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4.文壇に地位を築く
1926年12月、天皇が崩御し、大正は15年で終わり、昭和が始まった。元年は数日で過ぎ、1月1日を迎えて、早くも昭和2年が出発した。鏡花は麹町区下六番町11番地(現、六番町5番)、秋聲は本郷区本郷森川町1番地124(現、本郷6丁目6-9)、犀星は北豊島郡瀧野川村田端523番地に住んでいた。三人は同じ東京で大正から昭和に移り変わる時期を過ごしていた。すでに鏡花と秋聲は文壇に確固たる地位を築き、終生の家を得ていたが、一世代後の犀星は、まさに文壇に確固たる地位が築きつつあり、そして、終生の家にたどり着こうとしていた。
東京に戻る
関東大震災後、金沢で1年余を過ごした犀星は、1925年1月に単身上京し、2月に家族を呼び寄せ、4月に入って田端523番地の旧宅に落ち着いた。庭木や庭石も入れて手入れしてきた家である。けれども金沢に対する思いも断ち切れなかったようで、1926年5月、金沢の小立野台にある由緒ある天徳院の寺領を100坪借りて庭づくりを始めた(『評伝』p229)。
天徳院は小中学生の私にとって、遊びエリアにある寺院で、まわりに友人の家も多く、身が引き締まるとともに、親しみのある場所である。境内全域そうであるが、とくに仁王像がそのような印象を抱かせるのかもしれない。犀星は数年間、この庭に通いつめ、1928年には庭に草房も建てている。
また、軽井沢での避暑生活も、1926年、つるや旅館から貸別荘へ移り、1931年には万平ホテル裏手に自前の別荘建てるまでになっていった。東京での生活と共に、金沢での庭づくり、軽井沢の別荘生活のうちに、犀星は大正から昭和という時代を迎えていった。そしてこの時期、1926年9月11日、二男朝巳をこの世に迎え、一方、1927年7月24日に芥川龍之介、1928年4月28日に養母ハツを見送った。
芥川龍之介の死
1927年7月23日、芥川龍之介は同居する伯母の枕元にやって来て、「これを明日の朝に下島先生に渡してください」と言って、芥川の自句「水涕や涕鼻の先だけ暮れ残る」を書いた短冊を手渡し、寝室へ引き上げた。その後、ねまきに着替え、ふとんの中に聖書を広げた。近藤富枝は『田端文士村』でさらにつぎのように記している。
二十四日未明に雨が降り出した。下島勲はその音を夢うつつにききながら、心地よい涼しさに眠りこんでいた。と玄関で聞きなれた芥川の伯母の声がする。妻のはまが出ている。「変だ」とか「呼んでも答えがない」などという断片が耳に入る。下島はギョッとして床の上に起き直った。芥川の家へいく道はぬかり、あわてる下島の足を滑らせ、何度も転びそうになった。「すぐ一緒にきて下さい」小穴の下宿新昌閣の部屋の外で、芥川の甥葛巻義敏の声がする。小穴はとび出した。「ほんとにやったのか」「どうもそうらしいんです」小穴が、義足をつけ芥川家へかけつけると、龍之介の枕頭に下島がいた。二本目の注射をすませ、彼は注射器を片づけているところで、「とうとうやってしまいましたなア」と小穴に声をかけた。
まるで自分が見ていたかのような臨場感あふれる描写だ。もちろん近藤は5歳くらいだから、仮に見ていたとしても、ここまで詳しい記憶はないだろう。
犀星も知らせを受取って、軽井沢から急きょ田端へむかった。
室生が芥川家へ着くと、垣根の辺りからもう線香の匂いが漂っていた。室生は畏敬する友の死に顔を見た。彼は少し歯をあらわし、呼吸の絶えた人の急な衰えをみせ、顔色はやや黄味を帯びていた。平常芥川の一番静かな気持でいるときの表情の出ているのをゆっくり確かめ、室生は白布でそれを覆った。
死者となった芥川と対面した犀星の様子を『田端文士村』では、このように記している。
7月27日、自宅から出棺後、徒歩で谷中斎場へむかい、午後3時から葬儀が始まった。犀星は菊池寛と並んで座り、相対する席には鏡花と里見弴が並んで座った。芥川の葬儀に犀星、鏡花という金沢が生んだ二人の作家が相対したことになる。鏡花、続いて菊池寛が弔辞を読んだ。
『評伝室生犀星』によると、犀星は内心の整理がつかないので、追悼文などの執筆は一切断ったと言う。犀星が芥川について書いたのは一年後の1928年。犀星は「文藝春秋」7月号に「芥川龍之介を憶ふ」の一文を寄せた。
ところで、芥川はなぜ自死したのか。芥川が遺書に「あるぼんやりした不安」などと謎めいた一文を残しているところから、「芥川らしい」と何となく納得してしまっているが、なぜ「その日」になったのか、本人自身もよくわからないであろう。けれども近藤富枝は『田端文士村』で興味深いことを書いている。
