八田巡査が勤務する交番(駐在所)はどこか。英国公使館周辺の交番は、1907(明治40)年の「東京市十五区番地界入地図」によると、麹町の通りに面した麹町二丁目・三丁目境界の角と、一番町・五番町の境界を千鳥ヶ淵にむかって下る五味坂の上にある。麹町一丁目には麹町警察署がある。
じつは、麹町警察署の位置は現在も変わっていないし、麹町二・三丁目にあった交番は、麹町署に近いことと、道路拡幅の関係で四丁目に移転して「麹町四丁目交番(派出所)」になっているが、五味坂上にある「五味坂交番」の位置は変わっていない。つまり、警察署や交番の位置というのは百年来、あまり変化していないのである。
鏡花がここを舞台にしたのは、1907年の地図がつくられる10年以上も前のことであるが、同じ位置に交番があったと考えられる。
規則正しい八田巡査は1時間の巡回で、歩数およそ38962歩。歩幅が10cmなら、約3.8キロになり、1時間の移動距離として納得できるものだが、はたして歩幅10センチと、きわめて小刻みに歩くことができるものなのだろうか。
その八田巡査は最初に、破れた股引きをはいた車夫をとがめてから、
麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。
と、南へむかっているところから、五味坂上の交番所属であろう。
鏡花は八田巡査が巡回中のささいなことも見逃さないとして、
たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、(略)路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、
と書いているが、この一文に当時の英国公使館一帯の風景を知ることができる。
電燈局とは東京電燈会社(1886年開業)が運営する小規模火力発電所で、1887年から1890年にかけて、第一(麹町)・第二(茅場町)・第三(銀座)・第四(神田錦町)・第五(浅草)の五つが発電(直流)を開始した(第二がもっとも早く完成)。発電機が小さいため、電力供給できるのは半径2キロ程度だったという。したがって電力需要の多い地域に限定され、第五は吉原遊郭への電力供給という役割をもっていた。1896年、浅草集中火力発電所から一括送電(交流)するようになったので、電燈局による発電は終了した。第一電燈局は麹町区麹町1丁目15(現、麹町1丁目1)にあり、新宿通りをはさんで麹町署の半蔵門寄り、斜めむかいにあたる。新宿通りと内堀通りが交差する半蔵門前の交差点、南西角からすぐのところである。第一電燈局が煙突から煙を立ち昇らせて発電していたのは、1888年から1896年までの8年程であり、鏡花は貴重な描写を残してくれたことになる。
さて、交番を出発した八田巡査は、五味坂を千鳥ヶ淵にむかって下り、つぎの角を右折し、やがて公使館の西側の坂を上ったと考えられる。車夫をどこでとがめたか明確ではないが、その後、
行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、
と、書かれている。この物体が幼児を抱く母親である。
公使館の東側は半蔵濠に臨むので、柳は似合いそうだが、人家はない。西側なら、南へ向かって進めば、左手は公使館、右手は人家がある。
この辺りは江戸時代、旗本の屋敷が並んでいたが、徳川幕府が滅亡し、明治の代を迎えると、旗本たちの生活は窮乏し、離散する人たちが相次ぎ、地域全体が荒廃していった。武家の門としては格式の高くない「冠木門」。冠木門は屋根のない門であり、わびしい感じがする。もと旗本の没落士族が住んでいるのか、明治政府の官吏が住んでいるのかわからないが、武士の割合が非常に多く、幕藩体制の崩壊によって荒廃していった金沢の街と、きわめてよく似ている。幕府が滅んで、すでに30年ほど経過しているものの、鏡花にとって番町地区は東京にあって、落ちぶれたふるさと金沢を感じさせる街であったのではないだろうか。
鏡花は公使館のあるところを五番町ではなく、一番町と勘違いしているので、曲がり角も当然、当時の五番町であろう。公使館西側の道は、現在では新宿通りまで直進できるが、当時は公使館南西角で元園町北側を東西に通る道にぶつかって、T字路になっていた。元園町は江戸時代、騎射調練馬場御用地だった。八田巡査は左折して、公使館の南側に沿って、堀端の道(現在の内堀通り)にむかったと思われる。
ここで、第三の人物が登場する。婚礼帰りの老人とその姪である。姪の名前は、お香。お香は《
半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき
》、酔っぱらって足元がふらつく伯父に《
「伯父さんおあぶのうございますよ」
》と注意をする。おそらく現在の内堀通りにあたる道を歩いているのだろう。この辺りの光景は、
見渡すお堀端の往来は、三宅坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる、
と、表現されている。真夜中にそんな景色が見えるものかと思うが、その辺は鏡花の作品として許すとして、内堀のところで説明したように、半蔵濠から桜田堀は二段下がっているので、南へ伸びる三宅坂の先は、かなり下の方になり見えにくく、《
三宅坂にて一度尽き
》という表現もうなづける。
鏡花はさらにその先の光景を《
一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる
》と表現している。三宅坂を下り、桜田堀がカギの手に曲がる辺り一帯が霞が関で、明治政府はここに中央官庁を集中させる計画を立て、順調に行けば一大煉瓦建築群が出現するはずだった。しかしながら、紆余曲折を経て、完成したのは大審院と司法省の建物だけだった。鏡花が半蔵門辺りから桜田堀の先を眺めたのは1894年。二つの建物が完成したのは1895年。鏡花はほぼ完成した司法省の煉瓦屋を見て、日本の首都東京の光景を刻み込み、作品の中に取り入れていったのではないだろうか。大審院の煉瓦棟は1976年に取り壊されたが、司法省の建物は1994年に修復、当初の姿に復元され、国の重要文化財に指定。法務省の赤煉瓦棟として、現在も使用されている。半蔵門方向からは、手前にテレビドラマでもおなじみの警視庁の建物があるため、法務省の赤煉瓦棟を見ることはできない。
八田巡査が老人と、お香という若い女性の二人連れの後ろを歩いていたのは、《
半蔵門の方より来たりて、今や堀端に曲らんとする時
》。進行方向の背後にあたる南には、三宅坂が下っている。つまり、ここは現在の内堀通り、半蔵門の前から北へむかう辺りであるが、この文章表現、現実と違和感がある。半蔵門の方から来ると、そのまま右手が半蔵堀。堀端へ曲がる必要がない。堀端の道は電車を走らせるため拡幅されたが、それ以前もある程度広く、土手のむこうに堀があった。
結局、八田巡査はお香の伯父を助けるため、堀に飛び込み死んでしまう。この堀が半蔵濠であろう。この事件の場所を特定することはできないが、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
と、あるところから、英国公使館正門を少し過ぎた辺りではないだろうか。今でも、暗くなってから通りたいところではない。