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8.杏っ子
(1)『杏っ子』
あんずよ花着け地ぞ早やに耀やけ。
ひかり耀やけ。
あんずよ、花着けあんずよ、花着け
ああ、あんずよ、花着け花着
『杏っ子』という題名を聞くと、私は犀川河畔に建てられた犀星詩碑の詩文を思い出す。『杏っ子』は1956年11月から翌年8月まで「東京新聞」に連載され、犀星の作品の中では最も長く、400字詰め原稿用紙およそ800枚に及ぶ。主人公平山平四郎のモデルはもちろん犀星自身であるが、ほぼ全生涯を描いたものであるから、長くなるのは当然であるが、70歳に近づいた犀星が、まだまだ体力・気力をもち続けていたことには、びっくりさせられる。
『杏っ子』は父娘の物語である。もう一人の主人公杏子のモデルは犀星の長女朝子であるが、その他、作中に登場する人物のモデルは概ね次の通りである。
りさ子:妻とみ子
平之介:次男朝巳
漆畑亮吉:青木和夫(朝子の夫)
青井おかつ:養母赤井ハツ
真乗:養父室生真乗
お孝:テヱ(ハツの姪、貰い子)
平一:真道(ハツの貰い子)
吉種:小畠義種(小畠生種の三男、悌一の弟、通説で犀星の甥)
百田宗治、芥川龍之介などは実名で登場。
(2)杏子の誕生、そして関東大震災
大正十二年の大震災の日には、りえ子は出産後四日目であった。
朝子同様、杏子は神田駿河台にある浜田病院で生まれ、間もなく大地震に見舞われた。1923(大正12)年9月1日午前11時58分、大きな地震が関東一帯を直撃した。関東1府(東京府)6県の死者・行方不明者は13万人を超え、全半壊2万5千戸。各所で火災が発生し、おりからの強風も手伝って燃え広がり、焼失戸数は4万5千戸に達した。世に言う「関東大震災」である。
病院を出ると、患者達は長い数珠つなぎになり、みんな毛布を一枚ずつ携え、りさ子はお坊さんのけさの襟のような印をまいたが、そこには、施療病院という文字が記されていた。(略)駿河台の通りに出ると、行列は直ぐ一息に群衆の間に呑み込まれ、進むことも退く事も出来ない、(略)気がつくと、たったいままでいた浜田病院は火に呑まれ、火を吹いていた。(略)お茶の水橋にかかると、避難民が上手と下手から落ち合い、にっちも、さっちも身動きが出来なかった。(略)お茶の水橋を渡ると、高等師範の校庭に患者の列はながれこんだ。病院を出てから、僅かな道のりを一時間半という永い時間がかかったのだ。そして誰がいうともなく、避難先の目的地は上野公園であることが、胸につたわった。(略)「順天堂に火がついた。」
浜田病院は神田区駿河台袋町13番地(現住所は千代田区神田駿河台2丁目5)にあり、1894年、増田知正が設立した東京産婦人科病院が前身で、1901年、浜田玄達が病院長に就任した。玄達は日本の「産婦人科学の父」とって呼ばれる人物で、1914年、病院名も浜田病院に改称した。しかし、翌1915年に亡くなり、1919年に副院長の小畑惟清が病院長に就任。1921年、西隣りに文化学院が設立された。
お茶の水橋が落橋しなかったのが幸いして、駿河台から神田川をはさんだ対岸の師範学校までたどりついた。現在では東京医科歯科大学・附属病院になっているが、西隣りに今も順天堂病院がある。
りさ子は、杏子を背負う丸山看護婦に付き添われ、「湯島天神に出る裏道」と言うから、湯島新花町の東側の道を湯島小学校の前を通って、切通坂を下って、池之端の仲通り、そして上野広小路へ出てみると、万世橋の方からも大群が上野公園をめざしており、上野山下辺りでは、火の手に追われて大群衆が浅草あたりから逃げて来る。広小路から上野の段々をのぼるまで、ほとんど一時間近くかかり、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着。とにかく丸山看護師の冷静な判断と励ましによって、母子ともに当座の生命は助かった。
