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6.『黴』とたどる秋聲の東京
『黴』は1911年8月1日から11月3日まで、漱石の推挙で「東京朝日新聞」に連載された。すでに文壇でも認められた存在になっていた秋聲の作品である。それにしても秋聲はどうして自分の作品に『黴』などという題名をつけたのだろうか。まさか、「黴」に恐怖感を抱く鏡花に対する当てつけでもないだろうが、読みたくなるような題ではない。
『黴』のあらすじ
『黴』のあらすじは、1902年から1907年にかけての秋聲をたどれば、概ねわかる。
大阪・別府などに長期滞在した秋聲(作品中、笹村)は、東京へ戻り、友人が建てた小石川表町の貸家に入ることになる。家事を頼むため小沢さち(作品中、「婆さん」)という50歳くらいの女中を雇う。そこへ婚家を飛び出して親類に避難していたさちの娘、小沢はま(作品中、お銀)が手伝いに来るようになる。当時、22歳くらい。
しばらくして、はまの母親は夫たちが暮らす長野県上伊那郡に一時帰郷する。はまもこの地で1881年生まれている。母親がいない間、てきぱきと家事をこなし、肌を見せることにも頓着なく、「男をチャームするところがある」のだから、はまは妊娠してしまう。けれども、秋聲は前夫(作品中、磯谷)と関係が切れていないかもしれない、隣家に住み食事などもいっしょにする三島霜川(作品中、深山)と関係ができているかもしれないと疑いをもっており、なかなか自分の責任とも思えない。結局、霜川との関係は悪化し、彼は出て行った。やがて、はまの母親が戻って来ることになり、秋聲はあわてる。
1903年、7月に長男一穂誕生。10月に紅葉死去。小石川表町から転居。1904年になって、はまとの婚姻届、一穂の出生届を出している。この年から翌1905年にかけて日露戦争。秋聲は従軍記者になろうかとも考えたが断念。1905年に秋聲は帰郷。長女瑞子もこの年に生まれている。秋聲一家は、やがて本郷森川町の空橋近く、富坂を経て、1906年に終生の家に着く。ここで一穂は生死をさまよう重病になる。
『黴』には、紅葉の死の場面、鏡花の家のようす、金沢への帰郷、また、仕事場を確保するために転々とした下宿のようすなども描かれている。
『黴』の設定時期の間、秋聲はすでに東京を生活拠点にしているので、作品の舞台は、旅に出て場面を除けば、大半が東京である。
どうなっている?
『黴』の話は、秋聲の年譜を横に置いて読んでいれば、それほど難解なものではない。けれども、当時、新聞の連載で『黴』を読んだ人びとは、そのようなことができないのであるから、「よくもまあ、読んだものだ」と感心させられる。
この作品は冒頭から、
笹村が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
このような出来事があったのは、1904年3月。この一文の後、
家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の度から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒れたさまが、一層明らかに振り顧られた。
1902年4月へ戻って行く。そしてこの後、現実の流れにそって話は進行していくが、それでは1904年3月の時点に立って、主人公笹村が振り返っているかと言えば、話は1907年まで進んで行く。冒頭の一文はいったい何だったのか。
人物も表記も不可解なところがある。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦んで承諾した。
その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおいていたK_が、国から少し纏まった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた貸家の一つであった。
これは連載1日目の終わりと、2日目の始まりの文章であるが、「K_がっていったい誰?」。私もそうだが、読者は別の人物を理解して読み進んで行く。途中で、何かヘンだと思い始める。どうやら「山田君」と同一人物のようだが、どうして「山田君」か「K_」、どちらかに統一しなかったのか。
お銀の叔父についても、
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡くした自分の着物が惜しまれた。(九)
叔父は生きているのか死んでいるのか、はっきりしない。作者は自分の知っていることだから、どちらかわかっているだろうが、読む方としては迷ってしまう。
結局、私はこの文章を書きながら、行きつ戻りつ、繰り返し『黴』を読み直すことになってしまった。けれどもこの作業は私にとって、けっしてマイナスではなかった。
プラットホームを歩いて行くお銀の束髪姿は、笹村の目にもおかしかった。「家鴨のようだね。」笹村は後ろから呟いた。「そんなに私肥っていて。」お銀は自分の姿を振り顧り振り顧りした。(三十九)
囁いた子供に「ハイちゃい」をして下宿へ入って行く笹村は(四十一)
などのように、現在でもそのまま通用する表現。言葉づかいも丁寧で、短い文章の中に、秋聲の優しさや観察力の確かさが伝わってくる。すっと、読み進んでしまえば見過ごしてしまったことが、繰り返しによって多くの発見につながっていく。つるつると喉を通してしまえばそれまでのソバを、よく噛んで、ソバの甘みと香りを口の中に感じた時のようである。
やはり、北陸の冬を経験した者が書いた作品だ。私はそう思う。
小石川表町の家
山田(K_)の建てた借家というのは、現実に即して言えば、田中千里の建てたもので、秋聲は友達である太田四郎から紹介された。小石川表町109番地にあるこの借家に秋聲が入居したのは1902年4月末頃とみられている。
小石川表町は、旧小石川区にある伝通院の門前に開かれた町で、江戸時代には伝通院前表町と呼ばれていた。『黴』の設定時期には急速に宅地化が進み、表町と言っても伝通院の裏手まで広がっていた。109番地は裏手に当たるが、一帯が109番地で、秋聲の住んだ借家をピンポイントで特定することはできない。
