館長のつぶやき
つぶやき
◆「ブログ」に「北陸新幹線~敦賀延伸に寄せて」を掲載しました(カテゴリー:金沢ブログ)。「21世紀の木曜会」にも掲載。
◆今回の能登半島地震の震源域とみられる地域の地下で、依然としてマグニチュード1~4の地震が発生し、いくつもの断層でまだ活動が続いているようです。心配されるのは、佐渡沖にかけて伸びる断層で、今回地震を引き起こした断層と反対方向であるため、割れ残りがあるとみる専門家もいます。ここで急激な地殻変動が起きると、マグニチュード7クラスの大きな地震が発生し、新潟・富山・石川などの海岸に高さ3m以上の津波が押し寄せるキケンがあります。私は最近、この佐渡沖において、マグニチュード5クラスの地震が頻発するようになっていることが、とても気がかりです。あきらかに、能登半島地域における余震とマグニチュードの大きさが異なります。これが大きな地震の前震なのかどうか、今のところわかりませんが、注視していく必要がありそうです。
2月14日の志賀町北部を震源とする最大震度4の地震で、震度3だったはずの輪島市内で、キケン判定された家屋がさらに崩れ落ちていることから、今後、震度5程度の地震が能登地方を襲っただけでも、多くの家屋などがさらに倒壊し、ボランティアも含めて多くの人びとの生命を脅かすキケンがあります。
2月23日・24日の二日間、能登半島一帯で最大震度1以上を観測する地震が発生せず、「このまま収束?」と思ったが、また地震が発生しています。とくに2月27日には14:10と14:19の二回、輪島市鳳至(ふげし)町を震源に最大震度3の地震が連続して発生しています。マグニチュードは2.8と規模は小さいが、この場所では1月1日以来、たびたび地震が発生しているところ。群発地震とは言えないが、かなり頻度が高い。輪島川を境に、隆起した高さが違うようで、海底に溺れ谷があることからも、断層があるようで、しかも現在進行形。今後、マグニチュード5クラスの地震でも、直下型で、朝市通りを含む輪島旧市街地で建物などのさらなる倒壊が起こる危険性があります。注視が必要。
◆「秘書のつぶやき」を更新しました。
◆「館長の部屋」に「文豪と銀座」を連載しています。
◆「21世紀の木曜会」に「『ゆれる灯』の先に」を掲載しました。「輪島朝市」も引き続き掲載しています。
◆「ブログ」に「ゆれる灯」(小説)、「『ゆれる灯』の先に」を掲載しました(カテゴリー:金沢ブログ)。
◆「ブログ」に「ふるさとを詠める詩~能登編」「二つの大橋の100年」「泉鏡花文学賞」「卯辰山」「輪島朝市」を掲載しています(カテゴリー:金沢ブログ)。「卯辰山」では、金沢に大きな地震をもたらす可能性がある「森本-富樫断層」にも言及しました。
◆「館長の部屋」に掲載していた「文豪と隅田川」、「ふるさとを襲った大きな地震」(現在「追加12」まで)は、一括して「ブログ」に掲載しました(カテゴリー:金沢ブログ)。その他、過去に掲載した文章は「ブログ」に掲載しています。「総合案内」や「検索」によって探してお読みください。例えば、「地震」と入れて検索すると、「文豪と関東大震災」「ふるさとを襲った大きな地震」など、たくさん出てきます。役立つ情報もあると思います。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
蛭田亜紗子著『共謀小説家』(双葉社)を読みました。文芸評論家の斎藤美奈子さんがこの小説について書かれた文章を読み、興味を持ったのです。小栗風葉夫妻がモデルではありますが、フィクションです。蛭田さんはweb誌「小説丸」のインタビューで、執筆のきっかけについて次のように述べています。
——明治の頃に、夫が雑誌に私小説を発表し、翌月に妻がアンサーソングのようにその舞台裏を書いた小説を発表した夫婦がいた、と知ったんです。面白いなと思って調べてみたら、それが小栗風葉と妻の加藤籌子でした。——
風葉の作品を読んでいたものの、妻については関心を持ったことがありませんでした。何が「共謀」なのかは小説を読んでいただくとして、風葉と思しき若い男性、九鬼春明(くきしゅうめい)が弟子入りする師匠は尾形柳後雄(おがたゆうごう)。どう考えても尾崎紅葉がモデルのはず。そして他の弟子のひとりは漣(さざなみ)という名ですが、金沢出身、ということは泉鏡花のことでは…と、想像しながら読むととても面白いです。また作中に登場する小説のあらすじは、きっとこの作品がモデルなのだろうなと、何となくわかります。
風葉は35歳で東京を去り、豊橋の妻の実家に隠棲します。この小説でも春明は豊橋で暮らすことになるのですが、ラストシーンで、妻の冬子(ふゆこ)と交わす会話が、また実に味わい深く、心に残りました。
今ではあまり読まれなくなってしまった風葉ですが、彼とその妻の人生を参考にしてこのような小説を書いて下さった蛭田さんに、とても感謝しています。
【館長のつぶやき】

ピアニストの舘野泉さんは、2002年1月9日、フィンランドで演奏中、脳溢血で倒れ、右半身マヒになり、右手も不自由になってしまった。けれども舘野さんはあきらめず、左手のためのピアノ作品を演奏して復帰した。その舘野さん。母方の先祖は仙台藩お抱えの能楽師の家柄。何やら鏡花と似ている。
舘野さんは子どもの頃から読書が好きで、戦災で自宅のピアノが焼失してもなんの感慨も湧かなかったが、『西遊記』と宮沢賢治の『風の又三郎』、この二冊の本が焼失したことが悔しかったという。
本好きの舘野さんが一番大事にしてきたのは、なんと室生犀星。舘野さんの本棚で、「私のすることを何十年も黙って見てきた大事な」本たちの仲間に、『かげろふの日記遺文』『我が愛する詩人の伝記』の二冊がある。
舘野さんがどうして犀星を好きになったのか、私にはわからないが、作曲家吉松隆さんが書いている『隠響堂日記』におもしろい文章をみつけた。2018年9月3日のものである。
それによると、吉松さんは舘野さんから11月のリサイタル用に「左手ピアノ」の作品を依頼され、それがようやく脱稿した。〈金魚によせる2つの雨の歌〉と題する小品で、「雨の歌」と「雨の踊り」の二曲からなる演奏時間10分ほどのもの。もともと舘野さんから「色っぽい曲を書いて下さい……」というリクエストがあって、吉松さんは犀星の『蜜のあはれ』に出てくる金魚と老作家の会話のイメージで書き始めたが、《…この夏の殺人的暑さと介護疲れからだんだん色っぽさは蒸発してゆき、「乾いた金魚が干涸らびた池の底で人生の最後に夢見る雨乞いの歌と踊り」というビジョンに変質…タイトルの可愛らしさとは程遠い世界に仕上がった(ような気がする)。》と告白。ご丁寧に「干涸らびた金魚」の写真が貼り付けられている。
さて、この曲、舘野さんが喜んだかどうか。少なくとも犀星は喜びそうである。そして私は犀星の「最後の詩」と言われる『老いたるえびのうた』を思い出した。
けふはえびのように悲しい/角やらひげやら/とげやら一杯生やしてゐるが/どれが悲しがってゐるのかわからない(略)生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋/からだじうが悲しいのだ
まさに「干涸らびた犀星」である。
吉松隆さんに、このイメージで『老いたるえびのうた』と題する「左手ピアノ」の作品をつくってもらい、舘野泉さんに演奏してもらいたい。

【館長のつぶやき】

今年は高浜虚子生誕150周年の年である。もし、虚子が漱石に『ホトトギス』への執筆を勧めなかったら、『吾輩は猫である』は生まれず、「文豪夏目漱石」も生まれず、したがって、当「勝手に漱石文学館」も生まれなかったであろうから、虚子は私にとっても恩人である。
高浜虚子は本名「清」。1874年、松山に生まれた。同郷の河東碧梧桐を通じて子規を紹介され、俳句を学んだ。旧制第二高等学校を中退し、子規庵に転がり込んだ。1897年に元は碧梧桐の婚約者だった大畠いとと結婚。萬朝報に就職したが、しばらくして辞めさせられ、子規の協力を得て、創刊間もない『ほとゝぎす(ホトトギス)』の編集発行を任され、何とか生計を立てた。その『ホトトギス』を一躍人気雑誌にしたのが漱石の『吾輩は猫である』である。もし、子規が漱石の友人でなければ、虚子が漱石に執筆を依頼することもなかっただろうし、仮に依頼があっても漱石も引き受けなかっただろう。子規がいなければ、「文豪夏目漱石」も生まれなかったことになる。
漱石が朝日新聞社の専属作家になると、『ホトトギス』の売り上げは激減。もともと小説家志望だった虚子も必死に小説を書いて、漱石の後を埋めようとしたものの、挽回はかなわず、しかも腸チフスに罹り闘病生活。そのような中で、生活のために小説家を諦め、俳句の道と『ホトトギス』発行に専念。何とか事業を立て直していった。
愛媛大学教育学部の青木亮人教授(国文学・日本近代文学)は、日常の些事を詠んだ無内容に近い句こそ、虚子の「写生」の実践であるとして、この世にはどうにもならないことがあり、その諦念を抱えつつも生活を続けなければならない人間ができることは、日々の暮らしをささやかにおもしろがり、慈しみ、泡沫のような喜びや哀しみに黙って耐えることくらいしかできないのであった、日常の些細な出来事をおもしろがり、丹念に詠み続けるのが俳人虚子の身の処し方だったと評している。まさに、漱石の『草枕』に通じる、世界観、人間観である。
こうしてみると、私ももう一度、俳句を創ってみようかと思うが、抑えがたい感情を素直に表現したいこともある。そのような時は短歌。いろいろな表現法を愉しむのも、また、言語表現を与えられた人間の身の処し方であろう。
【館長のつぶやき】

お月見の季節でもないのに、突然、かぐや姫のことを思い出した。かぐや姫が月へ帰って行く場面は、阿弥陀如来が浄土の世界から私たちを迎えに来る様子を描いた「来迎図」を想い起させる。いつもはこの程度で済んでいたのだが、今回は「どうして、かぐや姫は月から地球へやって来たのだろう?」と、今まで考えたこともなかった疑問が湧いてきた。確かにそうだ。かぐや姫は「月へ行った」のではなく、「月へ帰って行ったのだ」。つまり、ふるさとは「月」である。当然、何らかの事情で、この地球へやって来たのだろうが、どうしてこのような重大かつ素朴な疑問を抱かずに過ごしてきたのだろうか。どうやら私は、「ボーっと生きてきた」ようである。これでは、チコちゃんに叱られる。
そう思って、さっそくネットで調べてみると、先人はいるものである。私の疑問に応える情報がいっぱいある。その中で、原作を踏まえて書かれたものをもとにしてみると、どうやら、かぐや姫は月の世界で悪事を働いて、罰としてこの人間世界へ送られて来たらしい。つまり、「流刑」である。「罰でもなければ、こんな人間世界、来るところではない」。どう考えてみても、人間世界は「鬼」の住む世界であり、「地獄」である。
それでは、かぐや姫はいったいどのような罪を犯したのだろうか。言い寄る男を次つぎ「振り飛ばして」いかなければならない、そのような運命を背負わされたのだから、きっと自分の思いのままに男を好きになり、不祥事を起こした、色恋沙汰が原因だろう。だいたい、このような刑罰がおこなわれるところは「地獄」と相場が決っているから、やっぱりこの人間世界は「地獄」である。
待てよ!月の世界でも「色恋沙汰」が起きるようでは、人間と何も変わらない。どうやらかつて、月にも人間が住んでいたらしい。そう思って見上げる月に、今ではうさぎが住んでいるのであろうか。


【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
今回読んだのは漫画です。わたくし、小説だけでなく、漫画も読みますの。読んだ理由はもちろん、漱石が出てくるからに決まっていますわ。「MANGA」は世界に誇る日本文化ですからね。
漱石マニアの漫画家、香日ゆら著『JK漱石』。KADOKAWAが発行しており、現在第2巻まで出ています。JK(ジェーケー)とは、女子高生の略称。夏目漱石が、百年後に女子高校生として転生し、令和の世で生きていくという、ちょっとありえない設定。なのに自然と受け入れられる著者の博識ぶり。だって表紙の背景が漱石山房のオリジナル原稿用紙なんですよ。神奈川近代文学館のミュージアムショップで買えます。わたくしも買いましたがもったいなくて使用できないままですが。
第1巻は、時代は違うものの超優秀なため(何せ中身が漱石なんだから当然ですよね)、学年トップの成績で高校に入学した朝比奈璃音(あさひなりおん)の学校生活からはじまります。「俺は夏目漱石だ」と友人に打ち明けても信じてもらえず、「自分を漱石だと思いこんでいるヤバいやつだ」ということにして生きていくまでが綴られます。自身が亡くなった後の妻子の生活を心配して当世での兄に調べさせるとか、自分の思い出を語った文章は読まないようにしているとか、誕生日が漱石の命日とか、読んでいて思わず笑ってしまう場面も。
第2巻では、健康に恵まれ、胃の調子も良いためスイーツ好きになった話が。そして弟子の芥川龍之介の『羅生門』を国語の授業で取り上げるという話が出てきます。国語教科書に必ずと言っていいほど掲載されているこの作品の授業を漱石が受けるとどうなるのか?読み進めながらなるほどと思わされるのです。漫画を読んで感動するというのも今まで経験したことがない不思議な感覚でした。漱石を身近に感じることができる『JK漱石』、続きが出るのを楽しみに待ちたいところです。


【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。元日の能登半島地震のあと、なかなか筆が進まず…。被災された方々にお見舞い申し上げます。本年も【秘書のつぶやき】をどうぞよろしくお願いいたします。
昨年11月に亡くなった三木卓の自伝的小説『裸足と貝殻』(集英社)。主人公豊三一家が満州から引き揚げて身を寄せたのは静岡市の西草深にある親戚の家。同じ敷地内に住む親族の少女春美と会社員の男性来島とのこんなやりとりが出てきます。《「ねえ、おじさん。昨日宿題が出てしまって、新憲法で何が変わりましたか、っていうだけど、あたしそんなこと、わからないだよ。教えて」春美がいうと、来島はニコリともしないで返事をした。「そんなこともわからんのか。じゃあ、教えてやる。ノートへ書け」春美が喜んで鉛筆を握ると、来島はいった。「そうだな。一番大事なことは姦通罪がなくなったということだ」(中略)「そんなの、恥ずかしくて発表できないじゃん」》
この会話が目に留まった理由は、千種キムラ・スティーブン著『漱石と姦通罪—前期三部作の誕生と家父長制批判』(彩流社)を最近読んだため。漱石の前期三部作『三四郎』『それから』『門』は、明治13(1880)年に公布された「姦通罪」が、明治40(1907)年4月に刑が重禁錮から2年以下の懲役刑に改悪されたことを批判するために書いたということを明らかにしたものです。前期三部作の関連など今まで考えたことがなく、実に面白い本でした。当時の政府は姦通を描いた小説は発禁にしていたため、漱石は政府の検閲を避けるため婉曲な表現を用いている。漱石の蔵書には西洋の姦通小説がいくつかあり、自分でも書きたいと思っていたと指摘します。
女性が姦通罪の改正を黙って受け入れていたのではなく、《「日本基督教婦人矯風会矢島楫子他八百九十名」が、「有婦の男の姦通の処分、有婦の男の蓄妾、接妓と姦通する事等」も姦通罪に含めてほしいと、政府に請願書を提出している。》また、《立憲政友会では多田作兵衛などが、夫の処罰を「熱心に勧誘し、案外に賛成者も多ければ、或は政友会の党議となるやもしるべからず形勢なり」》という新聞記事も出ている。漱石はこのような動きを知っていたはずだ。そして、漱石が国家権力に対して批判する勇気をどこから得たのかについて、鈴木三重吉に出した手紙の最後に《〔前略〕死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん》と書いてあると引用し、次のように書いています。
——「維新の志士」とは、江戸時代末期に徳川政権を倒して新しい政治体制を作ろうと闘った人々のことだが、「志士」というのは、広い意味では、在野にいて国家や社会のために正しいと信じたことを、命をかけて貫く人々を指している。——
鈴木三重吉へ手紙を書いた4か月後、漱石は朝日新聞社に入社します。
著者は現在の日本にも、国民的作家として敬愛される漱石が、国家権力や「姦通罪」を批判したとは認めたくない拒否反応があるといいますが、私はこの著者の主張を抵抗なく受け入れることができます。それは館長の著書『漱石と日本国憲法』を読み、漱石の作品から戦争や国家権力を命がけで批判したことを知っているからです。漱石は「維新の志士の如き烈しい精神」で文学をやったからこそ、現代を生きる私たちに読まれ続ける作品を生み出すことができたのだろうと思いました。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
前回に引き続き、玉川裕子著『「ピアノを弾く少女」の誕生―ジェンダーと近代日本の音楽文化史』(青土社)より。ヴァイオリンを弾く女性について、次のような指摘があり、目に留まりました。
——夏目漱石のいわばライバルにあたる作家小栗風葉は、尺八の天才的奏者とヴァイオリニストの女学生を描いた『恋慕流し』(一八九七(明治三〇)年)、および男女の大学生が主人公の『青春』(一九〇五(明治三八)年~〇六(明治三九)年)という、当時いずれも評判となった小説の中で、ヴァイオリンをみごとに演奏する女学生を二度にわたって堕落させているのだ。とくに『青春』は、「朝日新聞専属作家」夏目漱石が誕生する前年に『読売新聞』に連載されたもので、『虞美人草』は確実に『青春』を意識して書かれただろうといわれている。——
『虞美人草』には、宗近が妹の糸子に、「糸はちつと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでゝ、まことに困るつて」と父親から言われていると話しかけ、「あら嘘ばつかり。私が何時そんなものを読んで」と言い返す場面があります。この「恋愛小説」には風葉の『青春』が含まれているはずです。
『青春』の主人公小野繁が妊娠・中絶することは知っていましたが、『恋慕流し』については初めて知りました。日本国語大辞典第二版の「ピアニスト」の項目を見ると、この『恋慕ながし』が初出であるとのこと。まさに時代の先端をいく言葉ですね。
どんな小説だったのでしょう。文学全集を開くと、小説の前に、女学校で開催される音楽会のプログラムが出ています。第一部と第二部に分かれ、唱歌やオルガンの曲目もあります。主人公の葉子は第一部の中ほどでヴァイオリンによるコンチェルトを弾き、第二部のトリを飾るのは尺八で長恨歌を演奏する秦純之助。純之助との交際が女学校に知られて卒業目前にして退学、葉子が家出する。その後ふたりは別れるものの、葉子の家族(父、母、妹)に次々に悲劇が襲い、最期は葉子も自ら命を絶ってしまうというものでした。そして純之助が奏でる尺八『恋慕ながし』の楽譜が最後に付録として載っています。わたくしは尺八の楽譜がよくわからないのですが、琴古流のようです。音楽会のプログラムについては別の章で女子学習院の修辞会や音楽会についての考察もあり、ピアノや声楽、筝合奏で構成されており、風葉の小説とさほど変わらない内容です。
ヴァイオリンを弾くのは意志がある強い女性であり、ピアノを弾くのは家庭的でおとなしい女性というイメージが形成され、娘に楽器を習わせるならば、ヴァイオリンではなくピアノでなくては、という意識がつくられていったことがわかります。
現在は、様々な楽器を性別や年齢に関係なく楽しむことができると感じます。
風葉の『恋慕ながし』を読むことができ、楽しいひとときでした。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
玉川裕子著『「ピアノを弾く少女」の誕生―ジェンダーと近代日本の音楽文化史』(青土社)を読みました。桐朋学園大学で教えている著者が、どうして女の子は西洋楽器であるピアノを習うようになったのかという疑問を解き明かすべく、明治から大正時代にかけてのさまざまな事象を考察したもので、一般家庭にピアノが普及していく歴史をたどることができる貴重な本でした。第2章 《琴から洋琴(ピアノ)へ——近代日本の知識人男性が音楽に託したもの》で、漱石の小説に出てくる女性が習う楽器について書かれており非常に興味深いです。
『こころ』に出てくる奥さんは琴を習っていた。『三四郎』では美彌子とよし子がヴァイオリンを弾く。『それから』の代助の見合い相手、佐川の令嬢は、始めは琴を習ったが、のちにピアノを習い、ヴァイオリンも少し稽古をした。『門』の宗助の家主、坂井の娘は毎晩ピアノを弾く。著者によれば女性の登場人物が手にする楽器は、琴→ヴァイオリン→ピアノと時間が経つにつれ変化しているとの指摘があり、確かにその通りです。
『虞美人草』では、京都から出てきた小夜子が「こんな事なら琴の代りに洋琴(ピアノ)でも習って置けば善かった。」と心のなかでつぶやく場面があり、琴が日本的なもの、旧式なものの象徴として描かれていることがわかります。
ピアノを弾く女性は良妻賢母のイメージと結びつきます。「家庭音楽」という言葉が登場し、「欧米では主婦がピアノを奏でると、主人や子どもがこれを囲んで歌い、家庭が真の楽園になる」のだから、家庭に西洋音楽、特にピアノを普及させようという議論があったことを知りました。わたくしも、4歳から10年間ピアノを習っていましたが、著者のような疑問を持つことはありませんでした。ただ、ピアノという移動も楽ではない高価な楽器を購入しないと自宅で練習できないのは大変だなと感じてはいましたが。曲が完成するまで繰り返し練習する過程は幸福な主婦からは相当かけ離れていると感じるのですが、練習は夫や子どもがいない時間にやりましょう、ということですね、きっと。
ピアノに対してヴァイオリンを弾く女性は、必ずしも良いイメージではないようです。
次回の【秘書のつぶやき】に続きます。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
『坂本図書』(バリューブックス・パブリッシング)を読みました。今年3月に亡くなった坂本龍一さんが選書・語りをしています。雑誌『婦人画報』に掲載されていた連載をまとめたもので、最後には、亡くなる20日前に行われた鈴木正文氏との対談が収められています。彼の音楽をきちんと聴いたことも、出版されている書籍を読んだこともなかったのですが、『婦人画報』の11月号に坂本さんが最近読んでいる本としていくつかの作品が紹介されていて、荷風と漱石が載っているではありませんか。これは読まなければと思い、取り寄せた次第です。対談のなかで、坂本さんは漱石全集をお持ちで、最近は『行人』を読んでいる。若い頃は『こころ』や『三四郎』が好きだった。中年(45歳ぐらい)になって、『草枕』が好きで何度も読んだ。漱石は尽きないと語っています。そして、荷風の『日和下駄』を限定500冊で出版された素敵な装丁で読んでいる。この限定本には荷風本人が書いた絵が入っているんだとか。『婦人画報』には荷風が書いた絵が掲載されていて、対談した鈴木さんの「絵を見るとどう見ても高下駄だ」というコメントがありました。
連載には漱石の項目があり、坂本さんは次のように語ります。
——70年代には、江藤淳や柄谷行人が漱石を評論していた。純粋に小説を楽しむというより、一種の思想として読んでいた気がする。吉本隆明の影響も強かったかもしれない。しかし、今は山水画のように漱石の作品と向かい合いたい。——
山水画のように向かい合う、という言葉の意味を知るために、もっと漱石の作品を読んで向かい合わなくてはならないと、強く思いました。坂本さんがもっと長生きしたら、80代、90代で、どの漱石の作品を何度も読むだろうかと想像します。
他にもさまざまな本や人物が登場し、知らないことをたくさん教えられました。彼の発言は、読書から得られる大量の知識に裏打ちされたものであることを感じます。
『坂本図書』の出版と合わせて、坂本さんの愛読書の一部を集めたスペース「坂本図書」が都内某所にオープンしたそうです。いつか行ってみたいな。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
館長の部屋で連載が始まりました荷風の『濹東綺譚』。この小説の主人公の名は「大江匡(おおえただす)」。角川書店の日本近代文学大系に、この命名にはいわれがあるとの注釈が。補注を見てみると、ある研究者によれば、次のようであると記載がありました。
《永井氏の本姓大江と、鶴鳴(筆者注、幕末の儒者市川鶴鳴、永井家第八代星渚の師)の本名匡とを併用したものであらう。永井一族の人々も匡の字を多く用ゐたが、荷風の父久一郎も亦匡温と称したのであつて、何れにしろ『濹東綺譚』に登場する人物を大江匡となしたのはこのゆかりより出たものと断定して可なりであらう。》
そして《ちなみに、作者の遠祖下総古河の城主、右近大夫永井直勝の血筋は、平安末期の碩学大江匡房(まさふさ)より出ている。》と書かれていました。
大江匡房(おおえのまさふさ)という人物、どこかで聞いたことがあると思い調べたところ、百人一首に歌を発見しました。
——高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ——
匡房は学者ですが歌人でもありました。日本史の教科書にも、後三条天皇のブレーンとして登場していますが、ほとんど触れられていません。荷風のご先祖さまだったとは!
加門七海著『神を創った男 大江匡房』(笠間書院、2023)を読み、匡房のことを知ることができました。「神道」や「絵馬」ということばをはじめて使用したのは匡房であり、学問の神となった菅原道真に負けず大変優秀だったそうです。また道真と同じく大宰府にも赴任しています。様々な文章を書いていますが、注目すべきは『遊女記』を記したこと。加門さんの訳で一部ですがご紹介します。
《遊女たちは群れを成し、小舟に棹さして船に取り着いては枕席を薦める。その声は川霧をも留め、音韻は水風に翻るようだ。そこに留まる人で我が家を忘れない人はいない。洲には蘆が繁り、浪は花のごとくに見える。釣りをする翁の舟や酒食を商う舟で、舳先と艫は接しあい、連なりあって、ほとんど水が見えないほどだ。まさに天下第一の楽しき地である。》
日本のどこの川沿いにあったのか…気になる方はぜひお読みください。
大江匡房と一文字違いの荷風の小説の主人公。館長の部屋の連載「濹東綺譚②」にあるように「大江匡は、実はわたくしです。」で間違いないと言えるでしょう。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
小説「ぼくとう奇譚」を読みました。貴志祐介の中編小説で『梅雨物語』に収められています。荷風の『濹東綺譚』ではありませんが、タイトルに惹かれたのです。
小説の舞台は『濹東綺譚』が書かれたのと同じ昭和11(1936)年。銀座にある店『カフェー・パピヨン・ノワール』に入る主人公とその友人。荷風もこの店のお客様として脇役で登場します。カフェーの店主の女性の名前は「みつこ」。『濹東綺譚』のなかで主人公が構想し書き始めた小説の継妻として登場する女性と同じ名前(漢字は違います)。黒い蝶の夢を見るという男性のお客様たち。その黒い蝶に導かれて遊郭に通う夢を見る主人公が行き着いた先は…。
そしてこの「ぼくとう」が荷風の小説のタイトルとは全く違う意味であることが最後の数ページで明かされます。ホラーですね。久しぶりに恐怖を感じました。他に収められている小説も恐ろしかったです。現代の小説に荷風が登場していることを自身が知ったら、つけている日記にどんなことを書くのかしら、などと妄想してしまいました。
朝晩だいぶ涼しくなりました。読書の秋、さらに涼しさを感じられるおすすめの小説です。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
BS日テレで13年半にわたり放送されていた番組「ぶらぶら美術・博物館」が、先月末で終了してしまいました。山田五郎さんの博学で軽妙な語り口に加えて、他のメンバーの方々と学芸員とのやりとりなどが好きで楽しみにしていたので、とっても残念!!
最終回は国立西洋美術館の常設展。西洋絵画の歴史をたどって展示がされていることや前回収録後に新たに収蔵された絵が番組のなかで紹介されていました。《聖母子》というタイトルの絵の前で、山田五郎さんが、「この人、みんな題名は知っているけど読んだことがない小説に出てくるよ」と言ったのです。その人の名は、アンドレア・デル・サルト。私も聞いたことないなあと思っていたら、漱石の『吾輩は猫である』に出てくるとのことでした。記憶があいまいなため、調べてみました。
猫の主人が絵を描くといって道具をそろえてはじめてみたものの上手く書けないと言っていて、話を聞いた迷亭が、《昔(むか)し以太利(イタリー)の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。》という写生説があると伝え、主人は吾輩(猫)を熱心に写生する。後日、この話は迷亭の「でたらめ」であることが判明する。《「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。》
いつだったか漱石が描いた黒猫の絵を見たことがあります。絵心のない私から見ると、とても上手だと思いました。写生に努めた結果でしょうか。
最終回に漱石が出てくるなんて思ってもいませんでした。今まで楽しませてもらい、感謝ですね。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
ドナルド・キーン著『日本人の戦争 作家の日記を読む』(文藝春秋刊)を読み返しています。この本は1941年から1946年頃にかけての日本の作家たちがつけていた日記を分析したものです。荷風をはじめ、高見順や山田風太郎も取り上げられています。以前館長が「とうとう『断腸亭日乗』(文庫本)を買ってしまった。」とつぶやいていましたが、日本文学者であるキーンさんが採用したのは『断腸亭日乗』ではなく東都書房から刊行された『永井荷風日記』なのだそう。理由については「あとがき」に記されており、かなり興味深いです。もっとも、東京の街歩きには大した差はないかもしれません。荷風が住んでいた「偏奇館」について、キーンさんは次のような注釈を加えています。
——英語に訳せば“Eccentricity House”(奇人の館)とでもなる偏奇館は、いかにも荷風の家にふさわしい名前である。しかし、エドワード・サイデンステッカーがKafu the Scribbler(九九ページ)で指摘しているように、これはペンキを塗らない日本家屋とは対照的な「ペンキ館」の意味も含んでいるかもしれない。——
ところで、キーンさんは荷風と会ったことがあるそうです。『日本人の戦争』の刊行に関連したインタビューの新聞記事が見つかりました。「キーンさんは日記をつけますか」との質問に、以下のように回答しています。
「残念ながらつけていません。子どものころから記憶力には自信がありましたが、やはり忘れることもあり、後悔しています。永井荷風さんに会ったとき、すばらしい日本語で話をするのに感動しましたが、どんな言葉で何を話したか、日記をつけておけばよかった」
わたくしもキーンさんに日記をつけておいてほしかった。ぜひ読みたかったです。荷風のすばらしい日本語には本の中でしか出会うことができません。館長の後を追いかけたところで追いつくことなど無理ですが、荷風の作品を読み、何かつぶやきたいなと思っています。

※合わせて、「ブログ」【館長のつぶやき】東京の街を歩く――虎ノ門から六本木へ(写真)の、偏奇館跡案内板をご覧ください。「偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが」とあります。

◆「館長の部屋」で連載中の「文豪と関東大震災」。第1回に「塩原昌之助の裃・袴」のことも出て来ます。「ブログ」の「館長の部屋」に掲載されている「塩原昌之助の裃・袴を発見!もう一人の養子――塩原秋男」に、塩原昌之助の裃・袴の写真と、昌之助・かつの名が刻まれた塩原家墓碑の写真を公開しています(ネット上では初公開です)。「ブログ」のカテゴリー「館長の部屋」または、月別「2022年1月」でアクセスしてください。
【館長のつぶやき】東京の街を歩く――虎ノ門から六本木へ

真夏を過ぎ、そろそろ東京の街歩きも再開。そう思っても、いつまでも残暑である。熱中症も心配であるが、用心しながら出歩くしかない。

新橋駅の烏森口を出て、環二通りへ。まずは虎ノ門ヒルズをめざす。めざすのは良いが、最近の東京は高層ビルが林立し、目印にならなくなった。虎ノ門界隈にもいくつも高層ビルが並び、麻布台の方も同様である。そうは言っても、環二通りを歩いているから、ぶつかる先の高層ビルが虎ノ門ヒルズ。愛宕山下の通りを跨ぐ歩道橋上は、虎ノ門ヒルズの北側を撮るのに都合の好いスポットである。この一画にかつて風流館があり、藤村一家が一時期を過ごした。
虎ノ門ヒルズの西側では、桜田通りと交叉した環二通りが「築地虎ノ門トンネル」として、高層ビルの下へ潜り込んで行く。桜田通りは地下鉄関連工事真っ最中。1964年の東京オリンピック前の状況ほどではないかもしれないが、とにかく東京は建設工事が多い。
神谷町にむかって少し進むと、左手、愛宕1丁目8―26・27あたりから奥は、かつて鞆柄小学校があったところ。藤村の子どもたちも通った。
江戸見坂の下には虎の門病院があるから、通りかかっておかなければならない。犀星がここで亡くなったのは、私が中学2年生を終わろうとする時で、地元の新聞も文豪の死を大々的に書き立てていたから、文学に興味を持ち始めていた私も大きな出来事として受け止めていた。
金沢の街も坂が多いが、東京の街はさらに坂が多い。いよいよ江戸見坂である。麻布台へ上るこの坂を、荷風もよく通っている。勾配は20%で、小石川の藤坂に匹敵する。この歳になると、一気に登るのはムリである。途中で一休み。そして上り詰めて、また一休みである。富士見坂などは東京の各所に見られるが、「江戸見坂」はここだけである。坂上から江戸の街が一望できたそうだが、今では坂下に林立するビルのおかげで、一望どころではない。
霊南坂教会の前から、サントリーホールの横を抜けて、泉ガーデンへ。この辺り、樹木も多く、公園の中を歩いている気分になる。陸橋をくぐり抜けると、間もなく植込みの中に泉ガーデンタワーを背景に小さな説明板。この辺りに荷風の偏奇館があった証しである。説明の一節に、荷風が「二十五年ほど独居自適」の生活を送り、「昭和二十年三月十日の空襲で焼失した」とある。つくられてから20年余経過しているが、きれいで、説明文も読みやすい。
道をさらに南へ100m余。麻布市兵衛町ホームズ敷地の角地に「山形ホテル跡」の碑が建ち、説明文があるが、荷風との関連がよくわかる。関東大震災があった日も、荷風はここで昼食と夕食を食べている。この辺り、緑も多く、近くに大通りがあるにもかかわらず静かで、地下鉄駅も近く便利。住みたくなる。
少し行くと俄善坊谷。東へ下る谷あいに民家が建ち並び、その一屋に荷風が関根歌を囲っていた。そのような地域は再開発の名のもとに大きく変貌をとげている。ここに「麻布台ヒルズ」として、64階建ての森JPタワーを中心に、64階と54階の高層ビル、計3棟が林立し、それに傾斜を利用して長く伸びる低層棟。その脇に俄善坊谷の谷筋を、以前からの民家が息づいている。けれども少し目をやれば、47階建てのアークヒルズ仙石山森タワー。まさに俄善坊谷の住宅地はビルの谷間の住宅地になってしまった。建設終盤を迎えた麻布台ヒルズ。林立する高層ビルの間から東京タワーが望まれる光景は、私を複雑な気持ちにさせる。
荷風が生きていたら、この光景をどう評価するのか。座り込みをしてまでも再開発に反対するのか。案外にも「良し」とするのか。少なくとも、この高層ビルの一室に居を構え、「新偏奇館」と名づけることはなさそうである。
そのようなことを考えているうちに、俄善坊谷を下って神谷町に出た。近いので気象庁へ寄ることにする。ラジオゾンデに会えるのが楽しみである。「はれるん」が出迎えてくれるであろう。

                             (完)

◆「ブログ」では写真も掲載しています。
【館長のつぶやき】 『原崎源作日記』にみる関東大震災③

翌日、9月3日。《循一兄と東京市内の様子を見ようと思って新橋辺から銀座通りを京橋、日本橋方面に歩いたが見渡す限りの焼け野原で、処々コンクリートの建物の焼け残りが見えたが、歩いていて熱くて息苦しい程であった。その中に只京橋の第一生命保険会社の建物だけは焼けないで立派に立っていたのには驚いた。日本橋から左に曲って呉服橋を渡ろうとした処橋の上に母親らしい婦人と子供が黒こげに焼けた死体が横たわっていたのには心を痛めた》。呉服橋は外濠に架かる橋である。生々しい惨状が綴られている。
二人はすぐ近くの東京駅へ。《駅の建物は何らの被害も受けないで立派に建って居たが、今更らながら日本の建築技術の優秀さを知らされた思いがした。駅内には避難する場所を失った多数の民衆が処狭しとばかり一ツパイで足のふみ場所も無い程であった。暫くして駅を出て虎の門から神谷町通りを六本木の村松方に帰ったように記憶している。》と、東京駅の様子もよく描かれている。それにしても、昨日横浜から歩き通して、今また、港区から中央区、千代田区と歩き回るのだから、その体力には驚かされる。神谷町から飯倉へ坂を上って、六本木へ行く途中、藤村や荷風とすれ違う姿を想像してみるが、それはあくまで想像に過ぎない。
癸作はこの後、《他方幸三郎兄は東海道線で上京中茅ヶ崎か辻堂辺で地震に会って列車が転覆して窓より這出て、線路上を歩いて横浜を経て来たとか云って多分その翌日村松方に着いたように記憶している。》と記している。実際に列車が転覆したのは大磯から平塚へむかう途中で、1両目から5両目までは転覆しなかったが、6両目から10両目までの客車は転覆。とくに7両目の2等車は6両目がめり込み、8人の乗客が即死した。幸三郎は窓から這出たということで、8両目から後ろの転覆した車両に乗っていたのではないだろうか。とにかく、危うく生命を落すところであった。
癸作は幸三郎が9月4日に村松家に到着したと書いているが、この日、癸作たちが田端を発ったことは、その後の行程や時間の経過から確認できるので、幸三郎到着の部分について、不明である。
癸作は行を改めて、《それから凡そ両三日経てから「此のまま此処に居ては食べる物もなくなるから、とも角静岡へ帰ることを考えようと云うので、種々調べて見ると、田端から中央線廻りの列車が出ると云うことを知ったので、歩いて田端駅まで行くことにした。》と書いている。癸作たちが田端を出発したのは、源作の日記から4日と確認できるので、「両三日」の表現は、村松宅に滞在した2・3・4日の「三日間」であったという記憶から出たものであろう。
いよいよ田端駅にむかう。《一行は叔母のテツ、幸三郎兄、循一兄、癸作、杉本順作、の五名だったと思う。(杉本順作は私たちの安否を訪ねるため清水港より船で多分品川辺に上陸して此の一行に加ったように記憶している。)》と癸作は書く。これも、記憶の薄れる前に日々記録していた源作の日記によると、一行にはセイも加わっていた。また、船でやって来たのは杉本順作ではなく、藤波兵作であり、これも癸作の記憶違いであろうが、60年以上経過しているから、やむを得ない。杉本順作は磯部兼松とともに、列車事故に巻き込まれた幸三郎を探しに9月4日に静岡を発っている(当初、源作日記で「松本順作」と判読した人物が、「杉本順作」であることが癸作の記述から判明した)。
《六本木から田端までの道筋はハッキリ記憶していないが、多分本郷を通って、田端駅に出たのだと思う》と、今まで道筋を詳しく書いて来た癸作にしては珍しい。神谷町から虎ノ門、皇居前から神田駿河台、そして本郷を通り、動坂を下って、田端の坂を上ったのだろうか。距離は10km以上ある。これまた、犀星や龍之介とすれ違う姿を想像してみるが、それはあくまで想像に過ぎない。しかし、この「勝手に漱石文学館」で扱う文豪たちゆかりの地からゆかりの地へ移動した、不思議な因縁を感じる。
さて、田端までの途中がたいへんである。《警防団の人達が竹ヤリだの日本刀を持って歩行者を一チ一チ点呼していた。》と、自警団の動きが身近に感じられる記述。癸作は《それは朝鮮人が暴動を起して危険だと云うので、鮮人を多数殺したなど無気味な流言が飛んでいた頃のことであるから歩行者の誰何も止むを得ないことであったかもしれない》と続けている。住民の防御本能が強まっているので、検問も厳しく、一行は田端まで緊張を強いられたことだろう。実際、訛りが強いため朝鮮人と間違われて、日本人が自警団に虐殺された事件も発生している。
癸作は《普段は長火鉢の前に座り込んでタバコを吸っていた叔母のテツが一時も早く静岡に帰り度い一心で一行に後れまいとして黙って追いて来るのを見ると痛々しくもあり、また気毒でもあった。》と、叔母を思いやっている。
その内夕暮れになって、あたりが暗くなった頃漸く田端駅に着いた一行。少しでも人びとを地方へ分散させなければ、大東京では水も食料も尽きてしまう。この4日から田端始発で避難列車の無賃運行が始まっていた。
《折りよく列車が停車していたが己に列車は超満員で、昇降口には勿論、屋根その他乗れる所には凡て人で溢れていた》。乳飲み子を抱えた犀星一家は乗車を諦めたが、癸作たち一行は、《然し何としても乗らないわけにはゆかない。乗って一時も早く東京を去って父などの待っている静岡に帰って一同の無事を告げなければならないので無理して乗ることにした》。
列車の中は《ウス暗い電灯であたりを照していた。多人数で呼き苦しい事夥しい。然し降りるわけにはいかない。列車は仲々動かない。然しどうすることも出来ない。何時間待ったかわからないが、そのうち漸く列車がゴトンゴトンと動きだした。多分夜明け方でもあったかと思う。少しあたりが明るくなって来た頃であったが、大宮駅に着いた。見ると列車には汽関車から客車の屋根まで人で鈴なりであった。駅の構内は至る処汚物で臭いこと言いようがなかった》。日付は9月5日に変っている。飲食もできず、排せつもできないで、ここまで耐えて来たのであろうか。とにかく荒川鉄橋も大地震で歪み、とりあえず上り線を仮復旧して、単線運転を開始していた。ゆっくりゆっくり渡らなけれなならない。おまけに屋根の上まで人であふれているから、速度を出すことなどできない。蒸気機関車が牽引している。屋根にいると、容赦なく煙が襲ってくる。
やがて列車は鈴なりの人をそのまま載せて大宮駅を出発したが、何処行きかわからない。《夕方篠ノ井駅に着いたので信越線だとわかった。(勿論兄たちは知って居たと思う)とも角此処で下車して一泊する事にした》。旅館に泊まったのかどうかわからないし、どのように過ごしたかわからないが、多少は飲食し、排せつもして、少しは足を伸ばして眠ったことであろう。癸作はよく把握していなかったのかも知れないが、循一などは長野行きと承知して乗り込んだと思われる。
ここまで来れば何とかなると安堵したのか、《何はおいても静岡の父宛てに電報を送って、吾らの無事を知らせようと幸三郎兄が言った処循一兄はその必要はないと云って暫く両人の間で話しがまとまらなかったが、遂に打電する事にした。(それは当然のことである)》。
この電報について源作は、9月5日付の日記に、《右の電報来る。ミナ ブジ アスカエル 9月4日鉄道電信長野局》。電報は5日夜に出されているので、5日の日記に書かれているのは自然であるが、「9月4日鉄道電信長野局」との日付は源作の誤記であろう。
翌9月6日。朝、再び汽車に乗って塩尻、中津川などを経て、夕刻名古屋着。《もう此処まで来れば静岡に帰ったようなもので、安心感に満された。》と癸作は書く。《それから東海道線に乗りかえて、静岡に向った》。
一行が乗ったのは夜行列車で、9月7日午前2時か3時頃、堀之内駅(現、菊川駅)に到着。堀之内の○サ運送店の木下はる叔母がホームまで出迎えに来ていて、《無事であったことを心より喜び合った。そして無事に静岡駅に着いたのは朝の五時頃であったと記憶している。それから早速父を訪ねて帰宅の挨拶をしたことは勿論である》。
ここまでの行程における時間の経過は何ら不自然でない。4日の夕方に田端駅に着き、遅くに田端を発った列車が5日の朝に大宮に着いた。その日の夕刻に篠ノ井に着き、翌6日に篠ノ井発。塩尻で乗り換えて中央本線で名古屋。夜行に乗って、7日の朝、静岡着。
ところが、リアルタイムで記録し、正確であるはずの源作の日記には、9月5日付で、《循一、癸作、七郎、せい、てつ一行ならん。右の電報来る。ミナ ブジ アスカエル 幸三郎も無事にて、午後12時無事静岡に帰宅す。一同の悦び言語を絶す》。6日付に《幸三郎、6時発にて興津に帰る》。とある。どうも、幸三郎は一行と行動を共にしていなかったようだ。と言う事は、東京へ行かずに、静岡を目指し、5日の昼頃に父の家に着いたと考えられる。おそらく1日は事故現場付近に留まり、2日から徒歩で沼津をめざし、4日に沼津着。一泊して、そこから列車に乗ったのだろう。
癸作は《一行は叔母のテツ、幸三郎兄、循一兄、癸作、杉本順作、の五名だったと思う。》と記している。けれども幸三郎は同行していない。かわって、七郎とセイが一行からもれている。それにしても、同行していなかった幸三郎が一緒だったように癸作の記憶に残ったのは、頼もしき長男のなせる業であろうか。
ところが、を再度使うが、7日付の源作の日記には一行の帰着の記載がまったくない。これはいったいどうしたことか。息子三人、娘一人、それに姪一人、計五人が無事帰って来たというのに。かわって、《横浜より東京へ、癸作、循一、幸三郎、七郎、せい、を見つけに行きし、藤波ほか2名、今夜 中山道鉄道にて、帰宅すると電信来る。》と記されている。癸作は一行に杉本順作を加えているが、これは藤波兵作の間違いと思われるが、どうやら藤波も一緒ではなかったようである。一行は五人ということだけは癸作の記憶に強く残っていたようだ。源作がここで「中山道鉄道」と書いているのは、癸作たち一行と同じ信越本線・篠ノ井線・中央本線のルートを指すと考えられる。
8日付源作の日記には、《一、幸三郎を探しに行きし、磯部、松本両人、東京より汽船にて帰宅。また藤波兵作も午前7時頃中央線にて 名古屋を経て、帰宅す。》とある。すでに5日の日記に、《一、横浜に行きし和一上陸を止め、神戸を回り、陸路帰宅す。藤波兵作は1人残り、癸作と循一を見つける積もりなり。》の記述があり、和一は帰静している。
以上をまとめてみると、
幸三郎:9月1日出発、9月5日帰着。(列車転覆事故に遭遇)徒歩・沼津鉄路
循一:8月31日出発、9月7日帰着。(横浜正金銀行で被災)篠ノ井経由鉄路
癸作:8月31日出発、9月7日帰着。(横浜正金銀行で被災)篠ノ井経由鉄路
和一:9月2日出発、9月5日帰着。(捜索)海路神戸・神戸鉄路
七郎:8月31日出発、9月7日帰着。(被災先不明)篠ノ井経由鉄路
セイ:8月22日出発、9月7日帰着。(村松家で被災)篠ノ井経由鉄路
テツ:出発日不明、9月7日帰着。(村松家で被災)篠ノ井経由鉄路
得三は在米、六郎は列車不通のため静岡留まり。キクは村松家自宅で被災。
藤波兵作:9月2日出発、9月7日帰着。(捜索)篠ノ井経由鉄路
磯部兼松:9月4日出発、9月8日帰着。(捜索)海路清水
杉本順作:9月4日出発、9月8日帰着。(捜索)海路清水

