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発言
【金沢ブログ】 北陸新幹線~敦賀延伸に寄せて

【詩】東京駅

ふるさと行きの 新幹線が
東京駅から出る 不思議さに
一列車 
また 一列車 見送り
ふるさとは
しだいに遠ざかって行く
いつの日か
帰ったふるさとに
幼き日の光景は
残っているのだろうか


上越新幹線が高崎で分れて、長野新幹線として東京・長野間の営業運転を開始したのが1997年。それから18年の時を経て、北陸新幹線として金沢まで営業運転を開始した。停車駅が少ない「かがやき」は2時間30分かからないで東京・金沢間を結んでいる。犀星が生きていたら、金沢に居を構えて、日帰りで東京を往復する生活をしていたかもしれない。「ふるさとは遠きにありて……」どころではない。その北陸新幹線が今年(2024年)3月16日、敦賀まで延伸され、営業運転を開始した。
これは喜ぶべきことだろうが、何か私は釈然としない。順序が逆ではないか。関西圏や中京圏からは、かえって不便になってしまう。
もともと北陸本線は、東海道本線から分かれて、短距離で日本海へ出るため、敦賀まで建設されたのが始まりで、1882年に長浜・敦賀間が開通した(当初、一部徒歩連絡)。東海道本線が全線開通したのが1889年であるから、それより早い。東海道本線全線開通に合わせて米原・長浜間が開通し、北陸本線の起点が米原になった。その後、北陸本線は敦賀から延伸され、1896年に福井まで、1898年に金沢まで、1899年に富山まで開通、直江津まで全線開通は1913年。信越本線高崎・直江津間が開通した1893年から実に20年経過していた。金沢・東京間を鉄道利用する場合、米原・東海道本線経由は1898年から、それに対して直江津・信越本線経由は1913年からになる。
それが、北陸新幹線は東京から信越本線ルートで伸びて来て、敦賀まで来たものの、その先の見通しが立たない状況で、いかに「東京一極集中」などと言っても、きわめて不自然。本来なら、米原から敦賀・福井・金沢・富山と開通した北陸新幹線が、長野・上越妙高と開通した長野新幹線が、上越妙高・富山間の開通によって全線開通となるはずである。
本来なら米原まで開通していたはずの北陸新幹線が、このような不自然な結果になった原因は、どうやら敦賀から新大阪にかけて新線建設を考えてしまったところにあるようだ。しかし、新線建設はとりわけ京都市街から新大阪にかけて大深度地下を通ることになり、地下水や地上に与える影響など、反対の声も多く、建設のメドは立たない。
1974年に全線開通した湖西線は、踏切がなく、全線立体交差の高規格鉄道で、実験では在来線最高時速180kmを記録している。つまり当初から高速運転を前提に建設されたもので、京都・敦賀間において、米原経由より距離が短く、新大阪・敦賀間を東海道本線と湖西線を使って狭軌で運行し、そのまま敦賀から北陸新幹線を標準軌道で走行する、フリーゲージ方式も検討されていた。
北陸新幹線の延伸先として、もっとも現実的と思われるのは米原である。東海道新幹線を使って、関西圏ばかりか、中京圏からの利用に便利である。湖西線経由に比べ、強風で運転中止になる可能性も少ない。建設距離も敦賀・米原間45kmほどである。敦賀のループ線を回避するための新線建設は必要だが、全線新線建設しなくても、現在線を標準軌道に変えて、深坂・新深坂トンネルなども拡幅によって対応し、新快速が乗り入れる米原・長浜間を三線化する方法も考えて良いだろうし、現在線の上に高架線を建設する案も考えられる。米原はJR西日本の駅だから、車両の留置線などの確保も容易だろう。新大阪から北陸新幹線直通運転を実現する場合、問題は新大阪・米原間をJR東海が保有する東海道新幹線を走行することである。けれども、首都圏など私鉄・JR入り混じって直通運転しているのだから、問題解決できないことはない。
現在では、さまざまな電流・電圧に対応できる電車が開発されているようで、JR在来線を標準軌道に変えれば、新幹線・在来線の直通運転が可能になり、北陸新幹線や長崎新幹線の問題も解消される。かつて何回か標準軌道への改軌が検討されたが、実現しなかった。1959年に京成電鉄が全線標準軌道に改軌したことを思えば、不可能ではない。敦賀・新大阪間に新幹線を新設するより、湖西線と東海道本線京阪間の一部路線の改軌、あるいは北陸本線の改軌をおこなう方が、はるかに早期に、はるかに少ない費用で、北陸新幹線の新大阪乗り入れが実現できるように思うのだが。
関西とつながらない北陸新幹線。結局は福井・石川・富山三県のローカル新幹線の色彩が強くなってしまう。三県の在来線が、それぞれに分断され、金沢・福井間36分ほど、金沢・富山間23分ほどで結ばれる北陸新幹線。三県の県庁所在都市の真ん中に位置する金沢が、福井へ行くのも、富山に行くのも便利で、中心都市としての性格がますます高まる。三県の人口は1970年の276万人から2020年には293万人と17万人増えている。けれどもそのうち13万人は石川県の増加で、富山県の人口を抜いてしまった。もともと、石川県庁(旧)は北陸三県合併を見据えた規模でつくられたと言われる。
そのような経過の中で、いよいよ敦賀まで延伸された北陸新幹線。関西圏とも中京圏ともつながらない北陸新幹線。敦賀延伸が「金沢ひとり勝ち」を生み出すのではないか。これが杞憂になるのか、ならないのか。
私の父は枕木をつくっていた。私が高校生の時、作品集につけた名前は「レール」である。この歳になっても、鉄道の話となると、どうも一人で盛り上がってしまうようだ。
【金沢ブログ】 『ゆれる灯』の先に

2024年1月1日に発生した能登半島地震を受けて、私は急に『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った。晴夫と純子が60年以上の時を経て、被災した輪島の街に立つ。そこで二人は何を思うのだろうか。私は被災後の輪島へ、まだ行っていないが、多分、変わり果てた光景に泣いてしまうであろう。と言うか、今、この文章を綴りながら、私の目には涙が溢れている。
『ゆれる灯』の中で、晴夫と純子の待ち合わせ場所に設定した、海岸通りから下の浜に降りる階段のあったところは、一帯、沖にむかって埋立てられ、ホテルが建っている。つまり、この『ゆれる灯』で描いた出会いの場や、キリコ祭りの場すべて、すでに土砂の下に埋められてしまった。この埋立地の上には、ホテルやキリコ会館が建てられ、今また仮設住宅が建てられている。
埋立地の出現は、子どもの頃の輪島の風景を一変させてしまった。懐かしい輪島の風景はここで一度死んでしまった。そして、このたびの地震。私の中の輪島は二度、殺された。
晴夫と純子の二人が遊ぶ場所として設定した「猫地獄」のある鴨浦も、地盤が隆起し、海水プールの水もなくなってしまったという。同じく、光浦の海岸も隆起し、海水に透けて見えていた岩盤も、岩肌をさらすようになっているのだろう。光浦の岩場は、岩陰が多く、ちょっとした秘密基地のようだった。私はこのような場所で、女の子と二人遊ぶ経験をもっていないが、友達と「ロケット実験」などと称して、手製のロケットを発射させた。もちろん推進力は模型飛行機用のゴムである。
『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った私。けれども、私は書くことをやめた。小説としては、あそこで完結している。「なぜ、南さんは来なかったのだろうか」。「その後、二人が会うことはなかったのだろうか」。「大人になって、二人が偶然出会って、結婚したのだろうか」。「南さんのその後の人生はどうなっていっただろうか」など、それは読者一人ひとりが想像をひろげるところであり、小説のおもしろさ、余韻である。私自身、この『ゆれる灯』の作者であるから、続篇を書くことはいっこうに差し支えない。けれども、読者から想像を奪い取ることは許されないであろう。私も時どき、『坊っちゃん』の「坊っちゃん」はその後どうなっただろうか、『三四郎』の三四郎はその後どうなっただろうかと想像することがある。時に、美禰子が離婚して、三四郎と結婚するなどという不謹慎な想像をすることもある。そこがまたおもしろい。
自分の人生は自分自身しか描くことができない。今回の地震で被災した人たちが、どのような人生を描いていくのか。報道陣もボランティアも去った被災地は、作品として完結した小説のようなものである。一人ひとりはその後も、自分の人生を描いていかなければならない。そして、それは想像の世界ではなく、現実の世界である。考えただけでも、気が遠くなってしまう。
【金沢ブログ】 輪島朝市