翌2日。りえ子は一日がかりなら田端まで歩いて帰れると言うが、実際は歩けない。産後五日目、昨日、ここまで歩けただけでもユメみたいと言う丸山看護師。そのうち近くにいた女性が産気づき、丸山看護師はてきぱきと対応し、無事出産。女の子が生まれた。
大震災時の避難の様子が克明に描かれ、災害研究にとって貴重な記録と言えるが、ここまでは犀星が見た話し、体験した話しではない。作品を書いた当時、妻とみ子は生きていたから、当時の様子を聞きながら書いたかもしれないが、おそらくほとんどは震災後の早い時期に聞いて、記憶に留めていたことをもとに書いたと思われる。
ここからは、犀星の体験に基づく。
その日、平四郎の家に詩人の百田宗治の夫人が、病院にりえ子を見舞いに行くといって立ち寄り、間もなくお昼に近いので昼食をたべてから、平四郎も一緒に行くことになっていた。近くの料理店でお菜のオムレツを注文したが、その出前を待ちあぐんで、甥と女中が、食卓をととのえ、茶の間に坐ったときに、突然、畳ごと持ち上げられる上下動の地震が来て、それが激しい左右動に変ったときに庭の石燈籠が、ひと息にくずれて了った。「オムレツを置いて行きますよ、や、地震だ、地震だ、大地震だ、オムレツを置いて行きますよ。」西洋料理店の出前持の声を聞いて、平四郎は庭に飛び出したが、あらゆる物体からほんの少しずつ発する鳴動が、まとまって、ごうという遠い砲撃のようなものになって聴えた。平四郎は失敗った、避姙をとくのではなかったと、変なことを頭にうかべ、赤ん坊なぞ作るのではなかったと思った。これは大地震だ、なにも彼もお終いの時が来た、
当時、震度を正確に測定できなかったので、東京市内の一部で震度7、あるいは震度6強の地域があったと推定されているが、大半が震度5であったとみられ、今なら、日本の自然災害史上最大の死者を出すようなことになっていなかった。木造家屋が多く、火災の拡がったことが被害を大きくした。後に米軍はこの日本の弱点をねらって、油を撒き、焼夷弾を落として一面に火の海をつくり出し、打撃を与える作戦を展開。東京大空襲がその例である。
犀星は田端に住んでいた。確かに大きな地震で、石燈籠が倒壊したが、子ども達は地震を面白がっており、動坂下辺りでは自動車も動いていた。谷筋にあたる現在の不忍通り一帯は震度6弱と推定されているが、上野山に続く高台にあたる谷中一帯は震度5強から5弱と推定されており、田端も同様であったと思われる。地震当時を描いた犀星の文章からも、それが裏付けられる。田端一帯ではそれほど大きな被害は出ていない。浜田病院のある駿河台一帯も震度5弱で、上野公園までの避難経路もほとんどで震度5弱。お茶の水橋が落橋しなかったのも納得できる。建物が倒壊して道路をふさぐと言うこともほとんどなく、母子の生命を救う結果につながった。地震より火災による被害が大きく、その後の東京を、不燃化、避難経路になる幹線道路拡幅、広域避難広場の確保に向わせていく。新たな危険が生まれているものの、関東大震災クラスの大地震が起こっても、被害ははるかに少ないかもしれない。
『評伝室生犀星』によると、母子の安否を気遣う犀星は小畠義種と自宅から近い駒込神明町でタクシーを拾って団子坂まで来たが、その先は通行禁止で引き返したという。このような大災害の中でもタクシーが走っていたとは驚きである。
なお、ここで登場して来た小畠義種。小畠生種の息子、悌一の弟にあたる。当時、19歳。文学に憧れ、伯父犀星(私は犀星の実父生種説をとっているので、犀星の腹違いの弟にあたる)を頼って東京へ出て来ていて、この大震災に遭遇した。
