館長のつぶやき
つぶやき
何か書くことはないかと、話しの種を探すには、「今日は何の日」関連でみつけるのが、ひとつの方法。1928年、馬込谷中へ引っ越して間もなくの11月26日、犀星はダンスの洗礼を受ける。朔太郎の家に行くと、妻の稲子は社交ダンスにはまって、すっかり燃え上がっている。犀星はとうとう、――夕飯に萩原を招ぶ、後に萩原の家に行き奥さんからダンスを習ふ、生まれて初めてなり、ダンスをするごとに二階すこしく動く、辞退してもダンスをせねばならず、奥さんに乞ひてビールを飲み、元気をつける・・・(日記)――という状態に。これが秋聲なら、この時から社交ダンスにのめり込んだであろうが、犀星にはどうも合わなかったようで、これっきりになってしまったようだ。犀星と稲子が踊る姿を見たかった気もするが、鏡花がこの場にいたら、はたしてどうしただろうか。そんなことも想像してみた。
秋聲の命日が近づいてきました。
1943年11月18日、徳田秋聲は本郷森川町の自宅で亡くなりました。本土が空襲を受けるようになるまで、それほど長い時間がかからない時期。悲惨な戦争を避けるかのような死でした。
秋聲は「自然主義文学」と言われますが、生き方そのものが、自然、まさに「流るるまま」。ある面、自然の成り行き任せ。シームレスで境目がはっきりしない。それが秋聲という人物の魅力でもあったでしょう。秋聲は生と死においても、その境目は明確ではなく、「この世」と「あの世」との境目も自然に越えて、逝ってしまったのではないか、何かそんな風に感じられます。
開館3年。来館者が55000人を超えました。ほんとうにありがとうございました。

名月が鏡花を語る逗子の夜
鏡花が癒され、あらたな活力を得た逗子とはどんなところだろうかと、訪ねてみました。
レンタサイクルを借りて、最初にむかったのが桜山の観蔵院。斜面の途中に本堂があり、さらに上の方にむかって墓地。一番高いところまで登って、桜山地域全体を俯瞰。このどこかにかつて、しばらくの間ですが、鏡花一家が住み、従姉妹たちがやって来たり、どこかの令嬢が来たり、すずが来たり、それをかぎつけた紅葉が怒鳴り込んできたことでしょう。歩くには少し距離があるので、紅葉は人力車で来たのではないかと推察します。
その後、宗泰寺。この寺も山際にあり、墓地が斜面の上にのびています。ここでも上まで登って、田越地域一帯を俯瞰。市役所も正面によく見えます。それから田越橋へ。橋を渡って右側が現在の逗子5丁目で、橋から近い所に神楽坂を後にした鏡花とすずが4年ほど過ごした家があったはず。ところが「旧居跡」といった表示はまったくなく、どこだかわからない。さっそく聞き込み開始。インターホンを押すと、丁寧に出て来てくれる家ばかりだったけれど、誰も知らない。そもそも泉鏡花を知らない。百年以上前のことだから当然だが、逗子ではもう鏡花は語り継がれていないのだろうか。蘆花のことはよく話してくれるのだけれど。Tさんのお宅では90歳というおじいさんが、幼い頃の天皇行幸(葉山に御用邸ができ、そこへむかう途中、逗子を通られた)、戦後の他越川氾濫で床上浸水した話、ここが間違いなく旧地名が「亀井」であることなど、親切に話してくれて、それはそれでとても興味深く聞くことができたけれど、肝心の鏡花については不明。ただ、この辺りが亀井900番地台であることはわかって、この近くであることは確認できた。とにかくこういう出会いは嬉しい。
つぎは大崎公園にある「うさぎ」の像。海岸に突き出したちょっとした岬、程度に思ってやって来たが、どうやら海岸を通る道路からは行くことができないようで、ぐるりとまわってみたものの、登り口がわからない。近そうな道を選んだら、急な登りで住宅地に達し、そこを下りたところで訊くと、あそこの山(披露山、ひろやま)を登った先だと言う。また急坂を登り、披露山公園の高級住宅街(披露山庭園住宅)を抜け、また急坂を登って、やっとうさぎに面会。大崎公園からは江の島なども間近かに見え、それにしても心臓の高まりは治まらず、それでも電動アシスト付き自転車で良かったと・・・。 
横須賀線を越えて、岩殿寺は何とか迷わず行けたものの、地図では鏡花の句碑が本堂に奥に記入されていたため、奥ノ院まで行ってしまいました。足を踏み外したら、命がないと思われる急で長い石段を上ると、奥ノ院に「鏡花の池」。いくつかの作品に出て来るものでしょうか。とにかく、鏡花の作品よりも怖い石段を、今度は下りて、本堂にお参りして、住職に訊ねると、句碑は山門を入る左側にあるとの答え。何とか写真におさめることができました。
最後は、鏡花の姪(斜汀の娘、すずの養女)名月が住んだ山の根2丁目の家跡。町内へ入ったところで、通行中の女性に訊ねると、そもそも泉鏡花を知らない。それでも、ふと思い出したか、「そう言えば、そこを曲がったところに、何だか碑のようなものがあった気がする」と、後ろから声をかけてくれました。曲がって少し行くと、右手に「ディアコート名月」というアパートの表示が見えて来て、「おっ、ここに間違いない」。「室生マンション」もそうだけど、こうした名称はありがたい。アパート(2階建て、4軒分)の前が駐車場。そのむかって右側に鏡花の句碑と、鏡花・名月たちの関係、この地との関係などを書いた説明板。アパートのむこうに横須賀線が見える。意外に早く見つかって、ホッとしたら力が湧いてきて、葉山の街まで自転車を走らせ、砂浜から江の島を眺めて、しばし、「葉山」を感じて来ました。
それにしても、逗子の街。もし津波が襲ったらどうなるのだろうか。3.11東日本大震災時のような津波が襲ったら。低平な土地が奥まで続き、しかもしだいに狭くなっている構造。おそらく壊滅的な打撃を受けることでしょう。田越川の水害も心配です。急傾斜地の宅地も土砂災害が心配。『地理屋』というのは、最後はこのようなところに関心が行ってしまいます。津波を避ける意味もあって、逗子では山の上に新興住宅地が広がっています。もともとの平坦地が隆起したのでしょう。山頂部にあたる部分が広く、起伏が少なくなっています。それでも、標高20mくらいの洪積台地と違って、50m以上あるので、登るのがたいへん。自家用車は必需品と感じました。高級住宅街の披露山庭園住宅街に住む人と思われる人が、バスを降りて、長い坂を登ってくる姿を見かけました。
地図を片手に、迷いながら、訊ねながら、探し歩く旅は楽しいものですが、「鏡花旧宅跡」「鏡花句碑、この先」など、ありそうな表示がまったくなく、かなり年配の人でも鏡花を知らず、「まあ、住んだ年月も長くないから、やむを得ないかな」と思いつつ、逗子を後にしました。
このたび発行された「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会報31号に、私が寄稿した文章『地理屋、漱石を語る』が掲載されました。内容は大きく二つ。第一は、松山における坊っちゃん、そして漱石については、じゅうぶんご承知の方ばかりなので、東京の坊っちゃん。第二は、会の皆さまが読み込んでこられた『彼岸過迄』を地理屋視点で。会報には、『道草』浅草諏訪町の家の間取図発見のことなど、興味深い内容が並んでいます。
いよいよ10月。気がつけば秋。長い間、自分が住んでいる市域から出ることもなく、ほとんど季節を感じることもなく過ぎて来た。今年は、「新型コロナ」という季節しかなかった。何か、そんな気がしてならない。
この「勝手に漱石文学館」も、2017年10月に開館して、丸三年になろうとしている。「心配しても仕方がない」と、気合だけで始めたこの文学館。延べ5万5000人ほどの方に来館いただき、感謝でいっぱい。ほんとうにうれしい。
「勝手に漱石文学館」の文章を書くにあたって、漱石はもちろん、鏡花・秋聲・犀星の同じ作品を何度も読み返すことがあります。そして、そのたびに新しい発見があります。田端の犀星について書くため、近藤富枝さんが書かれた『田端文士村』を読んでいて、スペイン風邪について記された一文を見つけてびっくり。新型コロナウイルス感染症拡大の中で、私も100年前に大流行したスペイン風邪(新型インフルエンザ)に関心をもったために、「スペイン風邪」の文字を見つけて、急に立ち止まってしまいました。今まで、完全に読み過ごしていたのです。
『田端文士村』によると、スペイン風邪は田端でも猛威を振るい、彫刻家の池田勇八の夫人が29歳で死去。金沢出身で芥川龍之介の恩師広瀬雄の長女も5歳で亡くなった。このようなことがあったため、1921年の春、病気知らずの犀星が流行性感冒(インフルエンザ)に罹った時、近くの宮内病院に入院したというのです。この病院は外科専門だったが、出産を一カ月後に控えた妻とみ子に感染させないための、自主隔離でした。無事、とみ子は男児を出産しましたが、豹太郎と名付けられた男の子は、犀星が気遣ったにもかかわらず、翌年の6月、亡くなってしまいました。
以前にも書きましたが、芥川龍之介も1918年10月末頃、スペイン風邪を発症し、翌年2月にも再び発症しています。3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなっています。
島崎藤村が1943年1月19日に菊池寛に宛てた手紙が発見されたと報じられました。これは、藤村と秋聲の二人に贈られることになった「野間文芸賞」(1942年)の賞金を、折半せず、秋聲に与えてはどうかと、菊池に意向を伝えたもの。
1942年の「野間文芸賞」は該当者がなく、選考委員の菊池らが、文壇に長年貢献した藤村と秋聲に賞金を贈ることを提案。藤村は手紙の中で、秋聲が健康状態も優れず、経済的にも困窮していることを気遣って、秋聲ひとりに与えるよう提案しています。賞金は1万円を折半するので、それぞれが5000円。当時の平均年収のおよそ7倍で、藤村だってきっと欲しかったはずだし、もらっても自分のためでなく利用することはできたはずです。なぜ秋聲ひとりに贈るよう提案したのか、真意はわかりません。
結局、賞金はふたりに与えられましたが、藤村は授賞式に出席せず、夫人が代理出席しています。こうして、5000円ずつもらった藤村と秋聲ですが、8月に藤村、11月には秋聲が相次いで亡くなってしまいました。
東京へ行くことができない日々が続き、てくてく牛込神楽坂を巡っておりましたら、私の名前をみつけました。
――漱石と市谷の小学校――夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。――ということで、『漱石と歩く東京』の14ページに掲載されている「◎旧市ヶ谷学校」の一文が紹介されていました。市谷柳町16番地にあったということは間違っていなかったようで、明治28年(1895年)の地図まで載せられていました。貴重な資料です。私の手元にあるのは明治40年(1907年)のもので、この間に市谷柳町の道路が変化していました。
「市ヶ谷小学校」は、当時は「市ヶ谷学校」が正しいと指摘を受けました。その通りです。明治の初め頃は、学校の名称、制度もしばしば変更され、どの時点のことを書くかによって、違ってくることもあります。漱石が通った頃は、「市ヶ谷学校」の後に「下等小学」がついたようで、「市ヶ谷小学校」という名称は使われていませんでした。
このような指摘は、とても嬉しく、ありがたいです。

【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅9⦆

補遺
 逢見憲一は、『公衆衛生からみたインフルエンザ対策と社会防衛――19世紀末から21世紀初頭にかけてのわが国の経験より――』※で、スペインかぜ流行への対策として、
 内務省衛生局編「流行性感冒」は、予防手段として「ワクチン」、「マスク」および「含嗽」を挙げている。記述の大半は「ワクチン」に充てられており、「含嗽」は数行しか記載されていないが、「マスク」についてはやや詳しく、マスクのあて方や材料、また飛沫の距離などについても述べられている。(略)同書に掲載されている当時の啓発ポスターでは、「マスク」、「うがい」そして病人を別室に移す“隔離”を勧奨している。福見らによれば、マスクの着用を国民的な風習にまで根強くしみこませたのは、この“スペインかぜ”であった。
 と記し、“スペインかぜ”予防策の大要(10か条)を掲げている。それによると、この予防心得を有効なあらゆる方法で普及することとして、マスクの着用、含嗽・予防接種の奨励、流行地においては多数の集合を避ける、頭痛・発熱時などの受診奨励、全治までの外出自粛、などとともに、「療養の途なき者への救療」、「予防・治療の効果をあげるための伝染病院や隔離病舎の利用」。そして、
 前各項を実行するにあたつては、地方団体、衛生団体、救療団体、学校、会社、工場その他公私団体ならびに篤志家等の活動を促すこと
 と結ばれている。
※国立保健医療科学院、2009

主要参考文献
池田一夫他:日本におけるスペインかぜの精密分析 
      (東京都健康安全研究センター年報56、2005)
河原敏男・玉田敦子:ナノカーボン超高感度センサーによる感染症との闘い
    (ARENA2014vol.17、特集論考>>>工学研究のフロンティア)
小泉博明:斎藤茂吉の病気観
    (文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第8号、2008) 
朝日新聞記事については、「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」(インターネット上公開)から引用した。
2020年5月5日 完  

「おはよう日本」における放送内容はNHKのウエブでみることができます。
「富田良NHK」で検索。「サイカルジャーナル」をクリック。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅8⦆

