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3.下積み時代
紅葉門下になる
下関条約が締結される1895年4月、秋聲は博文館に入社し、博文館に寝泊りするようになっていた。ここで鏡花と出会い、6月に紅葉に面会し、門下になることを認められた。さっそく紅葉は翻案の仕事を与え、原稿料5円を得させた。9月に桐生悠々が帝大法科大学に入学したため上京し、再会した。
秋聲の書いたものも、少しずつ雑誌等に載るようになり、1896年には小説が「文芸倶楽部」に載り始めた。大橋乙羽・巖谷小波に続いて、田岡嶺雲・田中涼葉・三島霜川・小栗風葉など、人間関係も広がり、一葉と出会うこともできた。秋聲が一葉のもとを訪れた頃、一葉の病状はかなり悪化し、山龍堂病院院長樫村清徳は診断の結果、絶望を宣告している。
一葉死去の11月。秋聲は桐生の紹介で国文学者芳賀矢一の仕事を手伝うため博文館を退社し、神田錦町の下宿今井館に移った。神田錦町は神田神保町の南に広がり、東京外国語学校(現、東京外国語大学)、東京法学院(現、中央大学)などがある文教地区である。
しかし、それからしばらく経った12月31日、秋聲は十千万堂塾(詩星堂)に引越した。これは紅葉が自宅裏続きに一段低くなった、地番としては牛込箪笥町に入るところに開いた文学塾である。勧めてくれた小栗風葉の他、柳川春葉・田中凉葉と四人の共同生活であったが、秋聲は玄関番をしないという条件をつけたという。すでに大塚に世帯をもっていた鏡花は共同生活には加わらなかったが、しばしば顔を見せた。共同生活にはやがて、中山白峰・藤井紫明、それに鏡花の弟斜汀(豊春)も加わり、小杉天外・後藤宙外・田山花袋らも出入した。
1897年、秋聲は紅葉の推薦で、『雪の暮』(「東京新聞」2月21日~3月17日、20回連載)、『三つ巴』(「国民新聞」6月1日~7月4日、30回連載)を発表。その他、紅葉補と記された作品や、得田麻水の筆名で書かれた少年向け雑文などが発表されている。
11月頃、秋聲は一旦帰郷し、次姉太田きんから長男順太郎(1882年生まれ)を預けられ、東京で蒔絵師に入門させている。9月20日には小松まで北陸線が開通しているので、旅はずいぶん楽になっていたであろう。
1897年と言う年。一葉すでにこの世になく、鏡花24歳、秋聲26歳、そして『金色夜叉』を発表した紅葉でさえ、まだ30歳であった。彼らがつくり出していく文壇は、ほとんどが明治に生を受けた「若者文化」であったと言うことができる。彼らは第二の紅葉・露伴を目指して新進作家が相次いで作品を発表している。鏡花をはじめ、平田禿木・小杉天外・小栗風葉・桐生悠々・徳田秋聲・後藤宙外・大町桂月・塩井雨江・柳川春葉・田山花袋などなど(このうち鏡花・小栗風葉・徳田秋聲・柳川春葉の四人は、「紅葉門下の四天王」とよばれた)。彼等の主な発表舞台は「文芸倶楽部」であった。この年、帝国大学は、京都帝国大学開設にともない、東京帝国大学と改称された。
1898年、秋聲は『都おち』『女教師』『楓の下蔭』を発表し、9月には『辰』を「国民新聞」に連載(18日~27日、7回)、12月には『風前虹』を「読売新聞」に連載(8日~30日、21回)した。この間、7月から9月まで、紅葉の指示で、長田秋濤がコッペー『王冠』を訳すのを口述筆記するため、長田の家に泊まり込んで手伝った。
長田は秋聲と同い年で、徳川直参の長田銈太郎の長男として静岡(駿府)に生まれ、ほどなく上京した。法律を研究するためフランスに渡ったが、演劇に興味をもって、1894年に帰国。その後、再度フランスへ行き、1897年に帰国し、紅葉とも親しくなった。そのような経緯から紅葉は秋聲に仕事を与えたのであろう。長田は伊藤博文などとも交流をもち、川上音二郎らと演劇改良のために尽力した。豪壮な邸宅であったという。長田の家は芝区三田臺裏町にある魚藍寺(ぎょらんじ)の下と言うから、魚藍坂を下った三田松坂町あたりにあったのだろう。地下鉄白金高輪駅から近く、高輪御用邸(現、高松宮邸、かつて赤穂浪士のうち大石良雄ら16人が切腹した細川家下屋敷があったところ)も近くにある。
