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6.詩に描かれた東京
室生犀星の文学的創作は俳句から始まって、詩そして小説へと移っていった。鏡花や秋聲は小説家になることを目指して上京したが、犀星は詩人になることを目指して上京したと言って良いだろう。雑誌に自らの詩を発表してきた犀星は、1918年1月、初めての詩集『愛の詩集』、9月に続く詩集として『抒情小曲集』を、いずれも自費出版した。しかし、この年、浅川とみ子と結婚した犀星は、詩では食べていけないと、翌年から小説家の道を歩み始める。もちろん、詩作をやめたわけではなく、詩集も出版しているが、小説が圧倒していく。
『抒情小曲集』の時代
犀星の最初の詩集は『愛の詩集』であるが、そこに至るまでの詩を集めたのが『抒情小曲集』である。それまでに雑誌に発表した詩、小さい紙片や破れた原稿紙に書かれた詩、およそ200編の中から選び取った詩が掲載された。したがって、犀星が『抒情小曲集』覚書で記しているように、詩が作られた時期も20歳頃から24歳くらいまで、もっとも早いものは犀星が金沢区裁判所金石出張所に転勤し、金沢の外港金石(宮腰)に住んでいた頃に作られたものである。また題材となった場所も金沢、東京が多いものの、福井・京都・前橋なども登場する。犀星は詩集を編集するにあたって、季節が多少前後するものの、概ね年譜に沿うようにし、「小景異情」が最も古く、「合掌」が最も新しく、第三部は主に東京で作ったと記している。とにかくここに収められた詩は、犀星が金沢と東京、「ふるさと」と「みやこ」を行ったり来たりする、住処の定まらない時期に作られた詩である。
1910年5月、犀星は初めて上京した。まもなく大逆事件へと発展するできごとが起こり、8月には日韓併合、東京大水害、漱石は修善寺で危篤に陥った(修善寺の大患)。大逆事件は年が明けて幸徳秋水らの処刑へと進行した。しかし犀星はそんなこととは関わりないかのように、首都東京で生きることに悪戦苦闘しながら、詩人として世に出ようともがいていた。上京した犀星は、田辺の下宿に一泊した後、根岸の赤倉錦風を訪ねた。錦風は犀星が裁判所に給仕として勤めた当初の上司で、俳句の手ほどきをしてくれた人物で、乞われて金沢出身の河井虎太郎が社長を務める凸版印刷に転じていた。錦風は上京してきた犀星を自宅に置き、東京地方裁判所の筆耕のアルバイトを紹介した。
しばらくして錦風の家を出た犀星は、根津片町、谷中三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、安酒を飲み、同じように文学を志す若者たちや画学生と知り合い、一方、北原白秋や児玉花外などを訪ね、好感をもって迎えられたという。
根津片町は弥生坂で本郷台を下り、小川を越え、藍染川までの間で、現在の根津2丁目。団子坂を下り、藍染川を越えたところが谷中三崎町で、上りになって、寺院の多い一帯が谷中である。駒込千駄木林町は団子坂を上った右側一帯に広がる地区である。谷中・根津・千駄木、今日「谷根千」と呼ばれる、山の手にありながら東京下町の風情が残る地域で、ゆかりの文化人も多い。
その犀星が、いつ金沢へ戻り、いつまた上京して来たかは、『抒情小曲集』の詩を鑑賞するうえで、少なくとも私は知っておきたいことなのだが、困ったことに二つの説がある。
小田切進は『日本文学全集33、室生犀星集』の年表で、初めて上京した翌年の1911年7月、窮乏と酷暑に耐えかね、東京の生活を打ちきって帰郷し、10月に再上京。ところが翌1912年7月に再び帰郷。1913年になって2月に三度目の上京をしたものの、1914年8月に帰郷。1915年5月に四度目の上京と言った具合である。とにかく毎年、東京と金沢を行ったり来たりしており、とくに夏になると帰郷する傾向がある。金沢の夏がけっして涼しいわけではないが、東京にくらべ過ごしやすかったのであろう。犀星は暑さに弱かったのかもしれないが、まさに避暑であり、その後、犀星が夏になると軽井沢へ行くようになったのも、自然の流れのように思われる。
これに対し、船登芳雄は『評伝室生犀星』(以下『評伝』、p119)で、
小説「ある少女の死まで」において、「明治四十四年十月三日、私は第一回の都落ちをした」とあることから、その日帰省したかのごとく伝えられてきたが、その裏付けは得られていない。フィクションであろう。(略)「国にかへつてから間もなく一年になります」と北原白秋宛書簡(大2・5・2)にあるように、明治四十五年初夏が第一回の敗残の帰郷であることは間違いない。
