館長のつぶやき
つぶやき
デイリーBOOKウォッチ(2019年2月27日)に、「夏目漱石がもしも、森田療法を受けていたら・・・」というタイトルを見つけました。これは、山崎光夫著『胃弱・癇癪・夏目漱石』(講談社、2018年10月10日)を紹介したものです。当館にも、「漱石気分」の「8.漱石は精神病だった?➂」および、「漱石こぼれ話」の「24.浄土真宗の教えから語る漱石」に漱石と森田療法の関係について記しています。参照していただければ嬉しいです。
もうすぐ10月。1910年の漱石はこの時期、まだ修善寺に療養生活を送っていました。1923年の犀星は震災後、まだ金沢へ戻ることも出来ず、田端にいました。きっと、朝子の泣き声が聞こえたことでしょう。別館三文豪、犀星の部屋に、4.文壇に地位を築く、を掲載しました。昭和戦前の犀星を紹介しています。
先日、NHKの「ダーウィンが来た」に登場したカエルの映像について、漱石の『門』という作品に描写されていることを紹介しました。NHKの番組スタッフにもそのことを紹介しましたら、この度、丁寧なお礼のハガキが番組スタッフから届きました。やはり嬉しいものですね。今月の番組では、東京の生き物たちがけっこう出てくるようです。蛍は出てくるかな。漱石は『それから』で、電灯がつくようになり、明るくなったので、最近は蛍をあまり見かけないというような記述をしています。百年以上前のことです。さすが漱石というか、このようなところまでも観察していたんですね。
今朝、九月一日の某紙コラムに、石井正己著「文豪たちの関東大震災体験記」などを引用した文章が掲載されていました。芥川は夏目漱石の書1軸を風呂敷に包んだだけで避難準備。泉鏡花は観音像を、井伏鱒二はカンカン帽を持ち出したと。谷崎潤一郎が箱根で関東大震災に遭ったことにも触れられています。自然の脅威を私たちは止めることができませんが、災害をなくし、あるいは被害を減らして行くことは、できそうです。防災の日、そして二百十日。九月も気が抜けません。
おかげさまで来館者が3万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。ところで、九月一日は関東大震災が発生した日です。これに合わせて、鏡花、秋聲、犀星、三人の関東大震災について、別館三文豪に文章を掲載しました。潔癖症の鏡花がどのように避難生活を送ったか、娘が生まれて間もない犀星の不安な震災体験、金沢にいて大震災を体験しなかった秋聲、三人三様の関東大震災を紹介しています。芥川龍之介も出てきます。よろしく。
今日、8月27日は岩波茂雄の誕生日です。1881年に生まれました。森田草平と同じ年です。 学生時代、5歳年下の藤村操の自死に大きな衝撃を受けました。岩波書店を創立した茂雄ですが、漱石なくして、今日の岩波書店はなかったと言えるでしょう。「今日は何の日」みたいですが、今日8月27日は、1881年に岩波書店を創立した岩波茂雄の生まれた日です。
8月18日、日曜日放送の「ダーウィンが来た」。今回は東京に住んでいるツバメやタヌキなどが登場しました。その中に、カエルが産卵のために移動する姿がありました。メスのカエルの上にオスが乗って、平地ばかりではありませんし、落ちてしまうもの。車や人間に踏まれるかもしれません。まさに生命がけの移動です。しかもこの移動にカエルの未来がかかっているのです。その場面を観ながら、ふと思い出したのが漱石の『門』の一場面です。紀尾井坂に近い清水谷公園の方から、外濠の弁慶濠の方に向かってカエルが大移動するのです。『門』22。宗助が坂井の家を訪れる。話し好きの坂井はこんなことを話し始める。--「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別に御目出度もありませんが、其所が物は比較的なところでね。私は何時か清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。(中略)彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流れの中に、春先になると無数の蛙が生まれるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互いの睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数が殆んど勘定しきれない程多くなるのだそうである。「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分からないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。(後略)」--しかしながら、安井が坂井とつながっている以上、友人安井の妻を奪った宗助は、安井に頭を破られるのではないかという不安が、蛙の話しから大きく膨らんでしまうのです。「ダーウィンが来た」がまさか漱石に結びつくとは思ってもみませんでした。あらためて、カエルの夫婦が大群でゆっくりと行進する様が思い起こされます。
残暑お見舞い申し上げます。と言っても、この残暑の季節が十月までも続くようになりました。子どもの頃には、お盆を過ぎると秋の気配を感じるようになっていたものですが。それにしても、この年令になっても、八月の下旬というのは、夏休みが終わってしまう憂鬱が思い出され、何となく気分がすぐれなくなってしまいます。終戦の日を前後して、当時を振り返るさまざまな番組や記事が目に止まります。考えてみれば、すべて漱石の死後のことであるわけです。今、八十歳を超えるのが当たり前のようになっているわけですから、漱石も戦争を経験し、終戦を迎えていたとしても不思議はありません。もしそうであったなら、漱石はどのような思いで、終戦を迎えたでしょうか。
