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2.上京
1910年5月5日夜、犀星は金沢を発って上京した。北陸線は犀星が尋常小学校在学中の1898年、金沢まで開通したので、すでに12年経過していた。鏡花や秋聲のように、徒歩を交えて、乗合馬車などで敦賀まで行くという厳しい状況は解消され、犀星は汽車で、金沢を発ち、米原から東海道線に乗り換え、新橋駅に上京の第一歩を印したのである。こうして、後に文豪とよばれる鏡花・秋聲・犀星の三人は、東京の同じ空の下に暮らすことになった。もちろん、鏡花も秋聲も、犀星の存在など知らなかったであろう。
30年後に書かれた『洋灯はくらいか明るいか』によって、上京一日目の犀星の行動を再現してみたい。もちろん、年月を経て書かれたものであるから、犀星の記憶違いなどもあるかもしれないし、脚色があるかもしれない。
午前10時、ちいさな風呂敷包みと一本のさくらのステッキを持ったきりの犀星が、新橋駅のプラットホームに降り立つと、煤と埃で汚れた煉瓦の色が東京の第一印象。新橋駅にはあらかじめ連絡を受けていた幼馴染の田辺幸次(1890~1945)や、幸崎伊次郎、それに一年先輩の美少年、吉田三郎(1889~1962)が出迎えた。三人は共に東京美術学校に学んでいた。犀星は彼らの大人めいているものに対抗できない泥くささを自身の中に感じた。
新橋駅に到着した犀星は生まれて初めて路面電車を見、そして乗った。明るい車内。派手な女の人の服装を初めて見て、犀星はまばゆい感じがした。後に犀星は『私の履歴書』で、
東京の印象は電車という物、乗客という者らが田舎と違って美しいことを知った。
と記している。電車は、やはり、とても強烈な印象を与えたのだろう。そう言えば、犀星より二年前の1908年に上京した小川三四郎は、東京で驚いたものはたくさんあるが、
第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。
と、電車が真っ先にあげられている。
犀星たちは、新橋駅最寄りの芝口電停から1系統に乗車し、銀座、須田町を通って上野に着いた。田辺は大きな声で、いちいち「ここはどこ」と説明した。その大声に犀星はひやひやした。電車がすれ違うたび、眼をつぶっていた犀星だが、往復5銭で乗れる電車に好感をもち、「できるだけこれから電車に乗ってやろう」と思った。漱石の『三四郎』でも、三四郎が与次郎から勧められて、おおいに電車を利用している。
上野公園で電車を降り、駒込千駄木林町にある田辺の下宿にむかった。おそらく、池之端から不忍池に沿って根津、そして団子坂を上ったと思われる。ひょっとしたら、上野公園内を通り、田辺らは誇らく思いながら、美術学校の前を通り、いつもの通学路である谷中から団子坂へむかったかもしれない。昼食をどこで食べたか書かれていないが、田辺が柏餅をごちそうしたようで、犀星は柏餅にたいそうびっくりした。犀星は、
菓子といえばお茶のはやる故郷にあんな柏の葉つぱにつつんだ乱暴な菓子なぞは、見たくともなかつた。
と記している。東京より金沢の方が、お菓子に関しては上品であると言いたそうである。
その晩、犀星は田辺と幸崎に連れられて浅草公園六区の映画館街へ行った。上野公園か上野ステイション前から電車に乗り、田原町で降り、奴鰻の前を通って六区へむかったのだろう。たぶん、日本パノラマ館の前を通ったと思われるが、すでに閉館し、その後に「光と影」を売り物にしたルナパークが建設中だった。ルナパークは9月10日に開館する。
犀星はさほど驚かなかったが、金魚釣りの店がたくさん並び、一杯の人で、金魚の口の二倍くらいの泡が吹かれているのをあわれに思った。その犀星が何十年か後に、金魚に恋しながら『蜜のあわれ』を書くことになるとは。
田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。(略)江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた。
犀星は十二階(凌雲閣)を見た。そして永い間うごかずに感動していた。
田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。
何か『三四郎』の一節を読んでいるような錯覚に陥る。さしずめ、田辺与次郎と室生三四郎といったところだろうか。
その晩は田辺の下宿に泊まったが、枕を並べて寝ようとすると、田辺は、
