「順子」を書くことがなくなった秋聲は、創作意欲そのものも失い、1929年には短編8編に通俗長編1編。1930年には短編2編、1931年には短編2編と、桐生悠々が主筆を務める信濃毎日新聞に連載された小説『赤い花(紅い花)』1編。1932年6月、『赤い花(紅い花)』の連載が終ると、小説を書くことはなくなった。もちろん、満61歳を迎えているのであるから、定年退職、悠々自適の生活を始めてもおかしくない年齢であった。とするならば、定年後の生活をどのように設計していくのか。この頃の秋聲は模索していたのではないだろうか。
政治家の道。1930年2月、第二回普通選挙で石川県第一区から社会民衆党候補として立候補するよう、地元有志から要請され、心を動かされ、金沢へも足を運んだが、党本部の承認も得られず、次兄正田順太郎からも説得されて断念した。
社交ダンス。立候補を断念した翌3月から飯田橋国際社交クラブの玉置真吉について、社交ダンスを習い始めた。練習は毎日、11時から14時頃までおこなわれたという。日本に社交ダンスが流行り始めたのは1921年頃であるから、けっして早い方ではない。
アパート経営。作家というものは、作品を書いて収入を得る。作品を書かなくなれば、収入はなくなってしまう。作品を書く意欲が失われた秋聲は、別の収入源を求めなければならない。その作風にも表れているが、秋聲は現実を見る目をもっていたのであろう。1932年秋から自宅の庭にアパート「フジハウス」の建築を始めた。
このような模索をしている最中、1931年、三男三作が19歳で亡くなった。秋聲は三男三女をもったが、1916年に長女瑞子が12歳で亡くなっており、二人の子どもに先立たれたことになる。三作は1928年からカリエスに罹り、翌年入院。さらに1930年には羽田の療養所に移っていた。
1931年、三作が亡くなった年。それはつぎへの出発点ともなった。
女性関係。夏、秋聲は白山の富島家で席に出た芸者富弥(小林政子)と知り合った。政子は28歳で、秋聲は33歳上だった。初秋になって、秋聲は付き合っていた柘植そよと関西旅行に出かけたが、政子への思いを断つことはできず、1932年夏、政子は芸者をやめて、秋聲と同居するようになった。けれども家事に手を出すこともできず、欝々とした日々を過ごさざるを得なくなった政子は、浅井に見受けされて下谷に移された頃の『爛』のお増のようであった。結局、政子は1933年11月、白山に戻った。1934年8月に和解し、二人は旅に出て、水上温泉に三泊した。群馬は政子の出身地である。10月に二人は山代温泉に泊まっている。12月に政子が白山に芸者屋富田家を開業すると、秋聲は自宅へ戻らず、ここで過ごすことが多くなった。白山は白山神社(文京区)周辺の地名である。
旅。順子との関係が一応終わりを告げ、1928年を迎えて以降を年譜で見てみると、1928年、次女喜代と三女百子を連れて軽井沢。29年には近松秋江らと伊豆大島、34年熱海、京都、35年上州耶馬渓、36年房総那古、39年百子と富士見高原、41年伊勢・紀州、塩原温泉、鎌倉、中津川、42年北海道、43年一穂・その娘桂子と房総保田、一穂と御宿。これに加えて、政子やそよとの旅がある。
文学。11月、創作意欲を失った秋聲に再び蘇ってもらいたいと、大親友の桐生悠々は自ら主筆を務める信濃毎日新聞に小説連載の機会を用意した。26日からの連載を前に、社告には「巨匠徳田秋聲氏更生第一回の力作」に続いて、「この大作家が、身辺のやむなき事情のため、久しく小説の筆を断ってゐたことは、一方氏の人間的苦悩の大きかったかを物語る・・・」の一文があった。
連載開始に先立つ11月3日には、還暦を祝う会が東京会館で開かれた。東京会館は1920年創業。現在の丸ノ内3丁目2-1、日比谷堀に臨み、馬場先門すぐ。1分も歩けば帝国劇場というところである。
またこの頃、友人や知人によって徳田秋聲後援会がつくられ、色紙短冊の義援がおこなわれた。翌1932年5月3日、「秋聲会」が発足し、犀星をはじめ尾崎士郎、井伏鱒二、舟橋聖一らが秋聲宅を訪れた。7月には秋聲宅を発行所に秋聲会機関誌「あらくれ」が創刊され、長男一穂が編集にあたった。
創作意欲を失った時期にあって、秋聲には支えてくれる友人知人たちがおり、作品を書くことは大幅に減ったというものの、女性関係も含めて、人間関係において秋聲はけっして沈んでいたわけではない。そして、旅に出ることも。
この間、1931年9月18日、柳条湖事件が発生し、1932年3月には「満州国」が建国された。5月には海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害する五・一五事件が起きるなど、軍部の力がきわめて大きくなっていき、日本は軍国主義の道をひた走りに走っていた。