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3-1.下積み時代(1)
第1節
初めての東京生活
加賀藩ゆかりの金澤町に隣接する神田山本町。鏡花の母すずが生まれ育った下谷の地域で東京生活の第一歩を踏み出した鏡花は、秋聲や犀星とはまったく違った思いを東京に感じていたのではないだろうか。初めて見る東京は、見知らぬ土地ではなく、もうひとつの故郷として、鏡花には映っていたはずである。
鏡花は神田山本町の水野家で一泊したあと、湯島1丁目女坂下にある福山の下宿を訪ねた。女坂というのは、男坂と並んで東側から湯島天神へ上る石段で、女坂の方は途中に踊り場などもあって緩やかである。本郷台の東端には、東に広がる低地を見渡すように聖域が続いている。南端から北にむかって、湯島聖堂、神田明神、妻恋神社、そして湯島天神。さらに北へ行くと、根津神社もある。後に、鏡花と湯島天神は切っても切れない関係になるが、もちろん、当時の鏡花は知る由もない。
福山はかつて金沢の泉家に止宿したことがあった顔なじみで、濟生学舎の学生であった。濟生学舎は湯島4丁目(現、湯島1丁目、東京医科歯科大学および附属病院の向かい辺り)にあった医学校で、医学の速成教育をおこなっていた。鏡花はしばらくの間、福山の下宿に居候することになったが、福山に連れられて、おでんや麦とろ、牛鍋を食べたり、寄席に行ったり、年暮の酉の日には吉原も見物したという。
年末になって鏡花は福山の友人で参謀本部の翻訳官をしている三竹の同僚井口の住まいへ移った。この住まいは麻布区今井町の寺院内にあった。今井町は氷川神社の正面にあり、現在は港区六本木2丁目。アメリカ大使館の宿舎が大きな割合を占めている。今井町には妙像寺・湖雲寺の他、五ヵ寺を確認することができる。
鏡花は井口のもとで三ヵ月ほど過ごした。すでに年を越し、明治24年、1891年を迎えている。つぎに鏡花は福山の従兄森川に引き取られた。自筆年譜にも「或時は麻布今井町の寺院より、浅草田原町の裏長屋に移りし事あり」と書いている。
浅草田原町は現在の台東区雷門1丁目。漱石が赤ちゃんの頃を過ごした浅草三間町に隣接する。朝鮮通信使の宿舎としても使われた東本願寺の裏門前一帯にひろがり、地下鉄銀座線田原町駅に名をとどめている。浅草寺に近く、1885年に花やしきが開園した他、一帯は歓楽街としてもにぎわい、鏡花が居候する裏長屋から300メートルほどのところに、鏡花が上京した年に開館した日本パノラマ館、さらに200メートルほど行ったところに、上京した月に完成した凌雲閣(通称「十二階」)が建っていた。凌雲閣は10階まで八角形で、赤煉瓦330万個を使用し、高さ60メートル。新潟県長岡の生糸商福原庄三郎がパリのエッフェル塔を見て、建設を思い立ったと言われ、八階まで日本最初のエレベーターが取り付けられていた。
鏡花が実際に入館したかわからないが、18歳の若者にとって、わくわくするような現実が目の前で進行していた。それが東京であり、浅草であった。そして、関東大震災で崩壊した凌雲閣を目の当たりにしていたとしたならば、鏡花は何を思っただろうか。ついでながら、私は鏡花が鰻の老舗「やっ古」の鰻を食べたか、とても興味がある。
この浅草田原町に2歳の久保田万太郎が住んでいた。後に万太郎は永井荷風とともに鏡花を師と仰ぐようになる。1911年に浅草駒形に移った万太郎は、親友の水上瀧太郎の依頼を実現するため、明治から大正に変った1912年、鏡花の自宅を訪れている。
浅草に1ヵ月半ほど過ごした鏡花は、5月になって、福山が神田五軒町に居を構えたので、そこへ引越した。神田五軒町は末廣町をはさんで、金澤町の北にあり、現在の千代田区外神田6丁目。練成小学校がある。などと言っているうちに、今度は本郷4丁目の下宿へ転じることになる。
当時の本郷4丁目は菊坂の下り口にあった。菊坂を下りていくと、やがて本郷菊坂町で、左手崖下の70番地には鏡花より1歳年上の樋口一葉が住んでいた。一葉は鏡花が上京する少し前の9月、この地に住むようになり、1892年、井戸をはさんで向かい側の69番地に転じている。鏡花が近くに住んでいた頃、一葉は小説家をめざし、朝日新聞の小説記者半井桃水の弟子となり、小説を書き始めていたが、生活は苦しく、質屋通いの連続であったという。一葉は本郷5丁目にあった伊勢屋質店の常連であった。
