森は犀星の生母を山崎千賀と考え、吉種実父説を検討したが、船登同様にムリと判断し、実父生種説を検討しようとしている。
犀星誕生を1889年8月とすれば、千賀は前年の秋に身ごもったことになる。生種は1888年5月まで作道村(つくりみち村)、6月から下田子村の学校に勤務しており、高岡の廓にいる千賀のもとに通うには、どちらも遠すぎる。しかも薄給で、遊びに使うカネはなかったであろう。それに長男悌一が1888年3月に生まれているから、まさが亡くなった10月にはすでに珠は妊娠していたことになる。生種と結婚した時、珠は15、6歳で、すぐにいっしょに住むようになったかわからないが、少なくとも1887年の春頃からは生活を共にしていたと考えられる。珠は17、8歳である。生種は作道村の荒木家に下宿していたが、屋敷が広く、妻を迎えてからも荒木家で間借りして生活していたと考えられている。
森は生種実父説を取ろうとしていたが、結局、勤務校は高岡から離れており、妊娠に至るほど何回も千賀のもとを訪れることは難しいのではないか、ということで「犀星の実父は小畠生種、実母は山崎千賀」という説をあきらめている。言い換えれば、何回も千賀のもとを訪れることが可能であれば、生種・千賀説は再浮上することになる。
犀星が生まれたとされる1889年8月1日の前年、1888年。『詩魔』によれば、生種は3月に長男悌一が生まれ、5月まで作道小学校に勤務し、6月に下田子小学校に転任している。現在では氷見市に属する下田子の学校は、氷見線島尾駅で下車して、さらに内陸にむかって行かなければならない。千賀が妊娠したとされる秋に、生種は下田子の学校に勤めていた。今でも遠い感じであるが、氷見線開通前の下田子はかんたんに往来できる場所ではなかったと、森はみている。しかしながら、下田子は氷見街道沿いで高岡に直結しており、むしろ島尾などにくらべ高岡に近いことを、森は見落としているのではないだろうか。下田子から千賀が働いていたとみられる下川原町まで8キロくらい。一方、それまで住んでいた作道も、結婚した1885年に国道になった北国街道に出て、庄川を渡れば、下川原町は8キロくらい。
8キロは金沢に当てはめれば、金石から東の廓、西の廓へ行くくらいである。この距離をどうみるか。当時は歩くことが当たり前で、小学生でも片道4キロ以上の道のりを徒歩で通学した地域もあったから、その気になれば通えない距離ではなかったのではないだろうか。
生種が教員として篤親尋常小学校(作道小学校の前身)に赴任したのは、1883年。二十歳の時である。以来、作道村内で教員を続けて来た。森は、薄給でも村の名士として高岡で催される宴会に招かれ、千賀と知り合う機会はあったかもしれないとしている。いつしか、宴席を離れてふたりの関係ができ、下田子転任後も続いたとみることは、じゅうぶん可能である。
もちろん、このような関係が廓において許されるのかという疑問も残るが、千賀はすでに1887年6月には勇木楼所在地に分家しており、廓で働くと言っても、囲われた身ではなく、特定の男性との交際もある程度許容されていたのかもしれない。とは言っても、大きなお腹を抱えて廓勤めというわけにもいかず、犀星を妊娠した翌年の1月、横田村303番地に転居したのではないか。横田村というと遠い感じがするが、高岡に隣接し、下川原町には近かった。
千賀の妊娠を知った生種は、妻珠、実家の中村家に言うこともできず、密かに父吉種に相談し、吉種は自分の不始末としてハツに引き取ってくれるよう依頼。犀星が生まれると、ハツは「父不詳、母ハツ」として出生届を提出。今なら、産んでもいない女性が、母親として出生届を出すことなどできないだろうが、当時は本人の申告だけで、出生を確認することもなく、受理されたのだろう。
まだ、鉄道開通以前である。生まれて間もない子を高岡から金沢へ連れて来るのは、リスクが大きい。勇ましい乗合馬車が登場する鏡花の『義血侠血』が書かれたのが1894年。資料がないが、1891年頃には高岡・金沢間に乗合馬車が走り始めていたかもしれない。千賀は横田村で犀星に母乳を与えながら暮らし、1891年、乳離れするようになった犀星を連れて金沢へ戻り、犀星を正式にハツに引き渡し、自分は上新町に住むようになった。千賀は以降、一度も犀星に会うことはなかったようだ。それが宿命と、大きな決断をしたのであろう。このような流れは、必ずしも不自然ではない。
こうして、「父吉種、母不詳」という不自然な通説と異なり、戸籍上は「父不詳、母ハツ」という一般的にみかける記載になったのである。
船登は生種が、父が亡くなるまで金沢の小畠家に戻らなかったことを、父を許せない、父との確執と捉えているが、実態は真逆で、自分の罪を背負ってくれた父に顔向けできなったとみる方が良さそうである。父が亡くなると、待ちかねたように生種は家族を連れて金沢へ戻って来た。