20世紀を迎えた。1901年、秋聲にとってはあわただしい一年になった。作品の方は、新聞連載が、『現こヽろ』(「民声新聞」45回)、『其亡骸』(「福岡日日新聞」82回)、『後の懺悔』(「九州日日新聞」80回)、『後の恋』(「読売新聞」2ヵ月半)の4作品、これに『弁護士』『みだれ心』『その面影』『遺産』『新しき巣』『薄氷女史小伝』などを雑誌や刊行本に発表した。
このように作品を書きながら、秋聲の生活は落着かなかった。3月に作家の三島霜川に誘われて本郷向ヶ岡弥生町で共同生活にはいった。霜川の妹三人もいっしょだった。本郷向ヶ岡弥生町は現在の弥生1・2丁目で、東京大学農学部・工学部・理学部が多くを占めている。番地が不明で、秋聲たちが住んだ家がどこにあったか、よくわからないが、当時も第一高等学校(現、農学部校地)などがあり、住宅地域は限られており、弥生坂から入ったところか、暗闇坂に沿う地区(現在、竹久夢二美術館がある区域)と考えられる。
4月には読売新聞社を退社したが、この頃、高山樗牛のニーチェ主義に共感をおぼえる一方、吉原通いも熱心であったと言われる。7月末には霜川との共同生活を解消し、かつて住んでいた柿ノ木横丁の下宿屋薙城館に戻った(読売退社後、一旦薙城館に移り、5月に霜川と共同生活に入ったとする説もある)。
この年、鏡花も秋聲ともに多くの世話になった「博文館」の大橋佐平・大橋乙羽が相次いで亡くなった。とくに乙羽は秋聲より一つ上の31歳であった。伊藤博文の名を掲げた博文館であるが、結局、創設者父子は博文より先に亡くなったことになる。年暮れの12月30日、秋聲は幼少の頃から励まし支えてくれた長兄直松を訪ねるべく大阪へ旅立った。
その前日の29日から紅葉は京阪めぐりに出かけており、葉書を受取った秋聲は、年も改まって1902年、淀屋橋の宿に紅葉を訪ねた。正月9日に帰京した紅葉は26日、紅葉門下で「藻社」を発足させた。
秋聲は兄の家に留まっていたが、嫂(小川八重)の勧めで別府温泉へ行くことになり、2月末に大阪を発った。鉄道が別府まで開通したのは1911年であるが、大阪から別府へは船が毎日出ていた。別府温泉では、八重の叔母のもとに滞在し世話を受けた。4月になって、秋聲は発熱し、気管支を悪くしたうえ、胃の状態もはかばかしくなかったが、「文学界」主筆佐々醒雪から創刊号への執筆を依頼されたのを機に、東京へ戻る決心をした。
途中、大阪の兄の家に寄った後、京都に「日の出新聞」の中山白峰を訪ね、自由党支部の渋谷黙庵の誘いで、尾崎行雄らと共に醍醐寺を訪れた。こうして秋聲が薙城館に戻ったのは、4月18日であった。しかしそれもつかの間、第四高等中学校で同窓だった太田四郎から、同じく同窓の田中千里が学資を得るため、小石川表町108番地に建てた借家に、差配人を求めていると聞いた秋聲はそれを引き受け、この借家の一つに移り住んだ。小石川表町は小石川台にある伝通院一帯の地区で、裏手がほとんど109番地である。108番地は善光寺坂を小石川柳町へ下ったあたりで、現在は小石川3丁目に含まれる。すると三島霜川もやって来て同居するようになった。
その後、脚気のため帰郷していた次姉きんの次男太田俊太郎が、陸軍幼年学校受験で再び上京してきたので、霜川は同じ借家の別棟に移った。陸軍中央幼年学校は1896年に陸軍士官候補生養成のため、陸軍士官学校の校地内に設立されたものである。陸軍士官学校のあったところは、現在、防衛省になっている。
その頃、秋聲は手伝いに老爺を雇っていたが、不便を感じ、霜川の知人から紹介されて、下女として小沢さちを雇った。そこへ婚家を飛び出していたさちの娘「は満」が時おりやって来るようになり、秋聲との仲も深まっていった。は満は秋聲より10歳年下であった。7月になると、は満をめぐって霜川との関係は気まずいものとなり、霜川は出て行った。事実上、秋聲とは満の夫婦生活が始まり、秋には、は満は秋聲の子を身ごもるようになっていた。この年、秋聲の新聞連載はなく、雑誌や刊行本に10作品余を発表している。