能登半島地震によって、輪島の朝市も一帯が大火に見舞われたこともあって、よく報道されるようになった。輪島の「朝市」の言葉を聞きながら、「朝市があるのだから、夕市もあるのだろう」と思った方もあるだろう。実は「夕市」もある。
輪島旧市街地は輪島川を挟んで、東側が「河井地区」、西側が「鳳至(ふげし)地区」で、朝市が開かれるのは河井地区の本町通り、これに対して夕市は鳳至地区の住吉神社境内で開かれてきた。鳳至地区には海士町や輪島崎など漁業を生業とする人たちが住む区域があるので、漁業や船と結びついた住吉神社があるのは納得できる。私が子どもの頃、住吉神社の境内にはサーカス小屋や「蛇女」などの見世物小屋が時おりやって来た。河井地区には重蔵神社という境内も広く由緒ある神社があるのに、どうして小屋掛けがされなかったのか、私にはわからない。
輪島の「朝市」は、今では輪島を代表する観光スポットになって、多くの観光客が訪れ、馴染みの場所になっている。このようなことも、被災地輪島が全国にむかって放映される際、よく映し出される一因であろう。けれども、朝市が観光地化されるのは、日本の高度経済成長期、能登が一大観光地として脚光を浴び、多くの人びとが観光に訪れるようになってからで、もともとは近海で捕れた魚介類と近郷で採れた農産物の出合いの場であり、そこへまた街の人びとが食材を求めて訪れたものである。わが家の食卓にも、朝市で買ってきた食材がしばしば登場した。
ぶり、いかをはじめとする刺身。私が大好きな「鱈の子つけ」。これは鱈の刺身に鱈子を絡めたもので、プチプチ感に腰のある柔らか食感が好きだった。「だだみ」と呼ばれる鱈の白子も、ねぎといっしょに味噌汁に入れて、あのとろける食感が大好きだった。鮟鱇も鍋になった。時にはアワビや蒸しアワビを食べることもできたが、サザエはもっと日常的だった。サザエを刻んで糀に漬けたものを、私は子どもの頃に聞いたままに、ずっと「サザエユベシ」だと思ってきたが、じつは「サザエぶし」が正しいようだ。コリコリしたサザエの食感に糀の甘みが絡みつき、ほんとうに口の中が幸せになる。熱いご飯の上に載せて、もう一度食べてみたい。
そのようなわけで、私もよく買い物に行かされた。歩いていると、あちらこちらから声がかかる。小さい街だから、私がどこの家の子どもか知っている人も多いので、「こないだ、あんたの店で買うたがよ」などと言われるのには閉口した。
私は石川県に生れてしまったため、おいしいものをいっぱい食べて成長してきた。そのようなわけで、今でも味にうるさいのだが、輪島の味も忘れられない。朝市で買ってきたもの以外でも、魅力的なものはたくさんある。
いしる(いしり)。魚介類に食塩を加えて漬け込み、一年以上かけて発酵・熟成させた魚醤で、輪島では「イカのいしる」が一般的だった。ナスを煮る時に使ったり、焼きナスやナスの漬物にかけたり。とにかくナスと相性が良かったのを覚えている。先日のニュース番組で、被災した「いしる」業者を取材していた。時間をかけて製造するだけに、業者の落胆も大きい。
輪島でも精進はしっかり守られる。そのため精進料理が発達しているが、「すいぜん」は代表的なものだろう。私は父親の名代として親戚の法事に出た時、初めて食べてすっかり虜になった。「すいぜん」は、テングサを煮て、もち米の粉を入れ、短冊状に突き出したもので、たれは黒ゴマ・黒砂糖などでつくる。刺身がわりに出される精進料理である。白く、きしめんのように見えて、さらに幅広で厚手があり、ぷるんとした中に、つるんとした食感があって、黒いたれはごまの風味がして甘い。「これは、料理なのだろうか、それともお菓子なのだろうか」、そんな疑問をいだかせる。
いわしと言えば、こんかいわし(糠いわし)が思い出される。とにかくご飯が進む。けれども、「いわし寿司」は、私にとって、いわしを使ったメニューの最高傑作である。「いわし寿司」は頭を取り、開いて酢で〆たいわしのお腹の部分に、味付けしたおから(卯の花)を詰め、一晩ほど押しをかけてつくったもので、「いわしの卯の花寿司」とも呼ばれる。酢で〆た魚が好き、押し寿司が好き、おからが好き、という私だから、そのすべてが揃い踏みをしたような「いわし寿司」が私を虜にしたのは当然である。とくに家の近くのお店でつくっている「いわし寿司」は、おからに山椒の実が入り、酢加減も良く、買いに行く時は売り切れていないか心配だった。「いわし寿司」を思い出す時、光沢のある皮に、特有の点々が連なるいわしの姿が思い出される。
私の家のむかいに豆腐屋があった。朝の味噌汁に入れる豆腐は、直前に買いに行く。朝の豆腐屋は活気がある。私は豆腐の味噌汁より、おからの入った味噌汁が好きだった。ネギを入れると味も格段に引き締まり、とくに冬はお勧めである。
この豆腐屋で私がもう一つ好きなものは「ひりょうず(飛龍頭)」。時どき銀杏の入ることもあったが、大きくて、豆腐の部分がしっかりしていて、具だくさん。輪島を離れ、私はあちらこちら、あの「ひりょうず」の味を求めたが、ついに出会うことはできなかった。この「ひりょうず」を大好きだったのが犀星である。馬込の自宅近くにある「やっちゃん豆腐」に頼んで、わざわざ「ひりょうず」をつくらせた。私も馬込に行ったおり、「やっちゃん豆腐」を訪ねたが、あいにく「ひりょうず」は売り切れだった。
水羊羹は夏の物と思われるけれど、輪島では冬の食べ物とラジオで紹介されていた。私の家の近くには二軒の和菓子屋があり、羊羹とさほど変わらない色をした長方形の木のおりに入った水羊羹を、短冊状に切り分け、それを取って包んでくれる。冷たくて、かんだ途端に黒砂糖の風味と甘さが口の中に広がり、そのままツルンと喉を通り過ぎていく。こたつに入って食べると、一段とうまい。今回の地震で、懐かしい和菓子屋は完全に倒壊していた。
お菓子と言えば、「塩せんべい」「丸柚餅子」「えがら饅頭」は輪島を代表するお菓子である。「塩せんべい」は、もともと素麺づくりの副産物から生れたと言われる素焼きのせんべいで、ごまの入ったものが一般的であるが、私は昆布の入ったものが好きだった。マーガリンを塗ると、一段と美味しかった。
「丸柚餅子」は柚子の中身をくりぬき、もち米を詰めて、数回蒸しながら自然乾燥させる。切ると透明感のある飴色。さわやかな苦味が口の中に広がる。見た目は蒸しアワビと錯覚しそうだが、確かに値段はアワビ並。地味なお菓子なので、母は「(価値を)知らない人にはあげられない」と、よく言っていた。
「えがら饅頭」は、こしあんを餅もちした生地で包み、くちなしで黄色く色付けした餅米を生地につけて蒸したもの。これも私が大好きなお菓子である。けれども数年前、私が「えがら饅頭」を買ったお店は今回の地震で焼けてしまった。

1月1日の能登半島地震で、輪島も大きく崩壊してしまったが、それとともに私が子どもの頃から慣れ親しんだ輪島の味も崩れ去ってしまったのではないか。朝市の映像を観ながら、そんな思いになる。

被災地に山茶花咲くの便りあり
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑮

1931年の『つゆのあとさき』、1934年の『ひかげの花』と続いて、『濹東綺譚』が書かれたのは1936年である(発表は1937年)。

『濹東綺譚』の終わりに「作後贅言」と名づけられた編集後記のような文章がある。この「作後贅言」で荷風は、雀合戦がみられた1931年の年暮に葛西村の海辺を歩いていて道に迷ったことを書いている。日暮れて、燈火頼りに船堀橋までやって来た。葛西村は翌年、東京市に編入され、江戸川区の一部になった。荷風は《二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。》と書いている。
当時は地下鉄新宿線も東西線も通っていない。電車とはいったい何なのか。荷風は船堀橋までやって来たが、荒川放水路を渡っても電車がないことを知っているので、田んぼや集落を通る田舎道を1km以上北上し、中ノ庭から電車に乗った。一駅で東荒川に到着し、小松川橋で荒川放水路を越え(東荒川と西荒川はバス連絡していた)、西荒川から再び電車に乗った。荒川放水路で途切れるが、荷風が乗った電車は城東電車とよばれるもので、1942年に東京市電になった。
城東電車に乗ったとみられる。
錦糸堀(現在の錦糸町)終点で城東電車を下りた荷風は、洲崎行きの城東電車に乗り換え、洲崎終点で下車。確かに「二三度電車を乗りかえ」ている。洲崎は東京市電14系統(早稲田行き)の始発である。荷風は《深川の暗い町を通り過ぎ》、日本橋の白木屋の横手で下車した。錦糸堀からでも市電に乗ることができるので、どうしてわざわざ洲崎を経由したのか。31系統は通らないが、30系統は日本橋を通るのに(どちらも市役所行き)。荷風の趣味としか言いようがないのだろうか。この後、荷風は日本橋から市電を乗り換えている。荷風の自宅最寄電停は溜池か六本木。永代橋・青山六丁目間の7系統が通るが、日本橋は通らない。荷風は京橋まで乗って、さらに7系統に乗り換えたのであろうか。

「作後贅言」は『濹東綺譚』全体の4分の1ほどを占める長いもので、荷風の親友で、「校正の神様」とよばれた神代帚葉翁(こうじろそうよう)との思い出が多く語られている。帚葉は1935年に亡くなっているので、『濹東綺譚』で描かれる時期より数年前が描かれている。
1927年、浅草・上野間に日本で最初の地下鉄が開通し、引き続き新橋へむかって工事が進められた。1931年には神田、そして1932年12月24日には京橋まで開通した。荷風は、《地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひゞきわたり、土工は商店の軒下に處嫌わず昼寝をしてゐた。》と、地下鉄銀座線の工事の様子も描いている。1932、3年頃、銀座通りは地下鉄工事真っ最中である。《この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのづから芝口の方へと導かれるのであった。》と、省線(現在のJR)すぐ脇の土橋か、その隣の難波橋を渡って省線のガードをくぐる荷風と帚葉翁。銀座線は1934年、新橋まで開通した。
工事は基本的に既存の道路を地下へ掘り進んでいく。路面電車や自動車などの通行を確保しながらの工事である。私も1964年の東京オリンピックにむけて進められる地下鉄工事に、大都会の喧騒と混雑、そして妙に高揚感をおぼえた思い出がある。
銀座通りで地下鉄工事がおこなわれていた頃、荷風と帚葉翁は毎晩のように会っていた。二人は銀座尾張町の四つ角(銀座四丁目交差点)で待ち合わせし、それから店に入って話した。翁は待っている間、街行く人たちの様子を観察し、手帳にメモしていた。終電に乗るため待っている尾張町か三丁目の松屋前の電停でも、同じく電車を待つ花売り、辻占い、門付けなどに話しかけていた。

