このページのPDF版はコチラ→
1.おいたち
秋聲二歳の1873年11月4日、清次・すずの長男として鏡花(本名、鏡太郎)が生れた。
私が子どもの頃、金沢の街には市電が走っていた。金沢駅から私が住む小立野までは、系統1番の電車を利用する。武蔵が辻交差点を過ぎ、丸越百貨店と近江町市場の間を通り、尾張町を過ぎて、橋場交差点にさしかかる手前左に、お菓子の老舗「森八」があった。二代目森下八左衛門が菓子屋を創業したのは、江戸時代初めの1625年。落雁の「長生殿」、塩餡を餅で包んだ「千歳」、そして重厚感ある「黒羊羹」。これが「森八」の江戸時代からの伝統菓子。全部、私は大好きである。
「森八」の横に、ひっそりと「泉鏡花生誕」の碑が立っていた。金沢に生まれたからには、子どもながらも、いちおう鏡花の名を知ってはいたが、おもしろいものでもなく、まじまじと眺めたことはない。「森八」は2011年、少し南の大手町に移転し、旧店舗跡には「金沢美術工芸大学柳宗理記念デザイン研究所」が建っている。柳宗理は柳宗悦の長男で、長年金沢美大で教え、1977年からおよそ30年にわたって日本民藝館の館長(三代目。初代は父親の宗悦)を務めた。日本民藝館は東京の駒場公園(旧前田侯爵邸跡)に隣接して建てられている。話しは東京まで行ってしまったが、この「旧森八」の裏手、つまり北側に「泉鏡花記念館」が建っている。鏡花生誕地、下新町(下新丁)23番地にあたる。
江戸から明治にかけて、記念館前の道の両側が下新丁、武蔵が辻に近い辺りが上新丁とよばれていた。市電を通すために拡幅された尾張丁の道も、かつては下新丁と同じくらいの道幅であった。鏡花が生まれた頃、橋場交差点などなく、下新丁・尾張丁の道から用水を渡ると、浅野川大橋へ通じる道に出た。
橋場というと、私は「森八」とともに、石川県里程元標を思い出す。鏡花が生まれた1873年、全国府県庁所在地の主要街道の交通要所に起点元標が建てられ、ここから府県内の町村に至る距離が測定された。「石川縣里程元標加賀國金澤尾張町」と彫られた石碑には、横に回ると「野々市へ一里三十一町二十四間」「南森下へ一里二十五町三十間」と刻まれている。野々市から犀川大橋を渡り、香林坊・武蔵が辻・橋場から浅野川大橋を渡って森本へ。北國街道のルートであり、後の国道八号線のルートである(現在の国道八号線は市街地をバイパス)。
鏡花の父清次は加賀藩の仕事も引き受ける、政光という工名を有する彫刻・象眼の職人。母すずは、江戸における加賀藩お抱えの葛野流太鼓師中田万三郎豊喜の末娘(『人間泉鏡花』p13。なお、すずに妹がいたという説もある)。1868年、戊辰戦争が始まり、江戸に戦火が及ぶとの不安が高まる中、すず一家は金沢に移住した。つまり、江戸の金沢から、加賀の金沢へ転じたのである。結局、幾多の困難を乗り越えて、江戸無血開城が実現し、江戸が戦火に焼かれる状況は回避された。
巖谷大四は『人間泉鏡花』(p13)において、すず(鈴)が1854年に神田明神下の加賀藩下屋敷で生まれたとしている。もちろん、加賀藩屋敷が移転し、1684年に金沢町が成立しているので、この記述は誤りで、「金沢町で生まれた」が正しい。「江戸下谷の生まれ」と記しているものもあるが、当時、一帯が下谷とよばれていたので、金沢町も下谷に含まれる。現在、上野広小路と言われる地名も、江戸時代には下谷広小路とよばれていた。そう言えば、「森八」の女将中宮紀伊子も東京下町育ちだったと記憶している。