なぜスペイン風邪は忘れ去られたのか
 短期間に大震災や大空襲・原爆投下を上回る死者を出しながら、スペイン風邪は歴史的に忘れ去られている。高校日本史の教科書として広範に使用されている山川出版社版を見ても、本文にも脚注にも年表にも、「スペイン風邪」はまったく見当たらない。教科書から無視されただけではない。文学の中にもほとんど登場しない。
コレラが怖くて、家に引きこもったり、食材は煮沸して食べた泉鏡花も、スペイン風邪から逃げ回った形跡はない。1916年に疫痢で長女を失った徳田秋聲も、スペイン風邪について特に触れていない。
もちろん、芥川龍之介と同じように、スペイン風邪に罹ったことを書簡などに残した文学者がいないわけではない。歌人で精神科医の斎藤茂吉もその一人である。茂吉は1920年1月、長崎で罹患し、生死をさまよい、同僚医師が亡くなっている。茂吉はスペイン風邪からは生還したが、結局、結核を発症し療養を余儀なくされた。武者小路実篤はスペイン風邪から20年を経過した1939年に書いた『愛と死』で、主人公の惚れた女性をスペイン風邪によって奪っている。
ただ、丹念に読んで行けば、スペイン風邪大流行時の影を見出す作品もいくつかある。室生犀星の『或る少女の死まで』もその一つではないかと、私は思う。1919年、小説家に転身した犀星は、『幼年時代』『性に眼覚める頃』に続いて、11月、『或る少女の死まで』を発表した。幼年期、少年期に続いて、上京間もない青年期を描いた作品に、なぜ少女の死をテーマに選んだのか。スペイン風邪の第一次大流行を越え、犀星は死を身近に感じたのではないだろうか。2月には結婚に際し労を惜しまなかった義母(実父の妻)小畠珠が49歳で亡くなっており、時期的にスペイン風邪による死を否定できない。少女ふじ子のモデルがいたかどうかわからないが、『或る少女の死まで』で元気なふじ子は、鹿児島に行ってから、12月に腸に病を得て急死している。腸チフスを想定したかもしれないが、設定時期1911年頃を、1918年12月に振り替えていくならば、スペイン風邪を念頭に置いたという推論も成り立つ。激しい嘔吐・下痢もスペイン風邪の症状としてみられたし、鹿児島における死者も多かった。
 アメリカの歴史教科書にも、スペイン風邪はほとんど記載されていないと言う。この要因をボストン生まれ(1931年)の学者アルフレッド.W.クロスビーは、四つにまとめている。①アメリカ軍兵士の死は戦争の一部に組み込まれてしまった(戦死扱いになった)。②罹患率が高かった割に、致死率がジフテリア・コレラ・発疹チフス・黄熱病などに比べて相対的に低かった。③短期間で収束した。梅毒・疱瘡・ポリオのように目に見える後遺症を残さなかった。④アメリカにおいて、大スターが死亡しなかった。
 私は源作の日記を読みながら、つぎのように考えた。
 当時は多産多死の時代がまだ続いており、人が生まれ、人が亡くなっていくということが、日常生活の当たり前の出来事だった。さまざまな感染症が繰り返し襲って来ており、乳幼児の死亡も多く、スペイン風邪だけが、特別な存在として、意識されることは、ほとんどなかったのであろう。源作は新聞を読み、世の中の動きを把握していたとしても、多くの人は、全国で多くの人が亡くなっていることすら把握していなかったであろう。日常生活が続く中で、一時の困難や悲しみを過ぎて、スペイン風邪の記憶は、人びとの中から急速に薄れていったのではないだろうか。
 静岡市内で五代続く医院である望月小児科医院を営む小林由美子院長は、ホームページ上に公開している「おたより」(2017年1月18日改訂)で、「新型(鳥)インフルエンザはなぜ怖い」と題して、つぎのように記している。
 望月家の先祖に、若くして亡くなった人がいます。お墓参りにいくたび、スペイン風邪で亡くなったときかされました。享年17歳の美代さん、15歳のいねさん、小さい頃は、わけもわからず手を合わせましたが、親となった今では若くして亡くなったことに胸が痛みます。
史上最悪のインフルエンザであるスペイン風邪が忘れ去られていくことを憂慮する速水融は、「スペイン・インフルエンザが忘れられたのは、基本的に、われわれがあまりに歴史を、制度やモノ、モノと人の関係の歴史として捉え、そこに存在する人びと自身の生や死を軽視したからではないだろうか」と記している。
 源作の日記に、共にこの世に存在した人びとの、生と死が刻み込まれている。スペイン風邪大流行期の日記は、新型コロナウイルス感染症に向き合う私たちに、貴重なメッセージを送ってくれるのではないだろうか。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅7⦆

日常生活の中で過ぎていったスペイン風邪の流行
新型コロナウイルス感染が日本国内に拡大しようとする頃、専門家から「何もしなかったら、80万人から100万人が死亡する。」という警鐘が鳴らされた。あまりに異次元の数字に、恐怖というより、どこかの昔話のように受け流してしまった人が多いかもしれない。けれども、100年前のスペイン風邪大流行で亡くなった人は、現在の人口の半分くらいの日本国内だけで38万人から45万人。実際にはもっと多いかもしれない。現在の人口に換算すれば、76万人から90万人になり、一致してくる。つまり、スペイン風邪の大流行に対して、結果的に何もなされなかったことが示されている。
それでは、当時、何がなされなかったのか。
第一。移動や集会がまったく制限されず、日常生活が継続されたことである。
源作も大流行が始まった1918年秋、半月以上、流行地を旅しているし、日記には支障があったとは何も書かれていない。流行地のアメリカからも野球チームが来日している。1919年に入って、源作の日記には、じつに多くの人の病気と、多くの人の死亡が記されているが、源作は病気の時を除けば、精力的に社用に打ち込み、県内、県外飛び回り、見舞いや葬儀に顔を出し、会合にも参加。各地で講話もおこなっている。駅への見送りや出迎えも多い。盲唖学校の件でも奔走している。食パンも焼いている。11月8日には、盲唖学校のための音楽会が精華女学校の講堂で開かれ、700人が参加。17日には吉野作造講演会が600人ほど参加して行われた。12月13日には結核協会主催の遠山椿吉博士講演会、14日には英和女学校日曜学校クリスマス会に参加。要は源作の日常が「スペイン風邪」大流行の真っただ中において、ほとんど途切れることなく続けられていたのである。妻トキも、12月4日、内村鑑三に会い、おおいに慰められ、5日には横浜から「アスカエル」と電報を打ち、母の帰りを待ちわびる末っ子せいを失望させたが、鑑三からもらったメキシコ産の生チョコレートを持ち帰った。
時の総理大臣まで感染しているのに、熱海には客が殺到している。工場閉鎖や交通通信の乱れは、従事者が罹患したためで、就業を規制されたためではない。銭湯、寄席、映画館、理髪店に客が来なくなったのも、政府に休業を要請されたためではない。
当時は、大日本帝国憲法下で、人権付与は限定的であったから、きわめて強い権限をもって、人びとの移動や集まりを制限できたはずである。日本でも明治以降、感染症に対する医学的研究は進んでいたから、人びとが移動したり、集まったりすることでインフルエンザの感染が拡大することはわかっていた。それでも強権を発動しなかったのは、移動や集まりを停めてしまうと、生活そのものが成り立たなくなってしまい、場合によっては、米騒動を上回るような出来事が、全国各地で発生するという判断があったのかもしれないが、時の政府に、感染症に対する危機意識そのものが乏しかったとも考えられる。
結局、日常生活をほとんど停めることなく、国民の1%ほどの犠牲と引き換えに、人びとは生き、国民の半数以上が新型インフルエンザ(スペイン風邪)の抗体を手に入れ、感染の嵐は収束していった。
第二。身近な感染対策。
もちろん、行政の側が何もしなかったわけではない。
1919年2月5日の「朝日新聞」には、「(1)多くの人が集まる場所に行かない(2)外出する時はマスクをする(3)うがい薬でうがいをする(4)マスクをしない人が電車内などの人込みでせきをする時は布や紙で口と鼻をおおう(5)せきをしている人には近寄らない(6)頭痛、発熱、せきなどの症状があるときはすぐに医者に」という記事が載っている。このまま100年後の今日、使うことができる事項であるから、100年の間、何も進歩しなかったと言うことができるが、当時すでにインフルエンザ感染症対策が、しっかり把握されていた証明にもなる。しかも、当時、衛生行政を担当していたのは警察であり、上記記事も「感冒の注意書き昨日警視庁から発表」というものである。しかし、この注意書きに違反する人を拘束したり、罰したかというと、そうではない。
警視庁の福永衛生部長は「市民の衛生についての自衛的観念が乏しいのは驚くほどだ。マスクを着けている人は何人もいないし、恐るべき伝染病の感染を放任している」(1920年1月3日)。要は、感染症対策として有効なのは、強権の発動ではなく、国民一人ひとりの「公衆衛生」に対する意識の高揚であることを示している。1920年1月17日付「朝日新聞」読者投稿欄には、「閉じられるべきは乗客の口で、開かれるべきは電車の窓だ」という意見が載った。今、これがツイッター上につぶやかれたら、「いいね」が連発されるかもしれない。
源作は当時の人びとの中では、跳びぬけて健康管理に気を配った人である。懇意にしている医師たちもいて、原崎家の医療環境は当時としてはきわめて恵まれていた。それでも、スペイン風邪大流行の最中、源作は移動も集まりも制限していない。マスクをした形跡もない。もし、これらのことを大事と考えれば、源作は家族にも「外出禁止令」を出したり、会社の操業を中止したり、社員にマスクをつくらせて、「マスクの大切さ」を書いたチラシとともに、社員の家族、施設、教会、近隣などに配付したであろう。不思議なのは、このスペイン風邪が、源作にとって、日常の中で過ぎて行ったことである。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅6⦆

日記でたどる第二次流行期
1919年11月は珍しく、病気、死亡の記述がない。
12月に入り、14日。源作弟友吉の長女ひで子が前日から発熱し、40℃に達している。ひで子は高等女学校生徒である。藤枝にも1918年、組合立志太実科高等女学校(19年に志太郡立志太高等女学校と改称。現、県立藤枝西高等学校)が設立されているが、寄宿舎に入っており、母志げ子が駆け付けているところから、ひで子は静岡県立高等女学校に在籍していたものと思われる。当時、県立高等女学校は末広町の原崎家のすぐ近くにあり、現在は末広中学校として使われている。高女は1937年、北安東に移転し、現在は県立静岡城北高等学校。ひで子には看護婦も付けられ、15日には37.6℃。しかし、思うように解熱しないため、寄宿舎から藤枝の自宅に戻った。18日になっても37.5℃から38.2℃。付き添っていた看護婦が風邪で帰り、別の看護婦が来た。19日には、朝、38.6℃、午後37.5℃に下がったと思うと、また38.5℃。20日も38℃台で柴医師往診。21日、38.5℃で柴医師・松岡医師往診。22日は37.6℃に下がったと思ったら、午後に38.4℃。25日に熱は37.5℃。松岡医師往診。この後、ひで子に関する記述はないが、藤枝へ戻ってからも、源作は姪の体温を克明に記録している。おそらく度々電話などで確認をしていたのであろう。発熱状態や付き添っていた看護婦が風邪症状を呈しているところから、流行感冒であろう。キクも発症していたようで、12月27日の日記には、
キク子風邪引き籠り中のところ、本日は大いによし。
の記述がある。姪の体温は克明に記しながら、娘の病状はこの一文のみであり、それほど重症ではなかったと思われるが、ひで子の症状は明らかに、スペイン風邪の大流行第二波到来を示すものであろう。
12月は死亡の記述も多く、16日に藤枝の木下清作の子どもが生後1カ月で死亡。20日には木成弥太郎、27日には掛川の山崎浜子が死去。その時、小川善年が亡くなっていたこともわかった。
1919年も終ろうとする29日。源作は循一といっしょに、堀ノ内の阪木九一郎を見舞っている。日記には、
容体は脳に異状を起こしうわ言多く、かつ腸より多量の失血あり。容体その他よろしからず、循一今夜看護をなす積もりなり。
そして、31日。
一、 伊達方 阪木九一郎殿 今朝1時ついに死去せし旨電報来る。(略)
一、 昨日は東京より二木博士来診せしも如何ともする能わざる容体なりしと、同氏の診断にては流行性感冒なりと申す事なり。
おそらくインフルエンザ脳症を発症したのではないだろうか。1920年の日記欠落が残念だが、1919年の日記の最後に、東京から招いた医師の診断結果が記されているのは、スペイン風邪に関する貴重な資料と言える。
日記が欠落している1920年に入ると、事態はいっそう深刻である。
「朝日新聞」は1月から東京市内(現在の千代田・中央・港・文京・台東・江東の各区と新宿区東部、当時15区)の死者・患者数を紙面で発表し始めた。19日は死者337人、新患者数32000人余。「朝日新聞」には「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。せき一つでも出る人は外出するな。その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」「流感悪化し工場続々閉鎖」(1月11日)、「銭湯、寄席、映画館、理髪店は流感にたたられて客がめっきり減った」(1月16日)、東京・砂村(現在の砂町)の火葬場は「開所以来最高の223のひつぎが運び込まれ、午後9時の終業時間を過ぎても作業に追われた」(1月20日)、「交通通信に大たたり、市電も電話局も毎日500~600人の欠勤者」(1月23日)などの記事がみられる。大都市では棺桶が不足し、代用に茶箱が使用された。
今と変わらない光景と言えば、「マスクはどの店でも品切れ続きだ。悪徳商人が粗悪品を売ったり、大幅値上げをしたりしている」(1月19日付)という記事も見られる。
原崎家の家系図によると、長男幸三郎の三女に美江の名がみられ、6歳で亡くなったことが記されている。長女ハツが1909年生まれ、四女富美が1915年生まれであるから、この間にや江と美江が生まれたことになる。や江は1919年5月23日に亡くなったことが日記にも書かれている。家系図には9歳で亡くなったことが記されているので、1910年か11年に生まれたことになる。美江は1912年から14年に生まれたと推察されるが、1919年5月14日の日記に、
堀ノ内 初子 三重子 3時30分発にて帰宅す。
の一文がある。三重子は美江であろう。1919年中に美江が亡くなったという記述はないので、おそらく1920年に亡くなったのではないだろうか。これより後になれば、富美と同年に生まれたことになってしまう。実際には1913年か14年に生まれたと考えられる。源作は子どもや孫の健康状態も克明に書いている。亮吉や郁平などは度々登場する。しかし、や江・美江に関する記述はみられない。美江もや江と同様に、元気な状態から、かなり急に亡くなったのではないだろうか。スペイン風邪だったかもしれないし、はしかだったかもしれない。その他の原因があったかもしれない。潜在的にスペイン風邪の打撃を受けていたかもしれない。
第二次流行期は、多くの人に抗体が形成されたため、患者数は少なかったが、ウイルスの毒性が強まったとみられ、死亡率は圧倒的に高かった。第一次流行期では、岩手・島根・和歌山・秋田・宮崎の死亡率が高かったが、第二次では沖縄・山梨・静岡・千葉・福岡・東京などが高く、欠落してしまった1920年の日記に、源作は多くの病気や死亡を書き込んでいたのだろうか。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅5⦆

1919年春から夏へ
堀ノ内の幸三郎の家では、4月2日、亮吉が下痢。5日には亮吉と富美が40℃の熱を出し、柴医師が往診。25日には下砂の丸尾源吉も40℃発熱。
5月。新茶の季節であるが、源作は1日、腸の具合が悪く、下腹へこんにゃくを煮て当て、2日には「藤枝子供」(おそらく友吉の子ども)がはしか。3日、用宗の原崎本家の三郎(商業学校二年生)が危篤で、7日に逝去。源吉も亮吉も、みつもキケンな状態で、8日に源吉死去。22日、幸三郎次女や江(や江子)が学校から帰宅後発熱40℃。翌日、37.5℃くらいまで下がったが、午後4時死去。9歳。その翌日には亮吉も2歳で昇天した。骨治めも終った29日、幸三郎の家では、富美と郁平が別々に発熱。はしか症状。この間、9日には源作が親しく交わり、信頼もしていた星菊太師範学校校長が急逝している。
星菊太は長野師範学校校長を務めていた1915年9月、教育改革を求める人たちを中心とした校長排斥運動によって、内堀維文と入れ替わる形で静岡師範学校校長として赴任して来た。写真で見ると、がっちりした頼もしい体格の持ち主で、どのような経緯で交流が始まったかわからないが、源作の良き協力者として盲唖学校の発展に尽力している。
6月に入ると、2日に静岡の茶商として活躍した水上房吉が病気のところ急逝。3日には藤枝に住んでいる源作の弟友吉の三女たか子が急に40℃の発熱。4日に柴医師が往診。5日には熱が下がっている。11日には斎藤村の水野いね子次男彦次郎が死去。13日、興津にいる池端みつ子がついに息を引き取った。
スペイン風邪の大流行を過ぎた時期に、あまりにも多い死者の数である。おそらくスペイン風邪が多くの人たちの身体に打撃を与え、生命の火を風前の灯にまで追い詰めていたのではないだろうか。おそらくこのような現象が日本各地、世界各地で起きていたのではないかと推察される。

