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2.神楽坂
神楽坂は若き日の鏡花・秋聲が住んだ街であり、若き紅葉が所帯をもち、その短い生涯を閉じた街である。鏡花・秋聲を語る時、避けて通ることができない街、それが神楽坂である。
金沢生まれの私は、子どもの頃から鏡花や秋聲の名前は知っていたが、特別に関心のある人たちでもなかった。当然、鏡花や秋聲と神楽坂の関係など知る由もなかった。しかしながら、私にとって神楽坂は子どもの頃から、東京の中でも気になる場所のひとつだった。例えば、柿の木坂は松島トモ子の家があったし、佃島は「ポンポン大将」の舞台になっていたし、それぞれ何かしら自分なりの理由があった。ところが、神楽坂に関しては明確な理由を見出すことができない。神楽坂はん子など、芸者姿の流行歌手がいたが、小学生の自分が憧れるとも思われない。それにも関わらず、私は神楽坂へ行きたい、行きたいと思い続けて来た。
そのような私が、ようやく神楽坂を訪れたのは、漱石に魅せられて、東京のあちらこちらをレンタサイクルで回るようになってからで、中年をとっくに過ぎようとしていた。東京の街というのは不思議なところで、行ったことがなくても、名前だけは馴染みになっているので、初めてという感じがなく、故郷へ帰ってきたような安らぎ、懐かしさが、少なくとも私には感じられる。神楽坂もそうである。
神楽坂というところ
市ヶ谷と江戸川(神田川)にはさまれて伸びる牛込台の先端を、牛込御門を出て外濠を越え、そのまま上る坂が神楽坂で、途中に善國寺(毘沙門さま)がある。外濠をやや下流へ行った揚場から、神楽坂に並行する軽子坂が上っている。江戸時代、江戸川・外濠・神田川は舟運に利用され、揚場の地名は荷揚げをされた場所に由来する。漱石は『硝子戸の中』21でつぎのように書いている。
彼等は筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねて其所の船宿にあつらえて置いた屋根船に乗るのである。
彼らとは漱石の姉たちである。電車などない時代、揚場から屋根船に乗って、外濠・神田川を通って大川(隅田川)へ入り、今戸の有明楼の傍らまで行き、芝居見物している。そして、《
帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す
》のである。早朝の出発、深夜の帰宅になり、無用心ということで、自宅と揚場の間は下男がお供をしている。
江戸時代、神楽坂一帯は武家屋敷が多く、その間に善國寺・行元寺(行願寺、天台宗)・光照寺(光照院)をはじめとする多数の寺院、若宮八幡宮・赤城神社・筑土八幡神社などの神社があり、神楽坂下と善國寺の中間辺りに高田穴八幡の御旅所があった。神楽坂の地名の由来は諸説あるが、この御旅所でお神楽が奉納されたことに由来するとする説もある。
神楽坂というと善國寺。善國寺というと「毘沙門さま」。朱塗りの門、朱塗りの本堂が一際目立つ善國寺(日蓮宗)は、1595年、徳川家康によって創建され、毘沙門天像(木彫り、像高30cm)が、「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代から信仰を集めてきた(江戸の三大毘沙門の一つ)。
神楽坂の片側や寺院の門前などには町屋が並び、善國寺の先には肴町という地名もみられる。光照寺付近が、神楽坂一帯でもっとも高い地点にあたり、肴町から光照寺門前に上るS字状の急坂は地蔵坂と名づけられ、この辺りは江戸時代から「藁店」と呼ばれている。漱石は『それから』で、光照寺前に住む主人公長井代助や、愛人の三千代に「藁店」を上らせている。神楽坂一帯で比較的大きな敷地を有するのは、本多修理邸と、行元寺である。本多修理邸は神楽坂から軽子坂、そして二つの坂を結ぶ本多横丁、仲通りに囲まれている。
神楽坂花街の歴史
神楽坂花街はこの武家屋敷と寺院、二つの源流をもって発達した。その先駆けは善國寺、行元寺(行願寺)の門前に天保以前からみられた岡場所(幕府非公認の遊郭)である。さらに幕末になって、1857年に行元寺境内の一部が遊行地になり、これが神楽坂花街形成の一つ目の源流になった。一方、明治維新によって、空き家になった武家屋敷跡にも芸妓置屋や料亭がつくられるようになり、ここにもう一つの神楽坂花街の歴史が始まった。
