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1.おいたち
はじめに
鏡花や秋聲のおいたちは基本的に誰が書いても同じであろう。けれども、犀星はきわめて厄介である。
犀星は1889年8月1日、裏千日町31番地に生れた。父は元加賀藩150石扶持武士の小畠弥左衛門吉種64歳。吉種には富山県で一家を構え、小学校長を務める一人息子の生種(なりたね)がおり、世間体、とりわけ息子への体裁から、吉種は生後七日目の犀星を赤井ハツのもとに手渡した。こうして犀星は、「赤井ハツ、私生子男、照道」と戸籍に記されることになった。ハツは犀川のほとりにある雨宝院(千日町1番地)住職室生真乗の内縁の妻で、隣りの2番地に住み、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であった。
――以上が犀星誕生に関する通説である。
犀星の父親は小畠吉種、母親つまり生母は不明とされている。この生母がいったい誰なのか、幾多の人びとによって謎解きが進められたが、船登芳雄著『評伝室生犀星』(以下『評伝』)はそうした生母論争のひとつの集大成と言える。
今ひとつ、独自の切り口で生母論争に加わったのが森勲夫。彼の著である『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』(以下『詩魔』)では、生母だけでなく、実父に対しても再考を促し、さらに従来疎遠と考えられてきた犀星と小畠家との交流についても、詳しく描き出している。
すでに原資料で当たることが可能なものは、『評伝』・『詩魔』に反映されており、ここではこの二冊に記された内容を最大限に活用し、犀星のおいたち、犀星の実父母の謎にせまっていきたい。
なお、船登芳雄、森勲夫ともに、石川県立高校の教師として奉職。船登は金沢泉丘高校校長(12代)も務めている。
私の疑問
私には率直に不思議と思われる疑問が大きく二つある。
ひとつ目が犀星出生に関する通説。
そもそも、どうして、犀星の実父が誰かはっきりしているのに、生母がはっきりしないのか。母親ははっきりしているけれど、父親が誰かわからないという事例はたくさんあるが、その逆という事例はどのくらいあるだろうか。私は、犀星の出生に関する通説はきわめて不自然であり、作為さえ感じる。
船登は『評伝』(p23)で、《生まれた犀星を名もつけずに、赤井ハツに託したのはまぎれもない事実である。このことは、妻をうしなって二年後、数え年六十八歳にして子をもうけたことを、世間に知られたくなかったことを示している。》と記している。けれども、世間に知られたくないどころか、100年以上経った時代を生きる私たちまでもが、「犀星の父親は吉種」であると言っているのであるから、りっぱに世間に知られている。父親が誰かわからなくても、女性はお腹が大きくなるのであるから、世間に隠しようがない。吉種と同居していたとみられる女性は、佐部すて、池田初の二人の名があがっている。犀星の生母がそのどちらであっても、吉種がどんなに世間体を気にしても、お腹の大きな女性を世間に隠しようもない。世間体を気にするなら、妊娠がわかった時点で、吉種はその女性を他所へ移すであろう。そして、吉種は近所で、すでに子どもを二人も引き取っているハツに目をつけ、生まれた子を密かにハツに渡すであろう。けれども、通説からそのような様子は見えてこない。
いったい、犀星の父親が吉種であることは、どこから知れたのだろうか。世間体を気にするなら、「知り合いに不義の子を宿して困っている女性がいて、頼まれたので、何とかその子を貰ってくれないか」と、他人事を装って依頼するのが普通ではないか。それが、おそらく吉種は、「自分の不祥事で、子どもができ、世間体も悪いし、息子にも申し開きが出来ない。何とか引き取って欲しい」という趣旨のことを言って頼み込んだのであろう。これなら、ハツも吉種を犀星の父と思い、それが広まり、今日まで語り継がれてきたことは納得できる。と同時に、それは吉種が犀星の実父でないということの証明でもある。吉種には自分の世間体を犠牲にしてまでも守らなければならない「世間体」があったのではないか。そう考える方がむしろ妥当ではないだろうか。
続いて、私が疑問に思うのは、いったい誰が犀星に乳を与えたかということである。このじつに単純なことが、従来の生母論争において忘れ去られてきたのではないだろうか。犀星は生まれると間もなく、ハツのもとに引き渡されたという。今のように粉ミルクのある時代ではない。母乳がなければ育てることができない。ハツはもちろん乳が出ない。乳母がいたという話は聞かない。とすれば、犀星に乳を与えたのは生母以外に考えられないのではないだろうか。
佐部すて、池田初、どちらが生母であったとしても、ともに吉種のそばにいたことになっているので、赤井ハツが毎日何回か、生母のもとへ通うことは不可能ではない。しかし、吉種が「世間体を気にした」とするならば、ハツが通って来ることを良しとするはずがない。また、犀星が生後2年くらい小畠家において、生母のもとで育てられ、その後、ハツに渡されたとしても、その間、近所に知られないように子育てすることは、きわめて難しいであろう。
犀星の生母が小畠吉種と同居する女性であったなら、世間の口には戸が立てられないから、いつか犀星の耳にも入るだろうし、やがて犀星研究家の知るところとなったはずである。地域の中では父親はわからなくても、母親はわかるものである。それが地域の中でさえわからないのは、犀星が他所から持ち込まれたことを意味しているのではないだろうか。
じつは、吉種実父説をとっている船登でさえ、『評伝』(p43)で、
このようにたどってくると、犀星生母についての情報が生家や程近い養家周辺に、まったく残っていないのもうなずけるのである。もし、生母が吉種死去まで十年前後小畠家に居続けたのであれば、当然周辺の噂として残るはずである。まして、生後すぐ犀星をもらい受けた養母ハツが知らないはずがない。
