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8.深川をめぐって――葛飾砂子・深川淺景
『葛飾砂子』は1900年の作で、1920年に映画化された(栗原トーマス監督、大正活映)。書かれたのは『婦系図』より早く、鏡花の初期の作品に属する。一方、『深川淺景』は1927年7月17日から8月7日まで、「大東京繁昌記下町編」として「東京日日新聞」に泉鏡太郎の名前で連載されたもので、「街歩きレポート」と言える。昭和を迎え、関東大震災からの復興事業が一区切りする時期、東京復興をアピールするねらいで企画されたものであろう。大正から昭和にかけての鏡花の作品に、東京の情景描写を見つけることは容易ではない。『深川淺景』は小説ではないが、取りあげてみた。
『葛飾砂子』から27年を経て、「昭和モダン」の真っただ中で鏡花が描いた深川はどのくらい違うのか。鏡花は深川の風情を気に入ったのか、『葛飾砂子』の他、『辰巳巷談』『三尺角』『芍薬の歌』など、「深川もの」と呼ばれる作品をいくつか書いている。タウン誌「深川」2019年3-4月号では、「鏡花と歩く深川『深川浅景』探訪」を特集している。
(1)『葛飾砂子』のあらすじ
私は葛飾と聞くと、「葛飾柴又」を思い出して、どうしても深川と結びつかないのであるが、確かに深川は下総国葛飾郡の内であった。それではなぜ「砂子(すなご)」なのか。金粉銀粉を散りばめた様は、とてもきれいだが、この物語の主人公菊枝がまさに「別嬪さん」だったから付けたのか。けれども粉というのは、じつにたくさんあるのだから、「別嬪」どころか「たくさんいる中の一人」になってしまう。「砂子」に引っかかっていると先に進まないが、「金銀砂子」というと、童謡「たなばたさま」を思い出す。「お星さまがキラキラした様子」が「金銀砂子」である。けれどもこの歌は鏡花が亡くなって二年後の1941年につくられたものだから、もちろん鏡花は知らない。
『葛飾砂子』は15の章で構成されている。
1では、深川富岡八幡宮門前の三味線屋「待乳屋」の一人娘菊枝が、近所の不動(深川不動)の縁日に詣ると言って家を出た切り、夜も11時になっても帰らないという事件が発生する。けれども近くの親しくしているお縫のところへ行っているだろうと、両親は案ずることもない。お縫は新吉原の新造だった江崎とみ(富)の娘で、器量も気立ても良く、看護師になり、富の借家のひとつに住んでいる。見込まれて、肺を患った歌舞伎役者尾上橘之助の看病にあたっていたが、橘之助は25歳に満たず亡くなった。菊枝は橘之助の大のファンだった。
それにしても遅いということで、待乳屋の小僧弥吉がお縫の家に。2から4に進んで行くにつれて、菊枝の小町下駄が土間に脱いであるのに、お縫の家にいないことがわかりかけてくる。
5になると、場面は変わって、船。通っている水路は「名はねえよ。」と言われるが、現在では「大横川」と名付けられている。どうやらこの船。三名の客を乗せて洲崎遊郭へむかっているようである。後に船頭の名は七兵衛とわかる。
7になると、客を下ろした七兵衛が帰宅するため船を回送している。9で自宅近くの蓬莱橋辺りで溺死体を見つけ、引き上げて自宅へ担ぎ込む。ところが10ではこの溺死体が朝になって息を吹き返す。この生き返りがやがて菊枝とわかる。その後、二人の言動が続き、14から15にかけて、仕事に出る七兵衛が菊枝をつぎのようにたしなめる。
(略)「とこう思っての、密と負って来て届かねえ介抱をしてみたが、いや半間な手が届いたのもお前の運よ、こりゃ天道様のお情というもんじゃ、無駄にしては相済まぬ。必ず軽忽なことをすまいぞ、むむ姉や、見りゃ両親も居なさろうと思われら、まあよく考えてみさっさえ。そこで胸を静めてじっと腹を落着けて考えるに、私が傍に居ては気を取られてよくあるめえ、直ぐにこれから仕事に出て、蝸牛の殻をあけるのだ。可しか、桟敷は一日貸切だぜ。」(略)思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方角を暗剣殺に取違えねえようにの、何かと分別をつけさっせえ。
