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5.昭和を生きる
妻の死と山田順子
年末、秋聲は仕事をするため、丸ノ内ホテルに宿泊して、1926年、大正最後の年になる大正15年を迎えた。一旦、自宅へ帰って、雑煮を食べて新年を祝い、午後にはホテルへ戻って、同宿の正宗白鳥夫妻と帝国劇場で歌舞伎を見て、ベッドに入った。翌朝、はまが脳溢血で倒れたと子どもから電話があった。自宅へ着くと、妻はまだ生命があり、医者は心配ないと言って帰ったが、その直後、容体は急変し、一時間ほどで息絶えた。23歳の長男から、9歳の末娘百子まで、6人の子が残された。1924年9月にはまの母小沢さちが脳溢血のため、秋聲の自宅において72歳で亡くなってから、1年余の出来事だった。
郷里の秋田ではまの死を知った山田順子が、家事と子どもの世話を申し出て、近くに宿をとり、徳田家に通って来た。そして、四十九日を前に秋聲と順子は関係をもった。秋聲56歳、順子26歳。まさに親子の差があった。順子が初めて秋聲の前に姿を現したのは1924年3月。一旦、帰郷したものの、12月、増川と離婚し、三人の子どもとも別れて、再び上京。足立欣一、竹久夢二、郷里では村田光烈などと関係をもちながら、文学の道を模索していた。
順子を巡る一連の出来事は、三人のコーナー「3.関東大震災と三人」で述べたが、秋聲は、『神経衰弱』(1926年3月)から『日は照らせども』(1928年4月)までの二年一カ月の間に、いわゆる「順子もの」と呼ばれる短編を29編発表した。この間に秋聲が発表した作品の4分の3が「順子もの」で占められており、秋聲は「順子」を書いて、大正から昭和を迎えたのである。この間、順子は勝本清一郎、八代豊雄と渡り歩き、1927年には、逗子海岸に転居し、慶応大学生井本威夫と結婚。そうかと思うと、また秋聲の前に姿を現し、その年の暮、関係は一旦解消されたが、その後も断続的に交流は続き、1938年に至っても続いている。
「順子もの」で秋聲は赤裸々に二人の関係を描き出した。確かに、順子は離婚しており、秋聲も妻を亡くしており、形式的には不倫関係と言えないかもしれないが、世間の目は不倫にむけられる、冷たくも好奇心に満ちた目であった。子ども達は傷ついた。娘は学校へ行くのを嫌がり、息子もどのようなつもりで書くのかと厳しく問い詰めた。そして、とうとう順子までも自分たちのことは書かないで欲しいと、秋聲に誓約書を書かせた。それにも関わらず、秋聲は書き続けた。自分には財産もなく、本屋には借金だらけで、子どもも多く、書いて稼がなければならない、稼ぐためには売れるモノを書かなければならなかった。とにかく秋聲は生活のためと言い聞かせ、付き合い、そして書いていたのであろう。
「順子もの」の後
笠原伸夫は『評伝泉鏡花』でつぎのように記している(p333)。
ただ既成作家の没落だけは決定的なものとしてあった。それらの作品が急速に色褪せてみえたのである。たとえば昭和四年、徳田秋声は〈一応短編八編に通俗長編一編を発表してゐるものの、実質は寥々たる〉(松本徹『徳田秋声』)ものであった。昭和五年になると秋声の作品は短編二編のみとなる。時代は旧作家たちを必要としなくなったのだ。
「順子」を書くことがなくなった秋聲は、創作意欲そのものも失い、1929年には短編8編に通俗長編1編。1930年には短編2編、1931年には短編2編と、桐生悠々が主筆を務める信濃毎日新聞に連載された小説『赤い花(紅い花)』1編。1932年6月、『赤い花(紅い花)』の連載が終ると、小説を書くことはなくなった。もちろん、満61歳を迎えているのであるから、定年退職、悠々自適の生活を始めてもおかしくない年齢であった。とするならば、定年後の生活をどのように設計していくのか。この頃の秋聲は模索していたのではないだろうか。
