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8.仮装人物に描かれた東京
(1)「順子もの」の総集編
恋愛の卵巣
『仮装人物』の主人公は、秋聲自身がモデルの庸三、そして山田順子がモデルの葉子。庸三に絡みつくような葉子はつぎのように評されている。
葉子のような天性の嬌態をもった女の周囲には、無数の無形の恋愛幻影が想像されもするが――それよりも彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に蔓っているのであった。(17)
「恋愛の卵巣」とは、今でもドキッとするような表現である。17には「モダンな新興芸術」「花やかな行進曲」「カクテル」「銀ブラ」「デネションの舞踊」と言った語句も登場する。庸三が馴染みになる小夜子は、
芝の神明で育った彼女は、桃割時代から先生の手におえない茶目公であったが、そのころその界隈の不良少女団長として、神明や金毘羅の縁日などを押し歩いて、天性のスマアトぶりを発揮したものだった。(8)
ちょっぴり古めかしい内容を「モダン」に表現している。
葉子と小夜子。この二人の女性を老作家庸三は、使い分けながら、悩みつつ楽しんでいるようにみえる。
メイ・ハルミの手を経て横浜から買った、ヤンキイ好みの紺に淡めな荒い縞のある例の外套に包まっていたが、髪もそそけ顔もめっきり窶れていた。(27)
見るたびに葉子は生活に汚れていた。風呂へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの踵も薄切れていた。(27)
「モダン」な語句をともなって表現される葉子の結末が、何とも哀れというか、皮肉を感じさせる。それにしても、秋聲という日常生活を描く作家の視線の先。いったい女性の何を見ているのか。やはり、只者ではないのだろうか。
『仮装人物』が描いているのは、関東大震災からの復興の中で元号が昭和に改まり、日本とりわけ東京など大都市が「昭和モダン」と呼ばれる時代を迎えた、昭和2年から4年(1927年~29年)頃、そして作品が書かれ、発表されたのは、1935年7月から1938年8月まで。「経済往来」(35年10月から「日本評論」と改題)に連載された。秋聲が65歳から68歳まで、途中、病気などで何度も休載しながら書き上げたもので、1938年12月に単行本として出版され、翌年1月、第一回菊池寛賞を受けた。
「昭和モダン」
戦後生まれの私にとって、「戦前の昭和」というのは、「戦争」や「弾圧」など暗いイメージがつきまとう。けれども当時を生きた人たち、とりわけ「昭和モダン」を生きた人たちにとって、そうした印象は必ずしも適切ではないようだ。
欧米の文化が入り、自由な雰囲気があふれ、消費生活も華やかになった。電車が伸び、デパートがつぎつぎ開業し、映画、ラジオ、レコード、単行本や雑誌、社交ダンスなど、大衆娯楽が花開き、浮き立つような世の中であった。
当時の流行歌の歌詞を見るにつけ、これが「戦前の昭和」の歌なのかとびっくりさせられる。世界恐慌が始まった1929年の『東京行進曲』では、「ジャズで踊って/リキュールで更けて」「恋の丸ビル」「あなた地下鉄/わたしはバスよ」といった歌詞が踊っており、4番に至っては、「シネマ見ましょか/お茶のみましょか/いっそ小田急で逃げましょか/かわる新宿あの武蔵野の/月もデパートの屋根に出る」。この歌詞を聞いただけでも変貌する新宿へ行ってみたくなる。小田急は1927年に小田原まで全線開通し、向ヶ丘遊園地も開園している。
この「昭和モダン」はまた、秋聲にとって、山田順子との恋愛に翻弄されながらも楽しんでいた時期である。渦中にある秋聲は、『神経衰弱』(1926年3月)から『日は照らせども』(1928年4月)までの二年一カ月の間に、いわゆる「順子もの」と呼ばれる、山田順子をモデルにした短編を29編発表した。この間に秋聲が発表した作品の4分の3が「順子もの」で占められている。
しかし、「昭和モダン」の陰で、軍部の力、自由を抑える力は大きくなり、これに反対する人たちに対する弾圧も強められていった。1931年に満州事変が発生し、1936年には二・二六事件、翌1937年には支那事変から日中戦争へと続いていくことになる。
まさに10年足らずの間に、日本は明から暗へと大きく変わっていった感がある。その途上、自由が失われつつあり、秋聲も老いを感じる中で、「昭和モダン」を見つめた作品が『仮装人物』。それはまた、7年余りの歳月を経て、突然復活した「順子もの」であり、「総集編」として捉えることができる。
世間ではモダアンな新興芸術が、花やかな行進曲を奏している一方、マルキシズムの研究が流行しはじめ、プロレタリアの文学が到るところに気勢を挙げていて、何かあわただしい潮が渦をまいていた。(17)
新興芸術、プロレタリア文学――そういった新らしい芸術運動の二つの異った潮流が、澎湃として文壇に漲って来たなかに、庸三は満身に創痍を受けながら、何かひそかにむずむずするようなものを感じていた。今まで受け容れにくかった外国の作品などが、この年になっていくらか気持に融けこんで来るようなものもあれば、貧弱な自分一人の力で創作することの愚かしさに、思い到らないわけに行かなかった。時とすると生涯の黄昏がすでに迫って来て、このまま自滅するのではないかと思われもしたが、今においていくらかの取返しをつけるのに、まだ全く絶望というほどへたばってしまってはならないのだと思うこともあった。彼は若い時分とはまた違った興味と理解とで、それらの作品に対していた。(21)
秋聲が昭和初頭の文壇の潮流の中で、新興芸術にもプロレタリア文学にも与することができず苦しんでいたことが、この『仮装人物』の一文からも読み取れる。それと同時に、この一文は、「順子もの」に生計の途を求めた渦中の時期を過ぎ、『仮装人物』を書く時期に至って到達した心境を表したものではないだろうか。
秋聲は何を描きたかったのか
書き出しは、社交ダンスが登場するので、1930年3月以降の時期。ふとしたことから梢葉子(順子)と踊った庸三(秋聲)の記憶が一気に1926年1月の妻の死までさかのぼる。ここから物語は時間の経過を追って進行し、最後に1930年3月以降に戻って来る。順子との思い出がサンドウィッチの具のように、二枚のパンの間に挟まっている。そんな構成である。順子との交流は1938年頃まで、ぽつぽつと続いていたようだが、渦中で描いた「順子もの」と明らかに違う状態の秋聲が作品を描いている。
『仮装人物』も秋聲自身の体験をもとに書かれているので、年譜を見れば作品の時代は特定できる。この作品は、きわめて長いものから、短いものまで一定ではないが、1から30までの章で構成されている。
話は1926年1月から始まり、秋聲の視力異状(4月)、順子の故郷に訪ねた(6~7月)出来事に相当する部分が5で描かれている。10は秋、13は11月以降から翌1927年2月。4月に順子は逗子へ転居するが、15にそれが出て来る。4月24日の「朝日新聞」に秋聲と順子の交際が「醜聞的」に報じられ、翌日訂正を申し入れた一件は、19・20で記されている。
大晦日に順子と娘を追い出した件は23に書かれているが、ここに浜口雄幸首相の演説をラジオで聴く場面が登場する。そして、1928年。25~27は、2月から3月頃のこと。28は夏から秋。29は秋。順子は田端から本郷3丁目のアパートに引っ越し、応募する作品を書いているが、ひとりの女性が清書を頼まれて順子のアパートを訪れている。こうして、話は1928年の冬に入る頃で終了する。
