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発言
【金沢ブログ】 まいどさんが案内――続編①

「まいどさんが案内」の連載が終了して、何かまだ去りがたい思いが残った。続編として、二回か三回くらい延長することにした。
今回は、「まいどさん」の母校であり、教員として最後の赴任校でもある金沢市立紫錦台中学校がテーマである。私は「まいどさん」より1学年上であるから、同じ校内のどこかで出会っていたかもしれないが、お互いまったく意識する機会もなかったから、覚えているはずもない。とにかく団塊の世代。私たちの学年は16クラス、「まいどさん」の学年は17クラスあった。現在では全校生徒400人ほどで、当時の1学年の半分程度である。私は三尖塔校舎の二階、二方が開いて明るい角部屋の教室だったが、講堂を仕切って教室にした暗ぼったい空間で過ごした子どもたちは、暗い中学生活の印象しか残っていないかもしれない。
紫錦台中学校に到着した「まいどさん」は、《ここが紫錦台中学校です。私の母校でもあり、美川出身の島田清次郎が通った学校です。》と、さらりと説明しているが、もう少し詳しく説明を求めれば、このような感じになるであろうか。
「ここで右手に辰巳用水が顔を出しましたね。チロチロと水の音、私、この流れの音が大好きです。私が中学生の頃とほとんど変わっていないですね。そのむこう、木々の間に見えているのが紫錦台中学校です。木造の三尖塔校舎も見えますよ。今では、金沢くらしの博物館になっていますが。」
「その頃、この道路には市電が走っていて、1番と3番、二系統走っていたから、小立野終点にむかうもの、小立野から来たもの、両方合わせると、けっこうたくさん電車が走っていました。校内でも電車の音が聞えてきました。学校の前に下石引町の電停がありました。そう言えば、あの辺で先生が車にはねられた事故のこと思い出しました。10m以上飛ばされたって、言っていました。まもなく、右へ曲って辰巳用水に架けられた橋を渡れば、紫錦台中学校の正門です。中央通路が広くて、両脇にも通路があります。それぞれ木の扉がありますね。当時は中央とむかって右側の通路が開いていました。門柱は石造りで笠木がついていますね。中央の二基が背も高く大きいです。卒業式には在校生がここに並んで、卒業生を送り出すんです。正門に立って。木造校舎が木々に馴染んで、穏やかに、けれども威厳をもって私たちを迎えてくれますね。学校って行きたくない日もありますが、と言うか、行きたくない日の方が多いかもしれませんが、ここへ来ると、ちょっと呼吸を整えさせてくれます。」
「私たちはここから左へ曲って、木々の間を少し行って、昇降口。靴を入れるのに、下駄箱なんて呼んでました。上靴に履き替えて右手へ行くと職員室があって、先生方の様子をチラチラうかがいながら三尖塔校舎へ入る手前左側に保健室。そう言えば、私たちの時分に、もう、バトントワラーがあって、短いスカートの衣装を着て、何か職員室で先生方、鼻の下長くしてたみたいだけど、これはオフレコね。そんな一面もあったけど、私が卒業した翌年の10月7日、埼玉県からやって来た家出少年が放火して、職員室も保健室も焼けてしまいました。消防の人たちは、三尖塔校舎に燃え移らないように懸命に消火活動してくれました。実は、この年の6月24日、市内電車が尻垂坂で暴走して、兼六下で転覆。下校途中の紫錦台中学校3年生の男の子が亡くなった。私より一学年下ね。私が卒業して、それほど経っていない時期、たいへんなことがあったけど、在学中の38豪雪の時には雪の重みで体育館が傾いて、立ち入り禁止になってしまった。私が入学する前には、授業中に教室の天井が落下するという事故も起きています。」
「今日は、植栽をまわり込んで、正面玄関から入ってみましょう。現在は金沢くらしの博物館になっていますから、ここからは有料になりますので、よろしくお願いします。旧制金沢第二中学校の本館として三尖塔校舎が建てられたのが1899年。すぐ近くの北陸英和学校の校舎に尖塔があったので、かっこいいと思って真似したのか、左右対称の校舎の両翼と中央の屋根を尖塔にしたので、全部で三つの尖塔があって、三尖塔。二中と紫錦台中のシンボルになってきました。両翼の尖塔は赤いとんがり帽子。ここだけ赤いので、とっても目立ってました。さあ、校舎の中に入って、どうですか。天井が高いですね。上下式の縦長の窓もしゃれてますね。木造の柔らかさ、温かさが感じられます。階段もとっても上りやすいですよ。踊り場では、男の子たちが相撲取っていて、通るのに邪魔だったけど、けっこうおもしろかったですよ。今は人も少なく閑散としていますが、私が中学生の頃は、生徒がひしめき合っていました。あの頃、校舎ができてすでに60年以上経っていたけれど、今では120年以上経っています。でも、古いまま、何も変わらず、そのまま残っているのが不思議です。人間の方は元気いっぱいの中学生から、こんなふうになってしまいましたけど。」
「三尖塔校舎の裏手に出てみましょう。以前はこの辺に講堂、体育館、特別教室棟などがあって、その先、運動場が崖っぷちまで広がっていました。今は敷地の南東部にある鉄筋の本館を軸に、全部集められ、ずいぶんすっきりしましたが。運動場でも、陣取りしたり、ケンケンパしたり、何か、小学生の頃と変わらない遊びもしてたわね。」
「これ以上、ここにいたら、私、中学生に戻ってしまいそうなので、この辺で紫錦台中学校を後にしましょうね。あっ、ちょっと待って。あそこにいるの島さんですね。――島さん、お久しぶりです。覚えてます?ここに勤めていた、まいどさんです。飛梅祭のこと、思い出しました?島さん。シマシマニシマッシマーって。島さん、あの時、縞々の服着て登場しましたね。元気でね。また、お会いしましょう。」

尖塔の校舎

尖塔の校舎は
雷につごう良く
尖塔の校舎は
階段がすり減り
そのやわらかき
木の温もり
年下の女の子の
スカートのざわめき
ああ
尖塔の校舎は
電車の音
きしむ窓
ストーブの石炭のかけら
ああ
尖塔の校舎は
松のみどりに見えかくれ
すでに色あせたれど
なお
尖塔は
りんとして立つ
【金沢ブログ】 まいどさんが案内⑧

「まいどさん」はここで、ローレンスという喫茶店を紹介している。東急スクエアの裏手、鞍月用水を跨いだところ(片町2丁目8-18)にある。風雪と雨と太陽を潜りぬけてきた感がある雑居ビルの3階にある。五木寛之ご愛用の喫茶店だという。「こんな喫茶店、知らないぞ」と思ったら、1966年創業とのこと。私が金沢を離れた年である。もう少し早く開業していれば、高校生の私も利用していたはずだ。私は竪町にある某喫茶店が愛用だった。卒業後わかったことであるが、どうやら高校生の喫茶店利用は禁止だったようだが(仲間うちでは、拡大解釈をして、利用できると思っていた)、某喫茶店は高校生たちの味方であった。
このローレンスの目の前を流れる鞍月用水。私が子どもの頃には、飲み屋などが用水の上に軒を連ねていた。私が「川おばちゃん」と呼ぶ母の知り合いの店もあったので、よく行った。トイレに行くと、下を鞍月用水が流れており、まさに「川屋」であった。今、思うと、金沢を満喫するトイレだったことになる。
「まいどさん」は白石一文の『一億円のさようなら』から、《東急スクエアの裏手にも鞍月用水という水の道があり》《それまで暗渠だったものを金沢市は、「開渠整備事業」として十年がかりで美しい水の道に生まれ変わらせたらしい。千五百メートルにわたって暗渠の蓋を取り外し、百近くの橋を架け替えたというから相当な大事業だったのだろう。》《絶えず澄み切った水が流れ、石畳の敷き詰められた遊歩道沿いには様々な樹木が植えられている。》《金沢城公園と兼六園のあいだの道を通り抜け、香林坊交差点経由で片町の繁華街へと入って行く。左右に立ち並んでいるビルはどれも年季が入った古めかしいものばかりだった。北陸随一と言われる繁華街がこれで大丈夫なのかと心配になるほどだが、休日はもとより平日も日が暮れるとこの界隈は大勢の人たちで賑わう夜の顔を見せはじめる。》などといった文章を紹介している。「古めかしい」と言われても、「私が子どもの頃には新しかった」と言いたくなる。
いよいよ「まいどさん」の金沢案内は、残り少なになる。《金沢の街中を文学と共に味わってきましたが、どういうことを感じられましたかね。私は、まちの変化の在り方について考えさせられました。今回は金沢のまちなか編だったので、前田家の観光地のメイン通りですから、先人・個人・行政の努力で形を少し変えて残した場所が多かったですね。四高・宝円寺・百間堀・紫錦台中・多田家の五葉松・偕行社などです。それに対して大きく変えて成功したものとして金沢駅・犀川大橋・鞍月用水などが挙げられます。そして失われゆくもの、栄枯盛衰を感ずるものもありました。今回あまり出てこなかった老舗の商家とその看板などがずいぶん消えていきました。》と、「まいどさん」は語るが、消えた看板に、私はふと、坂尾甘露堂の「加賀さま」の看板を思い出す。保育園で泣きながら見つめていた看板である。「まいどさん」の方は、老舗料亭北間楼閉店の話題へもっていく。
《芥川龍之介が室生犀星に誘われて金沢に来て、兼六園の三芳庵別荘に泊まり翠滝がうるさくて眠られなかったことや、西茶屋の芸妓と遊んだり金沢弁で短歌や俳句を作ったりしたエピソードが、犀星の『杏っ子』に描かれていますが、そのゆかりの絵老邸の一つ北間楼閉店のいきさつをご紹介して、案内を終わりたいと思います。》と「まいどさん」は挨拶して、《母屋に隣接する茶室『好日庵』は大正時代に神代杉で建築され、大正十三(一九二四)年五月には、犀星が芥川を金沢に招いて同店で句会を開き、料理を味わった。》《文豪も愛した料理店が閉店を決断した最大の理由は高額な相続税だという。文久二年創業、明治三十二年十月の北國新聞付録「加越能料理屋番付」では大関に選ばれるなど有名店となった。》の一文を紹介。
「まいどさん」も案内、お疲れさま。もう、このように金沢の街を案内してもらうことができないのは、とても悲しい。
                     (完)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内⑦

「町の踊り場」のホームページによると、金沢駅まで徒歩でおよそ12分。《はい、金沢駅です。》と「まいどさん」。《今はハイカラな鼓門が出来て、美しい駅として評判になっています。昔停車場と呼んでいた時代の作品井上雪の『廓の女』を紹介します。》と続ける。そして、《井上雪は『雪嶺文学』という同人誌を立ち上げた人で、私は今その同人として作品を投稿させてもらっています。夫の井上珀雲は真宗光徳寺の住職で、「佃の佃煮」本店の看板を揮毫しています。》と、ここで『雪嶺文学』が登場する。『廓の女』は私を井上雪に関心をもたせた作品であり、雪嶺文学の同人となるきっかけになった。思いもかけず早く亡くなられ、私も光徳寺にお参りさせてもらったことがある。「佃の佃煮」は東京の佃島にあるわけではない。金沢市下新町6-18に本店がある。新町・鏡花通りに面し、むかいが泉鏡花記念館。何といっても私は「ごりの佃煮」が好きである。
『廓の女』によると、当時の金沢停車場は、《広っぱのよな停車場へ、汽車が着いたとしまいか。さあ、来る来る人力車が。まあっで蟻この列のよにそこたらじゅうの車帳場からあつまって、汽車から降りた人をのせて走りみしたが停車場のあたりは、加賀藩の四千石・三田村紋左衛門の屋敷跡であった。》と描かれている。東の廓の名妓山口きぬの語りである。
《では、ここからニューグランドホテルを通って、スタート地点の犀川大橋へ戻りたいと思います。》と「まいどさん」はホテルの名前を出す。宿泊するでもないのに、「わざわざ」とも思うが、唯川恵の『雪おんな』に登場するので、金沢ニューグランドホテルに寄らないわけにはいかないようだ。このホテル、南町、尾山神社の正面にあたる。
《長町・香林坊・片町の繁華街へと進みます。長町は竹久夢二の『壁をたづねて』という作品に登場します。夢二も恋多き人で、京と金沢の女性の比較をしていますが、徳田秋声と同じ人を恋人にしていたエピソードがあります。》と「まいどさん」は金沢一の繁華街へ。夢二と秋声共通の恋人とは、もちろん山田順子(ゆきこ)である。もっとも、彼女と共通の恋人となると、たくさんいる。
《香林坊の東急スクエアに、〈明暗を香林坊の柳かな〉という句碑があります。この句碑のことを五木寛之が『金沢望郷歌』の二題目に表現し、松原健之が美声で歌い上げていますね。》と「まいどさん」は案内して、《春の風吹く香林坊に 小松砂丘の句が残る 過ぎゆく歳月よ街は変われど 辰巳の用水は今日も流れて この街に生まれてこの街に生きる わがふるさとは金沢夢を抱く街》という『金沢望郷歌』の歌詞を紹介している。五木寛之作詞。20年前の作品である。〈明暗を香林坊の柳かな〉は、小松砂丘の句。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内⑥

尾山神社から少し行くと近江町市場。《近江町の蟹を泉鏡花が色彩豊かに表現しています。》と、「まいどさん」は鏡花の『卵塔場の天女』(1927年)の一文を紹介している。
《大釜に湯気を濛々と、狭い巷に漲らせて、逞しい漢が向顱巻で踏はだかり、青竹の割箸の逞しいやつを使って、押立ちながら、二尺に余る大蟹の真赤に茹る処をほかほかと引上げ引上げ、畳一畳ほどの筵の台へ、見る間に堆く積む光景は、》※《珊瑚畑に花を培う趣がある。――ここは雪国だ、あれへ、ちらちらと雪が掛ったら、真珠が降るように見えるだろう。》(注:※の部分について、「まいどさん」は、今日では、不適切な表現であると判断したようで、省略している。)という箇所が一つ目であるが、この文章の前、冒頭からの一文は、《時雨に真青なのは蒼鬣魚の鰭である。形は小さいが、三十枚ばかりずつ幾山にも並べた、あの暗灰色の菱形の魚を、三角形に積んで、下積になったのは、軒下の石に藍を流して、上の方は、浜の砂をざらざらとそのままだから、海の底のピラミッドを影で覗く鮮さがある。この深秘らしい謎の魚を、事ともしない、魚屋は偉い。「そら、持ってけ、持ってけ。賭博場のまじないだ。みを食えば暖か暖かだ。」と雨垂に笠も被らないで、一山ずつ十銭の附木札にして、喚いている。やっぱり綺麗なのは小鯛である。数は少いが、これも一山ずつにして、どの店にも夥多しい。二十銭というのを、はじめは一尾の値だろうと思うと、十ウあるいは十五だから、なりは小形でもお話になる。同じ勢をつけても、鯛の方はどうやら蒼鬣魚より売手が上品に見えるのも可笑い。どの店のも声を揃えて、「活きとるぞ、活きとるぞウ。」この魚市場に近い、本願寺別院―末寺と称える大道場へ、山から、里から、泊りがけに参詣する爺婆が、また土産にも買って帰るらしい。「鯛だぞ、鯛だぞ、活きとるぞ、魚は塩とは限らんわい。醤油で、ほっかりと煮て喰わっせえ、頬ぺたが落こちる。――一ウ一ウ、二ア二アそら二十よ。」何と生魚を、いきなり古新聞に引包んだのを、爺様は汚れた風呂敷に捲いて、茣蓙の上へ、首に掛けて、てくりてくりと行く。甘鯛、いとより鯛、魴鮄の濡れて艶々したのに、青い魚が入交って、鱚も飴色が黄に目立つ。》と、近江町市場の様子が活き活きと伝わってくる。
「まいどさん」が引用した二つ目の箇所は、《菅笠脚絆で、笊に積んで、女の売るのは、小形のしおらしい蟹で、市の居つきが荷を張ったのではない。……浜から取立てを茹上げて持出すのだそうで、女護島の針刺といった形。「こうばく蟹いらんかねえ、こうばく蟹買っとくなあ。」》である。
近江町市場のグルメに心を残しながら、「まいどさん」に付いて行った先が「町の踊り場」。町家ホテル&蔵カフェで、浅野川に近い瓢箪町7-6にある。《ここは『町の踊り場』という徳田秋声の作品名を取った建物で、秋声が里帰りした時よく泊まった秋声の兄・正田順太郎の家です。兄は尾小屋鉱山という加賀藩重臣横山家が経営していた鉱山に勤めていました。土地の権利書なども展示してありますね。》と「まいどさん」は説明し、『町の踊り場』の中から、《その夕方、私は大阪から来てゐる嫂と一緒に、兄の家の広い客間で、晩餐のもてなしを受けた。私は幾度も入りつけてゐる風呂場で汗を流すと、湯上り姿で、二間の床を背にして食卓の前に寛いだ。兄の家の養嗣子もそこで盃をあげた。この部屋も度々来て坐つたし、年々苔のついてくる庭の一木一石、飛石の蔭の草にも、懐かしい記憶があつたが、》という一節を紹介している。作品では、その後、《最近養嗣子がこの土地の聯隊へ転任して来て、その夫人と三人の子供達と一緒に同棲することになつて、兄夫婦は総てのものを彼等に譲り渡してしまつたので、何か以前ほどの親しみを感じては悪いやうな気がした。》と続く。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内⑤

《はい、まちなかに戻ってきました。四高記念館です。文学者も多く生み出しています。》と「まいどさん」。非戦災都市金沢には明治の建物がいくつも残っており、街に落ち着きを与えているが、旧四高のレンガ造りの校舎もその一つで、現在、石川近代文学館・四高記念館として活用されている。
《四高最後の卒業生は高橋治。彼は泉鏡花に憧れて千葉から金沢へ来たそうです。》と「まいどさん」は説明するが、私は高橋治を初めて知った。直木賞作家だそうだ。「まいどさん」は高橋の書いた『金沢の人々』という作品を紹介しているが、生徒が先生に議論をもちかけて、授業を「駄弁り」に変えてしまう話しは、私が高校時代にもあった。とくに「何で漢文を勉強しなければならないのか。中国語ならわかるけど」と、「そもそも論」に変えてしまった漢文の時間は忘れられない。高橋治に似たのがクラスにいたのだ。
《高橋治は旧制高校時代映画と野球に明け暮れたそうですが、井上靖は、柔道三昧だったことが、『北の海』の中から垣間見えますね。》と「まいどさん」。話しを井上靖に変えていく。高橋は作家であるが、映画監督でもある。やはり学生時代から映画にはまっていたのだ。ところが、野球の方はどこかへ行ってしまったようで、相撲好きで通るようになっていた。金沢で過ごしたことが影響したのであろうか。
「まいどさん」は『北の海』の一節を紹介し、《この赤鬼青鬼は誰のことかが金沢検定の上級試験に出ました。》と続けるが、「まいどさん」も金沢検定上級試験を受けたようだ。このような問題が出るようなら、私は初級試験も不合格になりそうだ。なお、初級には「まいどさん」が正解になる問題も出されており、これなら解けそうだ。
「まいどさん」は南町へ。「大樋焼」のお店の前では、看板の揮毫をしたのは小松砂丘と説明。《彼はマメな人で、自分が入院した病院の四百もあるすべての部屋に色紙を贈ったと言います。また、懇意にしている居酒屋にも残しているそうで、骨董屋に行くと彼の作品にお目にかかれるかもしれませんね。》と紹介している。内灘砂丘の間違いではなさそうだが、小松砂丘とは何者?と思うようでは金沢検定に合格しそうもないが、私が金沢に住んでいた時、彼も金沢に住んでいたのに、一度も名前を聞いたことがない、少なくとも記憶にないのはいったいなぜなのか。とにかく、描いて書いて書きまくった俳人らしい。
などと、小松左京ではなく、小松砂丘に思いをはせていると、「まいどさん」は早や尾山神社である。《先ほどの犀川大橋と同じく、造り変えの時かなりの議論になり反対論が巻き起こった建造物ですね。》と「まいどさん」。反対論の起った建造物とは尾山神社の神門である。子どもの頃から不思議な建物だと思ってきたが、私にとっては見慣れた門で、この門がなかったら、尾山神社は尾山神社でなくなってしまう。
ここで「まいどさん」は尾山神社にまつわる三作品、三島由紀夫の『美しい星』、唯川恵の『雪おんな』、白石一文の『一億円のさようなら』を紹介する。『雪おんな』は、「二月の雪は暖かい」という内容だが、『美しい星』では、《二人はこうして神社の神門のもとに達した。神門はまことに奇抜な意匠で、明治八年オランダ人ボルトマンの指導によって建てられた南蛮趣味の最後の名残だった。》《支那風の意匠のいたるところに梅の紋章がちりばめられ、第三層のオランダ風の窓には緑や青や赤のギヤマンが嵌め込まれていた。そのギヤマンの五彩の裡には、昔は銅板四柱造の高揚塔が光芒を放ち、遠く日本海をゆく航路の目印とされた。》と神門が紹介され、『一億円のさようなら』では《南町の信号の近くには金沢城を背負うような形で藩祖前田利家を祀る尾山神社が建っていた。鉄平はその尾山神社の神門の前まで来て立ち止まった。神門は和洋折衷の非常に斬新なデザインの建築物としてどのガイドブックのも写真付きで紹介されている。雷の多い金沢の気候を反映して、神門のてっぺんには避雷針が設置され、これは現存する日本最古の避雷針なのだという。なるほど神社の入り口とはとても思えないような奇抜な門だった。》と描かれる。これだけ読めば、パンフレットの解説は不要になりそうだ。白石一文は父子二代の直木賞作家。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内④