1919年夏から秋へ
この後、6月19日に辻氏病気欠勤、源作も腹痛帰宅。24日、「下女病気のところ全快」。7月15日、「トキ子腹の具合悪く、昨日より寝たり起きたりして居る」、21日には源作が腹痛などの記述がみられるが、頻度として日常の範囲である。ただ、死亡に関する記述は、7月31日、根岸速次末っ子男児(3歳)、8月6日、北嶋録三郎の末っ子男児(4歳)、9月4日、磯部菊松次男(6月生まれ)、8日に本目総徳急死、9日に岩崎音吉次男変死、20日に石川重吉病死、その後、大石岸八も死去。10月には教会員の老女岩下、27日には星菊太の長男一郎が5月の父に続いて死去。全般に9月の死亡が多いように思われる。また、源作が幼子の死に殊更同情を寄せていることから記述が多くなる傾向はあるだろうが、7月から9月にかけて、乳幼児の死亡が通常よりはるかに多い印象を受ける。この間、9月28日、郁平が風邪と顔へ腫物ができ、発熱38.5℃、10月1日には快方している。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅4⦆

1919年正月から春へ
1919年正月に入って、家には子ども、孫なども集まり、午前10時から浅間神社でおこなわれた新年祝賀会には、県知事・市長はじめ400から500人が集まり、源作も出席している。いつもと変わらぬ正月風景である。20日にはもと子も来静し、受診。全快との診断を受けた。長女きくの縁談話しも進められている。28日には東京神田の青年会館で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の演説会がおこなわれ、会場は満員の盛況になった。前年からの大流行の余波が残っている最中である。
1月31日。
循一方家族皆風邪子供2人も病気にて 雇人2人その他手伝いなどにて大困窮なり
という記述がみられる。次男循一には妻のぶ、1915年生まれの長男進一、1917年生まれの長女愛の二人の乳幼児がいた。2月3日には静岡でも積雪がみられたようで、
七郎が 飛び起きにけり 今朝の雪
と言う、源作にしては珍しく一句添えられている。
循一家族は2月6日、「病人皆大いによし。」の状態になっているが、2月4日には五男和一も風邪で仕事を欠勤し、6日には熱37.3℃、13日には、
和一とき子両人風邪にて床にあり。
の記述がみられ、14日に「循一方病気皆近々よし安心す。」と記されているが、源作の家では、和一、とき子に続いて、源作も15日、「帰宅後風邪の気味にて床に入る。」と言う状態になっていった。源作は17日、熱37℃。18日には夜に腹痛を訴え、真夜中に松岡医師の往診を受けている。注射で腹痛は治まった。19日にも松岡医師の診察を受け、26日には熱も36.5℃で、会合にも出席しているが、27日には熱が37.5℃まで上がり、再び床につき、柴医師の往診を受けた。源作は3月11日には全快し、床屋へ行っているが、この間、2月20日・22日・23日・24日、28日、3月3日・4日・5日・6日と日記はまったく付けられておらず、容態はあまり良くなかったようだ。その後も、3月23日、発熱37.7℃。4月初め、一旦回復したものの、10日から13日まで発熱。床についている。
このような状況になるまで、源作は2月7日、会合のため上京し、麹町に宿泊し、本郷の鴻城館や築地精養軒で食事したり、横浜へも出かけたりしながら、13日に自宅へ戻った。自宅には和一、とき子が風邪で臥せっている。じつはこの頃、スペイン風邪は第一次大流行期を過ぎた後の、小さな山を迎えていた。そして、皮肉にも、源作は15日、倶楽部懇話会に出席し、県庁衛生課長飯村氏から「感冒」について話しを聞いて、帰宅後、風邪気味で床についた。
振り返ってみれば、源作はとんでもない時に上京していた。2月3日付朝日新聞には、「大臣では原首相をはじめ内田外相、高橋蔵相らが引きこもり中で、ほかの高官にも患者が少なくない」「患者は増える一方、医師にも伝染し、看護師も倒れる。東大病院は入院を断っているし、ほかの病院もすべて満員。実に恐ろしい世界感冒だ」。あきらかに医療崩壊だ。このような東京から逃れるように、熱海には人が押し寄せ、「感冒避難客で温泉宿はどこも満員で、客が布団部屋にまであふれている」(2月19日)。
芥川龍之介も2月中頃から再びスペイン風邪に罹り、症状はだらだら続き、3月3日に東京・田端の自宅から鎌倉の家へ戻ったが、12日になっても、「目下インフルエンザの予後で甚だ心細い生き方をしてゐます」と書いている。源作もおそらく前年の11月から12月にかけての時点でスペイン風邪を発症したと考えられるが、龍之介同様、1919年に入って、再び発症したと思われる。抗体がじゅうぶんにできなかったか、ウイルスが変異したためかもしれないが、当時の医学水準では検証が困難であろう。60歳を過ぎた源作も、27歳の龍之介も、体調のすぐれない2月・3月を過ごしていた。そして、3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなった。69歳だった。
アメリカに販売の拠点をもつ富士製茶は、アメリカの情報を入手できる環境にあった。アメリカに赴任している石井からつぎのような情報がもたらされている。3月8日の日記には、
米国ニューヨーク石井氏より来状。かの地茶況意外に悪く非常なる困窮の由申し来る。又流行風邪にて死亡する者多しと。
原崎家ではついに七郎が発症した。3月9日、朝の熱36.4℃は午後3時には39.6℃まで上昇し、松岡医師に往診を依頼している。「再度」と記されているところから、源作が床にある頃、すでに発症し、一旦回復していたものと推察される。七郎は11日朝38.2℃、午後になって38.7℃。しかしながら、「食事は熱の割合によく進む」と記されている。七郎がいつ頃全快したか、記されていない。七郎は前年2月にも風邪で38℃の発熱を起こしている。
3月1日、興津の別荘に行った池端みつ(みつ子)は病気のため、15日に柴医師の往診を受け、以後、たびたび病状の記述がある。食欲がなかったり、熱が38℃台に上がったり、一進一退を繰り返している。28日には看護婦を雇っている(4月7日まで)。とにかく4月には、毎日のように、みつの病状が記され、25日には、「腹部の具合悪く母上終日さすり居る」の記述があり、静岡から柴医師、それに地元興津の川村医師が往診している。みつは前年1月18日、風邪の記述があり、2月になっても37.2℃前後で推移し、松岡医師も原因不明と困惑している。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅3⦆

1918年夏から秋へ
1918年8月。源作は60歳。前年生まれた亮吉(堀ノ内に住む長男幸三郎の長男)は13日、具合が悪く、静岡へ出て来て柴医師の診察を受けている(9月1日には柴医師から、食事の加減をするよう指示されている。)。源作の腹具合も良くない。14日の日記には、
 昨夜市中各所にて米価高騰のため下級民市中を練り回り三番町松山 宮崎友太郎 小林貞雄氏等にて物を傷付けやや乱暴をなしたりと
 記され、翌日には軍隊も出動したが効果なく、数十カ所が被害を受けたと書かれている。いわゆる「米騒動」(7月22日~9月12日)である。
9月に入っても源作は、8月から引き続き腹の具合が悪く、下痢も時どきみられる。16日、アメリカのシアトルから野球チームが横浜を経て訪れ、親善試合をおこなっている。
10月12日、源作は熊本でおこなわれる茶業大会出席のため、静岡を発ち、岡山を経て、14日、博多に到着した。この間、幸三郎次男郁平が生まれている。源作は25日まで九州各地に滞在し、京都・大阪を経て、30日、静岡に戻った。
ところがこの時すでに、スペイン風邪は爆発的流行を迎えている。とくに流行の早かったのは、神奈川・静岡・福井・富山・茨城・福島、これに埼玉・山梨・奈良・島根・徳島と続き、9月下旬から熊本・大分・長崎・宮崎・福岡・佐賀、10月中旬には山口・広島・岡山・京都・和歌山・愛知、東京・千葉・栃木・群馬と拡がっていく。北海道と沖縄は遅く、北海道は10月下旬、沖縄は11月上旬になってからである。
とにかく、源作が旅行した地域のほとんどが大流行地域になっており、福岡県では、10月10日、筑紫高等女学校で県内初の患者が発生し、1ヵ月で4400人ほどが亡くなっていたのである。大分県でも10月だけで756人が死亡している。
こうした状況の中で、源作は博多・熊本・人吉・鹿児島・都城・宮崎・延岡・佐伯・別府などまわり、各地で会食し、旅館に宿泊している。静岡に戻っても、10月30日、九州行きの報告会をおこない、31日・11月1日には野球会も開催されている。日記を読む限り、スペイン風邪が猛威をふるっているなど、一言も記されていない。

1918年秋から冬へ
とにかくスペイン風邪は今までのインフルエンザと明らかに違う威力をもっていた。スペイン風邪は発症すれば40℃近い高熱が出て、数日間で呼吸困難になり、死亡する例も多くみられた。とくに15歳から35歳の健康な若い人が多く、軍隊はじめ、中学校や高等女学校での流行が大きかった。これは「サイトカイン・ストーム」と呼ばれる現象で、健康な若者は生体の防御免疫機能が活発で、ウイルスの感染によって過剰反応を起こしやすいためである。
学校は休校が相次ぎ、運動会・修学旅行も見合わせが続出した。電車の運転本数は減り、炭鉱も休業。東京府では、10月28日から毎日平均200人以上亡くなり、全国各地で火葬場が満杯になり、処理できない状態になっていった。
芥川龍之介も発症した。11月2日には「僕は今スペイン風※でねてゐます。」(※風邪)「熱があつて咳が出て甚苦しい。」とつづられている。龍之介は一週間ほどで回復したが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなった(二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺して話題になった)。
抱月が東京で亡くなった翌日の11月6日、谷口留五郎・福岡県知事は、他人と談話する時は1.2メートル以上隔て、マスクをし、咳・くしゃみをする時は布で鼻・口を覆うように、宿屋・汽車・汽船などは感染しやすいので、旅行はなるべく控えるように、注意喚起を発表している(11月8日付「福岡日日新聞」)。新型コロナウイルス感染に対しても、同様のことを言っているのだから、100年経っても、人間は進歩していないと思うが、感染症の基本対策は100年経っても変わらないことを示している。
源作の日記も11月に入ると、様相が変化してくる。
11月3日、源作の孫にあたる富美(ふみ子、幸三郎の四女、1915年生まれ)が静岡へ来て発熱。38.5℃になったため、松岡医師の往診を受けている。5日には全快し、堀ノ内へ帰った。13日には欧州戦争の休戦条約が締結され、14日、富士製茶の製函工場から出火し全焼した。17日には源作の妻とき子病気の記述があり、18日にはとき子と七男の七郎が風邪で床にあるとの記述がみられる。七郎は平熱に下がっている。23日には次女で末っ子のせい(セイ子、1908年生まれ)が発熱。熱が下がらないため松岡医師に診てもらっている。24日、せいは朝の体温37.5℃、夕方38.5℃。27日には解熱し、日記には「大いによし」と記されている。翌28日には堀ノ内の幸三郎が風邪で37.5℃。29日には源作も風邪気味で早めに床についている。このすべてがスペイン風邪によるものかわからないが、ここへ来て、原崎家も異常に風邪が多く、清々しない11月を過ごしている。
そして、ついに12月3日、つぎのような記述が出てくる。
堀ノ内幸三郎方にて流行感冒にて子供その他家に籠り居ると電話来るにつき、とき子見舞いに行く。
この時、長男幸三郎の家には、幸三郎の他、妻もと、長女はつ(1909年生まれ)、次女や江、三女美江、四女富美、長男亮吉、次男郁平がいた。どの範囲まで発症したかわからないが、スペイン風邪の家庭内感染が濃厚な最初の記述である。9歳から生まれたばかりの乳児まで6人の子どもがおり、たいへんなことだったと思われる。4日に「堀ノ内病人、大いによし」ということで、手伝いに来る人もあって、とき子は一旦静岡に戻ったが、7日には再び赴き、一泊した。ところが、8日には、
きく子又風邪にて籠り居、下女も風邪にて具合悪いにつき
とき子は急きょ、静岡へ呼び戻された。きく(きく子、源作長女、1898年生まれ)は、「又」と書いてあるので、日記には記されていないが、少し前にも風邪症状を示したものと思われる。12日には源作が悪寒、もたれ。発熱37.8℃。翌日は37.2℃まで下がり、15日には「風邪大いによし、少しは起きてみる。」と記している。この間、毎日、松岡医師の往診を受けている。源作は予後が悪く、18日に松岡医師の診察を受け、咽喉の具合が悪いと言うことで吸入を施されている。
20日になると、幸三郎の妻もと(もと子)が発熱。40℃。21日になっても39℃で、静岡から柴医師が往診に出向き、24日になっても40℃で、柴医師が再び往診している。母親が病気になっているため、郁平は22日に静岡へ連れて来られた。24日になっても熱は40℃で、一番町の本間医師が堀ノ内まで往診に出かけている。もとは27日になって「病気大いによろし」の病状は改善し、29日、「昨日より食事を粥となせし」という状態になり、31日には36℃の平熱に戻った。おそらく12月初めの家族内集団発症のおり、もとは発症しなかったのだろう。31日の日記には、
堀ノ内預かり小児郁平 昼健康勝れ皆々喜び居る。生乳1合 コンデンスミルク2時間に4オンス又は5オンス(17・8倍)にて大便 上々なり。
と、記されている。生後2ヵ月余の乳児に母乳を与えることができない場合の対処法として貴重な資料である。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅2⦆

スペイン風邪の流行
 スペイン風邪は1918年から1920年にかけて世界的に流行し、患者数約6億人、死者数2000万人から4000万人と推定されている。当時、終戦を迎える第一次世界大戦戦死者の数倍の死者数である。ヒトにおける最初のA型インフルエンザであったため、大流行し、犠牲者も多かった。
きっかけは、1918年3月、アメリカのデトロイトなどで流行が始まり、5月から6月にかけてのアメリカ軍のヨーロッパ進駐によって、ウイルスがヨーロッパに持ち込まれ、大流行。人びとの移動によって世界各地へ拡がって行った。日本の軍隊の中にも、5~6月頃からスペイン風邪は拡がっていった。当時、後に第一次世界大戦と呼ばれる大きな戦争の終盤であり、日本もアメリカとともに連合国側に与していたから、アメリカ軍とともに、ヨーロッパの連合国側の軍隊などとも接することがあっただろうから、感染の機会があったことはじゅうぶん考えられる。
しかしながら、軍隊の中では3月頃から流行していたという説もあり、また、1918年3月、台湾の割烹旅館「梅屋敷」創業20周年を記念しておこなわれた、東京・大阪両相撲団合併台湾巡業に参加した力士らが、4月になって20人以上が風邪を発症し、3人が亡くなるという出来事も起きている。これが、スペイン風邪の先触れとも言われるが、どのようにしてアメリカのスペイン風邪が台湾までやって来たのか謎であり、現在のようにウイルスを詳しく調べることもできなかったので、スペイン風邪を引き起こしたウイルスと同一だったかどうかもわからない。とにかく、日本に戻っても力士などに拡がり、5月場所では休場が相次ぎ、「相撲風邪」などと呼ばれた。
機密事項もあって不明な点も多いが、軍隊の中に拡がっていた風邪の感染は8月頃に治まったようにみえたが、9月にはいって日本国内でも、スペイン風邪の大流行を迎える。
日本における大流行は死者数からみて大きく二つの山があり、第一次は1918年10月から顕著に増加し始め、11月に頂点に達し、一旦低下したものの、1919年2月に小さな山を迎え、収束していった。ところが1919年12月から再び急増し、1920年1月頂点に達し、これが第二次大流行になり、その後、収束。1921年冬季にも小さな流行がみられた。患者数は第一次が圧倒的に多く2100万人余、死者が26万人ほど、第二次は患者数240万人ほどと少なかったが、死者は13万人に迫り、死亡率は第二次が圧倒的に高かった。
最終的に、日本におけるスペイン風邪は、患者数約2358万人、死者数約38万5千人(当時、季節的なインフルエンザも流行する時期で、「流行感冒」という概念で捉えられていたし、インフルエンザウイルスの発見も1933年、スペイン風邪のウイルス遺伝子が確認できたのは1997年になってからであり、すべてがスペイン風邪であったかどうかもわからない。また、すべての人が医療を受けられたわけではなく、家で亡くなることも多かったから、死因が特定できない死亡例も多かったはずで、患者数や死者数もあくまで推定である。死者数についてはもっと多かったのではないかと言われている)。関東大震災や東京大空襲、広島や長崎における原爆犠牲者をはるかに上回る数字である。日本総人口のおよそ41.6%がスペイン風邪を発症し、0.68%が亡くなった。つまり、5人家族の家が200軒ある地区を想定した場合、住民のうち420人が発症し、その中で運悪く7人が亡くなった、という数値である。

