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25.田端点描
田端は「田端文士村」あるいは「田端文士芸術家村」と言われ、文学や美術工芸に関わる多くの人びとが住んだ地域である。私としては室生犀星の住んだところということで、一度、歩いてみたいと思っていたが、ここに書くからには、何らかのかたちで漱石との関連をつけなければならないだろう。
漱石の作品には、本郷区(現在の文京区)はずれの動坂や谷田川までは登場するが、隣接する田端は東京市に含まれていないためか、登場することはない。けれども、田端は漱石と無縁かというと、そうでもない。田端には漱石の親友で、良きライバルでもあっただろう正岡子規の墓があり、漱石最後の、そしてもっとも有能な門下生と言われる芥川龍之介が住み、亡くなったのも田端である。
詩人サトーハチローは『僕の東京地図』(1936年)に発表した詩の中で、田端をつぎのように描いている。
田端、田端、田端。
おやぢの先生の子規先生のお墓のある田端。
僕が福士先生と一緒にゐた田端。
芥川さんにおじぎをした田端。
ポプラクラブのある田端。
いま又、時々岩田専太郎のところへ金をかりに行く田端。
タバタ、たばた。(どっちから読んでもたばた)
思わず笑ってしまう詩であるが、縁もゆかりもないような私まで、田端に親近感をもってしまう詩である。
龍之介が一家挙げて田端435番地に新築転入してきたのは、1914(大正3)年10月末。当時、龍之介は東京帝国大学の学生で、大学までは2キロ余、動坂を通って、歩いても20分あまりで行くことができたであろう。翌1915年12月、岡田(後の林原)耕三の紹介で龍之介は木曜会に顔を出すようになった。『明暗』には江戸川橋から早稲田まで市電が延伸されていく工事の様子が描かれているが、開通は1915年。本郷三丁目は江戸川橋・早稲田へ行く市電の系統があり、龍之介、久米正雄、松岡譲など、東大生にとって、市電の早稲田延伸は漱石山房へ行く便利をもたらしたことであろう。
大正末から昭和のはじめにかけて、上野広小路から根津、神明町車庫、千石を経由して、江戸川橋、矢来下まで市電が開通し(後の都電20系統、なお江戸川橋・矢来下は1944年に廃止)、田端に住む龍之介にとって、動坂下から矢来下まで市電に乗れば、漱石のもとへ行くにはとても便利であった。しかしながら、漱石は龍之介が門下生になって1年の1916年12月に亡くなっており、龍之介もそれから10年あまり経った1927(昭和2)年7月に亡くなったので、結局、電車好きの私にとってのちょっとした「空想」で終わる話である。
上野から田端までの山手線、さらに京浜東北線は赤羽まで、台地と低地の境界を、台地に沿うように走っている。そのため台地側の改札口は、構内の跨線橋からそのまま外へつながっている。田端駅は駅前の道路(田端駅前通り)が跨線橋になっているため、ホームから階段を上がると、目の前に改札口(北口)がある。
さて、改札を出ると、駅前の道路、左手は高台で、切通しの道がのびている。右手は跨線橋で、線路を跨いだところでT字に分岐して低地へ下っている。春に入ったと言っても、広びろとした低地を吹き抜けて来る風は、まだまだ冷たい。
田端駅前の道路のむこうがわに田端アスカタワーの高層ビルがそびえている。まずは、このビルの中にある「田端文士村記念館」へ行き、散策マップをもらって、田端をめぐることにする。
東京における台地の東端には、山手線、京浜東北線が沿って走っているが、この東端に台地の稜線があるため、鉄道側は急崖になっている。田端辺りでは反対側はゆるやかに下っている。田端では稜線部分を切り裂いたため、切通しの壁面は高く、台地の高台をつなぐために架けられた東台橋、童橋は切通しを突っ切る道路から、3階建てビルの屋上辺りの高さを通っている。
東台橋、童橋をくぐって、階段を高台へ上がった。民家の間の、自動車のすれ違いが難しそうな道をしばらく行くと、左側に芥川龍之介の旧居跡を示す標示板。龍之介が描いた河童の絵も刻まれている。370坪ほどの三角形の土地で、階下4間、階上2間の二階家で、納戸・湯殿もあった。現在は三分割され、民家が建っており、標示板でもなければ、龍之介が住んでいたところとはわからない。この辺りは稜線上の土地で、風当たりが強いかわりに、低地を一望に見渡すことが出来た。本所など低地に住み、度重なる水害に悩まされてきた芥川家にとって、考え深いところであっただろう。この稜線を通る道は、やがて自宅から谷中斎場まで、龍之介の葬列の道となった。