これは犀星の生母を吉種妻まさの姪にあたる池田初として、彼女が犀星を産んで間もなく小畠家を去ったとの論点から記されたものであるが、図らずも地域の中で母親がわからないのではないか、という私の推論を、金沢在住の犀星研究家から証明される結果となった。つまり、犀星は他所から持ち込まれた可能性がきわめて強いのである。
このように考えると、佐部すて、池田初ともに、生母である可能性はきわめて低くなってしまう。まったく新たな生母説が出て来ない限り、残るは山崎千賀ひとりである。高岡に住んでいる千賀なら、犀星を産んで、しかるべき時に直接ハツに引き渡せば、吉種の近所に知られることもないのではないか。
この山崎千賀生母説について、吉種の年齢、金沢・高岡の距離、当時の交通事情などから、高岡に住んでいる千賀が、吉種の子を宿す可能性はほとんどないのではないかと、船登は疑問を呈している。一方、森は生母を山崎千賀ひとりにしぼっているが、船登同様、吉種が実父となることには、きわめて無理があるとしている。
それでは、吉種が自分の世間体を犠牲にしてまでも守らなければならない「世間体」とは何であったか。それはただ一つ、「生種の世間体」。そして、犀星が他所から密かに持ち込まれた可能性がきわめて高いとするならば、犀星の実父は生種、実母(生母)は山崎千賀の可能性がきわめて高くなってくるのである。
ところが、森によれば、生種も千賀を妊娠させる可能性がきわめて低いという。こうなればもう、犀星は犀川を流れて来たか、星の王子さまか、どちらかということになってしまうのであるが、生種が千賀を妊娠させる可能性を証明できれば、犀星の実父母の謎を解き明かしていくことができるのではないだろうか。
三人の女性
犀星の生母として浮かび上がった女性はこれまでに三人いる。ここで改めて犀星の生母として浮かび上がっている三人の女性を、『評伝』をもとにまとめておきたい。
一人目は、犀星研究家の新保千代子などによって明らかにされてきた「佐部すて」。吉種は1887年に妻まさを失い、独居になっていたが、かつての剣術指南時代の弟子で、長町4番丁に住む元130石取り藤井鉄太郎の妻芳が、ひとり身になった吉種の生活をみかねて、自家の女中はるを遣わした、その「はる」というのが「すて」で、1856年生まれ。吉種のもとに来た時31歳。吉種はすでに61歳であった。吉種は1888年に石坂角場から裏千日町に転居し、翌1889年、すては犀星を生んだ。この時33歳。その後、1898年に吉種が死去するまで小畠家に留まり、小畠家を出た後、紆余曲折を経て、1923年4月22日、67歳で亡くなった。
つぎに、犀星長女室生朝子が明らかにした「山崎千賀」。室生家から小畠家に返還された物品の中に発見された小畠悌一が犀星に宛てた葉書(1929年3月1日消印)に、「貴兄の母ハ山崎千賀とあるのがそうらしい。」の文面がみられたからである。
山崎千賀は1868年6月13日、金石(宮腰)に林宇兵衛長女として生まれ、高岡の下川原町107番地でお茶屋「勇木楼(『評伝』では遊亀戸と記載)」を営む山崎忠四郎の養女として入籍し、芸妓として働くようになった。1887年6月には勇木楼所在地に分家している。
生種が高岡近郊の小学校に赴任したのは1883年7月、二十歳の時である。この生種のもとに訪ねて来た吉種が、宴席で芸妓千賀と知り合い、犀星が生まれた。けれども、吉種の年齢、金沢・高岡の距離、当時の交通事情などから、千賀が吉種の子を宿す可能性はほとんどないのではないかと、船登は疑問を呈している。
山崎千賀は1889年1月、横田村303番地に転住。さらに、1891年11月11日には金沢市上新町87番地に転住して来た。横田村は高岡の街に隣接し、下川原町からは千保川を渡ればすぐである。上新町は鏡花が生まれた下新町とともに、現在は尾張町2丁目。当時、尾張町から橋場にかけての地域が金沢の繁華街で、主計町も含まれている。
三人目が、船登が注目する「池田初」。初は吉種の妻まさの実家である池田家を継いだ実妹千代の二女で、まさにとっては姪にあたる。1868年3月24日生まれで、1887年、まさの看病のため小畠家に住むようになり、没後も吉種の世話をしているうちに、身ごもったのではないかと、船登は推察している。小畠家をいつ離れたか明確ではないが、1904年、池田姓から小畠初になり、1905年に前年11月、北海道に渡っていた毛利治平と結婚。しかし、翌年7月には金沢へ戻り、上新町に住んだ。初は1930年に亡くなった。なぜ、結婚目前に初が池田姓から小畠姓になったのか、吉種が初に不義の子を産ませたことに対する、生種の贖罪の意味があったのではないかと、船登はみている。
しかし、初が犀星の生母であり、産んで間もなく小畠家を去ったとすれば、吉種は1898年に亡くなるまで10年余りをひとりで暮らしており、また没後6年も経って、初が小畠に改姓する理由もわからない。
以上が『評伝』で取り上げられた犀星生母と思しき三人の女性である。いずれも年齢的には犀星を産んでも不思議はないが、確実と言える人物はいない。
生種と千賀は実父母になりえるか
森は犀星の生母を山崎千賀と考え、吉種実父説を検討したが、船登同様にムリと判断し、実父生種説を検討しようとしている。
犀星誕生を1889年8月とすれば、千賀は前年の秋に身ごもったことになる。生種は1888年5月まで作道村(つくりみち村)、6月から下田子村の学校に勤務しており、高岡の廓にいる千賀のもとに通うには、どちらも遠すぎる。しかも薄給で、遊びに使うカネはなかったであろう。それに長男悌一が1888年3月に生まれているから、まさが亡くなった10月にはすでに珠は妊娠していたことになる。生種と結婚した時、珠は15、6歳で、すぐにいっしょに住むようになったかわからないが、少なくとも1887年の春頃からは生活を共にしていたと考えられる。珠は17、8歳である。生種は作道村の荒木家に下宿していたが、屋敷が広く、妻を迎えてからも荒木家で間借りして生活していたと考えられている。
森は生種実父説を取ろうとしていたが、結局、勤務校は高岡から離れており、妊娠に至るほど何回も千賀のもとを訪れることは難しいのではないか、ということで「犀星の実父は小畠生種、実母は山崎千賀」という説をあきらめている。言い換えれば、何回も千賀のもとを訪れることが可能であれば、生種・千賀説は再浮上することになる。