龍之介は、あまりにも多くの顔を持ちすぎたようである。菊池、久米など「新思潮」以来のライバル作家たちに対する顔と、下島、小穴へのそれと懸隔のはげしさ、香取秀真や鹿島龍蔵には親戚の伯父さんのごとく甘え、驢馬人たちへも挨拶を怠らず、家庭ではよき子、よき甥、よき夫、よき父を演じていた……。これでは疲れ、いいかげんなところで人生をカットしたくなるのも無理はない。芥川はまた恋の多い男だった。
芥川の言動を知れば知るほど、彼に対する暗いイメージは打ち消され、明るく活発なイメージが浮かび上がる。近藤の分析はその延長線上にある。私は漱石の胃潰瘍が過労と食べ過ぎに起因すると、行動的に捉えているのと共通する。
ハツの死
芥川が亡くなった翌年の1928年4月28日、養母ハツが亡くなった。犀星はハツの葬儀に金沢へかけつけた。
巷では、『弄獅子』(1936年)に描かれた莫連女の養母が、ハツのイメージとして定着している。しかしこの作品は「市井鬼物」と呼ばれる犀星の作品群のひとつであり、養母もそれにふさわしく描かれなければならなかった。
犀星にとってハツはどのような人物であったのだろうか。好きとか嫌いとか感情を表した文章がないので、表に出た事実から類推するしかないが、犀星が初めて上京して以来、何度も金沢に戻っているという事実。それは帰ることができる家、受け入れてくれる家庭があったと言うことを示している。
犀星は金沢へ帰って来ると、幼い頃から過ごした雨宝院に隣接した家(千日町二番地)に戻って来た。1915年に発行された人魚詩社機関誌「卓上噴水」の発行所もこの住所になっている。
犀星が育った家庭は、父母はともに養父母であり、養父真乗、養母ハツは内縁関係で、正式の夫婦ではない。四人の子どもはみんなもらい子で、血のつながりがない。それでも一つの家族をつくり、家庭というものが築かれてきた。まさに映画『万引き家族』(2018年)を先取りしたような一家であった。巷で言われるように愛のひと欠けらもない家庭ではなかっただろう。このような中で、犀星のハツに対する思いも捉えられるべきだと私は考える。
1917年9月23日、真乗が亡くなり、犀星は室生家の跡を取った。けれどもこの時期、家庭という面では大きな転機を迎えた。犀星はかねて文通していた浅川とみ子に結婚を申し込み、犀星の実家小畠家で、1918年2月に婚儀がおこなわれた。犀星は結婚することをハツにも伝えた。
室生犀星記念館によると、犀星は1918年に養父室生真乗の墓がある宝集寺に泊まっている。おそらく婚礼をひかえての時期であろう。真言宗倶利伽羅山宝集寺は寺町1丁目にあり、通称「六角堂」。真乗の叔父室生真意が住職を務めていた時期もある。室生真乗は1844年、富山県射水郡中老田村(神通川を渡った富山市西隣りの地域)小川伝吉次男として生まれ、1869年に仏門に入り、射水郡下村加茂の宝立山福王寺で修業し、室生姓をもらったが、福王寺15代住職は叔父室生真意であった(『評伝』p48)。宝集寺には後に犀星長男豹太郎の墓も設けられている。犀星が千日町に泊まらなかったのは、すでにハツが寺町台へ引っ越していたことを示しているのではないだろうか。ハツは婚儀に出席していない。その後の経過から見て、犀星や小畠家が出席を拒否したというより、ハツの方で遠慮したのではないかと私は思う。
1920年に金沢に来た時、犀星は浅川家に泊まっている。
1921年5月6日、犀星に長男豹太郎が誕生し、犀星は6月にハツを東京に招いた。孫の顔を見せ、まさに「親孝行」を尽くした。けれどもそれから1年。1922年6月24日、豹太郎は亡くなってしまう。そして翌年8月27日、長女朝子が生まれるも、9月1日、関東大震災。10月に金沢に避難した犀星一家はとりあえず浅川家に落ち着き、その後、川御亭の貸家を経て、12月になって、川岸町12番地の2階建ての貸家に転居した。
対岸の寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツも、一日おきくらいに訪ねて来て、孫にあたる朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