「まいどさん」は、かつて五木寛之が住んでいた東山荘を後に、大学病院の前を過ぎ、木曽坂の上あたりまで来ている。《では、加賀藩前田家の菩提寺宝円寺に立ち寄り、紫錦台中学校へ行きたいと思います。》と、どうやら「まいどさん」は宝円寺へ案内するようだ。この辺一帯、私の庭のような懐かしいところである。
《宝円寺は四高卒業生の中野重治の散歩コースだったようです。》と「まいどさん」。私は近くに住んでいたが、初めて知った。ここで「まいどさん」は、《俵屋宗達の墓があるという宝円寺の墓場へ私はよく歩きに行く。あすこいらは、まるで山のなかへでも入ったように道が細くて歩きにくく、むこうがわの病院のある岡とのあいだの深い谷なぞは藪だの木立だのでほとんど見えないまでに覆われている。草の伸びたこのごろなぞは、まむしでもいそうで、歩いていても不安な気さえする。》と、中野の『六月』という作品を紹介する。
なぜ中野が墓地めがけて散歩したのかわからないが、「まいどさん」によると、当時中野は八坂下の安楽寺に下宿していた。八坂というのは、国立病院の横を小立野台から下る急坂で、19%くらいの勾配がある。自転車で下るのは無謀に近く、脇に階段が設置されている。東京・豊島区にある「のぞき坂」(勾配22%)に匹敵する急坂だ。坂下は木曽坂の坂下になる。中野は深い谷を通る木曽坂を上って小立野台上に出て、宝円寺へむかったのだろう。谷の向う側の病院は国立病院で、左へ目をやれば、北陸学院、紫錦台中学と続く。
《ここが紫錦台中学校です。私の母校でもあり、美川出身の島田清次郎が通った学校です。》と「まいどさん」。宝円寺から石引通りへ引き返し、辰巳用水沿いにやって来たのであろうか。三尖塔の校舎は旧制金沢第二中学校の校舎を引き継いだもので、現在は金沢くらしの博物館として活用され、私が過ごした教室も保存されている。
島田清次郎。《通った学校》と「まいどさん」は説明している。ということは卒業生ではないのだが、一応、二中・紫錦台中を一体に、私たちの先輩にあたることになる。私にとっては新事実。島田は1911年に金沢第二中学校に入学し、追い出される形で翌年、明治学院に転校。そこでも折り合いが悪く、1913年に二中に復学。しばらくして金沢商業へ転校し、ここも退学。一貫して成績優秀、弁が立った。明治学院と言えば島崎藤村。1910年に妻を亡くし、1911年には姪こま子と関係をもち、1912年、こま子は藤村の子を身ごもり、藤村は1913年に渡仏した。島田清次郎と島崎藤村の年譜を並べてみると、まったく別々の人生であるが興味深い。
私が妙なところに関心を示している間に、「まいどさん」は《彼は、母子家庭の貧乏から抜け出そうと願い、弱冠二十歳で日本中の注目を浴び、自分の力を勘違いした悲劇の文学青年ですね。『地上』という作品は映画化されまして、今でも「島清恋愛文学賞」としてご縁が残っていますし、私はエキストラとしてこの映画に出たことがあります。それは亀坂という坂が舞台の場面でした。》と、説明している。「まいどさん」がエキストラとして、しかも「亀坂」の場面で出演した、これまた初めて知った事実。映画『地上』(大映)は1957年の作品であるから、「まいどさん」も小学生だった。私も金沢にいれば、ロケのようすを観に行ったであろうが、どうやら金沢にはいなかったようである。そのかわり私は輪島で何度も映画のロケを観に行った。残念ながら、エキストラで出てくれという話は一度もなかった。「まいどさん」はこの後、『地上』の一節を紹介している。
「まいどさん」は金沢城・百間堀を下って、四高へむかって案内する。その道すがら、四高卒業生井上靖の『金沢城の石垣』を《城の石垣が一番美しくみえるのは、やはり冬であろう。石垣の周囲に雪が置かれているときえ、近くに立ってみると、しっとりと水気を含んだ石の一つが不機嫌に冷たく黙しており、いかにも北国の石垣だという気がする。私はそんな石の壁に寄りそって、禁欲的な青春時代をすごしたような気がする。》と引用する。「個人の感想」である。私は石垣の美しさより、どのように積み重ねてつくったのだろうという方に関心が向く。
《はい、百間堀ですね。江戸時代からの面影が色濃く残るお堀です。向こうに卯辰山が見えます。金沢でオーエルの経験のある唯川恵が『シフォンの風』に表現している百間堀界隈の風景です。》と、「まいどさん」は『シフォンの風』の一節を紹介していく。
唯川恵は直木賞作家。金沢の桜町というから、浅野川沿い、鈴見橋に近いところの生れ。百間堀から歩いても10分ほどで行ける。旧制金沢第二中学校の高校としての後継、金沢錦丘高校を卒業し、あの金沢女子短期大学に進学。卒業後10年ほどOLの経験がある。少し先輩にあたる桐野夏生も金沢生まれ。3歳まで金沢で過ごした。やはり直木賞作家で、現在、日本ペンクラブ会長。初代は島崎藤村。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内③

国立工芸館は陸軍の偕行社の建物を利用したものである。「まいどさん」はここで五木寛之の『ステッセルのピアノ』の一節を、偕行社の建物は《鹿鳴館ふうという大げさだが、明治期の西洋式木造建築としては、なかなかに格調のある建物だ。ひとことで言ならフランスふうの軽さを持ったバロック折衷式とでも言えようか。「出羽町練兵場」の北の一角にあった偕行社の一階にそのピアノがあった。日露戦争の旅順陥落後、敵のステッセルが乃木将軍に贈ったもの。旅順で一番多く兵士を失った九師団の死者への鎮魂ゆえか。》と引用し、さらに《今このピアノは蒔絵などが美しく施され、金沢学院大に置かれているそうです。》と紹介している。金沢学院大学は金沢女子短期大学から発展したもので、郊外の末町にあり、泉鏡花記念館館長の秋山稔さんが学長を務め、室生犀星記念館館長の水洞幸夫さんが副学長を務めている。梅花女子大学教授で「チコちゃんに叱られる」でおなじみの東四柳祥子さんは、東四柳史明金沢学院大学名誉教授の娘。父親を尊敬していると言う。
江戸時代、ほとんど戦乱がなかったためイメージしにくいが、徳川政権は軍事政権であり、城下町とは軍事都市である。金沢では明治政府のもとでも日本軍の拠点のひとつが置かれ、軍都であった。金沢城跡地には第九師団が置かれ、まさにこのあたり一帯に「出羽町練兵場」があった。レンガ造りの兵器倉庫は戦後、金沢美術工芸大学として使用され、私も子ども絵画教室に参加したことがある。その美大は金沢刑務所跡地へ移転したが、「まいどさん」もそれにつられるように移動する。
《五木寛之は若い時金沢の刑務所裏に下宿していました。そのアパートが二、三年前に研修で行ったときは現役で使用されていましたね。旧美大の近くで、東山荘といいます。》と案内した「まいどさん」は、五木の『小立野刑務所裏』という作品の一節を紹介している。私も一時期近くに住んでいたので、毎日眺めていた刑務所の壁である。受刑者が時おり作業していたり、私も展示会や散髪に、何度も中を訪れていたので、身近な存在であった。その刑務所が鈴見へ移転し、替って美大が引っ越してきて、明るく開放的な空間になった。刑務所の一部は金沢出身の建築家谷口吉郎などの尽力で明治村に保存されたことを「まいどさん」は紹介している。
兼六園内にあった県立図書館は、本多町に移転し、さらに小立野の旧崎浦地区に移転したが、2023年、美大はそのむかいに移転した。
「まいどさん」は《次に、金沢縁の文学者として人気の高い竹久夢二の足跡を辿りましょう。》と、夢二作の《湯涌なる山ふところの小春日に眼閉ぢ死なむときみのいふなり》《吾がためにつくるココアの匂いより里居の朝の秋立ちにけり》の二首を紹介し、《短歌の中のきみとは彦乃の事で、『山へよする』という作品集の中にある歌です。山は彦乃、川は夢二で、そう呼び合ったそうです。夢二の奥さんは味噌蔵町出身のたまきで、夢二式美人のモデルになった人、彦乃は晩年の若き恋人で、夢二とともに湯涌温泉に宿泊した人です。》と解説する。
「まいどさん」も湯涌温泉まで案内したいだろうが、バスの本数も少ないし、まだ回る所も多いから、引き返してしまう。けれどもここまで来たら行かない手はないので、湯涌温泉で竹久夢二と笠井彦乃が宿泊した山下旅館(現、お宿やました)まで、急いで行ってみよう。山下旅館は湯涌温泉街の一番奥にある。
「お宿やました」のホームページには、《大正時代には、詩人画家の竹久夢二が恋人・彦乃と、人生で最も幸せな時間を当館で過ごしたとされています。》と書かれている。夢二というのは、大正頃活躍した文豪たちを調べていると、よく出てくるし、金沢とのつながりも強い。私の夢二への思い入れも大きくなる。「お宿やました」には夢二の作品がいくつも飾られており(レプリカ)、むかいには金沢湯涌夢二館がある。金沢湯涌夢二館のホームページには、彦乃は《湯涌温泉滞在後、結核で倒れ、わずか25歳でその生涯を閉じる。大正13(1924)年、新聞の連載小説として夢二が発表した『秘薬紫雪』は夢二と彦乃がモデルであり、二人が愛を誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっている。》と記されている。
「お宿やました」は、内装、小物、照明すべて、玄関から廊下、部屋、浴場に至るまで、統一されたトーンで、落ち着いた雰囲気が醸し出されている。部屋から眺めるすぐ向うの斜面はさまざまな緑がしっとりと、安らぎを感じさせる。食事は部屋出しで、女将とも話しができる。ギャラリーでは夢二の絵を眺めながら、ゆったりと時を過ごすことができる。夢二の絵は美人画だけではない、洋装の子どもの絵もある。ギャラリーから見える崖の緑も美しい。この崖の上に、かつて白雲楼ホテルがあった。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内②

「まいどさん」は裏通りを通って竪町商店街の多田の油屋さんへ。この道、《室生犀星が幼いころお使いで通った道です。》と案内がある。そして、犀星の『作家の手記』には、《私の家から油屋までは犀川大橋を渡り、蒲鉾屋の角をまがって間もなく河原町に出て、そこから確か米屋の横町をまっすぐ打つかり、左に曲がって竪町を出たところに油屋があった。》と、道順が示されている。当時、犀川大橋は木橋だった。道順が書かれていても、現在の道とは異なるであろう。明治44年の地図を手がかりにしてみると、かつては市電が通った片町通りを香林坊の方にむかうと、広い通り、つまり犀川大通りが交差する「片町交差点」。ここで右折する。まもなく、「河原町交差点」。河原町はすでに存在せず、片町1丁目に含まれる。当時は狭い道で、池田町三番丁まで来ると、突き当りで、左折して50mほどで竪町。この道は当時のままのルートで、竪町の通りを横切って、狭い道を入ると有料駐車場があり、この一帯が多田油屋のあったところ。そういえば、この近くに用水が流れ、油車という町名があるから、かつて、水車を使って油を絞っていたのであろう。多田の油屋は1607年創業と言われ、現在は郊外に移転している。
犀星は《油は菜種油であつて法灯につかひ隔日に一升いるのだが、》と書いているが、そう言えば犀星の家は雨宝院というお寺であった。油は必需品だ。
《立派な五葉松ですね。元は盆栽だったそうです。まいどさんのパワースポットになっています。》と「まいどさん」が案内する五葉松。多田家の庭にあり、現在も駐車場の一画に堂々と枝をのばし、葉を茂らせている。私有地であるので、見物には配慮したい。この近くには、天狗のお面が怖い「天狗中田」の肉屋があり、私が生まれた時に暮らしていたという杉浦町も、すぐそこである。
「まいどさん」は次、「ふるさと偉人館」へ案内する。《昔は北陸学院の幼稚園があって、中原中也が通いましたね》。その通り。ついでながら、私も通った懐かしい幼稚園。入園試験の時のようすは今でもはっきり覚えている。私は途中で小立野へ引っ越したので、兼六園の入口まで母が付き添い、そこから私ひとりで、兼六園の中を通り、広坂口から石浦神社の前を通って、北陸学院幼稚園へ通った。帰りのことはまったく覚えていないが、今のように電話で連絡できる時代ではないので、いつ帰ってくるかわからないのを母が待っているとも考えられず、兼六園を抜けてから、石引通りを、国立病院前、紫錦台中学前と通って、安藤町までひとりで帰ったのだろう。我ながら、幼稚園児、がんばったものだ。どれだけの期間通ったのかわからないが、国立病院と紫錦台中学の間にある北陸学院中高校の敷地に建てられた第二幼稚園に転園でき、長距離通園は終りを迎えた。
「ふるさと偉人館」のあたりに官舎があって、杉森久英が住み、近くの旧制第一中学校(一中)へ通っていたという。杉森の父は官吏で、当時は県庁に勤めていた。
「まいどさん」は杉森の『能登』を取り上げ、一中の鐘にスポットを当てた文章を紹介している。杉森の家は学校から200mもない距離で、《始業の鐘が鳴りだしてから家を出ても、出欠の点呼に間に合った》ということで、その鐘の鳴り方が登校生の行動を巧みに操るもので、《一種の芸術的陶酔……》と表現される。
「まいどさん」は、《一中の名残は中村美術館の敷地内の石碑と、本多町の通りで交通のちょっと邪魔になるモミノキと松の木ですね。一中の卒業生が学校の名残に残してくれと嘆願して今の姿で受け継がれました。昔壇ふみさんが、木を残すのも車線を譲り合うのも金沢人を感じさせるよいエピソードだとほめていましたね。》と案内する。犀星の異母兄弟小畠悌一が通った当時、一中はこの地にあり、犀星が顔を出したのもこの地である。
一中のモミノキと松の木(アカマツ)が本多町通りに沿って聳えているところ。これらの木々によって仕切られて、住宅地との間に側道のような道がある。当時、石浦神社の横に住んでいた私にとって、100mほどのところで、何やらそのあたりをうろうろしていた記憶がある。けれども私にとってはむしろ、本多町通りをはさんだ向かい側にあったアメリカ文化センターの、あの星条旗がはためく光景が印象的だった。アメリカというものも、日本が戦争に負けたと言うこともわからないのに、なぜか星条旗が晴れがましく威張って見えた。とにかくこのあたり、旧制第一中学校の校地であり、私はそのすぐそばに住んでいたことになる。一中は1937年、現在地(富樫)に移転、金沢泉丘高校として引き継がれている。当時、「陸の空母」とよばれる、威容を誇る校舎だった。
「まいどさん」が続いて案内するのは石浦神社かと思ったら、かつてのアメリカ文化センターの奥、中村記念美術館のところから、美術の小径を通って一気に小立野台へ上ってしまった。樹木がうっそうとした急崖で、階段が続き、脇を辰巳用水分流が勢いよく流れている。この水は21世紀美術館の南端を流れ、鞍月用水に合流する。私はこの美術の小径を通ったことがないけれど、ここの急崖は、幼い頃、しいの実やどんぐりを拾う遊び場だった。などと、懐かしく思い出していると「まいどさん」。《美術の小径は内田康夫の『金沢殺人事件』の舞台になっています。》と説明している。確かに事件が起こりそうなところで、このような話題をあまり出して欲しくない。
とにかく上れば小立野台である。右手が国立工芸館、左手が石川県立美術館。江戸時代、この一帯、加賀藩家老本多家の上屋敷があったところ。家老と言っても5万石で、大名並みであった。下屋敷と家臣団の居宅は台下の本多町、下本多町にあり、現在の美術の小径のルートを通って上屋敷と行き来したという。石川県立美術館が建っているところは、金沢女子短期大学と付属高校があったところで、高校生の私は文化祭ともなれば、短大付属高校(短高)を訪れていた。もちろん、藤花や金城にも出かけ、文化祭は女子校巡りの好機であった。それぞれに懐かしく甘酸っぱい。
                     (つづく)
【金沢ブログ】 まいどさんが案内①

「雪嶺文学」70号に、中田廉さんが書いた「文学者が描く金沢をまいどさんが案内――まちなか編」が掲載されている。私も東京の「街歩き」を漱石などの作品とともにおこなっており、東京ばかりでなく、ふるさと金沢についてもやらなければ片手落ちになると思っていた矢先で、先を越されてしまったと思ったが、彼女は《北野さんのような「ねこ」というしゃれた案内人(?)を思いつかなかったので》、《観光ボランティアガイドまいどさんが案内する形で表現したいと思い立った。》と書いている。
中田さんは私と同じ中学校の卒業生で、なぜか二人の「キーワード」は「亀坂(がめざか)」である。彼女の文章を読みながら、慣れた街とは言いながら、一度、彼女に金沢の街を案内してもらいたいと思ったが、その願いが叶うことはない、遺稿になってしまった。

中田さんの「まいどさん」は犀川大橋から案内を始める。寺町台がせり出して、犀川が狭くなったところに架けられた犀川大橋は橋脚がなく、どっしりとした鉄橋で、私も大好きな橋である。「まいどさん」は架橋100年(2024年)のこの橋が《大正時代に一度立派な石橋が架橋されて、すぐ流されたことご存じですか。》と問いかけ、杉森久英の『能登』という作品を紹介している。
『能登』によると、犀川大橋が旧藩時代からの木橋から洋風の石の橋に変わったのは大正8年(1919年)で、大正11年(1922年)の洪水で流失。その後、架け替えに鉄橋案が出て、《木造のものの落着いた、古雅な味に執着する昔気質の市民は、百万石の風致を害すると、やかましく文句を言ったが》、設計した技術者は橋脚なしの橋しか造ることができず、結局、山県治郎県知事が架橋を強行したという。
大正期、犀川大橋と浅野川大橋は市電を通すこともあって、木橋を石橋に替える事業が計画され、先に犀川大橋が完成し、浅野川大橋は1922年に完成した。「女川」と言われる浅野川に架かる大橋。実は「男川」と言われる犀川にも架けられていたわけで、犀川大橋が先輩であった。それが浅野川大橋完成の年に流されてしまい、鉄橋に変わったため、「百寿祭」は浅野川大橋が2022年、犀川大橋が2024年と逆転してしまった。浅野川大橋を見るにつけ、犀川大橋も石橋のままだったら、どんなに優美だろうと思うが、防災上、増水時に浅野川大橋はダムの役割を果たして河水を堰き止め、水害のキケン性を増大させる厄介者である。川幅が狭くなり、水勢が強まる位置にある犀川大橋から橋脚をなくしたのは正解である。私は現在の橋を見て育ったので、それぞれの風情に合った自慢の橋である。
「まいどさん」は、犀川大橋の名を揮毫したのは次の長谷川久一知事で、《私は市民の反対を押し切って架橋を実現した山県治郎氏に書いてほしかったと思います。》と案内している。気持ちはわかるが、橋が完成した時、山県は広島県知事で、さらに翌年には兵庫県知事になっている。長谷川の方もすぐ和歌山県知事に転任している。当時は2年前後で知事が入れ替わる時代で、市民の反対があっても押し切ることができたし、揮毫もたまたまその時に県知事だったまで。どうも、あまり感情を挟み込む余地はなさそうである。「まいどさん」も、そもそも金沢人自体、必ずしも古きものにしがみつくだけではないのでは……、と思い直したのか、《尾山神社といい、古いものを変える時の金沢市民の気質をここでも見ることが出来ますね。》と、語っている。金沢駅を見ても、それがわかる。
                        (つづく)
【金沢ブログ】 「雪嶺文学」70号

