21世紀の木曜会
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発言
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』訂正

 訂正するようなことにならないように、繰り返し確認したのですが、本が出来上がった後に、やはり間違いがみつかってしまいました。さっそく訂正です。

 6ページ上段 鏡花出生地:下新町23番地
 176ページ下段  芥川龍之介が亡くなったのは、
(誤)7月23日⇒(正)7月24日

7ページ下段 うしろから6行目の書名
(誤)『日本の幼児教育につくした宣教師』
⇒(正)『日本の幼児保育につくした宣教師』

出版しました!
三人の東京――鏡花・秋聲・犀星
定価:税込1210円(本体価格1100円+税10%)

ご案内
 金沢の生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星の作品は今も多くの人に愛され、金沢には三文豪の各記念館があり、観光資源として大きな役割を果たしています。三人は、文化・伝統が幾重にも蓄積した金沢の魅力を構成する、重要な要素のひとつになっています。
 ふるさと金沢を愛し、東京に強いあこがれを抱く筆者は、専門の地理的視点を活かし、東京へ出て来た三人と、彼らが描いた東京を、文学散歩と作家論・作品論を織り交ぜ、一冊の本にまとめました。三人がどんなに才能をもっていようと、金沢がどんなにすばらしい街であろうと、上京しなければ「文豪」とよばれるまでになっていなかったでしょう。上京しなかった筆者自身の思いも込めた一冊です。
 今年から来年にかけて徳田秋聲生誕150年、2023年には泉鏡花生誕150年を迎えます。そのような中で、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』が多くの方に読まれることを期待しています。

目次
はじめに 
一.ふるさと金沢 
二.三人の上京 
三.鏡花――紅葉と住んだ神楽坂 
四.『夜行巡査』に描かれた番町・麹町 
五.『婦系図』の舞台 
六.『黴』とたどる秋聲の東京生活 
七.妾として暮らす東京――『爛』 
八.詩に描かれた東京――漂泊する犀星 
九.『或る少女の死まで』――谷根千慕情 
一〇.深川・日本橋を舞台に――『葛飾砂子』と『日本橋』 
一一.『杏っ子』に描かれた関東大震災 
一二.震災後の深川――『深川淺景』 
一三.昭和モダンの東京――『仮装人物』 
一四.杏子の東京――『杏っ子』 
一五.都会と田舎を手に入れた文士――犀星 
一六.秋聲の作品にみる上京者 
一七.上京した人、しなかった人 
一八.秋聲のやさしさ 
一九.犀星、「仮構」の出生が育んだ作家 
あとがき
特集
①逗子を走る ②東京の中の金沢 ③田端・馬込を歩く
休憩室 鏡花、和倉温泉へ行く

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河童忌に因んで、北澤みずきさんが資料提供してくれました。
龍之介の死に際して、犀星が詠んだ一句。
――新竹のそよぎも聴きてねむりしか――
この句に文学者で俳人の関森勝夫先生(1937~)が、つぎのように解説されていると言うのです。
――竹林の葉騒をききながら安んじて寝入っていることだろうと、その穏やかな死顔から、ひと寝入りして再び目覚める人のように表現したのである。――
龍之介の死に大きな衝撃を受けた犀星ですが、何とか俳句だけは創ることができたのでしょうか。
「煤けむり田畑にひらふ螢かな」「足袋白く埃をさけつ大暑かな」
このような句も詠んでいます。
秘書の北澤みずきです。

>新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。

いいえ、館長。私には想像もつかないほどのスケールの大きな旅でしたが、色々なところに連れて行っていただき、多くのことを学ぶことができた楽しい旅でした。
『草枕』は実に奥が深く、そして広がりをもった小説なのですね。
「人情の世」で「小説」を書き、そして「煩い」を切り離すことなどできないと「あるがまま」に受け入れようとする。「則天去私」は大変有名なことばですが、館長のおかげでその意味をより深く理解できたように思います。
新解さんに今もお住まいの漱石は、「非人情」を調べる私たちを喜んで迎えて下さるのですね。そして「この世」も悪くないのだと教えてくれる…。
これからもずっと新解さんに住み続けてほしいです。