一見、すっきりした流れだが、「ちょっと待てよ」。浜口内閣が成立するのは、1929年7月2日で、1927年暮に浜口首相が演説することはありえない。また、14には、清洲橋の完成や、金座通り・浜町公園のかたちが整ってきたという記述がある。14は1927年の春頃を描いたもので、清洲橋完成は一年後の1928年3月。この頃、浜町公園の輪郭もできあがり翌1929年春に開園している。もうひとつ言うと、本郷のアパートに住む山田順子のもとに、口述筆記・清書のため佐多稲子(窪川)が訪れていたのは1929年秋である。当時身重だった稲子は翌年1930年、長男を出産している。
つまりこの作品は、1927年に、27年と28年の出来事、1928年に28年と29年の出来事を押し込め、浜口内閣に至っては1929年を27年にはめ込んでいる。もちろん、『仮装人物』は自伝ではなく、あくまでも創作の「小説」であるから、批判されることではないのだが、秋聲が社会的な出来事をこれほどまでに間違えるとは考えられず、何らかの意図が働いたとみた方が良いだろう。
ではどんな意図が働いたのであろうか。以下、私の推論である。
秋聲の作品は淡々と時を追って進行していく。したがって三年より五年を描く方が、長い作品になる。けれども、『仮装人物』を描く秋聲はすでに五年間を描き切る自信がなかったのであろう。秋聲は作品の長さを三年に設定し、どうしても描きたいことを、その中に詰め込んだと考えられる。
秋聲が描きたかったことのひとつは「昭和モダン」。私は『仮装人物』を「順子もの」の総決算、秋聲と山田順子という男と女の絡みを描いた作品と捉えてきた。そのことは間違っていないかもしれないが、読み込んでいくと、当時の世相、「昭和モダニズム」を詳細に描いていることに気づかされる。
そして、もうひとつ。昭和に入って、昭和4年から5年、つまり1929年から30年にかけての大恐慌(世界恐慌)。その中で、何とか日本を立て直そうとした浜口雄幸首相。一方、民衆の側にあってプロレタリア文学。1929年4月逮捕された窪川鶴次郎の妻となる窪川稲子(佐多稲子)。震災復興、浜口雄幸、窪川稲子。『仮装人物』は男と女の絡みを描きながら、その背景にある日本の社会、世相を描き出している。そしてそれは戦前の作家にとって、ギリギリ最後の機会だった。
すでに日中戦争に突入し、華やかな消費も抑えられ、自由な雰囲気も消えた時代から、不況や震災と言った暗い影を引きずりながらも、華やかで自由だった時代を懐かしむ。自由奔放な恋を生きる順子と秋聲の絡みを描きながら、その時代背景としてのキーワードをしっかり『仮装人物』という作品の中に描き込んでおきたい、そんな思いが秋聲の中にあったのではないだろうか。
今なら年金生活に入る年齢になって、「順子もの」に重ね合わせるように、自由闊達な「昭和モダン」を描こうとした。秋聲にとって、それはせめてもの抵抗であったかもしれない。1941年に書いた『縮図』は結局、途中で連載を中絶することになる。
(2)震災復興から「昭和モダン」へ
戦争景気の潮がやや退き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった。(1)
『仮装人物』は設定時期としては1926年から始まる。大震災から三年経過した頃である。執筆当時から振り返って、「不安の空気は漂って」いないと評している。言い換えれば、執筆当時にはすでに「不安の空気が漂っていた」ことになる。
1923年9月1日に発生した大地震。関東地方一帯にひじょうに大きな被害を与え、関東大震災とよばれるようになった。木造家屋の密集した東京では地震による倒壊よりも、火災による被害がはるかに大きく、当時の東京市の半分近くが焼失したと言われている。
首都東京の被災だけに、その復興は国としても急務で、東京市と連携しておこなわれ、復興計画作成の陣頭指揮に立ったのが後藤新平内務大臣だった。後藤は数カ月前まで東京市長を務めていた。この帝都復興計画は東京の街を大きく造り変えるもので、膨大な予算を必要とした。結局、財源不足、さらに後藤の辞職などによって、計画は大幅に縮小されたが、それでも今日の東京の基礎をかたちづくるものになった。
幹線道路は国によって52本が整備され、とくに新宿と浅草橋を結ぶ道路は拡幅され「大正通り」と呼ばれ(現在の「靖国通り」)、新橋と三ノ輪を結ぶ「昭和通り」とともに、東西・南北の大幹線道路となった。
橋も103橋整備され、とくに隅田川では木橋に代わって、「震災復興橋梁」と呼ばれる鉄橋が9橋つくられた(国によって、両国橋・厩橋・吾妻橋、東京市によって、相生橋・永代橋・清洲橋・蔵前橋・駒形橋・言問橋。なお、言問橋・駒形橋・蔵前橋・清洲橋はこの時に初めて架けられたものである)。
また、「震災復興公園」として、隅田公園・浜町公園・錦糸公園がつくられた。このような幹線道路、鉄橋、公園などは、震災の教訓から、避難路の確保、避難場所の確保、延焼防止などの目的ももって建設された。同潤会アパートをはじめ鉄筋コンクリートの集合住宅も各地に建設され、被災者の住宅確保とともに、復興住宅街の不燃化、延焼防止、などの目的を併せ持っていた。復興事業では、水道管・ガス管・電線・電話線など生活基盤の復興整備も進められ、鉄筋コンクリートのアパートなどとともに、近代化の時流を押し進めるものとなった。
大正の終わりから昭和にかけて、東京は関東大震災からの復興の時期であった。清洲橋や浜町公園の完成と言うのは、復興の一応の完了を示すものとして、秋聲は捉えたのだろう。急速に進められた復興事業は1929年には概ね達成され、10月に「帝都復興展覧会」が日比谷公園で開催された。
『仮装人物』では、こうした復興事業について各所に記述がみられ、秋聲が関心を寄せていたことがうかがえる。作品の流れでは1927年にあたるが、実際には1928年の東京を描いた一文。
世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思いっ切り大規模の清洲橋も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座のあった時分の下町情緒も影を潜め、水上交通が頻繁になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。(14)
これは庸三がしばしば通う大川端にある小夜子の家近辺の描写である。真砂座が出て来るので、おそらく中洲であろう。当時は男橋・菖蒲橋・女橋・中洲橋でつながる島(中洲)になっていた。男橋は大震災で被災し廃止されてしまった。清洲橋とは、清澄と中洲を結ぶところから名付けられた。中洲には隅田川に沿って割烹・料亭などが建ち並び、小劇場の真砂座は中洲の繁栄をもたらしたが、1917年に廃業した。金座通りは浜町を久松警察署の前を通り、浜町公園の北を隅田川に延びる道路で、久松町交差点で清洲橋通りと交差する。
区画整理によって、日本橋浜町界隈も大きく変貌したが、花街の湯島新花町も変貌を遂げていたようで、庸三が葉子と湯島新花町から切通坂を上野広小路へむかう場面は、
二人で旅館を出ると、わざと大通りを避けて区劃整理後すっかり様子のかわった新花町あたりの新しい町を歩いた。そして天神の裏坂下から、広小路近くのお馴染の菓子屋が出している、汁粉屋へも入ってみた。(14)
と描かれている。
(3)「昭和モダン」を描く
昭和モダンとは
「昭和モダン」とは、「昭和時代の初めの1930年代に花開いた、和洋折衷の近代市民文化のこと。現在では、1920年代(大正9年)以後の文化(大正ロマン)をも含む。」(ウィキペディア)。
