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5.昭和を生きる
1926年12月、天皇が崩御し、大正は15年で終わり、昭和が始まった。元年は数日で過ぎ、1月1日を迎えて、早くも昭和2年が出発した。鏡花は麹町区下六番町11番地(現、六番町5番)、秋聲は本郷区本郷森川町1番地124(現、本郷6丁目6-9)、犀星は北豊島郡瀧野川村田端523番地に住んでいた。三人は同じ東京で大正から昭和に移り変わる時期を過ごしていたことになる。すでに鏡花と秋聲は文壇に確固たる地位を築き、終生の家を得ていたが、一世代後の犀星は、まさに文壇に確固たる地位が築きつつあり、そして、終生の家にたどり着こうとしていた。
芥川龍之介の死
昭和に入ってまだ7ヵ月余の昭和2年、1927年7月24日、芥川龍之介が田端の自宅で自ら生命を断った。35歳。鏡花の師である尾崎紅葉が亡くなった年齢より1歳若かった。第一高等学校在籍中に明治から大正に変わり、大正3年に菊池寛、松岡譲らと「新思潮」を創刊し、大正4年に漱石山房の木曜会に出席するようになり、漱石からバトンを引き継ぐように作家生活へ入って行った、大正を生きた作家芥川龍之介は、大正が終ったのを見届けるかのように逝ってしまった。
葬儀は27日午後3時から谷中斎場でおこなわれ、田端の自宅から斎場まで、鏡花は菊池寛、小島政二郎らと柩について歩いた。ほぼ山手線に沿うような二キロ足らずの距離である。
芥川は犀星と近所付き合いのような行き来の中で親しくなっていったが、鏡花はすでに大作家となっており、住む場所も離れており、芥川は鏡花に接近するため努力しなければならなかった。鏡花に会いたいと思ったのは少年時代から鏡花の作品に親しんでいた芥川であり、自分自身も小説家の仲間入りをして、初めて鏡花に振り向いてもらうことができる可能性が出て来たのである。鏡花と顔を合わせる機会が巡って来たのは1920年頃。1922年には何通かの手紙を送っている。(『人間泉鏡花』p172)
芥川が一方的に接近した感があるが、鏡花も芥川の才能を認め、将来を期待していたのであろう。鏡花は先輩代表として葬儀で弔辞を引き受けるまでの仲になっていた。弔辞は(『人間泉鏡花』p175)、
玲瓏、明透、その文、その質、名玉山海を照らせる君よ。
で始まり、400字詰原稿用紙1枚に満たない文章であるが、芥川の才能を讃え、思いを語り、遺族を思いやる内容であった。鏡花に続いて菊池寛が弔辞を読んだ。
犀星は大きな衝撃を受け、追悼文などすべて断っている。葬儀で犀星は菊池寛と並んで座り、相対する席には鏡花と里見弴が並んで座った。芥川の葬儀に鏡花、犀星という金沢が生んだ二人の作家が相対したことになる。
九九九会
芥川の死が大正と言う時代を過ぎ去らせてしまったように、鏡花、秋聲という明治・大正を駆け抜けた作家も過ぎ去ろうとしていた。笠原伸夫は『評伝泉鏡花』でつぎのように記している(p333)。
ただ既成作家の没落だけは決定的なものとしてあった。それらの作品が急速に色褪せてみえたのである。たとえば昭和四年、徳田秋声は〈一応短編八編に通俗長編一編を発表してゐるものの、実質は寥々たる〉(松本徹『徳田秋声』)ものであった。昭和五年になると秋声の作品は短編二編のみとなる。時代は旧作家たちを必要としなくなったのだ。
鏡花もまたその例外ではない。谷崎潤一郎は〈正直云って、晩年の鏡花先生は時代に取り残されたと云う感がないではなかった。先生の如く過去に極めて輝かしい業績を成し遂げた人は、いかなる場合にも心の何処かに晏如たるものがあるから、あまり淋しさうにはしてをられなかったけれども、老後の先生が久しく文壇の主流から置き去りにされてゐたことは否むべくもない〉(「純粋に『日本的』な『鏡花世界』」『図書』昭和十五年三月)とその印象を述べている。