余震が続く中、犀星は自宅近くのポプラ倶楽部の空き地で一夜を明かし、夜が明けて、被災した人たちが続々と上野公園に避難しているとのうわさが流れ、犀星は義種、詩人仲間の百田宗治とともに、上野公園を捜しまわり、昼近く、美術協会の建物(現在は上野の森美術館が建っている)に避難していた妻子と再会した。『杏っ子』には、
動物園裏から公園にはいると、小便の臭いと、人いきれと、人の名前を呼ぶ声と、そしてそれらの人間のながれが、縦横無尽に入り乱れ、幟に書いた人の名前、旗に記された家族の尋ね人に、鳥籠を下げた女の子までが交って息苦しく、泥鰌の生簀のようだった。
殆ど全山隈なくさがし終えた時に、突然、一等年のわかい甥が短期美術館の建物の前に出たときに、彼はへんな声でいった。この中がくさいぞ。
神田区を焼き尽くした火災は、湯島・外神田から不忍池・上野公園辺りまで拡がっており、おそらく、火に追われるように広い御成道を神田の方から逃げて来たのであろう。上野公園は罹災民集団の一大集結地(いわゆる広域避難場所)になっていた。
『我が愛する詩人の傳記』によると、後に百田宗治の還暦の祝いがおこなわれ、体調を壊した犀星に代わり、娘の朝子が出席した。犀星といっしょに捜した朝子が会に出席してくれたことを、百田はとても喜び、二次会まで誘ったと言う。その後、肺がんにかかって、房総海岸の岩井町に療養していた百田の見舞いに、再び父の代理として朝子が訪れている。
上野公園から田端の家に戻る様子、芥川龍之介が訪ねてきたこと、動坂へ缶詰や日用品を買いに行った話、小学校における配給の話、夜警の話、戒厳令がしかれ、憲兵が立っている様子、そして赤羽駅から金沢方面にむかう汽車がでるという。ごったがえす赤羽駅。女学生に助けられ一晩の宿。梨をもらって食べた。結局、汽車は屋根まで乗客で一杯になるものすごい混雑で、あきらめて田端へ戻り、二十日ほどして少し落ち着いたところで、上野から金沢へ。上野駅は汽車に乗る人でごったがえし、屋根まで人。それでも何とか金沢へ着いた。この震災直後の記述では、芥川の他、百田宗治・菊池寛・堀辰雄などが実名で登場する。
現実の犀星たちが帰郷したのは10月になってからで、平木二六も同行した。いつかまた戻って来るつもりだったのだろう。家主谷脇岩千代との賃貸契約は解除しなかった。
(3)田端から大森へ
金沢の犀星は上京を決意。1925年1月、単身上京した。とりあえず田端613番地(現在の田端4丁目19)に住家を得、2月に田端608番地(現在の田端3丁目25)に移り住んで家族を迎えた。そして、4月になって、念願の田端523番地に戻った。
ある日の夕方、杏子が自転車に引っかけられてケガをして、瞼上を二針縫った。その後、杏子は発熱。翌朝、熱は下がったが、幼稚園を休んだ。幼稚園は聖学院で芥川の次男たかし(多加志)が母親に付き添われて、途中の杏子の家に寄り、一緒に幼稚園に行くのである。その日、芥川夫人は、《
では二、三日お誘いいたしませんといって
》、帰って行った。
聖学院は1905年、女子聖学院として設立され、幼稚園は1912年に「中里幼稚園」として設立された。田端駅に近い芥川の家から中里にある幼稚園まで1キロほど、その中間に杏子の家があった。芥川多加志は朝子より1年ほど早く生まれているが、1927年時点で多加志5歳、朝子4歳。作品中ではまだ龍之介が存命であり、幼稚園へ通う芥川たかしと杏子の姿が事実であれば4月から6月のピンポイントの出来事である。