金沢には三文豪それぞれの記念館があります。泉鏡花記念館では、企画展、「みんみいー泉鏡花が愛した少女ー」。みんみいは7歳でこの世を去った、鏡花の家の筋向かいの女の子。9月1日まで。徳田秋聲記念館では、「室生犀星生誕130年記念企画展ー徳田さんと僕」11月4日まで。室生犀星記念館では、室生犀星の生誕130周年記念展「犀星発句道」11月10日まで。詳しくは各記念館のホームページで確認してください。
「漱石と歩く東京」112ページ。銀座資生堂前にある交番ですが、すでに廃止されました。資生堂前が何かすっきりした感じですが、歴史ある交番がなくなるのは寂しい感じがします。なお、近隣の銀座八丁目交番は明治の頃から、ほぼ変わらないところに存在しています。同書を書いてすでに八年ほど経過しているため、変化していることもあります。気がつき次第、つぶやいていきます。情報提供もお待ちしています。
昨日、思い切って上野精養軒で食事をしました。漱石の作品にもたびたび登場する精養軒。その頃から、高級でおカネがないと入れない。漱石も経済格差を描く物差しとして作品に登場させていました。精養軒で食事をできるようになると、何となく格が上がったような。そんなわけで、何回も精養軒の前まで行って引き返し、不忍池の方から見上げたり。一度も中へ入ることなく過ぎてきました。そして昨日。ついに意を決して中へ。手頃と言っても昼食にはかなり高い1600円余のオムハヤシライス。お昼時で、しばらく待たされてから案内されたのは店の片隅の席。ちょっぴりいじけた気持ちになりましたが、何と食堂全体を見渡すことができる特等席ではありませんか。食べたとたん、薄いと感じた味でしたが、肉は臭みなく、軟らかく、程よく脂身を含み。不自然に味付けや匂い付けされた感じがなく、素直な味。食べ終わった時の満腹感はありませんでしたが、満足感はバッチリ。さすがでした。その後、充たされた思いで谷根千を歩きました。
現在、勝手に漱石文学館の別館を建設中です。ここには、加賀百万石の城下町金沢が生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星に関する私の文章を順次、掲載する予定です。漱石の作品は、今でもよく読まれていますが、鏡花の作品は今でも、とくに演劇において、よく上演されています。犀星の『蜜のあはれ』は現在の作品としても、じゅうぶん通用する作品です。金沢に興味のある方も、開館したら、ぜひ訪ねてみてください。
『漱石と歩く東京』の訂正です。

第4章 上野を歩く
 塩原昌之助の家 73ページ
 日根野れん(平岡れん)の学歴について、1888年に東京で初めて高等女学校(後の第一高等女学校、現在の白鴎高校)ができると、さっそく入学し、卒業を果たしている。高等女学校は現在の白鴎高校の位置にあたるので、下谷区西町の塩原家から300m程の、きわめて近い所であった、と記述してあります。しかし、その後の調べで、東京府高等女学校(1888年設立)が現在の白鴎高校の位置に移転したのは1903年で、それまで築地にあったことがわかりました。したがって、塩原家から近いという記述は誤りです。れんは片道4km近い道を通学したことになります。徒歩が当たり前の時代、通えない距離ではありませんが、ここでもうひとつ、1882年設立された東京女子師範学校附属高等女学校(1886年、官立東京高等女学校に改組)が竹橋にあったことを私は知りました。地下鉄東西線九段下・大手町の間に「竹橋」という駅があります。築地より1km以上近く、れんが1885、6年頃に陸軍中尉(あるいは少尉)平岡周造(1860~1909年)と結婚したことを考えれば、竹橋の高女へ通っていた可能性が高いかもしれません。この高女には、後に三宅雪嶺の妻になる花圃も同じ頃に在籍、卒業しています。
 
第5章 浅草・両国を歩く
 吉原(新吉原) 81ページ6行目
 (誤)日本橋分署⇒(正)日本堤分署

静岡県中部、お茶処を抱える牧之原市の教育委員会が発行している文芸まきのはら第13号に、文人俳句夏目漱石五十選が掲載された。書いたのは大石孝さん。漱石の学生時代から、漱石山房まで、時代を追って、作られた俳句から50句を紹介。解説を加えている。楽寝昼寝われは物草太郎なり、という句も紹介されている。生き残る吾恥かしや鬢の霜、という、二人の兄が早く逝ったことと、修善寺の大患をくぐり抜けた漱石の心境を詠んだものもある。漱石の新たな一面を知ることができる大石孝さんの文章だった。
いよいよ10連休。東京の街歩きをされる方も多いのではないかと思います。
神楽坂を歩かれる時には、ぜひ文悠書店へ寄ってみてください。『漱石と歩く東京』を販売しています。黄色い表紙が目印です。文悠書店さんは、リニューアルされたとのことです。漱石はよく坂を描いています。
漱石山房記念館の入館者が2月27日に6万人に達したそうです。おめでとうございます。当文学館は比較するべくもないかもしれませんが、おかげで、2万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。今日は、お彼岸の中日で、彼岸過迄という小説の題名を思い出しますが、今日は漱石の長兄大助の命日です。漱石より10歳年長の大助は、1887年、肺結核によって、31歳で亡くなりました。このような情報を提供してくれる「日めくり漱石」は当文学館のリンクから直接アクセスすることができなくなりました。リンクからアクセスすると、サライのページに入りますので、検索のところで、「日めくり漱石」と入力して検索してみてください。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と浄土真宗に関する話を公開する予定です。今後とも勝手に漱石文学館を、よろしくお願い申し上げます。