武家屋敷の区画は町屋に比べればはるかに広いため、分割されながら花街がつくられていったので、通行の便のため、小路が幾筋もできていった。1887年には、本多横丁と仲通りを結ぶ「芸者新道」や、神楽坂と軽子坂を結ぶ「かぐら横丁」、1895年には、神楽坂と軽子坂を結ぶ「兵庫横丁」(江戸時代の舟越兵庫邸へ通じるため名づけられた)、軽子坂に並行する「かくれんぼ横丁」などの存在を確認することができる。桃太郎(伊藤すず)がいた「蔦永楽」は「芸者新道」に面していた。
神楽坂花街は1874年(明治7年)に火災で全焼するという試練に遭ったが、間もなく復興した。1907年に区画整理で行元寺が西五反田に移転すると、かつての寺域全体が花街と化し、兵庫横丁とつなぐ小路もつくられていき、二つの源流は一体化していった。
『硝子戸の中』16に出てくる床屋の亭主と漱石の会話から、1915年頃の神楽坂の変貌がよくわかる。
「あの寺内も今じゃ大変変った様だね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」「変ったの変らないのって貴方、今じゃまるで待合ばかりでさあ」私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒燈の多いのを知っていた。然しその数を勘定してみる程の道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気が付かずにいた。「成程そう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」「ええ沢山出来ましたよ。尤も変る筈ですね、考えてみると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東屋ってね。丁度そら高田の旦那の真向でしたろ、東屋の御神燈のぶら下がっていたのは」
30年ほど前というと、漱石がまだ17、8歳の頃、1884、5年頃のこと。東屋の向かいには漱石の従兄高田庄吉が住み、遊び人の次兄が転がり込んでいたので、漱石も訪れることがあったようだ。角に足袋屋がある寺内へ入る細い小路は、神楽坂を上って来て右手にあり、現在の大久保通りへ出る一本手前の小路で、もう一方の角には時計屋があった。左手には地蔵坂へ通じる道がある。「誰が袖(タガソデ)」は小路を入って右折したところにあり、通りから見えにくいはずだが、おそらく通りから目につくところに看板を出していたのであろう。高田は東屋と親しく行き来しており、昼間に咲松(御作)という東屋の若い芸者を呼んで、いっしょにトランプをしたことが『硝子戸の中』17に書かれている。
関東大震災のおりは東京の花街が大きな被害を受けたのに対して、神楽坂は推定震度5弱で被害も比較的少なく、東京じゅうの芸妓衆が集まって、待合茶屋300軒、「山手銀座」と呼ばれるほど賑わった。そのような神楽坂花街は、1945年5月の空襲で焼失したが、その後、復興し、高度経済成長期に戦後の最盛期を迎えた。しかしながら、高度経済成長期が終わるとともに、神楽坂花街も衰退にむかっていった。現在、東京23区内で花街として残るのは、新橋・芳町・浅草・溜池(赤坂)・向島それに神楽坂の「東京六花街」と大塚のみで、神楽坂も花街そのものより、花街の雰囲気を今に伝える「歴史的市街地」「町並み景観」として、保存と活用が進められている。
繁華街「神楽坂」
今日、神楽坂通りは両側から街路樹の葉枝に覆われ、落ち着いたモダンさが漂った商店街で、「漱石時代」から道幅はあまり変化していない。
この神楽坂は江戸時代から善國寺の門前町として賑わいをみせていた。明治になり、善國寺の縁日に露店や夜店が出るようになった。東京では初めてである。『坊ちゃん』にも、赤シャツとの釣話しの中で、坊ちゃんが《
神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて
》、ぽちゃりと落とした話をしている。『それから』でも、三千代に本心を打ち明けた代助が、三千代を帰して、その晩、書生の門野を連れて神楽坂の縁日へ出かけ、《
秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた
》。
