このページのPDF版はコチラ→
2.上京
鏡花・秋聲・犀星のうち、もっとも早く上京したのは鏡花である。
「小説家になりたい!」
意を決した鏡花は、紅葉の門下となるため、ついに東京をめざして金沢を出発する。おりしも、水野源六の妻と金具職人の山尾光侶が上京するということで、これに同行することになった。水野源六は元加賀藩細工方金工で、鏡花の父清次の親方筋にあたり、当時、皇居造営にともなう金具製作のため、東京に滞在していた。
自筆年譜によると、鏡花は1890年11月28日、金沢を発ち、陸路越前を経て、敦賀から汽車に乗って上京した。満17歳の年である。巖谷大四は、鏡花は敦賀と静岡に一泊し、11月30日午後4時、新橋駅に到着し、ついに念願の東京の土を踏んだ、と記している(『人間泉鏡花』)。鏡花は東京に着いた日時を記していないが、巖谷は鏡花が記した出発日と、鉄道を利用した所要時間から、11月30日という到着日を割り出したのであろう。
しかし、待てよ。当時、鉄道は敦賀までしか開通しておらず、敦賀・金沢およそ150キロは基本的に徒歩である。一日で移動できるはずがない。
それでは、鏡花たちは何日かかって敦賀に着いたのだろうか。すべて徒歩だったのだろうか。この問いかけに回答するのは、じつはけっこうやっかいなことである。と言うのも、この頃の交通史の研究は、江戸時代の宿駅制度の研究と、明治の鉄道史の間に、ぽっかり空白になっているのである(注)。
では、すべて徒歩であったらどうなのか。
江戸時代、一日の徒歩の行程はおよそ30キロであったと言われている。金沢から敦賀までなら、5日にわたって、毎日毎日歩くことになる。
それを裏付ける史料が私の手元にある。池田屋喜太郎という人が、1813(文化10)年、輪島(石川県)から伊勢参りに出かけた道中記録である。それによると、15日に金沢を発った喜太郎は、17日に福井に着き、19日に今庄を発って、山越えで柳ケ瀬にぬけている。まだ敦賀を経由するルートはなく、栃ノ木峠(標高539m、北国街道)や木の芽峠(標高628m、北陸道)を越えていたが、この柳ケ瀬は距離的に敦賀に置き換えることができるので、金沢から5日の行程である。たとえ一日であっても、私はこの距離を歩くのはゴメンである。
これが明治に入ると、どうなのか。安田道義著『漱石と越後・新潟~ゆかりの人びと』には、生まれて間もない中根鏡子(後の夏目漱石夫人鏡子)が母たちとともに、どのような行程を経て、東京から新潟へやって来たかが記されている。それによると、1877年11月21日頃(この頃、鏡花は4歳)、神田駿河台の家を出て、人力車で中山道を進み、浦和・熊谷・高崎に宿泊。ここで中山道を離れ、渋川まで行き、駕籠に乗り換え、三国街道を進み、中山宿・永井宿と泊まって、三国峠を越え、浅貝・三俟(三俣)・六日町と泊まって、ここから舟で下り、長岡に宿泊して、さらに舟に乗り、ようやく新潟にたどり着いた。東京・新潟間、概ね300キロ。1日30キロで計算すれば、確かに10日かかるわけである。鏡子と言う赤子がいるため、母子の負担を考え、渋川まで人力車を使用しているが、所詮、人力であるから、大幅に所要時間を短縮できるものではなかった。
けれども、鏡花が上京するのは、明治になって20年余の時期である。さすがに長距離の移動、すべて徒歩というわけではあるまい。ここで、ふと浮かぶのが『義血侠血』である。そこには乗合馬車が登場する。人力車にかわって乗合馬車が登場し、料金と所要時間を各社競い合っている。
乗合馬車が初めて登場したのは1869(明治2)年、東海道を横浜・東京間。続いて、1872(明治5)年、中山道郵便馬車会社が神田昌平橋・高崎間に二頭立ての乗合馬車を運行。さらに、千里軒は1876年、浅草広小路・宇都宮間に乗合馬車の運行を開始している。東京から越谷まで運賃は49銭。1里7銭の割だったと言う。鏡子の父、中根重一は新潟赴任にあたって高崎まで乗合馬車を使用している。