「雪嶺文学」70号(2025年春号)が発行された。いつものように多彩な内容である。巻頭は、金沢学院大学学長で泉鏡花記念館館長の秋山稔さんが書いた「《閑話間奏》〈物語〉の始まり」。
《誰もが、〈物語〉を抱いて生きる。問題は、書き出すかどうかだ。起動するか否か、契機を持つかどうかだ。》と書き出した秋山さんは、《泉鏡花は、十五歳の春、尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』(明治二十二年四月刊)に触れて、〈物語〉を起動した幸運な作家である。》と続ける。
秋山さんはこの『二人比丘尼色懺悔』について、戦国時代、若い尼僧若葉の庵を行脚尼僧芳野が訪れ、お互いに出家の理由を語り合う中で、討ち死にした若者小四郎が若葉の夫であり、芳野の許嫁でもあったことがわかるまでを描いた作品と紹介し、《かけがえのない〈物語〉を抱く若い女性が、互いの〈物語〉を起動させる契機を描いた作品なのである。》と加えて、《刺激をうけた鏡花は、創作「水鏡」を懐に上京し、十八歳で紅葉に入門し、作家への歩みを始めた。》と書いている。私は、もしこの作品に出会っていなければ、文豪・泉鏡花は生まれていなかったかもしれないと思った。
秋山さんは、《鏡花が抱いた〈物語〉は、おそらく二つあった。》として、母を喪った9歳の冬の〈物語〉と、深く慕っていた近所の時計屋の娘湯浅しげが富豪に嫁いだ14歳の春の〈物語〉を挙げている。
ここで秋山さんは、三島由紀夫が鏡花について、「自我の奥底にひそむドラマだけしか追究しなかった」と指摘していることを紹介し、《それは、「かぎりなく美しく、かぎりなくやさしく、同時にかぎりなく怖ろしさに充ちた年上の美女と、繊細な美少年との恋物語」である。》との三島の指摘に深く同感している。
そして秋山さんは、鏡花が22歳の一年間を費やした「一之巻」から「誓之巻」に至る最初の具体化で、「情懐自伝」という原題が端的に鏡花固有の二つの〈物語〉の具体化であることを示唆しており、明治29年11月に同時発表された『照葉狂言』『龍潭譚』は、二つの〈物語〉の見事な昇華とし、さらにこれは、鏡花と同じ二つの〈物語〉を抱く青年アントニオを主人公とする『即興詩人』(アンデルセン原作、森鴎外訳、明治25年11月~)への《ただねらぬ共感に違いない。》と指摘している。
この後、秋山さんは《翻って、我が〈物語〉はどうか。》と自ら問い、22歳の春に丸4年に亘る〈物語〉が終ったが、書き出すことはなく、研究者をめざして進学を決めたと書き、当時を振り返る。とにかく、9月の入試に備えて、文学史の通読と併せ、『鏡花全集』29冊を、メモを取りながら読破。それが《今の私の根幹、背骨になっている。》と言う。そして、秋山さんは、《泉鏡花なしに、この五十年はなかった。》と書くとともに、《しかし、まる四年に亘る〈物語〉なしには、今の私がないことも確かだ。》と加えている。
私は、学術論文を読んでも書いても、まったくおもしろくなく、おまけに英語ができず、研究者をめざすことはやめた。今も後悔の念がないわけではないが、研究者と素人をつなぐ役割でも果たすことができれば良いと考えている。
さて、秋山さんの丸4年に亘る〈物語〉とはいったい何なのか。秋山さんは書いていない。私はついつい、大学時代の熱烈な大恋愛を想像してしまうのだが、それは小説家的発想なのだろうか。秋山さんの言に従えば、私も《〈物語〉を抱いて生き》てきた。そして、高校生、大学生の頃から書き出してきた。学術論文を書くよりはるかに楽しかった。私が〈物語〉を書き出したから、井上雪先生とも出会い、こうして雪嶺文学同人として名を連ねることもできている。けれども、書き出せば誰でも鏡花のように文豪になれるわけでもなく、何とも中途半端な自分が「ここに」いる。まあ、それでも人生は人生である。どのような人生を歩もうが、同じである。

※「館長のつぶやき」に「緊急:金沢ブログ」として、大の里についてのつぶやき掲載。
【金沢ブログ】 能登半島地震から一年

能登半島地震から1年。能登の人たちは、元旦にまた大きな地震が襲ってくるのではないかと、不安の中に2025年1月1日を迎えたと聞く。そして、1月1日は無事、過ぎていった。
テレビなどでも、1年経った様子を、当時の映像や中継を交えながら放送していた。この間、全国からほんとうに多くの支援をいただき、能登の人たちも、ひとりひとりよく耐え、よく頑張った。それでも、よくみれば少しずつ改善の兆しが見られるものの、全般的に復旧、復興は遅々として進んでいないように見受けられる。それにしても、追い討ちをかけた豪雨災害が何もかも打ちのめしてしまった、取材のインタビューからそれが伝わってくる。
ひとつの大きな事業を成し遂げた「普通の人たち」を群像として描き出す企画、NHK総合テレビ「新プロジェクトX」。昨年12月21日放送された、「能登炊き出し10万食」では、震災直後から、自らも被災しながら輪島の人たちの食を支えた人たちを、地道な取材映像と、司会者と当事者たちの座談で構成していた。その中で、重蔵神社の能門伊都子宮司が、「震災直後から、電気が使えた」という話しをしており、姪が「重蔵神社で電気トースターを使って餅を焼いて食べた」と言っていたことが裏づけられた。食べ物がない中、各家庭から持ち寄られた餅は、神社の電気のおかげで、人びとの空腹を少しは充たすことができたようだ。
仮設住宅が床上浸水し、全壊の自宅へ戻って、すき間で生活していた親戚も12月26日に仮設へ戻り、新年を迎えた。高齢の兄も「仮設はエアコンの音がうるさいけれど、すき間風もなく、4畳半の部屋の中にいる分には暖か」と言いながら、不便ながらも日常生活を取り戻している。けれども、すべてが「仮の生活」であり、今後はまったく見通せない。
輪島市の人口は2万人を割ったという。
私が子どもの頃には、現在の輪島市域の人口は5万人を超えていた。
震災1年。多くのマスメディアの報道から、能登には多くの伝統文化があり、人びとを惹きつける生業があり、能登を支えてくれる多くの人がいることを、改めて知った。「ふるさと能登」への愛着は強まり、帰りたいという思いも強まったが、何もできない私がいることへのもどかしさも痛感している。
ブログ内の「金沢ブログ」では、「えがら饅頭」に関する記事も書いています。写真付きです。
【金沢ブログ】 大相撲

大相撲九州場所が終った。
横綱不在の場所は、千秋楽結びの一番で東西の大関が優勝をかけて闘うという最高の形になった。私が子どもの頃は若乃花と栃錦の時代で、テレビで相撲を観るため、床屋へ出かけた。客よりテレビ観戦の人間の方が圧倒的に多く、今で言う「パブリックビューイング」の様相である。栃若はよく優勝を争い、千秋楽も手に汗握った。私もそうだが、圧倒的に若の花ファンが多かった。やがて相撲界は柏鵬時代に移っていく。
今回の九州場所における、琴桜と豊昇龍の気迫はすごかった。今までと表情が違った。口には出さないが大の里が超速で大関に昇進し、しかもすでに2回も優勝を経験している。豊昇龍は1回、琴桜はまだ優勝経験がない。このまま行けば、大の里が先に横綱になってしまうかもしれない。「負けてはいられない」「大の里には負けたくない」、そんな思いが二人の闘争心に火をつけたのだろう。
このところ、上位陣が安定を欠き、下位の力士が優勝する場面が増えた。誰が優勝するかわからない場所はある面おもしろかったが、そうした争いの中から、豊昇龍が抜け出して、昨年9月場所から大関を務め、琴桜は今年3月場所から、そして、大の里がこの九州場所から大関を務め、この三人が一歩抜きんでた形である。豊昇龍も大の里も優勝して大関昇進を決めたが、琴桜は優勝なしに大関に昇進した。琴桜としては何とか優勝したい、優勝経験なしに大関に居ることになんとなく居心地の悪さを感じていたかもしれない。
琴桜は27歳。祖父は元横綱琴桜、父は元関脇の琴ノ若。相撲一家である。中学・高校と家を離れ、隣県の埼玉栄で相撲部に入った。どうもその頃からスロースターターだったようで、頭角を現すには時間がかかった。豊昇龍は25歳。元横綱朝青龍が叔父にあたり、レスリング留学で柏日体高校にやって来て、卒業後角界に入った。
大の里は二人のように、角界に身内をもたない。石川県は相撲の盛んなところで、今年ですでに108回を迎える高校相撲金沢大会は「相撲の甲子園」にあたり、最近は埼玉栄や鳥取城北が団体優勝している。そのような中で、大の里は中学から新潟県の学校に相撲留学した。日本体育大学を卒業し、2023年5月場所、幕下10枚目格付で初土俵。大銀杏を結うこともできない状態で大関に昇進した。24歳。
大の里の突き押しはものすごく、あっという間に相手を土俵の外へ押しやってしまう。強い!けれどもその大の里も負ける時は実にあっけなく、弱い!9月場所、彼は優勝したが、勝った相撲も私には不安が残った。一緒に土俵から落ちてしまうのである。速攻は良いが、あまりに速すぎて、勢い余って自分もそのまま飛び出してしまう。当然、相手が一瞬残れば、自分の方が負けになる。もちろん、そのようなことを私が指摘しなくても、本人も親方もわかっている。九州場所にはしっかり修正してきた。勝った相撲、ほとんど大の里が土俵の中。しっかり腰を落して、相手を土俵の外に出している。「これは行ける」と思ったが、プロの世界はそう甘くない。一人ひとり生活がかかっている。大の里のもろさは、上体が起こされた時である。相手は押し込まれながらも、大の里の上体を起こそうと策を繰り出してくる。力の差があれば、そのような策を繰り出す前に突き出されてしまうが、力のある力士も何人か存在する。土俵際でかわされたり、上体を起こされてなすすべがなかったり。
二桁勝利はならなかったが、大の里自体が今後、勝ち星を増やし、横綱になり、さらに優勝回数を増やすためにも、九州場所はとても学ぶところが多かったに違いない。華々しい過去があっても、大相撲の世界では、まだまだ経験が浅い。稽古はもちろん大切だが、一番一番真剣勝負の本場所の土俵は、稽古をいくらやっても得られないものを与えてくれる。この経験を活かして、1月場所にどのように修正して相撲を取ってくれるか、しっかり見ていきたい。どんどん修正していけば、大の里に勝てる力士はどんどん少なくなっていくだろう。そのくらいの逸材だ。
同郷の大の里のことを思っていると、子ども時代を思い出してしまう。小学校でも中学校でも、相撲は重要な遊びのひとつであった。校庭には自分たちで円を描いた。体育館ではバスケットボールのサークルがちょうど良かった。階段の踊り場も相撲場になった。たまには高校の相撲場に入り込んで、土俵の上での相撲を楽しんだ。私は右四つでも左四つでも良かったが、相手を押し出すだけの力がなく、いかに相手を投げてころがすか考えていた。
【金沢ブログ】 イヤな現象

11月6日午前6時42分頃、野々市市最南部、白山市との境界付近、深さ10kmのところでマグニチュード3.8の地震が発生した。最大震度3で、地震の規模も含めて、たいした地震ではない。地震大国日本では一々気にしてはいられない程度の地震である。けれどもこの地震が「森本・富樫断層」で起きたことに、私はイヤな想像をしてしまった。金沢市街地と山地の境界付近を20km以上にわたって北北東から南南西に伸びているこの断層。近い将来、マグニチュード7クラスの地震が発生し、最大震度6、場合によっては7に達すると予測されている。能登半島地震でも金沢市内の傾斜地では崩壊が発生し、家屋が倒壊し死者も出ている。「森本・富樫断層」が大きく動けば、こうした被害がもっと大規模に起きることになる。
能登半島地震によって、まわりにひずみが生じ、能登半島西方沖や「森本・富樫断層」などで、大きな地震が発生するキケン性が高まっているとも言われている。それと呼応するかのように、白山でも地震が発生している。11月4日午後7時21分頃発生した地震は、深さは「ごく浅く」、マグニチュード4.2だった。今すぐ白山が噴火する状況になく、「噴火警戒レベル」は1のまま。ただし、白山は活火山であり、留意が必要とのこと。
恐れていながら、「まさか」と思っていた集中豪雨が降ったことを思えば、「まさか」が現実のものになってしまうことはある。同じ石川県内で、「まさか」また大地震が起きることはないだろう。そう信じたいが、「まさか」が現実になることもある。金沢城の石垣が大きく崩れ、卯辰山や小立野台地、寺町台地の斜面が各所で崩れ、美しい黒瓦の街並みが崩れ去った故郷金沢を想像したくない。けれども、そのようなことを想定した備えを早急に整えて欲しい。
そして、今冬の大雪も心配だ。昨年と同様、年末に「ドカ雪」が降るキケン性もある。大雪は新たな土砂崩壊や融雪洪水を発生させる。能登半島付近の海水温度が高く、大気中の水分量も多くなり、大雪や大雨が降りやすくなっていると、専門家の指摘もある。
ここに書いたことが当たらないで欲しい。
【金沢ブログ】 恐れていたことが発生――奥能登水害

鶴瓶の家族に乾杯「生放送スペシャルin 石川県輪島市」(NHK総合、9月16日放送)を観て、笑福亭鶴瓶さんや常盤貴子さんの言葉に、ちょっとホッコリしていたのも束の間、9月21日、輪島をはじめ奥能登地方は集中豪雨に見舞われた。
輪島では、朝7時から8時までの1時間に降った雨は9.0mm。それが9時までの時間雨量98.5mm、10時までの時間雨量83.5mm。つまり2時間で182mmの雨が降った。その後は、38mm、28mm、15.5mm、6.5mmと雨は小康状態にむかっていった。土砂降りの2時間の中で、ある時間帯の1時間雨量は121mmに達した。
私は7月2日の「【金沢ブログ】能登半島地震から半年」で、つぎのように書いていた。
――7月1日、元日の能登半島地震から半年が過ぎました。(中略)半年たって、ふるさとの見る光景はほとんど何も変わっていない。テレビで観ている私だけでなく、現地に住んでいる人たちもそのように感じているようです。けれども、各所に仮設住宅が建ち、お店も開き、バスも走り、学校も後しばらくで夏休みを迎えようとしています。少しずつ日常を取り戻しているようです。テレビのニュースで、仮設住宅における自治組織づくりがなかなか進んでいないと報じられていました。今まで避難所や親せきなどで、周りに気を遣いながら暮らして来て、何か一人になって落ち着きたい、そのような心理が働いているのかもしれません。あまり外へ出ない。まわりに誰が住んでいるかよくわからない。高齢者が多いと、積極的にリーダーシップを発揮してみんなをまとめる気力も体力もない。やはり外からの働きかけと支援がなければ、難しいと思わされます。「仮の住まい」と言っても、これから1年、2年、現実的にはもっと先まで仮設で暮らしていくことになるかもしれません。「これを御縁に」と言っていた人がいました。たとえ「仮」でも、これからお付き合いが必要になってくるでしょう。――
このように書いた、その後の文章。――仮設は空いている土地に建てたので、必ずしも条件の良いところばかりとは限りません。海岸の埋立地に建っているキリコ会館近くの仮設も、冬の強風時に大丈夫か、台風に大丈夫か、心配になります。文化会館駐車場の仮設。河原田川が直角に曲がる攻撃斜面にあたり、集中豪雨で川の水が急激に増えた時、そのまま直行して仮設住宅を押し流してしまうキケンがあります。早めに文化会館へ避難してもらいたいです。宅田町の仮設は水没する可能性もあります。この地区、全般に大規模な造成がおこなわれ、かつての保水能力(貯留能力)が低下しており、心配です。3時間降雨が150mm程度で大水害に見舞われた輪島ですから、地震だけに目を奪われず、水害にも目配りしておく必要があります。(以下略)――
ここに書いた「宅田町の仮設は水没する可能性もあります」。今回、宅田町の仮設住宅では床上浸水が発生した。心配が現実のものになったわけで、震災被災者は二度目の被災を経験することになってしまった。まさか、こんなにも早く私の心配が現実のものになるとは、私自身びっくりしている。私は、「文化会館駐車場の仮設。河原田川が直角に曲がる攻撃斜面にあたり、集中豪雨で川の水が急激に増えた時、そのまま直行して仮設住宅を押し流してしまうキケンがあります。」と書いているが、左岸の宅田町の方へ氾濫したため、右岸の攻撃斜面からの氾濫が免れた。
河原田川と鳳至川の合流点の三角地帯に建てられた輪島市役所も水没していた。災害時の防災拠点をつくるような場所ではない。
輪島市街地は1956年7月、1958年7月、そして1959年8月26日と、4年のうちに3回も水害に見舞われた。その中で1959年の水害は被害がもっとも大きく、1階部分が完全に水没した家もある。だいたい、元日の地震で液状化現象がみられた地域が、水害でも被害が大きかった。私も水害の被害に遭った家に食事を届けたり、泥の搔き出し、清掃などに駆り出された。キリコのお祭りも終わり、大斎市がおこなわれている時期。夏休みが終わり、学校が始まる頃であった。この水害をきっかけに私は気象や災害に強く興味をもつようになり、水害の研究もおこなうようになっていった。
1959年の水害は3時間雨量が140mm、1日雨量が180mm。それが大災害につながったが、今回は2時間で180mmである。桁違いの雨量である。おそらく河川改修などがおこなわれていなければ、とんでもない大災害になっていただろう。桁違いの雨量が、今後、「あたりまえの雨量」になるとしたら、さらなる河川改修が必要になってくるだろう。けれども今回の水害。河川の氾濫にともなう浸水とともに、河川への排水ができないための浸水も多く発生している。遊水地や貯水地などの建設も必要になるだろう。
1959年の水害を風化させてはいけないと、2021年12月、八井汎親さんは輪島市立河原田小学校で児童たちに水害の話しをした。河原田小学校は河原田川から100mほどしか離れていない。お話しをした八井汎親さん(87歳)は輪島塗の「大徹八井漆器工房」の先代。地震にともなう火災による焼失は免れたが、店舗などは倒壊。朝市通りにあるので、テレビにもよく映った。息子さんの貴啓さんと再興をめざしている。河原田小学校は河井小学校の運動場に建てられた仮設校舎「輪島地区合同6小学校」の中に入って、2学期を迎えている。
相撲を取ったり、走り廻った思い出深い運動場、片隅に百葉箱や雨量計があった運動場。その河井小学校の運動場に仮設校舎が建つとは思ってもみなかった。
                          (9月21日)

やはり、テレビなどで仮設住宅の浸水の話しが取り上げられている。以前、仮設住宅とハザードマップをテーマに取材している番組があった。仮設住宅が浸水キケン地域に建てられていることは、じゅうぶんに承知されていた。けれども他に建設する場所がないという。日本という国は国土のほとんどが災害キケン地域である。当然、奥能登もそうである。そうであるならば、災害発生を想定して、対応していく必要がある。しかも100年に一度ではなく、1000年に一度というような状況も想定しておかなければならない。
浸水キケン地域に仮設住宅を建設した。けれども仮設はせいぜい2年程度。その間に浸水するような大雨は降らないだろう。何千年に一度、あるかないかの大きな地震が起きた後、1000年に一度のような大雨が降ることはないであろう。人間の心理としては、至極もっともな考えである。けれども、そのあり得ないことが起きてしまった。起きて欲しくないが、三度目がないとは言えない。ただ、元へ戻すという「復旧」という考え方だけでは、もはや立ち行かないところまで来ているのではないだろうか。
実は、奥能登では、この1年の間に、3回も「孤立集落」を生み出している。第1回目は昨年末の大雪。輪島で積雪60cmに達し、1月でさえめったにない積雪を記録した。第2回目は例に大地震。そして第3回目が今回の水害である。「暑い暑い」が終ると、間もなく冬がやって来る。あの雪の重みにやられたら、倒れかけた家はひとたまりもない。そして、雪解けでまた崩落や土石流。液状化現象も起きやすくなる。能登地震はまだ収束していない。輪島市街地直下型地震も私としては心配だ。
いろいろ話しを聞いていくと、住民が各自でやらなければならないことがじつに多い。けれども、高齢者や、遠く離れたところに避難している人たちは、やりたくてもできないことがたくさんある。多くの人手と、トラックなど運搬手段がなければできないこともたくさんある。期日を定められてもできないことがたくさんある。
人間が住むところには災害が起きる。このことを前提に、どうしたら人間の命を守り、暮らしを支えることができるか。政府のやることは多いように思われる。
                        (9月23日)