癸作は《後日木下の叔母様の話したことによると「末廣町の家に父を訪ねた処居間の出窓に腰をかけて、日頃はあの気丈夫な人が頭を垂れて思案に暮れた様子、声をかけても聞えない様で、心配そうな、その姿はかつて見た事がなかった」とのことであった。》と、源作の一面を紹介しているが、最悪を考えれば、子ども9人のうち6人死亡という事態もあり得る。平常心でいることができるはずはない。
最後に癸作は《とも角此の大震災の最中にいて何らの被害も受けないで無事に脱出することが出来て、目的の渡米も出来たことは、いくら感謝しても足りない程である。》と書いている。

                         (完)

◆「館長の部屋」で、「文豪と関東大震災」の連載中。
⇒第1回に「塩原昌之助の裃・袴」のことも出て来ます。「ブログ」の「館長の部屋」に掲載されている「塩原昌之助の裃・袴を発見!もう一人の養子――塩原秋男」に、塩原昌之助の裃・袴の写真と、昌之助・かつの名が刻まれた塩原家墓碑の写真を公開しています(ネット上では初公開です)。「ブログ」のカテゴリー「館長の部屋」または、月別「2022年1月」でアクセスしてください。
【館長のつぶやき】 『原崎源作日記』にみる関東大震災②

先日、関東大震災100年にあたり、『原崎源作日記』に記された大震災を、この「館長のつぶやき」で紹介した。
その際、記したように、関東大震災は原崎家にとって、きわめてタイミングの悪い状況で発生した。というのも、癸作が9月2日渡米予定で、見送りのために源作の息子娘たちは東京に大集結することになっていた。
癸作(四男)は8月31日に挨拶のため父のもとを訪れ、その日の16時46分静岡駅発の特急で東京へむかった。そして同じ日、見送りのため、循一(二男)と七郎(七男)が上京した。すでにセイ(二女)は8月22日に東京へ行っており、9月1日、幸三郎(長男)が東京へむかった。この結果、関東大震災発生時、循一、癸作、七郎の息子三人と、村松家に嫁いだ長女のキク、上京したセイの二人の娘が東京にいた(このうち循一と癸作は横浜正金銀行にいた)。得三(三男)は在米。幸三郎は東京へむかう列車の中。和一(五男)と六郎(六男)は列車が不通になったため、上京は足止めされた。源作の姪テツも上京していた。とにかく、9人の子どものうち6人が心配な状況である。
彼らは旅先の東京で、どのようにして大震災をくぐり抜けたのか、私はとても気になった。ところがこの「館長のつぶやき」を読まれた原崎家の方から、癸作が便せん5枚余に書いた『関東大震災遭難記』(以下『遭難記』)が提供され、私の疑問が解き明かされることになった。
大地震発生にともなう「帰宅困難者」問題が議論される中、この『遭難記』は貴重な史料になると考え、紹介することにした。なお、『遭難記』が書かれたのは1985年で、すでに大震災から62年経過しており、一部に思い違いなどあるかもしれないが、極めて具体的、かつ鮮明に書かれており、関東大震災が若き癸作に強烈な印象を与えたことがうかがえる。

『遭難記』は、《大正十二年(一九二三年)九月一日横浜出帆のサイベリア丸で渡米する予定だった私は前日循一兄と上京して、その夜は日本橋の白木屋(現東急百貨店)の裏通りにあった蓬莱屋と云う旅館に泊った。》という文章で始まる。父の原崎源作は日記に、癸作が9月2日乗船する船を「コレヤ号」と記しているが、癸作本人は「サイベリア丸」と記している。
さっそく検証であるが、船名はおそらく当日、記している父の方が正しいのではないか。「コレヤ号」は東洋汽船所有の船舶で、正確には「コレヤ丸」。1901年進水で11276t。9月2日、アメリカにむけて出港するため、横浜港に停泊し、荷役作業中に関東大震災に遭遇した。「コレヤ丸」はただちに離岸し、沖合に停泊して、大震災の様子を無線で発信し続けた※。「コレヤ丸」は間違いなく大震災当日、横浜港に停泊していたが、「サイベリア丸」の記録はない。
※「関東大震災のちょっといい話」(ネット公開)より。
癸作たちが泊った蓬莱屋は白木屋の裏通りというから、漱石の『三四郎』などでも出て来る「木原店」と呼ばれる一画にあったのだろう。食堂街としても賑わっていた。白木屋(のち東急百貨店)跡は「コレド日本橋」になっている。白木屋は1903年に3階建て店舗を建て、百貨店営業をおこなっていたが、大震災で建物は全壊した。荷風は、『ひかげの花』で、重吉の妻種子が白木屋で買物中に被災し、逃げる時に足に負傷したという設定をおこなっている。
《翌一日の朝白木屋の前に出て東の空を見ると真赤で実に不気味な雲模様であった。それで雨の降る時の準備にと絹張りの竹の柄の洋傘を買った》。この一文を読むと、大震災の予兆かと思う人もいるかもしれない。癸作もそのようなことを匂わせて書いたかもしれないが、気象と地震との関連について、今のところ因果関係はないと考えられ、台風接近にともなう空模様と捉えた方が良い。癸作もしっかり傘を買っている。
それから癸作は兄循一と日本円を米貨ドルに両替するため横浜正金銀行へ。
横浜正金銀行は横浜の馬車道に面し、1904年に完成した建物は大震災の火災でドーム部分が焼失したものの、崩壊を免れ、現在は神奈川県立歴史博物館として使用されている。この地域一帯、推定震度6強。
癸作が《日本円を窓口に差し出した。その瞬間付近が大きく揺れ始めた。そして次第に強くなる気配なので、大急ぎで近くにあった大きな机の下に兄と共に入った。そして見ていると銀行内の帳簿などがガタガタ落ち始め、天井から下っていた大きなシャンデリヤが大きく揺れ始めた。それは大変だと見ていたが両替に差し出した「円」に対するドル貨を受け取っていないことに気付いて、直ちに窓口へ行ってドル貨を受け取った》と、まことに冷静な対応。それが可能であったのも、建物が崩壊を免れたからである。二人は偶然、極めて安全な場所にいて、生命が助かったのである。いつ起きるかわからない大地震。その時、どこにいるかは、運命としか言いようがない。
ところが、この堅牢な正銀の建物が悲劇を生むことになる。
《その後も余震が度々あったので、兎も角銀行を出ようと云うので外に出て見たら銀行側の柵内に多勢の人達が既に避難して居った》。崩壊を免れた正銀へ避難民が押し寄せる。午後1時頃、四方から猛火が襲いかかる。銀行側はこれ以上、受け入れることができないと、表門・裏門を閉鎖。中へ入ることができなかった避難民のうち100人余が焼死した。火災は午後4時頃収まり、地下室に避難して居た住民・行員など約400人は、窒息死寸前のところで、命拾いした。
一方、正銀を出た癸作は兄循一と、とにかく桜木町駅をめざす。
正銀から桜木町の駅までは数百m。《先程通って来た道路は両側の家が倒れて容易に通れなかったがその間を縫うようにして歩いた。途中津久井屋と云う旅館跡には倒れた梁の間にはさまれて助けを呼んでいる人なども居ったが、どうすることも出来ず、気毒に思ったが、そのまま桜木町駅前に来て見ると駅前の地面が大きく地割れしていて無気味に感じた。》と、大地震直後の生々しい描写が続く。おそらく梁の間にはさまれた人は、その後、しばらくして襲って来た火災によって焼死したであろう。などと考えると、私まで心が痛む。
《遠く山手の方には黒煙が風にあおられて空高く昇って此の方へ延焼するのではないかと思えた。》と、冷静な判断。《地面はしきりと余震でゆれていた。駅の海岸側を見ると貨物駅が見えたが、東京に居る兄弟達の安否を考えると、東京へ一刻も早く帰った方がよいと考えて、その場所へ逃れるのは止めて駅の西側の線路下に沿って横浜駅に向って歩いた》。貨物駅は桜木町駅から東側、ドックまでの広い敷地を占めていた。
二人が横浜駅にむかった道路は市電通りになっており、途中四つの電停がある。《処が道路は黒煙で塞がれて通れない。止むを得ず左側の紅葉橋を渡って野毛山に出た》。桜木町駅前電停から二つ目が紅葉橋電停。紅葉橋を渡れば、ほどなく「野毛山」と記されている丘陵へ上る。標高は30mくらいで、40mを越えるところもある。最高地点は約47m余。
《此の辺は昔兄たちが小供の頃住んでいたので案内は明るいので安心であった。それから畑の中を通って行くと暫くして保土ヶ谷駅の上に出た》。旅先と言っても、横浜で被災したことが、二人にとって「不幸中の幸い」であったと言えるだろう。結果論から言えば、紅葉橋付近は丘陵地が間近に迫り、最短で猛火の広がる市街地を離れ、樹木と畑が広がる人家の少ない丘陵地へ逃げ込んだことは、賢明な選択であった。街中にさまよっていれば、焼死していたかもしれない。
私も子どもの頃は生活圏を歩き廻っていたので、かなり細かなところまで把握していたが、今の子ども達はどうであろうか。野外で遊ぶことが少なくなった今こそ、防災、避難において、小学校などでの「地域探検」学習などが重要になっているように思われる。
《同駅よりは東海道線の線路上を東京に向って歩いた》。紅葉橋から保土ヶ谷駅までは、およそ3km。ここからいよいよ東京をめざすことになる。距離、およそ30km。当時は歩くことが多かったが、今では車での移動が多いから、子どもの頃から歩き馴れておくことも防災上、重要であるように思われる。
《平沼辺まで来ると、また猛烈な黒煙が道路を蓋っていて通れない。スタンダード石油の石油タンクが燃えていたので、此の黒煙の中を突っ切って通るかどうか暫く考えていたが、とに角東京へ行って兄弟たちの安否を問わなければならないので、思い切って一気に烟の中を走り抜けた。そして東神奈川駅まで来た》。スタンダード石油の石油工場は現在の横浜駅西口一帯にあった。広大な敷地に石油タンクも建ち並んでいたが、大震災で焼失後、再建に地元住民が猛反対し、空き地のまま推移し、やがて資材置き場や石炭置き場として利用され、戦時下に敵性財産として国に接収され、戦後は米軍に接収された。1951年にスタンダード石油の所有に戻り、相模鉄道などの買収によって開発が進められた。
ここで横浜駅の位置について説明しておかなければならない。もともと1872年「新橋・横浜間」に鉄道が開通した時、横浜駅は現在の桜木町駅。東海道線が西へ伸び、横浜駅でスイッチバック運行されていた。この不便を解消するため、神奈川駅(現在の横浜駅の少し東)と保土ヶ谷駅(当時、程ヶ谷駅)を直線で結ぶ路線を建設し、貨物列車の走行に利用するとともに、1901年、将来の横浜駅とするため、平沼駅を設置した。けれども市街地からのアクセスが悪く、旅客列車の本数も増やされず、市街地に近い現在の高島町交差点付近に、1915年、二代目の横浜駅がつくられた(初代横浜駅は桜木町駅に改称)。東海道線は保土ヶ谷から現在の相鉄西横浜駅あたりで、東海道(現国道1号線)に沿って直進。途中一帯が平沼である。スタンダード石油からは1kmほど離れている。横浜駅を過ぎると、東海道に沿って進み、神奈川駅で現ルートへ入っていく。二代目横浜駅は東海道線が緩やかにカーブする島式2ホーム(1~4番線)、これに駅舎の脇をかすめるように京浜電車線(当時、省線電車。現、京浜東北線)が大きくカーブして桜木町駅へむかう。上下対面式ホームで、別の出札口も設けられていた。平沼駅は役目を終え、廃止された。
癸作と循一は程ヶ谷から二代目横浜駅を通り、神奈川駅を通過。東神奈川駅に到達したと考えられる。保土ヶ谷駅から横浜駅まで約3km。横浜駅から東神奈川駅までは約3km。『遭難記』には記載がないが、彼らが通過した頃には、横浜駅のレンガ造りの駅舎は、建物は一部残ったものの、内部が焼失し、屋根が焼け落ちていたものと思われる。この被災によって、横浜駅へ行くため、たわんだ経路になっていた東海道線を直線化する計画が促進し、かつての平沼駅を通過する短絡線ルートが復活し、1928年に現在の位置に三代目の横浜駅がつくられ、神奈川駅は廃止された。結果的に横浜駅はスタンダード石油の広大な跡地に隣接することになった。
東神奈川駅までやって来た二人。《処が己に夕暮れとなって、あたりが暗くなって来たので、そのまま線路伝いに歩くことも出来ず、さりとて宿る処もないので暫く考えていたが、幸い省線電車が停車していたので、とも角その中で仮眠することにした》。おそらくこのように停車してしまった電車、列車はいくつもあったことだろう。今で言う「列車ホテル」である。貨車で生活した人びとなども報告されているが、これも都市部での災害時対応の参考になる。
二人は蚊の襲撃を受けて困ったが、多少は眠ったようで、《あたりが漸く明るくなって来たので、また線路上をテクテク歩いた。処が昨日より全く飲まず食わずで、腹ペコペコと云う状態であったが、水田の中を通っている線路のこと故何も口にする物はない。処が暫く歩いていると幸い近くに農家が一軒見えたので、兎も角その家へ行って水を飲ませて貰って元気を付けて、また線路上を歩いて漸く品川駅にたどり着いた》。書けば簡単だが、この間、およそ20kmを歩いたことになる。「ご苦労様」「お疲れさま」と声をかけたくなる。
とにかく、二人が歩いた鉄路は、多摩川を渡る鉄橋も落橋せず、9月4日には品川・蒲田間、5日には蒲田・鶴見間、6日には鶴見・神奈川間で列車運行を開始している。比較的損傷の少なかったことが幸いであった。
私自身の「鉄道好き」のため、品川へ着くまでにずいぶん文章量が多くなってしまったが、品川駅から二人は鉄路を離れて、六本木をめざす。
《かつて循一兄は明治学院中学部に在学していたことがあるので、此の辺の道筋は明るいので、だまってついて歩いた》。とにかく、横浜正金銀行から振り返って、循一が一緒でなかったら、癸作は生きていなかったかもしれない。
《品川駅から左へ坂を登って旧猿町に出て、明治学院を左に見て桜通りを通って古川橋に出て、川に沿って一ノ橋より麻布十番を通り鳥居坂を上って、六本木通りの裏の当時、川崎銀行の社宅に住っていた村松武夫(キク)方に着いたのは二日の夕方だったと記憶している》。と、癸作の道順記述はじつに詳細である。これなら今でも、このルートをたどることができる。キクは源作の長女。循一・癸作には妹にあたる。
二人は品川駅から西へ柘榴坂を高輪台へ上り、二本榎通りを進んでから左へ折れ、現在の桜田通りの頌栄女学校あたりへ出て、そのまま桜田通り(癸作は「桜通り」と記している)を北進。校舎に被害が出た明治学院を左に見て、清正公前を通り、やがて桜田通りをはずれてまっすぐに古川に架かる古川橋。川はここで直角に曲がるので、川に沿って、三ノ橋、二ノ橋、そして一ノ橋。古川はここで右折するが、二人は左折して麻布十番から鳥居坂へ。坂の途中、右手に東洋英和女学校がある。1911年、清水出身の岩崎きみちゃんが9歳で亡くなった鳥居坂教会の孤児院はすぐそば。「赤い靴の女の子きみちゃん」の像が麻布十番のパティオ十番にある。
坂を上れば六本木。麻布台は推定震度5で、建物の大きな倒壊など免れ、火災の延焼も手前で止まったので、川崎銀行の社宅も無事であった。六本木一帯は川崎銀行などをもつ川崎財閥が多くの資産をもっていた。こうして二人は図らずも、明治学院の先輩島崎藤村、そして日記を書き続けていた永井荷風と、1km範囲のところに存することになった。すでに叔母のテツも来ていた。癸作はしばらくこの叔母と暮したことがある。とにかく《その夜はまだ余震が度々あって不安なので屋外に一夜を過した》。
                       (つづく)
【館長のつぶやき】 『原崎源作日記』にみる関東大震災①

個人が書き残した日記などは、最近「エゴ・ヒストリー」などと呼ばれ、史料として注目されている。この文学館でもたびたび登場する、永井荷風の『断腸亭日乗』などもその一つであるが、当館でもスペイン風邪の記録として紹介した『原崎源作日記』も、世にあまり知られていないが、貴重な史料である。
今回、関東大震災100年にあたり、『原崎源作日記』に記された大震災を紹介したい。当時、源作は静岡市街に住んでいた。震源域から100kmとは離れていない静岡市内の震度は推定4~5。被害が出るような揺れではない。

原崎源作(1858~1946)は静岡県における茶業発展におおいに貢献するとともに、クリスチャンとして社会的もさまざまな貢献をしたマルチ人間である。その源作は明治中期から亡くなる年まで、およそ50年間、こまめに日記をつけていた。日記の多くは焼失したが、1916(大正5)年から1939(昭和14)年までの日記のうち、1920年、1933年、1934年の三か年を除いて現存し、1932年の日記まで、源作ひ孫の村上三恵子、源作孫の原崎幹雄の手で解読、デジタル化された。
日記には天候や気温(華氏)も記されている。
なお、文中、幸三郎(長男)、循一(二男)、得三(三男)、癸作(四男)、和一(五男)、六郎(六男)、七郎(七男)はいずれも源作の息子(六郎は丸尾家に養子)。セイは源作の二女、テツは源作の妹。

【日記文】
☆9月1日土曜日昨夜より朝に掛けて大雨のち晴れ 86度
一、茶況同事、ごく不人気。中以上品別なく、高く2円50銭以下、2円以下買う人なし。
一、午前11時58分半、地震あり、可なり強く感じ時間も3・4分、皆々外へ出る。被害なし会社仕事は中止、休業する事とす。その後10分ないし1時間毎に数回あり。夕方に在諸方の状況を聞くと、東は鉄川辺より、鉄道通信とも不通、更に分からず。種々の流言あり。その内信ずべき筋の情報は、横浜に大火起こり、東京も火災ありと聞く。
一、和一、六郎両人にて、癸作見送りのため、鉄道にて行く積もりなりしも、沼津以東にて終わる、見合わせたり。

【コメント】
源作は地震の発生した時刻を克明に記録している。静岡市内では被害もなく、平静であったことが読み取れるが、大きい地震と判断したようで、会社は休業にしている。
源作は日頃から茶の取引などのため、一般市民に比べ多くの情報を入手できた。その中で源作は、「流言」と「信頼できる情報」を精査している。
9月2日に横浜港からコレヤ号で渡米予定の癸作を見送るため、和一、六郎が東京へ行く予定であったため、鉄道運行の状況が記されている。静岡県東部から先、東京にかけて東海道本線の運行が止ったことがわかる。言い換えれば、静岡市を中心とした地域では、列車が運行されていたことになる。なお、文中「東は鉄川辺より、鉄道通信とも不通」と書かれた「鉄川」は「鈴川」の誤りと思われる。走り書きの日記であるため、何と書いてあるかよくわからない部分もあり、デジタル化にあたって、集団的に検討した箇所も多い。東海道本線「鈴川」駅は1956年に「吉原」駅に改称されている(富士市)。
この関東大震災は原崎家にとって、きわめてタイミングの悪い状況で発生した。癸作が9月2日渡米予定で、見送りのために源作の息子娘たちは東京に大集結することになっていた。
癸作は8月31日に挨拶のため父のもとを訪れ、その日の16時46分静岡駅発の特急で東京へむかった。そして同じ日、見送りのため、循一と七郎が上京した。すでにセイは8月22日に東京へ行っており、9月1日、幸三郎が東京へむかった。この結果、関東大震災発生時、循一、癸作、七郎の息子三人と、村松家に嫁いだ長女のキク、上京したセイの二人の娘が東京にいた(このうち循一と癸作は横浜正金銀行にいた)。得三は在米。幸三郎は東京へむかう列車の中。和一と六郎は列車が不通になったため、上京は足止めされた。源作の姪テツも上京していた。とにかく、9人の子どものうち6人が心配な状況である。
なお、「昨夜より朝に掛けて大雨のち晴れ」とあるのは、東海沖を台風が通過したためで、関東地方でも強風が吹き、これが火災の延焼を拡大したと言われている。

【日記文】
☆9月2日日曜日晴 83度
一、今朝に止まり、横浜東京の様子、新聞の号外に見えし意外の惨状にて、東京下町通り全部焼失、横浜も火の海の如し。死傷者数万人ありとの通信あり。
一、右につき、癸作見送りのため上京せし幸三郎、循一、七郎、セイ、テツ、など如何せしか心配につき、和一と兵作2人、清水より外国船に便乗(5時出帆)横浜に行く。
一、丸尾六郎、午後5時7分にて、掛川に帰宅す。
一、米国サンフランシスコ支店 木下へ大地震、東京、横浜全滅 当地無事と打電す。

【コメント】
ラジオの放送は1925年から始まるので、関東大震災時、テレビはもちろんラジオもなかったので、新聞報道が唯一の頼りである。信じがたいような被害に、上京している家族・親戚の安否が気遣われる。仕事がら清水港の船便に詳しい源作。船便を使って横浜まで行き、東京へむかう方法を思いつき、和一と社員の藤波兵作を派遣する。

【日記文】
☆9月3日月曜日雨
一、今朝より雨模様、終に雨となる。
一、幸三郎より更に通信なし。心配につき、磯部兼松と松本順作2人、遭難地大磯止まり出張する事に決定、この旨通知するため、順作、興津に行く。右行きの食料品は食パン2斤、菓子6百匁、鰹節1〆、その他梅干しなども持参する事となし、準備す。 注)松本順作の「松」はデジタル化にあたって「松」と「杉」の判読ができず、「松」と判断したが、結果的に「杉」が正しいようであるが、ここでは松本と記しておく。
☆9月4日火曜日晴 81度
一、今朝5時10分発にて、両人大磯に向け出発す。
一、馬場町 酒井写真屋青年、去る2日朝東京出発、自転車にて陸路帰宅せし人ありと聞く。その人を見つけ、去る1日地震出時の事より2日朝出立止の事、それより陸路箱根を越え、沼津より汽車にて帰りたり。同氏の話も新聞と大差なし。
一、幸三郎と同事せし人(手伝いの人)の話を、間接に聞きたり。この人は多少の負傷せしも、鉄道線路を歩行して来たり、この人の話にて、死傷多数ありしよし。
一、ニューヨーク三井より来電、注文し来る。
一、原崎勝太郎、七郎、友吉、木下はるなど見舞いに来る。

【コメント】
「幸三郎より更に通信なし。」「遭難地大磯止まり出張する事に決定。」「幸三郎と同事せし人(手伝いの人)の話を、間接に聞きたり。この人は多少の負傷せしも、鉄道線路を歩行して来たり、この人の話にて、死傷多数ありしよし」。日記にこのような記述があるところから、大磯の列車転覆事故の報が源作にももたらされていたことがわかる。長男幸三郎は列車事故で死んだのではないか。源作はそんな不安にかられたことだろう。
9月1日、浜松発東京行き普通列車第74列車は、静岡で幸三郎らを乗せ、11時56分に大磯駅を発車した(大磯駅助役日誌)。そして乗客およそ600人を乗せて平塚へむかう途中、大地震が発生。1両目から5両目までは無事だったが、後ろから突かれた形で6両目が7両目(2等車)にめり込み、8両目から10両目までが脱線転覆した。この事故によって、7両目の乗客8人が即死。全体に乗客39人、乗員1人が重傷、乗客5人が軽傷を負った。源作は状況から幸三郎の乗った列車と判断し、捜索のため、社員の磯部兼松と松本順作を派遣することにして、食料なども準備。沼津以東は鉄道不通であり、その先、大磯まで歩いたのだろうか。なお、当時はまだ丹那トンネルができていないので、東海道本線は御殿場経由である。
東京から箱根を越え、自転車で静岡に帰宅した青年があったことは興味深い。

【日記文】
☆9月5日水曜日小雨 79度
一、今朝晴れなりしも、後小雨来る。夕方天気となる。
一、横浜に行きし和一上陸を止め、神戸を回り、陸路帰宅す。藤波兵作は1人残り、癸作と循一を見つける積もりなり。
一、東ヶ崎氏 昨夜横浜より清水に来たり、本日当方訪問。去る1日の大地震に無事なりし事を聞き、驚くのほかなし。同氏は大阪に行くとの事なり。
一、循一、癸作、七郎、せい、てつ一行ならん。右の電報来る。ミナ ブジ アスカエル 9月4日鉄道電信長野局 幸三郎も無事にて、午後12時無事静岡に帰宅す。一同の悦び言語を絶す。

【コメント】
関東大震災にともない、相模湾沿岸には繰り返し津波が襲った。最大高、熱海12m、館山9m、三浦6m、鎌倉4m。横浜港も水没した。清水港は直接津波の被害はなく、和一と藤波兵作も同乗し横浜へむかった船であるが、横浜港への接岸は困難で、神戸へむかったようである。けれども、兵作は品川へ上陸することができた。
鉄道省は9月3日から、横浜・品川出発の連絡船を運航し、第一便新嘉坡丸が3日夜、清水港に入港した。10月20日までに84901人を清水港まで運んだという。陸路でも、9月中だけで、徒歩で箱根を越え、静岡県へ入った人15758人、御殿場経由徒歩で10019人。
横浜港から乗船させた船が清水港に入港したこともわかる。とにかく、被災地から静岡へ来る人もちらほら現れ、ナマの情報がもたらされる。何と言っても、家族の無事がわかり、安堵する源作。
海路だけでなく、徒歩、そして神戸経由、長野経由などで運行している鉄道を使って西から静岡へ達する人びとなど、今後の大震災発生にともなう輸送確保の参考になる。

【日記文】
☆9月6日木曜日晴 83度
一、今朝晴天。
一、幸三郎、6時発にて興津に帰る。
一、藤枝友吉、地頭方 阪木へ電話にて、一同無事帰宅せし事を報ず。新地村 池端伊太郎へは電信にて知らせる。
一、四番茶まだ始まらず。帰宅上茶売り行き良いにつき、生葉高し、60銭くらい。
一、石井氏 神戸正金銀行に行く。文替え取り組の件を依頼する積もりなり。
☆9月7日金曜日晴 82度
一、今朝晴れ、後曇り。
一、茶況は地震後一時、見本も来たらず。直入りもせず。休業同様なり。しかし2円内外の品は沢山あり。上総て 払い底なり。
一、矢部与左衛門氏来社 近状を御話申し上げて、帰宅せらる。
一、横浜より東京へ、癸作、循一、幸三郎、七郎、せい、を見つけに行きし、藤波ほか2名、今夜 中山道鉄道にて、帰宅すると電信来る。
一、震災義援金20円を、市役所に寄贈す。世間を見るに、50円くらいが相当ならんとの皆の意見につき、30円追加分を市役所に出す。
☆9月8日土曜日晴 86度
一、今朝天気、暑気強く、正午より3時止め92度くらいなりし。
一、富士育児院 渡辺代吉来訪、救済事業出張につき、旅費不足につき、50円貸して貰いたく申し出につき、50円用立てる。
一、研究所にて 機械比較試験をなす。
一、幸三郎を探しに行きし、磯部、松本両人、東京より汽船にて帰宅。また藤波兵作も午前7時頃中央線にて 名古屋を経て、帰宅す。

【コメント】
9月8日には、藤波兵作などが中央本線を経由して名古屋に至り、帰静した。磯部・松本も東京から船で清水港に入り、帰静している。
9月10日の日記には、《震災新聞切り抜きを 米国得三に郵送す。手紙も出す。》、9月12日には、《午後7時より癸作一行 無事に帰着せしにつき、会社の者30名ばかり夕めしを馳走す。》の記述があるが、この後、大震災に関する記述は影をひそめる。結局、渡米を楽しみにしていた癸作であろうが、計画は一旦中止せざるをえなくなった。
日記を通して、源作の家族に対する思い、心配が伝わってくる。当時、被災地に家族・親戚・知人をもつ人たちは、離れた地にあっても、安否を気遣い、いたたまれない思いで過ごしていたことであろう。そのような中で源作は、実際に捜索にむかわせることができた点、他者と大きく違う。他の多くの人たちは行きたくても行けなかった。その分、この日記は貴重な記録である。
また、日記の中から、事業などで得られたおカネは積極的に社会に還元していく源作の姿も読み取ることができるが、ここに出て来るのは初めの一歩に過ぎない。
源作は上京が可能になると、内村鑑三や山室軍平を訪ねている。《一、今朝村松方を出て、柏木なる内村先生を訪問、面会を得、種々の話を聞く。一時間ばかりにて帰る。一、市ヶ谷救世軍士官学校 仮本営に山室氏を訪問す》(1923年11月8日)、《一、内村鑑三氏へ過日約束せし寄付金、百50円を送金す。内訳 百円今井館改築費の内、50円北海道伝道金》(1923年11月15日)。⇒詳しくは、【文豪の東京2――島崎藤村】第15回 山室軍平生誕150年記念②(ブログ、カテゴリー「文豪の東京2――島崎藤村」)

                      (つづく)

【お知らせ】
当館は拡張を重ねた結果、全体を見渡すことができなくなりました。「ブログ」のカテゴリーに「勝手に漱石文学館総合案内(もくじ)」を設けましたので、ぜひ活用してください。順次、更新しています。
【館長のつぶやき】 輪島測候所

小学校5年の時に担任されたK先生の影響もあって、私は気象に興味をもった。しだいに天気予報もやるようになり、ある時、校内放送で自分が考えた天気予報を放送した。自分ではちょっと得意であったが、K先生から「天気予報は気象予報官しか出してはダメだ。」とこっぴどく叱られた。何しろ、「ゆでだこ」というあだ名の先生だから、真赤になって怒り、すごみがある。当座はしょげていた私だが、小学5年生に対する𠮟り方としては、ずいぶん大人扱い。後で嬉しかった。
堂々と天気予報を公表するには気象予報官にならなければならないから、気象庁に就職しなければならない。そのためには、今から少しずつ「見習い」をしておこう、などと考えて、輪島測候所へ顔を出すようになった。
輪島は小さな街であるから、測候所も自転車で行けばすぐである。しばしば顔を出すうちに、描きたての天気図を見せてくれたり、どうして「このような予報になるか」解説してくれたり、私の予報にも耳を傾け、意見をくれるようになった。天気予報に「自分の願望が込められているのでは」、と指摘されたこともあった。観測機器のある屋上へ連れて行ってくれたり、地震が起きると、地震計のところまで行って、描かれた振れを見せてくれたり。夢のあるのは、ラジオゾンデの打ち上げ。観測機器をつけた気球が測候所の敷地から放たれると、気球はグングン空を上って、やがて小さな白い点になっていく。
このラジオゾンデは、上空の気圧・気温・湿度・風向・風速を観測し、無線で伝えてくる。輪島測候所がつくられたのは、日清戦争が終った翌年の1896年であるが、日本海に突き出した能登半島にある輪島は、気象観測においても重要な位置にあり、高層気象観測においても大きな役割を果たしている。
やがて、私はラジオの気象通報を聞いて、天気図を描くようになった。台風の進路予測や、大雪の予測などは自分なりに、しだいに精度が上がってきた。父に頼んで買ってもらった気象の専門書には、微積分の数式が並んでいた。中学生の私には、書いてあることは、それなりにわかっても、計算式はまったくムリ。けれどもムリは中学で終わらず、高校になっても改善の兆しなく、とうとう私は高校2年の終わりには、気象大学校の受験をあきらめざるを得なかった。
今、気象庁のホームページから得られる情報は豊富で、天気図一枚で予報していた時代にくらべ、私の予報精度もずいぶん上がった。ただ、残念なことに、私は気象庁の予報官でもなく、気象予報士の資格ももっていないから、自分で予報を出して、自分で「当たり」「はずれ」をやるしかない。
小学生の私は、K先生の指導のもと、校庭の百葉箱や雨量計を使って、毎日気象観測をおこなっていた。中学の時は、理科室にアマガエルを飼って、鳴き方と天気の関係を調べた。今、全国各地の測候所などでおこなわれていた観測や観察が無人化され、輪島測候所も2010年に無人化された。私のような「お天気少年」が気象庁の職員と触れ合い、気象庁職員を目指す機会もなくなってしまった。
測候所が無人化されれば、ラジオゾンデを大空にむかって飛ばすこともできない。そこで導入されたのが高層観測機器自動打ち上げ施設である。一日2回、自動的に打ち上げられる。便利と言えば便利な代物である。
今年(2023年)1月13日、輪島測候所にある高層観測機器自動打ち上げ施設で火災が発生した。気球に水素ガスを充てんしている際、火が出たという。気象庁担当者が東京で打ち上げ状況を監視していて発見し、輪島消防署へ通報した。輪島の火事を東京から通報する。進化した世の中になったのか、味気ない世の中になったのか。「お天気少年」から「お天気じいさん」になってしまった私は、複雑な思いである。
【館長のつぶやき】 『夢十一夜』 冥土の土産

「冥土の土産」と言いますが、冥土に土産を持って行くことはできません。以前は良かったのですが、人間たちが閻魔大王に冥土の土産を渡して、地獄に落ちないよう働きかけたのが、事の発端でございます。人間たちの冥土の土産によって、閻魔庁は腐敗堕落の温床に。このままでは、閻魔大王が地獄に落ちかねないと、以後、きっぱりと冥土の土産を断るようになったのでございます。それは、今も続いています。
【館長のつぶやき】

とうとう『断腸亭日乗』(文庫本)を買ってしまった。わたくしとしたことが、実に珍しい行動である。それだけ、荷風にはまり込んでしまったということ。はまり込んでみると、『断腸亭日乗』は必需品である。あくまでもわたくしは読むために本を買ったのではない。書くために買ったのである。通読はしない。必要に応じて、該当箇所を読む。さっそく、『濹東綺譚』で活躍するであろう。楽しみだ。
【館長のつぶやき】

NHKの番組を観ていたら、バーグランド・漱石さんという人が出ていた。ペンネームかと思ったら、親が名づけた本名である。三人兄弟の三番目で、一番上が健、つぎが龍之介。龍之介より漱石が年下というのも面白いが、計画的につけたわけでもないから、仕方ないだろう。龍之介や漱石が小説家だから、健は開高健から取ったのかと思ったら、高倉健だった。そう言えば、龍之介も三人の息子の名前に友人の名前を活用した。
バーグランド・漱石さんの父親はジェフ・バーグランドさん。ジェフさんは1949年、アメリカの内陸部、サウスダコタ州生まれ。1970年に来日して、同志社高校で教えた後、大学で教えるようになった。専門は異文化コミュニケーション。京都の町屋に惹かれたジェフさんは、憧れの町屋に住んでいる。築150年以上という。木屋町筋から狭い路地を鴨川にむかって20m余、突当りにある。細長い町屋はそのまま鴨川縁まで至っている。
バーグランド・漱石さんは、この町屋の一階でカフェ・バー「so-b」を開いている。店内には、漱石さんの趣味であるフィギュアやミニカーが飾ってある。夏目漱石も何度か京都を訪れている。その夏目漱石がバーグランド・漱石さんのお店を訪れたことを想像してみると、楽しくなる。コーヒーは何を注文するであろうか。ジェフさんも参加して、京都について、日本の文化について、そして異文化コミュニケーション論。全会話英語で、私はついていけそうもないが、ジェフ・イングリッシュ・スクールで英会話の勉強をすれば、少しはわかるようになるかもしれない。
自宅内を案内された夏目漱石。京の町屋と、そこかしこに感じられる日本文化、鴨川の流れ。ジェフさんの尺八にすっかり満足して、この家を後にする。最後の場面は、夏目漱石とバーグランド・漱石さんの握手である。
私も一度、この町屋、そして「so-b」を訪ねてみたい。

なお、ジェフ・イングリッシュ・スクール、so-bの住所などはネットで公開されている。町屋は町家と表記されることもある。家屋というくらいであるから、どちらが正しいのか、私にはわからない。

                        (完)
【館長のつぶやき】

日本文学研究者の坪内稔典さん。愛媛県生まれと言うことで、やはり俳句をやる。したがって俳人である。もちろん、正岡子規の研究者でもある。当然、漱石の研究もやっている。私が通った大学の少し先輩であるから、キャンパスのどこかで、お互いにまったく知らぬまますれ違っていたかもしれない。未だに、お互い、会ったことがないから、どこかですれ違ったとしても、知らぬまま通り過ぎるであろう。
俳人であるから、坪内さんも句集を出している。上田五千石らが監修した『最初の出発』(東京四季出版、平成5年)第三巻(昭和10年代生まれの作家)にも坪内さんの句が100句、掲載されている。昭和20年代以後ではないかと思ったら、辛うじて10年代だった。そのため、第四巻に行かなかった。8月19日を「俳句の日」と命名したのも坪内さんらしい。
坪内さんは、大学でも教えた先生でもある。夏は文学旅行の季節で、坪内先生は学生を引率して各地へ行ったと言う。その中で金沢へ行った時、こんなことがあったと、あるところで書いている。
学生がつくったガイドブックには、室生犀星、徳田秋声、泉鏡花の履歴が載せられ、代表作の一部も引用されていた。石川近代文学館、兼六園、犀川も必見スポットになっていた。坪内先生は犀星の『犀川』(うつくしき川は流れたり……)に出て来る「本のなさけと愛」を知った犀星にならって、学生たちを早朝の犀川へ連れて行った。あえて早朝でなくても良いように思うが、思いめぐらすには確かに静かな早朝の方が良いだろう。
犀川の堤に学生たち、みんな思い思いに座る。どの辺りかわからないが、「あんずの詩」が刻まれた犀星詩碑のある辺りが適地かもしれない。もちろん、そんなところに座れば、私は「本のなさけと愛」とまったくかけ離れて、おむつの洗濯を思い浮かべる。私は「母のなさけと愛」を知ることになる。
女子学生のTさんが「本のなさけ」って、本が読者にもたらす世界のことか、それとも本の魅力かと。坪内先生の教え子だけあって鋭い質問。けれども坪内先生、これに「両方じゃないか」と応える。「先生はすぐにはどちらかを決めない人よね。」とTさん。荷風の描く女性の言葉として登場しそうな文句である。「うん、両方か」とうなずいたTさん。坪内先生の奥深いところを、とっさに理解したようだ。
坪内先生は2000年が近づいた頃から文学旅行は下火になって来たと指摘する。そしてそれは文学そのものの凋落であると。けれども文学旅行や文学散歩は人気がなくなっても、アニメの聖地巡りなどはもてはやされており、形を変えて生き残っていると言えるだろう。そうした人間の本質が残っている限り、「文学旅行」や「文学散歩」も消えることはないと、私は思う。この「勝手に漱石文学館」が「文学旅行」や「文学散歩」のささやかな起爆剤になってくれれば私は嬉しい。
私は今、坪内さんと犀星や朔太郎の詩を、声を合わせて読みたい気分になっている。
                        (完)
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
先日ご紹介したフェリシモの「日本文学の世界 文学作品イメージティー2」を申し込み、自宅に届きました。4作品のうちの一つの作品のお茶が入っています。どの作品だろうとわくわくしながら開けてみると高村光太郎著『智恵子抄』でした。この勝手に漱石文学館の別館・三文豪のなかに、犀星の部屋があり、犀星が高村光太郎と智恵子について書いている作品『我が愛する詩人の傳記』について館長が書いています。(※詳細は犀星の部屋の3.下積み時代、5.戦後の犀星をお読みください。)
イメージティーのお茶は「レモン哀歌」の「わたしの手からとつた一つのレモン」をモチーフにした、天のものなるレモンの紅茶。わたくし、今まで恥ずかしながら『智恵子抄』を読んだことがありませんでした。智恵子の最期が書かれた「レモン哀歌」や、東京には空が無いという「あどけない話」などはどこかで見たり聞いたりした記憶はありましたが、作品を読んだのははじめてでした。
新潮文庫の『智恵子抄』には、智恵子が亡くなって2年後に書かれた「智恵子の半生」という文章が収められていました。このなかで光太郎は、智恵子はよく東京には空が無いと言って歎いたと書いています。そして「あどけない話」の自身の詩を引用し、次のように続けます。
——私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以って感ずる事ができず、彼女もいつかはこの都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への欲求は遂に身を終るまで変らなかった。(中略)その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆(いっか)を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがすがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。——
そして最後は次のような文章で締めくくられています。
——私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。——
さて、作品を読み終え、さっそく『智恵子抄』のお茶をいただきました。ほんのりレモンの香りがする、とてもまろやかな味の紅茶でした。この一杯の紅茶を飲み干したとき、智恵子が最後まで求めつづけたふるさとへとつながる想いを感じ、わたくしの心までも洗われたようでした。まさに天のものなるレモンの紅茶でした。お茶うけには、近所で開店したばかりのケーキ屋さんのレモンケーキを添えて。こちらも程よい甘さで美味しくいただきました。
次回はどの作品のお茶が届くでしょうか。楽しみです。
あっ、もちろん『蜜のあわれ』のお茶が届いたら館長にご連絡しますね。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
5月といえば、新茶の季節。八十八夜を過ぎ、この時期にしか味わえない新茶を飲むと、いつもの緑茶と違ってやはり美味しいなあと思います。
ところで、生活雑貨などを企画・販売するフェリシモという会社から「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティーの会」という商品が販売されているのをご存じでしょうか。本の装丁に見立てた箱にティーバッグを詰めたものです。原則4作品から毎月1種類が届きます。文豪が紡いだ言葉をイメージしたお茶を飲むことができるなんて、ほんとうに素敵!欲しいけれどどうしよう、と思っているうちに今年に入り第3弾が発売されました。4作品のうちのひとつ、鷗外の『舞姫』に綴られた「エリスが思い描いた豊太郎の瞳の色」をモチーフにした、ほのかに渋みがある黒みがかった色のブレンドティーが気になります。第1弾では漱石の『虞美人草』より、アイスクリームを感じさせるバニラの甘い香りの紅茶などが出ています。
私が一番飲んでみたいのは、昨年春第2弾として発売された、室生犀星の『蜜のあわれ』のお茶。もちろん、赤い水色。作品に描かれた金魚の少女をモチーフにしたフルーツハーブティーです。いったい、どんな味がすると思われますか。今度館長とお会いする時には、『蜜のあわれ』のお茶で、ティータイムを楽しむことといたしましょう。赤いお茶の色が映える、ちょっと丸くてまるで金魚鉢のような透明なガラスのコップを用意して。