毘沙門さまの夜店では、こんなこともあった。1899年秋、毘沙門さまの夜店に出かけた紅葉は、鏡花と桃太郎が親しげにしているのを見かけた。紅葉はただちに「喜美川」という待合へ出向き、桃太郎の姉分にあたる小ゑんを呼び出し問い質し、小ゑんの計らいで、翌日桃太郎が紅葉に会って自分の思いを打ち明けたが、時期はまだ早いと思った紅葉は鏡花を呼びつけて叱り飛ばし、自分が許すまで桃太郎に会わないことを約束させている(『人間泉鏡花』)。
明治になり、門前町に加え、花街が発展し、さらに神楽坂の通りをずっと先へ行ったところに早稲田大学ができると、学生が集まる街としても性格も加わって、神楽坂の商店街は大きく発展していった。
漱石は『硝子戸の中』20で子ども時代を振り返って、つぎのように記している。
私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のある筈もなかった
そんな子ども時代を懐かしく思い出したのか、漱石は東京を離れた主人公に、神楽坂を持ち出して地方と比較させている。『坑夫』では、《
町並が次第に立派になる。仕舞には牛込の神楽坂位な繁昌する所へ出た
》、『坊ちゃん』では、松山へ赴任した坊ちゃんが、松山の大通りを散歩しながら、《
神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町並はあれより落ちる
》、と評している。
漱石は『それから』で、主人公の代助を神楽坂の通りを入った袋町に住まわせたため、神楽坂はしばしば登場する。代助が青山の実家から終電に乗って帰る時、電車を降りて神楽坂の途中で地震に襲われる。神楽坂はつぎのように描写されている。
寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。(略)その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。
青山の実家へ行って、甥の誠太郎と遊ぼうと思って家を出た代助は、堀端まで来て急に気が変わり、堀沿いに新見付、堀を横切り、招魂社の横から番町、引き返す。
神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭に応えた。
神楽坂を下って、外濠に架かる牛込橋(牛込見附)の手前には、「漱石時代」、橋詰の左手(下流側)に牛込警察署、右手に自働電話(今の公衆電話)があり、自宅に電話のない代助が、ここから青山の実家に電話をかけている。代助が心惹かれる三千代は本郷の方が1、2割高いということで、神楽坂まで買物に来て、代助の家に寄っている。
神楽坂と聞くと、地名の由来のごとく、やはりなんとなくうきうきしてくる。漱石は『琴のそら音』で、つぎのような場面を描いている。主人公の余は婚約者宇野露子がインフルエンザによって亡くなったのではないかという不吉な予感にとらわれて、四谷坂町の宇野家を訪れる。そして露子の無事を知って、神楽坂へまわって床屋へはいる。
うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かった様なものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んが為だと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好く様にしたいと思っている。
神楽坂には勧工場もあった。勧工場は1877年に上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会の出品物を処分販売することを目的に、永楽町1丁目(現、新丸ビル北側)に造られた仮設施設。その後、民営化されて1887年に芝公園に移転した。勧工場は基本的に入口と出口が違う回廊型の集合商業施設で、新しい形態として人気を博し、1899年、新橋に帝国博品館という大規模な勧工場、1908年には上野広小路に第二博品館。神田小川町にも勧工場ができるなど、東京各所につくられていった。しかしながら、1909年から12年頃にかけて、デパートに客を奪われ、急速に衰退していった。漱石は『行人』で、第二博品館の前を通りかかった主人公二郎の父親に、《
やあ何時の間にか勧工場が活動に変化しているね
