『抒情小曲集』と『愛の詩集』に収められた詩を、「東京」をキーワードにみていこう。
『抒情小曲集』一部には、「小景異情」その一からその六までを各1編として、32編の詩が掲載されている。この中で、東京に関する詩は、「小景異情その二」「みやこへ」「かもめ」の3編である。
「小景異情その二」は有名な、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
この詩は一節一節とてもわかりやすいが、全体としてみた時、さまざまな解釈がおこなわれている。詩をつくったのは、東京なのか金沢なのか。朔太郎などは東京でつくったもので、「みやこ」とは金沢であると解釈している。
「ふるさとは」から「ふるさとおもひ涙ぐむ」までは、「望郷の念」がにじみでている。犀星が東京でふるさと金沢を思い出して詩作している様子が目に浮かぶ。ところが、「遠きみやこにかへらばや」で、完全にひっくり返されて、「あれっ!この詩は金沢でつくったのかな?」。その逆転の間に入っている一節が「そのこころもて」である。「その」とはいったい何を指すのか。
ただ、一貫しているのは、「ふるさと」はあくまで金沢で、「都」は東京であろう。とはいうものの、気になることがある。「都」が逆転後、「みやこ」になっていることである。漢字をひらかなに直したのは、「都」と「みやこ」の意味するところが違うことを暗示しているかもしれない。すると、「都」は東京でも、「みやこ」は金沢かもしれない。そうなれば、朔太郎の解釈は正しいと言える。
ところが、である。この詩は1913年、「朱欒」の5月号(終刊号)で『小景異情』その六として発表され、1916年に「感情」に『小景異情』その五として、まったく同じ詩が掲載されているが、逆転後も「都」は「都」と表記され、「みやこ」とは書かれていない。つまり当初、「都」と「みやこ」の使い分けはされていなかったのである。したがって、「都」も「みやこ」も東京を指していると考えて良いだろう。そして、初出の1913年、犀星は金沢に戻っており、この詩は金沢でつくられたとみるのが妥当である。
このように順を追って考えながら、私の頭の中も少しずつまとまってきたが、じつは私自身もその解釈が変化してきた。始めは「望郷の念」として捉えていた。私自身、故郷金沢へ帰りたい気持ちがひじょうに強かったからである。続いて、東京に住む見込みがなくなった私は、心の中だけは東京志向がひじょうに強くなり、東京と反対方向の故郷へ帰ることは、ふりだしへ戻ることのようで、絶対にしたくないと思うようになった。「断郷の念」と言ってよいのだろうか。すると、この詩に対する私の解釈がまったく違ってきた。
この詩は、故郷を捨てた悲しさから生まれたものではない。この詩は東京にいる犀星がつくったものではなく、金沢にいる犀星がつくったものなのだ。私はそう思うようになった。いったん決意して上京したにもかかわらず帰郷してしまった犀星。そんなことをしていて良いのか。何かあればすぐ故郷に逃げ帰ってしまう。おまえはいったい何のために東京へ出て行ったのだ。犀星よ!「異土の乞食となっても絶対に故郷に帰らない」、そんな決意をもって、もう一度「遠き都、東京に出て行こう」ではないか。犀星は自分自身の決意を、自分自身に対する励ましをこの詩に込めたのではないだろうか。
「みやこへ」は、「こひしや東京浅草夜のあかり」で始まる。「けふは浜べもうすぐもりぴよろかもめの啼きいづる」という終りの一節から、金石の浜から東京を想う設定である。犀星が初めて上京し、新橋駅に到着した日の夜、東京美術学校に学んでいる幼馴染の田辺幸次(1890~1945)らに連れられて浅草公園六区の映画館街へ行った。犀星は十二階(凌雲閣)を見た。そして永い間うごかずに感動していた。『洋灯はくらいか明るいか』で犀星はつぎのように記している。
田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。
(中略)
今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。
注:混鬧(こんどう)
この文は最初の上京から30年を経て書かれたものであるから、後の分析が入り込んでいるかもしれないが、大都会東京の姿をみごとに表現しているように思われる。そして、この雰囲気に好感をもったからこそ、犀星は振り子のように東京と金沢を行ったり来たりしながらも、最終的に東京を暮らしの場と定めることができたのだろう。東京最初の夜の興奮が、浅草の夜が、犀星を虜にして放さない。犀星は永井荷風と違って、どっぷり浅草に浸かったわけではない。庭いじりも好きであった。にもかかわらず、猥雑で、清濁併せ呑むような浅草は、犀星の性に合っていたのではないだろうか。故郷へ帰って来れば、やはり「こひしや東京浅草夜のあかり」なのだ。
「かもめ」は当初「都より帰りて」という題で、一部を削除したうえ、改題されて『抒情小曲集』に収められた。これも金石の浜であるが、「あはれみやこをのがれきて」と、東京生活に挫折して故郷へ逃げ帰った作者犀星の思いが込められている。
