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1.ふるさと金沢
鏡花・秋聲・犀星という三文豪を生み出した金沢とは、どんな街なのか。そこで少しばかり金沢の街について紹介しておきたい。
加賀藩、前田家100万石の城下町金沢の背後には、白山連山が屏風のように連なり、医王山(いおうぜん)が戸室山を従えてどっしりと構えている。その山々から流れる二筋の川は、卯辰山(向山)と小立野台地の間を流れる浅野川、小立野台地と寺町台地の間を流れる犀川。「女川」と表現される浅野川は平野部に出ると、河北潟へ流入した後、大野川として日本海へ注ぐ。「男川」と表現される犀川は浅野川にくらべ川幅も広く、平野部に出ると、やがて金石で日本海へ注ぐ。
小立野台地の先端が金沢城で、城のまわりに城下町金沢が形づくられた。北國街道(北陸道)を金沢の城下に入り、犀川大橋を渡る手前に「西の廓(にし茶屋街)」があり、すぐ近くに犀星が過ごした雨宝院がある。城の西から北へ進んだ北國街道が浅野川大橋を渡る手前を橋場と言い、鏡花の生まれたところである。浅野川大橋を渡ると、「東の廓(ひがし茶屋街)」がある。犀星と鏡花はまさに、金沢の街の対をなす場所に生まれたことになる。秋聲の生まれた横山町は城の東にあり、鏡花の生家から歩いても10分足らずで行けるところである。「加賀八家」とよばれる加賀藩重臣の家はいずれも石高1万石を超え、大名に相当する石高であったが、その中でも、本多、長、横山各家は3万石を超え、いずれも金沢の町名に名を留め、武家屋敷が多い地区である。
秋聲、鏡花が生まれた明治の初め頃、金沢の人口はおよそ12万人で、江戸・大坂・京都につぐ人口規模で、名古屋と並ぶ、当時の大都市であった。金沢は武家が人口の半数を占め、幕藩体制崩壊は経済的にも大きな影響を与えた。とくに加賀藩が明治政府樹立に際して協力的でなかったということで、一時県庁が金沢を離れ、県名も金沢県とされなかった。犀星が生まれたとされる1889年に市制が施行されたが、1897年の金沢市の人口は8万人にまで減少していた。それでも、1887年に第四高等中学校(1894年、第四高等学校に改称)が設立され、1898年、鉄道(北陸線)が開通すると、陸軍第9師団司令部が置かれ、北陸の中心としての地位を確立するようになっていった。
背後に山々が遠近法をなして連なり、前面に平野がひろがり、山野が不思議な均衡を保っている。その境界に発達した金沢の街に、二筋の清流と台地が街のたたずまいに変化をもたらしている。鏡花と秋聲は浅野川を、犀星は犀川を見て幼少期を過ごした。黒光りする屋根瓦、用水に架かる小橋、曲がりくねった狭い道。どっしりと構えた城下町金沢は街が大きく感じられる。
第四高等学校に入学し、金沢へやって来た井上靖は、今まで見て来た静岡県内の街とくらべ、あまりの違いにびっくりしている。それもそのはず。幕末から明治初期の金沢の人口は12万人で、静岡県庁が置かれる静岡市は2万人だった。江戸(東京)・大坂(大阪)・京都の三府を別格に、人口10万人の名古屋と肩を並べていたのである。
真宗王国金沢では、浄土真宗の再興を果たした蓮如上人は「蓮如さん」と親しく呼ばれ、真宗の教えがどのようなものかわからない子どもの私にも、蓮如上人は身近な存在だった。私が母親に背負われて、初めてテレビの実験放送を観たのは、旧制第四高等学校の煉瓦づくりの校舎。子ども絵画教室で、東京からやって来た有名な先生方から絵の手ほどきを受けたのは、美術工芸大学の煉瓦づくりの校舎(当時)。戦災に遭わなかった金沢は、百年、二百年の歴史が重ねられ、独特な魅力が多くの観光客をひきつけている。
私は金沢で生まれ、美しい景観と、歴史や文化を身近に感じながら子ども時代を過ごすことができ、金沢を故郷にもつことができ、とても幸せだと思っている。