七兵衛は菊枝に何日ここにいても良いし、他へ行きたければ行っても良いし、挨拶なしに出て行っても良いと言い、土地柄、戸締りには用心するように言い残して仕事に出かけている。
菊枝は家に戻り、両親に許され、身を投げた蓬莱橋から、お縫といっしょに橘之助記念の浴衣を投げて供養した。それから4年。菊枝は活き活きした娘に成長し、二十歳を迎えた。
この作品が書かれたのが1900年。その時点を菊枝二十歳と仮定すれば、身投げは1896年。その二年前、父を失い、絶望の淵に立たされ、金沢の城濠百閒堀へ身投げしようとさえ思い、紅葉の言動によって、生きる望みを取り戻した鏡花を思い出す。どうしても、紅葉と七兵衛が重なるのである。
(2)『葛飾砂子』と深川の情景
深川は、富岡八幡宮と成田山不動(深川不動)という二つの参詣の対象と、広大な木場をもつ、江戸・東京の中でも独特の雰囲気をもつ地域である。地図を見ると、水路が縦横に走り、さながらベニス(ヴェネチア)の地図を見ているようである。明治になって、東はずれにある洲崎に遊郭がつくられ、深川は新たな顔を加えることになった。富岡八幡・水路・洲崎遊郭、この三つが『葛飾砂子』のキーワードと言ってよい。
深川富岡門前
富岡八幡宮の門前には主人公菊枝の家、待乳屋という三味線屋がある。住所は深川門前町。待乳屋から洲崎方向に2町(約220m)行ったところに江崎とみ(富)の家があり、その貸家に娘のお縫が住んでいる。住所は深川門前東仲町。
富岡八幡宮と隣りの成田山不動は一体として「深川公園」になっている。寺社境内地一帯を公園化した「浅草公園」「芝公園」などと同様である。八幡宮の門をくぐり、参道を通って小さな橋を渡ると深川門前町で、少し行くと東西にのびる道路を横切り、広くなったところが門前河岸で、水路(大横川)から船着き場が食い込んでいる。その西端に蓬莱橋(巴橋)がかかっており、渡ると深川佃町である。
『葛飾砂子』の舞台は概ねこの範囲であるが、富岡門前界隈の光景はまったく描写されていない。
船は洲崎遊郭へ
「橋ぞろえ」(5,6)は深川を洲崎遊郭へむかう乗合船。吉原も今戸から山谷堀、船で行ったものだが、この洲崎遊郭も同様である。乗客は三人。おそらく相乗りタクシーのような形態で、客を乗せたのであろう。どこから乗ったか記されていないが、
「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋はもう越した、不動様の前あたりだよ、直に八幡様だ。」
と、客の一人が言っているので、洲崎はもうすぐという雰囲気。と、いうことになれば、日本橋川・神田川辺りから、隅田川(大川)を越えてやって来たのかもしれない。
昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい。
この川は何という名前かとたずねる客に、「名はねえよ」と船頭は答えているが、現在は「大横川」という名前が付いている。ところで、この辺りの地図を調べても、「石見橋」という名の橋は見当たらない。その後の橋はすべて実名であるので、「石島橋」を間違えて、「石見橋」と書いたのだろう。取材にあたって鏡花は現地でメモしたであろうから、「島」という字が「見」に見えたのかもしれない。
砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く。
この辺り、石島橋と蓬莱橋の間、門前河岸とよばれる。まさに不動様や八幡様の門前である。蓬莱橋の
橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸に溢れるよう。左手は洲の岬の蘆原まで一望渺たる広場、船大工の小屋が飛々、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる。
やがて汐見橋が左手に見えてきて、船は弓なりに曲がる。
寝息も聞えぬ小家あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯と靡き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。
