加賀藩ゆかりの金澤町に隣接する神田山本町。鏡花の母すずが生まれ育った下谷の地域で東京生活の第一歩を踏み出した鏡花は、秋聲や犀星とはまったく違った思いを東京に感じていたのではないだろうか。初めて見る東京は、見知らぬ土地ではなく、もうひとつの故郷として、鏡花には映っていたはずである。
鏡花は神田山本町の水野家で一泊したあと、湯島1丁目女坂下にある福山の下宿を訪ねた。女坂というのは、男坂と並んで東側から湯島天神へ上る石段で、女坂の方は途中に踊り場などもあって緩やかである。本郷台の東端には、東に広がる低地を見渡すように聖域が続いている。南端から北にむかって、湯島聖堂、神田明神、妻恋神社、そして湯島天神。さらに北へ行くと、根津神社もある。後に、鏡花と湯島天神は切っても切れない関係になるが、もちろん、当時の鏡花は知る由もない。
福山はかつて金沢の泉家に止宿したことがあった顔なじみで、濟生学舎の学生であった。濟生学舎は湯島4丁目(現、湯島1丁目、東京医科歯科大学および附属病院の向かい辺り)にあった医学校で、医学の速成教育をおこなっていた。鏡花はしばらくの間、福山の下宿に居候することになったが、福山に連れられて、おでんや麦とろ、牛鍋を食べたり、寄席に行ったり、年暮の酉の日には吉原も見物したという。
年末になって鏡花は福山の友人で参謀本部の翻訳官をしている三竹の同僚井口の住まいへ移った。この住まいは麻布区今井町の寺院内にあった。今井町は氷川神社の正面にあり、現在は港区六本木2丁目。アメリカ大使館の宿舎が大きな割合を占めている。今井町には妙像寺・湖雲寺の他、五ヵ寺を確認することができる。
鏡花は井口のもとで三ヵ月ほど過ごした。すでに年を越し、明治24年、1891年を迎えている。つぎに鏡花は福山の従兄森川に引き取られた。自筆年譜にも「或時は麻布今井町の寺院より、浅草田原町の裏長屋に移りし事あり」と書いている。
浅草田原町は現在の台東区雷門1丁目。漱石が赤ちゃんの頃を過ごした浅草三間町に隣接する。朝鮮通信使の宿舎としても使われた東本願寺の裏門前一帯にひろがり、地下鉄銀座線田原町駅に名をとどめている。浅草寺に近く、1885年に花やしきが開園した他、一帯は歓楽街としてもにぎわい、鏡花が居候する裏長屋から300メートルほどのところに、鏡花が上京した年に開館した日本パノラマ館、さらに200メートルほど行ったところに、上京した月に完成した凌雲閣(通称「十二階」)が建っていた。凌雲閣は10階まで八角形で、赤煉瓦330万個を使用し、高さ60メートル。新潟県長岡の生糸商福原庄三郎がパリのエッフェル塔を見て、建設を思い立ったと言われ、八階まで日本最初のエレベーターが取り付けられていた。
鏡花が実際に入館したかわからないが、18歳の若者にとって、わくわくするような現実が目の前で進行していた。それが東京であり、浅草であった。そして、関東大震災で崩壊した凌雲閣を目の当たりにしていたとしたならば、鏡花は何を思っただろうか。ついでながら、私は鏡花が鰻の老舗「やっ古」の鰻を食べたか、とても興味がある。
この浅草田原町に2歳の久保田万太郎が住んでいた。後に万太郎は永井荷風とともに鏡花を師と仰ぐようになる。1911年に浅草駒形に移った万太郎は、親友の水上瀧太郎の依頼を実現するため、明治から大正に変った1912年、鏡花の自宅を訪れている。
浅草に1ヵ月半ほど過ごした鏡花は、5月になって、福山が神田五軒町に居を構えたので、そこへ引越した。神田五軒町は末廣町をはさんで、金澤町の北にあり、現在の千代田区外神田6丁目。練成小学校がある。などと言っているうちに、今度は本郷4丁目の下宿へ転じることになる。