第一次世界大戦(1914~18年)の戦勝国として、アジア唯一の先進国として、日本では大都市を中心に大衆消費社会が本格化し、旺盛な日本市場を狙って欧米の企業が進出してきた。
1923年9月1日に発生した大地震によって、首都東京をはじめ各地で大きな打撃を受けたが、その復興の中で大衆消費社会も復活を遂げてきた。
1926年、大正から昭和に改元されたが、昭和元年はわずかで、あっという間に昭和2年、1927年を迎えた。
1927年。日本で初めての地下鉄が浅草・上野間に開通し、小田急も小田原まで全通した。ポリドールが日本国内でレコードを製造するようになった。宝塚少女歌劇が「モン巴里」を上演。新宿中村屋はカレーライスを売り出し、松坂屋デパートは食堂の女店員を洋装に。日本橋三越はファッションショウ。パラマウント映画は丸の内に邦楽座を開館。この年の流行語は、「何が彼女をそうさせたか」「チャールストン」「モガ・モボ」「マルクスボーイ」「大衆」「円本」。
1928年には、ハウスカレーが発売され、新宿の武蔵野館が洋画専門映画館として現在地(東口、銀座ライオンむかい)に移転した。初の衆議院普通選挙がおこなわれ、プロレタリア文学の「キャラメル工場から」(窪川いね子)が注目され、日本共産党の機関紙「赤旗」が創刊されたが、一方で日本共産党に対する大弾圧(3・15事件)がおこなわれた。「人民の名において」「マネキンガール」「モン=パリ」「ラジオ体操」などが流行語になった。
世界恐慌の起きた1929年は、『東京行進曲』がヒット。大阪・梅田に日本初となるターミナルデパート「阪急百貨店」が開業。新宿の武蔵野館でアメリカのトーキー映画が日本で初めて封切られた。4月16日には衆議院議員の山本宣治が刺殺された。田中義一内閣に替わって浜口雄幸内閣が登場し緊縮政策を開始した。「カジノ」「ステッキガール」「ターミナル」などと並んで、「緊縮」「大学は出たけれど」なども流行語になり、「国産品愛用」という流行語も目を引く。
タイピスト、バスガール、ウェイトレス(女給)と言った分野での女性の職場進出も盛んになった。デパートも新規開店が相次ぎ、バス、タクシーと言った自動車交通も広がり、自家用車を所有する人も増加した。レストランやカフェも増え、カレーライス、オムライス、カツレツ、お子様ランチまで登場。森永ミルクキャラメル、三ツ矢サイダー、カルピス、ネスカフェのインスタントコーヒー、サントリーの角瓶。この時代からあったのかと驚かされる。
二・二六事件が発生した1936年。大ヒットした『東京ラプソディー』の歌詞には、「銀座」「神田」「浅草」「新宿」といった盛り場の名前が登場し、4番では「夜更けにひと時寄せて/なまめく新宿駅の/彼女はダンサーかダンサーか/気にかかるあの指輪」。「なまめく」という言葉が新宿をよく表しているように思う。東京って、どんな街?1番から5番まで、すべてが「楽し都恋の都/夢の楽園よ花の東京」で締められている。
このような歌が流行っていたにも関わらず、「昭和モダン」は五・一五事件(1932年)、二・二六事件を経過して、終わりを迎える。『仮装人物』は『東京行進曲』の流行った頃が設定時期、秋聲が作品を書いているのが『東京ラプソディー』の流行った時期である。
軍部の動きは増々活発化。政党政治は終わりを告げ、1937年には支那事変から日中戦争へ。1938年には東京オリンピックが中止になり、国家総動員体制。1939年に第二次世界大戦が始まり、1941年に日米開戦。しかし、民衆レベルでは、ここに至るまで、欧米の映画・音楽・服装・演劇、そして洋食や野球は高い人気を持ち続けていた。
西洋音楽とレコード
シャンソン、ジャズ、チャールストン、アルゼンチンタンゴなど大衆音楽が、レコード、蓄音機、ラジオの普及にともなって、多くの人に聴かれるようになった。クラシック音楽でも、音楽家、ピアニスト、歌手などが来日し、草創期のハリウッド映画も人気を博し、アメリカの映画企業も日本に進出。喜劇のチャールズ・チャップリンなども来日した。映画はサイレント映画からトーキー映画へと移り変わっていった。
徳田秋聲記念館、企画展「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~」詳細には、
秋聲の趣味は60歳から始めた社交ダンスですが、そこのいたる前段階には“音楽”そのものへの関心があったようです。幼少期から作家になった後にも、さまざまな形で常に最先端の音楽に触れていた秋聲。大正期、自ら蓄音機を購入してからはレコードの収集をはじめ、いつしか“音楽”は生活の中に溶け込み、また作品を紡ぐうえでも欠かせないアイテムのひとつになってゆきます。
と記されている(企画展|徳田秋聲記念館、企画展「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~」詳細、2019年11月10日~2020年3月22日開催)。
『仮装人物』には、すでに2においてつぎのような場面がある。
庸三も彼女も固くなってしまったところで、葉子を照れさせないために彼は蓄音機を聴きに、裏にある子供の家へ案内した。
彼女とは葉子である。
子供の庸太郎が、喫茶台の上と下に積んであるレコオドのなかから、彼女に向きそうなチャイコフスキイのアンダンテカンタビレイをかけてくれた。音楽のわからない父にも、それがエルマンの絃であることくらい解ることは庸太郎も知っていた。
また、17では、
そのころ大戦の疲弊から、西洋の一流芸術家が、まだしも経済状況の比較的良かった日本を見舞って、ちょうどレコオド音楽の普及しつつあった青年のあいだに、不思議な喝采を博していた。庸三も、ずっと前から軍楽隊の野外演奏の管弦楽や、イタリイのオペラなど聴いたり見たりしていたが、レコオドの趣味もようやく濁みた日本の音曲が、美しい西洋音楽と入れかわりかけようとしていた。エルマンを聴いて、今まで甘酸っぱいような厭味を感じていた提琴の音のよさがわかり、ジムバリスト、ハイフェツなどのおのおのの弾き方の相違が感づけるくらいの、それが古い東洋式の鑑賞癖でしかなかったにしても、この年になって、やっと汗みずくで取り組みつつある恋愛学から見れば、まだしも地についていると言ってよかった。家庭での庸三夫婦と子供との新しい旧い趣味のひところの衝突も、もうなくなっていた。(略)このデネションの前に、それは去年のことだったが、同じアメリカの舞踊団がやって来て、その時も庸三は庸太郎に前売切符を買わせて、座席を三人並べて観たものだったが、新調のシャルムウズの羽織などを着込んだ葉子が一番奥の座席で、隣りが庸太郎、それから庸三という順序で、オーケストラ・ボックス間近に陣取っていた。
ここで触れられているデネションは、デニ・ショウン、つまりアメリカのデニーション(デニスとショーン夫妻)が率いるデニーショーン舞踊団。1925(大正14)年と1926年に来日した(寸々語|徳田秋聲記念館、2017年12月20日)。
映画
庸三はよく出歩いている。末の娘を連れて浅草へ天勝の魔術を見に行ったこともあれば(18)、葉子や小夜子といっしょのこともあった。歌舞伎座が8、11、23、本郷座6、真砂座8、帝国劇場が15、22、寄席が23、29など、明治以来の劇場や寄席も登場するが、昭和モダンの時代、急速に客を集めるようになった映画館もしばしば登場する。葉子は流行の先端を行くだけあって、映画も好きだったようだ。
郊外のホテルのある一夜――その物狂わしい場面を思い出す前に、庸三はある日映画好きの彼女に誘われて、ちょうどその日は雨あがりだったので、高下駄を穿いて浅草へ行く時、(略)映画を見ているあいだ、そっと外套の袖の下をくぐって来る彼女の手に触れたときの狼狽だの、(3)