日記を読み比べる
 スペイン風邪流行期に、病気や死亡の記載がほんとうに多かったのか。それを確認するため、現存する日記でもっとも古く、かつ流行期に近い1916の日記を読んでみると、病気に関する記載が7件、死亡が10件である。退院・快方の記載も病気、会葬の記載も死亡として扱った。源作は毎年、2月から4月にかけて鼻の病気で毎日のように中田耳鼻科で治療を受けているが、以後においても件数から除外している。
 1918年に入ると、前半6月までは病気9件、死亡7件、後半12月までは、病気21件、死亡1件(年間計:病気32件、死亡8件)。1919年は前半6月までは病気34件、死亡12件、後半12月までは、病気9件、死亡12件(年間計:病気44件、死亡24件)。この時期、一人について何回も病状が記されているので、実際の病気記載件数は倍増する。1919年2月から3月にかけて、源作も「風邪」で10日間、日記を休んでいる。
見落としなどで、若干の差異が見込まれるが、病気記載がとくに多い1918年後半から1919年前半は、スペイン風邪の第一次大流行の時期と一致、1919年後半の数値はとくに12月に多く、第二次大流行の時期と一致している。

おかげで、来館者が5万人を超えました。たくさんの方にご来館いただき、ほんとうにありがとうございました。
今日からこの「館長のつぶやき」に新しい連載が始まります。つぶやきに連載と言うのもヘンですが、興味がもてましたら、引き続いてお読みください。

7月21日、NHK総合「おはよう日本」で、「日記にみるスペインかぜ」が放映されました。そのもとになった『源作日記にみるスペイン風邪』を、この「館長のつぶやき」で、連載形式で紹介していきます。同じウイルスと言っても、スペイン風邪を引き起こしたインフルエンザウイルスと、今回のコロナウイルスとでは種類も性質も違いますが、感染症拡大の中で人びとがどのように行動したかを知る手がかりになると思います。

【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅1⦆

 原崎源作(1858~1946)は静岡県における茶業発展におおいに貢献するとともに、クリスチャンとして社会的もさまざまな貢献をしたマルチ人間である。その源作は明治中期から亡くなる年まで、およそ50年間、こまめに日記をつけていた。日記の多くは焼失したが、1916(大正5)年から1939(昭和14)年までの日記のうち、1920年、1933年、1934年の三か年を除いて現存し、1932年の日記まで、源作ひ孫の村上三恵子、源作孫の原崎幹雄の手で解読、デジタル化された。
 デジタル化された日記を読んでいく中で、私は異常に病気や死亡の記述が多い時期があることに、妙に引っかかった。けれどもそれ以上、深入りすることはしなかった。しかし、今回、新型コロナウイルス感染が国内はもとより、世界各地に拡がり、大きな不安をもたらす中で、100年前に起きたスペイン風邪の大流行が注目を浴びるようになり、私は「もしや」と思って、日記の異常な時期を改めて確認してみると、1918年と1919年の日記であった。スペイン風邪が流行したのは1918年から1920年であり、確かに一致していた。
 源作日記はその日の覚書のように、簡略に書かれているが、仕事のこと、社会的関わり、人物往来、家族のことなど、自分の身の回りのことが、多方面に記されている。日記の始めには、その日の天気と気温(華氏で記載)、終わりにその日の家庭礼拝などで読んだ聖書の箇所(旧約聖書が多い)が書かれている。読んでいて気付くのは数値が多いこと。気温の他、金銭、取引量、汽車の発着時刻、そして、病気においては体温が克明に記録されている。スペイン風邪が大流行する中で、源作たちがどのように行動し、誰が発病し、どのような症状を示し、体温がどのような経過をたどったか、それは今日でも医学的に貴重な資料を私たちに提供しているのではないか。
 そのような思いをもって、1918年・1919年の源作日記を読み直し、「源作日記にみるスペイン風邪」と題して、まとめてみた。1920年の日記が欠落していることが残念でならない。(なお、文中、すべて敬称を略した。)

神楽坂における鏡花を調べていて、ひとつの疑問が起こりました。鏡花は神楽坂2丁目22番地に、いつからいつまで住んでいたのだろうか。かつて説明板がなかった現地に、「泉鏡花旧居跡・北原白秋旧居跡」の説明板が建てられましたが、それによると鏡花はこの地に明治36年3月から明治39年7月まで住んだと記されています。この後、鏡花は逗子で4年間過ごし、明治42年2月、東京へ戻り、土手三番町に住むようになりました。しかしこれでは、逗子には2年半しか住んでいなかったことになります。ところが、泉鏡花記念館の年譜や「広報ずし」の記述では、明治38年に神楽坂から逗子に転じたことになっています。
 このような食い違いが生じた最大の責任は鏡花自身で、自筆年譜に明治39年と書いてしまったからで、本人が書いたことだから間違いないだろうと、いろいろなところで使われています。神楽坂2丁目22番地の説明板もその一つです。この説明板は新宿区が建てたものではありませんが、「新宿区指定史跡」と書いてあるところから、区の担当者も気になっているようです。消しゴムで消して書き直すこともできず、修正ペンを使うこともできず、どのように訂正したら良いか、悩むところです。責任は鏡花にあると言っても、同じような間違いは私自身もやってしまうので、責める気にもなれません。
 これから神楽坂へ行かれる方は、説明板の「明治39年7月まで」を「明治38年7月まで」と頭の中で訂正して読んでください。鏡花を支え続けた祖母は明治38年2月20日、この地で亡くなっています。異郷で亡くなったことになりますが、成功した孫の姿を見ることができたのは、せめてもの救いだったかもしれません。
犀星、脚色された人生

かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)
犀星が『我が愛する詩人の傳記』で書いた高村光太郎に関する一節です。1917年頃の光太郎と智恵子。智恵子は1936年に亡くなり、光太郎は戦時中、岩手県太田村に疎開します。犀星は『我が愛する詩人の傳記』をさらに続けます。
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪に凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもだえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。(略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。(略)しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。
どう考えても、このような一連の場面を光太郎が目撃させるはずはありません。明らかに犀星の創作です。『我が愛する詩人の傳記』が出版されたのは1958年ですから、69~70歳の犀星がこの文章を書いたのです。そして、翌1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表します。
『蜜のあわれ』には、つぎのような会話がある。
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、(略)」(略)
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
「性慾」という言葉は1956年から57年にかけて書かれた『杏っ子』にもたびたび出てきます。
このように犀星が性欲にこだわるのは、70歳前後になっても女性に対する欲望があり、それを抑制しないで表現したと言えばそれまでですが、私は犀星の出生に対する皮肉だったのではないかと思うのです。
小畠吉種がある女性と肉体関係をもち、犀星が誕生した時、吉種は満63歳。船登芳雄は『評伝室生犀星』で吉種の実年齢はさらに4歳上だったとしています。まさに犀星が『杏っ子』を書いていた年齢の時に、吉種は子をもうけたのです。自分が吉種の子であるならば、自分もまた、今、どこかの女性との間に子どもをもうける能力があるのではないか。けれども現実は、欲望はあってもそれにともなうものが欠けていることに犀星は気づいていたでしょう。欲望は作品の中でしか満たすことができない。犀星はここへ来て、吉種が実父ではないことを確信した、私はそう思います。
世間の関心はともかく、犀星はかなり早い段階で生母が山崎千賀であることを知ったのではないかと、私は思います。1908年12月に希望して金石へ転勤したのも、金石で生まれた生母の情報を得るためであったと言えるのではないでしょうか。犀星の疑問はむしろ「実父は誰か」という点に移っていたようです。1929年、犀星は生種の長男悌一に「僕のオヤヂの名前をしらせて下されたく、年譜をつくる必要があるのです」と問い合せています。通説としてのオヤジの名を、当然犀星は知っていたはずで、あえて聞く必要もないことです。この通説に犀星自身が疑問を感じたからこそ、探りを入れたのでしょう。それに対して、母は山崎千賀としながら、父の名は吉種という返事でした。
すでに生母の名を知っていた犀星は母の名にはまったく興味を示さず、父に関してはこれ以上追究しても無駄だと思ったのでしょう。
1943年発表された、《夏の日に匹婦の腹に生まれけり》という犀星の句は、遊郭で働く千賀の素性を知っていたことを裏付けています。しかし実父に関して、犀星は結局、何の確証も得ることができなかったのです。
自分の出生すら脚色された犀星。それなら、とことん自分の人生を脚色してやろうではないか。犀星の自伝的小説は、そして犀星の文学はそのような側面から、今一度捉え直してみる必要があるのではないか、私はそう考えます。


 マスクは届いたでしょうか。特別定額給付金のお知らせは届いたでしょうか。何か起きると、漱石が生きていたら、どのように論評しただろうかと思います。
 今から110年前の1910年6月12日、『門』の連載が終了しました。伊藤暗殺のニュースについても、漱石は『門』の中でも独特な論評を書いています。日本史に残る大きな出来事が続いた1910年。漱石が健康であったなら、もっともっと何かを書き残していたかもしれません。3月1日から始まった『門』の連載。110年後のこの期間、私たちは新型コロナウイルスと向き合わなければならない期間でした。新型コロナ以後(ポストコロナ)において、大きく価値観が変わると言われていますが、すでに私たちの価値観は180度、変わらされてしまっています。実家へ帰って出産する「当たり前」が、「当たり前」でなくなり、ふるさとのおふくろに会いに来る心優しい息子が、「非常識な人間」のように非難され。おそらくこのような社会に、漱石なら敏感に反応したのではないでしょうか。
 移動することと集まることを制限されると、もう、人間は人間ではなくなってしまう。逆に言うと、人間は移動し集まることによって生きているということを、改めて知らされました。「木曜会」の集まりができなくなったら、漱石も門下生の若者たちも、さぞイライラが募ったことでしょう。
新型コロナウイルス感染の世界的拡大にともなって、100年前に大流行し、多くの犠牲者を出したスペイン風邪が注目を集めるようになっています。
芥川龍之介も1918年10月末頃、スペイン風邪を発症し、「熱があつて咳が出て甚苦しい。」状況が続いて、一週間ほどで回復しましたが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなりました。この二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が、自分は発症しても生きていて、抱月が亡くなったことに後ろめたさを感じたのか、後追い自殺して話題になりました。惚れた歌舞伎役者の後追い自殺を描いた鏡花の『葛飾砂子』が映画化されたのは1920年であり、須磨子の事件が20年も前の作品を掘り起こすきっかけになったように、私には思われます。
27歳の龍之介は2月中頃から再びスペイン風邪に罹り、症状はだらだら続き、3月3日に東京・田端の自宅から鎌倉の家へ戻りましたが、12日になっても、「目下インフルエンザの予後で甚だ心細い生き方をしてゐます」と書いています。そして3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなりました。69歳でした。
正確な状況を把握することは不可能ですが、日本におけるスペイン風邪の患者数約2358万人以上、死者数約38万5千人以上と推定されています。関東大震災や東京大空襲、広島や長崎における原爆犠牲者をはるかに上回る数字で、日本総人口のおよそ41.6%以上がスペイン風邪を発症し、0.68%以上が亡くなったにも関わらず、スペイン風邪は「忘れ去られたパンデミック」と言われるように、日常生活の中に埋没していきました。コレラが怖くて、家に引きこもったり、食材は煮沸して食べた泉鏡花も、スペイン風邪から逃げ回った形跡はありません。1916年に疫痢で長女を失った徳田秋聲も、スペイン風邪について特に触れていないのです。
もちろん、芥川龍之介と同じように、スペイン風邪に罹ったことを書簡などに残した文学者がないわけではありません。歌人で精神科医の斎藤茂吉もその一人。茂吉は1920年1月、長崎で罹患し、生死をさまよい、同僚医師が亡くなっています。茂吉はスペイン風邪からは生還しましたが、結局、結核を発症し療養を余儀なくされました。武者小路実篤はスペイン風邪から20年を経過した1939年に書いた『愛と死』で、主人公の惚れた女性をスペイン風邪によって奪っています。
ただ、丹念に読んで行けば、スペイン風邪大流行時の影を見出す作品はいくつかあるのではないだろうか。私がひっかかったのは、室生犀星の『或る少女の死まで』です。
1919年、小説家に転身した犀星は、『幼年時代』『性に眼覚める頃』に続いて、11月、『或る少女の死まで』を発表しました。幼年期、少年期に続いて、上京間もない青年期を描いた作品に、なぜ少女の死をテーマに選んだのでしょうか。
ひとつの可能性は、結婚を機に、石尾春子や村田艶(ツヤ)をはじめとする、それまで犀星が好きになった女性を「殺す」つまり、記憶から消してしまうということです。とりわけ、ふじ子に関しては、石尾春子との金石時代の思い出が重ねられているように感じられ、1914年8月7日の夜行で、「緑深い金沢」へ帰った犀星が春子に再会し、やがて恋破れていったことも反映されているようです。
ただ、新型コロナウイルス感染症の拡大が日本も含め、世界を揺るがす中で、100年前のスペイン風邪大流行に注目した時、私にはもうひとつの可能性が浮かんできました。『或る少女の死まで』はスペイン風邪の第一次大流行を越え、第二次大流行へさしかかる1919年に書かれました。2月には結婚に際し労を惜しまなかった義母(実父の妻)小畠珠が49歳で亡くなっており、時期的にスペイン風邪による死を否定できません。親友になった龍之介もスペイン風邪に罹ったし、龍之介の実父は3月にスペイン風邪で亡くなっています。
当時は多産多死の時代がまだ続いており、人が生まれ、人が亡くなっていくということが、日常生活の当たり前の出来事で、さまざまな感染症が繰り返し襲って来ており、乳幼児の死亡も多く、スペイン風邪だけが、特別な存在として意識されることは、ほとんどなかったと思われますが、それでも平常よりはるかに多い死亡は、社会全体を包み込み、犀星にも影響を与えたのではないでしょうか。
『或る少女の死まで』で元気なふじ子は、鹿児島に行ってから、12月に腸に病を得て急死しています。腸チフスを想定したかもしれませんが、設定時期1911年頃を、1918年12月に振り替えていくならば、スペイン風邪を念頭に置いたという推論も成り立ってきます。激しい嘔吐・下痢もスペイン風邪の症状としてみられ、元気だった子どもがあっという間に亡くなってしまった事例もみられます。
 