※現在、「館長の部屋」に「日和下駄を履いた猫——犀星編」が連載されています。猫がこんなことを言っているのを見つけました。
——蜜のような金魚娘の話しをしていると、吾輩も猫である。金魚鉢に顔を突っ込んで、この金魚娘を食べてしまいたくなる。可愛いからではない。猫の習性である。——
猫もフルーツハーブティー、飲むかしら。ええ、きっと飲むわ。美味しいに決まっているじゃないの。あたいの代わりに、どうぞ召しあがれ。赤井赤子より。
【館長のつぶやき】

『松山 坊っちゃん会』の会報(第36号)が発行されました。今号は「坊っちゃん会結成60周年記念」号で、トップには、会長の武内哲志さんの挨拶が掲載されています。
また、「漱石先生と坊っちゃん列車」と題した、野上完治さん(東温市文化財保護審議会委員)の記念講演の内容も掲載されており、鉄道ファンの私にはとても魅力的なものでした。松山は鉄道網が早くから発達し、今でも地方都市には珍しく、大きな役割を果たしています。
この号には、武内哲志さんと私との対談も、とくに重要な部分を抜粋して掲載されています。このような形で紹介していただけるのは、私としてもとても嬉しいことです。やはり、紙面になると、あらためて読んでしまいます。
次号(37号)は10月に発行される予定とのことです。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
昨年は洋装150年であったと館長に伝えましたが、1872年11月12日「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告から、11月12日は「洋服記念日」とされているそうです。
ちょうど今の時期、3月下旬は卒業シーズンで、新聞やニュースなどでは女子学生の袴姿がたびたび報じられます。小栗風葉の小説『青春』では学校通いの女学生の姿を見ることができます。ヒロインの親友である香浦園枝は《前髪を暴(やけ)に押潰したような束髪に桃色のリボン、鼠に阿納戸の乱立の糸織の被布を着て、海老茶のカシミヤの袴を稍短目に、黒の靴下の細りした足頸に靴の編上を銜込ませて》います。いっぽうヒロインの小野繁は《亀甲絣の綿琉の着物に銘仙の羽織―黄ろい縞の決切った銘撰格の仕立返しらしいので—オリイブ色の玉スコッチの手編のショオルをピンで留めて、黒のカシミアの手袋を穿めて居る。鬢髱を故とバサ付き加減の束髪は園枝と同じ好みだが、リボン無しで、袴は葡萄紫の裾を、唐天の鼻緒の吾妻草履に打たせながら》とあります。『青春』が読売新聞に掲載されていた明治38~39年頃、同じような恰好で女学校へ通う生徒たちが大勢いたであろうと思います。
昨年出版された日本大学教授の刑部芳則先生の著書『洋装の日本史』(集英社インターナショナル新書)を読み、日本女性が和服から洋服を着るようになった服飾史が大変わかりやすく書かれており、まさに「目からうろこ」でした。明治の初めに開校した官立の女学校では、着物に仙台平の袴(男性用)を合わせていたため、女性が袴をはくことが嫌われ、普及せずに終わってしまったそうです。その後「衣服改良運動」なるものが展開され、華族女学校幹事兼教授の下田歌子が考案した女性用の袴(海老茶色のスカートのような形状)が登場。和服は歩くと裾がめくれるなど動きづらいため学校教育の現場では改良が求められ、「着物に袴」が全国の女学校に普及していったということです。私はずっと、女学生は明治時代に着物に袴、大正時代の半ば以降からセーラー服と、ある日突然和服から洋服になったとばかり思っていました。刑部先生は、この着物と袴という組み合わせは洋服の代用服であると著書の中で述べています。女性用の袴を洋服の代用品として捉えると、その後さらに洋装化を進める次の段階として「服装改善運動」が起こり、学校に通学する女子生徒たちが実践した「セーラー服」が誕生する背景が見えてきます。
私は大学の卒業式(学位授与式)で、ピンク地の小紋に紺色の袴を合わせ、髪には小紋の残り布で母が作ってくれたリボンをつけ、ブーツを履き、手に甲州印伝のトンボ柄の合切袋を提げて出席しました。風葉の『青春』のような女学生気分を味わうことができた1日でした。この春卒業を迎えた皆様、おめでとうございます。
【館長のつぶやき】

鏡花の「裏干支」にあたるウサギ年に、鏡花が生誕150年を迎えるのも不思議な巡り合わせの様に思われます。金沢にある泉鏡花記念館では、5月21日(日)まで、鏡花生誕150年記念特別展『谷崎潤一郎と芥川龍之介――鏡花を愛した二人の作家』が開催されています。
記念館発行の案内には、谷崎潤一郎が東京・芝の紅葉館で開かれた文芸家新年宴会で、秋聲の紹介で鏡花と面識を得て以降、鏡花と親しく交流するようになったことや、中学生だった芥川龍之介が、発表されたばかりの『草迷宮』を徹夜で読みふけり、ついに大切な試験を一つ棒にふったという逸話なども紹介されています。
記念特別展では、谷崎潤一郎や芥川龍之介から鏡花に送られた書簡なども展示されています。詳しくは泉鏡花記念館のホームページで確認してください。

【館長の部屋】では、『日和下駄を履いた猫』を連載しています。日和下駄は漱石から鏡花へとバトンタッチされます。ぜひ、引き続きお楽しみください。順次、「ブログ」の方でも掲載していきますので、まとめて読まれる場合には、「ブログ」の方をご覧ください。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』は東京の「文悠書店」(神楽坂)と金沢の「うつのみや書店」で発売しています。神楽坂散策の折や、泉鏡花記念館来館の折には、ぜひお立ち寄りください。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。全国を巡回している展覧会『アーツ・アンド・クラフツとデザイン —ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで—』に行ってきました。今回は着物を着て行くことができず残念でしたが、会場近くのデパートでおしゃれな半衿を購入。お値段はプチプラですがとっても素敵なレースです。黒の総レースの着物にも、赤の総絞りの小紋にも、ピンクの結城紬にもなんでも合いそう!ということで、さっそく長襦袢に縫い付けました。美術館に着物を着ていくのが楽しみです。
会場では、ウィリアム・モリスのテキスタイル「いちご泥棒」の作品をはじめて見ることができ、感動しました。モリスは詩人であり、芥川龍之介が卒論に取り上げたことを以前秘書のつぶやきで書きましたが、モリス自身が本文の字体までこだわって装丁、そして印刷され出版した著書が展示されており、興味深いものがありました。またモリスの影響を受けた作家の作品もタイルやガラス工芸など多岐にわたり、手仕事のすばらしさを伝える運動の広がりが感じられました。
展覧会の後は、うなぎ屋さんに立ち寄りました。注文したうな重は大変美味でした。そして敷紙に書かれていた斎藤茂吉の短歌が、さらに美味しさを引き立てます。
——吾がなかにこなれゆきたる鰻らをおもひて居れば尊くもあるか——
このお店は、うなぎを活かしており注文を受けてから「さき」「焼く」をたてまえとしているため、少し待ったのですが、待ち時間などまったく気になりませんでした。茂吉の鰻好きは有名で、歌をいくつも詠んでいます。目の前に運ばれてきたうな重を食べながら、同時に茂吉の歌を味わうという貴重な経験ができました。どこへ行っても、秘書の私は文学から離れられないようです。
【館長のつぶやき】

新聞に『おうちで楽しむミュージアム』が連載されてきた。ミュージアムグッズ愛好家の大沢夏美さんが書いてきたもので、最終回にあたる第10回では、新宿区立漱石山房記念館のグッズである、メモ帳「夢十夜」が紹介されていた。
大沢さんは、《あなたの暮らす地域はどんな産業で栄えていますか?》と問いかけ、《文学作品を通じて地域の姿を伝える博物館と、特色ある地場産業がコラボレーションしたミュージアムグッズをご紹介しますね。》として、漱石山房のある地域一帯には印刷業にまつわる中小企業が多くあり、記念館にほど近い「佐々木活字店」もその一つで、活版印刷で使用される活字の鋳造から印刷まで全工程を自前で手がけているという。
そのような佐々木活字店と記念館がタッグを組み、活版印刷メモ帳「夢十夜」を作成した。「夢十夜」の一節を表紙とメモ用紙に活版で印刷。《「初版本のイメージを大事にしたい」と当時の活字に近いものを選び、旧字と旧仮名遣い、ルビを再現》。大沢さんは、《文字の大きさを漢字と仮名であえて変えためりはりのあるデザインが漱石の紡ぐ言葉の美しさを際立たせますね。》と評し、活版印刷は紙をへこまさず仕上げるのが職人の腕の見せどころで、《その滑らかな仕上がりに、印刷技術の高さを感じさせます。これぞ、地場産業と博物館の価値ある交流の姿だと思います。》と、続けている。
私も子どもの頃から新聞づくりに携わり、印刷所をたびたび訪れていた。画数の多い文字の活字も、小さな文字の活字も、よくまあ造ったものだと感心するし、裏返った文字を見て、正しい文字を判断して取り出す技能も大したものだと思う。当時は活字がひっくり返っていることもあり、校正の時にそれを指摘する記号もあった。今では字の間違いなどはあっても、ひっくり返っていることはない。組んだ活字がばらばらにならないよう、万が一、落してしまったりしたら、何時間もの努力が水の泡になってしまう。印刷所の中では行動も慎重にならざるを得なかった。そう言えば、校正段階で原稿を書き直すなど、印刷所の人にずいぶん無理なお願いをしたこともあるように記憶している。
活版印刷が消えて、印刷所のにおいも消えてしまった。何やら、佐々木活字店に印刷所のにおいを求めて訪ねてみたくなった。
「館長の部屋」に神楽坂にある文悠書店の橘陽司さんとの対談を掲載しました。今年は鏡花生誕150年。鏡花は神楽坂ゆかりの文豪ですが、漱石はじめ、神楽坂にはゆかりのある文豪がたくさんいます。神楽坂の魅力も橘さんにたっぷり語ってもらいます。
「館長の部屋」に「日和下駄を履いた猫」の連載を始めました。「ブログ」のカテゴリー「金沢ブログ」では、「ふるさとの日和下駄」を連載しています。
秘書のつぶやき 館長のつぶやき ――新春篇

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
あけましておめでとうございます。
年頭にあたりまして、谷川俊太郎の『古典とは』という詩をご紹介します。

古典とは

見上げれば
空のようにいつもそこに在るもの
踏みしめれば
大地のように支えてくれるもの

文章に作者の声が谺している
文字に人間の歴史がひそんでいる
文体と呼ばれるカラダが
意味というココロとともに
甦る古代から予感の未来へと
繰るページごとに読者をいざなう

源も行方もさだかではない知恵の道を
つまずきながら私たちは歩んでいる
先達が立ててくれた道しるべを
内なる地図に書きこみながら

この詩は2014年に開催された岩波文庫フェア「はじめよう、極上の読書名著・名作再発見!」に合わせて発行された冊子「古典のすすめ 第2集」に収められていたものです。古典とは「名著・名作と呼ばれる作品」ですから、漱石はもちろん(当時のフェアで取り上げられた82点のなかに「こころ」が入っていました)、館長が今まで取り上げてきた、そしてこれから取り上げる文豪の作品はすべて古典といえるでしょう。私もおぼつかない歩みではありますが、文学作品を読み、学び続けることで何とか前に進みたいと思っております。2023年も秘書のつぶやきを、どうぞよろしくお願い申し上げます。


【館長のつぶやき】

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年早々の『相棒』。そこに登場したのが「熟年探偵団」なるもの。「少年探偵団」世代が、探偵団になることなく熟年を迎え、「探偵ごっこ」が再燃。明智小五郎に当る役割を孫娘が演じる、「孫とじいじたち」の「探偵ごっこ」である。
こんな話しをし始めたのも、実は私も「探偵ごっこ」をやった世代だから。少年探偵団と怪盗に分かれて、基本は「鬼ごっこ」であるが、舞台は街全体。能登半島にある小さな街と言っても、いちおう市の中心地であるから、子どもにとって、かなり広い。怪盗は友人の家に逃げ込むこともあるので、捜索はたいへんである。探偵団は友人の家を駆け抜けて、表通りから裏通りへ。のどかな時代である。誰も一番やりたがったのは小林少年。それでも怪盗はけっこう楽しい。
漱石も小説の中で、たびたび「探偵ごっこ」をおこなっている。「猫」も探偵している。『彼岸過迄』では主人公が探偵を頼まれ、就職先を獲得している。漱石もエドガー・アラン・ポーに惹かれたという。

さすがに、杉下右京が出て来たのでは、専門職には勝てず、活躍の場があまりなかったが、「熟年探偵団」が事件を解決、大活躍するテレビドラマをぜひ制作して欲しいものだ。孫娘役の茅島みずきは、明智小五郎より小林少年の役割の方が良いかもしれないが、佐藤B作・斉木しげる・井上肇の熟年探偵団三名共々、再演でぜひ。漱石もゲスト出演してもらいたい。


【おしらせ】

松山坊っちゃん会会長の武内哲志さんとの対談を「ブログ」に掲載しています。
当館の「ブログ」のページへ入った後、カテゴリー「対談」をクリックしてください。
「金沢ブログ」では、私の金沢の思い出、詩などをはじめ、さまざまな金沢を発信しています。季節感が薄れゆく中、金沢のお正月が思い出されます。
「金沢ブログ」は当館の「ブログ」のページへ入った後、カテゴリー「金沢ブログ」をクリックしてください。
【館長のつぶやき】

今年もあとわずか。来年はいよいよ泉鏡花生誕150年の節目の年です。そう言えば、今年も「〇〇生誕150年」とか、「〇〇開始以来150年」など、いろいろな節目がありました。子規つながりで言えば、今年は日本に野球が伝わって150年。そして、鉄道ファンとしては、日本における鉄道開業150年。これを見落とすわけにはいきません。
ところで、今年は「森鴎外没後100年」。これはすっかり見落としていました。「文豪の東京」では、東京生まれの文豪と、東京以外で生まれた文豪を交互に取り上げ、芥川龍之介、島崎藤村、永井荷風と進んできました。つぎは東京以外で生まれた文豪の番で、森鴎外を取り上げる予定にしていました。ほんとうなら鴎外まで進んでいたはずですが、藤村に接すると、どんどん引きずり込まれ、連載が長引き、荷風に接すると、これまたどんどん引きずり込まれて、『すみだ川』も長引き、『日和下駄』はついに「沼ハマ」状態に。もっとも、子どもの頃、ほんとうに沼にハマって死にかけた私にとって、沼などにはまりたくないのですが。
そのようなわけで、鴎外の節目の年に「文豪の東京」で鴎外を取り上げることはできませんが、来年には荷風沼からはい上がって、鴎外に接していきたい!
ここに、かろうじて「森鴎外没後100年」を忘れていなかった証しを、残しておきたいと思います。

追記)秘書から、今年は「洋装150年」でもあると、情報提供がありました。
【館長のつぶやき】

今年も「漱石忌」がやって来る。「勝手に漱石文学館」という名前をつけているからには、「知らないうちに過ぎてしまった」という訳にはいかないだろう。ところが、漱石から鏡花、秋聲、犀星と言った「金沢の三文豪」、さらに芥川龍之介、島崎藤村、永井荷風と広げて来た私にとって、藤村も荷風も親しく感じられるようになり、とくに今は荷風に夢中である。そのような訳で、「漱石忌」がやって来たからといって、急に漱石に対してテンションが高くなって、何か書きたいという欲求に駆られる訳ではない。それでもやっぱり何か書かなければならないだろう。
荷風の『日和下駄』を読んでいると、荷風がよく出歩いていることがわかる。そして文中に、北斎や広重の「江戸名所絵」、広重の「江戸土産」さらに「江戸切図」「江戸絵図」「東京絵図」、小林清親の「東京名所の図」などが登場する。荷風にとって、江戸時代に出版された絵や地図などは、明治になって出版されたものと並んで、あるいはそれ以上に、街歩きに重要な情報源であった。
漱石も出歩いたことには、荷風に負けない気がする。漱石の場合はけっこう電車も乗り回したようで、「社割」を期待して?坊っちゃんを街鉄に就職させている。
――このように書いて、何とか荷風から漱石へ話題をもって来なければならないのだが、私はここで、『三四郎』の一節を思い浮かべる。
《少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、奇麗に地平をした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見ていた。「時代錯誤だ。日本の物質界も精神界もこの通りだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」「先生冗談云っちゃ不可ません。なんぼ九段の燈明台が旧いたって、江戸名所図会に出ちゃ大変だ」 広田先生は笑い出した。実は東京名所と云う錦絵の間違だと云う事が解った。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っている傍に、偕行社と云う新式の煉瓦作りが出来た。二つ並べて見ると実に馬鹿気ている。けれども誰も気が付かない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと云う。》
漱石も荷風も直接的に江戸時代を知らないが、今の私たちよりはるかに江戸時代に近い時代を生きており、世の中は変わったと言いながら、江戸時代を大いに引きずっていた。漱石も荷風も、藤村や鏡花も、芥川龍之介までも、東京の中に「江戸」を見ており、作品の中に描き込んでいる。『吾輩は猫である』には浅田宗伯や天璋院篤姫も登場し、迷亭の伯父は《「静岡に生きてますがね、それが只生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。》と江戸時代が頭に残っている。この伯父のモデルは漱石養父塩原昌之助の兄小出治吉。
今年も「漱石忌」がやって来る。けれども、この文章を読まれる方の中には、今年も「漱石忌」がやって来た、と過去形になる方もあるだろう。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
全国を巡回している展覧会「杉浦非水 時代をひらくデザイン」を観に行きました。非水は竹久夢二より少し年上で、同時期に活躍し交流もあった人。美術館に行くならきものを着て行こうと思い立ち、ドゥーブルメゾンの黒いレースきものにベルベットの帯を締め、祖母から譲り受けた黒の道行をはおり、カゴバックを持って出かけました。きものを着て観覧すると美術館オリジナルグッズをプレゼント!ということでいただきました。きものを着るとほめられて気分も上がります。
非水(ひすい)というのは雅号で、本名は朝武(つとむ)。愛媛県松山市に生まれた非水は、東京美術学校の日本画科に学び、1900年のパリ万国博覧会を視察した黒田清輝が持ち帰ったアール・ヌーヴォーの資料と出会い、図案(デザイン)の道を歩みます。
漱石の『三四郎』には次のような一節があります。
——三四郎は板の間にかけてある三越呉服店の看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。——
三越が「美人画ポスター」を製作し人気を呼んでいたため、小説のなかに登場させたのでしょう。『三四郎』が朝日新聞に掲載された1908年(明治41)、非水は三越に入社し、広報用小型冊子などのデザインを手がけます。展覧会では、入社から6年後の1914年(大正3)、はじめて任されたポスター「三越呉服店 春の新柄陳列会」が展示されており、心惹かれました。「三越呉服店」の文字は控えめで、和装の女性が『三越』の冊子を手に持っている。椅子に腰掛け、横には色とりどりのチューリップの花が飾られ、壁に西洋画が掛けてある。美人画ではあるけれども、以前のものとは少し違う。時代の先を行くモダンな感じに、多くの人々の関心を集めたことがうかがえます。
漱石の作品には『三四郎』以外にも三越が出てきたような…こんなときは館長の著書『漱石と歩く東京』を見るのが便利です。漱石の作品で三越は6作品に登場するとのこと。館長は漱石の三越に対する記述について次のように書いています。
——こうしてみてくると、三越での買い物の場面を描写したものが一つもないことに気がつく。しかしながら、短い表現の中に、三越が伝統を保ちながら、新しい魅力で人びとを引きつけていたことを読み取ることができる。——
漱石も非水がデザインするポスターなどを目にしていたはずです。企業ブランドの価値を高めることは容易ではありません。クライアントの要望に応えつつ、新しいモダンなデザインを次々に生み出す非水の素晴らしい活躍ぶりを、展覧会を通して知ることができました。


※合わせて『漱石と歩く東京』第7章中心部を歩く をお読みください(106ページ)。
※参考文献「杉浦非水 時代をひらくデザイン」公式図録
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
館長の【金沢ブログ】に、「福音館書店創立70周年」が掲載されています。福音館が金沢生まれということで、実に興味深いです。財団法人キリスト教文書センターが毎月発行している冊子「本のひろば」。2007年特別号には、元社長の松居直さんと、加藤常昭牧師の対談「本を読もう 言葉が伝える豊かな心」が載っていました。高校生の頃に学校の式典で聴いた松居さんの講演に感銘を受けた私は、その後10年ほど経って発行されたこの特別号を手に入れ、読み終えた後も大切に保管していました。
館長のブログは次のような一節があります。
——喜一の娘身紀子が松居直の自宅(京都)に下宿していたことから、身紀子と直は親しくなり、直は金沢で喜一の福音館を手伝うことになった。——
対談によれば、松居さんは法学部に学び、出版社に入るとは夢にも思わなかった。加藤牧師とこんな話をされています。
——まったくの偶然で。何となくガールフレンドに引っかかって(笑)遊びに行ったのが金沢なんです。…その時にちょうどビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」が大流行で、それで身紀子が「ホワイトクリスマスを見ませんか」と言って、私はイチコロで金沢へ行きました。——
金沢ではホワイトクリスマスを見ることができたそうです。もし金沢がクリスマスに雪が降る地域でなければ、松居さんが遊びに行き福音館を手伝うことも無かったでしょう。
講演のなかで松居さんは「朝、夜が明けるのをじっと見ていると、世界のはじまりを感じることができる。」と話されました。私も世界のはじまりを感じたい。冬のある日、午前4時に起床し、まだ薄暗いなか玄関の前に置いてあるベンチに座り、その一部始終を感じようと必死でした。松居さんのおっしゃった通り、白々と夜が明けるその瞬間はまさに「世界のはじまり」でした。やがて起きてきた母がベンチに座っている私を見つけて、朝早くから起きて勉強しているのかと思ったら何をしているのと聞かれたので、自信をもって言いました。「世界のはじまりを感じているの。」ちょっと困ったような母の顔は忘れられません。
先の対談で松居さんは次のように述べています。
——大人が絵本を見るときには、大人の目と子どもの目が私は大切だと思います。自分の中にはかつての子どもがいるわけですから、その子ども時の感覚が少しずつよみがえってくると、ひじょうに絵本がよく読めるようになるんですね。絵本は大人の感覚だけではダメなんですよ。それを取り戻すためには子どもに読んでやる、そのことがとても大切だと思います。——
絵本の読み聞かせって、とても素晴らしいことですね。館長のブログには、「今年4月19日、松居直さんの奥様身紀子さんが亡くなられた。松居直さんも11月2日、老衰で亡くなられた。」とありました。ご冥福をお祈りいたします。
【館長のつぶやき】

地元紙のコラム欄に菊池寛の『マスク』(1920年)という作品が紹介されていた。新型コロナ禍でマスクを付けることが日常となり、今から百年余前の「スペイン風邪パンデミック」時の状況を扱った『マスク』を読むと、今日の状況ととてもよく似ていると、コラム氏は書いている。
本館でも、『源作日記にみるスペイン風邪』を掲載した他、犀星や芥川龍之介などに関しても、スペイン風邪に触れてきた。菊池寛といえば、漱石最後の門下生の一人であり、芥川はもちろん、この文学館でも取り上げる文豪たちとの親交も多い。スペイン風邪と菊池寛。これはもう『マスク』を読むしかない。
そう思い立っても、今までは図書館へ行き、菊池寛の著作物を探し、見つけ出さなければならなかったが、今では「青空文庫」というたいへんありがたいサイトがある。もし、「青空文庫」がなければ、勝手に漱石文学館もここまで拡張することはできなかったであろう。ボランティアの方がたの労苦に、ただただ頭が下がる思いである。日本文化の継承と発展に大きく貢献していると言える。

さて、『マスク』を読み始めて、菊池寛晩年の文章かと思わされたが、スペイン風邪が猛威を振るい始めた1918年と言えば、菊池はまだ30歳くらい。今なら完全に「若者」の部類である。それが医者から「脈がない」と言われ、心臓が悪いと言われ、火事になっても駆け出してはいけない、喧嘩などして興奮してはいけない、熱病も禁物。チフスや流行性感冒に罹って、四十度位の熱が三四日も続けばもう助かりっこありませんと言われ、「予防法とか養生法はないか」と尋ねても「ありません。」との答え。ここまでで文章の半分近くが過ぎ、いよいよスペイン風邪へ。
《ちょうどその頃から、流行性感冒が猛烈な勢で流行りかけて来た。医者の言葉に従えば、自分が流行性感冒に罹ることは、即ち死を意味して居た》。新型コロナ禍でよく耳にするようになった「若くても重症化リスクの高い基礎疾患のある人」に菊池は該当する。菊池は《感冒に対して、脅え切ってしまったと云っても》よかった。とにかく、他人から臆病と嗤われても、罹って死んでは堪らないと、罹らないように最善の努力を払おうと菊池は決意する。菊池の風貌や言動からは想像もできない一面が垣間見られる。
菊池は、極力外出しないようにして、妻も女中もなるべく外出させない。朝夕には過酸化水素水でうがい。外出せざるを得ない時はガーゼをたくさん詰めたマスクを使用。出る時と帰った時は丁寧にうがい。来客はいたしかたないが、風邪がやっと治ったばかりで、まだ咳をしている人の訪問を受けた時は心持が暗くなり、自分と話していた友人が、話している間に段々発熱し、送り帰した後に40℃の熱になったなど聞くと、二三日気味悪い。こんな菊池のもとに届けられる《毎日の新聞に出る死亡者数の増減に依って、自分は一喜一憂した。日ごとに増して行って、三千三百三十七人まで行くと、それを最高の記録として、僅かばかりではあったが、段々減少し始めたときには、自分はホッとした。が、自重した。二月一杯は殆ど、外出しなかった》。とうとう妻までが菊池の臆病を笑うようになり、《自分も少し神経衰弱の恐病症に罹って居る》と思うようになる。
三月に入って感冒の脅威も段々衰え、マスクを掛けている人もほとんでいなくなったが、菊池はマスクを除けられない。「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、野蛮人の勇気」などと弁解する菊池。たまにマスクを付けた人に出会うと同志のように思い、自分が真の意味の衛生家であり、生命を極度に愛惜する点において一個の文明人であると云ったような誇りさえ感じる。
四月となり、五月となって、菊池もマスクを付けなくなったが、流行性感冒のぶり返しが報じられる。それでも菊池はマスクを付けない。五月半ば、シカゴの野球団が来て早稲田で試合があり、菊池も観戦に行った。電車を下り、裏道を運動場へむかう途中、黒いマスクをした二十三四の男が追い越していく。菊池は《ある不愉快な激動を受けずには居られなかった。それと同時に、その男に明かな憎悪を感じた。その男が、なんとなく小憎らしかった。その黒く突き出て居るマスクから、いやな妖怪的な醜さをさえ感じた。此の男が、不快だった第一の原因は、こんなよい天気の日に、此の男に依って、感冒の脅威を想起させられた事に違なかった》が、同時に、マスクを付けている時は、たまにマスクを付けている人に会うことが嬉しかったが、付けなくなると、マスクを付けている人が不快に見えるという自己本位的な心持も交じっていた。

こうした体験を通して、菊池は、《自分がある男を、不快に思ったのは、強者に対する弱者の反感ではなかったか。あんなに、マスクを付けることに、熱心だった自分迄が、時候の手前、それを付けることが、どうにも気恥ずかしくなって居る時に、勇敢に傲然とマスクを付けて、数千の人々の集まって居る所へ、押し出して行く態度は、可なり徹底した強者の態度ではあるまいか。とにかく自分が世間や時候の手前、やり兼ねて居ることを、此の青年は勇敢にやって居るのだと思った。此の男を不快に感じたのは、此の男のそうした勇気に、圧迫された心持ではないかと自分は思った》と、文章を結んでいる。
「同調圧力」にかなり強いはずの菊池が、思わずもらした本音。ひょんなところで私は菊池に親しみを感じた。「これから、どのようにマスクを外していくか」が大きな課題となっている日本。菊池の『マスク』は、一人ひとり読み方は違うだろうが、何かを感じさせてくれるだろう。

心臓疾患をかかえた菊池寛は、確かに心臓疾患である「狭心症」によって、医者の予言通り「急死」した。けれどもそれは『マスク』を書いて28年ほど後の、1948年3月6日午後9時15分、自宅2階だった。
【館長のつぶやき】

地元紙のコラム欄に菊池寛の『マスク』(1920年)という作品が紹介されていた。新型コロナ禍でマスクを付けることが日常となり、今から百年余前の「スペイン風邪パンデミック」時の状況を扱った『マスク』を読むと、今日の状況ととてもよく似ていると、コラム氏は書いている。
本館でも、『源作日記にみるスペイン風邪』を掲載した他、犀星や芥川龍之介などに関しても、スペイン風邪に触れてきた。菊池寛といえば、漱石最後の門下生の一人であり、芥川はもちろん、この文学館でも取り上げる文豪たちとの親交も多い。スペイン風邪と菊池寛。これはもう『マスク』を読むしかない。
そう思い立っても、今までは図書館へ行き、菊池寛の著作物を探し、見つけ出さなければならなかったが、今では「青空文庫」というたいへんありがたいサイトがある。もし、「青空文庫」がなければ、勝手に漱石文学館もここまで拡張することはできなかったであろう。ボランティアの方がたの労苦に、ただただ頭が下がる思いである。日本文化の継承と発展に大きく貢献していると言える。

さて、『マスク』を読み始めて、菊池寛晩年の文章かと思わされたが、スペイン風邪が猛威を振るい始めた1918年と言えば、菊池はまだ30歳くらい。今なら完全に「若者」の部類である。それが医者から「脈がない」と言われ、心臓が悪いと言われ、火事になっても駆け出してはいけない、喧嘩などして興奮してはいけない、熱病も禁物。チフスや流行性感冒に罹って、四十度位の熱が三四日も続けばもう助かりっこありませんと言われ、「予防法とか養生法はないか」と尋ねても「ありません。」との答え。ここまでで文章の半分近くが過ぎ、いよいよスペイン風邪へ。
《ちょうどその頃から、流行性感冒が猛烈な勢で流行りかけて来た。医者の言葉に従えば、自分が流行性感冒に罹ることは、即ち死を意味して居た》。新型コロナ禍でよく耳にするようになった「若くても重症化リスクの高い基礎疾患のある人」に菊池は該当する。菊池は《感冒に対して、脅え切ってしまったと云っても》よかった。とにかく、他人から臆病と嗤われても、罹って死んでは堪らないと、罹らないように最善の努力を払おうと菊池は決意する。菊池の風貌や言動からは想像もできない一面が垣間見られる。
菊池は、極力外出しないようにして、妻も女中もなるべく外出させない。朝夕には過酸化水素水でうがい。外出せざるを得ない時はガーゼをたくさん詰めたマスクを使用。出る時と帰った時は丁寧にうがい。来客はいたしかたないが、風邪がやっと治ったばかりで、まだ咳をしている人の訪問を受けた時は心持が暗くなり、自分と話していた友人が、話している間に段々発熱し、送り帰した後に40℃の熱になったなど聞くと、二三日気味悪い。こんな菊池のもとに届けられる《毎日の新聞に出る死亡者数の増減に依って、自分は一喜一憂した。日ごとに増して行って、三千三百三十七人まで行くと、それを最高の記録として、僅かばかりではあったが、段々減少し始めたときには、自分はホッとした。が、自重した。二月一杯は殆ど、外出しなかった》。とうとう妻までが菊池の臆病を笑うようになり、《自分も少し神経衰弱の恐病症に罹って居る》と思うようになる。
三月に入って感冒の脅威も段々衰え、マスクを掛けている人もほとんでいなくなったが、菊池はマスクを除けられない。「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、野蛮人の勇気」などと弁解する菊池。たまにマスクを付けた人に出会うと同志のように思い、自分が真の意味の衛生家であり、生命を極度に愛惜する点において一個の文明人であると云ったような誇りさえ感じる。
四月となり、五月となって、菊池もマスクを付けなくなったが、流行性感冒のぶり返しが報じられる。それでも菊池はマスクを付けない。五月半ば、シカゴの野球団が来て早稲田で試合があり、菊池も観戦に行った。電車を下り、裏道を運動場へむかう途中、黒いマスクをした二十三四の男が追い越していく。菊池は《ある不愉快な激動を受けずには居られなかった。それと同時に、その男に明かな憎悪を感じた。その男が、なんとなく小憎らしかった。その黒く突き出て居るマスクから、いやな妖怪的な醜さをさえ感じた。此の男が、不快だった第一の原因は、こんなよい天気の日に、此の男に依って、感冒の脅威を想起させられた事に違なかった》が、同時に、マスクを付けている時は、たまにマスクを付けている人に会うことが嬉しかったが、付けなくなると、マスクを付けている人が不快に見えるという自己本位的な心持も交じっていた。

こうした体験を通して、菊池は、《自分がある男を、不快に思ったのは、強者に対する弱者の反感ではなかったか。あんなに、マスクを付けることに、熱心だった自分迄が、時候の手前、それを付けることが、どうにも気恥ずかしくなって居る時に、勇敢に傲然とマスクを付けて、数千の人々の集まって居る所へ、押し出して行く態度は、可なり徹底した強者の態度ではあるまいか。とにかく自分が世間や時候の手前、やり兼ねて居ることを、此の青年は勇敢にやって居るのだと思った。此の男を不快に感じたのは、此の男のそうした勇気に、圧迫された心持ではないかと自分は思った》と、文章を結んでいる。
「同調圧力」にかなり強いはずの菊池が、思わずもらした本音。ひょんなところで私は菊池に親しみを感じた。「これから、どのようにマスクを外していくか」が大きな課題となっている日本。菊池の『マスク』は、一人ひとり読み方は違うだろうが、何かを感じさせてくれるだろう。

心臓疾患をかかえた菊池寛は、確かに心臓疾患である「狭心症」によって、医者の予言通り「急死」した。けれどもそれは『マスク』を書いて28年ほど後の、1948年3月6日午後9時15分、自宅2階だった。
【秘書のつぶやき】 子規と野球

秘書の北澤みずきです。
先月発売されたばかりの復本一郎編『正岡子規ベースボール文集』(2022 岩波文庫)を読みました。今年は正岡子規没後120年ですが、「野球伝来150年」と帯に記載がありました。館長の部屋では「鉄道開業150年特集」の連載が掲載されています。鉄道と藤村が誕生したのと同じ年に、野球もアメリカ人より伝えられたのです。子規はこのアメリカからやってきた「ベースボール」というスポーツが大好きだったということを改めて知りました。
《夏草やベースボールの人遠し》という句や《うちあぐるボールは高く雲に入りれ又落ち来(きた)る人の手の中に》という歌などが収められており、楽しい気持ちが伝わってきます。
女子校育ちで高校野球にはまったく縁がなく、プロ野球もメージャーリーグの試合もほとんど見ず、テレビのニュースで結果を知る程度。そんな私がこの本を手に取ったのは「野球」という言葉と子規に関わりがあることをどこかで聞いたことがあったからでした。けれども『日本国語大辞典第二版』(小学館)の野球の項目には、子規の名前はどこにも出てきません。
編者の神奈川大学名誉教授の復本一郎先生によると、子規の本名は「升(のぼる)」で、雅号のひとつとして「野球」を「ノボール」としてもじり、自らを「東京本郷 野球拝」として手紙を書いたこともあったのだそうです。ベースボール文集に収められている子規の随筆『筆まかせ』には「雅号」という章があり、「稀に用ゆるもの」として「野球(のぼる)」という号がありました。「子規」以外にもたくさんの号があり使用していたようです。
復本先生は「ベースボール」を「野球」と訳したのは中馬庚(ちゅうまんかなえ)であるが、河東碧梧桐が後日、著書の中でやや曖昧な記述をしたため、「ベースボール」を「野球」と訳したのは、子規である、との説が流布されることになったと解説しています。私が聞いたことがあったのも、どうやらこの説のようでした。
この文集には、河東碧梧桐や高浜虚子が子規との野球の思い出を回想している文章なども載っており、子規が俳句よりも前に、ベースボールを通して二人と交流があったことがわかります。
野球がお好きな方でしたらもっと楽しめるはず。おすすめです!
【館長のつぶやき】 

大宮へ行ってきた。
もちろんお目当ては氷川公園(大宮公園)にあった万松楼(ばんしょうろう)。正岡子規が泊まっていて、そこへ漱石が訪れたという料亭兼旅館である。すでに建物はなく、跡地は児童公園になっている。
大宮の駅に下りるのはおそらく初めてだろう。大宮と言えば、かつては大宮市で、県庁所在地の浦和市に匹敵する都市である。「鉄道の町」とも言われてきた。さぞかし立派な駅ビルでも建っているだろうと想像していたが、見事にはずれた。
東口の飲み屋街を通って、東へ。やがて氷川神社の参道に出た。私は今までこんなに長い参道を見たことがない。おそらく、大宮駅から東へ東へ行けば、どの道を通っても参道にぶつかるだろう。
この長い参道。落ち葉を集めている清掃員さんたち、倒木による被害を防ぐため切られた木など、長い参道の管理もたいへんだろうなと思わされた。明治天皇の氷川神社行幸の模様を描いた長い看板など見ながら、疲れを感じながら歩いていくと、氷川神社の本殿に着いた。参道だから当然のことであるが、目当てが児童公園だから、「まんまと誘導された感」がある。それでも、きちんとお参り。境内には七五三詣での家族連れも何組か。雑誌か何かに載せるのか、モデルさんが橋の上でポーズを取る姿も。
氷川神社を横へ出て、後ろの方にまわって行くと、大宮公園。樹木に覆われ広い。赤松がたくさん見られる。それとともに、ベンチが目立つ。とにかく児童公園にたどり着き、ベンチで子規と漱石に思いを馳せた。
大宮については、勝手に漱石文学館の「漱石こぼれ話」に「20.漱石と大宮」と題して書いている。この後、読んでいただければ嬉しい。2017年7月放送の「ブラタモリ」、第77回「大宮」は今でも印象に残っている。当時、タモリさんの相棒だった近江アナウンサー。案内者に「この文章、読んでもらえますか」と依頼されて、「アナウンサーですから」と答えていた。おそらく、「読めますか」という雰囲気だったのだろう。そんなことを言わせてしまう、NHKのアナウンサーらしからぬ雰囲気の近江アナ。けれども、「タモリ教授のゼミの学生」と言った雰囲気の近江アナは、「ブラタモリ」にとても似合っていたように思う。私も近江アナの退職を惜しみながら、新しい道でも頑張ってとエールを送った、たくさんの視聴者の一人である。
「館長の部屋」では「文豪の東京」永井荷風の連載を始めましたが、更新にはしばらく時間がかかります。「ブログ」では頻回に更新していますので、よろしくお願いします。

【秘書のつぶやき・館長のつぶやき】

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
文学と食のコラボレーション。コクテイル書房の文学カレー漱石に続いて、第二弾はカフェー工房松山の「坊っちゃん珈琲」。他の味もありますが、愛媛特産のいよかんを使用した、いよかんフレーバーを館長にご紹介したいと思います。
ギフトコンシェルジュの裏地桂子さんのギフト選びのセンスが素晴らしく、プレゼントを差し上げるときにはいつも参考にしています。裏地さんの出身地は愛媛県松山市。以前購入した裏地さんの著書『最上級のプチプラギフト100』(光文社 2017)に、地元のお土産として掲載されていました。せっかくなのでお取り寄せしてみました。
どんな味がするのだろうかと気になり、飲んでみたかったのです。パッケージのイラストはもちろん主人公の坊っちゃん。かわいいです!コーヒーを飲みながら、まだ行ったことがない松山のことをあれこれ想像しています。
今年2022年は正岡子規没後120年でもあります。漱石との交流があった子規のこと、またつぶやきたいなと思っています。
ここで、秘書の一句。

松山に行ったつもりで坊っちゃん珈琲

季語なし、しかも字余り。これでは到底俳句とは言えませんね(笑)。
館長、コーヒーの味はいかがでしたでしょうか。

【館長のつぶやき】

秘書は時どき面白いものをみつけてくる。
以前、「漱石カレー」をみつけてきたが、今度は「坊っちゃん珈琲」である。
ドリップパッグの入った袋には《四国松山は、正岡子規や夏目漱石などの文豪が創作活動に励んだ文学の地です。彼等も美味しい珈琲を飲みながら名作を生み出したのかもしれません。》と書かれている。普通のコーヒーもあるが、伊予柑ピールの入ったコーヒーも。袋には《瀬戸の潮風と太陽が育てた「いよかん」を加えたフレーバーコーヒーです。爽やかな香りをお楽しみください。》と、ある。
この伊予柑ピール入りコーヒー。何の説明もなく飲んだら、そのまま普通のコーヒーとして飲んでしまいそう。つまり伊予柑ピールが邪魔をしていないということ。でも、これでは、ピールを入れた意味がない。少しコーヒーの違いが分かる人なら、「コーヒー以外に何か入っているな」と気づくはず。コーヒーの苦味とは違った苦味が口の中に残る。その苦味がコーヒーを飲み終った後、口の中に爽やかさを残す。
どのように素晴らしいアイデアでも、飲食物であるからには、おいしくなければならない。伊予柑ピール入り「坊っちゃん珈琲」を飲みながら、朝のひと時、松山に想いを馳せてみた。この後、道後の湯にでも入れれば良いのだが。
俳句の町、松山に因んで一句。

