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1.おいたち
鏡花・秋聲・犀星のうち、もっとも早く生れたのは秋聲である。秋聲は1871(明治4)年12月23日、横山町二番丁1番地に生れた。
横山町は兼六園の東、兼六園下を入って、味噌蔵町を抜け、源太郎川と言う小さな川を越えたところ。浅野川までの一帯である。当時、浅野川の橋は天神橋の上流は鈴見橋までなかったが、その後、横山町と常磐町を結んで、常盤橋が架けられた。加賀藩には、「加賀八家」とよばれる重臣の家柄があり、石高はいずれも1万石を超え、大名に相当する石高であった。その中でも、本多、長、横山各家は3万石を超え、本多町、長町、横山町と、いずれも金沢の町名に名を留め、武家屋敷が多い地区である。
私が子どもの頃、狭い道を縫うように循環バスが走っており、石造りの門構えと松の木をもった家々が印象的であった。旧士族の街という趣が感じられたが、私にとって横山町は高校で同級の女の子が住んでいる街として、何となくキュンとする。常盤橋のところで循環バスは大きく曲がった。さすがにプロのハンドルさばきであった。
秋聲の父は加賀藩家老横山三左衛門の家人徳田十右衛門の長子雲平、母は前田家直臣津田采女の三女タケで、秋聲は第六子で三男であったところから末雄と名づけられた。秋聲には兄二人、姉三人、妹が一人いたが、兄弟関係は複雑であった。というのも、雲平の妻は三人とも若くして亡くなり、最初の妻とのあいだに生まれた女の子しず、三番目の妻とのあいだに直松・順太郎・きん、合わせて四人の子どもがすでにおり、四度目の妻であったタケとのあいだに、かをり、秋聲、さらにフデが生まれた。
秋聲の両親は武家の出ではあるが、すでに幕藩体制も崩壊し、士族といっても、その家計は逼迫し、前途の見通しも立たない時代に、しかも第六番目の子どもとして秋聲は生れたのである。自伝的長編小説『光を追うて』(1928年)で秋聲は自らを「宿命的に影の薄い生をこの世に享けて来た」と書いている。
1874年、徳田家は浅野町に移った。
浅野川が金沢市街地を流れる区間、上流から常盤橋、天神橋、梅の橋、浅野川大橋、中の橋、小橋、彦三大橋(1988年完成)、昌永橋、堀川橋が架かっている。このうち、小橋・昌永橋が架かる右岸、金沢城下からみれば対岸の地区が浅野町で、1966年に消滅し、小橋町・昌永町になっている。発育の悪い秋聲は父に連れられて医者通いが続いたようだが、結局小学校も1年遅れて、1879年、養成小学校(後の金沢市立馬場小学校)に入学した。1キロ程度の道のりである。
秋聲は4年後期に原級留置になり、卒業も半年遅れた。卒業前、徳田家は御歩町(御徒町、おかちまち)二番丁14番地に転居した。藩主を警護する歩(かち)が住んでいたところから名づけられた。現在の東山1丁目にあたり、寺院も多く、東の廓もある。藩政時代の金沢では浅野川大橋、犀川大橋を渡って城下を出たところに、寺院が多く集まり、廓も形成され、警備の拠点ともなっていた。学校には少し近くなったのではないだろうか。
1884年、秋聲は仙石町の金沢高等小学校(後の金沢市立小将町中学校)に入学した。仙石町は石川近代文学館・石川四高記念館がある中央公園一帯の区域にあたる。同級生に桐生政次(悠々)がいた。鏡花は秋聲より二歳下であったが、秋聲の入学が遅れたため、結局二人は同時に金沢高等小学校に入学することになった。もちろん、後に二人とも「文豪」と呼ばれるようになることなど知るよしもなかった。鏡花は1年足らずで、ミッションスクールの愛真(真愛)学校に転校した。
高等小学校入学の頃、徳田家はまた転居する。今度は味噌蔵町裏町五番地ノ2である。味噌蔵町は城の東にあり、味噌蔵町○○と全部で6町ある。現在、多くは味噌蔵町小学校を中心とした兼六元町に属している。横山町に隣接するので、ぐるぐる回って、戻って来た感じである。
1885年、異母兄姉たちに転機が訪れていた。弁護士試験に失敗した直松は大阪の警察官になった。養家から戻った順太郎と、きんの再婚相手の太田為之は旧主加賀藩家老横山家が経営する尾小屋鉱山に勤めるようになった。一方、秋聲のすぐ上の姉かをりはすでに嫁いでいたが、病に倒れた。この頃から秋聲は少しずつ健康になってきたと言われている。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、1988年、笠間書院
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