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2.上京
1891年10月。秋聲の父が脳溢血で亡くなった。74歳。鏡花が紅葉宅を訪れ、弟子入りを許された時期である。
父の死後、秋聲は学資、学力両面の不安から、家にこもって読書にふけるようになっていったが、同時に、東京へ出て、小説家になりたいとの思いを強くしていった。父の葬儀に帰郷していた長兄直松は励ましたが、次兄順太郎は強く反対した。
一方、秋聲の高等小学校以来の親友、桐生政次(悠々)もまた、自分の将来について考え、悩んでいた。桐生は1873年、加賀藩士の家に三男として生まれ、鏡花と同い年で、高等小学校の同期であるが、二つ年上で二年遅れて入学してきた秋聲と気が合った。
ついに秋聲と桐生は高等中学校を退学し、小説家になることを夢見て、1892年3月末、連れの小島とともに上京した。鏡花上京に遅れること二年余、陸上交通の状況はそれほど変わっていないだろうから、乗合馬車を利用しながら、峠越えなどは徒歩で敦賀までやって来て、そこから汽車で東京へむかったと思われる。
上京した三人はとりあえず越前堀にある小島の親戚の家に落着いた。越前堀は越前松平家32万石の中屋敷があったところで、霊岸島に接し、現在の中央区新川1・2丁目にあたる。
4月にはいって、秋聲と桐生は紅葉宅を訪れたが、すでに紅葉のもとに玄関番をしていた鏡花に、先生は不在だと言われた。後に二人が顔を合わせるようになってから、秋聲が一件を話しても、鏡花は覚えていなかったという。秋聲が帰ってから紅葉に送った原稿も、「柿も青いうちは鴉も突つき不申候」の手紙とともに突き返された。
金沢から出て来た文学青年たちは、博文館を訪ねたが採用の見込みもなく、越前堀近くの大工の屋根裏に移り、京橋八官町にあった桐生の友人谷崎安太郎の家で、消火器の部品製作を手伝ったりして生活の糧を得た。京橋八官町は現在の中央区銀座8丁目で、角に資生堂がある花椿通りを外堀通りへ出た辺りである。
けれども、消火器をつくりに上京したわけでもなく、秋聲はひとりで大久保余丁町に坪内逍遥を訪ねた。牛込区もはずれ、すぐ南豊島郡大久保村というところ。『小説神髄』で知られた逍遥は、ここで文芸協会演劇研究所を設立し、松井須磨子は第一回研究生だった。
秋聲は逍遥と話している時、発熱を感じ、早々に辞し、受診すると軽い天然痘にかかっていることがわかり、桐生とともに静養した。当時、東京では天然痘が流行し、死者135人にのぼったという。
5月になって、桐生は復学するため金沢へ戻り、秋聲は大阪にいる長兄の許に身を寄せることにした。秋聲たちの第一回上京は挫折のうちに終わりを告げた。
1年ほど大阪で過ごした秋聲は1893年4月、金沢へもどった。母と妹は御徒町の借家に移っていた。御徒町は1883年から86年まで住んだところである。桐生とも再会し、第四高等中学校の受験準備を始めたが、収入を得るため、北陸自由新聞に出入りし、主筆の渋谷黙庵と知り合い、原稿を書くようになった。
翌1894年4月、第四高等中学校の補欠入試を受けたが、一日で放棄し、長岡の平等新聞に新聞記者として入社する道を選んだ。平等新聞には、先に渋谷黙庵が転じており、秋聲の英語力を買って、引っ張ったものである。
秋聲が大阪から金沢へ舞い戻り、急遽長岡へ旅立つおよそ1年の間、鏡花もその多くの間、金沢にいた。8月から10月までと、翌年1月に父が亡くなって帰郷してからである。そして秋聲が長岡へ出発した時も鏡花は金沢にあり、将来を模索しながら金沢城の百間堀端に佇んで自殺の誘惑にかられていた時期である。もちろん、お互い、金沢にいることなど知るよしもなかった。
秋聲がどのような経路で長岡へ行ったか定かではないが、9月に上京した鏡花が伏木(富山県)から直江津まで船便を利用して、その後、信越線で上野へむかっているところから推察すると、金沢を乗合馬車で出発し、途中、倶利伽羅峠は歩いたかもしれないが、高岡までやって来て、伏木から直江津、あるいは柏崎まで船便を利用し、その後、徒歩で長岡までやって来たと考えられる。史料がないのでわからないが、柏崎から長岡までは乗合馬車が通っていたかもしれない。
おりしも、日清両国の朝鮮出兵は、8月に入って日清戦争へと発展していったが、長岡へ来た秋聲は上京の夢を捨てたわけではなかった。紅葉と祖母の励ましを受け、金沢にあって将来をかけて作品を書いていた鏡花。読売新聞に『義血侠血』が連載されるや、人気を博し、作家としての道を切り開いてきている。負けてはいられないと言う思いが秋聲には強かったであろう。鏡花にできたのだから、自分にもできるであろうと言う思いもあっただろう。
そんなおり、一足早く鏡花に訪れた文壇に登場する幸運が、秋聲にも訪れることになった。秋聲は長岡へ帰郷した博文館主大橋佐平を取材する機会を得て、面識を得ることができた。自分自身も東京に何となく道が開けそうである。とうとう秋聲は、母が病気であると偽って、1895年の元日に長岡を発ち、直江津から信越線に乗って、東京にむかった。
こうして、日清戦争の真っ最中、再び東京の土を踏んだ秋聲は、北陸自由新聞時代の同僚窪田の世話で、神田今川小路(現、千代田区神田神保町3丁目、地下鉄九段下駅と神保町駅の間)にある窪田の縁者にあたる老人の間借先に同居させてもらうことになった。
2月になると、秋聲は窪田の紹介で東京郵便電信学校に勤めることになり、事務を執る傍ら英語を教えた。かつて北陸自由新聞主筆だった渋谷黙庵が、平等新聞に秋声を引張ったのも英語力を買ったものであった。東京郵便電信学校は芝区芝公園13号にあり、現在の港区芝公園2丁目、芝パークビルが建っている辺りにあった。秋聲は予備校に住み込んだ。
そして4月には長岡出身の小金井権三郎代議士の紹介で、三年前に採用を断られた博文館に入社することができ、秋聲は博文館に寝泊りするようになった。
当時、博文館は日本橋本石町3丁目16にあり、現在の日本橋室町4丁目。中央通りと江戸通りの交差点の北東角辺りになる。大橋乙羽・巖谷小波らの中で校正やルビふりが主な仕事だったが、この年の2月から博文館の仕事をするようになっていた鏡花と顔を合わせ、6月、ついに紅葉に会い、門下になることを認められた。
鏡花に先生は不在と言われ、紅葉宅を後にしてから3年余の歳月が流れていた。二つ年下の鏡花はすでに世間に注目されるようになっており、水をあけられた感は否めないが、とにかく小説家へのスタートラインに立つことができた。すでに日清戦争は終結していた。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
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