ここで話しを『濹東綺譚』の本文に移そう。
主人公の大江は種田の失踪先を求めて、6月末のある夕方、梅雨はまだ明けていないが、朝からよく晴れた日、夕飯を済ませて、遠く千住や亀戸、足の向く方へ行ってみようと家を出る。日の長いころで、まだ黄昏ようともしていない。
《一先電車で雷門まで往くと、丁度折好く來合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。》と、大江はバスに乗る。
この年代まで来ると、乗合バスも登場して来る。バスは吾妻橋を渡り、広い道を左折して源森橋を渡る。吾妻橋から400mほど行って、現在の三ツ目通りを左折して200mほど。北十間川に架かるのが源森橋。言問橋東交差点から北は現在の国道6号線、通称水戸街道。
1kmほど行くと、向島4丁目にある秋葉神社の前を過ぎ、またしばらく行くと、《車は線路の踏切でとまった》。「しばらく」と言っても、実際の距離は1kmほど。線路は東武鉄道伊勢崎線。《踏切の両側には柵を前にして円タクや自動車が幾輌となく、貨物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる》。踏切は玉の井駅(1987年に東向島駅に改称)のすぐ南。このあたりは1966年から67年にかけて高架化が実現し、踏切は廃止された。東武鉄道の貨物輸送は2003年に全面廃止されたが、開業以来、貨物輸送は東武鉄道の中で重要な役割を果たしてきた。
大江がバスを下りて見ると、《白髭橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している》。この広い通りが明治通り。十字路は現在の東向島交差点。明治通りは震災復興事業として建設され、この地域では1932年に開通している。
この水戸街道の市電であるが、《「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」「向島の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」》という会話がある。ここに市電(向島線)が開通したのは1931年であるから、当時はまだ新しい路線だった。秋葉神社は現在の向島4丁目9にあり、参道の目の前が向島の終点になっていた。荷風は『断腸亭日乗』に、《今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍に墸をなしてゐるのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもより大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。》と、荷風は今となれば貴重な史料を残してくれた。東京鉄道を買収し東京市電気局が市電の営業を開始したのは1911年。1936年、25周年を迎えた。往復乗車券は14銭。
さらに、《何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。》と書いた荷風は、5年前、秋の彼岸も過ぎた頃、東京府下の町々が市内に編入されたことを祝って、花電車が銀座を走ったと、聞き伝えを続けている。この編入がおこなわれたのは1932年で、実際は「4年前」になるが、東京市は15区から35区に拡大した。
向島線の終点について、寺島町2丁目として、秋葉神社前の市電終点向島を「向島須崎町」に改名して掲載している情報もあるが、1936年9月19日付『断腸亭日乗』に目をやると、《電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。》と書いてあるから、1936年においても市電の終点は向島秋葉神社の前にあったことは間違いない(9月30日付にも、《向嶋終点に花電車の停留するに会ふ。》の記述がある)。さらに、ウイキペディアの「東京市電」に関する記述では、向島(向島須崎町)から寺島町(寺島町2丁目)の開通時期を1950年12月25日としている。この1950年5月1日現在の東京都電路線図は、本所吾妻橋から向島線に入った都電(30系統)は、言問橋、向島3丁目と停留所を過ぎ、向島終点になる。寺島町まで都電は行っていない。
とにかく、当時「改正道路」とよばれた水戸街道。市電は秋葉神社の前まででも、バスの方は現在の四ツ木橋南交差点、改正道路の行き止まりあたりまで運行されており、路線の延伸に関しては、バスの方が優位であることを示し始めていた。

荷風の描く「昭和モダン」の時代。市内交通は市電に加えて乗合バスが路線網を拡大し、地下鉄も登場してくる。人力車は円タクに変っていく。荷風もよく市電を利用し、作品の中にも登場させているが、あくまでも交通手段であり、市電そのものをつぎつぎに描写していった文豪は漱石をおいて他にないであろう。
東京市電はやがて東京都電になり、1962年に最盛期を迎えた(41系統、営業キロ213km)が、その後路線の短縮・廃止が相次ぎ、1972年、荒川線(早稲田―三ノ輪橋)を除き、都電は姿を消してしまった。「電車大好き人間」の漱石が知ったら、さぞかし残念がることだろう。

(完)
【金沢ブログ】 犀星と校歌が縁で

書いてみるものである。
私はこの「金沢ブログ」の「マラソン大会」の項で、秘かに校歌の一節を書き込んだ。歌い出しの「見はるかす加賀野」という歌詞が大好きで、屋上などで歌っていると、ほんとうに「見はるかす加賀野」が見え、のびやかで、すがすがしい気分になる。そのような加賀野がちょっぴり魔物にみえる時が「マラソン大会」である。もちろん、苦しいところを過ぎてしまえば、加賀野を走るのは気持ち良い。
そのような思いから書いた「見はるかす加賀野」であったが、目ざとく見つけられた方があり、「同窓生!」と確信してメールが入った。私のかなり後輩にあたるが、まぎれもない同窓生である。
ここまできわめて自然な流れだが、考えてみれば、なぜ私の「金沢ブログ」にたどり着いたのか不思議である。
彼とのメール交換の中で、その謎が解けた。彼は犀星の詳細な年譜(室生犀星文学年譜/室生朝子、本多浩、星野晃一編――明治書院、1982)の中で「一中俳句会」というものの存在を知り、犀星と一中生との間にどのような交流があったのか知りたいと思って、「“犀星”“一中俳句会”」の2語で検索。この「勝手に漱石文学館」の犀星のおいたちを書いた項が「完全一致」でヒットした、というのである。
ところで、彼がいかに犀星に強い思いをもっていても、当館を訪れて、必要な情報を得れば、それで終わったかもしれない。ふるさとに対する懐かしさから、「金沢ブログ」に到達し、「マラソン大会」の文章を読んでも、それで終わっていたかもしれない。彼もまた、
 見はるかす加賀野の果てに
 日本海青くかぎろふ
という、この校歌の歌い出しが大好きで、久しぶりに出会った歌詞に、「同窓生!」と直感したのである。彼は、「見はるかす」や「加賀野」のみならず「かぎろふ」という一語にすら、この校歌の中でしか出会ったことがなく、それほどオリジナリティーがあり、また格調高い詩だからこそ、多くの卒業生の胸に今なお強く灼きついているのだと思うと、校歌に対する強い思いを語っている。
もし、彼が犀星文学に興味をもたず、あるいはまた私が「見はるかす加賀野」という校歌の一節を書かなければ、このような出会いはなかった。彼は、まさしく犀星と一泉の縁で、この「勝手に漱石文学館」へと導かれることが運命づけられていたかのようだと述べているが、私もまた彼との運命的な出会いを感じる。
この件は、彼にとって非常に感動的な、文学探究の個人史における一大事件だったようだが、彼が私という同窓生に出会い、折しも同窓会が間近に開かれる。何とか同窓会開催を知らせ、出席してもらえないか。こうして、注文フォームから本の注文とともに、私にメールが入った。

話は後段に移っていく。
彼が同窓会に出席して欲しいと思った大きな理由は、第一に幹事の卒業回生だったこと。ひとりでも多くの参加をと、彼は幹事としてその責任を果たそうとしていたわけである。そして、第二に、当日、彼が犀星詩『はる』を演奏予定だったからであり、ぜひ聴いてもらいたいと思ったからである。
彼は高校時代から、文学と音楽に関心が高かったようで、その後、数人でロックバンド《遅れてきた青年》を結成。CDも出しており、その中に同窓会で演奏した、そして私に聴いてもらいたかった犀星詩『はる』も入っているという。同窓生の「エール交換」よろしく、彼のCDと私の『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を交換することにして、しばらくして、CDが送られてきた。
CDで、まず目につくのはジャケット。表紙の写真は大森馬込の犀星邸で、1959年に撮影されたもので、犀星邸の庭と、そこにたたずみ空を見つめる犀星の姿が写っている。カラーでないところが良い。
発行は「犀青記録社」となっており、「犀星」同様「さいせい」と読むが、「犀星の青春」「青年犀星」が伝わってくる名称である。
このCDには、ロックバンド《遅れてきた青年》の歌と演奏による作品2曲が収録されている。
1曲目は、室生犀星の詩『はる』(1918年、『愛の詩集』収蔵)に曲をつけたものである。もちろんロック。犀星の詩に、よく曲をつけたと、何よりびっくり。けれども、ロック以外の曲は、なかなかつけることができないかもしれない。激しくはないけれど、内面から絞り出すような曲、ぴったりである。やはり、ロックだ。そもそも犀星の人生、生き方、ロックそのものではないか(と言いつつ、実は「ロックとは何ぞや」、あまりよくわからないのだが)。今、犀星が生きていたら、ロックなんかやったかもしれない。
2曲目の『海と瞳』はオリジナルであるが、〈啄木も朔太郎も見つめた満月がまた欠ける〉という歌詞がある。犀星つながりで言えば、朔太郎が出てくるのはわかるが、啄木はどうして登場したのか。不思議に思って、彼にズバリ質問してみると、犀星と朔太郎では同じ時代の同じ場所、場合によって、肩を並べて見上げていたに違いないけれど、啄木と見ることはなかった。けれども、異なる時代に異なる場所で生きていた青年たちが結局のところ、同じ月に照らされていたという、ある種の感慨を覚えて啄木を登場させたという。確かに啄木は1912年に亡くなっており、犀星と朔太郎が初めて出会ったのは1914年である。それなら、尾崎紅葉(1903年没)でも良かったはずだが、彼によると、啄木と朔太郎はタクとサクで頭韻を踏んで、アルチュールとアルベールに対応させているとのこと。私も高校の英語の授業で、韻を踏んだ英詩に出会い、詩で韻を踏む「音の心地よさ」を知った。その時ばかりはちょっぴり英語の授業が好きになったことを思い出した。
彼と私は肩を並べて校歌を歌うことはなかった。校舎すら変わっている。けれども同じ校歌に照らされている。何か、私たちの出会いを暗示するかのような詩である。

さて、「マラソン大会」。彼が高校在学時代、どのようにおこなわれていたのだろうか。そして、現在はどうであろうか。彼からの返信を待っているところである。

CD『はる』に関する問い合わせなどは、
ロックバンド《遅れてきた青年》の公式サイトまで
URL  https://note.com/o_seinen
今年も漱石忌を過ぎました。知れば知るほど漱石の偉大さを感じます。今、漱石が生きていたら、世の中の動きに対して、どのような見解をもち、発言するでしょうか。
【神代帚葉がニュースに】

『濹東綺譚』の終わりに、長々と続く「作後贅言」は、荷風の神代帚葉(本名:神代種亮)に対する弔辞のようである。勝手に漱石文学館において、『濹東綺譚』の連載を終わった矢先に、神代帚葉に関するニュースが飛び込んできた※。連携したかのようである。
ニュースとは、神代に宛てた作家たち20人あまりの書簡、およそ200通が発見されたというのである。保管していたのは神代帚葉の孫、神代聡さん。専門家にみてもらって、貴重なものであることが判明したというのである。神代帚葉は「校正の神様」と言われた校正家。荷風との親交は「作後贅言」に詳しく書かれている。
みつかった書簡を送った作家は、荷風の他、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春夫など。龍之介などは、「ゆうべ遅かった為まだねてゐますこの手紙は仰向になったまま書くのです」と書いており、龍之介と年上の谷崎とのユニークな関係性をうかがわせるものもあるという。
書簡から当時の作家と出版社の関係を垣間見ることができるものもあるが、神代帚葉のようなフリーランスの校正家は特異な存在で、だからこそ作家たちは親しい感情を抱き、信頼して、本心を書簡に書くことができたのではないか。専門家はそのような分析をしている。
わたくしももう一度、『濹東綺譚』の「作後贅言」を読み返してみたいと思う。
【金沢ブログ】 38豪雪――60周年記念