ある方から質問されました。なぜ2月だけ28日なのか。全部30日にして、はみ出す5日を31日ある月にして、うるう年だけ、31日ある月が6回あるようにすれば良い。確かに。さて、2月28日、漱石を朝日新聞に引っ張った池辺三山の命日。1912年2月28日、三山が亡くなった。49歳。午後11時頃、その報を受けた漱石は人力車で三山の自宅へ向かった。同じ牛込区の若松町に三山の自宅があった。その漱石も4年後、49歳で亡くなった。
旧制一高で論理学を教えた松本源太郎のえんま帳が福井県で見つかった。漱石の成績は一学期80点、二学期90点で、30人ほどの受講生でトップ。けれど、二学期だけで言うと、米山保三郎が94点と、漱石の成績を上回る。米山は金沢の出身で、漱石の親友、漱石が文学の道を目指す大きなきっかけを与えた人物である。それにしても、有名人になると、100年以上経っても、成績を公表されてしまうのだな。自分自身の成績は公表される心配などないと、安心しながら、ふと、そんなことを思ってしまう。
新しい年の始まりです。猫も冒頭の項で新年の様子が描かれています。年賀状も出てきます。吾輩が描かれたものもあります。のどかな新年の風景ですが、日露戦争の真っ最中でした。今年、2019年のお正月は、それに比べれば、のどかに始まったと言えるのでしょうか。本年も勝手に漱石文学館、よろしくお願い申し上げます。
いよいよ年の瀬。漱石はいくつかの作品で年の瀬を描いています。猫では冒頭で12月。しかし年の瀬を描くことなく、二で新年になっています。門では10でもうじき正月と御米が小六に。11で神田の通りで暮れの売り出しが行われている様子が描かれています。13では、宗助が正月に向けて床屋へ行っています。15では、小六が大晦日の夜の景色を見ると言って、銀座や日本橋へ行き、年が明けて帰宅します。道草では94で、年は段々暮れて行ったで始まる。97では、人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。こんな書き出しで、暮れの賑わいと、自分の人生を自問自答する健三。「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」少なくとも彼自身は何も買わなかった。こんな健三の姿。年暮れの哀愁がなぜか今、共感をよぶ。漱石の時代も現代も、年の瀬とはこのようなものなのだろうか。
今年も巡ってきました。今日は漱石忌。没百年を早くも二年過ぎてしまいました。漱石忌も季語になっているようで、一句いかがでしょうか。私はまだ浮かびませんが。
いよいよ今日から12月。早いものです。漱石忌も近づいてきました。
連載漱石気分は、予定した原稿の掲載を完了しました。漱石こぼれ話は、短文、単発ですので、今後も連載していきますので、よろしくお願いいたします。近日中に、漱石と中勘助を公開する予定です。お楽しみに。
来館者がついに一万人を突破しました。一万人目の方には、一般的には、記念品をお渡しし、くす玉でも割るのですが、そのようなこともなく、申しわけありませんが、一万人目の来館者になられた方、おめでとう🎉ございます。
あと少しでこの文学館も開館1周年を迎えます。来館者も一万人目前。予想もしなかった人数で、ほんとうにありがとうございます。今後とも、漱石ともどもよろしくお願いいたします。
漱石とまったく関係ないけれど、今日はどうしてもつぶやかなければならないことがある。ついにその時が来た。安室奈美恵引退。いちご白書と言うドラマで初めて彼女を観て、すっかり引き込まれてしまった。主役ではない。演技が上手いとも言えない。
けれども、その素朴さに惹かれた。彼女がスーパーモンキーズの一員であることがわかり、やがてメンバーが一人増えて、安室奈美恵wlthスーパーモンキーズになり、バックの方がマックスとして、先に売れてしまい。とにかく25年間、応援してきた。今、1993年のCDを聴きながら、当時からけっこう声が出ていたんだな。声もとっても魅力的。25年間、ありがとう。安室奈美恵!
三四郎は文面から初めての上京のようだ。それでは、三四郎はどこで東京帝国大学の入学試験を受けたのだろうか。結論は簡単だった。三四郎の頃、日本には、東京、京都、東北の三つの帝国大学があったが、当時、全国に七つあった高等学校、つまり旧制高等学校から、帝国大学は無試験で入学できた。三四郎は熊本の第五高等学校に学んでいたから、無試験で東京帝国大学入学の切符を手にしたのである。と言うことは、いわゆるナンバーのついた高等学校入学が帝大への道で、必然的に狭き門となっていた。泉鏡花や徳田秋声もこの狭き門に挑戦して破れ、結果的に文学の道で成功を収めることになる。漱石は学歴でも文学の道でも成功を収めた、とんでもなくすごい人物である。なんか、そう言えそうだ。
9月になり、夏休みも終わり、学校が始まる。二学期のところもあれば、後期のところもあるだろう。私の子どもの頃は夏休みは8月一か月であったが、その後、夏休みは長くなった。しかし、昨今、夏休みは短くなる傾向がある。大学は依然として、二か月が多いのだろうか。三四郎を読んでわかるが、当時、大学は9月から新しい学年が始まった。三四郎の上京も、暑い時期であったことが、冒頭から少し読み進めばわかる。もともと寺子屋などに入学時期などなかったが、明治になり、西洋式に9月が入学時期と定められた。けれども、徴兵令の関係で、高等師範学校が1887年に4月入学を採用し、その後、4月入学が増えていった。日本に二つの入学時期が並存する時代を経て、1919年に旧制高等学校、1921年に帝国大学が4月入学に移行して、日本全国、4月から新学年と言うことになった。
今年は台風が多く、各地で大雨が降っています。漱石が修善寺に行った夏も、台風に大雨。東京も大きな被害が出ました。今日、24日は修善寺で漱石が危篤に陥った日。修善寺の大患です。それにしても漱石は、その時の様子を見ていたのではないかと思うくらい克明に、当時の状況を描いています。