描写は細かい。ここで登場した石碑が、「津波警告の碑」(波除碑)。江戸時代の1791年9月3日から4日にかけて来襲した台風の影響で、4日午前10時頃、おりから満潮を迎えていた洲崎・木場一帯に高潮が押し寄せ、多くの住民が犠牲になった。幕府は洲崎弁天社から西の一帯、東西約500メートル、南北約54メートルを買い上げて空地とし、ここから海側に居住することを禁止した。そして、東北地点の洲崎弁天社と西北地点の平久橋付近に、1794年、「波除碑」を建立。後世の人びとに災害の危険を知らせる重要な記念碑、地域の財産である。
この作品に出て来る「波除碑」は、西北地点のもので、砂岩でできており、今日では読み取ることが困難だが、鏡花が取材に訪れた当時は、まだ100年程しか経っておらず、読み取ることができたようで、書き写したのだろう。全文が作品の中に引用されている。貴重な史料である。
葛飾郡永代築地
此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はこりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。
大横川はここで北から流れて来る平久川と合流して、鍵の手に曲がって、再び東へむかって平野橋をくぐり、洲崎へ伸びていく。平久川はそのまま南へ、海のむかって流れていく。
「や!」響くは凄じい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり。
この後、船は平野橋にむかっているが、神川橋はどこ?平久川にかかる平久橋あたりに、明治末期の地図に名前の書かれていない橋があるので、たぶんこれが神川橋に該当するものであろう。この辺りが、江戸時代の海岸線であり、この先、海にむかって明治期に埋め立てられたが、鏡花が訪れた当時まだ入江のように海が入り込み、潮の干満を調節する水門が設けられていたと考えられる。満潮後の引き潮で、海にむかって水の流れが速くなっていたのではないだろうか。現在の水門は、平久川をさらに下流、時雨橋を過ぎ、石浜橋の先に設けられている。
なお、正式に平久橋と名付けられた橋が登場するのは1927年で、「平久」は平富町と久右衛門町を結んでいることに由来する。
やがて平野橋、一本二本蘆の中に交ったのが次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についているのは川蒸汽で縦に七艘ばかり。
現在では両岸コンクリートで固めら、人家もみられるが、ビルの方が多い。完全に都市化され、蘆や薄の生える余地はなさそうだ。
程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳へ乗りかえ、棹を引いて横づけにする、水は船底を嘗めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり。
弁天橋は大横川から南へ分れる川に架かる橋で、そばに洲崎弁天社があるところから名付けられた。洲崎弁天社には東北地点の「津波警告の碑」(波除碑)がある。ここで大横川は北へ直角に曲がって、木場の中へ入って行く。現在、弁天橋のすぐ南に水門が設けられている。
洲崎遊郭は三方を川、南を海と、水で囲まれた四角形の埋め立て地に、1888年に根津遊郭を移転するかたちでつくられたもの。吉原につぐ遊郭に発展していった。
弁天橋で船を降り、北側の洲崎川に沿って200メートルほど歩き、洲崎橋を渡ると仲の町通り(大門通り)と呼ばれる中央の広い道路。区画の形状は吉原を模している。さて、船を降りた一行。遊郭の中で、どのような楽しみをしたのであろうか。
蓬莱橋と佃町
弁天橋まで最後の客を送り届けた船頭、七兵衛は題目を唱えながら川を引き返し、石碑の前から蓬莱橋へ。年の頃なら60歳くらいの七兵衛は、胡麻塩の禿げ頭。蓬莱橋辺りの岸の松の木に船をつないで、近くの佃町のわが家へ帰る。一人暮らしである。
「題目船」(7~9)は、題目や本所の七不思議、遊女の話しを挟み込みながら、9において《
蓬莱橋は早や見える
》辺りで七兵衛は若い女の水死体を引き上げる。そして、「衣の雫」(10・11)へ。
11で気がついた菊枝は、《
「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く
