現実に即して言えば、お銀の故郷は長野県上伊那郡である。『黴』の中では「田舎」と表現されている。
お銀の父親、小沢孝三郎は当時55、6歳。彼は本家がしっかりしているという安心から、東京でいろいろなことをやって味噌をつけ、田舎へ帰って製糸事業に手を出し(三十五)、それにも失敗し、株で挽回しようとして、また手痛くやられている。お銀の母親は結婚後もあまり田舎を出ることもなかったのだろう。「あまり東京慣れ」していないと表現されている(十一)。おそらく、夫の事業が立ち行かなくなって、東京へ出て来て、住み込みで女中(漱石は「下女」という言葉を使っている)をやっていたのだろう。
父親の弟が跡を継いだ本家であるが、お銀からすれば叔父にあたるこの人も、東京へ出て来て、一時期とても順調で羽振りも良かったが、結局事業に失敗し、本家の財産を処分しなければならなくなっている。ただ、幸いなことに、叔母(作品中、「婆さん」)の教育が良かったのか、欽一、欽也など息子三人、すべて医者になっている。叔母たちは下谷に住んでいる。欽一は作品の設定時期頃、つまり日露戦争頃、その弟と前後して軍医として戦地へ渡っており、《
お銀は下谷から借りて来た欽一の兵児帯なども取り揃えた
》(四十六)。
お銀は子どもの頃、すでに東京へ出て来ていたようで、本郷三丁目交差点の南東方向にある金助町に住んでいた。それはつぎの一文でわかる。《
「それでも学校へは行ったろう。」
》とたずねる笹村にお銀は、《
「え、それは少しは行ったんです。湯島学校へ……。お弁当を振り振り、私あの辺を歩いてましたわ、先生の言うことなんかちっとも聞きゃしなかった私……。」
》。笹村はお銀が字を書くのを見たことがなかった。笹村は「僕が教えてやろう」と言っている(四十二)。
湯島学校は1870年、本妙寺境内に設立された学校を起源に、1873年、湯島新花町101番地に開校した。霊雲寺境内に隣接し、現在湯島第二郵便局がある辺り。お銀が当時住んでいた金助町は隣町にあたるので、湯島学校の通学区域になる。湯島天神の花街もこの辺りである。現在の湯島小学校は少し北の99番地の方に建てられている(現住所:湯島2丁目28-14)。
金助町は、《
名代の塩煎餅ですよ。金助町にいる時分、私よくこれを買いに行ったものなんです。
》(四十四)、《
お銀は芝の方に家を持っているその友達を訪ねて、そんな話をしはじめた。商売人あがりのその友達は、お銀がもと金助町にいたころ、親しく近所交際をしたことのある女であったが
》(五十八)というように登場している。「その友達」とは須田の細君である。須田の細君とお銀は《
二人は日比谷公園などを、ぶらぶら歩いて、それからお銀の家の方へやって来た
》(五十八)。
お銀は金助町に父親たちと住んでいたのか、叔父たちと住んでいたのかわからないが、叔父さんがよく学校へ行かさなかったものだとか、従兄にあたる欽也を「兄さん、兄さん」と慕い、欽也もお銀を可愛く思っているところから、叔父一家と暮らしていたのではないだろうか。その後、どのような経緯をたどったかわからないが、叔母たちは下谷に住むようになっている。
お銀の方も金助町だけでなく築地にも住んでいたことが、つぎの一文でわかる。いつの時期かはっきりしない。崖の中腹のようなところにある家に引っ越して、《
お銀の頭脳には、かつて住んでいた築地や金助町の家のような格子戸造りのこざっぱりした住家が、始終描かれていた
》(四十三)、《
笹村は、ある日劇場の人込みのなかで、卒倒したお銀の哀れな姿を思い出さずにはいられなかった。夫婦はその日、新橋まで人を見送った。そして帰りに橋袂で、お銀の好きな天麩羅を食べた。(略)二人は腹ごなしに銀座通りを、ぶらぶら歩いた。「私こんなところを歩くのは何年ぶりだか、築地にいたころは毎晩のように来たこともありますがね。」(略)「歌舞伎を一幕のぞいて見ようか。」笹村は尾張町の角まで来たとき、ふと言い出した
》(七十八)。この後、お銀は歌舞伎座の中で目がくらんで倒れてしまう。
話はそれるが、どうもお銀は、天麩羅が好きなようである。「今日はどこかへ行こうかな。」と言う笹村にたいして、お銀は本にぱたぱたとハタキをかけながら「行ってらっしゃいよ。」と答える。お銀は私も行きたい、何かおいしいものを食べたい、天麩羅か何か。坊だけつれて行きましょうかと言って、「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね」と現実的なことを言い出す。これに対して笹村は「何なら出てもいい。」と返す。《
「中清で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した
》(六十一)。
中清は1870年、浅草公会堂前に店を出した、江戸前天麩羅の老舗。永井荷風や久保田万太郎もひいきにしていた。雷神揚げが有名。気軽に食べることができる価格ではないが、この作品の当時も「お値段の高い店」だったのだろう。
『黴』という作品には、秋聲の作品には、さりげなく庶民感覚がのぞく。