1925年、犀星一家は避難生活に終わりを告げ、東京へ戻った。この後、犀星は金沢に長期滞在する時は貸家を利用したようで、室生犀星記念館によると、1925年、1928年にその形跡があるという。犀星は悌一をはじめ小畠家の人たちとも親しく交流していたが、悌一家族は1925年から26年にかけて、六斗林3ノ30ノ12の新しい二階家に引っ越しており(『詩魔』p67)、1926年春に実家へ戻っても、生種が健在であり、犀星が気軽に行ける場所ではなかっただろう(実家へ戻った時、悌一夫妻には春夫・雪子の二人の子どもがいた。悌一の弟妹、菊見、みのる、繁は他家に嫁ぎ、菊見は死去。義種は上京。敏種が3月に一中を卒業し、4月から東洋大学に進学のため上京し、実家には父生種と末っ子の秀男だけ残されていた)。
ハツが亡くなり、犀星は金沢における自分の拠点を失ったように感じたのかもしれない。犀星は田端の書斎を金沢の庭へ移築することを決め、6月から工事が始まり、9月に完成した。この草庵は「寒蟬亭」と名づけられた。悌一に工事監督を一任した(『詩魔』p64)。まもなく11月。犀星一家は田端を後に、馬込に転居した。犀星は1929年5月中旬帰郷ハツの一周忌法要に金沢へ戻った際、二週間近くこの草庵に寝泊まりした(『詩魔』p72)。食事は隣家の女性につくってもらったという。
ただ、1931年から32年にかけて、犀星が馬込に家を新築することになり、その資金を得るため、天徳院寺領につくられた庭は草庵もろとも売却されてしまった。ここでも悌一が実務を担当した(『詩魔』p72)。
犀星は金沢へ帰ると、旅館に泊まることもあっただろう。鏡花なども金沢の定宿にしていた、上柿木畠35番地の藤屋に宿泊することもあっただろうし、宮保旅館に泊まったこともあるかもしれない。
馬込に引っ越す
近藤は犀星の気持ちを代弁するかのように、つぎのように書いている。
龍之介をうしなった悲しみは、犀星をすっぽりくるみ、田端のあの坂、この小路を歩みながら、共に歩いた亡き友がしのばれてならないのだった。一方萩原はまる一年で鎌倉をひきあげ、東京府下荏原郡馬込村に住んでいた。犀星はとうとう朔太郎の傍へいこうと決心して、萩原夫人稲子に貸家さがしを頼んだのである。(『田端文士村』p241)
こうして犀星一家は、1928年11月、大森谷中1077番地(現、大田区山王4丁目13)の貸家に入った。朔太郎の妻稲子が探したようである。朔太郎たちはすでに、1926年に荏原郡馬込村平張1320番地(現在の大田区南馬込3丁目20-7)に引っ越していた。朔太郎の家は西側の高台にあり、転居して来た犀星の家と、直線距離で500メートル程だった。再び近くに住むようになった犀星と朔太郎。12月7日の犀星の日記には、
萩原をたづね大井町に犬を買ひに行きしが、犬屋は既に引越しの後なり。
大森にかへり松屋にて菓子を買ひ、自宅にて喫茶の後銭湯に行く、萩原も一緒なり。
大森・大井町は一駅であるが、電車を使ったであろう。犀星の家から大森駅は歩いて10分ほど。銭湯は南西方向すぐ近くにあり、現在の環状7号線にひっかかるあたりである。
大森から馬込にかけ、「馬込九十九谷(つづらだに)」と言われる起伏に富んだ丘陵地で、谷中は文字通り「谷」にあり、犀星は11月13日付の小畠悌一宛手紙に、《
間かず六つ、庭少々、地盤ゆるきため地震おそるべし
》と記し、17日付の日記にも、《
この馬込谷中の土地は昔は底なかりし沼の由なり。(略)敷金をつくる迄此家にとどまるべく、その上にて高台に家をもとむる心なり
》と、地震に対する不安とともに、地盤にも関心を寄せている。
また、この貸家について、伊藤信吉は新潮社版犀星全集の月報に、《
その家は山王台地の西の端に当る崖下にあった。崖上からみると、辺り一帯の家々は低く沈み込んでいた。コンクリの段々を下りると溝川が流れ、陽当りのわるい道路があり、そこに室生家があった。家賃四十円。私は何度かその家賃を家主のところへとどけにゆき、そのたびに高いとおもった
》(「大森谷中の二夏」)と記している。この文を読んだだけでも、住みたくなくなるところである。
信吉は朔太郎と同郷で、詩作を始めて朔太郎に私淑していた。犀星一家は夏に軽井沢へ避暑にでかけるが、二匹のブルドックのうち、先から飼っていた一匹は連れて行ったものの、馬込へ来てから飼った「鉄」という一匹は残っており、おまけに猫もいたので、その世話がおもな役割であった。「鉄」というのは、先の日記で買うことができなかったものの、その後、どこかの犬屋で購入したものであろう。二夏とは、1929年と30年であるが、29年7月、朔太郎は夫婦離別により、二児を連れて前橋へ帰っており、信吉に対する処遇として、急遽決められたものかもしれない。
当時、大森・馬込一帯は東京市外であったが、震災をきっかけに家屋の密集した市内を離れ、郊外に住居を求める風潮が強まり、急速に都市化が進んで行ったことがうかがえる。市外と言っても、犀星は先に紹介した11月13日付の小畠悌一宛手紙で、《