》。七兵衛は《
ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ
》、と答える。佃町は、大横川に架かる蓬莱橋を渡って100メートル、牡丹二丁目交差点までの両側50メートルくらいという小さな町で、東を平富町、西を牡丹町にはさまれていた。
「浅緑」(12・13)に入っても、七兵衛と菊枝の会話が続く。そして、「記念ながら」(14・15)へ。時刻は9時か10時。
このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。
佃町界隈から描写は広がり、何やら、深川が凝縮されたような表現になっている。さらに、七兵衛は出かける間際に、
お前が知っているという蓬莱橋は、広場を抜けると大きな松の木と柳の木が川ぶちにある、その間から斜向に向うに見えらあ、可いかい。
と、言っている。実際に大横川を挟んで、七兵衛の家と菊枝の家は、きわめて近い。話しは前後するが、それを知ってか知らずか、七兵衛はこんなことを言っている。
一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、
自分が騒ぎ立てて、江戸中知れ渡ることがあってはいけないと思って、家に連れて来た、と話す。ここで出て来る交番は、汐見橋東詰(現在、サンプラハ木場が建っている所)にあったもので、現在では門前仲町交番の管轄になったため、廃止されている。
七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄み切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と、濡れた衣の色を乱して記念の浴衣は揺めいた。親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。
現在、越中島橋から牡丹二丁目交差点を通り、平久橋に伸びる道路はかつての海岸線で、鏡花が取材した当時、ここから先は新開の埋め立て地、と言っても干潟に近い状況で、鏡花はこの情景をきちんと作品に描き込んだ。七兵衛の家は、現在の牡丹2丁目3番あるいは牡丹3丁目12番辺りに設定されたと考えられる。広場というのは、牡丹3丁目12番にある住吉神社の境内地であろう。今では見過ごしてしまいそうな小さな神社だが、かつてはもっと広い境内をもっていたであろう。
もともと、佃町(深川佃町)は佃島の漁師が網を干した場所で、佃町の住吉神社は佃島の住吉神社の分社。富岡八幡に対面する形になっており、「八幡さま」に対する「住吉さま」である。八幡の菊枝に対して、住吉の七兵衛。鏡花にとって、七兵衛はどうしても佃町に住んでいなければいけなかったのであろう。そして、もう一つ。この佃町は江戸時代に岡場所(私娼窟、非公認の遊郭)があったところ。そう言われてみれば、中央に道路が走り、100メートル四方という佃町の形状も納得できるが、鏡花はこうしたことも念頭に置いて、設定したのであろう。そうなると、生娘を水揚げした七兵衛の行動も、かなり違って見えてくる。
菊枝は家に戻り、両親に許され、お縫に付き添われて、身を投げた蓬莱橋へ。そして、橘之助の記念の浴衣を橋から投げて供養した。
「南無阿弥陀仏、」「南無阿弥陀仏。」折から洲崎のどの楼ぞ、二階よりか三階よりか、海へ颯と打込む太鼓。浴衣は静に流れたのである。
蓬莱橋から洲崎まで、およそ1キロ。当時はそれほどさえぎる物もなく、妓楼の太鼓も聞こえたのであろう。今では、もちろんムリである。
(3)鏡花はどのようにして深川へ行ったのか
『葛飾砂子』を書くにあたって、鏡花は深川へ足を運び、情景など書き留めたものと思われる。どうでも良いことなのかもしれないが、私は「鏡花はどうやって深川まで行ったのか」ということに、つい引っかかってしまう。当時、鏡花は牛込南榎町に住んでいた。もし、鏡花が船で深川をめざしたとしたならば、神楽坂を下りた揚場から船に乗り、外濠、神田川から柳橋をくぐって隅田川に出て、やがて永代橋をくぐり、大横川に入ったものと考えられる。