と記している。つまり、白秋宛に手紙が書かれた1913年5月2日から1年前の12年初夏(5月あるいは6月頃か)に初めて帰郷したというのである。小田切も7月に帰郷したと書いており、この点はほぼ一致している。船登はこれを第一回の帰郷としているが、この間に犀星が第一回の帰郷をし、再上京していた可能性を否定する根拠にはなっていない。また、船登は明治44年10月3日の都落ちはフィクションとしているが、小田切は7月帰郷、10月再上京との考えを示しており、10月帰郷とは述べていない。『或る少女の死まで』を現実のこととは捉えていないのである。
1912年初夏、犀星が帰郷したことは間違いないだろうが、それが第一回なのか二回目なのか、私には判断がつきかねる。ただ、両者に味方するわけではないが、私はつぎのように考える。犀星は金沢へ帰ると、1年くらいは滞在している。ところが小田切が書くところの第一回帰郷の滞在期間は3ヵ月ほどである。この1911年、妹きんが実家の村田家に復縁し、12月には兄真道が結婚している。所詮、東京へ行っても食っていけないのであるから、兄の結婚まで金沢に留まっても良さそうである。けれども犀星は兄の結婚式には出席していない。小田切が言う帰郷があったとしても、それは徴兵検査のための一時帰郷だったのではないだろうか。私は犀星の徴兵検査に関する記録を入手することができないので、あくまでも推論である。当時、どの時点で徴兵検査の通知が送られたかわからないが、犀星が戸籍上満二十歳になるのは1909年8月であり、通知は翌年、ちょうど犀星が上京した後に室生家に送られたのではないだろうか。その年の夏には東京大水害などで交通通信は混乱をきたしており、金沢から連絡も取れず、取れても帰郷が困難で、結局翌1911年夏、徴兵検査を受けるために一時帰郷した可能性があるのではないか。そうなれば、小田切が書くような、窮乏と酷暑に耐えかね、東京の生活を打ちきった帰郷ではなかった。徴兵検査で犀星は、わざと眼鏡をかけたと言われているが、当時は即入営になる甲種合格は少なかったようで、犀星も兵役に就くことはなかった。
1912年初夏、金沢へ帰った犀星は、7月30日に天皇崩御、明治から大正への改元を金沢で迎えた。小田切によると、犀星は1913年になって2月に上京、根津の紅梅館に下宿し、4月に萩原朔太郎から手紙をもらったと記している。けれども船登は、帰郷した犀星が故郷でしだいに鋭気を取り戻し、一足早く帰郷していた尾山篤二郎とも親交をもちながら詩作に励み、地元金沢の「北国新聞」や中央誌「スバル」などにも詩を発表し、翌13年、「朱欒」(ザムボア)5月号に掲載した『小景異情』詩編に感動した朔太郎が熱烈な手紙を寄せたと記している。そして、犀星が上京するのは11月。私は『抒情小曲集』一部・二部に収められた詩の多くが金沢で作られたことなども併せて、小田切の説では金沢にいた期間が短すぎ、船登の説が自然の流れのように思われる。
犀星の上京は篤二郎の影響が大きいようだ。1913年8月初旬、篤二郎は上京して小石川区大塚窪町の若山牧水新居に転がり込み、8月末、訪ねて来た樫田文と結ばれ、文は一子を身ごもって、東京音楽学校を中退し、篤二郎と同居するようになった。大塚窪町は東京府師範学校(現在、教育の森公園)のある町で、現在の大塚3丁目。篤二郎に刺激を受けた犀星も、11月、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」であって、けっして帰る所ではないと意を決して上京し、「詩歌」12月号の消息欄によると、本郷弥生町1番地六条方に下宿した(『評伝』p133)。およそ1年半ぶりの東京であった。1番地は根津権現前のS坂を上った辺りで、第一高等学校北側にあたる。すぐそばに大恩寺があった。少し行けば千駄木町であり、気がつけば馴染みの「谷根千」で再出発したことになる。
その後の動向を船登が作成した年譜でたどっていくと、犀星は1914年2月、カネに困って前橋の朔太郎のもとに転がり込み、東京へ戻ると、「心づもり」の通り、駒込千駄木町42番地蔵田方に下宿を移した。団子坂を上って、あと少しで大観音というところを左に折れた小路の右側で、奥に円成寺があった。漱石がかつて住んでいた千駄木の家(通称「猫の家」)から直線にして200m程のところである。この「心づもり」という点について、犀星は『我が愛する詩人の傳記』(p51)で、