鶴瓶の家族に乾杯「生放送スペシャルin 石川県輪島市」で、生放送の会場になった河原田小学校の体育館が今、避難所になっている光景は胸を締めつけられる。常盤貴子さんが訪れた七浦(しつら)地区も一時孤立した。常盤さんが言葉を交わした人びとはどうしているだろうか。きっと常盤さんも案じているだろう。
塚田川沿いの久手川地区では、中学生の女の子の安否がまだわからない。テレビのインタビューに父親や祖父が話しているが、観ている方がつらい。塚田川は奥能登最高峰の高州山の南側急斜面を源流としている。おそらく公式発表に使われている旧輪島測候所の雨量よりも多い雨が降っていたのではないだろうか。最近、「かつて経験したこともないような雨」「かつて経験したこともないような風」という言葉がよく使われるようになったが、話す方も聴く方もあまり実感がないかもしれない。私なども時どき、「何と大げさな」と思うこともある。けれども、これから、「かつて経験したこともないような雨」という言葉を聴いた時、この奥能登の光景、塚田川流域の光景を思い出してみたい。
塚田川沿いの家々は私も子どもの頃、配達や集金でよく行った。最下流の近くでは父親たちが温泉を掘っていた。まあ、普段はのどかで、高州山が風景に安定感を与えていた。きっと安否がわからない女子中学生も、好きな風景だったに違いない。
今日、9月26日は、洞爺丸台風、伊勢湾台風が大きな被害をもたらした、「台風の特異日」である。12時24分頃、輪島市鳳至町の直下で、マグニチュード2.3の地震が発生した。震源は「ごく浅い」という。どうしてここによく地震が発生するのか、専門家の見解は示されていない。輪島川の先は「溺れ谷」と呼ばれる溝のような深みが海底に沖合へむかって伸びている。ここから、輪島川、大屋川にかけて断層が走っているように思える。直下型地震はマグニチュードが大きくなくても、大きな揺れを引き起こす可能性がある。常にリスクを想定して対策をおこなうのが、防災上きわめて重要と思う。
                        (9月26日)
【金沢ブログ】 珠洲原発をとめた人びと――現代の蓮如さん

1月1日の能登半島地震。さっそく小学校以来の友人に電話して、「珠洲に原発をつくらせなくて良かったね」と話し合った。「あけましておめでとうございます」どころではない。
今回の大地震の震源域の真上は、かつて珠洲原子力発電所が建設される予定地だった。この地に原子力発電所を建設する計画が持ち上がったのは1975年。もちろん、計画が発表されて、すぐに建設が始まるわけではない。一番大きな課題は建設用地の取得である。電力会社は「原発の安全性」を強調するとともに、過疎化の進むこの地域に多くの利点があることを強調し、原発を受け入れる人を一人ひとり獲得して、土地の買収を進めていった。有名歌手のコンサート、他県の原発見学ツアー、地域に「〇〇をつくります」など、あの手この手である。一方で、連夜のように説得部隊がやって来て、夜遅くまで帰らない。
このような中で、原発建設反対の中心に立ったのが、浄土真宗圓龍寺住職塚本真如さん。反対派が取ったのは土地の共同所有。一人では説得に負けて、土地の買収に応じてしまうかもしれないが、共同所有にすれば、一人が折れそうになっても、みんなで持ちこたえることができる。反対派は毎晩のように寺に集ったという。
電力会社に土地を売るか売らないか、まさにそのような厳しい状況の中、1990年、NHKは「原発立地はこうして進む――奥能登・土地攻防戦」というテレビ番組を制作、賛成派、反対派、市長、電力会社などに密着取材。それを全国に放映した。誰が何を言っているのか、どこで集まり何をしているのか、攻防の真っ最中に相手の情報まで番組で一括してしまった。今なら、お互いに冷静に客観的に観て、思い出に浸ることができるかもしれない。けれどもこの番組が制作、放映されたのは、まさに「その時」である。電力会社の土地買収責任者が「おカネで人の心を買うんだ」という言葉もそのまま放映されている。制作したNHKもよく思い切ったが、放映が関係者にどのような波紋を投げかけたのか、私にはまさに衝撃的な番組であった。
反対派の中心に立った塚本真如さんが住職を務める圓龍寺。賛成派の檀家は寺を離れて行った。塚本さんは「寺を変えるのは本人の自由」と話し、「賛成、反対どちらの人にも絶対悪口を言ってはいけない」と繰り返し説いたという。地域住民が分断されていく時、この言葉は重い。
珠洲原発建設反対の運動は、私には現代の「一向一揆」のように思われる。そして、塚本真如さんはまさに「蓮如さん」の再来のような。
結局、計画は2003年に「凍結」され、今日に至っている。
もし、珠洲原子力発電所が建設されていたならば、たとえ運転を停止していたとしても、今回の大地震で、土地が隆起して冷却が出来なくなるとともに、炉心そのものが損傷し、重大事故を引き起こしていたかもしれない。そうなれば、地元民は避難できないまま被曝し、新潟県などにも大きな影響を与えていたかもしれない。大震災を経た今では、塚本住職は、賛成派だった人たちからも、「ふるさとを守ってくれてありがとう」と、感謝されるという。

連日の能登半島地震報道で、私は懐かしい「能登ことば」をたびたび聴いた。そのたびにふるさとが身近に感じられ、飛んで帰りたい気持ちにかられた。インタビューではこらえ切れずに泣き出す人が多くいた。そんな人の多くが言ったのは、「ごめんなさい」という言葉である。「泣いていいんだよ」と心の中で声をかけたが、苦しみや悲しみを必死に耐えている能登の人びとの生きざまが伝わってきた。
支援に入った人から、こんな話しを聞いた。お米を届けたら、「うちは今日買ったので、他の人にまわしてあげてください」。ペットボトルの水を渡したら、「うちは夫婦二人だけだから、2本あれば良いから、後は他の人にまわしてあげてください」。
こうして、能登は生きてきた。きっと、そうなのだ。
「ブログ」に『陽のあたる本棚』を随時連載します。(カテゴリー:金沢ブログ)
【金沢ブログ】 輪島点描

輪島にも映画館があった。私が子どもの頃には三館あったように記憶している。
一つ目は本町通りの、やや東寄りから海岸の方へ少し入った右側にあった。名前は覚えていないが、この辺りに友人が住んでいた。本町通りは海岸に並行し、輪島市街の中心商店街で、朝市もここでおこなわれる。西寄り一帯は今回の能登半島地震にともなう火災で焼失した。
二つ目は輪島川に架かる新橋に直結する中央通りの、新橋が間近かに見える左側にあった。映画館の名前は覚えていないが、小学校の時、「映画教室」で『つづり方兄妹』(1958年)を鑑賞した思い出がある。
三つ目は先程の映画館の少し南、斜めに入り込む道が不思議な形の交差点をつくり出すあたりにあった。松の木も生えていたように記憶しているが、全体的に明るい雰囲気ではない一帯は、子ども心に「味わい深い」場所としての印象がある。この映画館だけは岩城座という名前を覚えている。と言うのも、女友だちが住んでいたからである。近くにバーがあり、よく配達や集金に行った。止まったミラーボールが時おり光を反射していた。
小学校の運動場でも、時おり映画会が開かれた。昼間は走ったり、相撲を取ったりしている運動場も、スクリーンだけが明るく、まわりは余計に暗く、奥深く思える。
私は映画に入り込むタイプで、『黄色いからす』(1957年)では、映画のすじを自分で文章に書いた。ノート一冊分になった。『つづり方兄妹』では、舞台となった枚方(大阪府)にとても興味を持ち、調べた。大学に入っても思いを引きずってしまい、現地へ足を運んだ。あの兄妹たちはどうしているだろうかと、今でも時おり思うことがある。
輪島でも何度か映画のロケがおこなわれ、私たち子どもも「映画ごっこ」などに興じたが、しだいにテレビが普及していき、輪島の街から映画館が消えて、すでに50年以上経過した。

小学校からの友人と、気になる輪島直下の地震について意見交換しているうち、彼から貴重な情報が得られた。
二人はよく、崖にトンネルを掘ったり、路盤をつくったり、「鉄道建設ごっこ」をやって遊んでいた。そのような遊びをしていたおかげで、今でも地質には興味がある。
中学・高校時代。彼は毎日のように夕日丘の造成地へ出かけ、工事で切り崩した露頭を見ていたという。夕日丘というのは、文字通り輪島市街地の西にある標高100mにも満たない山地で、造成は標高30~60mのところでおこなわれていた。彼はその露頭に黄鉄鉱など金属結晶を含んだ硬い地層も認めていたが、何より無数の断層面を発見していた。20~30cmの地層のずれは至る所にあり、単なる地滑りではないとの印象をもち、きっと過去の地震でぐちゃぐちゃになった地域であろうと推定している。彼の観察眼は子どもの頃から優れていたのだ。
ところで、黄鉄鉱と聞くと、私には苦い経験がある。「金探し」をしていた私は、ある日、鶴舞坂の下あたりで金色に光る石を見つけて、「金」を見つけたと大喜びしていた。けれども、後にこの金色の石が黄鉄鉱であることを知らされた。ショックであった。ところが、後年、もっとショックなことが起きた。黄鉄鉱の別名は「愚か者の黄金」。ガツンとやられた。


【金沢ブログ】 七尾線

金沢という都市は加賀と能登の重複したところで、私の場合は、母の実家が七尾にあったことや、私も輪島に暮らしたことがあったので、「能登派」であった。金沢駅へ行けば、乗車するのは七尾線であって、たまに北陸本線に乗れば、西金沢あたりからすでに異郷に入った感じがした。事実、私が小松へ行ったのは2回くらいで、大聖寺は一度も行ったことがない。辰口温泉も粟津温泉、山代温泉、山中温泉も一度も行ったことがない。片山津温泉は1度行ったが、温泉に入ることはなかった。
七尾線は七尾鉄道として1898年に七尾まで開業した。北陸本線が金沢まで開通したのは1898年であるから、鉄道はそのまま七尾までつながったことになる。つまり、七尾は富山県の県庁所在地富山より1年早く鉄道が開通したことになる。大きな理由は敦賀同様、港があったから。もちろん、七尾は能登の中心で、国府や守護所も置かれ、1871年から半年ほどあった七尾県の県庁所在地でもあった。
七尾鉄道は1907年に国有化され、国鉄七尾線になった。けれども七尾から先の鉄道建設は遅く、1925年に和倉まで、1928年に能登中島、1932年に穴水、そして輪島まで開業したのは1935年になってからである。私の父が旧制七尾中学校に在籍した当時、七尾線は七尾までだったから、輪島から出てくる時は歩いたのか、乗合馬車などがあったのか、穴水から定期船があったのか、聞いておけば良かった。

金沢から七尾線に乗る時、始発駅であるから、だいたいは座ることができる。七尾線の起点は津幡であるが、列車の起点は金沢。金沢・七尾間の直通運転が始まったのは早く、まだ七尾鉄道時代の1905年である。金沢駅を出発して、構内のはずれで浅野川を渡る。ここから医王山・戸室山が見え、それが見えなくなると、私はふるさと金沢に別れを告げた気分になる。東金沢駅には駅前に市電(5番系統)が来ている。来てはいるが、田圃の真ん中を単線で走り、何となく寂し気である。やがて、森本駅、津幡駅と進む。ここまでは北陸本線で、金沢・津幡間は列車本数が多くなるため、1938年には複線化されている。金沢・松任間の複線化は1960年。子どもの頃の私は、七尾線に乗ると津幡まで複線で、何となく都会に来たような妙な優越感をおぼえた。
その複線区間も終わり、いよいよ七尾線。本津幡駅・宇野気駅と、河北潟を左に見ながら進む。田園地帯がひろがる。宇野気駅からは砂丘地帯で、松林が多く、ブドウ畑も見られる。横山駅・高松駅。高松は海水浴場としても知られている。右手に宝達山が望まれる。田園地帯へ入って、免田駅を過ぎると、やがて天井川になっている宝達川の下をトンネルでくぐる。近畿地方ではいくつかみられるが、トンネルの上に川が流れているのは珍しく、「このトンネルの上には川が流れている」と言っても、すぐには信じてもらえない。母はここで列車から物を落して、取りに行ったことがあるという。宝達駅・敷浪駅と過ぎ、再び砂丘地帯へ入って、抜けると羽咋駅である。羽咋駅は三明(さんみょう。現、志賀町)へ行く北陸鉄道能登線の起点になっていた(1972年廃止)。
羽咋川を渡り、七尾線は邑知潟(おうちがた)地溝帯の西縁に沿って進む。この地溝帯は東側石動山(せきどうさん)山系と、西側の山系を形づくった二つの大きな断層の間にできた溝状の平地で、南西から北東にかけて伸びている。とくに羽咋に近いところは低平で、邑知潟という潟ができている。七尾線は千路駅・金丸駅・能登部駅・良川駅・徳田駅と進んで七尾駅に到着する。
私が子どもの頃には、駅前は今より賑わっていたように思う。七尾駅を出ると、母の実家のすぐ近くを通る。踏切ひとつも懐かしい。右手にセメント工場の煙突などが見え、やがて左手に赤浦潟。そして和倉駅(現在は和倉温泉駅に改名されている)。駅前、すぐむこうにコンロ製造などで有名なイソライト工業の工場が。子どもの頃は和倉温泉にむけて、バスの本数はかなり多かった。
田鶴浜駅を過ぎ、七尾湾沿いに笠師保駅、能登中島駅。牡蠣の養殖が盛んで、沿岸や川沿いに牡蠣殻の山が見られる。能登中島駅を出ると、まもなく上り坂で、眼下に耕地整理された田圃が広がる。輪島の方の曲りくねった田圃に見慣れていると、ちょっとした驚きである。目を遠くにやれば、和倉温泉が見える。しばらく海が見えなくなり、再び現れると西岸駅。能登島が近くに見える。これから右手に七尾湾を見ながら、海沿いを能登鹿島駅。桜の美しい駅である。トンネルを二つ抜けて穴水駅に到着する。1959年、この穴水駅から分かれて能登線が開業し、珠洲市の蛸島駅まで走った(2005年廃止)。
穴水駅から能登三井駅までは七尾線内でもっとも駅間距離が長い。25パーミリを超える坂もあり、蒸気機関車はあえぎ気味。七尾線内最長の峠トンネル(310m)もこの区間にある。今では忘れてしまったが、子どもの頃は、七尾線内のトンネルの名前と長さはすべて覚えていた。アテの木も多く見られる能登の山らしい風景が続く。そして、谷あいのちょっと開けたところに能登三井駅がある。対面2ホーム2線で、すれ違いができるようになっている。貨物用の引き込み線もあった。
単線の場合、正面衝突を避けるため、閉塞区間を設けて、この区間を走ることができる列車は1本に限られている。とにかく穴水駅と能登三井駅の間がひとつの閉塞区間になっているのだから、列車本数を増やすことも難しく、ダイヤを組むのはかなりたいへんだっただろう。子どもの頃にはまだ閉塞信号機がなかったので、すべてタブレットを使っていた。例えば、穴水駅で機関士が受取ったタブレットを能登三井駅まで持ってきて、駅員に渡し、つぎの能登市ノ瀬駅までのタブレットを受け取る。駅員は受け取ったタブレットを、今度は穴水駅にむかう列車の機関士に渡す。すれ違いの場合、先に入った列車のタブレットが後から入った列車に渡され、交換したタブレットが先に入った列車に渡されるので、結局、後から入った列車が先に出発することになる。
通過列車の場合、ホーム進入時にらせん状のポールにタブレットを入れ、退出時に駅員の持ったタブレットを腕に通す形で受け取った。これが私にはとても格好良く思われ、自分で針金を輪にしたタブレットをつくり、運動場で自転車を走らせながらこれを受け取る「タブレット遊び」を考案した。けれども、これはひとりではできない。私は好きでも、友達が鉄道好きというわけでなく、途中から、他の遊びになることも多かった。それにしても、運動場で自転車に乗っても注意されない時代であった。
能登市ノ瀬駅を過ぎると、終着の輪島駅である。つぎの駅がないので、駅板は次駅が空欄で、そこに「ウラジオストク」などと落書きされることがあった。これが旅愁を誘って、けっこう人気だった(ということは、駅員が落書きを消すことも、あえてしなかったのだろう)。ホームは対面2ホーム3線。乗客降車後、蒸気機関車は連結を外され、そのまま前進して、線路の行き止まりまで進んでバックし、構内へ引き揚げ、水・石炭などの供給を受け、ターンテーブルで方向転換させて、金沢方面にむかう列車に連結される。映画のロケなどがおこなわれる時は3番線が使われたように思う。構内先端あたりに国鉄職員住宅があり、友人がいた。とても相撲が好きで、隣接する輪島高校の土俵で、よく相撲をとった。私は負けることが多かった。

私が子どもの頃は、北陸本線も七尾線もすべて蒸気機関車で客車を牽引していた。七尾線の無煙化は1958年のディーゼル気動車導入に始まる。金沢・輪島間を2時間50分で結ぶ快速「能登路(のとじ)」号が運転を開始した。愛称は公募され、私もいくつか応募した。当初、気動車による運転はこれ1本で、次第に本数が増え、「一番列車」と呼ぶ早朝輪島駅発のみ蒸気機関車牽引で、それもやがて気動車に変わった。気動車はキハ20、キハ25、キハ52、キハユニ26などが使われ、その後、形式は増えていった(キハユニは1台が客車部分と郵便車・荷物車部分に区切られている)。「能登路」は、しばらくして快速から準急に格上げされ、特別料金が必要になった。気動車の登場により、全般的に速度も上がり、加速も容易になったため、中津幡駅・能瀬駅・南羽咋駅・能登二宮駅の4駅が新設された。
私が子どもの頃、金沢駅のホームは5番線まであったと思う。それがいつしか七尾線ホーム(2線)ができて、1番線から7番線までになった。列車本数の増加もあるだろうが、北陸本線電化(金沢駅まで1963年)にともない、非電化の七尾線ホームを分離する意味合いもあったのだろう。七尾線が気動車になり、機関車のつけかえをする必要がなくなり、折り返し運転が可能になったため、行き止まりのホームになった。改札口からそのままホームに行くことができ、1番線・2番線になり、従来の北陸本線上り方面1番線が3番線になった。ところがもっとも主要なホームが3番線では「様にならない」と思ったのか、1番線の呼称に戻し、七尾線0番線のAとB(0A番線・0B番線)に変えられた。さすがに、「0番線」と「-1番線」というわけにはいかなかったようだ。この七尾線ホームは金沢駅高架化にともない、1990年までに廃止された。
1991年には七尾線が和倉温泉駅まで電化されたが、その先、非電化区間は「のと鉄道」として、JR西日本から切り離された。そして、ついに2001年、穴水駅・輪島駅間が廃線になり、慣れ親しんだ鉄道で輪島へ行くことはできなくなった。2005年には穴水駅・蛸島駅間の能登線も全線廃止され、ローカル線の灯はまたひとつ消えていった。

2024年1月1日、能登半島地震。JR西日本の七尾線も大きな被害を受けたが、2月15日に和倉温泉駅まで全線運転を再開した。あわせて、のと鉄道も能登中島駅まで運転再開した。そして、4月6日には穴水駅まで全線開通の見通しになっている。この復旧期間が速いのか、遅いのか。少なくともこの路線が、震災を機に廃線にされることなく、復旧作業が進められたのは、のと鉄道が「上下分離方式」になっており、「下」にあたる路線をJR西日本が保有しているからである。のと鉄道も頑張っているが、単独の力だけで路線復旧をおこなうことは困難であり、廃線の話も現実味を帯びたかもしれない。
もし、日本の少なくともJRの鉄道各線が、「国道」と同様に、「下」を国が「国鉄」として保有していく「上下分離方式」を取り入れているなら、ローカル線の廃止も抑制され、災害を機に廃線になる鉄路も減らすことができたかもしれない。北陸新幹線が敦賀まで延伸されて、第三セクター区間が増えても、JR西日本が従来の運賃設定で大阪駅・和倉温泉駅間に直通特急列車を走らせることも可能となるであろう。
青春18キップも、ジパング倶楽部も、使うことができる範囲がどんどん狭くなっていくと、鉄道ファンとしては悲しいかぎりである。