銀座へ十八分、田端へ四十五分
》とその利便性を伝えている。
犀星は1932年4月、高台の新居に引っ越すまで、3年半をこの低地で過ごした。環状7号線はこの谷筋を通過している。
1932年4月。馬込町久保763番地(現、大田区南馬込1丁目49-10)に新築していた家が完成し、犀星一家は低地の家から高台の家に転居した。万福寺の背後にあたる。犀星は金沢の庭を売却し、蔵書もほとんど古本屋に売り、生命保険も解約して、資金を準備した。敷地は150坪の借地。家屋は建坪30坪程度の平屋で、庭が100坪あまりを占めていた。朝子、朝巳二人ともよく発熱し、じめじめした家は不適当であった。新しい家は南向きでどの部屋も陽当たりが良かった。私も金沢の人間なので、陽当たりの良い家は絶対条件である。
いわゆる「馬込文士村」形成は、明治末期にさかのぼるが、直接的には、1923年、尾崎士郎・宇野千代夫妻がこの地に転居して来たことと、関東大震災を契機に郊外へ転居する機運が高まったことに始まる。田端同様、家賃が安かったことも、魅力のひとつだった。
なお、「馬込文士村」については、別に書くことにしたい。
迷いの時期
昭和初期文壇の環境は、プロレタリア文学とモダニズム文学の対照的な潮流の台頭が著しい変化の時期である。
》と船登は『評伝』(p236)で記している。犀星は、大震災で金沢に避難中、文学に熱中する学生中野重治(後に、犀星の葬儀委員長を務める)を紹介され、さらに中野が窪川鶴次郎を連れてきた。犀星は弟子をもつことをしなかったので、犀星にしては後輩がまた増えたということになる。
1925年、犀星が田端へ戻り、中野・窪川・堀辰雄・平木二六らが犀星の家にも集まるなど交流を深めるうち、同人誌『驢馬』を創刊するのは1926年4月である。芥川・萩原も犀星とともに作品を寄稿して支援したが、犀星は財政的な援助者でもあった。田端に隣接する駒込神明町のカフェー紅緑の女給田島いね子(後の佐多稲子)は、飲みに来る『驢馬』のメンバーと親しくなり、仲間に加わり、さらに窪川と結婚した。
ところが『驢馬』のメンバーであった中野・窪川らは、プロレタリア文学の道を明確にし、創立して数年の日本共産党に入党した。犀星は、「『驢馬』の人達」(「文学界」1959年)で、
この睦まじい『驢馬』の仲間は、堀辰雄を一人残して四人は何事かを結び、日本共産党に何時の間にかはいってゐたのである。私がその仲間の一人でなかつたことは、私が原稿を書いてゐて食へたからであり、食へずにゐたら容易に仲間にはいつてゐたかも判らなかつた。(『評伝』p227)
と述べている。犀星にとって、『驢馬』のメンバーはひとりの若者であり、かわいい後輩であり、キケンな分子でもなかった。と同時に、彼らと共感できるところもあったのだろう。
1928年3月、日本共産党大検挙がおこなわれ、国による弾圧、取り締まりがいっそう強化されるようになった。『驢馬』に財政的援助を与えていた犀星は、かなりキケンな立ち位置にあったと言える。そのような犀星であったから、「『驢馬』の人達」で犀星はつぎのように続けている。
ただ私は当時の厳しい弾圧の手が私の身辺にも及ぶだらうといふことに、なんとなく注意力が集中するに至ってゐた。滑稽なことに私は朝剃る顔剃りを夕方に剃り、朝の寝込みに引張つてゆかれても顔だけはよごれてゐないやうにしてゐたかつたし、何となく手拭歯ブラシの包みも、湯殿ですぐつかめる位置に置いてゐた。(『評伝』p227)
犀星はすでに、中野や窪川たちをまったく知らない時期に、『或る少女の死まで』(1919年)で思想的に警察からマークされている自分を描いている。弾圧に対し危機感と警戒心をもっていたことは確かである。妻と二人の子どもを持つ家長として、文壇に一定の地位を築き、軽井沢に別荘、金沢に庭をもつようになった犀星が、そのすべてを投げ打ってまで運動に身を投ずることはできなかったのであろう。
こうしてみてくると、犀星が1928年11月に田端を離れ、馬込に転居したのも、一般的に言われているように、芥川の死がきっかけではなく、『驢馬』のメンバーだった人達と距離を置くためだったかもしれない。『驢馬』は1928年5月の12号をもって終刊している。なお、近藤富枝は『馬込文学地図』で、犀星が馬込を転居先に選んだのは、朔太郎の存在とともに、片山広子(松村みね子)が大森の新井宿2丁目に住んでいたことが加わっていると記している(p129)。
犀星は中野や窪川に理解を示しながら、結局、プロレタリア文学に舵を切ることはできなかった。犀星は1928年3月の詩『情熱の射殺』で、