九歳になった杏子。一生のうちにピアノを買えるような男になって見せたかったという平四郎は、杏子にピアノを買ってやることに決め、神田の教益商社に出かける。りさ子は小学校で音楽を担当していたが、十年近くピアノを叩いたことがなかった。彼はドイツ製の中古ピアノを買った。教益商社は実在の「共益商社」を念頭に置いたもの。京橋区竹川町14番地(現、銀座7丁目)にあり、日本楽器製造株式会社東京支店の役割を持ち、神田区裏神保町8番地(三省堂の南西、現在の冨山房ビルの位置、すずらん通りに面する)に神田賣店があった。犀星が実際にピアノを買ったのはこの店だろう。
杏子は13歳になり、
大森でも谷中という溝川のへりにあるこの家は、地盤がもとは沼だったのか、庭の奥の方はぶくぶくしていて、沼みずの泡が踏むと吐き出されそうであった。
この一文を読んだだけでも、住みたくなくなってしまう。犀星はいわゆる「谷根千」の谷中に住んだことがあるが、上野山の続きで、高台から低地までみられる。それに対して大森の谷中はほんとうに谷筋で、低湿地が続いている。
杏子は隔日にピアノの教習所に通っている。たまに買物に大森駅の繁華な通りに出かけるりさ子は、杏子が通行人から「お可愛らしい」と言われるのがまんざらでもない様子だった。ある日、父親と一緒に歩いていた杏子が、木原山の新築の家ばかりある、分譲地にかかると、「ね、家を一軒建てたらどう」とだしぬけに言った。木原山はすぐそばだが、山王台にあり、谷中に比べ、地震や大雨に対して被害を受けにくい。
やがて平四郎は蔵書も金沢の庭も処分し、新居の建築に取りかかる。
ここまで読み進んで、はたと立ち止まる。読み過ごしていけば、さしたる違和感もないのだが、何かヘンだ。杏子は関東大震災の年に生まれたので、1923年生まれと言うのははっきりしている。杏子がピアノを買ってもらったのは9歳。1932年のことである。その時、杏子はまだ田端に住んでいた。けれども、現実の朝子が大森谷中に引っ越したのは1928年、5歳の時で、1930年に馬込尋常小学校に入学する。萬福寺近くに新居が建ち、引っ越したのは1932年、朝子9歳。ところが『杏っ子』で杏子は大森谷中へ引っ越し、13歳を迎えている。年齢をもとに設定年を推定すると、1936年になる。つまり現実より4年遅れている。杏子は朝子より、4年長く田端に住んだことになる。
私がこのような疑問をもったきっかけはピアノである。平四郎が杏子にピアノを買って習わせようとしたのが、杏子9歳の時。まだ田端に住んでいる。私のクセで、平四郎は田端から神田の楽器店までどのように行ったのか気になる。
山手線は1925年から今日のような環状運転を開始している。当然、1932年には田端駅から神田駅まで山手線を利用することができる。神田駅から神田神保町まで1キロ程は徒歩。けれども、現実の犀星はこの時すでに大森に住んでいるから、大森駅から東北・京浜線の電車で神田へむかったはずである。京浜線は1928年に赤羽、1932年には大宮まで延長運転され、東北・京浜線の名称が使用されている。今日のように京浜東北線の名称が使用されるようになったのは、『杏っ子』の連載が始まった1956年である。
実際に犀星が朝子にピアノを買ったことは事実であろう。いつ買ったのか。『杏っ子』の記述から判断することができない。しかも、ピアノを売る場面で、
杏子はだまってピアノのある部屋に行ったが、弾く気はいもなく、平四郎は弾いてくれなければよいと思った。「椅子もつけて売るの。」「椅子もつけるのさ。幾つの時から弾いたかね。」「七歳のときね。」
9歳だったはずなのに、ここでは7歳になっている。犀星は間違えたのか、つい事実を書いてしまったのか。7歳を現実に当てはめれば1930年。大森谷中に住み、朝子が小学校へ通い始めた年である。まだ新居建築の話が出る前であり、ピアノを買うカネは何とか工面できたのであろう。この方が真実味をもっている。
