『或る少女の死まで』を読み始めて、S酒場の少女が登場し、題名から「この少女が亡くなるのだろう」推察される。そこへもうひとり、ふじ子という少女が登場して、「これはどういうことだ」。けれども、ふじ子は快活でとても亡くなるようには思われない。やがて、S酒場の少女が病気で、もう助からないかもしれないという情報がもたらされる。「あの子はきっと死ぬ」という確信的な表現もみられる。ところが、結末は、ふじ子の死で、まさに「どんでん返し」。これが小説である。読者は、S酒場の少女の運命を想像するしかない。
この作品には二人の少女が登場する。二人の少女のモデルはあるのだろうか。思い出されるのは石尾春子と村田艶(ツヤ)である。
『評伝』(p152~)によると、春子は1896年2月生まれで、犀星が金石に勤務している時に知り合った。利発な小学生であった。春子の母は女の子二人を抱えて離婚し、上の娘を養女に出して、春子といっしょに父親が勤める金石小学校の小使室に住み込んでいた。小学校の向かいが犀星の勤務先であった。1914年8月7日の夜行で、「緑深い金沢」へ帰った犀星は、開館した真新しい映画館「菊水倶楽部」の切符売りとして働いていた春子と再会し、心ひかれていったが、春子の母の反対で恋は成就しなかった。犀星25歳、春子18歳。犀星が次なるターゲットに選んだのが艶である。艶の養母は、犀星養母ハツと親しく、その関係で艶と犀星は幼なじみであった。艶19歳。色白の艶にも心ひかれたが、これまた艶の養母の反対で成就しなかった。
私はS酒場の少女に特定のモデルは存在しないが、ふじ子に関しては、石尾春子との金石時代の思い出が重ねられているのではないだろうかと考える。小学生の春子は顔見知りになった犀星お兄さんと、話しをしたり、下宿へ遊びに行くこともあったかもしれない。さらに『評伝』(p153~)は興味深いことを伝えている。朔太郎から北原白秋宛葉書(1914年11月5日付)である。
まさかと思つたことがいよいよ事実になるらしい、大変な事件です、室生が春子を殺すのです、拒絶したんで凶悪少年の部下をシソオして暗殺する計画なんです
犀星が本気でこのようなことを計画したとは思われないし、朔太郎もそれを承知で白秋に知らせたのだろうけど、数年後に小説の中で亡き者にしたとするならば、ふじ子のモデルは春子であったと推論するのも間違いではないだろう。
もちろん、「殺す」というのは、相手を殺すのではなく、自分の中から記憶を消していくということである。前年の1918年、とみ子と結婚した犀星は、『或る少女の死まで』で、春子や艶、あるいはその他にも好きになった女の子がいたかもしれないが、この作品を書くことですべてを消去しようとしたのかもしれない。
春子は菊水倶楽部の映写技師と結婚し、東京へ出たが、1926年夏、二人の子どもを残して病没。艶はまもなく結婚したが離別。再婚したが1944年に亡くなった(『評伝』p154、p158)。結局、二人とも犀星より先に亡くなってしまったことになる。
『或る少女の死まで』を読んで、印象に残るのは「警察」の影である。S酒場における暴行事件で、駒込署に同行を求められ、それがトラウマになって、常に「警察」におびえる私(室生)。そして、とうとう駒込署の高等掛刑事がやって来るに及んで、私は急遽、帰郷を決意する。
犀星が初めて上京した1910年は大逆事件が進行した年である。当時、じゅうぶんな報道がなされなかったし、報道されたとしても犀星には関心を寄せる余裕がなかったであろう。ところが、親友の尾山篤二郎は1909年4月から暮れまで在京し、その間、幸徳秋水宅を二回ほど訪ねていた。そのため、1911年、秋水らが処刑された後、この年に設置された特別高等警察の監視を受けたという(『評伝』p111)。おそらくこうした話しを篤二郎から聞いていたであろう。
そこへ重なったのが「創造」の発売禁止であった。どうやら、「創造」に犀星が発表した詩「急行列車」が原因らしかった。1914年9月。犀星帰郷中のできごとである。
急行列車
汽車は急行なり
首も千断(ちぎ)るるの急行なり。
森は走り
家は走り
午後の光は走り
山は平らたくなり
河は鳴り
海は鳴り
海気みなぎり
月出づ。
世界は湧きかえり
世界は戦いのさなかなり。
林と林ともつれ逢い
青田の上に娘は流る。
電線は流れ
われはきちがいになり、
村村の灯はちらちら流れ
星はながれ
われは田舎へ流る、
こいしくなり
はるばるおんまえさまを求め。
1914年8月7日の夜行で犀星は帰郷した。この詩は彼女に会いたくなって、急行に乗って故郷へすっ飛んで来た犀星の思いを吐き出すようであるが、おそらく帰郷して春子と出会い、自分が帰郷したのは「この人」に会うためという演出であろう。「世界は戦いのさなかなり」という一節は、7月28日、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が始まっていなければ書くことが出来ない。
この詩は確かに過激な言葉づかいもみられる。狂気も感じられる。けれども、反戦歌でもなければ、革命歌でもない。このような詩が、それほど有名でもない詩人の作品が、目をつけられるところに、犀星は何か薄気味悪さを感じたのだろう。
このような体験が、『或る少女の死まで』に底流を流れるものとして、すり込まれていったと私は考える。それから7、8年後。大正末から昭和初期にかけて、犀星の若い友人たちで、「驢馬」のメンバーである窪川鶴次郎、中野重治などがプロレタリア文学の道に進み、「驢馬」の財政的支援者であった犀星も、弾圧のキケンを強く感じることになる。犀星は戦後、「『驢馬』の人達」(「文学界」1959年7月)で、
この睦まじい『驢馬』の仲間は、堀辰雄を一人残して四人は何事かを結び、日本共産党に何時の間にかはいつてゐたのである。私がその仲間の一人でなかつたことは、私が原稿を書いてゐて食へたからであり、食へずにゐたら容易に仲間にはいつてゐたかも判らなかつた。
ただ私は当時の厳しい弾圧の手が私の身辺にも及ぶだらうといふことに、なんとなく注意力が集中するに至つてゐた。
(『評伝』p227)