活動好きな彼女はシネマ・パレスへは大抵欠かさず行くので、彼も電車で一緒に行って見るのであったが、喫煙室へ入ると、いつもじろじろ青年たちに顔を見られ、時とすると彼女の名をささやく声も耳にしたりするので、彼は口も利かないようにしていた。「闇の光」、「復活」などもそこで彼女と一緒に見た無声映画であった。(7)
庸三はわざと一色が知らないようなふうにして、葉子の出て行った前後の話をした。――郵便の消印のことも。「それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。」「南明座かしら。」庸三は幾度も同伴したシネマ・パレスを覗いてみようかと一度は思ったこともあったが、(7)
行方のわからない葉子を捜す手掛かりになるくらい、葉子は映画が好きで、封切りになると、足を運んだようである。23にも、「行きつけの南明座かシネマ・パレス」という記述がある。シネマ・パレスは神田淡路町2丁目、昌平橋すぐそば、外堀通りに面して、現在の神田郵便局向かい辺りにあった。本郷三丁目から歩いても10分ほどのところである。黒澤明監督の兄・須田貞明が弁士をしていたことでも知られる。当時、シネマ・パレスから神田神保町にかけて活動常設館(映画館)が9館あり、シネマ・パレス、神田日活館、東洋キネマ(神田神保町2丁目)の三館は東京でも名門の映画館であった。南明座も神田にあった。30には、
彼女が行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが、
という記述もある。
秋聲は映画について、つぎのようなことも書いている。
まだそのころは映画も思わせぶりたっぷりな弁士の説明づきで、スクリンに動く人間に声のないのも、ひどく表情を不自然なものにしていたので、庸三はわざわざ活動館へ入りたいとは思わなかったし、(7)
14にはシネマ・パレスとともに、武蔵野館の名前も出てくるが、17にはつぎのような記述もある。
彼は何かのきっかけから、人目の少ない銀座のモナミの食堂で、葉子と晩飯を食ったり、新らしく出来あがった武蔵野映画館へそっと入ったりしているうちに、また逗子へも行くことになった。(17)
新宿にある武蔵野館(武蔵野映画館)は1920年に開館したが、1928年、現在地(新宿の銀座ライオンのむかい)に移転して新装開館した。洋画専門で、アメリカのトーキー映画(現在のように音声の出る映画)の日本における最初の封切館である。秋聲はとくに感想を記していないが、こちらの方は気に入ったのではないだろうか。
ラジオ
1925年に本放送を開始したラジオも、急速な進化を遂げていた。1927年には甲子園野球を中継。年末には寛永寺の除夜の鐘中継もおこなわれた。1928年には大相撲実況中継、ラジオ体操。現在も続く定番の始まりがここにある。このラジオの速報性と大衆性に目を付け、日本の首相として初めてラジオ演説したのが浜口雄幸(1870~1931)である。
ちょうど政友会の放漫政策の後を享けて、緊縮政策の浜口内閣の出現した時であった。ラジオは下宿から少し奥へ入ったところの、十字路の角の電気器具商店からだったが、聞きたいと思っていたところなので、彼はステッキに半身を支えてしばらく耳を傾けながら、葉子の姿がもしも見えはしないかと、下宿の方に目を配っていた。(23)
浜口は現在の高知市生まれ。秋聲より二歳上である。1929年7月2日に、明治生まれとして初めて首相になった浜口は、8月28日には、最新のマスメディアであったラジオを使って、国民にむけて直接、自分の政策を訴えた。1930年10月27日などにも演説している。秋聲には浜口のラジオ演説は新鮮で、設定時期に合わないことを承知で、作品の中に描き込んだのだろう。浜口は根回しを嫌い、「ライオン宰相」と呼ばれ、軍縮・緊縮政策を進めようとしたが、1930年11月14日、東京駅で狙撃され重傷を負い、復帰をめざしたが31年4月14日に辞職。その年の8月26日、61歳で亡くなった。
デパート
デパート(百貨店)の始まりは1904年の三越(日本橋)。松坂屋(上野広小路)も1907年、座売りから陳列式の立ち売りに転換。ショーウインドウを設けたり、女性店員を配置したり、漱石が作家として活躍した時代は、日本のデパートの黎明期でもあった。漱石の『虞美人草』も三越と提携され、漱石の作品にも三越は幾度か顔を出す。
つぎのデパートの大きな転換は、大正中期に始まったが、大震災で中断。その復興と「昭和モダン」が重なって、デパートは物品販売だけでなく、市民の憩いの場、文化の発信地として大きな発展を遂げていく。『仮装人物』にもデパート(デパアト)が何か所か登場する。
上野広小路の松坂屋は1929年にルネサンス風の新館を完成。日本初のエレベーターガールも登場。1930年にはお子様ランチも登場させた。
葉子と散歩に出れば、きっと交叉点から左へ曲がって、本屋を軒並み覗いたり、またはずっと下までおりて、デパアトへ入るとか、広小路で景気の好い食料品店へ入ったりした。(7)
庸三は三丁目から電車に乗って、広小路のデパアトへ行ってみた。咲子に何か買ってやろうと思ったのだが、ひょっとしたら子供の手を引いて、葉子がそこに人形でも買っていはしないかという、莫迦げた望みももっていたのだった。(7)
30では、本郷三丁目にある葉子のアパートから上野広小路にある松坂屋デパートの《
額にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが
》見える。葉子はデパートから買って来たコーヒー沸かしのレトルト(コーヒーの蒸留器具、おそらくパーコレーターの類だろう)をもっていて、しきりにコーヒーを沸かしている。
13では、葉子がデパートの外回りの店員を呼び寄せて、派手な友禅ものを部屋いっぱいに広げさせている。どこのデパートかわからない。21では、このような場面がある。
「いつか先生のところに、まつ屋の浴衣があったでしょう。あれ、どうなすって?私一反ほしいわ。」その浴衣地というのは、そのころ誰かの思いつきでデパアトとタイアップで工夫されたもので、作家たちの意匠に成るものであった。庸三も自作の俳句を図案にという註文で、それを葉子が工夫したのであった。
一反を小夜子にやったというので、葉子は激怒、取り返せと迫っている。
松屋は1890年、神田鍛冶屋町今川橋に進出。1907年に本格的デパートメントストアとして歩み始めた。1925年、銀座3丁目に新店舗を開業。下足預かり廃止、カフェテリア式大食堂やツーリストビューローなどの開設、1926年には、当時流行のモガファッションのエレベーターガールなども登場させ、デパートの大衆化におおいに貢献した。22では、庸三が葉子の婚礼衣装を選ぶため、連れ立って高島屋を訪れている。
外食
外食は昭和モダンになって盛んになったわけではないが、デパートをはじめとして、街へ出て来る機会が多くなると、その分、外食の機会も多くなっているように感じられる。
銀座のモナミ(喫茶と食事)は、秋聲お気に入りだったのか、17、18、20で出てくる。モナミは昭和モダンの真っ最中、1927年に銀座7丁目、中央通りに面して資生堂の西側、立田野との間に開業。岡本太郎の母、岡本かの子が名付け親と言われている。
銀座ライオンも2、8に出てくる。サッポロライオンの出発点になる恵比寿ビアホールは1899年に現在の銀座8丁目に開業しているが、2で出て来るライオンは思い出として「白と桃色シャーベット」が登場するので、1911年創業、銀座尾張町(銀座5丁目)のカフェー・ライオンではないだろうか。8で出て来るライオンは、小夜子が最初のライオンの七人組の美人女給のひとりであったと書かれており、銀座竹川町(銀座7丁目)に1918年開業した銀座ビアホール(ビアホールライオン銀座7丁目店前身)と考えられる。