《珈琲に伊予が香れる白露かな》

【お知らせ】
「館長のつぶやき」は「ブログ」でも読むことができます。「館長のつぶやき」だけまとめて読むこともできます。検索機能もついています。

【宣伝】
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』(雪嶺叢書)は、金沢の「うつのみや書店」、東京・神楽坂の「文悠書店」で販売中。当ホームページからでも購入可能。
【館長のつぶやき】

新しい石川県立図書館が開館して1か月あまりが経過した。
楕円空間の閲覧スペース、書架、とにかくすべてが今までの図書館の概念を打ち破るものだという。伝統文化を大切にしようとする金沢は、文化そのものに関心が高く、建築物においても一方で保存しながら、一方で斬新なデザインを生み出している。武家屋敷や長土塀があるかと思えば、国立工芸館の建物あり。さらには金沢21世紀美術館。古いものと新しいものが共存する街である。そこに新しい県立図書館が加わった。
私が小立野に住んでいた子どもの頃、市電は大学病院前が小立野終点で、市内バスは金沢大学の工学部前まで行っていた。付近一帯、私の遊び場で、まさかその工学部跡地に県立図書館ができるとは思ってもみなかった。私が嬉しいのは「絶景」のすぐ近くに図書館ができたことである。少し行って、小立野台地の犀川側の崖上。冬には白山連山が白く輝き、私が大好きな光景である。実は、私が高校3年の1965年。「ザ・サウンドオブミュージック」という映画に魅せられ、ヨーロッパそしてアルプスに憧れ、何か日本の景色がみすぼらしく感じていた時、「この白山連山、アルプスに負けないぞ」。ふるさと金沢にこんな素晴らしい景色がある。私に自信を与えてくれた「絶景」である。
私のおむつは犀川で洗われたが、やがて古道へ転居。1948年6月、福井震災に遭って、揺れるガスタンクに恐怖を感じ、広坂へ転居。まもなく11月。兼六園内の商品陳列館から出火。隣の県立図書館に延焼した。何とか火は消し止められたが、本の中にくすぶっていた火が再発火。とうとう図書館は全焼してしまった。大量の本が焼けたということは、大量の紙が焼けたということで、火のついた紙がまわりにまき散らされ、火の粉をかいくぐって、母はまた恐ろしい思いをすることになった。以上は、母から聞いた話で、私にはまったく記憶がない。
兼六園内の県立図書館は広坂から園内上った正面にあった。開館は1912年1月。犀星研究家船登芳雄は『評伝室生犀星』でつぎのように書いている。《帰郷した年の一月、兼六園の一角に木の香も新しい県立図書館が開館した。尾山篤二郎は、またもや犀星に先んじて三月に帰省し、亡き母の実家市内桜畠の八島方に身を寄せていた。「詩歌」六月号消息欄には、「尾山君は今金沢に居る。気焔の聴き手がないので無聊に苦しんで図書館通ひをしてゐる」との記事がある。犀星もまた早速図書館に通い、篤二郎と文学上の将来を語り合うとともに読書に努めた》。新図書館は五木寛之が住んだところからも近い。この新図書館に思い出を残す作家は、はたして生まれるであろうか。
焼けた商品陳列館は遊園地になり、図書館は再建され、私はその前を通って、小立野から下本多町の幼稚園に通った。県立図書館は私が金沢を離れた1966年に兼六園内から本多町へ移転。そして、この7月16日、その役割を小立野にできた新しい県立図書館に引き渡した。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
学生時代、書店でアルバイトをしていました。本屋さんで働きたいと思い、駅前の商店街にある大型書店で、2年ほど続けました。就職が決まり、卒業と同時にアルバイトも卒業しました。大好きな本に囲まれて楽しい時間を過ごすことができたことは、貴重な経験でした。
先日館長に紹介した「文学カレー 漱石」を生み出したコクテイル書房の狩野俊さんが寄稿した章があると知り読み始めた、三砂慶明編『本屋という仕事』(世界思想社 2022)。編者は書店に勤務されており、他にも17人の書店員の方々が登場します。地方の古書店、大都市の大型チェーン店など、場所やコンセプトは違っても目指すところは「多くの人に本屋に足を運んで、本を買って読んでほしい。」という熱い想い。本を仕入れて売るということの周辺には、まだまだできることがたくさんあって、とても魅力的な人たちが働いているのだということを知ることができました。
この本の構成は、ある書店員の方のことば「本屋は焚き火である」から①火を熾(おこ)す②薪をくべる③火を焚き続けるために、の三部構成となっていて、狩野さんは③に登場します。——私の仕事はどれも、本を読むきっかけをつくること。お酒を飲んでも、おつまみを食べても、レトルト食品を購入しても、全てが作家や本にまつわるものとなっている。吞むこと、食べること、買うことは、本を手にしたくなる仕掛けのようなものだ。——と書かれています。食べることから本を手にすることがあって良い。きっかけがあれば、今まで本を手にしなかった人たちを読者にすることができる。素晴らしい発想だと思いました。
私がアルバイトをしていた書店は、残念ながら閉店してしまいました。もしあのまま就職が決まらず、アルバイトを続けていたら…好きなことを仕事にして、熾した火を絶やさないように、薪をくべることができたかもしれません。書店が入っていた建物の前を通るたびに、胸がチクりと痛みます。

【館長のつぶやき】

8月がやって来た。1889年8月1日、後に文豪室生犀星と呼ばれる人間がこの世にやって来た。ところがこの犀星。いまだに実父母が誰か、定まっていない。疑い出せば、生年月日すらあやしくなってくる。
漱石は生まれて早くに養子に出されたが、実父母は明確である。芥川龍之介も実父母は明確。鏡花は幼くして母を失ったが、実父母ははっきりしている。秋聲は三人の妻に先立たれた不孝な男と四人目の妻との間に生まれた子どもだが、実父母ははっきりしている。複雑に絡まりあった島崎家であるが、藤村の実父母において論争はない。
たまたま文豪になったために目立ってしまうのかもしれないが、犀星のような境遇の人間はそれほど多くないだろう。
私が犀星なら、いったい何を信じたら良いのだろうか。出生に関して一番確実な記録と思われる戸籍。父は不詳でも母は「赤井ハツ」。よくある例である。けれども、世間ではハツは実母ではなく、養母であると言う。では、「実母は誰か」と尋ねれば、「わからない」と言う。かわって、「実父なら知ってるよ。小畠の吉種じいさんだよ」。「えっ!それって、秘密でしょ。何で知ってるの?」
小畠家がもっとも隠しておきたかった「吉種が実父」という情報が公然となっている。しかし、小畠家から抗議の声があがった話は聞かないし、そればかりか、小畠家があったところに室生犀星記念館が建っている。
こうなってくると、何が何だかわからなくなってしまうが、これはきっと、もっと深い秘密があるからだろう。そう、思わざるを得ない。
犀星研究第一人者の船登芳雄先生は、《犀星生母についての情報が生家や程近い養家周辺に、まったく残っていない》(『評伝室生犀星』)と問題提起し、森勲夫先生は仮説として「生種実父説」を立て、かなり追い詰めたものの、「山崎千賀のもとに通うのは無理だっただろう」と結論づけた(『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』)。どうやら、犀星の深い「秘密」は、すでに「触れてはならないタブー」のようになっているようだ。
船登先生・森先生、二人とも高校で教えながら研究を続けた、私が尊敬する人たちであり、その成果から私もおおいに学ばせてもらった。とくに小畠悌一に関する研究はほとんどなく、悌一を私の身近な存在にしてくれたのは、森先生のおかげである。
こうした先輩方の研究に学びながら、私が出した結論――犀星は実父母が誰であるか、すでに特定していた。特定して、『杏っ子』を書いた。しかし、犀星自身「触れてはならないタブー」に従ってみせた。詳しくは、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』(一九.犀星、「仮構」の出生が育んだ作家、p189~p199)。今年、犀星没後60年。「犬だって両親が分かるものを…」と嘆く犀星に、もうそろそろ実父母を確定させてあげても良いのではないだろうか。

【宣伝】
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』は、金沢の「うつのみや書店」、東京・神楽坂の「文悠書店」で販売中。当ホームページからでも購入可能。
【館長のつぶやき】

「新聞12社連合企画※」の「ニッポン橋ものがたり」で、金沢の浅野川に架かる「天神橋」が特集された(北國新聞社が取材担当)。
天神橋の説明には、《天神橋は、浅野川界隈で生まれ育った文豪、泉鏡花(1873~1939)の出世作「義血侠血」の舞台として知られる。》《水芸の太夫・白糸と、法律家を目指す村越欣弥は、月夜の天神橋で再会する。(略)2人の運命を変える場面に、鏡花は天神橋を選んだ》。
さらに記事は、《金沢市下新町の生家跡に立つ泉鏡花記念館の秋山稔館長(金沢学院大学長)は、天神橋を舞台にしたことに鏡花の特別な思いを読み取る。(略)1894(明治27)年1月には父も他界し、無名の鏡花は経済的、精神的に追い詰められる。師の尾崎紅葉の励ましや、親戚の女性の支援を受けて上京し、同年11月に発表したのが、義血侠血である。卯辰山に近い天神橋で一度は断念した将来への道が開かれた村越に「鏡花は自分の境遇、願望を重ねたのでしょう」と秋山館長は指摘する》と続く。
新聞には、現在の天神橋の写真が掲載されている。1955年に架けられた無橋脚の橋(橋長48m)である。したがって、鏡花の知る橋ではないが、私の記憶の中にある天神橋は、すでに現在のものである。私が子どもの頃は戦後の一大映画ブームの中で、香林坊の映画街によく出かけたが、時には浅野川沿いの並木町にあった北國第一劇場へも行った。映画だけでなく、ショーもあった。小立野に住んでいたので、市電1系統で橋場まで行き、そこから劇場へむかった。天神橋はむこうの方に見えた。私が天神橋を身近に感じるようになったのは、自転車で走り回った中学・高校時代である。循環バスもすぐ傍を通った。天神橋下流の浅野川では、まだ友禅流しをやっていた。

「ニッポン橋ものがたり」の「天神橋」記事を読んで、ふるさと金沢の思い出に浸っていたところへ、仕事の関係で金沢に住んでいたことのある知人から、《「浅野川大橋・犀川大橋」が100歳を迎えます!》のプレスリリース(公開済)が送られてきた。何というタイミング。犀川大橋、浅野川大橋は、それぞれの川のイメージにふさわしい容姿につくられているが、私はどちらも大好きであり、誇らしく思う橋である。ともに路面電車が走ることを前提につくられているので、見るからに頑丈そうである。
浅野川大橋は1922年に完成したから、まさに今年100歳である。翌年、関東大震災が起こり、犀星たちが金沢へ避難してきた時、犀川大橋は建設中で、明けて1924年に完成した。犀川大橋は浅野川大橋に比べ8mほど長い62m。それでも無橋脚で、当時としてはすごい橋である。浅野川大橋は三つのアーチによって構成された橋で、とても美しいのだが、川が増水すると流れて来たものが引っかかって、堰になり、氾濫の危険を高めてしまう。その点、犀川大橋は優れているが、この地点、犀川の狭部にあたり、左岸は寺町台地で、増水時には逃げ場を失った水が中心街へあふれ出す危険性をもっている。
浅野川大橋・犀川大橋がつくられて何年経つかなど関心もなく過ごしてきた私だが、知人の情報提供で百歳の節目を知らされ、二つの橋との不思議な「ご縁」を感じる。
今年、「浅野川大橋・犀川大橋 百寿会(ももじゅかい)」が設立された。

※東奥日報・岩手日報・秋田魁新報・北國新聞・信濃毎日新聞・静岡新聞・京都新聞・山陽新聞・愛媛新聞・高知新聞・熊本日日新聞・南日本新聞の12社

【館長のつぶやき】

カレーと言えばインドカレー。インドカレーと言えば中村屋。中村屋と言えば相馬黒光。島崎藤村と佐藤輔子の顛末を知る人物である。
秘書が『文學咖●漱石』(●は口に厘)を紹介してくれた。最近、レトルトカレーの外箱が棚に並べられ、さながら本棚のようになっている光景をみかけるが、この「文学カレー」はまさしく「コクテイル書房」という本屋さんが製造・販売している。コクテイル書房の自己紹介には、――東京・高圓寺にある本とお酒が樂しめる店。文學カレーはもちろん、本に寄り添ったお酒とおつまみを供しております。本の買取もしていますので、ご相談ください。――と書いてある。「本に寄り添ったお酒」というのも、興味をそそられる。もっとも、お酒というのは何にでも「寄り添う」習性がある。
さて、漱石先生のカレーとは。外箱に書かれた文章は、――漱石の大好物、牛肉を頑張って入れたカレーです。隠し味には、これも目がなかったと言われる苺ジャムと、留學先の英国産ビールを入れ、漱石文學が描いた、人の世の甘さ、ほろ苦さを表現しました。それから、胃痛や神経衰弱を和らげるスパイスを配合し、どなたにも食べやすいさらりとしたカレーに仕上げました。――と、とことん漱石にこだわった一品。こだわりは牛肉にも。『坊っちゃん』にちなんで、愛媛産の「あかね和牛」を使用。
箱の中には、もちろんカレーのパウチが入っているが、『文学カレー「漱石」と夏目漱石のこと』と言う印刷物も入っていて、小品ながら、「牛肉が大好きだった漱石」「牛と漱石」「漱石とカレー」「近代文学とカレー」「文学カレー漱石とは」の五つの項目で構成され、漱石がいっぱい詰まっていて、読み応えがある。
「牛肉が大好きだった漱石」では、1905(明治38)年2月25日に漱石の発案で「食牛会」が開かれ、高浜虚子・野間真綱・寺田寅彦などが集まったことなど、三つのエピソードが書かれている。「食牛会」の牛肉は西川牛肉店で購入したと言う。また、漱石の作品には当時有名だった牛鍋店「いろは」を登場させていることも紹介。「いろは」は各地に店をもっており、神楽坂の「いろは」は鏡花の『神楽坂の七不思議』の第四として、「奥行なしの牛肉店」として、書かれている。この牛肉店「いろは」は、安養寺(神楽坂6丁目)の横にあった。神楽坂上交差点から大久保通りを飯田橋の方へむかうと、大久保通りができる前の旧道が斜めに入り込んでいるが、その角に「いろは」があった。立派な構えで、高くそびえていたが、内部は三角形で奥行きがなく狭い。道が斜めに入り込む関係で、敷地の形が三角形になっていたからで、幾何学的に言って不思議だと鏡花は言う。
「牛と漱石」では、漱石の生まれた「牛込」は701年に大宝律令により「神崎牛牧」という官牧が設けられ、「牛が込む」ところから「牛込」の地名が生まれたと。「それで漱石は牛肉が好きなのだ」と、妙に納得してしまった。「ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事」「牛になる事はどうしても必要」と芥川龍之介らに書いて送ったのも頷ける。
「漱石とカレー」では、日本にカレーが伝わったのは1870(明治3)年頃、イギリスからカレー粉とともにやって来た、そして明治末になると洋食屋のメニューに載るようになったと書かれた後、『三四郎』の中に《僕はいつかの人に淀見軒でカレーライスをごちそうになった》という一文のあることが紹介されている。淀見軒は本郷4丁目にあった。この淀見軒に関しては、秋聲が『大東京繁盛記』に《小石川へ移ってから本郷通りの淀見軒という家があることを知ったが、神田の泉屋に比べると非文化的で食べ物も進化していないし、気分も粗野であるのが飽き足りなくて余り足が向かなかった。それは後に牛肉やになったが、直にやめた》と書いていることも紹介している。
とにかく、日本のカレー史を紐解くような文章は、――小説を読むように食べていただけたら幸いです。スプーンを置いた後に、漱石の作品を開いてみてください。やさしい味わいと、漱石の優しさ。舌と目から入ってくる二つの余韻を、心で感じていただけたら幸いです。――と、結ばれている。
「ごちそうさまでした。」


【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
雑誌「HERS」(光文社)が好きで、年4回の発売を心待ちにしています。作家でエッセイストの平松洋子さんの連載「店主の胸のうち」。2022年春号の第6回には、コクテイル書房を営む狩野俊さんのことが掲載されていました。そしてコロナ禍中に生まれた漱石カレーのことも詳しく書かれていました。
私は秘書として、この「文学カレー漱石」を館長と一緒に食べてみたいと思い、先日やっとその機会が与えられました。どんな味がするのだろうかとわくわくしながら、心をこめてご飯を炊き、お湯を沸かしカレーを温めました。ほんとうに優しい味でまさに口福のひととき。店主の狩野さんの想いがつまった素敵なカレーに癒されました。
最近なかなか秘書の仕事も進まず、館長の部屋にある秘書の机の上も散らかったままですが、少しはお役に立てたでしょうか。最後は館長と同じ言葉で締めたいと思います。
「ごちそうさまでした。」
【館長のつぶやき】

石川県文芸協会のシンポジウムが「ネットと文芸」をテーマに、7月18日午後、金沢市で開催され、私も4人のパネリストの一人として、リモートで参加しました。
はじめに会長の秋山稔先生(金沢学院大学学長・泉鏡花記念館館長)が挨拶し、続いて水洞幸夫先生(金沢学院大学副学長・室生犀星記念館館長)をコーディネーターに、4人のパネリストが「ネットと文芸」をテーマに、それぞれの経験や意見を、持ち時間10分程度で語り、その後、来場者も含めて意見交換をおこないました。
私は、どのような動機で「勝手に漱石文学館」を立ち上げたか、どのように館内を拡充していったか、どのようなことがネット文学館の利点か、などについて話しました(「要旨」掲載)。金沢の思い出を予定以上に話したため、持ち時間を超過してしまいました。意見交換の中で私は、俳句に関連して、松山市や静岡県松崎町における投句サイトについても紹介しました。
もともと人間は、自分の考えや作品を発信したい、評価されたい、対話したいという欲求をもっており、従来のように本や座によってそのような欲求を満たすだけでなく、デジタル化が進むことによって、インターネットなどを活用して欲求を満たす手段がむしろ広がっていったと私は捉えています。そのような意味において、新たに登場した「ネット」は、従来に対して、対立するものでなく、共存あるいは互いに補完し合える存在ではないか、このシンポジウムを通じて、私はこのような思いを強くしました。

《発言要旨》

私は子どもの頃から書くことが好きで、中学から小説や詩を書き、高校では友人たちと同人誌を発行していました。
今から30年近く前、1994年に『鶴舞坂』という小説を井上雪先生にお送りしたのをきっかけに、雪嶺文学会の同人に加えてもらいました。
書くことの好きな人間にとって、本を出版することは大きな夢で、夏目漱石にはまってからは、漱石に関する本を出版したいと思ってきました。そして、『漱石と歩く東京』という企画を、いろいろな出版社に持ちかけたけれど、みんな断られ。わかったことは、本はつくるよりも販売する方が、おカネがかかるということでした。企画は、「雪嶺文学会」が発行する「雪嶺叢書」として、自費出版する形で、何とか実現できました。
漱石に関して書きたいことが次つぎ出て来て、文章が、つぎつぎ出来てくる。けれども出版の道は険しい。いろいろ考えた結果、ネットに文章をのせることを思いつき、「勝手に漱石文学館」を立ち上げました。館内は「漱石気分(これは漱石に関する体系的な文章を掲載)」と「漱石こぼれ話」。投稿サイトの「21世紀の木曜会」、『漱石と歩く東京』の注文サイトと、販売している神楽坂文悠書店とのリンク。
こうして、2017年11月に「勝手に漱石文学館」はオープンしたのですが、本の販売同様、アクセスしてくれる人がいるのかという大きな問題が。知り合いに紹介したり、検索されやすい言葉を入れたり、リピーターを増やそうと、こまめに更新したり。開設2か月で何とか来館者900人まで。その後、半年で4000、1年で12000、2年で34000、3年で56000、4年で86000人。その後、ペースは落ちているものの、今年6月、ついに10万人を突破しました。
この間、私は作家を漱石から、故郷「金沢の三文豪」鏡花・秋聲・犀星にひろげるため、「別館」を設け、さらに更新回数を増やすため、エッセイ風の文章を載せることができる「館長のつぶやき」を設けました。
けれども、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』だけは、どうしても本の形にしたいと思って、「雪嶺叢書」として、昨年7月に出版することができました。
私は、さらに東京に対するこだわりを貫きながら、作家をひろげるため、「文豪の東京」を書き始め、「館長の部屋」を設けて、載せるようにしました。ところが頻繁に更新をしていくと、過去に書いたものが目にふれにくくなる。そこで「月別」「テーマ別」、それに検索機能もついた「ブログ勝手に漱石文学館」を設けました。
まさに、「建て増し旅館」みたいになって、ある大学の先生から、「迷宮のようだ」と言われました。
「勝手に漱石文学館」を開館して良かったことはたくさんありますが、何と言っても一番大きいのは、多くの人に自分の書いた文章を読んでもらえること。また、漱石や金沢三文豪について調べようと、ヤフーなど検索サイトで検索すると、だいたい「勝手に漱石文学館」が出てくるようになりました。
また、当初、感想や質問は「21世紀の木曜会」への投稿を想定していたのですが、本の注文サイトが意外な展開をみせました。講演の依頼が来たり、アメリカからメッセージが寄せられたり、注文サイトには相手のメールアドレスが表示されるので、返信でき、メールの交換ができました。『三人の東京』に、秋聲の上京ルートも、「鏡花と同じだっただろう」と書いたところ、信越経由との指摘があり、お礼を兼ねて何回もメール交換し、「館長の部屋」に「秋聲の上京」に関する一文を掲載することができました。このように、『漱石と歩く東京』『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』の訂正箇所が見つかった時も、すぐ「勝手に漱石文学館」に掲載できるのも、本とネットの連携ならではの便利さだと思います。
付け加えになりますが、ネットでも専門性の高いサイトがいくつかあって、『東京紅團』は、東京はじめ各地に関わる文学を、歩いて調べ、地図や写真もたくさん載っていて、おおいに参考にしています。「五木寛之と金沢」などもあります。「猫じゃらし文芸部」なども大学の研究論文並みの文章が掲載されています。
【館長のつぶやき】

「館長の部屋」に「来館者10万人突破記念」として、「五木寛之と私と金沢」を掲載している。
この原稿を書きながら、私は子どもの頃の金沢を思い出していた。ところが思い出せないことや、あいまいなことが、じつにたくさんあった。五木寛之の妻玲子の父岡良一が経営していた医院のことも、記憶があいまいなことのひとつである。
私は何回か岡医院で診察を受けているが、診てくれた医師が岡良一本人だったのか、違うのか。多分、内科だったと思うけれど、私がケガをした時、岡医院へ担ぎ込もうとした記憶があるので、外科だったのか。玲子は精神科医であり、岡の親族が経営する十全病院も精神科である。けれども岡医院は精神科ではなかった。とにかく、こうなると、調べなくては収まらないのが私である。

私は岡医院の向かいにあったと記憶している老舗の酒造所に電話をした。電話をした趣旨を話すと、とても丁寧に対応してくれたが、岡医院のことはよくわからない。岡良一が金沢市長を務めていたことを話すと、「そんなことを聞いたような気がする」との回答。私は、つい最近のことのように思っていたが、もう50年前のことである。私が子どもの頃と代替わりしている酒造所。やむを得ない。それでも電話の先の彼が、私の通った小学校のはるか後輩であることがわかって嬉しかった。
その彼から教えてもらって、近所の和菓子屋へ電話。「角の家に奥さんと住んでおられた」と和菓子屋の主人。私が「洋館のような建物だったと記憶している。診察室の天井はとても高かった」と話すと、「変わった建物だったね」と。
「近くに〇〇があるでしょう?」「あそこの〇〇さん、どうなった?」など、ついでにいろいろなことを訊いてみた。何しろあの一画は、私が小学生の時に好きだった女の子が住んでいたところで、思い出すと今でも胸がキュンキュンしてくる。そのことは小説『杏里』にも書いた。
結局、岡医院は内科だったようだが、良一が衆議院議員をしていた時、代診を行っていたかどうかはわからなかった。ただ、私は不確かながら、「今日は岡先生が診てくれる」と言われて、とても緊張したことを覚えている。やはり、代診がおこなわれていたのだろう。
幸い、ストリートビューに岡医院の建物が撮影されていて、「この建物だ。懐かしい」。あいまいな記憶が多少なりとも確認され、増幅された気がする。それにしても、漱石の『道草』における、子どもの頃の記述、何とも詳細である。もちろん記憶違いや脚色もあるかもしれないが、かなりの精度のように思われる。「漱石に比べて私は」と、落ち込みそうになるが、まあ、記憶というものは消え行くものだし、時には「記憶探し」もまた楽しいではないか。私は和菓子屋の主人と話しながら、『硝子戸の中』の床屋の主人と漱石の会話を思い出していた。

【館長のつぶやき】

参議院議員選挙が終わりました。参議院は解散がないので、つぎは三年後になります。選挙期間中、文化人とよばれる人たちの中にも、自分が支持する政党や候補者を応援する姿が見られましたが、じつは漱石も一度だけ、選挙応援に立ったことがあります。
1915年、衆議院議員選挙。東京市選挙区から立候補した馬場孤蝶。掲げた政策は、「女子参政権の実現。軍縮。言論・思想の自由の保障」。選挙応援をおこなったのは、漱石の他、森田草平、生田長江、堺利彦、平塚らいてうなど。漱石の応援もむなしく、結果は落選。
馬場孤蝶は明治学院で島崎藤村と同級。樋口一葉と親しく、足しげく一葉のもとに通ったそうです。

今回の参議院議員選挙、投票日の前日にあたる7月9日。森鴎外が亡くなって、ちょうど100年の命日でした。鴎外は今年、生誕160年、没後100年の節目の年を迎えています。いずれ、「文豪の東京」でも取り上げていきたいと思っています。
まもなく、7月24日。今年も「河童忌」を迎えます。あと5年で、芥川龍之介も没後100年。2027年には、どのような世界が広がっているでしょうか。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
矢口進也著『漱石全集物語』(岩波現代文庫)を読みました。『漱石全集』といえば岩波書店版の「こころ」を模した全集のイメージが強いですが、『漱石全集』にも奥深い歴史がありました。全集に入れる作品について、表記や仮名遣いの問題、著作権や商標権についてなど、出版時期や出版社によって様々な全集が出版され、その歴史が紐解かれるたびにわくわくしながら読み進めました。
印象に残ったエピソードをご紹介します。
——関東大震災の直後、北海道の一読者が『漱石全集』一揃いを岩波茂雄あてに送ってきた。再出発への励ましとして贈られた漱石全集が、岩波に三度目の全集刊行を決意させた。第二次の全集が完結して三年余、一、二次あわせて一万二〇〇〇もの読者を獲得した漱石全集を出せば、経済的にも安定すると考えたのだろう。さきの寄贈された本は、第三次全集の原本として使用される。——
関東大震災で莫大な損害を被った岩波書店。彼に力を与えたものが漱石全集だったということを知り、とても嬉しくなりました。
著者の矢口は、没後20年の忌年に当たる岩波書店の昭和10年版の推薦文でそれぞれ漱石文学について思うところを述べているなかで、佐藤春夫のものが秀逸であると書いています。
——「書架に全集を要する作家と代表作のみで事足りる作家とがある」と書き出し、「人、殊にその人柄の大きさが断簡零墨にまで溢れ——否、一見不用意な断簡零墨ほど一層真面目を露呈してゐて、それによつて益々その人を景仰欽慕する思ひを深められるやうな世に稀な作家ばかりが全集を要するのである。」と説く。——
全集でなくても、主な代表作だけで良い、場所をとるだけだと思われるかもしれません。しかし、漱石は佐藤春夫が述べているように「書架に全集を要する作家」であって、すべてを知りたい、持っていたいという要望に応え続け、多くの読者を獲得してきました。これからも新たな資料が加わり、節目の年に出版され続けるのではないか。『漱石全集物語』は終わることのない物語を紡いでいくはず。そんなことを考えるのは楽しいものですね。

2017年10月開館以来、4年半少し、来館者が10万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。


【館長のつぶやき】

『草枕』論を書いていて、ふと、「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ~」という、歌と言って良いのか、よくわからないけれど、今は亡き志村けんのセリフを思い出した。子どもたちは盛んに口にしたが、「世も末だ」と嘆いた人たちもいた。人間関係が希薄になってきて、他人のことなどどうでもよい、そんな風潮がひろまって来た象徴として、このセリフを受け止めた。
けれども、よく考えてみれば、人間関係に気をつかわなければならない人の世において、カラスのことまで考えていたら、身がもたない。カラスは人情をもっていないのだから、ここはひとつカラスのことなど、「非人情」に切り捨てていかなければならないのではないか。漱石なら、そんなことを言いそうだ。
「カラスの勝手」について、さらに言うなら、そもそも動物愛護だとか、生態環境保護だとか言って、カラスのことや、さまざまな動植物のことを考えてみても、じつは「人間目線」かもしれない。カラスのことはカラスの自主性に任せて、それを見守っていくことが、ほんとうの動物愛護、生態環境保護になるかもしれない。
「非人情」の観点からみると、「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ~」も、志村けんのお笑いにとどまらないセリフのように思えてくる。
キリスト教の新約聖書「マタイによる福音書6章34節」――明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。(新共同訳)
「非人情」をみごとに貫いた聖句である。私はこの聖句を思い出して、気持ちが楽になった、そのような経験がいくつもある。そしてそれは、阿弥陀様にすべてを委ねると同じことで、「非人情」による救いのようにも思われる。
漱石とお付き合いすると、こんな考えも浮かんだりする。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
人生100年時代という言葉を、最近よく聞くようになりました。某乳酸菌飲料のCM「人生100年時代篇」では、大泉洋が一青窈のハナミズキを歌い、キャッチコピーは「人生100年時代の○○(商品名)」。日本人の平均寿命は伸びており、その分長く働き、お金にも長生きしてもらわなくてはなりません。「君と好きな人が100年続きますように」との歌がCMで流れるたびに、健康は大事だなとか先のことを色々と考えさせられます。
漱石は『幻影の盾』のなかでこのようなことを書いています。

——百年の齢(よわ)いは目出度(めでたく)もありがたい。しかしちと退屈じゃ。楽(たのしみ)も多かろうが憂(うれい)も長かろう。——

まるで人生100年時代の到来を予言しているかのような言葉です。そして最後はこのように締めくくられています。

——百年を十で割り、十年を百で割って、剰(あま)すところの半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享(う)けたのと同じ事じゃ。(中略)終生の情けを、分と縮め、懸命の甘きを点と凝らし得るなら——しかしそれが普通の人に出来る事だろうか?——この猛烈な経験を嘗(な)め得たものは古住今来ウィリアム一人(いちにん)である。——

『幻影の盾』は、若き騎士ウィリアムと城にいる恋人クララの一心不乱の恋の物語。この作品を初めて読んだ20歳の私は、クララを愛したウィリアムのように、一瞬で百年を生きてしまったような、幸せな時間を過ごしてみたいと、盾の中の世界で恋を成就させた物語の結末に憧れたものでした。現実はなかなかうまくいきません。そういえば『一夜』にも「百年は一年の如く、一年は一刻の如し」という『幻影の盾』とよく似た一節が出てきます。
「館長の部屋」では【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】が6回にわたり連載されています。また「21世紀の木曜会」に関連した館長の文章が掲載されています。『一夜』を館長が読み解くとどうなるのか。そして『草枕』と『一夜』の関係など、とても興味深いです。館長の部屋と合わせて、21世紀の木曜会にもぜひお立ち寄りいただきますようお願い申し上げます。「非人情」の時間を、たっぷりと楽しむことができます!
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
館長の部屋で連載が始まった「文豪の東京」は、芥川龍之介に続いて島崎藤村が取り上げられています。藤村の小説『春』には、北村透谷がモデルの青木の葬儀で歌われた讃美歌の歌詞がそのまま引用されています。館長の連載を読みながら、柳美里の戯曲『静物画』に出てくる讃美歌のことを思い出しました。柳美里は芥川賞を受賞した作家ですが、小説を書く前は劇作家でした。中学から入学したミッションスクールを高校1年で退学し、その後、劇団を立ち上げます。24歳で岸田國士戯曲賞を受賞。『静物画』はミッションスクールが舞台で、高校生の文芸部員5人が過ごす日々が描かれます。最後は、そのうちの1人、紙透魚子が中庭の大きな林檎の下の池の水に溺れて亡くなり、礼拝堂に女生徒たちが集まって聖書の言葉を聴き、讃美歌(310番)を歌う追悼礼拝のシーンで終わります。

静けき祈りの 時はいと楽し 悩みある世より 我を呼びいだし
父のおおまえに 全ての求めを たずさえいたりて つぶさに告げしむ

静けき祈りの 時はいと楽し さまよいいでたる 我が霊を救い
危うき道より ともない帰りて こころむるものの 罠を逃れしむ

『静物画』の単行本のあとがきで、柳美里は次のように書いています。
——私が学校を退学したのも春でした。校長室で「娘をやめさせないでください」と、土下座してしまった父の背中に桜の花びらが降っていました。私は父に何か言わなければならないと思ったのですが、言葉が喉につかえて、何も言えないまま歪んだ顔を持て余して、父の背中を見ながら校門を出ました。もう授業が始まっていて学校は静まりかえっていました。音楽室から讃美歌を歌う声が聞こえたので、私は父に分からないように少しだけ振り返りました。——
人生のごくわずかな時間でも讃美歌を歌う日々を送った人はきっと、大人になってもふとした瞬間にメロディーを口ずさむことがあるのではないでしょうか。
藤村は透谷の葬儀で讃美歌を歌ったとき、何を思っていたのだろうかと考えます。教会から離れても讃美歌の記憶は消えることがない、そんな気がします。


【館長のつぶやき】

館長もいちおう小説家である。けれども小説はまったく売れないから、もう、小説は書かん。――なんかこの文章だけは漱石ばりである。
今、『同志少女よ敵を撃て』という小説が評判である。作者の思いなどを聞いているうち、ふと、自分が四半世紀以上前に書いた小説を思い出した。題は『鉄砲でうたれた少年』。
時は天正10年(1582年)。主人公円山清三郎は二十歳。越後から越中を通り、能登へ入った。清三郎の祖父円山梅雪は足利幕府管領家の一つ畠山氏の一族。能登守護畠山義元・義総を頼って能登へ下り、面々衆に次ぐ千貫衆に列せられ、能登畠山氏の有力家臣であった。梅雪の息子、清三郎の父にあたる円山豊前守は1572年に落馬して死去。10歳の清三郎が家督を継いだ。能登守護畠山氏の居城は七尾城。山の上にある。1577年、七尾城は上杉謙信の軍勢に攻め込まれ、15歳の少年清三郎は敵の鉄砲に撃たれ、腿を負傷した。
舞台は越中から能登に入ったばかりの東ノ浜。浄土真宗の勝円寺。信円和尚、妻はた、それに子どもが三人。
富山湾を眺めながら、和尚の娘たづが話しかける。

――「私、海を渡って、あの山のほう、行ってみたい」
「海を渡って?」
「私、まだあの山のほう、行ったことがないんだもの。何があるのかな、あの山のほう」
「何もない。あるのは、いくさばかりだ」
清三郎は自分の思わぬ大きな声にびっくりした。たづもびっくりした。――

やがて、和尚と清三郎の間で、このような会話が交わされる。

――「七尾へは帰りたくないのか」
「はい。七尾へ帰れば、また、いくさ」
「いくさはこわいか」
「こわくはありません。ただ私は、いくさがもういやになった。いったい何のためのいくさ。味方どうしが敵になったり、敵が味方になったり。私はもう、だれを相手に、何のためにいくさしているのか、わからなくなった。美作は恩義も忘れて、おやかたの義総公さま義則公さまを能登から追い出し、今度は義隆公さまを毒殺。上杉と戦うかと思えば、裏切って城を明け渡す。長は長で織田へ通じ、神保も温井も三宅も、織田に頭をさげるしまつ。私だって同じこと。上杉と戦い、鉄砲でももを撃ちぬかれ。それが今度は上杉の軍勢にはいって、織田と戦う。……もし、私が七尾へ帰れば、今度は織田の軍勢にはいって戦わなければならない。誰かに恨みをいだいているわけでもない。天下をとる野望があるわけでもない。ただ、敵だから戦っているだけ」――

突然、信長死去の報が伝わる。やはり、また、いくさが始まるのか。

――「おそらくなぁ。このまま無事にすぎることもあるまい。おやかたさまもいなくなってしまった。美作さまも、謙信公も、そして今また信長さまも。つぎつぎ亡くなっていくなぁ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
信円は本尊に手をあわせた。
「極楽浄土へ何か持って行ったじゃろか」
はたがつぶやくようにいった。
「なにも、持って行かんだろう」
「なにも、持たんでか……」
「いくさ、始まったら、清三郎さまはどうなるんじゃ」
たづが言った。
「たづは、心配か」
信円の言葉に、たづは顔の赤くなるのを感じた。浅黒いたづの顔にも、信円はそれを読み取れた。
「私はもう、いくさには行かん」――

――「清三郎さま、もうずっとここにいて。ねっ、ここだって、なんとか暮らしていけるでしょ。ううん、私、清三郎さまといっしょに暮らしたいの」
清三郎は、たづの手をしっかり握りしめた。風は冷たさを増していた。
波がしらの目立つようになった海を越えて、立山連山が白い屏風となって、くっきりと浮かびあがっていた。―― (完)    

この作品は、私が高校生の時、書き写したある寺の由来記をもとにしている。私は、その中に書かれていた鉄砲で撃たれた少年のことがずっと引っかかって、畠山管領家に対する関心とともに、いつか作品にしたいと思ってきた。応仁の乱に始まる戦国の世。戦争とはいったい何か。自分なりに考えてみた。

※『鉄砲でうたれた少年』は、「雪嶺文学15号」(1996年)に掲載。「雪嶺文学」は雪嶺文学会の同人誌。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』。昨年、NHKの番組「100分de名著」で取り上げられることを知り、ハヤカワ文庫の新訳版を番組テキストと合わせて読みました。
『華氏451度』は本が燃やされる社会を描いた近未来小説で、主人公モンターグの職業は「ファイアマン」(新訳版では昇火士と訳されます)。当局からの通報を受けると、本を持っている家に駆け付け、家ごと焼却する仕事です。モンターグは何の疑問も持たずに仕事をしていましたが、少女やおばあさんとの出会いによって影響を受け、あるとき、焼却する前に少しずつ本を盗み自宅に隠し持っていたことが妻に知られてしまいます。すぐに焼却しようとする妻に、モンターグは訴えます。
――この本を燃やすわけにはいかないんだよ。ぼくは見てみたいんだ。一度だけでもいいから、中を見ておきたいんだ。――
本には何かがあると気づいたモンターグは、爆撃機の一軍が空を横切り、家の上空を通過していったとき、こんなことを言います。
――ああ、まったく。一時間ごとに、空にあんなものがいくつもいくつも!毎日毎日、朝から晩まで、ああも爆撃機が飛ぶなんて、どういうことだ!どうしてみんなその話をしたがらないんだ!僕らは二〇二二年以降、二度、核戦争を起こして、二度とも勝利した!それは、この国の暮らしが愉しすぎて、ほかの国のことを忘れてしまっているからか?僕らだけ裕福でほかの国は貧しいのに、気にもかけないからか?(中略)ひょっとしたら、本を読めば、おなじ狂気のあやまちをくりかえさずにすむかもしれないじゃないか!あのアホどもがきみのラウンジでそんな話をしてるのは聞いたことがないな。なあミリー(妻の愛称:引用者注)、わからないのか?一日、一時間か二時間、こういう本を読めば、もしかしたら…――
今年に入ってから再読し、二度の核戦争が起こるのが「2022年以降」と書かれていることに気づきました。ロシアによるウクライナ侵攻が起きた2022年という年を、私たちは忘れることはできないでしょう。この小説がアメリカで出版されたのは1953年。前年の1952年にアメリカはマーシャル諸島で史上初めての水爆実験に成功します。小説の舞台はおそらく100年後のアメリカ。ブラッドベリはどうして、70年後、それ以降に核戦争が二度起きるという設定にしたのか。残念ながら2012年に91歳で亡くなったため、その答えを聞くことはできません。
モンターグに「本を読めば」と繰り返し語らせている。ブラッドベリは遠い過去に亡くなった人が書いたものを読むことで、過去のあやまちを繰り返さずにすむかもしれない。だから本を読んでほしいと伝えたいのではないでしょうか。私には何もできないけれど、本を読み、過去から学び続けたいと思います。『華氏451度』に書かれた未来が現実とならず、一日も早く平和が訪れることを願って。

【館長のつぶやき】

ウクライナからの避難民を乗せた列車の映像を観ていて、犀星の『杏っ子』の一節を思い起こした。
――上野は皆たすからなければならない混雑の人ごみであったが、そのうちの一人のりえ子は、例の雲のごとき男の物吉繁多の背中におぶさって、人込みの中をそれが一つの礼儀を現わすためであるらしく、ひとりでにこにこして手を物吉の胸に廻して、人垣の中をくぐり抜けていった。震災の後に金沢に落ちていった時も、たいへんな人込みだったが、こんどは同じ混雑していながらも、叫び声や押合うのにもどこも殺気をおびていて、あの時とはずっと群衆の様子がとげとげしく、時勢のちがいがあった。――
軽井沢に疎開する犀星一家の体験がもとになった一文である。戦時の、そして東京が攻撃されるかもしれないと言う切迫した様子が伝わってくる。私には《皆たすからなければならない》という一節が強く響いてくる。死んでも良い人などいないのだ。犀星の妻は病に倒れ、身体が不自由である。それでも善意によって無事、列車に乗ることができた。関東大震災の後、金沢へ避難する犀星夫妻には生まれて間もない娘がいた。ウクライナからの避難民を乗せた列車の映像を観るにつけ、重なり合う感情がある。
――終戦になった。(略)勝った人間は日本人の手から腕時計を剥ぎ取り、外套を脱がせ、ゆびわをもぎとり、白昼日本の娘を強姦し、自動車は子供達を轢き殺して行った。――
もちろん、この文章も『杏っ子』の一節であり、犀星が書いたものである。
水川隆夫著『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、2010年)の帯には、《戦争は悲惨です 以上》と書いてある。漱石が教え子橋口貢に宛てた手紙の一節《戦争は悲惨です》から引用された言葉である。

森本隆子著『<崇高>と<帝国>の明治――夏目漱石論の射程』(ひつじ書房、2013)を読む機会があった。第八章に「米と食卓の日本近代文学誌」という項があり、興味をそそられる。さらに「1 近代家族は<ごはん>とともに誕生する」「愛は<ごはん>に輝く――夏目漱石とちゃぶ台のある風景」と来るから、これはもう読まずにはいられない。

