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4.文壇に地位を築く
西園寺首相の文士招宴
鏡花が『婦系図』を連載した1907年。秋聲も、『煩悩』を「北国新聞」(1月24日~5月9日。なお、同じ作品を『処女作』と改題して「東京日之出新聞」5月5日~7月2日)、『焰』を「国民新聞」(3月15日~8月9日)、『四人』を「九州日報」(4月7日~6月16日山里水葉と合作)、『順運逆運』を「北国新聞」(5月10日~8月22日)と、つぎつぎに連載小説をこなし、1月に『発奮』(「中央公論」)、『満足』(「新声」)、5月に『小軋轢』(「中央公論」)、6月に『廃れもの』(「趣味」)と発表していった。5月には『イソップ物語』文飾のため、日光今市に滞在して仕事をこなした。
そのような中、西園寺公望首相主催の文士招宴が6月17日から19日まで三日に分けて、神田駿河台にある私邸(現在、三井住友海上火災ビルが建っている)でおこなわれることになった。鏡花も秋聲もこれに招かれ、二日目の18日、小杉天外・森鴎外・巖谷小波・後藤宙外・竹越三叉とともに出席した。文壇に確固たる地位を築いた証でもある。秋聲はすでに、本郷森川町1番地(後、森川町124番地、現、本郷6丁目6-9)の自宅に住んでいたが、近くの西片町10番地ろの7号(現、西片1丁目12-8)住む漱石は、『虞美人草』を執筆中で、「時鳥厠半ばに出かねたり」の句を書いた葉書を送って、出席を断った。坪内逍遥、二葉亭四迷なども断り組である。
返礼の会は10月18日、芝公園の「紅葉館」で開かれ、鏡花も秋聲も出席している。席上、西園寺の発案で、年に1回くらいこのような会が催されることになり、「雨声会」と名づけられた。
秋聲は『凋落』を「読売新聞」に連載(9月30日~翌年4月6日)。9月には『夫恋し』(「早稲田文学」)、10月には『犠牲』(「中央公論」)を発表した。また、7月から12月までに、合集含め8冊の単行本を出版しているが、その中で『女の秘密』『わたり鳥』は清水一人(山里水葉・清水弦二郎と同一人物)との合作などである。秋聲はこの年、お冬を知ったという。
12月、桂川に駒橋水力発電所(山梨県大月市)が完成し、76キロ離れた早稲田変電所に電力が送られるようになった。日本で初めての特別高圧遠距離送電と変電(変圧)技術によって、東京に大量の電力が供給できるようになり、東京市内の家庭にも急速に電燈が普及するようになっていった。
1908年、秋聲は、長篇の『多数者』(「時事新報」4月11日~6月30日)、中篇の『新世帯』(「国民新聞」10月16日~12月6日)という二つの新聞連載の他、短篇24編、翻案・翻訳4編を発表し、単行本3冊を出版している。鏡花も秋聲も5月27日に、築地瓢屋でおこなわれた第二回雨声会に出席した。
9月中旬、秋聲は「国民新聞」文芸欄を担当していた高浜虚子から依頼された連載小説(『新世帯』)の構想を練るため、真山青果と湯河原に逗留した。9月20日には次男襄二が生れている(出生届は28日)ので、出産の慌しさを避けるための湯河原行きだったかもしれない。当時、東海道線は御殿場経由だったから、国府津で乗り換えて小田原に向かった。小田原までの鉄道はすでに電化されていたが、小田原から先は熱海行きの軽便鉄道であった。1895年に熱海まで開通していた人車鉄道は、1907年、軽便鉄道に変わっていた。湯河原で下りて、温泉場の宿までは馬車か人力車でむかったと思われる。後に、このルートは漱石の『明暗』に描かれる。秋聲は11月に『湯河原日記』を「新潮」に発表した。
同じ月、秋聲は虚子の紹介で、初めて夏目漱石と会った。漱石は秋聲より五歳近く年上で、朝日新聞入社二年目、『三四郎』を連載していた頃である。
1909年、秋聲は、『同胞三人』(「東京日日新聞」2月18日~5月13日)、『鈴江嬢』(「大阪毎日新聞」5月1日~7月22日)、『浮浪児』(「北海タイムス」5月23日~7月26日)、『母と娘』(「東京毎日新聞」9月1日~11月21日)、『二十四五』(「東京毎日新聞」11月22日~翌年2月25日)といった、新聞に連載された長篇5編の他に、短篇じつに34編、翻案1編という旺盛な文筆活動で、単行本も5冊出版している。