7月になると、ある医学生が鎌倉の材木座にある妙長寺(1299年創建)の一室を借りて過ごすことになったので、鏡花もこれに同行した。おそらく、夏休み、東京を離れて鎌倉の寺院で過ごそうというものだろう。横須賀線が1889年、横須賀まで開通し、東京から鎌倉まで汽車で行くことができるようになっていた。そんな便利さも手伝ってか、当時、学生たちが夏休みなどに鎌倉の寺院に参禅するのは、一種の流行のようになっており、漱石も2年後の1893年7月に参禅している。ところが鏡花たちが部屋を借りた妙長寺は、日蓮法難ゆかりの日蓮宗の寺院であった。
ここで鏡花は思わぬ災難に遭う。宿料に窮した医学生が逃げたため、人質のかたちで寺に残ることになったのだ。鏡花は1898(明治31)年、妙長寺のようすを『みだれ橋』(後に『星あかり』と改題)に描き込んでいる。
9月上旬、医学生から送金があって、鏡花はやっと東京へもどり、本郷龍岡町(現、文京区湯島4丁目)の下宿に同宿。本郷龍岡町は龍岡門の前に広がる町で、本郷区役所などもあり、現在、龍岡門を通って東京大学構内に入ると、東大付属病院がある。当時、東京帝国大学文科大学には漱石が在学しており、後に鏡花も東京帝大の学生を親友にもつことになる。
とにかく居候の身である。9月末には他の医学生らが住む湯島新花町(現、湯島2丁目)の下宿に同宿させてもらうようになった。この頃、しばしば娘義太夫を聴きに行ったという。新花町から300メートルほどのところ、春木町に1873年開設の本郷座(開設当初、奥田座。春木座を経て本郷座)があった。後に鏡花の『高野聖』なども上演される。ところがここは義太夫をやっていないので、本郷座から少し行った本郷東竹町(現、本郷2丁目)にある若竹座であろう。娘義太夫のことは漱石の『三四郎』にも出てくる。
10月中旬になると、医学生が妻恋坂下の長屋に移ったので、そこに同居した。妻恋坂は神田明神北100メートルほどのところにある妻恋神社の前を通る坂である。坂下というから、湯島三組町(現、文京区湯島3丁目)あるいは同朋町(現、千代田区外神田6丁目)であろう。
鏡花が初めて東京へ来てから、転々とする様を長々と書いてきたが、さていったい何のために上京して来たのだろうか。何のためであろうと、日々めまぐるしく変化する帝都は、ひとりの若者に時間を忘れて夢中にさせる魅力をもっていたことだろう。
気がつけば金沢を出てから10ヵ月余。夏以来、白地の単衣を一枚身につけるだけの困窮状態に、しだいに肌寒くなる中、心細くなってきた鏡花は、とうとう金沢の又従姉(目細てる)に無心を頼むまでになってしまった。従姉は珊瑚の簪を売って、五円の小為替券一枚を送ってきたが、鏡花はあちらこちらに借財があるため、どこから返したものやらと考えあぐね、結局券を破り捨ててしまったという。鏡花は金沢の友人から帰郷するように勧めもあり、紅葉に会おうと試みることもなく、金沢へ帰ることを決意した。
紅葉に会う
人が出世するかどうかは、運である。どんなに実力があっても、運がなければ世に知られることもなく一生を終えていく。鏡花はまさに運の良い人間であった。そして、運を自分のもとに引き寄せるために、彼自身が主体的に動いたこと、それは上京するということであった。東京に出るということがなければ、鏡花も金沢の普通の人として、その一生を終えていたであろう。それは秋聲にも犀星にも言えることである。
もう金沢へ帰ろう。そう決意した矢先、医学生の一人が紅葉の親戚の家に下宿していることを知り、その縁で10月19日、牛込横寺町47番地に紅葉を訪ねた。紅葉門下になることを夢見て上京し、同じ空の下に生活しながら、勇気を奮って紅葉を訪ねることもなく過ぎた10ヵ月余。ついに鏡花は「崇慕渇仰したる紅葉先生」に面会したのである。
鏡花の志を聞いた紅葉は直ちに門下たることを許し、翌日の1891(明治24)年10月20日から鏡花は玄関番として尾崎家に同宿することになった。