夏休み、そしてまもなくお盆休みですが、当館は年中無休、24時間開館しています。ぜひ、お休み中の期間も当館にお越しください。お待ちいたしております。
1910年8月6日、漱石は修善寺の菊屋旅館に到着しました。ところが、台風が近づいて、8日、9日に東海地方で大雨が降り、10日には伊豆、11日から13日にかけては関東一円に大雨が降りました。とにかくこの時、前線が停滞し、台風が二つもやって来て、前線を刺激したのですから、長時間にわたって大雨が降る条件はそろっていました。今、日本列島に台風が接近し、前線もある。嫌なことに、何やら1910年8月と似ています。近日中に、「東京大水害」を漱石こぼれ話に掲載します。
8月を前に、おかげで来館者が7000人を超えました。ほんとうにありがとうございます。
さて、台風が東日本から西日本へと横断して行きました。前例のないことで、気象庁も今まで経験したことのない事態が起こるかもしれないと、警鐘を鳴らしていました。いろいろなことに関心を示す漱石ですから、もし漱石が生きていたら、「寺田君、これはどう言うことだね」と説明を求めていたかもしれません。「猫」で寒月は「なんぼ越後の国だって冬、蛇が居やしますまい」と言ったのに対し、苦沙弥先生、「鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」と答えている。想定外の出来事が続く昨今、鏡花の小説の世界が、けっしてあり得ないことではなくなってきているかもしれません。
九州、中国、四国、近畿、岐阜など、全国各地で大きな水害が発生し、多くの犠牲者が出てしまいました。被害にあわれた皆様にお見舞い申し上げます。岡山でも大きな被害が出ました。ふと思い出したのが、漱石が岡山で水害にあったことです。明治25年、1892年、7月に子規と旅に出た漱石は、いっしょに京都、大阪をまわり、神戸で子規は松山へ、漱石は岡山へ。11日に岡山に着いた漱石は旭川沿いの片岡家に逗留。片岡家は次兄の妻小勝の実家で、1887年に次兄が亡くなったため、小勝は実家に戻っていた。16日、漱石は小勝の再婚先の岸本家を訪れ、19日に片岡家に戻った。片岡家は岡山市内の内山下町138番地。岸本家は海岸に近い、西大寺金田にあった。23日から24日にかけて、岡山は大雨に見舞われ、旭川が氾濫。浸水が始まり、漱石は本の入った柳行李を抱えて、当時の県庁付近へ避難した。片岡家は床上150センチの浸水だった。漱石たちはしばらく、当時の県庁近くの光藤家に避難。この大水害で、岡山県内、74人の方が亡くなった。思いもかけない災害に直面した漱石は、8月10日、子規のいる松山へ旅立った。

映画「万引き家族」を観てきました。映画に出てくる5歳の女の子と、先日、文章を残して亡くなった女の子が重なり、涙してしまいました。亡くなったおばあちゃんを埋め、生きていることにして、年金を受け取る。今の日本。映画に出てくるひとつひとつが「ある、ある」の状況です。けれども、海外の人びとにとっては、このような映画が日本でつくられたという事実に衝撃を受けた人もいるのではないでしょうか。ところで、この映画を観ていて、また私のクセが出てしまいました。「この家族が住んでいるところは、どこ?」スカイツリーの見え方から、数キロ離れたところ。専門家ならわかるかもしれませんが、私には、どこから見ても同じ形に見えるので、スカイツリーの北か南かは不明。川は隅田川だろう。墨田区、足立区、荒川区が該当しそうだが、電柱広告の住所表示に、ちらりと荒川と見えたような。私鉄電車も映っている。東武と京成が考えられるが、なんとなく京成のような。ということで、荒川区荒川が設定場所であり、ロケ地ではないかと。日本の家族のあり方を問いかけた映画だから、設定場所がどこだって良いのだけれど、性分だから仕方ないですね。漱石は、とても家族思いで、家族を大切にしました。家族の方はどう思っていたかわかりませんが。『行人』など、家族を書いた作品もある漱石ですが、現代に漱石が生きていたら、家族をテーマにどんな小説を書いたでしょうか。新聞の連載小説ですから、今起きているさまざまな事件、問題を作品の中に描きこんだことでしょう。
勝手に漱石文学館開設から半年。思いのほか多く方がたにご来館いただき、おかげで来館者数5000人を超えることができました。ほんとうにありがとうございました。これからも内容の充実に努めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
18.鏡子の出生地続編の間違いを訂正しました。漱石が亡くなった時、鏡子さんはまだ38歳。今の基準からすれば、ずいぶん若かったですね。あれこれ言われますが、漱石にとって、鏡子さんは最良の妻だったのではないでしょうか。鏡子さんにとって、漱石が最良の夫だったかわかりませんが、夫が亡くなって100年経っても、こうして話題になる妻も、そうそういないでしょう。現実の扱いはともかく、妻というものは大切にしなければならない、明治の男性にあって、漱石はそう思っていたようです。
漱石こぼれ話に掲載した「18.鏡子の出生地続編」。文中、「これはきっと、図書室の机の上かどこかに忘れてきたに違いない の後に、」を入れ忘れました。また、横浜が一か所、横花になっていました。しっかり校正して、掲載すべきと、反省。
近日中に、漱石山房記念館へ行った収穫の文章を漱石こぼれ話に掲載する予定です。先月紹介したギター音吉様のブログに明暗が登場しました。続明暗についても詳しく紹介されており、興味深いです。最終回に漱石と歩く東京も紹介くださり、嬉しいです。
ついに漱石山房記念館に行ってきました。図書室では漱石関連の本がたくさんあって、何冊か読みました。それにしても漱石に関わる本の何と多いことか。漱石の幅の広さも感じます。漱石と歩く東京、も並んでいました。黄色い本は目立ちます。