犀星はどこか行くあてがあるかといい、あると私は応えた。あるならよし、なければ明日にも国に帰れ、一日見れば東京はたくさんなところだ。おれは君とともに共倒れになる生活はできないと彼は先ず痛烈に一撃を加えて置いて、さあ寝ようと、三十年の後に故郷の工業学校校長になる彼は云つた。
犀星はこの痛烈な一撃のためになかなか眠れなかったが、
今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。注:混鬧(こんどう)
この文は最初の上京から30年を経て書かれたものであるから、後の分析が入り込んでいるかもしれないが、大都会東京の姿をみごとに表現しているように思われる。そして、この雰囲気に好感をもったからこそ、犀星は振り子のように東京と金沢を行ったり来たりしながらも、東京を捨てきれなかったのではないだろうか。
つぎの日、犀星は田辺の下宿から、根岸の赤倉錦風を訪ねた。初めての東京であり、途中まで田辺が案内してくれたかもしれないが、菊人形で有名な団子坂を下り、びわ橋と名づけられた石橋で藍染川を渡り、谷中霊園前で右折して上野公園へむかえば、やがて左手が東京音楽学校、右手が田辺、幸崎や吉田が通う東京美術学校である。二つの学校の間の道を抜け、博物館の前を過ぎ、輪王寺の手前で左折して、しばらく歩いて、上野の山を下り、東北線の下をくぐり抜け、交番のところまで来ると、そこから先が根岸である。現在は鶯谷駅に接する綾雲橋で東北線などを越えていく。交番のあった辺りは言問通りになっている。
赤倉錦風は犀星が裁判所に給仕として勤めた当初の上司で、俳句の手ほどきをしてくれた人物で、乞われて金沢出身の河井虎太郎が社長を務める凸版印刷に転じていた。錦風は上京してきた犀星を自宅に置き、東京地方裁判所の筆耕のアルバイトを紹介した。
それでも、しばらくして錦風の家を出た犀星は、根津片町、谷中、三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、安酒を飲み、画学生や同じように文学を志す若者たちと知り合った。そのような中で犀星は能登出身の安野助太郎と藤沢清造に出会った。雑誌編集者であった三歳年長の安野は二年後に自殺してしまった。幼い頃、骨髄炎を患い、右足を引きずっていた藤沢は、安野をモデルに『根津権現裏』を書いたが評価されず、1932年1月、芝公園内で凍死し、身元不明者として火葬された。犀星はまた、北原白秋や児玉花外などを訪ね、好感をもって迎えられた。
岡崎武志著『上京する文學』によると、当時、東京の下宿代は12円くらいで、犀星が石川新聞社に勤めて得ていた給料と同額であった。石川啄木が本郷に借りていた6畳間まかない付きの下宿は月10円であった。犀星は所持金4円で上京し、定職もない。母親から《学資は毎月月末に届く様にするから安心しろ》と言う手紙をもらうほど恵まれていた三四郎とは大きな違いであった。
犀星は少しでも生活の糧を得るため、代作も引き受けた。とくに吉田三郎の紹介で犀星は、東京薬学校の校友会誌「薬事評論」の編集をしていた神谷吉兵衛が文芸欄に神谷白楊名義で発表する作品の代作おこなった。おそらく、収入を得させるための吉田の計らいであろう。吉田は犀星の友人であったが、神谷が第四高等学校で吉田と知り合いであったからである。神谷は東京帝国大学薬学科卒である。代作詩には、上田敏訳詩集『海潮音』(1905年)の影響を受けた北原白秋の第一詩集『邪宗門』(1909年)の影響がみられる。
根津片町は弥生坂で本郷台を下り、小川を越え、藍染川までの間で、現在の根津2丁目。団子坂を下り、藍染川を越えたところが三崎町で、上りになって、寺院の多い一帯が谷中である。犀星が初めての上京で過ごした、谷中・根津・千駄木は今日「谷根千」と呼ばれる、山の手にありながら東京下町の風情が残る地域で、ゆかりの文化人も多い。東京帝国大学と東京音楽学校・美術学校の間にある地域だから、学生や芸術家の卵たちがおおぜい暮らしていた街である。犀星は単に田辺を頼ってこの地にやって来ただけかもしれないが、結果的にとても良い環境に身を置いたことになる。犀星は「谷根千」を転々としながら、とにもかくにも、東京で不安と希望が入り交じった生活を送っていた。
転々とすることにかけては、北原白秋の方が一枚上手かもしれない。1904年に19歳で上京して以来、およそ9年の間に、わかっているだけでも17回転居している。したがって、犀星が上京した1910年、白秋がどこに住んでいたか、探すのはたいへんそうである。ところがこの年に関しては意外と手がかりが残されている。1910年9月、白秋は牛込新小川町から千駄ヶ谷原宿85番地に引っ越した。犀星が初めて憧れの白秋に会ったのは、まだ新小川町に居た頃だろう。飯田橋の北、江戸川に沿った地域である。広小路(現在の上野広小路)や本郷三丁目から電車で乗り換えなし、終点の大曲(新小川町)で下車すれば良かった。