JR飯田橋駅、西口にあたる牛込橋で外濠を越えると神楽坂下。けやきの街路樹が涼しげな神楽坂を上り、毘沙門様として親しまれる善國寺を左に見て、やがて神楽坂上交差点で大久保通りに出る。右折するとまもなく行元寺(行願寺)があったところ(牛込肴町、現在の神楽坂5丁目)で、境内の一部が1857年、遊行地になり、1907年に行元寺が西五反田に移転すると、境内(寺内)全域に花街が広がった。1885年頃、漱石が次兄らに連れられて、芸者の咲松(御作)とトランプ遊びをした話が『硝子戸の中』17に書かれている。
大久保通りを横切って、さらに200メートルほど進んで左折すると、両側に寺。その名も横寺町。はずれの寺、大信寺に隣接するのが尾崎紅葉の家である。紅葉の家が47番地で、100メートルほど行った53番地(現在の、あさひ児童遊園の隣接地)には浅田宗伯が住んでいた。浅田飴の考案者で、幕府の主治医、篤姫の主治医でもあった。駕籠に乗って往診にむかう宗伯の姿を、紅葉も、そして鏡花も見たかもしれない。
紅葉がこの横寺町に住むようになったのは、じつは鏡花が訪ねて来た1891年である。鏡花が上京した時、紅葉は東大前の森川町に住んでおり、91年になって牛込北町、そして3月に横寺町に転居。樺島喜久と結婚した。喜久は芝浜松町の生まれで、父は幕府のお抱え漢方医であった。紅葉の家から近く、二人は幼馴染であった。
まさに紅葉の新婚生活がこの神楽坂、横寺町で始まったのである。鏡花は新婚の令夫人を「島田髷にておはせしかば、両三日、妹ぎみと思ひまゐらせき。」(自筆年譜)と記している。当時、すでに売れっ子作家となり、鏡花が憧れた紅葉は、まだ24歳。4歳下の喜久は20歳で、鏡花とは1歳だけ年長だった。
『人間泉鏡花』に巖谷大四はつぎのように書いている。
鏡太郎は、紅葉の書斎に通され、深々と頭をさげると、
「先生のお顔だけ拝見出来れば、思い残すことはありません。これで国へ帰ろうと思います」と言った。紅葉はにんまりと笑って、
「君も、小説に見込まれたな」と言い、「何だったら、家に置いてやってもいい」と言った。
鏡太郎は天にも昇る思いであった。紅葉は鏡太郎の手紙のことを覚えていて、金沢のこと、生いたちなどいろいろ訊ねた末、何か原稿を持っているのなら見せるようにと言った。鏡太郎は、おずおずとふところから、原稿を出した。題名の下に何も書いてないので、紅葉が、
「君の雅号は何と言うんだ」と訊ねた。
「まだ、ありません」と答えると、
「そうか、この小説の題が『水の月』だから、『水月』には『鏡花』がいいだろう」と言って、その場で、紙の上に墨で「泉鏡花」と書いてくれた。そして、
「明日から家に来たまえ」と言った。
鏡太郎は、その、雅号の認められた紙をおし戴いて、感涙にむせんだ。
翌日から鏡花は、紅葉の家の玄関の三畳間に起居することとなった。
「水月には鏡花がいい」。余談になるが、銀座シックスに「ぎんざ鏡花水月」という、かりんとうのお店がある。本店は戦後まもなくに創業した「ゆしま花月」。銀座シックス出店にあたって、「鏡花水月」を店名に取り入れた。紅葉の言葉を知ってつけたかわからないが、湯島と言えば鏡花。鏡花と言えば水月なのか。とにかく、興味をかきたてられる店名である。
鏡花が紅葉の家に来た頃、紅葉は『紅白毒饅頭』を読売新聞に連載していた。玄関番としての鏡花は、使い走り、庭掃除、薪割り、それに紅葉の凧揚げの相手にもなった。そして、毎月50銭の小遣いをもらった。鏡花は紅葉の癇癪につきあい、バカバカしい失敗をして紅葉から怒鳴られ、それでも鏡花は紅葉の家から追い出されることなく、『両頭蛇』などの作品を書いて、紅葉の指導を受けることができた。『紅白毒饅頭』が完結し、1892年を迎えた紅葉は3月から『三人妻』を読売新聞に連載し始めた。
鏡花もその一人であったが、新聞小説によって紅葉の名は地方にも知られるようになり、憧れて紅葉のもとを訪れる若者も現れていた。1891年に読売新聞に連載された『むき玉子』に感動した小栗風葉(磯夫)も、受験に失敗したのを機に小説家を志し、紅葉に弟子入りしたいと手紙を出し、返事をもらっていたが、鏡花同様、気後れして訪ねあぐねているうち、1892年になり、やっと訪問して弟子入りを許されたものの、一旦愛知県に帰郷し、翌年には九州を放浪。後、やはり弟子入りを許された田中涼葉(泰造)と近くの寺の離れに住み、紅葉の指導を受け、鏡花が大橋乙羽宅へ移った1895年、紅葉宅の玄関番となっている。