ギター音吉様から21世紀の木曜会にご参加がありました。嬉しいです。木曜会と言っても曜日に関係なく参加できますから、皆様の来訪をお待ちいたしております。
漱石こぼれ話、16交番の位置、において、日本堤分署の現在を、交番になっていると書きましたが、警視庁第六方面本部になっていることがわかりました。交番より敷地が広いから、警察施設でも、それなりの施設に引き継がれたのですね。
3月17日は平出修の命日。
大逆事件の弁護を担当した平出は、1914年、37歳の若さで亡くなりました。平出は弁護士であり、与謝野鉄幹の率いる明星派の同人であり、石川啄木とも親しくしていました。啄木は平出から大逆事件の真相に迫る情報を入手し、一部は漱石にも伝えられていたようです。大逆事件から2年後、啄木が亡くなり、その2年後、平出が亡くなり、神田青年会館で行われた式には漱石も参列しています。それから2年後、漱石も世を去りました。
今日3月7日は小宮豊隆の誕生日。漱石の門下生の中では、もっとも真面目な人物かもしれません。三四郎のモデルとも言われています。漱石について、詳しい著作もあります。漱石先生を擁護する面も見られますが、全般的に感情移入せず、淡々と書いています。小宮は東京オリンピックも過ぎて、亡くなりました。
3月2日、明日はひな祭りという、ひなの宵を迎えました。このように書き出すと、何となくわかります。漱石の幼くして亡くなった五女雛子の誕生の日。子ども好きの漱石が大きなショックを抱えながら、書き上げた『彼岸過迄』に、宵子として登場します。漱石の雛子に対する思いが詰まった作品です。漱石の作品には、息子達や、娘達が登場します。描かれた字数だけで比べることはもちろんできません。漱石は子ども達を等しく愛していたことでしょう。ただ、字数だけから言うと、雛子が圧倒的に多いように思われます。
今日2月28日は池辺三山が亡くなった日です。三山は朝日新聞主筆で、漱石を朝日新聞に引き抜いた人物としても知られています。引き抜く方も、引き抜かれる方も、冒険だったと思いますが、二人の信頼関係がそれを可能にしたのだと思います。亡くなる前年に朝日を退社していた三山ですが、漱石は三山の死に大きなショックを受けます。三山の葬儀に参列した漱石ですが、それから四年後、漱石も同じ49歳でこの世を去りました。
まもなく三月。ほんとうにはやいものです。この勝手に漱石文学館もおかげで来館者2200人を超えました。ほんとうにありがとうございます。パソコンで文章を読むと、横に伸びて読みにくいとのご意見をいただきました。PDF形式で読んでいただければ、読みやすくなると思います。
今日2月23日は
富士山の日。
そう言えば、漱石は二回、富士山に登りました。交通機関の不便な中、よくも行ったものです。私も二回、富士山に登りましたが、もう登りたくないですね。やはり富士山は登る山ではなく、眺める山です。批判精神旺盛な漱石も、富士山だけは、褒めています。汽車の窓から眺める富士山。漱石が書いた富士山はすべて登りの汽車でした。
今日2月22日は猫の日。猫と言えば、日本でもっとも有名な猫は、吾輩は猫である、の猫であろう。名前がないので、有名というのもへんだが、まあ、仕方ない。ところで今日は、高浜虚子の誕生日。吾輩は猫である、の発表の機会をつくり、文豪漱石を世に送り出していった虚子が、猫の日の生まれというのも、因縁の深さを感じさせる。そんな2月20日、猫の日でした。
ニャー。
今日は石川啄木の誕生日です。1886年2月20日、啄木は生まれました。1908年に3度目の上京を果たした啄木は森田草平らと出会い、翌年、朝日新聞社に入社。1910年に、長与胃腸病院に社用を兼ねて、入院中の漱石のもとを訪れました。1912年、啄木は草平を介して、漱石の妻鏡子から借金。結局、啄木は17円借りたまま、4月13日、借金の返済をすることのできないところへ旅立ってしまいました。葬儀には漱石も参列しました。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と啄木を掲載します。お楽しみに。
漱石気分や、漱石こぼれ話をパソコンでご覧になられる方がた。PDF版を利用していただくと、読みやすいと思います。
今日2月10日は平塚雷鳥の誕生日です。漱石より19歳ほど年下です。漱石がどのくらい雷鳥に会ったかわかりませんが、三四郎に出てくる美禰子は確かに雷鳥に似ています。漱石の門弟森田草平と恋に落ち、雪の逃避行をおこなった雷鳥。漱石は草平のために再出発の機会を与えます。雷鳥は近代日本の女性史に足跡を残しながら、日本の高度経済成長も見届け、85歳の生涯を閉じました。
漱石の胃病は深刻な顔をして、悩んでいた結果ではなく、食べ過ぎによるものであると思っています。それを裏付けるかのようなエピソードが日めくりに載っていました。漱石47歳の今日、2月8日、漱石は家族の目を盗んで、後の内田百間から贈られた吉備団子を食べたと言うのです。漱石は甘いものが大好きで、作品の中にも登場します。結局、漱石は吉備団子の一件から2年後、過食による胃病によって生涯を閉じることになります。
北陸地方は大雪になっています。泉鏡花は雪の中、福井県の峠道を越えています。まだ北陸線は開通していませんでした。雪の中でも、この文学館には来館できます。多くの方にご来館いただきありがとうございます。近日中に、漱石気分に、漱石と電車を掲載します。鉄道ファンとしては、書いていても楽しいものです。
一月は行ってしまう。二月は逃げる。三月は去る。などと言われますが、あっという間に一月が終わり、二月になってしまいました。当館も開館三カ月。おかげで1500人を超える皆様に来館いただきました。ありがとうございます。ということで、今日は漱石の話題なしで、つぶやきを終わります。