当時、貧乏な詩人仲間は東京の下宿を食いつめると、地方にいる投書家詩人で比較的余裕のある家に、一と月とか二か月とか滞在して食い延しをし、帰京後は先の下宿をすっぽかして新しく宿をとる転換期を用意していたものだ。勿論、私もその心算で前橋に出かけたのであるが、結局、萩原から汽車賃を出させ下宿料も払わずに帰京したのである。
と、記している。
朔太郎は犀星が帰京すると、後を追うように3月下旬上京し、駒込千駄木町120番地萩谷方に下宿した。根津神社の裏手、北側にあたり、やはり「猫の家」から直線にして200m程。犀星の下宿へは回り道をしなければならないので、800メートル程の道のりだった。藍染川をはさんで対岸には上野の山がすぐそこである。二人は上野公園でおこなわれていた大正博覧会を連日のように見物に出かけ、朔太郎は4月上旬まで滞在して帰郷した。その後も朔太郎は何度か上京し、犀星と交わりを深めた。
朔太郎に続いて、犀星が交わりを深めたのが山村暮鳥である。暮鳥は福島県に在住する聖公会の牧師で、1913年に『三人の処女』を自費出版しており、犀星が載せようとする雑誌に先回りするように投稿して、快い存在ではなかったが、それだけに共鳴する部分も多く、文通するようになっていた。1914年5月、暮鳥が新詩研究社の機関誌「風景」を創刊すると、犀星も寄稿している。そして、6月、犀星と朔太郎は一度も会った事がない暮鳥を加えて「人魚詩社」を結成したのである。結成といっても、ほとんど実態のないものであった。
7月、犀星は小石川白山前町57番地(現、白山5丁目33番)の妙清寺(曹洞宗)の土蔵を改装した二階の一室に転居した。現在も白山上交差点の西側に面して建っている。石川県ゆかりの白山神社の前にあり、中山道に面した、とにかく石川県人にとっては異郷の地と言え、故郷を感じさせる場所である。
犀星は8月に帰郷し、翌1915年10月まで金沢に留まった。この間5月に朔太郎が金沢に犀星を訪ねている。上京した犀星は珍しく2年を東京で暮らし、帰郷は1917年9月になるが、これは養父室生真乗の死去によるものであった。この間、犀星は1916年7月、当時はまだ東京市外だった田端に引っ越している。小田切が1914年8月帰郷としている点は船登と合致するものの、1915年5月に上京したとしており、食い違いをみせている。ただし、その後、田端への転居、養父の死去まで金沢へ帰っていないことなどは同じである。
「東京」をキーワードに
『抒情小曲集』と『愛の詩集』に収められた詩を、「東京」をキーワードにみていこう。
『抒情小曲集』一部には、「小景異情」その一からその六までを各1編として、32編の詩が掲載されている。この中で、東京に関する詩は、「小景異情その二」「みやこへ」「かもめ」の3編である。
「小景異情その二」は有名な、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
この詩は一節一節とてもわかりやすいが、全体としてみた時、さまざまな解釈がおこなわれている。詩をつくったのは、東京なのか金沢なのか。朔太郎などは東京でつくったもので、「みやこ」とは金沢であると解釈している。
「ふるさとは」から「ふるさとおもひ涙ぐむ」までは、「望郷の念」がにじみでている。犀星が東京でふるさと金沢を思い出して詩作している様子が目に浮かぶ。ところが、「遠きみやこにかへらばや」で、完全にひっくり返されて、「あれっ!この詩は金沢でつくったのかな?」。その逆転の間に入っている一節が「そのこころもて」である。「その」とはいったい何を指すのか。
ただ、一貫しているのは、「ふるさと」はあくまで金沢で、「都」は東京であろう。とはいうものの、気になることがある。「都」が逆転後、「みやこ」になっていることである。漢字をひらかなに直したのは、「都」と「みやこ」の意味するところが違うことを暗示しているかもしれない。すると、「都」は東京でも、「みやこ」は金沢かもしれない。そうなれば、朔太郎の解釈は正しいと言える。
ところが、である。この詩は1913年、「朱欒」の5月号(終刊号)で『小景異情』その六として発表され、1916年に「感情」に『小景異情』その五として、まったく同じ詩が掲載されているが、逆転後も「都」は「都」と表記され、「みやこ」とは書かれていない。つまり当初、「都」と「みやこ」の使い分けはされていなかったのである。したがって、「都」も「みやこ」も東京を指していると考えて良いだろう。そして、初出の1913年、犀星は金沢に戻っており、この詩は金沢でつくられたとみるのが妥当である。