昭和に入ってまだ7ヵ月余の昭和2年、1927年7月24日、龍之介は田端の自宅で自ら生命を断った。35歳。泉鏡花の師である尾崎紅葉が亡くなった年齢より1歳若かった。第一高等学校在籍中に明治から大正に変わり、1914年に菊池寛、松岡譲らと「新思潮」を創刊し、翌年、漱石山房の木曜会に出席するようになり、漱石からバトンを引き継ぐように作家生活へ入って行った、大正を生きた作家芥川龍之介は、大正が終ったのを見届けるかのように逝ってしまった。
葬儀は27日午後3時から谷中斎場でおこなわれ、田端の自宅から斎場まで、鏡花、菊池寛、小島政二郎らが柩について歩いた。ほぼ山手線に沿うような2キロほどの距離である。
葬儀では鏡花、続いて菊池寛が弔辞を読んだ。犀星は大きな衝撃を受け、追悼文などすべて断っている。葬儀で犀星は菊池寛と並んで座り、相対する席には鏡花と里見弴が並んで座った。芥川の葬儀に鏡花、犀星という金沢が生んだ二人の作家が相対したことになる。
上野から熊谷まで日本鉄道が開通したのは1883(明治16)年であるが、当時、田端駅はなかった。やがて、池袋から土浦まで伸びる鉄道(現在の常磐線)の交差地点になる予定の田端にも駅がつくられた。1896(明治29)年である。そして、1903年、池袋と田端間は品川線豊島支線として営業を開始し、今日の山手線の第一歩が踏み出された。切通しが完成したのは1935年で、龍之介が住んでいた頃の田端駅は、現在の南口にあたる、台地の下に駅舎があり、不動坂などの急坂で台地へ上った。龍之介の家まで5分程度であった。
芥川龍之介旧居跡の標示板を過ぎ、与楽寺坂を下り、右折してしばらく行くと、右が天然自笑軒のあったところ、左が楽天堂医院のあったところである。
天然自笑軒は、龍之介の伯父で養父になる芥川道章と一中節の相弟子であった宮崎直次郎が経営していた会席料理屋で、芥川家が田端に住むようになったのも、直次郎が住んでいたからである。若槻礼次郎や渋沢栄一もひいきにした天然自笑軒では、龍之介の結婚式も行われた。
一方、楽天堂医院の医師は下島勲。文学や書にも関心が高く、主治医として、また文人として、田端文士村に人脈を広げていた。とりわけ龍之介は医師としても、人生の先輩としても下島に全幅の信頼を寄せ、「おねだり」して羽織をもらったり、自宅の屏風に李白の詩を書いてもらったりしている。1926年3月、小学校を卒業したばかりの下島の養女行枝が亡くなった時には、「更けまさる火かけやこよひ雛の顔」という句を寄せている。その龍之介も翌年7月、自死。その最期をみとり、死亡宣告したのは下島であった。
そのようなことを知らなければ、どこにでもあるような街中の道を通って、幹線道路の田端駅前通りへ出る。田端駅方向から道路は下っており、この辺りから本郷台との間の低地になっている。
田端駅前通りを横断すると田端八幡神社の前に出る。スッと真っすぐに石畳の参道が伸び、その潔さに引き込まれるように、鳥居にむかって歩き始める。右手に鉄筋コンクリートながらも趣がある祭具庫がある。祭の組ごとに御神輿などが格納されているのであろう。大都会東京はけっこう祭が大切にされ、人と人のつながりも大切にされている。そんな神社の風景を東京のあちらこちらで見ることができる。鳥居をくぐると上りになっており、石段の横をS字型に上る、いわゆる「女坂」に相当する坂道がつくられていて、ありがたい。
神社の入口から隣りに目をやると、だるまのような赤い物体が二つ。阿吽二像に赤い札が貼り付けられ、東覚寺の赤紙仁王像とよばれている。赤紙というから、出征兵士の無事を祈って仁王像に赤紙を貼ったのかと思ったら、そうではないらしく、仁王像に、自分の悪い箇所と同じところへ赤紙を貼り、病気が治ることを祈り、治ったら新しいわらじを上げてお礼参りをするとのこと。誰が始めたのかわからないが、赤紙ですっかり覆われ、もとの姿をとどめない仁王像が気の毒に思えてくる。
赤紙仁王通りから田端区民センター横を通る道へ入る。この辺り右手、直木三十五や「のらくろ」で有名な田河水泡の住んだところ。水泡の妻高見沢潤子の兄小林秀雄も同居していたことがある。水泡の弟子長谷川町子は潤子にも大きな影響を与えた。左手には萩原朔太郎が住んでいたこともある。
