鏡花・秋聲・犀星のうち、犀星のみ神楽坂に住んだことがない。
鏡花・秋聲が神楽坂に住むようになったのは、憧れの作家尾崎紅葉が神楽坂に住んでいたからである。しかしながら、紅葉は生まれながら神楽坂に住んでいた訳ではなく、1890年4月頃、牛込北町41番地に住んだのが初めである。神楽坂を折れ、地蔵坂を上り、光照寺前を通って牛込袋町を抜けると牛込北町で、その入り口の右角が41番地である。10月に本郷森川町1番地へ戻り、翌年1月に再び牛込北町、そして3月に横寺町47番地へ引っ越し、樺島喜久と結婚、1903年10月に亡くなるまで過ごす終生の家になった。
終生の家は鳥居家の母屋を借りたもので、路地から門を入ると前庭があって玄関。母屋は二階建てで、各階6畳と8畳の部屋があった。母屋と直角に廊下が伸びて、4畳半の離れをつなぎ、囲まれた区画が庭になっていた。南が庭として開いているので、陽当たりは良かったであろう。他に台所、風呂場、納戸、女中部屋などがあった。家主の鳥居家は徳川家康の家臣鳥居元忠の流れをくむと言う。牛込北町と横寺町は離れているようにみえるが、岩戸町の坂を下り、通りを斜めに横切って、袖摺坂を上り、大信寺前を通って横寺町の通りを左に折れてすぐである。当時、南蔵院横のS字状の坂はなく、岩戸町を下る狭い坂道があった。この坂道は現存しないが、地元で「蛇段々」と呼ばれてきた幻の坂が、これにあたるのではないだろうか。
結局、紅葉は牛込北町も含め、神楽坂に13年、住んだことになる。
紅葉が神楽坂に住むようになった頃、「芸者新道」や「かぐら横丁」がすでに出現しており、まもなく「兵庫横丁」・「かくれんぼ横丁」なども登場してくる、花街の発展期であった。
紅葉が横寺町に住むようになって半年余の10月。訪ねて来た鏡花が入門を許され、この家に玄関番として住むようになり、神楽坂における生活を出発させた。鏡花は以来、1895年2月、紅葉の計らいで、収入を得る途として和洋百科全書の編集にあたるため、小石川戸崎町の大橋乙羽の自宅に移り住むまで、3年半ほど紅葉宅で過ごしたが、その間三度帰省しており、とくに1894年の父の死に際しては、8ヶ月余り金沢に滞在したので、神楽坂における実際の生活は2年半足らずである。
鏡花はその後、1896年5月から小石川大塚町57番地に居を構え、祖母・弟斜汀(豊春)と住むようになった。戸崎町にはそれほど遠くないが、神楽坂には少し距離があった。1899年1月、硯友社の新年宴会が神楽町三丁目の料亭「常盤」で開かれ、鏡花はその中の桃太郎と言葉を交わすうち、本名が伊藤すずということを知った。亡母と同じ名、しかも母が嫁いだと同じ18歳。鏡花は因縁を感じつつ、しだいに惹かれていった。すずに会うためには神楽坂に近い方が良いと思ったのか、弟も共同生活に加わっていた十千万堂塾が解散され、弟のためにも紅葉宅に近い方が良いと考えたのか、鏡花はその年の秋、居を牛込南榎町22番地に移した。南榎町は宗柏寺の西にある滝の坂を上ったところにあり、22番地は東、矢来町に隣接し、紅葉宅から数百メートルの位置であった。
1902年7月から9月まで逗子(田越桜山)で過ごした期間を除き、南榎町に3年余。鏡花は1903年3月に神楽坂2丁目21番地に転居。およそ7年ぶりに神楽坂地区へ戻って来た。神楽坂を上り始め、仲通りへ曲がるとは反対方向の路地に曲がって少し行ったところで、現在の東京理科大学の裏手にあたり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の碑が立ち、「新宿区指定史跡」として説明板も設置されている。家を借りるのと、すずの落籍には吉田賢龍の物心両面の援助があった。この神楽坂の家で、鏡花はすずと事実上の夫婦生活を始め、1906年2月には祖母を見送り、その年の7月、逗子(田越亀井)に引っ越すまで3年4ヶ月を過ごした。