ふるさとの鉄路は断たれみぞれ降る

ふるさとの花野に今は鉄路なく
【金沢ブログ】 北陸新幹線~敦賀延伸に寄せて

【詩】東京駅

ふるさと行きの 新幹線が
東京駅から出る 不思議さに
一列車 
また 一列車 見送り
ふるさとは
しだいに遠ざかって行く
いつの日か
帰ったふるさとに
幼き日の光景は
残っているのだろうか


上越新幹線が高崎で分れて、長野新幹線として東京・長野間の営業運転を開始したのが1997年。それから18年の時を経て、北陸新幹線として金沢まで営業運転を開始した。停車駅が少ない「かがやき」は2時間30分かからないで東京・金沢間を結んでいる。犀星が生きていたら、金沢に居を構えて、日帰りで東京を往復する生活をしていたかもしれない。「ふるさとは遠きにありて……」どころではない。その北陸新幹線が今年(2024年)3月16日、敦賀まで延伸され、営業運転を開始した。
これは喜ぶべきことだろうが、何か私は釈然としない。順序が逆ではないか。関西圏や中京圏からは、かえって不便になってしまう。
もともと北陸本線は、東海道本線から分かれて、短距離で日本海へ出るため、敦賀まで建設されたのが始まりで、1882年に長浜・敦賀間が開通した(当初、一部徒歩連絡)。東海道本線が全線開通したのが1889年であるから、それより早い。東海道本線全線開通に合わせて米原・長浜間が開通し、北陸本線の起点が米原になった。その後、北陸本線は敦賀から延伸され、1896年に福井まで、1898年に金沢まで、1899年に富山まで開通、直江津まで全線開通は1913年。信越本線高崎・直江津間が開通した1893年から実に20年経過していた。金沢・東京間を鉄道利用する場合、米原・東海道本線経由は1898年から、それに対して直江津・信越本線経由は1913年からになる。
それが、北陸新幹線は東京から信越本線ルートで伸びて来て、敦賀まで来たものの、その先の見通しが立たない状況で、いかに「東京一極集中」などと言っても、きわめて不自然。本来なら、米原から敦賀・福井・金沢・富山と開通した北陸新幹線が、長野・上越妙高と開通した長野新幹線が、上越妙高・富山間の開通によって全線開通となるはずである。
本来なら米原まで開通していたはずの北陸新幹線が、このような不自然な結果になった原因は、どうやら敦賀から新大阪にかけて新線建設を考えてしまったところにあるようだ。しかし、新線建設はとりわけ京都市街から新大阪にかけて大深度地下を通ることになり、地下水や地上に与える影響など、反対の声も多く、建設のメドは立たない。
1974年に全線開通した湖西線は、踏切がなく、全線立体交差の高規格鉄道で、実験では在来線最高時速180kmを記録している。つまり当初から高速運転を前提に建設されたもので、京都・敦賀間において、米原経由より距離が短く、新大阪・敦賀間を東海道本線と湖西線を使って狭軌で運行し、そのまま敦賀から北陸新幹線を標準軌道で走行する、フリーゲージ方式も検討されていた。
北陸新幹線の延伸先として、もっとも現実的と思われるのは米原である。東海道新幹線を使って、関西圏ばかりか、中京圏からの利用に便利である。湖西線経由に比べ、強風で運転中止になる可能性も少ない。建設距離も敦賀・米原間45kmほどである。敦賀のループ線を回避するための新線建設は必要だが、全線新線建設しなくても、現在線を標準軌道に変えて、深坂・新深坂トンネルなども拡幅によって対応し、新快速が乗り入れる米原・長浜間を三線化する方法も考えて良いだろうし、現在線の上に高架線を建設する案も考えられる。米原はJR西日本の駅だから、車両の留置線などの確保も容易だろう。新大阪から北陸新幹線直通運転を実現する場合、問題は新大阪・米原間をJR東海が保有する東海道新幹線を走行することである。けれども、首都圏など私鉄・JR入り混じって直通運転しているのだから、問題解決できないことはない。
現在では、さまざまな電流・電圧に対応できる電車が開発されているようで、JR在来線を標準軌道に変えれば、新幹線・在来線の直通運転が可能になり、北陸新幹線や長崎新幹線の問題も解消される。かつて何回か標準軌道への改軌が検討されたが、実現しなかった。1959年に京成電鉄が全線標準軌道に改軌したことを思えば、不可能ではない。敦賀・新大阪間に新幹線を新設するより、湖西線と東海道本線京阪間の一部路線の改軌、あるいは北陸本線の改軌をおこなう方が、はるかに早期に、はるかに少ない費用で、北陸新幹線の新大阪乗り入れが実現できるように思うのだが。
関西とつながらない北陸新幹線。結局は福井・石川・富山三県のローカル新幹線の色彩が強くなってしまう。三県の在来線が、それぞれに分断され、金沢・福井間36分ほど、金沢・富山間23分ほどで結ばれる北陸新幹線。三県の県庁所在都市の真ん中に位置する金沢が、福井へ行くのも、富山に行くのも便利で、中心都市としての性格がますます高まる。三県の人口は1970年の276万人から2020年には293万人と17万人増えている。けれどもそのうち13万人は石川県の増加で、富山県の人口を抜いてしまった。もともと、石川県庁(旧)は北陸三県合併を見据えた規模でつくられたと言われる。
そのような経過の中で、いよいよ敦賀まで延伸された北陸新幹線。関西圏とも中京圏ともつながらない北陸新幹線。敦賀延伸が「金沢ひとり勝ち」を生み出すのではないか。これが杞憂になるのか、ならないのか。
私の父は枕木をつくっていた。私が高校生の時、作品集につけた名前は「レール」である。この歳になっても、鉄道の話となると、どうも一人で盛り上がってしまうようだ。
【金沢ブログ】 『ゆれる灯』の先に

2024年1月1日に発生した能登半島地震を受けて、私は急に『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った。晴夫と純子が60年以上の時を経て、被災した輪島の街に立つ。そこで二人は何を思うのだろうか。私は被災後の輪島へ、まだ行っていないが、多分、変わり果てた光景に泣いてしまうであろう。と言うか、今、この文章を綴りながら、私の目には涙が溢れている。
『ゆれる灯』の中で、晴夫と純子の待ち合わせ場所に設定した、海岸通りから下の浜に降りる階段のあったところは、一帯、沖にむかって埋立てられ、ホテルが建っている。つまり、この『ゆれる灯』で描いた出会いの場や、キリコ祭りの場すべて、すでに土砂の下に埋められてしまった。この埋立地の上には、ホテルやキリコ会館が建てられ、今また仮設住宅が建てられている。
埋立地の出現は、子どもの頃の輪島の風景を一変させてしまった。懐かしい輪島の風景はここで一度死んでしまった。そして、このたびの地震。私の中の輪島は二度、殺された。
晴夫と純子の二人が遊ぶ場所として設定した「猫地獄」のある鴨浦も、地盤が隆起し、海水プールの水もなくなってしまったという。同じく、光浦の海岸も隆起し、海水に透けて見えていた岩盤も、岩肌をさらすようになっているのだろう。光浦の岩場は、岩陰が多く、ちょっとした秘密基地のようだった。私はこのような場所で、女の子と二人遊ぶ経験をもっていないが、友達と「ロケット実験」などと称して、手製のロケットを発射させた。もちろん推進力は模型飛行機用のゴムである。
『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った私。けれども、私は書くことをやめた。小説としては、あそこで完結している。「なぜ、南さんは来なかったのだろうか」。「その後、二人が会うことはなかったのだろうか」。「大人になって、二人が偶然出会って、結婚したのだろうか」。「南さんのその後の人生はどうなっていっただろうか」など、それは読者一人ひとりが想像をひろげるところであり、小説のおもしろさ、余韻である。私自身、この『ゆれる灯』の作者であるから、続篇を書くことはいっこうに差し支えない。けれども、読者から想像を奪い取ることは許されないであろう。私も時どき、『坊っちゃん』の「坊っちゃん」はその後どうなっただろうか、『三四郎』の三四郎はその後どうなっただろうかと想像することがある。時に、美禰子が離婚して、三四郎と結婚するなどという不謹慎な想像をすることもある。そこがまたおもしろい。
自分の人生は自分自身しか描くことができない。今回の地震で被災した人たちが、どのような人生を描いていくのか。報道陣もボランティアも去った被災地は、作品として完結した小説のようなものである。一人ひとりはその後も、自分の人生を描いていかなければならない。そして、それは想像の世界ではなく、現実の世界である。考えただけでも、気が遠くなってしまう。
【金沢ブログ】 輪島朝市

能登半島地震によって、輪島の朝市も一帯が大火に見舞われたこともあって、よく報道されるようになった。輪島の「朝市」の言葉を聞きながら、「朝市があるのだから、夕市もあるのだろう」と思った方もあるだろう。実は「夕市」もある。
輪島旧市街地は輪島川を挟んで、東側が「河井地区」、西側が「鳳至(ふげし)地区」で、朝市が開かれるのは河井地区の本町通り、これに対して夕市は鳳至地区の住吉神社境内で開かれてきた。鳳至地区には海士町や輪島崎など漁業を生業とする人たちが住む区域があるので、漁業や船と結びついた住吉神社があるのは納得できる。私が子どもの頃、住吉神社の境内にはサーカス小屋や「蛇女」などの見世物小屋が時おりやって来た。河井地区には重蔵神社という境内も広く由緒ある神社があるのに、どうして小屋掛けがされなかったのか、私にはわからない。
輪島の「朝市」は、今では輪島を代表する観光スポットになって、多くの観光客が訪れ、馴染みの場所になっている。このようなことも、被災地輪島が全国にむかって放映される際、よく映し出される一因であろう。けれども、朝市が観光地化されるのは、日本の高度経済成長期、能登が一大観光地として脚光を浴び、多くの人びとが観光に訪れるようになってからで、もともとは近海で捕れた魚介類と近郷で採れた農産物の出合いの場であり、そこへまた街の人びとが食材を求めて訪れたものである。わが家の食卓にも、朝市で買ってきた食材がしばしば登場した。
ぶり、いかをはじめとする刺身。私が大好きな「鱈の子つけ」。これは鱈の刺身に鱈子を絡めたもので、プチプチ感に腰のある柔らか食感が好きだった。「だだみ」と呼ばれる鱈の白子も、ねぎといっしょに味噌汁に入れて、あのとろける食感が大好きだった。鮟鱇も鍋になった。時にはアワビや蒸しアワビを食べることもできたが、サザエはもっと日常的だった。サザエを刻んで糀に漬けたものを、私は子どもの頃に聞いたままに、ずっと「サザエユベシ」だと思ってきたが、じつは「サザエぶし」が正しいようだ。コリコリしたサザエの食感に糀の甘みが絡みつき、ほんとうに口の中が幸せになる。熱いご飯の上に載せて、もう一度食べてみたい。
そのようなわけで、私もよく買い物に行かされた。歩いていると、あちらこちらから声がかかる。小さい街だから、私がどこの家の子どもか知っている人も多いので、「こないだ、あんたの店で買うたがよ」などと言われるのには閉口した。
私は石川県に生れてしまったため、おいしいものをいっぱい食べて成長してきた。そのようなわけで、今でも味にうるさいのだが、輪島の味も忘れられない。朝市で買ってきたもの以外でも、魅力的なものはたくさんある。
いしる(いしり)。魚介類に食塩を加えて漬け込み、一年以上かけて発酵・熟成させた魚醤で、輪島では「イカのいしる」が一般的だった。ナスを煮る時に使ったり、焼きナスやナスの漬物にかけたり。とにかくナスと相性が良かったのを覚えている。先日のニュース番組で、被災した「いしる」業者を取材していた。時間をかけて製造するだけに、業者の落胆も大きい。
輪島でも精進はしっかり守られる。そのため精進料理が発達しているが、「すいぜん」は代表的なものだろう。私は父親の名代として親戚の法事に出た時、初めて食べてすっかり虜になった。「すいぜん」は、テングサを煮て、もち米の粉を入れ、短冊状に突き出したもので、たれは黒ゴマ・黒砂糖などでつくる。刺身がわりに出される精進料理である。白く、きしめんのように見えて、さらに幅広で厚手があり、ぷるんとした中に、つるんとした食感があって、黒いたれはごまの風味がして甘い。「これは、料理なのだろうか、それともお菓子なのだろうか」、そんな疑問をいだかせる。
いわしと言えば、こんかいわし(糠いわし)が思い出される。とにかくご飯が進む。けれども、「いわし寿司」は、私にとって、いわしを使ったメニューの最高傑作である。「いわし寿司」は頭を取り、開いて酢で〆たいわしのお腹の部分に、味付けしたおから(卯の花)を詰め、一晩ほど押しをかけてつくったもので、「いわしの卯の花寿司」とも呼ばれる。酢で〆た魚が好き、押し寿司が好き、おからが好き、という私だから、そのすべてが揃い踏みをしたような「いわし寿司」が私を虜にしたのは当然である。とくに家の近くのお店でつくっている「いわし寿司」は、おからに山椒の実が入り、酢加減も良く、買いに行く時は売り切れていないか心配だった。「いわし寿司」を思い出す時、光沢のある皮に、特有の点々が連なるいわしの姿が思い出される。
私の家のむかいに豆腐屋があった。朝の味噌汁に入れる豆腐は、直前に買いに行く。朝の豆腐屋は活気がある。私は豆腐の味噌汁より、おからの入った味噌汁が好きだった。ネギを入れると味も格段に引き締まり、とくに冬はお勧めである。
この豆腐屋で私がもう一つ好きなものは「ひりょうず(飛龍頭)」。時どき銀杏の入ることもあったが、大きくて、豆腐の部分がしっかりしていて、具だくさん。輪島を離れ、私はあちらこちら、あの「ひりょうず」の味を求めたが、ついに出会うことはできなかった。この「ひりょうず」を大好きだったのが犀星である。馬込の自宅近くにある「やっちゃん豆腐」に頼んで、わざわざ「ひりょうず」をつくらせた。私も馬込に行ったおり、「やっちゃん豆腐」を訪ねたが、あいにく「ひりょうず」は売り切れだった。
水羊羹は夏の物と思われるけれど、輪島では冬の食べ物とラジオで紹介されていた。私の家の近くには二軒の和菓子屋があり、羊羹とさほど変わらない色をした長方形の木のおりに入った水羊羹を、短冊状に切り分け、それを取って包んでくれる。冷たくて、かんだ途端に黒砂糖の風味と甘さが口の中に広がり、そのままツルンと喉を通り過ぎていく。こたつに入って食べると、一段とうまい。今回の地震で、懐かしい和菓子屋は完全に倒壊していた。
お菓子と言えば、「塩せんべい」「丸柚餅子」「えがら饅頭」は輪島を代表するお菓子である。「塩せんべい」は、もともと素麺づくりの副産物から生れたと言われる素焼きのせんべいで、ごまの入ったものが一般的であるが、私は昆布の入ったものが好きだった。マーガリンを塗ると、一段と美味しかった。
「丸柚餅子」は柚子の中身をくりぬき、もち米を詰めて、数回蒸しながら自然乾燥させる。切ると透明感のある飴色。さわやかな苦味が口の中に広がる。見た目は蒸しアワビと錯覚しそうだが、確かに値段はアワビ並。地味なお菓子なので、母は「(価値を)知らない人にはあげられない」と、よく言っていた。
「えがら饅頭」は、こしあんを餅もちした生地で包み、くちなしで黄色く色付けした餅米を生地につけて蒸したもの。これも私が大好きなお菓子である。けれども数年前、私が「えがら饅頭」を買ったお店は今回の地震で焼けてしまった。

1月1日の能登半島地震で、輪島も大きく崩壊してしまったが、それとともに私が子どもの頃から慣れ親しんだ輪島の味も崩れ去ってしまったのではないか。朝市の映像を観ながら、そんな思いになる。

被災地に山茶花咲くの便りあり
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑮

1931年の『つゆのあとさき』、1934年の『ひかげの花』と続いて、『濹東綺譚』が書かれたのは1936年である(発表は1937年)。

『濹東綺譚』の終わりに「作後贅言」と名づけられた編集後記のような文章がある。この「作後贅言」で荷風は、雀合戦がみられた1931年の年暮に葛西村の海辺を歩いていて道に迷ったことを書いている。日暮れて、燈火頼りに船堀橋までやって来た。葛西村は翌年、東京市に編入され、江戸川区の一部になった。荷風は《二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。》と書いている。
当時は地下鉄新宿線も東西線も通っていない。電車とはいったい何なのか。荷風は船堀橋までやって来たが、荒川放水路を渡っても電車がないことを知っているので、田んぼや集落を通る田舎道を1km以上北上し、中ノ庭から電車に乗った。一駅で東荒川に到着し、小松川橋で荒川放水路を越え(東荒川と西荒川はバス連絡していた)、西荒川から再び電車に乗った。荒川放水路で途切れるが、荷風が乗った電車は城東電車とよばれるもので、1942年に東京市電になった。
城東電車に乗ったとみられる。
錦糸堀(現在の錦糸町)終点で城東電車を下りた荷風は、洲崎行きの城東電車に乗り換え、洲崎終点で下車。確かに「二三度電車を乗りかえ」ている。洲崎は東京市電14系統(早稲田行き)の始発である。荷風は《深川の暗い町を通り過ぎ》、日本橋の白木屋の横手で下車した。錦糸堀からでも市電に乗ることができるので、どうしてわざわざ洲崎を経由したのか。31系統は通らないが、30系統は日本橋を通るのに(どちらも市役所行き)。荷風の趣味としか言いようがないのだろうか。この後、荷風は日本橋から市電を乗り換えている。荷風の自宅最寄電停は溜池か六本木。永代橋・青山六丁目間の7系統が通るが、日本橋は通らない。荷風は京橋まで乗って、さらに7系統に乗り換えたのであろうか。

「作後贅言」は『濹東綺譚』全体の4分の1ほどを占める長いもので、荷風の親友で、「校正の神様」とよばれた神代帚葉翁(こうじろそうよう)との思い出が多く語られている。帚葉は1935年に亡くなっているので、『濹東綺譚』で描かれる時期より数年前が描かれている。
1927年、浅草・上野間に日本で最初の地下鉄が開通し、引き続き新橋へむかって工事が進められた。1931年には神田、そして1932年12月24日には京橋まで開通した。荷風は、《地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひゞきわたり、土工は商店の軒下に處嫌わず昼寝をしてゐた。》と、地下鉄銀座線の工事の様子も描いている。1932、3年頃、銀座通りは地下鉄工事真っ最中である。《この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのづから芝口の方へと導かれるのであった。》と、省線(現在のJR)すぐ脇の土橋か、その隣の難波橋を渡って省線のガードをくぐる荷風と帚葉翁。銀座線は1934年、新橋まで開通した。
工事は基本的に既存の道路を地下へ掘り進んでいく。路面電車や自動車などの通行を確保しながらの工事である。私も1964年の東京オリンピックにむけて進められる地下鉄工事に、大都会の喧騒と混雑、そして妙に高揚感をおぼえた思い出がある。
銀座通りで地下鉄工事がおこなわれていた頃、荷風と帚葉翁は毎晩のように会っていた。二人は銀座尾張町の四つ角(銀座四丁目交差点)で待ち合わせし、それから店に入って話した。翁は待っている間、街行く人たちの様子を観察し、手帳にメモしていた。終電に乗るため待っている尾張町か三丁目の松屋前の電停でも、同じく電車を待つ花売り、辻占い、門付けなどに話しかけていた。