谷田川通りへ出て右へ曲がると、田端区民センター前には掲示板があり、小杉放庵旧居跡であることが示されている。画家で歌人の放庵はサトーハチローの詩にも出てくる「ポプラ倶楽部」の創設者である。
田端に多くの文士、芸術家が集まっていた頃、谷田川は農村風景の中を、時には木陰の下を、チロチロと音を立てながら流れていた。谷田川は藍染川とも呼ばれ、道灌山辺りで東京市へ入ると、本郷区と下谷区の区界(現在の文京区と台東区の区界)になり、やがて不忍池へ流れ込む。途中、団子坂を下りた辺りは『三四郎』に描かれている。
谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左りへ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通っている。(略)
美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな河が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまった位である。三四郎は水の中を眺めていた。水が次第に濁って来る。見ると河上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向うにある。向うは広い畠で、畠の先が森で森の上が空になる。空の色が段々変って来る。
明治末の谷田川の様子が短い文章の中に克明に描かれている。北へ、つまり上流へ行くと田端である。田端でもまた同様な景色が広がっていたのであろう。東京にも三四郎がホッとできるような田園風景が、それも東京帝国大学のすぐ近くに広がっていたのである。この場面、初心な三四郎と、ちょっと男をもてあそぶ様な美禰子の、何とももどかしい絡みが描かれた、「ちょっといいところ」であるが、そこへ水が濁って、大根を洗う百姓が登場するあたり、庶民を描き、ちょっぴりユーモラスな漱石らしい表現である。
谷田川は現在では暗渠になり、何の味わいもない道路になっているが、『三四郎』を読んで往時を思い描いてみるのは楽しい。
谷田川通りを上流にむかって進むと、コンビニの角を曲がると、犀星や小杉放庵が住んだところ。反対へ曲がって赤紙仁王通りへ出て、少し戻る感じで、ポプラ坂の下に着く。民家の間をまっすぐ伸びる道を進むと、やがて舗装がレンガ色に変わり、上り坂になっている。ポプラ坂を上りきると、左側が田端児童館で、ポプラ倶楽部の跡地につくられている。ポプラ坂の説明板の横には、金網に子どもが描いた絵が取り付けられている。
1908、9年頃、ヨーロッパにおける修業から帰った洋画家たちが、小杉未醒らを中心にテニスクラブを立ち上げ、300坪ほどの土地を借りてテニスコート2面をつくったのが当地で、小さなクラブハウスも建てられ、クラブ会員のひとりが郷里小豆島からポプラの苗木を取り寄せて植えたところから、ポプラ倶楽部の名もつけられた。
近藤富枝は『田端文士村』で、
芥川龍之介は大正三年十一月三十日、田端へ越してきて一ヵ月目に、近況と田端の模様を知らせた手紙を、京都に住む一高時代の親友恒藤恭に出している。その中で、 「近所にポプラ倶楽部を中心とした画かき村があるだけに外へ出ると黒のソフトによく逢着する逢着する度に芸術が紺絣を着てあるいてゐるやうな気がする」
と漱石ばりの文章で皮肉っている。さすがに芥川だ。彼はこの田端の先住民族の中心に、いちはやく目をつけて、親友に報告をした。
と記している。関東大震災の時にはポプラ倶楽部は避難民でいっぱいになったが、犀星もそのひとりだった。
ポプラ倶楽部跡の田端児童館の前を過ぎると、広い道路に出る。というか、二枚のパズルがうまく合わなくて、すき間ができたような不思議な空間である。田端を南北に二分するこの道路は、田端文士村隆盛の時代にはなかったものである。目の前に田端小学校がある。かつての瀧野川第一小学校で、文士・芸術家の子どもたちが通った学校でもある。左へ折れてしばらく行くと八幡坂の上に出る。この辺りには犀星が何度も住んだ。
八幡坂の名前は、上田端八幡神社の横を通る坂であるところから付けられた。坂を下りながら、右手の境内に目をやると、すべて葉を落として枝ばかりの大木が幾本も青空にむかって伸びている。枝から枝へ小鳥たちがさえずりながら飛び交い、それでもここは東京なのだ。