伝通院は寿経寺として1415年創建。1602年、徳川家康生母於大の方逝去にともない菩提寺として定められ、1603年に現在地に建立。寺名も於大の
法名「伝通院」にちなんで伝通院とよばれるようになった。浄土宗関東十八檀林(学問所)の一つで、最盛期には常時千人の修行僧がおり、寺前の広い通りの両側には寮が建ち並んでいた。通りの入口、現在の伝通院前交差点から入るところには表門があり、現在でも、東側に善光寺・慈眼院、西側に福寿院・見樹院・法蔵院・真珠院があるが、江戸から明治にかけて、寺院の数は今よりもっと多かった。寺の正面にある門は中門で、境内には1892年、淑徳女学校が建てられ、淑徳学園高校・中学校、さらに淑徳SC中等部・高等部へと引き継がれている。
秋聲はすでに転居していたが、1908年、火災によって本堂などが全焼した。
漱石は『それから』(1909年)で、主人公代助が平岡三千代を訪ねる場面を、《
約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院の焼跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さっている間を左へ抜けて、平岡の家の傍まで来ると、板塀から例の如く灯が射していた。
》と記している。
東京市内に初めて路面電車が開通したのは1903年。伝通院前は1910年から走るようになった。秋聲が小石川表町に住むようになった頃、交通手段は基本的に徒歩であった。秋聲は1901年4月末には読売新聞を退社しており、作家生活に入っていたので、毎日どこかへ通勤する必要はなかったが、紅葉や文士仲間が集まる神楽坂、本の神田、学府の東大はいずれも直線距離で2キロ内にあり、当時はあまり抵抗のない徒歩圏内であり、秋聲にとっては不便な場所ではなかったであろう。
明治の初め、落ち込みを見せていた東京は、その後、日本の首都として活況を呈するようになり、市街地も拡大していった。秋聲が建てたばかりの借家に入ったように、この小石川表町辺りは新開の地として都市化が進行していた。秋聲はこの借家界隈をつぎのように描いている。
向こうには、この新開の町へ来てこのごろ開いた小さい酒屋、塩煎餅屋などがあった。筋向いには古くからやっている機械鍛冶もあった。鍛冶屋からは、終日機械をまわす音が、ひっきりなしに聞えて来たが、笹村はそれをうるさいとも思わなかった。(二)
この新開町の入口の寺の迹だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃を被って立っていた。(十一)
四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車に積んで持ち込んで来たのは、もう袷に羽織を着るころであった。町にはそっちこっちに、安普請の貸家が立ち並んで、俄仕立ての蕎麦屋や天麩羅屋なども出来ていた。(十四)
「裏へ家が建つようでは、ここにもいられませんね。おまけに二階家と来てるんですもの。」「出来あがったらそっちへ移ってもいいね。」笹村とお銀とはこんな話をしながら、時々裏へ出て見ていたが、家はいずれもせせッこましく厭味に出来ていた。壁が乾かぬうちに、もう贅沢な夜具やランプなどを担ぎ込んで来る人もあったが、それは出来星の紳士らしい、始終外で寝泊りしている独身ものであった。(四十)
漱石も『それから』(1909年)で、平岡夫妻の新居を小石川表町に設定し、つぎのように描写している。《
この十数年来の物価騰貴に伴れて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、尤も粗悪な見苦しき構えであった。とくに代助にはそう見えた。門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた
》。平岡の家設定地は小石川表町63番地から67番地辺り。伝通院の西側にあたる。秋聲が住んだのは伝通院の北側、つまり裏手にあたるが、この辺りから小石川柳町にかけて貧民窟がひろがっていたことは、松原岩五郎著『最暗黒の東京』(1892~93年)に詳しい。
ところで、漱石が伝通院付近に詳しいのは、1894~1895年に伝通院別院として創建された法蔵院に下宿したからである。『琴のそら音』の靖雄が小日向に引越す時、婆さん(下女)が《
伝通院辺の何とかと云う坊主の所へ相談に
》行っている。この坊主こそ法蔵院の住持豊田立本で、易断人相見などをやって有名であった。『思い出す事など』には、《
学校を出た当時小石川のある寺に下宿していた事がある。其処の和尚は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木と筮竹を見るのが常であった。
》と記されている。漱石は易断の結果、「西へ行く相」があると言われ、法蔵院を出た後、松山・熊本、そしてとうとう西洋まで行ってしまった。
伝通院の裏手に住むようになった秋聲もこのような評判を聞いたのであろう。『黴』に登場させている。そこに書かれたことが現実にあったことをもとにしているとするならば、秋聲は紅葉がガンになり、その病状がどうなるか占ってもらうため、易者を訪れたことになる。
「……伝通院前の易者に見ておもらいなすったらどうです。それはよく判りますよ。」お銀はまた易者のことを言い出した。笹村は翌日早く、その易者を訪ねたが、その日はあいにく休みであった。帰りに伝通院の横手にある大黒の小さい祠へ入って、そこへ出ているある法師について観てもらうことにした。法師は綺羅美やかに着飾った四十近くの立派な男であった。(略)「これアとても……。」法師は水晶の数珠の玉を指頭で繰ると、本を開けて見ながら笹村に言いかけた。「もう病気がすっかり根を張っている。」「手術の効はないですか。」「とても……。」と反りかえって、詳しく見る必要はないという顔をした。(二十二)
紅葉の死
秋聲は『黴』の中で師尾崎紅葉の死のようすを克明に描いている。