「愛は<ごはん>に輝く――夏目漱石とちゃぶ台のある風景」では、まず、漱石の『こころ』の<ごはん>の場面が引用される。主人公の「私」が大学を卒業した日、約束通り、先生の家で夕食をいただく場面である。森本先生は、《おそらく日本の近代小説の中で、これほどすがすがしく幸せそうな食卓風景を描いた作品はない》と記している。「どこが?」と言いたいが、《若い夫婦が客まで交えて食卓を囲むなどどいう習慣は、当時の日本ではまだ日常的なものではなかった。明治も半ばになってから出現した新しい風俗だったのである》という一文を読めば納得である。
そう言えば、私が十数年前、タイ北部の山間の村へ行った時、ホームスティ先での食事は、ご主人(地元の学校の校長先生だが)といっしょだったが、奥さんはついに同席したことがなかった。チェンマイの大学へ行っている娘さんは同席したが、通訳は、「この家は開けているから、娘さんが出て来る」と説明してくれた。この家にも漱石流に言うと「下女」がいて、朝早くから家事をこなしていたが、奥さんも台所に立っていた。私が炒め物をつくる手伝いを申し出た時、奥さんは笑顔でやらせてくれたが、やはり「開けた家」だったのだろう。子どもたちがバイクに三人乗り。明治と現代が同居する不思議な空間であった。
森本先生は、それまでの箱型の膳では、家父長が上座に座って、家族、使用人という具合に、食事の場は家族の身分序列の確認の場と化してしまうが、明治30年代頃から、都市の小家族を中心に、ちゃぶ台と呼ばれる折り畳み式の四本脚の着いた低い円形の食卓が流布し始める。ちゃぶ台のルーツは卓袱料理にあると言われる、と説明している。
そして、森本先生は、《上座を曖昧化して家族が輪になれるちゃぶ台は、また、早くに巌本善治らが提唱した「ホーム」――対等な男女の自由恋愛からなる夫婦家族の理想に、じつによく見合うものであった。当時の青年層の欲望を代弁するかのように、社会主義者の堺利彦は「一家団欒」を「一家の者が一つの食卓を囲んで相並び、相向かって、笑い、語り、食い、飲む」ことと定義して、家庭の民主化を唱えている》として、《ちゃぶ台が文学作品に集中的に取り上げはじめられるのは、日露戦争も終わった明治四〇年代に入ってからである》と続けている。

ここに、中村不折が描いた「苦沙弥先生宅の食卓風景」の絵が登場する。三人の子どもが食事する食卓は円形に描かれている。漱石も『吾輩は猫である』で三人の娘の姿を活き活きと描いているが、不折の絵もまた同様。この『吾輩は猫である』を出発点に、《ちゃぶ台とそこに展開される夫婦家族のドラマをあくことなく描き続けた漱石は、『こころ』でも、今、ここで三人の囲んでいる食卓が、ほかならぬちゃぶ台であることを、丁寧に描き込んでいる。》と森本先生。さらに、《下巻で明かされるように、それは「先生」が、まだ今の「私」同様の大学生であった頃、家庭の団らんを夢みて、みずから購入したものであった。現在の「奥さん」を「お嬢さん」と呼んで、その家に間借りの下宿をしていた「先生」は、親友Kが新たな同居人として加わったのをきっかけに、「みんなが顔を合わせる」「晩飯の食卓」を用意しようと、「薄い板で造った足の畳み込める華奢な食卓」――つまりはちゃぶ台をあつらえさせたという。若い「私」の羨望の背景には、若い日の「先生」その人の夢と憧れが潜められている。みんなが食卓を囲んでひとつ釜からごはんを分かち合う一家団らん。漱石が描いたものは、今ではごく当たり前となっているこれら<近代家族>の<始まりの光景>であったといえるだろう》と記している。
『こころ』は「先生」の「私」への遺言である。言い換えれば、漱石が松岡・久米・芥川などをはじめとするヤングジェネレーションに宛てて書いた遺言である。自由と民主主義の気風が芽生え始めた明治が、いつしか自由と民主主義を抑えつける国家主義に変容していく時代にあって、警鐘を鳴らし、自由と民主主義の気風を次世代の若者が引き継ぐことを願った漱石は、生活の場面をも通して、それを描いた。森本先生から示唆を受けた気がする。「ちゃぶ台」というものを、ひとつのシンボルとして、自由と民主主義に裏打ちされた「近代家族」を次の世代へ引き継いで欲しい。それはとりも直さず、自由と民主主義を引き継いで欲しいという漱石の願いであっただろう。
しかし、森本先生も《漱石が描いた<始まり>の幸福は、しかし、そのまま手つかずに無傷で現在の我々へと手渡しされているわけではない》と指摘している。

漫画『サザエさん』の磯野家の食卓は、「円形」のちゃぶ台である。これはよく「戦後民主主義の象徴である」と言われる。私は長い間、円形のちゃぶ台は戦後生まれたものだと思ってきた。森本先生の本によって、『吾輩は猫である』の時代から存在していたことに気づかされた。気づいてみると、「そう言えば」と思い出されたことがある。林竹治郎の描いた『朝の祈り』。クリスチャン画家である林が日露戦争のさなか描いた絵で、1906年に完成したという。そこに描かれているのは、確かに円形のちゃぶ台。円形のちゃぶ台を囲んで、母親と四人の子どもが祈りを捧げている。
それにしても、この絵は何かヘンだ。三人の子どもはちゃぶ台に両手を置き、祈りの姿勢をとっているが、母親は右手を末っ子の肩に置き、左手は顔を覆うようである。これは祈りではない。悲嘆にくれたしぐさである。ちゃぶ台の手前には誰もいない。五人の人物を描くにはこの方が良い。写真を撮る時でも移動する。けれどもこの手前の空白部分、それは父親の席だったのだろう。おそらく父親が両手を置いていたであろう聖書は、すでに長男の手が置かれている。日露戦争で父親が出征し、あるいはすでに戦死したのであろう。そう思ってこの絵をみると、
自由と民主主義の気風を映した<近代家族>が、国家主義に飲み込まれていく様子を描いたものとして捉えられてくる。
それから40年。1946年から描き始められた『サザエさん』一家のちゃぶ台は円形に。ついでながら、『ちびまる子ちゃん』一家のちゃぶ台は角形。どんな形でも、一家団らんの食事がそこにある。私が子どもの頃、ちゃぶ台は円形だった。真ん中に正方形の切り込みがあり、開けるとコンロが入った。すき焼きや鍋物をする時に使った。これならどこに座っても等距離で手が届く。これが「民主主義」なのかどうか判然としないが、角形では不便だ。それでもわが家も角形に変り、人が集まると、円形と角形がくっつけられ、さながら前方後円墳の様相を呈していた。
【館長のつぶやき】

何かことが起きると、漱石が生きていて、テレビでコメンテーターを務めていたら、どのように語るのだろうかと、思うことがある。
新型コロナウイルス感染症の大流行。漱石なら・・・。
そして、今また、ロシアによるウクライナ侵攻。漱石ならどのように語るのだろうか。私はあれこれ想像してみる。けれども、漱石なら私の想像をはるかに超えたコメントをするであろう。
漱石が今、この世に生きていないこと、とても残念に思う。けれども、今、どこかで、漱石に匹敵するコメントをしている人がいるのかもしれない。私が見落としているだけかもしれない。情報量だけは漱石の時代にくらべ、はるかに多くなった。そこから、漱石に匹敵するコメントを見つけ出すのは容易ではない。#がどんどん増えていくと、#を二つも三つもつける時代が来るかもしれない。
妙にこのようなことだけは、想像が拡がっていった。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
若松英輔著『悲しみの秘義』(文春文庫)を読みました。テレビ番組での対談を拝見し、そのあたたかい語り口に惹かれ、書いた文章を読んでみたいと思ったのです。『悲しみの秘義』には若松さんが経験した、愛する伴侶を亡くすという悲しみのなかで、様々な本を読み、彼が出会った「ことば」を引用した26編のエッセイが収められています。実に味わい深く、何度も読み返したくなる素敵な本でした。
そして思いがけず、漱石の『こころ』の一節に出会いました。
――私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては可(い)けません。暗いものを凝(ぢつ)と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫(つか)みなさい。――
「先生」から「私」への遺書として向けられたこの「ことば」に今まで注目したことがなかったことに気づきました。漱石は『こころ』を読む私たちに、暗いところに目を凝らし、いったい何をつかんでほしいと願っていたのでしょうか。
館長の著書『漱石と日本国憲法~漱石からのメッセージ』に『こころ』が出てきます。多くの人に読まれてきた『こころ』ですが、館長は「種子を棄ててきたのではないか」と書いています。
――おいしそうなりんごも、種子は外から見えません。果実全体からすると、種子の占める割合はきわめて少なく、しかも種子は捨てられてしまう。素晴らしい文学作品である『こころ』も、漱石がもっとも言いたかったことは見えてこない。私たちはおいしい果肉の部分にのみ目を奪われ、作品全体に占める割合もきわめて少ない種子の部分を見過ごし、棄ててきたのではないだろうか。――
『悲しみの秘義』では『こころ』の先生の遺書の引用に続けて、若松さんの「ことば」が記されています。
――消えることのない光はいつも、暗いところに隠れているというのである。――
暗闇に隠された消えることのない光。ずいぶん前に手に入れた大正6年発行の縮刷版『こゝろ(心)』を眺めていたら、隠された漱石からのメッセージを自分なりにつかみ取れそうな気がしました。
【館長のつぶやき】

私の手元にある一冊の本『ストレイ・シープ』。どこかで聞いたような。漱石ファンなら、すぐ思い出すのが『三四郎』。美禰子の謎の言葉。
『ストレイ・シープ』(平成8年発行)を書いた山口博は、長い間、静岡県内の高校で教え、校長も務め、静岡県高等学校文化連盟の発展にも尽力された。私同様、書くことが大好きであるが、私と違う点は「読書家」であること。
『ストレイ・シープ』は「漱石の英詩」から始まる。自分の本に『ストレイ・シープ』と題名をつけるくらいだから、もちろん漱石ファンである。
『ストレイ・シープ』を読んでいると、とくに学生時代や教師なりたて時代を書いた文章を読んでいると、『三四郎』や『坊っちゃん』を読んでいる感覚になってくる。山口先生が生徒から呼ばれたあだ名には、「豆タンク」「ギャング」とともに「坊っちゃん」というのがある。いつの時代も生徒は先生にあだ名をつけて楽しんでいるのであろう。『坊っちゃん』でも、いくつもあだ名が出てくる。
漱石ファン。三島北高等学校を最後に定年退職する山口校長は、こんな言葉を生徒に残した。⦅在職三年間で残念なことは、僕の後輩が出なかったということだ。二、三人は出てもよかったのではないか。もっとも僕の後輩ではいさぎよしとしなかったのかもしれない。英文学科卒の大先輩(と呼ぶのも気がひけるが)で、たいへん有名な小説家でも千円にしかならなかった。慶應義塾なら十倍になったのだが⦆。確かに!
『ストレイ・シープ』の「はじめに」には、つぎのような一文がある。
――「ヒツジ年生まれ」と言うと、怪訝な顔をする人がいる。「羊」から「温良の人」とか、「気の弱い人」を連想して、僕とイメージが合わないと思うらしい。英語でもsheepは、その従順性から、無邪気・温良・善良な人の代表語として用いられる。漢字でも「羊」には、「おいしくて、よい姿の代表として意識され、善・義・美などの字に含まれる」とある。しかし十二支の「ヒツジ」は「未」であり、これには、「いまだ……せず」とか、「いまだし」の意味もある。「いまだ成らず」としたら、僕にぴったり当てはまるのだろう。いまだに迷い迷って、もたもたと歩いている。従ってこの雑文集、題してストレイ・シープ。――
私は「ヒツジ年生まれ」ではないが、共感できる文章である。
なお、『ストレイ・シープ』の表紙カバー絵は画家の柏木俊秀が描いている。俊秀の父は、藤島武二、梅原龍三郎に師事し、中川一政、武者小路実篤らと親交のあった画家柏木俊一。俊秀は俊一の次男である。伊豆に生まれた俊一・俊秀父子はともに伊豆を愛し、伊豆の風景を描き続けた。

「館長の部屋」では【文豪の東京――芥川龍之介】を連載しています。「ブログ」では【文豪の東京――芥川龍之介】を読みやすく整理しています。検索機能もついていますので、ぜひご利用ください。

「館長の部屋」の記事は、「ブログ」にも掲載されています。カテゴリ別、月別に読むこともでき、検索も可能です。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
1月17日は阪神大震災から27年ですが、私には「勝手に漱石文学館」をお訪ねくださる皆様はもちろんご存じの、尾崎紅葉の『金色夜叉』(前編第8章)に出てくる、熱海でのあの有名な貫一のセリフが思い出されます。
≪一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったら、僕の涙で必ず月は雲らして見せるから、月が……月が……月が……≫e月17日を忘れてはならないのだと、改めて思います。
紅葉の命日は10月30日。関森勝夫先生の『文人たちの句境』(中公新書 1991年)より、紅葉の辞世の句をご紹介します。

――死なば秋露のひぬ間ぞ面白き――

関森先生は次のように解説しています。
――死ぬんだったら秋がいい。しかも露の乾かない朝に死ねたら面白い。と自分の死の時期への願いを読んでいる。(中略)迫った死を知りながら「面白き」と客観的によめる気力に圧倒される。西行が「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」と歌って願い通り二月の十六日〔文治六年(一一九〇)〕に死去したことが重ね思われる。――
自分の死期を悟って、西行の「ねがわくは…」の歌を意識している。紅葉には――誰が見てや木の葉挟みし山家集――という句もあります。紅葉も願い通り、秋に亡くなりました。

館長の著書『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』には、紅葉の最期が徳田秋聲の『黴』に描かれていること、また紅葉の死後についても書かれています。直接ご注文いただいた方には小冊子『もう一人の養子――塩原秋男』もプレゼント!だそうです。
※合わせて、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』3.鏡花――紅葉と住んだ神楽坂 をお読みください(20ページ)。

「館長の部屋」では、「塩原昌之助の裃・袴発見!」の記事を掲載しています。「秘書のつぶやき」を読まれた後、ぜひ「館長の部屋」にも、お立ち寄りください。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。あけましておめでとうございます。今年も秘書として資料の収集に勤しみ、館長を支え、そして時どきはつぶやきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
現在、館長の部屋では芥川龍之介が田端で体験した関東大震災についてのエッセイが掲載されています。私は館長が引用している龍之介の随筆『大正十二年九月一日の大震に際して』を読んだことがなく、実に興味深いです。
先日旅先の古書店で出会った、芥川文(述)中野妙子(記)『追想 芥川龍之介』(1975年、筑摩書房)。妻の文が晩年、龍之介との思い出を口述筆記したものです。文は震災当日のことを思い出し、次のように語っています。
≪いつもお昼には子供が、二階の書斎の階段の下で、「とうちゃん、まんま」と呼ぶ習慣でしたが、当日はどうしたものか、主人は一人だけ先に食べ了えて、お茶碗にお茶がついでありました。その時、ぐらりと地震です。主人は、「地震だ、早く外へ出るように」と言いながら、門の方へ走り出しました。そして門の所で待機しているようです。私は、二階に二男多加志が寝ていたので、とっさに二階へかけ上りまして、右脇に子供を抱えて階段を降りようとすると、建具がバタバタと倒れかかるし、階段の上に障子を外してまとめてあったのが落ちて来て階段をふさぎます。気ばかりあせってくるし、子供をまず安全な所へ連れ出さねばと、一生懸命でやっと外へ逃れ出ました。部屋で長男を抱えて椅子にかけていた舅は、私と同じように長男をだいて外へ逃れ出て来ました。≫
そして、その時の夫婦の会話が記憶されています。
≪私はその時主人に、「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとはどんな考えですか」とひどく怒りました。すると主人は、「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」と、ひっそりと言いました。≫
龍之介は比呂志を見つけて抱いて外へ出たのかどうか、疑問が残ります。家族を置いて先に一人で先に逃げたため妻にひどく怒られたなんて、やっぱり書けないですよね。
私は、妻の文の味方です!だって、忘れるはずがないではありませんか。いざという時には自分のことしか考えないなんてと思ってしまいます。家族全員無事で本当に良かったです。
館長はどのように思われますか。
※二男の名前が「多可志」となっていましたが、誤字のため訂正しました。

【館長のつぶやき】
「館長はどのように思われますか」と秘書から訊かれたので、答えなければなりませんね。まず、文さんはそんなに怒る方ではないので、母の強さを感じます。
このような夫婦の会話も、龍之介の家が震度5だったから言えることで、震度6だったら、文も多加志そっちのけで、外へ逃げ出したかもしれません、というより、その場から動けず、外へ逃げることも、二階へ上ることもできなかったでしょう。
――すると主人は、「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」と、ひっそりと言いました。≫ 後で、どのようなことを言われようが、身のキケンが迫ったら、とにかく自分の命を守ろうとするのは、生物の本能。とくに逃げるという行動はきわめて自然なものです。龍之介は本能的に退避行動をとったまでで、それを何の屁理屈もつけずに認めた龍之介は、とても素直な人だと思います。文が《ひっそりと言いました》と表現しているのも、後年、そんな龍之介の言動を受入れたからではないでしょうか。
地震のように突発的で、あらかじめ避難行動ができない場合、いかなる行動も非難することはできません。自分が生きていてこそ、他人を助けることができるのであって、自分が生きていたら、つぎに安全を確認しながら、救助です。
文が必死で二階から連れだしてくれた多加志ですが、結局、戦死してしまいました。戦死の報に接し、文は大震災の時、抱えて避難した多加志のぬくもりを思い出していたかもしれません。地震は人間の力で食い止めることはできませんが、戦争は人間の力で食い止めることができます。関東大震災で残った芥川邸も空襲で焼けてしまいました。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
芥川龍之介が東京帝国大学英文科に提出した卒業論文のタイトルは「ウィリアム・モリス研究」。残念ながら関東大震災で焼失してしまい、読むことができません。
ウィリアム・モリス(1834~1896)といえば、工芸家でデザイナーであり、アーツ・アンド・クラフツ運動を先導した人物としての印象が強いですが、生前のモリスはむしろ詩人として知られていました。1877年にはオックスフォード大学詩学教授就任を打診され、辞退しています。龍之介が卒論に取り上げていたことを知らなかったので大変驚きました。私は以前からモリスのデザインした「いちご泥棒」が好きで、この柄がプリントされているポーチを持ち歩いていたのです。
龍之介がどんな卒論を書いたのか…この謎に迫る論文、澤西祐典「芥川龍之介と卒業論文'Young Morris'――旧蔵書中のウィリアム・モリス関連書籍を手掛かりに――」(『京都大学 国文学論叢』第34号、2015年9月)によれば、日本ではラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が紹介したとのこと。漱石の『文学論』にも詩人モリスへの言及があるということです。そして、龍之介が持っていたモリスの著作の詩に施された書き込みをたどることで、龍之介の関心を追うという試みがされています。澤西は次のように記しています。〈書込みは象徴的な色彩美が際立つ部分に施されている。それは唯美主義を表明するラファエル前派全体を貫く特徴ともいえるが、モリスの詩の鮮烈な色遣いに敏感に反応している様相は、久米が「エスシエイティック」という評語を使って、芥川のモリス像を言い表した点とも符合する。芥川が詩人モリスのどこに惹かれていたのか、という問いの答えとして、まずはモリスの詩の鮮烈な色遣い、色彩美を挙げることができよう。〉
yellow、gold、red といった単語が出てくるところに赤ペンで下線をひいていた龍之介。私は卒論が提出される前年に発表された『羅生門』を思い出しました。赤と黒、白と黒の色彩コントラストが表現されている印象的な箇所があります。
〈殊に門の上の空が夕焼けで赤くなるときには、それがごまをまいたように、はっきり見えた。〉→夕焼けの「赤」とごま(からす)の「黒」、〈丹塗りの柱に止まっていたきりぎりす〉→丹塗りの「赤」ときりぎりす(こおろぎ)の「黒」、〈短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞき込んだ。外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。〉→白髪の「白」と黒洞々の「黒」。
詩人モリスの影響を少なからず受けていると言えるのではないでしょうか。
現在、館長の部屋ではエッセイ【文豪の東京――芥川龍之介】の連載が掲載されています。館長の部屋にぜひお立ち寄り下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
漱石と龍之介はどちらも手紙好き。二人の往復書簡、気になり読んでみました。1916年8月21日、千葉県一宮海岸の旅館に滞在中の久米正雄と芥川龍之介に宛てた手紙で、「然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。」と励ましています。翌22日、龍之介からの返信には、師である漱石の「ありがたいお言葉」には触れず、翌月の雑誌に掲載される「芋粥」の校正について、そして発表後の不安を訴えます。「宿屋は大抵毎日芋ばかり食はせます。小説も芋粥ですから私は芋に祟られてゐるのでせう。」この龍之介の手紙が漱石のもとに届いた2日後の24日、漱石は2人へあてた手紙で「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。」と前回と同じ思いを繰り返し語り、文壇の評価など気にしないようにとさらに励ましています。
龍之介はこの手紙を受け取ったのち、8月28日に漱石に返信を書きます。一宮に滞在中の出来事について、そして何よりもあと数日で「芋粥」が発表されることへの不安が綴られます。「牛になること」との励ましに、やはり触れていません。手紙の最後は、漱石の体調を気遣う、次のような文章で終わっています。
「修善寺の御病氣以來、實際、我々は、先生がねてお出でになると云ふと、ひやひやします。
先生は少くとも我々ライズィングジェネレエションの爲めに、何時も御丈夫でなければいけません、これでやめます。」
これらの手紙のやりとりから3ヶ月後、漱石は亡くなります。丈夫でいてほしいという龍之介の願いは叶わず、2人の交流はわずか1年足らずで終わりを迎えます。
龍之介はどうしてこの「ありがたいお言葉」に触れずに返信したのでしょうか。もし「牛のように」という贈られた言葉に反応してお礼など言ってしまったら、本当に先生は自分の目の前からいなくなってしまうのではないか。先生は死期が近いことを悟っているのかもしれないが、そんなことは認めたくない。もっと目先の細かいことをこれからもずっと相談したい…そう考えてあえて反応しなかったのではないかと思うのです。龍之介の甘えたがりでかわいい一面が垣間見えます。こんな師弟関係、ちょっとうらやましいです。
現在、館長の部屋では「文豪の東京」と題して芥川龍之介の作品に描かれた東京についての連載が掲載されています。館長の部屋に、ぜひお立ち寄りくださいませ。

〈参考文献〉
小山慶太『漱石先生の手紙が教えてくれたこと』岩波書店、2017年
平野晶子「芥川龍之介 夏目漱石宛書簡(昭和女子大学図書館蔵)について―「芋粥」「猿」の評価をめぐって―」、『学苑』第760号、2004年1月
豊岡明彦・高見澤秀編『文豪たちの断謝離 断り、謝り、離れる』秀和システム、2021年
『小さな資料室』(Webサイト)
【館長のつぶやき】

「二兎追う者、一兎をも得ず」という言葉がある。
確かに「リアル二刀流」を追求する大谷翔平は、最多勝も取れなければ、ホームラン王も取れなかった。やはり、「二兎追う者、一兎をも得ず」の言葉通り。と、言いたいところだが、私は気づかされた。実は「二兎を追っている」その姿が美しいのではないか。人びとを感動させるのではないか。結果だけではないのではないか。大谷翔平という若者に教えられ、夢をみさせてもらった一年だった。
ところで、「兎」というと鏡花。以前「館長のつぶやき」で述べたように、鏡花には「兎」の句がない(と、思われる)。仕方がないので一句詠んでみた。
――茶畑を野うさぎ跳ねる五月富士――
単純な一句であるが、誰か良いと思ってくれる人は、いるであろうか。自分では思い入れのある句が選ばれなかったかと思えば、自分では「今いち」と思う句が選に入ったり、どうも俳句というのはよくわからないところがある。「たくさんつくって、たくさん捨てなさい」、俳句ではこのようなことが言われる。俳句自身が「言葉を削ぎ落して、残った五七五の十七文字」である。このようにして詠まれた句を、さらにまた削ぎ落としていく。何か「終活」文学のようであるが、もっとも「精製された」文学ということもできるのだろう。
――二兎を追う姿美し翔平くん――
これでは川柳……

この勝手に漱石文学館も開館4年を過ぎ、5年目に入ります。来館者も85000人を突破し、開館当初考えられなかった数字にびっくり。ほんとうにありがとうございます。
【館長のつぶやき】

ある日、堀沿いの柵のポールに二羽のカラスがとまっていました。じっと見つめる先のポールに、どこかのおじさんが餌を置いた瞬間、二羽のカラスは餌めがけて突進。ところがつぎの瞬間、一羽がさっと後ろに跳び、見事に先ほどのポールに着地。私は生まれて初めて、カラスが後ろに跳ぶのを見ました。それとともに、ものすごい感動が。だって、人間なら餌をめぐって争うでしょう。どんなに威張ってみても、人間はカラスに勝てないと思いました。
半藤末利子さんが『硝子戸のうちそと』(講談社、2021年)の「びわとカラス」の章でこんなことを書いていました。ある日、半藤さんの家の前の電線にびっしりとカラスがとまっている。そのカラスが二、三羽さーっと飛び立って、入れ違いに後ろから電線目がけて帰ってくるのがいる。結局、カラスの目的が目の前のМさんの庭の巨大なびわの木の実を食べることであったことがわかります。半藤さんは、――二時間半ぐらいの間、じっと目を凝らして見入っていた私たちは、カラス社会にはあるルールが存在することを知って驚かされた。なぜって、カラスは餌を奪い合って喧嘩なんてしない。先発隊がある程度食べ終えて電線や電信柱に戻ってきてから、待機していた別のが目的地に向かって出発するのである。それが一糸乱れぬというか、実に秩序正しく行われるのである。これでは、カラスは繁殖こそすれ、絶滅種にはなりっこない。――と、書いています。
半藤さんの判断を借りれば、どうやら人類は絶滅危惧種であるようです。漱石が今から百余年前に警鐘を鳴らした、それとは違った言葉で、漱石の孫は今、私たち人類に警鐘を鳴らしているのではないだろうか。とにもかくにも、カラス社会のルールを目の当たりにすることができたのだと、半藤さんの文章を読んで、あらためて嬉しくなりました。まことに単純な人間ですね。

松山坊っちゃん会(漱石研究会)が会報第33号を発行しました。「事務局だより」のコーナーには、今年、松山市立子規記念博物館開館40年記念、子規没後120年の記念の年を迎えていることが書かれ、あわせて、熊本漱石倶楽部が創立20周年を迎えていることが紹介されていました。新型コロナウイルス感染症の流行にともない、集合による会合が困難になる中、会報の果たす役割は大きくなっていると言えるでしょう。
【館長のつぶやき】

金沢にある泉鏡花記念館の秋山稔館長(金沢学院大学学長)が、今年3月に発刊された金沢学院大学紀要第19号へ掲載された『泉鏡花・発表俳句一覧』を読ませていただきました。
 俳句から出発した犀星と違って、鏡花というと小説家の印象が強く、俳句の印象があまりないのですが、鏡花の足跡をたどって逗子をめぐった時、いくつかの句碑に出会い、鏡花が俳句をつくっていたことに気づかされました。その後、秘書の北澤みずきさんが関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)を教えてくれたので、この「館長のつぶやき」でも鏡花の俳句をいくつか紹介してきました。
 秋山稔先生は『泉鏡花・発表俳句一覧』において、鏡花が発表した俳句を、さまざまな文献から集め、概ね年代を追って整理し、一覧にまとめた数は、
 ――盃の八艘飛ぶや汐干狩
から始まって、 
 ――日あたりや蜜柑の畑の冬椿
まで745句(重複する句があるため、実際には500句余)。
 句を選ぶ資格などまったくない私ですから、「選ぶ」ことなどできませんが、印象に残った句をいくつか紹介したいと思います。
 ――花一つ紫陽花青き月夜かな
 ――氷嚢や蚊遣や恋の夜を徹す
 ――蔵前や師走月夜の炭俵
 ――母こひし夕山桜峯の松
 ――黒猫のさし覗きけり青簾
 ――梟の声にみだれし螢かな
 ――稲妻に道きく女はだしかな
 うさぎを愛した鏡花ですが、どうも俳句の中には詠まれていないようです。
【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
鎌倉市鏑木清方記念美術館では、鏡花と清方が出会って120年を迎えることを記念して、企画展「幽玄の美に誘われて~泉鏡花と清方の出会い~」が開催されています(10月19日まで)。
日本画家である鏑木清方(かぶらききよかた、1878~1972)は鏡花の文学作品が好きで、鏡花の挿絵をかきたいと志望していました。
1901年8月、初対面の鏡花の印象を清方は次のように記しています。
〈自分の方の事はよくは覚えてゐないが、例の香の図の紋のある絽の羽織を着て、房々とした髪を分け、地の青く見える程揉み上げを短かく刈り込んだ眉目清秀の青年、勿論近眼鏡をかけてゐたことは今と変りはないが、その小づくりな柄が俊敏そのもののやうで、泉鏡太郎といふ本名も、鏡花といふ雅号も、なるほどこの人にして名は体を現はすといふ云ひ古された諺の違はざるを知ると思つた。〉
以後、清方は鏡花の作品で挿絵や装丁を手掛けるようになり「鏡花作、清方ゑがく」の交わりは40年以上続きます。
鏡花が亡くなった翌年には〈ことし節分過ぎ、また奥さんから、泉君の常に愛でてゐた、兎の金具をいたゞいた妻は、残雪の雑司ヶ谷へすぐおまゐりに行つて来た。〉とあり、清方の妻とも親しい交流があったことがうかがえます。また同年に刊行が始まった岩波書店版全集は清方の装丁。〈さて扉の小袖は種をあかすと『寛文ひいながた』所載の模様をそのまゝにぬきうつし。兎は泉さんが最も好んで、身のまはりを常にはなさなかつた、母君がかたみのしるし。鏡花水月にも因んで、この小袖もやう、若し生前に知つて居たら、ゆかりの色に染めて見たか……それとも、この兎の耳は長すぎて可愛らしくないよと嫌はれたかも知れない。〉と書いています。
なぜ鏡花が兎を愛でていたのか、館長がこのたび出版されました『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を読み、その意味を理解しました。酉年生まれの鏡花は向かい干支(裏干支)の「うさぎ」を大切にし、コレクションも多い。鏡花は逗子に暮らしたことがあり、大崎公園には「うさぎ」の像があるとのこと。
鎌倉の清方美術館から少し足を延ばして、館長の本をお供に、逗子へ行ってみたくなりました。

※引用はいずれも『鏑木清方文集』(白鳳社)より。
※合わせて、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』特集①をお読みください(43ページ)。

【秘書のつぶやき】

秘書の北澤みずきです。
関森勝夫先生の『文人たちの句境』(中公新書 1991年)、気に入っていただきとても嬉しいです。館長に興味を持ってもらえそうな資料の収集は秘書として大切な仕事です。
増設された「館長の部屋」に秘書の机も置いていただけるとのこと、大変ありがたく思っております。

『文人たちの句境』から、私が気になった漱石の一句をご紹介します。

――物や思ふと人の問ふまで夏痩せぬ―― 

関森先生は次のように解説しています。
――「何か悩みごとでもおありですか。大分痩せられたようですが」と、人から質問されるほど暑さ負けをして痩せてしまったことだ、という意。(中略)漱石自身のことをよんだものには違いないが、「百人一首」を正月に楽しんだ時代の人々には、漱石の意図が即座に受け止められ、句の世界の面白さが直ちに納得出来たことだろう。――
「百人一首」の平兼盛(たいらのかねもり)の歌「しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで」の下の句の表現を借りています。隠していたはずが、人に気づかれるほどまでに顔にあらわれるようになったという恋心をよんだこの歌。漱石の手によって「夏痩せ」と組み合わさり、実に面白い句となっています。おそらく漱石の夏痩せの原因は恋の病などではなく、別のところにありそうですが。
「夏バテ」しても「夏痩せ」の気配すらない私としては、何とも羨ましい限りです。健康第一で、年々厳しくなる暑さを何とか乗り切りたいものです。

『勝手に漱石文学館』へご来館くださり、ありがとうございます。当館の本館および別館における、当初予定した文章はすべて掲載が終わっています。その後、書いた文章は、「館長のつぶやき」「21世紀の木曜会」に掲載してきましたが、「つぶやき」にしては、あまりにも長い文章になったり、「木曜会」でも一方的な文章になってしまいました。そこでこのたび、「館長の部屋」を増設し、まとまった文章を掲載することにいたしました。従来の内容では、平出修の『畜生道』や、芥川龍之介の『大川の水』などにあたるものです。
① 漱石や金沢三文豪に関連して、その後、書いたもの。
② 漱石や犀星に共通する芥川龍之介をはじめ、漱石や金沢三文豪にゆかりのある人びとについて書いたもの。
③ その他(これが曲者)。
館長だけでなく、秘書北澤みずきさんが書いた文章も掲載します。
感想等については、「21世紀の木曜会」に投稿してください。
「館長の部屋」にも、ぜひお立ち寄りくださいますよう、よろしくお願いいたします。

【広告】出版しました!
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』(雪嶺叢書)
定価:1210円(税込)
「北野豊の本」から、ご注文いただけます。
従来の説をくつがえす内容、作家論なども書かれています。
もちろん、金沢三文豪を追って、東京の街歩きをする文学散歩のお供としても、とても役に立ちます。
【館長のつぶやき】

北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)から、鏡花、秋聲、犀星の句を紹介してきましたが、この文学館の本館は漱石でした。漱石の作品を紹介しないのでは、軒を貸して母屋をとられた状態になってしまいます。そこで今日は漱石の句。
――眼を病んで灯ともさぬ夜や五月雨――
関森勝夫はこの句につぎのような解説を加えています。
――一読、漱石の退屈きわまりない渋面が見える。眼を病んで書くことも、勿論本を読むことも禁じられ、仕方なく早く床につくのだけれど寝つけるわけもない。灯を点さない暗い部屋に横臥して、降りつづく五月雨の音を聞いているばかりである。雨の音は頭を冴えさせて、ますます寝られなくなるのだ。(略)物だけが黴るのではなく、精神まで黴てしまいそうだと嘆いている作者の孤影が浮ぶ。日常の習慣となっている読み書きを禁じられることは、苦行そのものである。――
 鏡花の句で「五月雨」は「さみだれ」と読みますが、漱石の句では「さつきあめ」と読ませています。梅雨時の雨を「お化けの世界」を透かして見た鏡花とずいぶん違いますが、確かに読み書きを禁じられたら、漱石は困るでしょう。おそらく読み書きできないので、電燈も点けずに、さっさと床に入ってしまったのはないでしょうか。後は関森の想像ですが、床についたけれど、きっと眠ることができなかったのだろうと(すぐ眠ってしまえば、このような句はできなかったでしょうから)。
 眼を病んだことと、梅雨時の雨のダブルパンチで、「精神まで黴てしまいそう」になっている漱石。もっとも私などは、自虐的に言えば、梅雨時でなくても「黴ている」のかもしれませんが、秋聲の『黴』はこのような精神状態を表したものなのかと、思ってしまいます。
 この句がいつつくられたのか、その時、眼科で治療を受けていたのか、私にはわかりませんが、「眼を病んで」というと、私はすぐ井上病院を思い出します。神田駿河台、ニコライ堂のすぐそば。今でも有名な眼科です。病気のデパートのような漱石ですから、思い浮かぶ病院・医院も数多く、私は『漱石とたどる病院・医院』という文章を書いてみたいと思っているくらいです。
 この神田駿河台には有名な病院・医院が多くあり、秋聲や犀星の作品にも登場します。
 漱石に鏡花を重ね合わせて、五月雨を聞きながら床についている漱石。いつしかその床のまわりに茸が生えて、というより、お化けらしく「出た!」。びっくり仰天の漱石を、笑い転げて見ている鏡花を想像してみました。
【館長のつぶやき】

北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』からの今日の一句は、鏡花の
――五月雨や尾を出しさうな石どうろ――
関森勝夫はこの句につぎのような解説を加えています。
――うちつづく長雨に、繁茂した樹々に庭はうすぐらい。うっとうしい気分で雨の庭に目をやる。気分が暗く沈んでいるから、ものみな明るく見えない。泉水のほとりに置かれた石どうろうが、物の怪のついたようにうち沈んで、何か生き物に化けそうに思えてくる。苔むした古い石どうろうを「尾を出しさうな」と見なして、しっぽを早く出したらどうだ、とよびかけて楽しんでいるようだ。対象に目を注ぎ、あれこれ連想することも、この時期の沈鬱な気分を晴らす一方法であろう。――
 石灯籠に化けているのは狸であろうか、狐であろうか。丸みのある燈籠なら狸、角ばっていれば狐。燈籠の根元に狸や狐のしっぽは似合う。この句が鏡花の句と知れば、狸か狐が燈籠に化けているという真実味が出てきます。
 ここで私が思い浮かべるのは、鏡花が住んだ土手三番町の家。
『くさびら』によると、《大掃除の時に、床板を剥すと、下は水溜に成つて居て、溢れたのがちよろちよろと蜘蛛手に走つたのだから可恐い。此の邸…いや此の座敷へ茸が出た》と書かれた後へ、《生えた……などゝ尋常な事は言ふまい。「出た」とおばけらしく話したい。五月雨のしとしとする時分、家内が朝の間、掃除をする時、縁のあかりで氣が着くと、疊のへりを横縦にすツと一列に並んで、小さい雨垂に足の生えたやうなものゝ群り出たのを、黴にしては寸法が長し、と横に透すと、まあ、怪しからない、悉く茸であった》と続く。鏡花にとっては、狸や狐よりはるかに怖かったようで、梅雨明け早々、終生の家となる下六番町の家に引っ越しました。鏡花ならずとも、私もこの文章を読んで、身の毛がよだつ思いがします。
 『くさびら』には、この後もさまざまな茸談義が出てきます。秋聲の『黴』に対抗して、鏡花も『茸』という小説を書けば面白かったのに。ちょっとこんなことでも書かなければ、畳の茸の恐怖は消えません。
 鏡花が住んだ土手三番町の家は麹町台地を下ったところにあり、外濠のある谷筋にあたります。ところが外濠に面して土手が築かれているため、水はけが悪く、溜まってしまう地形になっています。狭い範囲ながらも、湿地帯になっているのです。
【館長のつぶやき】

北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)からの今日の一句は、鏡花の
――雲の峰石伐る斧の光かな――
関森勝夫はこの句につぎのような解説を加えています。
――これはまた力の漲った男性的な句である。女性的で、繊細な感覚を得意とした作者にもこうした力強い作もある。夏天に高く上昇した雲も大きな峰を成していまは静まっている。その下の石切り場では、石工たちが石を切り出している。折々その大きな斧が鋭く光を反射させる。夏の句ながら荒々しくはない。炎天下の森閑たるさまをとらえた。黙々と働く石工の赤銅色の肉体。自然の威圧にいどむ人間のたくましさを見据えている。――
関森は男性的な力強さを指摘しながら、荒々しくないと評しています。一見、矛盾するようですが、これは適切な評でしょう。「雲の峰」も「石伐る斧」も力強さをもった言葉です。けれども、立ち上った入道雲は、すべての音を吸い込んでしまって、静寂がひろがっています。不気味です。
私は「雲の峰」という言葉だけで、すべてを悟って、そこから逃げ出したくなります。雷の鳴る前の空はほんとうに音を失っています。そして、稲妻が走り…。想像しただけでゾッとします。「光かな」という言葉。私にはもう、雷が斧に落ちたとしか考えられません。「くわばら、くわばら」。
こんなにも私を恐怖のどん底に突き落としてしまった鏡花の一句。やはり、鏡花の世界をまざまざと見せつける、鏡花らしい一句と言えるでしょう。
【館長のつぶやき】

新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって、金沢にある三文豪の各記念館も休館になってしまいました。夏休みは、とくに若い人たちに三文豪を身近に感じてもらえる好機だったのですが……。
北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)からの今日の一句は、犀星の
――桃つぼむ幼稚園まで附きそひし――
関森勝夫はこの句につぎのような解説を加えています。
――子供とたわいない会話を交しながら歩くのは楽しいものだ。朝子さんの通園に従ってあれこれ話をしているうちに幼稚園まで来てしまったというのである。陽気の温かさに心軽くなり、子供と歩く楽しさが「附きそひし」の表現に弾んでいる。思いがけなく来てしまった、という軽い驚きが受けとめられる。――
関森は『杏っ子』を読んだことがあるのでしょう。『杏っ子』には、杏子が芥川の次男たかしと一緒に幼稚園に通っていたことが書かれています。たかしの母親(つまり芥川の妻)が附き添っていたこともわかります。もちろんこれは小説の話ですが、実際にも朝子は多加志と一緒に通園していたのでしょう。
そんな日常の中で、多加志が急に幼稚園を休むことになり、これ幸いにと犀星は幼稚園まで娘朝子に附き添ったのではないでしょうか。関東大震災を生き延び、避難先の金沢から戻って、やがて幼稚園に通い始めた朝子。豹太郎の死を想えば、よくぞここまで成長してくれたという思いが犀星にはあったことでしょう。私は「幼稚園」という一語に、それを感じます。犀星の喜びが伝わってきます。
幼稚園というのは中里幼稚園。女子聖学院(1905年設立)の幼稚園として1912年に設立されました。女子聖学院は現在も同じ場所にありますが、犀星の家から500メートル余。子どもの足では10分以上かかったかもしれません。それが長いのか短いのか、とにかく気がつけば幼稚園。父親と一緒に歩くことなどなかった、と言うより、父親が誰かもはっきりしない犀星にとって、今、厳然と自分は朝子の父親であり、その喜びと確信がこの一句に込められているように、私には思われます。
※ 合わせて、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』をお読みください(128ページ)。

【館長のつぶやき】

北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)から今日の一句は徳田秋聲。芥川龍之介の七周忌に詠んだ句です。

――涼しさや石碑をうつて木の雫――
この句に文学者で俳人の関森勝夫は、つぎのように解説しています。――この「木の雫」は夕立の過ぎた後の雨滴と思われる。場所も料亭の庭であろう。開け放たれた夏座敷から、夕立一過の涼しい庭の景を眺めている。木陰にある石碑に、頭上の木から雫が落ちる。その雨雫の輝きにひときわ涼気を感じたのだ。心地良い音色が聞こえてくるようである。龍之介の死は暑い日であった。人々に暑さが印象されているだけに、「涼しさや」というよみぶりに、今日はありがたいことに涼しいことだ、といった作者のつぶやきが聞こえてくる。追善会が始まらない前の、くつろぎの気分も受け止められる。

この料亭というのは、天然自笑軒でしょう。龍之介とは切っても切れない料亭です。犀星や鏡花に比べ、秋聲は龍之介との関りが薄いように私には感じられるのですが、この天然自笑軒の庭の佇まいは、何となく秋聲に似合っているように感じられます。
犀星は俳句から始まり、鏡花の句碑は逗子へ行けばいくつかあります。けれども秋聲と言うと俳句のイメージがないため、この一句は私にとって、かえって新鮮です。
【館長のつぶやき】