5では千疋屋が出て来る。千疋屋総本店は1834年創業。1868年に果物食堂(後のフルーツパーラー)を日本橋に開業。1881年、のれん分けによって中橋(京橋)千疋屋が誕生している。千疋屋は1925年、銀座松屋にフルーツパーラーを開店しているが、5に出て来る千疋屋は丸ビルの中にあり、京橋千疋屋が1923年に開業したもの。庸三と葉子は松川を東京駅へ送った帰り、丸ビルの千疋屋へ入って、苺クレイムを食べながら、葉子は子どもをせめて一人くらい置いていって欲しいと頼んだがやはり上海へ引き取るらしいと涙ぐんでいる。
22には東京会館が出てくる。庸三、葉子、それに庸三の子ども3人、葉子の子ども瑠美子。2階のレストランで上方風のすき焼きを食べている。東京会館は濠端の日比谷通りに面し、帝国劇場の一軒おいて隣りに建っている。1922年に創業した。庸三は瑠美子にも目をかけているし、葉子も庸三の子どもに優しく接している。この辺の分け隔てのなさには温かいものを感じるが、庶民が6人で食事するとなると、躊躇せざるを得ないので、庸三、つまり秋聲はやはり庶民離れした収入を得ていたことになる。葉子は1週間後、帝国劇場へ行っている。
値段が高いと言えば、23に庸三は12、3年前に日本橋倶楽部へ行ったことが書かれている。大正の初め頃であるが、すでに秋聲は大家であった。日本橋倶楽部は1890年に創業した会員制の倶楽部で浜町にあった(現在は日本橋三越のむかいにある)。
「モダン」だけでなく、鳥料理屋が1、9、18、20で登場する。秋聲は鳥料理が好きだったのだろうか。1は「劇場近くにある鳥料理」としか書いてないので特定できないが、庸三の家からそれほど遠くなさそうだ。9は上野広小路にあった鳥八十という高級な鳥料理屋で、詳しく描写されている。18では行きつけの上野の鳥料理屋。こちらも描写があるが、上野元黒門町の鳥鍋本店と思われる。隣りには窪川稲子が勤めていた清凌亭があった。20では、百花園近くの鳥金。座敷の様子も描かれているが、名物の蜆汁、看板の芋の煮ころがし、そして刺身鳥わさなどのメニューが紹介されている。
美容
この「昭和モダン」の時期。和服に替わって洋服が普及し始め、洋風の髪形も登場してきた。『仮装人物』の主人公庸三は秋聲自身がモデル。それとともにもう一人の主人公葉子は順子がモデルである。この順子はまさに「昭和モダン」を地で行く人物であった。美容にも大いに関心がある順子は、1925年に登場した牛山清人・春子夫妻が経営するハリウッド美容室にすっかり魅せられたようである。ハリウッド美容室ではパーマネントを始めていた。
春子は名前をハルミに変えられたようであるが、メイ・ウシヤマ、メイ・ハルミの名が度々登場する。メイ・ウシヤマの美容室は銀座7丁目にあり、1927年に開業した。
狭いこの町に、ホテルへ客を送ってくる自動車の警笛の音が幾度か響いて、夜も大分更けた時分に、門の前で自動車のエンジンの音がしたと思うと、メイ・ウシヤマで綺麗にウエイブをかけた黒髪をてらてらさせて、濃いめな白粉やアイシェドウに、眉や目や唇をくっきりさせながら、何か型にはまったような美しさで葉子が帰って来た。(16)
「ごめんなさい、ちょっと、ハルミへ寄ったものだから。」(20)
そのころ葉子は美容師メイ・ハルミから持って来た、アメリカの流行雑誌のなかから、自分に似合いそうなスタイルを択んでいたが、一つ気に入ったのがあったので、特に庸三に強請って裂地や釦なども買い、裁断に取りかかっていた。(23)
ある時彼は葉子について、そのころ銀座にあったメイ・ハルミへ行ったが、ちょうどその階下が理髪屋であったところから、葉子がウエイブをかけている間、彼も階下で髪を刈ることにした。しかし頭髪が出来あがった葉子が、いつまで待っていても上がって来ないので、降りて行ってみると、彼は椅子のうえで反りかえって、マニュキュアと洒落れているのだった。(24)
メイ・ハルミと書かれているのが初代メイ牛山(牛山春子)である。それはつぎの一文でわかる。
「先生にいつかお話ししましたかしら、メイ・ハルミのこと。」「いや聞かない。」「そうお。じゃあこれはごく内証よ。お書きになったり何かしちゃ駄目よ。あの人たちの名誉に係ることですから。」「話してごらん、大丈夫だから。」「ハルミさん一昨年の夏とかに、避暑かたがた軽井沢へ美容院の出張店を出していたのよ。そこへおばさんおばさんと言っちゃ、懐いて来る一人の慶応ボオイがあったんですって。するとあの人も、商売がああいうふうに発展すれば発展したで、無論やり手の旦那さまのリイドの仕方も巧いんでしょうけれど、それだけにまた内部に苦しいこともあるものらしいので、ついその青年に殉ずる気持になって、結婚しようと思ったんですって、それでそのことを旦那さまに打ち明けて、今までの夫婦生活を清算してから、一緒になろうとしたものなの。(略)君たちが本当の熱情から愛し合っているのが事実なら、ハルミは今でも譲っていいが、責任をもってハルミを引き受けるだけの自信が、果して君にあるのかどうか、この場で十分我々を納得させるだけの返辞を聴かしてくれたまえ。—-。とそう言われると青年はにわかに怯んで、すみませんと言ったきり、首を俛れてしまった。そしてその瞬間、男性的なマスタアへのハルミの信頼が強められた。(18)
牛山清人・春子の美容室は1926年、軽井沢に進出している。何のことはない。「大丈夫」と言いながら、結局この内証の話を書いてしまった秋聲である。
タクシー・ドライブ
日本における自動車の歴史は1899年に始まるが、1903年には早くも京都でバスが走り、1907年には国産第一号車も誕生。この頃、運転手付き貸自動車も登場した。タクシーは1912年に営業を開始。上野と新橋に営業所があり、T型フォード6台が走った。
奥井正俊『大正・昭和戦前期における自動車の普及過程』(新地理36-3、1988年12月)によると、日本において自動車が急速に普及する最初は、大正末期で、関東大震災で、鉄道と路面電車を失った大震災直後の復興輸送において、自動車の利便性が強く認識されるようになったことが、大きな要因である。自動車生産の面においても、1910年代から、アメリカのフォード、ゼネラルモーターズが大量生産システムを確立し、価格も下がり、こうしたアメリカの自動車会社が1925年から日本国内でも自動車生産を開始した。
こうして、大震災後の、いわゆる「昭和モダン」の時期に、貨物自動車(トラック)とともに、乗合バスやタクシーが普及していく。1924年、東京のタクシーは2100台に達している。当時、料金もバラバラだったが、1924年の大阪に続いて、1926年には東京でも市内均一料金を1円に設定した、いわゆる「円タク」が始まっている。
『仮装人物』では、7ヵ所でタクシー(タキシイ)の利用が登場する。
6では、葉子の郷里へ行った庸三が葉子といっしょに、東京行きの夜行列車を待つ間、A市(秋田市のことであろう)をタクシーで回っている。
7では、雨のひどい日で捜し当てるのに少し時間がかかったが、タクシーで待合を開業した小夜子の許を訪れている。8になると、小夜子と待合で食事をして、タクシーで帰宅。後日、夜に庸三はタクシーで再び小夜子の待合を訪れ、一泊している。翌朝、庸三が風呂へ入って顔を剃っていると小夜子も入って来て、《
男を扱いつけている彼女にとって、それは一緒にタキシイに乗るのと何の異りもなかった。