「38豪雪」とは、昭和38年の豪雪で、北陸地方を中心に死者228人、住宅全壊753棟など大きな被害が発生したため命名されたものである。昭和38年と言えば1963年で、今年60周年を迎えた。
この豪雪で、福井市213cm、富山市186cmの最深積雪を記録し、金沢市でも181cmと、1940年の180cmを抜いて、最深積雪の記録を更新した。「雪国」と言っても、積雪が1mを超えることなどほとんどない金沢である。私も生まれて初めて、新潟など豪雪地帯のような光景を目にすることになった。
金沢市の積雪がどのように推移していったか、当時の記録を見てみると、1月1日が15cm、10日が13cmと、まあ通常の冬である。11日になると39cm、12日が58cm、15日には88cm。前年の最深積雪72cmを超え、前々年の110cmに迫ろうかという勢いであったが、雪はいったん小康状態になって、1月21日の積雪は75cm。ところがここから本番であった。
21日から猛吹雪になって、22日の積雪107cm、23日が136cm、24日が142cm、25日が159cm、26日が175cm、27日にはついに181cmと、金沢市の最深積雪の記録を更新してしまった。21日から北陸線などの鉄道も完全にストップし、その後、県内の幹線道路も相次いで自動車の通行ができなくなった。
積雪は降雪がなければ、溶けなくても、圧縮されて低下していく。積雪が10cm高くなるということは、それ以上の降雪があったことを意味している。21日から27日にかけて積雪が増え続けているということは、毎日、雪が降り続いたことを示している。
毎日、毎日、雪が降り続き、しかも吹雪である。雪は上からも、横からも、下からも吹付けて来る。空は見えない。自分が鉛色を帯びた乳白色の布に包まれたようである。そのような中を登校するのであるが、とうとう学校も休みになった。毎朝おこなう家の前の雪かきも、しだいに捨てる所がなくなって、道路を埋め尽くし、雪上の道はどんどん高くなって、スコップで階段をつくって、雪上の道へ上るようになった。家のまわりの雪を除けておかないと、雪が窓や壁を突き破って中へ入ってくるキケンがある。雪の重みで戸が開きにくくなる。3日に1度くらい屋根の雪下ろしである。そのうち、屋根の雪下ろしが「雪上げ」に変ってしまった。屋根から雪の上に飛び降りたら、ズボッとはまって、下に堅い雪があって、キケンな目に遭った。私は中学3年で、1か月と少しすれば高校の入学試験である。けれども「今は雪との闘い」である。
1月27日に181cmを記録した後も、28日が180cm、29日が161cm、30日が168cm、31日が172cmと一進一退の状況で、2月に入って、1日が158cm、5日が145cm、10日が136cm、12日が131cm、28日になっても103cmと、例年の最深積雪よりも多い状態。雪は4月になっても残っていて、花見と雪見を同時にするという貴重な体験をすることになった。
このような豪雪の中でも、2月10日には石川県知事選挙と金沢市長選挙がおこなわれた。この時初めて石川県知事に当選した中西陽一さんは、その後31年間、県知事を務めることになる。私も校内弁論大会で「金沢市の未来」など語っていたので、選挙には大いに関心があった。そして、私の机の上にはケネディ大統領の写真が飾ってあった。中西さんはケネディと同い年で、ともに「若い政治家」という印象が私を惹きつけた。ケネディはその年の11月に暗殺された。
弁論大会がおこなわれた体育館は豪雪で傾き、倒壊のキケンがあるため使用中止になり、中学の卒業式は観光会館でおこなわれた。思い出ある母校からの旅立ちはできないが、それはそれで何か晴れがましい気持ちがした。

当時、すでに私は毎日、気象通報を聴きながら天気図を描いていた。とくに1月下旬に入って、来る日も来る日も描き上がってくる天気図は、ほとんど同じで、大陸の高気圧の気圧が下がる気配も、ちぎれて移動性高気圧になってくる気配もまったくない。等圧線の間隔も狭い。そのような中で不思議にも、山陰沖(韓国の東、鬱陵島付近)にゆるみがあり、いわゆる低圧部になっている。このような状態になると、平野部に雪が多く降る「里雪」になることを、私は何となく把握していた。
今では素人の私でも、気象衛星の画像によって雲の厚みや水蒸気量を知ることができるし、雨雲レーダー画像やアメダスの状況、高層気象の状況まで知ることができる。当時は気象通報によって描かれる天気図だけである。今、考えれば、日本列島すっぽり寒気に覆われて、それが停滞し、日本海から大量の水蒸気が供給されて豪雪になったのだ。おそらく次から次へと帯状になって雪雲が流れて来たのだろう。

街の中を流れる用水は除雪した雪を捨てるには絶好の場所であったが、その用水も雪でいっぱいになってしまった。東本願寺別院(東別院)の門前に発展した横安江町商店街のアーケードも雪の重みで壊れてしまった。雨や雪の日でも安心して買物ができるようにと、1959年に完成した、まだ新しいアーケードであった。1962年7月には東別院本堂が焼失しており、横安江町商店街にとっては、半年間に二度の災難であった。
豪雪の雪も時が来てすべて溶けてしまった。「あの雪との闘い」は、いったい何だったのか。高校でおこなわれた俳句・短歌大会に私は「電線に赤茶けた布ひらりひらり思う豪雪のあの日」という歌を応募した。
                         (完)

★「再び金沢市電の思い出」はブログに移転し掲載しています(カテゴリー:金沢ブログ)。
「勝手に漱石文学館」も早いもので、今月(10月)、開館6周年を迎えました。この間、12万人を超える方に来館いただき、ほんとうにありがとうございました。漱石を離れた記事も多くなりましたが、今後ともよろしくお願いいたします。
館長
泉鏡花研究会会報に『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』が紹介されました。
ブログのカテゴリー「金沢ブログ」に「『盆栽の松』に描かれた金沢」の連載を開始します。『盆栽の松』は金沢にある北陸学院に長く勤められ、日本の保育向上にも貢献したアイリン・ライザーが書いた小説です。アメリカ人が描いた戦前の日本という点からも注目すべき作品です。北陸学院幼稚園は中原中也の通っていた幼稚園でもあります。ぜひ大勢の方に読んでいただきたいので、よろしくお願いいたします。
「館長の部屋」で「日和下駄を履いた猫」鏡花編の連載を始めました。
「館長の部屋」で連載中の『日和下駄を履いた猫』は、順次、ブログの方でも掲載しています。カテゴリーは「文豪の東京――夏目漱石」です。
第25回 『日和下駄』で歩く東京⑲

記事の訂正

現在連載中の《『日和下駄』で歩く東京》を読まれた研究者の方から、連載「第21回」の記事の内容に一部誤りがあると、ご指摘をいただいた。このような情報提供はとてもありがたく、私自身の知識を広げるとともに、私が発信した誤った情報を修正するためにも重要である。記事を下記のように訂正する。

【すでに発信した文章】
《しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。》と荷風は、それた話と何とかつなげて、「閑地」の話しを立て直す。
ここからしばらく、何万坪という広い閑地になっている芝赤羽根の海軍造兵廠跡の話題が続く。要約すると、(略)
この後、荷風がこの閑地を久米正雄と訪ねたことが、長々と書かれている。閑地に入る場所がなかなか見つからず、《私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内へ這入って見た》。
【指摘を受けて訂正する箇所】
(誤)久米正雄 ➡ (正)久米秀治

【研究者からの指摘内容】
「第21回」の「閑地」を扱われた章にて、例の旧有馬藩邸を訪ねる件ですが、同道の「久米君」なる人物について、「久米正雄」と記しておられましたが、これは「久米秀治」のことのようです。(略)例の角川『日本近代文学体系』(29巻永井荷風)のお世話になりました。坂上博一氏による注釈は簡単ながら信頼できるので、「頭注」の文言をそのまま記しておきます。
久米君 久米秀治のこと。1887―1925。東京の生まれ。慶應義塾大学文科卒業後帝国劇場に勤務、後有楽座主任となる。「三田文学」「文明」「花月」などの編集に協力、寄稿も多かった。