泉家祖父は庄助といって足袋屋を営み、裁縫の名人であった。祖母きての実家は横安江町9番地で代々針の製造販売をおこなう目細家であり、鏡花は職人と芸人の血を受け継いだということができるだろう。鏡花の後、一男二女が生れている(弟豊春は1880年生)。秋聲のように「影の薄い生」でもなければ、犀星のように「闇から闇へ葬り去られる生」でもなく、両親そろった家庭に生れることができた鏡花であったが、1882年、九歳の鏡花は母すずを失う。ちなみに、鏡花が師と仰ぐ紅葉も、五歳で母を失っている。紅葉の母庸が亡くなったのは、鏡花が生れる前年である。
鏡花は1880年に養成小学校(この時期、養成小学校はたびたび校名を変えており、当時は東馬場養成小学校)に入学し、1884年、金沢高等小学校に入学した。秋聲は入学が遅れたため、二年下の鏡花と同じ年、同じ高等小学校に入学することになった。このように秋聲と鏡花は同じ学校を歩んできたが、高等小学校入学から1年足らずで、鏡花は北陸英和学校に転校した。
北陸英和学校は、今日、幼稚園から大学まで有する北陸学院の源流にあたり、中原中也は北陸学院の幼稚園卒園生。私自身も卒園生のひとりである。そのようなことから、北陸英和学校について、どうしても触れておかなければならない。
トマス=ウインがヘボン式ローマ字つづりで有名なヘボン博士の紹介で、石川県中学師範学校(後、第四高等学校)の英語教師として金沢に赴任したのは1879年。ウインは二年前に来日し、横浜で日本語を学んでいた。ウインは夫人、一歳の長女、その他、ミセス・ツルーと養女、林清吉夫妻、出口せい他と金沢にやって来た。ウインは県令千坂高雅の許可を得て、キリスト教伝道もおこなった。今日では、親鸞の教えとイエスの教えは似ていると言われるが、「真宗王国」と言われる金沢での布教は容易ではなかった。それでも、秀吉のキリシタン禁令によって迫害を受けたキリシタン大名高山右近が、前田利家の客将として金沢へ逃れ、金沢城の修築に関わり、南蛮寺(キリスト教会)が建てられたことがあるなど、歴史的にキリスト教と無縁の地ではなかった。私も調査したことがあるが、灯篭や墓などに、十字架や聖母マリアが忍ばされているものがいくつも発見されている。金沢にも「隠れキリシタン」がいたことになる。
こうして、翌1880年、鏡花が小学校に入学する年には、前田藩の上級武士だった長尾八之門はじめ7名が洗礼を受け、クリスチャンになった。ウインはさらに男子を対象にした「愛真(アイシン)学校(真愛学校との記述もみられる)」を1883年に設立した①。仮校舎が大手町2番地に置かれ、その年、殿町56番地に移転。さらに翌年に長町、その翌年の1885年には広坂通り13番地に二階建て校舎を新築。「北陸英和学校」と改称した。鏡花は高等小学校入学1年足らずで「北陸英和学校」に転校した。転校の理由は、授業料を払うことができなかったためと言われ、「北陸英和学校」は授業料を取らなかった。
小林恵子は『日本の幼児教育につくした宣教師』に、つぎのように記している。
この学校の卒業生には文部大臣になった中橋徳五郎、小説家の泉鏡花などすぐれた人材を輩出しており、泉鏡花はこの学校で学んだことを『名媛記』ほかの小説に記している。
当時、全国各地でキリスト教系の学校が設立されており、国内のクリスチャンや外国からの宣教師たちも視察に赴いていたようで、鏡花の『一之巻・二のまき・三之巻・四の巻・五の巻・六之巻・誓之巻』(1896年)の、二のまき冒頭の項「苺」には、つぎのような一文がある。
其日は学期の試験なるに、殊にこの一致教会に属したる東都の中央会堂より、宣教師一名、牧師一名、並に随行員両三名折から巡教の途次わが校に立寄りて、生徒の成績を見むがため、此時教場に臨みたり。
北陸英和学校における鏡花の体験を記したものであろう。中央会堂は本郷にある教会である。