当時、船賃がいくらぐらいだったかわからないが、定期便や乗合がなければ、かなりの金額になったはずで、鏡花がすでに文壇で一定の地位を築きつつあったといっても、船を貸し切っていくことはたいへんだっただろう。まだ路面電車は走っていないし、馬車鉄道も都心部だけだったから、あとは人力車を利用するか、自分で歩くしかない。
自分で歩いたとなれば、南榎町から深川までどのくらいの距離があったのか。神楽坂から飯田橋、九段下から大手町、そして日本橋から茅場町。永代橋を渡って門前仲町。ありがたいことに、この最短ルートは東京メトロ東西線のルート。神楽坂駅を起点にすると、門前仲町駅まで営業キロ数7キロ。徒歩が当たり前の時代だから、鏡花もそれほど苦にせず、歩いたのではないだろうか。実際には、門前仲町の手前、永代橋を渡った辺りで船に乗ったものと思われる。
(4)『深川淺景』と深川の情景
時節がら、槍、白馬といへば、モダンとかいふ女でも金剛杖がひと通り。……人生苟くも永代を渡つて、辰巳の風に吹かれようといふのに、足駄に蝙蝠傘は何事だ。
1927年はまさに「昭和モダン」の只中。北アルプスへ登る女性も見受けられるようになってきた時期である。「辰巳」とは「深川」の別称で、深川が江戸城から辰巳、つまり南東の方角にあることから名付けられた。「深川芸者」は一般的に「辰巳芸者」と呼ばれる。
さて、鏡花は「東京日日新聞」社の記者あるいは編集者と思われる同伴者と、永代橋を渡って深川に入った。
私は、實は震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつたのである。二人の風恰好亦如件……で、運轉手が前途を案じてくれたのに無理はない。
どうやら二人は円タクに乗って、永代橋を渡った袂で降りたようだ。この後、深川の街を、佐賀町、松村、小松、松賀町、仙台堀、黒亀橋、常光院、心行寺、海辺橋のコースを歩いている。はじめに、洲崎や仲町のようなカネのかかるところは行かないと宣言している。
永代橋の袂
永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた。(略)すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い。
永代橋を渡って深川へ入った辺りの賑わいが伝わって来る。この通り(現在の永代通り)には市電が通っていたが、ここでは描写されていない。深川地域では当時、永代橋から洲崎に伸びる路線と、黒江町で分れて森下へ向かう路線、それに門前仲町で分れて月島へ行く路線があった。
佐賀町
永代橋を渡ってすぐ、二人は左へ入って、隅田川沿いに上流方向にむかう道の両側が佐賀町である。貨物車(トラックのことであろう)が凄まじい音を立てて、つぎつぎやって来る。
佐賀町と言うから、例えば肥前(佐賀)藩の屋敷でもあったかのと思うと、違う。もとは深川藤左衛門町・深川次郎衛門町とよばれていたが、元禄期に永代橋が架けられ、そこからの眺めが佐賀に似ていたところから佐賀町の名がついたと言う。深川一帯は江戸時代、江戸湾(東京湾)の干拓や埋め立てによって生まれた土地で、佐賀平野も有明海の干拓によって生まれたから、納得できる。
鏡花は佐賀町に残る震災の爪痕と昭和金融恐慌の様子、そして佐賀町という地区の特色について記している。
燒け土がまだそれなりのもあるらしい、道惡を縫つて入ると、その癖、人通も少く、バラツク建は軒まばらに、隅を取つて、妙にさみしい。休業のはり札して、ぴたりと扉をとざした、何とか銀行の窓々が、觀念の眼をふさいだやうに、灰色にねむつてゐるのを、近所の女房らしいのが、白いエプロンの薄よごれた服装で、(略)
関東大震災では深川も焦土と化している。それからの復興の状況がうかがえる一文だが、銀行の描写が昭和金融恐慌の生々しさを伝えている。この年、第一次世界大戦後の不況と、関東大震災後に発行した手形が不良債権化して、3月14日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が失言したのをきっかけに、取り付け騒ぎが発生し、多くの銀行が休業した。後任の蔵相に就任した高橋是清は、4月22日以降、21日間支払猶予令を出すなど、収束策を次々打ち出したが、鏡花が取材に出かけたと思われる6月になっても、銀行休業は見受けられたようだ。