自分は結果に於て恐ろしいことになるので
仕方なく引金を曳いて
自分の中にある情熱を射殺した。(後略)(『評伝』p239)
と、自身の思いを表出している。自分の保身を、美辞麗句によって覆い隠すようなことをせず、じつに率直である。
犀星はモダニズム文学をめざすが、もともと犀星の気質に馴染むものではなく、あまり評価されなかった。まさに二つの主流のどちらにも乗ることができなかった犀星に、経済的恩恵を与えたのが、昭和初期の円本ブームである。春陽堂刊行の『明治大正文学全集』では、1929年9月、「芥川龍之介・室生犀星」の巻が出版され、改造社の『現代日本文学全集』では、1930年10月に「久保田万太郎・長与善郎・室生犀星集」が出版されている。
犀星はこの「迷いの時期」を晩年の『私の履歴書』の「或る八年間」(1925年から1933年の間)でつぎのように振り返っている。
大正十四年頃から昭和八年くらゐの八年間、私は殆どめぼしい物を書かないで過ごしていた。濫作の後の私の眼はかすみ、感動に鮮意もなく、どうなつたつていいやといふ気合ひと、どちらにしても沈没するなら何時何処だつて構わないといふやけくそがあつた。(『評伝』p241)
ところがこの間、犀星は1929年8月、「改造」に『浮気な文明』を発表し、朔太郎・稲子夫妻の関係を暴いた。馬込の文士たちの間では犀星が二人を別れるように仕向けたとさえ噂された。犀星はさらに、『熊』(「改造」、1930年4月号)、『青い猿』(「都新聞」、1931年6月~8月)、『白い蛆と勇士』(「中央公論」、1931年7月号)と夫妻を描いた作品を連発している(『馬込』p136)。
ここで思い出されるのが秋聲の、いわゆる「順子もの」である。秋聲は自らの山田順子との交際を、1926年から1928年にかけて、29編の短編として発表している。犀星と違って自分のことを書いたと言っても、母を失って悲しみの中にある子どもたちを、世間に顔向けできない状況に追い込んでしまった。「順子もの」は犀星の「或る八年間」と重なる。主流から外れ、主張のあるものを書けば弾圧されるかもしれない時期に入って、行きつく先として「週刊誌的」な噂話に活路を見出した。書いて「なんぼ」の秋聲も犀星も、生活のためと言い聞かせ、このような作品を書いていったのかもしれない。
こうした心境を犀星は『茱萸の酒』でつぎのように記している。近藤は『馬込』でそれを引用している(p177)。1932年、自宅新築にあたって、
本を売り骨董を売り、犀星にはもう売るものがなかった。「……僕はもう売るものがなかった。このつぎは魂に嘘をつかした原稿よりほかになかつた。そこで僕はあらゆる原稿を売り捌いた。僕の好きな女の人、庭の花、よその庭の景色、文芸時評、人をわるくいふ文章、凡そさういふ悪徳の限りをつくした後に、僕はくだくだになり酒を舐めてゐた。僕のうしろに梯子がかけられ、その上に縄が一本下つてゐて、いつでも僕は首を縊びることができた。僕はそれを眼の前にしながら、何時までもうまい日本酒をあふつてゐた」
独特な感情表現ながら、犀星の率直な気持ちの一端を示すものであろう。
なお、秋聲と順子は犀星が馬込に転居するひと月前、馬込を訪れている(『馬込』p267)
人間関係の変化
1929年7月、稲子と離婚した萩原朔太郎は前橋へ帰ったが、8月になると葉子・明子という娘二人を連れに来て前橋へ戻った(『馬込』p139)。犀星と朔太郎がともに馬込で暮らした期間は、わずか九カ月で終わりを告げた。
朔太郎は父を亡くした後、1931年9月、母、娘二人、年の離れた妹愛子と世田谷町下北沢に家を建て、暮らし始めた(『馬込』p174)。わだかまりが生じた朔太郎と犀星であるが、1932年に犀星が自宅をもつようになると、朔太郎は犀星宅で行われる四季折々の宴に出席するようになっている(『馬込』p179)。佐藤惣之助(1890年~1942年)も同席していた。惣之助は川崎の生まれで、佐藤紅緑に師事し、1934年に東海林太郎が歌って大ヒットした『赤城の子守歌』を作詞している。
愛子は二回目の結婚に失敗し、1927年に朔太郎の許に転がり込んでいる。愛子の存在はマドンナ的で、平木や衣巻も犀星から「愛子さんを貰わないか」と声をかけられたと言う(『馬込』p119)。結局、三好達治が名乗りをあげるが、遂げられず、愛子は1933年に惣之助と結婚する。惣之助はこの年、妻花枝を失っている。三好は佐藤春夫の姪智恵子と結婚。しかし、愛子が惣之助と死別すると、智恵子と別れ、1944年、強引に愛子を迎えたが、間もなく破たんした(『馬込』p121)。