田端にはかつて、上田端村と下田端村があった。前者の神社が上田端八幡神社で、後者が田端八幡神社である。田端八幡神社の区画の中に東覚寺があるように、上田端八幡神社の区画の中に大龍寺がある。神仏分離によって、寺院と神社は仕切られてしまったが、面積的には寺院の方が広い。
八幡坂を下り、右折すると鳥居があり、参道が社殿にむかって真っすぐ伸びている。そしてすぐ、真言宗大龍寺の山門である。山門、本堂含めすべて鉄筋コンクリートづくりの風で、これも何百年か経過すれば風情というものも生まれてくるのであろう。大龍寺は近くに住んでいた犀星が、はかなく亡くなった長男豹太郎の葬儀をおこなったところでもあるが、板谷波山、正岡子規などの墓があるお寺として知られている。
墓地への入口を見つけて中へ入ると、板谷波山の墓は容易にみつかる。波山は田端芸術家村の元祖とも言える。波山の教え子である吉田三郎も波山に惹かれて田端へやって来たし、吉田がいたことで、犀星も田端へ住むようになった。吉田と犀星は生まれた年も亡くなった年も同じである。犀星は龍之介とも親しくなった。龍之介が恩師広瀬雄を田端に誘ったことから、堀辰雄も田端とつながりができ、犀星に教えを乞うようになったなどなど、人が人を呼ぶ、そのきっかけのひとりが波山である。妻まる(珠)は波山を支えて苦労したが、ふたりの間に夫婦喧嘩が絶えなかったと言う。今は夫婦ひとつの墓に眠っている。どうやら今は夫婦喧嘩することもなくなったようで、墓は壊れずに立っている。
それにしても子規の墓はどこに。あちらこちら探し回って、やっと見つけた。大龍寺を囲む塀を背景にヘチマの絵を刻んだ記念碑。塀のむこうに田端中学校の校舎が見える。北区では区立の学校統廃合が進められ、瀧野川第一小学校は田端小学校になったが、瀧野川第七小学校は廃止され、2019(平成31)年4月1日から田端中学校として、新たな歩みを開始した(私が子規の墓を訪れた時は、瀧野川第七小学校でも田端中学校でもない、空白の時期であった)。
子規の碑の前、直角の位置に三基の墓。子規居士之墓を真ん中に、むかって左が正岡家の墓、右が子規の母八重の墓。母が「イヤだよう、この子は・・・」と息子を避けているかのように、八重の墓は右に傾いている。まあ、これは深刻に受け取るより、ちょっとしたユーモアとして受け取った方が良いだろう。
手を合わす背なに春の陽子規の墓
文士来て去りゆく田端見る前に逝きし俳人子規眠る墓
八幡坂を上って、田端を南北に二分するすき間のような不思議な空間の道路へ戻り、路地へ入ると、広瀬雄、犀星、菊池寛らが住んだ辺りである。鍵の手に曲がって田端高台通り(西台通り)に出ると、佐藤紅緑の弟子にあたる詩人・俳人の福士幸次郎旧居跡。福士の妻の実家である。父紅緑に反抗して自由奔放に生きる少年時代のサトーハチローを預かったため、標示板にはサトーハチロー・福士幸次郎旧居跡とあり、冒頭で紹介した「田端」の詩が記されている。預けられた人間の方が先に書かれているのは、幸次郎に失礼な感じもする。
田端高台通りを進むと、交番の前を通り、コンビニの角を曲がると江戸坂。田端文士村記念館のある田端アスカタワーを曲がり込みながら、田端駅前にむかって下っている。反対の角辺りには露月亭があった。露月亭は茶店で、花見時には板谷波山が焼いた徳利と猪口が飛鳥山焼と銘打って売られていた。露月亭は後に白亜堂という喫茶店兼パン屋になった。江戸坂を下らず、田端高台通りをまっすぐ進むと、右側に挿絵画家の岩田専太郎が、1926年から田端に初めて住んだところ。
切通しに架かる東台橋を渡り、ここから田端高台通りは東台通りの区域に入る。まっすぐ行って、不動坂の上へ。左折して不動坂を下りると田端駅南口。右折すると、1936年から岩田専太郎が住んだところ。サトーハチローは田端駅から不動坂を上り、一気に専太郎の家めがけて、おカネを借りにやって来たのであろう。田端一周を終わるにあたり、もう一度、サトーハチローの詩を紹介しよう。
田端、田端、田端。
おやぢの先生の子規先生のお墓のある田端。
僕が福士先生と一緒にゐた田端。
芥川さんにおじぎをした田端。
ポプラクラブのある田端。
いま又、時々岩田専太郎のところへ金をかりに行く田端。
タバタ、たばた。(どっちから読んでもたばた)
多くの文士や芸術家を引きつけて来た田端。今、田端の魅力はいったい何であろうか。山手線の内側にありながら、東京らしくない、武蔵野の風情を残した、懐かしい感じのする田端。漱石が田端を描くなら、どんなふうに描くだろうか。そして、どんな人物を登場させ、どんな小説に仕上げただろうか。