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6.『夜行巡査』の舞台
『夜行巡査』が生まれるまで
『夜行巡査』が「文芸倶楽部」4月号に掲載されたのは、1895(明治28)年である。この作品が発表されるまでの一年余、鏡花にとって試練の時であったが、その後の文豪としての歩みを手繰り寄せる一年余でもあった。
一年前の1月9日、父清次が亡くなり、鏡花は急遽金沢へもどった。真冬の春日野峠越えはどのようなものであったか。東京の紅葉のもとに居れば、少なくとも食べていくことはできたが、もとより自前の収入があるわけではない。二人の妹はすでに他家へ養女として出されていた(他賀は卯辰山の芝居茶屋「梅もと」、やゑは春日町の諸江屋呉服店)が、泉家には祖母きて、弟豊春が残されていた。父に無心をしたこともあり、その父を失い、これからどうやって生計を立てていくか、鏡花は途方にくれた。
紅葉は、1月30日、鏡花に手紙を送り、『貧民倶楽部』の新聞連載や「春夏秋冬」への作品掲載の労を取るので、原稿を書くよう励ました。鏡花にとっては心強い文面であったが、すぐにカネが入ってくるわけではない。また、仮に小説家として身を立てるとしたら、祖母と弟を金沢に残して上京しなければならない。長男として、それはきわめて抵抗の大きいことである。しかし金沢に留まって、自分にできる仕事はあるのか。鏡花は金沢城の百間堀端に佇んで自殺の誘惑にかられたという。それでも鏡花は『夜明けまで(鐘聲夜半録)』を書いて、紅葉のもとに送った。その作品から鏡花が自殺を考えていると予感した紅葉は、5月9日付けの手紙で、素晴らしい才能をもっているのだから、それを世のため発揮するよう励ました。今度は言葉だけではない。3円貸すとして、為替も送付したのである。じつはこの間、紅葉自身も2月に父惣蔵を失っていた。(『人間泉鏡花』)
とりあえず鏡花は、金沢で小説を書いていく道が開かれ、『豫備兵』『義血侠血』などと矢継ぎ早に執筆、紅葉に送った。鏡花は自筆年譜に、《
翌日の米の計なきに切れる試作
》と記している。そのような中、7月25日、日清戦争が始まった(宣戦布告は8月1日)が、鏡花は一大決心し、祖母と弟を残して上京した。秋、おそらく9月であろう。
上京して鏡花はさっそく作品を書くための取材に出かけた。『泉鏡花』によると、
かれの心中に、この作品のテーマが浮かんだのは前年の九月であった。そのとき鏡花は作品の舞台を牛が淵にとろうと思って、師の紅葉に暇をもらって、ぶらぶらと歩き出した。まだ残暑の季節であったから、英国公使館のそばの柳の木影でいこって、さまざまに作品の工夫をこらした。半ばできたようなできないようなままに空腹をおぼえ、麹町三丁目のそば屋で昼食をとって、ふたたび横寺町の師の家にもどってきた。(略)その翌日から、鏡花は執筆をはじめたが、半ば書いたところで行き詰ってしまい、書きかけの原稿を投げ出してしまった。
この文によると、鏡花は当初、牛が淵に作品の舞台を設定しようとしていたようだ。牛が淵(牛ヶ淵)というのは、日本武道館のある皇居北の丸公園の東側の堀で、西側は千鳥ヶ淵である。淵というのは、河川を堰き止めてつくられた溜池で、飲料水確保が目的であった。日本武道館へ入る田安門のところで堰き止められ、上流部が千鳥ヶ淵、下流部が牛が淵。牛が淵の北部分は堰の上面に上る急坂になっており、九段坂とよばれている。葛飾北斎描く「くだんうしがふち」の絵を見ると、かなり恐ろし気で、昔、銭を積んだ牛車が九段坂から堀に落ちて牛が死んだところから、「牛が淵」と名づけられたという。
鏡花が横寺町の紅葉の家を出て、九段坂の上下どちらへ行ったかわからないが、神楽坂を下り、牛込御門から麹町区へ入り、台地に添うように回り込んで、飯田町の通り(現在の目白通り)を行けば九段下。ここから牛が淵を左に見ながら九段坂を上れば、靖国神社の前に出る。牛込御門から富士見町の坂を上れば、九段坂の上、靖国神社の前に出る。ほぼ今日の早稲田通りのルートにあたる。