ただ、これはあくまで「首都圏」の話しであって、地方はどうだったのか。『義血侠血』が書かれたのは1894年。乗合馬車は高岡と県境の倶利伽羅峠下まで走っており、その描写から、鏡花が1888年に富山へ行ったおりの実体験がもとになっていると考えられる。そうであるならば、鏡花上京時にも、金沢から高岡・富山はもちろん、小松・福井にむけて、各県境の峠道を除いて、乗合馬車が運行されていても不思議はない。北陸地方における乗合馬車に関する資料や研究が皆無に等しいため、確証を得ることはできないのであるが、秋田県公文書館所蔵の乗合馬車会社「走栄軒」の広告によると、1882年に秋田・能代間(約55キロ)で乗合馬車の運行が始まっており、この推論が間違っていないことを証明しているように思える。
明治政府は「富国強兵」「殖産興業」政策を進めてきた。江戸時代と比べものにならない量の物資と、比べものにならない数の人を移動させなければならない。1894年には日清戦争に突入する日本であるから、軍隊と軍事物資の輸送も重要である。いつまでも江戸時代のように徒歩というわけにはいかない。そのために、鉄道の建設とともに、車両が通行できる道路づくりが急務であった。
敦賀には東海道線全線開通(1889年)より前の、1884年に鉄道が開通した。武生から今庄を通って、栃ノ木峠や木の芽峠を越える従来のルートでは敦賀を通らないため、武生から春日野峠(標高315m)を春日野トンネルで越え、海岸沿いに大良・杉津・赤崎を通って敦賀へ至る敦賀街道(武生敦賀新道)の建設が進められ、1887年に開通した。距離はおよそ45km。車両用に整備された道路ではあるが、峠の区間では乗合馬車は運行されず、徒歩で峠を越えたのではないだろうか。
金沢・小松間(約30キロ)さらに大聖寺(現、加賀市)まで乗合馬車を利用し、徒歩で牛ノ谷峠を越えて、福井県に入り、金津(現、あわら市)から再び乗合馬車で福井へ。さらに福井・武生間(約20キロ)を乗合馬車で移動し、徒歩で春日野峠を越えると、海岸沿いの新道を乗合馬車で敦賀へ。場合によっては、峠近くまで、乗合馬車を利用できたかもしれない。乗合馬車に関する資料がないので、これはあくまでも推測でしかないのだが、最大限乗合馬車を利用することができたとしても1泊、おそらく2泊しなければ敦賀へたどりつくことはできなかったのではないだろうか。すでに12月に入った春日野峠越えは、冷たい北西の季節風が吹きすさび、鏡花たちは難儀をしたことであろう。
敦賀は日本海側で初めて鉄道が開通した街である。当時の敦賀駅は現在より海寄り、気比神宮前にあり、その先、港に臨む金ヶ崎駅が終着になっていた。敦賀から鏡花は生まれて初めて汽車に乗った。鏡花が上京した1890年当時の時刻表を私は持ち合わせていないが、1884年開通当時の時刻表にもとづくと、1日6本ある列車の一番目は金ヶ崎6時2分発、8時12分に長浜に到着した。おそらくこの時間帯の列車が、東海道線全線開通にともない米原まで延伸され、運行されたと考えられる。8時30分頃、米原に到着したのではないだろうか。ここで東海道線に乗り換えるが、1889年7月1日(東海道線全線開通の日)からの時刻表に従えば、米原11時20分発、静岡着20時40分。
静岡中心街の旅館で一泊した鏡花は、翌日10時30分、静岡駅を出発し、17時15分、ついに新橋駅に到着した。それから鉄道馬車に乗って神田へ行き、神田山本町の水野の家に一泊した。山本町は現在の外神田4丁目、秋葉原駅から北西に少し行ったところ。御成道(現、中央通り)をはさんで西、神田明神へ至る途中には、金澤町(現、外神田3丁目)がある。さらに、御成道を少し北へ行けば下谷広小路(現、上野広小路)。この一帯が、鏡花の母すずが生まれ育った下谷の地域である。
(注)矢ケ崎孝雄は『明治後期における石川県下の交通』において、「明治前期の交通」の項を設け、海上交通、河川交通について述べた後、「陸上交通の発達」の項で鉄道の開通、道路交通の発達について述べているが、その中で《鉄道の敷設の前に車の発達があった。》《明治前期にはとくに人力車と中小車が顕著であった。》と記しているものの、乗合馬車に関する記述はなく、焦点は馬車鉄道に移っている。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
安田道義:『漱石と越後・新潟~ゆかりの人びと』、新潟日報事業社出版部、1988年
矢ケ崎孝雄:『明治後期における石川県下の交通』(歴史地理)、1966年
© 2017-2019 Voluntary Soseki Literature Museum