北澤みずきさんが提供してくれた関森勝夫著『文人たちの句境』(中公新書、1991年)。漱石はじめ鏡花、犀星、そして尾崎紅葉、巌谷小波、芥川龍之介、中勘助、久米三汀(正雄)、久保田万太郎などの俳句と解説が掲載され、何かこの『勝手に漱石文学館・別館』のために書いてくれたような本です。そのような本だからこそ、秘書として読んでもらいたいと思ったのでしょう。一句ではありますが、秋聲の句も紹介されています。
先日、この本の中から、龍之介の死に際して、犀星が詠んだ一句。
――新竹のそよぎも聴きてねむりしか――
を、紹介しましたが、今日は犀星の句から養母に関するものを紹介したいと思います。

――雪みちを雛箱かつぎははが来る――
この句に文学者で俳人の関森勝夫(1937~)は、つぎのように解説しています。――大正13年(1924)の作だから、前年8月27日に生まれた朝子さんの初節句の句である。このとき一家は関東大震災により金沢に引き揚げていた。この「はは」は養母ハツであろう。雪の積った道を雛具の入った風呂敷づつみの荷物を背負って来たのだ。思いがけない母の来訪に驚きとよろこびを隠しきれないでいる作者。雛が届いたことで家の中は華やぎ、親としてのよろこびはいっそう強いものとなり、家族の和のありがたさを実感したのだ。

この解説で印象的なのは、養母ハツに対する俗説に捉われていないこと。私は近著『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』で、ハツに対する私自身の思いを書くとともに、それを裏づける犀星のハツに対する感情を直接表した文章に、まだ出会っていないと書いたが、この一句はまさに犀星のハツに対する思いを素直に表しているように思えるのです。
ハツは寺町台から犀川を越えて、犀星のもとにやって来ました。時おり、朝子の顔を見に訪れていたハツですが、この日は足元の悪い雪道を、転倒すればせっかくの雛が台無しになってしまうので、おそらく気をつかいながらやって来たでしょう。東京で会った豹太郎があっという間にいなくなっただけに、ハツにとって、朝子はかわいい、大切な孫。無事の成長を願って、何としてもこの雛は無事に届けなければならない。そんなハツの思いを犀星がしっかり受け止めた一句です。そして、「はは」と詠んだところに、犀星のハツに対する思いを感じ取ることができます。

これからも順次、『文人たちの句境』から気になる一句を紹介していきたいと思います。
【館長のつぶやき】
芥川龍之介『大川の水』――河童忌に寄せて③

龍之介は大川の水に撫愛される沿岸の町々に思いを寄せています。吾妻橋から川下、駒形・並木・蔵前・代地・柳橋・多田の薬師前・うめ堀・横網、このような地名を耳にするたびに、彼の心は懐かしさに震えたことでしょう(駒形から柳橋まで大川の右岸、多田の薬師から左岸。多田の薬師は1927年に完成した駒形橋建設のため、葛飾区東金町に移転した。うめ堀は梅堀)。そしてそこに大川の水が流れ、その水の声は懐かしく、《つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖を洗ってゆく》のです。彼は江戸浄瑠璃作家河竹黙阿弥描く世話物に思いをはせ、その場面の演出に用いたのが、《実にこの大川のさびしい水の響きであった》と言い、《ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう》と、大川の渡しに言及しています。
龍之介は吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあったとして、《その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている》と続けています。
1907年の地図には、「駒形の渡し」「御蔵の渡し」「富士見の渡し」「千歳の渡し」「安宅の渡し」の五つの渡しが記されています。
「千歳の渡し」は一の橋から浜町、「御蔵の渡し」は御蔵橋から須賀町へ渡る渡しです。「駒形の渡し」は1874年、下流に厩橋がつくられたことから、1876年に廃止されたことになっています。龍之介もそのあたりを承知しているでしょうが、1907年の地図に載っているところから、1927年に駒形橋が架橋されるまで臨時的に運航されたのかもしれません。
「御蔵の渡し」と「富士見の渡し」は近いため、名称が混用されることがあり、「富士見の渡し」は関東大震災を機に廃止、「御蔵の渡し」が1920~30年に廃止されたと言われています。『大川の水』が書かれた時には両方とも存在していたことになりますが、実際には「富士見の渡し」が廃止され、「御蔵の渡し」が残り、「富士見の渡し」とも呼ばれたのではないでしょうか。
「千歳の渡し」と「安宅の渡し」も同様です。二つは近く、「安宅の渡し」は1912年に廃止されたことになっています。これでは『大川の水』が書かれた時には運航されていた可能性があります。おそらく「安宅の渡し」が先に廃止され、「千歳の渡し」が1912年、『大川の水』を書き終えた後に廃止されたのではないでしょうか。
龍之介はわずかに残った二つの渡しが好きでした。

この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮かんでいる。

渡し船は水にきわめて近い。彼は水の色を肌で感じ取っています。そして、故郷とはつねに、「さびしさ」と「うれしさ」をもっている。私も同感。彼は水の色ばかりでなく、旋律を感じ取り、水の光を感じ取っています。この川の水の光はなめらかさと暖かさをもっています。上流のあまりに軽く、余りに薄っぺらに光すぎる水と違って、冷ややかな青に、濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化された親しさと、人間らしい意味において、ライフライクな、なつかしさがあると、彼は記しています。そして彼は続けて、

ことに大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。

大都会東京を流れる大川を龍之介は愛しています。水の色もけっして透き通ってはいない。人間の生活を感じさせる川だからこそ、彼は大川を愛すのです。彼は人間のにおい、人間の生活のにおいが大好きなのだ。人間嫌いではないのだ。――彼はさらに自分が大好きな大川の情景を描いています。思いつくままに、書き綴っていった文章は、繰り返しが多く、すっきりしたものではありません。短文でまとめ上げていく作家のイメージとあきらかに違う。若さゆえかもしれませんが、それだけに彼の執拗なまでの「大川愛」が伝わってくるのです。

河童忌や大川の水流れゆく
【館長のつぶやき】
芥川龍之介『大川の水』――河童忌に寄せて②

『大川の水』は「大川愛」に満ちた作品です。
龍之介は見た。大川の水と船と橋と砂洲、水上に生まれ暮らす人びとのあわただしい生活、石炭船の鳶色の三角帆。彼はまた吐息のような、おぼつかない汽笛の音を聞いた。龍之介は大川の水のにおいを思い出す。――彼は、《「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスのにおい》、そして、《もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう》と記しています。
においだけではありません。龍之介は、《あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか》、自分でも説明に苦しまずにはいられないと言いつつ、《昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落としたいような、言いがたい慰安と寂寥とを感じ》、《自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もち》がして、《この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛する》というのです。
二十歳の若者がこのような思いをするのか、私の経験から「是」です。私は三年半の能登の生活を経て、夢にまで見た故郷金沢に戻って来ました。中学二年生。すべてが懐かしく、あちらこちら回って思い出に浸り、こみ上げる涙は私の心を安らかにしたものです。そのようなことを繰り返しながら、私の中で故郷は深みを増し、しっかりと根付いていったのです。
龍之介は《自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする》と記し、夏、川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のように、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の眸を見はらずにはいられないとしながら、《ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりないさびしさに迫られたことであろう》と続けています。
大川というのは水の量が多く圧倒され、覆いかぶさってくるようです。どす黒く、生暖かい水に吸い込まれそうでもあります。慰安を与える大川の水も死と紙一重で、実際、大川の水は江戸・東京を通じて多くの人の生命を奪ってきました。渡し船が転覆したこともありました。大火に際して、大川は避難の行く手を阻む魔物で、逃げ遅れた人びとや川に飛び込んだ人びとの、多くの生命を奪ってきました。後に犀星から指導を託された堀辰雄の母も関東大震災の時、火災に行き場を失い、大川で亡くなりました。辰雄は龍之介の三中、一高の後輩であり、一回り違う辰年でした。辰雄も大川で危うく生命を落とすところでした。
【館長のつぶやき】
芥川龍之介『大川の水』――河童忌に寄せて①

7月24日、「河童忌」と呼ばれる芥川龍之介の命日。
1927年7月17日から8月7日まで、東京日日新聞に「大東京繁昌記下町編」として、鏡花の『深川淺景』が連載されている最中の出来事でした。
7月27日におこなわれた葬儀では、菊池寛と並んで犀星、相対する席には里見弴と並んで鏡花が座りました。金沢三文豪のうち二人が相対したことになります。龍之介の次男多加志と犀星の長女朝子は、連れ立って女子聖学院の中里幼稚園に通いました。龍之介は漱石の最後の門弟とも言われ、とにかく「勝手に漱石文学館・別館金沢三文豪」においても、龍之介は身内同然の人物です。
 そのような龍之介がこよなく愛したのが大川(隅田川)です。おそらく彼にとって、「大川のない東京は、東京ではない」、ふるさとは「東京ではなく、大川」、そんな感じだったのではないでしょうか。龍之介への供養として、しばし『大川の水』を読みながら、語っていきましょう。
 龍之介が『大川の水』を書いたのは1912年1月。1910年8月の東京大水害で被害を受け、その秋、彼は家族とともに住み慣れた本所を離れ、内藤新宿の耕牧舎の一角に引っ越しました。さらに彼は一年の猶予を終え、1911年9月、本郷にある一高の寄宿舎に入ったものの、寄宿舎の生活に馴染めず、週末には家に帰っていました。

 『大川の水』は《自分は、大川端に近い町に生まれた》という一文で始まります。龍之介が生まれた京橋区入船町八丁目は確かに大川端に近い。けれども文章は《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである》と続いており、彼の生家はあくまでも本所小泉町の芥川家。生後一年も経たないうちに連れて来られ、物心ついたのは本所ですから、当然ですが、生まれた場所を知っていたとしても、彼はそれを認めたくなかっただろうし、自分にとって生まれた場所はあくまでも本所であった。私はそう思います。
そのような龍之介が故郷を奪われるように内藤新宿に移され、本郷での寄宿舎生活も余儀なくされ、望郷の念に駆られるようになったのでしょう。思い出すは本所であり、切り離すことのできない大川でした。彼は《この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった》と書いています。「三年間」とは1910年、11年、12年の「三年間」を指していると思われますが、正味一年数カ月しか経過していません。それでも彼には《長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ》ように感じられたのではないでしょうか。実際には必ずしも平静ではなかったであろう彼は、故郷の川を眺めて心を癒し、その光景をどうしても文章にとどめておきたいと抑えがたい力に揺り動かされ、『大川の水』を書いた。私はそのように推察します。
東京にあこがれる私には、本所も大川も本郷も内藤新宿も、すべて「東京」です。しかし、東京生まれの龍之介は、《自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである》と結んでいます。彼にとって、故郷は東京ではなく、大川の風景とともにある本所であり、本郷や内藤新宿ではありません。大川の風景がない東京は故郷ではなく、けれども間違いなく大川は東京を流れているのです。
【秘書のつぶやき】

館長の秘書の北澤みずきです。
2020年11月20日に『新明解国語辞典 第八版』(三省堂 2020)が発売されました。日本一売れている国語辞典である新明解国語辞典を「新解さん」と親しみを込めて呼ぶ、その響きに懐かしさを覚えます。その当時、赤瀬川源平著『新解さんの謎』(文春文庫 1999)、夏石鈴子著『新解さんの読み方』(角川文庫 2003)、『新解さんリターンズ』(角川文庫 2005)を、新解さんの第四・五・六版を片手に楽しく読んでおりました。
そういえば『新解さんの読み方』に、新解さんの世界には漱石が住んでいる、と書かれていました。時代が移り変わっても見つけることができるだろうかと心配でしたが、ご安心ください。今もお住まいです。

※「お住まい」の様子は、「21世紀の木曜会」で順次、紹介していきます。
おもな「館長のつぶやき」検索

今までに書かれた「館長のつぶやき」を読んでみたい。そのような時にぜひ活用してください。日付を手がかりにすれば、見つけやすいと思います。興味があるテーマを探す時にも、この検索が役に立つと思います。

2021年
 6月14日:「秘書のつぶやき」始まる(「白い目・白眼」について) 
5月27日:徳田秋聲生誕150年
5月19日:泉鏡花と柳田國男、『琴のそら音』
4月16日:松山坊っちゃん会
『地理屋、漱石を語る』(3月1日~3月15日、4回連載)
2月5日:「惣之助の詩」(饅頭)
1月23日:「松本モデル」、夏川草介
1月14日:半藤一利さん死去

2020年
 12月26日:『仮装人物』とサンタクロース
 12月5日:近づく漱石忌
 11月26日:犀星、馬込に引っ越す
 11月12日:秋聲の命日近づく
 10月15日:逗子を行く
 9月12日:スペイン風邪と田端文士村
 9月10日:野間文芸賞
 8月28日:「市ヶ谷学校」について
 『源作日記にみるスペイン風邪』(7月27日~8月24日、9回連載)
 7月9日:神楽坂2丁目鏡花旧居跡の説明板について
 6月29日:犀星、脚色された人生
 5月23日:スペイン風邪と文学
 5月19日:犀星、漱石の掛物二幅売る
 5月1日:新型コロナウイルスとインフルエンザの恐怖
 3月21日:津田青楓
 2月15日:伊香保温泉
 2月1日:室生犀星記念館

2019年
 12月7日:漱石忌近づく
 11月16日:高知県立文学館
 9月28日:漱石と森田療法
 9月6日・8月21日:「ダーウィンが来た」と漱石の『門』のカエル
 9月1日:文豪たちの関東大震災
 8月27日:岩波茂雄の誕生日
 8月4日:「みんみい――泉鏡花が愛した少女――」の紹介
 7月18日:銀座八丁目交番廃止
 6月24日:上野精養軒で食事
 5月13日:『漱石と歩く東京』の訂正p73・p81
 4月28日:漱石の俳句
 2月27日:池辺三山の命日
 1月8日:漱石の成績

2018年
 12月27日:漱石と年の瀬
 9月15日:安室奈美恵引退
 9月2日:帝国大学の入学試験
 8月5日:東京大水害
 7月29日:想定外
 7月8日:岡山の水害と漱石
 6月16日:映画『万引き家族』
 5月7日:漱石山房記念館に行く
 3月18日:3月17日は平出修の命日
 2月23日:富士山の日
 2月22日:猫の日
 2月20日:石川啄木の誕生日
 2月10日:平塚雷鳥の誕生日
 1月29日:東京の雪と子規
 1月13日:寺田寅彦再婚の日
 1月4日:サイレントマジョリティー
 1月4日:『君の名は』

2017年
 12月31日:昭和も遠くなる
 12月28日:漱石の妻鏡子
 12月19日:わらび餅
 12月15日:読書と漱石・子規 
 12月5日:ギター音吉さんのブログ
 11月1日:この日から「館長のつぶやき」が始まりました。
この勝手に漱石文学館も開館以来三年半あまり。おかげで来館者も7万人を超え、ほんとうに感謝です。これを機に、館長秘書を置き、いっそうの充実を図ることになりました。私を瀬戸内寂聴さんと並べることは絶対にできませんが、秘書北澤みずきさんは瀬尾まなほさん同様、とても有能と確信しています。
これから「館長のつぶやき」のコーナーにも、「秘書のつぶやき」として、時どき登場しますので、よろしくお願いいたします。

【秘書のつぶやき】
はじめまして。館長の秘書の北澤みずきです。
先日、館長に子どもの頃のことをメールしようと書いていました。
「近所の人たちから白い目で見られているのではと思い…」
この「白い目」。使い方が合っているかどうか気になり『日本国語大辞典 第二版』(小学館 2000)で調べてみました。「悪意を含んだ眼つき。冷淡な眼。白眼。」とありました。
日本語国語大辞典には用例(もっとも古い使用例)が載っています。
なんと、漱石の『坑夫』(1908)。「さっき白い眼でぢろぢろ遣られたときなぞは」。漢詩からなのか英語から訳したのかわかりませんが、漱石がはじめて使った言葉だったのですね。日本国語大辞典は初版から約25年後に第二版が出版されています。第三版が出版されるとしたら、今年は2021年ですから、あと数年後でしょうか。もしかしたら電子書籍のみになるかもしれません。その時もどうか、用例の初出が漱石のままでありますように。
秘書のつぶやき、どうぞよろしくお願いいたします。

【館長のつぶやき】
このように何気なく過ぎてしまうような言葉にでも、立ち止まって、関心をもち、とことん調べてみるのが、みずきさんの素晴らしい点です。「白い目」から漱石まで行ってしまうとは、思ってもみませんでしたが、こうした発見に出会えるのは嬉しいことですね。
 こうなってくると、私の好奇心も黙ってはいません。「さっき白い眼で・・・」はいったいどこに出て来るのだろう。あらためて『坑夫』を読み直してみると、ありがたいことにすぐ見つかりました。ほとんど冒頭。
東京を発って北へ向かった主人公。掛茶屋の前を通り過ぎようとした時、さっきまで茶屋の婆さんと話していた袢天だかどてらを着た男が急に振り向いて主人公を見る。《白眼の運動が気に掛かる程の勢いで自分の口から鼻、鼻から額とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂を跨いで、脳天まで届いたと思う頃又白眼がじりじり下へ降って来た。(略)臍の所には蟇口がある。三十二餞這入っている。白い眼は久留米絣の上からこの蟇口を覘ったまま、木綿の兵児帯を乗り越してやっと股倉へ出た》。《実は白い眼の運動が始まるや否や急に茶店へ休むのが厭になったから、すたすた歩き出す積でいた》。《俎下駄を捩る間際には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、何処までも落附いている。がそれが滅法早い》。《あの白い眼にじりじり遣られたのも、満更持前の半間からばかり来たとも云えまい。こう思い直してみると下らない》。こんなふうにとにかく主人公は茶屋の前を通り過ぎたが、後ろから袢天どてらの男に呼び止められてしまいます。《実を云うとこの男の顔も服装も動作もあんまり気に入っちゃいない。ことにさっき白い眼でじろじろ遣られた時なぞは、何となく嫌悪の念が胸の裡に萌し掛けた位である》。それが二十間歩かないうちに、一種の温味を帯びた心持で後帰りする主人公。
こうして主人公はこの袢天どてらの男に誘われて、銅山で働くことになります。ふつう、人を見るのは黒眼。だから「人見」と言い、「瞳」と書く。ほんとうは「黒い眼でじろじろ遣られた」とすべきでしょう。それを漱石は「白い眼」と書いた。黒眼が素早く上に、そして下に。それがあまりに速いため、白眼だけ見えたのかもしれません。そんなところがいかにも漱石らしい。
漱石が使用した「白い眼」は眼の動きを表したもので、感情を表現したものではありません。「悪意」もなければ「冷淡」でもない。「白い眼」とは、しいて言えば「素早くじろじろ見ること」。銅山で働く労働者を物色していた袢天どてらの男は、若者が通りかかったのをこれ幸いに、瞬時に品定めして、「こいつはイケる」と思って、声をかけたのでしょう。
この「白い眼」が漱石の用法を超えて、「悪意」や「冷淡」の意味をもつようになったのは、どうして?これは私の推測ですが、「じろじろ」見る方には、いろいろ思いがあっても、「じろじろ」見られた方はあまり良い感じがしない。私なども、見知らぬ土地へ行って、じろじろ見られたら、冷たい視線と感じてしまいます。「白い眼」は漱石の思いを超えて、見られる側の感覚を表す言葉に進化していったのではないでしょうか。
 漱石は眼の動きを『明暗』でも描いています。津田由雄の妻延子(お延)は、色の白い女で、その所為で形の好い彼女の眉が一際引立って見えたが、《惜い事に彼女の眼は細過ぎた。御負に愛嬌のない一重瞼であった》。《けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常に能く働らいた。或時は専横と云ってもいい位に表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽き付けられる事があった。(略)すると彼女はすぐ美くしく歯を出して微笑した。同時に眼の表情が迹方もなく消えた》。本心好きではないけれど、どこか惹かれるところがある。由雄のお延に対する思いを、漱石はこのようなかたちで表現したのかもしれません。
 秘書のおかげで、これからも漱石や鏡花・秋聲・犀星との新しい出会い、発見があるかもしれません。今後ともよろしくお願いいたします。

漱石とまったく関係ない話題ですが、6月2日、東京砧公園内にある世田谷美術館に子どものたぬきが現れ、職員が撮影した動画が、動画投稿サイトに公開されたというニュースが流れました。「きぬた」を逆から読むと「たぬき」。こんなダジャレを知ってのたぬきの登場でしょうか。「きぬたのたぬき」という回文をつくってみました。
今年は徳田秋聲生誕150年ということで、金沢にある徳田秋聲記念館でも、「秋聲の家―徳田家所蔵品展」が企画され、さらに「秋聲を繋ぐ人々」(仮)も予定されています。ところがウィキペディアを見ると、1872年生まれになっているではありませんか。これでは生誕150年は来年2022年になってしまいます。これはウィキペディアが間違っているわけでなく、1872年2月1日生まれ、( )の中に、明治4年12月23日と書いてあります。一般的に明治4年は1871年で、そうであれば今年は確かに秋聲生誕150年にあたります。
松本徹著『徳田秋聲』の年譜には、「翌五年に暦の改正があり、十二月三日が明治六年一月一日となった。そのため、逆算すると、秋聲の誕生は、明治五年二月一日に当る。しかし、秋聲が自ら称してゐたやうに、四年誕生とし、年齢はそれに従ひ、数へで示した。」と書かれています。西暦に従えば秋聲は1872年生まれであるわけで、生誕150年は2022年にあたります。けれども、秋聲はあくまでも自分は「明治4年生まれ」であるわけで、西暦がなじむものではありません。
このような現象は太陰暦から太陽暦への切り替え以前に生まれた人すべてに当てはまること。秋聲生誕150年が2021年なのか2022年なのか、秋聲の作風からすればどちらでも良いことで、そうであるならば、二年間かけて生誕150年記念をやっても良いのではないでしょうか。新型コロナウイルス感染の拡大で、休館を余儀なくされる事態も発生しています。多くの人たちに秋聲に触れてもらうため、二年という時間が必要であるように、私には思われます。
『遠野物語と怪談の時代』(角川選書474、東雅夫著、2010)の一文を読む機会がありました。第三章は「泉鏡花と柳田國男」。その中に、1908(明治41)年5月26日付「新愛知」の「幽霊研究会起る」の記事が紹介されています。この記述の前後、幽霊や怪談に関する研究会や催しが全国各地で開かれていたことが書かれています。
ここで思い出したのが、漱石の『琴のそら音』(1905年)。そこには幽霊研究というのが出てきます。親友からその話しを聞いた余は、深夜の道を恐怖に満ちて自宅まで帰ります。「インフルエンザによる死」という言葉も恐怖心に拍車をかけます。白山の友人の下宿から極楽水の前を通る。名前は極楽だが、気味悪い。葬列まで通り過ぎる。切支丹坂は谷底へ落ちるようで、死と隣り合わせの坂。自宅のある小日向へ上る坂では、むこうに何やら揺らめく。犬の遠吠え。インフルエンザに罹った婚約者が気がかりで、翌日、彼女の家を訪ねると、快復して昨夜は本郷にある中央会堂の慈善音楽会に行って来たと言う。ホッとして、心浮き浮き神楽坂。
1896年から1903年まで東京帝国大学文科で教えていた小泉八雲が『怪談』を出版したのが1904年。その後任として東大で教え始めた漱石は、翌年、『吾輩は猫である』を発表して作家デビュー。そこには催眠術の話しも出てきます。『琴のそら音』が発表されたのも同じ年です。
科学技術が急速に進歩した明治後期に、幽霊だの怪談だの憑依だの、きわめて非科学的な対象が学者をはじめ、およそ幽霊など信じそうもない人たちに、どうしてもてはやされたのか。どうやら、幽霊だとか憑依だとかを心理学や精神医学の面から、科学的に探求しようとする流れの中で起きてきたように、私には思われます。当時、急激な社会の変化にともない欧米でもヒステリーなどの症状も多くみられるようになり、何かに取り憑かれたような症状も科学的に解明、治療する研究が進められる流れの中にありました。
私はかつて、下記のようなことを書きました。
――八雲の影響を受けたかどうかわかりませんが、正馬は、1902年、郷里高知県の犬神憑きの調査研究をおこない、大学院では精神療法を選び、文科大学で心理学や催眠術の講義を受けています。当時、催眠術が流行していたようで、『吾輩は猫である』(1904~05)にも描かれています。
正馬は1905年、『治癒せる強迫観念狂の一例』という論文を発表していますが、その年に漱石が発表した『琴のそら音』で、余の親友津田真方は幽霊の研究をしており、迷信などにも関心がある。当時、正馬は迷信・妄想などの研究にも力を入れており、私には津田のモデルが正馬のように思われてなりません。漱石は、『琴のそら音』で、犬の遠吠えに関して、500字余りの記述をしています。
正馬とは森田療法の創始者である森田正馬。五高在学中、漱石の英語の授業にも出席していました。その後、東京帝国大学医科大学に入学、八雲が東大で教えていた時期です。1902年、卒業した正馬は、精神科助手として府立巣鴨病院に入局します。院長は東京帝国大学医科大学教授で、精神科医として唯一、漱石を診察したことのある呉秀三。漱石が呉の診察を受けたのは1903年7月頃ですから、正馬と漱石が出会っていても不思議ではありません。『吾輩は猫である』にも巣鴨病院は登場しています。――
『琴のそら音』に関連して、このような想像をする私に、『遠野物語と怪談の時代』は、もう一枚のカードを与えてくれました。それは、冒頭の「幽霊研究会起る」の記事の中に、参会者の一人として平岩愃保(よしやす)の名前があるからです。そして漱石はこの平岩を『琴のそら音』を書いた時、知っていたのではないか。
平岩愃保は1904年から1911年まで本郷中央教会(中央会堂)の牧師を務めていた人物です。漱石が余の婚約者宇野露子を本郷中央会堂へ行かせたのも、平岩牧師を意識してのものでしょう。そして、ここにもう一つ加わります。愃保の父は三代続いた切支丹宗門改めの役人。れっきとした幕臣です。もちろん勤務先は切支丹坂を下り、小日向台へ上ったところにある切支丹屋敷。彼らの自宅は小石川安房町(現、小石川5丁目)にあり、切支丹坂を下りなくても屋敷へ行くことができました。道のりもそれほど遠くありません。漱石が余をあえて切支丹坂を通し、切支丹屋敷の方向に向かわせたのも、愃保の父のことを知ってのことでしょう。切支丹宗門改めの長男が、よりにもよって切支丹の牧師になったのですから、漱石も平岩愃保に大いに関心をもったことと思われます。
本郷中央教会(中央会堂)は鏡花ともつながります。この教会は一致教会で、鏡花が学んだ北陸英和は一致教会の流れにあり、鏡花の作品にも登場します。『一之巻・二のまき・三之巻・四の巻・五の巻・六之巻・誓之巻』(1896年)の、二のまき冒頭の項「苺」には、つぎのような一文があります。
――其日は学期の試験なるに、殊にこの一致教会に属したる東都の中央会堂より、宣教師一名、牧師一名、並に随行員両三名折から巡教の途次わが校に立寄りて、生徒の成績を見むがため、此時教場に臨みたり。――
当時、全国各地でキリスト教系の学校が設立されており、国内のクリスチャンや外国からの宣教師たちも視察に赴いていたようで、鏡花は北陸英和学校における自身の体験を記したものでしょう。上京した鏡花が本郷中央教会を訪れた痕跡はありませんが、湯島の一角にある教会ですから、目にすることはあったでしょう。『遠野物語と怪談の時代』の第三章「泉鏡花と柳田國男」の項に、平岩愃保の名前が出て来るのも、何か因縁めいています。
平岩愃保は静岡英和学校創立(1887年)に関わりました。堀端の西草深の地。徳川慶喜や勝海舟が住んだ地です。鏡花はこの静岡に『婦系図』の舞台を設定し、西草深の様子を描き、女学校を設定しています。隣の東草深には漱石養父塩原昌之助の兄(迷亭の静岡のおじさんのモデル)が住んでいました。
さて、この文章。漱石で締めるべきか、鏡花で締めるべきか、幽霊のようにつかみどころのないものになってしまったようですが、インフルエンザの怖さを背景にした『琴のそら音』は、この新型コロナウイルス感染症の大流行の中、けっして色あせていません。そして、この科学の世に、幽霊もまた色あせていません。幽霊もウイルスも、見えないものに対する人間の恐怖心はいつの世も変わらないのかもしれません。

今年も憲法記念日がやって来ました。漱石は日本国憲法が公布される30年前に亡くなったのですが、もし漱石が80歳まで生きていれば、日本国憲法を読むことができたわけで、いったいどのような感想を語ったでしょうか。80歳というと、今は第一線で活躍されている方もけっして少なくありません。漱石のあまりにも早い死が浮かび上がります。
漱石は何よりも民主主義を生み出す、一人ひとりの人間に着目しました。自分の良心に従って、自分で考え、自分で行動する。これはある面、きわめて孤独だと漱石は指摘します。けれども、このような人間が増えていかなければ、形だけ民主主義のしくみがつくられたとしても、機能しない。私にとって、憲法記念日に「もう一度読みたい漱石の一冊」。それが、学習院における講演録(私の個人主義)です。
漱石が戦争と国家主義に拒否感をもったのは、戦争も国家主義も「自分らしく生きる」「自分の良心に従って、自分で考え、自分で行動する」ことを許さないからです。そして、戦争も国家主義も、一部の人たちが「自分の利益」を追求することから生じることを、漱石は見抜いていたのです。日本国憲法は戦争と国家主義への反省に立って生み出されてきた憲法です。80歳まで生きて、この憲法を読んだ漱石は、きっと喜んだことでしょう。そして、この憲法をどう活かすかは、一人ひとりの「あなた」にかかっているのだと・・・。
『松山 坊っちゃん会』の会報(第32号)が発行されました。トップには、中島多津子さん(東京会員)の力作、――『煤煙』そして『三四郎』『それから』へ――が掲載されています。文章は、――漱石は、「本気で狂気じみた芝居をしてゐる」(日記)と、『煤煙』の人工的恋愛劇に対する違和感、批判意識が強かった。これをモチーフにイメージし、『それから』の代助と三千代の「自然の愛」を書いたのだ。――と、結ばれています。
 新型コロナウイルス感染が収束をみない中、『松山 坊っちゃん会』ではさまざまな工夫をおこないながら、会の活動を継続されています。

『地理屋、漱石を語る』第4回

葬送の道    
 『彼岸過迄』は漱石の末娘雛子の突然の死を受けて書かれたものである。漱石は葬送の道を描くため、松本の家を自宅から近い所に設定した。同時に、電車好きの漱石は一九一一年に延伸した新路線の終点「江戸川橋」まで登場人物を乗せたかったのだろう。この結果、矢来という選択肢が浮かび上がった。これなら、本法寺を念頭に置いた葬儀の設定も不自然ではない。この作品には、漱石の浄土真宗に対する理解の深さがにじみ出ているが、その論述は別の機会に譲りたい。
骨上には御仙と須永と千代子とそれに平生宵子の守をしていた清という下女が附いて都合四人で行った。
今と違って待っている間に焼骨できる状態でないため、改めて落合の火葬場に収骨に向かった。地理屋というのは、すぐどの経路を通ったか気になる。
松本家は矢来にあるが、人力で矢来坂を下りるのはたいへんで、牛込台を西へ進み、馬場下で現在の早稲田通りへ出る。この経路だと緩やかな下りで、人力にもラクであり、漱石山房の前を通るので、ここから現実の雛子の葬送の道をたどることになる。馬場下から穴八幡神社の南を、現在の諏訪通りの経路をたどる。
眼に入るものは青い麦畠と青い大根畠と常盤木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だのを千代子に教えた。
現在の学習院女子大学辺り。明治通りを越えると、右手玄國寺の東隣りに諏訪神社がある。やがて弘法大師千五十年供養塔があり、《一軒の茶見世が橋の袂をさも田舎路らしく見せていた》。この橋が神田川に架かる小滝橋。落合斎場の位置は現在まで変化していない。漱石は火葬場や骨上げの様子を実に詳しく描いている。

都市交通の「明暗」
落合斎場まで人力を使用したことについて、漱石は《柏木の停車場を下りると二丁位な所を、つい気が付かずに宅から車に乗って出たので時間は却って長く掛った》と書いている。矢来から神楽坂を下りて、中央線の牛込駅(現、飯田橋駅西口辺り)まで徒歩で十分ほど。電車で新宿経由、柏木駅(現、東中野駅辺り)で下車。実際には五丁、五百メートルくらいで斎場に着く。
明治になって鉄道敷設が始まったが、その歩みはゆっくりで、乗合馬車や鉄道馬車も限定的で、移動は依然として徒歩が基本だった。そのような中で、駕籠に替わって登場した人力は、東京においても欠かせない移動手段になったが、電車の登場は都市交通を大きく変化させた。作家漱石の時代は、人力と電車が共存・競合する時期である。
遺体を運ぶわけでないから、市蔵たちは電車に乗れば良かったのだが、漱石は途中の田園風景や市蔵と千代子の距離感を描きたかったのだろう。あえて人力を選択させている。
人力と電車の共存・競合の視点から、漱石の作品をみていくと・・・
『虞美人草』では、待ちぼうけを食わされた藤尾を乗せた人力が、韋駄天のごとく新橋駅から馳けて来る。『行人』では、下女のお貞さんが一番きれいな人力に乗せてもらって、婚儀の式場にむかっている。
 御茶の水で電車を降りた三四郎は、東大病院まで人力を利用。『彼岸過迄』でも、恒三が江戸川橋電停から自宅まで人力を使っている。今のタクシー代りである。
『それから』で代助は銀座の帰り、人力より電車を選択。ある時、電車で青山の実家へむかう代助は、綱曳で急がせる父・兄とすれ違った。綱曳は人力の前に綱をつけて、もう一人の車夫が曳くもので、速く、坂道でも威力を発揮した。料金は二人前かかるが、人力の電車への対抗手段であった。しかしながら、代助は電車派だったようだ。
そしてついに『明暗』では、人力の車夫が入院中の由雄の手紙を託されて、電車で飯田町の津田家に向かい、お延に届けている。何やら、電車と人力の「明暗」を分けたような場面である。
交通事情をじゅうぶん把握しながら作品を書く漱石は地理屋にはとても魅力的である。

『地理屋、漱石を語る』第3回

(二)地理屋が読んだ『彼岸過迄』

『彼岸過迄』という作品もさまざまな読み方がある。ここでは地理屋の視点から、「登場人物の配置」・「電車の運行系統を使った話の構成」・「都市交通」という三つの側面から考察してみたい。

登場人物の配置
漱石の作品の中には、登場人物の住所が意図的に配置されているものがある。地理屋はこのような仕掛けにけっこう敏感である。
『琴のそら音』では、小日向に住む主人公の表鬼門(北東方向)にあたる白山に親友津田を、裏鬼門(南東方向)にあたる四谷坂町に露子を住まわせている。風水では、表鬼門が男性、知性を表し、裏鬼門が女性、母や妻を表している。両家とも主人公の家から谷二つ隔てている。
『彼岸過迄』でも須永の家を高台の駿河台から庶民の街、神田小川町に下ろしているが、登場人物の配置においても絶妙である。この作品のカギとなる最重要地点、神田小川町交差点を中心に説明しておきたい。当時、この交差点はT字路になっていた。
(A)Tの横棒と縦棒が交わるところ――神田小川町交差点。この交差点から少し入ったところに、須永市蔵と母が住む。
(B)Tの横棒右――東へ両国方面。途中、須田町から北行、本郷三丁目。田川敬太郎の住む本郷台町は近い。
(C)Tの横棒左――西へ九段・新宿および青山方面。途中、神保町から北行、巣鴨方面。九段下から北行、江戸川橋。ここから矢来の松本恒三宅まで徒歩十分。恒三には妻と三女二男の子どもがあり、末っ子の宵子が亡くなる。
(D)Tの縦棒下――南へ三田方面。途中、内幸町に田口要作宅。要作には妻と千代子・百代子それに男の子がいる。
 AからDまでの四地点を使って人間関係をみていくと、「B―Aが、敬太郎と親友の市蔵」「C―Aが、恒三と彼の実姉市蔵母」「
D―Aが、要作と彼の妻の実姉市蔵母」。つまり、Tの結節点Aに住む須永母子が、登場人物の結節点になっている。
これを面的に見ていくと、A・C・Dは親戚関係で、市蔵にとって、恒三も要作も叔父。市蔵・千代子、宵子は従兄妹。親戚関係の三角形ACDが出来上がる。そしてこの三角形に、Bから「他人」の敬太郎が探偵のごとく入り込んで来る。
その出会いの場がA地点で、B方向から「高等下宿」に住む敬太郎、Cに住む「高等遊民」の恒三、Dに住む「高等淫売」の千代子、この三人の「高等」が神田小川町交差点で絡み合う。「探偵ごっこ」はそのような場に設定されている。

神田小川町の探偵ごっこ
敬太郎が受けた探偵指令は三田方面から電車で来て神田小川町(A)で降りる恒三を尾行するということ。この「探偵ごっこ」の場面は地理屋、そして鉄道ファンにとってきわめて魅力的である。電車の運行系統に熟知した漱石は、それを巧みに使って話を構成した。
仕掛けは簡単で、三田方面から来る電車には神田小川町交差点で右折と左折の二系統あるということ。
当日、敬太郎は本郷三丁目から電車でやって来た。当時、電停は交差点を越えたところに設置されていたので、敬太郎はA交差点を左折して、青年会館(YWCA)前の電停(①)で下車。引返し、A交差点北側の交番のところに立って、全体の位置関係を確認。これ、地理の基本。
三田方面から来た電車はA交差点を右折して停車する(②)。恒三はこの電停で降りるはずで、敬太郎はぶらぶら天下堂の前など過ぎると、道路の向こう側に電停(③)発見!行ってみると、新宿や青山へむかうもので、安心した矢先、南から来て曲がった電車が「巣鴨行」。敬太郎はびっくり!恒三は、この電車で来るかもしれない。
②か③か。その時、江戸川橋行の電車に急いで乗ろうとした男に洋杖を落とされ、それが東を示したので、敬太郎はそれを指標と感じて②へ。
②で誰かを待つ女(千代子)に注目していると、時刻をかなり過ぎて男(恒三)が電車を降りて来て、二人は宝亭。出て来た二人は千代子が乗る三田行が停まる電停①まで来て、なぜか道路横断。その後、恒三は交差点を左折して③から乗車しているので、当時は何らかの電停があったのだろう。
恒三、それに敬太郎も電停③から乗車し、江戸川橋で下車。恒三の人力車(以下、人力)を敬太郎も人力で追うが、矢来下で見失う。尾行失敗!
漱石が「探偵ごっこ」の場に神田小川町交差点を選んだのは、路面電車の系統が多いからである。Tの横棒、東西に走る系統が三つ。Tの縦棒が「三田線」。三田線の電車は左右に分かれる。
電停を②と③どちらにするか、その選択に敬太郎の就職がかかっているが、漱石は「易」の手法を用いて、選択に洋杖を指標として使わせた。
漱石の電車マニアぶりは「巣鴨行」にも表れている。左折する系統は終点が春日町から次第に伸び、『彼岸過迄』連載中の一二年に東京市をはずれて巣鴨駅前、彼岸過ぎの四月三〇日には巣鴨車庫まで伸びており、漱石は「巣鴨行」を見つけた時の感動も書き込みたかったのだろう。
ここでもう一つ面白い仕掛けを指摘しておきたい。「探偵ごっこ」の時、恒三と千代子は相手の家から自宅へ帰る途中に神田小川町で降り、食事をしている。漱石は、内幸町と江戸川橋は電車の直通系統がないため、神田小川町(または駿河台下)で乗り換えなければならないことを利用して、二人の出会いの場を設定したのである。
『地理屋、漱石を語る』第2回

清の墓
清の墓はどこにあるか。小日向の養源寺!設定は夏目家菩提寺の本法寺。漱石に名前を拝借された養源寺は、千駄木林町にある。漱石忌などに来ていただいている、子規堂のある正宗寺と同じ臨済宗妙心寺派の寺。
養源寺は、漱石が文学の道を歩むきっかけをつくった金沢出身の親友米山保三郎の葬儀がおこなわれた寺で、保三郎の祖母が米山きよだったところから、「坊ちゃんに登場する、きよの墓」という標識も立っている。
『坊っちゃん』の清は有名であるが、実は『吾輩は猫である』から清(キヨ)が下女の名として度々登場する。『琴のそら音』の宇野家、『虞美人草』の宗近家、『門』の宗助の家、『彼岸過迄』の松本家、下女はすべて清である。
私は漱石が妻、鏡子(本名「キヨ」)から取ったというのは妥当だと思うが、《よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱う積でいらっしゃるんだから。》という『道草』の一文が何かを物語っているように思う。
けれども、『明暗』に至って初めて、清は清子として、恋人の名前に使用される。《「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた》。絶筆である。最後に鏡子を恋人として作品に描き込み、鏡子に会いながら漱石は逝ってしまった。
松山には「松山坊っちゃん会」という歴史ある漱石研究会がある。漱石は四国辺にある都市のことを必ずしも良く書いていないのだが、松山の人びとは坊っちゃんと漱石をこよなく愛している。その懐の深さというか、包容力というか、素晴らしいと思うが、何と言っても、松山の人びとはこよなく故郷を愛している、そのように私には思われる。私も松山は住んでみたい街であり、故郷にもってみたかった街のひとつである。
私は昨年、『地理屋、漱石を語る』と題して、「松山坊っちゃん会」の会報に寄稿する機会があった。今回、会の方の了解を得て、4回連載で『地理屋、漱石を語る』を掲載していく。

『地理屋、漱石を語る』第1回

はじめに
伝統ある松山坊っちゃん会の皆様に会うことを楽しみに準備していたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、例会は中止されてしまった。このたび、会報に寄稿する機会を得たので、予定稿の中から坊っちゃんの東京に関する部分、それに『彼岸過迄』に関することを加えて、『地理屋、漱石を語る』と改題してまとめてみた。
 私は子どもの頃から地理が好きで、東京が好きで、書くことが好きだった。地理で生計を立てたことは確かだが、東京に住むことなく、小説家にもなれなかった。老後というものを考える年齢になり、自分が好きな「地理・東京・小説」を合わせて、何かできないか考え、小説の舞台になった東京の街を、訪ね歩くことにした。有名というだけで、漱石の作品を選んだが、これがけっこう面白い。東京のこともいっぱい出てくる。すっかりはまってしまい、作品の舞台となった東京の街を、レンタサイクルを借りて走り回り。もとより、読むより書く方が好きなので、まとめた本が『漱石と歩く東京』。読んだ方から、「ブラタモリみたい」と言われ嬉しい。

(一)東京の坊っちゃん

坊っちゃんのふるさと
もちろん東京である。東京のどこかと言うと、《神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて》《神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町並はあれより落ちる》などから、神楽坂からそれほど遠くない。さらに始まりの方に、《庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりに聊か(いささか)ばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている》から八百字ほど、ふるさとの描写がある。質屋、肴屋、大工とともに、菜園、人参畠、田圃が出てくる。東京と言っても、街はずれ、農村風景が入り交じって来る地域。ここから、坊っちゃんのふるさとは、漱石が生まれた喜久井町附近と推察できる。
夏目坂を下りた馬場下は江戸城下(朱引内)のはずれ、漱石時代でいえば、東京市のはずれ、すぐむこうは東京市外。一面の早稲田田圃が広がっていた。馬場下には漱石が子どもの頃、酒屋・棒屋(木工業者)・やっちゃ場(青物市場)などもあり、『硝子戸の中』に詳しく描かれている。
漱石は東京市もはずれで生まれた後ろめたさから、逆に東京に対するこだわりをいっそう強め、東京指向がきわめて強い人になったのではないかと、私は推察している。