読むことよりも書くことの好きな私は、この文学館に掲載する文章を書くために、いろいろな文章を読まなければなりません。皮肉なことですが、必要性があって読むから、けっこう楽しい。時には同じ作品を何回も読み直し、そのたびに新しい発見があるから不思議なものです。『こころ』も何十回読み直したことか。それでも新しい発見があるのは、いかにきちんと読んでいなかったかということにもなりますが、その時どきに「知りたいこと」が違っていて、読み飛ばしていたことが、ふとある時、目にとまるのだろうと思います。
犀星の『杏っ子』を読み直していて、こんな発見をしました。新しく家を建てるため、トラックいっぱいの蔵書を売ってしまった平四郎。《本屋から受けとった金は、建築に必要な経費の大半であった。平四郎は夏目漱石の軸二本をとり出し、これも処分することにした。漱石は後代の詩人くずれの男が、家を建てるために掛物二幅を売ることも知らないであろうし、この掛物の売立会をした滝田哲太郎もゆめにも思わなかった事であろう、一文人の書いた物は、こんなふうに何時でも売られたり買われたりしているのである。それで沢山なのだ、平四郎の色紙や短冊が何処でどういうふうに売られていても、構わない、若しそれが米塩にかえられるなら、それこそ、よかったね、と思われるくらいであった。》――さてこの時手放した漱石の掛物。今頃、誰が所有しているか、気になるところです。
新型コロナウイルス感染の社会的不安が拡がっています。感染するのではないかという不安とともに、この先、いつまでこのような状況が続くのか、先の見えない不安も大きいのではないかと思います。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行で、100年前のスペイン風邪が注目を集めています。芥川龍之介もかかった、当時の新型インフルエンザです。後に最初のA型インフルエンザであったことがわかりました。龍之介は2回も発症しましたが、無事でした。けれども実父はこのスペイン風邪で亡くなりました。
明治期にもさまざまな感染症が流行し、多くの人を恐怖におとしいれました。インフルエンザもその一つですが、とくに1889年から91年にかけて大流行したインフルエンザは、「お染風邪」と言われて恐れられました。漱石はこの時の様子を書き残していませんが、『琴のそら音』と言う作品に、インフルエンザが登場します。
余が親友津田君の下宿を訪問します。4月3日、花盛りの頃です。いろいろ話すうちに、余の結婚相手(宇野露子)の病気に話題が移り、「大丈夫に極ってるさ。咳嗽は少し出るがインフルエンザなんだもの」と、気楽に答える余に、「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かす程な大きな声を出す。津田君はさらに「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹ってね。別段の事はないと思って好加減にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になるから用心せんといかんと云ったが――実に夢の様さ。可哀そうでね」
設定では余はインフルエンザというものを軽く考えている。この作品が書かれたのは1905年。お染風邪からすでに10年以上。当時、さまざまな感染症がある中で、インフルエンザに対する警戒心がゆるんでいることに警鐘を意図したかもしれません。
漱石は1900年5月から1902年9月まで、イギリス留学に出かけています。じつは、1900年というのは、欧米でインフルエンザの大流行が始まった年で、幸い漱石は罹患することがなかったようですが、ヨーロッパに来ていた友人の立花銑三郎は1901年2月末頃、ドイツで発症し、3月下旬、オランダのアムステルダムから帰国の途につきますが、5月12日、上海沖で肺炎を併発し、35歳で亡くなりました。漱石はロンドン停泊中の常陸丸に立花を見舞っています。『琴のそら音』の「この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になる」と言う一文はこの時の体験がもとになっているかもしれません。漱石自身もイギリスでインフルエンザの猛威を目の当たりにして、脳裏に深く刻まれるものがあったのだろうと推察されます。
心配になると、人間、悪い方へ悪い方へと考えてしまうもので、白山御殿町の津田の下宿を午後11時近くに出た余は、時の鐘におびえ、極楽水あたりは死んだように静まり、そこへ葬列が通りかかる(こんな時間に通りかかるはずはないのだが)。雨も降り出す。それから、昼間でもこわい切支丹坂を滑り下り、茗荷谷を行くと、赤い鮮やかな火。盆燈籠のようで、この火が消えたら露子が死ぬ、などと思うと、もう額はあぶら汗。新しい谷道を上ると、また赤い火。それは巡査の持つ灯だったが、その声が気味悪い。結局、1時間ほどかかって、小日向台町の自宅に帰ると、下女の婆さんが心配する。とにかく、翌日すぐ、四谷坂町の宇野家を訪ねると、露子は昨夜中央会堂の慈善音楽会に行って遅く帰ったということで、「インフルエンザは?」と尋ねると、「ええ風邪はとっくに癒りました」。
こうなると、人間、げんきんなもので、余は帰り道、神楽坂へまわって、床屋へ入っています。自宅へ帰ると、すでに露子が来ていて、笑いが絶えず、その後、露子が余を一層愛するようになったと、おのろけ話しまでついています。
インフルエンザの話しは『三四郎』にも出てきます。罹患した三四郎の症状が詳しく描かれています。『三四郎』は新聞連載とほぼ同時間をたどっています。1908年にも季節性のインフルエンザが流行っていたのでしょう。1910年3月には、小屋(大塚)楠緒子がインフルエンザに罹り、結核を悪化させ、その年の11月13日、肋膜炎に至って、亡くなっています。36歳でした。
スペイン風邪は漱石死後2年の1918年に始まりました。漱石が生きていたら、どのような思いをもったでしょうか。
津田青楓。つだせいふう。4月12日まで練馬区立美術館で「生誕140年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」が開かれています(新型コロナウイルス感染症の拡大防止などのため、会期中のイベントはすべて中止になっています)。
青楓は1880年、京都生まれ。1907年にパリに留学し、1909年に帰国し、翌年、活動の拠点を東京に移し、漱石を訪ねました。なぜ漱石なのか。パリで漱石の大ファンだった荻原守衛(碌山)と交遊をもっているので、漱石について相互に何らかの影響があったかもしれません。また、漱石自身、美術評論などもおこなっており、そのようなことから漱石に関心をもったのかもしれません。青楓は漱石に絵を教えたり、いっしょに展覧会を観に行ったり、『道草』『明暗』などの本の装丁も手掛けています。青楓は漱石の葬儀で人目もはばからず泣きじゃくったと言われています。
後に河上肇の影響を受け、プロレタリア美術運動にも関わり、1933年には虐殺された小林多喜二を主題にした「犠牲者」を描いていたところを、検挙されています。絵画の技法、様式にも捉われず、当時の社会的風潮にも迎合せず、自由でありたいという心情が、漱石と共感するものがあったのだろうと、私は思います。青楓が「背く画家」であったからこそ、漱石は惹かれ、また青楓も漱石に惹かれたのだと。
津田青楓は1978年、98歳で亡くなりました。
新型コロナウイルス感染が大きな問題になっています。病気、とりわけ感染症は自然災害などとともに、人類が長い間、戦い続けてきたものです。
漱石もこどもたちへのエキリ感染を心配して、水道を引いたと言われていますし、徳田秋聲は1916年、長女をエキリで亡くしています。漱石は、琴のそら音で、恋人がインフルエンザで亡くなるのではないかという恐怖を、親友の家からの帰り、寺の鐘や、深夜の葬列、切支丹坂、巡査の灯り、犬の遠吠えなどを出して表現しています。翌日、彼女の家を訪れると元気で、そうなると気分も晴れ晴れと、神楽坂にその思いを表現しています。それにしても、今回の事態。いつになったら晴れ晴れとする日が来るのでしょうか。自分以外、家族全員亡くなったと言うような、スペイン風邪流行時の話を思い出すたび、感染症の怖さを感じます。今回も、家庭内感染をどう防ぐかが重要と言われています。情報の溢れた時代、何を信じて良いかわからない状況ですが、その中から正しい情報を嗅ぎ分ける能力を持ちなさい、と言うのが
、漱石からのメッセージではないかと、私は思います。
伊香保温泉に行ってきました。温泉でのんびりしたいという思いもありましたが、伊香保を選んだ理由はもちろん漱石が訪れたところだから。漱石は夏休みを利用して、1894年7月25日、伊香保へやって来ました。
こうなると、どうやって伊香保まで行ったか気になるのが私の性分で、漱石は7時25分に上野停車場発の汽車に乗ったことを小屋保治宛手紙に書いています。おそらく、高崎で降り、渋川行きの馬車鉄道に乗ったと思われます。高崎線と呼ばれ、漱石が行く一年前の1893年9月1日に開通。約21km。前橋から渋川へ行く馬車鉄道前橋線も漱石が訪れる1週間前の7月17日に全線開通しています。漱石がどちらを選んだかわかりませんが、当時の情報を考えれば、高崎の方が可能性は大きいでしょう。とにかく漱石は新しく鉄道が開通し、便利になると、そこをめがけて出かけています。渋川から伊香保に鉄道が開通するのは1910年ですから、当時は渋川から徒歩。距離約13km、高低差約500m。と言っても、漱石も、他に訪れた文人たちも、何も書いていません。歩いてたいへんだったら、書いたはずです。漱石が訪れた当時、伊香保は人気の温泉で、大勢の人が訪れています。女性も、外国人もみられます。駕籠、馬が使われた記録があり、人力車、馬車も使用されたようです。地形に合わせて、これらを組み合わせ、ひとつの交通システムがつくりあげられていたと、みることができるでしょう。江戸時代なら、江戸から4日以上かかった伊香保へ、漱石はその日の夕方6時頃、到着しています。
漱石は石段街の中ほど、江戸時代からの老舗木暮旅館に泊まろうと思ったものの、満室と断られ、番頭に探してもらって、萩原旅館に泊まったとされています。萩原旅館というのは、じつは当時も存在しません。しかし、萩原亀太郎が経営する丸本屋、萩原重朔が経営する松葉屋が、木暮を出て石段道を横断したところに、並んで建っており、そのどちらかに泊まったものと思われます。北向きの6畳だが、部屋からの見晴らしが良く、少しは満足したようです。丸本屋は丸本館として現在も営業。木暮は移転して石段街を離れ、跡地は現在駐車場になっています。
漱石は木瀬村(前橋の東郊にあり、現在は前橋市に編入。木瀬中学校として木瀬の名が残っている)に帰省中の小屋保治に手紙を出し、来るように誘います。前述のように1週間ほど前に前橋から渋川へ馬車鉄道が全通しており、小屋は行きやすかったでしょう。この先の漱石と小屋については書くまでもありません。
伊香保温泉には旅館・ホテルも多く、どこに泊まろうか迷ってしまいますが、私は眺望の良さを優先し、石段街からは少し離れているものの、「送迎しますよ」とのご主人の応対の良さにほれ込んで、某荘を予約。五階の特別展望客室を用意していただきました。伊香保は北向きに開けたところで、漱石も北向きにひっかかりながら、眺望の良さに満足しています。私の部屋も、横手山から谷川岳、武尊山、日光の山並み、近くは赤城山まで、窓からパノラマが開かれ、明るく清々して、大満足。やはり、雪山の見える季節は良い。北向きのイメージがすっかり変わりました。お料理もベースになる味をもちながら、一品一品が料理としての個性をもっている。器も多くが同じ窯元で揃えられ、ご主人の味や料理に対するこだわり、確かさが伝わってきます。チェックアウトの時に、ご主人が豆から挽いていれてくれたコーヒーが、すべてを物語っているようでした。
旅館のご主人、観光協会の方、ハワイ王国公使別邸(記念館)のスタッフの皆さん、などなど、温泉とともに人の温もりを感じる伊香保でした。
来館者4万人を超えました。ほんとうにありがとうございます。
三文豪に新しい文章を追加しました。三人の作品の中からいくつか選んで、「東京」をキーワードに書いていきます。漱石の時もそうですが、ひとつの作品を何十回と読み返し、書いていく作業は、一見、たいへんそうですが、読むごとに新たな発見があり、それがとても楽しみであり、作業を進める原動力になっています。そして、一読では、いかに多くのことを読み落としているか、知らされます。もちろん、秋聲の作品は一読で話の流れ、前後関係を把握することが困難で、何回か読み返さなければなりませんが・・・。
つぎに新しい作品に関する文章を掲載するのが、いつになるかわかりませんが、楽しみながら作業を続けていきたいと思っています。
新型コロナウイルスのニュースが連日報道されています。鏡花が生きていたら、一歩も外へ出ることができなくなっていたかもしれません。鏡花ほど繊細になる必要はないかもしれませんが、手洗い、じゅうぶんな加熱は感染症対策の基本ですから、鏡花から学ぶことはありそうです。明治以降もさまざまな感染症が、この日本でも流行しました。漱石も、秋聲や犀星も、とくに子どもが感染症にならないよう、とても気を配っていました。微笑ましくも、温かなものを感じます。
室生犀星記念館へ行って来ました。北陸では弁当忘れても傘忘れるなの言葉がありますが、時折の雨に、記念館のスタッフが親切に対応してくれました。ありがとうございました。赤井ハツの写真に接することができました。加賀乙彦さんが犀星の遠縁になることもわかりました。加賀乙彦さんと言うと、漱石に関する文章もたくさん書いておられます。加賀というから、金沢に関係あるかと思っていましたが、ほんとうにそうでした。それにしても、金沢は外国人観光客にも人気があるようで、賑わっていました。
あけましておめでとうございます㊗️
今年もよろしくお願いいたします。
2019年から2020年へ。この一年、ご来館ありがとうございました。漱石気分、漱石こぼれ話ともに、当分、追加を予定していませんが、三文豪の方は、三人の生涯の紹介を終わり、東京を舞台にしたいくつかの作品について、順次公開していく予定です。新しい年もご来館をお待ちいたしております。どうかよろしくお願いいたします。
12月9日、漱石忌が近づいてくると、漱石に関する記事をあちらこちらで目にします。すでに死後103年になろうとしているわけですが、いまだに関心を集め、漱石について何か書いてみたくなる。稀有な人物のひとりであり、そして何よりも今も漱石は生きているかのようです。
漱石の研究においても優れている文学者坪内稔典先生が、実は『明暗』は完結していたと述べていることを知り、新鮮な衝撃を受けました。『明暗』は1916年5月26日から連載が始まり、12月14日、188回をもって、作者の死去によって終了しました。死後数日連載できたのは、11月21日に188回分まで執筆していたから。客観的に漱石の病状はかなり悪化し、あまり長くないと感じさせたかもしれませんが、本人も家族もこのように早く死を迎えるとは思ってもいなかったでしょう。漱石も『明暗』について、もっと先まで構想をもって執筆していたでしょうから、完結と言って良いものか。水村美苗さんは『続明暗』などという小説も書かれています。
けれども、坪内先生の述べるところに耳を傾けると、『明暗』はあの場面で終わっても不自然ではないなと思えてきます。ひょっとしたら、すでに天命を知った漱石は、その導くままに『明暗』を完結させていたのかもしれません。
もちろんこれは私の妄想かもしれませんが、けれどもちょっと見方を変えると、そもそも小説で「完結」とはいったいどういうことでしょう。『吾輩は猫である』は吾輩が死んでしまったので、「完結」と言えるでしょう。けれども、『三四郎』だって続きを書こうと思えば書くことができるし、『門』でも『行人』だって書けます。『こころ』も、私のその後を書いていくことはできます。つまり、ほとんどの作品が「完結」ではなく「絶筆」なのです。無理やり作者自身が幕を下ろしてしまっただけです。
人生という甕の中に落っこちた漱石は、甕の中から這い上がろうと、がりがりと甕のふちを引っかきながら、必死で最期までもがき続け、ふっと力を抜いてすべてを天にゆだね、1916年12月9日(土曜日)午後6時30分、甕の中から旅立って行きました。吾輩のように、「南無阿弥陀仏」を唱えていたか。それは私にはわかりません。
高知県立文学館へ行って来ました。私に小説を書くことを完全に諦めさせてしまった「三宮さん」(宮尾登美子さん・宮本輝さん・宮部みゆきさん)の一人、宮尾登美子さんの展示室もあり、一度、訪れてみたいところでした。それにしても、高知県出身の小説家・詩人などのじつに多いこと。その中でも寺田寅彦は一部屋与えられ、漱石の名前も頻繁に出て来る。漱石ファンにはたまらない一部屋です。一葉に恋心?を抱き、森田草平とも親しく接した馬場孤蝶、漱石がおおいに関心を寄せた幸徳秋水。漱石だけでなく、鏡花を押し上げることに大きな役割を果たした田岡嶺雲。文学館とは直接関わりはありませんが、秋聲が『仮装人物』で登場させている浜口雄幸も現在の高知市出身。高知は坂本龍馬だけではありませんね。漱石がらみで言うと、漱石が生まれたのは1867年2月9日。龍馬が暗殺されたのは12月10日。10ヶ月ほどですが、この地上において同じ時を過ごしたことになります。
夕食は美術館通の電停で降りて、南へ5分ほどの西村商店。おまかせコース(込2750円)で頼んだら、次つぎ、出るは出るは、刺身の盛り合わせや、あら炊きも二頭。7品が手抜きなく、一つ一つの量がすごい。そして、締めのデザートも本格的。あまりの感動に、ついつい、つぶやいてしまいました。(今、「これはあくまでも個人の感想です」というテロップが流れています。)

