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5.戦後の犀星
1944年、6月。犀星の親しき後輩竹村俊郎、津村信夫が相次いで亡くなった。津村はアジソン氏病と言う、あまり聞かれない名前の病気だった。これで、「たっちゃんこ」を除き、「ドウゾウ」、「ノブスケ」、「俊公」、みんな犀星より先に逝ってしまったことになる。
7月7日、サイパン島の日本軍が全滅し、いよいよ本土が直接攻撃される危険性が高まり、東条内閣が崩壊する中、主要都市から地方への学童疎開が始められた。犀星一家は7月には軽井沢へ避暑に出かけるのが恒例になっていたので、別荘へ行ったまま「疎開」生活に入ることにして、7月下旬、家族が、そして8月になって犀星も軽井沢に赴いた。犀星一家も東京と別れを告げたのである。朝子は聖心女学院専門部国文科を中退している。
軽井沢の冬の寒さは、雪国金沢の比ではないだろうが、東京大空襲を目の当たりにすることもなく犀星一家は終戦を迎えた。次男朝巳も1945年7月に金沢第九師団に入営したが、8月に終戦となり、9月に除隊、無事に軽井沢へ帰って来た。食糧難の東京に比べれば、食料の確保だけは何とかなり、犀星一家は戦争が終わっても、そのまま軽井沢にとどまった。それでも、犀星が文壇で生きていくためには、多くの人脈が必要であり、どうしても東京へ出て行く必要があった。1947年1月、犀星は単身上京し、馬込の自宅に戻った。さいわい馬込一帯は被災せず、犀星の自宅も無事だった。
1939年に鏡花、1943年に秋聲が亡くなっており、「三文豪」のうち戦後を迎えたのは犀星だけである。しかし、終戦の1945年、犀星も56歳になっていた。思い返せば、昭和を迎えた時、鏡花55歳、秋聲57歳。発表する作品も極端に減り、過去の財産で文壇にとどまっているものの、すでに過去の作家になろうとしていた。そうであれば、戦後の犀星もまた、過去の作家になることが予感される。『評伝室生犀星』も、270ページ余の本文の中で、戦後の部分は17ページ、1割にも満たない。この点も鏡花、秋聲と変わるところがない。1948年、犀星は日本芸術院会員に推挙されたが、これとても永年の功績が認められたということで、その後の活躍を期待するものではなかっただろう。
長女朝子は1948年、軽井沢在住の青木和夫と結婚した。結婚式は内輪ではあるが、つるや旅館の一室で、正宗白鳥を媒酌におこなわれた。翌年、夏が終わる9月、とみ子たちは軽井沢の別荘での疎開生活に終止符を打ち、東京の自宅へ戻った。
室生家にも戦後の平穏が訪れるかにみえたが、朝子夫婦の生活は犀星の経済的援助なくして成り立たない状況で、1953年、ついに別居に至り、朝子は実家へ戻り、翌1954年、正式に離婚した。次男朝巳も結婚したものの破局を迎えることになる。
それでも犀星は戦後10年を経て、再び現役作家として注目を浴びることになる。1955年、すでに66歳に達していた犀星は、まさに「夕陽の輝き」のように、大輪の花を咲かせる。そのきっかけは、1月から「新潮」に連載を始めた『随筆女ひと』である。
続いて、『舌を噛み切った女』(1956)、さらに犀星の代表作のひとつである『杏っ子』(1956~57)、王朝物の集大成とも言える『かげろふの日記遺文』(1958)、小説ではないが詩人としての自らと生涯の人間関係を振り返った『我が愛する詩人の傳記』(1958)、『蜜のあわれ』(1959)など、まさに現役作家の活躍であった。
犀星を文壇に現役作家としてよみがえらせたのは、何よりも犀星の女性に対するエネルギー、言い換えれば「性欲」である。『評伝』はつぎのように記している(p263)。
『随筆女ひと』は、作者永年の経験に基づく女性考察集である。「私はつねづね六十歳を過ぎたら、女のことなぞ気になるまいと思つてゐた。そしてその年齢にとどいてみると女のひとは、れうらんとふたたび開花の状態を見せて来た」として、女の「手と足」や「二の腕の美しさ」などを率直に語る。
犀星の描写は生々しい。「3.下積み時代」の「第2節」でも紹介したが、『我が愛する詩人の傳記』で、高村光太郎と智恵子について、つぎのように書いている。
かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)
また、戦時中、岩手県太田村という山村に疎開していた光太郎について、
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪に凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもだえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。(略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。(略)しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。
光太郎が太田村を離れるのは1952年、70歳の時である。そして犀星が、この『我が愛する詩人の傳記』を書いたのは1958年、69歳の時である。その犀星が、かくも具体的に智恵子と光太郎の性愛を描かなければならないのか。犀星は、あたかも自分が直接そこで見ていたかのように、リアルに描写している。けれども、もちろん直接見ていたわけではない。リアルではあるが、犀星の妄想と言ってよいだろう。70歳近い人間には70歳近い性欲が、まったく衰えもせず犀星の中に息づいていたことになる。そして、翌1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表する。
聳え立つアトリエの下で、光太郎が智恵子という女性を「飼育」したように、犀星は当世の女子高生のようにキャピキャピしたしゃべり方をする金魚を「飼育」する。光太郎や智恵子を思い出しながら、犀星の中に抑えがたい感情というか、性の欲望が湧き上がってきたのであろう。『蜜のあわれ』には、つぎのような会話がある。