ところで、金沢から東京へ来て嬉しいことは、東京の中に金沢があることだ。もともと江戸・東京というのは、地方の寄せ集めみたいなもの。そんな考え方もできる。江戸時代には全国各地の大名が呼び集められ、明治政府も薩摩だ、長州だ、と各地から人材が集められ、あるいは集まって来た。しかしながら、東京の地名に関して言えば、地方を印したものは、例えば、駿河府中(駿府)から幕臣が移り住んだ駿河台、老中首座阿部正弘を生み出した福山藩邸へ続く福山坂、盛岡藩南部家の屋敷があったことから名づけられた南部坂などあるが、それほど多いわけではない。そのような中で、加賀藩だけ群を抜いて江戸・東京の地に名を刻み込んでいるのである。
板橋区の地図を見てみよう。加賀という町名や、金沢小学校などという名前を目にする。すぐそばには、中山道の板橋宿がある。中山道から北國街道を経て、加賀藩の城下町金沢へ通じている。前田家の大名行列が通った道で、加賀の地名は加賀藩下屋敷があったことに由来する。板橋宿は江戸の玄関口のひとつである。加賀藩下屋敷は1679年、5代藩主前田綱紀が拝領したもので、最終的には21.7万坪、東京ドーム15個半の広さになったという。下屋敷は火災時の避難場所、別荘としての役割をもっていたが、板橋宿に隣接するため、国許からの物資受け渡し、見送り・出迎えの場としても活用された。常駐するのは50人程度の下級武士だったと言われている。
江戸時代の地図を見ていると、神田明神下に金沢町という町名を目にする。現在は外神田三丁目に含まれる。もともと東本願寺の境内だったが、明暦の大火後、前田家中屋敷になり、1683年、屋敷が本郷に移転すると、湯島1丁目の代地として、金沢町と名づけられた。したがって、町の起立は1684年ということになる。すぐ横を中山道が通っている。
そして、何と言っても有名なのは、東京大学(本郷キャンパス)。この地はもともと加賀藩前田家の下屋敷だったが、1683年に上屋敷になり、10万坪を超える敷地を有していた。いわゆる東大の「赤門」は御守殿門、漱石の『三四郎』に登場し、「三四郎池」とよばれるのは、前田家屋敷内庭園(育徳園)の心字池である。屋敷の前を中山道が通っている。屋敷のまわりには、金沢からやって来た菓子職人も住みつき、銘菓がつくられ、1626年創業の藤村は羊羹で有名になり、漱石の『吾輩は猫である』にも登場する(1996年頃閉店)。さらに、加賀藩中屋敷は本駒込6丁目、六義園と中山道の間にあった。中屋敷は、隠居した藩主、先代の夫人、当主の子女などの住居として使用されていた。
本郷に接して「白山」という地名を目にする。白山神社に由来する地名だが、もちろん故郷は加賀・白山。もともと白山神社は植物園のところにあったが、5代将軍綱吉が館林藩主時代に屋敷(白山御殿)をつくるため、現在地に移転され、すぐそばを中山道が通っている。白山御殿は綱吉が将軍に就任後、御薬園となり、現在は小石川植物園。
こうしてみると気がつくが、加賀・金沢由来の施設や地名は中山道沿線にみられる。東京における加賀・金沢は、金沢を故郷にもつ人間にとって、東京もまた故郷と感じさせるのである。鏡花はもちろん金沢出身であるが、母親はまさしく東京の金沢ゆかりの地に生まれており、鏡花の上京は、東京への里帰りと言っても良い。どういうわけか、鏡花も犀星も東京大学卒業生を何人も親友としてもっており、秋聲は東京大学のすぐ近くに自宅を構えた。
鏡花・秋聲・犀星の三人は最初の上京から亡くなるまで、断続に差があるものの、ほぼ半世紀を東京で暮らしている。それに対して、私は一度も東京に住むことなく過ぎてきた。それだけに、私にとって、「東京」は特別な響きをもち、つねに憧れと夢が東京にはあった。そしてそれは今もけっして変わることがない。北陸新幹線ができて、東京駅で「金沢行き」の表示を見るのは、嬉しいような、懐かしいような、場違いのような、不思議な思いにかられる。時間的には確かに近くなった。
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