》と言わせている。1913(大正2)年には第二博品館はなくなっていたことになる。
神楽坂の勧工場は牛込通寺町(現、神楽坂6丁目)にあり、やはり大正に入ると活動(映画館)に変っていった。映画館の名前は、「文明館」、その後「神楽坂日活」、戦後は「武蔵野館」と変遷したが、時代の流れは次に映画館を押し流し、1970年代にスーパー「よしや」に変わった。隣りに文悠書店がある。
神楽坂には神楽坂3丁目に牛込会館・神楽坂演芸場、牛込肴町に柳水亭、通寺町に牛込亭・文明館といった映画館や寄席があり、いわゆる「藁店」、地蔵坂の上り口、右側には牛込館という寄席が有名であった。
とにもかくにも、神楽坂は時代時代に人びとを集める街であった。
神楽坂に住む
鏡花・秋聲・犀星のうち、犀星のみ神楽坂に住んだことがない。
鏡花・秋聲が神楽坂に住むようになったのは、憧れの作家尾崎紅葉が神楽坂に住んでいたからである。しかしながら、紅葉は生まれながら神楽坂に住んでいた訳ではなく、1890年4月頃、牛込北町41番地に住んだのが初めである。神楽坂を折れ、地蔵坂を上り、光照寺前を通って牛込袋町を抜けると牛込北町で、その入り口の右角が41番地である。10月に本郷森川町1番地へ戻り、翌年1月に再び牛込北町、そして3月に横寺町47番地へ引っ越し、樺島喜久と結婚、1903年10月に亡くなるまで過ごす終生の家になった。
終生の家は鳥居家の母屋を借りたもので、路地から門を入ると前庭があって玄関。母屋は二階建てで、各階6畳と8畳の部屋があった。母屋と直角に廊下が伸びて、4畳半の離れをつなぎ、囲まれた区画が庭になっていた。南が庭として開いているので、陽当たりは良かったであろう。他に台所、風呂場、納戸、女中部屋などがあった。家主の鳥居家は徳川家康の家臣鳥居元忠の流れをくむと言う。牛込北町と横寺町は離れているようにみえるが、岩戸町の坂を下り、通りを斜めに横切って、袖摺坂を上り、大信寺前を通って横寺町の通りを左に折れてすぐである。当時、南蔵院横のS字状の坂はなく、岩戸町を下る狭い坂道があった。この坂道は現存しないが、地元で「蛇段々」と呼ばれてきた幻の坂が、これにあたるのではないだろうか。
結局、紅葉は牛込北町も含め、神楽坂に13年、住んだことになる。
紅葉が神楽坂に住むようになった頃、「芸者新道」や「かぐら横丁」がすでに出現しており、まもなく「兵庫横丁」・「かくれんぼ横丁」なども登場してくる、花街の発展期であった。
紅葉が横寺町に住むようになって半年余の10月。訪ねて来た鏡花が入門を許され、この家に玄関番として住むようになり、神楽坂における生活を出発させた。鏡花は以来、1895年2月、紅葉の計らいで、収入を得る途として和洋百科全書の編集にあたるため、小石川戸崎町の大橋乙羽の自宅に移り住むまで、3年半ほど紅葉宅で過ごしたが、その間三度帰省しており、とくに1894年の父の死に際しては、8ヶ月余り金沢に滞在したので、神楽坂における実際の生活は2年半足らずである。
鏡花はその後、1896年5月から小石川大塚町57番地に居を構え、祖母・弟斜汀(豊春)と住むようになった。戸崎町にはそれほど遠くないが、神楽坂には少し距離があった。1899年1月、硯友社の新年宴会が神楽町三丁目の料亭「常盤」で開かれ、鏡花はその中の桃太郎と言葉を交わすうち、本名が伊藤すずということを知った。亡母と同じ名、しかも母が嫁いだと同じ18歳。鏡花は因縁を感じつつ、しだいに惹かれていった。すずに会うためには神楽坂に近い方が良いと思ったのか、弟も共同生活に加わっていた十千万堂塾が解散され、弟のためにも紅葉宅に近い方が良いと考えたのか、鏡花はその年の秋、居を牛込南榎町22番地に移した。南榎町は宗柏寺の西にある滝の坂を上ったところにあり、22番地は東、矢来町に隣接し、紅葉宅から数百メートルの位置であった。
1902年7月から9月まで逗子(田越桜山)で過ごした期間を除き、南榎町に3年余。鏡花は1903年3月に神楽坂2丁目21番地に転居。およそ7年ぶりに神楽坂地区へ戻って来た。神楽坂を上り始め、仲通りへ曲がるとは反対方向の路地に曲がって少し行ったところで、現在の東京理科大学の裏手にあたり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の碑が立ち、「新宿区指定史跡」として説明板も設置されている。家を借りるのと、すずの落籍には吉田賢龍の物心両面の援助があった。この神楽坂の家で、鏡花はすずと事実上の夫婦生活を始め、1906年2月には祖母を見送り、その年の7月、逗子(田越亀井)に引っ越すまで3年4ヶ月を過ごした。
