)。そして、とうとう駒込署の高等掛刑事がやって来るに及んで、私は急遽、帰郷を決意する。
犀星が初めて上京した1910年は大逆事件が進行した年である。当時、じゅうぶんな報道がなされなかったし、報道されたとしても犀星には関心を寄せる余裕がなかったであろう。ところが、親友の尾山篤二郎は1909年4月から暮れまで在京し、その間、幸徳秋水宅を二回ほど訪ねていた。そのため、1911年、秋水らが処刑された後、この年に設置された特別高等警察の監視を受けたという(『評伝』p111)。おそらくこうした話しを篤二郎から聞いていたであろう。
そこへ重なったのが「創造」の発売禁止であった。どうやら、「創造」に犀星が発表した詩「急行列車」が原因らしかった。1914年9月。犀星帰郷中のできごとである。
急行列車
汽車は急行なり
首も千断(ちぎ)るるの急行なり。
森は走り
家は走り
午後の光は走り
山は平らたくなり
河は鳴り
海は鳴り
海気みなぎり
月出づ。
世界は湧きかえり
世界は戦いのさなかなり。
林と林ともつれ逢い
青田の上に娘は流る。
電線は流れ
われはきちがいになり、
村村の灯はちらちら流れ
星はながれ
われは田舎へ流る、
こいしくなり
はるばるおんまえさまを求め。
1914年8月7日の夜行で犀星は帰郷した。この詩は彼女に会いたくなって、急行に乗って故郷へすっ飛んで来た犀星の思いを吐き出すようであるが、おそらく帰郷して春子と出会い、自分が帰郷したのは「この人」に会うためという演出であろう。「世界は戦いのさなかなり」という一節は、7月28日、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が始まっていなければ書くことが出来ない。
この詩は確かに過激な言葉づかいもみられる。狂気も感じられる。けれども、反戦歌でもなければ、革命歌でもない。このような詩が、それほど有名でもない詩人の作品が、目をつけられるところに、犀星は何か薄気味悪さを感じたのだろう。
このような体験が、『或る少女の死まで』に底流を流れるものとして、すり込まれていったと私は考える。それから7、8年後。大正末から昭和初期にかけて、犀星の若い友人たちで、「驢馬」のメンバーである窪川鶴次郎、中野重治などがプロレタリア文学の道に進み、「驢馬」の財政的支援者であった犀星も、弾圧のキケンを強く感じることになる。犀星は戦後、「『驢馬』の人達」(「文学界」1959年7月)で、
この睦まじい『驢馬』の仲間は、堀辰雄を一人残して四人は何事かを結び、日本共産党に何時の間にかはいつてゐたのである。私がその仲間の一人でなかつたことは、私が原稿を書いてゐて食へたからであり、食へずにゐたら容易に仲間にはいつてゐたかも判らなかつた。
ただ私は当時の厳しい弾圧の手が私の身辺にも及ぶだらうといふことに、なんとなく注意力が集中するに至つてゐた。
(『評伝』p227)
不可解な設定
あまり指摘されないようだが、『或る少女の死まで』の設定には不可解な点がある。この作品の終末部に、《
明治四十四年十月三日、私は第一回の都落ちをした。
》と、明確な設定時期がある。これは犀星が初めて上京した翌年(1911年)である。
この設定で矛盾しない点もある。駒込警察署の名称である。駒込警察署は1907年12月23日、本郷警察署分署として設置され、1910年12月17日、駒込警察署と改称された。ところが1913年8月には千駄木警察署と統合されて本郷駒込警察署になった。したがって、作品が書かれた時は本郷駒込警察署であったが、設定時期には確かに駒込警察署であった(1937年9月1日、再度駒込警察署に改称され、現在に至っている)。
これに対して、不可解の第1点は、「急行列車」事件である。これは明らかに1914年夏の出来事であり、設定時期より3年も後である。
第2点は、電車の開通。上野動物園からの帰り、もうすぐ郷里の鹿児島へ帰るふじ子は、一年くらいしたら、父親もいっしょに東京へ出て来ると言う。
「そりゃいいね」
「そのころは根津へ電車が通るようになるでしょうね」
「来年できるんだから、きっと通るでしょう」
このどこがおかしいのか、と思われる方もあるだろう。当時の東京市電が上野公園(上野三橋)から不忍池東岸を通って、根津を縦断して動坂下(駒込動坂下)まで開通したのは、1917年7月27日。先ほどの文章に従えば、1916年が設定時期でなければならない。なぜ、このようなことを書いてしまったのだろうか。犀星に配慮するならば、この作品を書いた当時、犀星はすぐ先が東京市という田端163番地沢田方の離れに住んでおり、動坂下まで開通した市電は、神明町まで延伸されることになっていた。そうなれば、動坂下よりもっと便利になる。市電は2年後の1921年9月16日、神明町まで開通したが、『或る少女の死まで』を書きながら、犀星は市電の開通を心待ちにしていたのかもしれない。