『抒情小曲集』二部には、29編の詩が掲載されているが、東京に関する詩はまったくない。三部では、「合掌」その一からその六をそれぞれ数えると30編の詩がある。主として東京において作られたというだけあって、やはり東京に関する詩が多い。「都に帰り来て」「はつなつ」「蝉頃」「並木町」「郊外にて」「室生犀星氏」「街にて」「合掌その五」では、「都」「みやこ」「街」などの言葉が目立つ。このうち、「郊外にて」「室生犀星氏」「合掌その五」は街の雑踏というより、東京郊外に身を置いて都会を眺めている感じであり、田端に住む犀星を連想させる。また、「夏の国」は東京にいる犀星が故郷金沢を恋しく歌った詩である。「銀製の乞食」では、カステイラ・ワッフル、「ある日」はコオヒイなど、洒落た言葉から、「道」は電車・自動車から、東京を感じさせる詩もある。「植物園にて」は特定すべき表現はみられないが、小石川植物園を念頭に置いたものであろう。
犀星は『抒情小曲集』覚書に暗黒時代という一節で、
小曲集第三部は主として東京に於て作らる。本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠にて「蝉頃」の啼く蝉のしいいといへるを聞きて、いくそたび蹉跌と悪酒と放蕩との夏を迎えしことぞ。銀製の乞食、坂、それらは皆予の前面を圧する暗黒時代に作なり。幾月も昼間外出せずして終夜なる巷にゆき、悪酒にひたりぬ。その悔新しくてなほ深くふけりてゆきぬ。今も尚思ひ見て予の額を汗するものはこれなり。或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき、上野の夜明けの鐘をききては帰りぬ。合掌のあとさきはじつに病気ともたたかひし時代なりしなり。
と、記している。「或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき」というのは、1914年7月、小石川白山前町の妙清寺の土蔵の一室に住んでいたことを指していると思われる。
先に述べたように、犀星は初めて上京した時、錦風の家にしばらく滞在した後、根津片町、谷中三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、同じように文学を志す若者たちや画学生と知り合い、安酒を飲み、昼夜逆転のような生活も送っている。1913年上京した犀星が、どこに住んだかについて、『評伝』(p133)では、「詩歌」12月号の消息欄に「本郷弥生町1、六条方」に下宿したとの記述があることを指摘している。また、小田切は1913年2月、3度目の上京をしたとしており、その際、根津権現裏の紅梅館に下宿したとしている。
いずれにしても、田端に住む以前に犀星が暮らしたのは、谷中・根津・千駄木、今日「谷根千」と呼ばれる、山の手にありながら東京下町の風情が残る地域で、ゆかりの文化人も多い。三部の詩は再び東京にやって来てから作ったものが多いと思われるが、この頃、犀星が東京で過ごした夏は、1910年と11年で、「蝉頃」は11年夏の作品ではないだろうか。「本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠」というのが紅梅館かもしれない(当時は、専門の下宿屋には、「本郷館」「蓋平館」など「館」の名がつけられていた)。
『愛の詩集』は四つの章で構成されているが、この中で、東京に関する詩はつぎの通りである。1913~14年に作られたという「故郷にて作れる詩」(15編)に、東京に関する詩はまったくなく、1914~15年に作られた「愛あるところに」(8編)は「大学通り」1編。1915年の「我永く都会にあらん」(9編)は、「よく見るゆめ」「自分の室」「我永く都会に住まん」「ある街裏にて」「この道をも私は通る」の5編。このうち「自分の室」に関して、私にはどうしても田端を描いたとしか考えられない詩である。
その後に作られた「幸福を求めて」(19編)では「街と家家との遠方」「郊外」「門」の3編すべてが田端を描いたと思われる。
「よく見るゆめ」は電車、馬車、街といった言葉に東京が感じられる。上京した犀星は、肩書もカネもなく、まさに裸で歩いているような状態で、おどおどしていたのだろうけれど、「裸で歩いてやれ」と開き直ってみると、ふしぎに人人は咎めず、安心したような目つきで握手さえ求めてくる者もあるというのだ。東京で生きようとする犀星が表現されている。
「我永く都会に住まん」では、都という言葉が1回出てくる。「この都に永くしづかに/おのおののみちをすすまう」。この「おのおのの道」とは、朔太郎・暮鳥・犀星三人の各々の道である。『我が愛する詩人の傳記』(p153)で犀星は、朔太郎も自分も暮鳥を好ましく思っていなかったが、朔太郎がこんなことを言ったと記している。
とにかく山村と結局われわれは一緒になることになろう、違うところは違ってもぶらぶらしているのは、われわれ三人ということになる、