犀星が生まれたとされる1889年8月1日の前年、1888年。『詩魔』によれば、生種は3月に長男悌一が生まれ、5月まで作道小学校に勤務し、6月に下田子小学校に転任している。現在では氷見市に属する下田子の学校は、氷見線島尾駅で下車して、さらに内陸にむかって行かなければならない。千賀が妊娠したとされる秋に、生種は下田子の学校に勤めていた。今でも遠い感じであるが、氷見線開通前の下田子はかんたんに往来できる場所ではなかったと、森はみている。しかしながら、下田子は氷見街道沿いで高岡に直結しており、むしろ島尾などにくらべ高岡に近いことを、森は見落としているのではないだろうか。下田子から千賀が働いていたとみられる下川原町まで8キロくらい。一方、それまで住んでいた作道も、結婚した1885年に国道になった北国街道に出て、庄川を渡れば、下川原町は8キロくらい。
8キロは金沢に当てはめれば、金石から東の廓、西の廓へ行くくらいである。この距離をどうみるか。当時は歩くことが当たり前で、小学生でも片道4キロ以上の道のりを徒歩で通学した地域もあったから、その気になれば通えない距離ではなかったのではないだろうか。
生種が教員として篤親尋常小学校(作道小学校の前身)に赴任したのは、1883年。二十歳の時である。以来、作道村内で教員を続けて来た。森は、薄給でも村の名士として高岡で催される宴会に招かれ、千賀と知り合う機会はあったかもしれないとしている。いつしか、宴席を離れてふたりの関係ができ、下田子転任後も続いたとみることは、じゅうぶん可能である。
もちろん、このような関係が廓において許されるのかという疑問も残るが、千賀はすでに1887年6月には勇木楼所在地に分家しており、廓で働くと言っても、囲われた身ではなく、特定の男性との交際もある程度許容されていたのかもしれない。とは言っても、大きなお腹を抱えて廓勤めというわけにもいかず、犀星を妊娠した翌年の1月、横田村303番地に転居したのではないか。横田村というと遠い感じがするが、高岡に隣接し、下川原町には近かった。
千賀の妊娠を知った生種は、妻珠、実家の中村家に言うこともできず、密かに父吉種に相談し、吉種は自分の不始末としてハツに引き取ってくれるよう依頼。犀星が生まれると、ハツは「父不詳、母ハツ」として出生届を提出。今なら、産んでもいない女性が、母親として出生届を出すことなどできないだろうが、当時は本人の申告だけで、出生を確認することもなく、受理されたのだろう。
まだ、鉄道開通以前である。生まれて間もない子を高岡から金沢へ連れて来るのは、リスクが大きい。勇ましい乗合馬車が登場する鏡花の『義血侠血』が書かれたのが1894年。資料がないが、1891年頃には高岡・金沢間に乗合馬車が走り始めていたかもしれない。千賀は横田村で犀星に母乳を与えながら暮らし、1891年、乳離れするようになった犀星を連れて金沢へ戻り、犀星を正式にハツに引き渡し、自分は上新町に住むようになった。千賀は以降、一度も犀星に会うことはなかったようだ。それが宿命と、大きな決断をしたのであろう。このような流れは、必ずしも不自然ではない。
こうして、「父吉種、母不詳」という不自然な通説と異なり、戸籍上は「父不詳、母ハツ」という一般的にみかける記載になったのである。
船登は生種が、父が亡くなるまで金沢の小畠家に戻らなかったことを、父を許せない、父との確執と捉えているが、実態は真逆で、自分の罪を背負ってくれた父に顔向けできなったとみる方が良さそうである。父が亡くなると、待ちかねたように生種は家族を連れて金沢へ戻って来た。
事実を知っているのは吉種と生種
犀星の生母が誰かは別にして、犀星が長じてからの小畠家との交流をみれば、吉種か生種のどちらかが実父であることは疑いようもない。ふたりとも実父でなければ、小畠家とは何のつながりもなく、親しく交流する必要もなかったはずである。
犀星(照道)が1889年8月1日生まれで、実父が吉種であるとすれば、吉種の妻まさは1887年に死去しているので、1888年の秋頃に吉種が女性と関係をもったとしても、「不倫」とは言われないであろう。そして、年齢的に婚姻するわけにいかないとしても、いっしょに住み、生まれた犀星を育てることはできたであろう。将来、富山県にいる長男生種が戻ってきて、折り合いが悪くなったとしても、その時点で女性つまり犀星の生母が我が子を連れて小畠家を出て行けば良い。あえて、生母から奪い取るように、赤井ハツのもとに預ける必要はなかったのではないだろうか。
しかしながら、生種が実父であれば、犀星と悌一の生まれた年が近いことを考えれば、明らかに二股をかけていたことになり、男性に甘い時代と言っても、少なくとも珠の実家中村家に対して顔向けできない、隠しておきたいことであっただろう。こう考えれば、犀星の出生が闇に包まれたのは、生種が犀星の実父であることを示しているのではないか。
とにかくこの事実は、吉種と生種しか知らない、まさに「トップシックレット」であった。では、他にこの事実を知っていた人物はいただろうか。少なくとも、生母は知っていたはずだが、候補者三人のいずれからも真相は語られていない。
ハツは吉種を父親と信じていたであろう。もちろん、疑念をもつことはあっただろうが、ハツにとって、犀星がいてくれれば良いのであって、実父が誰であるかにあまり関心がなかったとみた方が良いだろう。ハツが知らなければ、室生真乗が知るはずもない。
吉種の長女、生種の妹ムメはどうだろうか。ムメは船登が生母候補とする池田初と同じ年、1868年の生まれであり、従姉妹にあたる。真相を知りうる可能性はある。しかし、もし犀星が吉種と初の子であれば、妻を失った後といっても、年甲斐もなく若い女性と関係を結び、子どもまでつくらせたとあれば、父吉種に対して許せない思いはどこかで出ただろうし、まして初となれば、姪と関係をもつなど、娘として許せるはずもなかったであろう。どこかでその思いが語られてもおかしくないが、そのような話しは聞こえて来ない。つまり、坂部すても池田初も犀星の生母ではない。もし、ムメがすべてを知って沈黙を通したとすれば、吉種同様、生種を守ったとしか考えられないのである。