『杏っ子』は小説であるから、あまり気にすることではないのだろうが、関東大震災という明確な事実を出し、芥川龍之介や百田宗治、萩原朔太郎など実名を出しながら、なぜこのような設定をしたのだろうか。真実は犀星に訊いてみないとわからないが、犀星は設定年に関してあまり頓着がないようで、『或る少女の死まで』でも、電車の開通を描いたため、年代設定に矛盾を生じている。『杏っ子』でも杏子の年齢を書きながら、現実の朝子とズレが生じ、そのようなズレは少しずつ修正されながら、終戦まで続いている。
研究者の間では、犀星の自伝的小説に描かれた内容を、事実として年譜に書き込んでいるものもあるが、それで良いのだろうか。犀星の出生からすべて、彼のつくり話であるかもしれないということを、とくに研究者は胆に銘じておかなければならないだろう。
(4)馬込の家
黒の制服に黒いおかっぱ、黒い瞳に靴下まで黒い、まるで黒ずくめだから、一層顔だけがひろがって眼につく、(略)靴音は石段を下りて往来へ、かつかつと音を立てて坂を下りて行った。平四郎はその後ろすがたを見て、こおろぎ色の女学生も、とうとう十七歳になった。何を考えているのか知ら?(略)表の石段をとんとん馳け上る靴音がし、おかっぱは少しみだれ、頬を真赤にした杏子が帰って来た。
萬福寺近くの自宅石段を下り、坂を下って、左折して、萬福寺前の谷筋をさらに下れば、谷中へ通じる。大森駅へ行く道筋である。
現実の朝子17歳は1940年。『杏っ子』ではここでりさ子が脳溢血で倒れる。現実のとみ子は1938年に脳溢血で倒れている。二年のズレがある。この頃、朝子は三田にある普連土学園に通っていた。おそらく当時の制服は黒づくめだったのだろうが、音楽会のことは書かれても、学校のことは書かれていない。犀星は1937年に普連土の校歌を作詞している。犀星初の校歌作詞である。
と、言っているうちに《
杏子は十九歳になった
》。現実の朝子19歳は1942年。すでに1941年、太平洋戦争は始まっているが、作品では原稿用紙30枚分も後に、《
戦争があっという間に起った
》という記述がある。脳溢血で倒れたりえ子は杖をついて歩ける様になったが、買物は平四郎。さかな屋も八百屋も行ったが、どういうわけかさかな屋は近所が恥ずかしく、京浜国道の方まで行っている。料理は杏子である。
この大森の奥には、いまも低い土地に百姓家があって、昔から日光を囲うて暖かにくらしていたが、そのまわりに欅、楓、柿などの老樹が聳え、畠地には小松菜、白菜が萌黄と緑とを見せ、散歩するのに野趣があった。
この後、平四郎は男女の姿を見かけ、ひとりは杏子、もうひとりは彼氏であったが、相手の母親が交際しないようにねじ込んできた。
戦争が始まり、平四郎は妻りえ子を軽井沢に疎開させる。上野駅は皆たすからなければならない混雑の人ごみであった。その中で病身のりえ子は人びとの善意に助けられて汽車に乗り、軽井沢にむかった。
軽井沢での出来事が描かれた後、
終戦になった。(略)勝った人間は日本人の手から腕時計を剝ぎ取り、外套を脱がせ、ゆびわをもぎとり、白昼日本の娘を強姦し、自動車は子供達を轢き殺して行った。
(5)東京を歩く
戦争は終わったが、杏子とその夫となった亮吉の戦いの日々が描かれていく。亮吉は飲酒家で酒癖が悪かった。いつしか舞台は東京に移っているが、雑誌社の記述はあるものの、目立った東京の描写はない。息ぬきに杏子は大森の実家にたびたび現れる。
ある日、亮吉と杏子が言い争いになり、杏子は亮吉に殴られる。とどめを刺すと言い捨てて、
杏子は表に出ると、まだネオンのある通りをかつかつと、快活に早足で歩いて行った。
肴町から白山に出て、行きつけの喫茶店にはいると、お茶を喫んで、ちょっと電話をかしてといって、杏子は平四郎を呼び出した。