靖国神社を背にすると、正面に偕行社(陸軍士官学校の社交クラブ)。その傍らに1871年につくられた燈明台(招魂社に御燈明。燈台の役割を果たしていた。現在は田安門入口付近に移設されている)。そして九段坂。神田駿河台にあるニコライ堂が異国情緒を放ちながら望まれる。1891年に完成したので、まだ新しい。右手の先には田安門。漱石は『三四郎』で広田先生に、《
こんな古い燈台が、まだ残っている傍らに、偕行社と云う新式の煉瓦作りが出来た。二つ並べて見ると実に馬鹿げている。けれども誰も気が付かない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだ
》と言わせている。
なぜ鏡花が、牛が淵へ行ってみようと思ったのか、理由はわからない。父の死後、将来の見通しも立たず、金沢城の百間堀へ身投げしようと思ったという話も残されているが、堀が何となくそのような雰囲気をもって、小説の舞台に設定してみたいと思わせるものならば、神楽坂を下りれば外濠であり、わざわざ足を伸ばして牛が淵へ来る必要はなかったはずである。牛が淵という名前に惹かれたのかもしれないが、結局、鏡花は九段坂を上ったところから、千鳥ヶ淵に沿って英国公使館のそばまで来てしまった。
鏡花は英国公使館の前、半蔵濠(堀)に沿って半蔵門前まで来て右折。麹町の通り(甲州街道、現在の新宿通り)を一丁目の麹町区役所前、麹町警察署の前を通って、二丁目の終わる頃、北へ御厩谷坂(おんまやだにざか)にむかって道が伸びている(現在、地下に東京メトロ半蔵門線が通っている)。その角に交番があり、麹町三丁目が始まる。鏡花は、ここでそば屋に入っている。麹町の通り沿いの地域は江戸城外濠の内側にあるが、江戸時代から町屋が連なっていた。
このように、作品を書くための取材をしたものの、なかなか書くことができなかったようで、『夜行巡査』の設定からみて、12月になって、ようやく筆が進み始めたのではないだろうか。
翌年2月、鏡花は紅葉の計らいで、収入を得る途として、小石川戸崎町の大橋乙羽の自宅に住み、和洋百科全書の編集にあたるようになり、そのかたわら、『夜行巡査』の後半を書き上げ、「文芸倶楽部」4月号に掲載された。日清戦争は4月17日、日清講和条約(下関条約)締結をもって終了したが、この月は漱石が松山中学校に赴任した月でもあり、『坊ちゃん』に戦勝会のようすも描かれている。
『夜行巡査』のあらすじ
上京後、第一作となる『夜行巡査』のあらすじは次の通りである。
股引が破れて膝から下がむき出しの老車夫が巡査にとがめられる。びっくりした車夫を、そばにいた若者が慰める。巡査の名は八田義延。時は明治27年(1894年)12月10日、深夜零時。場所は麹町一番町英国公使館土塀辺り。交番(駐在所)を出て、巡回から戻るまで、歩数およそ38962歩。
つぎに八田巡査は、とある冠木門の前にうずくまる母子をとがめる。母親は帯を解いて、子どもを肌に抱き、綿入れをかけて、温めようとしている。見逃して欲しいと懇願する女性に、「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」と、八田巡査は追い立てる。
この巡査と関わる三番目の人物は、お香という年若い美人と酔っぱらった老人。二人は伯父と姪の関係で、とある婚礼の帰り。半蔵門の方から来て、堀端へ曲がろうとする辺り。三宅坂が後方である。二人に巡査が近づいて来る。じつは二人ともこの巡査が八田であることを知っている。
老人は婚礼の話題から始めて、自分はお香を気に入っており、八田巡査のことも気に入っており、二人が好き合っていることも知っており、似合いの二人と思っていることも伝えた後、それでも結婚させるわけにいかない理由を語る。それは、伯父がお香の母親を好きだったが、お香の父親に奪われてしまった。今、成長したお香は母親そっくりで、老人にとって、お香はかわいくて、手放すことができない恋人である。老人は言う。「吾が死ぬ時は貴様もいっしょだ」。