政治家の道。1930年2月、第二回普通選挙で石川県第一区から社会民衆党候補として立候補するよう、地元有志から要請され、心を動かされ、金沢へも足を運んだが、党本部の承認も得られず、次兄正田順太郎からも説得されて断念した。
社交ダンス。立候補を断念した翌3月から飯田橋国際社交クラブの玉置真吉について、社交ダンスを習い始めた。練習は毎日、11時から14時頃までおこなわれたという。日本に社交ダンスが流行り始めたのは1921年頃であるから、けっして早い方ではない。
アパート経営。作家というものは、作品を書いて収入を得る。作品を書かなくなれば、収入はなくなってしまう。作品を書く意欲が失われた秋聲は、別の収入源を求めなければならない。その作風にも表れているが、秋聲は現実を見る目をもっていたのであろう。1932年秋から自宅の庭にアパート「フジハウス」の建築を始めた。
このような模索をしている最中、1931年、三男三作が19歳で亡くなった。秋聲は三男三女をもったが、1916年に長女瑞子が12歳で亡くなっており、二人の子どもに先立たれたことになる。三作は1928年からカリエスに罹り、翌年入院。さらに1930年には羽田の療養所に移っていた。
1931年、三作が亡くなった年。それはつぎへの出発点ともなった。
女性関係。夏、秋聲は白山の富島家で席に出た芸者富弥(小林政子)と知り合った。政子は28歳で、秋聲は33歳上だった。初秋になって、秋聲は付き合っていた柘植そよと関西旅行に出かけたが、政子への思いを断つことはできず、1932年夏、政子は芸者をやめて、秋聲と同居するようになった。けれども家事に手を出すこともできず、欝々とした日々を過ごさざるを得なくなった政子は、浅井に見受けされて下谷に移された頃の『爛』のお増のようであった。結局、政子は1933年11月、白山に戻った。1934年8月に和解し、二人は旅に出て、水上温泉に三泊した。群馬は政子の出身地である。10月に二人は山代温泉に泊まっている。12月に政子が白山に芸者屋富田家を開業すると、秋聲は自宅へ戻らず、ここで過ごすことが多くなった。白山は白山神社(文京区)周辺の地名である。
旅。順子との関係が一応終わりを告げ、1928年を迎えて以降を年譜で見てみると、1928年、次女喜代と三女百子を連れて軽井沢。29年には近松秋江らと伊豆大島、34年熱海、京都、35年上州耶馬渓、36年房総那古、39年百子と富士見高原、41年伊勢・紀州、塩原温泉、鎌倉、中津川、42年北海道、43年一穂・その娘桂子と房総保田、一穂と御宿。これに加えて、政子やそよとの旅がある。
文学。11月、創作意欲を失った秋聲に再び蘇ってもらいたいと、大親友の桐生悠々は自ら主筆を務める信濃毎日新聞に小説連載の機会を用意した。26日からの連載を前に、社告には「巨匠徳田秋聲氏更生第一回の力作」に続いて、「この大作家が、身辺のやむなき事情のため、久しく小説の筆を断ってゐたことは、一方氏の人間的苦悩の大きかったかを物語る・・・」の一文があった。
連載開始に先立つ11月3日には、還暦を祝う会が東京会館で開かれた。東京会館は1920年創業。現在の丸ノ内3丁目2-1、日比谷堀に臨み、馬場先門すぐ。1分も歩けば帝国劇場というところである。
またこの頃、友人や知人によって徳田秋聲後援会がつくられ、色紙短冊の義援がおこなわれた。翌1932年5月3日、「秋聲会」が発足し、犀星をはじめ尾崎士郎、井伏鱒二、舟橋聖一らが秋聲宅を訪れた。7月には秋聲宅を発行所に秋聲会機関誌「あらくれ」が創刊され、長男一穂が編集にあたった。
創作意欲を失った時期にあって、秋聲には支えてくれる友人知人たちがおり、作品を書くことは大幅に減ったというものの、女性関係も含めて、人間関係において秋聲はけっして沈んでいたわけではない。そして、旅に出ることも。