珠は金沢の小畠家に住むようになった時点では、犀星が吉種の子と言われていたと考えられる。しかしながら、どこかで夫生種の子ではないかと疑念を抱くようになっていたかもしれない。そして、犀星が小畠家で婚儀をおこなう1918年頃には、犀星の実の父が夫生種で、山崎千賀が母であることをわかっていたのではないか。生種と結婚してすでに30年余。4男3女に恵まれ、それなりの安定した生活を得て、夫を許し、犀星を受け入れる余地が珠にはできていたかもしれない。じつは、犀星の妻となるとみ子を紹介したのは生種の長男悌一であり、小畠家での婚儀に積極的に動いたのが珠であった。珠は翌1919年、49年の生涯を閉じた(『詩魔』p53)
悌一はおそらく、どこかの段階で、犀星が吉種の子。悌一にとっては叔父さんにあたることを告げられ、生涯それを信じ切っていたものと思われる。
悌一が「狂庵」から「六角堂」に号を変えたのは、七尾郵便局に勤めるようになった1908年と言われている(『詩魔』p39)。六角堂というのは、金沢市寺町1丁目にある真言宗倶利伽羅山宝集寺の通称で、雨宝院と同じ宗派であるばかりでなく、犀星養父室生真乗のおじ室生真意が住職を務めていた時期もある。もし、この事実を知って、悌一が六角堂を名乗ったとすれば、犀星が「自分のおじ」でも、俳句では自分の方が「おじなんだ」という、犀星をかなり意識した号と言わなければならないだろう。
室生真乗は1844年、富山県射水郡中老田村(神通川を渡った富山市西隣りの地域)小川伝吉次男として生まれ、1869年に仏門に入り、射水郡下村加茂の宝立山福王寺で修業し、室生姓をもらったが、福王寺15代住職は叔父室生真意であった(『評伝』p48)。
犀星は誰を実父母と思っていたか
犀星の生母は誰か。いろいろな人物の名前があがっているが、いまだ確定していない。犀星が室生照道として平凡な人生を歩んでいれば、生母が誰かなど、第三者の私たちが関心をもつことはなかったであろう。しかも、百年以上過ぎてまでも。けれども、どんな人生を歩んでいようとも、照道というひとりの人間にとって、そのルーツである自分の実父・実母は誰か、知りたいと思うのはむしろ当然のことであるだろう。とかく、第三者の論争だけ盛り上がりそうだが、当の犀星は自分の実父母を誰だと思ってきたのであろうか。
犀星(照道)が1889年8月1日生まれで、満4歳くらいからの記憶が残っているとすれば、その記憶の中にある毎日の生活をともにする人間関係はつぎのようであった。
室生真乗(僧侶、1844年3月4日生)50歳
赤井ハツ(1851年生)44歳
テヱ(1877年6月28日生)17歳
真道(1884年5月1日生)10歳
この4人に4歳の犀星を加えた5人が、犀川を背にした雨宝院の隣りにある二階家に住んでいた。5人家族と言っても、真乗とハツは正式の夫婦ではないし、テヱはハツの姪を貰ったものであり、真道も貰い子であった。テヱの記憶によると、犀星も小畠家の茶畑へ茶摘みに行った時、吉種とハツの間で、貰い子の約束がされたのではないかと言う(『室生犀星ききがき抄』より、『評伝』p43)。
犀星がいつ頃、自分の親が実父母でないことを知ったのかはっきりしないが、「小畠の家から貰って来た」「小畠のじいさんが、おまえのほんとうの父さんだよ」というようなことは、何かのおりに繰り返して言われてきたのではないだろうか。けれどもまだ、実の親とか、義理の兄弟だとか、そのようなことに思いも至らない年齢であるから、とにかく、今ある家族の中で、世話をやいてもらったり、叱られたり、遊んでもらったり、それで日々、過ぎて来て、ようやくその意味するところを多少なりとも理解し得るようになったのは、犀星が6、7歳頃ではないだろうか。
『詩魔』(p32)によると、犀星が野町尋常小学校入学する(1895年9月3日)より前の頃、小畠家のすぐ裏にあった家に住んでいた奥田ムメ(吉種長女、生種の妹)が、生家を覗きに来る犀星をはらはらして見ていたという(ムメの孫中橋冨美子の証言にもとづく宮崎夏子の話、夏子は悌一の三女)。ムメは奥田則直と結婚し、七尾で暮らし、1885年に長男一郎が生まれている。金沢へ戻った後、松任に転住している。『詩魔』はまた、山崎みのる(生種の次女)の話として、
犀星が「父吉種が亡くなった後も小畠家の門の中へそっと入ってきて、家人の気配で逃げ出したり、裏通りから背伸びをしてときどき様子をうかがっていた」(宮崎夏子「裏千日町」)
ということも紹介している。吉種が亡くなったのは1898年で、しばらくして生種一家が裏千日町の家に住むようになるが、みのるはその頃まだ3歳で、記憶に残る状況ではないので、みのるが犀星の姿を目撃したのは、犀星が長町高等小学校に入学した頃ではないかと、森は推察している。
年月を経ているので、記憶のあいまいさはあるだろうが、『幼年時代』などにあるように犀星が小畠家に上がり込んでいる姿はない。子どもの犀星にとって、小畠家はちょっと特別な場所であっただろうが、覗きこんだり、入り込んだり、他の家にもやっていた、悪ガキの遊びのひとつであったと捉えた方が良さそうだ。吉種を見かけることがあっても、それほど感情も湧かなかっただろう。
一般的に父母はいっしょに暮しているものだから、実父であるはずの吉種といっしょに住んでいる女性が実母であるはずだ。犀星が見た女性、そして母ではないかと思った女性はいったい誰か。
まず、伯母の看病に来ていた池田初。彼女は1887年に伯母が亡くなると、どれだけかして小畠家を離れたのではないだろうか。吉種は1888年に石坂角場から裏千日町に転居しているので、転居を機にしているかもしれない。吉種がいかに元気であったとしても、このような中で高岡へ通い、千賀を妊娠させることは不可能であろう。初と入れ替わって吉種のもとにやって来たのが坂部すてである。すては吉種が亡くなるまで小畠家にいたと考えられるので、犀星が生母と思ったのは、すてである可能性がきわめて高いのではないだろうか。ムメも一時期、小畠家の裏に住んでいたので、犀星が見かけたこともあるだろうが、回数は多くないと思われる。