この年4月1日。待望の鉄道が金沢まで開通したが、鏡花も秋聲も当分の間、帰郷していない。
1899年になって2月。十千万堂塾が解散になり、秋聲は柿ノ木横丁の下宿屋薙城館(なぎしろかん)に引越した。柿ノ木横丁は下宮比町にあり、外濠の通りから宮比神社へのびる参道にあたる小路で、新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』によると、この横丁の入口角に明治時代まで、神木としてしめ縄がされるぐらいの柿の大樹があったところから名づけられたと言う。すぐそばに舩河原橋郵便局があった。現在の大久保通り建設によって、宮比神社は筑土八幡神社内に移転。柿ノ木横丁も半分の長さになった。現在の、外堀通りに面した三井住友銀行(飯田橋ビル)・飯田橋中央ビルとタリーズコーヒーの間、地下鉄飯田橋駅B1出口にある小路が柿ノ木横丁の名残で、舩河原橋郵便局のあったところはタリーズコーヒーに変っている。
秋聲は3月に『野雲雀』を「女学講義」に発表したが、これが紅葉補と記された最後の作品とされている。また、『舊悪塚』を3月15日から5月14日まで「中央新聞」に連載(60回)した。さらに、6月には『河浪』『潮けぶり』を発表し、7月からは「中外商業新報」に『氷美人』(7月12日~8月2日、17回)、『銀行手形』(8月30日~10月25日、40回)を連載した。11月から12月末にかけて長田秋濤の翻訳『怨』を手伝い、12月に『惰けもの』を発表したが、1日には紅葉の世話で読売新聞に入社した。月給25円、手当5円であった。読売新聞は銀座1丁目、京橋のすぐ近くにあり、これを機に、通勤の便を考えて、1896年末にしばらく生活した神田錦町の下宿今井館に戻った。甥の順太郎が同室した。
1900年にはいって、秋聲はすでに多作ぶりを発揮している。新聞連載が、『大破裂』(「中外商業新報」45回)、『うき雲』(「山陽新報」66回)、『暗殺剣』(「中外商業新報」21回)、『雲のゆくへ』(「読売新聞」91回)、『舊悪』(「内外商業新報」20回)、計5作品(243回)、これに「文芸倶楽部」に2作品、「新小説」に2作品発表している。『雲のゆくへ』は紅葉に執筆の仲介を頼まず、直接主筆に依頼したため、秋聲は気まずい思いをすることになった。
秋聲の多作について、松本徹は『徳田秋聲』(p25~)でつぎのように分析している。
①習作の段階から紅葉補として作品を発表している。
②外国の作品を翻訳し、そのまま自分の作品として発表したり、外国の作品を下敷きにして、多少自分なりの創作を加えた翻案を、自分の作品として発表した。
③一つの作品を、題名を変えるなどして、何回も使い回しする。例えば、1899年「中央新聞」に連載された『舊悪塚』は、1901年に『後の懺悔』と改題して「九州日日新聞」に連載され、さらに1904年には『地中の美人』として「青木嵩山堂」から刊行された。
とにかく書き、発表し、カネを得る。そうしながら秋聲はしだいに実力をつけてきた。作家のモラルから外れるようなことをやっても、作品を書き、それを発表したのは、《
文学も、生活中心に考へてゐて、筆で食べられるやうになることが肝心で、さうなってこそ初めて一人前の作家と云へる
》という考え方であり、それは何よりも紅葉の考え方であった。秋聲は『わが文壇生活の三十年』で、紅葉は《
作品を紹介するといふよりか、生活を助けるといふことを主にして考へて居た