なぜ、白秋が新小川町から転居したか、この後述べる東京大水害によって、江戸川(神田川)流域は、深いところでは3メートルを超える浸水に見舞われ、大きな被害が出ている。今まで語られたことはなかったが、私はこの大水害が白秋転居のきっかけと推察している。そして、結果的に運命の出会いへと発展していくのである。
転居先の隣りには、松下俊子(旧姓福島、三重県名張の漢方医福島家長女)と言う22歳の美貌の人妻が住んでいた。女の子がひとりいたと言うが、妾の子を俊子が育てていたとも言われる。白秋は俊子を、
豊満な、非常に目の動く仏蘭西型の貌だちで、背のすらりとして下腹部できゆつと締って腰の出っ張った、どう見ても日本の女では無かった。
と、表現している。俊子の夫松下長平は写真家であったが、妻妾同居を強要し、今で言うDV男で、俊子は生傷が絶えず、別居中であった。俊子と25歳の白秋はいつしか良い仲になっていった。そしてこのことが松下に知れ、白秋と俊子は姦通罪で訴えられた。白秋はこの年、『屋上庭園』2号に掲載した詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受けており、散々な年であった。
白秋は二週間拘置され、釈放された。後、和解が成立し、告訴は取り下げられ、1913年に二人は結婚し、三浦半島に転居。有名な『城ヶ島の雨』が生まれている。1914年、肺結核に罹った俊子のために小笠原父島に移住するが、しばらくして東京へ戻り、父母との折り合いが悪く離婚した。
犀星が初めて上京した1910年はたいへんな年であった。6月1日に幸徳秋水と管野須賀子が湯河原で逮捕され、やがて各地で社会主義者・無政府主義者が逮捕され、12月に裁判が始まり、翌年1月には秋水ら12名の死刑が執行された。いわゆる「大逆事件」である。犀星より1年早く上京した同郷の尾山篤二郎は、上京時2回ほど秋水宅を訪ねたと言うことで、秋水処刑後、しばらく特高警察の監視を受けたと言う。この間、8月には韓国が日本の植民地になり(日韓併合)、10日から13日にかけて東京は大水害に見舞われた。
犀星が大逆事件をどのように捉えていたか定かではない。報道管制も敷かれていたので、事件の内容はほとんど知らされていなかっただろうし、日韓併合についても肯定的な報道が占めていたことだろう。
東京大水害に関しては犀星自身の記述もないので、おそらく被害はなかったのであろう。けれども、根津片町や三崎町は藍染川に沿う低地にあり、浸水被害が発生している。たまたま8月にその地域の下宿にいなかったのか、記憶や記録をする必要性も感じなかったのか、その点は不明である。後に犀星と親しくなる芥川龍之介は第一高等学校入学をひかえ、本所小泉町(両国駅の南側)で被災し、一家は水害の危険を避けるため、内藤新宿二丁目71番地の耕牧舎牧場の一隅にあった新原敏三の持ち家に引っ越した。
鏡花は犀星が上京して来た頃、終生の家となる麹町下六番町に転居しており、秋聲も本郷森川町に住んでいたから、高台に住む二人も浸水やがけ崩れと言った被害には遭っていない。
1911年12月には兄真道が結婚し、妹きんが実家の村田家に復縁しているが、犀星は帰郷しなかった。しかしながら、東京へ来れば、発表の機会も増え、自分の才能も認められ、文学で食べていく道も開けると考えていた犀星は、夢破れて帰郷する。1912(明治45)年初夏のことである。上京して2年余。結局、在京中に発表された犀星自身の作品は、1911年10月発刊の「創作」に掲載された詩二編のみである。「創作」は歌人若山牧水が主宰し、牧水と親交のあった尾山篤二郎の紹介によるものと推測されている。
犀星だけではない。後に文豪とよばれる三人、いずれも最初の上京では夢破れて帰郷しているのである。
追記)この時期の犀星の生活については、『犀星詩に描かれた東京』・『或る少女の死まで』の項でも取り上げる。
【参考文献】
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
岡崎武志:『上京する文學』、新日本出版社、2012年
洋灯はくらいか明るいか』は青空文庫に掲載されている。
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