逗子で1年半過ごした鏡花は、神楽坂へ戻ることなく、1908年1月に土手三番町、さらに1910年5月に下六番町に引っ越して、ここが終生の家となったため、鏡花が神楽坂地区内で過ごしたのは合計6年に満たない期間である。
秋聲は鏡花に遅れること3年半。1895年4月に紅葉の門下となることを許されたが、博文館内に寝起きする生活を続け、1896年11月になって神田錦町の今井館に下宿、そして12月31日に十千万堂塾(詩星堂)へ移り、小栗風葉・柳川春葉・田中凉葉と四人の共同生活を始めた。十千万堂塾は紅葉が自宅裏続きに一段低くなった、地番としては牛込箪笥町に入るところに開いた文学塾である。秋聲の神楽坂における生活はこうして始まった。
十千万堂塾の共同生活にはやがて、中山白峰・藤井紫明、それに鏡花の弟斜汀も加わり、小杉天外・後藤宙外・田山花袋らも出入した。鏡花も時おり顔を見せた。1895年から1896年にかけて、第二の紅葉・露伴を目指して新進作家が相次いで作品を発表している。鏡花をはじめ、平田禿木・小杉天外・小栗風葉・桐生悠々・徳田秋聲・後藤宙外・大町桂月・塩井雨江・柳川春葉・田山花袋などなど(このうち鏡花・小栗風葉・徳田秋聲・柳川春葉の四人は、「紅葉門下の四天王」とよばれた)。彼等の主な発表舞台は「文芸倶楽部」であった。もちろん、紅葉もバリバリの現役作家であり、一葉が亡くなった翌年、『金色夜叉』を発表している。
十千万堂塾は1899年2月に解散され、秋聲は柿ノ木横丁の下宿薙城館に引っ越した。柿ノ木横丁は下宮比町にあり、外濠(揚場河岸)から宮比神社へむかう狭い道である。新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』によると、この横丁の入口角に明治時代まで、神木としてしめ縄がされるぐらいの柿の大樹があったところから名づけられたと言う。現在の大久保通りにあたる道路がつくられる際、柿ノ木横丁は元の半分の長さになり、境内の多くを失った宮比神社は、やがて近くの筑土八幡神社に移された。舩河原橋郵便局の横を通って斜めに合流する短い小路が柿ノ木横丁で、今日では地元の人さえ名前を知らない横丁になってしまったが、外堀通りに面した三井住友銀行(飯田橋ビル)・飯田橋中央ビルとタリーズコーヒーの間、地下鉄飯田橋駅B1出口にある短い小路が柿ノ木横丁の名残で、舩河原橋郵便局のあったところはタリーズコーヒーに変っている。
秋聲は10ヶ月ほど薙城館で過ごし、12月に今井館に移り、その後、1901年3月から本郷弥生町、1902年4月から小石川表町、1904年3月から小石川関口町、8月に本郷森川町、1906年4月に富坂と転居を繰り返し、5月に本郷森川町1番地に引っ越して、ここが終生の家となった。この間、1901年7月末から12月30日までと、大阪・別府などを巡って帰京した1902年4月18日から10日ほど、薙城館で過ごし、1903年6月から柿ノ木横丁の紅葉館で下宿生活を始めている。おそらく、7月に「は満」が出産を控えていることと、病状が思わしくない紅葉のもとに通いやすいということもあっただろう。秋聲はさらに1904年5月から8月まで、菊坂で下宿生活を送っている。
結局、秋聲が神楽坂地区内で過ごしたのは、鏡花より短い4年程度の期間である。
紅葉の遺族たち
紅葉の妻喜久は、1903年10月に紅葉が亡くなると、収入の道を断たれてしまった。今のように印税の制度が確立しているわけでもなく、売れっ子作家と言っても、それは生きて、書いている時だけの収入であった。面倒見の良かった紅葉だったので、それほど蓄えもなかったかもしれない。
紅葉・喜久夫妻には、弓之助(1893年生)、藤枝(1894年生)、弥生(1896年生)、三千代(1900年生)、夏彦(1901年生)の二男三女の子どもが生まれているが、長男弓之助は生まれてまもなく亡くなっている。