同棲から子どもまで出来ると言うような状態に至っても、秋聲が紅葉から呼び出されて叱られたという話は聞かない。秋聲に対する紅葉の扱いが違っていたことも確かだが、それ以上に、紅葉は鏡花には父兄としての気持ちを強くもっていたのであろう。あるいは、神楽坂と言う世界において、ルール違反を冒したことに対する憤りであったのかもしれない。
1903年になった。秋聲は2月、『桎梏』を「新小説」、『愛』を刊行本に発表した。3月3日、紅葉が東大病院に入院し、胃癌と判明した。10日程で退院し、その後、医師をしている妻の弟の家で静養した。
4月末、秋聲は小峰大羽と千葉県滑河町(現、成田市滑河)に高橋山風を訪ねた。総武線はまだ本所が始発であった。成田線は1897年にはすでに滑河まで開通している。
秋聲は『親子』を「文芸界」に発表した。さらに秋聲は『ゆく雲』を6月1日から15日まで連載し、29日から『鐘楼守』の文飾に専念するため、単身、神楽坂柿ノ木横丁の下宿紅葉館に籠った。7月には『すきぶすき』を「新著文芸」に発表し、この頃、長男一穂が生れた。ただ、は満と婚姻関係を結んでいなかったため、出生届は翌年3月22日になった。8月には『弱き罪』を「文芸界」に発表した。
紅葉は7月末頃、一時小康を得ていた。しかし状況は好転せず、10月30日午後11時15分、帰らぬ人となった。巨星といえども、36歳であった。秋聲は、『血薔薇』を「時事新報」(11月24日~翌年2月14日)、『結婚難』を「読売新聞」(12月27日~翌年2月16日)に、それぞれ連載した。
1904年2月から日露戦争が始まった。秋聲は、『一粒種』『みち芝』『前夫人』などを雑誌に発表し、『病恋愛』を「読売新聞」(6月22日~9月3日連載)、『冷腸熱腸』を「時事新報」(12月7日~翌年3月2日連載)、『少華族』を「万朝報」(12月9日~翌年4月15日連載)を発表した。また、『士官の娘』『露西亜人』訳を出版し、『出征』(金港堂)と『地中の美人』(青木嵩山堂)を出版している。
秋聲は3月頃、小石川表町から小石川関口町に転居し、3月16日、ここで正式に婚姻届を提出した。そして、20日には前年7月に生れた長男一穂の出生届も出された。関口町は小石川台の西端、目白台にあり、山県有朋の邸宅があった。現在は「椿山荘」として、結婚式などもおこなわれる。
5月には赤ん坊のいる中では作品を書くことができないと思ったのか、仕事場を菊坂の下宿に移した。それでもやはり、家族いっしょに暮らした方が良いと考え直したのであろうか。8月になると下宿をやめ、一家を本郷に移し、本郷森川町1番地の清水橋辺りに居を定めた。森川町(現、本郷6丁目)は東京帝大の正面前に広がる町で、ほとんどが1番地であるので、番地だけではピンポイントの場所はわからない。清水橋は森川町と西隣りの西片町の間にある谷をまたぐ陸橋である。下にも道路が通り、川が流れていないので、「から橋」とも呼ばれている。現在、谷筋には言問通りが通っている。初代の橋は1880年に架けられ、木橋だった。1906年に旧福山藩出身の建築家武田五一が設計した二代目の木橋がつくられた。もともと西片町は福山藩(阿部家)の屋敷があったところである。一葉が清水橋の下を通りかかった時、橋の上から書生に声をかけられたのも、秋聲が森川町へ引っ越して来た時も、初代の清水橋であった。
1905年1月は漱石の『吾輩は猫である』が初めて「ホトトギス」に発表されている。秋聲は2月に田岡嶺雲・小杉未醒らと雑誌「天鼓」を創刊した。
5月に秋聲は金沢へ帰省した。すでに1898年に金沢まで鉄道が開通し、99年には富山まで伸びている。初めて上京した頃のことを思えば、ずいぶん便利になったものである。一方、信州から妻は満の父と弟が上京し、母さちと近くに家を借りて住むようになった。5月28日から「読売新聞」に『目なし児』(訳)の連載が始まった。これは柳川春葉の連載が休載された穴埋めで、6月24日まで続いた。
7月には長女瑞子が生まれた(出生届は12月10日提出)。秋聲は7月に『愚者』(「新小説」)・『暗涙』(「文芸界」)を発表し、『若き人』を7月10日から8月14日まで「北国新聞」に連載した。8月には、は満などのこともあってわだかまりの生じていた三島霜川と復交した。9月にはポーツマス条約が結ばれ、日露戦争が終った。