お香はその言葉を聞くと、堀端の土手へ飛び乗り、堀へ身を投げようとする。老人は止めようとして、堀に落ちてしまう。八田巡査はそれを助けようとして、堀へ飛び込もうとする。二人の結婚を邪魔する伯父など助ける必要はない。しかも八田巡査は泳げない。お香は力の限り抵抗してもみ合いになるが、とうとう八田は堀へ。
結局、お香の恋人、八田巡査は老人といっしょに死んでしまう。結婚を邪魔する伯父はいなくなったが、お香は同時に結婚相手も失ってしまったのである。「職務」に忠実であるがゆえに、老車夫や母子といった弱者に冷徹であった八田巡査は、「職務」を遂行して、二人の結婚を邪魔する老人といっしょに命を落としてしまった。
まことにあっけない幕切れであるが、最後のどんでん返しはいかにも鏡花らしい。けれども鏡花はどうしてこのような作品を書いたのだろうか。『夜行巡査』で鏡花は何を言いたかったのだろうか。私はふたつの読み方を考えたが、まだどちらとも決めかねている。
八田巡査は今で言う「公務員」である。「公務員」は何より公正でなければならない。親しい人に便宜を図ったり、嫌いな人間に不利益を与えることがあってはいけない。八田巡査は弱い者に情けをかけて、大目にみたり、助けてやることはいっさいしなかった。かわりに、自分とお香との結婚を邪魔する憎い伯父であろうと、お堀に落ちて死のうとしている人間を見捨てることはできない。職務上、助けなければならないのである。日清戦時であったことを考えれば、兵隊もまた「生命を投げ打っても」職務に忠実にあるべきことを説いたかもしれないし、あるいは当時、「公務員」が公正でなかったとしたならば、「公務員」に対する皮肉と捉えることもできる。
もうひとつは、明治を30年近く過ごしているといっても、まだまだ江戸時代の封建的な考え方に囚われている人たち、形式にがんじがらめになって、融通の利かない人間の末路を痛烈に皮肉ったとも捉えられる。鏡花自身もそんな古い殻から逃れたいという思いが強かったのではないだろうか。
紅葉の門下生になって4年。けれども、まだ22歳にして、このような作品を書き上げていた。それが鏡花である。周囲の反応は芳しくなかったようだが、乙羽の妻から、一葉がほめていたと聞かされ、励まされたという。
『夜行巡査』の舞台
『夜行巡査』で描かれる地域は、八田巡査が巡回する範囲に限られ、英国公使館の周囲だけと言ってよい。英国公使館は現在の英国大使館で、半蔵濠に正面をむけて、同じ位置に建っている。
英国大使館は千代田区一番町にある。この地域一帯、番町・麹町地区は皇居の西側、内堀と外濠の間にあり、地形的、歴史的に、つぎのような特色がみられる。
東京の街は地図をみると、全体に市街地が広がって、地形的に平坦な印象を受けるが、山手とよばれる武蔵野台地の地域は、尾根筋と谷筋が入り組んで、起伏に富み、坂が多い。番町・麹町地区も台地上にあり、実際に歩いてみると坂の多さに驚かされる。
江戸城にむかって伸びる台地は、北は市ヶ谷から飯田橋へ続く谷筋、南は赤坂から虎ノ門へ続く谷筋によって、周囲の台地と区切られている。江戸城の外濠はこのような谷筋を利用したものだが、やっかいだったのは、四谷辺りで、谷筋がなかったため、大規模な工事をおこなって台地を開削し、1636年になって、ようやく外濠が完成した。この区間は今では空堀になり、上智大学真田堀グランドなどとして利用されている。
外濠に面した四谷見附から、内堀に面した裏手の重要な門である半蔵門まで、新宿通り(甲州街道)は尾根筋を通っている。この尾根筋を境界に、南側に二つの谷筋、北側にひとつの谷筋が伸びている。