>漱石を探してみませんか。

はい!探してみたいです。
お茶をしながらの楽しい時間を、どうもありがとうございました。

【「新解さん」談義③】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

秘書(北澤みずき)
非人情は漱石の造語だとか。新解さんは、「情に掉させば流される」ため、煩わされないように努めているのでしょう。新解さんも『草枕』の主人公のように、非人情の旅に出たいと思っていたりして。館長は非人情という言葉から何を想像されますか。
<参考>
日本国語大辞典や広辞苑でも、新解さんと同じように①は不人情と同じ意味(人情が乏しい、うすいなど)、②として漱石の『草枕』の一部を用例としてあげ語釈を載せています。その一方で、今の時代、不人情や非人情という言葉を国語辞典で調べるのか、とも思います。ますます住みにくくなるこの世の中、新解さん(最新版の国語辞典)もまた悩みを抱え、漱石のつくったことばを国語辞典に残さなくてはと思っているような気がしてなりません(笑)。

館長
「非人情」と言う言葉から、何を想像されますか?うーん(しばらく考え込む)、「人でなし」?「極悪非道な人」?「鬼!」?みずきさんはどんな答えを期待したでしょうか。こんな時は「逃げるは恥だが、役に立つ」方式で、『草枕』へ逃げて行きますよ。
『草枕』の冒頭。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

漱石は「智に働く」人で、「意地を通す」人だったと思いますが、これではいけないと思って、相手のことや周りのことを考えた言動をすると、結局は流されてしまって、人の道に反したことをしてしまったり、自分の個性と言うものがなくなってしまったり、まさに八方塞がり。俺はいったいどうすればいいんだ!とにかくこの人の世は住みにくい。ところが、

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒 両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

つまり、この人の世が住みにくいからと言って、どこへも行くところがない。行くとしたら、「人でなしの国」つまり「非人情の国」しかないですね。文脈からすれば、「人でなしの国」は「神の国」か「鬼の国」(天国か地獄、あるいは極楽か地獄)、要は「この世」に対する「あの世」です。新解さんが「非人情」の旅に出たいと思っているとしたならば、それは死出の旅に発ちたいと思っていることです。
じつは新解さんだけじゃない。漱石だって、「死んで太平を得る」と思って、「死ぬこと」に憧れを持ち、死んだら万歳のひとつも唱えてくれとまで言っています。だって、「非人情」の世界へ行けば、一切の煩わしさから解放されるのです。けれども、漱石はこのように言っていますよ。「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」と。
漱石は「非人情」の世界に憧れているけれど、「人情」の世界を受け入れて、そこでしっかり生きていこう、そう思っているのです。漱石は自死することを否定しています。そして、自分の与えられた生命が尽きる時には、『吾輩は猫である』の最期の部分にあるように、「死」を受け入れ、すべてを阿弥陀仏に委ねて逝ってしまおう。さすが、親鸞を尊敬し、真宗の教えを受け止めた漱石です。
そして、先ほどの引用文の前に、下記のような一文があります。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

つまり、「非人情」の世界に行きたいけれど、行くことができないから、「人情」の世界で生きていかなければならない。けれどもみんなに流されて行ったら、自分と言うものがなくなってしまう。他の人とは違った、「自分」というものをしっかり発揮できるのが「詩」であり「絵画」であると、漱石は言うのです。漱石はその自分らしさを「小説」の世界に見出したのです。
長くなります。続きはまたお話ししましょうね。『草枕』は芸術論から、真宗にまで及びますよ。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
前回は、『草枕』の《住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る》という、漱石の「芸術論」が凝縮されたような一文を紹介し、「人情」の世界で生きていかなければならないと覚悟した時、他の人とは違った、自分らしさを発揮する場として、「詩」や「絵画」が生まれた。そして漱石はそれを「小説」の世界に見出したのです、というところで話しは終わっていました。その続きです。
漱石は「小説」の世界に逃げ込んだのではありません。「人情」の世を精一杯生きるために、「小説」を書くという道を得たのです。『草枕』には、