御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して――こゝに見取圖がある。――斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。(略)藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、(略)川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮かぶ。
佐賀町は深川漁師町とよばれた八町の一つで、永代橋から下之橋(油堀)・中之橋(中之堀)そして仙台堀に架かる上之橋まで、左側には隅田川に臨む蔵(河岸蔵)が並び、右側にはほぼ同じ間口の町屋敷が並び、米問屋・油問屋・干鰯問屋などが連なっていた。大震災ですっかり姿を変えてしまった風景を目の当たりにしながら、鏡花は昔を思い出していたことであろう。江東区深川江戸資料館の常設展示室で実物大で再現している街並みは、佐賀町をモデルにしている。
ところで、ここに突然出て来た赤穂浪士の討ち入り。じつは、本所吉良邸を襲撃した浪士たちは、隅田川沿いにまっすぐ南下し、佐賀町河岸通りを永代橋から高輪泉岳寺に向かったと伝えられている。浪士たちは永代橋近くの乳熊屋(現、ちくま味噌)で休息したということで、甘酒をふるまって労をねぎらったという由来の碑がある。鏡花はこうした話も心に留めて文章を書いている。
松賀町界隈
佐賀町の東側。現在、大島川西支川と名付けられた水路の永代通りから首都高9号線(深川線)の間、西に深川小松町と深川松賀町、東に深川松村町があった。すべて「松」がつく面白さに、鏡花は書いてみる気になったのだろう。
松村に小松を圍つて、松賀町で淨瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、
と、地名で言葉遊びしながら、情景を描写している。この辺りの様子が変わったと連れが言うと、鏡花も変わったと応じながら、「この道は行留りぢやあないのかね。」と言うと、冗談言うなと連れ。「洲崎に土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな抜け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや。」と来たから、これには鏡花も思わず「えらいよ!」と感嘆。水路に行く手を阻まれたのだろう。水路の多い深川ではそれほど珍しいことではないが、水路を通れば洲崎から東京湾に出て、全国各地、いや世界各地へ続いているから、行き止まりどころではない。もともと江戸は、深川にしても、日本橋界隈にしても、水運で関東一円、全国各地の物資を集めて成長してきたのであるから、この一言は名言である。
仙台堀
二人はどろどろした河岸へ出た。鏡花は仙台堀川だと思って叫ぶが、連れは、これは油堀で隅田川(大川)へ流れ込むところに架かるのが下之橋で、そして中之橋があって、さらに上流にある、上之橋が架かるところが仙台堀川と説明。仙台堀川に沿って、松永橋・相生橋・海辺橋と、この川へつながる水路に架けられた橋の名を紹介している。大震災で壊れたり焼失した家が取り払われたので、見通しも良くなったので、もうすぐ仙台堀も見えて来ると連れ。
仙台堀という名前は、北側に仙台藩の蔵屋敷があり、堀を使って舟運がおこなわれたことに由来する。藏屋敷跡には明治5(1872)年、日本初のセメント工場である官営深川工場(後のアサノセメント)が建設された。
連れは、すぐ向うに煙か雲か、灰汁のような空にただ一か所、樹がこんもりと、青々しているのが岩崎公園と説明。岩崎公園は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の発注によってつくられたもので、現在の清澄公園・清澄庭園。
大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな。