東京へ帰った坊っちゃん
ご承知のように、街鉄、つまり「東京市街鉄道会社」に就職、技手になった。
東京に路面電車が走り始めたのは、漱石がイギリス留学から帰国した一九〇三年。八月に東京電車鉄道会社が「新橋・品川八ツ山」間に営業運転したのを皮切りに、街鉄・東京電気鉄道会社が相次いで営業を開始。坊っちゃんが街鉄に就職したと思われる一九〇五年末には三社合計六三キロ。『坊っちゃん』が書かれた一九〇六年に三社が合併して東京鉄道会社が誕生。坊っちゃんは東京鉄道会社の職員になった。
漱石は、現代を生きる「行動派作家」。新しいものが好きで、あちらこちら動き回る。そんな漱石にとって、路面電車は行動範囲を広げてくれる「文明の利器」であり、良くも悪くも、発展する東京の象徴であり、日本資本主義発展の象徴だったのだろう。漱石の作品で路面電車に関する記述が出てくるものは、『吾輩は猫である』から『明暗』まで、小説十二編、随筆二編。そのほんの一部を紹介すると……
第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。
三四郎は初めて東京へ出て来て電車に驚き、大学の講義を聴くより電車に乗れと与次郎から言われ、電車を乗り回し、『こころ』の私は田舎へ帰って、《あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚々々にまくって行く方が、気に張があって心持よく勉強が出来た》と、電車の音がしないことに、かえって不安を感じている。
『虞美人草』では座布団を買いにでかけた井上孤堂が、《これを買う為めに電車に乗り損なってしまって》と愚痴をこぼす。娘に乗換えしなかったのか聞かれ、《乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々しいから帰りには歩いて来た》と答えている。
『それから』の代助は、電車で銀座まで来て、新橋の勧工場(現在の博品館)から資生堂などをまわって、《これも簡便な旅行と云えるかも知れないと考え》、『門』の宗助も、毎日通勤に賑やかな街を通っているのに、心身に余裕がないため東京で生きている実感がなく、そのことに物淋しさを感じると街へ出る。ある好天の日曜日も、《宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道伴程殺風景なものはない》と、平常より乗客が少なく乗り心地の良さを実感している。
『彼岸過迄』には、神田小川町交差点に立つ敬太郎の描写で、《もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴の如く振り分ける分別盛りの中年者であった》。
『野分』には、高柳周作が電車の中に「地理教授法」を訳した原稿の草稿を忘れ、遺失物を探しに電車車庫まで行っている。現在の浜松町駅すぐそばで、市電・都電・都バスの車庫として引き継がれた。『野分』には、一九〇六年夏の「電車料金値上反対運動(電車事件)」も登場し、事件を扇動した嫌疑で捕まった人の家族を救うため演説会を開くという道也先生に、妻が社会主義と間違えられると困ると言うと、《「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」》と答えている。
漱石が作家として活躍した時代、東京は路面電車拡張の時期。『明暗』には江戸川橋から早稲田へ路線延伸する工事の様子が、《すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた》と描かれている。
『それから』では、代助が青山の実家から神楽坂へ帰る時、歩く距離が遠くなるのに、「わざ」と新しく出来た路線、青山一丁目・塩町間に乗車している。『それから』の連載は、一九〇九年六月から十月。したがって開通はその年の五月から六月頃。漱石はこの新路線にさっそく主人公を乗せてみたかったのだろう。一九一〇年頃と言われてきた開通年が、漱石の作品から、逆に、はっきりとしてくる。
確定申告の時期。毎年やっているのに、書き方がわからなくて、とまどってしまう。とくに今年は様式が少し変わったようで、昨年のものを参考に書こうとしたら、違うではないか。はたと立ち止まってしまう。ところで、今年一番変わったと言えば、性別記入欄がなくなったこと。すぐ漱石を持ち出してしまうが、漱石なら今回の変更、おおいに歓迎するのではないだろうか。
「惣之助の詩」を食べた。饅頭ということになっていたが、全体にミルクの味が行きわたり、しっとりもちもち。しあわせな気分になる。洋風和菓子とでも言ったら良いのだろうか。つくっているのは末広庵。もとはパン屋さんだったとか。川崎駅に近く、川崎大師から少し離れているが、お大師様とのつながりを大切にしているようだ。
ところで「惣之助」って誰?江戸時代の義民か何かの名前かと思ったら、詩人で作詞家の佐藤惣之助。惣之助は末広庵本店がある東田町に隣接する砂子で生まれた。犀星と朔太郎と親しく交わり、妻に先立たれた後、朔太郎の妹、アイドル系の美人愛子と結婚した。1942年に朔太郎が亡くなると、義弟として葬儀すべてを取り仕切ったが、朔太郎が逝って4日後に急逝した。もともと詩人の三好達治も愛子を好きだったが、萩原家の反対で断念せざるを得なかった過去もあって、夫が先立ったのをこれ幸いと、達治は愛子を口説き、自分の妻(佐藤春夫の姪)を離縁して、強引に結婚。二人は若き日に犀星がしばらく暮らした福井県三国町に移り住んだが、10か月で離婚した。
話しを惣之助に戻すと、惣之助は「赤城の子守唄」「人生劇場」「人生の並木路」「湖畔の宿」など、昭和の流行歌、名曲の数々を世に送り出したことで知られている。「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も惣之助が作詞した。「惣之助の詩」の饅頭の表面には、名曲の数々に因んで、音符が浮かび上がっている。
来館者数がついに6万人を突破しました。ほんとうにありがとうございました。
今日の、館長のつぶやきは……
「松本モデル」。新型コロナウイルス感染症の広がりの中で、地域の病院で役割分担をして、新型コロナの患者に対応しながら、一般診療もきちんと維持していく。松本市を中心とした医療圏域で、全国に先駆けて、そのような医療体制を構築し、「松本モデル」とよばれる。あるニュース番組で、この「松本モデル」を取材・放映していた。きっと、相澤病院がリーダー的役割を果たしているのだろうと思っていると、やはり、理事長の相澤孝夫さんが登場し、「松本モデル」について話され、「やろうと思えば、どこでもできる」と言った意味のことを加えられた。
なぜ、このようなことを漱石に絡めて書くのか。もう、おわかりの方もいると思うが、『神様のカルテ』の舞台となっている本庄病院は、相澤病院がモデル。『神様のカルテ』の作者は、医師で作家の夏川草介さん。夏は夏目漱石、川は川端康成、介は芥川龍之介からとったという。では、草はどうかというと、漱石の『草枕』から拝借。大の漱石ファンの夏川さんは『草枕』を全文暗記しているとも言われている。相澤病院は365日、24時間対応の救急医療をおこなう。その厳しい環境の中で医師として働きながら、夏川さんは作家活動も続けてきた。
『神様のカルテ』は2011年と2014年、映画化された。夏川草介さんに相当する栗原一止役に櫻井翔。妻に宮﨑あおい。あおいちゃんファンの私としては、必見の映画。相澤病院もロケに使われている。もちろん、『神様のカルテ』は小説であり、相澤病院そのものではない。仮構もある。脚色もある。それをすべて飲み込んだ上で、相澤病院の協力なしに映画化は実現しなかったであろう。
2月15日から、テレビ東京系列で、『神様のカルテ』がテレビドラマとして、放映される。栗原一止役は福士蒼汰。新型コロナウイルス感染拡大の中、医療現場の現状が、いっそう身近に感じられるのではないがろうか。
なお、相澤病院はスピードスケートの小平奈緒さんのスポンサー企業・サポート企業としても知られている。
1月12日、半藤一利さんが亡くなった。妻末利子さんについて、触れてある記事もあれば、触れていない記事もある。けれども、1993年に『漱石先生ぞな、もし』を出版した半藤さんについては、漱石との関係で、やはり何か書いておかなければならないだろう。
半藤さんは、1930年生まれだから、90歳だった。1930年生まれと聞いて、私がふと思い出したのは佐多(窪川)稲子の息子。『仮装人物』について書いている時、山田順子のところへ清書などで訪れていた稲子が、1930年に長男を出産したことに触れたからである。稲子の長男、つまり窪川鶴次郎の長男は窪川健造。2月10日生まれ。東京大学を出て、映画監督になった。半藤さんは5月21日生まれだから、学年としては1級下。やはり東京大学を出て、出版社に勤め、やがて文筆家になっていった。
半藤さんは戦時中、長岡に疎開していた。一方、妻の末利子さんは、漱石の長女筆子と松岡譲の四女。やはり長岡に疎開していた。長岡は父松岡譲の出身地である。当時は15歳と10歳だから、お互い知る由もなかっただろうが、やがて、長岡つながりの二人が結婚する。
東京大空襲で、逃げ惑う半藤少年は中川で漂流し、死にかけた。このような体験もあって、半藤さんは一貫して、戦争と、戦争につながる動きに反対し、警鐘を鳴らし続けてきた。漱石の孫の夫にあたる半藤一利さん。漱石の思いをもっともよく受け継いでいるように、私には思われる。
2021年は、「あけましておめでとうございます。」と言うのが、躊躇されるような中で出発した。そして、あっという間に10日以上、過ぎてしまった。
1913年の1月。犀星は京都にあった。友人の下宿に泊まって、金沢で世話になった藤井紫影に会い、おかげで上田敏にも会うことができた。藤井も上田も京都帝国大学の教授であった。鏡花や秋聲と違って、漱石と接点のない犀星だが、漱石がもう少し生きていてくれたら、芥川の紹介で、犀星は漱石に会うことができたであろう。学校というものにはあまり縁のない犀星だが、能力的には帝国大学の先生が捨て置かないものをもっていた。京都の一か月もそれを示していると言える。
漱石の『永日小品』は1909年1月14日から2月14まで、朝日新聞に連載された。その前年の1月。受験に失敗した小畠悌一は引き続き東京に留まっていた。1915年1月12日、秋聲の『あらくれ』が読売新聞に連載されるようになった。長編で、連載は7月24日まで続いた。
無理やり、「文章を書いた」感が伝わってくる文章になってしまったが、今年も「勝手に漱石文学館」そして「館長のつぶやき」をよろしく。
あけましておめでとうございます。
本年も、「勝手に漱石文学館」をよろしくお願いいたします。
どなたが、6万人目の来館者になられるのか。今月中には、6万人目の方をお迎えできると思います。それはひとつの区切りであって、来館される一人ひとりの方に、お礼申し上げます。
新型コロナウイルス感染拡大に伴って、今年のクリスマスは大きく様変わりしたようだ。教会のクリスマス礼拝で讃美歌合唱をやめたところや、リモートにしたところもあるようだ。子どもたちにとっては気がかりなサンタクロースも、一足早く予防接種を受けたり、すでに免疫力をもっていたり、国際的な移動許可証が発行されたり、子どもたちとソーシャルディスタンスを取りながら、何とかプレゼントを届けたようだ。
ところで、秋聲の『仮装人物』のおかげで、私はクリスマスと言うと、サンタクロースだけでなく、サンタのひげが燃える場面が、思い浮かぶようになってしまった。『仮装人物』の冒頭である。ダンスパーティーで無理やりサンタの仮面を被せられた庸三。煙草を吸おうとして、マッチの火がひげに燃え移ってしまう。こんなことを言っては、秋聲に失礼かもしれないが、あまりにバカバカしいので、強く印象に残った。そう言えば、クリスマスを目の前にした、1938年12月21日、『仮装人物』が出版された。『仮装人物』は第一回菊池寛賞を受賞した。
新型コロナウイルス感染拡大に明け暮れた2020年。気がつけば12月で、漱石忌も迫ってきました。11月21日、『明暗』188回を書き終え、辰野隆の結婚式に出席。翌日から執筆できないくらい病状が悪化し、主治医の真鍋嘉一郎が連日、自宅へ往診。12月2日に小康を得たものの、再び悪化。12月5日というのは、意識混濁。どんどん衰弱して、死にむかっていく時期でした。そして、12月9日。漱石は40歳代というのは、すでに老人と捉えていたようですが、今では、まだ若者の部類。49歳というのは、あまりにも若い死でした。それでも、多くを成し遂げ、死後104年経った今日でも、漱石はけっして色あせていないのですから、すごいとしか言いようがありません。
何か書くことはないかと、話しの種を探すには、「今日は何の日」関連でみつけるのが、ひとつの方法。1928年、馬込谷中へ引っ越して間もなくの11月26日、犀星はダンスの洗礼を受ける。朔太郎の家に行くと、妻の稲子は社交ダンスにはまって、すっかり燃え上がっている。犀星はとうとう、――夕飯に萩原を招ぶ、後に萩原の家に行き奥さんからダンスを習ふ、生まれて初めてなり、ダンスをするごとに二階すこしく動く、辞退してもダンスをせねばならず、奥さんに乞ひてビールを飲み、元気をつける・・・(日記)――という状態に。これが秋聲なら、この時から社交ダンスにのめり込んだであろうが、犀星にはどうも合わなかったようで、これっきりになってしまったようだ。犀星と稲子が踊る姿を見たかった気もするが、鏡花がこの場にいたら、はたしてどうしただろうか。そんなことも想像してみた。
秋聲の命日が近づいてきました。
1943年11月18日、徳田秋聲は本郷森川町の自宅で亡くなりました。本土が空襲を受けるようになるまで、それほど長い時間がかからない時期。悲惨な戦争を避けるかのような死でした。
秋聲は「自然主義文学」と言われますが、生き方そのものが、自然、まさに「流るるまま」。ある面、自然の成り行き任せ。シームレスで境目がはっきりしない。それが秋聲という人物の魅力でもあったでしょう。秋聲は生と死においても、その境目は明確ではなく、「この世」と「あの世」との境目も自然に越えて、逝ってしまったのではないか、何かそんな風に感じられます。
開館3年。来館者が55000人を超えました。ほんとうにありがとうございました。

名月が鏡花を語る逗子の夜
鏡花が癒され、あらたな活力を得た逗子とはどんなところだろうかと、訪ねてみました。
レンタサイクルを借りて、最初にむかったのが桜山の観蔵院。斜面の途中に本堂があり、さらに上の方にむかって墓地。一番高いところまで登って、桜山地域全体を俯瞰。このどこかにかつて、しばらくの間ですが、鏡花一家が住み、従姉妹たちがやって来たり、どこかの令嬢が来たり、すずが来たり、それをかぎつけた紅葉が怒鳴り込んできたことでしょう。歩くには少し距離があるので、紅葉は人力車で来たのではないかと推察します。
その後、宗泰寺。この寺も山際にあり、墓地が斜面の上にのびています。ここでも上まで登って、田越地域一帯を俯瞰。市役所も正面によく見えます。それから田越橋へ。橋を渡って右側が現在の逗子5丁目で、橋から近い所に神楽坂を後にした鏡花とすずが4年ほど過ごした家があったはず。ところが「旧居跡」といった表示はまったくなく、どこだかわからない。さっそく聞き込み開始。インターホンを押すと、丁寧に出て来てくれる家ばかりだったけれど、誰も知らない。そもそも泉鏡花を知らない。百年以上前のことだから当然だが、逗子ではもう鏡花は語り継がれていないのだろうか。蘆花のことはよく話してくれるのだけれど。Tさんのお宅では90歳というおじいさんが、幼い頃の天皇行幸(葉山に御用邸ができ、そこへむかう途中、逗子を通られた)、戦後の他越川氾濫で床上浸水した話、ここが間違いなく旧地名が「亀井」であることなど、親切に話してくれて、それはそれでとても興味深く聞くことができたけれど、肝心の鏡花については不明。ただ、この辺りが亀井900番地台であることはわかって、この近くであることは確認できた。とにかくこういう出会いは嬉しい。
つぎは大崎公園にある「うさぎ」の像。海岸に突き出したちょっとした岬、程度に思ってやって来たが、どうやら海岸を通る道路からは行くことができないようで、ぐるりとまわってみたものの、登り口がわからない。近そうな道を選んだら、急な登りで住宅地に達し、そこを下りたところで訊くと、あそこの山(披露山、ひろやま)を登った先だと言う。また急坂を登り、披露山公園の高級住宅街(披露山庭園住宅)を抜け、また急坂を登って、やっとうさぎに面会。大崎公園からは江の島なども間近かに見え、それにしても心臓の高まりは治まらず、それでも電動アシスト付き自転車で良かったと・・・。 
横須賀線を越えて、岩殿寺は何とか迷わず行けたものの、地図では鏡花の句碑が本堂に奥に記入されていたため、奥ノ院まで行ってしまいました。足を踏み外したら、命がないと思われる急で長い石段を上ると、奥ノ院に「鏡花の池」。いくつかの作品に出て来るものでしょうか。とにかく、鏡花の作品よりも怖い石段を、今度は下りて、本堂にお参りして、住職に訊ねると、句碑は山門を入る左側にあるとの答え。何とか写真におさめることができました。
最後は、鏡花の姪(斜汀の娘、すずの養女)名月が住んだ山の根2丁目の家跡。町内へ入ったところで、通行中の女性に訊ねると、そもそも泉鏡花を知らない。それでも、ふと思い出したか、「そう言えば、そこを曲がったところに、何だか碑のようなものがあった気がする」と、後ろから声をかけてくれました。曲がって少し行くと、右手に「ディアコート名月」というアパートの表示が見えて来て、「おっ、ここに間違いない」。「室生マンション」もそうだけど、こうした名称はありがたい。アパート(2階建て、4軒分)の前が駐車場。そのむかって右側に鏡花の句碑と、鏡花・名月たちの関係、この地との関係などを書いた説明板。アパートのむこうに横須賀線が見える。意外に早く見つかって、ホッとしたら力が湧いてきて、葉山の街まで自転車を走らせ、砂浜から江の島を眺めて、しばし、「葉山」を感じて来ました。
それにしても、逗子の街。もし津波が襲ったらどうなるのだろうか。3.11東日本大震災時のような津波が襲ったら。低平な土地が奥まで続き、しかもしだいに狭くなっている構造。おそらく壊滅的な打撃を受けることでしょう。田越川の水害も心配です。急傾斜地の宅地も土砂災害が心配。『地理屋』というのは、最後はこのようなところに関心が行ってしまいます。津波を避ける意味もあって、逗子では山の上に新興住宅地が広がっています。もともとの平坦地が隆起したのでしょう。山頂部にあたる部分が広く、起伏が少なくなっています。それでも、標高20mくらいの洪積台地と違って、50m以上あるので、登るのがたいへん。自家用車は必需品と感じました。高級住宅街の披露山庭園住宅街に住む人と思われる人が、バスを降りて、長い坂を登ってくる姿を見かけました。
地図を片手に、迷いながら、訊ねながら、探し歩く旅は楽しいものですが、「鏡花旧宅跡」「鏡花句碑、この先」など、ありそうな表示がまったくなく、かなり年配の人でも鏡花を知らず、「まあ、住んだ年月も長くないから、やむを得ないかな」と思いつつ、逗子を後にしました。
このたび発行された「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会報31号に、私が寄稿した文章『地理屋、漱石を語る』が掲載されました。内容は大きく二つ。第一は、松山における坊っちゃん、そして漱石については、じゅうぶんご承知の方ばかりなので、東京の坊っちゃん。第二は、会の皆さまが読み込んでこられた『彼岸過迄』を地理屋視点で。会報には、『道草』浅草諏訪町の家の間取図発見のことなど、興味深い内容が並んでいます。
いよいよ10月。気がつけば秋。長い間、自分が住んでいる市域から出ることもなく、ほとんど季節を感じることもなく過ぎて来た。今年は、「新型コロナ」という季節しかなかった。何か、そんな気がしてならない。
この「勝手に漱石文学館」も、2017年10月に開館して、丸三年になろうとしている。「心配しても仕方がない」と、気合だけで始めたこの文学館。延べ5万5000人ほどの方に来館いただき、感謝でいっぱい。ほんとうにうれしい。
「勝手に漱石文学館」の文章を書くにあたって、漱石はもちろん、鏡花・秋聲・犀星の同じ作品を何度も読み返すことがあります。そして、そのたびに新しい発見があります。田端の犀星について書くため、近藤富枝さんが書かれた『田端文士村』を読んでいて、スペイン風邪について記された一文を見つけてびっくり。新型コロナウイルス感染症拡大の中で、私も100年前に大流行したスペイン風邪(新型インフルエンザ)に関心をもったために、「スペイン風邪」の文字を見つけて、急に立ち止まってしまいました。今まで、完全に読み過ごしていたのです。
『田端文士村』によると、スペイン風邪は田端でも猛威を振るい、彫刻家の池田勇八の夫人が29歳で死去。金沢出身で芥川龍之介の恩師広瀬雄の長女も5歳で亡くなった。このようなことがあったため、1921年の春、病気知らずの犀星が流行性感冒(インフルエンザ)に罹った時、近くの宮内病院に入院したというのです。この病院は外科専門だったが、出産を一カ月後に控えた妻とみ子に感染させないための、自主隔離でした。無事、とみ子は男児を出産しましたが、豹太郎と名付けられた男の子は、犀星が気遣ったにもかかわらず、翌年の6月、亡くなってしまいました。
以前にも書きましたが、芥川龍之介も1918年10月末頃、スペイン風邪を発症し、翌年2月にも再び発症しています。3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなっています。
島崎藤村が1943年1月19日に菊池寛に宛てた手紙が発見されたと報じられました。これは、藤村と秋聲の二人に贈られることになった「野間文芸賞」(1942年)の賞金を、折半せず、秋聲に与えてはどうかと、菊池に意向を伝えたもの。
1942年の「野間文芸賞」は該当者がなく、選考委員の菊池らが、文壇に長年貢献した藤村と秋聲に賞金を贈ることを提案。藤村は手紙の中で、秋聲が健康状態も優れず、経済的にも困窮していることを気遣って、秋聲ひとりに与えるよう提案しています。賞金は1万円を折半するので、それぞれが5000円。当時の平均年収のおよそ7倍で、藤村だってきっと欲しかったはずだし、もらっても自分のためでなく利用することはできたはずです。なぜ秋聲ひとりに贈るよう提案したのか、真意はわかりません。
結局、賞金はふたりに与えられましたが、藤村は授賞式に出席せず、夫人が代理出席しています。こうして、5000円ずつもらった藤村と秋聲ですが、8月に藤村、11月には秋聲が相次いで亡くなってしまいました。
東京へ行くことができない日々が続き、てくてく牛込神楽坂を巡っておりましたら、私の名前をみつけました。
――漱石と市谷の小学校――夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。――ということで、『漱石と歩く東京』の14ページに掲載されている「◎旧市ヶ谷学校」の一文が紹介されていました。市谷柳町16番地にあったということは間違っていなかったようで、明治28年(1895年)の地図まで載せられていました。貴重な資料です。私の手元にあるのは明治40年(1907年)のもので、この間に市谷柳町の道路が変化していました。
「市ヶ谷小学校」は、当時は「市ヶ谷学校」が正しいと指摘を受けました。その通りです。明治の初め頃は、学校の名称、制度もしばしば変更され、どの時点のことを書くかによって、違ってくることもあります。漱石が通った頃は、「市ヶ谷学校」の後に「下等小学」がついたようで、「市ヶ谷小学校」という名称は使われていませんでした。
このような指摘は、とても嬉しく、ありがたいです。

【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅9⦆

補遺
 逢見憲一は、『公衆衛生からみたインフルエンザ対策と社会防衛――19世紀末から21世紀初頭にかけてのわが国の経験より――』※で、スペインかぜ流行への対策として、
 内務省衛生局編「流行性感冒」は、予防手段として「ワクチン」、「マスク」および「含嗽」を挙げている。記述の大半は「ワクチン」に充てられており、「含嗽」は数行しか記載されていないが、「マスク」についてはやや詳しく、マスクのあて方や材料、また飛沫の距離などについても述べられている。(略)同書に掲載されている当時の啓発ポスターでは、「マスク」、「うがい」そして病人を別室に移す“隔離”を勧奨している。福見らによれば、マスクの着用を国民的な風習にまで根強くしみこませたのは、この“スペインかぜ”であった。
 と記し、“スペインかぜ”予防策の大要(10か条)を掲げている。それによると、この予防心得を有効なあらゆる方法で普及することとして、マスクの着用、含嗽・予防接種の奨励、流行地においては多数の集合を避ける、頭痛・発熱時などの受診奨励、全治までの外出自粛、などとともに、「療養の途なき者への救療」、「予防・治療の効果をあげるための伝染病院や隔離病舎の利用」。そして、
 前各項を実行するにあたつては、地方団体、衛生団体、救療団体、学校、会社、工場その他公私団体ならびに篤志家等の活動を促すこと
 と結ばれている。
※国立保健医療科学院、2009

主要参考文献
池田一夫他:日本におけるスペインかぜの精密分析 
      (東京都健康安全研究センター年報56、2005)
河原敏男・玉田敦子:ナノカーボン超高感度センサーによる感染症との闘い
    (ARENA2014vol.17、特集論考>>>工学研究のフロンティア)
小泉博明:斎藤茂吉の病気観
    (文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第8号、2008) 
朝日新聞記事については、「朝日新聞創刊130周年記念事業 明治・大正データベース」(インターネット上公開)から引用した。
2020年5月5日 完  

「おはよう日本」における放送内容はNHKのウエブでみることができます。
「富田良NHK」で検索。「サイカルジャーナル」をクリック。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅8⦆

なぜスペイン風邪は忘れ去られたのか
 短期間に大震災や大空襲・原爆投下を上回る死者を出しながら、スペイン風邪は歴史的に忘れ去られている。高校日本史の教科書として広範に使用されている山川出版社版を見ても、本文にも脚注にも年表にも、「スペイン風邪」はまったく見当たらない。教科書から無視されただけではない。文学の中にもほとんど登場しない。
コレラが怖くて、家に引きこもったり、食材は煮沸して食べた泉鏡花も、スペイン風邪から逃げ回った形跡はない。1916年に疫痢で長女を失った徳田秋聲も、スペイン風邪について特に触れていない。
もちろん、芥川龍之介と同じように、スペイン風邪に罹ったことを書簡などに残した文学者がいないわけではない。歌人で精神科医の斎藤茂吉もその一人である。茂吉は1920年1月、長崎で罹患し、生死をさまよい、同僚医師が亡くなっている。茂吉はスペイン風邪からは生還したが、結局、結核を発症し療養を余儀なくされた。武者小路実篤はスペイン風邪から20年を経過した1939年に書いた『愛と死』で、主人公の惚れた女性をスペイン風邪によって奪っている。
ただ、丹念に読んで行けば、スペイン風邪大流行時の影を見出す作品もいくつかある。室生犀星の『或る少女の死まで』もその一つではないかと、私は思う。1919年、小説家に転身した犀星は、『幼年時代』『性に眼覚める頃』に続いて、11月、『或る少女の死まで』を発表した。幼年期、少年期に続いて、上京間もない青年期を描いた作品に、なぜ少女の死をテーマに選んだのか。スペイン風邪の第一次大流行を越え、犀星は死を身近に感じたのではないだろうか。2月には結婚に際し労を惜しまなかった義母(実父の妻)小畠珠が49歳で亡くなっており、時期的にスペイン風邪による死を否定できない。少女ふじ子のモデルがいたかどうかわからないが、『或る少女の死まで』で元気なふじ子は、鹿児島に行ってから、12月に腸に病を得て急死している。腸チフスを想定したかもしれないが、設定時期1911年頃を、1918年12月に振り替えていくならば、スペイン風邪を念頭に置いたという推論も成り立つ。激しい嘔吐・下痢もスペイン風邪の症状としてみられたし、鹿児島における死者も多かった。
 アメリカの歴史教科書にも、スペイン風邪はほとんど記載されていないと言う。この要因をボストン生まれ(1931年)の学者アルフレッド.W.クロスビーは、四つにまとめている。①アメリカ軍兵士の死は戦争の一部に組み込まれてしまった(戦死扱いになった)。②罹患率が高かった割に、致死率がジフテリア・コレラ・発疹チフス・黄熱病などに比べて相対的に低かった。③短期間で収束した。梅毒・疱瘡・ポリオのように目に見える後遺症を残さなかった。④アメリカにおいて、大スターが死亡しなかった。
 私は源作の日記を読みながら、つぎのように考えた。
 当時は多産多死の時代がまだ続いており、人が生まれ、人が亡くなっていくということが、日常生活の当たり前の出来事だった。さまざまな感染症が繰り返し襲って来ており、乳幼児の死亡も多く、スペイン風邪だけが、特別な存在として、意識されることは、ほとんどなかったのであろう。源作は新聞を読み、世の中の動きを把握していたとしても、多くの人は、全国で多くの人が亡くなっていることすら把握していなかったであろう。日常生活が続く中で、一時の困難や悲しみを過ぎて、スペイン風邪の記憶は、人びとの中から急速に薄れていったのではないだろうか。
 静岡市内で五代続く医院である望月小児科医院を営む小林由美子院長は、ホームページ上に公開している「おたより」(2017年1月18日改訂)で、「新型(鳥)インフルエンザはなぜ怖い」と題して、つぎのように記している。
 望月家の先祖に、若くして亡くなった人がいます。お墓参りにいくたび、スペイン風邪で亡くなったときかされました。享年17歳の美代さん、15歳のいねさん、小さい頃は、わけもわからず手を合わせましたが、親となった今では若くして亡くなったことに胸が痛みます。
史上最悪のインフルエンザであるスペイン風邪が忘れ去られていくことを憂慮する速水融は、「スペイン・インフルエンザが忘れられたのは、基本的に、われわれがあまりに歴史を、制度やモノ、モノと人の関係の歴史として捉え、そこに存在する人びと自身の生や死を軽視したからではないだろうか」と記している。
 源作の日記に、共にこの世に存在した人びとの、生と死が刻み込まれている。スペイン風邪大流行期の日記は、新型コロナウイルス感染症に向き合う私たちに、貴重なメッセージを送ってくれるのではないだろうか。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅7⦆

日常生活の中で過ぎていったスペイン風邪の流行
新型コロナウイルス感染が日本国内に拡大しようとする頃、専門家から「何もしなかったら、80万人から100万人が死亡する。」という警鐘が鳴らされた。あまりに異次元の数字に、恐怖というより、どこかの昔話のように受け流してしまった人が多いかもしれない。けれども、100年前のスペイン風邪大流行で亡くなった人は、現在の人口の半分くらいの日本国内だけで38万人から45万人。実際にはもっと多いかもしれない。現在の人口に換算すれば、76万人から90万人になり、一致してくる。つまり、スペイン風邪の大流行に対して、結果的に何もなされなかったことが示されている。
それでは、当時、何がなされなかったのか。
第一。移動や集会がまったく制限されず、日常生活が継続されたことである。
源作も大流行が始まった1918年秋、半月以上、流行地を旅しているし、日記には支障があったとは何も書かれていない。流行地のアメリカからも野球チームが来日している。1919年に入って、源作の日記には、じつに多くの人の病気と、多くの人の死亡が記されているが、源作は病気の時を除けば、精力的に社用に打ち込み、県内、県外飛び回り、見舞いや葬儀に顔を出し、会合にも参加。各地で講話もおこなっている。駅への見送りや出迎えも多い。盲唖学校の件でも奔走している。食パンも焼いている。11月8日には、盲唖学校のための音楽会が精華女学校の講堂で開かれ、700人が参加。17日には吉野作造講演会が600人ほど参加して行われた。12月13日には結核協会主催の遠山椿吉博士講演会、14日には英和女学校日曜学校クリスマス会に参加。要は源作の日常が「スペイン風邪」大流行の真っただ中において、ほとんど途切れることなく続けられていたのである。妻トキも、12月4日、内村鑑三に会い、おおいに慰められ、5日には横浜から「アスカエル」と電報を打ち、母の帰りを待ちわびる末っ子せいを失望させたが、鑑三からもらったメキシコ産の生チョコレートを持ち帰った。
時の総理大臣まで感染しているのに、熱海には客が殺到している。工場閉鎖や交通通信の乱れは、従事者が罹患したためで、就業を規制されたためではない。銭湯、寄席、映画館、理髪店に客が来なくなったのも、政府に休業を要請されたためではない。
当時は、大日本帝国憲法下で、人権付与は限定的であったから、きわめて強い権限をもって、人びとの移動や集まりを制限できたはずである。日本でも明治以降、感染症に対する医学的研究は進んでいたから、人びとが移動したり、集まったりすることでインフルエンザの感染が拡大することはわかっていた。それでも強権を発動しなかったのは、移動や集まりを停めてしまうと、生活そのものが成り立たなくなってしまい、場合によっては、米騒動を上回るような出来事が、全国各地で発生するという判断があったのかもしれないが、時の政府に、感染症に対する危機意識そのものが乏しかったとも考えられる。
結局、日常生活をほとんど停めることなく、国民の1%ほどの犠牲と引き換えに、人びとは生き、国民の半数以上が新型インフルエンザ(スペイン風邪)の抗体を手に入れ、感染の嵐は収束していった。
第二。身近な感染対策。
もちろん、行政の側が何もしなかったわけではない。
1919年2月5日の「朝日新聞」には、「(1)多くの人が集まる場所に行かない(2)外出する時はマスクをする(3)うがい薬でうがいをする(4)マスクをしない人が電車内などの人込みでせきをする時は布や紙で口と鼻をおおう(5)せきをしている人には近寄らない(6)頭痛、発熱、せきなどの症状があるときはすぐに医者に」という記事が載っている。このまま100年後の今日、使うことができる事項であるから、100年の間、何も進歩しなかったと言うことができるが、当時すでにインフルエンザ感染症対策が、しっかり把握されていた証明にもなる。しかも、当時、衛生行政を担当していたのは警察であり、上記記事も「感冒の注意書き昨日警視庁から発表」というものである。しかし、この注意書きに違反する人を拘束したり、罰したかというと、そうではない。
警視庁の福永衛生部長は「市民の衛生についての自衛的観念が乏しいのは驚くほどだ。マスクを着けている人は何人もいないし、恐るべき伝染病の感染を放任している」(1920年1月3日)。要は、感染症対策として有効なのは、強権の発動ではなく、国民一人ひとりの「公衆衛生」に対する意識の高揚であることを示している。1920年1月17日付「朝日新聞」読者投稿欄には、「閉じられるべきは乗客の口で、開かれるべきは電車の窓だ」という意見が載った。今、これがツイッター上につぶやかれたら、「いいね」が連発されるかもしれない。
源作は当時の人びとの中では、跳びぬけて健康管理に気を配った人である。懇意にしている医師たちもいて、原崎家の医療環境は当時としてはきわめて恵まれていた。それでも、スペイン風邪大流行の最中、源作は移動も集まりも制限していない。マスクをした形跡もない。もし、これらのことを大事と考えれば、源作は家族にも「外出禁止令」を出したり、会社の操業を中止したり、社員にマスクをつくらせて、「マスクの大切さ」を書いたチラシとともに、社員の家族、施設、教会、近隣などに配付したであろう。不思議なのは、このスペイン風邪が、源作にとって、日常の中で過ぎて行ったことである。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅6⦆

日記でたどる第二次流行期
1919年11月は珍しく、病気、死亡の記述がない。
12月に入り、14日。源作弟友吉の長女ひで子が前日から発熱し、40℃に達している。ひで子は高等女学校生徒である。藤枝にも1918年、組合立志太実科高等女学校(19年に志太郡立志太高等女学校と改称。現、県立藤枝西高等学校)が設立されているが、寄宿舎に入っており、母志げ子が駆け付けているところから、ひで子は静岡県立高等女学校に在籍していたものと思われる。当時、県立高等女学校は末広町の原崎家のすぐ近くにあり、現在は末広中学校として使われている。高女は1937年、北安東に移転し、現在は県立静岡城北高等学校。ひで子には看護婦も付けられ、15日には37.6℃。しかし、思うように解熱しないため、寄宿舎から藤枝の自宅に戻った。18日になっても37.5℃から38.2℃。付き添っていた看護婦が風邪で帰り、別の看護婦が来た。19日には、朝、38.6℃、午後37.5℃に下がったと思うと、また38.5℃。20日も38℃台で柴医師往診。21日、38.5℃で柴医師・松岡医師往診。22日は37.6℃に下がったと思ったら、午後に38.4℃。25日に熱は37.5℃。松岡医師往診。この後、ひで子に関する記述はないが、藤枝へ戻ってからも、源作は姪の体温を克明に記録している。おそらく度々電話などで確認をしていたのであろう。発熱状態や付き添っていた看護婦が風邪症状を呈しているところから、流行感冒であろう。キクも発症していたようで、12月27日の日記には、
キク子風邪引き籠り中のところ、本日は大いによし。
の記述がある。姪の体温は克明に記しながら、娘の病状はこの一文のみであり、それほど重症ではなかったと思われるが、ひで子の症状は明らかに、スペイン風邪の大流行第二波到来を示すものであろう。
12月は死亡の記述も多く、16日に藤枝の木下清作の子どもが生後1カ月で死亡。20日には木成弥太郎、27日には掛川の山崎浜子が死去。その時、小川善年が亡くなっていたこともわかった。
1919年も終ろうとする29日。源作は循一といっしょに、堀ノ内の阪木九一郎を見舞っている。日記には、
容体は脳に異状を起こしうわ言多く、かつ腸より多量の失血あり。容体その他よろしからず、循一今夜看護をなす積もりなり。
そして、31日。
一、 伊達方 阪木九一郎殿 今朝1時ついに死去せし旨電報来る。(略)
一、 昨日は東京より二木博士来診せしも如何ともする能わざる容体なりしと、同氏の診断にては流行性感冒なりと申す事なり。
おそらくインフルエンザ脳症を発症したのではないだろうか。1920年の日記欠落が残念だが、1919年の日記の最後に、東京から招いた医師の診断結果が記されているのは、スペイン風邪に関する貴重な資料と言える。
日記が欠落している1920年に入ると、事態はいっそう深刻である。
「朝日新聞」は1月から東京市内(現在の千代田・中央・港・文京・台東・江東の各区と新宿区東部、当時15区)の死者・患者数を紙面で発表し始めた。19日は死者337人、新患者数32000人余。「朝日新聞」には「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。せき一つでも出る人は外出するな。その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」「流感悪化し工場続々閉鎖」(1月11日)、「銭湯、寄席、映画館、理髪店は流感にたたられて客がめっきり減った」(1月16日)、東京・砂村(現在の砂町)の火葬場は「開所以来最高の223のひつぎが運び込まれ、午後9時の終業時間を過ぎても作業に追われた」(1月20日)、「交通通信に大たたり、市電も電話局も毎日500~600人の欠勤者」(1月23日)などの記事がみられる。大都市では棺桶が不足し、代用に茶箱が使用された。
今と変わらない光景と言えば、「マスクはどの店でも品切れ続きだ。悪徳商人が粗悪品を売ったり、大幅値上げをしたりしている」(1月19日付)という記事も見られる。
原崎家の家系図によると、長男幸三郎の三女に美江の名がみられ、6歳で亡くなったことが記されている。長女ハツが1909年生まれ、四女富美が1915年生まれであるから、この間にや江と美江が生まれたことになる。や江は1919年5月23日に亡くなったことが日記にも書かれている。家系図には9歳で亡くなったことが記されているので、1910年か11年に生まれたことになる。美江は1912年から14年に生まれたと推察されるが、1919年5月14日の日記に、
堀ノ内 初子 三重子 3時30分発にて帰宅す。
の一文がある。三重子は美江であろう。1919年中に美江が亡くなったという記述はないので、おそらく1920年に亡くなったのではないだろうか。これより後になれば、富美と同年に生まれたことになってしまう。実際には1913年か14年に生まれたと考えられる。源作は子どもや孫の健康状態も克明に書いている。亮吉や郁平などは度々登場する。しかし、や江・美江に関する記述はみられない。美江もや江と同様に、元気な状態から、かなり急に亡くなったのではないだろうか。スペイン風邪だったかもしれないし、はしかだったかもしれない。その他の原因があったかもしれない。潜在的にスペイン風邪の打撃を受けていたかもしれない。
第二次流行期は、多くの人に抗体が形成されたため、患者数は少なかったが、ウイルスの毒性が強まったとみられ、死亡率は圧倒的に高かった。第一次流行期では、岩手・島根・和歌山・秋田・宮崎の死亡率が高かったが、第二次では沖縄・山梨・静岡・千葉・福岡・東京などが高く、欠落してしまった1920年の日記に、源作は多くの病気や死亡を書き込んでいたのだろうか。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅5⦆

1919年春から夏へ
堀ノ内の幸三郎の家では、4月2日、亮吉が下痢。5日には亮吉と富美が40℃の熱を出し、柴医師が往診。25日には下砂の丸尾源吉も40℃発熱。
5月。新茶の季節であるが、源作は1日、腸の具合が悪く、下腹へこんにゃくを煮て当て、2日には「藤枝子供」(おそらく友吉の子ども)がはしか。3日、用宗の原崎本家の三郎(商業学校二年生)が危篤で、7日に逝去。源吉も亮吉も、みつもキケンな状態で、8日に源吉死去。22日、幸三郎次女や江(や江子)が学校から帰宅後発熱40℃。翌日、37.5℃くらいまで下がったが、午後4時死去。9歳。その翌日には亮吉も2歳で昇天した。骨治めも終った29日、幸三郎の家では、富美と郁平が別々に発熱。はしか症状。この間、9日には源作が親しく交わり、信頼もしていた星菊太師範学校校長が急逝している。
星菊太は長野師範学校校長を務めていた1915年9月、教育改革を求める人たちを中心とした校長排斥運動によって、内堀維文と入れ替わる形で静岡師範学校校長として赴任して来た。写真で見ると、がっちりした頼もしい体格の持ち主で、どのような経緯で交流が始まったかわからないが、源作の良き協力者として盲唖学校の発展に尽力している。
6月に入ると、2日に静岡の茶商として活躍した水上房吉が病気のところ急逝。3日には藤枝に住んでいる源作の弟友吉の三女たか子が急に40℃の発熱。4日に柴医師が往診。5日には熱が下がっている。11日には斎藤村の水野いね子次男彦次郎が死去。13日、興津にいる池端みつ子がついに息を引き取った。
スペイン風邪の大流行を過ぎた時期に、あまりにも多い死者の数である。おそらくスペイン風邪が多くの人たちの身体に打撃を与え、生命の火を風前の灯にまで追い詰めていたのではないだろうか。おそらくこのような現象が日本各地、世界各地で起きていたのではないかと推察される。

1919年夏から秋へ
この後、6月19日に辻氏病気欠勤、源作も腹痛帰宅。24日、「下女病気のところ全快」。7月15日、「トキ子腹の具合悪く、昨日より寝たり起きたりして居る」、21日には源作が腹痛などの記述がみられるが、頻度として日常の範囲である。ただ、死亡に関する記述は、7月31日、根岸速次末っ子男児(3歳)、8月6日、北嶋録三郎の末っ子男児(4歳)、9月4日、磯部菊松次男(6月生まれ)、8日に本目総徳急死、9日に岩崎音吉次男変死、20日に石川重吉病死、その後、大石岸八も死去。10月には教会員の老女岩下、27日には星菊太の長男一郎が5月の父に続いて死去。全般に9月の死亡が多いように思われる。また、源作が幼子の死に殊更同情を寄せていることから記述が多くなる傾向はあるだろうが、7月から9月にかけて、乳幼児の死亡が通常よりはるかに多い印象を受ける。この間、9月28日、郁平が風邪と顔へ腫物ができ、発熱38.5℃、10月1日には快方している。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅4⦆