全国的な寒波。東京でも雪が降ったり。今から120年以上前の1月29日も東京は大雪だったという。漱石は外神田の青柳亭で「英国詩人の天地山川に対する概念」と題して講演した。漱石はこの講演をどうしても子規に聴いてもらいたかった。しかし子規は来なかった。漱石は体調でも悪かったのだろうと考えたが、じつは、一旦家を出たものの、会費の10銭を忘れ、大雪の中、家に戻り、再び出かけることはなかった。10銭がなかったのである。子規は貧窮していた。雪の東京から、漱石に関する話題を拾ってみた。日めくりを参照した。あっと言う間に1月も終わってしまう。
「漱石とぶんきょう」が2月5日〜11日、文京シビックセンター1階にあるアートサロンで行われます。10時〜18時。最終日は17時まで。足を運べる方はぜひ。なお、私はその近くで自転車を借りて、東京の街をさっそうと?走りました。漱石ゆかりの東京は坂が多く、自転車はけっこうきついですが、ブラタモリのつもりで。
東京都心も雪に覆われ、漱石が雪をどのように描いているか探してみたけれど、漱石はあまり雪を描いていません。『門』の16に正月に雪が降ったことが、ほんのわずか、書かれています。雪があまり降らない東京だから、仕方ないのかもしれませんが。雪の東京のニュースを観ながら、ちょっとつぶやいてみました。
今日は阪神淡路大震災から23年目。今から111年前、漱石は長い手紙を野上八重、野上豊一郎の妻に出した。後の作家、野上弥生子に出した。弥生子は大分の大企業、フンドーキン醤油の娘であった。教職よりも作家の道を選んだ漱石だが、終生、教師であったように思われる。
大学入試センター試験が終わりました。地理では、ムーミンが出題され、マスメディアでも話題になっていました。ひょっとしてこれから、漱石のイギリス留学へのコースも出題されるのかしら、などと思ってしまいます。「漱石気分」に「漱石と旅」を掲載する予定です。お楽しみに。
「漱石気分」を拝見するや、「kとは誰か」など惹きつけられる内容が満載で、つい食い入って読んでしまいました。という感想をいただきました。嬉しい感想です。
今日は門弟寺田寅彦再婚の日。漱石も祝儀を贈ったようです。最初の妻
夏子は15歳で結婚、娘貞子を残し、20歳で死去。肺結核。それから三年、寅彦が再婚。少しは心の傷も癒え、漱石もホッとしたことでしょう。漱石の子弟を思う気持ちが伝わってきます。寅彦の二人目の妻寛子とは13年添い、4児に恵まれたが、31歳で、これまた肺結核で死去。その後、寅彦は三人目の妻紳と結婚。先妻二人の残した五人の子どもを育てあげ、70歳過ぎまで生きた。研究者として成功した寅彦も、妻には恵まれなかったと言えるかもしれないが、三人の妻はそれぞれに寅彦を支えたと言えるだろう。
「漱石と鏡花」を公開しました。金沢生まれの鏡花ですが、母親は東京生まれであり、鏡花もどことなく江戸っ子的な雰囲気があります。二人はけっこう意気投合するところがあったのではないでしょうか。
近日中に「漱石と鏡花」を公開する予定です。知られざる漱石と鏡花の関係に迫ります。(どこかで聞いたことのあるような言葉)。お楽しみに。
気がつけば、漱石の誕生日を過ぎていました。命日は有名な割に、誕生日は影が薄い感じです。そんなわけで、今日はすでに七草。正月気分とおさらばしなければなりません。正月と言うと、『吾輩は猫である』は12月に始まり、2章目で新年を迎えます。年賀状が届いています。芸者が羽根をついています。じつにのどかな正月風景ですが、この時、日露戦争の真っ最中だったんですね。確かに文章を読んで、戦時であることはわかるのですが、そんなピリピリした雰囲気は、まったく感じられません。やはり、猫が書いたのかな。
さて、いよいよ迫ってきました。1000人目の来館者になるのは、いったい誰でしょうか。ふつう、くす球が割られたり、花束などが贈呈されるのですが、何もなくてすみません。気持ちだけ受け取ってください。
漱石気分に、漱石の『こころ』がわからない、を掲載しました。その中に、乃木大将が出てきます。今の若者には乃木大将と言ってもピンとこないかもしれませんが、乃木坂46なら、知っているでしょう。乃木坂に続く坂シリーズ、欅坂46。乃木坂から数100メートルのところにあるのが欅坂です。私は、たかがアイドルと思っていたのですが、欅坂46の歌、けっこう辛口のものがありますね。人が溢れた交差点を・・・で始まる、サイレントマジョリティー。「どこかの国の大統領が 言っていた(曲解して) 声を上げない者たちは 賛成していると・・・」。まさにこれは『こころ』を通じて漱石が言いたかったことではないか。そして、「この世界は群れていても始まらない」。漱石が学習院で若者たちにむかって投げかけたメッセージ。さて、欅坂46の歌う、サイレントマジョリティーを、漱石が聴いたなら、どのような感想を書くであろうか。アイドルグループから漱石を考える。やはり漱石は現代を生きているように思われるのです。
『君の名は』が地上波で放映された。
君の名は、と言うと、聖地巡礼が思い浮かぶが、元祖君の名は、の聖地は数寄屋橋である。君の名はに惹かれて、数寄屋橋を訪れた人も多いであろう。そんなことが起きようとも思わない漱石も、幾度となく数寄屋橋を渡ったことであろう。現代の君の名は、の聖地はいくつもある。あり得ないようなストーリーの割に、映し出される風景はじつにリアルであり、そのギャップがなんとも言えない。不思議な魅力を醸し出している。東京の場面では、新宿から四ツ谷にかけて多く登場する。ちょっぴり漱石と関連づけられそうだ。四ツ谷と言うと、漱石の母の出身地である。最後の場面の階段のある坂は、須賀神社のすぐそばと言われている。四ツ谷と言うから、谷が多く、当然、坂も多くなる。漱石も四ツ谷を、そして坂を、作品の中にいくつも登場させている。詳しくは『漱石と歩く東京』に譲りたい。