1904年から5年にかけて日露戦争。1905年10月、鏡花、柳川春葉らも集まって紅葉三回忌が自宅でおこなわれているが、紅葉の文学も死をもって終わり、自然主義の流れが強くなり、紅葉門下の若者たちも自分の生活と活動の場を守るのに精いっぱいで、紅葉に大きな恩義を感じながらも、遺族の援助までは手が回らない状態であっただろう。一男三女、四人の子どもを抱えて、喜久たちの生活はけっしてラクではなかったようだ。皮肉なことに、紅葉が亡くなった翌年から、漱石は紅葉からのバトンを引き継ぐかのように、『吾輩は猫である』を書いて文壇に登場していった。
その後、喜久と子どもたちはどのようになっていっただろうか。
次女の弥生は杉山家に嫁ぎ、美枝子(影山家に嫁ぐ)、澄子(井上家に嫁ぐ)、浩一が生まれている。
三女の三千代は紅葉の伯母の嫁ぎ先横尾平太の養女となり、同じく養子になった石夫と、いわゆる両もらいの形で結婚した。石夫は1923年に海軍経理学校を卒業、軍艦金剛にも乗り組んでいる。その影響か、息子の晃夫は若くして海軍に入り、主計大尉なったが、軍務で中国に赴き、1943年に亡くなった。石夫・三千代夫妻は1967年、『残照-海軍主計大尉横尾晃夫』(精興社)を出版している。石夫は戦後、飯野炭礦専務をはじめ、いくつかの会社の役員を務めている。
長男が早逝したため、尾崎家の跡取りとなった夏彦は1927年、東京帝国大学文学部美術史科を卒業し、国際聯盟協会学芸協力委員会の嘱託になり、さらに1932年には美術研究所に入った。1934年、夏彦は病気になって平塚海岸で療養生活を送っていたが、1936年4月11日、父紅葉と同じ年齢で亡くなった。妻は菊池幽芳の娘豊乃。長男直衛、次男伊策は結局、父夏彦と同じように幼くして父を失ったことになる。
戦時中、喜久は息子の嫁豊乃、孫の直衛、伊策たちと千葉に暮らしたが、孫たちが家計を助けるために新聞配達をしているということを知った菊池寛は、出版社からなにがしのカネを出してもらい、援助したという話が残されている。神楽坂の家は空襲で焼失し、その後、家主の鳥居家が自宅を建て、現在に至っている。喜久は1953年、81歳で亡くなった。
2019年1月17日。熱海市東海岸町の「貫一・お宮の像」の横に尾崎紅葉記念碑が建立され、除幕式がおこなわれた。紅葉の遺族を代表して尾崎伊策(85歳、2019年)はつぎのように挨拶した(「熱海ネット新聞」から引用)
文明開化の明治時代は多くの文豪や芸術家を輩出した。祖父紅葉の生まれた慶応3年(1867年)は幸田露伴、夏目漱石、正岡子規が生まれ、去年、生誕150年を迎え、それぞれの故郷で盛大に顕彰された。記念館や資料館をお持ちになり、銅像まで建立されている。残念ながら、祖父紅葉だけは何一つそういうものがない。理由は35歳とあまり早くこの世を去ったこと。無類の人気作家できっぷの良い江戸っ子気質であったことで、原稿等が全国に散失してしまった。そんな中、139人の我々遺族にとって積年の悲願だった記念碑が、第二の故郷とも言える熱海の地で完成したことは無常の喜びだ。熱海の市民の皆様にはこの気持ちが、理解していただけると思う。願わくば、この記念碑を核として、“東洋の真珠”にふさわしいまちづくりをしていただきたい。
伊策は紅葉の父、自分の曽祖父にあたる尾崎谷斎(根付師)を顕彰するため、2010年、青山墓地にある紅葉の墓の隣りに供養塔を建立している。谷斎が得意としていた煙管筒の形につくられている。谷斎は鏡花の父清次(彫金師)が亡くなった1894年1月の翌月、ふぐ中毒で亡くなった。
鏡花の神楽坂七不思議
鏡花の『神楽坂七不思議』。当時、世間で「神楽坂の七不思議」と言われていたことを取り上げたのか、鏡花が不思議に思ったことを取り上げたのか、そこのところはよくわからないが、おそらく後者であろう。鏡花は1895年2月、紅葉宅で断続的に2年半を過ごした神楽坂を離れ、小石川戸崎町の大橋乙羽宅に移り住んだ。そのような鏡花が、自分が暮らした神楽坂を文章にとどめておきたいと考えたのであろう。3月に発表したのが『神楽坂七不思議』である。よく学校などには「○○の七不思議」などと言うのが語り継がれ、「トイレに誰も入っていないのに、水を流す音がする」とか「階段の数が昼と夜で違う」とか、現実離れした不思議が登場するものだが、『神楽坂の七不思議』にはそのような不思議はまったく登場しない。現実離れした世界を何の不思議とも思わず書いた鏡花が、現実の何気ない街の風景に不思議を見出した。そこにおかしさを感じさせる作品であり、地方から出てきた人間が、東京の空気を思いっきり吸って、ちょっとしたことにでも心躍らせ、活き活きとしている姿が文章から伝わってくる。