M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころには不断のようになっていた。注射が効力をもっている間の先生の頭脳は、頸垂れた草花が夜露に霑ったようなものであった。(三十六)
今から百年以上前の癌治療の一端がうかがえる。そして、秋聲は
「何ともいえぬ微妙な心持だ。」と言って、先生も限られたその時間の来えて行くのを惜しみ惜しみした。(三十六)
など、末期がんの人の心情、言動を細かく描写している。
「もう癌は胃の方ばかりじゃないそうだ。咽喉の辺へも来ているということだ。」(三十六)
絶望的な状況の中で皆が集まり、先生は死骸を医学界のために解剖に附してくれというようなことを話し始める。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑んだ。「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、曇んだ目にじろりと見廻した。「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。(三十七)
このようなことがあった日の午後遅く先生は息を引き取った。紅葉の死に合わせれば、1903年10月30日。あまりにも人間出来ている感じだが、まだ35歳だった。おそらくつぎの日だろうか。笹村が
牛込へ帰って来ると、今朝しとしと降る雨のなかを、縁先から釣り台に載せられて、解剖室の方へ運ばれて行った先生の死骸が、また旧のとおり綺麗に縫いあわされて、戻って来てから、大分経った後であった。玄関には弔に来る人影もまだまれであった。「先生はやはり異常な脳を持っていられたそうだ。」玄関ではそんな話が始まっていた。(三十七)
神楽坂の鏡花の家
笹村はM先生を見舞った後、そこから遠くもないI氏の家を訪ねた。現実を重ねると、1903年7月、一穂が生まれた月であるが、秋聲はいっそう衰弱した紅葉を見舞った後、神楽坂2丁目21番地の鏡花の家を訪ねた。紅葉の家から歩いて10分足らずのところ、現在の東京理科大学の裏手にあたり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の碑が立ち、「新宿区指定史跡」として説明板も設置されている。鏡花は南榎町に三年余過ごして、3月にこの家に引っ越してきた。鏡花の祖母、弟、すずもいっしょだった。
『黴』には鏡花の家のようすが描かれている。
ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下の部屋へ入ると、そこには綺麗な簾のかかった縁の檐に、岐阜提灯などが点されて、青い竹の垣根際には萩の軟かい枝が、友禅模様のように撓んでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえに堆く積んである校正刷りも、I氏の作物が近ごろ世間で一層受けのよいことを思わせた。(二十九)
客が帰ってしまうと、瀟洒な浴衣に薄鼠の兵児帯をぐるぐる捲きにして主が降りて来たが、何となく顔が冴え冴えしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装の好みや部屋の装飾は、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応しいものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むようなきがした。奥には媚いた女の声などが聞えていた。草双紙の絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えてみたり、こっちへ移して見たりね。もう弄りだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、I氏は刻み莨を撮みながら、健かな呼吸の音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。(三十)
『黴』を書いた時には、すでに文壇でも地位を築いていたのだから、ここまで鏡花を意識した場面を描く必要はなかっただろう。あえて挿入しなくても作品の体が崩れるわけでもない。それでも秋聲は書かずにはいられなかったのかもしれない。どちらが良いというわけではないが、秋聲は鏡花の作風、生き方に馴染むことができなかった。しかしながらそのことが秋聲に、日常生活の現実をありのままに描き出そうとする作風に向かわせていったと、私は考える。もし、秋聲が鏡花の作風を良しとして、追い求めて行ったなら、文豪と呼ばれなかったばかりか、文壇に地位を築くことはできなかったであろう。鏡花を超えることは不可能だったと言ってよい。
I氏の家を後にした笹村の足は自然とO氏の家にむいた。O氏とは小栗風葉であろう。風葉は1900年に豊橋市の加藤倉次の長女と結婚している。《
去年迎えた細君
》という表現は合わないが、東京に迎えたのが1902年だったのかもしれない。笹村とO氏は連れ立って神楽坂の縁日を訪れ、坂の下まで行って、そこでO氏は庭に植える草花を探し、台湾葭のようなものを二鉢ばかり買った。ここで二人は花物の鉢を提げたI氏とも出会った。紅葉四天王の三人が顔を合わせたことになる。
O氏は残った小銭でビアホールに入った。笹村もいっしょである。東京に日本初のビアホールができたのは1899年。恵比寿ビアホール(新橋)である。その後、神楽坂をはじめ東京各所に恵比寿ビアホールが開業していったのだろう。現在もエビスバー神楽坂店がある。
関口町へ引越す
野田宇太郎は『日本文学全集8徳田秋声集』(集英社)の「作家と作品」の中で、《
小石川表町の家を去ったのもこの年であった。小石川関口町附近にもしばらく移ったあと、本郷森川町の空橋近くに、ようやく親子三人の新しい生活をはじめた。
》と書いている。この年というのは1904年である。しかしながら、多くの年譜でこの記載は見られない。野田は何らかの資料をもとに書いたと思われるが、確認できない。徳田秋聲記念館に問い合わせたが、やはり確認できる資料がないと言うことであった。