あえてもう一つ、不可解をつけ加えるならば、私が《
そうだ、今、いっさいから別れてあの緑深い国へ行こう。
》と帰郷を決意している点である。秋に入った金沢に対する表現としてはふさわしいと言えない。おそらく、1914年8月の帰郷時の思いが念頭にあったのではないだろうか。
所詮、小説は虚構であり、このようなことをあえて取り上げる必要はないだろう。けれども、当時ならかんたんにわかってしまう設定の甘さをもちながら、犀星はどうして設定時期を1911年にしたのだろうか。
犀星は最初の上京から10年近くの体験や思いを、『或る少女の死まで』にごちゃ混ぜにして押し込め、もっとも苦しかった1911年に設定時期をもっていたのかもしれない。
舞台となった谷根千
「谷根千」とは台東区(当時、下谷区)の谷中、文京区(当時、本郷区)の根津・千駄木の総称で、各地名の最初の漢字を組み合わせたものである。今も東京下町の風情が残る地域で、ゆかりの文化人も多い。
1910年5月、初めて上京した犀星は、駒込千駄木林町の田辺の下宿に一泊した後、根岸の赤倉錦風宅に滞在したが、しばらくして錦風の家を出て、根津片町、谷中三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、同じように文学を志す若者たちや画学生と知り合い、安酒を飲み、詩人として発表の場を求めてもがいていた。それなりに詩人として認められ、小説家としても順調なスタートを切り、結婚して家庭をもつまでに至った犀星が、東京生活の原点として懐かしくも、ほろ苦く思い出すのが「谷根千」の地域であり、『或る少女の死まで』の舞台である。
「谷根千」は、地形的に東の上野山、西の本郷台と、その間の谷筋から成り立っている。谷筋には田端・動坂方面から谷田川(藍染川)が不忍池にむかって流れており、現在も台東区と文京区の境界になっている。漱石に『三四郎』『こころ』などにも出て来るこの川は、現在では暗渠になっているが、蛇行部分は「へび道」と呼ばれている。上野山の西側斜面から低地一帯が谷中、谷筋の南半部が根津、北半部が千駄木で、千駄木はそのまま本郷台に広がっている。谷筋には『或る少女の死まで』に出て来る市電を通すために、南北に縦貫する道路がつくられ、現在、不忍通りと呼ばれ、市電(都電)は廃止されたが、地下鉄東京メトロ千代田線が通っている。
S酒場
おかみと共に、鶴のようにやせた12、3歳の女の子がいるS酒場は、「団子坂からやや根津寄りにある」と記されている。本郷台を団子坂で下りると、不忍通りは団子坂下交差点で、そのまま東へむかうと、藍染川を越えて谷中三崎町(現在、谷中2~5丁目)で、三崎(さんさき)坂にさしかかる。1911年当時、不忍通りはなかったが、S酒場は団子坂を下りて、やや根津寄りというから、右折して少し行った駒込千駄木町250~260番地辺りに設定されたと推定される。
引っ越し先
ふじ子と知り合うことになった引っ越し先は、「谷中もやや根津の通りに近い高台の、とある坂の上」と記されている。この表現からすると、現在の谷中1丁目・2丁目辺りが考えられるが、1丁目(概ね当時、谷中坂町)は寺院が多く、2丁目(概ね当時、真島町)の可能性の方が高い。
私達は、日暮に近い街路へ出て行った。私の家からすこし行くと、根津へ下りる坂があって、桜がふた側に並木をつくっていた。本郷高台のあたりにまだ秋の日の静かな微光が漂うていた。
谷中2丁目の中央には「あかじ坂(真島坂)」が西にむかって下っており、藍染大通りを進めば不忍通りを越えて根津神社に達する。当時は今と比べて家も少なく、ビルなどなかったから、本郷台に沈む夕陽もよく望めたであろう。坂を下りかけたところ、右側に昭和初期宮大工の建築と言われる和風家屋があり、「根津スタジオ」として、ドラマの撮影もおこなわれ、衣装を着けたままの俳優さんが周辺を歩いたり、打合せをしていることもある。犀星の思いは降り飛ばしても、自分としては「ここ」に、ふじ子たちとの思い出の場所を設定してみたい。
上野動物園
ある朝、私はふじ子と動物園へ行った。ふじ子と私とは、秋がくるとすぐに黄葉がちになった公園の桜の並木の、よく掃かれた道路を歩いて行った。水いろのうすい単衣の上から、繊い彼女の頸が、小さい頭をささえて、それがまるで瑪瑙のように透いて見えた。
真島町からは谷中坂町を過ぎれば谷中清水町で、谷中清水町には上野動物園の出入り口があったので、歩いても10分程度で行けたであろう。鶴、象、ライオン、虎など見物しているが、猿はまだ広い檻の中である。上野動物園にサル山が登場したのは1932年である。