お銀がなぜ磯山と結婚することになったのかよくわからない。おそらく同郷で、父親あたりが決めて来たのかもしれない。お銀18歳、磯山は24歳だったが、まだ学生の身だった。笹村はお銀のお腹の子がほんとうは磯谷の子ではないかと疑っている。それを否定するお銀の言葉が、作品の前中後それぞれの箇所に登場する。磯谷は今で言う「DV(ドメスティックバイオレンス)男」で、お銀は好きになるどころか、怖い思いをいっぱいしたのだろう。
「それから何年になる。」「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」(十)
「三度目だって、可愛そうに……片づいていたのは真の四カ月ばかりで、それも厭で逃げたくらいなんだし、磯谷とは三年越しの関係ですけど、先は学生だし、私は叔父の側にいるしするもんだから、養子になるという約束ばかりで、そうたびたび逢ってやしませんわ。」(四十四)
その男が磯谷であったことが、じきお銀の話で知れた。「まるで本郷座のようでしたよ。私ほんとうに悪かった。これからは妹と思って何かのおりには力になるからなんて、そう言って……。」と、お銀はその時の様子を笑いながら話した。(七十五)
本郷座は金助町の隣り町、本郷春木町にあり、1873年に開設された奥田座、1876年から春木座を経て、1902年から本郷座になった。東京市内でも大きな劇場のひとつで、当時は新派の上演拠点になっていた。じつは、本郷座ではちょうどこの頃の1905年9月、秋聲の『少華族』(1904年12月、「万朝報」に連載)が新派によって上演されていた。
『黴』を読んでいて、お銀は東京生まれではないかと思うくらい親類が多い。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張もあるんですがね。」(六)
笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。(十)
四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車に積んで持ち込んで来たのは、もう袷に羽織を着るころであった、(十四)
正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室で針を持っていた。(十八)
など、四ツ谷に親類のあることがわかる。磯谷の許を逃げ出したお銀は、この四ツ谷の親戚に身を寄せたのだろう。お銀には湯島にも下谷にも親類がある。
お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。(五)
お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更かしをすることがあった。(六)
気がくさくさしてくると、お銀は下谷の親類の家へ遊びに行った。(十七)
この他、山内という《
お銀の遠縁にあたるという若い画家が一人神田の方にいた
》(四十六)。また、知人もかなりいたようで、《
お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした
》(十四)という記述もある。
お銀は東京暮らしが長いこともあって、田舎で暮らすことを嫌っている。十では《
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分ひとりくらい何をしたって食べて行きますわ。
》というお銀の言葉がそれを示している。
東京へ嫁いだ私の姉の家も、地方から出て行く私たちの「東京のベースキャンプ」のようになっていた。場合によっては一週間、二週間と泊まっていくし、ちょっと顔をみせれば、メシのひとつも出さなければならない。さぞかしたいへんだっただろうと思う。とにかく、ひとり東京へ出てくれれば、上京と言うハードルはグンと低くなる。お銀の父親や叔父も、田舎から東京へ出て来た。先に東京へ出た親類を頼ったかもしれないし、続く人たちに頼られたかもしれない。こうして、つぎつぎ親類が東京に集まったのだろう。『黴』を読むと、笹村の甥も故郷から出て来て、同居していることがわかる。鏡花も祖母・弟が上京しており、犀星も小畠家の人びとが上京すると逗留している。
お銀が笹村と所帯をもち、お銀の父親にとって、東京と言うハードルは再び低くなったのだろう。《
お銀の背後には、多少の金を懐にして田舎から出て来て、東京でまた妻子を一つに集めて暮らそうとしている父親や弟がいた。
》(五十二)。こうして父親たちは東京に出てくる。六十七には、
昨夜麻布の方に、近ごろ母子三人で家を持っている父親が、田舎から出て来たお銀の従兄と連れ立ってやって来た。その時午前に連れられて行った正一も一緒に帰って来たが、いつにない電車に疲れて、伯父に抱かれて眠っていた。
後のことになるが、はまの父孝三郎は1922年8月23日、73歳で亡くなった。それから二年後の1924年。秋聲とはま夫婦と同居するようになっていた母さちが、9月21日、72歳で亡くなった。それで終わらず、さらに二年後の1926年。1月2日、はまが46歳で急逝してしまう。三年数ヶ月で三人の肉親が逝ったことになる。