1917年、鏡花、秋聲ともに四十半ばを迎え、作家としてはベテランの域にはいっていた。鏡花は1895年に帰郷して以降、金沢へ帰っていない。秋聲も1915年、帰郷して母に会い、翌年、母の葬儀に出るため金沢へ帰った程度で、1905年以降、金沢は遠い存在になっていた。まさに、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」になっていたのである。
秋聲は、新聞連載は『犠牲』(「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」、2月11日から7月5日まで、145回)一つであったが、『里見氏について』を「文章世界」(3月)に発表したのをはじめ、12作品を雑誌に発表した。また、『秘めたる恋』が「婦人公論」に連載(4月から翌年5月)された。新聞連載小説『犠牲』は7月に平和出版社から出版されたが、他に『誘惑』(新潮社)、『彼女と少年』(春陽堂)が出版された。
1918年、秋聲は新聞連載『路傍の花』(「時事新報」、9月21日から翌年3月13日まで173回)一作品のみ。その他、『どこか見世物式――泉鏡花氏の文章』(「文章倶楽部」)、『柳川春葉君の事ども』(「文章世界」)、『岩野君と其の作品』(「新潮」)、『島村さんに就いて』(「早稲田文学」)を含めて12作品を雑誌や新聞に発表した。出版は盛んで、『小説の作り方』(新潮社、2月)、『小説入門』(春陽堂、4月)、『地中の美人』(日吉堂、4月)、『小品文作法』(止善堂書店、5月)、『秘めたる恋』(新潮社、7月)、『哀史物語』(新潮社、9月)の6冊にのぼっている。
1919年、秋聲は久しぶりに、『再会』(「大阪朝日新聞」、4月14日から5月19日まで、29回)、『愛と闘』(「やまと新聞」、5月4日から9月2日まで、115回)、『寂しき生命』(「読売新聞」7月21日から11月3日、96回)の3作品の新聞連載小説を発表した。他に『けむり』を「中外」(1月)に発表したのをはじめ、8作品を雑誌に発表した。また、昨年の新聞連載小説『路傍の花』が3月に新潮社から出版された。
1920年、秋聲は新聞連載が、『偏執の心』(「時事新報」、1月1日から10日まで、9回)、『何処まで』(「時事新報」、10月4日から翌年3月28日まで、173回)の2作品と少なかったが、14作品を雑誌などに発表している。また、『結婚まで』(新潮社、1月)、『残りの炎』(学芸書院、6月)、『妹思ひ』(日本評論社、9月)、『或売笑婦の話』(日本評論社、11月)、『秋聲傑作集』第一(新潮社、11月)を出版した。
秋聲は、5月に大阪時事新報社の懸賞小説授賞式における講演のため、大阪を訪れ、6月9日には、発起人となって、雑司ヶ谷開泉閣で泡鳴追悼会を開き、12日には三年ぶりに上京した近松秋江歓迎会を鴻の巣で催した。その後、6月後半には近江秋江と箱根に遊んだ。また、11月23日には築地精養軒で全文壇から、田山花袋共々生誕50年を祝われた。あきらめきれずに再び上京してから25年。秋聲は文壇に確固たる地位を築いていたのである。
築地精養軒は築地川に架かる采女橋の袂にあり、精養軒ホテルとして1873年に創業し、1909年に3階建て32室のホテルとして建て替えられた。秋聲たちが利用する4年前にあたる1916年11月21日、東京駅などを設計した辰野金吾の息子、隆の結婚披露宴に出席した漱石が、大好物の南京豆を食べ過ぎ、胃潰瘍を再発し、12月9日に亡くなった、漱石が最後の食事をした場所でもある。そして、秋聲たちが利用して3年後の1923年9月1日、関東大震災によって焼失、廃業した。現在は時事通信ビルが建っている。「精養軒」はもちろん、「西洋軒」を意味している。そして、精養軒と言うと、上野精養軒が有名である。築地精養軒廃業後は、上野精養軒が本店となっている。
1921年、秋聲は、新聞連載が『断崖』(「大阪朝日新聞」、2月)・『灰燼』(「中外商業新報」、11月14日から翌年7月3日まで、210回)、雑誌連載が『呪詛』(「新家庭」、翌年4月)・『萌出づるもの』(「婦人之友」、7月)、それに雑誌などへの発表12編。出版も、『恋草』(3月、玄文社)・『闇の花』(5月、日本評論社)・『秋聲傑作集』第二(新潮社、5月)・『あけぼの』(6月、文洋社)・『断崖』(10月、日本評論社)・『小品文作法』(10月、国民書院)・『花袋・秋聲傑作文集』(10月、綱島書店)・『惑』(12月、一書堂)と、8冊に及んでいる。
7月、秋聲は菊池寛らと発起し、小説家協会を創立し、発会式を丸ノ内の中央亭で開催した。12月3日、秋聲の理解者として支えてくれた長兄直松が大阪で逝去し、秋聲は葬儀のため大阪へむかった。帰路、京都の甥(実姉依田かをりの次男敬二)の許を訪れ、しばらく滞在して、28日に東京に戻った。
1922年、秋聲は、新聞連載が『二つの道』(「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、8月24日から翌年2月15日まで、175回)一つのみ。他に8編を雑誌に発表している。出版は4冊である。雑誌発表の中には「新小説鷗外森林太郎號」も含まれ、鏡花は『みなわ集の事など』、秋聲は『外国文学の移植者』を寄せている。
秋聲は10月29日、亡母七回忌のため帰郷した。
1923年、秋聲は、雑誌に12編の作品を発表。『玉を抱く』を「婦人世界」(1月から9月、および翌年2月)、『無駄道』を「報知新聞」(5月9日から6月24日、45回)に、それぞれ連載した。単行本の出版は『萌出るもの』(南天堂)1冊である。
3月に秋聲は「新潮」の創作合評第1回に出席し、以後、しばしばこれに出席するようになった。同郷の島田清次郎は『地上』で一躍脚光を浴び、1922年には欧米旅行にも出かけたが、帰国後、ファンレターをくれた舟木海軍少将の娘芳江を半ば強引に誘い出して、葉山に泊まり、舟木家から監禁・陵辱・強姦で告訴された。徳富蘇峰らの力で告訴は取り下げられ、秋聲もこれに尽力した(4月)。秋聲は面倒見の良い人だったようで、島田に関しても放置しておくことができなかったのであろう。後に秋聲は鏡花の弟豊春(斜汀)の最後を看取っており、犀星も秋聲とは親しみを感じて交わりをもつようになっている。一世を風靡した島田清次郎の人気は、事件をきっかけに凋落し、翌年には統合失調症で保養院に収容された。
8月30日、秋聲は姪(三姉かをりの次女富)の結婚式のため帰郷した。そして、9月1日、関東大震災が発生した。秋聲は金沢にあった。