日清戦争はすでに戦局が決し、鏡花は日本が勝つに不思議はない、と記している。4月から漱石は松山中学に赴任、秋聲は紅葉の門下生になることを許されている。
神楽坂の七不思議、第一は、「しゝ寺のもゝんぢい」。獅子寺とは曹洞宗保善寺のことで、大弓場がある。寺は1906年に中野へ移転した。跡地には成金横町とよばれる小路ができ、足袋屋の横を入ると、しばらくして映画館、少し先には大弓場が残っていた。
第二は、「勧工場の逆戻」。通常、勧工場は入口と出口が別であるが、牛込通寺町(現、神楽坂6丁目)にある勧工場は敷地の関係か、入口と出口が同じだった。成金横町へ入る角の足袋屋の隣りが写真屋、そのまた隣りが勧工場だった。後に「文明館」、「神楽坂日活」、「武蔵野館」といった映画館を経て、1970年代からスーパー「よしや」。
第三に、「藪蕎麦の青天井」。団子坂にある藪蕎麦の支店が神楽坂にあった。肴町で神楽坂に面した蕎麦屋と考えられている。現在はセイジョー神楽坂店。
第四に、「奥行なしの牛肉店」。この牛肉店「いろは」は、現在も神楽坂6丁目にある安養寺の横にあった。神楽坂上交差点から大久保通りを飯田橋の方へむかうと、大久保通りができる前の旧道が斜めに入り込んでいるが、その角に「いろは」があった。道が斜めに入り込む関係で、敷地の形が三角形になっていた。
第五に、「島金の辻行燈」。島金(志満金)は神楽坂2丁目にある鰻屋。1869年に「開化鍋」の店として開業し、その後、鰻屋に転身。外濠から神楽坂の通りに入って、左側の最初の小路(両角に田口屋生花店がある)を入ると、まもなく右折する小栗横丁がある。小栗利右衛門の屋敷があったことから名づけられた。小栗横丁を進むと神楽坂2丁目21番地、泉鏡花・北原白秋旧邸跡に出る。志満金はどういうわけか、人通りの多い神楽坂の通りではなく、小栗横丁に面して店を出していた。これではわかりにくいので、神楽坂通りから入るところに辻行燈を置いていたのであろう。けれども、この小路の入口角には、洋服の八木下があった。蒲焼なんて書いた行燈が置いてあるから、「ここだ」と思って入ると、何とそこは仕立て屋という「仕立て」になっている。現在は志満金ビルが建っている。
第六は、「菓子屋の鹽餡娘」。今では神楽坂のどこの菓子屋か特定できないが、愛想のない女性が店番をしていて、けれども鹽餡の饅頭餅はとてもおいしいというお店があって、当時なら「あの店のことだ」と、すぐわかったのだろう。
第七は、「絵草紙屋の四十島田」。絵草紙とは挿絵のたくさん入った読み物。絵草紙屋は今で言えば書店。洋服の八木下のむかいに絵草紙屋があったが、こちらも今では神楽坂のどこの絵草紙屋か特定できない。島田髷を結っているのだから未婚の女性であろう。40歳になっても、まだ島田。鏡花はそのこと自体を曲者のなせる業と言いたげである。第六も、第七も、鏡花が自分のために、あるいは紅葉に頼まれて時おり顔を出す店だったと考えられる。鏡花の印象に残ったのであろう。二人の女性にとってはイメージダウンにつながりかねないが、花街とは違った神楽坂の人間模様が見えてくるような一文である。
さて、私は自分の住んでいる街の「七不思議」を見つけ出すことができるだろうか。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
村松定孝:『あぢさゐ供養頌――わが泉鏡花――』、新潮社、1988年
白石孝:『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ』、慶應義塾大学出版会、2009年
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
松井大輔・窪田亜矢:『神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題』、日本建築学会計画系論文集第77巻、第680号、2012年
【参考にしたネット情報】
てくてく牛込神楽坂――神楽坂の土地、歴史、文学、雑学など
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