あけましておめでとうございます。
松山坊っちゃん会会長の武内哲志先生との対談は、「ブログ」のカテゴリー「対談」でお読みください。「金沢ブログ」は「ブログ」のみの掲載です。荷風の『日和下駄』は当面、「館長の部屋」のみで連載しています。
今年、当館は来館者10万人を突破しましたが、いよいよ11万人突破です。新しい年も、ぜひご贔屓に、よろしくお願いいたします。
当館では頻繁に更新をおこなっています。掲載した文章が1週間ほどの間に下の方へ行ってしまい、埋もれた状態になってしまいます。「ブログ」では、カテゴリー別になっており、検索機能もついています。武内哲志先生との対談も、「館長の部屋」では、トップで読むことができません。「ブログ」ではカテゴリー別で「対談」を選択してもらえれば、簡単にたどりつけます。過去に掲載された文章を探したいなどと思われた場合は、「ブログ」の方をご利用ください。埋もれそうになった記事は「ブログ」にも掲載するようにしています。「金沢ブログ」は「ブログ」のみ掲載です。
「館長の部屋」では「文豪の東京」永井荷風の連載を始めましたが、更新にはしばらく時間がかかります。「ブログ」では頻回に更新していますので、よろしくお願いします。
「文豪の東京――永井荷風」の連載が「館長の部屋」で始まりました。次回連載まで間隔が空くかもしれませんが、気長にお楽しみください。やや遅れて「ブログ」でも公開していきます。「ブログ」では、「金沢ブログ」を順次公開しています。
来館者が10万5000人を超えました。ほんとうにありがとうございます。過去の文章がどんどん埋もれた形になりますが、「ブログ」の方では、カテゴリー毎に読むことが出来ます。島崎藤村についても、「文豪の東京――島崎藤村」で取り出せば、連載第一回から順に読むことができます。検索機能もついていますので、「草枕」と入れて検索すると、「草枕」に関する記述のある文章を取り出すことが出来ます。ご利用ください。
「文豪と東京」では今年生誕150年の島崎藤村を連載しています。まだまだ続きます。藤村ファンの方、そして明治学院卒業生の方も、ぜひ時おり、足を運んでください。
「文豪と東京」
芥川龍之介に続いて、何となく惹かれる思いで島崎藤村を選んだのですが、何と今年生誕150年でした。来年生誕150年の泉鏡花ばかりに気をとられていて、藤村にはたいへん失礼いたしました。そう言えば、歌人の佐佐木信綱も今年生誕150年ですね。
「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。
原稿を書きながら、気がついたことがあります。私は『吾輩は猫である』から『坊っちゃん』までの間で、漱石の小説は、『琴のそら音』と『趣味の遺伝』の二つだけと決めつけ、『倫敦塔』をはじめとする小説は、斜め読みした程度で、後は目もくれないといった状態で放置していました。もちろん、これには私なりの理由があって、つまり、『漱石と歩く東京』を書くにあたって、東京を舞台にした『琴のそら音』と『趣味の遺伝』に関心がむいたためです。『琴のそら音』と『趣味の遺伝』は何回も読み返した反面、他の作品は私の視界から消えてしまったのです。
けれども、『草枕』を読み返してみると、漱石がイギリス留学していた頃、流行していた詩、絵画、芝居などが顔を出す。そうなると、『倫敦塔』から『薤露行』までの小説が、私の視界の中に入ってきました。そして、一連の作品は『草枕』の習作だったのではないか。言い換えれば、一連の作品の延長線上に『草枕』があるのではないか。そう思うようになったのです。
私は『一夜』を読んでいて、『草枕』を読んでいるような心持になりました。出てくること、出てくること、『草枕』のテーマのような。夢が出る。絵が出る。小説論が出る。和漢洋ごちゃ混ぜにしたような。男二人に女一人の会話も面白い。
――《八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、凉しき眼の女が會して、斯くの如く一夜を過した。彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのである。》
《何故三人は落ち合った?それは知らぬ。三人は如何なる身分と素性と性格を有する?それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ?人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。》――
そして、この文章に続く、最後の一文がすごい。――《なぜ三人とも一時に寝た?三人とも一時に眠くなったからである。》――
完璧に「非人情」。小説ならば、「三人が赤い糸で結ばれていたから」と書いてみたくなるのですが。私は小説というのは、人生を描いているのではないかと思うのですが、どうも漱石の主張は違うようです。ある面、漱石の屁理屈のようにも思えますが、『草枕』にはさらに進化した形で示されています。
『一夜』を読んで、私がハッとした部分。
――《夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床に入る。三十分の後彼等は美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。(中略)彼等は漸く太平に入る。(中略)他の一人は髯のない事を忘れた。彼等は益々太平である》。――
一生を描いたという言葉がよく理解できます。彼等は「太平」を得た。死ななければ「太平」は得られない。彼等は永遠の眠りについてしまったようです。「死」とは「すべてを忘れること」。自分であったことさえ忘れること。この真理、この悟りに、三十代にして到達した漱石。やはり只者ではありません。けれども、その漱石も今では、漱石であったことも、小説を書いていたことも、人間であったことさえも忘れているのです。「太平」であることすら感じていないのです。
人生は、束の間の「一夜」の如し!眠りに就きてすべて忘れる。

「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。
書くにあたって、『草枕』を何回も読み返したのはもちろんですが、ネット上でもさまざまな情報を集めました。その中に、「猫じゃらし文芸部」というサイトがあり、『草枕』を扱った文章が載っていました。
その始めに、《『草枕』には筋があります!》と見出しをつけて、概ね、――『草枕』は意味不明で読みにくく、挫折した人も多いだろう。俳句と芸術論の間に、ただ美しく情景を描いただけで、筋も意味もないように思えるが、本文中に散りばめられたヒントを頼りに、古典、漢詩、英文学等の知識を使って読み解くと、物語が見えてくるミステリーになっている、として、《一見ハチャメチャに見えて、実はあっと驚く構造を持つ小説です。『草枕』こそ、遊び心をたっぷり込めて楽しみながら、漱石が自分自身のために書いた最高傑作です》、と続けています。
全6回シリーズと、分量は多いですが、とても興味深いことがたくさん書かれています。書いている人が違うのですから、当然、捉え方の違いもあります。けれども、漱石も遊び心で楽しんで書いているのだから、私たちも難しい顔をしないで、楽しんで『草枕』を読もうじゃないかという点に関しては、同じ方向性をもっているように思われます。
「館長の部屋」に、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を連載しています。第1回、「『草枕』の特色」では、冒頭に、《『草枕』について、あえてここで説明する必要もないでしょうが、書かれた時期という点から言うと、1906年、漱石が『坊っちゃん』に続いて発表したのが『草枕』。漱石39歳の時です。まだ本業は教職であり、『坊っちゃん』は春休み中の3月17日から24日までの1週間、『草枕』は夏休み中の7月26日から8月9日までの2週間を使って書き上げられました。構想を温め、長期休暇に入るのを待ちかねたように、趣味の小説書きに没頭していったのであろうと推察されます。漱石は、1904年から1905年にかけての日露戦争のさなかに、小説家になろうという明確な意思もなく『吾輩は猫である』を書き始め、これが存外にも好評で、その後、いくつかの小品を発表して、『坊っちゃん』『草枕』へとつながっていきました》と、お話ししています。
ここで、『漱石全集』第二巻(1966年、岩波書店)に掲載されている、小宮豊隆が書いた「解説」をもとにして、補足しておきたいと思います。
『吾輩は猫である』は1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけて書かれており、その間に飛び込むように、『倫敦塔』から『坊っちゃん』まで書き上げられています。小宮は『坊っちゃん』が書かれた時期について、《およそ明治三十九年の三月十四・五日から同じ月の二十五日ごろまでに亙つて、書き上げられた》として、『猫』の第十よりも後に書かれたが、『猫』の完結は第十一で、『ホトトギス』の八月号に掲載されたと、明らかにしています。『猫』が一段落して、7月26日から『草枕』の執筆に取りかかり、8月9日に書き終ったと小宮は判断しています。実際には後半の1週間ほどで一気に書き上げたようで、小宮は《僕も最も中々来客が多くて而も僕は客が嫌ではないから思ふ様にかけないので困る》と書かれた濱武元次宛の手紙を紹介しています。
長期休暇を待ちかねて、『坊っちゃん』や『草枕』を書いたようにお話ししましたが、実は教職の仕事をこなしながら、つぎつぎに小説を書いていたことになります。案の定、1905年2月9日付けの野間眞綱宛手紙には、『幻影の盾』が思うように書けず、漱石が「今日から三日間学校を休んだ」と書いていることを、小宮は紹介しています。そう言えば、『趣味の遺伝』には、《翌日学校へ出て平常の通り講義はしたが、例の事件が気になっていつもの様に授業に身が入らない。控所へ来ても他の職員と話しをする気にならん》という一節があります。何か現実の漱石を見るようです。
それでも、サービス精神旺盛な漱石は、客の相手にも熱心で、手紙もマメに書いています。こんなに「人情」たっぷりだと、「非人情」の旅に出たくなる気分もわかりますが、軽妙な会話の場面は、人付き合いの良さあればこそ、生まれたものと言えるでしょう。そのまま、漱石の魅力が伝わって来るようです。
なお、この文章を書きながら、ふと思ったこと。『吾輩は猫である』と『草枕』とはずいぶん時期的に離れて書かれたように思っていましたが、『猫』の最期の場面と、『草枕』は連続的に書かれたと言っても良く、真宗の教えをもとにした一連のものと捉えることができるのではないかと。
「館長の部屋」の記事は、「ブログ」にも掲載されています。カテゴリ別、月別に読むこともでき、検索も可能です。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を購入された方から、つぎのような感想と指摘をいただきました。

切り口が斬新な感じがして、楽しく読み進めています。
「よく調べられてるな」と思って読んでいますが、15ページで秋聲が鏡花と「ほぼ同じ方法で上京したであろう」という点については違うように思いました。
秋聲と悠々の1回目の上京は、「直江津までは徒歩と人力車。直江津で初めて汽車に乗り、終点長野まで。長野からは歩いて、苦労して碓氷峠を越えて高崎に着き、高崎からまた汽車で上野まで」と、秋聲の「思い出るまま」「光を追うて」に書かれています。
秋聲ファンなのでご指摘させていただきました。違っていましたら失礼いたしました。

「勝手に漱石文学館」では投稿フォームがいくつかありますので、それを通じ、このような感想やご意見をいただけるのは、たいへんありがたく、嬉しいことです。本も出版しっ放しでなく、このような双方向の交流ができるのも、インターネット普及のおかげです。
ご指摘の件は、秋聲自身が「思い出るまま」「光を追うて」に書いているので、これは間違いないことで、鏡花の敦賀・東海道線経由と異なり、直江津・信越線経由。明らかに鏡花と「ほぼ同じ方法で上京した」というのは誤りです。もともと長野を経由するルートは、北陸道・北國街道・中山道と、加賀藩主の参勤交代のルートで、江戸・東京へ行く常識。秋聲たちも普通に選んだルートでしょう。
ご指摘によって、私自身も新しい知識を得ました。ほんとうにありがとうございました。こうなると、もっと調べてみたくなる性分で、調べた結果を後日、「館長の部屋」に公開したいと思っています。
⇒12月11日、「館長の部屋」に公開しました。よろしかったら、「館長の部屋」を訪ねてみてください。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』訂正

 訂正するようなことにならないように、繰り返し確認したのですが、本が出来上がった後に、やはり間違いがみつかってしまいました。さっそく訂正です。

 6ページ上段 鏡花出生地:下新町23番地
 176ページ下段  芥川龍之介が亡くなったのは、
(誤)7月23日⇒(正)7月24日

7ページ下段 うしろから6行目の書名
(誤)『日本の幼児教育につくした宣教師』
⇒(正)『日本の幼児保育につくした宣教師』

出版しました!
三人の東京――鏡花・秋聲・犀星
定価:税込1210円(本体価格1100円+税10%)