ここで、連れの話しだけは、隅田川沿いにさらに上流へむかって歩いているようで、中洲・箱崎を向うに見てと記されている。しかし、実際に歩いているのではないので、翌1928年3月に完成する清洲橋の工事中の姿は何も記されていない。話しは小名木川まで及んで、萬年橋。安政二年の大地震の話しが飛び出し、
吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に舟受けて……
「また、地震かい。」と言う鏡花をものともせず、連れはしゃべり続ける。サイカチは皀角(さいかち)の木があったことから名付けられたのか、河岸の名。海辺大工町は現在白河1丁目。話しは現在に戻って、この四、五年、浦安でハゼやマコ(鰈、カレイ)がたくさん釣れるようになり、釣り人気で、高橋を出る汽船は満員。朝一番の船などは、汽船の屋根まで人で埋まり、途中の大富橋、新高橋では、欄干の外に出て、橋にぶら下がり、汽船の屋根に飛び乗るという話まで。大震災で東京湾にも異変が起き、急にハゼやマコが捕れるようになったのかもしれない。
連れの話しは萬年橋からさらに先へ。隅田川に架かる新大橋付近のお船藏。三代将軍家光の命で建造された軍船形式の御座船安宅丸(あたけまる)と、その後も幕府の艦船を格納してきたところである。現在でも、安宅丸を模した御座船安宅丸が観光クルーズをおこなっている。先、小松川の向こうは回向院。連れは悪乗りして、
河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます。
これには、鏡花も
「これ、芥川さんに聞こえるよ。」私は眞面目にたしなめた。
芥川龍之介は幼少年期をこの回向院近くで過ごしている。連れの話しは両国まで飛んでいくので、芥川が出て来て不思議ではないが、じつに微妙なタイミングである。この『深川浅景』は1927年7月17日から8月7日まで連載されたが、鏡花と連れが取材に深川を訪れたのは6月頃であろう。そして、連載中の7月24日、自死している。まさか取材中また執筆中、このような出来事が起きようと鏡花は思ってもみなかったであろうが、芥川の衝撃的な死が生々しい時に新聞紙上に掲載されたことになる。ひょっとしたら、《
「これ、芥川さんに聞こえるよ。」私は眞面目にたしなめた。
》という一文は、芥川の死を受けて急遽、挿入されたものかもしれない。あきらかに死者を意識している。
黒亀橋
結局二人は、上之橋から引き返したようで、中ノ堀から油堀沿いに歩いて閻魔堂に入った。
常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承はつた。
常光院とは法乗院のことであろう。大震災で焼失したが、上記のように再建された。現在の閻魔大王像は1989年に完成したコンピュータ制御のもの。
黒龜橋。――こゝは阪地で自慢する(……四ツ橋を四つわたりけり)の趣があるのであるが、講釋と芝居で、いづれも御存じの閻魔堂橋から、娑婆へ引返すのが三途に迷つた事になつて――面白い……いや、面白くない。が、無事であつた。
閻魔堂近くでは油堀(十五間川)と、これに交差する堀があり、油堀に閻魔堂橋、交差する堀に油堀の両岸に沿ってそれぞれ橋が架けられ、四ツ橋に一つ足りない三つの橋が架けられていた。門前仲町から森下へ向かう電車通りをつくる際、堀の交差点上を道路が通ったため、黒亀橋という一つの橋になってしまった。その黒亀橋も大震災で落橋。市電の線路は油堀上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は仮復旧だったと思われるが、鋼鉄製の新しい橋が翌々年にあたる1929年に完成し、富岡橋と名付けられた。しかしその後も黒亀橋の名は使用された。閻魔堂橋、黒亀橋を受け継いだ富岡橋も、首都高速9号線(深川線)建設にともなって、1975年、油堀を埋め立てられて消失してしまった。
心行寺
閻魔堂の隣りに心行寺がある。大震災で焼失し、1932年に再建された。したがって文中には、「仮門」と書かれている。連れが電車の行き交うすきに、「えゝ、一寸懺悔を。……」と言う。この寺の墓地には洲崎の女郎が埋まっていると、ある女の話しを始める。