すてがどのような顔の女性であったか、写真が残っているわけではないので、私にはわからないが、犀星が母ではないかと思った女性は、お月様のように円顔であったのではないか。男性すべてというわけではないが、好きなタイプの女性というのは、どこかしら母親の影を引きずっている。
忘れ得ず円顔の眉の痕の青隠れし皺の若き色華やぐ声の母と聞くからになみだ流るゝ。わが髪なでつ鉄漿くろき歯を削きてぞえまふ
――『母』新声1909年3月(『評伝』p27)
月のごとき母は世にあるまじよ良き心のみ保てる女もあるまじよわれら良しとなすものわれら恭ふものに何時の日か行き逢はなむ何時かまた月のごとき母に逢はなむ
――『作家の手記』(『評伝』p28)
犀星はふっくらとした顔立ちの女性を好んだ。彼女は色白で、好みの顔立ちであったらしい。(大森駅へ行く途中のアパートに住まわせている女性について)
(『評伝』p265)
まだ、世慣れない十九歳ほどの孫に近い娘である。小島さんも前掲書で、犀星好みの「色白肉厚」の「月の如く顔のマンマルイ」少女だったとしている。
(秘書役の女性について)(『評伝』p267)
犀星の母親像は成長と共に形成されたもので、当時はそれほど母を恋い慕うという状況ではなかったかもしれない。ただ、イメージの中の母親は、いつしか犀星が追い求める女性になっていったようだ。そう言えば、犀星の妻とめ(とみ子)も、円顔と言って良い。
生種が父ではないか
1943年発表された、《夏の日に匹婦の腹に生まれけり》(『評伝』p10)という句をどうみるか。匹婦(ひっぷ)とは「身分の低い女」「道理のわからない女」の意味で、下女を指すとも考えられるが、娼婦を念頭に置いたと考えられないこともない。当時の作品の流れからみれば、自分に対する作品的な演出であったかもしれない。つまり、自分が匹婦から生まれなければならなかったのである。けれども、この句は演出ではなく、実際に犀星はすでに生母についてかなり確証を得ていたのであろう。
犀星が坂部すて、池田初の存在をどこまで把握していたかわからないが、知っていたとすれば、この二人に対して匹婦という表現はしない。千賀を生母と認識したうえで、匹婦と表現したとみる方が妥当である。
犀星はかなり早い段階で生母が山崎千賀であることを知ったのではないか。としたならば、1908年12月に希望して金石へ転勤したのも、金石で生まれた生母の情報を得るためであったと言えるのではないだろうか。あるいは、生母のふるさとで暮らしてみたいという思いもあったかもしれない。犀星の疑問は「実父は誰か」という点に移っていたのではないだろうか。
1929年、犀星は生種長男悌一に「僕のオヤヂの名前をしらせて下されたく、年譜をつくる必要があるのです」と問い合せている(『評伝』p31)。通説としてのオヤジの名を、当然犀星は知っていたはずである。あえて聞く必要もないことである。この通説に犀星自身が疑問を感じたからこそ、探りを入れたのであろう。それに対して、母は山崎千賀としながら、父の名は吉種という返事であった。犀星は母の名にはまったく興味を示さず、父に関してはそれ以上追究していない。結局訊いてもムダだと思ったのだろう。
結局、悌一から「実父」の情報は得られなかった。
このように、「生種実父」説に立つと、ほとんどの疑問が解消してしまう。
そして、この説に立つならば、犀星は高岡生まれになる。犀星にはやはり金沢で生まれていて欲しいと思わないでもないが、犀星がどこで生まれようと、金沢で育まれた文豪であることにかわりない。むしろ、犀星の異常なまでの金沢への執着は、他所から金沢へ持ち込まれた犀星の本能的な行動であったのかもしれない。
注記)以上のように、私は犀星の実父「生種」、実母「千賀」、生まれは高岡という考えをとっているので、「金沢で生まれた三文豪」と書かず、「金沢が生んだ三文豪」と書いている。もちろん、金沢が子どもを産むわけはないのだが。「金沢が育んだ三文豪」が適切な表現かもしれない。
また、小畠悌一は一般的に「犀星の甥悌一」と表現されるが、私の考えを通すならば悌一は犀星の兄にあたる。けれども私は、1889年8月1日生まれという犀星の出生届けは、犀星が金沢へ連れて来られ、ハツに引き渡された時に届けられたもので、その時すでに犀星が2歳になっていたとの考えを捨て切れていない。生種と珠は1885年に結婚して、悌一が生まれるまで3年ほどあり、その間に千賀との間に犀星が生まれることも考えられないことではない。そうなれば、悌一は犀星の弟になる。「犀星の甥悌一」と表現する必要がある場合、私は「生種長男悌一」と表現する。
犀星と悌一の出会い
1898年3月。悌一は富山県にある下久津呂尋常小学校を卒業した。同じ月、吉種が亡くなったため、生種一家は裏千日町の小畠家に転居した。悌一は新学期の4月、金沢高等小学校に入学した。この学校は長町川岸57番地にあり、現在、金沢市立玉川公園になっている。北陸線の金沢・高岡間が開通したのはこの年の11月であるので、それを待たずの転居であった。
犀星は1895年9月3日、赤井照道として野町尋常小学校に入学している。当時の学齢では満6歳になった年が小学校入学期で、犀星は1896年4月入学の予定であるが、実際には満6歳になってすぐ入学した。したがって、96年4月には2年生に進級。悌一が小畠家に一家転住して来たのは、犀星が3年から4年になる時期であった。
悌一が高等小学校1年、犀星が尋常小学校4年のこの一年。それは、二人が身近に生活し、いつ顔を合わせてもおかしくない状況になった第一年目でもあった。
おそらくこの年のことであろう。悌一は『魚眠洞と私』で、自分が藪と茶株と多くの果樹につつまれた小畠家の広い庭園でひとり遊んでいて、それに飽きて門前にたたずんでいると、
ちびで山蟹のやうで、尖つた胛をわざといからせ、私を嚇かすやうに横行する一悪太郎があった。それでゐて時に人懐かしげに微笑みかけ私の名を呼んだりしたのであったが。
――
しかし臆病で人見知りする私は容易にその悪太郎に接近しやうとはしなかった。ある日、初めてどうしたはづみか二人で遊んでゐるところを母が発見したのである。
あれがてるみちなのでしやう?