馬込を去った稲子は、離婚した年、下落合3丁目1909番地、寺斉橋(じさいばし)北詰に喫茶店「ワゴン」を開業した。寺斉橋は妙正寺川に架かる橋で、西武新宿線中井駅すぐ南にある。資金に朔太郎からもらった手切れ金も使われたようで、恋人の三富青年も店で働いた。三富は神楽坂で逸見猶吉が経営していたバーで、バーテンをやっていた経験があり、喫茶店と言っても、酒も出していた。この「ワゴン」には、衣巻省三、平木二六なども訪れるようになる(『馬込』p141)。
朔太郎は去ったが、犀星のもとには、伊藤信吉をはじめ、田端時代からの平木二六(1903年~1984年)、堀辰雄が出入りしていた。平木は犀星が馬込へ来た翌月、馬込谷中に転居し、犀星の家のすぐ近くの下駄屋の二階に住み、秘書的役割を果たした(平木については、『馬込文学地図』に詳しく記されている)。また、「卓上噴水」時代から交流のあった竹村俊郎(1896年~1944年)が、朔太郎と入れ替わるように、その年の暮、家を新築して馬込の万福寺近くに転居して来た(『馬込』p174)
さらに、犀星が万福寺傍へ転居して後、1933年夏、軽井沢に犀星を訪ねた津村信夫(慶應義塾大学学生、1909年~1944年)、1934年夏、軽井沢に犀星を訪ねた立原道造(東京帝国大学学生、1914年~1939年)など、犀星に惹かれる若者たちが出入りするようになった。犀星は竹村を「俊公」、堀を「たっちゃんこ」、津村を「ノブスケ」、立原を「ドウゾウ」と呼んだ。
再出発
1931年、満州事変、1933年、国際連盟脱退と、日本は戦争への道を鮮明にしていった。ドイツでもヒトラーが政権を握った。そのような中で1934年7月。犀星は『あにいもうと』を「文芸春秋」に発表した。この作品は、二二六事件が発生し、日独防共協定が締結された1936年、映画化。また舞台でも上演されるなど好評を博した。犀星は『泥雀の歌』で、
私の第三期の仕事は「あにいもうと」と前後してはじめられ、おもに街、――市井の人間を素材として書きつづけた。私の小説といふ小説には善良な無頼漢が相絡んで、頭に中の街にあふれた。(『評伝』p245)
と記している。以来、『復讐』『聖処女』『弄獅子』『女の図』『戦へる女』などの長編、他に短編も四、五十編、つぎつぎに発表していった。後に「市井鬼物」と呼ばれるこれらの作品がなぜ世の中に受け入れられたのか、船登は、
「あにいもうと」を第一回の文芸賞に選んだ文芸懇話会は、思想統制に一段と力点を置き始めた政府機関の肝いりで前年発足したばかりであった。が、皮肉にも犀星の描く市井鬼物の世界は、プロレタリア文学崩壊の状況にあって、下層社会のしたたかなエネルギーを汲みあげて、文学的に反映したものと言えるのである。(『評伝』p245)
と分析している。
一方、犀星は『あにいもうと』を発表した翌8月、『詩よ君とお別れする』で、《
詩の神様なぞお泊りになることがなくなつて
》しまったとした後、
小説といふものは書けないからと言つてぢつとしてゐると、百年経つても書けるものではない。書けない自分の中に飛び込んで行つて、書けるまで机を離れずに自分をいぢめあげると、白状しない罪人が鞭打たれる苦しさから何もかも言つてしまふやうに、やつと書けるやうになるのである。(『評伝』p242)
と、まるで「市井鬼物」そのままに思いを記している。
まとまったカネが入った犀星は、1937年4月下旬からおよそ二週間、大連・ハルビン・ソウル・プサンなどを巡る旅に出かけた。7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まるので、まさにその直前の旅行であった。
1938年4月、国家総動員法が公布され、「モノ書き」の生きる道は戦争を賛美し、生産を奨励する文章を書くことで、国家の役に立つことだけであった。犀星にも常に戦時体制が犀星に重くのしかかっていた。そしてもうひとつ、11月13日、妻とみ子が脳溢血で倒れ、半身不随になったことが犀星に大きな負担を強いることになった。
戦時下であろうと、犀星は文章を書いて、生活の糧を得なければならなかった。犀星は、「王朝物」「甚吉物」と呼ばれる作品を書くことで、国策に添うことなく、発禁処分になることもなく、結果的に「モノ書き」として生きていくことができた。
「王朝物」は折口信夫との交流の中で、平安朝の文学に関心をもった犀星が、その話しを題材に書いた小説で、『荻吹く歌』(1940年)から『山吹』(1944年~1945年)まで23作品に及ぶ。「甚吉物」は甚吉という名の人物を主人公に、戦時下の人びとの日常を描いたもので、『廃家』(1940年)から『虫寺抄』(1942年)まで10作品くらい書かれている。