こうして三人は1914年、人魚詩社を立ち上げ、詩誌「卓上噴水」を発行、犀星が金沢へ戻ったことで拠点も移ったが、1915年10月に犀星が上京し、感情詩社を立ち上げ、1916年6月、詩誌「感情」を創刊している。三人でやれば、自分も詩人として何とか東京でやっていけるのではないか。これから末永くこの東京で暮らしていこう。そんな思いが伝わってくる。
「ある街裏にて」は、題名に街、詩の中に「都市」という言葉が一回出てくるだけである。けれどもこの詩は、犀星が生きる東京そのものを、ありったけの凄さで描き、犀星の心情を表現したものである。おそらく「よく見るゆめ」同様、最初の上京時の体験も織り交ぜられているであろう。犀星は、「人間の心を温かにするものは無く/又不幸な魂を救ふべきことも為されてゐない/みんなはありのままに/ありのままなのら犬のやうに生きてゆく」と詩を締めくくっている。それは極貧の中でも東京で生きてゆく犀星の決意と捉えることができるのではないか。そして犀星は、朔太郎や暮鳥と共通の基盤である聖書に救いを求め、詩に温もりを求めたのではないか。極貧であればあるほど、犀星の詩は温かくなっていった、私にはそのように思われる。
「この道をも私は通る」も、「恐ろしい都会の大街道」という以外、都会、東京を表す言葉はない。けれども、「ある街裏にて」同様に凄まじい詩である。あきらかにこれは娼婦を描いた詩である。犀星はこの詩で娼婦を性欲のはけ口ではなく、ひとりの人間として捉えている。それは生きるために代作も引き受け、身も心もボロボロになりながら、部屋にこもって詩作にふける犀星そのものであり、娼婦と同じ道を犀星もまた通っているのである。そう思うと、犀星は毒々しい娼婦もまたいとおしく、優しく接吻してやりたくなるのだ。
一方、田端を描いたと思われる詩はどうだろうか。犀星は1916年7月、田端163の農家、沢田家の下宿に転居している。『泥雀の歌』(『評伝』p171)で犀星はつぎのように記している。
今の動坂から一二町ほど藍染川をのぼつたところに、百姓家のはなれがあつた。そこは、百姓家でありながら庭の植込みのあひだに四畳半二間つづきのはなれをそれぞれ建てて、本家の二階も貸してゐる大きな古い下宿屋であったが、たいてい宿泊人は美術学生が多かつた。私の部屋は六畳で小さい玄関がつき、庭には柿の木と白い芙蓉の一株があつた。食事がついてひと月九円、
「街と家家との遠方」は題に「街」とついているが、街の描写はまったくなく、農村風景である。これは田端であり、小川というのはおそらく谷田川(藍染川)であろう。
「郊外」も大根畑や百姓と挨拶を交わす姿が描写されている。これも田端であろう。犀星は幸せを感じているようにもみえる。けれどもこれは地方の田舎ではなく、あくまでも東京の郊外であり、すぐそばに大都会東京がある。行こうと思えばすぐ行くことができる距離である。木立や林を透かして、「かろがろとはしる山の手の電車」が望まれるのである。犀星が初めて上京する前年の1909年、日本鉄道は国有化され、上野・田端・池袋・新宿・品川・烏森(現、新橋)の間に山手線として電車が走り始めた。当時、山手線は環状ではなく、C字運転されていた。大都会東京の象徴のようになっていく山手線電車を「かろがろとはしる」と表現しているところに、東京に対して浮き立つような気持ちをもち続けている犀星を見ることができる。
「門」も「雨は毎日ふつてゐた/この都会の郊外といはず/巷といはず/じめじめと永い間」養父が亡くなり、一方で婚儀がまとまった1917年秋の犀星が表現されているのであろう。この情景も田端の沢田家の描写と思われるが、その後、庭づくりに傾倒していく犀星が予感される。
これらはいずれも田端に引っ越してから作られたと思われるが、1915年に作られたという「自分の室」も、「僕は畑をふんで街へ出る/畑をふんで自分の室へかへる」「半日も街へ出てゐると/堪らなく自分の室が恋しく/すぐに帰へりたくなる」というように、どうみても田端としか思えない。
犀星は大都会東京にどっぷり浸かっている人間ではない。かと言って、故郷金沢に浸かっている人物でもない。東京と故郷を行ったり来たりするのである。そして、東京にあっても、喧騒の都心と、農村風景が残る郊外とを、行ったり来たりするのである。それが犀星の個性であり、「自分の室」はそのような犀星を表現している。犀星はこの往復によって、「畑は毎日どんどん肥える」と言い切っている。1916年から住むようになった田端も、その後住むようになった馬込も、東京郊外で、1932年に東京市に合併するまで北豊島郡・荏原郡に属していた。
庭づくりもできる東京郊外は、犀星にとってちょうど良い生活と創作の場であった。そして、少しゆとりのできた犀星にとって、東京と金沢の間に位置する軽井沢が第三の故郷になっていったのも、自然の流れと言えるだろう。
このような中で、明確に東京の地名が出てくるのは、『抒情小曲集』では、91編のうち「上野ステエション」「坂」「坂」の3編で、『愛の詩集』では、51編のうち「大学通り」1編だけである。