》と書いている。生活に困らないカネがあって、小説を書いているのではない。生活できなければ小説も書けないのであって、紅葉は門下生たちのために、出版社や新聞社への就職の斡旋から、雑誌・新聞などへの作品の掲載まで、とにかく収入の道を確保しようとしてきた。それによって門下生たちは生活と発表の場両方を得て、世に出ることができたのである。紅葉が書いた作品とともに、門下生を育て上げた点においても、紅葉が日本の文学史上に果たした役割は大きい。
このように、紅葉の力によって世に出ることができた鏡花と秋聲であるが、鏡花は無断で神楽坂の芸妓と恋仲になり、秋聲は紅葉に仲介を頼まず、直接主筆に依頼するなど、大恩ある紅葉から自立の兆しを見せ始めていた。
20世紀を迎えて
20世紀を迎えた。1901年、秋聲にとってはあわただしい一年になった。作品の方は、新聞連載が、『現こヽろ』(「民声新聞」45回)、『其亡骸』(「福岡日日新聞」82回)、『後の懺悔』(「九州日日新聞」80回)、『後の恋』(「読売新聞」2ヵ月半)の4作品、これに『弁護士』『みだれ心』『その面影』『遺産』『新しき巣』『薄氷女史小伝』などを雑誌や刊行本に発表した。
このように作品を書きながら、秋聲の生活は落着かなかった。3月に作家の三島霜川に誘われて本郷向ヶ岡弥生町で共同生活にはいった。霜川の妹三人もいっしょだった。本郷向ヶ岡弥生町は現在の弥生1・2丁目で、東京大学農学部・工学部・理学部が多くを占めている。番地が不明で、秋聲たちが住んだ家がどこにあったか、よくわからないが、当時も第一高等学校(現、農学部校地)などがあり、住宅地域は限られており、弥生坂から入ったところか、暗闇坂に沿う地区(現在、竹久夢二美術館がある区域)と考えられる。
4月には読売新聞社を退社したが、この頃、高山樗牛のニーチェ主義に共感をおぼえる一方、吉原通いも熱心であったと言われる。7月末には霜川との共同生活を解消し、かつて住んでいた柿ノ木横丁の下宿屋薙城館に戻った(読売退社後、一旦薙城館に移り、5月に霜川と共同生活に入ったとする説もある)。
この年、鏡花も秋聲ともに多くの世話になった「博文館」の大橋佐平・大橋乙羽が相次いで亡くなった。とくに乙羽は秋聲より一つ上の31歳であった。伊藤博文の名を掲げた博文館であるが、結局、創設者父子は博文より先に亡くなったことになる。年暮れの12月30日、秋聲は幼少の頃から励まし支えてくれた長兄直松を訪ねるべく大阪へ旅立った。
その前日の29日から紅葉は京阪めぐりに出かけており、葉書を受取った秋聲は、年も改まって1902年、淀屋橋の宿に紅葉を訪ねた。正月9日に帰京した紅葉は26日、紅葉門下で「藻社」を発足させた。
秋聲は兄の家に留まっていたが、嫂(小川八重)の勧めで別府温泉へ行くことになり、2月末に大阪を発った。鉄道が別府まで開通したのは1911年であるが、大阪から別府へは船が毎日出ていた。別府温泉では、八重の叔母のもとに滞在し世話を受けた。4月になって、秋聲は発熱し、気管支を悪くしたうえ、胃の状態もはかばかしくなかったが、「文学界」主筆佐々醒雪から創刊号への執筆を依頼されたのを機に、東京へ戻る決心をした。
途中、大阪の兄の家に寄った後、京都に「日の出新聞」の中山白峰を訪ね、自由党支部の渋谷黙庵の誘いで、尾崎行雄らと共に醍醐寺を訪れた。こうして秋聲が薙城館に戻ったのは、4月18日であった。しかしそれもつかの間、第四高等中学校で同窓だった太田四郎から、同じく同窓の田中千里が学資を得るため、小石川表町108番地に建てた借家に、差配人を求めていると聞いた秋聲はそれを引き受け、この借家の一つに移り住んだ。小石川表町は小石川台にある伝通院一帯の地区で、裏手がほとんど109番地である。108番地は善光寺坂を小石川柳町へ下ったあたりで、現在は小石川3丁目に含まれる。すると三島霜川もやって来て同居するようになった。