このように順を追って考えながら、私の頭の中も少しずつまとまってきたが、じつは私自身もその解釈が変化してきた。始めは「望郷の念」として捉えていた。私自身、故郷金沢へ帰りたい気持ちがひじょうに強かったからである。続いて、東京に住む見込みがなくなった私は、心の中だけは東京志向がひじょうに強くなり、東京と反対方向の故郷へ帰ることは、ふりだしへ戻ることのようで、絶対にしたくないと思うようになった。「断郷の念」と言ってよいのだろうか。すると、この詩に対する私の解釈がまったく違ってきた。
この詩は、故郷を捨てた悲しさから生まれたものではない。この詩は東京にいる犀星がつくったものではなく、金沢にいる犀星がつくったものなのだ。私はそう思うようになった。いったん決意して上京したにもかかわらず帰郷してしまった犀星。そんなことをしていて良いのか。何かあればすぐ故郷に逃げ帰ってしまう。おまえはいったい何のために東京へ出て行ったのだ。犀星よ!「異土の乞食となっても絶対に故郷に帰らない」、そんな決意をもって、もう一度「遠き都、東京に出て行こう」ではないか。犀星は自分自身の決意を、自分自身に対する励ましをこの詩に込めたのではないだろうか。
「みやこへ」は、「こひしや東京浅草夜のあかり」で始まる。「けふは浜べもうすぐもりぴよろかもめの啼きいづる」という終りの一節から、金石の浜から東京を想う設定である。犀星が初めて上京し、新橋駅に到着した日の夜、東京美術学校に学んでいる幼馴染の田辺幸次(1890~1945)らに連れられて浅草公園六区の映画館街へ行った。犀星は十二階(凌雲閣)を見た。そして永い間うごかずに感動していた。『洋灯はくらいか明るいか』で犀星はつぎのように記している。
田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。
(中略)
今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。
注:混鬧(こんどう)
この文は最初の上京から30年を経て書かれたものであるから、後の分析が入り込んでいるかもしれないが、大都会東京の姿をみごとに表現しているように思われる。そして、この雰囲気に好感をもったからこそ、犀星は振り子のように東京と金沢を行ったり来たりしながらも、最終的に東京を暮らしの場と定めることができたのだろう。東京最初の夜の興奮が、浅草の夜が、犀星を虜にして放さない。犀星は永井荷風と違って、どっぷり浅草に浸かったわけではない。庭いじりも好きであった。にもかかわらず、猥雑で、清濁併せ呑むような浅草は、犀星の性に合っていたのではないだろうか。故郷へ帰って来れば、やはり「こひしや東京浅草夜のあかり」なのだ。
「かもめ」は当初「都より帰りて」という題で、一部を削除したうえ、改題されて『抒情小曲集』に収められた。これも金石の浜であるが、「あはれみやこをのがれきて」と、東京生活に挫折して故郷へ逃げ帰った作者犀星の思いが込められている。
『抒情小曲集』二部には、29編の詩が掲載されているが、東京に関する詩はまったくない。三部では、「合掌」その一からその六をそれぞれ数えると30編の詩がある。主として東京において作られたというだけあって、やはり東京に関する詩が多い。「都に帰り来て」「はつなつ」「蝉頃」「並木町」「郊外にて」「室生犀星氏」「街にて」「合掌その五」では、「都」「みやこ」「街」などの言葉が目立つ。このうち、「郊外にて」「室生犀星氏」「合掌その五」は街の雑踏というより、東京郊外に身を置いて都会を眺めている感じであり、田端に住む犀星を連想させる。また、「夏の国」は東京にいる犀星が故郷金沢を恋しく歌った詩である。「銀製の乞食」では、カステイラ・ワッフル、「ある日」はコオヒイなど、洒落た言葉から、「道」は電車・自動車から、東京を感じさせる詩もある。「植物園にて」は特定すべき表現はみられないが、小石川植物園を念頭に置いたものであろう。
犀星は『抒情小曲集』覚書に暗黒時代という一節で、