ここで話しを『濹東綺譚』の本文に移そう。
主人公の大江は種田の失踪先を求めて、6月末のある夕方、梅雨はまだ明けていないが、朝からよく晴れた日、夕飯を済ませて、遠く千住や亀戸、足の向く方へ行ってみようと家を出る。日の長いころで、まだ黄昏ようともしていない。
《一先電車で雷門まで往くと、丁度折好く來合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。》と、大江はバスに乗る。
この年代まで来ると、乗合バスも登場して来る。バスは吾妻橋を渡り、広い道を左折して源森橋を渡る。吾妻橋から400mほど行って、現在の三ツ目通りを左折して200mほど。北十間川に架かるのが源森橋。言問橋東交差点から北は現在の国道6号線、通称水戸街道。
1kmほど行くと、向島4丁目にある秋葉神社の前を過ぎ、またしばらく行くと、《車は線路の踏切でとまった》。「しばらく」と言っても、実際の距離は1kmほど。線路は東武鉄道伊勢崎線。《踏切の両側には柵を前にして円タクや自動車が幾輌となく、貨物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる》。踏切は玉の井駅(1987年に東向島駅に改称)のすぐ南。このあたりは1966年から67年にかけて高架化が実現し、踏切は廃止された。東武鉄道の貨物輸送は2003年に全面廃止されたが、開業以来、貨物輸送は東武鉄道の中で重要な役割を果たしてきた。
大江がバスを下りて見ると、《白髭橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している》。この広い通りが明治通り。十字路は現在の東向島交差点。明治通りは震災復興事業として建設され、この地域では1932年に開通している。
この水戸街道の市電であるが、《「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」「向島の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」》という会話がある。ここに市電(向島線)が開通したのは1931年であるから、当時はまだ新しい路線だった。秋葉神社は現在の向島4丁目9にあり、参道の目の前が向島の終点になっていた。荷風は『断腸亭日乗』に、《今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍に墸をなしてゐるのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもより大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。》と、荷風は今となれば貴重な史料を残してくれた。東京鉄道を買収し東京市電気局が市電の営業を開始したのは1911年。1936年、25周年を迎えた。往復乗車券は14銭。
さらに、《何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。》と書いた荷風は、5年前、秋の彼岸も過ぎた頃、東京府下の町々が市内に編入されたことを祝って、花電車が銀座を走ったと、聞き伝えを続けている。この編入がおこなわれたのは1932年で、実際は「4年前」になるが、東京市は15区から35区に拡大した。
向島線の終点について、寺島町2丁目として、秋葉神社前の市電終点向島を「向島須崎町」に改名して掲載している情報もあるが、1936年9月19日付『断腸亭日乗』に目をやると、《電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。》と書いてあるから、1936年においても市電の終点は向島秋葉神社の前にあったことは間違いない(9月30日付にも、《向嶋終点に花電車の停留するに会ふ。》の記述がある)。さらに、ウイキペディアの「東京市電」に関する記述では、向島(向島須崎町)から寺島町(寺島町2丁目)の開通時期を1950年12月25日としている。この1950年5月1日現在の東京都電路線図は、本所吾妻橋から向島線に入った都電(30系統)は、言問橋、向島3丁目と停留所を過ぎ、向島終点になる。寺島町まで都電は行っていない。
とにかく、当時「改正道路」とよばれた水戸街道。市電は秋葉神社の前まででも、バスの方は現在の四ツ木橋南交差点、改正道路の行き止まりあたりまで運行されており、路線の延伸に関しては、バスの方が優位であることを示し始めていた。

荷風の描く「昭和モダン」の時代。市内交通は市電に加えて乗合バスが路線網を拡大し、地下鉄も登場してくる。人力車は円タクに変っていく。荷風もよく市電を利用し、作品の中にも登場させているが、あくまでも交通手段であり、市電そのものをつぎつぎに描写していった文豪は漱石をおいて他にないであろう。
東京市電はやがて東京都電になり、1962年に最盛期を迎えた(41系統、営業キロ213km)が、その後路線の短縮・廃止が相次ぎ、1972年、荒川線(早稲田―三ノ輪橋)を除き、都電は姿を消してしまった。「電車大好き人間」の漱石が知ったら、さぞかし残念がることだろう。

(完)
【金沢ブログ】 犀星と校歌が縁で

書いてみるものである。
私はこの「金沢ブログ」の「マラソン大会」の項で、秘かに校歌の一節を書き込んだ。歌い出しの「見はるかす加賀野」という歌詞が大好きで、屋上などで歌っていると、ほんとうに「見はるかす加賀野」が見え、のびやかで、すがすがしい気分になる。そのような加賀野がちょっぴり魔物にみえる時が「マラソン大会」である。もちろん、苦しいところを過ぎてしまえば、加賀野を走るのは気持ち良い。
そのような思いから書いた「見はるかす加賀野」であったが、目ざとく見つけられた方があり、「同窓生!」と確信してメールが入った。私のかなり後輩にあたるが、まぎれもない同窓生である。
ここまできわめて自然な流れだが、考えてみれば、なぜ私の「金沢ブログ」にたどり着いたのか不思議である。
彼とのメール交換の中で、その謎が解けた。彼は犀星の詳細な年譜(室生犀星文学年譜/室生朝子、本多浩、星野晃一編――明治書院、1982)の中で「一中俳句会」というものの存在を知り、犀星と一中生との間にどのような交流があったのか知りたいと思って、「“犀星”“一中俳句会”」の2語で検索。この「勝手に漱石文学館」の犀星のおいたちを書いた項が「完全一致」でヒットした、というのである。
ところで、彼がいかに犀星に強い思いをもっていても、当館を訪れて、必要な情報を得れば、それで終わったかもしれない。ふるさとに対する懐かしさから、「金沢ブログ」に到達し、「マラソン大会」の文章を読んでも、それで終わっていたかもしれない。彼もまた、
 見はるかす加賀野の果てに
 日本海青くかぎろふ
という、この校歌の歌い出しが大好きで、久しぶりに出会った歌詞に、「同窓生!」と直感したのである。彼は、「見はるかす」や「加賀野」のみならず「かぎろふ」という一語にすら、この校歌の中でしか出会ったことがなく、それほどオリジナリティーがあり、また格調高い詩だからこそ、多くの卒業生の胸に今なお強く灼きついているのだと思うと、校歌に対する強い思いを語っている。
もし、彼が犀星文学に興味をもたず、あるいはまた私が「見はるかす加賀野」という校歌の一節を書かなければ、このような出会いはなかった。彼は、まさしく犀星と一泉の縁で、この「勝手に漱石文学館」へと導かれることが運命づけられていたかのようだと述べているが、私もまた彼との運命的な出会いを感じる。
この件は、彼にとって非常に感動的な、文学探究の個人史における一大事件だったようだが、彼が私という同窓生に出会い、折しも同窓会が間近に開かれる。何とか同窓会開催を知らせ、出席してもらえないか。こうして、注文フォームから本の注文とともに、私にメールが入った。

話は後段に移っていく。
彼が同窓会に出席して欲しいと思った大きな理由は、第一に幹事の卒業回生だったこと。ひとりでも多くの参加をと、彼は幹事としてその責任を果たそうとしていたわけである。そして、第二に、当日、彼が犀星詩『はる』を演奏予定だったからであり、ぜひ聴いてもらいたいと思ったからである。
彼は高校時代から、文学と音楽に関心が高かったようで、その後、数人でロックバンド《遅れてきた青年》を結成。CDも出しており、その中に同窓会で演奏した、そして私に聴いてもらいたかった犀星詩『はる』も入っているという。同窓生の「エール交換」よろしく、彼のCDと私の『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を交換することにして、しばらくして、CDが送られてきた。
CDで、まず目につくのはジャケット。表紙の写真は大森馬込の犀星邸で、1959年に撮影されたもので、犀星邸の庭と、そこにたたずみ空を見つめる犀星の姿が写っている。カラーでないところが良い。
発行は「犀青記録社」となっており、「犀星」同様「さいせい」と読むが、「犀星の青春」「青年犀星」が伝わってくる名称である。
このCDには、ロックバンド《遅れてきた青年》の歌と演奏による作品2曲が収録されている。
1曲目は、室生犀星の詩『はる』(1918年、『愛の詩集』収蔵)に曲をつけたものである。もちろんロック。犀星の詩に、よく曲をつけたと、何よりびっくり。けれども、ロック以外の曲は、なかなかつけることができないかもしれない。激しくはないけれど、内面から絞り出すような曲、ぴったりである。やはり、ロックだ。そもそも犀星の人生、生き方、ロックそのものではないか(と言いつつ、実は「ロックとは何ぞや」、あまりよくわからないのだが)。今、犀星が生きていたら、ロックなんかやったかもしれない。
2曲目の『海と瞳』はオリジナルであるが、〈啄木も朔太郎も見つめた満月がまた欠ける〉という歌詞がある。犀星つながりで言えば、朔太郎が出てくるのはわかるが、啄木はどうして登場したのか。不思議に思って、彼にズバリ質問してみると、犀星と朔太郎では同じ時代の同じ場所、場合によって、肩を並べて見上げていたに違いないけれど、啄木と見ることはなかった。けれども、異なる時代に異なる場所で生きていた青年たちが結局のところ、同じ月に照らされていたという、ある種の感慨を覚えて啄木を登場させたという。確かに啄木は1912年に亡くなっており、犀星と朔太郎が初めて出会ったのは1914年である。それなら、尾崎紅葉(1903年没)でも良かったはずだが、彼によると、啄木と朔太郎はタクとサクで頭韻を踏んで、アルチュールとアルベールに対応させているとのこと。私も高校の英語の授業で、韻を踏んだ英詩に出会い、詩で韻を踏む「音の心地よさ」を知った。その時ばかりはちょっぴり英語の授業が好きになったことを思い出した。
彼と私は肩を並べて校歌を歌うことはなかった。校舎すら変わっている。けれども同じ校歌に照らされている。何か、私たちの出会いを暗示するかのような詩である。

さて、「マラソン大会」。彼が高校在学時代、どのようにおこなわれていたのだろうか。そして、現在はどうであろうか。彼からの返信を待っているところである。

CD『はる』に関する問い合わせなどは、
ロックバンド《遅れてきた青年》の公式サイトまで
URL  https://note.com/o_seinen
今年も漱石忌を過ぎました。知れば知るほど漱石の偉大さを感じます。今、漱石が生きていたら、世の中の動きに対して、どのような見解をもち、発言するでしょうか。
【神代帚葉がニュースに】

『濹東綺譚』の終わりに、長々と続く「作後贅言」は、荷風の神代帚葉(本名:神代種亮)に対する弔辞のようである。勝手に漱石文学館において、『濹東綺譚』の連載を終わった矢先に、神代帚葉に関するニュースが飛び込んできた※。連携したかのようである。
ニュースとは、神代に宛てた作家たち20人あまりの書簡、およそ200通が発見されたというのである。保管していたのは神代帚葉の孫、神代聡さん。専門家にみてもらって、貴重なものであることが判明したというのである。神代帚葉は「校正の神様」と言われた校正家。荷風との親交は「作後贅言」に詳しく書かれている。
みつかった書簡を送った作家は、荷風の他、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春夫など。龍之介などは、「ゆうべ遅かった為まだねてゐますこの手紙は仰向になったまま書くのです」と書いており、龍之介と年上の谷崎とのユニークな関係性をうかがわせるものもあるという。
書簡から当時の作家と出版社の関係を垣間見ることができるものもあるが、神代帚葉のようなフリーランスの校正家は特異な存在で、だからこそ作家たちは親しい感情を抱き、信頼して、本心を書簡に書くことができたのではないか。専門家はそのような分析をしている。
わたくしももう一度、『濹東綺譚』の「作後贅言」を読み返してみたいと思う。
【金沢ブログ】 38豪雪――60周年記念

「38豪雪」とは、昭和38年の豪雪で、北陸地方を中心に死者228人、住宅全壊753棟など大きな被害が発生したため命名されたものである。昭和38年と言えば1963年で、今年60周年を迎えた。
この豪雪で、福井市213cm、富山市186cmの最深積雪を記録し、金沢市でも181cmと、1940年の180cmを抜いて、最深積雪の記録を更新した。「雪国」と言っても、積雪が1mを超えることなどほとんどない金沢である。私も生まれて初めて、新潟など豪雪地帯のような光景を目にすることになった。
金沢市の積雪がどのように推移していったか、当時の記録を見てみると、1月1日が15cm、10日が13cmと、まあ通常の冬である。11日になると39cm、12日が58cm、15日には88cm。前年の最深積雪72cmを超え、前々年の110cmに迫ろうかという勢いであったが、雪はいったん小康状態になって、1月21日の積雪は75cm。ところがここから本番であった。
21日から猛吹雪になって、22日の積雪107cm、23日が136cm、24日が142cm、25日が159cm、26日が175cm、27日にはついに181cmと、金沢市の最深積雪の記録を更新してしまった。21日から北陸線などの鉄道も完全にストップし、その後、県内の幹線道路も相次いで自動車の通行ができなくなった。
積雪は降雪がなければ、溶けなくても、圧縮されて低下していく。積雪が10cm高くなるということは、それ以上の降雪があったことを意味している。21日から27日にかけて積雪が増え続けているということは、毎日、雪が降り続いたことを示している。
毎日、毎日、雪が降り続き、しかも吹雪である。雪は上からも、横からも、下からも吹付けて来る。空は見えない。自分が鉛色を帯びた乳白色の布に包まれたようである。そのような中を登校するのであるが、とうとう学校も休みになった。毎朝おこなう家の前の雪かきも、しだいに捨てる所がなくなって、道路を埋め尽くし、雪上の道はどんどん高くなって、スコップで階段をつくって、雪上の道へ上るようになった。家のまわりの雪を除けておかないと、雪が窓や壁を突き破って中へ入ってくるキケンがある。雪の重みで戸が開きにくくなる。3日に1度くらい屋根の雪下ろしである。そのうち、屋根の雪下ろしが「雪上げ」に変ってしまった。屋根から雪の上に飛び降りたら、ズボッとはまって、下に堅い雪があって、キケンな目に遭った。私は中学3年で、1か月と少しすれば高校の入学試験である。けれども「今は雪との闘い」である。
1月27日に181cmを記録した後も、28日が180cm、29日が161cm、30日が168cm、31日が172cmと一進一退の状況で、2月に入って、1日が158cm、5日が145cm、10日が136cm、12日が131cm、28日になっても103cmと、例年の最深積雪よりも多い状態。雪は4月になっても残っていて、花見と雪見を同時にするという貴重な体験をすることになった。
このような豪雪の中でも、2月10日には石川県知事選挙と金沢市長選挙がおこなわれた。この時初めて石川県知事に当選した中西陽一さんは、その後31年間、県知事を務めることになる。私も校内弁論大会で「金沢市の未来」など語っていたので、選挙には大いに関心があった。そして、私の机の上にはケネディ大統領の写真が飾ってあった。中西さんはケネディと同い年で、ともに「若い政治家」という印象が私を惹きつけた。ケネディはその年の11月に暗殺された。
弁論大会がおこなわれた体育館は豪雪で傾き、倒壊のキケンがあるため使用中止になり、中学の卒業式は観光会館でおこなわれた。思い出ある母校からの旅立ちはできないが、それはそれで何か晴れがましい気持ちがした。

当時、すでに私は毎日、気象通報を聴きながら天気図を描いていた。とくに1月下旬に入って、来る日も来る日も描き上がってくる天気図は、ほとんど同じで、大陸の高気圧の気圧が下がる気配も、ちぎれて移動性高気圧になってくる気配もまったくない。等圧線の間隔も狭い。そのような中で不思議にも、山陰沖(韓国の東、鬱陵島付近)にゆるみがあり、いわゆる低圧部になっている。このような状態になると、平野部に雪が多く降る「里雪」になることを、私は何となく把握していた。
今では素人の私でも、気象衛星の画像によって雲の厚みや水蒸気量を知ることができるし、雨雲レーダー画像やアメダスの状況、高層気象の状況まで知ることができる。当時は気象通報によって描かれる天気図だけである。今、考えれば、日本列島すっぽり寒気に覆われて、それが停滞し、日本海から大量の水蒸気が供給されて豪雪になったのだ。おそらく次から次へと帯状になって雪雲が流れて来たのだろう。

街の中を流れる用水は除雪した雪を捨てるには絶好の場所であったが、その用水も雪でいっぱいになってしまった。東本願寺別院(東別院)の門前に発展した横安江町商店街のアーケードも雪の重みで壊れてしまった。雨や雪の日でも安心して買物ができるようにと、1959年に完成した、まだ新しいアーケードであった。1962年7月には東別院本堂が焼失しており、横安江町商店街にとっては、半年間に二度の災難であった。
豪雪の雪も時が来てすべて溶けてしまった。「あの雪との闘い」は、いったい何だったのか。高校でおこなわれた俳句・短歌大会に私は「電線に赤茶けた布ひらりひらり思う豪雪のあの日」という歌を応募した。
                         (完)

★「再び金沢市電の思い出」はブログに移転し掲載しています(カテゴリー:金沢ブログ)。
「勝手に漱石文学館」も早いもので、今月(10月)、開館6周年を迎えました。この間、12万人を超える方に来館いただき、ほんとうにありがとうございました。漱石を離れた記事も多くなりましたが、今後ともよろしくお願いいたします。
館長
泉鏡花研究会会報に『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』が紹介されました。
ブログのカテゴリー「金沢ブログ」に「『盆栽の松』に描かれた金沢」の連載を開始します。『盆栽の松』は金沢にある北陸学院に長く勤められ、日本の保育向上にも貢献したアイリン・ライザーが書いた小説です。アメリカ人が描いた戦前の日本という点からも注目すべき作品です。北陸学院幼稚園は中原中也の通っていた幼稚園でもあります。ぜひ大勢の方に読んでいただきたいので、よろしくお願いいたします。
「館長の部屋」で「日和下駄を履いた猫」鏡花編の連載を始めました。
「館長の部屋」で連載中の『日和下駄を履いた猫』は、順次、ブログの方でも掲載しています。カテゴリーは「文豪の東京――夏目漱石」です。
第25回 『日和下駄』で歩く東京⑲

記事の訂正

現在連載中の《『日和下駄』で歩く東京》を読まれた研究者の方から、連載「第21回」の記事の内容に一部誤りがあると、ご指摘をいただいた。このような情報提供はとてもありがたく、私自身の知識を広げるとともに、私が発信した誤った情報を修正するためにも重要である。記事を下記のように訂正する。

【すでに発信した文章】
《しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。》と荷風は、それた話と何とかつなげて、「閑地」の話しを立て直す。
ここからしばらく、何万坪という広い閑地になっている芝赤羽根の海軍造兵廠跡の話題が続く。要約すると、(略)
この後、荷風がこの閑地を久米正雄と訪ねたことが、長々と書かれている。閑地に入る場所がなかなか見つからず、《私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内へ這入って見た》。
【指摘を受けて訂正する箇所】
(誤)久米正雄 ➡ (正)久米秀治

【研究者からの指摘内容】
「第21回」の「閑地」を扱われた章にて、例の旧有馬藩邸を訪ねる件ですが、同道の「久米君」なる人物について、「久米正雄」と記しておられましたが、これは「久米秀治」のことのようです。(略)例の角川『日本近代文学体系』(29巻永井荷風)のお世話になりました。坂上博一氏による注釈は簡単ながら信頼できるので、「頭注」の文言をそのまま記しておきます。
久米君 久米秀治のこと。1887―1925。東京の生まれ。慶應義塾大学文科卒業後帝国劇場に勤務、後有楽座主任となる。「三田文学」「文明」「花月」などの編集に協力、寄稿も多かった。