秋聲と友人の桐生悠々も紅葉をめざした。4月、二人はそれぞれに原稿を携えて紅葉の家を訪れた。あいにく紅葉は不在で、応対に出た鏡花は、「先生はお出かけでお留守でございます。」と二人に告げた。この時、鏡花は気がつかなかったが、秋聲は入試の時に見かけた男だと思ったという。二人は翌日、紅葉のもとに原稿を郵送したが、紅葉は「柿も青いうちは鴉も突つき不申候」の一文が入った手紙をつけて送り返した。小杉天外(爲蔵)も弟子入りを希望したが断られた一人で、齋藤緑雨に弟子入りした。
1893年には柳川春葉(専之)が弟子入りを許され、玄関番になっている。当時、鏡花は金沢にいることが多かった。
鏡花が入門を許されたのは、鏡花も紅葉も幼時に母を亡くしたという共感があったかもしれないが、紅葉が鏡花の潜在的な才能を見抜いたことが大きいだろう。風葉が一番弟子になっていてもおかしくない状況の中で、ちょっとした巡りあわせから鏡花に回って来た一番弟子という機会。やはり鏡花は運が良かったと言える。
第2節
金沢へ
上京して二回目の夏。昨年の夏は鎌倉の材木座にある妙長寺で過ごしていたが、今年は紅葉の家である。まさに思いもかけぬことであった。思いもかけないというと、鏡花にとって伯母(叔母)にあたる中田きんが、実兄の松本金太郎のところに住んでいることがわかったことである。すずの実妹中田きんは(『人間泉鏡花』では、すずを末娘としているので、きんは実姉になる)一家とともに金沢へ転居したが、その後、東京へ出て来たのであろう。
鏡花にとって伯父にあたる松本金太郎(母すずの実兄)は、幼少期に宝生流の松本家へ養子に出され、能楽師になった。江戸幕府が崩壊し、金太郎は徳川慶喜にしたがって駿府(静岡)へやって来た。1897年に東京へ戻った慶喜より10年以上早く、1884年に東京へ戻り、神田猿楽町2丁目11番地に稽古舞台をつくった。現在の千代田区神田猿楽町1丁目5番にあたり、集英社が建っている。金太郎は宝生九郎を支えた、明治期の宝生流再興の立役者である。猿楽町の名前は江戸時代はじめ、猿楽師・観世大夫の一団が住んだことに由来する。まさに、うってつけの場所である。
1843年生まれの金太郎は、当時50歳に手が届く年齢であった。鏡花がどの程度親しくこの伯父と接したか記録にないが、『婦系図』(1907年)の後編を静岡に設定し、どことなく慶喜の影が感ぜられるのは、伯父を意識したものかもしれない。鏡花にとっては、とくに伯母(叔母)が同じ東京に住んでいることが嬉しかったと思われ、1892年7月9日付で父に宛てた葉書には大喜びしているようすが記されている。
11月(自筆年譜12月)になると、俗に「味噌蔵焼け」とよばれる大火(81戸が全半焼)で生家が焼失した鏡花は、金沢へもどった。二年ぶりの金沢であった。いつ金沢に到着し、何日滞在し、いつ金沢を出発したか明確ではないが、大雪の中、武生から最後の難所春日野峠を越え、12月15日、敦賀に到着し、その夜、宿屋から目細家に同宿する父に宛てて葉書を書き、「今日いのちがけにて無難に春日野の嶮所を越え、……道中の困難実に筆紙につくしがたく……雪路の往来は子孫末代けしてさすましき候」として、1円20、30銭ばかり送って欲しいと依頼している。火事で焼け出され、母方(鏡花にとっては祖母方)の実家である目細家に身を寄せる父清次に、カネの無心をするのであるから、図々しいと言えば、あまりにも図々しい鏡花である。
この葉書と、東京へ着いてから父に宛てて書いた葉書から、その後の行動を推測してみよう。鏡花は15日の夜、「明日三番に乗込」、と葉書に書き、東京に着いて、18日付けの葉書で「昨日1時44分つるが発の急行列車にて夜通しに今朝9時ごろ無事安着」と書いている。当時の時刻表が手元にないため、開業当時(1884年)の時刻表を参考にしてみると、一日6本の列車が運行され(始発の金ヶ崎駅、6時2分、8時52分、12時22分、14時57分、17時22分、19時57分)、三番というのは12時22分発(敦賀駅12時31分発)。1889年7月1日、東海道線完全開通にともない、乗り換えが長浜駅から米原駅に変更されたため、列車ダイヤも改正され、三番は敦賀駅13時44分発になったと考えられる。米原駅には16時頃到着になる。19時25分発は名古屋止まりであるから、鏡花は22時42分発の夜行に乗って、翌日13時40分、新橋駅に到着した。