船登は、犀星が「王朝物」を書いた理由を、
いわば王朝を隠れみのに多様な女の生き方、さらに言えば男と女の愛のかたちをみずからにひき寄せて描き出すことに重点があったのである。古典文学に登場する女たちへの接近は、犀星にとって新しい発見であったことは疑いないが、王朝物の作品は何より戦時下の厳しい文化統制の中で、執筆を継続するしたたかな知恵であったことを指摘しなければならない。(『評伝』p252~p253)
と、分析している。しかし、「甚吉物」は一転して「今」を克明に描写しており、風刺と捉えられる表現もある。それが引っかからなかったのは、あまりにもありふれた日常を描いたからかもしれない。
犀星の身辺
春秋すぎてまたかえる
学びの庭の日のひかり
夏冬きたり去りゆけば
学べるひとは育ちゆく
これは普連土学園校歌の一節である。作詞は室生犀星。1937年につくられ、現在も歌われている。普連土学園は三田に1887年、創立されたキリスト教主義の女学校であるが、なぞこのような学校の校歌を犀星がつくることになったのだろう。答えはかんたんで、長女朝子が在籍していたからである。朝子は1935年頃入学し、1941年までを普連土で学び、その後、聖心女学院専門部国文科に入学した。犀星自身、聖書に触れる機会の多い時期を過ごしてきたから、娘をキリスト教主義の学校へ通わせることは、願いでもあっただろう。普連土学園は日本で唯一のクェーカー(フレンド派)の学校。
学校嫌い(?)の犀星が、普連土学園を皮切りに、1939年、子どもたちの母校大田区馬込小学校、1952年には創立80周年を迎えた自身の母校金沢市立野町小学校と、生涯20校を超える学校の校歌を作詞している。皮肉と言えば皮肉なものである。中には、花園小学校(ハルビン日本人学校)、圧巻は作曲が芥川龍之介の息子芥川也寸志という日体荏原高等学校/桜華女学院中学校・日体桜華高等学校。最後に、1959年、第四高等学校の流れをくむ金沢大学の校歌も作詞している。
犀星の自宅から、大森駅まで、今日ではあまり歩きたい距離ではないが、朝子は歩いて大森駅まで来て、そこから電車で田町駅。降りれば普連土学園まで歩いて数分である。校舎は大きな邸といった感じで家庭的。私も普連土学園におじゃましたことがあるが、校舎は建て替えられたといっても、狭い都市空間をうまく活用し、中へ入るとのびやかで、温かく包んでくれる感じがする。なお、カリスマ片づけコンサルタント近藤麻理恵(こんまり)も普連土学園の卒業生。校風から何となくわかるような気がする。
朝子は在学中を振り返って、
中流のお嬢さん学校だったわ。校風は質素なものよ。ただ、あのころの女学生は、みんなレビューに憧れてたでしょ、で、日曜の夜はお化粧して、ターキーを見に行くわけ。でも、マニュキアがとれなくて、月曜日の朝は、本当に困ったものよ。(『太陽』2月号、1980年)
と述べている。ターキーこと水の江瀧子(1915年~2009年)は「男装の麗人」と呼ばれ、1930年代、松竹歌劇などのレビューで一世を風靡した。1938年11月から中国、その後、渡米しているので、朝子の「困った」できごとはそれ以前。今の「中学生」時代のできごとであり、「東京の子はずいぶんませていたんだなあ」との思いにさせられる。朝子はターキーより7年早く、2002年に逝った。
先に記したように、国家総動員法が公布された1938年11月13日、妻とみ子が脳溢血で倒れた。43歳。奇しくも秋聲の妻はまも1926年に脳溢血で倒れ、帰らぬ人となっている。46歳。ともに四十代であった。幸いとみ子は一命をとりとめたが、言語障害が残り、半身不随になった(『評伝』p249)。
15歳の朝子は母に代って家事をこなすこともあったであろう。ターキーも日本の舞台から姿を消し、さすがに朝子もレビューを観に行くことはなくなっただろうと推察される。
国家総動員法が公布され、日本は増々戦時色を強めて行った。そのような日本から逃れるように、犀星のまわりの人たちが相次いでこの世から去ってしまった。
1939年3月。犀星の親しき後輩立原道造が結核で亡くなった。9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻し、3日にはイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、後に「第二次世界大戦」と呼ばれる大きな戦争が始まった。そんな中、7日に同郷の文豪鏡花が亡くなった。