表とは都電が通る岩槻街道(本郷通り)であろう。杏子は行きつけの喫茶店がある白山上へ行くため、駒込肴町まで来て、現在の向丘二丁目交差点で右折したとみられる。肴町は各所にあるが、ここでは駒込肴町で、東片町にある大円寺の裏手、現在、向丘高校が建っている一帯である。白山上は白山神社の門前に当たり、犀星もしばらく住んだ馴染みの地域である。
杏子と平四郎は新橋駅で会うことにする。平四郎は大森駅まで行く手間を考え、「くるまで行くから二十分待て。」と答える。第二京浜国道は近い。タクシーに乗って、五反田、桜田通りを虎ノ門で右折し、田村町一丁目を通って新橋駅へむかったと考えられる。一方、杏子は都電で白山上から35系統の都電(巣鴨車庫前-田村町一丁目)に乗り、春日町・神田橋と通って、田村町一丁目で降り、歩いて数分で新橋駅である。2系統もあるが朝夕しか運行されていなかった。田村町一丁目はかつての桜田本郷町で、都電廃止の時点では西新橋一丁目に名称変更されていた。二人は銀座の江安餐室へ行き、往来の見える窓の円卓に向い合い夕食。
この後、二人は日比谷にあるホテルに着くと、岩と岩の間をこつこつ歩いて一室へ。
「このホテルは大谷石ばかりだから、まるでわたくし此処では蟹みたいね。」「これがホテルの代だ。」
平四郎はポンとホテル代を出す。もちろんここは帝国ホテル本館。1967年に取り壊され、一部が明治村に移築された「ライト館」である。落成披露宴が開かれた日に関東大震災が起こった、いわくつきの建物だが、揺れにも耐え、焼失することもなく生き残ったものである。現実に犀星が朝子を帝国ホテルに泊まらせたことがあるのか、作品の演出か定かではないが、震災の炎から逃げ、生命をつないだ杏子が、離婚の危機にこのライト館に泊まる因縁は大きい。もちろん、私などはどんな因縁があろうと、帝国ホテルに宿泊することはないであろう。帝国ホテルは常に憧れでしかない。
ある日、亮吉はきょうこそ或るデパートの広告写真の金を取るといい、杏子をつれてバスに乗り、銀座四丁目で降りた。帰りのバス代はなかった。結局、カネはもらえず、二人は本郷まで歩くことに。お濠端に出て、小川町の交叉点から明治大学の坂を登り、お茶の水橋を渡ったとき、
震災の時に母が焼け出されてこの橋をわたったことを聞いていたが、いま、また十円も持たないでその娘が本郷まで歩いて帰ることを、杏子はまた光る眼のうちにそれを有難いことだと思って、反対にちからが出てどんどん歩いた。
杏子は前向きである。こうして二人は銀座から二時間かかって、白山町の家に着いた。
ある日、実家へ来ていた杏子は、実家へ戻ることを決意した。杏子は本郷肴町(向丘二丁目)で都電を降りているので、京浜東北線で大森から神田まで来て、神田駅から19系統王子行に乗ったと思われる。
杏子は肴町で下りたときは、すっかり暮れ切った街に電燈が点き、近道をとって吉祥寺の墓地のあるさびしい通りを急いだ、この近道は杏子が質屋に通い、物を売るための包をさげてゆく、なれた道すじであった、たまに人通りもあった。
吉祥寺の墓地のあるさびしい通りとは、駒込吉祥寺町と駒込淺嘉町の境界の道と思われる。杏子たちの住居はこの奥、駒込動坂町に設定されているのかもしれないが、それなら別の道を通って肴町へ出ることができ、都電は吉祥寺町で降りた方が便利である。どうしてこのような描写をしたのであろうか。この夜道で亮吉に会い、杏子は家に戻る。しかし、亮吉と言い争いになり、結局、道路へ出て、タクシーを停め、大森へむかう。
この後、平之介の結婚相手となる、りさ子と銀座へ来た杏子が、平四郎のカネでりさ子の言うままに物を買う場面なども登場するが、街の描写などない。一時、杏子と亮吉は平四郎のもとで生活するが、やがて亮吉に平之介まで加わって庭を破壊する場面があり、《
亮吉夫妻が本郷の方に越してから、
》《