あれっ?鏡花は朝9時頃到着したと書いている。当時の米原・新橋間の所要時間は15~16時間。17時から18時には米原を出発しなければならない。当時は年に何回もダイヤ改正されているので、1889年から1892年のあいだに、増便されたのかもしれない。この列車なら、米原駅で1時間待ち。けっこう便利である。ひょっとして、増便されたのは「金ヶ崎(敦賀)・新橋直行便?」と思うのだが、直行便の運行は1912年まで待たなければならない。この直行便は連絡船でシベリア鉄道につながる、まさに国際列車であった。
「あれっ?」ついでに言えば、急行列車の名称は、1894年、山陽鉄道が最初と言われている。鏡花はそれより早く急行の名を使用している。実際には、公的名称ではないものの、1894年以前から「急行」という言い方がされていたようで、鏡花もそれを使ったのだろう。
じつは、もうひとつの「あれっ?」が圧巻である。鏡花は15日の夜に葉書を書き、16日に列車に乗り、そして・・・、17日に列車に乗り、18日に東京へ戻って来て、葉書を書いた。一通目の日付が正しければ、鏡花は翌17日の朝9時頃、新橋駅に到着し、紅葉の家に戻ると、二通目の葉書を書いた。鏡花はこの葉書を18日に書いたとしているが、ほんとうは17日に書いたことになる。もし、18日が正しいとすれば、敦賀は17日に出発したことになり、その日に出した葉書の消印が17日であることを納得できるが(鏡花が16日に出したとする葉書の消印は17日付けである)、一通目の葉書の日時と矛盾が生じる。つまり、一通目と二通目の日付をともに正しいものとすると、どうしても1日の矛盾が出てくるのである。どうしてこのようなことになってしまったのか、不可解である。
このようなことはどうでも良いことなのだろう。研究者は見向きもしないことだろう。だからこそ、鉄道ファンとしての視点から、あえて指摘しておきたい。
『人間泉鏡花』で巖谷大四は、12月15日に敦賀まで行きながら、金沢へ行かず、引き返したと記しているが、葉書の文面から鏡花が金沢まで行ったことは間違いないだろう。
再び金沢へ
翌1893年1月、紅葉に長男弓之助が生まれたが、間もなく亡くなった。紅葉夫妻の落胆は大きなものだっただろう。鏡花は一つ屋根の下で、この出来事にどのような思いをもって接しただろうか。
5月。紅葉の計らいで、『冠弥左衛門』が京都日出新聞に連載された。鏡花の作品が初めて世に出たのである。ところがすこぶる評判が悪く、新聞社は連載中止を求めてきたが、紅葉はこれを拒否して、弟子の処女作を応援した。その後、『活人形』が探偵文庫、『金時計』が少年文学に掲載された。鏡花は自筆年譜に「此両冊は、生前の父に見することを得たり。」と記している。
8月。鏡花は脚気を病んで、療養のため再び帰郷することになった。病気の身には敦賀から先の旅はきつかったであろう。巖谷大四は『人間泉鏡花』で、
現在では、脚気という病気は、ビタミンB1の発見と普及によって、急激に減少したが、当時はまだ治療法がなく、罹患率も死亡率も意外に高かった。鏡花は故郷の土を踏めば、気分転換もともなって癒るのではないかと思って帰郷を決心したのである。多分に神経衰弱(今のノイローゼ)の気味もあったのである。
と記している。そんなことから、9月13日、紅葉も病気見舞いに金沢へ行くと手紙を書いた。実際には紅葉の出発は10月11日になり、12日午前2時、米原に到着したが、朝まで敦賀行きがなく、長浜祭の見物も、金沢行きもすべて取りやめて、そのまま京都まで行き、親友の巖谷小波(巖谷大四の父)の家に転がり込んでしまった。巖谷大四は米原駅での待ち時間の長いのに嫌気がさして気が変わったとしているが、敦賀から先は徒歩も覚悟しなければならない行程であり、現実に直面して、まだ26歳の紅葉も金沢行きを躊躇してしまったのではないだろうか。
松任辺りまで出迎えるつもりだった鏡花は、10月16日付の紅葉の手紙を受け取って落胆したことであろうが、それなら京都まで行って紅葉に会い、汽車賃でも借りて上京しようと金沢を発った。このへんが、なんとも図々しいと言うか、たくましいと言うか、甘え上手と言うか、いかにも鏡花らしい。途中、大聖寺辺りで時ならぬ大雪に遭いながらも京都に赴き、その後、上京した。年末、「この紀行に潤色して」(自筆年譜)、『他人の妻』を書き上げた。
徴兵検査はいつ?