》と表現されている。別の日にも庸三はタクシーで小夜子のもとを訪れている。庸三の自宅は本郷、小夜子の待合は中洲にある。距離は3kmほどである。
庸三は2、3度、小夜子とタクシーで待乳山聖天へ出かけている。タクシーの中で待っていた時もあれば、いっしょにお参りしたこともある。ある日、庸三は小夜子と歌舞伎を観るためにタクシーで歌舞伎座へ行った。小夜子は永田町を回って欲しいと言い、庸三は後に小夜子が同棲していたドイツ人のグルベー邸へ寄ったことを知る。
9では、庸三は小夜子といっしょに、まだ整備の済んでいない金座通りまで出て、円タクに乗り、神田駅のガード下まで行った。小夜子が易者にみてもらいたいと言ったからである。この作品の設定時期において、円タク「出始め」であった。
21。庸三は渋谷の葉子の家を離れ、市外のとある家(待合か)にいたが、葉子もやって来て、やがて二人の仲が険悪になり、タクシーを呼んで帰ることにした。タクシーを待つ間、庸三は小夜子の待合に行こうと電話をかけたが、
いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。「どこへかけたの。」「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。濡れた葉子の顔の覗いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を尾ける番だった。
今ならテレビドラマなどに時おり出てくるシーンであるが、これは昭和初期の話しである。現実にこのようなことがあったのか、アメリカ映画のシーンにヒントを得たものなのか、当時としては斬新な描写だったのではないだろうか。
25でも小夜子の家へタクシーで行っている。
『仮装人物』を読んでいると、「ドライブ」という表現が5か所で出て来る。
2では、三須藤子と庸三、それに庸三の家の裏に住む弁護士と三人で、芝の狭山小夜子の家までドライブしている。15では、庸三は葉子を連れて、逗子から箱根までドライブしている。15にはつぎのような記述もある。庸三がK―医師とどうしたのか葉子に訊ねている。
「初めは……どこへ行った?」「夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。」「退院してからね。」「そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。」
20では水の好きな葉子に促されて、もやのかかった長い土手(おそらく隅田川の土手であろう)を白髭橋までドライブしている。そして26では、葉子の娘瑠美子の師匠雪枝、庸三、庸太郎、それに小夜子の四人で横浜までドライブしている。
今日、「ドライブ」という言葉は、自分で自家用車を運転して、またはそれに同乗した場合に使われる。しかし、どう考えても、秋聲が自動車を持って運転していたとは思われない。運転手付きの貸自動車(今日では認められていないようだが。)を利用した可能性がある。つぎのような描写があり、それを裏付けている。
去年の秋もたけなわなころ、まだ手術を思い立たない前の彼女をつれて、箱根までドライブしたことがあった。夜も大分遅くなって、痔に悩んでいた彼女はクションの上に半身を横たえてぐったりしていたが、九時ごろに宮の下のある旅館の前へ自動車を着けさせてみると、酒に酔った学生たちが多勢、上がり口に溢れていてわあわあ言っていたので、庸三はにわかに怖じ気づいて、いきなりステップを降りかけようとしてまたクションに納まろうとした。そして運転士に方向を指そうとした途端に、四五人の学生はすでに車の周りを取りまいてしまった。(15)
しかしながら、26ではつぎのような記述もみられる。
さっそく電話で打合せをして、師匠の雪枝と新橋で落ち合って、小夜子と庸三父子と都合四人で半日遊ぶつもりで横浜へドライブしたのは、それから一日おいての午後のことであった。伊勢佐木町の手前でタキシイを乗り棄て、繁華な通りをぶらついたが、幾歳になっても気持の若い雪枝は、子供のように悦んで支那服姿で身軽に飛び歩いていた。
四人は新橋から横浜までタクシーに乗っている。秋聲は自動車に乗って観光的に移動すれば「ドライブ」と表現したのだろう。
アパート
鉄筋コンクリートのアパートも作品の終わり頃に登場する。
三丁目のアパートは、震災後その辺に出来た最初のアパートであった。この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあたかた外貌を整えて来た。巌丈一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や袋戸棚も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の子息が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六帖ばかりで、瓦斯はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の扉を開けると、広小路のデパアトの、額にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に巣喰ったカフエの灯影やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に籠もったように閑寂していた。(30)
三丁目とは本郷三丁目。広小路のデパートは松坂屋。当時最新の鉄筋コンクリートアパートの様子がよくわかる。水道のないのが気にかかるが、今のようにポンプで屋上まで水を引き上げ、タンクに貯めて流下させるシステムがなかったのでやむを得なかったのだろう。震災復興を通じて、家を失った人びとなどに効率的に住宅を提供し、あわせて火災に強い都市を作り出すため、同潤会アパートをはじめ、鉄筋コンクリートのアパート建設が進められた。
この三丁目のアパートはどうであったかわからないが、同潤会アパートは、アール・ヌーボーの後を受けて、1910年代半ばから1930年代にかけて欧米で流行った、機能と美しさを兼ね備えたアール・デコ様式が取り入れられていた。
プロレタリア文学・マルクス主義
1927年、「マルクスボーイ」は流行語の一つであった。その時期を描いた『仮装人物』に、「マルクスボーイ」や「マルクス」や「プロレタリア」と言った語句が登場することは自然な流れである。しかしながら、すでに1933年、プロレタリア作家の小林多喜二が弾圧により生命を落としており、『仮装人物』が執筆された1935年7月から1938年8月までの時期に、これらの言葉を書いたり、発したりすること自体、すでにはばかられる社会になっていたはずである。それにも関わらず、秋聲は「マルクス」や「プロレタリア」という言葉を度々登場させている。
子供と葉子のあいだに文学談が初まり、ジャアナリズムの表面へは出ない仲間の噂も出た。これからの文学を嗅ぎ出そうとしている葉子は、しきりに興味を浚っていたが、彼の口にする青年学徒のなかには、すでに左傾的な思想に走っている者もあって、既成文壇を攻撃するその情熱的な理論には、彼も尊敬を払っているらしかった。「それにあいつは素敵な好男子さ。」葉子はそういう噂を聞かされるだけでも、ちょっと耳が熱して来るほどの恋愛空想家であったが、そのころはまだそんなに勢力をもつに至らなかったマルクス青年の、それが相当新鮮なものであったので、何か颯爽たる風雲児が庸三にも想見されたと同時に、葉子がいつかその青年と相見る機会が来るような予感がしないでもなかった。(14)
