日本における自動車の歴史は1899年に始まるが、1903年には早くも京都でバスが走り、1907年には国産第一号車も誕生。この頃、運転手付き貸自動車も登場した。タクシーは1912年に営業を開始。上野と新橋に営業所があり、T型フォード6台が走った。
奥井正俊『大正・昭和戦前期における自動車の普及過程』(新地理36-3、1988年12月)によると、日本において自動車が急速に普及する最初は、大正末期で、関東大震災で、鉄道と路面電車を失った大震災直後の復興輸送において、自動車の利便性が強く認識されるようになったことが、大きな要因である。自動車生産の面においても、1910年代から、アメリカのフォード、ゼネラルモーターズが大量生産システムを確立し、価格も下がり、こうしたアメリカの自動車会社が1925年から日本国内でも自動車生産を開始した。
こうして、大震災後の、いわゆる「昭和モダン」の時期に、貨物自動車(トラック)とともに、乗合バスやタクシーが普及していく。1924年、東京のタクシーは2100台に達している。当時、料金もバラバラだったが、1924年の大阪に続いて、1926年には東京でも市内均一料金を1円に設定した、いわゆる「円タク」が始まっている。
『仮装人物』では、7ヵ所でタクシー(タキシイ)の利用が登場する。
6では、葉子の郷里へ行った庸三が葉子といっしょに、東京行きの夜行列車を待つ間、A市(秋田市のことであろう)をタクシーで回っている。
7では、雨のひどい日で捜し当てるのに少し時間がかかったが、タクシーで待合を開業した小夜子の許を訪れている。8になると、小夜子と待合で食事をして、タクシーで帰宅。後日、夜に庸三はタクシーで再び小夜子の待合を訪れ、一泊している。翌朝、庸三が風呂へ入って顔を剃っていると小夜子も入って来て、《
男を扱いつけている彼女にとって、それは一緒にタキシイに乗るのと何の異りもなかった。
》と表現されている。別の日にも庸三はタクシーで小夜子のもとを訪れている。庸三の自宅は本郷、小夜子の待合は中洲にある。距離は3kmほどである。
庸三は2、3度、小夜子とタクシーで待乳山聖天へ出かけている。タクシーの中で待っていた時もあれば、いっしょにお参りしたこともある。ある日、庸三は小夜子と歌舞伎を観るためにタクシーで歌舞伎座へ行った。小夜子は永田町を回って欲しいと言い、庸三は後に小夜子が同棲していたドイツ人のグルベー邸へ寄ったことを知る。
9では、庸三は小夜子といっしょに、まだ整備の済んでいない金座通りまで出て、円タクに乗り、神田駅のガード下まで行った。小夜子が易者にみてもらいたいと言ったからである。この作品の設定時期において、円タク「出始め」であった。
21。庸三は渋谷の葉子の家を離れ、市外のとある家(待合か)にいたが、葉子もやって来て、やがて二人の仲が険悪になり、タクシーを呼んで帰ることにした。タクシーを待つ間、庸三は小夜子の待合に行こうと電話をかけたが、
いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。「どこへかけたの。」「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。濡れた葉子の顔の覗いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を尾ける番だった。
今ならテレビドラマなどに時おり出てくるシーンであるが、これは昭和初期の話しである。現実にこのようなことがあったのか、アメリカ映画のシーンにヒントを得たものなのか、当時としては斬新な描写だったのではないだろうか。
25でも小夜子の家へタクシーで行っている。
『仮装人物』を読んでいると、「ドライブ」という表現が5か所で出て来る。
2では、三須藤子と庸三、それに庸三の家の裏に住む弁護士と三人で、芝の狭山小夜子の家までドライブしている。15では、庸三は葉子を連れて、逗子から箱根までドライブしている。15にはつぎのような記述もある。庸三がK―医師とどうしたのか葉子に訊ねている。
「初めは……どこへ行った?」「夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。」「退院してからね。」「そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。」
20では水の好きな葉子に促されて、もやのかかった長い土手(おそらく隅田川の土手であろう)を白髭橋までドライブしている。そして26では、葉子の娘瑠美子の師匠雪枝、庸三、庸太郎、それに小夜子の四人で横浜までドライブしている。
今日、「ドライブ」という言葉は、自分で自家用車を運転して、またはそれに同乗した場合に使われる。しかし、どう考えても、秋聲が自動車を持って運転していたとは思われない。運転手付きの貸自動車(今日では認められていないようだが。)を利用した可能性がある。つぎのような描写があり、それを裏付けている。
去年の秋もたけなわなころ、まだ手術を思い立たない前の彼女をつれて、箱根までドライブしたことがあった。夜も大分遅くなって、痔に悩んでいた彼女はクションの上に半身を横たえてぐったりしていたが、九時ごろに宮の下のある旅館の前へ自動車を着けさせてみると、酒に酔った学生たちが多勢、上がり口に溢れていてわあわあ言っていたので、庸三はにわかに怖じ気づいて、いきなりステップを降りかけようとしてまたクションに納まろうとした。そして運転士に方向を指そうとした途端に、四五人の学生はすでに車の周りを取りまいてしまった。(15)
しかしながら、26ではつぎのような記述もみられる。
さっそく電話で打合せをして、師匠の雪枝と新橋で落ち合って、小夜子と庸三父子と都合四人で半日遊ぶつもりで横浜へドライブしたのは、それから一日おいての午後のことであった。伊勢佐木町の手前でタキシイを乗り棄て、繁華な通りをぶらついたが、幾歳になっても気持の若い雪枝は、子供のように悦んで支那服姿で身軽に飛び歩いていた。
四人は新橋から横浜までタクシーに乗っている。秋聲は自動車に乗って観光的に移動すれば「ドライブ」と表現したのだろう。