この間、1931年9月18日、柳条湖事件が発生し、1932年3月には「満州国」が建国された。5月には海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害する五・一五事件が起きるなど、軍部の力がきわめて大きくなっていき、日本は軍国主義の道をひた走りに走っていた。
鏡花と秋聲
鏡花と秋聲は同じ金沢生まれで、学校を同期で過ごしたこともある。進学につまずき、小説家をめざして紅葉の門をたたいた経緯も似ている。が、秋聲から見れば、鏡花だけが常に要領良く、優位に歩んでいるように思われたのではないだろうか。結果的に作風もまったく正反対。多く顔を合わす期間があった時でも、お互い打ち解けて、親しく交わることはなかったのではないか。そればかりか、1926年春、秋聲にとっては妻が亡くなってそれほど経っていない時期であったが、改造社社長山本実彦と鏡花を訪れた秋聲に対して、紅葉の死をめぐって、鏡花は秋聲になぐりかかったことさえあった(『人間泉鏡花』p194、『泉鏡花』p100)。
そのような鏡花と秋聲であったが、秋聲は鏡花の実弟豊春(斜汀)を新築したフジハウスに入居させた。斜汀は独立して生計を営んでいたが、文筆によって生計を維持できるほどでもなく、兄鏡花から何かと援助を受けていたのであろう。ところが鏡花への反発もあって、1931年頃には鏡花と断絶状態になったようである。
結婚し、妻が身ごもったものの、家賃の払える状況でなくなったのかもしれない。斜汀が秋聲にすがったのか、フジハウスへの入居を認めたのである。部屋は3階にあった。ところが間もなく、1933年3月30日、52歳で急逝してしまった。残された妻は9月21日、女児を出産し名月(なつき)と名づけた。彼女が愛知県出身となっているところから、おそらく斜汀の妻は実家のある愛知県へ戻り、出産したのではないだろうか。
秋聲の実弟に対する厚意に鏡花も謝意を示し、なぐりかかって以来のわだかまりも少しは解けたかもしれないが、根底からお互いに馴染むものではなく、「和解」もあくまで表面的なものであったとみられる。
斜汀の一件があって、水上瀧太郎らの計らいで、秋聲は一度、九九九会に招待されて参加した。秋聲は面白い会だが、自分は酒を呑めないので、それっきりになったが、鏡花の酔態を初めて見たという(『評伝泉鏡花』p349)。一方、『人間泉鏡花』(p196)によると、二人を仲直りさせようと秋聲を招いたものの、鏡花はろくに話しもしないうちに、やたらと酒をあおり、さも酔ったふりをして、その場に寝てしまった。じつは狸寝入りであったという。
死までの10年
かうした沈黙のただなかから、昭和八年、六十三歳の秋聲が甦へつた。そして、前にも増してめざましい活動をみせるに到つたのである。そこには、いくつもの偶然が働いてゐることが認められる。幸運と云ふには躊躇されるが、すくなくとも作家としての秋聲にとつては、得がたい幸運であつたのは確かである。
松本徹は『徳田秋聲』(p315)でこのように記し、大きく二つの幸運を上げている。
第一。死が身辺の人たちをたて続けに襲った。
1932年8月25日に亡くなった次姉太田きんの死を扱った『町の踊り場』。1933年3月に亡くなった鏡花弟斜汀の『和解』、9月、親友亘理医師の『死に親しむ』。直接作品には結びついていないが、1934年3月7日、5歳下で二度同居したことのある三島霜川が亡くなった。死を描く一方、1934年、『一つの好み』『一茎の花』という、愛人を描いた作品も書いており、「政子もの」と呼ばれている。