漱石と走る東京2020オリンピックマラソンコース、という題で書こうと思っていた矢先、マラソン札幌開催の話が浮上して、書くことを一旦中止しました。漱石は札幌までは行ったことがないので、漱石と走るというわけにはいきません。漱石がオリンピックに対して、どのような考えをもつかわかりませんが、今回の事態、どうみるでしょうか。8月の東京開催そのものに、何か言うかもしれませんし、オリンピックそのものについて、何か言うかもしれません。いろいろな出来事が起こるたび、漱石なら、と意見を求めたくなります。漱石がコメンテーターを務めるニュース番組を観てみたい、そんな気がします。百年も前に亡くなった漱石ですが、何か現代に生きているような気がする、不思議な存在です。
デイリーBOOKウォッチ(2019年2月27日)に、「夏目漱石がもしも、森田療法を受けていたら・・・」というタイトルを見つけました。これは、山崎光夫著『胃弱・癇癪・夏目漱石』(講談社、2018年10月10日)を紹介したものです。当館にも、「漱石気分」の「8.漱石は精神病だった?➂」および、「漱石こぼれ話」の「24.浄土真宗の教えから語る漱石」に漱石と森田療法の関係について記しています。参照していただければ嬉しいです。
もうすぐ10月。1910年の漱石はこの時期、まだ修善寺に療養生活を送っていました。1923年の犀星は震災後、まだ金沢へ戻ることも出来ず、田端にいました。きっと、朝子の泣き声が聞こえたことでしょう。別館三文豪、犀星の部屋に、4.文壇に地位を築く、を掲載しました。昭和戦前の犀星を紹介しています。
先日、NHKの「ダーウィンが来た」に登場したカエルの映像について、漱石の『門』という作品に描写されていることを紹介しました。NHKの番組スタッフにもそのことを紹介しましたら、この度、丁寧なお礼のハガキが番組スタッフから届きました。やはり嬉しいものですね。今月の番組では、東京の生き物たちがけっこう出てくるようです。蛍は出てくるかな。漱石は『それから』で、電灯がつくようになり、明るくなったので、最近は蛍をあまり見かけないというような記述をしています。百年以上前のことです。さすが漱石というか、このようなところまでも観察していたんですね。
今朝、九月一日の某紙コラムに、石井正己著「文豪たちの関東大震災体験記」などを引用した文章が掲載されていました。芥川は夏目漱石の書1軸を風呂敷に包んだだけで避難準備。泉鏡花は観音像を、井伏鱒二はカンカン帽を持ち出したと。谷崎潤一郎が箱根で関東大震災に遭ったことにも触れられています。自然の脅威を私たちは止めることができませんが、災害をなくし、あるいは被害を減らして行くことは、できそうです。防災の日、そして二百十日。九月も気が抜けません。
おかげさまで来館者が3万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。ところで、九月一日は関東大震災が発生した日です。これに合わせて、鏡花、秋聲、犀星、三人の関東大震災について、別館三文豪に文章を掲載しました。潔癖症の鏡花がどのように避難生活を送ったか、娘が生まれて間もない犀星の不安な震災体験、金沢にいて大震災を体験しなかった秋聲、三人三様の関東大震災を紹介しています。芥川龍之介も出てきます。よろしく。
今日、8月27日は岩波茂雄の誕生日です。1881年に生まれました。森田草平と同じ年です。 学生時代、5歳年下の藤村操の自死に大きな衝撃を受けました。岩波書店を創立した茂雄ですが、漱石なくして、今日の岩波書店はなかったと言えるでしょう。「今日は何の日」みたいですが、今日8月27日は、1881年に岩波書店を創立した岩波茂雄の生まれた日です。
8月18日、日曜日放送の「ダーウィンが来た」。今回は東京に住んでいるツバメやタヌキなどが登場しました。その中に、カエルが産卵のために移動する姿がありました。メスのカエルの上にオスが乗って、平地ばかりではありませんし、落ちてしまうもの。車や人間に踏まれるかもしれません。まさに生命がけの移動です。しかもこの移動にカエルの未来がかかっているのです。その場面を観ながら、ふと思い出したのが漱石の『門』の一場面です。紀尾井坂に近い清水谷公園の方から、外濠の弁慶濠の方に向かってカエルが大移動するのです。『門』22。宗助が坂井の家を訪れる。話し好きの坂井はこんなことを話し始める。--「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別に御目出度もありませんが、其所が物は比較的なところでね。私は何時か清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。(中略)彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流れの中に、春先になると無数の蛙が生まれるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互いの睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数が殆んど勘定しきれない程多くなるのだそうである。「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分からないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。(後略)」--しかしながら、安井が坂井とつながっている以上、友人安井の妻を奪った宗助は、安井に頭を破られるのではないかという不安が、蛙の話しから大きく膨らんでしまうのです。「ダーウィンが来た」がまさか漱石に結びつくとは思ってもみませんでした。あらためて、カエルの夫婦が大群でゆっくりと行進する様が思い起こされます。
残暑お見舞い申し上げます。と言っても、この残暑の季節が十月までも続くようになりました。子どもの頃には、お盆を過ぎると秋の気配を感じるようになっていたものですが。それにしても、この年令になっても、八月の下旬というのは、夏休みが終わってしまう憂鬱が思い出され、何となく気分がすぐれなくなってしまいます。終戦の日を前後して、当時を振り返るさまざまな番組や記事が目に止まります。考えてみれば、すべて漱石の死後のことであるわけです。今、八十歳を超えるのが当たり前のようになっているわけですから、漱石も戦争を経験し、終戦を迎えていたとしても不思議はありません。もしそうであったなら、漱石はどのような思いで、終戦を迎えたでしょうか。
金沢には三文豪それぞれの記念館があります。泉鏡花記念館では、企画展、「みんみいー泉鏡花が愛した少女ー」。みんみいは7歳でこの世を去った、鏡花の家の筋向かいの女の子。9月1日まで。徳田秋聲記念館では、「室生犀星生誕130年記念企画展ー徳田さんと僕」11月4日まで。室生犀星記念館では、室生犀星の生誕130周年記念展「犀星発句道」11月10日まで。詳しくは各記念館のホームページで確認してください。
「漱石と歩く東京」112ページ。銀座資生堂前にある交番ですが、すでに廃止されました。資生堂前が何かすっきりした感じですが、歴史ある交番がなくなるのは寂しい感じがします。なお、近隣の銀座八丁目交番は明治の頃から、ほぼ変わらないところに存在しています。同書を書いてすでに八年ほど経過しているため、変化していることもあります。気がつき次第、つぶやいていきます。情報提供もお待ちしています。
昨日、思い切って上野精養軒で食事をしました。漱石の作品にもたびたび登場する精養軒。その頃から、高級でおカネがないと入れない。漱石も経済格差を描く物差しとして作品に登場させていました。精養軒で食事をできるようになると、何となく格が上がったような。そんなわけで、何回も精養軒の前まで行って引き返し、不忍池の方から見上げたり。一度も中へ入ることなく過ぎてきました。そして昨日。ついに意を決して中へ。手頃と言っても昼食にはかなり高い1600円余のオムハヤシライス。お昼時で、しばらく待たされてから案内されたのは店の片隅の席。ちょっぴりいじけた気持ちになりましたが、何と食堂全体を見渡すことができる特等席ではありませんか。食べたとたん、薄いと感じた味でしたが、肉は臭みなく、軟らかく、程よく脂身を含み。不自然に味付けや匂い付けされた感じがなく、素直な味。食べ終わった時の満腹感はありませんでしたが、満足感はバッチリ。さすがでした。その後、充たされた思いで谷根千を歩きました。
現在、勝手に漱石文学館の別館を建設中です。ここには、加賀百万石の城下町金沢が生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星に関する私の文章を順次、掲載する予定です。漱石の作品は、今でもよく読まれていますが、鏡花の作品は今でも、とくに演劇において、よく上演されています。犀星の『蜜のあはれ』は現在の作品としても、じゅうぶん通用する作品です。金沢に興味のある方も、開館したら、ぜひ訪ねてみてください。
『漱石と歩く東京』の訂正です。

第4章 上野を歩く
 塩原昌之助の家 73ページ
 日根野れん(平岡れん)の学歴について、1888年に東京で初めて高等女学校(後の第一高等女学校、現在の白鴎高校)ができると、さっそく入学し、卒業を果たしている。高等女学校は現在の白鴎高校の位置にあたるので、下谷区西町の塩原家から300m程の、きわめて近い所であった、と記述してあります。しかし、その後の調べで、東京府高等女学校(1888年設立)が現在の白鴎高校の位置に移転したのは1903年で、それまで築地にあったことがわかりました。したがって、塩原家から近いという記述は誤りです。れんは片道4km近い道を通学したことになります。徒歩が当たり前の時代、通えない距離ではありませんが、ここでもうひとつ、1882年設立された東京女子師範学校附属高等女学校(1886年、官立東京高等女学校に改組)が竹橋にあったことを私は知りました。地下鉄東西線九段下・大手町の間に「竹橋」という駅があります。築地より1km以上近く、れんが1885、6年頃に陸軍中尉(あるいは少尉)平岡周造(1860~1909年)と結婚したことを考えれば、竹橋の高女へ通っていた可能性が高いかもしれません。この高女には、後に三宅雪嶺の妻になる花圃も同じ頃に在籍、卒業しています。
 