「愛真学校」が設立された1883年、アメリカ・テネシー生まれのポートル兄妹が金沢へやって来て、「愛真学校」で英語を教え始めた。進取の気性と開拓精神に富んだ妹のミス・ポートルは、運動のため、横浜から馬を取り寄せるほどであったが、前掲の『日本の幼児教育につくした宣教師』には、
こうして、ミス・ポートルは馬に乗って伝道や散歩を行ったが当時この学校の生徒であった泉鏡花は、その著『名媛記』に馬にまたがる美しい異国の女性「りりか」のことを記している。「りりか」とはミス・ポートルのことで、亡き母を慕い続けていた少年、鏡花にとって彼女は母への憧憬であり理想の女性として描いている。
と記されている。『一之巻・二のまき・三之巻・四の巻・五の巻・六之巻・誓之巻』に出てくる、「東京へ来たれ」という手紙を鏡花に宛てて書いた教師みりやあど(ミリヤアド)、もミス・ポートルであろう。ポートルは母のいない鏡花をとてもかわいがり、そのことで上級生からいじめられることもあったが、それを知ったポートルはますます鏡花をかわいがったという。また鏡花はキリスト教の学校や教会へ通うことで、小学校の頃の友達をはじめ、近隣の子供達からいじめにあったことを、「はなれ駒」の項に書いている。
鏡花は北陸英和学校に3年間在籍(1885~87年)し、抜群の英語力を身につけた。鏡花は自宅からほぼ真っすぐ南へ、現在の金沢地方裁判所の前を通り、兼六園と金沢城の間の百間堀から広坂通りの学校まで通ったと考えられる。直線距離で1キロ程。歩くことが当たり前の当時においては、それほど遠い距離ではない。
鏡花が学校をやめた翌年の1888年、「北陸英和学校」は小立野台にある石引町に移転し、尖塔をもった校舎が建てられた。
一方、ミス・ヘッセル、ミセス・ネーラーらによって、1885年、私立金沢女学校(後、北陸女学校)」が設立され、現在の「北陸学院」へとつながっていく。この学校に幼稚園・小学校を開設したのが、ミス・ポートルである。(なお、『鐘聲夜半録』には、私立北陸女子英学院が出てくる。)
男子の「北陸英和学校」は経営難などから、1899年に廃校になったが、校地は北陸学院に受け継がれ、現在も高校・中学校・幼稚園があり、ウインの記念館も建てられている。私にもこの幼稚園での思い出はたくさんある。
一方、尖塔校舎の様式は、「北陸英和学校」と入れ替わるように、同じ1899年、隣接地に建てられた石川県立第二中学校の本館校舎に取り入れられた。同時期に建てられた三中(七尾)、四中(小松)も建物としてほぼ同じであるが、尖塔はもっていない。おそらく「北陸英和学校」の尖塔のカッコ良さに魅せられて、二中だけ尖塔をもったのであろう。しかも、三つも尖塔をつくってしまったのである。
この三尖塔校舎は新制の紫錦台中学に引き継がれ、本館校舎として使用された。校舎は左右対称で、両端が前後に出っ張り、その出っ張りに私が過ごした教室があった。尖塔にくっついているため、避雷針に雷が落ちた時は大きな衝撃を受けた。私が卒業後、別棟の校舎からの出火で、本館も焼失しそうになったが、そこは加賀鳶伝統の消防。必死の消火活動で類焼を免れ、今日も「金沢くらしの博物館」の建物として使用されている。建築から120年の木造校舎は、私の在学当時と変わらぬ温もりをもっている。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、1979年、東京書籍
小林恵子:『日本の幼児教育につくした宣教師』、2003年、キリスト新聞社
①朝倉秀之『幼少期に泉鏡花が通った学校の名称-「愛真学校」か「真愛学校」か―』
北陸学院大学・北陸学院大学短期大学部研究紀要、第9号(2016年度)
© 2017-2021 Voluntary Soseki Literature Museum