この文中、「彼」とは誰かよくわからないが、庸三の長男庸太郎ではないかと思われる。
ちょうどプロレタリア文学の萌芽が現われかけて来たことで、若い人々の文学談にもそんな影が差していたが、話の好きな葉子はことに若い人たちから何かを得ようと、神経を尖らせていた。(15)
ちょうどそのころ、彼はその海岸に住んでいるという、長男の同窓であるマルクス・ボオイの風貌をも、葉子のサルンでちょっと見る機会があった。(18)
彼とは庸三。14で出て来たマルクス青年とこのマルクス・ボオイは同一人物であろう。20では、ホテルの食堂で庸三が葉子に訊ねる。
「君はマルクス勉強するつもりだったの。」庸三は葡萄酒のコップを手にしながら、揶揄い面で訊いてみた。「私がお嬢さんすぎると言うんでしょう。あの人だって坊ちゃんよ。」プロレタリア運動もまた目に立つほど興っていない時分のことで、庸三はマルクスの学説のどんなものだかも知らなかったが、そういった時代の一つの雰囲気には胸を衝かれた。(略)しかしこのマルクス・ボオイもブルジョアの一人息子だけに、葉子が想像したほど、内容にぶつかって行くのは容易でなかった。
後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった。(22)
ここで出てくる「左翼代議士」とは、山本宣治(1889年~1929年)。1928年の衆議院議員選挙京都2区で、労農党(当時非合法の日本共産党が推薦)から立候補して当選。治安維持法改正などに反対。1929年3月5日、神田神保町1丁目103番地にある旅館光栄館で、右翼団体七生義団に所属する黒田保久二によって刺殺された。光栄館の跡地は電気書院になり、現在は東京パークタワーが建っている。この場面の設定時期は1928年で、1935年以降の時期に執筆しているので、「後に」という表現は適切であるが、秋聲は左翼に対する弾圧が強まるなかで、なぜわざわざ山本宣治を連想させる文言を書き込んだのだろうか。この一文の後、この下宿をめぐって、葉子と秋本の関係が語られ、秋本の妻の姉と秋本との同棲が書かれ、その姉というのが今度は《
元救世軍の士官だったという年輩の男のもとへ走ったという事件は、その士官が左翼一方の頭領として、有名だっただけに、この夏ごろの新聞の社会面記事として、世間を賑わしていた。
そして、最終章に至って、
間もなく浄書がはじまり、一人の助手が部屋に現れた。助手は新進のプロレタリア作家の夫人で、その名は庸三も耳にしていたが、紹介されてみて、その純良な婦人であることが解り、そういう仕事もいくらかの生活の補いになるのだと聞いて、その心掛けに敬意を払わないわけには行かなかった。ある時は女二人が一つ蒲団のなかで、睦まじそうに話しながら寝ている傍で、庸三は頭のつかえる押入のベッドのうえに横たわっていた。(30)
愛人の部屋にいる男の描写としては、「いやらしさ」がまったく感じられないのはいったいなぜだろうか。文章からはむしろ若い二人の女性にむけられた温かく、優しいまなざしが感じられる。
現実の世界で、この本郷三丁目のアパートの一室に、小説の清書のために山田順子を訪ねてやって来たのは、窪川稲子(佐多稲子)である。1929年。しかしこの場面を書いているのは1938年。すでに1933年、小林多喜二は弾圧によって築地署で死亡。1936年、稲子は長編『くれなゐ』を書いて名声を得たものの、親交のあった中條(宮本)百合子は懲役2年(執行猶予4年)の有罪判決を受けており、プロレタリア文学の道を歩む作家に人間的なまなざしをむけること自体、かなり危険な状況になっていたのである。秋聲があえて書いたのか。それとも自然な流れの中で、なんの躊躇もなく書いたのか、私にはわからない。
秋聲は、身の回りの生活や家族、女性にだけ関心を寄せていたかというとそうではない。政治に関心があった。秋聲は1930年、石川県第一区から社会民衆党候補として立候補を要請された。結局、周囲の反対などもあって立候補は見送られたが、秋聲が政治的関心をもっていたからこそ、要請され、本人も心動いたのであろう。
(4)「昭和モダン」の頃の東京
「昭和モダン」の頃の東京については、《2.震災復興から「昭和モダン」へ》、《3.「昭和モダン」を描く》、において詳しく記したので、いくつかの地域の特徴をまとめておきたい。
「昭和モダン」の先端をゆく銀座
日本橋から始まる東海道にあたる中央通り。京橋を渡ると銀座1丁目。ここから銀座が始まる。3丁目東側に松屋デパート、中央通りと晴海通りが交差する4丁目交差点(尾張町交差点)の北東角に三越デパート、北西角に服部時計店、その北隣に木村屋パンがある。交差点を越えると、銀座の町名は消えるが、1930年に尾張町が銀座5丁目・6丁目、竹川町が7丁目、出雲町と南金六町が8丁目になり、6丁目東側に松坂屋デパート(現在、銀座シックス)、7丁目の西側には資生堂、「花椿通り」を挟んで8丁目にも資生堂。8丁目が終わると新橋を渡る。大きな変貌を遂げる銀座において、これらの店舗はその位置を変えていない。『仮装人物』が書かれた当時、銀座はすでに8丁目まであったが、設定時期には4丁目までで、「銀座八丁」になっていなかった。
繁華街の代名詞になった銀座は「昭和モダン」の象徴のようなところで、庸三や葉子たちは、デパートや食事の場所をたびたび訪れており、また葉子はとくに美容のために銀座へ足を運んでいる。銀座という地名は、2、5、8、11、14、15、16、17、23、25、26など、たびたび登場する。また、24には、
「あのね、ママは今日ね、私と一緒に銀ぶらに行ったの。だけどママはほかへまわることになったの。それで北山さんに電話をかけて私を連れに来てもらったの。」
という、葉子の娘瑠美子が庸三に語る一節に「銀ぶら」という表現がある。
店名では、銀座ライオン(2、8)、モナミ(18、20)、メイ・ウシヤマあるいはメイ・ハルミ(16、18、20、24)、また歌舞伎座が11、23、芸術的写真屋という表現で5に、そねのスタジオという表現で15に写真屋が出て来るが特定できない。デパートとしては松屋の名が出て来るが、訪れた話ではない。
秋聲は周知のことであり書くに及ばないと思ったのか、銀座に関して長く細かな描写はおこなっていない。お玉さんというハインツェルマンと同棲する女性が銀座へ行った時の描写が目を引く程度である。
銀座でお玉さんは、行きつけの化粧品屋へ入って、ルウジュやクリイムなんかを取り出させて、あれこれと詮議していたが、結局何も買わずに出てしまうと、今度は帽子屋へもちょっと入ってみた。何といってもつつましやかな暮らしぶりらしく、物質を少しも無駄にしないというふうであった。長く銀座をぶらつくということもなく、主人の帰る時刻になると、じきに電車で帰って行った。(17)
葉子も好きな神田
神田は明治以来、さまざまな商店に混じって、書店ができたり、寄席ができたり、観工場などもあった。神田は当時、銀座と並ぶ東京屈指の繁華街だった。大震災後、幹線道路が拡幅され、「昭和モダン」を通じて映画館や喫茶店なども増加した。庸三は神田をたびたび訪れており、映画の好きな葉子も頻繁に神田へ出かけている。
7では姿を消した葉子から手紙が来て、スタンプが猿楽町局のものとわかり、庸三は翌日の午後、葉子を探しに神田へやって来た。庸三の末娘の咲子が葉子に懐いて、求めていることも葉子を探す原動力になっていた。駿河台から小川町の広い電車通りへ出て神保町方向へ歩く庸三は、下宿時代の神田を
近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は寄席へ入って、油紙に火がついたように、べらべら喋る円蔵の八笑人や浮世床を聴いたものだった。