鏡花に対する谷崎の評は昭和初頭のものではないので、鏡花と秋聲を同じくみることはできないが、昭和に入って、両者とも第一線を退いていく印象であったのだろう。
これは、本論を書くにあたって参考にした三冊の文献にも表れている。鏡花の人生において、昭和は2割以上の期間を占めているが、昭和に入ってからの記述は極端に少なくなり、福田清人・浜野卓也共著『泉鏡花』が6ページ、巖谷大四著『人間泉鏡花』は10ページであるが、うち半分が死去に関する記述で占められている。もっとも多い笠原伸夫著『評伝泉鏡花』でも26ページ、全ページの1割にも満たない。
それでも、笠原は『評伝泉鏡花』(p334)で、
芥川は他界へ去ったけれども、鏡花の周辺に鏡花を敬慕するひとびとが絶えず集まってきていた。〈九九九会〉なるものもその一つである。
と記している。
1928年3月、鏡花は肺炎に罹ったが、それもようやく癒えて、5月に修善寺を訪れた。その5月23日、第一回「九九九会」が日本橋檜物町の藤村でおこなわれた。日本橋檜物町は現在の中央区八重洲一丁目から日本橋三丁目にかけてある町で、東京駅八重洲口正面と言った方がわかりやすい。1914年に東京駅が開業した時、外濠に架かっていた八重洲橋は撤去されたが、丸ノ内側しか駅機能がないため不便で、九九九会が発会した翌年の1929年、再び八重洲橋(二代目)が架けられ、跨線橋によって東京駅と八重洲橋とを接続する八重洲橋口が開設された。参会者がどのようにしてやって来たかわからないが、東京市電外濠線を使えば、電車を降りて数分で藤村に着くことができた。外濠が埋められ、外堀通りがつくられるのは戦後の1948年であり、当時、藤村を訪れる人たちは外濠の景観を見ることができた。
九九九会は会費を9円99銭にしたところから名づけられたとも言われているが、10円出して1銭銅貨のお釣りが来るという趣向で、バーゲンセールの値段みたいに「お得感」が演出されているようにも思われる。当日、藤村ではお釣りの1銭銅貨を磨いて用意したとか。第一回は水上瀧太郎が幹事で、鏡花、里見弴、小村雪岱、久保田万太郎、岡田三郎助の6名が出席した。会は藤村の27畳の大広間で開かれた。これを1939年8月まで、毎月23日に休むことなく続け、136回に及んだ(『人間泉鏡花』p164)。鏡花は9月7日に亡くなったので、137回目の9月23日、鏡花はこの世にいなかった。
この九九九会、毎月開かれてきた律儀さに敬意を表すべきかもしれないが、当時、東京における白米10キロの値段は、変動はあるが、概ね2円から3円。10円という額は白米40~50キロ。一家が一ヵ月で食べるお米を、1食で食べてしまった勘定になる。鏡花の借家の家賃で言えば、1週間分に相当した。それを経済的にも激動の昭和初期にあって、毎月やっていたというのだから、鏡花とその取り巻きの人たちは浮世離れした生活の中にあったと、言えるのかもしれない。笠原が言うように、鏡花の昭和期は、悠悠として安らかなものであったのだろう。そして、九九九会は明治・大正からの鏡花ファンの集まりであり、出席者も少なく、むしろ文壇の表舞台を退いたことを印象づけているように、私には思えてくる。
故郷を訪ねる
鏡花はこのころしばしば金沢に帰っている。大正15年11月、昭和4年5月、それに昭和6年11月にも。
笠原伸夫は『評伝泉鏡花』(p337)で、このように記している。
鏡花はまだ大正であった1926年11月、金沢を訪れているが、昭和に入って、1929年5月、和倉温泉を訪れた。和倉温泉は能登の中心七尾に隣接し、静かな内海に面し、対岸に能登島が横たわっている。鏡花は和歌崎館に泊まった。すゞ夫人と、金沢から従姉の目細てる(照、てる子)が同行している(『泉鏡花』p99)。
