富岡八幡宮の門前には主人公菊枝の家、待乳屋という三味線屋がある。住所は深川門前町。待乳屋から洲崎方向に2町(約220m)行ったところに江崎とみ(富)の家があり、その貸家に娘のお縫が住んでいる。住所は深川門前東仲町。
富岡八幡宮と隣りの成田山不動は一体として「深川公園」になっている。寺社境内地一帯を公園化した「浅草公園」「芝公園」などと同様である。八幡宮の門をくぐり、参道を通って小さな橋を渡ると深川門前町で、少し行くと東西にのびる道路を横切り、広くなったところが門前河岸で、水路(大横川)から船着き場が食い込んでいる。その西端に蓬莱橋(巴橋)がかかっており、渡ると深川佃町である。
『葛飾砂子』の舞台は概ねこの範囲であるが、富岡門前界隈の光景はまったく描写されていない。
「橋ぞろえ」(5,6)は深川を洲崎遊郭へむかう乗合船。吉原も今戸から山谷堀、船で行ったものだが、この洲崎遊郭も同様である。乗客は三人。おそらく相乗りタクシーのような形態で、客を乗せたのであろう。どこから乗ったか記されていないが、
「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋はもう越した、不動様の前あたりだよ、直に八幡様だ。」
と、客の一人が言っているので、洲崎はもうすぐという雰囲気。と、いうことになれば、日本橋川・神田川辺りから、隅田川(大川)を越えてやって来たのかもしれない。
昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい。
この川は何という名前かとたずねる客に、「名はねえよ」と船頭は答えているが、現在は「大横川」という名前が付いている。ところで、この辺りの地図を調べても、「石見橋」という名の橋は見当たらない。その後の橋はすべて実名であるので、「石島橋」を間違えて、「石見橋」と書いたのだろう。取材にあたって鏡花は現地でメモしたであろうから、「島」という字が「見」に見えたのかもしれない。
砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く。
この辺り、石島橋と蓬莱橋の間、門前河岸とよばれる。まさに不動様や八幡様の門前である。蓬莱橋の
橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸に溢れるよう。左手は洲の岬の蘆原まで一望渺たる広場、船大工の小屋が飛々、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる。
やがて汐見橋が左手に見えてきて、船は弓なりに曲がる。
寝息も聞えぬ小家あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯と靡き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。
描写は細かい。ここで登場した石碑が、「津波警告の碑」(波除碑)。江戸時代の1791年9月3日から4日にかけて来襲した台風の影響で、4日午前10時頃、おりから満潮を迎えていた洲崎・木場一帯に高潮が押し寄せ、多くの住民が犠牲になった。幕府は洲崎弁天社から西の一帯、東西約500メートル、南北約54メートルを買い上げて空地とし、ここから海側に居住することを禁止した。そして、東北地点の洲崎弁天社と西北地点の平久橋付近に、1794年、「波除碑」を建立。後世の人びとに災害の危険を知らせる重要な記念碑、地域の財産である。
この作品に出て来る「波除碑」は、西北地点のもので、砂岩でできており、今日では読み取ることが困難だが、鏡花が取材に訪れた当時は、まだ100年程しか経っておらず、読み取ることができたようで、書き写したのだろう。全文が作品の中に引用されている。貴重な史料である。
此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はこりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。
大横川はここで北から流れて来る平久川と合流して、鍵の手に曲がって、再び東へむかって平野橋をくぐり、洲崎へ伸びていく。平久川はそのまま南へ、海のむかって流れていく。
「や!」響くは凄じい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり。
この後、船は平野橋にむかっているが、神川橋はどこ?平久川にかかる平久橋あたりに、明治末期の地図に名前の書かれていない橋があるので、たぶんこれが神川橋に該当するものであろう。この辺りが、江戸時代の海岸線であり、この先、海にむかって明治期に埋め立てられたが、鏡花が訪れた当時まだ入江のように海が入り込み、潮の干満を調節する水門が設けられていたと考えられる。満潮後の引き潮で、海にむかって水の流れが速くなっていたのではないだろうか。現在の水門は、平久川をさらに下流、時雨橋を過ぎ、石浜橋の先に設けられている。
なお、正式に平久橋と名付けられた橋が登場するのは1927年で、「平久」は平富町と久右衛門町を結んでいることに由来する。
やがて平野橋、一本二本蘆の中に交ったのが次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についているのは川蒸汽で縦に七艘ばかり。