『夜行巡査』の舞台は北側の地域である。尾根筋を東北東へ下って行く谷筋があり、現在地下鉄半蔵門線のルートになっている道路を新宿通りから行くと、半蔵門駅(出入口)を過ぎて、永井坂を下って谷筋に、袖摺坂を上って、五味坂派出所前交差点へ出る。ここから右折すれば、谷筋へ下りて千鳥ヶ淵へむかう五味坂が伸びている。直進して坂を下り谷筋へ出て、御厩谷坂を上って行く。この谷筋が四番町、千代田女学園前の道から下って来たもので、四番町図書館付近で北から東郷坂、南から行人坂が下って、交差点を形成している。
この二つの谷筋が合流して東へ伸び、合流地点辺りからせき止め、さらに北の丸の田安門辺りでもせき止めてつくられたのが、内堀の千鳥ヶ淵で、田安門から下流は牛が淵と呼ばれ、ともに飲料水確保のため池の役割をもっていた。
江戸城内堀も台地という地形に制約されたため、水平につなげることができず、牛が淵から一段上がって千鳥ヶ淵、さらに英国大使館前にある半蔵濠、一段下がって桜田濠と続いており、それぞれの水平を保つため堰で区切られている。『「水」が教えてくれる東京の微地形の秘密』によると、牛が淵から標高にして10メートル以上、高い所に千鳥ヶ淵。半蔵濠は千鳥ヶ淵と同じ高さで、桜田濠は11メートル以上も低い所にある。千鳥ヶ淵と半蔵濠を分ける堰の上、つまり代官町通りから眺めると、高いはずの国会議事堂が頭の方だけ望まれ、ずいぶん下の方にあるような感じがする。
江戸時代、番町地区には多くの旗本が住む武士の街、麹町地区は半蔵門から伸びる甲州街道沿いに町人たちが住む町屋が続いていた。
番町地区に旗本がたくさん住むようになったのは、家康が甲州街道から江戸城に入ったこともあって、将軍直属の家臣である旗本がそのまま常駐するようになったからと言われ、江戸城の裏手を固めるかたちになった。旗本たちは番方として、一番から六番まで組織され、番町の地名の由来になった。江戸城の大手側には幕府の要職を務める大名たちの屋敷が配置された。
旗本は石高が1万石未満。御家人と違って、将軍に拝謁することを許されている身分であるが、7割以上は500石以下、屋敷も500坪程度だったといわれる。それでも、町人たちが住む町屋と違って、敷地の区画は広く、いわゆる「お屋敷」になっていた。旗本の屋敷が並ぶ中、半蔵濠に面した、南部丹波守、永井信濃守、前田丹後守など大名の屋敷は何倍もの広さをもち、それらを引き払ってつくられたのが英国公使館であった。
ところで、作品では「一番町英国公使館」と書かれており、現在の英国大使館が一番町にあることから、何の違和感もないのであるが、じつは鏡花が『夜行巡査』を書いた頃、一番町は五番町であった。正しくは「五番町英国公使館」と書かなければならないのに、どうしてこのような間違いをしたのだろうか。鏡花は上京四年目と言うものの、金沢にいた期間もあり、番町辺りの地名を完全には把握していなかったのかもしれない。けれども、出版前に紅葉も目を通したであろうし、他にも目を通した人がいただろうから、誰かひとりくらい気づいても良さそうである。案外、みんな頓着なかったのかもしれない。
番方は一番から六番まで、地域的に整然と住んでいたわけでなく、あっちに一番、こっちに二番というふうに住んでいたため、地名としてはバラバラになっていた。番方がなくなり、地名だけ残ってしまったが、これでは不便であり、昭和に入ってから、今日のように一番から六番まで整然と並ぶように、一番町は三番町に、土手三番町は五番町というふうに、あらためて割りふられたのである。地図を見ながら確認しないと、頭の中が混乱するばかりである。
『夜行巡査』の巡回コースをたどる
八田巡査が勤務する交番(駐在所)はどこか。英国公使館周辺の交番は、1907(明治40)年の「東京市十五区番地界入地図」によると、麹町の通りに面した麹町二丁目・三丁目境界の角と、一番町・五番町の境界を千鳥ヶ淵にむかって下る五味坂の上にある。麹町一丁目には麹町警察署がある。