ここで徴兵検査を話題にするのは、1893年、鏡花が満20歳を迎えているからである。鏡花はいつ、どこで徴兵検査を受けたのか。1889年の徴兵令全面改正で、国民皆兵にさらに近づいており、秋聲は1891年、そして鏡花は1893年には徴兵検査を受けているはずである。しかしながら、あれこれ資料を調べても、秋聲については皆無、鏡花については、「近視で引っかかった」(泉鏡花記念館長秋山稔氏)との記述を見つけるにとどまっている。また、犀星に関しては、1909年、金石に勤務していた時に二十歳を迎えている。徴兵検査で犀星は、わざと眼鏡をかけたと言う記述が、わずかにみられる。漱石のように徴兵忌避のため、北海道に籍を移す、いわゆる送籍をおこなった場合、特記すべきことであったかもしれないが、あまりに当たり前の徴兵検査は、あえて年譜に記す必要もないことだったのかもしれない。
徴兵検査の通知は4月から5月頃に送られる。その時、鏡花は東京の紅葉のもとにあった。どこかの時点で、本籍地のある金沢へ帰って、徴兵検査を受けているはずである。おそらく、脚気で金沢へ帰っていた8月から10月の間に検査を受けたのだろう。「近視」で引っかかったというから、判定は丙種だったと思われる。翌1894年には日清戦争が始まる。金沢には陸軍歩兵第七連隊がある。甲種・乙種の判定を受けた者の中には、日清戦争に駆り出され、死傷した者もあったかもしれない。鏡花は1894年、鏡花は『予備兵』を書いている。
父の死~三度の帰郷
また東京生活が始まった矢先、翌1894年1月9日に父清次が亡くなり、鏡花は急遽金沢へもどった。最初の上京から三度目の帰郷である。とにかく汽車は依然として敦賀までであり、真冬の春日野峠越えはどのようなものであっただろうか。
東京の紅葉のもとに居れば、少なくとも食べていくことはできたが、もとより自前の収入があるわけではない。二人の妹はすでに他家へ養女として出されていた(他賀は卯辰山の芝居茶屋「梅もと」、やゑは春日町の諸江屋呉服店)が、泉家には祖母きて、弟豊春が残されていた。父に無心をしたこともあったが、その父を失い、これからどうやって生計を立てていくか。
紅葉は、1月30日、鏡花に手紙を送り、『貧民倶楽部』の新聞連載や「春夏秋冬」への作品掲載の労を取るので、原稿を書くよう励ました。鏡花にとっては心強い文面であったが、すぐにカネが入ってくるわけではない。仮に小説家として身を立てるとしても、紅葉のように小説家で生計を立てるのは容易なことではない。それに、祖母と弟を金沢に残して上京しなければならない。長男として、それはきわめて抵抗の大きいことである。しかし金沢に留まって、自分にできる仕事はあるのか。鏡花は金沢城の百間堀端に佇んで自殺の誘惑にかられたという。それでも鏡花は『夜明けまで(鐘聲夜半録)』を書いて、紅葉のもとに送った。その作品から鏡花が自殺を考えていると予感した紅葉は、5月9日付けの手紙で、素晴らしい才能をもっているのだから、それを世のため発揮するよう励ました。今度は言葉だけではない。3円貸すとして、為替も送付したのである。じつはこの間、紅葉自身も2月に長女藤枝子を授かる一方、父惣蔵を失っていた。
とりあえず鏡花は、金沢で小説を書いていく道が開かれ、『豫備兵』『義血侠血』などと矢継ぎ早に執筆、紅葉に送った。鏡花は自筆年譜に、《
翌日の米の計なきに切れる試作
》と記している。
おりしも、日清両国の朝鮮出兵は、8月に入って日清戦争へと発展していた。そのような中、鏡花は小説家としての道をあきらめきれなかったのであろう。祖母きての強い励ましによって、単身上京する決意を固めた鏡花は、9月初旬、金沢を発った。北へ進路をとった鏡花は『義血侠血』に出てくる経路を逆にたどって、倶利伽羅峠を越え、高岡へむかった。おそらく、ほとんどの区間、乗合馬車を利用したことであろう。
途中、石動までやって来たところで、舟に乗せてもらい、小矢部川を伏木まで下り、一泊し、翌朝、船賃9銭で直江津まで汽船に乗り、夕方には到着した。信越線高崎・直江津間は両端から開通し、高崎・横川間が1885年、直江津・関山間が1886年に開通し、1888年には長野さらに上田、軽井沢まで延伸された。伏木・直江津航路は1881年に開設されたが、時期ははっきりしないが、信越線開通にともなう需要を見込んで、貨客船による定期航路化が進められてきたようである。何しろ、北陸線の全線開通は新潟・富山県境の親不知・子不知の難所に阻まれて、大正に入って、1913年であるから、伏木・直江津航路は旅客輸送の面でも重要な役割を担った。
信越線は1893年4月、碓氷峠のアプト式区間が完成し、上野・直江津間が全通していた。鏡花は直江津から信越線に乗り、長野で一泊し、次の日、上野に着いた。