転居したことだけは事実であろう。『黴』には、借家がK_の手から裏の大工へ譲渡され、改修されることになったためで、地所の裏に大工が建てた二階建ての借家に移転することも考えたが、結局転居したというふうに書かれている。裏の新しい借家へ引っ越さなかった理由は書かれていないが、せせっこましく厭味な感じだったからかもしれない。転居先を知る手がかりはつぎの一文である。
お銀母子と、その時分寄宿していた笹村の親類先の私立大学へ出ている一人の青年との入っていられるような家を一軒取り決めて、(略)その家はそこから本郷に出る間の、ある通りの裏であったが、笹村は三人を落ち着かしてから、また自分の下宿を捜しに出なければならなかった。(四十)
ところがこの記述。どう読んでも小石川関口町附近とは考えられない。関口町というのは、神田川(江戸川)から神田上水へ分水する堰があったところから名づけられたもので、江戸川橋の上流。目印としては、椿山荘などがある辺りである。早稲田大学に行くには便利かもしれないが、本郷にはかならずしも近いわけではない。《
その家はそこから本郷に出る間の、ある通りの裏であったが
》という記述であるが、関口町から水道端の通りを使っても、江戸川沿いの道を使っても、砲兵工廠にぶつかって、「本郷へ出る」という感覚ではない。
また、「四十一」には、《
笹村の出て行った下宿は、お銀たちのいるところからは、坂を一つ登った高台であった
》と書かれており、どう理屈をつけようとしても関口町はムリである。《
夜になると、お銀は子供を抱え出して、坂のうえあたりまで一緒について来たが、
》《
外は雨がしぶしぶ降って、空は真闇であった。風も出ていた。その中を笹村は春日町の方へ降りて行った。暗い横町で、ばたばたと後を追っ駆けて来て体を検べるふたりの角袖に出逢いなどしたが、足は自然に家の方へ向いて行った
》という記述、ともに笹村の下宿からそれほど離れているとは感じられない。さらに、つぎの転居先は本郷森川町を想定しているが、《
夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかったころには、
》というように、森川町に近い。
それでは転居先はどの辺りに設定されたのであろうか。笹村の下宿はその描写から、現実通り菊坂町に設定されていることは明らかである。「坂を一つ登った」ところにあるということは、家が坂の下の地域にあることを示している。つまり現在で言うと、菊坂を下り、白山通りへ出た辺り一帯、小石川1丁目界隈。「笹村は春日町の方へ降りて行った」という表現もうなづける。《
家には近所の蒟蒻閻魔の縁日から買って来た忍が檐に釣られ、子供の悦ぶ金魚鉢などが置かれてあった
》という記述も裏付けになる。蒟蒻閻魔で知られる源覚寺は当時の小石川初音町にある。おそらく、この小石川初音町から、小石川餌差町、小石川下富坂町辺りに設定されたのだろう。
秋聲は『黴』で、住んだところを現実とかけ離れた場所に設定していないので、小石川関口町附近に住んだという事実はなく、小石川初音町およびその周辺に住んだと推定される。
下宿はどのようなところだったか
1901年7月末、三島霜川との共同生活を解消した秋聲は、柿ノ木横丁の薙城館に下宿するようになった。その後、大阪・別府などで長期滞在し、1902年4月帰京し、薙城館に戻った。『黴』では、つぎのように描かれている。
下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓の青葉が初夏の風に戦いでいた。(一)
間もなく秋聲は小石川表町の借家に入り、意図せぬままに同棲生活、子どもも生まれ、家庭をもつ身になった。そうなってみると、なかなか家にいては仕事に集中できない。秋聲は仕事場として下宿を利用するようになる。1903年6月、柿ノ木横丁の紅葉館に下宿する。紅葉から依頼された仕事があり、その紅葉は病状が思わしくない。子どもも近々生まれる。『黴』では、
笹村は、M先生のある大きな仕事を引き受けることになってから、牛込の下宿へ独りで引き移った。(略)牛込のその下宿は、棟が幾個にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人が一人いるぎりであった。笹村は、机とランプと置時計だけ腕車に載せて、ある日の午後そこへ移っていった。そして立ち木の影の多い向きの窓際に机を据えた。(二十二)
下宿は昼間もシンとしていた。笹村は机の置き場などを幾度も替えてみたり、家を持つまで長いあいだこの近傍の他の下宿にいたころ行きつけた湯へ入りなどして、気を落ち着けようとしたが、(二十三)
1904年になって秋聲たちは小石川表町から引っ越したが、秋聲は菊坂に下宿を見つけた。
笹村の出て行った下宿は、お銀たちのいるところからは、坂を一つ登った高台であった。見晴らしのいいバルコニーなどがあって、三階の方の部屋は軟か物などを着ている女中の所管と決まっていた。暑中休暇の来るまで笹村は落着き悪い二階の四畳半に閉じ籠っていたが、去年の夏いた牛込の宿よりは居心がよかった。(略)夜になると、お銀は子供を抱え出して、坂のうえあたりまで一緒について来たが、子供に「ハイちゃい」をして下宿へ入って行く笹村は、下宿の空気とはどうしても融け合うことのできぬあるものが、胸にこだわっていた。もう試験を済ましてしまった学生連は、どこの部屋にも陽気な笑い声を立てていた。腕車で飛び歩いている連中や、荷物を纏めている人たちもあった。笹村は台所の上になっている暑い自分の部屋を出て、バルコニーの方へ出ると、雨に晒された椅子に腰かけて、暗いなかで莨を喫していた。そこへ二、三人の学生が出て来た。白粉の匂いのする女中たちも出て来た。(四十一)
この下宿はどこにあったのだろうか。年譜には「菊坂に下宿」と書いてある場合が多い。下宿は高台にあるというが、町名としては本郷台町である。ところが長泉寺や明暦の大火(振袖火事)の火元と言われる本妙寺などある一帯は台地上でも本郷菊坂町に属している。笹村の下宿は三階建てでバルコニーがあるくらいだから、当時本郷のあちらこちらに建てられた高等下宿である。漱石も『彼岸過迄』『こころ』などで高等下宿を登場させている。秋聲の下宿、そして『黴』の笹村の下宿は、菊坂をだらだら上って、その後、左折して一気に台地を上った「下宿屋菊富士楼」の可能性が強いのではないだろうか。長泉寺傍、本妙寺跡付近に建っていたので、あきらかに本郷菊坂町である。