その合間に、4月、秋聲は子ども3人と女中を連れて、妻はま(は満)の故郷南信州を旅している。6月16日には濱町の「常盤屋」で開かれた第三回雨声会に鏡花・秋聲共々出席している。
三田文学と早稲田文学
犀星が初めて上京して来る1910年が始まった。この年は、韓国併合、大逆事件、そして首都東京は未曾有の大水害に見舞われた。
1911年、一月には大逆事件で死刑判決を受けた人びとの処刑がおこなわれた。文学の世界では、三田文学と早稲田文学がしのぎを削っていたが、耽美派の三田文学に対し、早稲田文学は自然主義の傾向が強かった(反自然主義でも、漱石や鷗外は余裕派とよばれている)。自然主義文学の作家としては島崎藤村・田山花袋などとともに、秋聲もそのひとりとしてあげられる。
1911年の秋聲は、新聞連載小説が、『恋と緑』(「北海タイムス」4月22日から8月17日まで115回)、『女の夢』(飯田清涼と合作、「大阪朝日新聞」6月11日から9月7日まで86回)、『黴』(「東京朝日新聞」8月1日から11月3日まで80回)の3編(この他、前年発表された『妻に心』が三つの新聞に転載されている)。
『黴』は漱石の推薦によるもので、漱石は鏡花と同郷で、紅葉門下から自然主義に走った秋聲にも、朝日新聞連載の機会を設けている。さらに秋聲は、3月と12月を除いて、雑誌・新聞などに計23作品を発表。単行本も5冊出版されている。3月25日には次女喜代子が誕生した。
1912年、元号が明治から大正に変わる年である。秋聲は、この年、珍しく新聞連載がなく、雑誌などへの作品発表も16編と少ないが、その中には、9月3日に亡くなった田岡嶺雲を悼む一文(「大阪新報」)も含まれる。秋聲は1905年2月、田岡や小杉未醒とともに「天鼓」という雑誌を創刊している。
1913年、秋聲は、『たヾれ』(「国民新聞」、3月21日から6月5日まで、60回)、『中年増』(「釧路新聞」、3月30日から)、『恋室』(「小樽新聞」、4月から)、『冤』(「中央新聞」、10月27日から12月30日まで、63回)の四つの新聞連載小説と、他に9編の作品を発表している。単行本は4冊出版しているが、7月16日には『爛』(新潮社刊)出版記念会が神楽坂東陽軒で開かれている。秋聲が本郷の自宅から神楽坂まで路面電車を利用したとすれば、本郷三丁目電停から6系統の電車に乗り、松住町電停(昌平橋の北詰)で9系統(外濠線)に乗り換え、神楽坂下の牛込見附電停で下車、神楽坂を上ったものと考えられる。
私生活の面では、2月5日、三男三作が生れ、また11月頃から痔を病んで静養するようになった。そのためか、木更津へ行っている。
3月21日には柳橋柳光亭でおこなわれた藤村渡欧送別会に出席した。柳橋は神田川が大川(隅田川)に注ぐところにあり、左岸一帯が花街になっている。現在は台東区柳橋1丁目。電車を利用すれば、本郷3丁目から、6系統で須田町乗り換え、3または10系統、あるいは5または6系統で厩橋乗り換え、1系統で、ともに浅草橋電停下車である。
1914年、1月9日に木更津から帰京した秋聲は16年ぶりに読売新聞社に復社した。秋聲がどのくらいの頻度で出社したかわからないが、自宅からは、本郷三丁目電停で6系統の路面電車に乗り、須田町で八ツ山行きの1系統に乗り換え、京橋電停で下車すれば、日就社(読売新聞社)は、すぐであった。秋聲は5月に『明治文章変遷史』(「文学普及会講話叢書第一編」、早稲田文学社文学普及会)、10月に『四十女』(日月社)を出版、『密会』を読売新聞に連載(9月2日から19日まで13回)した他、11作品を発表している。6月23日には親友桐生悠々が新愛知に主筆として入社した。10月初旬、痔の手術のため入院、27日に退院した。