ご案内
 金沢の生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星の作品は今も多くの人に愛され、金沢には三文豪の各記念館があり、観光資源として大きな役割を果たしています。三人は、文化・伝統が幾重にも蓄積した金沢の魅力を構成する、重要な要素のひとつになっています。
 ふるさと金沢を愛し、東京に強いあこがれを抱く筆者は、専門の地理的視点を活かし、東京へ出て来た三人と、彼らが描いた東京を、文学散歩と作家論・作品論を織り交ぜ、一冊の本にまとめました。三人がどんなに才能をもっていようと、金沢がどんなにすばらしい街であろうと、上京しなければ「文豪」とよばれるまでになっていなかったでしょう。上京しなかった筆者自身の思いも込めた一冊です。
 今年から来年にかけて徳田秋聲生誕150年、2023年には泉鏡花生誕150年を迎えます。そのような中で、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』が多くの方に読まれることを期待しています。

目次
はじめに 
一.ふるさと金沢 
二.三人の上京 
三.鏡花――紅葉と住んだ神楽坂 
四.『夜行巡査』に描かれた番町・麹町 
五.『婦系図』の舞台 
六.『黴』とたどる秋聲の東京生活 
七.妾として暮らす東京――『爛』 
八.詩に描かれた東京――漂泊する犀星 
九.『或る少女の死まで』――谷根千慕情 
一〇.深川・日本橋を舞台に――『葛飾砂子』と『日本橋』 
一一.『杏っ子』に描かれた関東大震災 
一二.震災後の深川――『深川淺景』 
一三.昭和モダンの東京――『仮装人物』 
一四.杏子の東京――『杏っ子』 
一五.都会と田舎を手に入れた文士――犀星 
一六.秋聲の作品にみる上京者 
一七.上京した人、しなかった人 
一八.秋聲のやさしさ 
一九.犀星、「仮構」の出生が育んだ作家 
あとがき
特集
①逗子を走る ②東京の中の金沢 ③田端・馬込を歩く
休憩室 鏡花、和倉温泉へ行く

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河童忌に因んで、北澤みずきさんが資料提供してくれました。
龍之介の死に際して、犀星が詠んだ一句。
――新竹のそよぎも聴きてねむりしか――
この句に文学者で俳人の関森勝夫先生(1937~)が、つぎのように解説されていると言うのです。
――竹林の葉騒をききながら安んじて寝入っていることだろうと、その穏やかな死顔から、ひと寝入りして再び目覚める人のように表現したのである。――
龍之介の死に大きな衝撃を受けた犀星ですが、何とか俳句だけは創ることができたのでしょうか。
「煤けむり田畑にひらふ螢かな」「足袋白く埃をさけつ大暑かな」
このような句も詠んでいます。
秘書の北澤みずきです。

>新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。

いいえ、館長。私には想像もつかないほどのスケールの大きな旅でしたが、色々なところに連れて行っていただき、多くのことを学ぶことができた楽しい旅でした。
『草枕』は実に奥が深く、そして広がりをもった小説なのですね。
「人情の世」で「小説」を書き、そして「煩い」を切り離すことなどできないと「あるがまま」に受け入れようとする。「則天去私」は大変有名なことばですが、館長のおかげでその意味をより深く理解できたように思います。
新解さんに今もお住まいの漱石は、「非人情」を調べる私たちを喜んで迎えて下さるのですね。そして「この世」も悪くないのだと教えてくれる…。
これからもずっと新解さんに住み続けてほしいです。

>漱石を探してみませんか。

はい!探してみたいです。
お茶をしながらの楽しい時間を、どうもありがとうございました。

【「新解さん」談義③】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

秘書(北澤みずき)
非人情は漱石の造語だとか。新解さんは、「情に掉させば流される」ため、煩わされないように努めているのでしょう。新解さんも『草枕』の主人公のように、非人情の旅に出たいと思っていたりして。館長は非人情という言葉から何を想像されますか。
<参考>
日本国語大辞典や広辞苑でも、新解さんと同じように①は不人情と同じ意味(人情が乏しい、うすいなど)、②として漱石の『草枕』の一部を用例としてあげ語釈を載せています。その一方で、今の時代、不人情や非人情という言葉を国語辞典で調べるのか、とも思います。ますます住みにくくなるこの世の中、新解さん(最新版の国語辞典)もまた悩みを抱え、漱石のつくったことばを国語辞典に残さなくてはと思っているような気がしてなりません(笑)。

館長
「非人情」と言う言葉から、何を想像されますか?うーん(しばらく考え込む)、「人でなし」?「極悪非道な人」?「鬼!」?みずきさんはどんな答えを期待したでしょうか。こんな時は「逃げるは恥だが、役に立つ」方式で、『草枕』へ逃げて行きますよ。
『草枕』の冒頭。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

漱石は「智に働く」人で、「意地を通す」人だったと思いますが、これではいけないと思って、相手のことや周りのことを考えた言動をすると、結局は流されてしまって、人の道に反したことをしてしまったり、自分の個性と言うものがなくなってしまったり、まさに八方塞がり。俺はいったいどうすればいいんだ!とにかくこの人の世は住みにくい。ところが、

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒 両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

つまり、この人の世が住みにくいからと言って、どこへも行くところがない。行くとしたら、「人でなしの国」つまり「非人情の国」しかないですね。文脈からすれば、「人でなしの国」は「神の国」か「鬼の国」(天国か地獄、あるいは極楽か地獄)、要は「この世」に対する「あの世」です。新解さんが「非人情」の旅に出たいと思っているとしたならば、それは死出の旅に発ちたいと思っていることです。
じつは新解さんだけじゃない。漱石だって、「死んで太平を得る」と思って、「死ぬこと」に憧れを持ち、死んだら万歳のひとつも唱えてくれとまで言っています。だって、「非人情」の世界へ行けば、一切の煩わしさから解放されるのです。けれども、漱石はこのように言っていますよ。「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」と。
漱石は「非人情」の世界に憧れているけれど、「人情」の世界を受け入れて、そこでしっかり生きていこう、そう思っているのです。漱石は自死することを否定しています。そして、自分の与えられた生命が尽きる時には、『吾輩は猫である』の最期の部分にあるように、「死」を受け入れ、すべてを阿弥陀仏に委ねて逝ってしまおう。さすが、親鸞を尊敬し、真宗の教えを受け止めた漱石です。
そして、先ほどの引用文の前に、下記のような一文があります。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

つまり、「非人情」の世界に行きたいけれど、行くことができないから、「人情」の世界で生きていかなければならない。けれどもみんなに流されて行ったら、自分と言うものがなくなってしまう。他の人とは違った、「自分」というものをしっかり発揮できるのが「詩」であり「絵画」であると、漱石は言うのです。漱石はその自分らしさを「小説」の世界に見出したのです。
長くなります。続きはまたお話ししましょうね。『草枕』は芸術論から、真宗にまで及びますよ。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
前回は、『草枕』の《住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る》という、漱石の「芸術論」が凝縮されたような一文を紹介し、「人情」の世界で生きていかなければならないと覚悟した時、他の人とは違った、自分らしさを発揮する場として、「詩」や「絵画」が生まれた。そして漱石はそれを「小説」の世界に見出したのです、というところで話しは終わっていました。その続きです。
漱石は「小説」の世界に逃げ込んだのではありません。「人情」の世を精一杯生きるために、「小説」を書くという道を得たのです。『草枕』には、

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

まさに漱石は小説家という天職を得て、人の心を豊かにする使命をまっとうしていったのです。そして、『草枕』が書かれた時期を考えれば、このようなことを書きながら、漱石は芸術の存在を許さない勢力、許さない風潮が大きくなって来ていることに危機感をおぼえ、警鐘を鳴らしていたと、私は推察しています。
『草枕』は、けっして長編の小説ではありませんが、ほんとうに奥が深く、話したいことはいっぱい出てきます。さて、この一文。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

うまいですね、この表現。みずきさんも俳句に関心があるから、ピピっと来るでしょうが、正岡子規の俳句、「写生」ですね。もちろん、漱石は子規をまねたのではありません。ふたりに共通する考えで、その基盤に真宗、とりわけ清沢満之(きよさわまんし、1863~1903年)の影響がありました。ふたりの間で「親鸞上人」と言えば、満之を指していたと言われるくらい、傾倒していたのです。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。
もう少し、話しが続くので、ここでお茶でも飲んで、ひと休みしましょう。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
それでは、再開。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。――とは言っても、人間は「人情」の世の中に生きているわけですから、いつも《住みにくき煩いを引き抜いて》生きていくわけにいきません。漱石も四十数年生きて来て、「煩い」はひとつ去っても、またやって来ることに気づきます。『道草』のテーマです。けれども、漱石はその道筋を『草枕』の中ですでに解き明かしています。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

二十歳から、二十五歳、三十歳と、段階的に進化している様子がわかります。それは、真宗を学びながら、漱石が平静を得る方法を段階的につかみ取っていった過程を示しているのかもしれません。
まず、「人情の世」である「憂世」「厭世」が肯定的に捉えられ、続いて、この世の「明」と「暗」、「生」と「死」、「楽」と「苦」が表裏一体のものとして捉えられています。二つの相反するものの一方だけを取り除こうとしても、紙から裏面だけ切り離そうとしてもムリなように、人生から「暗」だけ、「死」だけ、「苦」だけ、「煩い」だけ取り除こうともがいても、所詮、切り離すことができないものだから、ムリなものはムリ。ムリを通そうとするから、苦悩は増すばかり。ともに「あるがまま」に受け入れていくことが、平静を得る道なのだ、と。
そして、第三段階において、「生」と「死」、「苦」と「楽」。表裏一体の一方が強ければ、反対のものも強くなければならない。「プラス」が強くなればなるほど、「マイナス」もまた強くなっていかなければならない。光りが明るければ明るいほど、その影は暗く深くなっていく。つまり、大きな喜びの陰には、大きな悲しみが潜んでいる。逆に言えば、大きな悲しみの時に、大きな喜びが付き添っていてくれるのです。「悲しみが大きい」と悲嘆にくれなくても、よく見ると、普段より増して「喜び」が輝きを放っている。このようにして私たちは、「悲しみ」もまた「あるがまま」に受け入れていけるようになるのです。この発見は、人生において平静を得る真髄のように私には思われます。