「下宿屋菊富士楼」は1896(明治29)年に岐阜県出身の羽根田幸之助・菊江の両親が建てたもので、1914年に五階建ての菊富士ホテルに建て替えられた。1945年、空襲で焼失、再建されなかった。
森川町に住む
夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかったころには、(略)家は人通りの少い崖と崖との中腹のような地面にあった。腐りかけた門のあたりは、二、三本繁った桐の枝葉が暗かったが、門内には鋪石など布かって、建物は往来からはかなり奥の方にあった。三方にある廃れた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸が破れていたり、根太板が凹んでいたりした。けれど庭木の多い前庭に臨んだ部屋は、一区画離れたような建て方で、落着きがよかった。(四十三)
前の家についての描写は皆無と言って良かったが、今度はかなり具体的に描かれているので、秋聲たちが1904年8月から住むようになった本郷森川町1番地の家とみて、ほぼ間違いないだろう。「お銀たちの近くの」と書かれているので、前の家を小石川初音町およびその近辺に設定したとの推測も適切であっただろう。
本郷森川町というのはほとんどが1番地で、住所だけで行きつくことは困難である。『黴』の文章をもとに笹村たちの転居先を推定すると、小石川初音町の方から来て、右へ行くと菊坂。左へ行って、しばらくして右折すると新坂で本郷台へ上る。1908年から石川啄木が居住した蓋平館前を通り、東大の前に出る。一方、新坂を上らずまっすぐ行くと、本郷台に刻まれた谷筋を上って行く。左手が駒込西片町、右手が本郷森川町。この二つの町を結んで1880年に清水橋が架けられた。下にも道が通り、川らしきものが見えないので、から橋(空橋)とも呼ばれている。現在、言問通りになっており、清水橋は2019年、5代目が完成した。清水橋の手前、右手へ入った辺りが笹村たちの転居先、そして秋聲たちが暮らした本郷森川町1番地の家であろう。本郷台にある旧太栄館北西裏がけ下、シティ本郷菊坂が建っている辺りと考えられる。『黴』(四十三)にはこのような描写もある。
「もっとどうとかいう家がないものですかね。井戸が坂の下にあるんじゃしようがないわ。」
お銀は主婦目線である。井戸で水を汲んで上って来るのはたいへんである。
やがてバケツに箒などを持たせて、書生と一緒に出かけて行った笹村は、裏から水を汲んで来て黴くさい押入れや畳などを拭いていた。そして疲れて来ると、縁側へ出て莨をふかしていた。高台に建てられた周りの広い廃屋は、そうしていると山寺にでもいるように、風も涼しく気も澄んでいた。
湿気も多く、崖崩れの心配もあるところで、私は住みたくないが、人間の感じ方はさまざまである。
富坂の家
「ひょっとすると、私たちはこの家を立ち退かなければならないかもしれませんよ。」(略)見すぼらしい道具を引き纏めて小石川の方に見つけた、かなり手広な家へ引き移ったのは、それから間もないことであった。(六十二)
本郷森川町の家に住んで二年足らず。年譜によると、秋聲たちは1906年4月、富坂に転居した。富坂は東京砲兵工廠(現在、小石川後楽園、東京ドームシティのあるところ)の北側にあるが、小石川台の上に小石川上富坂町・小石川中富坂町、台地の下に小石川下富坂町・小石川西富坂町がある。
富坂のどの辺りか推測する手がかりは、次の文章。
日によって庭には如何かすると、砲兵工廠から来る煙が漲り込んで、石炭滓が寒い風に吹き寄せられて縁の板敷に舞ってゐた。(六十二)
東京砲兵工廠は現在の東京ドームから小石川後楽園一帯にあった。煙突は東京ドームの南側(水道橋側)、東京ドームホテルがある一帯に多く見られた。当時は今のように高く噴き出すかたちではないので、少し上がって横へなびき、結局、富坂一帯、どこへ降り注いでも不思議はない。けれども台地上の方が面積的にも広く、確率的に高い。かなり手広な家で、飛び石を多く配した庭もあり、棕櫚や竹の葉がざわざわと騒がしかったり、こうした点からも台地上、小石川上富坂町・小石川中富坂町と考えられる。小石川下富坂町は漱石の『こころ』で描かれているように、低湿地で、雨が降るとぬかるみができた。
『黴』によると、居心地の良い家だったが、人殺しをしたことのある兇徒の妾が住んでいた家とわかって、お銀が嫌がり、すぐ引っ越すことになった。
終生の家にたどり着く
前にいた家の近所に、お銀がふとその家を見つけて来て、そこへ多勢の手を仮りて荷物を運び込んで行ったのは、風や埃の立つ花時から、初夏の落着きのよい時候に移るころであった。(六十六)
年譜によると、1906年5月、秋聲たちは本郷森川町1番地に転居した。そして、結果的に秋聲終生の家となった。「前にいた家」と言うのも本郷森川町1番地だったが、清水橋近くの、崖の中腹のようなところだったが、今度は台地の上であり、東京大学はすぐそこだった。
竹のまだ青々した建仁寺垣の結い繞らされた庭の隅には、松や杜松に交って、斑入りの八重の椿が落ちていて、山土のような地面に蒼苔が生えていた。木口のよい建物も、小体に落着きよく造られてあった。笹村は栂のつるつるした縁の板敷きへ出て、心持ちよさそうに庭を眺めなどしていた。(六十六)
書斎と勝手が近いのが笹村には気がかりなようだったが、全般的にかなり気に入ったようだ。これが秋聲の思いであったら、終生の家になったのもうなずける。『黴』には、ここへ来て、お銀も急に蘇ったようになったと書かれている。とにかくこのくらいの家に住むことができるようになったのだから、作家として成功したと言えるだろう。秋聲は翌1907年6月、西園寺公望首相の文士招待会に招かれるまでになっていた。
子供の病気