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

まさに漱石は小説家という天職を得て、人の心を豊かにする使命をまっとうしていったのです。そして、『草枕』が書かれた時期を考えれば、このようなことを書きながら、漱石は芸術の存在を許さない勢力、許さない風潮が大きくなって来ていることに危機感をおぼえ、警鐘を鳴らしていたと、私は推察しています。
『草枕』は、けっして長編の小説ではありませんが、ほんとうに奥が深く、話したいことはいっぱい出てきます。さて、この一文。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

うまいですね、この表現。みずきさんも俳句に関心があるから、ピピっと来るでしょうが、正岡子規の俳句、「写生」ですね。もちろん、漱石は子規をまねたのではありません。ふたりに共通する考えで、その基盤に真宗、とりわけ清沢満之(きよさわまんし、1863~1903年)の影響がありました。ふたりの間で「親鸞上人」と言えば、満之を指していたと言われるくらい、傾倒していたのです。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。
もう少し、話しが続くので、ここでお茶でも飲んで、ひと休みしましょう。


【「新解さん」談義③つづき】
ひにんじょう【非人情】②〔夏目漱石の説〕人情から超越して、それに煩わされないようにすること。

館長
それでは、再開。
「ただまのあたり」に見る。これが、「写生」の本質であり、子規の俳句の真髄です。そして、「写生」というのは、ただ見たままに描くのではなく、あくまでも《住みにくき煩いを引き抜いて》見るのです。これが「則天去私」ということです。――とは言っても、人間は「人情」の世の中に生きているわけですから、いつも《住みにくき煩いを引き抜いて》生きていくわけにいきません。漱石も四十数年生きて来て、「煩い」はひとつ去っても、またやって来ることに気づきます。『道草』のテーマです。けれども、漱石はその道筋を『草枕』の中ですでに解き明かしています。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

二十歳から、二十五歳、三十歳と、段階的に進化している様子がわかります。それは、真宗を学びながら、漱石が平静を得る方法を段階的につかみ取っていった過程を示しているのかもしれません。
まず、「人情の世」である「憂世」「厭世」が肯定的に捉えられ、続いて、この世の「明」と「暗」、「生」と「死」、「楽」と「苦」が表裏一体のものとして捉えられています。二つの相反するものの一方だけを取り除こうとしても、紙から裏面だけ切り離そうとしてもムリなように、人生から「暗」だけ、「死」だけ、「苦」だけ、「煩い」だけ取り除こうともがいても、所詮、切り離すことができないものだから、ムリなものはムリ。ムリを通そうとするから、苦悩は増すばかり。ともに「あるがまま」に受け入れていくことが、平静を得る道なのだ、と。
そして、第三段階において、「生」と「死」、「苦」と「楽」。表裏一体の一方が強ければ、反対のものも強くなければならない。「プラス」が強くなればなるほど、「マイナス」もまた強くなっていかなければならない。光りが明るければ明るいほど、その影は暗く深くなっていく。つまり、大きな喜びの陰には、大きな悲しみが潜んでいる。逆に言えば、大きな悲しみの時に、大きな喜びが付き添っていてくれるのです。「悲しみが大きい」と悲嘆にくれなくても、よく見ると、普段より増して「喜び」が輝きを放っている。このようにして私たちは、「悲しみ」もまた「あるがまま」に受け入れていけるようになるのです。この発見は、人生において平静を得る真髄のように私には思われます。

漱石は、良い成果を得ようとすればするほど、その反対に神経衰弱が昂じて破滅の道にむかって行きました。つまり、「生の欲望が強くなればなるほど、不安もまた強くなってくる」ということです。そして漱石は、「死へのあこがれが強くなればなるほど、生への欲望もまた強くなった」のであろうと思います。
後に、森田正馬は「神経衰弱」を「生への欲望」と捉え、神経衰弱の治療に役立てていこうとする「森田療法」を生み出していきます。森田は第五高等学校で漱石の英語授業を受けています。
このように、「プラス」と「マイナス」が背中合わせに同居している状態を漱石は「諷語(ふうご)」と呼んでいます。「諷語」という言葉は、『吾輩は猫である』のすぐ後に発表した『趣味の遺伝』で登場しています。つまり、『草枕』を発表する前に、つかみとっていたのです。

