芥川が亡くなった翌年の1928年4月28日、養母ハツが亡くなった。犀星はハツの葬儀に金沢へかけつけた。
巷では、『弄獅子』(1936年)に描かれた莫連女の養母が、ハツのイメージとして定着している。しかしこの作品は「市井鬼物」と呼ばれる犀星の作品群のひとつであり、養母もそれにふさわしく描かれなければならなかった。
犀星にとってハツはどのような人物であったのだろうか。好きとか嫌いとか感情を表した文章がないので、表に出た事実から類推するしかないが、犀星が初めて上京して以来、何度も金沢に戻っているという事実。それは帰ることができる家、受け入れてくれる家庭があったと言うことを示している。
犀星は金沢へ帰って来ると、幼い頃から過ごした雨宝院に隣接した家(千日町二番地)に戻って来た。1915年に発行された人魚詩社機関誌「卓上噴水」の発行所もこの住所になっている。
犀星が育った家庭は、父母はともに養父母であり、養父真乗、養母ハツは内縁関係で、正式の夫婦ではない。四人の子どもはみんなもらい子で、血のつながりがない。それでも一つの家族をつくり、家庭というものが築かれてきた。まさに映画『万引き家族』(2018年)を先取りしたような一家であった。巷で言われるように愛のひと欠けらもない家庭ではなかっただろう。このような中で、犀星のハツに対する思いも捉えられるべきだと私は考える。
1917年9月23日、真乗が亡くなり、犀星は室生家の跡を取った。けれどもこの時期、家庭という面では大きな転機を迎えた。犀星はかねて文通していた浅川とみ子に結婚を申し込み、犀星の実家小畠家で、1918年2月に婚儀がおこなわれた。犀星は結婚することをハツにも伝えた。
室生犀星記念館によると、犀星は1918年に養父室生真乗の墓がある宝集寺に泊まっている。おそらく婚礼をひかえての時期であろう。真言宗倶利伽羅山宝集寺は寺町1丁目にあり、通称「六角堂」。真乗の叔父室生真意が住職を務めていた時期もある。室生真乗は1844年、富山県射水郡中老田村(神通川を渡った富山市西隣りの地域)小川伝吉次男として生まれ、1869年に仏門に入り、射水郡下村加茂の宝立山福王寺で修業し、室生姓をもらったが、福王寺15代住職は叔父室生真意であった(『評伝』p48)。宝集寺には後に犀星長男豹太郎の墓も設けられている。犀星が千日町に泊まらなかったのは、すでにハツが寺町台へ引っ越していたことを示しているのではないだろうか。ハツは婚儀に出席していない。その後の経過から見て、犀星や小畠家が出席を拒否したというより、ハツの方で遠慮したのではないかと私は思う。
1920年に金沢に来た時、犀星は浅川家に泊まっている。
1921年5月6日、犀星に長男豹太郎が誕生し、犀星は6月にハツを東京に招いた。孫の顔を見せ、まさに「親孝行」を尽くした。けれどもそれから1年。1922年6月24日、豹太郎は亡くなってしまう。そして翌年8月27日、長女朝子が生まれるも、9月1日、関東大震災。10月に金沢に避難した犀星一家はとりあえず浅川家に落ち着き、その後、川御亭の貸家を経て、12月になって、川岸町12番地の2階建ての貸家に転居した。
対岸の寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツも、一日おきくらいに訪ねて来て、孫にあたる朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
1925年、犀星一家は避難生活に終わりを告げ、東京へ戻った。この後、犀星は金沢に長期滞在する時は貸家を利用したようで、室生犀星記念館によると、1925年、1928年にその形跡があるという。犀星は悌一をはじめ小畠家の人たちとも親しく交流していたが、悌一家族は1925年から26年にかけて、六斗林3ノ30ノ12の新しい二階家に引っ越しており(『詩魔』p67)、1926年春に実家へ戻っても、生種が健在であり、犀星が気軽に行ける場所ではなかっただろう(実家へ戻った時、悌一夫妻には春夫・雪子の二人の子どもがいた。悌一の弟妹、菊見、みのる、繁は他家に嫁ぎ、菊見は死去。義種は上京。敏種が3月に一中を卒業し、4月から東洋大学に進学のため上京し、実家には父生種と末っ子の秀男だけ残されていた)。
ハツが亡くなり、犀星は金沢における自分の拠点を失ったように感じたのかもしれない。犀星は田端の書斎を金沢の庭へ移築することを決め、6月から工事が始まり、9月に完成した。この草庵は「寒蟬亭」と名づけられた。悌一に工事監督を一任した(『詩魔』p64)。まもなく11月。犀星一家は田端を後に、馬込に転居した。犀星は1929年5月中旬帰郷ハツの一周忌法要に金沢へ戻った際、二週間近くこの草庵に寝泊まりした(『詩魔』p72)。食事は隣家の女性につくってもらったという。
ただ、1931年から32年にかけて、犀星が馬込に家を新築することになり、その資金を得るため、天徳院寺領につくられた庭は草庵もろとも売却されてしまった。ここでも悌一が実務を担当した(『詩魔』p72)。
犀星は金沢へ帰ると、旅館に泊まることもあっただろう。鏡花なども金沢の定宿にしていた、上柿木畠35番地の藤屋に宿泊することもあっただろうし、宮保旅館に泊まったこともあるかもしれない。