二人は「魚のぞき」を観ている。もともと上野動物園は1882年、博物館の付属動物園として、水族館(「魚のぞき」)が開園したところから出発し、やがていろいろな動物がやって来て、動物園としての体裁を整えるようになっていったものである。ふじ子との会話を読んでいると、何となく『蜜のあわれ』が連想されるが、とくにこの「魚のぞき」の場面はそうである。
「魚のぞき」は彼女を喜ばした。彼女は象や鶴やお猿を見たときとは、全然別な心からの愛をもって、そのお友達のような美しい阿蘭陀金魚の紅い尾や鰭ふるさまを眺めていた。「ほんとに綺麗ね。」その絢爛と光る魚を指した。私はこの金魚というものの、どこか病的な、虚偽な色彩のようなものを好まなかった。その娼婦のように長い尾や鰭に何かしら人間と共通な、わけても娼婦などと一しょなもののあるのが嫌いであった。ときには、汚なくさえ感じた。
後に、老いた文豪は、この娼婦のような金魚を相手に、しばし恋愛に妄想する。そこのふじ子のイメージはあったのか、なかったのか。
水鳥や白熊、熊、狐なども観て、二人は公園から谷中の通りへ出る。現在、言問通りになっている善光寺坂の上か、家が近づいて来てからであろう。
私らは坂から根津一帯の谷間の町の見えるところに立って、夕方近い混雑された、物売の呼び声の寂しく起ってくるのに耳をしました。それらの町の家家から漂う煙は、低く這うて殊に凡てを物悲しく沈ませて見せた。
夕暮れとはこのようなものだ。それがとても嫌であり、懐かしくもある。
駒込警察署
ふじ子と動物園へ行ってからどれだけか。ある日、巡査がやって来て、
自分は突嗟に、この夏の苦しいあの出来事があたまに殺到して浮んできたのであった。
「あの出来事」とは、S酒場の一件で駒込警察署に連行された出来事である。現在の駒込警察署は六義園の南側、本郷通り上富士交差点から不忍通りを少し西に行ったところにあるが、当時は500メートルほど離れた吉祥寺前、岩槻街道(日光御成道)に面したところにあった。現在の本駒込3丁目22、本駒込プチ・クレイシュが建っている辺りである。S酒場からだと、1キロ余の距離である。
太田ケ原から湧く清水
この一件では、喧嘩の後、
私は太田ケ原から湧く清水が、この酒場からそんなに遠くないことを知っていたので、いたむ頭をかかえながら千駄木町の裏から裏へと小走りに歩いた。
太田ケ原というのは、本郷台にあり、太田道灌の子孫摂津守下屋敷があったところで、太田ケ池や灌木などがあり、『吾輩は猫である』の猫の出生地でもある。その東側、低地との境界部の道は薮下通りと呼ばれ、森鴎外の散歩道としても知られている。崖下の汐見小学校敷地は湧き水によってできた池があったところで、「清水」というのは、この地を指していると思われる。根津神社の北側300メートルほどのところである。
淫売屋の亭主と根津遊郭
喧嘩の相手は淫売屋(売春婦を抱えて、客をとらせる商売)の亭主で、地元でも嫌われている男であった。
根津神社の東から南にかけての一帯、根津八重垣町・根津須賀町(現在の根津1丁目・2丁目)には江戸時代から岡場所(非公認の遊郭)があり、明治に入って、根津八重垣町の中央道路(現在、不忍通りが踏襲)には桜が植えられ、新吉原にならって総門がつくられるほど隆盛した。しかし帝国大学・一高がすぐ近くにできたことから、風紀上も問題になり、遊郭は洲崎などへ移転したが、経営する者の中には引き続き住居を根津に構えたり、売春宿などを営む者もあり、そうした一人が、この「淫売屋の亭主」であったのだろう。1932年の根津八重垣町土地所有者名簿(台帳)によると、宅地所有者61名(会社名義含む)のうち、根津八重垣町に住所がある者は9名。本郷区・下谷区あわせて35名で6割弱にすぎない。貸家が多かったということだろうが、洲崎の佐々木松五郎、新吉原に隣接する千束の高橋俊平の名もみられる。
今日、根津神社のすぐ南、根津1丁目21に「根津遊郭の跡地」の案内板がある。
帰宅する友人を広小路まで送る
画家として世に出ることをめざしているSと二人。久しぶりにS酒場へ行くと、鶴のように痩せた女の子は病気で、もう三週間も寝ている、医者はむずかしいと言っている、とのこと。
私達は街路へ出た。二人とも沈んで歩いて行った。「あの子は死にそうな子だよ。あの子はきっと死ぬ――。」とSはまるで信じ切っているように言った。
(略)
二人はいつの間にか池の端へ出た。もう蓮はやぶれ初めて、水分をふくんだ風はすこし寒さをかんじた。広小路で二人は別れた。二、三歩すぎると、Sは思い出したように、つと走って来て、「今夜は握手して別れよう。ね、いいだろう。」「よかろう。」二人は鍵のように握手した。
S酒場から広小路へ行くには、現在の不忍通りのルートを通る。道を多少ジグザグしながら、不忍池の西側を通り、南側へ曲がり込んで、三橋のところで電車が通る広い道(現在の中央通り)へ出る。上野広小路はすぐである。
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