笹村はお銀との間に子どもができたとわかって動揺した。生まれてきても、早く誰かに引き取ってもらおうと考えていた。結婚も、家庭をもつことも現実のこととして考えていなかった笹村は、同棲、子どもの誕生と、現実だけが容赦なく進行していく中でうろたえているようだった。秋聲自身も同様だったのだろうか。けれども、秋聲は『黴』の中で、文章は短くても、生まれた子どもを観察し、活き活きと描き出し、子煩悩ぶりを発揮している。『黴』には最終盤へ来て、息子正一が病気になり、入院した話しが、連載の六十六から七十三回まで綴られている。
ある日、正一は熱が42度まで上がり、一日昏睡状態に陥り、絶え間なく黒い青い便が出た。高橋という医者に診てもらうと、入院させた方が良いということで、病院へ手続きを取り、その晩9時くらいに担ぎ込んだ。どこの病院か書いてないが、院長が千葉の分院へ行っているなどの記述があるので、おそらく神田駿河台の瀬川小児科(現、瀬川小児神経学クリニック)であろう。聖橋と御茶ノ水橋との間で、目の前が御茶ノ水駅という、瀬川ビルディング内にある。
瀬川小児科設立者の瀬川昌耆は帝国大学卒業後、ドイツへ留学。帰国後、千葉にある第一高等中学校医学部内科・小児科教授になり、1898年に江東医院(本所区亀沢町)を開業、1902年、現在地に瀬川小児科を開業した。当時の住所は神田駿河台西紅梅町。
神田駿河台には当時から有名な病院がいくつかある。ニコライ堂(1892年完成)のむかいに漱石も通院した井上病院(眼科、1881年創設)、漱石が「変物」と評した佐々木東洋が1882年に創設した杏雲堂医院(現、杏雲堂病院)、犀星の長女朝子が生まれ、関東大震災に遭遇した産婦人科の浜田病院。――産後、体調の優れないお銀は、《
「浜田さんか橋爪さんかに、私一度見てもらいたい
》(五十四)と話している。そして瀬川小児科。
『黴』に登場する正一の入院先が瀬川小児科を念頭に書かれていることは、つぎの一文がよく示している。
看護疲れのしたお銀の乳が細ってからは、その不足を牛乳で補って来たが、それでも子供はかなり肥っていた。女中はそれを負って、廊下をぶらぶらしたり、院長の住居の方の庭へ出て遊んだりした。院長の夫人からは、時々菓子を貰って来たりした。つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこを見に行った。「何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。」「僕も子供の時分は寺が厭だった。」(七十一)
私もニコライ堂へ入って、お銀と同様の思いをもった。瀬川小児科とニコライ堂は、目と鼻の先。本堂まででも100メートル程の距離である。
『黴』にはこのような記述もある。
「ちっと二階へでもあがって見ましょうね。そうしたら少しは気がせいせいしていいかも知れない。二階からは坊やの大好きな電車が見えてよ。」お銀はそう言って、正一を負い出した。そして次の女の子を負っている女中と一緒に、二階の廊下へ出て窓から外を眺めさせた。子供は少し見ていると、もうじきに飽いて来た。(七十)
今も電車の好きな子どもは多いが、当時「電車が大好き」とは、正一はさすがに東京人間である。京都に住んでいる人は別として、電車を知っている、まして見たことがある子どもなど、きわめて少なかったであろう。
『黴』を現実と重ね合わせると、正一(一穂)入院は1906年夏である。その年の5月。一家は本郷森川町1番地に転居しており、それより二年前の1904年1月15日に須田町から本郷三丁目まで路面電車が開通し、11月8日には切通坂を通って上野広小路まで伸びている。本郷へ移り住んだ正一(一穂)は本郷三丁目で曲がっていく電車を見たことだろう。
東京市街地に初めて路面電車が走ったのは1903年8月。以来、急速に路線を拡張していく。本郷や神田駿河台一帯でも電車の開通が相次いだ。1904年には、新常盤橋から御茶ノ水までと、土橋から御茶ノ水までが12月8日に開通した。(路面電車ではないが、12月31日には甲武鉄道が御茶ノ水まで開通し、電車が走るようになった)。1905年には御茶ノ水から神楽坂下、四谷見附へと電車(外濠線)が伸びて行った。1906年夏。瀬川小児科の二階からは、堀割を通る甲武鉄道の電車、その向こう本郷台に沿って走る外濠線の電車、御茶ノ水橋を渡る電車が望まれたであろう。鉄道ファンにはたまらないスポットである。
ここまで来て、「電車」をキーワードに改めて『黴』を読み返してみると、いくつも出てきている。
「いいえ、そんなことはないでしょう。随分元気がいいんですよ。お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ。」(四十九)
縁側を電車を引っ張って歩いていた正一も(五十三)
そこを出てから、二人はぶらぶら須田町あたりまで歩いた。産後から体が真実でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈がした。(六十一)
その時午前に連れられて行った正一も一緒に帰って来たが、いつにない電車に疲れて、伯父に抱かれて眠っていた。(六十七)
子供が電車通りで逢ったという男のことを、笹村はちょいと考えがつかなかった。(七十五)
「電車ちんちん餡パン買いに行った」。笹村は本郷三丁目から電車に乗って銀座まで行ったついでに、木村屋の餡パンでも買って来たことがあるのだろうか。この頃には餡パンも普及し、本郷の電車通りにも餡パンを売る店があっただろうから、この辺りがつながったことも考えられる。
正一はおもちゃの電車を引っ張っている。ブリキのおもちゃは少し後に普及してくるので、木製だったのか。それとも何かを電車に見立てていたのだろうか。
須田町から本郷三丁目は電車で一本だが、麻布からは距離もあり、場合によっては乗換えをしたかもしれない。「電車通り」とは、本郷三丁目交差点一帯、現在で言うと、本郷通りを湯島にむかう道路、春日通りを切通坂にむかう道路を示していると思われる。
お銀の東京
現実に即して言えば、お銀の故郷は長野県上伊那郡である。『黴』の中では「田舎」と表現されている。