小曲集第三部は主として東京に於て作らる。本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠にて「蝉頃」の啼く蝉のしいいといへるを聞きて、いくそたび蹉跌と悪酒と放蕩との夏を迎えしことぞ。銀製の乞食、坂、それらは皆予の前面を圧する暗黒時代に作なり。幾月も昼間外出せずして終夜なる巷にゆき、悪酒にひたりぬ。その悔新しくてなほ深くふけりてゆきぬ。今も尚思ひ見て予の額を汗するものはこれなり。或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき、上野の夜明けの鐘をききては帰りぬ。合掌のあとさきはじつに病気ともたたかひし時代なりしなり。
と、記している。「或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき」というのは、1914年7月、小石川白山前町の妙清寺の土蔵の一室に住んでいたことを指していると思われる。
先に述べたように、犀星は初めて上京した時、錦風の家にしばらく滞在した後、根津片町、谷中三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、同じように文学を志す若者たちや画学生と知り合い、安酒を飲み、昼夜逆転のような生活も送っている。1913年上京した犀星が、どこに住んだかについて、『評伝』(p133)では、「詩歌」12月号の消息欄に「本郷弥生町1、六条方」に下宿したとの記述があることを指摘している。また、小田切は1913年2月、3度目の上京をしたとしており、その際、根津権現裏の紅梅館に下宿したとしている。
いずれにしても、田端に住む以前に犀星が暮らしたのは、谷中・根津・千駄木、今日「谷根千」と呼ばれる、山の手にありながら東京下町の風情が残る地域で、ゆかりの文化人も多い。三部の詩は再び東京にやって来てから作ったものが多いと思われるが、この頃、犀星が東京で過ごした夏は、1910年と11年で、「蝉頃」は11年夏の作品ではないだろうか。「本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠」というのが紅梅館かもしれない(当時は、専門の下宿屋には、「本郷館」「蓋平館」など「館」の名がつけられていた)。
『愛の詩集』は四つの章で構成されているが、この中で、東京に関する詩はつぎの通りである。1913~14年に作られたという「故郷にて作れる詩」(15編)に、東京に関する詩はまったくなく、1914~15年に作られた「愛あるところに」(8編)は「大学通り」1編。1915年の「我永く都会にあらん」(9編)は、「よく見るゆめ」「自分の室」「我永く都会に住まん」「ある街裏にて」「この道をも私は通る」の5編。このうち「自分の室」に関して、私にはどうしても田端を描いたとしか考えられない詩である。
その後に作られた「幸福を求めて」(19編)では「街と家家との遠方」「郊外」「門」の3編すべてが田端を描いたと思われる。
「よく見るゆめ」は電車、馬車、街といった言葉に東京が感じられる。上京した犀星は、肩書もカネもなく、まさに裸で歩いているような状態で、おどおどしていたのだろうけれど、「裸で歩いてやれ」と開き直ってみると、ふしぎに人人は咎めず、安心したような目つきで握手さえ求めてくる者もあるというのだ。東京で生きようとする犀星が表現されている。
「我永く都会に住まん」では、都という言葉が1回出てくる。「この都に永くしづかに/おのおののみちをすすまう」。この「おのおのの道」とは、朔太郎・暮鳥・犀星三人の各々の道である。『我が愛する詩人の傳記』(p153)で犀星は、朔太郎も自分も暮鳥を好ましく思っていなかったが、朔太郎がこんなことを言ったと記している。
とにかく山村と結局われわれは一緒になることになろう、違うところは違ってもぶらぶらしているのは、われわれ三人ということになる、
こうして三人は1914年、人魚詩社を立ち上げ、詩誌「卓上噴水」を発行、犀星が金沢へ戻ったことで拠点も移ったが、1915年10月に犀星が上京し、感情詩社を立ち上げ、1916年6月、詩誌「感情」を創刊している。三人でやれば、自分も詩人として何とか東京でやっていけるのではないか。これから末永くこの東京で暮らしていこう。そんな思いが伝わってくる。