逗子で1年半過ごした鏡花は、神楽坂へ戻ることなく、1908年1月に土手三番町、さらに1910年5月に下六番町に引っ越して、ここが終生の家となったため、鏡花が神楽坂地区内で過ごしたのは合計6年に満たない期間である。
秋聲は鏡花に遅れること3年半。1895年4月に紅葉の門下となることを許されたが、博文館内に寝起きする生活を続け、1896年11月になって神田錦町の今井館に下宿、そして12月31日に十千万堂塾(詩星堂)へ移り、小栗風葉・柳川春葉・田中凉葉と四人の共同生活を始めた。十千万堂塾は紅葉が自宅裏続きに一段低くなった、地番としては牛込箪笥町に入るところに開いた文学塾である。秋聲の神楽坂における生活はこうして始まった。
十千万堂塾の共同生活にはやがて、中山白峰・藤井紫明、それに鏡花の弟斜汀も加わり、小杉天外・後藤宙外・田山花袋らも出入した。鏡花も時おり顔を見せた。1895年から1896年にかけて、第二の紅葉・露伴を目指して新進作家が相次いで作品を発表している。鏡花をはじめ、平田禿木・小杉天外・小栗風葉・桐生悠々・徳田秋聲・後藤宙外・大町桂月・塩井雨江・柳川春葉・田山花袋などなど(このうち鏡花・小栗風葉・徳田秋聲・柳川春葉の四人は、「紅葉門下の四天王」とよばれた)。彼等の主な発表舞台は「文芸倶楽部」であった。もちろん、紅葉もバリバリの現役作家であり、一葉が亡くなった翌年、『金色夜叉』を発表している。
十千万堂塾は1899年2月に解散され、秋聲は柿ノ木横丁の下宿薙城館に引っ越した。柿ノ木横丁は下宮比町にあり、外濠(揚場河岸)から宮比神社へむかう狭い道である。新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』によると、この横丁の入口角に明治時代まで、神木としてしめ縄がされるぐらいの柿の大樹があったところから名づけられたと言う。現在の大久保通りにあたる道路がつくられる際、柿ノ木横丁は元の半分の長さになり、境内の多くを失った宮比神社は、やがて近くの筑土八幡神社に移された。舩河原橋郵便局の横を通って斜めに合流する短い小路が柿ノ木横丁で、今日では地元の人さえ名前を知らない横丁になってしまったが、外堀通りに面した三井住友銀行(飯田橋ビル)・飯田橋中央ビルとタリーズコーヒーの間、地下鉄飯田橋駅B1出口にある短い小路が柿ノ木横丁の名残で、舩河原橋郵便局のあったところはタリーズコーヒーに変っている。
秋聲は10ヶ月ほど薙城館で過ごし、12月に今井館に移り、その後、1901年3月から本郷弥生町、1902年4月から小石川表町、1904年3月から小石川関口町、8月に本郷森川町、1906年4月に富坂と転居を繰り返し、5月に本郷森川町1番地に引っ越して、ここが終生の家となった。この間、1901年7月末から12月30日までと、大阪・別府などを巡って帰京した1902年4月18日から10日ほど、薙城館で過ごし、1903年6月から柿ノ木横丁の紅葉館で下宿生活を始めている。おそらく、7月に「は満」が出産を控えていることと、病状が思わしくない紅葉のもとに通いやすいということもあっただろう。秋聲はさらに1904年5月から8月まで、菊坂で下宿生活を送っている。
結局、秋聲が神楽坂地区内で過ごしたのは、鏡花より短い4年程度の期間である。