慄然とする母の意中を知る由もなかった悌一だが、何かそこに深い肉親上の縁因がありそうで、
大そうな悪太郎――だから決してあんなものとは遊んではいけない――といふ風に吹き込められたものに覚えてゐるのである。そんなわけで私はよういく年間も瞳の先の僧房にゐる彼とは疎遠になってゐた。
と記している。もちろん、犀星と交流をもつようになってから書いたものであるから、脚色された部分や、あいまいな記憶で書いた部分もあるかもしれないが、何となくドラマの一場面として描くことが出来そうである(『詩魔』p31)。
悌一はこの頃、犀星と小畠家の関係について知らされていなかったであろう。けれども悌一の母珠は「犀星は吉種の子」と知らされていたであろうから、二人が接しているなどということは一大事であった。もし、犀星が女の子で、二人が好きになり、結婚したいなどと言い出したら、「甥と叔母」が結婚することになるのだから、確かにたいへんだ。まして、生種の真実が「犀星は自分の子」であれば、兄と妹の結婚ということになる。犀星が男の子であることは、悌一が恋心を抱く可能性がないことを示しているが、悌一の妹たちとなれば、話しは別である。小畠家にとって、犀星という人間は、悌一をはじめ、子どもたちを絶対近づけてはいけない人物であった。犀星が「悪がき」であったことは、「付き合ってはいけない」という絶好の口実であっただろうし、子どもたちも好ましく思うことはないであろうから、生種や珠にとって、それがせめてもの救いであったかもしれない。
尋常小学校在学中の犀星は、学業成績も素行もあまり良くなかった。それでもとにかく、1899年3月29日、4年の課程を終えて尋常小学校を卒業した。後にこの子が母校の校歌を作詞するようになるとは、誰も想像しなかったであろう。犀星は順調にいけば、4月から金沢高等小学校に入学することになる。悌一は同じ高等小学校の2年である。つまり、犀星と悌一は同じ学校に通うことになる、はずだったが、犀星は進学しなかった。よくわからないが、
学校嫌いの犀星を進学させるのに、時間がかかった。
金沢高等小学校分割計画が絡んだ。
悌一と同じ学校に通わせないで欲しいとの、小畠家からの圧力があった。
などの理由が思い浮かぶ。いずれにせよ、犀星は尋常小学校を3年半で卒業してしまったのだから、4年で卒業する子どもたちに足並みを揃えるなら、1年足踏みすることは、大きく逸脱することではなかった。
1900年3月、悌一は高等小学校2年の課程を修了し、中学校(1899年に尋常中学校の名称を中学校に改称)に進学するはずであった。1899年の中学校令で、中学校入学資格が「12歳以上で高等小学校第2学年課程を修了した者」と明記された。悌一はこの基準を満たしているにもかかわらず、3学年に進んでしまった。このことは、事実上「中学校へ進学しません」という宣言でもあった。鏡花の陰に隠れてしまった斜汀同様、犀星の陰に隠れてしまった悌一であるが、文学的センスは非凡なものを持ち合わせていたと言われ、思春期を迎え自身の中で葛藤する日々を迎えていたのであろう。悌一の選択肢の中に「文学」はあっても、「中学校」はなかったのかもしれない。親、とりわけ父親に対する反抗心もあったかもしれない。
1900年4月、犀星は長町高等小学校に入学した。この学校は金沢高等小学校が分割されてできたもので、当時は片割れの小将町高等小学校と同居であった。こうして、結果的に、犀星1年、悌一3年。二人そろって同じ学校に在籍することになってしまった。けれども、二人の交流があったという話は聞こえてこない。
おそらく父親の生種に説得されたのであろう。悌一は1901年4月に石川県第一中学校(13期)に入学した。ここでも悌一は、自己との葛藤の中、勉学どころではなくなったのであろう。一年間足踏みして、1907年3月、ようやく中学を卒業した。高等小学校2年修了で進学し、順調に進んでいけば一中12期の卒業生になるはずだったが、結局14期卒業生として記録に留めることになった。
一方、犀星は長町高等小学校の児童台帳によれば、「疎略ニシテ規律ナシ」(赤井照道の操行欄)と記入されている。そのような犀星であったから、卒業まで行くのはたいへんで、3年になって間もなく退学してしまった。教室で教師を侮辱してあやまらなかったことを理由に放校となったとも言われている。
退学した犀星は、義兄真道が勤める金沢地方裁判所に給仕として勤めることになった。1902年、犀星13歳の時である。『上京する文學』(p72)によると、犀星の初任給は1円50銭。公務員初任給およそ50円にくらべれば、あまりにも少額であった。金沢地方裁判所は城の東に隣接し、鏡花が『義血侠血』(1894年)で描いている。裁判所の裏手を通る白鳥路には、現在、三文豪の像が建てられている。
この裁判所の上司に俳句の好きな川越弥一(風骨)・赤倉勇次郎(錦風)らがいて、やがて犀星も「北國俳壇」に投句するようになり、1904年には照文の名で一句掲載された。
俳句を通して
明治以降の俳句の道を切り開いたのは正岡子規であるが、金沢に住む者にとって幸いだったのは、子規(1867年生まれ)と同郷の竹村秋竹(1875年生まれ)が京都の第三高等学校(三高)から第四高等学校(四高、第四高等学校は第四高等中学校として1887年に設立。94年に第四高等学校に改称。)に転校してきたことである。
1889年9月、第三高等中学校は大阪から京都に移転したが、1894年6月23日、高等学校令によって第三高等学校に改組されることになったが、東京に続く帝国大学を京都につくる動きと相まって、大学予科が置かれず、専門学部のみの高校と三高等中学校では本科・予科が廃止され、このままでは大学進学ができなくなるため、「分袂式」をおこなって、大学予科をもつ他の高等学校へ転入しなければならなくなった。竹村が第三高等中学校に入学したのは1893年頃と思われるが、折悪しくこの異変に遭遇し、1896年9月から金沢の第四高等学校で学ぶことになった。同郷の河東碧梧桐(1873年生まれ、同級の高浜虚子は1874年生まれ)は第二高等学校へ転校した(後に中退)。