その女は後に洲崎を抜けて所帯をもち、土手でおでん屋を出していたが、気が変になって亡くなった。旅芸者をしていた時、親なしの娘を養女にしていたが、その娘も芸者になり、養母を見送ってくれたが、ある時、連れが養女に巡り合い、心行寺にお参りしてくれるよう頼んできたが、その養女も震災で行方知れずと言う。閻魔堂で羽目の影がちらりちらり鬼のまわりに白い女。地獄の絵というと女が裸で気になったと、連れは笑う。
電車通りへ突つ立つて、こんなお話しをしたんぢあ、あはれも、不氣味も通り越して、お不動樣の縁日にカンカンカンカンカン――と小屋掛で鉦をたゝくのも同然ですがね。
鏡花がお参りするように言うと、
何だか陰氣に成りました。こんな時、むかし一つ夜具を被つた女の墓へ行くと、かぜを引きさうに思ひますから。
海辺橋
海辺橋は仙台堀川に架かる橋である。
「あ、あぶない。」笑事ではない。――工事中土瓦のもり上つた海邊橋を、小山の如く乘り來る電車は、なだれを急に、胴腹を欄干に、殆ど横倒しに傾いて、橋詰の右に立つた私たちの横面をはね飛ばしさうに、ぐわんと行く時、運轉臺上の人の體も傾く澪の如く黒く曲つた。二人は同時に、川岸へドンと怪し飛んだ。曲角に(危險につき注意)と札が建つてゐる。
海辺橋も黒亀橋と同様に、大震災で落橋し、市電の線路は仙台堀川上に宙づりになったのだろう。鏡花が訪れた時は横に仮橋をつくって、新しい橋を建設していたのだろう。市電の線路が急な曲線を描いて仮橋へさしかかっていたと思われる。たまたま電車が通りかからなかっただけで、黒亀橋も似たような光景が見られたと推察される。鋼鉄製の新しい海辺橋は翌々年にあたる1929年に完成した。
海辺橋の南西たもとには松尾芭蕉ゆかりの採荼庵跡があり、芭蕉はこの辺りから奥の細道の旅に出発したと言われている。
浄心寺・霊巌寺
時間の都合で今日は行かないが、この川を渡って大きな材木堀を一つ越せば、浄心寺・霊巌寺があると鏡花は記している。川は仙台堀川であるが、その向こう、地図を見ると確かに堀はある。しかし「材木堀」と書かれていない。この辺り木場であり、一般的に貯木池を「材木堀」と呼んだのであろう。
霊巌寺には白河藩主で老中として活躍した松平定信の墓があり、この地が「白河」と呼ばれる由来になっている。境内の南東にあたる一角は深川区役所。現在、深川江戸資料館になっている。西には岩崎公園(現、清澄庭園・公園)、東から南は浄心寺周辺にかけて寺院が多い。
いまは東に岩崎公園の森のほかに、樹の影もないが、西は兩寺の下寺つゞきに、凡そ墓ばかりの野である。
どうやら、鏡花は東西逆に書いてしまったようだ。霊巌寺と言えば「江戸六地蔵」の一つがあることで知られる。鏡花は《
その夥多しい石塔を、
》から《
また趺坐なされた。
》まで、かなり詳しく記している。今は行かなくてもインターネットで調べれば詳しく記述することも可能だが、当時はそのようにいかない。訪れてもいない地蔵像を描写できた不思議を感じるが、その後、鏡花は「秋また冬のはじめ」に二度三度行ったことがあると書いている。
その尾花、嫁菜、水引草、雁來紅をそのまゝ、一結びして、處々にその木の葉を屋根に葺いた店小屋に、翁も、媼も、ふと見れば若い娘も、あちこちに線香を賣つてゐた。狐の豆府屋、狸の酒屋、獺の鰯賣も、薄日にその中を通つたのである。……思へばそれも可懷しい……
鏡花らしい「締め」である。深川を舞台にいくつも作品を書いてきた鏡花であり、何度も深川を訪れているが、大震災後に深川へ来るのは初めてであり、かつての霊巌寺界隈を思い出したのであろう。やはり、江戸から明治、大正への深川の風情の方が鏡花には似合っているかもしれない。
江戸六地蔵は、18世紀はじめ、江戸の出入り口6カ所に建立された地蔵菩薩像。霊巌寺(水戸街道)の他、同じく深川の永代寺(千葉街道、廃仏毀釈で廃棄)、品川の品川寺(東海道)、浅草の東禅寺(奥州街道)、巣鴨の真性寺(中山道)、そして太宗寺(甲州街道)には漱石が登ったという地蔵菩薩像がある。
【参考文献】
江東区深川江戸資料館:長屋と人々の暮らし④展示室の舞台深川佐賀町(資料館ノート第112号、2015年11月16日)
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