お銀の父親、小沢孝三郎は当時55、6歳。彼は本家がしっかりしているという安心から、東京でいろいろなことをやって味噌をつけ、田舎へ帰って製糸事業に手を出し(三十五)、それにも失敗し、株で挽回しようとして、また手痛くやられている。お銀の母親は結婚後もあまり田舎を出ることもなかったのだろう。「あまり東京慣れ」していないと表現されている(十一)。おそらく、夫の事業が立ち行かなくなって、東京へ出て来て、住み込みで女中(漱石は「下女」という言葉を使っている)をやっていたのだろう。
父親の弟が跡を継いだ本家であるが、お銀からすれば叔父にあたるこの人も、東京へ出て来て、一時期とても順調で羽振りも良かったが、結局事業に失敗し、本家の財産を処分しなければならなくなっている。ただ、幸いなことに、叔母(作品中、「婆さん」)の教育が良かったのか、欽一、欽也など息子三人、すべて医者になっている。叔母たちは下谷に住んでいる。欽一は作品の設定時期頃、つまり日露戦争頃、その弟と前後して軍医として戦地へ渡っており、《
お銀は下谷から借りて来た欽一の兵児帯なども取り揃えた
》(四十六)。
お銀は子どもの頃、すでに東京へ出て来ていたようで、本郷三丁目交差点の南東方向にある金助町に住んでいた。それはつぎの一文でわかる。《
「それでも学校へは行ったろう。」
》とたずねる笹村にお銀は、《
「え、それは少しは行ったんです。湯島学校へ……。お弁当を振り振り、私あの辺を歩いてましたわ、先生の言うことなんかちっとも聞きゃしなかった私……。」
》。笹村はお銀が字を書くのを見たことがなかった。笹村は「僕が教えてやろう」と言っている(四十二)。
湯島学校は1870年、本妙寺境内に設立された学校を起源に、1873年、湯島新花町101番地に開校した。霊雲寺境内に隣接し、現在湯島第二郵便局がある辺り。お銀が当時住んでいた金助町は隣町にあたるので、湯島学校の通学区域になる。湯島天神の花街もこの辺りである。現在の湯島小学校は少し北の99番地の方に建てられている(現住所:湯島2丁目28-14)。
金助町は、《
名代の塩煎餅ですよ。金助町にいる時分、私よくこれを買いに行ったものなんです。
》(四十四)、《
お銀は芝の方に家を持っているその友達を訪ねて、そんな話をしはじめた。商売人あがりのその友達は、お銀がもと金助町にいたころ、親しく近所交際をしたことのある女であったが
》(五十八)というように登場している。「その友達」とは須田の細君である。須田の細君とお銀は《
二人は日比谷公園などを、ぶらぶら歩いて、それからお銀の家の方へやって来た
》(五十八)。
お銀は金助町に父親たちと住んでいたのか、叔父たちと住んでいたのかわからないが、叔父さんがよく学校へ行かさなかったものだとか、従兄にあたる欽也を「兄さん、兄さん」と慕い、欽也もお銀を可愛く思っているところから、叔父一家と暮らしていたのではないだろうか。その後、どのような経緯をたどったかわからないが、叔母たちは下谷に住むようになっている。
お銀の方も金助町だけでなく築地にも住んでいたことが、つぎの一文でわかる。いつの時期かはっきりしない。崖の中腹のようなところにある家に引っ越して、《
お銀の頭脳には、かつて住んでいた築地や金助町の家のような格子戸造りのこざっぱりした住家が、始終描かれていた
》(四十三)、《
笹村は、ある日劇場の人込みのなかで、卒倒したお銀の哀れな姿を思い出さずにはいられなかった。夫婦はその日、新橋まで人を見送った。そして帰りに橋袂で、お銀の好きな天麩羅を食べた。(略)二人は腹ごなしに銀座通りを、ぶらぶら歩いた。「私こんなところを歩くのは何年ぶりだか、築地にいたころは毎晩のように来たこともありますがね。」(略)「歌舞伎を一幕のぞいて見ようか。」笹村は尾張町の角まで来たとき、ふと言い出した
》(七十八)。この後、お銀は歌舞伎座の中で目がくらんで倒れてしまう。
話はそれるが、どうもお銀は、天麩羅が好きなようである。「今日はどこかへ行こうかな。」と言う笹村にたいして、お銀は本にぱたぱたとハタキをかけながら「行ってらっしゃいよ。」と答える。お銀は私も行きたい、何かおいしいものを食べたい、天麩羅か何か。坊だけつれて行きましょうかと言って、「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね」と現実的なことを言い出す。これに対して笹村は「何なら出てもいい。」と返す。《
「中清で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した
》(六十一)。
中清は1870年、浅草公会堂前に店を出した、江戸前天麩羅の老舗。永井荷風や久保田万太郎もひいきにしていた。雷神揚げが有名。気軽に食べることができる価格ではないが、この作品の当時も「お値段の高い店」だったのだろう。
『黴』という作品には、秋聲の作品には、さりげなく庶民感覚がのぞく。
お銀がなぜ磯山と結婚することになったのかよくわからない。おそらく同郷で、父親あたりが決めて来たのかもしれない。お銀18歳、磯山は24歳だったが、まだ学生の身だった。笹村はお銀のお腹の子がほんとうは磯谷の子ではないかと疑っている。それを否定するお銀の言葉が、作品の前中後それぞれの箇所に登場する。磯谷は今で言う「DV(ドメスティックバイオレンス)男」で、お銀は好きになるどころか、怖い思いをいっぱいしたのだろう。
「それから何年になる。」「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」(十)
「三度目だって、可愛そうに……片づいていたのは真の四カ月ばかりで、それも厭で逃げたくらいなんだし、磯谷とは三年越しの関係ですけど、先は学生だし、私は叔父の側にいるしするもんだから、養子になるという約束ばかりで、そうたびたび逢ってやしませんわ。」(四十四)
その男が磯谷であったことが、じきお銀の話で知れた。「まるで本郷座のようでしたよ。私ほんとうに悪かった。これからは妹と思って何かのおりには力になるからなんて、そう言って……。」と、お銀はその時の様子を笑いながら話した。(七十五)