諷語は皆表裏二面を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう。(略)表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。

というように漱石は「諷語」について述べ、さらに、《滑稽の裏には真面目がくっ付いている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談の底には啾々たる鬼哭が聞える》という例を挙げ、やがて親友の恋人と判明する寂光院の女を、「諷語」の中に説明しています。
みずきさん。
新解さんの「非人情」の旅は、とんでもない方向へ行ってしまったでしょうか。漱石が『吾輩は猫である』を書いたのは、38歳になろうとする頃でした。『草枕』は40歳くらい。ただただ、すごい人としか言いようがないですね。
すでに「非人情」の世界に住んでいる漱石。「住みにくい世界だなあ」と退屈しているかもしれません。漱石は「生命の永遠性」を信じていましたから、今頃はまた、退屈しのぎに「人情」の世界に舞い戻っているかもしれません。
ほら、そこに……
漱石を探してみませんか。
秘書の北澤みずきです。

「漱石張りの文章」は、水村美苗さんの『続明暗』ときましたか。これ、館長への質問を考えている時に私が予想していた通りの答え。とってもうれしいです!しかしながら私も『続明暗』を読んでおりません。何となく気が進まず、時間だけが過ぎてしまいました。
あっ、漱石の『明暗』もちゃんと読んでいなかった…館長、ごめんなさい。漱石の作品で読んでいないものがあるなんて、秘書失格ですね。これから読みますので、どうかお許しください。
代わりに水村美苗さんの『母の遺産―新聞小説』より。主人公の美津紀が「どうして母はあのような人間だったのか」と思いめぐらすシーンがあります。
そう。そもそも祖母が自分の身をあのように「お宮さん」と重ねなければ、母がこの世に生を受けることもなかった。祖母があの新聞小説さえ読まなければ、息子の家庭教師と駆け落ちなどをすることもなかった。そうすれば、母だけでなく、母の娘たちもこの世に生を受けることはなかった。(中略)思えば、美津紀自身が新聞小説の落とし子であった。
この「新聞小説」とは何の作品か、もちろんおわかりですよね。尾崎紅葉の『金色夜叉』。
『母の遺産―新聞小説』は水村美苗さん自身の体験を交えて描かれています。実際のお母様、お祖母様はどうだったのか。小説ですから、その人物造形はよりわかりやすい方向でデフォルメされていったであろうと思います。けれども『金色夜叉』が読売新聞に連載されていた当時、世の女性たちは自分と「お宮さん」を重ね、夢中になって読んだのではないでしょうか。そして『金色夜叉』という新聞小説がなければこの世に存在しなかった水村美苗さんが、その後、漱石になりきって『続明暗』を書く。紅葉と漱石はこんなところでもつながっているのです。
本当はこの話、来年1月17日の紅葉忌につぶやこうかなと考えていたのですが、私が質問したばかりに、何だか先を越されてしまった感じです。やっぱり館長はすごいです。大変尊敬しております。
【「新解さん」談義②】
ばり【張り】②有名な人に似ていること。「漱石―の文章」