杏子はまだ平四郎の家から、本郷の亮吉のもとに通うて
》と二回「本郷」が出てくるが、杏子の足は次第に本郷から遠のいていく。
そして、二カ月程経ったある日、杏子は友達と夕食をとるため新橋で下りた。
土橋をわたる時に、夕映えの川波がうつくしく、往来の若い男達のズボンは、どの人も折目がきちんとし、杏子は爽かにそれを見過した。橋を渡りきると、おなじ川べりを一人の男が此方向きになり、少しうつむきかげんに歩いてきた。
その男は亮吉であった。二人は少し会話を交わす。
「君は盛装でこれから夕食だが、おれは土橋を渡って新橋の階段をのぼって行くんだが、夕食も盛装も橋の上から投げ込んで了いたいくらいさ。」
この後、杏子は亮吉にカネをやり、川べりを左右に別れた。
新橋駅日比谷口を出ると、すぐ土橋。杏子は銀座へ行くところだろう。土橋を渡って右折して川沿いに歩いているところで、おそらく銀座から来たであろう亮吉と出会った。まだ川の上に高速道路が建設される前の光景であろう。
(6)杏子へのまなざし
犀星は生まれながらにして、家庭的には必ずしも恵まれていたと言えない。けれども家庭は結婚して新たに手に入れることができるものである。恵まれた家庭を築くことができるかもしれない。犀星にとって結婚相手は、そうした家庭を一緒に築くことができる人物でなければならなかったであろう。
犀星は自分が子ども時代に家庭から得ることができなかったものを、何とか子ども達に与えたい。そうすることで自分も「恵まれた家庭」というものを体験したい。そのためには何としても我が子をもたなければならなかったが、最初の子ども豹太郎はあっという間にいなくなってしまった。そして、やっと手にした朝子であったが、最悪の状況で大震災が発生した。自分はもう、子どもをもつこと、家庭をもつことはできないのではないか。犀星は絶望の淵に突き落とされたことだろう。
幸い朝子は生命拾いして、成長し、次男も誕生した。犀星は二人の子ども達に幸せに生きて欲しいと、その期待も大きかっただろう。けれども、二人の子どもは必ずしもそれに応えるものでなかったようだ。
『杏っ子』は朝子を杏子としてスポットを当て、父と娘という関係から描いた作品である。もちろんこれは小説である。すべてが犀星と朝子の間に起った事実と捉えることはできない。誇張もあるだろう。作品の平四郎は、「成金」よろしく、杏子に対してカネに糸目をつけない。そこまでするのかと思うくらい「甘い」。ある面、杏子は、平四郎が想い描く娘像を一つひとつ裏切って成長していく。それでも平四郎は優しく、怒らず、杏子のすべてを受け入れていく。
生い立ちや容貌から受ける印象とは裏腹に、『幼年時代』以来、犀星の作品は言い回しも含めて、きわめて優しい。それが犀星自身なのか、真乗のまなざしなのか、犀星の願望なのか、判然としない。しかしながら、杏子にむけられた平四郎の優しいまなざしは、朝子にむけられた父犀星のまなざしであったのだろう。
【参考文献】
武村雅之:『1923年関東地震による東京都中心部(旧15区内)の詳細震度分布と表層地盤構造』、日本地震工学会論文集、第3巻、第1号、2003年
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
森勲夫:『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』
橋本確文堂、2010年
近藤富枝:『田端文士村』、中央公論新社、1983年(改版2003年)
⇒「勝手に漱石文学館」の「漱石こぼれ話」の中に、田端当時の犀星について記述した項がある(25.田端点描)。
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