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、(略)」(略)
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
『蜜のあわれ』は、光太郎と智恵子がいなければ、生まれなかった作品と言えるかもしれない。
光太郎を巡る描写も、金魚の描写も、犀星の妄想と言えばそれまでだが、現実、犀星も密かに女性関係をもっていた。
『評伝』はつぎのように伝えている(p263~p264)。
この変化の陰に親しく交際したひとりの女性がいたことが、犀星没後判明する。この女性に関しては、室生朝子さんが『父室生犀星』(昭46毎日新聞社)で、宮城峯子という仮の名で挙げ、犀星の亡くなる半年ほど前に存在を知り、亡くなった後彼女の父が訪ねてきたことを紹介している。また、詩人磯村英樹氏が「中央公論」(昭62・1)の随筆欄に「犀星最後の女ひと」を書き、彼女を本名と思しき青木れい子の名で呼び、すでに子宮癌で亡くなったとしている。
この女性。栃木県出身で、離婚後上京。五反田で料亭を営んでいた伯母の許に身を寄せ、芸者をしていたところ、客として来ていた犀星と知り合った。犀星は彼女を大森駅近くのアパートに住まわせ、映画館へ行く途中に寄ったり、部屋も書斎の装いにしつらえた。夏には軽井沢の別荘近くに住まわせ、人目を避けて会っていた。
とにかく、自宅で同居する朝子でさえまったく気がつかなかったと言う。妻とみ子もこの女性の存在をまったく知らないまま、1959年10月18日の夜、亡くなった。一方、犀星には妻も朝子も知っている、もう一人の女性がいた。朝子は『父室生犀星』で、その女性を小山万里江と仮名で呼んでいる。万里江は1958年の秋、大丸百貨店の時計売り場に出向店員として勤めている時、犀星に見初められ、朝子も含めて交流をもつようになっていた。19歳。「色白肉厚」「月の如く顔のマンマルイ」少女だったと言う。万里江は、とみ子が亡くなった翌年、秘書役として自宅に住み込むようになった。
犀星は容貌においてけっして良くなかったが、そばに寄って来た芥川、朔太郎、堀辰雄などなど、なかなかの美男子だった。そして、女性も犀星のまわりに集まって来た。とくに佐多稲子、円地文子、森茉莉(森鴎外娘)などが60歳をはるかに超えた犀星の書斎に集まり、談笑が絶えなかったと言う。
鏡花は師紅葉の反対を押し切って、すずと住むようになった。すずが身を引こうかと思うくらい入れ込んだ芸者があったようだが、隠れた噂もなく、夫婦添い遂げている。秋聲は、その作風同様に、妻となるは満との関係からして、女性関係において「あいまい」で、要は妻と他の女性との境目が「あいまい」で自然の流れの中で、すべてが動いているようであった。秋聲には多くの女性関係がつきまとう。そして、犀星は・・・。三文豪、三人三様の女性関係がある。誰が良くて、誰が悪いということはできない。すべてを「過去のこと」として受け入れていくしかないのである。
『評伝』は、いよいよ最終盤へとむかっていく(p274)。
昭和三十六年七月初旬、室生朝子さんが仮の名で呼ぶ秘書役の万里江とお手伝いを伴って、恒例の軽井沢生活に入った。当然陰の女性も、別荘近くに居を移していたことであろう。だが、犀星はいつもと違う身体の不調に苦しむのである。ひとつは、男性の老化現象である排尿障害である。(略)今一つは、三十七度を超える「微熱状態」と、時折「烈しい咳にたたみ込まれ」ることである。土地の医者は老人性の肺炎という診断を下すが、帰京後の精密検査を勧告される。それでも例年のように三か月の滞在を終え、九月二十六日に帰京する。
帰京後、虎の門総合病院受診。検査入院。犀星には「閉尿の恐怖」と「陰の女性との連絡、行く末」が大きな心配だったようだが、この時、朝子・朝巳姉弟には肺ガン、余命長くて一年が伝えられていた。
1962年2月25日。犀星は「婦人之友」の記者を待たせて、詩を書く。約束の時間までに原稿が出来上がっていなかったのは、家族が知る限り、この時以外にはなかったと言う(『評伝』p276)。こうして、犀星の絶筆となる「老いたるえびのうた」は生まれた。
「白魚はさびしや・・・」(『抒情小曲集』一部、小景異情)と言う書き出しが、若き日の私に大きな衝撃を与えたように、「老いたるえびのうた」は今の私にとって大きな衝撃であり、共感をもたらすのである。
けふはえびのやうに悲しい
角やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない。
ひげにたずねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない。
生きてたたみを這うてゐるえせえび一匹。
からだぢゆうが悲しいのだ。
もう、何のコメントもいらない。
3月1日、犀星は虎の門病院に再入院し、26日19時26分、72年7ヵ月の生涯を閉じた。29日、あの中野重治を委員長に、青山葬儀場で無宗教の葬儀がおこなわれた。秋、軽井沢別荘の庭に九輪の塔を建て埋葬。とみ子の五輪の塔と並んだ。
詩人として世に出た犀星は、小説家という回り道をしながらも、詩人としてその生涯を終えた。私が傾倒したヘルマン・ヘッセが亡くなったと同じ年である。そして、ふたりとも庭仕事を無類の愉しみとし、最期まで創作に打ち込み、生涯現役の作家を全うした。1962年当時、まだ金沢にいて、中学生だった私は最期まで詩をつくり続けたということで、ふたりの死が強く印象に残っている。
【参考文献】
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年(文中『評伝』と略記)
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
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