「ある街裏にて」は、題名に街、詩の中に「都市」という言葉が一回出てくるだけである。けれどもこの詩は、犀星が生きる東京そのものを、ありったけの凄さで描き、犀星の心情を表現したものである。おそらく「よく見るゆめ」同様、最初の上京時の体験も織り交ぜられているであろう。犀星は、「人間の心を温かにするものは無く/又不幸な魂を救ふべきことも為されてゐない/みんなはありのままに/ありのままなのら犬のやうに生きてゆく」と詩を締めくくっている。それは極貧の中でも東京で生きてゆく犀星の決意と捉えることができるのではないか。そして犀星は、朔太郎や暮鳥と共通の基盤である聖書に救いを求め、詩に温もりを求めたのではないか。極貧であればあるほど、犀星の詩は温かくなっていった、私にはそのように思われる。
「この道をも私は通る」も、「恐ろしい都会の大街道」という以外、都会、東京を表す言葉はない。けれども、「ある街裏にて」同様に凄まじい詩である。あきらかにこれは娼婦を描いた詩である。犀星はこの詩で娼婦を性欲のはけ口ではなく、ひとりの人間として捉えている。それは生きるために代作も引き受け、身も心もボロボロになりながら、部屋にこもって詩作にふける犀星そのものであり、娼婦と同じ道を犀星もまた通っているのである。そう思うと、犀星は毒々しい娼婦もまたいとおしく、優しく接吻してやりたくなるのだ。
一方、田端を描いたと思われる詩はどうだろうか。犀星は1916年7月、田端163の農家、沢田家の下宿に転居している。『泥雀の歌』(『評伝』p171)で犀星はつぎのように記している。
今の動坂から一二町ほど藍染川をのぼつたところに、百姓家のはなれがあつた。そこは、百姓家でありながら庭の植込みのあひだに四畳半二間つづきのはなれをそれぞれ建てて、本家の二階も貸してゐる大きな古い下宿屋であったが、たいてい宿泊人は美術学生が多かつた。私の部屋は六畳で小さい玄関がつき、庭には柿の木と白い芙蓉の一株があつた。食事がついてひと月九円、
「街と家家との遠方」は題に「街」とついているが、街の描写はまったくなく、農村風景である。これは田端であり、小川というのはおそらく谷田川(藍染川)であろう。
「郊外」も大根畑や百姓と挨拶を交わす姿が描写されている。これも田端であろう。犀星は幸せを感じているようにもみえる。けれどもこれは地方の田舎ではなく、あくまでも東京の郊外であり、すぐそばに大都会東京がある。行こうと思えばすぐ行くことができる距離である。木立や林を透かして、「かろがろとはしる山の手の電車」が望まれるのである。犀星が初めて上京する前年の1909年、日本鉄道は国有化され、上野・田端・池袋・新宿・品川・烏森(現、新橋)の間に山手線として電車が走り始めた。当時、山手線は環状ではなく、C字運転されていた。大都会東京の象徴のようになっていく山手線電車を「かろがろとはしる」と表現しているところに、東京に対して浮き立つような気持ちをもち続けている犀星を見ることができる。
「門」も「雨は毎日ふつてゐた/この都会の郊外といはず/巷といはず/じめじめと永い間」養父が亡くなり、一方で婚儀がまとまった1917年秋の犀星が表現されているのであろう。この情景も田端の沢田家の描写と思われるが、その後、庭づくりに傾倒していく犀星が予感される。
これらはいずれも田端に引っ越してから作られたと思われるが、1915年に作られたという「自分の室」も、「僕は畑をふんで街へ出る/畑をふんで自分の室へかへる」「半日も街へ出てゐると/堪らなく自分の室が恋しく/すぐに帰へりたくなる」というように、どうみても田端としか思えない。
犀星は大都会東京にどっぷり浸かっている人間ではない。かと言って、故郷金沢に浸かっている人物でもない。東京と故郷を行ったり来たりするのである。そして、東京にあっても、喧騒の都心と、農村風景が残る郊外とを、行ったり来たりするのである。それが犀星の個性であり、「自分の室」はそのような犀星を表現している。犀星はこの往復によって、「畑は毎日どんどん肥える」と言い切っている。1916年から住むようになった田端も、その後住むようになった馬込も、東京郊外で、1932年に東京市に合併するまで北豊島郡・荏原郡に属していた。
庭づくりもできる東京郊外は、犀星にとってちょうど良い生活と創作の場であった。そして、少しゆとりのできた犀星にとって、東京と金沢の間に位置する軽井沢が第三の故郷になっていったのも、自然の流れと言えるだろう。
このような中で、明確に東京の地名が出てくるのは、『抒情小曲集』では、91編のうち「上野ステエション」「坂」「坂」の3編で、『愛の詩集』では、51編のうち「大学通り」1編だけである。