第5章 浅草・両国を歩く
 吉原(新吉原) 81ページ6行目
 (誤)日本橋分署⇒(正)日本堤分署

静岡県中部、お茶処を抱える牧之原市の教育委員会が発行している文芸まきのはら第13号に、文人俳句夏目漱石五十選が掲載された。書いたのは大石孝さん。漱石の学生時代から、漱石山房まで、時代を追って、作られた俳句から50句を紹介。解説を加えている。楽寝昼寝われは物草太郎なり、という句も紹介されている。生き残る吾恥かしや鬢の霜、という、二人の兄が早く逝ったことと、修善寺の大患をくぐり抜けた漱石の心境を詠んだものもある。漱石の新たな一面を知ることができる大石孝さんの文章だった。
いよいよ10連休。東京の街歩きをされる方も多いのではないかと思います。
神楽坂を歩かれる時には、ぜひ文悠書店へ寄ってみてください。『漱石と歩く東京』を販売しています。黄色い表紙が目印です。文悠書店さんは、リニューアルされたとのことです。漱石はよく坂を描いています。
漱石山房記念館の入館者が2月27日に6万人に達したそうです。おめでとうございます。当文学館は比較するべくもないかもしれませんが、おかげで、2万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。今日は、お彼岸の中日で、彼岸過迄という小説の題名を思い出しますが、今日は漱石の長兄大助の命日です。漱石より10歳年長の大助は、1887年、肺結核によって、31歳で亡くなりました。このような情報を提供してくれる「日めくり漱石」は当文学館のリンクから直接アクセスすることができなくなりました。リンクからアクセスすると、サライのページに入りますので、検索のところで、「日めくり漱石」と入力して検索してみてください。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と浄土真宗に関する話を公開する予定です。今後とも勝手に漱石文学館を、よろしくお願い申し上げます。
ある方から質問されました。なぜ2月だけ28日なのか。全部30日にして、はみ出す5日を31日ある月にして、うるう年だけ、31日ある月が6回あるようにすれば良い。確かに。さて、2月28日、漱石を朝日新聞に引っ張った池辺三山の命日。1912年2月28日、三山が亡くなった。49歳。午後11時頃、その報を受けた漱石は人力車で三山の自宅へ向かった。同じ牛込区の若松町に三山の自宅があった。その漱石も4年後、49歳で亡くなった。
旧制一高で論理学を教えた松本源太郎のえんま帳が福井県で見つかった。漱石の成績は一学期80点、二学期90点で、30人ほどの受講生でトップ。けれど、二学期だけで言うと、米山保三郎が94点と、漱石の成績を上回る。米山は金沢の出身で、漱石の親友、漱石が文学の道を目指す大きなきっかけを与えた人物である。それにしても、有名人になると、100年以上経っても、成績を公表されてしまうのだな。自分自身の成績は公表される心配などないと、安心しながら、ふと、そんなことを思ってしまう。
新しい年の始まりです。猫も冒頭の項で新年の様子が描かれています。年賀状も出てきます。吾輩が描かれたものもあります。のどかな新年の風景ですが、日露戦争の真っ最中でした。今年、2019年のお正月は、それに比べれば、のどかに始まったと言えるのでしょうか。本年も勝手に漱石文学館、よろしくお願い申し上げます。
いよいよ年の瀬。漱石はいくつかの作品で年の瀬を描いています。猫では冒頭で12月。しかし年の瀬を描くことなく、二で新年になっています。門では10でもうじき正月と御米が小六に。11で神田の通りで暮れの売り出しが行われている様子が描かれています。13では、宗助が正月に向けて床屋へ行っています。15では、小六が大晦日の夜の景色を見ると言って、銀座や日本橋へ行き、年が明けて帰宅します。道草では94で、年は段々暮れて行ったで始まる。97では、人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。こんな書き出しで、暮れの賑わいと、自分の人生を自問自答する健三。「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」少なくとも彼自身は何も買わなかった。こんな健三の姿。年暮れの哀愁がなぜか今、共感をよぶ。漱石の時代も現代も、年の瀬とはこのようなものなのだろうか。
今年も巡ってきました。今日は漱石忌。没百年を早くも二年過ぎてしまいました。漱石忌も季語になっているようで、一句いかがでしょうか。私はまだ浮かびませんが。
いよいよ今日から12月。早いものです。漱石忌も近づいてきました。
連載漱石気分は、予定した原稿の掲載を完了しました。漱石こぼれ話は、短文、単発ですので、今後も連載していきますので、よろしくお願いいたします。近日中に、漱石と中勘助を公開する予定です。お楽しみに。
来館者がついに一万人を突破しました。一万人目の方には、一般的には、記念品をお渡しし、くす玉でも割るのですが、そのようなこともなく、申しわけありませんが、一万人目の来館者になられた方、おめでとう🎉ございます。
あと少しでこの文学館も開館1周年を迎えます。来館者も一万人目前。予想もしなかった人数で、ほんとうにありがとうございます。今後とも、漱石ともどもよろしくお願いいたします。
漱石とまったく関係ないけれど、今日はどうしてもつぶやかなければならないことがある。ついにその時が来た。安室奈美恵引退。いちご白書と言うドラマで初めて彼女を観て、すっかり引き込まれてしまった。主役ではない。演技が上手いとも言えない。
けれども、その素朴さに惹かれた。彼女がスーパーモンキーズの一員であることがわかり、やがてメンバーが一人増えて、安室奈美恵wlthスーパーモンキーズになり、バックの方がマックスとして、先に売れてしまい。とにかく25年間、応援してきた。今、1993年のCDを聴きながら、当時からけっこう声が出ていたんだな。声もとっても魅力的。25年間、ありがとう。安室奈美恵!
三四郎は文面から初めての上京のようだ。それでは、三四郎はどこで東京帝国大学の入学試験を受けたのだろうか。結論は簡単だった。三四郎の頃、日本には、東京、京都、東北の三つの帝国大学があったが、当時、全国に七つあった高等学校、つまり旧制高等学校から、帝国大学は無試験で入学できた。三四郎は熊本の第五高等学校に学んでいたから、無試験で東京帝国大学入学の切符を手にしたのである。と言うことは、いわゆるナンバーのついた高等学校入学が帝大への道で、必然的に狭き門となっていた。泉鏡花や徳田秋声もこの狭き門に挑戦して破れ、結果的に文学の道で成功を収めることになる。漱石は学歴でも文学の道でも成功を収めた、とんでもなくすごい人物である。なんか、そう言えそうだ。
9月になり、夏休みも終わり、学校が始まる。二学期のところもあれば、後期のところもあるだろう。私の子どもの頃は夏休みは8月一か月であったが、その後、夏休みは長くなった。しかし、昨今、夏休みは短くなる傾向がある。大学は依然として、二か月が多いのだろうか。三四郎を読んでわかるが、当時、大学は9月から新しい学年が始まった。三四郎の上京も、暑い時期であったことが、冒頭から少し読み進めばわかる。もともと寺子屋などに入学時期などなかったが、明治になり、西洋式に9月が入学時期と定められた。けれども、徴兵令の関係で、高等師範学校が1887年に4月入学を採用し、その後、4月入学が増えていった。日本に二つの入学時期が並存する時代を経て、1919年に旧制高等学校、1921年に帝国大学が4月入学に移行して、日本全国、4月から新学年と言うことになった。
今年は台風が多く、各地で大雨が降っています。漱石が修善寺に行った夏も、台風に大雨。東京も大きな被害が出ました。今日、24日は修善寺で漱石が危篤に陥った日。修善寺の大患です。それにしても漱石は、その時の様子を見ていたのではないかと思うくらい克明に、当時の状況を描いています。
夏休み、そしてまもなくお盆休みですが、当館は年中無休、24時間開館しています。ぜひ、お休み中の期間も当館にお越しください。お待ちいたしております。
1910年8月6日、漱石は修善寺の菊屋旅館に到着しました。ところが、台風が近づいて、8日、9日に東海地方で大雨が降り、10日には伊豆、11日から13日にかけては関東一円に大雨が降りました。とにかくこの時、前線が停滞し、台風が二つもやって来て、前線を刺激したのですから、長時間にわたって大雨が降る条件はそろっていました。今、日本列島に台風が接近し、前線もある。嫌なことに、何やら1910年8月と似ています。近日中に、「東京大水害」を漱石こぼれ話に掲載します。
8月を前に、おかげで来館者が7000人を超えました。ほんとうにありがとうございます。
さて、台風が東日本から西日本へと横断して行きました。前例のないことで、気象庁も今まで経験したことのない事態が起こるかもしれないと、警鐘を鳴らしていました。いろいろなことに関心を示す漱石ですから、もし漱石が生きていたら、「寺田君、これはどう言うことだね」と説明を求めていたかもしれません。「猫」で寒月は「なんぼ越後の国だって冬、蛇が居やしますまい」と言ったのに対し、苦沙弥先生、「鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」と答えている。想定外の出来事が続く昨今、鏡花の小説の世界が、けっしてあり得ないことではなくなってきているかもしれません。
九州、中国、四国、近畿、岐阜など、全国各地で大きな水害が発生し、多くの犠牲者が出てしまいました。被害にあわれた皆様にお見舞い申し上げます。岡山でも大きな被害が出ました。ふと思い出したのが、漱石が岡山で水害にあったことです。明治25年、1892年、7月に子規と旅に出た漱石は、いっしょに京都、大阪をまわり、神戸で子規は松山へ、漱石は岡山へ。11日に岡山に着いた漱石は旭川沿いの片岡家に逗留。片岡家は次兄の妻小勝の実家で、1887年に次兄が亡くなったため、小勝は実家に戻っていた。16日、漱石は小勝の再婚先の岸本家を訪れ、19日に片岡家に戻った。片岡家は岡山市内の内山下町138番地。岸本家は海岸に近い、西大寺金田にあった。23日から24日にかけて、岡山は大雨に見舞われ、旭川が氾濫。浸水が始まり、漱石は本の入った柳行李を抱えて、当時の県庁付近へ避難した。片岡家は床上150センチの浸水だった。漱石たちはしばらく、当時の県庁近くの光藤家に避難。この大水害で、岡山県内、74人の方が亡くなった。思いもかけない災害に直面した漱石は、8月10日、子規のいる松山へ旅立った。

映画「万引き家族」を観てきました。映画に出てくる5歳の女の子と、先日、文章を残して亡くなった女の子が重なり、涙してしまいました。亡くなったおばあちゃんを埋め、生きていることにして、年金を受け取る。今の日本。映画に出てくるひとつひとつが「ある、ある」の状況です。けれども、海外の人びとにとっては、このような映画が日本でつくられたという事実に衝撃を受けた人もいるのではないでしょうか。ところで、この映画を観ていて、また私のクセが出てしまいました。「この家族が住んでいるところは、どこ?」スカイツリーの見え方から、数キロ離れたところ。専門家ならわかるかもしれませんが、私には、どこから見ても同じ形に見えるので、スカイツリーの北か南かは不明。川は隅田川だろう。墨田区、足立区、荒川区が該当しそうだが、電柱広告の住所表示に、ちらりと荒川と見えたような。私鉄電車も映っている。東武と京成が考えられるが、なんとなく京成のような。ということで、荒川区荒川が設定場所であり、ロケ地ではないかと。日本の家族のあり方を問いかけた映画だから、設定場所がどこだって良いのだけれど、性分だから仕方ないですね。漱石は、とても家族思いで、家族を大切にしました。家族の方はどう思っていたかわかりませんが。『行人』など、家族を書いた作品もある漱石ですが、現代に漱石が生きていたら、家族をテーマにどんな小説を書いたでしょうか。新聞の連載小説ですから、今起きているさまざまな事件、問題を作品の中に描きこんだことでしょう。
勝手に漱石文学館開設から半年。思いのほか多く方がたにご来館いただき、おかげで来館者数5000人を超えることができました。ほんとうにありがとうございました。これからも内容の充実に努めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
18.鏡子の出生地続編の間違いを訂正しました。漱石が亡くなった時、鏡子さんはまだ38歳。今の基準からすれば、ずいぶん若かったですね。あれこれ言われますが、漱石にとって、鏡子さんは最良の妻だったのではないでしょうか。鏡子さんにとって、漱石が最良の夫だったかわかりませんが、夫が亡くなって100年経っても、こうして話題になる妻も、そうそういないでしょう。現実の扱いはともかく、妻というものは大切にしなければならない、明治の男性にあって、漱石はそう思っていたようです。
漱石こぼれ話に掲載した「18.鏡子の出生地続編」。文中、「これはきっと、図書室の机の上かどこかに忘れてきたに違いない の後に、」を入れ忘れました。また、横浜が一か所、横花になっていました。しっかり校正して、掲載すべきと、反省。
近日中に、漱石山房記念館へ行った収穫の文章を漱石こぼれ話に掲載する予定です。先月紹介したギター音吉様のブログに明暗が登場しました。続明暗についても詳しく紹介されており、興味深いです。最終回に漱石と歩く東京も紹介くださり、嬉しいです。
ついに漱石山房記念館に行ってきました。図書室では漱石関連の本がたくさんあって、何冊か読みました。それにしても漱石に関わる本の何と多いことか。漱石の幅の広さも感じます。漱石と歩く東京、も並んでいました。黄色い本は目立ちます。
ギター音吉様から21世紀の木曜会にご参加がありました。嬉しいです。木曜会と言っても曜日に関係なく参加できますから、皆様の来訪をお待ちいたしております。
漱石こぼれ話、16交番の位置、において、日本堤分署の現在を、交番になっていると書きましたが、警視庁第六方面本部になっていることがわかりました。交番より敷地が広いから、警察施設でも、それなりの施設に引き継がれたのですね。
3月17日は平出修の命日。
大逆事件の弁護を担当した平出は、1914年、37歳の若さで亡くなりました。平出は弁護士であり、与謝野鉄幹の率いる明星派の同人であり、石川啄木とも親しくしていました。啄木は平出から大逆事件の真相に迫る情報を入手し、一部は漱石にも伝えられていたようです。大逆事件から2年後、啄木が亡くなり、その2年後、平出が亡くなり、神田青年会館で行われた式には漱石も参列しています。それから2年後、漱石も世を去りました。
今日3月7日は小宮豊隆の誕生日。漱石の門下生の中では、もっとも真面目な人物かもしれません。三四郎のモデルとも言われています。漱石について、詳しい著作もあります。漱石先生を擁護する面も見られますが、全般的に感情移入せず、淡々と書いています。小宮は東京オリンピックも過ぎて、亡くなりました。
3月2日、明日はひな祭りという、ひなの宵を迎えました。このように書き出すと、何となくわかります。漱石の幼くして亡くなった五女雛子の誕生の日。子ども好きの漱石が大きなショックを抱えながら、書き上げた『彼岸過迄』に、宵子として登場します。漱石の雛子に対する思いが詰まった作品です。漱石の作品には、息子達や、娘達が登場します。描かれた字数だけで比べることはもちろんできません。漱石は子ども達を等しく愛していたことでしょう。ただ、字数だけから言うと、雛子が圧倒的に多いように思われます。
今日2月28日は池辺三山が亡くなった日です。三山は朝日新聞主筆で、漱石を朝日新聞に引き抜いた人物としても知られています。引き抜く方も、引き抜かれる方も、冒険だったと思いますが、二人の信頼関係がそれを可能にしたのだと思います。亡くなる前年に朝日を退社していた三山ですが、漱石は三山の死に大きなショックを受けます。三山の葬儀に参列した漱石ですが、それから四年後、漱石も同じ49歳でこの世を去りました。
まもなく三月。ほんとうにはやいものです。この勝手に漱石文学館もおかげで来館者2200人を超えました。ほんとうにありがとうございます。パソコンで文章を読むと、横に伸びて読みにくいとのご意見をいただきました。PDF形式で読んでいただければ、読みやすくなると思います。
今日2月23日は
富士山の日。
そう言えば、漱石は二回、富士山に登りました。交通機関の不便な中、よくも行ったものです。私も二回、富士山に登りましたが、もう登りたくないですね。やはり富士山は登る山ではなく、眺める山です。批判精神旺盛な漱石も、富士山だけは、褒めています。汽車の窓から眺める富士山。漱石が書いた富士山はすべて登りの汽車でした。
今日2月22日は猫の日。猫と言えば、日本でもっとも有名な猫は、吾輩は猫である、の猫であろう。名前がないので、有名というのもへんだが、まあ、仕方ない。ところで今日は、高浜虚子の誕生日。吾輩は猫である、の発表の機会をつくり、文豪漱石を世に送り出していった虚子が、猫の日の生まれというのも、因縁の深さを感じさせる。そんな2月20日、猫の日でした。
ニャー。
今日は石川啄木の誕生日です。1886年2月20日、啄木は生まれました。1908年に3度目の上京を果たした啄木は森田草平らと出会い、翌年、朝日新聞社に入社。1910年に、長与胃腸病院に社用を兼ねて、入院中の漱石のもとを訪れました。1912年、啄木は草平を介して、漱石の妻鏡子から借金。結局、啄木は17円借りたまま、4月13日、借金の返済をすることのできないところへ旅立ってしまいました。葬儀には漱石も参列しました。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と啄木を掲載します。お楽しみに。
漱石気分や、漱石こぼれ話をパソコンでご覧になられる方がた。PDF版を利用していただくと、読みやすいと思います。
今日2月10日は平塚雷鳥の誕生日です。漱石より19歳ほど年下です。漱石がどのくらい雷鳥に会ったかわかりませんが、三四郎に出てくる美禰子は確かに雷鳥に似ています。漱石の門弟森田草平と恋に落ち、雪の逃避行をおこなった雷鳥。漱石は草平のために再出発の機会を与えます。雷鳥は近代日本の女性史に足跡を残しながら、日本の高度経済成長も見届け、85歳の生涯を閉じました。
漱石の胃病は深刻な顔をして、悩んでいた結果ではなく、食べ過ぎによるものであると思っています。それを裏付けるかのようなエピソードが日めくりに載っていました。漱石47歳の今日、2月8日、漱石は家族の目を盗んで、後の内田百間から贈られた吉備団子を食べたと言うのです。漱石は甘いものが大好きで、作品の中にも登場します。結局、漱石は吉備団子の一件から2年後、過食による胃病によって生涯を閉じることになります。
北陸地方は大雪になっています。泉鏡花は雪の中、福井県の峠道を越えています。まだ北陸線は開通していませんでした。雪の中でも、この文学館には来館できます。多くの方にご来館いただきありがとうございます。近日中に、漱石気分に、漱石と電車を掲載します。鉄道ファンとしては、書いていても楽しいものです。
一月は行ってしまう。二月は逃げる。三月は去る。などと言われますが、あっという間に一月が終わり、二月になってしまいました。当館も開館三カ月。おかげで1500人を超える皆様に来館いただきました。ありがとうございます。ということで、今日は漱石の話題なしで、つぶやきを終わります。
全国的な寒波。東京でも雪が降ったり。今から120年以上前の1月29日も東京は大雪だったという。漱石は外神田の青柳亭で「英国詩人の天地山川に対する概念」と題して講演した。漱石はこの講演をどうしても子規に聴いてもらいたかった。しかし子規は来なかった。漱石は体調でも悪かったのだろうと考えたが、じつは、一旦家を出たものの、会費の10銭を忘れ、大雪の中、家に戻り、再び出かけることはなかった。10銭がなかったのである。子規は貧窮していた。雪の東京から、漱石に関する話題を拾ってみた。日めくりを参照した。あっと言う間に1月も終わってしまう。
「漱石とぶんきょう」が2月5日〜11日、文京シビックセンター1階にあるアートサロンで行われます。10時〜18時。最終日は17時まで。足を運べる方はぜひ。なお、私はその近くで自転車を借りて、東京の街をさっそうと?走りました。漱石ゆかりの東京は坂が多く、自転車はけっこうきついですが、ブラタモリのつもりで。
東京都心も雪に覆われ、漱石が雪をどのように描いているか探してみたけれど、漱石はあまり雪を描いていません。『門』の16に正月に雪が降ったことが、ほんのわずか、書かれています。雪があまり降らない東京だから、仕方ないのかもしれませんが。雪の東京のニュースを観ながら、ちょっとつぶやいてみました。
今日は阪神淡路大震災から23年目。今から111年前、漱石は長い手紙を野上八重、野上豊一郎の妻に出した。後の作家、野上弥生子に出した。弥生子は大分の大企業、フンドーキン醤油の娘であった。教職よりも作家の道を選んだ漱石だが、終生、教師であったように思われる。
大学入試センター試験が終わりました。地理では、ムーミンが出題され、マスメディアでも話題になっていました。ひょっとしてこれから、漱石のイギリス留学へのコースも出題されるのかしら、などと思ってしまいます。「漱石気分」に「漱石と旅」を掲載する予定です。お楽しみに。
「漱石気分」を拝見するや、「kとは誰か」など惹きつけられる内容が満載で、つい食い入って読んでしまいました。という感想をいただきました。嬉しい感想です。
今日は門弟寺田寅彦再婚の日。漱石も祝儀を贈ったようです。最初の妻
夏子は15歳で結婚、娘貞子を残し、20歳で死去。肺結核。それから三年、寅彦が再婚。少しは心の傷も癒え、漱石もホッとしたことでしょう。漱石の子弟を思う気持ちが伝わってきます。寅彦の二人目の妻寛子とは13年添い、4児に恵まれたが、31歳で、これまた肺結核で死去。その後、寅彦は三人目の妻紳と結婚。先妻二人の残した五人の子どもを育てあげ、70歳過ぎまで生きた。研究者として成功した寅彦も、妻には恵まれなかったと言えるかもしれないが、三人の妻はそれぞれに寅彦を支えたと言えるだろう。
「漱石と鏡花」を公開しました。金沢生まれの鏡花ですが、母親は東京生まれであり、鏡花もどことなく江戸っ子的な雰囲気があります。二人はけっこう意気投合するところがあったのではないでしょうか。
近日中に「漱石と鏡花」を公開する予定です。知られざる漱石と鏡花の関係に迫ります。(どこかで聞いたことのあるような言葉)。お楽しみに。
気がつけば、漱石の誕生日を過ぎていました。命日は有名な割に、誕生日は影が薄い感じです。そんなわけで、今日はすでに七草。正月気分とおさらばしなければなりません。正月と言うと、『吾輩は猫である』は12月に始まり、2章目で新年を迎えます。年賀状が届いています。芸者が羽根をついています。じつにのどかな正月風景ですが、この時、日露戦争の真っ最中だったんですね。確かに文章を読んで、戦時であることはわかるのですが、そんなピリピリした雰囲気は、まったく感じられません。やはり、猫が書いたのかな。
さて、いよいよ迫ってきました。1000人目の来館者になるのは、いったい誰でしょうか。ふつう、くす球が割られたり、花束などが贈呈されるのですが、何もなくてすみません。気持ちだけ受け取ってください。
漱石気分に、漱石の『こころ』がわからない、を掲載しました。その中に、乃木大将が出てきます。今の若者には乃木大将と言ってもピンとこないかもしれませんが、乃木坂46なら、知っているでしょう。乃木坂に続く坂シリーズ、欅坂46。乃木坂から数100メートルのところにあるのが欅坂です。私は、たかがアイドルと思っていたのですが、欅坂46の歌、けっこう辛口のものがありますね。人が溢れた交差点を・・・で始まる、サイレントマジョリティー。「どこかの国の大統領が 言っていた(曲解して) 声を上げない者たちは 賛成していると・・・」。まさにこれは『こころ』を通じて漱石が言いたかったことではないか。そして、「この世界は群れていても始まらない」。漱石が学習院で若者たちにむかって投げかけたメッセージ。さて、欅坂46の歌う、サイレントマジョリティーを、漱石が聴いたなら、どのような感想を書くであろうか。アイドルグループから漱石を考える。やはり漱石は現代を生きているように思われるのです。
『君の名は』が地上波で放映された。
君の名は、と言うと、聖地巡礼が思い浮かぶが、元祖君の名は、の聖地は数寄屋橋である。君の名はに惹かれて、数寄屋橋を訪れた人も多いであろう。そんなことが起きようとも思わない漱石も、幾度となく数寄屋橋を渡ったことであろう。現代の君の名は、の聖地はいくつもある。あり得ないようなストーリーの割に、映し出される風景はじつにリアルであり、そのギャップがなんとも言えない。不思議な魅力を醸し出している。東京の場面では、新宿から四ツ谷にかけて多く登場する。ちょっぴり漱石と関連づけられそうだ。四ツ谷と言うと、漱石の母の出身地である。最後の場面の階段のある坂は、須賀神社のすぐそばと言われている。四ツ谷と言うから、谷が多く、当然、坂も多くなる。漱石も四ツ谷を、そして坂を、作品の中にいくつも登場させている。詳しくは『漱石と歩く東京』に譲りたい。
当たり前のことですが、当館は
年中無休。お正月にもかかわらず来館者があり、嬉しいことです。この三ヶ日、当地は穏やかな日々でしたが、風雪の地域もありました。子どもの頃、日本海側に住んでいた私には、晴れている地域があることなど信じられませんでした。まあ、穏やかに三ヶ日すごした私ですが、漱石も、「一人居や思う事なき三ヶ日」の句を残しています。漱石にしては珍しい心情のように思えます。
あけましておめでとうございます。漱石節目の二年間を過ぎ、新しい出発の年を迎えました。今年もよろしくお願いいたします。
今日は大晦日。年越しになると、去年今年貫く棒の如きもの、という虚子の句を思い出す。何とも力強い句である。虚子は漱石にも大きな影響を与えた。俳句の面はもちろんだが、虚子がいなければ、漱石が猫を書くこともなく、したがって文豪夏目漱石もなかっただろう。漱石は50を待たずに亡くなったが、虚子は85まで生きた。亡くなった二日後に皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式が行われ、ご成婚のパレードはテレビ中継され、私もワクワクしながら観ていた。皇太子殿下も天皇に即位され、30年になろうとしている。漱石が生きた明治はもちろんであるが、なんだか、昭和も急速に遠くなっていく感じがする。
今年も後わずかになりました。勝手に漱石文学館も開館以来、2ヶ月足らずで、延べ800人余りの来館者を迎えることができました。メジャーなところと比べる、まさに月とスッポンですが、スッポンのごとく、元気いっぱい、食いついたら離さない意気込みで、運営していきたいと思いますので、末永くご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
日めくりによると、今日12月28日は、漱石と鏡子がお見合いをした日。鏡子はずいぶん苦労しただろうけれど、鏡子でなければ漱石の妻は務まらなかっただろう。漱石も鏡子のことを思いやり、浮気の噂も伝わってこない。作家の中には、けっこうこの手の話が多いのだが。後の鏡子は貫禄も感じられるが、見合い当時の写真を見ると、なかなか漱石好みである。
クリスマスも過ぎました。猛吹雪の地域があります。そんな中で、漱石は雪の情景を書いただろうか。どうもあまり印象にないのですが。
クリスマスイブ。車内を電飾した電車が走った。日頃、見慣れた車内も一味違う。電飾が当たり前の時代になって
さえ、なんとなく興奮をおぼえるのだ
から、博覧会で電飾を見た漱石は、さ
ぞ興奮おぼえたことであろう。私たち
は今、それを虞美人草から知ることが
できる。東京市内に電灯が普及し始める頃のことである。
京都の水川隆夫先生と言えば、漱石研究の第一人者である。私も漱石について書くにあたって、先生の著書を随分参考にさせていただいた。水川先生は来年一月、『漱石と明治』という本を
文理閣から出版される。今までに発表された小論を、明治の前中後期に時代区分してまとめられたもので、今という時代への警鐘も込められている。今年も後わずか。漱石は道草などでも年の瀬を描いている。百年経過した年の瀬も、ある面、道草の時代と何も変わらない。
前段のつぶやきは、12/24のものであった。一日間違えてしまった。今日は23日だ。年の瀬も近くなると、こんな間違えも起きるのか。いや、これは年のせいで起きたことなもかもしれない。
1905年の今日。漱石は猫のカレンダーを受け取ったという。漱石は筆まめな人で、礼状はもちろん、気遣いの手紙や葉書をせっせと出している。弟子であろうと、読者であろうと、子どもであろうと、分け隔てがない。私はその姿から、ドイツの作家ヘルマンヘッセを思い出す。そして、ヘッセの作品の翻訳家としても有名な高橋健二先生。来年は犬である。犬があって、猫がないのは、深い?訳があるようだ。
今日は安倍能成と藤村恭子の結婚記念日。1912年、二人は結婚し、漱石も参列した。恭子の兄は、あの華厳の滝から投身自殺した藤村操。安倍は操の友人であった。漱石は精神病だった?で書いたように、漱石はこの自殺に少なからず責任を感じており、思いは格別であったのではないか。人間関係を大切にする漱石の生き方が、今日でも漱石の作品が読まれる一因であるかもしれない。
1905年の今日、漱石は上野の伊予紋で行われた会合に出席したそうです。すでに、はた目には成功者となっていた漱石も、プライベートではいろいろな心配事を抱え、束の間の安堵の中、伊予紋での会合に出席したようです。大きなストレスを抱え、それを発散するために、食べる。漱石の胃潰瘍の原因を、ストレスとみるか、食べすぎとみるか。何かそんなことを考えさせる上野の料亭行きでした。