じつは、麹町警察署の位置は現在も変わっていないし、麹町二・三丁目にあった交番は、麹町署に近いことと、道路拡幅の関係で四丁目に移転して「麹町四丁目交番(派出所)」になっているが、五味坂上にある「五味坂交番」の位置は変わっていない。つまり、警察署や交番の位置というのは百年来、あまり変化していないのである。
鏡花がここを舞台にしたのは、1907年の地図がつくられる10年以上も前のことであるが、同じ位置に交番があったと考えられる。
規則正しい八田巡査は1時間の巡回で、歩数およそ38962歩。歩幅が10cmなら、約3.8キロになり、1時間の移動距離として納得できるものだが、はたして歩幅10センチと、きわめて小刻みに歩くことができるものなのだろうか。
その八田巡査は最初に、破れた股引きをはいた車夫をとがめてから、
麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。
と、南へむかっているところから、五味坂上の交番所属であろう。
鏡花は八田巡査が巡回中のささいなことも見逃さないとして、
たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、(略)路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、
と書いているが、この一文に当時の英国公使館一帯の風景を知ることができる。
電燈局とは東京電燈会社(1886年開業)が運営する小規模火力発電所で、1887年から1890年にかけて、第一(麹町)・第二(茅場町)・第三(銀座)・第四(神田錦町)・第五(浅草)の五つが発電(直流)を開始した(第二がもっとも早く完成)。発電機が小さいため、電力供給できるのは半径2キロ程度だったという。したがって電力需要の多い地域に限定され、第五は吉原遊郭への電力供給という役割をもっていた。1896年、浅草集中火力発電所から一括送電(交流)するようになったので、電燈局による発電は終了した。第一電燈局は麹町区麹町1丁目15(現、麹町1丁目1)にあり、新宿通りをはさんで麹町署の半蔵門寄り、斜めむかいにあたる。新宿通りと内堀通りが交差する半蔵門前の交差点、南西角からすぐのところである。第一電燈局が煙突から煙を立ち昇らせて発電していたのは、1888年から1896年までの8年程であり、鏡花は貴重な描写を残してくれたことになる。
さて、交番を出発した八田巡査は、五味坂を千鳥ヶ淵にむかって下り、つぎの角を右折し、やがて公使館の西側の坂を上ったと考えられる。車夫をどこでとがめたか明確ではないが、その後、
行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、
と、書かれている。この物体が幼児を抱く母親である。
公使館の東側は半蔵濠に臨むので、柳は似合いそうだが、人家はない。西側なら、南へ向かって進めば、左手は公使館、右手は人家がある。
この辺りは江戸時代、旗本の屋敷が並んでいたが、徳川幕府が滅亡し、明治の代を迎えると、旗本たちの生活は窮乏し、離散する人たちが相次ぎ、地域全体が荒廃していった。武家の門としては格式の高くない「冠木門」。冠木門は屋根のない門であり、わびしい感じがする。もと旗本の没落士族が住んでいるのか、明治政府の官吏が住んでいるのかわからないが、武士の割合が非常に多く、幕藩体制の崩壊によって荒廃していった金沢の街と、きわめてよく似ている。幕府が滅んで、すでに30年ほど経過しているものの、鏡花にとって番町地区は東京にあって、落ちぶれたふるさと金沢を感じさせる街であったのではないだろうか。
鏡花は公使館のあるところを五番町ではなく、一番町と勘違いしているので、曲がり角も当然、当時の五番町であろう。公使館西側の道は、現在では新宿通りまで直進できるが、当時は公使館南西角で元園町北側を東西に通る道にぶつかって、T字路になっていた。元園町は江戸時代、騎射調練馬場御用地だった。八田巡査は左折して、公使館の南側に沿って、堀端の道(現在の内堀通り)にむかったと思われる。