秘書(北澤みずき)
「漱石張りの文章」ですか。新解さんは、きっと漱石のファンで、漱石に憧れているのですね。館長はどんな文章が「漱石張り」だと思われますか。

館長
みずきさんのこの質問にはズバリ!水村美苗さんの『続明暗』でしょう。漱石が生きていたらこんな風に書くだろうと、文体も含めて漱石になりきって書いたのですから、「漱石張りの文章」の典型みたいなものです。
こんなこと書いて、きわめて言いにくいのですが、私は『続明暗』を読んだことがないのです。水村さんには悪いけれど、読む気がしないのです。『明暗』は未完になっているけれど、あそこで完結です。余韻を残しながらうまく収まっています。後は自分で想像すれば良いことで、誰かに書いてもらう必要はありません。そもそも、『明暗』は作者が亡くなったから未完ということになったけれど、『三四郎』だって、彼の人生は続くのだから、未完なのです。『続三四郎』があっても良いのです。漱石の作品で「完」になったのは、『吾輩は猫である』くらいでしょう。吾輩が死んでしまったのですから。
かつて私は『吾輩は豚である』という短編小説を書きました。何の評価もされませんでした。それに対して『続明暗』がきわめて高い評価を受けているのは、漱石作品の「パロディもの」ではあるけれど、一個の作品、小説として、きわめて完成度が高いからではないでしょうか。
みずきさんが、『続明暗』を読んでいたら、ぜひ感想を聞かせてください。
ところで、漱石自身「〇〇張りの文章」を書いたことがあります。漱石は尾崎紅葉程度の作品なら自分にも書けると思っていたようですが、鏡花の独特の世界観を自分は持ち合わせていないと、一目も二目もおいていたようです。1907年、大学を辞め、朝日新聞に入社し、いよいよ職業作家として生き始めた漱石が、最初に書いたのが『虞美人草』。鏡花はその年、1月から4月まで「やまと新聞」に『婦系図』を連載していました。漱石は「俺も小説を書くのだ」と意気込んで、「鏡花張りの文章」で『虞美人草』を書き始めました。こうして、『虞美人草』は6月23日から10月29日まで「朝日新聞」に連載されました。
まさに、漱石の挑戦でした。漱石は「鏡花張り」の美文調で、最後まで崩れることなく、書き切りました。もちろんそれは鏡花の模倣ではありません。完全に漱石の作品です。しかしながら、漱石の作品の中で『虞美人草』はまったく異質。
漱石にとって「鏡花張り」とは、「鏡花と張り合った」という意味になるのではないでしょうか。
漱石と鏡花。二人は良きライバルであり、お互いに尊敬し合っていたのではないか、私はそう思うのです。
【「新解さん」談義①】
たたく【叩く】漱石の門を―(=教えを請うためにたずねる)

秘書(北澤みずき)
「漱石の門を叩く」となると、新解さんは、漱石にどんな教えを請おうとしたのでしょうか。何に悩んでいたのでしょうか。小説を書きたいと思っていたのか。館長の考えをお聞かせ願います。