当たり前のことですが、当館は
年中無休。お正月にもかかわらず来館者があり、嬉しいことです。この三ヶ日、当地は穏やかな日々でしたが、風雪の地域もありました。子どもの頃、日本海側に住んでいた私には、晴れている地域があることなど信じられませんでした。まあ、穏やかに三ヶ日すごした私ですが、漱石も、「一人居や思う事なき三ヶ日」の句を残しています。漱石にしては珍しい心情のように思えます。
あけましておめでとうございます。漱石節目の二年間を過ぎ、新しい出発の年を迎えました。今年もよろしくお願いいたします。
今日は大晦日。年越しになると、去年今年貫く棒の如きもの、という虚子の句を思い出す。何とも力強い句である。虚子は漱石にも大きな影響を与えた。俳句の面はもちろんだが、虚子がいなければ、漱石が猫を書くこともなく、したがって文豪夏目漱石もなかっただろう。漱石は50を待たずに亡くなったが、虚子は85まで生きた。亡くなった二日後に皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式が行われ、ご成婚のパレードはテレビ中継され、私もワクワクしながら観ていた。皇太子殿下も天皇に即位され、30年になろうとしている。漱石が生きた明治はもちろんであるが、なんだか、昭和も急速に遠くなっていく感じがする。
今年も後わずかになりました。勝手に漱石文学館も開館以来、2ヶ月足らずで、延べ800人余りの来館者を迎えることができました。メジャーなところと比べる、まさに月とスッポンですが、スッポンのごとく、元気いっぱい、食いついたら離さない意気込みで、運営していきたいと思いますので、末永くご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
日めくりによると、今日12月28日は、漱石と鏡子がお見合いをした日。鏡子はずいぶん苦労しただろうけれど、鏡子でなければ漱石の妻は務まらなかっただろう。漱石も鏡子のことを思いやり、浮気の噂も伝わってこない。作家の中には、けっこうこの手の話が多いのだが。後の鏡子は貫禄も感じられるが、見合い当時の写真を見ると、なかなか漱石好みである。
クリスマスも過ぎました。猛吹雪の地域があります。そんな中で、漱石は雪の情景を書いただろうか。どうもあまり印象にないのですが。
クリスマスイブ。車内を電飾した電車が走った。日頃、見慣れた車内も一味違う。電飾が当たり前の時代になって
さえ、なんとなく興奮をおぼえるのだ
から、博覧会で電飾を見た漱石は、さ
ぞ興奮おぼえたことであろう。私たち
は今、それを虞美人草から知ることが
できる。東京市内に電灯が普及し始める頃のことである。
京都の水川隆夫先生と言えば、漱石研究の第一人者である。私も漱石について書くにあたって、先生の著書を随分参考にさせていただいた。水川先生は来年一月、『漱石と明治』という本を
文理閣から出版される。今までに発表された小論を、明治の前中後期に時代区分してまとめられたもので、今という時代への警鐘も込められている。今年も後わずか。漱石は道草などでも年の瀬を描いている。百年経過した年の瀬も、ある面、道草の時代と何も変わらない。
前段のつぶやきは、12/24のものであった。一日間違えてしまった。今日は23日だ。年の瀬も近くなると、こんな間違えも起きるのか。いや、これは年のせいで起きたことなもかもしれない。
1905年の今日。漱石は猫のカレンダーを受け取ったという。漱石は筆まめな人で、礼状はもちろん、気遣いの手紙や葉書をせっせと出している。弟子であろうと、読者であろうと、子どもであろうと、分け隔てがない。私はその姿から、ドイツの作家ヘルマンヘッセを思い出す。そして、ヘッセの作品の翻訳家としても有名な高橋健二先生。来年は犬である。犬があって、猫がないのは、深い?訳があるようだ。
今日は安倍能成と藤村恭子の結婚記念日。1912年、二人は結婚し、漱石も参列した。恭子の兄は、あの華厳の滝から投身自殺した藤村操。安倍は操の友人であった。漱石は精神病だった?で書いたように、漱石はこの自殺に少なからず責任を感じており、思いは格別であったのではないか。人間関係を大切にする漱石の生き方が、今日でも漱石の作品が読まれる一因であるかもしれない。
1905年の今日、漱石は上野の伊予紋で行われた会合に出席したそうです。すでに、はた目には成功者となっていた漱石も、プライベートではいろいろな心配事を抱え、束の間の安堵の中、伊予紋での会合に出席したようです。大きなストレスを抱え、それを発散するために、食べる。漱石の胃潰瘍の原因を、ストレスとみるか、食べすぎとみるか。何かそんなことを考えさせる上野の料亭行きでした。

学生時代、京都で過ごし、初めて口にしたものは、冷やし飴と、わらび餅であった。先日、京都へ行った時、嵯峨野でわらび餅を食べようと決めていた。せっかくだから、本格的なわらび餅をと、本わらび粉使用と書いた店に入った。600円くらいを想定していたら、なんと1300円近いではないか。やめて出ようかと思ったが、かえって後悔するだろうと、30分ほど待たされて、席に案内された。わらび餅5個。一個250円以上。しかし、食べてみると、
弾力があり、口の中でとろけるように馴染んでいく。これぞ本物と、満足感。10キロのわらびから、わらび粉70グラムというから、高いわけだ。さて、何度も京都に足を運んだ漱石。食通の漱石は京都で何を食べたのだろうか。本わらび粉使用のわらび餅は食べただろうか。
天理図書館では10月から11月にかけて、「漱石――生誕150年を記念して」と題する記念展を開催していたとのことです。子規と漱石の激しいやり取りを留めた、1891年11月7日付の子規宛書簡も展示されていたとのことで、親友である二人は、じつは随分考え方、生き方も違い、だからこそ、忌憚のないやり取りをし合いながら、親友であり続けたのかもしれません。