漱石は、良い成果を得ようとすればするほど、その反対に神経衰弱が昂じて破滅の道にむかって行きました。つまり、「生の欲望が強くなればなるほど、不安もまた強くなってくる」ということです。そして漱石は、「死へのあこがれが強くなればなるほど、生への欲望もまた強くなった」のであろうと思います。
後に、森田正馬は「神経衰弱」を「生への欲望」と捉え、神経衰弱の治療に役立てていこうとする「森田療法」を生み出していきます。森田は第五高等学校で漱石の英語授業を受けています。
このように、「プラス」と「マイナス」が背中合わせに同居している状態を漱石は「諷語(ふうご)」と呼んでいます。「諷語」という言葉は、『吾輩は猫である』のすぐ後に発表した『趣味の遺伝』で登場しています。つまり、『草枕』を発表する前に、つかみとっていたのです。

諷語は皆表裏二面を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう。(略)表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。

というように漱石は「諷語」について述べ、さらに、《滑稽の裏には真面目がくっ付いている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談の底には啾々たる鬼哭が聞える》という例を挙げ、やがて親友の恋人と判明する寂光院の女を、「諷語」の中に説明しています。
みずきさん。
新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。漱石が『吾輩は猫である』を書いたのは、38歳になろうとする頃でした。『草枕』は40歳くらい。ただただ、すごい人としか言いようがないですね。
すでに「非人情」の世界に住んでいる漱石。「住みにくい世界だなあ」と退屈しているかもしれません。漱石は「生命の永遠性」を信じていましたから、今頃はまた、退屈しのぎに「人情」の世界に舞い戻っているかもしれません。
ほら、そこに……
漱石を探してみませんか。
秘書の北澤みずきです。

「漱石張りの文章」は、水村美苗さんの『続明暗』ときましたか。これ、館長への質問を考えている時に私が予想していた通りの答え。とってもうれしいです!しかしながら私も『続明暗』を読んでおりません。何となく気が進まず、時間だけが過ぎてしまいました。
あっ、漱石の『明暗』もちゃんと読んでいなかった…館長、ごめんなさい。漱石の作品で読んでいないものがあるなんて、秘書失格ですね。これから読みますので、どうかお許しください。
代わりに水村美苗さんの『母の遺産―新聞小説』より。主人公の美津紀が「どうして母はあのような人間だったのか」と思いめぐらすシーンがあります。
そう。そもそも祖母が自分の身をあのように「お宮さん」と重ねなければ、母がこの世に生を受けることもなかった。祖母があの新聞小説さえ読まなければ、息子の家庭教師と駆け落ちなどをすることもなかった。そうすれば、母だけでなく、母の娘たちもこの世に生を受けることはなかった。(中略)思えば、美津紀自身が新聞小説の落とし子であった。
この「新聞小説」とは何の作品か、もちろんおわかりですよね。尾崎紅葉の『金色夜叉』。
『母の遺産―新聞小説』は水村美苗さん自身の体験を交えて描かれています。実際のお母様、お祖母様はどうだったのか。小説ですから、その人物造形はよりわかりやすい方向でデフォルメされていったであろうと思います。けれども『金色夜叉』が読売新聞に連載されていた当時、世の女性たちは自分と「お宮さん」を重ね、夢中になって読んだのではないでしょうか。そして『金色夜叉』という新聞小説がなければこの世に存在しなかった水村美苗さんが、その後、漱石になりきって『続明暗』を書く。紅葉と漱石はこんなところでもつながっているのです。
本当はこの話、来年1月17日の紅葉忌につぶやこうかなと考えていたのですが、私が質問したばかりに、何だか先を越されてしまった感じです。やっぱり館長はすごいです。大変尊敬しております。
【「新解さん」談義②】
ばり【張り】②有名な人に似ていること。「漱石―の文章」

秘書(北澤みずき)
「漱石張りの文章」ですか。新解さんは、きっと漱石のファンで、漱石に憧れているのですね。館長はどんな文章が「漱石張り」だと思われますか。

館長
みずきさんのこの質問にはズバリ!水村美苗さんの『続明暗』でしょう。漱石が生きていたらこんな風に書くだろうと、文体も含めて漱石になりきって書いたのですから、「漱石張りの文章」の典型みたいなものです。
こんなこと書いて、きわめて言いにくいのですが、私は『続明暗』を読んだことがないのです。水村さんには悪いけれど、読む気がしないのです。『明暗』は未完になっているけれど、あそこで完結です。余韻を残しながらうまく収まっています。後は自分で想像すれば良いことで、誰かに書いてもらう必要はありません。そもそも、『明暗』は作者が亡くなったから未完ということになったけれど、『三四郎』だって、彼の人生は続くのだから、未完なのです。『続三四郎』があっても良いのです。漱石の作品で「完」になったのは、『吾輩は猫である』くらいでしょう。吾輩が死んでしまったのですから。
かつて私は『吾輩は豚である』という短編小説を書きました。何の評価もされませんでした。それに対して『続明暗』がきわめて高い評価を受けているのは、漱石作品の「パロディもの」ではあるけれど、一個の作品、小説として、きわめて完成度が高いからではないでしょうか。
みずきさんが、『続明暗』を読んでいたら、ぜひ感想を聞かせてください。
ところで、漱石自身「〇〇張りの文章」を書いたことがあります。漱石は尾崎紅葉程度の作品なら自分にも書けると思っていたようですが、鏡花の独特の世界観を自分は持ち合わせていないと、一目も二目もおいていたようです。1907年、大学を辞め、朝日新聞に入社し、いよいよ職業作家として生き始めた漱石が、最初に書いたのが『虞美人草』。鏡花はその年、1月から4月まで「やまと新聞」に『婦系図』を連載していました。漱石は「俺も小説を書くのだ」と意気込んで、「鏡花張りの文章」で『虞美人草』を書き始めました。こうして、『虞美人草』は6月23日から10月29日まで「朝日新聞」に連載されました。
まさに、漱石の挑戦でした。漱石は「鏡花張り」の美文調で、最後まで崩れることなく、書き切りました。もちろんそれは鏡花の模倣ではありません。完全に漱石の作品です。しかしながら、漱石の作品の中で『虞美人草』はまったく異質。
漱石にとって「鏡花張り」とは、「鏡花と張り合った」という意味になるのではないでしょうか。
漱石と鏡花。二人は良きライバルであり、お互いに尊敬し合っていたのではないか、私はそう思うのです。
【「新解さん」談義①】
たたく【叩く】漱石の門を―(=教えを請うためにたずねる)

秘書(北澤みずき)
「漱石の門を叩く」となると、新解さんは、漱石にどんな教えを請おうとしたのでしょうか。何に悩んでいたのでしょうか。小説を書きたいと思っていたのか。館長の考えをお聞かせ願います。

館長
「漱石の門を叩く」。秘書の真面目な問いかけに、「漱石の自宅(つまり漱石山房)に門があっただろうか」と、こんな疑問が湧いてくるのは、館長として失格かもしれませんね。でも、調べてみましたよ。
芥川龍之介の『東京小品』の中の「漱石山房の秋」によると、漱石山房の門には電燈がともっているが、柱に掲げた標札はほとんど有無さえ判然としない状況であることが書かれており、確かに門はありました。その門をくぐり、砂利と落葉を踏んで玄関へ来ると、壁面はことごとく蔦に覆われ、呼鈴のボタンさえ探さなければならない状態であったようです。この後、客間に行くのですが、雨漏りの痕と鼠の食った穴とが白い張り紙の天井に残っている有様。
こうして、やっと漱石の居室までたどり着くと、二枚重ねの座蒲団の上には、どこか獅子を想わせる背の低い半白の老人。手紙の筆を走らせ、あるいは唐本の詩集を飜したりしながら、端然とひとり座っている。その人こそ文豪夏目漱石。49歳にして、老人なのか。けれども『東京小品』は1916年に書かれており、無論、本人は知る由もないけれど、漱石死去のカウントダウンが始まっているのですから、老人に思われても不思議ないかもしれません。龍之介は《漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであった》と、結んでいます。
「門を叩く」。これは正確には「門の扉(あるいは戸)を叩く」でしょう。漱石山房の門に扉や引き戸があったかわかりませんが、あったとしてもカギはかかっておらず、玄関の呼鈴を押して、中から出て来てもらいました。「漱石の門を叩く」は、実は「漱石の玄関の呼鈴を押す」ことだったんですね。
もちろん、みずきさんが求めていたのは、このような答えではありません。もともと「門を叩く」のもとになる「門」は、論語に由来すると言われています。孔子の弟子である子貢が、師である孔子より自分の方が優れていると噂されたことに対し、「屋敷に例えるなら、私の塀は肩くらいの高さで、中を覗くことができるけれど、師の塀はずっと高いので、きちんと門から入って(中を)見なければ、偉大さがわからない」と答えたとのことで、師(先生)の教えを請う(乞う)ため、その許を訪れることが「入門」ということになります。もちろん誰でも入門を許されるわけではありませんから、まず、門のところで「中へ入れてください」と頼まなければなりません。一般的には師がいる家の門には扉があったのでしょう。その扉を叩いて、「開けてください」と言わなければならない。門の扉があろうが、なかろうが、入門を請うことが「門を叩く」ことになります。紅葉の許を訪れた、つまり紅葉の「門を叩いた」鏡花はすぐに入門を認められ、門弟になりましたが、秋聲は入門を許されませんでした。
さて、龍之介が初めて漱石山房の木曜会に出席した、つまり「漱石の門を叩いた」のは、1915年12月。岡田(後の林原)耕三の手引きで、久米正雄といっしょに木曜会に参加し、以後、常連になりました。木曜会はもともと漱石の教え子の集まりで、講義だけでは満足できない、もっと漱石先生の話しを聞きたいという学生たちが集まり、卒業後もやって来る者、友人を連れて来る者もありました。もちろん、首尾良くメシにありつければという者もあったでしょう。私も食事時に引っかかるように先生の家を訪ねたり、昼前の講義の後は先生にくっついて、「ヒルでも食っていくか」という言葉を期待したことがありました。漱石先生の許に集まる者の中には、メシだけでなく、借金まで頼んだ者がありました。けれども、何と言っても漱石の豊富な知識、深い思考、鋭い洞察力に引きつけられて集まって来たことは、間違いありません。龍之介もその一人です。
龍之介が東京帝国大学に学んだ時、漱石はすでに退官していましたから、直接講義を聴くことはできませんでしたが、漱石の講義録『文学論』『文学評論』を読み、憧れを抱き、《夏目さんの文学論や文学評論をよむたびに当時の聴講生を羨まずにはゐられない》(1914年12月21日、井川恭宛書簡)と書いていた龍之介ですから、その漱石に直接会って、話しを聴くことができるなんて、夢のようだったでしょう。
龍之介は「漱石の門を叩いて」、中に入れてもらえました。児童文学に憧れる高校生の私は、坪田譲治(1890~1982年)の「門を叩こう」と、自宅の前まで行って、急に怖気づいて、Uターンしてしまいました。門を叩くことすらしなかった自分の勇気のなさには、自身あきれるばかりです。まあ、こんな人間もいるんですね。
前置きが長く、やっと、みずきさんが聞きたい「新解さん」です。
「新解さん」は三省堂ですから、「漱石の門を叩く」のは、教えを請うより、原稿依頼か、本の注文を取りに来たか、配達か。どちらにしても、営業のにおいがします。けれどもこんなことを書いてしまうと、身もふたもないですから、想像を働かせるならば、「辞書とは何か」「どのような辞書が良いのか」、そして、「語句の説明や用例についての助言」。もし、漱石監修の「新解さん」ができていたら、古今東西、和漢洋、知識がいっぱい詰まった、さらに「漱石造語」も加わった、「読んで楽しい」国語辞典ができていたことでしょう。
木曜会の漱石はどうだったのでしょう。「座談の名手」と言われる漱石のことですから、集まった人たちにうまくしゃべらせ、合間に漱石が語っていたのだろうと思います。この21世紀の木曜会では、そううまい具合にはいかないので、館長の一方的な語りになりますが、ご容赦ください。