館長
「漱石の門を叩く」。秘書の真面目な問いかけに、「漱石の自宅(つまり漱石山房)に門があっただろうか」と、こんな疑問が湧いてくるのは、館長として失格かもしれませんね。でも、調べてみましたよ。
芥川龍之介の『東京小品』の中の「漱石山房の秋」によると、漱石山房の門には電燈がともっているが、柱に掲げた標札はほとんど有無さえ判然としない状況であることが書かれており、確かに門はありました。その門をくぐり、砂利と落葉を踏んで玄関へ来ると、壁面はことごとく蔦に覆われ、呼鈴のボタンさえ探さなければならない状態であったようです。この後、客間に行くのですが、雨漏りの痕と鼠の食った穴とが白い張り紙の天井に残っている有様。
こうして、やっと漱石の居室までたどり着くと、二枚重ねの座蒲団の上には、どこか獅子を想わせる背の低い半白の老人。手紙の筆を走らせ、あるいは唐本の詩集を飜したりしながら、端然とひとり座っている。その人こそ文豪夏目漱石。49歳にして、老人なのか。けれども『東京小品』は1916年に書かれており、無論、本人は知る由もないけれど、漱石死去のカウントダウンが始まっているのですから、老人に思われても不思議ないかもしれません。龍之介は《漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであった》と、結んでいます。
「門を叩く」。これは正確には「門の扉(あるいは戸)を叩く」でしょう。漱石山房の門に扉や引き戸があったかわかりませんが、あったとしてもカギはかかっておらず、玄関の呼鈴を押して、中から出て来てもらいました。「漱石の門を叩く」は、実は「漱石の玄関の呼鈴を押す」ことだったんですね。
もちろん、みずきさんが求めていたのは、このような答えではありません。もともと「門を叩く」のもとになる「門」は、論語に由来すると言われています。孔子の弟子である子貢が、師である孔子より自分の方が優れていると噂されたことに対し、「屋敷に例えるなら、私の塀は肩くらいの高さで、中を覗くことができるけれど、師の塀はずっと高いので、きちんと門から入って(中を)見なければ、偉大さがわからない」と答えたとのことで、師(先生)の教えを請う(乞う)ため、その許を訪れることが「入門」ということになります。もちろん誰でも入門を許されるわけではありませんから、まず、門のところで「中へ入れてください」と頼まなければなりません。一般的には師がいる家の門には扉があったのでしょう。その扉を叩いて、「開けてください」と言わなければならない。門の扉があろうが、なかろうが、入門を請うことが「門を叩く」ことになります。紅葉の許を訪れた、つまり紅葉の「門を叩いた」鏡花はすぐに入門を認められ、門弟になりましたが、秋聲は入門を許されませんでした。
さて、龍之介が初めて漱石山房の木曜会に出席した、つまり「漱石の門を叩いた」のは、1915年12月。岡田(後の林原)耕三の手引きで、久米正雄といっしょに木曜会に参加し、以後、常連になりました。木曜会はもともと漱石の教え子の集まりで、講義だけでは満足できない、もっと漱石先生の話しを聞きたいという学生たちが集まり、卒業後もやって来る者、友人を連れて来る者もありました。もちろん、首尾良くメシにありつければという者もあったでしょう。私も食事時に引っかかるように先生の家を訪ねたり、昼前の講義の後は先生にくっついて、「ヒルでも食っていくか」という言葉を期待したことがありました。漱石先生の許に集まる者の中には、メシだけでなく、借金まで頼んだ者がありました。けれども、何と言っても漱石の豊富な知識、深い思考、鋭い洞察力に引きつけられて集まって来たことは、間違いありません。龍之介もその一人です。
龍之介が東京帝国大学に学んだ時、漱石はすでに退官していましたから、直接講義を聴くことはできませんでしたが、漱石の講義録『文学論』『文学評論』を読み、憧れを抱き、《夏目さんの文学論や文学評論をよむたびに当時の聴講生を羨まずにはゐられない》(1914年12月21日、井川恭宛書簡)と書いていた龍之介ですから、その漱石に直接会って、話しを聴くことができるなんて、夢のようだったでしょう。
龍之介は「漱石の門を叩いて」、中に入れてもらえました。児童文学に憧れる高校生の私は、坪田譲治(1890~1982年)の「門を叩こう」と、自宅の前まで行って、急に怖気づいて、Uターンしてしまいました。門を叩くことすらしなかった自分の勇気のなさには、自身あきれるばかりです。まあ、こんな人間もいるんですね。
前置きが長く、やっと、みずきさんが聞きたい「新解さん」です。
「新解さん」は三省堂ですから、「漱石の門を叩く」のは、教えを請うより、原稿依頼か、本の注文を取りに来たか、配達か。どちらにしても、営業のにおいがします。けれどもこんなことを書いてしまうと、身もふたもないですから、想像を働かせるならば、「辞書とは何か」「どのような辞書が良いのか」、そして、「語句の説明や用例についての助言」。もし、漱石監修の「新解さん」ができていたら、古今東西、和漢洋、知識がいっぱい詰まった、さらに「漱石造語」も加わった、「読んで楽しい」国語辞典ができていたことでしょう。
木曜会の漱石はどうだったのでしょう。「座談の名手」と言われる漱石のことですから、集まった人たちにうまくしゃべらせ、合間に漱石が語っていたのだろうと思います。この21世紀の木曜会では、そううまい具合にはいかないので、館長の一方的な語りになりますが、ご容赦ください。