上野ステエション
私が初めて憧れの東京へやって来た小学校2年生の時、東京での第一歩を踏み出したのは上野駅だった。上野駅というのは、東京へやって来たと言う、ものすごく高ぶった気持ちと不安、ふるさとへ帰ると言う、みじめな気持ちと安堵感が交錯するところである。そして、ふるさとの生活が「ケ」の日々であるとすると、東京での生活は「ハレ」の日である。上野駅は「ハレ」と「ケ」が交錯するところでもある。
けれども、鏡花にしても秋聲にしても東京での第一歩は新橋駅であり、犀星も同様である。そのような犀星が東京の生活に打ちひしがれて金沢へ戻り、1913年11月、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」であって、けっして帰る所ではないと意を決して上京した時、再出発の第一歩を踏み出したのは上野駅だった。その年の4月1日、北陸線が全線開通し、北陸線・信越線を経由して東京へ来ることができるようになっていたからである。以後、犀星にとって、上野駅は東京と故郷を結ぶ特別な場所になった。
上野ステエションは他の詩と何か違う感じがする。冒頭の「トップトップと汽車は出てゆく」。トップトップという表現が、何とも軽やかでユーモラスである。続いて、「汽車はつくつく」「あかり点くころ」と、「つく」という音を同音異語で繰り返している。私はこうした表現が、また東京に暮らすことになった犀星の喜ばしい気持ちの表れと捉える。
犀星は上野ステエションと言っても、駅のホームに立っているのではない。「ふみきりの橋のうへ」にいるのである。詩の題に駅名をつけたのだから、上野駅構内の踏切であろう。そうなれば踏切はただひとつ。現在、両大師橋が架かっているところである。当時の地図で確認すると、上野公園の中にある東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の前から両大師堂のある輪王寺の前を通る道が坂を下って、線路を踏切で渡り、車坂へむかっている。踏切と言うのは鉄道と平面交差で、橋があるはずがない。が、よく見ると踏切の上に跨線橋が架けられている。山手線の高架化にともない、踏切は廃止され、道路は上野の山からそのまま両大師橋で線路を跨ぐようになっていった。
上野駅は雪国の終着駅である。雪国出身の人間にとって、汽車に積もった雪はふるさとを思い出させるのにじゅうぶんである。東京に暮らすことの喜びも、この光景についついふるさとを思い出してしまう犀星。けれども、そのふるさとの匂いとともに、「浅草のあかりもみえる橋の上」と、大都会東京の喧騒もまた犀星を誘いかけるのである。浅草六区は両大師橋から直線で1キロほどしか離れていない。今のようにビルが建ち並んでいるわけではないので、見晴らしの良い跨線橋の上から、浅草のあかりが間近に見え、その中に凌雲閣(十二階)が浮かび上がっていたはずである。犀星は跨線橋の上から浅草の方を眺めながら、三年以上前の興奮を思い出していたかもしれない。「みやこへ」でも、「こひしや東京浅草夜のあかり」で始まっているが、犀星にとって浅草は東京の象徴のようになっていたのであろう。
『上野ステエション』という短い詩は、跨線橋から故郷と東京を同時に眺めながら、揺れ動く犀星の気持ちと、将来を端的に表現しているように、私には思われる。
「坂」
「坂」という詩は二つある。第一の詩には、「ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも」、第二の詩には、「坂は谷中より根津に通じ/本郷より神田に及ぶ」と、地名の出てくる箇所がある。
第一の「坂」は「街かどにかかりしとき/坂の上にらんらんと日は落ちつつあり」で始まる。坂の上に夕陽があるということは、西にむかって上っている坂ということになる。犀星が最初に住んだ地域も、1913年11月に決意も新たに上京してから住んだ地域も、谷中・根津・千駄木(谷根千)を生活圏としている。そうなれば、根津の谷筋から本郷台へ上がる坂は、団子坂、根津神社(根津権現)裏を通る坂(根津裏門坂、現、日医大つつじ通り)、前を通るS坂(権現坂)、いずれも西に上がっている。「坂」が1914年「詩歌」3月号に発表されていることから、前年上京し、本郷弥生町1番地、六条方に下宿したことを考慮に加えれば、最寄りのS坂が最有力であるが、詩全体から受ける印象は、特定の坂に立って描いたというより、最初の上京時も含め、当時の犀星の生活圏で、見たこと、聞いたことに、自分の心情を織り込んで詩作した感が強い。
