柳条湖事件が発生した翌1932年。3月に、「満州国」が建国され、5月には海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害する五・一五事件が起きるなど、軍部の力がきわめて大きくなっていき、日本は軍国主義の道をひた走りに走っていた。そのような世相にあっても、鏡花は自分の世界の中で作品を書き、一定の支持者をもって上演されてきた。鏡花は熱海水口園、修善寺新井旅館と温泉地を訪れ、宿泊している。
アパート経営。作家というものは、作品を書いて収入を得る。作品を書かなくなれば、収入はなくなってしまう。作品を書く意欲が失われた秋聲は、別の収入減を求めなければならない。その作風にも表れているが、秋聲は現実を見る目をもっていたのであろう。1932年秋から自宅の庭にアパート「フジハウス」の建築を始めた。
新築のフジハウスに鏡花の実弟豊春(斜汀)が入居して来た。
鏡花と秋聲は同じ金沢生まれで、学校を同期で過ごしたこともあり、進学につまずき、小説家をめざして紅葉の門をたたいた経緯も似ているが、秋聲から見れば、鏡花だけが常に要領良く、優位に歩んでいるように思われたかもしれない。結果的に作風もまったく正反対。多く顔を合わす期間があった時でも、お互い打ち解けて、親しく交わることはなかっただろう。そればかりか、1926年春、秋聲にとっては妻が亡くなってそれほど経っていない時期であったが、改造社社長山本実彦と鏡花を訪れた秋聲に対して、紅葉の死をめぐって、鏡花は秋聲になぐりかかったことさえあった(『人間泉鏡花』p194)。
斜汀は独立して生計を営んでいたが、文筆によって生計を維持できるほどでもなく、兄鏡花から何かと援助を受けていたのであろう。ところが鏡花への反発もあって、1931年頃には鏡花と断絶状態になったようだ。結婚し、妻が身ごもったものの、家賃の払える状況でなくなったのかもしれない。斜汀が秋聲にすがったのか、秋聲はフジハウスへの入居を認めたのである。部屋は3階にあった。
ところが斜汀は間もなく、1933年3月30(31)日、52歳で急逝してしまった。残された妻は、実家のある愛知県渥美郡田原町(現、田原市)に戻り、9月21日、女児を出産し名月(なつき)と名づけた。9月にふさわしく、また鏡花にふさわしい名前である。
秋聲の実弟に対する厚意に鏡花も謝意を示し、なぐりかかって以来のわだかまりも少しは解けたかもしれないが、根底からお互いに馴染むものではなく、「和解」もあくまで表面的なものであったとみられる。
斜汀の一件があって、水上瀧太郎らの計らいで、秋聲は一度、九九九会に招待されて参加した。秋聲は面白い会だが、自分は酒を呑めないので、それっきりになったが、鏡花の酔態を初めて見たという(『評伝泉鏡花』p349)。一方、『人間泉鏡花』(p196)によると、二人を仲直りさせようと秋聲を招いたものの、鏡花はろくに話しもしないうちに、やたらと酒をあおり、さも酔ったふりをして、その場に寝てしまった。じつは狸寝入りであったという。