現在では両岸コンクリートで固めら、人家もみられるが、ビルの方が多い。完全に都市化され、蘆や薄の生える余地はなさそうだ。
程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳へ乗りかえ、棹を引いて横づけにする、水は船底を嘗めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり。
弁天橋は大横川から南へ分れる川に架かる橋で、そばに洲崎弁天社があるところから名付けられた。洲崎弁天社には東北地点の「津波警告の碑」(波除碑)がある。ここで大横川は北へ直角に曲がって、木場の中へ入って行く。現在、弁天橋のすぐ南に水門が設けられている。
洲崎遊郭は三方を川、南を海と、水で囲まれた四角形の埋め立て地に、1888年に根津遊郭を移転するかたちでつくられたもの。吉原につぐ遊郭に発展していった。
弁天橋で船を降り、北側の洲崎川に沿って200メートルほど歩き、洲崎橋を渡ると仲の町通り(大門通り)と呼ばれる中央の広い道路。区画の形状は吉原を模している。さて、船を降りた一行。遊郭の中で、どのような楽しみをしたのであろうか。
弁天橋まで最後の客を送り届けた船頭、七兵衛は題目を唱えながら川を引き返し、石碑の前から蓬莱橋へ。年の頃なら60歳くらいの七兵衛は、胡麻塩の禿げ頭。蓬莱橋辺りの岸の松の木に船をつないで、近くの佃町のわが家へ帰る。一人暮らしである。
「題目船」(7~9)は、題目や本所の七不思議、遊女の話しを挟み込みながら、9において《
蓬莱橋は早や見える
》辺りで七兵衛は若い女の水死体を引き上げる。そして、「衣の雫」(10・11)へ。
11で気がついた菊枝は、《
「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く
》。七兵衛は《
ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ
》、と答える。佃町は、大横川に架かる蓬莱橋を渡って100メートル、牡丹二丁目交差点までの両側50メートルくらいという小さな町で、東を平富町、西を牡丹町にはさまれていた。
「浅緑」(12・13)に入っても、七兵衛と菊枝の会話が続く。そして、「記念ながら」(14・15)へ。時刻は9時か10時。
このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。
佃町界隈から描写は広がり、何やら、深川が凝縮されたような表現になっている。さらに、七兵衛は出かける間際に、
お前が知っているという蓬莱橋は、広場を抜けると大きな松の木と柳の木が川ぶちにある、その間から斜向に向うに見えらあ、可いかい。
と、言っている。実際に大横川を挟んで、七兵衛の家と菊枝の家は、きわめて近い。話しは前後するが、それを知ってか知らずか、七兵衛はこんなことを言っている。
一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、
自分が騒ぎ立てて、江戸中知れ渡ることがあってはいけないと思って、家に連れて来た、と話す。ここで出て来る交番は、汐見橋東詰(現在、サンプラハ木場が建っている所)にあったもので、現在では門前仲町交番の管轄になったため、廃止されている。
七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄み切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と、濡れた衣の色を乱して記念の浴衣は揺めいた。親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。
現在、越中島橋から牡丹二丁目交差点を通り、平久橋に伸びる道路はかつての海岸線で、鏡花が取材した当時、ここから先は新開の埋め立て地、と言っても干潟に近い状況で、鏡花はこの情景をきちんと作品に描き込んだ。七兵衛の家は、現在の牡丹2丁目3番あるいは牡丹3丁目12番辺りに設定されたと考えられる。広場というのは、牡丹3丁目12番にある住吉神社の境内地であろう。今では見過ごしてしまいそうな小さな神社だが、かつてはもっと広い境内をもっていたであろう。
もともと、佃町(深川佃町)は佃島の漁師が網を干した場所で、佃町の住吉神社は佃島の住吉神社の分社。富岡八幡に対面する形になっており、「八幡さま」に対する「住吉さま」である。八幡の菊枝に対して、住吉の七兵衛。鏡花にとって、七兵衛はどうしても佃町に住んでいなければいけなかったのであろう。そして、もう一つ。この佃町は江戸時代に岡場所(私娼窟、非公認の遊郭)があったところ。そう言われてみれば、中央に道路が走り、100メートル四方という佃町の形状も納得できるが、鏡花はこうしたことも念頭に置いて、設定したのであろう。そうなると、生娘を水揚げした七兵衛の行動も、かなり違って見えてくる。
菊枝は家に戻り、両親に許され、お縫に付き添われて、身を投げた蓬莱橋へ。そして、橘之助の記念の浴衣を橋から投げて供養した。
「南無阿弥陀仏、」「南無阿弥陀仏。」折から洲崎のどの楼ぞ、二階よりか三階よりか、海へ颯と打込む太鼓。浴衣は静に流れたのである。
蓬莱橋から洲崎まで、およそ1キロ。当時はそれほどさえぎる物もなく、妓楼の太鼓も聞こえたのであろう。今では、もちろんムリである。