第二。プロレタリア文学が官憲の弾圧によって勢いを失い、イデオロギーに囚われない純粋の文学性が要求されるようになった。これは秋聲の作品が多くの人に受け入れられたというより、国家主義的傾向がますます強まり、表現の自由が奪われていく中で、かろうじて切り捨てられなかったと言って良いだろう。犀星は切り捨てられない道を葛藤しながら模索しなければならなかったが、秋聲は長年続けて来た作風をそのまま続けることによって、気がつけば自分は生き残っていたのである。秋聲の作品には、長時間労働も物価高騰も、災害も、暴動も戦争も、およそニュースになるような出来事はほとんど出て来ない。社会批判、政治批判も、社会や政治が描かれないから当然出て来ない。言い方は悪いが、秋聲の作品が当時の権力者にとって、「毒にも薬にもならない」ものだったからこそ、かろうじて生き残ることができたのである。そして、この「毒にも薬にもならない」ことが、秋聲作品の物足りなさであり、自然体の強さ、魅力でもあると私は思う。
1935年7月から、人物経済往来(日本評論)に『仮装人物』の連載が始まった。1938年8月まで連載されたが、実際に掲載されたのは26回で、休載が12回あった。休載の理由は大きく二つあった。一つは1936年4月に頸動脈中層炎で入院し、4回休載。その後も体調不良で休載を余儀なくされることがあった。もう一つは1937年7月に日中戦争が勃発し、戦争小説が特集され、そのあおりで誌面から外された。
秋聲は自身最後になるだろう長編『仮装人物』を書き上げ、1938年3月に『仮装人物』で第一回菊池寛賞を受賞した。9月に鏡花が亡くなった。秋聲は鏡花より二歳上だから、自分もいつどうなるかわからない年齢であったが、1941年6月28日から「都新聞」に『縮図』の連載を始めた。
秋聲は130回くらい連載する予定だったが、再三情報局から干渉を受け、ついに9月15日、『縮図』は80回で連載中止となった。その少し前の10日には生涯の友桐生悠々が亡くなっている。『縮図』はこれまで同様、男と女の物語で、花街も出てくる。日中戦争が始まって数年を経過し、国の圧力もいっそう強くなっており、間もなく日米開戦になる時期で、「毒にも薬にもならない」作品を書いてきた秋聲の居場所も、いよいよなくなった感がある。ところが私には引っかかることがある。『縮図』には、政友会や憲政会、原敬まで登場し、今までの秋聲の作品とは趣を異にしているように思えることだ。世情はますます厳しくなる中、あえてこのような作品を書いたのはなぜなのか。しかも、当局に折れるくらいなら、筆を折ると決断したのか。秋聲の底流にずっと流れていたものが、この時期に至って表面へ出ようとしたのか。興味深いことである。
秋聲は12月1日に金沢へ行き、3日に母校の小学校で子どもたちに講演した。東京へ戻った秋聲は8日、政子のいる白山の二階で、日米開戦を知った。翌1942年2月。石川県文化振興会顧問として金沢へ行き、講演。年譜にこの後、金沢へ行ったという記述は出て来ない。5月に日本文学報國会が結成され、小説部会長に就任したが、体調不良の日が続き、1943年8月、東大病院に入院。肋膜癌と診断され、退院したものの、11月10日頃から時おり意識が混濁するようになり、18日の早朝、亡くなった。21日、青山斎場で日本文学報國会小説部会葬がおこなわれた。葬儀委員長は菊池寛。いよいよ戦局が厳しさを増していく、その目前に秋聲はこの世を去っていった。時間も空間も、男と女の関係も、何の抵抗もなく越えてしまう秋聲は、ごくごく自然に何の抵抗もなく、「この世」から「あの世」へ移って行ったのだろう。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
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