1941年にはアメリカとの戦争が開始され、1942年5月には、長い付き合いの詩友萩原朔太郎。朔太郎の妹愛子の夫にあたる佐藤惣之助が相次いで亡くなり、10月に入ると、身内であり、犀星を支えてくれた小畠悌一、11月には犀星が詩に憧れ、上京するきっかけとなった北原白秋と続いた。
この年。犀星自身も初めての入院生活を経験することになる。『評伝』(p258)は、つぎのように伝えている。
当の犀星もまた、胃潰瘍のため四月上旬から三週間ほど、本所区綱島町の同愛病院に入院して内科的治療を行っていた。初めての入院生活、好きな酒を断ち養生に努めたので好転して退院した矢先の朔太郎の訃報であった。
ところで、本所区に綱島町を探しても見当たらない。深川区の間違いかと思って探してもない。綱島は結局、東急東横線で神奈川県へ入って、日吉と大倉山の間に見つけることができる。同愛病院は本所区横網町にある。両国国技館に近いので、私も長い間、「横綱町」だと思い込んでいた。ひょっとしたら船登も「綱」から連想して「綱島町」と書いたのかもしれない。本所にはありそうな地名だ。
さて、横網町は両国駅北側一帯で、陸軍被服廠や安田庭園があった。関東大震災で本所・深川の被害が特に大きく、中でも陸軍被服廠は避難した住民のうち3万8000人余りが焼死し悲惨を極めた。同愛病院(現、同愛記念病院)は、そのような被害を憂いたウッズ駐日米国大使がクーリッジ大統領やアメリカ赤十字社に働きかけ、義捐金を募って建てられた病院で、わが国における無料・低額診療の先駆けのような病院であった。ウッズは当初から病院建設地を本所区・深川区にしぼっており、陸軍被服廠と安田庭園に隣接する土地が選ばれた。陸軍被服廠の北隣りには陸軍経理学校・生徒舎があったが、現在は横網町公園として整備され、東京都慰霊堂(震災慰霊堂)や復興記念館がある。
犀星がなぜ同愛病院に入院したのか定かではないが、大震災の恐怖を体験した犀星にとって、因縁ある病院と言える。そしてその年の12月8日、同愛病院を生んだ善意あるアメリカ市民を相手に、日本は太平洋戦争に突入していく。
1943年11月、米英中首脳がカイロに集まり、対日戦と日本降伏後の基本方針を話し合っていた(「カイロ会談」)。その18日にもう一人の同郷の文豪徳田秋聲が亡くなった。結局、鏡花も秋聲も直接的に攻撃される恐怖体験をすることなく、この世を去ったことになる。
1944年、6月。犀星の親しき後輩竹村俊郎、津村信夫が相次いで亡くなった。津村はアジソン氏病と言う、あまり聞かれない名前の病気だった。これで、「たっちゃんこ」を除き、「ドウゾウ」、「ノブスケ」、「俊公」、みんな犀星より先に逝ってしまったことになる。7月7日、サイパン島の日本軍が全滅し、いよいよ本土が直接攻撃される危険性が高まり、東条内閣が崩壊する中、主要都市から地方への学童疎開が始められた。犀星一家は7月には軽井沢へ避暑に出かけるのが恒例になっていたので、別荘へ行ったまま「疎開」生活に入ることにして、7月下旬、家族が、そして8月になって犀星も軽井沢に赴いた。犀星一家も東京と別れを告げたのである。朝子は聖心女学院専門部国文科を中退している。
金沢に比べ雪は少ないものの、軽井沢の冬の寒さは金沢の比ではないだろう。しかしながら犀星一家は東京大空襲を目の当たりにすることもなく終戦を迎えた。次男朝巳も1945年7月に金沢第九師団に入営したが、8月に終戦となり、9月に除隊、無事に軽井沢へ帰って来た。食糧難の東京に比べれば、食料の確保だけは何とかなり、犀星一家は戦争が終わっても、そのまま軽井沢にとどまった。
それでも、犀星が文壇で生きていくためには、多くの人脈が必要であり、どうしても東京へ出て行く必要があった。1947年1月、犀星は単身上京し、馬込の自宅に戻った。さいわい馬込一帯は被災せず、犀星の自宅も無事だった。家族は1949年9月まで軽井沢の別荘での生活を続けた。
【参考文献】
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年(文中『評伝』と略記)
森勲夫:『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』
橋本確文堂、2010年(文中『詩魔』と略記)
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
近藤富枝:『田端文士村』、中央公論新社、1983年
近藤富枝:『馬込文学地図』、中央公論新社、1984年(文中『馬込』と略記)
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