加賀金沢の人間である鏡花が、加賀の温泉である山中・山代・片山津などでなく、なぜ能登の温泉を選んだのか私にはわからないが、年譜などを見ても、生まれて以来、能登へ行った記述はなく、この時、初めて能登へ足を踏み入れたのかもしれない。七尾までは1898年に鉄道が開通しているが、和倉まで延伸されたのは1925年。和倉駅(現、和倉温泉駅)から温泉までは、当時も今も車で5分程度。私は歩いたこともある。和歌崎館は1877年、海に面していち早く建てられた温泉旅館で、加賀屋などより古い老舗。1981年、和歌崎館は廃業しているが、現在、和歌崎地区には加賀屋に近い方から、美湾荘、あえの風、海望が海に面して建っている。
和倉温泉から金沢へ戻った鏡花は、金沢へ来た時には泊まることにしている上柿木畠35番地の藤屋に宿を取った。藤屋は香林坊から鞍月用水に沿って百メートルほど遡ったところにあった。
富(本名小牧)は、1879年生まれ(1875年とする説あり)で、1889年にこの藤屋の主人中川伊平の養女となった。第四高等学校に近かったこともあり、子規と同郷で、三高(京都)から四高に転校してきた河東碧梧桐や竹村秋竹などが藤屋に下宿したことから、富はその影響を受けて、1896年から、中川富女として俳句をたしなんでいる。なかなかの才能の持ち主で、加賀の千代女の再来と言われた。秋竹らは1897年、北声会を発足させ、富女も入会している。
8月、秋竹が東京帝大へ進学すると、後を追って上京し、いっしょに子規のもとも訪れている。富女は子規が最後に会った未婚の女性と言われる。富女は秋竹との結婚を願ったが、結納まで済んで、秋竹の方から破談にされ、その後、東京の伯母が営む料亭に寄寓し、1901年までの消息は確認できるものの、その後は不明で、1902、3年頃に東京で亡くなったとする説や、1925年に大阪で亡くなったとする説がある。
わが恋は林檎のごとく美しき(富女)。
秋竹上京後、北声会の運営を引き継いだのが、四高教授として赴任した藤井紫影で、北声会には犀星も関わりをもっていく。
1917年には、藤屋に竹久夢二が彦乃、不二彦を連れて泊まっている。藤屋閉館後は横井小児科になり、就学前、石浦神社近くに住んでいた私は、病気になると母の背に負われて「横井さん」へ行ったものである。母の背の記憶は、今も私の中に懐かしくも温かな思い出として残っている。子どもにとって医者に行くということはイヤなことではあるが、私にとって「横井さん」はそうではなかった。そんなお医者さんであった。1954年、横井小児科の後に日本基督教団金沢教会が、石浦町から移転してきた。
金沢教会が石浦町13番地に建てられたのは1884年。事実上、金沢教会が運営する「愛真学校(真愛学校)」が「北陸英和学校」と改称されて、教会に隣接して建てられたのが1885年。そして、ここに鏡花が通って来る。それから、70年の時を経て、金沢教会は鏡花が定宿とした藤屋の跡地へ移転してくるのである。鏡花はもちろん、そのようなことを知る由もないが、不思議な因縁を感じさせ、何かこれも鏡花の世界のように思われる。そして、北陸学院幼稚園卒園の私にとっても、「北陸学院」「鏡花」「横井さん」「金沢教会」が不思議な線で結びついていく結果となった。金沢教会が建てられた時、私も開堂の催しに出席した記憶がある。
なお、石浦町にあった金沢教会の建物は、1891年に新築されたもので、上柿木畠移転に際して、寺町台の若草教会に移築された。礼拝堂、祈祷室、和室をL字に配した木造平屋建で、和室部のみ2階建。屋根は急こう配の切妻造、桟瓦葺。プロテスタントらしい装飾を排除した内部空間は、天井を張らずに吹き抜けとし、挟み梁とタイ・バーを組合わせた軽快な小屋組を示している(金沢市の文化財と歴史遺産より)。2006年、国登録有形文化財建造物に登録され、現在も若草教会が使用している。