あけましておめでとうございます。
松山坊っちゃん会会長の武内哲志先生との対談は、「ブログ」のカテゴリー「対談」でお読みください。「金沢ブログ」は「ブログ」のみの掲載です。荷風の『日和下駄』は当面、「館長の部屋」のみで連載しています。
今年、当館は来館者10万人を突破しましたが、いよいよ11万人突破です。新しい年も、ぜひご贔屓に、よろしくお願いいたします。
当館では頻繁に更新をおこなっています。掲載した文章が1週間ほどの間に下の方へ行ってしまい、埋もれた状態になってしまいます。「ブログ」では、カテゴリー別になっており、検索機能もついています。武内哲志先生との対談も、「館長の部屋」では、トップで読むことができません。「ブログ」ではカテゴリー別で「対談」を選択してもらえれば、簡単にたどりつけます。過去に掲載された文章を探したいなどと思われた場合は、「ブログ」の方をご利用ください。埋もれそうになった記事は「ブログ」にも掲載するようにしています。「金沢ブログ」は「ブログ」のみ掲載です。
「館長の部屋」では「文豪の東京」永井荷風の連載を始めましたが、更新にはしばらく時間がかかります。「ブログ」では頻回に更新していますので、よろしくお願いします。
「文豪の東京――永井荷風」の連載が「館長の部屋」で始まりました。次回連載まで間隔が空くかもしれませんが、気長にお楽しみください。やや遅れて「ブログ」でも公開していきます。「ブログ」では、「金沢ブログ」を順次公開しています。
来館者が10万5000人を超えました。ほんとうにありがとうございます。過去の文章がどんどん埋もれた形になりますが、「ブログ」の方では、カテゴリー毎に読むことが出来ます。島崎藤村についても、「文豪の東京――島崎藤村」で取り出せば、連載第一回から順に読むことができます。検索機能もついていますので、「草枕」と入れて検索すると、「草枕」に関する記述のある文章を取り出すことが出来ます。ご利用ください。
「文豪と東京」では今年生誕150年の島崎藤村を連載しています。まだまだ続きます。藤村ファンの方、そして明治学院卒業生の方も、ぜひ時おり、足を運んでください。
「文豪と東京」
芥川龍之介に続いて、何となく惹かれる思いで島崎藤村を選んだのですが、何と今年生誕150年でした。来年生誕150年の泉鏡花ばかりに気をとられていて、藤村にはたいへん失礼いたしました。そう言えば、歌人の佐佐木信綱も今年生誕150年ですね。
「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。
原稿を書きながら、気がついたことがあります。私は『吾輩は猫である』から『坊っちゃん』までの間で、漱石の小説は、『琴のそら音』と『趣味の遺伝』の二つだけと決めつけ、『倫敦塔』をはじめとする小説は、斜め読みした程度で、後は目もくれないといった状態で放置していました。もちろん、これには私なりの理由があって、つまり、『漱石と歩く東京』を書くにあたって、東京を舞台にした『琴のそら音』と『趣味の遺伝』に関心がむいたためです。『琴のそら音』と『趣味の遺伝』は何回も読み返した反面、他の作品は私の視界から消えてしまったのです。
けれども、『草枕』を読み返してみると、漱石がイギリス留学していた頃、流行していた詩、絵画、芝居などが顔を出す。そうなると、『倫敦塔』から『薤露行』までの小説が、私の視界の中に入ってきました。そして、一連の作品は『草枕』の習作だったのではないか。言い換えれば、一連の作品の延長線上に『草枕』があるのではないか。そう思うようになったのです。
私は『一夜』を読んでいて、『草枕』を読んでいるような心持になりました。出てくること、出てくること、『草枕』のテーマのような。夢が出る。絵が出る。小説論が出る。和漢洋ごちゃ混ぜにしたような。男二人に女一人の会話も面白い。
――《八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、凉しき眼の女が會して、斯くの如く一夜を過した。彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのである。》
《何故三人は落ち合った?それは知らぬ。三人は如何なる身分と素性と性格を有する?それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ?人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。》――
そして、この文章に続く、最後の一文がすごい。――《なぜ三人とも一時に寝た?三人とも一時に眠くなったからである。》――
完璧に「非人情」。小説ならば、「三人が赤い糸で結ばれていたから」と書いてみたくなるのですが。私は小説というのは、人生を描いているのではないかと思うのですが、どうも漱石の主張は違うようです。ある面、漱石の屁理屈のようにも思えますが、『草枕』にはさらに進化した形で示されています。
『一夜』を読んで、私がハッとした部分。
――《夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床に入る。三十分の後彼等は美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。(中略)彼等は漸く太平に入る。(中略)他の一人は髯のない事を忘れた。彼等は益々太平である》。――
一生を描いたという言葉がよく理解できます。彼等は「太平」を得た。死ななければ「太平」は得られない。彼等は永遠の眠りについてしまったようです。「死」とは「すべてを忘れること」。自分であったことさえ忘れること。この真理、この悟りに、三十代にして到達した漱石。やはり只者ではありません。けれども、その漱石も今では、漱石であったことも、小説を書いていたことも、人間であったことさえも忘れているのです。「太平」であることすら感じていないのです。
人生は、束の間の「一夜」の如し!眠りに就きてすべて忘れる。

「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。
書くにあたって、『草枕』を何回も読み返したのはもちろんですが、ネット上でもさまざまな情報を集めました。その中に、「猫じゃらし文芸部」というサイトがあり、『草枕』を扱った文章が載っていました。
その始めに、《『草枕』には筋があります!》と見出しをつけて、概ね、――『草枕』は意味不明で読みにくく、挫折した人も多いだろう。俳句と芸術論の間に、ただ美しく情景を描いただけで、筋も意味もないように思えるが、本文中に散りばめられたヒントを頼りに、古典、漢詩、英文学等の知識を使って読み解くと、物語が見えてくるミステリーになっている、として、《一見ハチャメチャに見えて、実はあっと驚く構造を持つ小説です。『草枕』こそ、遊び心をたっぷり込めて楽しみながら、漱石が自分自身のために書いた最高傑作です》、と続けています。
全6回シリーズと、分量は多いですが、とても興味深いことがたくさん書かれています。書いている人が違うのですから、当然、捉え方の違いもあります。けれども、漱石も遊び心で楽しんで書いているのだから、私たちも難しい顔をしないで、楽しんで『草枕』を読もうじゃないかという点に関しては、同じ方向性をもっているように思われます。
「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。第1回、「『草枕』の特色」では、冒頭に、《『草枕』について、あえてここで説明する必要もないでしょうが、書かれた時期という点から言うと、1906年、漱石が『坊っちゃん』に続いて発表したのが『草枕』。漱石39歳の時です。まだ本業は教職であり、『坊っちゃん』は春休み中の3月17日から24日までの1週間、『草枕』は夏休み中の7月26日から8月9日までの2週間を使って書き上げられました。構想を温め、長期休暇に入るのを待ちかねたように、趣味の小説書きに没頭していったのであろうと推察されます。漱石は、1904年から1905年にかけての日露戦争のさなかに、小説家になろうという明確な意思もなく『吾輩は猫である』を書き始め、これが存外にも好評で、その後、いくつかの小品を発表して、『坊っちゃん』『草枕』へとつながっていきました》と、お話ししています。
ここで、『漱石全集』第二巻(1966年、岩波書店)に掲載されている、小宮豊隆が書いた「解説」をもとにして、補足しておきたいと思います。
『吾輩は猫である』は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて書かれており、その間に飛び込むように、『倫敦塔』から『坊っちゃん』まで書き上げられています。小宮は『坊っちゃん』が書かれた時期について、《およそ明治三十九年の三月十四・五日から同じ月の二十五日ごろまでに亙つて、書き上げられた》として、『猫』の第十よりも後に書かれたが、『猫』の完結は第十一で、『ホトトギス』の八月号に掲載されたと、明らかにしています。『猫』が一段落して、7月26日から『草枕』の執筆に取りかかり、8月9日に書き終ったと小宮は判断しています。実際には後半の1週間ほどで一気に書き上げたようで、小宮は《僕も最も中々来客が多くて而も僕は客が嫌ではないから思ふ様にかけないので困る》と書かれた濱武元次宛の手紙を紹介しています。
長期休暇を待ちかねて、『坊っちゃん』や『草枕』を書いたようにお話ししましたが、実は教職の仕事をこなしながら、つぎつぎに小説を書いていたことになります。案の定、1905年2月9日付けの野間眞綱宛手紙には、『幻影の盾』が思うように書けず、漱石が「今日から三日間学校を休んだ」と書いていることを、小宮は紹介しています。そう言えば、『趣味の遺伝』には、《翌日学校へ出て平常の通り講義はしたが、例の事件が気になっていつもの様に授業に身が入らない。控所へ来ても他の職員と話しをする気にならん》という一節があります。何か現実の漱石を見るようです。
それでも、サービス精神旺盛な漱石は、客の相手にも熱心で、手紙もマメに書いています。こんなに「人情」たっぷりだと、「非人情」の旅に出たくなる気分もわかりますが、軽妙な会話の場面は、人付き合いの良さあればこそ、生まれたものと言えるでしょう。そのまま、漱石の魅力が伝わって来るようです。
なお、この文章を書きながら、ふと思ったこと。『吾輩は猫である』と『草枕』とはずいぶん時期的に離れて書かれたように思っていましたが、『猫』の最期の場面と、『草枕』は連続的に書かれたと言っても良く、真宗の教えをもとにした一連のものと捉えることができるのではないかと。
「館長の部屋」の記事は、「ブログ」にも掲載されています。カテゴリ別、月別に読むこともでき、検索も可能です。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を購入された方から、つぎのような感想と指摘をいただきました。

切り口が斬新な感じがして、楽しく読み進めています。
「よく調べられてるな」と思って読んでいますが、15ページで秋聲が鏡花と「ほぼ同じ方法で上京したであろう」という点については違うように思いました。
秋聲と悠々の1回目の上京は、「直江津までは徒歩と人力車。直江津で初めて汽車に乗り、終点長野まで。長野からは歩いて、苦労して碓氷峠を越えて高崎に着き、高崎からまた汽車で上野まで」と、秋聲の「思い出るまま」「光を追うて」に書かれています。
秋聲ファンなのでご指摘させていただきました。違っていましたら失礼いたしました。

「勝手に漱石文学館」では投稿フォームがいくつかありますので、それを通じ、このような感想やご意見をいただけるのは、たいへんありがたく、嬉しいことです。本も出版しっ放しでなく、このような双方向の交流ができるのも、インターネット普及のおかげです。
ご指摘の件は、秋聲自身が「思い出るまま」「光を追うて」に書いているので、これは間違いないことで、鏡花の敦賀・東海道線経由と異なり、直江津・信越線経由。明らかに鏡花と「ほぼ同じ方法で上京した」というのは誤りです。もともと長野を経由するルートは、北陸道・北國街道・中山道と、加賀藩主の参勤交代のルートで、江戸・東京へ行く常識。秋聲たちも普通に選んだルートでしょう。
ご指摘によって、私自身も新しい知識を得ました。ほんとうにありがとうございました。こうなると、もっと調べてみたくなる性分で、調べた結果を後日、「館長の部屋」に公開したいと思っています。
⇒12月11日、「館長の部屋」に公開しました。よろしかったら、「館長の部屋」を訪ねてみてください。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』訂正

 訂正するようなことにならないように、繰り返し確認したのですが、本が出来上がった後に、やはり間違いがみつかってしまいました。さっそく訂正です。

 6ページ上段 鏡花出生地:下新町23番地
 176ページ下段  芥川龍之介が亡くなったのは、
(誤)7月23日⇒(正)7月24日

7ページ下段 うしろから6行目の書名
(誤)『日本の幼児教育につくした宣教師』
⇒(正)『日本の幼児保育につくした宣教師』

出版しました!
三人の東京――鏡花・秋聲・犀星
定価:税込1210円(本体価格1100円+税10%)

ご案内
 金沢の生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星の作品は今も多くの人に愛され、金沢には三文豪の各記念館があり、観光資源として大きな役割を果たしています。三人は、文化・伝統が幾重にも蓄積した金沢の魅力を構成する、重要な要素のひとつになっています。
 ふるさと金沢を愛し、東京に強いあこがれを抱く筆者は、専門の地理的視点を活かし、東京へ出て来た三人と、彼らが描いた東京を、文学散歩と作家論・作品論を織り交ぜ、一冊の本にまとめました。三人がどんなに才能をもっていようと、金沢がどんなにすばらしい街であろうと、上京しなければ「文豪」とよばれるまでになっていなかったでしょう。上京しなかった筆者自身の思いも込めた一冊です。
 今年から来年にかけて徳田秋聲生誕150年、2023年には泉鏡花生誕150年を迎えます。そのような中で、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』が多くの方に読まれることを期待しています。

目次
はじめに 
一.ふるさと金沢 
二.三人の上京 
三.鏡花――紅葉と住んだ神楽坂 
四.『夜行巡査』に描かれた番町・麹町 
五.『婦系図』の舞台 
六.『黴』とたどる秋聲の東京生活 
七.妾として暮らす東京――『爛』 
八.詩に描かれた東京――漂泊する犀星 
九.『或る少女の死まで』――谷根千慕情 
一〇.深川・日本橋を舞台に――『葛飾砂子』と『日本橋』 
一一.『杏っ子』に描かれた関東大震災 
一二.震災後の深川――『深川淺景』 
一三.昭和モダンの東京――『仮装人物』 
一四.杏子の東京――『杏っ子』 
一五.都会と田舎を手に入れた文士――犀星 
一六.秋聲の作品にみる上京者 
一七.上京した人、しなかった人 
一八.秋聲のやさしさ 
一九.犀星、「仮構」の出生が育んだ作家 
あとがき
特集
①逗子を走る ②東京の中の金沢 ③田端・馬込を歩く
休憩室 鏡花、和倉温泉へ行く

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河童忌に因んで、北澤みずきさんが資料提供してくれました。
龍之介の死に際して、犀星が詠んだ一句。
――新竹のそよぎも聴きてねむりしか――
この句に文学者で俳人の関森勝夫先生(1937~)が、つぎのように解説されていると言うのです。
――竹林の葉騒をききながら安んじて寝入っていることだろうと、その穏やかな死顔から、ひと寝入りして再び目覚める人のように表現したのである。――
龍之介の死に大きな衝撃を受けた犀星ですが、何とか俳句だけは創ることができたのでしょうか。
「煤けむり田畑にひらふ螢かな」「足袋白く埃をさけつ大暑かな」
このような句も詠んでいます。
秘書の北澤みずきです。

>新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。

いいえ、館長。私には想像もつかないほどのスケールの大きな旅でしたが、色々なところに連れて行っていただき、多くのことを学ぶことができた楽しい旅でした。
『草枕』は実に奥が深く、そして広がりをもった小説なのですね。
「人情の世」で「小説」を書き、そして「煩い」を切り離すことなどできないと「あるがまま」に受け入れようとする。「則天去私」は大変有名なことばですが、館長のおかげでその意味をより深く理解できたように思います。
新解さんに今もお住まいの漱石は、「非人情」を調べる私たちを喜んで迎えて下さるのですね。そして「この世」も悪くないのだと教えてくれる…。
これからもずっと新解さんに住み続けてほしいです。

>漱石を探してみませんか。

はい!探してみたいです。
お茶をしながらの楽しい時間を、どうもありがとうございました。

【「新解さん」談義③】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

秘書(北澤みずき)
非人情は漱石の造語だとか。新解さんは、「情に掉させば流される」ため、煩わされないように努めているのでしょう。新解さんも『草枕』の主人公のように、非人情の旅に出たいと思っていたりして。館長は非人情という言葉から何を想像されますか。
<参考>
日本国語大辞典や広辞苑でも、新解さんと同じように①は不人情と同じ意味(人情が乏しい、うすいなど)、②として漱石の『草枕』の一部を用例としてあげ語釈を載せています。その一方で、今の時代、不人情や非人情という言葉を国語辞典で調べるのか、とも思います。ますます住みにくくなるこの世の中、新解さん(最新版の国語辞典)もまた悩みを抱え、漱石のつくったことばを国語辞典に残さなくてはと思っているような気がしてなりません(笑)。

館長
「非人情」と言う言葉から、何を想像されますか?うーん(しばらく考え込む)、「人でなし」?「極悪非道な人」?「鬼!」?みずきさんはどんな答えを期待したでしょうか。こんな時は「逃げるは恥だが、役に立つ」方式で、『草枕』へ逃げて行きますよ。
『草枕』の冒頭。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

漱石は「智に働く」人で、「意地を通す」人だったと思いますが、これではいけないと思って、相手のことや周りのことを考えた言動をすると、結局は流されてしまって、人の道に反したことをしてしまったり、自分の個性と言うものがなくなってしまったり、まさに八方塞がり。俺はいったいどうすればいいんだ!とにかくこの人の世は住みにくい。ところが、

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒 両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

つまり、この人の世が住みにくいからと言って、どこへも行くところがない。行くとしたら、「人でなしの国」つまり「非人情の国」しかないですね。文脈からすれば、「人でなしの国」は「神の国」か「鬼の国」(天国か地獄、あるいは極楽か地獄)、要は「この世」に対する「あの世」です。新解さんが「非人情」の旅に出たいと思っているとしたならば、それは死出の旅に発ちたいと思っていることです。
じつは新解さんだけじゃない。漱石だって、「死んで太平を得る」と思って、「死ぬこと」に憧れを持ち、死んだら万歳のひとつも唱えてくれとまで言っています。だって、「非人情」の世界へ行けば、一切の煩わしさから解放されるのです。けれども、漱石はこのように言っていますよ。「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」と。
漱石は「非人情」の世界に憧れているけれど、「人情」の世界を受け入れて、そこでしっかり生きていこう、そう思っているのです。漱石は自死することを否定しています。そして、自分の与えられた生命が尽きる時には、『吾輩は猫である』の最期の部分にあるように、「死」を受け入れ、すべてを阿弥陀仏に委ねて逝ってしまおう。さすが、親鸞を尊敬し、真宗の教えを受け止めた漱石です。
そして、先ほどの引用文の前に、下記のような一文があります。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

つまり、「非人情」の世界に行きたいけれど、行くことができないから、「人情」の世界で生きていかなければならない。けれどもみんなに流されて行ったら、自分と言うものがなくなってしまう。他の人とは違った、「自分」というものをしっかり発揮できるのが「詩」であり「絵画」であると、漱石は言うのです。漱石はその自分らしさを「小説」の世界に見出したのです。
長くなります。続きはまたお話ししましょうね。『草枕』は芸術論から、真宗にまで及びますよ。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
前回は、『草枕』の《住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る》という、漱石の「芸術論」が凝縮されたような一文を紹介し、「人情」の世界で生きていかなければならないと覚悟した時、他の人とは違った、自分らしさを発揮する場として、「詩」や「絵画」が生まれた。そして漱石はそれを「小説」の世界に見出したのです、というところで話しは終わっていました。その続きです。
漱石は「小説」の世界に逃げ込んだのではありません。「人情」の世を精一杯生きるために、「小説」を書くという道を得たのです。『草枕』には、

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

まさに漱石は小説家という天職を得て、人の心を豊かにする使命をまっとうしていったのです。そして、『草枕』が書かれた時期を考えれば、このようなことを書きながら、漱石は芸術の存在を許さない勢力、許さない風潮が大きくなって来ていることに危機感をおぼえ、警鐘を鳴らしていたと、私は推察しています。
『草枕』は、けっして長編の小説ではありませんが、ほんとうに奥が深く、話したいことはいっぱい出てきます。さて、この一文。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

うまいですね、この表現。みずきさんも俳句に関心があるから、ピピっと来るでしょうが、正岡子規の俳句、「写生」ですね。もちろん、漱石は子規をまねたのではありません。ふたりに共通する考えで、その基盤に真宗、とりわけ清沢満之(きよさわまんし、1863~1903年)の影響がありました。ふたりの間で「親鸞上人」と言えば、満之を指していたと言われるくらい、傾倒していたのです。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。
もう少し、話しが続くので、ここでお茶でも飲んで、ひと休みしましょう。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
それでは、再開。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。――とは言っても、人間は「人情」の世の中に生きているわけですから、いつも《住みにくき煩いを引き抜いて》生きていくわけにいきません。漱石も四十数年生きて来て、「煩い」はひとつ去っても、またやって来ることに気づきます。『道草』のテーマです。けれども、漱石はその道筋を『草枕』の中ですでに解き明かしています。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

二十歳から、二十五歳、三十歳と、段階的に進化している様子がわかります。それは、真宗を学びながら、漱石が平静を得る方法を段階的につかみ取っていった過程を示しているのかもしれません。
まず、「人情の世」である「憂世」「厭世」が肯定的に捉えられ、続いて、この世の「明」と「暗」、「生」と「死」、「楽」と「苦」が表裏一体のものとして捉えられています。二つの相反するものの一方だけを取り除こうとしても、紙から裏面だけ切り離そうとしてもムリなように、人生から「暗」だけ、「死」だけ、「苦」だけ、「煩い」だけ取り除こうともがいても、所詮、切り離すことができないものだから、ムリなものはムリ。ムリを通そうとするから、苦悩は増すばかり。ともに「あるがまま」に受け入れていくことが、平静を得る道なのだ、と。
そして、第三段階において、「生」と「死」、「苦」と「楽」。表裏一体の一方が強ければ、反対のものも強くなければならない。「プラス」が強くなればなるほど、「マイナス」もまた強くなっていかなければならない。光りが明るければ明るいほど、その影は暗く深くなっていく。つまり、大きな喜びの陰には、大きな悲しみが潜んでいる。逆に言えば、大きな悲しみの時に、大きな喜びが付き添っていてくれるのです。「悲しみが大きい」と悲嘆にくれなくても、よく見ると、普段より増して「喜び」が輝きを放っている。このようにして私たちは、「悲しみ」もまた「あるがまま」に受け入れていけるようになるのです。この発見は、人生において平静を得る真髄のように私には思われます。