さて、今日は平出修の登場です。秘書のおかげで、『日本近代文学大系』(角川書店)に収められている平出修の小説『畜生道』を読むことになりました。弁護士、歌人という知識しか持ち合わせていなかったので、小説というのは、ほんとうにびっくり。恐る恐る読み始めたと言ったところです。
平出は犀星が初めて上京した1910年に発生した大逆事件の弁護人のひとり。啄木と親しく、大逆事件のようすは平出から啄木などを通じ、病床にあった漱石のもとにも伝えられたようです。『畜生道』は事件から二年経った1912年9月、「スバル」に発表されました。この年、天皇が崩御し、元号は大正に変っていました。
私は平出がよくもまあ、大逆事件の弁護人を引き受けたものだと思ってきました。当時の多くの人びとには真実が伝えられず、極悪非道な事件としてのみ報道されていたから、「そんな者を弁護するのか」と非難ゴウゴウだったのではないでしょうか。案の定、『畜生道』には、

國民は激昂して辯護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の辯護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。(略)「おい、首があるかい。少し顔色が靑いなあ。」すると田村が「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には關係出來ますまい」と云つた。

と書かれています。
結局、この小説の主人公「俺」は、少し迷ったが、気が進まないからと言って、弁護の依頼を断ってしまったのですが、すぐに《俺だからよく此依賴を拒絶し得たと云ふ誇がすぐ湧いて來た》。けれどもその後、《人間道から云へば俺はあまり立派でない》と思い直しています。「俺」は大逆事件の弁護を断った江木衷がモデルと言われています。
それから二年。《世間ではそんな事件があつたことさへ忘れてしまつてゐる》にも関わらず、「俺」はとつぜん事件のことを思い出します。「俺」は、もやもやした心の内を愛子に看取られないようにとしています。ここで話は1911年4月に起きた吉原大火に及び、これをきっかけに、救世軍やキリスト教徒、女権論者などが「吉原再興に反対」の声を上げたことが記されています。「俺」が「吉原廃滅などは出来ない相談さ」と語ったことを、愛子が新聞記者にしゃべってしまう。
このような話を出した後、《近頃一部の人から起つてる陪審制度論の根抵がやはりここにある》と続いていきます。人間は鬼神ではない。神通力がない。裁判は事実を認定し、その事実の上に法律を適用する。この事実認定は本来神でなければできない。このような困難なことを裁判官に任せてしまっているのが誤判を生む原因。陪審員も人間であるから誤認があるかもしれないが、陪審制度によって、今よりも正確な事実認定ができると言うのです。今のように、疑わしきは罰するという状況よりはるかに人民は幸福を享ける。これらは「俺」の考え方として展開されていますが、平出の考えでもあろうと私は思います。そしてこうした中に、大逆事件が事実誤認、冤罪であることを匂わせているのではないでしょうか。《先日青木に遇つたら、今の裁判は畜生道だと云つた。「大分酷いことを云ふねえ」と云つて俺は笑つた》。
この後、「俺」の十年ほどの過去が語られ、《俺が初めて愛子の長い髪を撫でたときは、まだ十八の舞妓であつた》と二人の出会い、それから二十年。「俺」は愛子の肉体を得たが、心は愛子に握られてしまった。ある日、上野駅に「俺」を迎えに来た愛子。いっしょに自動車に乗ると、愛子の衣ずれの音、香料の薫が快く官能をそそる。《こんなにされてしまつた俺は今はただ肉體に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。(略)俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるのであろう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ》。
「俺」はその後どうなったかわかりませんが、平出は二年後の1914年3月17日、骨瘍症で死去。37歳。永訣式が神田美土代町の青年会館で行われ、鴎外や馬場孤蝶らとともに、漱石も参列しました。漱石は平出に一度も会ったことがないと考えられますが、それから一か月。漱石は『こころ』を書き始めるのです。
『畜生道』は小説として、必ずしも体をなしているとは言えません。けれども、私はそこに、平出の大逆事件や裁判制度に対する考えを垣間見ることができるのです。「疑わしきは処罰せず」、そして一部に裁判員裁判をもつに至った、現在の裁判のあり方について、平出は「畜生道」から脱したとみるのか、どうなのか。彼にきいてみたいところです。

木曜会でもお互いに刺激を受け合い、おそらく漱石もおおいに刺激を受けたのでしょう。館長も秘書からおおいに刺激を受けています。

木曜会にもぜひ、ご参加ください。漱石と違って、木曜日以外でもご参加いただけます。鏡花・秋聲・犀星に関することでもかまいません。「金沢情報」なども大歓迎です。館長
π爺様、発言ありがとうございます。別館の方は、順次新しい文章を掲載していきます。ゆっくり楽しんでいってください。
ネットを歩き回ってこちらのサイトに行き着きました。これからゆっくり拝見しようとおもいます。