鏡花は子どもの頃から何かと世話になった湯浅しげ(茂、しげ子)に会った。しげは鏡花より二つ年上で、近所の湯浅時計店の娘であった。鏡花が1916年に帰郷した際、しげに会ったことが手紙のやりとりからうかがえるが、1926年に帰郷した時は会っていないようで、久々の対面であった。しげは還暦を間近にする年齢であっただろう。すゞとは一回り違う。若き日のしげの写真を見ると、なかなかの美人である。目細てる、湯浅しげともに、子どもの頃から鏡花をかわいがってくれた少し年上の女性で、鏡花の小説のモデルとして度々登場すると言われている。
この帰郷で鏡花は末妹のやゑにも会っている。鏡花はそれまでにも、やゑに若干の経済援助をおこなったり、東京に招待して歌舞伎座見物などもさせたと言う。
1931年、鏡花は6月に千葉県の勝浦を訪れた。9月18日、柳条湖事件が発生し、日本は戦争の道を歩み始めた。11月、鏡花は2年半ぶりに金沢を訪れ、藤屋に泊まっている。その年の暮、鏡花の弟斜汀が突然、里見弴の家にやって来て、自分は兄の家へ顔出しできないので、50円ばかり借りて来てくれと頼み込んだ。鏡花の家は目と鼻の先。里見が出向いて用件を伝えると、「きっぱり断ってくれ」と言う返答があり、とりあえず立て替えて斜汀に50円渡すと、夕方、鏡花はけろりとした機嫌の良い顔でやって来て、10円札5枚を差し出したと言う。
斜汀の死
柳条湖事件が発生した翌1932年。3月に、「満州国」が建国され、5月には海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害する五・一五事件が起きるなど、軍部の力がきわめて大きくなっていき、日本は軍国主義の道をひた走りに走っていた。そのような世相にあっても、鏡花は自分の世界の中で作品を書き、一定の支持者をもって上演されてきた。鏡花は熱海水口園、修善寺新井旅館と温泉地を訪れ、宿泊している。
アパート経営。作家というものは、作品を書いて収入を得る。作品を書かなくなれば、収入はなくなってしまう。作品を書く意欲が失われた秋聲は、別の収入減を求めなければならない。その作風にも表れているが、秋聲は現実を見る目をもっていたのであろう。1932年秋から自宅の庭にアパート「フジハウス」の建築を始めた。
新築のフジハウスに鏡花の実弟豊春(斜汀)が入居して来た。
鏡花と秋聲は同じ金沢生まれで、学校を同期で過ごしたこともあり、進学につまずき、小説家をめざして紅葉の門をたたいた経緯も似ているが、秋聲から見れば、鏡花だけが常に要領良く、優位に歩んでいるように思われたかもしれない。結果的に作風もまったく正反対。多く顔を合わす期間があった時でも、お互い打ち解けて、親しく交わることはなかっただろう。そればかりか、1926年春、秋聲にとっては妻が亡くなってそれほど経っていない時期であったが、改造社社長山本実彦と鏡花を訪れた秋聲に対して、紅葉の死をめぐって、鏡花は秋聲になぐりかかったことさえあった(『人間泉鏡花』p194)。
斜汀は独立して生計を営んでいたが、文筆によって生計を維持できるほどでもなく、兄鏡花から何かと援助を受けていたのであろう。ところが鏡花への反発もあって、1931年頃には鏡花と断絶状態になったようだ。結婚し、妻が身ごもったものの、家賃の払える状況でなくなったのかもしれない。斜汀が秋聲にすがったのか、秋聲はフジハウスへの入居を認めたのである。部屋は3階にあった。
ところが斜汀は間もなく、1933年3月30(31)日、52歳で急逝してしまった。残された妻は、実家のある愛知県渥美郡田原町(現、田原市)に戻り、9月21日、女児を出産し名月(なつき)と名づけた。9月にふさわしく、また鏡花にふさわしい名前である。