1915年、秋聲は、新聞連載小説が、『あらくれ』(「読売新聞」、1月2日から7月24日まで連載、113回)、『心と心』(「大阪朝日新聞」、2月20日から5月28日まで)、『妖魔』(「小樽新聞」、4月21日から8月10日まで、100回)、『奔流』(「東京朝日新聞」、9月16日から翌年1月14日まで、102回)の4本、一時は3本並行して書くという多忙ぶりであった。『奔流』は漱石の世話で「東京朝日新聞」に連載されたものとしては『黴』に続く2作目で、岡栄一郎が仲介した。この他にも、作品7編を雑誌・新聞に発表、『爛れ』『冤』『密会』『あらくれ』『都の女』の5冊が出版された。
この年、秋聲には3月23日に四男雅彦が誕生。さらに、おそらく1905年以来10年ぶりに、故郷金沢を訪ねた。1913年4月1日に北陸線が全線開通しており、秋聲は初めて信越線経由で帰郷したと思われる。姉かをりの許に滞在した秋聲は、母タケにも会った。生前の母に接したのはこれが最後だった。
1916年、秋聲に新たな新聞連載はなく、10作品を雑誌などに発表。『心と心』『奔流』を出版した。この年は、秋聲にとって二人の肉親を失うという辛い年になった。7月11日、長女瑞子が疫痢のため12歳で亡くなった。その悲痛な思いは9月に発表された『犠牲者』(「中央公論」)に綴られている。10月29日、母タケが金沢で亡くなった。79歳だった。12月9日、夏目漱石が亡くなった。1917年1月に「新小説臨時號」(文豪夏目漱石)が発刊され、鏡花は『夏目さん』、秋聲は『書斎の人』の追悼文を寄稿した。
東京の空の下
1917年、鏡花、秋聲ともに四十半ばを迎え、作家としてはベテランの域にはいっていた。鏡花は1895年に帰郷して以降、金沢へ帰っていない。秋聲も1915年、帰郷して母に会い、翌年、母の葬儀に出るため金沢へ帰った程度で、1905年以降、金沢は遠い存在になっていた。まさに、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」になっていたのである。
秋聲は、新聞連載は『犠牲』(「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」、2月11日から7月5日まで、145回)一つであったが、『里見氏について』を「文章世界」(3月)に発表したのをはじめ、12作品を雑誌に発表した。また、『秘めたる恋』が「婦人公論」に連載(4月から翌年5月)された。新聞連載小説『犠牲』は7月に平和出版社から出版されたが、他に『誘惑』(新潮社)、『彼女と少年』(春陽堂)が出版された。
1918年、秋聲は新聞連載『路傍の花』(「時事新報」、9月21日から翌年3月13日まで173回)一作品のみ。その他、『どこか見世物式――泉鏡花氏の文章』(「文章倶楽部」)、『柳川春葉君の事ども』(「文章世界」)、『岩野君と其の作品』(「新潮」)、『島村さんに就いて』(「早稲田文学」)を含めて12作品を雑誌や新聞に発表した。出版は盛んで、『小説の作り方』(新潮社、2月)、『小説入門』(春陽堂、4月)、『地中の美人』(日吉堂、4月)、『小品文作法』(止善堂書店、5月)、『秘めたる恋』(新潮社、7月)、『哀史物語』(新潮社、9月)の6冊にのぼっている。
1919年、秋聲は久しぶりに、『再会』(「大阪朝日新聞」、4月14日から5月19日まで、29回)、『愛と闘』(「やまと新聞」、5月4日から9月2日まで、115回)、『寂しき生命』(「読売新聞」7月21日から11月3日、96回)の3作品の新聞連載小説を発表した。他に『けむり』を「中外」(1月)に発表したのをはじめ、8作品を雑誌に発表した。また、昨年の新聞連載小説『路傍の花』が3月に新潮社から出版された。
1920年、秋聲は新聞連載が、『偏執の心』(「時事新報」、1月1日から10日まで、9回)、『何処まで』(「時事新報」、10月4日から翌年3月28日まで、173回)の2作品と少なかったが、14作品を雑誌などに発表している。また、『結婚まで』(新潮社、1月)、『残りの炎』(学芸書院、6月)、『妹思ひ』(日本評論社、9月)、『或売笑婦の話』(日本評論社、11月)、『秋聲傑作集』第一(新潮社、11月)を出版した。