ここで、第三の人物が登場する。婚礼帰りの老人とその姪である。姪の名前は、お香。お香は《
半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき
》、酔っぱらって足元がふらつく伯父に《
「伯父さんおあぶのうございますよ」
》と注意をする。おそらく現在の内堀通りにあたる道を歩いているのだろう。この辺りの光景は、
見渡すお堀端の往来は、三宅坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる、
と、表現されている。真夜中にそんな景色が見えるものかと思うが、その辺は鏡花の作品として許すとして、内堀のところで説明したように、半蔵濠から桜田堀は二段下がっているので、南へ伸びる三宅坂の先は、かなり下の方になり見えにくく、《
三宅坂にて一度尽き
》という表現もうなづける。
鏡花はさらにその先の光景を《
一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる
》と表現している。三宅坂を下り、桜田堀がカギの手に曲がる辺り一帯が霞が関で、明治政府はここに中央官庁を集中させる計画を立て、順調に行けば一大煉瓦建築群が出現するはずだった。しかしながら、紆余曲折を経て、完成したのは大審院と司法省の建物だけだった。鏡花が半蔵門辺りから桜田堀の先を眺めたのは1894年。二つの建物が完成したのは1895年。鏡花はほぼ完成した司法省の煉瓦屋を見て、日本の首都東京の光景を刻み込み、作品の中に取り入れていったのではないだろうか。大審院の煉瓦棟は1976年に取り壊されたが、司法省の建物は1994年に修復、当初の姿に復元され、国の重要文化財に指定。法務省の赤煉瓦棟として、現在も使用されている。半蔵門方向からは、手前にテレビドラマでもおなじみの警視庁の建物があるため、法務省の赤煉瓦棟を見ることはできない。
八田巡査が老人と、お香という若い女性の二人連れの後ろを歩いていたのは、《
半蔵門の方より来たりて、今や堀端に曲らんとする時
》。進行方向の背後にあたる南には、三宅坂が下っている。つまり、ここは現在の内堀通り、半蔵門の前から北へむかう辺りであるが、この文章表現、現実と違和感がある。半蔵門の方から来ると、そのまま右手が半蔵堀。堀端へ曲がる必要がない。堀端の道は電車を走らせるため拡幅されたが、それ以前もある程度広く、土手のむこうに堀があった。
結局、八田巡査はお香の伯父を助けるため、堀に飛び込み死んでしまう。この堀が半蔵濠であろう。この事件の場所を特定することはできないが、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
と、あるところから、英国公使館正門を少し過ぎた辺りではないだろうか。今でも、暗くなってから通りたいところではない。
【参考文献】
福田清人・浜野卓也共編:『泉鏡花』、清水書院、1966年
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
人文社編集部:『古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩』、人文社、2003年「東京市十五区番地界入地図(明治40年)」
人文社編集部:『切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩』、人文社、2006年
内田宗治:『「水」が教えてくれる東京の微地形の秘密』、実業之日本社、2019年
【参考にしたネット情報】
電気ゆかりの地を訪ねてvol.5:『電気事業開業時の5箇所の発電所電燈局』
ウイキペデイア:『官庁集中計画』
千代田区:『千代田区内の坂』
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