漱石は、良い成果を得ようとすればするほど、その反対に神経衰弱が昂じて破滅の道にむかって行きました。つまり、「生の欲望が強くなればなるほど、不安もまた強くなってくる」ということです。そして漱石は、「死へのあこがれが強くなればなるほど、生への欲望もまた強くなった」のであろうと思います。
後に、森田正馬は「神経衰弱」を「生への欲望」と捉え、神経衰弱の治療に役立てていこうとする「森田療法」を生み出していきます。森田は第五高等学校で漱石の英語授業を受けています。
このように、「プラス」と「マイナス」が背中合わせに同居している状態を漱石は「諷語(ふうご)」と呼んでいます。「諷語」という言葉は、『吾輩は猫である』のすぐ後に発表した『趣味の遺伝』で登場しています。つまり、『草枕』を発表する前に、つかみとっていたのです。

諷語は皆表裏二面を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう。(略)表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。

というように漱石は「諷語」について述べ、さらに、《滑稽の裏には真面目がくっ付いている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談の底には啾々たる鬼哭が聞える》という例を挙げ、やがて親友の恋人と判明する寂光院の女を、「諷語」の中に説明しています。
みずきさん。
新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。漱石が『吾輩は猫である』を書いたのは、38歳になろうとする頃でした。『草枕』は40歳くらい。ただただ、すごい人としか言いようがないですね。
すでに「非人情」の世界に住んでいる漱石。「住みにくい世界だなあ」と退屈しているかもしれません。漱石は「生命の永遠性」を信じていましたから、今頃はまた、退屈しのぎに「人情」の世界に舞い戻っているかもしれません。
ほら、そこに……
漱石を探してみませんか。
秘書の北澤みずきです。

「漱石張りの文章」は、水村美苗さんの『続明暗』ときましたか。これ、館長への質問を考えている時に私が予想していた通りの答え。とってもうれしいです!しかしながら私も『続明暗』を読んでおりません。何となく気が進まず、時間だけが過ぎてしまいました。
あっ、漱石の『明暗』もちゃんと読んでいなかった…館長、ごめんなさい。漱石の作品で読んでいないものがあるなんて、秘書失格ですね。これから読みますので、どうかお許しください。
代わりに水村美苗さんの『母の遺産―新聞小説』より。主人公の美津紀が「どうして母はあのような人間だったのか」と思いめぐらすシーンがあります。
そう。そもそも祖母が自分の身をあのように「お宮さん」と重ねなければ、母がこの世に生を受けることもなかった。祖母があの新聞小説さえ読まなければ、息子の家庭教師と駆け落ちなどをすることもなかった。そうすれば、母だけでなく、母の娘たちもこの世に生を受けることはなかった。(中略)思えば、美津紀自身が新聞小説の落とし子であった。
この「新聞小説」とは何の作品か、もちろんおわかりですよね。尾崎紅葉の『金色夜叉』。
『母の遺産―新聞小説』は水村美苗さん自身の体験を交えて描かれています。実際のお母様、お祖母様はどうだったのか。小説ですから、その人物造形はよりわかりやすい方向でデフォルメされていったであろうと思います。けれども『金色夜叉』が読売新聞に連載されていた当時、世の女性たちは自分と「お宮さん」を重ね、夢中になって読んだのではないでしょうか。そして『金色夜叉』という新聞小説がなければこの世に存在しなかった水村美苗さんが、その後、漱石になりきって『続明暗』を書く。紅葉と漱石はこんなところでもつながっているのです。
本当はこの話、来年1月17日の紅葉忌につぶやこうかなと考えていたのですが、私が質問したばかりに、何だか先を越されてしまった感じです。やっぱり館長はすごいです。大変尊敬しております。
【「新解さん」談義②】
ばり【張り】②有名な人に似ていること。「漱石―の文章」

秘書(北澤みずき)
「漱石張りの文章」ですか。新解さんは、きっと漱石のファンで、漱石に憧れているのですね。館長はどんな文章が「漱石張り」だと思われますか。

館長
みずきさんのこの質問にはズバリ!水村美苗さんの『続明暗』でしょう。漱石が生きていたらこんな風に書くだろうと、文体も含めて漱石になりきって書いたのですから、「漱石張りの文章」の典型みたいなものです。
こんなこと書いて、きわめて言いにくいのですが、私は『続明暗』を読んだことがないのです。水村さんには悪いけれど、読む気がしないのです。『明暗』は未完になっているけれど、あそこで完結です。余韻を残しながらうまく収まっています。後は自分で想像すれば良いことで、誰かに書いてもらう必要はありません。そもそも、『明暗』は作者が亡くなったから未完ということになったけれど、『三四郎』だって、彼の人生は続くのだから、未完なのです。『続三四郎』があっても良いのです。漱石の作品で「完」になったのは、『吾輩は猫である』くらいでしょう。吾輩が死んでしまったのですから。
かつて私は『吾輩は豚である』という短編小説を書きました。何の評価もされませんでした。それに対して『続明暗』がきわめて高い評価を受けているのは、漱石作品の「パロディもの」ではあるけれど、一個の作品、小説として、きわめて完成度が高いからではないでしょうか。
みずきさんが、『続明暗』を読んでいたら、ぜひ感想を聞かせてください。
ところで、漱石自身「〇〇張りの文章」を書いたことがあります。漱石は尾崎紅葉程度の作品なら自分にも書けると思っていたようですが、鏡花の独特の世界観を自分は持ち合わせていないと、一目も二目もおいていたようです。1907年、大学を辞め、朝日新聞に入社し、いよいよ職業作家として生き始めた漱石が、最初に書いたのが『虞美人草』。鏡花はその年、1月から4月まで「やまと新聞」に『婦系図』を連載していました。漱石は「俺も小説を書くのだ」と意気込んで、「鏡花張りの文章」で『虞美人草』を書き始めました。こうして、『虞美人草』は6月23日から10月29日まで「朝日新聞」に連載されました。
まさに、漱石の挑戦でした。漱石は「鏡花張り」の美文調で、最後まで崩れることなく、書き切りました。もちろんそれは鏡花の模倣ではありません。完全に漱石の作品です。しかしながら、漱石の作品の中で『虞美人草』はまったく異質。
漱石にとって「鏡花張り」とは、「鏡花と張り合った」という意味になるのではないでしょうか。
漱石と鏡花。二人は良きライバルであり、お互いに尊敬し合っていたのではないか、私はそう思うのです。
【「新解さん」談義①】
たたく【叩く】漱石の門を―(=教えを請うためにたずねる)

秘書(北澤みずき)
「漱石の門を叩く」となると、新解さんは、漱石にどんな教えを請おうとしたのでしょうか。何に悩んでいたのでしょうか。小説を書きたいと思っていたのか。館長の考えをお聞かせ願います。

館長
「漱石の門を叩く」。秘書の真面目な問いかけに、「漱石の自宅(つまり漱石山房)に門があっただろうか」と、こんな疑問が湧いてくるのは、館長として失格かもしれませんね。でも、調べてみましたよ。
芥川龍之介の『東京小品』の中の「漱石山房の秋」によると、漱石山房の門には電燈がともっているが、柱に掲げた標札はほとんど有無さえ判然としない状況であることが書かれており、確かに門はありました。その門をくぐり、砂利と落葉を踏んで玄関へ来ると、壁面はことごとく蔦に覆われ、呼鈴のボタンさえ探さなければならない状態であったようです。この後、客間に行くのですが、雨漏りの痕と鼠の食った穴とが白い張り紙の天井に残っている有様。
こうして、やっと漱石の居室までたどり着くと、二枚重ねの座蒲団の上には、どこか獅子を想わせる背の低い半白の老人。手紙の筆を走らせ、あるいは唐本の詩集を飜したりしながら、端然とひとり座っている。その人こそ文豪夏目漱石。49歳にして、老人なのか。けれども『東京小品』は1916年に書かれており、無論、本人は知る由もないけれど、漱石死去のカウントダウンが始まっているのですから、老人に思われても不思議ないかもしれません。龍之介は《漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであった》と、結んでいます。
「門を叩く」。これは正確には「門の扉(あるいは戸)を叩く」でしょう。漱石山房の門に扉や引き戸があったかわかりませんが、あったとしてもカギはかかっておらず、玄関の呼鈴を押して、中から出て来てもらいました。「漱石の門を叩く」は、実は「漱石の玄関の呼鈴を押す」ことだったんですね。
もちろん、みずきさんが求めていたのは、このような答えではありません。もともと「門を叩く」のもとになる「門」は、論語に由来すると言われています。孔子の弟子である子貢が、師である孔子より自分の方が優れていると噂されたことに対し、「屋敷に例えるなら、私の塀は肩くらいの高さで、中を覗くことができるけれど、師の塀はずっと高いので、きちんと門から入って(中を)見なければ、偉大さがわからない」と答えたとのことで、師(先生)の教えを請う(乞う)ため、その許を訪れることが「入門」ということになります。もちろん誰でも入門を許されるわけではありませんから、まず、門のところで「中へ入れてください」と頼まなければなりません。一般的には師がいる家の門には扉があったのでしょう。その扉を叩いて、「開けてください」と言わなければならない。門の扉があろうが、なかろうが、入門を請うことが「門を叩く」ことになります。紅葉の許を訪れた、つまり紅葉の「門を叩いた」鏡花はすぐに入門を認められ、門弟になりましたが、秋聲は入門を許されませんでした。
さて、龍之介が初めて漱石山房の木曜会に出席した、つまり「漱石の門を叩いた」のは、1915年12月。岡田(後の林原)耕三の手引きで、久米正雄といっしょに木曜会に参加し、以後、常連になりました。木曜会はもともと漱石の教え子の集まりで、講義だけでは満足できない、もっと漱石先生の話しを聞きたいという学生たちが集まり、卒業後もやって来る者、友人を連れて来る者もありました。もちろん、首尾良くメシにありつければという者もあったでしょう。私も食事時に引っかかるように先生の家を訪ねたり、昼前の講義の後は先生にくっついて、「ヒルでも食っていくか」という言葉を期待したことがありました。漱石先生の許に集まる者の中には、メシだけでなく、借金まで頼んだ者がありました。けれども、何と言っても漱石の豊富な知識、深い思考、鋭い洞察力に引きつけられて集まって来たことは、間違いありません。龍之介もその一人です。
龍之介が東京帝国大学に学んだ時、漱石はすでに退官していましたから、直接講義を聴くことはできませんでしたが、漱石の講義録『文学論』『文学評論』を読み、憧れを抱き、《夏目さんの文学論や文学評論をよむたびに当時の聴講生を羨まずにはゐられない》(1914年12月21日、井川恭宛書簡)と書いていた龍之介ですから、その漱石に直接会って、話しを聴くことができるなんて、夢のようだったでしょう。
龍之介は「漱石の門を叩いて」、中に入れてもらえました。児童文学に憧れる高校生の私は、坪田譲治(1890~1982年)の「門を叩こう」と、自宅の前まで行って、急に怖気づいて、Uターンしてしまいました。門を叩くことすらしなかった自分の勇気のなさには、自身あきれるばかりです。まあ、こんな人間もいるんですね。
前置きが長く、やっと、みずきさんが聞きたい「新解さん」です。
「新解さん」は三省堂ですから、「漱石の門を叩く」のは、教えを請うより、原稿依頼か、本の注文を取りに来たか、配達か。どちらにしても、営業のにおいがします。けれどもこんなことを書いてしまうと、身もふたもないですから、想像を働かせるならば、「辞書とは何か」「どのような辞書が良いのか」、そして、「語句の説明や用例についての助言」。もし、漱石監修の「新解さん」ができていたら、古今東西、和漢洋、知識がいっぱい詰まった、さらに「漱石造語」も加わった、「読んで楽しい」国語辞典ができていたことでしょう。
木曜会の漱石はどうだったのでしょう。「座談の名手」と言われる漱石のことですから、集まった人たちにうまくしゃべらせ、合間に漱石が語っていたのだろうと思います。この21世紀の木曜会では、そううまい具合にはいかないので、館長の一方的な語りになりますが、ご容赦ください。

さて、今日は平出修の登場です。秘書のおかげで、『日本近代文学大系』(角川書店)に収められている平出修の小説『畜生道』を読むことになりました。弁護士、歌人という知識しか持ち合わせていなかったので、小説というのは、ほんとうにびっくり。恐る恐る読み始めたと言ったところです。
平出は犀星が初めて上京した1910年に発生した大逆事件の弁護人のひとり。啄木と親しく、大逆事件のようすは平出から啄木などを通じ、病床にあった漱石のもとにも伝えられたようです。『畜生道』は事件から二年経った1912年9月、「スバル」に発表されました。この年、天皇が崩御し、元号は大正に変っていました。
私は平出がよくもまあ、大逆事件の弁護人を引き受けたものだと思ってきました。当時の多くの人びとには真実が伝えられず、極悪非道な事件としてのみ報道されていたから、「そんな者を弁護するのか」と非難ゴウゴウだったのではないでしょうか。案の定、『畜生道』には、

國民は激昂して辯護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の辯護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。(略)「おい、首があるかい。少し顔色が靑いなあ。」すると田村が「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には關係出來ますまい」と云つた。

と書かれています。
結局、この小説の主人公「俺」は、少し迷ったが、気が進まないからと言って、弁護の依頼を断ってしまったのですが、すぐに《俺だからよく此依賴を拒絶し得たと云ふ誇がすぐ湧いて來た》。けれどもその後、《人間道から云へば俺はあまり立派でない》と思い直しています。「俺」は大逆事件の弁護を断った江木衷がモデルと言われています。
それから二年。《世間ではそんな事件があつたことさへ忘れてしまつてゐる》にも関わらず、「俺」はとつぜん事件のことを思い出します。「俺」は、もやもやした心の内を愛子に看取られないようにとしています。ここで話は1911年4月に起きた吉原大火に及び、これをきっかけに、救世軍やキリスト教徒、女権論者などが「吉原再興に反対」の声を上げたことが記されています。「俺」が「吉原廃滅などは出来ない相談さ」と語ったことを、愛子が新聞記者にしゃべってしまう。
このような話を出した後、《近頃一部の人から起つてる陪審制度論の根抵がやはりここにある》と続いていきます。人間は鬼神ではない。神通力がない。裁判は事実を認定し、その事実の上に法律を適用する。この事実認定は本来神でなければできない。このような困難なことを裁判官に任せてしまっているのが誤判を生む原因。陪審員も人間であるから誤認があるかもしれないが、陪審制度によって、今よりも正確な事実認定ができると言うのです。今のように、疑わしきは罰するという状況よりはるかに人民は幸福を享ける。これらは「俺」の考え方として展開されていますが、平出の考えでもあろうと私は思います。そしてこうした中に、大逆事件が事実誤認、冤罪であることを匂わせているのではないでしょうか。《先日青木に遇つたら、今の裁判は畜生道だと云つた。「大分酷いことを云ふねえ」と云つて俺は笑つた》。
この後、「俺」の十年ほどの過去が語られ、《俺が初めて愛子の長い髪を撫でたときは、まだ十八の舞妓であつた》と二人の出会い、それから二十年。「俺」は愛子の肉体を得たが、心は愛子に握られてしまった。ある日、上野駅に「俺」を迎えに来た愛子。いっしょに自動車に乗ると、愛子の衣ずれの音、香料の薫が快く官能をそそる。《こんなにされてしまつた俺は今はただ肉體に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。(略)俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるのであろう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ》。
「俺」はその後どうなったかわかりませんが、平出は二年後の1914年3月17日、骨瘍症で死去。37歳。永訣式が神田美土代町の青年会館で行われ、鴎外や馬場孤蝶らとともに、漱石も参列しました。漱石は平出に一度も会ったことがないと考えられますが、それから一か月。漱石は『こころ』を書き始めるのです。
『畜生道』は小説として、必ずしも体をなしているとは言えません。けれども、私はそこに、平出の大逆事件や裁判制度に対する考えを垣間見ることができるのです。「疑わしきは処罰せず」、そして一部に裁判員裁判をもつに至った、現在の裁判のあり方について、平出は「畜生道」から脱したとみるのか、どうなのか。彼にきいてみたいところです。

木曜会でもお互いに刺激を受け合い、おそらく漱石もおおいに刺激を受けたのでしょう。館長も秘書からおおいに刺激を受けています。

木曜会にもぜひ、ご参加ください。漱石と違って、木曜日以外でもご参加いただけます。鏡花・秋聲・犀星に関することでもかまいません。「金沢情報」なども大歓迎です。館長
π爺様、発言ありがとうございます。別館の方は、順次新しい文章を掲載していきます。ゆっくり楽しんでいってください。
ネットを歩き回ってこちらのサイトに行き着きました。これからゆっくり拝見しようとおもいます。

π爺
ギター音吉さん、特別な日の発言、ありがとうございました。漱石が京都を訪れた日々は合計してもそれほど多くないでしょうが、各地に漱石の足跡が残り、水川先生はじめ、漱石研究家、そして漱石愛好家もたくさんおられます。松山を痛烈に表現した漱石。京都の市電もやり玉にあげられていますが、これも漱石の愛情表現なのかと。それにしても、嵯峨野で食べた、本わらび粉でつくったわらび餅は美味しかった。ギター音吉さん、発言、ほんとうにありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。時折、当館に来館、嬉しいです。
ご無沙汰しております。ギター音吉です。
時々「勝手に漱石文学館」を拝見させていただいております。
漱石が没した特別な日に書き込ませていただきます。
今秋関西旅行の折に京都の御池大橋畔の「漱石句碑」を見て来ました。
大正4年の春「道草」連載前に京都へ漱石が滞在の折に詠んだ俳句が彫られていて、句碑に並んで銘板があって興味深かったので旅行後にあれこれ勉強し、整理したものを近々私のブログへ書き込もうと現在準備中です。
句碑は漱石の投宿場所の近くに立てられたそうで、その辺の事情については、以前北野さんが教えてくれた「東京紅団」の漱石の記事も参照しました。そこに大正2年の地図が引用されていて、京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)が当時既にあったことが分かります。
漱石の滞在した旅館は「北大嘉」といい、(きたのたいが)が正解のようですが、江藤淳の「漱石とその時代」第5部では(きたのだいか)とルビがふられています。(206頁)
とか色々勉強になりました。
館長のつぶやきに、三四郎に関連して、七つの旧制高等学校と書いたが、名古屋の方から怒られそうである。三四郎が東京帝国大学に入学したのは、1908年であり、この時、名古屋に第八高等学校が開校した。当然、卒業生を出していないので、七つと記した。泉鏡花や徳田秋聲のふるさと金沢には、第四高等学校があり、県内、北陸だけでなく、中部地方、あるいはその他からも受験生が集まったのであるから、それは狭き門であった。そう考えてみると、三四郎って、ずいぶん優秀だったんだな。
ギター音吉さんのブログは、「北野豊の本」⇒「漱石と歩く東京」と進んでもらえれば、読むことができます。2016年に横浜にある近代文学館で開かれた「漱石展」の様子が記されています。『門』の頃は大曲、『彼岸過迄』になると江戸川橋まで電車が開通し、『明暗』では早稲田へむけて電車の延伸工事がおこなわれている様子が描かれています。「漱石展」の展示では『門』の時に江戸川橋まで電車が来ていたようになっていたかもしれませんが、それぞれの見解を尊重しています。もともと小説は虚構の世界であり、現実に当てはめる時、いろいろな見解があるのも面白いことと、私は考えています。
木曜会への参加者がなかなか訪れないところ、ギター音吉さんに参加していただき、ほんとうにありがとうございました。「ここは違うんじゃない?」とか、「そうだったのか」とか、またいろいろ意見や感想をお寄せください。多くの方がたの参加をお待ちしています。
はじめまして。「ギター音吉」です。検索エンジンで偶然こちらを知りました。また私のブログ紹介もしていただき大変光栄に思います。現在「明暗」について準備中で、近々ブログへアップしたいと思っているところです。
こちらへは時々訪問したいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
ぜひ、木曜会にもご参加を。お待ちいたしております。館長
54人目の来館者様、応援の言葉をありがとうございました。うれしいです。とても励まされます。漱石もこうした励ましの言葉を学生や弟子たちにかけていたのだと思います。
 54人目の来館者です。
 「勝手に漱石文学館」の開館、おめでとうございます。
 館長さんの敏腕運営で、千客万来間違いなし。
 息の長いご活躍を、応援しております。
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