その後、脚気のため帰郷していた次姉きんの次男太田俊太郎が、陸軍幼年学校受験で再び上京してきたので、霜川は同じ借家の別棟に移った。陸軍中央幼年学校は1896年に陸軍士官候補生養成のため、陸軍士官学校の校地内に設立されたものである。陸軍士官学校のあったところは、現在、防衛省になっている。
その頃、秋聲は手伝いに老爺を雇っていたが、不便を感じ、霜川の知人から紹介されて、下女として小沢さちを雇った。そこへ婚家を飛び出していたさちの娘「は満」が時おりやって来るようになり、秋聲との仲も深まっていった。は満は秋聲より10歳年下であった。7月になると、は満をめぐって霜川との関係は気まずいものとなり、霜川は出て行った。事実上、秋聲とは満の夫婦生活が始まり、秋には、は満は秋聲の子を身ごもるようになっていた。この年、秋聲の新聞連載はなく、雑誌や刊行本に10作品余を発表している。
同棲から子どもまで出来ると言うような状態に至っても、秋聲が紅葉から呼び出されて叱られたという話は聞かない。秋聲に対する紅葉の扱いが違っていたことも確かだが、それ以上に、紅葉は鏡花には父兄としての気持ちを強くもっていたのであろう。あるいは、神楽坂と言う世界において、ルール違反を冒したことに対する憤りであったのかもしれない。
1903年になった。秋聲は2月、『桎梏』を「新小説」、『愛』を刊行本に発表した。3月3日、紅葉が東大病院に入院し、胃癌と判明した。10日程で退院し、その後、医師をしている妻の弟の家で静養した。
4月末、秋聲は小峰大羽と千葉県滑河町(現、成田市滑河)に高橋山風を訪ねた。総武線はまだ本所が始発であった。成田線は1897年にはすでに滑河まで開通している。
秋聲は『親子』を「文芸界」に発表した。さらに秋聲は『ゆく雲』を6月1日から15日まで連載し、29日から『鐘楼守』の文飾に専念するため、単身、神楽坂柿ノ木横丁の下宿紅葉館に籠った。7月には『すきぶすき』を「新著文芸」に発表し、この頃、長男一穂が生れた。ただ、は満と婚姻関係を結んでいなかったため、出生届は翌年3月22日になった。8月には『弱き罪』を「文芸界」に発表した。
紅葉は7月末頃、一時小康を得ていた。しかし状況は好転せず、10月30日午後11時15分、帰らぬ人となった。巨星といえども、36歳であった。秋聲は、『血薔薇』を「時事新報」(11月24日~翌年2月14日)、『結婚難』を「読売新聞」(12月27日~翌年2月16日)に、それぞれ連載した。
1904年2月から日露戦争が始まった。秋聲は、『一粒種』『みち芝』『前夫人』などを雑誌に発表し、『病恋愛』を「読売新聞」(6月22日~9月3日連載)、『冷腸熱腸』を「時事新報」(12月7日~翌年3月2日連載)、『少華族』を「万朝報」(12月9日~翌年4月15日連載)を発表した。また、『士官の娘』『露西亜人』訳を出版し、『出征』(金港堂)と『地中の美人』(青木嵩山堂)を出版している。
秋聲は3月頃、小石川表町から小石川関口町に転居し、3月16日、ここで正式に婚姻届を提出した。そして、20日には前年7月に生れた長男一穂の出生届も出された。関口町は小石川台の西端、目白台にあり、山県有朋の邸宅があった。現在は「椿山荘」として、結婚式などもおこなわれる。
5月には赤ん坊のいる中では作品を書くことができないと思ったのか、仕事場を菊坂の下宿に移した。それでもやはり、家族いっしょに暮らした方が良いと考え直したのであろうか。8月になると下宿をやめ、一家を本郷に移し、本郷森川町1番地の清水橋辺りに居を定めた。森川町(現、本郷6丁目)は東京帝大の正面前に広がる町で、ほとんどが1番地であるので、番地だけではピンポイントの場所はわからない。清水橋は森川町と西隣りの西片町の間にある谷をまたぐ陸橋である。下にも道路が通り、川が流れていないので、「から橋」とも呼ばれている。現在、谷筋には言問通りが通っている。初代の橋は1880年に架けられ、木橋だった。1906年に旧福山藩出身の建築家武田五一が設計した二代目の木橋がつくられた。もともと西片町は福山藩(阿部家)の屋敷があったところである。一葉が清水橋の下を通りかかった時、橋の上から書生に声をかけられたのも、秋聲が森川町へ引っ越して来た時も、初代の清水橋であった。