π爺
ギター音吉さん、特別な日の発言、ありがとうございました。漱石が京都を訪れた日々は合計してもそれほど多くないでしょうが、各地に漱石の足跡が残り、水川先生はじめ、漱石研究家、そして漱石愛好家もたくさんおられます。松山を痛烈に表現した漱石。京都の市電もやり玉にあげられていますが、これも漱石の愛情表現なのかと。それにしても、嵯峨野で食べた、本わらび粉でつくったわらび餅は美味しかった。ギター音吉さん、発言、ほんとうにありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。時折、当館に来館、嬉しいです。
ご無沙汰しております。ギター音吉です。
時々「勝手に漱石文学館」を拝見させていただいております。
漱石が没した特別な日に書き込ませていただきます。
今秋関西旅行の折に京都の御池大橋畔の「漱石句碑」を見て来ました。
大正4年の春「道草」連載前に京都へ漱石が滞在の折に詠んだ俳句が彫られていて、句碑に並んで銘板があって興味深かったので旅行後にあれこれ勉強し、整理したものを近々私のブログへ書き込もうと現在準備中です。
句碑は漱石の投宿場所の近くに立てられたそうで、その辺の事情については、以前北野さんが教えてくれた「東京紅団」の漱石の記事も参照しました。そこに大正2年の地図が引用されていて、京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)が当時既にあったことが分かります。
漱石の滞在した旅館は「北大嘉」といい、(きたのたいが)が正解のようですが、江藤淳の「漱石とその時代」第5部では(きたのだいか)とルビがふられています。(206頁)
とか色々勉強になりました。
館長のつぶやきに、三四郎に関連して、七つの旧制高等学校と書いたが、名古屋の方から怒られそうである。三四郎が東京帝国大学に入学したのは、1908年であり、この時、名古屋に第八高等学校が開校した。当然、卒業生を出していないので、七つと記した。泉鏡花や徳田秋聲のふるさと金沢には、第四高等学校があり、県内、北陸だけでなく、中部地方、あるいはその他からも受験生が集まったのであるから、それは狭き門であった。そう考えてみると、三四郎って、ずいぶん優秀だったんだな。
ギター音吉さんのブログは、「北野豊の本」⇒「漱石と歩く東京」と進んでもらえれば、読むことができます。2016年に横浜にある近代文学館で開かれた「漱石展」の様子が記されています。『門』の頃は大曲、『彼岸過迄』になると江戸川橋まで電車が開通し、『明暗』では早稲田へむけて電車の延伸工事がおこなわれている様子が描かれています。「漱石展」の展示では『門』の時に江戸川橋まで電車が来ていたようになっていたかもしれませんが、それぞれの見解を尊重しています。もともと小説は虚構の世界であり、現実に当てはめる時、いろいろな見解があるのも面白いことと、私は考えています。
木曜会への参加者がなかなか訪れないところ、ギター音吉さんに参加していただき、ほんとうにありがとうございました。「ここは違うんじゃない?」とか、「そうだったのか」とか、またいろいろ意見や感想をお寄せください。多くの方がたの参加をお待ちしています。
はじめまして。「ギター音吉」です。検索エンジンで偶然こちらを知りました。また私のブログ紹介もしていただき大変光栄に思います。現在「明暗」について準備中で、近々ブログへアップしたいと思っているところです。
こちらへは時々訪問したいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
ぜひ、木曜会にもご参加を。お待ちいたしております。館長
54人目の来館者様、応援の言葉をありがとうございました。うれしいです。とても励まされます。漱石もこうした励ましの言葉を学生や弟子たちにかけていたのだと思います。
 54人目の来館者です。
 「勝手に漱石文学館」の開館、おめでとうございます。
 館長さんの敏腕運営で、千客万来間違いなし。
 息の長いご活躍を、応援しております。
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