本郷座は金助町の隣り町、本郷春木町にあり、1873年に開設された奥田座、1876年から春木座を経て、1902年から本郷座になった。東京市内でも大きな劇場のひとつで、当時は新派の上演拠点になっていた。じつは、本郷座ではちょうどこの頃の1905年9月、秋聲の『少華族』(1904年12月、「万朝報」に連載)が新派によって上演されていた。
『黴』を読んでいて、お銀は東京生まれではないかと思うくらい親類が多い。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張もあるんですがね。」(六)
笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。(十)
四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車に積んで持ち込んで来たのは、もう袷に羽織を着るころであった、(十四)
正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室で針を持っていた。(十八)
など、四ツ谷に親類のあることがわかる。磯谷の許を逃げ出したお銀は、この四ツ谷の親戚に身を寄せたのだろう。お銀には湯島にも下谷にも親類がある。
お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。(五)
お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更かしをすることがあった。(六)
気がくさくさしてくると、お銀は下谷の親類の家へ遊びに行った。(十七)
この他、山内という《
お銀の遠縁にあたるという若い画家が一人神田の方にいた
》(四十六)。また、知人もかなりいたようで、《
お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした
》(十四)という記述もある。
お銀は東京暮らしが長いこともあって、田舎で暮らすことを嫌っている。十では《
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分ひとりくらい何をしたって食べて行きますわ。
》というお銀の言葉がそれを示している。
東京へ嫁いだ私の姉の家も、地方から出て行く私たちの「東京のベースキャンプ」のようになっていた。場合によっては一週間、二週間と泊まっていくし、ちょっと顔をみせれば、メシのひとつも出さなければならない。さぞかしたいへんだっただろうと思う。とにかく、ひとり東京へ出てくれれば、上京と言うハードルはグンと低くなる。お銀の父親や叔父も、田舎から東京へ出て来た。先に東京へ出た親類を頼ったかもしれないし、続く人たちに頼られたかもしれない。こうして、つぎつぎ親類が東京に集まったのだろう。『黴』を読むと、笹村の甥も故郷から出て来て、同居していることがわかる。鏡花も祖母・弟が上京しており、犀星も小畠家の人びとが上京すると逗留している。
お銀が笹村と所帯をもち、お銀の父親にとって、東京と言うハードルは再び低くなったのだろう。《
お銀の背後には、多少の金を懐にして田舎から出て来て、東京でまた妻子を一つに集めて暮らそうとしている父親や弟がいた。
》(五十二)。こうして父親たちは東京に出てくる。六十七には、
昨夜麻布の方に、近ごろ母子三人で家を持っている父親が、田舎から出て来たお銀の従兄と連れ立ってやって来た。その時午前に連れられて行った正一も一緒に帰って来たが、いつにない電車に疲れて、伯父に抱かれて眠っていた。
後のことになるが、はまの父孝三郎は1922年8月23日、73歳で亡くなった。それから二年後の1924年。秋聲とはま夫婦と同居するようになっていた母さちが、9月21日、72歳で亡くなった。それで終わらず、さらに二年後の1926年。1月2日、はまが46歳で急逝してしまう。三年数ヶ月で三人の肉親が逝ったことになる。
深山と歩く
はまを巡って関係の悪化した霜川と、秋聲は1905年に復交する。『黴』では笹村と深山として登場する二人は、並んで町をぶらついている。
「どこへ行こうかな」「三崎町へ行って一幕見でもしようか。」二人はそんなことを呟きながら、富坂の傍らにある原ッぱのなかへ出て来た。空には蜻蛉などが飛んで、足下の叢に虫の声が聞こえた。二人は小高い丘のうえに上って、静かな空へ拡がって行く砲兵工廠の煙突の煙などをしばらく眺めていた。(五十八)
三崎町というのは神田三崎町で、三崎座(1891年開設)・川上座(1896年開設)・東京座(1897年開設)の三つの劇場があり、「三崎三座」と呼ばれた。川上座は1903年に焼失したので、1905年が設定時期のこの場面では、すでに存在しない。東京座は歌舞伎をやっている。後に笹村とお銀が歌舞伎座へ行った話も出てくるので、東京座を念頭に置いていた可能性が高い。
富坂辺りの光景は漱石も『こころ』で描いている。
電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向の崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃は又ずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私は不図ここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。それで直ぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。
小石川台へ上る富坂が勾配のゆるやかな道路につくりかえられ、電車が通るようになったのは1910年である。『黴』のこの辺りの描写は1905年が設定時期であり、電車の通る前のこの地域の描写は、『こころ』『黴』共通している。
【参考文献】
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
野田宇太郎:作家と作品徳田秋声
(掲載『日本文学全集8徳田秋声集』、集英社、1967年)
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