新聞にこんな内容の記事が載っていた。子規をあつかったものですが、載っている写真は漱石。若き日、子規は書いて、書いて、書いた。漱石はそんな子規に対して、出してばかりじゃダメ。読んで、入れなければ。そういえば、漱石は、読んで、読んで、読んで、そして、書いて、書いて、書いた。本をたくさん買い、たいへんな読書家だった。じつは、同じようなことを、中学の時、兄から言われた。私は書くことは好きだったが、読まなかった。今もその傾向は変わらない。子規と漱石、生き方は違ったが、二人とも成功した。私の方は、○○○である。
先日、紹介した「ギター音吉」さんのブログ、漱石展の文章を、「北野豊の本」の、『漱石と歩く東京』からアクセスできるようにしました。ぜひ読んでみてください。
漱石忌の影響か、急に来館者が増え、開館以来、500人を超えて、びっくりしました。先日お知らせしたように、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開しました。長いので、三つに分けて、とりあえず1と2のみの掲載ですが、自分なりに力を入れて書きました。
漱石が亡くなり、その翌日、漱石の解剖がおこなわれました。漱石の意を汲んだ鏡子の申し出と言われています。今から100年も前の話ですから、ある面、ものすごく進んだ考え方と思います。漱石の作品を読み、また鏡子の様子を知るにつけ、100年後の今とまったくずれていない。これが、漱石の作品が今も読まれ続ける所以ではないでしょうか。
いよいよ、今日は漱石の命日。当日の様子は「日めくり」の12月9日に詳しく書かれています。今から101年前のできごとがリアルに蘇ってきます。急を知らせる当時の方法がよくわかります。自分が死んだら、万歳を唱えてくれとまで言い放った漱石。今ごろ、どうしているだろうかとも思ってしまいます。近日中に、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開する予定です。
いよいよ明日は漱石忌です。死んで大平を得ると考えていた漱石も、死の間際まで、生への執念を持ち続けていたようです。
『漱石と歩く東京』に関心がある方。『東京紅團』というサイトがあります。興味深い内容が多く、私もよくお邪魔しています。検索サイトで、東京紅團、と検索してみてください。
日めくりによると、1911年の今日、つまり12月6日、漱石は神田の佐藤診療所で顕微鏡を見せられた。この診療所のことは、『漱石と歩く東京』に書いてあるので省略しますが、佐藤の話題が、現代に通じて興味深いです。
ネット上でさまざまな出会いがある。「ギター音吉のブログ」では、昨年、神奈川近代文学館」で開催された「漱石展」の様子が紹介され、その中で、『漱石と歩く東京』について、「今回の収穫の最大のものと言って良い」と、嬉しい言葉をいただきました。写真までつけてくださり、感謝です。展示もしっかり見ていただきました。『門』当時の電車終点は、展示と私の見解は異なりますが、お互い確認し合いながら、それぞれの見解を尊重しました。違いに気づいたギター音吉さんはすごいですね。
今日12月3日、今から105年前、漱石は行人の連載を前に、筆が進まず、新富座に鏡子を連れて、義太夫を聴きに行ったそうです。気分転換のようですが、作品にはしっかり描き込まれました。
さすが漱石!
漱石こぼれ話に出てくるマーメイド。
絵画全体ではありませんが、マーメイドの部分だけ、掲載されている本があります。朝日新聞社刊、江戸東京博物館と東北大学編、文豪・夏目漱石ーーそのこころとまなざし、です。今から10年ほど前に出版されました。
今日、11月30日の日めくり。いかにも森田草平らしい、漱石との逸話が載っていました。
日めくりを見たら、今日は雛子の命日でした。不思議なものです。
早いもので、今年もあとわずかで師走。そして、あと10日で漱石忌です。とくにカウントダウンするつもりはありませんが、漱石を思う日々です。
ついに来館者が300人を超えました。ほんとうにありがとうございます。漱石は精神病だった?が長いので、三つに分けてみました。漱石こぼれ話に、篤姫と、マーメイドを追加しました。いろいろな漱石をお楽しみください。
漱石は精神病だった?を公開しました。①と②に分かれています。独自の考えも書いてみました。
「日めくり漱石」にリンクして、私自身とても重宝しています。12月22日の日めくりでは、藤村操の妹と安倍能成の結婚式の話しが。後日、公開する「漱石は精神病だった?」で、藤村操の話しも出てきます。
リンクに「日めくり漱石」を追加しました。漱石に関する「今日は何の日」です。毎日、毎日、今日の漱石を知るのは、とても楽しいと言うか、新しい発見があります。ぜひ、リンクのページを開いて見てください。
近日中に、連載漱石気分に、「漱石は精神病だった?」を発表する予定です。お楽しみに。
おかげさまで延べ入館者が200人を超えました。ありがとうございます。リピーターの多い文学館を目指して、更新に努めていきます。
漱石こぼれ話に、「我輩は豚である」を掲載しました。短編小説です。ぜひ、読んでみてください。
漱石気分に4と5を追加しました。これからも順次、追加していきます。
お楽しみに。
連載は現在、どちらも1から3まで公開しています。21世紀の木曜会に感想をお寄せください。お待ちしています。
開館して1週間、延べ来館者が100人を超え、とても嬉しいです。
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漱石気分は1~3まで掲載。
漱石こぼれ話も1~3まで掲載しています。ぜひお読みください。
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