当時の本郷4丁目は菊坂の下り口にあった。菊坂を下りていくと、やがて本郷菊坂町で、左手崖下の70番地には鏡花より1歳年上の樋口一葉が住んでいた。一葉は鏡花が上京する少し前の9月、この地に住むようになり、1892年、井戸をはさんで向かい側の69番地に転じている。鏡花が近くに住んでいた頃、一葉は小説家をめざし、朝日新聞の小説記者半井桃水の弟子となり、小説を書き始めていたが、生活は苦しく、質屋通いの連続であったという。一葉は本郷5丁目にあった伊勢屋質店の常連であった。
7月になると、ある医学生が鎌倉の材木座にある妙長寺(1299年創建)の一室を借りて過ごすことになったので、鏡花もこれに同行した。おそらく、夏休み、東京を離れて鎌倉の寺院で過ごそうというものだろう。横須賀線が1889年、横須賀まで開通し、東京から鎌倉まで汽車で行くことができるようになっていた。そんな便利さも手伝ってか、当時、学生たちが夏休みなどに鎌倉の寺院に参禅するのは、一種の流行のようになっており、漱石も2年後の1893年7月に参禅している。ところが鏡花たちが部屋を借りた妙長寺は、日蓮法難ゆかりの日蓮宗の寺院であった。
ここで鏡花は思わぬ災難に遭う。宿料に窮した医学生が逃げたため、人質のかたちで寺に残ることになったのだ。鏡花は1898(明治31)年、妙長寺のようすを『みだれ橋』(後に『星あかり』と改題)に描き込んでいる。
9月上旬、医学生から送金があって、鏡花はやっと東京へもどり、本郷龍岡町(現、文京区湯島4丁目)の下宿に同宿。本郷龍岡町は龍岡門の前に広がる町で、本郷区役所などもあり、現在、龍岡門を通って東京大学構内に入ると、東大付属病院がある。当時、東京帝国大学文科大学には漱石が在学しており、後に鏡花も東京帝大の学生を親友にもつことになる。
とにかく居候の身である。9月末には他の医学生らが住む湯島新花町(現、湯島2丁目)の下宿に同宿させてもらうようになった。この頃、しばしば娘義太夫を聴きに行ったという。新花町から300メートルほどのところ、春木町に1873年開設の本郷座(開設当初、奥田座。春木座を経て本郷座)があった。後に鏡花の『高野聖』なども上演される。ところがここは義太夫をやっていないので、本郷座から少し行った本郷東竹町(現、本郷2丁目)にある若竹座であろう。娘義太夫のことは漱石の『三四郎』にも出てくる。
10月中旬になると、医学生が妻恋坂下の長屋に移ったので、そこに同居した。妻恋坂は神田明神北100メートルほどのところにある妻恋神社の前を通る坂である。坂下というから、湯島三組町(現、文京区湯島3丁目)あるいは同朋町(現、千代田区外神田6丁目)であろう。
鏡花が初めて東京へ来てから、転々とする様を長々と書いてきたが、さていったい何のために上京して来たのだろうか。何のためであろうと、日々めまぐるしく変化する帝都は、ひとりの若者に時間を忘れて夢中にさせる魅力をもっていたことだろう。
気がつけば金沢を出てから10ヵ月余。夏以来、白地の単衣を一枚身につけるだけの困窮状態に、しだいに肌寒くなる中、心細くなってきた鏡花は、とうとう金沢の又従姉(目細てる)に無心を頼むまでになってしまった。従姉は珊瑚の簪を売って、五円の小為替券一枚を送ってきたが、鏡花はあちらこちらに借財があるため、どこから返したものやらと考えあぐね、結局券を破り捨ててしまったという。鏡花は金沢の友人から帰郷するように勧めもあり、紅葉に会おうと試みることもなく、金沢へ帰ることを決意した。