21世紀の木曜会
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発言
木曜会の漱石はどうだったのでしょう。「座談の名手」と言われる漱石のことですから、集まった人たちにうまくしゃべらせ、合間に漱石が語っていたのだろうと思います。この21世紀の木曜会では、そううまい具合にはいかないので、館長の一方的な語りになりますが、ご容赦ください。

さて、今日は平出修の登場です。秘書のおかげで、『日本近代文学大系』(角川書店)に収められている平出修の小説『畜生道』を読むことになりました。弁護士、歌人という知識しか持ち合わせていなかったので、小説というのは、ほんとうにびっくり。恐る恐る読み始めたと言ったところです。
平出は犀星が初めて上京した1910年に発生した大逆事件の弁護人のひとり。啄木と親しく、大逆事件のようすは平出から啄木などを通じ、病床にあった漱石のもとにも伝えられたようです。『畜生道』は事件から二年経った1912年9月、「スバル」に発表されました。この年、天皇が崩御し、元号は大正に変っていました。
私は平出がよくもまあ、大逆事件の弁護人を引き受けたものだと思ってきました。当時の多くの人びとには真実が伝えられず、極悪非道な事件としてのみ報道されていたから、「そんな者を弁護するのか」と非難ゴウゴウだったのではないでしょうか。案の定、『畜生道』には、

國民は激昂して辯護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の辯護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。(略)「おい、首があるかい。少し顔色が靑いなあ。」すると田村が「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には關係出來ますまい」と云つた。

と書かれています。
結局、この小説の主人公「俺」は、少し迷ったが、気が進まないからと言って、弁護の依頼を断ってしまったのですが、すぐに《俺だからよく此依賴を拒絶し得たと云ふ誇がすぐ湧いて來た》。けれどもその後、《人間道から云へば俺はあまり立派でない》と思い直しています。「俺」は大逆事件の弁護を断った江木衷がモデルと言われています。
それから二年。《世間ではそんな事件があつたことさへ忘れてしまつてゐる》にも関わらず、「俺」はとつぜん事件のことを思い出します。「俺」は、もやもやした心の内を愛子に看取られないようにとしています。ここで話は1911年4月に起きた吉原大火に及び、これをきっかけに、救世軍やキリスト教徒、女権論者などが「吉原再興に反対」の声を上げたことが記されています。「俺」が「吉原廃滅などは出来ない相談さ」と語ったことを、愛子が新聞記者にしゃべってしまう。
このような話を出した後、《近頃一部の人から起つてる陪審制度論の根抵がやはりここにある》と続いていきます。人間は鬼神ではない。神通力がない。裁判は事実を認定し、その事実の上に法律を適用する。この事実認定は本来神でなければできない。このような困難なことを裁判官に任せてしまっているのが誤判を生む原因。陪審員も人間であるから誤認があるかもしれないが、陪審制度によって、今よりも正確な事実認定ができると言うのです。今のように、疑わしきは罰するという状況よりはるかに人民は幸福を享ける。これらは「俺」の考え方として展開されていますが、平出の考えでもあろうと私は思います。そしてこうした中に、大逆事件が事実誤認、冤罪であることを匂わせているのではないでしょうか。《先日青木に遇つたら、今の裁判は畜生道だと云つた。「大分酷いことを云ふねえ」と云つて俺は笑つた》。
この後、「俺」の十年ほどの過去が語られ、《俺が初めて愛子の長い髪を撫でたときは、まだ十八の舞妓であつた》と二人の出会い、それから二十年。「俺」は愛子の肉体を得たが、心は愛子に握られてしまった。ある日、上野駅に「俺」を迎えに来た愛子。いっしょに自動車に乗ると、愛子の衣ずれの音、香料の薫が快く官能をそそる。《こんなにされてしまつた俺は今はただ肉體に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。(略)俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるのであろう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ》。
「俺」はその後どうなったかわかりませんが、平出は二年後の1914年3月17日、骨瘍症で死去。37歳。永訣式が神田美土代町の青年会館で行われ、鴎外や馬場孤蝶らとともに、漱石も参列しました。漱石は平出に一度も会ったことがないと考えられますが、それから一か月。漱石は『こころ』を書き始めるのです。
『畜生道』は小説として、必ずしも体をなしているとは言えません。けれども、私はそこに、平出の大逆事件や裁判制度に対する考えを垣間見ることができるのです。「疑わしきは処罰せず」、そして一部に裁判員裁判をもつに至った、現在の裁判のあり方について、平出は「畜生道」から脱したとみるのか、どうなのか。彼にきいてみたいところです。