1897年6月18日、京都帝国大学設立に関する勅令が制定され、京都帝国大学が設立され、三高は専門学部を廃し、大学予科のみの高校になった。こんなことなら、何も転校する必要はなかったのであるが、当時の政策の混乱が若者たちを翻弄したことになる。
北陸線が福井まで開通したのは1896年7月15日で、竹村は福井まで鉄道を使って来ることが出来た。
俳句をやる者にとって句会は、自分の作品を発表する場であり、研鑽の場であり、社交の場でもある。竹村秋竹らはさっそく俳句の会である北声会を発足させた。1897年5月である。この月、河東碧梧桐は京都から北陸を旅する途中、金沢に立ち寄り、竹村の下宿(上柿木畠、藤屋旅館)に泊まり、旅館の養女で俳句をたしなむ中川富女にも会っている。
それから3ヵ月ほどの8月、竹村秋竹は東京帝大へ進学するため、金沢を離れた。恋心を抱く富女も後を追うように上京する。北陸線が小松まで開業するのは97年9月20日。竹村が上京した時は、来沢時同様、福井から鉄道を利用するしかなかった。金沢まで北陸線が開通したのは1898年4月1日。11月1日には高岡まで伸びている。石川県内では98年4月24日、津幡(仮停車場)と矢田新(七尾港)の間に七尾鉄道が開通しており、11月には津幡乗換えながら、金沢から七尾まで鉄道利用ができるようになった(1900年、直通運転実現)。1897年、七尾港が特別輸出港に指定されたことも、鉄道の早期建設を後押しすることになった。
幸いなことに、秋竹が興した北声会は、入れ替わるように四高に赴任して来た藤井乙彦(紫影)に引き継がれた。こうして、秋竹によって蒔かれた「子規の流れ」は、藤井紫影によって確実に発展させられていった。そして発会当時小学生だった犀星や悌一も、やがて俳句のとりこになっていく。
藤井紫影は1905年11月。「北國俳壇」(北國新聞)の選者となった。
犀星とともに悌一も俳句が文学への入口になった。
悌一は1906年から、「狂庵」の号で「北國新聞」や「ハガキ文学」に俳句を発表し始めた。犀星は積極的にさまざまな句会へ参加し、「北國俳壇」などに投句を続け、注目されるようになり、紫影の目にもとまるようになっていった。
一中には「一中俳句会」があった。悌一もこれに参加していたが、一中生でもない犀星もこの句会に顔を出すようになった。おそらく悌一が最終学年の1906年のことであろう。基本的にお互いの生活の場が違い、お互いに関心ももたずに過ぎて来たから、当初は「甥と叔父」の関係にある二人は、誰であるかもわからず顔を合わせていたのではないだろうか。
悌一は狂庵と号し、照道は1906年3月3日、「政教新聞」に掲載された詩「血あり涙ある人に」を発表した際、初めて犀星の名を用いた。犀星・狂庵として、その作品に触れていた二人は、一中俳句会で顔を合わせ、「あの照道が犀星だった」「あの悌一が狂庵だった」と認識したのであろう。犀星は『初餐四十四』で、
僕らはお互十七八年も甥同士でありながら相反して交際しなかった。小畠から見れば僕が不良少年に見え、僕からいへば中学生などといふ生意気さを敬遠してゐたからである。
と記している。
結果的に、生種にとって、俳句を仲立ちに、二人がとんでもない出会いをしてくれたのである。俳句・詩に近づくことは犀星に近づくこと。ふたりのほんとうの関係を知られたくない生種にとって、悌一が俳句や詩に近づくことは絶対許すことができないことであり、結果的に生涯にわたって父子の確執を生むことになる。
犀星と悌一がどのような句をつくっていたか。1907年4月21日の「北陸新聞」に掲載された「一中さくら会」における10句の中に二人の作品がある。
若鮎の早瀬に来る日影かな(他二句) 犀星
茶を摘むや天窓の榛に小鳥啼く 狂庵
1907年5月28日の「北國新聞」には、「一中俳句会例会」8人の句が掲載された。
子の為に胡瓜流すや梅雨の川(他1句) 犀星
雷鳴の水に響くや水馬(他1句) 狂庵
生種は悌一が一中卒業後、上級学校へ進学することを望んでいたようだ。妹ムメの長男一郎が途中でつまづくこともなく、一中を出て早稲田大学へ進学しているから、本家としてのメンツもあっただろう。悌一も早稲田なら受験したいと思ったかもしれないが、父は一生涯安定した職業に就く道に直結した進学を望んでいたようである。それは悌一を文学の世界から切り離したいという思いも働いてのことであっただろうが、加賀藩旧士族にとって、禄を奪われ不安定な経済的状況に追い込まれた行きつく先は、教員・官吏・警察官など安定した収入が期待できる公的職業であった。
悌一は1907年3月、中学校を卒業すると、受験までの間、しばらく金沢にとどまった。4月、5月というのは、「北陸新聞」「北國新聞」に一中俳句会の句が掲載された時期である。悌一はこの間に、掲載のための実務などもこなしたのであろう(『詩魔』p33)。
6月頃には上京し、父の意に添って、「農商務省水産講習所」(東京水産大学の前身、現東京海洋大学)と「東京高等工業学校」(東京工業大学の前身)」を受験したが、うまくいかず、翌1908年の2月まで東京で生活した。しかしいつまでもぶらぶらしているわけにもいかず、2月26日、逓信部に就職し、七尾郵便局で勤務し始めた。やがて悌一は始まったばかりの電話業務に携わるようになり、生涯、職業をもっていく。結局、悌一は才能を持ちながらも、東京へ出ることなく、職業と故郷の枠の中に閉じ込められ、犀星のように才能を大きく開花させる機会は奪われていった。
この1907年から8年にかけて、犀星も裁判所に勤めながら、創作活動にも励んでいた。悌一が東京から金沢へ戻った1908年。紫影は八高(名古屋)転任することになった。金沢の俳句の世界において指導的役割を果たした紫影が金沢を去ることは大きな痛手であっただろうが、これまた幸いなことに、入れ替わるように、大谷繞石が四高教授として赴任してきた。大谷は松江と東大でラフカディオハーンに学び、二高で虚子、東大で子規と親交。東大講師時代に漱石と親しくなった。漱石も1912年に、大谷の住む金沢へ一度行ってみたい旨、手紙に書いている。