秋聲の実弟に対する厚意に鏡花も謝意を示し、なぐりかかって以来のわだかまりも少しは解けたかもしれないが、根底からお互いに馴染むものではなく、「和解」もあくまで表面的なものであったとみられる。
斜汀の一件があって、水上瀧太郎らの計らいで、秋聲は一度、九九九会に招待されて参加した。秋聲は面白い会だが、自分は酒を呑めないので、それっきりになったが、鏡花の酔態を初めて見たという(『評伝泉鏡花』p349)。一方、『人間泉鏡花』(p196)によると、二人を仲直りさせようと秋聲を招いたものの、鏡花はろくに話しもしないうちに、やたらと酒をあおり、さも酔ったふりをして、その場に寝てしまった。じつは狸寝入りであったという。
鏡花死す
1933年、日本は国際連盟を脱退し、一方、ドイツにはナチス政権が成立した。1935年、イタリアはエチオピアを侵略、1936年、二・二六事件、日独防共協定。1937年、鏡花は1月に『薄紅梅』を東京日々新聞・大阪毎日新聞に連載。6月、芸術院会員になった。盧溝橋事件が起こり、日中戦争へと発展し、日独伊防共協定が結ばれた。そのような中で、1938年、鏡花は健康が優れず、発表された作品はひとつもなかった。
1939年4月24日。鏡花夫妻は、佐藤春夫の甥竹田龍児と谷崎潤一郎の長女鮎子の媒酌人を務めた。おそらく、鏡花夫妻が媒酌人を務めたのは、この時が初めてで、また最後であっただろう(『泉鏡花』p102)。
7月、鏡花は中央公論に『縷紅新草』を発表したが、8月、鏡花の病状はいっそう悪化し、9月7日、容態が急変し、午後2時45分死去。病名は肺腫瘍。65歳10ヵ月の生涯。『縷紅新草』が最後の作品になった(『評伝泉鏡花』p355)。まもなく太平洋戦争に突入する時期であった。
葬儀は10日、芝青松寺でおこなわれた。谷崎潤一郎の隣りには秋聲が立った。青松寺(曹洞宗)は愛宕山を背に、現在のNHK放送博物館の真下にある。青松寺がどのような縁で鏡花とつながっているのか、私にはわからないが、大恩ある紅葉の生地から徒歩で10分足らずの地で、鏡花の葬儀が営まれたことになる。
鏡花亡き後、1942年、10歳の名月はすずに求められて養女になり、実母サワもともに六番町の家に住むようになった。鏡花が遺したおびただしいウサギコレクションにびっくりしたという名月は、原稿や書簡を整理するうちに、鏡花の世界に惹かれ、後に研究者・発信者として鏡花文学を伝える人生を歩み、泉鏡花記念館名誉館長も務めるようになっていった(『広報ずし』No.818、2011年4月号)。
すず、名月、それにサワは1944年、熱海に疎開。近所に谷崎潤一郎が住んでいた。すずは1950年1月20日、息を引き取ったが、名月はサワとともに熱海に残った。ところが、1952年に借家が立ち退きにあい、二人は東京、愛知を経て、1955年、逗子・山の根の寺木正方宅の隣家に引っ越した。正方の父である寺木定芳(鏡花の門人、歯科医)の紹介である。名月は家事を実母サワに任せ、研究・文筆活動に専念し、1968年には明治大学大学院修士課程日本文学専攻を修了。修士論文は「泉鏡花作品本文考察」。
泉名月は、2008年7月6日、腎不全で74歳の生涯を閉じた。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
笠原伸夫:『評伝泉鏡花』、白地社、1995年
福田清人・浜野卓也共著:『泉鏡花』
村松定孝:『あぢさゐ供養頌――わが泉鏡花――』、新潮社、1988年
白石孝:『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ』、慶應義塾大学出版会、2009年
【参考にしたネット情報】
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