学生時代、京都で過ごし、初めて口にしたものは、冷やし飴と、わらび餅であった。先日、京都へ行った時、嵯峨野でわらび餅を食べようと決めていた。せっかくだから、本格的なわらび餅をと、本わらび粉使用と書いた店に入った。600円くらいを想定していたら、なんと1300円近いではないか。やめて出ようかと思ったが、かえって後悔するだろうと、30分ほど待たされて、席に案内された。わらび餅5個。一個250円以上。しかし、食べてみると、
弾力があり、口の中でとろけるように馴染んでいく。これぞ本物と、満足感。10キロのわらびから、わらび粉70グラムというから、高いわけだ。さて、何度も京都に足を運んだ漱石。食通の漱石は京都で何を食べたのだろうか。本わらび粉使用のわらび餅は食べただろうか。
天理図書館では10月から11月にかけて、「漱石――生誕150年を記念して」と題する記念展を開催していたとのことです。子規と漱石の激しいやり取りを留めた、1891年11月7日付の子規宛書簡も展示されていたとのことで、親友である二人は、じつは随分考え方、生き方も違い、だからこそ、忌憚のないやり取りをし合いながら、親友であり続けたのかもしれません。
新聞にこんな内容の記事が載っていた。子規をあつかったものですが、載っている写真は漱石。若き日、子規は書いて、書いて、書いた。漱石はそんな子規に対して、出してばかりじゃダメ。読んで、入れなければ。そういえば、漱石は、読んで、読んで、読んで、そして、書いて、書いて、書いた。本をたくさん買い、たいへんな読書家だった。じつは、同じようなことを、中学の時、兄から言われた。私は書くことは好きだったが、読まなかった。今もその傾向は変わらない。子規と漱石、生き方は違ったが、二人とも成功した。私の方は、○○○である。
先日、紹介した「ギター音吉」さんのブログ、漱石展の文章を、「北野豊の本」の、『漱石と歩く東京』からアクセスできるようにしました。ぜひ読んでみてください。
漱石忌の影響か、急に来館者が増え、開館以来、500人を超えて、びっくりしました。先日お知らせしたように、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開しました。長いので、三つに分けて、とりあえず1と2のみの掲載ですが、自分なりに力を入れて書きました。
漱石が亡くなり、その翌日、漱石の解剖がおこなわれました。漱石の意を汲んだ鏡子の申し出と言われています。今から100年も前の話ですから、ある面、ものすごく進んだ考え方と思います。漱石の作品を読み、また鏡子の様子を知るにつけ、100年後の今とまったくずれていない。これが、漱石の作品が今も読まれ続ける所以ではないでしょうか。
いよいよ、今日は漱石の命日。当日の様子は「日めくり」の12月9日に詳しく書かれています。今から101年前のできごとがリアルに蘇ってきます。急を知らせる当時の方法がよくわかります。自分が死んだら、万歳を唱えてくれとまで言い放った漱石。今ごろ、どうしているだろうかとも思ってしまいます。近日中に、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開する予定です。
いよいよ明日は漱石忌です。死んで大平を得ると考えていた漱石も、死の間際まで、生への執念を持ち続けていたようです。
『漱石と歩く東京』に関心がある方。『東京紅團』というサイトがあります。興味深い内容が多く、私もよくお邪魔しています。検索サイトで、東京紅團、と検索してみてください。
日めくりによると、1911年の今日、つまり12月6日、漱石は神田の佐藤診療所で顕微鏡を見せられた。この診療所のことは、『漱石と歩く東京』に書いてあるので省略しますが、佐藤の話題が、現代に通じて興味深いです。
ネット上でさまざまな出会いがある。「ギター音吉のブログ」では、昨年、神奈川近代文学館」で開催された「漱石展」の様子が紹介され、その中で、『漱石と歩く東京』について、「今回の収穫の最大のものと言って良い」と、嬉しい言葉をいただきました。写真までつけてくださり、感謝です。展示もしっかり見ていただきました。『門』当時の電車終点は、展示と私の見解は異なりますが、お互い確認し合いながら、それぞれの見解を尊重しました。違いに気づいたギター音吉さんはすごいですね。
今日12月3日、今から105年前、漱石は行人の連載を前に、筆が進まず、新富座に鏡子を連れて、義太夫を聴きに行ったそうです。気分転換のようですが、作品にはしっかり描き込まれました。
さすが漱石!
漱石こぼれ話に出てくるマーメイド。
絵画全体ではありませんが、マーメイドの部分だけ、掲載されている本があります。朝日新聞社刊、江戸東京博物館と東北大学編、文豪・夏目漱石ーーそのこころとまなざし、です。今から10年ほど前に出版されました。
今日、11月30日の日めくり。いかにも森田草平らしい、漱石との逸話が載っていました。
日めくりを見たら、今日は雛子の命日でした。不思議なものです。
早いもので、今年もあとわずかで師走。そして、あと10日で漱石忌です。とくにカウントダウンするつもりはありませんが、漱石を思う日々です。
ついに来館者が300人を超えました。ほんとうにありがとうございます。漱石は精神病だった?が長いので、三つに分けてみました。漱石こぼれ話に、篤姫と、マーメイドを追加しました。いろいろな漱石をお楽しみください。
漱石は精神病だった?を公開しました。①と②に分かれています。独自の考えも書いてみました。
「日めくり漱石」にリンクして、私自身とても重宝しています。12月22日の日めくりでは、藤村操の妹と安倍能成の結婚式の話しが。後日、公開する「漱石は精神病だった?」で、藤村操の話しも出てきます。
リンクに「日めくり漱石」を追加しました。漱石に関する「今日は何の日」です。毎日、毎日、今日の漱石を知るのは、とても楽しいと言うか、新しい発見があります。ぜひ、リンクのページを開いて見てください。
近日中に、連載漱石気分に、「漱石は精神病だった?」を発表する予定です。お楽しみに。
おかげさまで延べ入館者が200人を超えました。ありがとうございます。リピーターの多い文学館を目指して、更新に努めていきます。
漱石こぼれ話に、「我輩は豚である」を掲載しました。短編小説です。ぜひ、読んでみてください。
漱石気分に4と5を追加しました。これからも順次、追加していきます。
お楽しみに。
連載は現在、どちらも1から3まで公開しています。21世紀の木曜会に感想をお寄せください。お待ちしています。
開館して1週間、延べ来館者が100人を超え、とても嬉しいです。
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漱石気分は1~3まで掲載。
漱石こぼれ話も1~3まで掲載しています。ぜひお読みください。
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