この経路をたどると、日数は二泊三日、徒歩に頼る距離も大幅に短縮できた。鏡花は、信越線を利用できるようになって、歩く距離、日数などから、直江津回りの方が肉体的にも金銭的にも負担が少ないと判断したのであろう。それとともに、今までとコースを変えることによって、「もう、二度と故郷には帰らない」「東京に骨を埋めるのだ」という決意を込めたのかもしれない。ゲンを担いだとも言える。
祖母きてが上京を後押しし、さらに10月には『豫備兵』、続いて『義血侠血』が紅葉の力によって読売新聞に掲載された。金沢にあって祖母、東京にあって紅葉が、鏡花の未来を切り開いてくれたことになる。
第3節
博文館で働く
父が亡くなり、弟や祖母を経済的にも支えなければならなくなった鏡花。作品が新聞・雑誌などに載るようになり、作家として生きていく目途が立ち始めたと言っても、それで一家の生活を支える収入が得られるわけではない。紅葉も鏡花ひとり食べさせてやることはできても、家族の面倒までみることは、するべきことでもない。紅葉は鏡花が定期的な収入を得ることができるよう、博文館に勤める道を開いた。こうして鏡花は、1895年2月、博文館の日用百科書の編纂にたずさわることになった。
博文館は、大橋佐平(1835~1901)が本郷区弓町に設立した出版社で、社名は伊藤博文に由来している。越後長岡に生まれた佐平は、1881年に北越新聞・越佐毎日新聞を創刊したが、1884年、筆禍に遭い、1886年上京し、翌1887年に博文館を創業したのである。博文館は雑誌『日本大家論集』を創刊し、成功をおさめたが、内田魯庵は、壱岐殿坂を九分通り上った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横丁を曲ったダラダラ坂を上りきった左側の小さな無商売屋(しもたや)造りの格子戸に博文館の看板が掛かっていた、と記している。
紅葉は佐平の養子大橋乙羽(旧姓渡部、1869~1901)と硯友社時代から親しく、佐平の長女とき(時子)と乙羽の結婚を仲立ちし、大橋家の養子になる道を開いた。乙羽(本名又太郎)は山形生まれで、20歳で上京、東陽堂に入社。その後、硯友社に入り、小説なども書いていたが、佐平に見い出されて博文館に入社した。
博文館は1889年、日本銀行の筋向こう(日本橋本町1丁目)に移転。さらに1892年、日本橋本町3丁目8番地(現、日本橋本町3丁目)に3階建ての社屋を新築し移転したので、鏡花が勤めた時にはすでにこの社屋である。
鏡花は博文館就職を機に、三年余り世話になった尾崎家を後にして、編集室が置かれていた小石川戸崎町の大橋乙羽宅に引越した。戸崎町は伝通院の裏手から植物園にかけて広がり、現在の文京区白山2丁目などにあたる。この年書かれた『外科室』には植物園が出てくる。自筆年譜には、《
紅葉先生、弟子の行を壮ならしむるため、西洋料理を馳走さる。いまだ酒なし。はとナイフの持ち方を教えられしも此の時なり
》。牛込の明進軒へ行ったと言われている。明進軒は神楽坂を上り、現在の大久保通りを横切り、左側の最初の路地を入った左側にあり、住所は牛込岩戸町24番地(現、岩戸町1番地)。向かい側に求友亭という料亭があり、通寺町に属していた。漱石は『硝子戸の中』16で、この路地に従兄高田庄吉が住んでいたことを書いている。高田は後に寺内へ転居。次兄に連れられて高田の家にやって来た漱石は、先に書いたように咲松(御作)たちとトランプ遊びをしている。
日清戦争は4月、下関条約締結によって講和が成立し、終結した。
乙羽宅から日本橋の博文館まで、一葉の住む本郷丸山町の脇を通り、水道橋から猿楽町、神保町を通って鎌倉河岸へ出て、竜閑橋を渡って工事中の日本銀行本館近くを歩いたものと推測される。ただし、編集室は乙羽宅にあったので、鏡花は日本橋までの通勤を強いられることは、ほとんどなかっただろう。
博文館は自社の書籍等を印刷するため、1897年、竹川町(現、銀座6丁目)に博文館印刷工場を創設したが、翌年小石川区久竪町に移転。1925年から共同印刷になり、現在に至っている。社屋は関東大震災で焼失したため、小石川区戸崎町に移転して継続したが、1937年、本町3丁目9番地に移転している。
一葉と出会った頃
樋口一葉が生まれたのは1872年3月25日。秋聲が生まれた1871年と鏡花が生まれた1873年のちょうど間の年にあたる。一葉が最初の小説『闇桜』を発表したのは1892年3月で、鏡花はすでに紅葉宅で玄関番をしていたが、秋聲の方は上京したての頃であった。つまり、一葉・鏡花・秋聲という同年代の作家のうち、もっとも早く小説家としてデビューしたのが一葉であり、もっとも早く注目されたのが一葉であり、5年間に20編余りの作品を書いて、25歳であっけなくこの世を去ってしまった。一葉のこの瞬間の輝きに、鏡花も秋聲も直接触れることができたのは、まったくの幸運であったと言えるだろう。