さて、今日は平出修の登場です。秘書のおかげで、『日本近代文学大系』(角川書店)に収められている平出修の小説『畜生道』を読むことになりました。弁護士、歌人という知識しか持ち合わせていなかったので、小説というのは、ほんとうにびっくり。恐る恐る読み始めたと言ったところです。
平出は犀星が初めて上京した1910年に発生した大逆事件の弁護人のひとり。啄木と親しく、大逆事件のようすは平出から啄木などを通じ、病床にあった漱石のもとにも伝えられたようです。『畜生道』は事件から二年経った1912年9月、「スバル」に発表されました。この年、天皇が崩御し、元号は大正に変っていました。
私は平出がよくもまあ、大逆事件の弁護人を引き受けたものだと思ってきました。当時の多くの人びとには真実が伝えられず、極悪非道な事件としてのみ報道されていたから、「そんな者を弁護するのか」と非難ゴウゴウだったのではないでしょうか。案の定、『畜生道』には、

國民は激昂して辯護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の辯護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。(略)「おい、首があるかい。少し顔色が靑いなあ。」すると田村が「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には關係出來ますまい」と云つた。

と書かれています。
結局、この小説の主人公「俺」は、少し迷ったが、気が進まないからと言って、弁護の依頼を断ってしまったのですが、すぐに《俺だからよく此依賴を拒絶し得たと云ふ誇がすぐ湧いて來た》。けれどもその後、《人間道から云へば俺はあまり立派でない》と思い直しています。「俺」は大逆事件の弁護を断った江木衷がモデルと言われています。
それから二年。《世間ではそんな事件があつたことさへ忘れてしまつてゐる》にも関わらず、「俺」はとつぜん事件のことを思い出します。「俺」は、もやもやした心の内を愛子に看取られないようにとしています。ここで話は1911年4月に起きた吉原大火に及び、これをきっかけに、救世軍やキリスト教徒、女権論者などが「吉原再興に反対」の声を上げたことが記されています。「俺」が「吉原廃滅などは出来ない相談さ」と語ったことを、愛子が新聞記者にしゃべってしまう。
このような話を出した後、《近頃一部の人から起つてる陪審制度論の根抵がやはりここにある》と続いていきます。人間は鬼神ではない。神通力がない。裁判は事実を認定し、その事実の上に法律を適用する。この事実認定は本来神でなければできない。このような困難なことを裁判官に任せてしまっているのが誤判を生む原因。陪審員も人間であるから誤認があるかもしれないが、陪審制度によって、今よりも正確な事実認定ができると言うのです。今のように、疑わしきは罰するという状況よりはるかに人民は幸福を享ける。これらは「俺」の考え方として展開されていますが、平出の考えでもあろうと私は思います。そしてこうした中に、大逆事件が事実誤認、冤罪であることを匂わせているのではないでしょうか。《先日青木に遇つたら、今の裁判は畜生道だと云つた。「大分酷いことを云ふねえ」と云つて俺は笑つた》。
この後、「俺」の十年ほどの過去が語られ、《俺が初めて愛子の長い髪を撫でたときは、まだ十八の舞妓であつた》と二人の出会い、それから二十年。「俺」は愛子の肉体を得たが、心は愛子に握られてしまった。ある日、上野駅に「俺」を迎えに来た愛子。いっしょに自動車に乗ると、愛子の衣ずれの音、香料の薫が快く官能をそそる。《こんなにされてしまつた俺は今はただ肉體に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。(略)俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるのであろう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ》。
「俺」はその後どうなったかわかりませんが、平出は二年後の1914年3月17日、骨瘍症で死去。37歳。永訣式が神田美土代町の青年会館で行われ、鴎外や馬場孤蝶らとともに、漱石も参列しました。漱石は平出に一度も会ったことがないと考えられますが、それから一か月。漱石は『こころ』を書き始めるのです。
『畜生道』は小説として、必ずしも体をなしているとは言えません。けれども、私はそこに、平出の大逆事件や裁判制度に対する考えを垣間見ることができるのです。「疑わしきは処罰せず」、そして一部に裁判員裁判をもつに至った、現在の裁判のあり方について、平出は「畜生道」から脱したとみるのか、どうなのか。彼にきいてみたいところです。

木曜会でもお互いに刺激を受け合い、おそらく漱石もおおいに刺激を受けたのでしょう。館長も秘書からおおいに刺激を受けています。

木曜会にもぜひ、ご参加ください。漱石と違って、木曜日以外でもご参加いただけます。鏡花・秋聲・犀星に関することでもかまいません。「金沢情報」なども大歓迎です。館長
π爺様、発言ありがとうございます。別館の方は、順次新しい文章を掲載していきます。ゆっくり楽しんでいってください。
ネットを歩き回ってこちらのサイトに行き着きました。これからゆっくり拝見しようとおもいます。

π爺
ギター音吉さん、特別な日の発言、ありがとうございました。漱石が京都を訪れた日々は合計してもそれほど多くないでしょうが、各地に漱石の足跡が残り、水川先生はじめ、漱石研究家、そして漱石愛好家もたくさんおられます。松山を痛烈に表現した漱石。京都の市電もやり玉にあげられていますが、これも漱石の愛情表現なのかと。それにしても、嵯峨野で食べた、本わらび粉でつくったわらび餅は美味しかった。ギター音吉さん、発言、ほんとうにありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。時折、当館に来館、嬉しいです。
ご無沙汰しております。ギター音吉です。
時々「勝手に漱石文学館」を拝見させていただいております。
漱石が没した特別な日に書き込ませていただきます。
今秋関西旅行の折に京都の御池大橋畔の「漱石句碑」を見て来ました。
大正4年の春「道草」連載前に京都へ漱石が滞在の折に詠んだ俳句が彫られていて、句碑に並んで銘板があって興味深かったので旅行後にあれこれ勉強し、整理したものを近々私のブログへ書き込もうと現在準備中です。
句碑は漱石の投宿場所の近くに立てられたそうで、その辺の事情については、以前北野さんが教えてくれた「東京紅団」の漱石の記事も参照しました。そこに大正2年の地図が引用されていて、京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)が当時既にあったことが分かります。
漱石の滞在した旅館は「北大嘉」といい、(きたのたいが)が正解のようですが、江藤淳の「漱石とその時代」第5部では(きたのだいか)とルビがふられています。(206頁)
とか色々勉強になりました。
館長のつぶやきに、三四郎に関連して、七つの旧制高等学校と書いたが、名古屋の方から怒られそうである。三四郎が東京帝国大学に入学したのは、1908年であり、この時、名古屋に第八高等学校が開校した。当然、卒業生を出していないので、七つと記した。泉鏡花や徳田秋聲のふるさと金沢には、第四高等学校があり、県内、北陸だけでなく、中部地方、あるいはその他からも受験生が集まったのであるから、それは狭き門であった。そう考えてみると、三四郎って、ずいぶん優秀だったんだな。
ギター音吉さんのブログは、「北野豊の本」⇒「漱石と歩く東京」と進んでもらえれば、読むことができます。2016年に横浜にある近代文学館で開かれた「漱石展」の様子が記されています。『門』の頃は大曲、『彼岸過迄』になると江戸川橋まで電車が開通し、『明暗』では早稲田へむけて電車の延伸工事がおこなわれている様子が描かれています。「漱石展」の展示では『門』の時に江戸川橋まで電車が来ていたようになっていたかもしれませんが、それぞれの見解を尊重しています。もともと小説は虚構の世界であり、現実に当てはめる時、いろいろな見解があるのも面白いことと、私は考えています。
木曜会への参加者がなかなか訪れないところ、ギター音吉さんに参加していただき、ほんとうにありがとうございました。「ここは違うんじゃない?」とか、「そうだったのか」とか、またいろいろ意見や感想をお寄せください。多くの方がたの参加をお待ちしています。
はじめまして。「ギター音吉」です。検索エンジンで偶然こちらを知りました。また私のブログ紹介もしていただき大変光栄に思います。現在「明暗」について準備中で、近々ブログへアップしたいと思っているところです。
こちらへは時々訪問したいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
ぜひ、木曜会にもご参加を。お待ちいたしております。館長
54人目の来館者様、応援の言葉をありがとうございました。うれしいです。とても励まされます。漱石もこうした励ましの言葉を学生や弟子たちにかけていたのだと思います。
 54人目の来館者です。
 「勝手に漱石文学館」の開館、おめでとうございます。
 館長さんの敏腕運営で、千客万来間違いなし。
 息の長いご活躍を、応援しております。
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