大谷は英文学専攻で、1909年から二年間、イギリス留学を果たしたが、その後金沢に戻っていた。高等小学校中退の犀星であるが、紫影、そして大谷といった四高教授から俳句の指導を受ける幸運に恵まれたのである。大谷は計10年以上を金沢で過ごし、1922年、広島高校に転任した。
学校在籍中の記録は、比較的残存しているものが多く、年月日などについても、信頼性が高く、貴重な情報を提供してくれる。
犀星たちが子ども時代の明治期は、学校の制度がしばしば変更されたが、船登は『評伝』で、生種の妹奥田ムメの長男一郎は、物差しのように正確な就学期を過ごしていると指摘している。1885年4月生まれの奥田一郎は、1892年4月に尋常小学校に入学し、4年間を過ごし、1896年4月に高等小学校に入学した。2年後の1898年4月、石川県第一尋常中学校(後の、金沢第一中学校、現在の金沢泉丘高等学校)に入学。5年間を過ごし、1903年3月に卒業した。石川県尋常中学校から数えて10期の卒業生である。その後、一郎は早稲田大学へ進学した。(『詩魔』p37)
犀星と悌一、新たなる旅立ち
受験に失敗し、1908年2月に東京から戻った悌一は逓信部に就職し、2月26日、七尾郵便局に赴任した。七尾線が開業してすでに10年を経過しており、七尾はけっして不便な場所ではなかった。8月に紫影が八高へ転任することになるが、7月26日におこなわれた送別を兼ねた俳句大会には、悌一も犀星も出席している(『詩魔』p40)。紫影転任と相前後して裁判所の上司赤倉錦風が金沢出身の河井虎太郎が社長を務める凸版印刷に入社、上京した(『評伝』p83)。
12月、犀星は金石出張所へ転勤する(『評伝』p83)。俳句における二人の師が金沢を離れたことが一因になったと考えるむきもあるが、すでに犀星の興味は俳句から詩の方へ広がっており、家と金沢の街を離れて、創作の場を得たいとの思いが強かったかもしれない。そして、先に述べたように千賀の生まれた金石に懐かしさを感じる面もあったかもしれない。犀星は結局、金石10カ月程で、裁判所を辞め、金石と同じく河口港の福井県三国町にある「みくに新聞」に就職。しかし、そこもしばらくして辞め、金沢へ舞い戻り、1910年5月、錦風を頼って上京した。この年、風骨は朝鮮、北川洗耳洞は台湾へ新たな仕事の場を得て旅立った。
養母赤井ハツ
犀星のおいたちに、欠かすことのできない人物がいる。育ての親、赤井ハツ。
女だてら昼間から友人たちを呼び、肌ぬぎして大酒を飲み、ヒステリイの手に負えない莫連女。そして『弄獅子』(らゐさい)には、半狂乱のような養母の姿が容赦なく描かれている。とうとう赤井ハツの人物像は、このように定着してしまった。『道草』に描かれた養父の姿が、漱石の養父塩原昌之助の姿として、そのまま定着してしまったのと同じである。けれども昌之助が『道草』の養父そのものでないと同様、犀星の養母ハツの姿も同様とは言えないのではないだろうか。
ハツを、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であったと言う説がある。果たしてほんとうだろうか。カネのためと言われるが、月々多額の養育費を貰っているわけではない。おそらく預かる時に幾ばくかの金銭を受取ったであろうが、その後は自己負担である。経済的にはマイナス。気苦労も絶えない。それにも関わらず、あえて四人の子どもを貰い受けて育てたのは、子どもを育てたいという、抑えがたい「母性」によるものだったのではないだろうか。
私は『評伝』を読んで、この推論が間違っていなかったと言う確証を得た。つまり、ハツには子どもがあり、その子を亡くしているというのである。1882年に兄毛利元造預かりになったのは、その頃、不義の子を宿したためかもしれない。我が子への供養と、抑えがたい「母性」から、最初に貰い受けたテヱは、ハツの姪にあたるようだ。その後貰い受けた三人の子ども、いずれも実家ははっきりしている。
犀星が描く養母は常に莫連女ではない。『幼年時代』では、実家へたびたび行く「私」に対して、「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家へ来たらここの家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」「時々行くならいいけどね。なるべくは、ちゃんとお家においでよ」と、穏やかな対応である。そして、
「これを持っておへやへいらっしゃい」母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。
と言うように、まあ普通の母親像である。
「莫連女説」の立場からみると、『幼年時代』のこうした記述は、「こんな母親であったなら」という憧れ、美化であって、莫連女の裏返しであると。しかしながら、犀星は上京後も、たびたび帰郷し、養家に戻っている。東京では住処を転々としながらも、金沢には帰る家があった。まさに「母港」である。そして、そこにはハツが居るのである。犀星は、養父死後もハツを訪ね、また東京にも招待している。
犀星の実父に関する通説も、養母に関する通説も、事実とずいぶんかけ離れているかもしれない。
【参考文献】
船登芳雄:『評伝室生犀星』、1997年、三弥井書店
森勲夫:『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』、2010年、橋本確文堂
岡崎武志:『上京する文學』、2012年、新日本出版社
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