木曜会でもお互いに刺激を受け合い、おそらく漱石もおおいに刺激を受けたのでしょう。館長も秘書からおおいに刺激を受けています。

木曜会にもぜひ、ご参加ください。漱石と違って、木曜日以外でもご参加いただけます。鏡花・秋聲・犀星に関することでもかまいません。「金沢情報」なども大歓迎です。館長
π爺様、発言ありがとうございます。別館の方は、順次新しい文章を掲載していきます。ゆっくり楽しんでいってください。
ネットを歩き回ってこちらのサイトに行き着きました。これからゆっくり拝見しようとおもいます。

π爺
ギター音吉さん、特別な日の発言、ありがとうございました。漱石が京都を訪れた日々は合計してもそれほど多くないでしょうが、各地に漱石の足跡が残り、水川先生はじめ、漱石研究家、そして漱石愛好家もたくさんおられます。松山を痛烈に表現した漱石。京都の市電もやり玉にあげられていますが、これも漱石の愛情表現なのかと。それにしても、嵯峨野で食べた、本わらび粉でつくったわらび餅は美味しかった。ギター音吉さん、発言、ほんとうにありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。時折、当館に来館、嬉しいです。
ご無沙汰しております。ギター音吉です。
時々「勝手に漱石文学館」を拝見させていただいております。
漱石が没した特別な日に書き込ませていただきます。
今秋関西旅行の折に京都の御池大橋畔の「漱石句碑」を見て来ました。
大正4年の春「道草」連載前に京都へ漱石が滞在の折に詠んだ俳句が彫られていて、句碑に並んで銘板があって興味深かったので旅行後にあれこれ勉強し、整理したものを近々私のブログへ書き込もうと現在準備中です。
句碑は漱石の投宿場所の近くに立てられたそうで、その辺の事情については、以前北野さんが教えてくれた「東京紅団」の漱石の記事も参照しました。そこに大正2年の地図が引用されていて、京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)が当時既にあったことが分かります。
漱石の滞在した旅館は「北大嘉」といい、(きたのたいが)が正解のようですが、江藤淳の「漱石とその時代」第5部では(きたのだいか)とルビがふられています。(206頁)
とか色々勉強になりました。
館長のつぶやきに、三四郎に関連して、七つの旧制高等学校と書いたが、名古屋の方から怒られそうである。三四郎が東京帝国大学に入学したのは、1908年であり、この時、名古屋に第八高等学校が開校した。当然、卒業生を出していないので、七つと記した。泉鏡花や徳田秋聲のふるさと金沢には、第四高等学校があり、県内、北陸だけでなく、中部地方、あるいはその他からも受験生が集まったのであるから、それは狭き門であった。そう考えてみると、三四郎って、ずいぶん優秀だったんだな。
ギター音吉さんのブログは、「北野豊の本」⇒「漱石と歩く東京」と進んでもらえれば、読むことができます。2016年に横浜にある近代文学館で開かれた「漱石展」の様子が記されています。『門』の頃は大曲、『彼岸過迄』になると江戸川橋まで電車が開通し、『明暗』では早稲田へむけて電車の延伸工事がおこなわれている様子が描かれています。「漱石展」の展示では『門』の時に江戸川橋まで電車が来ていたようになっていたかもしれませんが、それぞれの見解を尊重しています。もともと小説は虚構の世界であり、現実に当てはめる時、いろいろな見解があるのも面白いことと、私は考えています。
木曜会への参加者がなかなか訪れないところ、ギター音吉さんに参加していただき、ほんとうにありがとうございました。「ここは違うんじゃない?」とか、「そうだったのか」とか、またいろいろ意見や感想をお寄せください。多くの方がたの参加をお待ちしています。
はじめまして。「ギター音吉」です。検索エンジンで偶然こちらを知りました。また私のブログ紹介もしていただき大変光栄に思います。現在「明暗」について準備中で、近々ブログへアップしたいと思っているところです。
こちらへは時々訪問したいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
ぜひ、木曜会にもご参加を。お待ちいたしております。館長
54人目の来館者様、応援の言葉をありがとうございました。うれしいです。とても励まされます。漱石もこうした励ましの言葉を学生や弟子たちにかけていたのだと思います。
 54人目の来館者です。
 「勝手に漱石文学館」の開館、おめでとうございます。
 館長さんの敏腕運営で、千客万来間違いなし。
 息の長いご活躍を、応援しております。
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