1905年1月は漱石の『吾輩は猫である』が初めて「ホトトギス」に発表されている。秋聲は2月に田岡嶺雲・小杉未醒らと雑誌「天鼓」を創刊した。
5月に秋聲は金沢へ帰省した。すでに1898年に金沢まで鉄道が開通し、99年には富山まで伸びている。初めて上京した頃のことを思えば、ずいぶん便利になったものである。一方、信州から妻は満の父と弟が上京し、母さちと近くに家を借りて住むようになった。5月28日から「読売新聞」に『目なし児』(訳)の連載が始まった。これは柳川春葉の連載が休載された穴埋めで、6月24日まで続いた。
7月には長女瑞子が生まれた(出生届は12月10日提出)。秋聲は7月に『愚者』(「新小説」)・『暗涙』(「文芸界」)を発表し、『若き人』を7月10日から8月14日まで「北国新聞」に連載した。8月には、は満などのこともあってわだかまりの生じていた三島霜川と復交した。9月にはポーツマス条約が結ばれ、日露戦争が終った。
終生の家
1906年4月、秋聲は一旦、小石川富坂に転居した後、5月に本郷森川町1番地に1戸を構え、終生ここに住んだ。帝大前を通る中山道に面した森川町郵便局(現、本郷郵便局)の横を新坂にむかって200メートルほど入ったところである。森川町はほとんどが1番地で、はなはだ不便であるため、地番が細かくつけられ、秋聲の家は124番地に変更された(現、本郷6丁目6-9)。高等中学校を中退したため、ついに帝国大学に入ることはできなかったが、歩いて数分で帝大構内へ入れるところに秋聲は住むことができるようになった。
夏には、一穂が疫痢に罹り、一時は生命さえ危ぶまれた。漱石の三女栄子も赤痢に罹っている。その漱石は12月27日、近くの西片町10番地ろの7号(現、西片1丁目12-8)へ転居してきた。
この年の秋聲も多作であった。新聞連載が、『亡母の記念』(「時事新報」1月9日~5月16日)、『秘密の秘密』(「北国新聞」1月18日~5月26日)、『ひとり』(「中央公論」に掲載、同時に「北国新聞」に4月20日から5月にかけて連載)、『心の闇』(「朝鮮新報」)、『落し胤』(「満州日報」)、『黄金窟』(「北国新聞」10月2日~翌年1月19日)、『おのが縛』(「万朝報」10月2日~翌年1月27日)、『奈落』(「中央新聞」12月22日~翌年4月19日)、雑誌などへの掲載が、2月に『学士の恋』(「文芸界」)、3月に『家庭教師』(「女子文芸」)、7月に『老骨』(「新小説」)、9月に『夜航船』(「新潮」)、10月に『思わぬ罪』(「文芸界」)などである。
松本徹『徳田秋聲』の年譜には《
この頃から代作と思はれる作品が目立ち始める。
》との記述があり、『秘密の秘密』も代作だったのではないかとしている。しかしながら、松本徹は秋聲の多作ぶりについて、
乱作が筆を荒らすとはよく云はれることだが、秋聲の場合、その常識が通らない。勿論、愚作も多い。なかには代作さへまじる。が、それとともに傑作、佳作も少なくないのである。(略)秋聲は、乱作を、傑作を書く条件としてゐるやうにさへ思はれる。秋聲は、前もって構想をねつた上で執筆するのでなく、「いきなり書く」のであって、それもほとんど書き流しであり、推敲と云ふに足ることをしない。さういふ彼にとって、多量に書くことが腕をあげる唯一の途だったのかもしれない。(略)彼は、書く行為のただなかから育つてきたのだ。
と、『徳田秋聲』に記している。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
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