第二の「坂」および特定の地名は出て来ないが、坂をテーマにしている「銀製の乞食」「合掌その一」、これらの詩も同様である。詩人として有名になり、詩人として生計を立てることを夢みながら、坂は行く手を大きく阻んでいるようであり、犀星は坂道で大きな葛藤をしているように思える。
ところで、「坂は谷中より根津に通じ/本郷より神田に及ぶ」という一節を読むと、私のくせが出て、どこを通って神田まで行ったのだろうと思ってしまう。
そのような私の疑問に答えてくれるのが『泥雀の歌』(『評伝』p170)である。この中で犀星は、詩誌「感情」の販売について、つぎのように記している。
雑誌は本郷の郁文堂に十冊、文武堂に十冊、お茶の水橋から駿河台を下りて、神保町の角の大きい本屋に十冊、そこの向かひの何とかいふ本屋に十冊、長駆して浅草仲店の角からたしか二軒目の本屋に十冊あづけた。何で浅草公園の本屋に持つて行つたかといへば、それはやはり郷愁に似たあまえた気持ではなかつたろうか。それから根津の通りの本屋にも十冊、――東京堂にはたいてい二十冊あづけ、北隆館と東海堂に十五冊くらゐ委託した。
1915年10月に上京した犀星は、感情詩社を立ち上げ、詩誌「感情」が1916年6月に創刊された。犀星はその詩誌を本郷や神田の本屋へ持って行って販売を依頼したのである(『評伝』p166)。
「坂」が作られたのはそれ以前であるが、犀星は本を買いに、あるいは立ち読みするために、時おり神田を訪れ、詩誌や自分の詩集を、いつかここで売りたいと思っていたのだろう。そのための人脈づくりも念頭にあったかもしれない。神田へ続く道は、詩人としての成功へ続く道であり、その途中には、谷中から下った坂は、団子坂・根津裏門坂・S坂で本郷台へ上がり、東京帝国大学の前を通って、御茶ノ水橋を渡って神田駿河台の坂(現、明大通り)を下り、古書店を含め出版社や書店が集まる神田神保町へたどり着くのである。
大学通り
「私は大学通りの/しきつめた石の上を歩くことが好きであつた」で始まるこの詩は、「ほがらかな幸福な温かい朝日は/本郷三丁目の屋上をすべつて/しき石と並木の銀杏を染めてゐた」と続き、この大学は東京帝国大学であることがわかる。東大生になってしまうとあまり感じないのかもしれないが、何か「高み」を目指して東京にやって来た人間には、東京大学の構内に佇む時、あるいは東京大学の近くにいるだけで、目標を達成したかのような、誇らしげな爽快感に浸ることができる。犀星も「自分がここの都にくらしてゐること/又自分の仕事がだんだん認められる/その歓しさを切に内感して/靴を鳴らして歩いて行くのであつた」と、その気持ちを表現している。
「坂」では夕陽のもとに苦悩していたが、「大学通り」では朝日である。この詩は、「自分はけふも幸福であった/朝日はみち亘つて/自分の胸や額にまで漲つてゐた」と締めくくられている。これ程までに明るく、誇らしげな気持ちを表現した犀星の詩は他にないかもしれない。これも東京帝国大学のなせる業である。そして、東大に対してここまで素直になれるのは、金沢の人間の特権である。何しろ、東大の敷地は加賀の殿さまの江戸屋敷なのだ。
学校とは無縁のような犀星ではあったが、金沢第一中学校や第四高等学校の生徒・学生や先生と交流をもっており、その延長線上に東大があっても不思議はない。彼自身もできることなら東大で学びたいと思っていたのかもしれない。それは叶わぬ願いであっても、芥川龍之介はじめ堀辰雄、立原道造など東大出と親交をもつことができたのである。第四高等学校に進むことができなかった鏡花、秋聲。鏡花も東大の寄宿舎に出入りし、東大出の友人も多く、秋聲は東大のすぐ近くに自宅を構えた。三文豪は東京帝国大学に特別な憧れと親しみをもっていたのではないだろうか。
「大学通り」は、犀星の詩の中で、私にとってきわめてわかりやすい詩のひとつであり、心情を共有できる詩である。
【参考文献】
『日本文学全集33、室生犀星集』(1968年、集英社)
船登芳雄:『評伝室生犀星』(1997年、三弥井書店)
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』(1958年、中央公論社)
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