父が亡くなり、一旦次兄虎之助宅に同居した一葉と母妹。けれども母と次兄の折り合いがうまくいかず、1890年9月、一葉は母妹とともに本郷菊坂70番地に住むようになった。菊坂は本郷台に刻まれた谷筋を通る坂で、両側が高く、炭団坂、梨木坂、胸突坂などが菊坂めがけて下っている。とくに南側の炭団坂は急傾斜である。一葉たちが住んだ一戸建ての借家は、南側の崖を背にして、崖上には本郷聯隊司令部が置かれていた。
一葉は安藤坂の萩の舎へ通い、1891年には朝日新聞の半井桃水の弟子となって指導を受け、小説家として生計を立てる道を目指したが、容易なことではなく、三人は仕立物や洗い張りの注文を受けて何とか生計を立てていた。それでも生活は苦しく、菊坂を少し下ったところ(現在、本郷5丁目9-4)にある伊勢屋質店をたびたび訪れた。
『闇桜』を発表した一葉は、その年の5月、路地と井戸をはさんだ向かい側の、本郷菊坂69番地に転居した。秋聲が失意のうちに東京を離れ、大阪に向かった頃である。さらに一葉は、1893年7月、下谷竜泉寺町368番地に転居。荒物・駄菓子の店を開いて、商いのかたわら、小説を書いていった。秋聲は金沢で第四高等中学校復学をめざして数学の勉強も始め、鏡花の方は脚気を患って帰郷する少し前頃である。
1894年5月になると、一葉はまた本郷にもどってきて、丸山福山町4番地に住むようになった。こちらも本郷台の崖下で、後に東京大水害(1910年8月)で全壊した。鏡花は父を失い金沢にあった。小説は書いたが将来のメドも立たず、紅葉に励まされて、小説家として歩もうと決意した頃である。秋聲は復学をあきらめ、就職先の長岡にあった。下谷竜泉寺町から引き続き、一葉のもとには文学を志す若者たちが集まって来ていた。美男子の川上眉山をはじめ、上田敏・斎藤緑雨・馬場孤蝶・戸川秋骨・島崎藤村たちである。一葉はその年の12月、『大つごもり』を発表して以来、1895年1月に『たけくらべ』、9月に『にごりえ』、12月に『十三夜』、1896年1月には『わかれ道』などと、つぎつぎと小説を発表し、後に「奇跡の一年」とよばれるようになる。
博文館の仕事
1895年2月に博文館の仕事をするようになり、大橋乙羽宅に引越していた鏡花は、鏡花は博文館の仕事のかたわら『夜行巡査』を執筆していた。この作品の構想は前年、浮かんだと言う。原稿を読んだ柳川春葉や博文館の編集員の反応は芳しいものではなかった。とくに柳川春葉は「拝見した」といって、原稿を送り返してきた。それでも大橋乙羽のとりなしで、4月「文芸倶楽部」に載り、鏡花は文壇へデビューした。
ある日、乙羽の妻時子から「私はね、今少し用があって一葉さんの処へ行って来ましたが、それ(『夜行巡査』)を見て近頃にない大変面白いと思って読みましたって、お夏さんが誉めてましたよ」と励ますように言った。鏡花の憂鬱はいっぺんにふっとんだという。時子は一葉に師事していた。この後、鏡花は、5月に評論『愛と結婚』を「太陽」、6月に『外科室』を「文芸倶楽部」に発表した。
自筆年譜によると、この6月に鏡花は帰郷し、10月に上京するまで祖母のもとに留まった。この間、「北国新聞」に『黒猫』を連載したと記しているが、小田切進の年譜によると、5月から7月連載となっている。金沢へ帰ることと関係なく、5月から連載を開始していたのかもしれない。帰郷の大きな目的は、亡父からの戸主の相続と、祖母・弟上京についての相談であっただろう。
暮の12月4日から、浅草・駒形の「どぜう屋横丁」の浅草座で川上音二郎一座による『瀧の白糸』の上演が始まった。この演目は『義血侠血』を柱に『予備兵』を混ぜて脚色されたもので、二つの作品ともに鏡花が1894年秋、金沢で生計の足しにと必死に書き上げ、紅葉の計らいで読売新聞に連載されたものである。『瀧の白糸』は鏡花の代表作として、子どもの頃から私の記憶にも刻まれていたが、『義血侠血』などと言う題名はまったく認識されていなかった。鏡花の知名度を高めるうえでおおいに貢献した『瀧の白糸』であるが、じつは作者に無断で作品を使用したもので、紅葉は一座に抗議し、七つの新聞に謝罪広告を掲載させた。結果的には話題づくりに成功し、興行にもプラスに働いたようである。
鏡花が編集に関わる『日用百科全書』は全50編。第12編に一葉が執筆した『通俗書簡文』がはいっている。これは一葉生前唯一の単行本である。時子が一葉に師事していたことも、原稿依頼のきっかけになったのであろう。鏡花は一葉の作品に心打たれ、交際をもちたいと思っていたが、1896年4月頃、博文館社員として、ついに、念願の一葉に会うことができた。おそらく、原稿を取りに行く仕事だったのだろう。この時、すでに一葉の肺結核はかなり進行していたが、寂しがり屋で人なつっこい鏡花は、一度訪れただけでかなり親しくなった。少なくとも鏡花はそう感じた。ただし、一葉の方は日記にも鏡花のことについて一言もふれていない。鏡花は二三度博文館記者として原稿を取りに訪れたと思われる。
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