秋聲は、5月に大阪時事新報社の懸賞小説授賞式における講演のため、大阪を訪れ、6月9日には、発起人となって、雑司ヶ谷開泉閣で泡鳴追悼会を開き、12日には三年ぶりに上京した近松秋江歓迎会を鴻の巣で催した。その後、6月後半には近江秋江と箱根に遊んだ。また、11月23日には築地精養軒で全文壇から、田山花袋共々生誕50年を祝われた。あきらめきれずに再び上京してから25年。秋聲は文壇に確固たる地位を築いていたのである。
築地精養軒は築地川に架かる采女橋の袂にあり、精養軒ホテルとして1873年に創業し、1909年に3階建て32室のホテルとして建て替えられた。秋聲たちが利用する4年前にあたる1916年11月21日、東京駅などを設計した辰野金吾の息子、隆の結婚披露宴に出席した漱石が、大好物の南京豆を食べ過ぎ、胃潰瘍を再発し、12月9日に亡くなった、漱石が最後の食事をした場所でもある。そして、秋聲たちが利用して3年後の1923年9月1日、関東大震災によって焼失、廃業した。現在は時事通信ビルが建っている。「精養軒」はもちろん、「西洋軒」を意味している。そして、精養軒と言うと、上野精養軒が有名である。築地精養軒廃業後は、上野精養軒が本店となっている。
1921年、秋聲は、新聞連載が『断崖』(「大阪朝日新聞」、2月)・『灰燼』(「中外商業新報」、11月14日から翌年7月3日まで、210回)、雑誌連載が『呪詛』(「新家庭」、翌年4月)・『萌出づるもの』(「婦人之友」、7月)、それに雑誌などへの発表12編。出版も、『恋草』(3月、玄文社)・『闇の花』(5月、日本評論社)・『秋聲傑作集』第二(新潮社、5月)・『あけぼの』(6月、文洋社)・『断崖』(10月、日本評論社)・『小品文作法』(10月、国民書院)・『花袋・秋聲傑作文集』(10月、綱島書店)・『惑』(12月、一書堂)と、8冊に及んでいる。
7月、秋聲は菊池寛らと発起し、小説家協会を創立し、発会式を丸ノ内の中央亭で開催した。12月3日、秋聲の理解者として支えてくれた長兄直松が大阪で逝去し、秋聲は葬儀のため大阪へむかった。帰路、京都の甥(実姉依田かをりの次男敬二)の許を訪れ、しばらく滞在して、28日に東京に戻った。
1922年、秋聲は、新聞連載が『二つの道』(「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、8月24日から翌年2月15日まで、175回)一つのみ。他に8編を雑誌に発表している。出版は4冊である。雑誌発表の中には「新小説鷗外森林太郎號」も含まれ、鏡花は『みなわ集の事など』、秋聲は『外国文学の移植者』を寄せている。
秋聲は10月29日、亡母七回忌のため帰郷した。
1923年、秋聲は、雑誌に12編の作品を発表。『玉を抱く』を「婦人世界」(1月から9月、および翌年2月)、『無駄道』を「報知新聞」(5月9日から6月24日、45回)に、それぞれ連載した。単行本の出版は『萌出るもの』(南天堂)1冊である。
3月に秋聲は「新潮」の創作合評第1回に出席し、以後、しばしばこれに出席するようになった。同郷の島田清次郎は『地上』で一躍脚光を浴び、1922年には欧米旅行にも出かけたが、帰国後、ファンレターをくれた舟木海軍少将の娘芳江を半ば強引に誘い出して、葉山に泊まり、舟木家から監禁・陵辱・強姦で告訴された。徳富蘇峰らの力で告訴は取り下げられ、秋聲もこれに尽力した(4月)。秋聲は面倒見の良い人だったようで、島田に関しても放置しておくことができなかったのであろう。後に秋聲は鏡花の弟豊春(斜汀)の最後を看取っており、犀星も秋聲とは親しみを感じて交わりをもつようになっている。一世を風靡した島田清次郎の人気は、事件をきっかけに凋落し、翌年には統合失調症で保養院に収容された。
8月30日、秋聲は姪(三姉かをりの次女富)の結婚式のため帰郷した。そして、9月1日、関東大震災が発生した。秋聲は金沢にあった。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
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