というように思い出していた。フルウツ・パラアは須田町にあった「万惣」、寄席はその隣にあった神田立花亭ではないだろうか。神保町の裏通りの変貌ぶりはつぎのように記されている。
神保町の賑やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の変貌は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り潰されていた。
この界隈の様子は、23にさらに詳しく描かれている。
表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具店や、支那料理などの目貫の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並べ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。
さらに庸三の若い時分と違って、寄席に入っても円蔵や三馬のような噺家がおらず、雰囲気もがらりと変わっていたと続けられている。神田の裏通りとは、すずらん通りであろう。かつてはこちらが表通りであったが、靖国通りができてから裏通りになってしまった。名高い大きな書店とは三省堂書店と考えられ、文房具店は文房堂であろう。
庸三が住む本郷
庸三のモデルは秋聲自身だから、自宅は本郷森川町に設定されたと考えられる。したがって、交通においても商店においても本郷の中心である本郷三丁目(作品では三丁目としか書かれていない)が、しばしば登場する。
5では、葉子が庸三の娘たちをつれて、三丁目先の名代の糸屋で毛糸を買っている。7では、庸三が葉子の宿泊していた旅館の前を通り過ぎ、三丁目の交差点へ来ている。この辺りが生活買物圏であったことがつぎの一文からもわかる。
この辺は晩方妻とよく散歩して、庸三のパンや子供のお弁当のお菜や、または下駄とか足袋とか、食器類などの買い物をしつけたところで、愛相のよかった彼女にお辞儀する店も少なくなかったが、葉子をつれて歩くようになってから、下駄屋や豆屋も好い顔をしなくなった。(7)
庸三と葉子は散歩に出ると、三丁目の交差点で左折して、本屋をのぞいたり、湯島の切通坂を下りて広小路まで出て、デパートに入ったり、食料品店に入ったり、寄席に入ることもあった。庸三はまた、娘の咲子を連れ、電車で広小路のデパートに行ったり、葉子と電車で神田へ出て、シネマ・パレスへ行くこともあった。27では、庸三のもとに葉子から、三丁目にいるので会いに来てくれるよう電話がかかってきた。
本郷は銀座や神田と違って、「昭和モダン」の波があまり押し寄せていないように感じられる。しかしながら、29で葉子が引っ越して来た三丁目のアパートは、30に描写されているように大震災後建てられた鉄筋のモダンなアパートで、その周辺の裏町にはカフェができたり、レコードの音が流れたり、「昭和モダン」がわずかばかり顔をのぞかせている。
小夜子が生きる中洲
東京に住んでいる人たちでも、中洲へ行ったことのある人はけっして多くないだろう。中洲とはいったいどのようなところなのか、庸三が小夜子の待合へ通った当時を思い描きながら歩いてみたい。
中央区のコミュニティバス「江戸バス」北循環で東京駅八重洲口を出発すると、日本銀行の横、コレド室町前、江戸通りを小伝馬町駅、清洲橋通りを横山馬喰町駅と回って、浜町1丁目で下車。金座通りを横切り、明治座前から左へ折れると浜町公園。前で右折して新大橋通りを横断してまっすぐ進むと、目の前に首都高速道路の高架が見えて来る。首都高はかつての水路を通っている。鍵の手に進んで高架下は、大震災前まで男橋が架かっていたところで、両側が公園になっている。ここから先が中洲であるが、マンションが建ち並び、狭苦しい道を抜けて清洲橋の袂に出るとホッとする。ここから川上に向かってながめた大川端(リバーサイド)はゆるやかに弧を描いているが、おそらくこの辺りに小夜子の待合が設定されているであろう。庸三が初めて小夜子の待合を訪れた時の様子は、
薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた。(7)
大きな橋は清洲橋、煙を上げるのは対岸にある深川セメント(浅野セメント)であろう。
ある日庸三は、小夜子の家の、水に臨んだ部屋の一つで、ある大新聞の社会面記者と会談していた。(略)二三日してから、ある晩もまた庸三は小夜子の家で遊んでいた。彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋あたりの夜景を眺めていたが、にわかに廊下へ呼び込まれた。(19)
清洲橋の碑文を読んで、隅田川テラスへ降り、橋をくぐって清洲橋通りの向こう側に出て、信号を左折。「江戸バス」の中洲バス停を過ぎると、左側一帯が日商岩井日本橋浜町マンション(日吉回漕店中洲倉庫跡)で、「真砂座跡」に碑がひっそりと建っている。真砂座は1893年に開業し、1906年11月には『吾輩は猫である』も初演されている。そのような真砂座も、1917年には早くも廃業され、中洲の賑わいも下降線をたどっていった。庸三が訪れた時代、立派な清洲橋が姿を現したものの、中洲は「昭和モダン」の喧騒から取り残された地域になっていたと思われる。秋聲は『仮装人物』で銀座や神田と対比的に中洲を描いた。言い換えればこの二つの地域を自分の中に持ち合わせているのが秋聲と言えるのではないだろうか。
真砂座跡の碑から少し行くと、左側に東京都下水局箱崎ポンプ場がある。ここが中洲南側の水路跡で、かつて中洲橋が架かっていた。これで中洲探訪は終わりを告げるが、清洲橋を渡って左手へ折れ、小名木川に架かる萬年橋まで来ると、隅田川の向こうに中洲が見える。庸三が小夜子の待合から眺めたと反対方向から、眺めていることになる。トルナーレ日本橋浜町の高層ビルが中洲の背景のようにそびえている。
(5)上京した葉子
葉子が山田順子をモデルにしたことは明らかなので、葉子の上京目的は「作家として世に出る」ことである。上京した鏡花や秋聲が紅葉に頼ったと同じように、葉子は庸三を頼ったのであろう。「恋愛の卵巣」と化している葉子は、結局、つぎつぎと男に惚れては去り、惚れては去る生活を繰り返しているうち、作家として成功することなく、秋聲の「順子もの」の中に痕跡をとどめることになってしまった。
葉子の故郷は秋田。上京しても作家で生活することはできない。生活の糧のために働きに出ることもない。男に食べさせてもらうにしても、長続きしない。幸い、秋田の実家は資産家で、葉子は何かにつけ帰郷している。そのありさまは、
彼女は十六時間もかかる古里と東京を、銀座へ出るのと異らぬ気軽さで往ったり来たりするのであった。(6)
と表現されている。三文豪ともに、上京の初期は何度も帰郷しているが、その比ではなかったようだ。
そのような葉子は逗子に住んだこともあるが、田端、本郷、神田、富士見町などに転々としながら、どうやら渋谷に落ち着いたようで、作家として成功しなかったが、葉子は、いや順子は、やはり東京から離れることができなかった。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
野田宇太郎:作家と作品徳田秋声
(掲載『日本文学全集8徳田秋声集』、集英社、1967年)
【ネット公開】
国立公文書館アジア歴史資料センター:『近代日本のこんな歴史』
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