1919年正月から春へ
1919年正月に入って、家には子ども、孫なども集まり、午前10時から浅間神社でおこなわれた新年祝賀会には、県知事・市長はじめ400から500人が集まり、源作も出席している。いつもと変わらぬ正月風景である。20日にはもと子も来静し、受診。全快との診断を受けた。長女きくの縁談話しも進められている。28日には東京神田の青年会館で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の演説会がおこなわれ、会場は満員の盛況になった。前年からの大流行の余波が残っている最中である。
1月31日。
循一方家族皆風邪子供2人も病気にて 雇人2人その他手伝いなどにて大困窮なり
という記述がみられる。次男循一には妻のぶ、1915年生まれの長男進一、1917年生まれの長女愛の二人の乳幼児がいた。2月3日には静岡でも積雪がみられたようで、
七郎が 飛び起きにけり 今朝の雪
と言う、源作にしては珍しく一句添えられている。
循一家族は2月6日、「病人皆大いによし。」の状態になっているが、2月4日には五男和一も風邪で仕事を欠勤し、6日には熱37.3℃、13日には、
和一とき子両人風邪にて床にあり。
の記述がみられ、14日に「循一方病気皆近々よし安心す。」と記されているが、源作の家では、和一、とき子に続いて、源作も15日、「帰宅後風邪の気味にて床に入る。」と言う状態になっていった。源作は17日、熱37℃。18日には夜に腹痛を訴え、真夜中に松岡医師の往診を受けている。注射で腹痛は治まった。19日にも松岡医師の診察を受け、26日には熱も36.5℃で、会合にも出席しているが、27日には熱が37.5℃まで上がり、再び床につき、柴医師の往診を受けた。源作は3月11日には全快し、床屋へ行っているが、この間、2月20日・22日・23日・24日、28日、3月3日・4日・5日・6日と日記はまったく付けられておらず、容態はあまり良くなかったようだ。その後も、3月23日、発熱37.7℃。4月初め、一旦回復したものの、10日から13日まで発熱。床についている。
このような状況になるまで、源作は2月7日、会合のため上京し、麹町に宿泊し、本郷の鴻城館や築地精養軒で食事したり、横浜へも出かけたりしながら、13日に自宅へ戻った。自宅には和一、とき子が風邪で臥せっている。じつはこの頃、スペイン風邪は第一次大流行期を過ぎた後の、小さな山を迎えていた。そして、皮肉にも、源作は15日、倶楽部懇話会に出席し、県庁衛生課長飯村氏から「感冒」について話しを聞いて、帰宅後、風邪気味で床についた。
振り返ってみれば、源作はとんでもない時に上京していた。2月3日付朝日新聞には、「大臣では原首相をはじめ内田外相、高橋蔵相らが引きこもり中で、ほかの高官にも患者が少なくない」「患者は増える一方、医師にも伝染し、看護師も倒れる。東大病院は入院を断っているし、ほかの病院もすべて満員。実に恐ろしい世界感冒だ」。あきらかに医療崩壊だ。このような東京から逃れるように、熱海には人が押し寄せ、「感冒避難客で温泉宿はどこも満員で、客が布団部屋にまであふれている」(2月19日)。
芥川龍之介も2月中頃から再びスペイン風邪に罹り、症状はだらだら続き、3月3日に東京・田端の自宅から鎌倉の家へ戻ったが、12日になっても、「目下インフルエンザの予後で甚だ心細い生き方をしてゐます」と書いている。源作もおそらく前年の11月から12月にかけての時点でスペイン風邪を発症したと考えられるが、龍之介同様、1919年に入って、再び発症したと思われる。抗体がじゅうぶんにできなかったか、ウイルスが変異したためかもしれないが、当時の医学水準では検証が困難であろう。60歳を過ぎた源作も、27歳の龍之介も、体調のすぐれない2月・3月を過ごしていた。そして、3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなった。69歳だった。
アメリカに販売の拠点をもつ富士製茶は、アメリカの情報を入手できる環境にあった。アメリカに赴任している石井からつぎのような情報がもたらされている。3月8日の日記には、
米国ニューヨーク石井氏より来状。かの地茶況意外に悪く非常なる困窮の由申し来る。又流行風邪にて死亡する者多しと。
原崎家ではついに七郎が発症した。3月9日、朝の熱36.4℃は午後3時には39.6℃まで上昇し、松岡医師に往診を依頼している。「再度」と記されているところから、源作が床にある頃、すでに発症し、一旦回復していたものと推察される。七郎は11日朝38.2℃、午後になって38.7℃。しかしながら、「食事は熱の割合によく進む」と記されている。七郎がいつ頃全快したか、記されていない。七郎は前年2月にも風邪で38℃の発熱を起こしている。
3月1日、興津の別荘に行った池端みつ(みつ子)は病気のため、15日に柴医師の往診を受け、以後、たびたび病状の記述がある。食欲がなかったり、熱が38℃台に上がったり、一進一退を繰り返している。28日には看護婦を雇っている(4月7日まで)。とにかく4月には、毎日のように、みつの病状が記され、25日には、「腹部の具合悪く母上終日さすり居る」の記述があり、静岡から柴医師、それに地元興津の川村医師が往診している。みつは前年1月18日、風邪の記述があり、2月になっても37.2℃前後で推移し、松岡医師も原因不明と困惑している。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅3⦆

1918年夏から秋へ
1918年8月。源作は60歳。前年生まれた亮吉(堀ノ内に住む長男幸三郎の長男)は13日、具合が悪く、静岡へ出て来て柴医師の診察を受けている(9月1日には柴医師から、食事の加減をするよう指示されている。)。源作の腹具合も良くない。14日の日記には、
 昨夜市中各所にて米価高騰のため下級民市中を練り回り三番町松山 宮崎友太郎 小林貞雄氏等にて物を傷付けやや乱暴をなしたりと
 記され、翌日には軍隊も出動したが効果なく、数十カ所が被害を受けたと書かれている。いわゆる「米騒動」(7月22日~9月12日)である。
9月に入っても源作は、8月から引き続き腹の具合が悪く、下痢も時どきみられる。16日、アメリカのシアトルから野球チームが横浜を経て訪れ、親善試合をおこなっている。
10月12日、源作は熊本でおこなわれる茶業大会出席のため、静岡を発ち、岡山を経て、14日、博多に到着した。この間、幸三郎次男郁平が生まれている。源作は25日まで九州各地に滞在し、京都・大阪を経て、30日、静岡に戻った。
ところがこの時すでに、スペイン風邪は爆発的流行を迎えている。とくに流行の早かったのは、神奈川・静岡・福井・富山・茨城・福島、これに埼玉・山梨・奈良・島根・徳島と続き、9月下旬から熊本・大分・長崎・宮崎・福岡・佐賀、10月中旬には山口・広島・岡山・京都・和歌山・愛知、東京・千葉・栃木・群馬と拡がっていく。北海道と沖縄は遅く、北海道は10月下旬、沖縄は11月上旬になってからである。
とにかく、源作が旅行した地域のほとんどが大流行地域になっており、福岡県では、10月10日、筑紫高等女学校で県内初の患者が発生し、1ヵ月で4400人ほどが亡くなっていたのである。大分県でも10月だけで756人が死亡している。
こうした状況の中で、源作は博多・熊本・人吉・鹿児島・都城・宮崎・延岡・佐伯・別府などまわり、各地で会食し、旅館に宿泊している。静岡に戻っても、10月30日、九州行きの報告会をおこない、31日・11月1日には野球会も開催されている。日記を読む限り、スペイン風邪が猛威をふるっているなど、一言も記されていない。

1918年秋から冬へ
とにかくスペイン風邪は今までのインフルエンザと明らかに違う威力をもっていた。スペイン風邪は発症すれば40℃近い高熱が出て、数日間で呼吸困難になり、死亡する例も多くみられた。とくに15歳から35歳の健康な若い人が多く、軍隊はじめ、中学校や高等女学校での流行が大きかった。これは「サイトカイン・ストーム」と呼ばれる現象で、健康な若者は生体の防御免疫機能が活発で、ウイルスの感染によって過剰反応を起こしやすいためである。
学校は休校が相次ぎ、運動会・修学旅行も見合わせが続出した。電車の運転本数は減り、炭鉱も休業。東京府では、10月28日から毎日平均200人以上亡くなり、全国各地で火葬場が満杯になり、処理できない状態になっていった。
芥川龍之介も発症した。11月2日には「僕は今スペイン風※でねてゐます。」(※風邪)「熱があつて咳が出て甚苦しい。」とつづられている。龍之介は一週間ほどで回復したが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなった(二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺して話題になった)。
抱月が東京で亡くなった翌日の11月6日、谷口留五郎・福岡県知事は、他人と談話する時は1.2メートル以上隔て、マスクをし、咳・くしゃみをする時は布で鼻・口を覆うように、宿屋・汽車・汽船などは感染しやすいので、旅行はなるべく控えるように、注意喚起を発表している(11月8日付「福岡日日新聞」)。新型コロナウイルス感染に対しても、同様のことを言っているのだから、100年経っても、人間は進歩していないと思うが、感染症の基本対策は100年経っても変わらないことを示している。
源作の日記も11月に入ると、様相が変化してくる。
11月3日、源作の孫にあたる富美(ふみ子、幸三郎の四女、1915年生まれ)が静岡へ来て発熱。38.5℃になったため、松岡医師の往診を受けている。5日には全快し、堀ノ内へ帰った。13日には欧州戦争の休戦条約が締結され、14日、富士製茶の製函工場から出火し全焼した。17日には源作の妻とき子病気の記述があり、18日にはとき子と七男の七郎が風邪で床にあるとの記述がみられる。七郎は平熱に下がっている。23日には次女で末っ子のせい(セイ子、1908年生まれ)が発熱。熱が下がらないため松岡医師に診てもらっている。24日、せいは朝の体温37.5℃、夕方38.5℃。27日には解熱し、日記には「大いによし」と記されている。翌28日には堀ノ内の幸三郎が風邪で37.5℃。29日には源作も風邪気味で早めに床についている。このすべてがスペイン風邪によるものかわからないが、ここへ来て、原崎家も異常に風邪が多く、清々しない11月を過ごしている。
そして、ついに12月3日、つぎのような記述が出てくる。
堀ノ内幸三郎方にて流行感冒にて子供その他家に籠り居ると電話来るにつき、とき子見舞いに行く。
この時、長男幸三郎の家には、幸三郎の他、妻もと、長女はつ(1909年生まれ)、次女や江、三女美江、四女富美、長男亮吉、次男郁平がいた。どの範囲まで発症したかわからないが、スペイン風邪の家庭内感染が濃厚な最初の記述である。9歳から生まれたばかりの乳児まで6人の子どもがおり、たいへんなことだったと思われる。4日に「堀ノ内病人、大いによし」ということで、手伝いに来る人もあって、とき子は一旦静岡に戻ったが、7日には再び赴き、一泊した。ところが、8日には、
きく子又風邪にて籠り居、下女も風邪にて具合悪いにつき
とき子は急きょ、静岡へ呼び戻された。きく(きく子、源作長女、1898年生まれ)は、「又」と書いてあるので、日記には記されていないが、少し前にも風邪症状を示したものと思われる。12日には源作が悪寒、もたれ。発熱37.8℃。翌日は37.2℃まで下がり、15日には「風邪大いによし、少しは起きてみる。」と記している。この間、毎日、松岡医師の往診を受けている。源作は予後が悪く、18日に松岡医師の診察を受け、咽喉の具合が悪いと言うことで吸入を施されている。
20日になると、幸三郎の妻もと(もと子)が発熱。40℃。21日になっても39℃で、静岡から柴医師が往診に出向き、24日になっても40℃で、柴医師が再び往診している。母親が病気になっているため、郁平は22日に静岡へ連れて来られた。24日になっても熱は40℃で、一番町の本間医師が堀ノ内まで往診に出かけている。もとは27日になって「病気大いによろし」の病状は改善し、29日、「昨日より食事を粥となせし」という状態になり、31日には36℃の平熱に戻った。おそらく12月初めの家族内集団発症のおり、もとは発症しなかったのだろう。31日の日記には、
堀ノ内預かり小児郁平 昼健康勝れ皆々喜び居る。生乳1合 コンデンスミルク2時間に4オンス又は5オンス(17・8倍)にて大便 上々なり。
と、記されている。生後2ヵ月余の乳児に母乳を与えることができない場合の対処法として貴重な資料である。
【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅2⦆

スペイン風邪の流行
 スペイン風邪は1918年から1920年にかけて世界的に流行し、患者数約6億人、死者数2000万人から4000万人と推定されている。当時、終戦を迎える第一次世界大戦戦死者の数倍の死者数である。ヒトにおける最初のA型インフルエンザであったため、大流行し、犠牲者も多かった。
きっかけは、1918年3月、アメリカのデトロイトなどで流行が始まり、5月から6月にかけてのアメリカ軍のヨーロッパ進駐によって、ウイルスがヨーロッパに持ち込まれ、大流行。人びとの移動によって世界各地へ拡がって行った。日本の軍隊の中にも、5~6月頃からスペイン風邪は拡がっていった。当時、後に第一次世界大戦と呼ばれる大きな戦争の終盤であり、日本もアメリカとともに連合国側に与していたから、アメリカ軍とともに、ヨーロッパの連合国側の軍隊などとも接することがあっただろうから、感染の機会があったことはじゅうぶん考えられる。
しかしながら、軍隊の中では3月頃から流行していたという説もあり、また、1918年3月、台湾の割烹旅館「梅屋敷」創業20周年を記念しておこなわれた、東京・大阪両相撲団合併台湾巡業に参加した力士らが、4月になって20人以上が風邪を発症し、3人が亡くなるという出来事も起きている。これが、スペイン風邪の先触れとも言われるが、どのようにしてアメリカのスペイン風邪が台湾までやって来たのか謎であり、現在のようにウイルスを詳しく調べることもできなかったので、スペイン風邪を引き起こしたウイルスと同一だったかどうかもわからない。とにかく、日本に戻っても力士などに拡がり、5月場所では休場が相次ぎ、「相撲風邪」などと呼ばれた。
機密事項もあって不明な点も多いが、軍隊の中に拡がっていた風邪の感染は8月頃に治まったようにみえたが、9月にはいって日本国内でも、スペイン風邪の大流行を迎える。
日本における大流行は死者数からみて大きく二つの山があり、第一次は1918年10月から顕著に増加し始め、11月に頂点に達し、一旦低下したものの、1919年2月に小さな山を迎え、収束していった。ところが1919年12月から再び急増し、1920年1月頂点に達し、これが第二次大流行になり、その後、収束。1921年冬季にも小さな流行がみられた。患者数は第一次が圧倒的に多く2100万人余、死者が26万人ほど、第二次は患者数240万人ほどと少なかったが、死者は13万人に迫り、死亡率は第二次が圧倒的に高かった。
最終的に、日本におけるスペイン風邪は、患者数約2358万人、死者数約38万5千人(当時、季節的なインフルエンザも流行する時期で、「流行感冒」という概念で捉えられていたし、インフルエンザウイルスの発見も1933年、スペイン風邪のウイルス遺伝子が確認できたのは1997年になってからであり、すべてがスペイン風邪であったかどうかもわからない。また、すべての人が医療を受けられたわけではなく、家で亡くなることも多かったから、死因が特定できない死亡例も多かったはずで、患者数や死者数もあくまで推定である。死者数についてはもっと多かったのではないかと言われている)。関東大震災や東京大空襲、広島や長崎における原爆犠牲者をはるかに上回る数字である。日本総人口のおよそ41.6%がスペイン風邪を発症し、0.68%が亡くなった。つまり、5人家族の家が200軒ある地区を想定した場合、住民のうち420人が発症し、その中で運悪く7人が亡くなった、という数値である。

日記を読み比べる
 スペイン風邪流行期に、病気や死亡の記載がほんとうに多かったのか。それを確認するため、現存する日記でもっとも古く、かつ流行期に近い1916の日記を読んでみると、病気に関する記載が7件、死亡が10件である。退院・快方の記載も病気、会葬の記載も死亡として扱った。源作は毎年、2月から4月にかけて鼻の病気で毎日のように中田耳鼻科で治療を受けているが、以後においても件数から除外している。
 1918年に入ると、前半6月までは病気9件、死亡7件、後半12月までは、病気21件、死亡1件(年間計:病気32件、死亡8件)。1919年は前半6月までは病気34件、死亡12件、後半12月までは、病気9件、死亡12件(年間計:病気44件、死亡24件)。この時期、一人について何回も病状が記されているので、実際の病気記載件数は倍増する。1919年2月から3月にかけて、源作も「風邪」で10日間、日記を休んでいる。
見落としなどで、若干の差異が見込まれるが、病気記載がとくに多い1918年後半から1919年前半は、スペイン風邪の第一次大流行の時期と一致、1919年後半の数値はとくに12月に多く、第二次大流行の時期と一致している。

おかげで、来館者が5万人を超えました。たくさんの方にご来館いただき、ほんとうにありがとうございました。
今日からこの「館長のつぶやき」に新しい連載が始まります。つぶやきに連載と言うのもヘンですが、興味がもてましたら、引き続いてお読みください。

7月21日、NHK総合「おはよう日本」で、「日記にみるスペインかぜ」が放映されました。そのもとになった『源作日記にみるスペイン風邪』を、この「館長のつぶやき」で、連載形式で紹介していきます。同じウイルスと言っても、スペイン風邪を引き起こしたインフルエンザウイルスと、今回のコロナウイルスとでは種類も性質も違いますが、感染症拡大の中で人びとがどのように行動したかを知る手がかりになると思います。

【連載】源作日記にみるスペイン風邪⦅1⦆

 原崎源作(1858~1946)は静岡県における茶業発展におおいに貢献するとともに、クリスチャンとして社会的もさまざまな貢献をしたマルチ人間である。その源作は明治中期から亡くなる年まで、およそ50年間、こまめに日記をつけていた。日記の多くは焼失したが、1916(大正5)年から1939(昭和14)年までの日記のうち、1920年、1933年、1934年の三か年を除いて現存し、1932年の日記まで、源作ひ孫の村上三恵子、源作孫の原崎幹雄の手で解読、デジタル化された。
 デジタル化された日記を読んでいく中で、私は異常に病気や死亡の記述が多い時期があることに、妙に引っかかった。けれどもそれ以上、深入りすることはしなかった。しかし、今回、新型コロナウイルス感染が国内はもとより、世界各地に拡がり、大きな不安をもたらす中で、100年前に起きたスペイン風邪の大流行が注目を浴びるようになり、私は「もしや」と思って、日記の異常な時期を改めて確認してみると、1918年と1919年の日記であった。スペイン風邪が流行したのは1918年から1920年であり、確かに一致していた。
 源作日記はその日の覚書のように、簡略に書かれているが、仕事のこと、社会的関わり、人物往来、家族のことなど、自分の身の回りのことが、多方面に記されている。日記の始めには、その日の天気と気温(華氏で記載)、終わりにその日の家庭礼拝などで読んだ聖書の箇所(旧約聖書が多い)が書かれている。読んでいて気付くのは数値が多いこと。気温の他、金銭、取引量、汽車の発着時刻、そして、病気においては体温が克明に記録されている。スペイン風邪が大流行する中で、源作たちがどのように行動し、誰が発病し、どのような症状を示し、体温がどのような経過をたどったか、それは今日でも医学的に貴重な資料を私たちに提供しているのではないか。
 そのような思いをもって、1918年・1919年の源作日記を読み直し、「源作日記にみるスペイン風邪」と題して、まとめてみた。1920年の日記が欠落していることが残念でならない。(なお、文中、すべて敬称を略した。)

神楽坂における鏡花を調べていて、ひとつの疑問が起こりました。鏡花は神楽坂2丁目22番地に、いつからいつまで住んでいたのだろうか。かつて説明板がなかった現地に、「泉鏡花旧居跡・北原白秋旧居跡」の説明板が建てられましたが、それによると鏡花はこの地に明治36年3月から明治39年7月まで住んだと記されています。この後、鏡花は逗子で4年間過ごし、明治42年2月、東京へ戻り、土手三番町に住むようになりました。しかしこれでは、逗子には2年半しか住んでいなかったことになります。ところが、泉鏡花記念館の年譜や「広報ずし」の記述では、明治38年に神楽坂から逗子に転じたことになっています。
 このような食い違いが生じた最大の責任は鏡花自身で、自筆年譜に明治39年と書いてしまったからで、本人が書いたことだから間違いないだろうと、いろいろなところで使われています。神楽坂2丁目22番地の説明板もその一つです。この説明板は新宿区が建てたものではありませんが、「新宿区指定史跡」と書いてあるところから、区の担当者も気になっているようです。消しゴムで消して書き直すこともできず、修正ペンを使うこともできず、どのように訂正したら良いか、悩むところです。責任は鏡花にあると言っても、同じような間違いは私自身もやってしまうので、責める気にもなれません。
 これから神楽坂へ行かれる方は、説明板の「明治39年7月まで」を「明治38年7月まで」と頭の中で訂正して読んでください。鏡花を支え続けた祖母は明治38年2月20日、この地で亡くなっています。異郷で亡くなったことになりますが、成功した孫の姿を見ることができたのは、せめてもの救いだったかもしれません。
犀星、脚色された人生

かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)
犀星が『我が愛する詩人の傳記』で書いた高村光太郎に関する一節です。1917年頃の光太郎と智恵子。智恵子は1936年に亡くなり、光太郎は戦時中、岩手県太田村に疎開します。犀星は『我が愛する詩人の傳記』をさらに続けます。
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪に凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもだえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。(略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。(略)しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。
どう考えても、このような一連の場面を光太郎が目撃させるはずはありません。明らかに犀星の創作です。『我が愛する詩人の傳記』が出版されたのは1958年ですから、69~70歳の犀星がこの文章を書いたのです。そして、翌1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表します。
『蜜のあわれ』には、つぎのような会話がある。
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、(略)」(略)
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
「性慾」という言葉は1956年から57年にかけて書かれた『杏っ子』にもたびたび出てきます。
このように犀星が性欲にこだわるのは、70歳前後になっても女性に対する欲望があり、それを抑制しないで表現したと言えばそれまでですが、私は犀星の出生に対する皮肉だったのではないかと思うのです。
小畠吉種がある女性と肉体関係をもち、犀星が誕生した時、吉種は満63歳。船登芳雄は『評伝室生犀星』で吉種の実年齢はさらに4歳上だったとしています。まさに犀星が『杏っ子』を書いていた年齢の時に、吉種は子をもうけたのです。自分が吉種の子であるならば、自分もまた、今、どこかの女性との間に子どもをもうける能力があるのではないか。けれども現実は、欲望はあってもそれにともなうものが欠けていることに犀星は気づいていたでしょう。欲望は作品の中でしか満たすことができない。犀星はここへ来て、吉種が実父ではないことを確信した、私はそう思います。
世間の関心はともかく、犀星はかなり早い段階で生母が山崎千賀であることを知ったのではないかと、私は思います。1908年12月に希望して金石へ転勤したのも、金石で生まれた生母の情報を得るためであったと言えるのではないでしょうか。犀星の疑問はむしろ「実父は誰か」という点に移っていたようです。1929年、犀星は生種の長男悌一に「僕のオヤヂの名前をしらせて下されたく、年譜をつくる必要があるのです」と問い合せています。通説としてのオヤジの名を、当然犀星は知っていたはずで、あえて聞く必要もないことです。この通説に犀星自身が疑問を感じたからこそ、探りを入れたのでしょう。それに対して、母は山崎千賀としながら、父の名は吉種という返事でした。
すでに生母の名を知っていた犀星は母の名にはまったく興味を示さず、父に関してはこれ以上追究しても無駄だと思ったのでしょう。
1943年発表された、《夏の日に匹婦の腹に生まれけり》という犀星の句は、遊郭で働く千賀の素性を知っていたことを裏付けています。しかし実父に関して、犀星は結局、何の確証も得ることができなかったのです。
自分の出生すら脚色された犀星。それなら、とことん自分の人生を脚色してやろうではないか。犀星の自伝的小説は、そして犀星の文学はそのような側面から、今一度捉え直してみる必要があるのではないか、私はそう考えます。


 マスクは届いたでしょうか。特別定額給付金のお知らせは届いたでしょうか。何か起きると、漱石が生きていたら、どのように論評しただろうかと思います。
 今から110年前の1910年6月12日、『門』の連載が終了しました。伊藤暗殺のニュースについても、漱石は『門』の中でも独特な論評を書いています。日本史に残る大きな出来事が続いた1910年。漱石が健康であったなら、もっともっと何かを書き残していたかもしれません。3月1日から始まった『門』の連載。110年後のこの期間、私たちは新型コロナウイルスと向き合わなければならない期間でした。新型コロナ以後(ポストコロナ)において、大きく価値観が変わると言われていますが、すでに私たちの価値観は180度、変わらされてしまっています。実家へ帰って出産する「当たり前」が、「当たり前」でなくなり、ふるさとのおふくろに会いに来る心優しい息子が、「非常識な人間」のように非難され。おそらくこのような社会に、漱石なら敏感に反応したのではないでしょうか。
 移動することと集まることを制限されると、もう、人間は人間ではなくなってしまう。逆に言うと、人間は移動し集まることによって生きているということを、改めて知らされました。「木曜会」の集まりができなくなったら、漱石も門下生の若者たちも、さぞイライラが募ったことでしょう。
新型コロナウイルス感染の世界的拡大にともなって、100年前に大流行し、多くの犠牲者を出したスペイン風邪が注目を集めるようになっています。
芥川龍之介も1918年10月末頃、スペイン風邪を発症し、「熱があつて咳が出て甚苦しい。」状況が続いて、一週間ほどで回復しましたが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなりました。この二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が、自分は発症しても生きていて、抱月が亡くなったことに後ろめたさを感じたのか、後追い自殺して話題になりました。惚れた歌舞伎役者の後追い自殺を描いた鏡花の『葛飾砂子』が映画化されたのは1920年であり、須磨子の事件が20年も前の作品を掘り起こすきっかけになったように、私には思われます。
27歳の龍之介は2月中頃から再びスペイン風邪に罹り、症状はだらだら続き、3月3日に東京・田端の自宅から鎌倉の家へ戻りましたが、12日になっても、「目下インフルエンザの予後で甚だ心細い生き方をしてゐます」と書いています。そして3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなりました。69歳でした。
正確な状況を把握することは不可能ですが、日本におけるスペイン風邪の患者数約2358万人以上、死者数約38万5千人以上と推定されています。関東大震災や東京大空襲、広島や長崎における原爆犠牲者をはるかに上回る数字で、日本総人口のおよそ41.6%以上がスペイン風邪を発症し、0.68%以上が亡くなったにも関わらず、スペイン風邪は「忘れ去られたパンデミック」と言われるように、日常生活の中に埋没していきました。コレラが怖くて、家に引きこもったり、食材は煮沸して食べた泉鏡花も、スペイン風邪から逃げ回った形跡はありません。1916年に疫痢で長女を失った徳田秋聲も、スペイン風邪について特に触れていないのです。
もちろん、芥川龍之介と同じように、スペイン風邪に罹ったことを書簡などに残した文学者がないわけではありません。歌人で精神科医の斎藤茂吉もその一人。茂吉は1920年1月、長崎で罹患し、生死をさまよい、同僚医師が亡くなっています。茂吉はスペイン風邪からは生還しましたが、結局、結核を発症し療養を余儀なくされました。武者小路実篤はスペイン風邪から20年を経過した1939年に書いた『愛と死』で、主人公の惚れた女性をスペイン風邪によって奪っています。
ただ、丹念に読んで行けば、スペイン風邪大流行時の影を見出す作品はいくつかあるのではないだろうか。私がひっかかったのは、室生犀星の『或る少女の死まで』です。
1919年、小説家に転身した犀星は、『幼年時代』『性に眼覚める頃』に続いて、11月、『或る少女の死まで』を発表しました。幼年期、少年期に続いて、上京間もない青年期を描いた作品に、なぜ少女の死をテーマに選んだのでしょうか。
ひとつの可能性は、結婚を機に、石尾春子や村田艶(ツヤ)をはじめとする、それまで犀星が好きになった女性を「殺す」つまり、記憶から消してしまうということです。とりわけ、ふじ子に関しては、石尾春子との金石時代の思い出が重ねられているように感じられ、1914年8月7日の夜行で、「緑深い金沢」へ帰った犀星が春子に再会し、やがて恋破れていったことも反映されているようです。
ただ、新型コロナウイルス感染症の拡大が日本も含め、世界を揺るがす中で、100年前のスペイン風邪大流行に注目した時、私にはもうひとつの可能性が浮かんできました。『或る少女の死まで』はスペイン風邪の第一次大流行を越え、第二次大流行へさしかかる1919年に書かれました。2月には結婚に際し労を惜しまなかった義母(実父の妻)小畠珠が49歳で亡くなっており、時期的にスペイン風邪による死を否定できません。親友になった龍之介もスペイン風邪に罹ったし、龍之介の実父は3月にスペイン風邪で亡くなっています。
当時は多産多死の時代がまだ続いており、人が生まれ、人が亡くなっていくということが、日常生活の当たり前の出来事で、さまざまな感染症が繰り返し襲って来ており、乳幼児の死亡も多く、スペイン風邪だけが、特別な存在として意識されることは、ほとんどなかったと思われますが、それでも平常よりはるかに多い死亡は、社会全体を包み込み、犀星にも影響を与えたのではないでしょうか。
『或る少女の死まで』で元気なふじ子は、鹿児島に行ってから、12月に腸に病を得て急死しています。腸チフスを想定したかもしれませんが、設定時期1911年頃を、1918年12月に振り替えていくならば、スペイン風邪を念頭に置いたという推論も成り立ってきます。激しい嘔吐・下痢もスペイン風邪の症状としてみられ、元気だった子どもがあっという間に亡くなってしまった事例もみられます。
 
読むことよりも書くことの好きな私は、この文学館に掲載する文章を書くために、いろいろな文章を読まなければなりません。皮肉なことですが、必要性があって読むから、けっこう楽しい。時には同じ作品を何回も読み直し、そのたびに新しい発見があるから不思議なものです。『こころ』も何十回読み直したことか。それでも新しい発見があるのは、いかにきちんと読んでいなかったかということにもなりますが、その時どきに「知りたいこと」が違っていて、読み飛ばしていたことが、ふとある時、目にとまるのだろうと思います。
犀星の『杏っ子』を読み直していて、こんな発見をしました。新しく家を建てるため、トラックいっぱいの蔵書を売ってしまった平四郎。《本屋から受けとった金は、建築に必要な経費の大半であった。平四郎は夏目漱石の軸二本をとり出し、これも処分することにした。漱石は後代の詩人くずれの男が、家を建てるために掛物二幅を売ることも知らないであろうし、この掛物の売立会をした滝田哲太郎もゆめにも思わなかった事であろう、一文人の書いた物は、こんなふうに何時でも売られたり買われたりしているのである。それで沢山なのだ、平四郎の色紙や短冊が何処でどういうふうに売られていても、構わない、若しそれが米塩にかえられるなら、それこそ、よかったね、と思われるくらいであった。》――さてこの時手放した漱石の掛物。今頃、誰が所有しているか、気になるところです。
新型コロナウイルス感染の社会的不安が拡がっています。感染するのではないかという不安とともに、この先、いつまでこのような状況が続くのか、先の見えない不安も大きいのではないかと思います。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行で、100年前のスペイン風邪が注目を集めています。芥川龍之介もかかった、当時の新型インフルエンザです。後に最初のA型インフルエンザであったことがわかりました。龍之介は2回も発症しましたが、無事でした。けれども実父はこのスペイン風邪で亡くなりました。
明治期にもさまざまな感染症が流行し、多くの人を恐怖におとしいれました。インフルエンザもその一つですが、とくに1889年から91年にかけて大流行したインフルエンザは、「お染風邪」と言われて恐れられました。漱石はこの時の様子を書き残していませんが、『琴のそら音』と言う作品に、インフルエンザが登場します。
余が親友津田君の下宿を訪問します。4月3日、花盛りの頃です。いろいろ話すうちに、余の結婚相手(宇野露子)の病気に話題が移り、「大丈夫に極ってるさ。咳嗽は少し出るがインフルエンザなんだもの」と、気楽に答える余に、「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かす程な大きな声を出す。津田君はさらに「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹ってね。別段の事はないと思って好加減にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になるから用心せんといかんと云ったが――実に夢の様さ。可哀そうでね」
設定では余はインフルエンザというものを軽く考えている。この作品が書かれたのは1905年。お染風邪からすでに10年以上。当時、さまざまな感染症がある中で、インフルエンザに対する警戒心がゆるんでいることに警鐘を意図したかもしれません。
漱石は1900年5月から1902年9月まで、イギリス留学に出かけています。じつは、1900年というのは、欧米でインフルエンザの大流行が始まった年で、幸い漱石は罹患することがなかったようですが、ヨーロッパに来ていた友人の立花銑三郎は1901年2月末頃、ドイツで発症し、3月下旬、オランダのアムステルダムから帰国の途につきますが、5月12日、上海沖で肺炎を併発し、35歳で亡くなりました。漱石はロンドン停泊中の常陸丸に立花を見舞っています。『琴のそら音』の「この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になる」と言う一文はこの時の体験がもとになっているかもしれません。漱石自身もイギリスでインフルエンザの猛威を目の当たりにして、脳裏に深く刻まれるものがあったのだろうと推察されます。
心配になると、人間、悪い方へ悪い方へと考えてしまうもので、白山御殿町の津田の下宿を午後11時近くに出た余は、時の鐘におびえ、極楽水あたりは死んだように静まり、そこへ葬列が通りかかる(こんな時間に通りかかるはずはないのだが)。雨も降り出す。それから、昼間でもこわい切支丹坂を滑り下り、茗荷谷を行くと、赤い鮮やかな火。盆燈籠のようで、この火が消えたら露子が死ぬ、などと思うと、もう額はあぶら汗。新しい谷道を上ると、また赤い火。それは巡査の持つ灯だったが、その声が気味悪い。結局、1時間ほどかかって、小日向台町の自宅に帰ると、下女の婆さんが心配する。とにかく、翌日すぐ、四谷坂町の宇野家を訪ねると、露子は昨夜中央会堂の慈善音楽会に行って遅く帰ったということで、「インフルエンザは?」と尋ねると、「ええ風邪はとっくに癒りました」。
こうなると、人間、げんきんなもので、余は帰り道、神楽坂へまわって、床屋へ入っています。自宅へ帰ると、すでに露子が来ていて、笑いが絶えず、その後、露子が余を一層愛するようになったと、おのろけ話しまでついています。
インフルエンザの話しは『三四郎』にも出てきます。罹患した三四郎の症状が詳しく描かれています。『三四郎』は新聞連載とほぼ同時間をたどっています。1908年にも季節性のインフルエンザが流行っていたのでしょう。1910年3月には、小屋(大塚)楠緒子がインフルエンザに罹り、結核を悪化させ、その年の11月13日、肋膜炎に至って、亡くなっています。36歳でした。
スペイン風邪は漱石死後2年の1918年に始まりました。漱石が生きていたら、どのような思いをもったでしょうか。
津田青楓。つだせいふう。4月12日まで練馬区立美術館で「生誕140年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」が開かれています(新型コロナウイルス感染症の拡大防止などのため、会期中のイベントはすべて中止になっています)。
青楓は1880年、京都生まれ。1907年にパリに留学し、1909年に帰国し、翌年、活動の拠点を東京に移し、漱石を訪ねました。なぜ漱石なのか。パリで漱石の大ファンだった荻原守衛(碌山)と交遊をもっているので、漱石について相互に何らかの影響があったかもしれません。また、漱石自身、美術評論などもおこなっており、そのようなことから漱石に関心をもったのかもしれません。青楓は漱石に絵を教えたり、いっしょに展覧会を観に行ったり、『道草』『明暗』などの本の装丁も手掛けています。青楓は漱石の葬儀で人目もはばからず泣きじゃくったと言われています。
後に河上肇の影響を受け、プロレタリア美術運動にも関わり、1933年には虐殺された小林多喜二を主題にした「犠牲者」を描いていたところを、検挙されています。絵画の技法、様式にも捉われず、当時の社会的風潮にも迎合せず、自由でありたいという心情が、漱石と共感するものがあったのだろうと、私は思います。青楓が「背く画家」であったからこそ、漱石は惹かれ、また青楓も漱石に惹かれたのだと。
津田青楓は1978年、98歳で亡くなりました。
新型コロナウイルス感染が大きな問題になっています。病気、とりわけ感染症は自然災害などとともに、人類が長い間、戦い続けてきたものです。
漱石もこどもたちへのエキリ感染を心配して、水道を引いたと言われていますし、徳田秋聲は1916年、長女をエキリで亡くしています。漱石は、琴のそら音で、恋人がインフルエンザで亡くなるのではないかという恐怖を、親友の家からの帰り、寺の鐘や、深夜の葬列、切支丹坂、巡査の灯り、犬の遠吠えなどを出して表現しています。翌日、彼女の家を訪れると元気で、そうなると気分も晴れ晴れと、神楽坂にその思いを表現しています。それにしても、今回の事態。いつになったら晴れ晴れとする日が来るのでしょうか。自分以外、家族全員亡くなったと言うような、スペイン風邪流行時の話を思い出すたび、感染症の怖さを感じます。今回も、家庭内感染をどう防ぐかが重要と言われています。情報の溢れた時代、何を信じて良いかわからない状況ですが、その中から正しい情報を嗅ぎ分ける能力を持ちなさい、と言うのが
、漱石からのメッセージではないかと、私は思います。
伊香保温泉に行ってきました。温泉でのんびりしたいという思いもありましたが、伊香保を選んだ理由はもちろん漱石が訪れたところだから。漱石は夏休みを利用して、1894年7月25日、伊香保へやって来ました。
こうなると、どうやって伊香保まで行ったか気になるのが私の性分で、漱石は7時25分に上野停車場発の汽車に乗ったことを小屋保治宛手紙に書いています。おそらく、高崎で降り、渋川行きの馬車鉄道に乗ったと思われます。高崎線と呼ばれ、漱石が行く一年前の1893年9月1日に開通。約21km。前橋から渋川へ行く馬車鉄道前橋線も漱石が訪れる1週間前の7月17日に全線開通しています。漱石がどちらを選んだかわかりませんが、当時の情報を考えれば、高崎の方が可能性は大きいでしょう。とにかく漱石は新しく鉄道が開通し、便利になると、そこをめがけて出かけています。渋川から伊香保に鉄道が開通するのは1910年ですから、当時は渋川から徒歩。距離約13km、高低差約500m。と言っても、漱石も、他に訪れた文人たちも、何も書いていません。歩いてたいへんだったら、書いたはずです。漱石が訪れた当時、伊香保は人気の温泉で、大勢の人が訪れています。女性も、外国人もみられます。駕籠、馬が使われた記録があり、人力車、馬車も使用されたようです。地形に合わせて、これらを組み合わせ、ひとつの交通システムがつくりあげられていたと、みることができるでしょう。江戸時代なら、江戸から4日以上かかった伊香保へ、漱石はその日の夕方6時頃、到着しています。
漱石は石段街の中ほど、江戸時代からの老舗木暮旅館に泊まろうと思ったものの、満室と断られ、番頭に探してもらって、萩原旅館に泊まったとされています。萩原旅館というのは、じつは当時も存在しません。しかし、萩原亀太郎が経営する丸本屋、萩原重朔が経営する松葉屋が、木暮を出て石段道を横断したところに、並んで建っており、そのどちらかに泊まったものと思われます。北向きの6畳だが、部屋からの見晴らしが良く、少しは満足したようです。丸本屋は丸本館として現在も営業。木暮は移転して石段街を離れ、跡地は現在駐車場になっています。
漱石は木瀬村(前橋の東郊にあり、現在は前橋市に編入。木瀬中学校として木瀬の名が残っている)に帰省中の小屋保治に手紙を出し、来るように誘います。前述のように1週間ほど前に前橋から渋川へ馬車鉄道が全通しており、小屋は行きやすかったでしょう。この先の漱石と小屋については書くまでもありません。
伊香保温泉には旅館・ホテルも多く、どこに泊まろうか迷ってしまいますが、私は眺望の良さを優先し、石段街からは少し離れているものの、「送迎しますよ」とのご主人の応対の良さにほれ込んで、某荘を予約。五階の特別展望客室を用意していただきました。伊香保は北向きに開けたところで、漱石も北向きにひっかかりながら、眺望の良さに満足しています。私の部屋も、横手山から谷川岳、武尊山、日光の山並み、近くは赤城山まで、窓からパノラマが開かれ、明るく清々して、大満足。やはり、雪山の見える季節は良い。北向きのイメージがすっかり変わりました。お料理もベースになる味をもちながら、一品一品が料理としての個性をもっている。器も多くが同じ窯元で揃えられ、ご主人の味や料理に対するこだわり、確かさが伝わってきます。チェックアウトの時に、ご主人が豆から挽いていれてくれたコーヒーが、すべてを物語っているようでした。
旅館のご主人、観光協会の方、ハワイ王国公使別邸(記念館)のスタッフの皆さん、などなど、温泉とともに人の温もりを感じる伊香保でした。
来館者4万人を超えました。ほんとうにありがとうございます。
三文豪に新しい文章を追加しました。三人の作品の中からいくつか選んで、「東京」をキーワードに書いていきます。漱石の時もそうですが、ひとつの作品を何十回と読み返し、書いていく作業は、一見、たいへんそうですが、読むごとに新たな発見があり、それがとても楽しみであり、作業を進める原動力になっています。そして、一読では、いかに多くのことを読み落としているか、知らされます。もちろん、秋聲の作品は一読で話の流れ、前後関係を把握することが困難で、何回か読み返さなければなりませんが・・・。
つぎに新しい作品に関する文章を掲載するのが、いつになるかわかりませんが、楽しみながら作業を続けていきたいと思っています。
新型コロナウイルスのニュースが連日報道されています。鏡花が生きていたら、一歩も外へ出ることができなくなっていたかもしれません。鏡花ほど繊細になる必要はないかもしれませんが、手洗い、じゅうぶんな加熱は感染症対策の基本ですから、鏡花から学ぶことはありそうです。明治以降もさまざまな感染症が、この日本でも流行しました。漱石も、秋聲や犀星も、とくに子どもが感染症にならないよう、とても気を配っていました。微笑ましくも、温かなものを感じます。
室生犀星記念館へ行って来ました。北陸では弁当忘れても傘忘れるなの言葉がありますが、時折の雨に、記念館のスタッフが親切に対応してくれました。ありがとうございました。赤井ハツの写真に接することができました。加賀乙彦さんが犀星の遠縁になることもわかりました。加賀乙彦さんと言うと、漱石に関する文章もたくさん書いておられます。加賀というから、金沢に関係あるかと思っていましたが、ほんとうにそうでした。それにしても、金沢は外国人観光客にも人気があるようで、賑わっていました。
あけましておめでとうございます㊗️
今年もよろしくお願いいたします。
2019年から2020年へ。この一年、ご来館ありがとうございました。漱石気分、漱石こぼれ話ともに、当分、追加を予定していませんが、三文豪の方は、三人の生涯の紹介を終わり、東京を舞台にしたいくつかの作品について、順次公開していく予定です。新しい年もご来館をお待ちいたしております。どうかよろしくお願いいたします。
12月9日、漱石忌が近づいてくると、漱石に関する記事をあちらこちらで目にします。すでに死後103年になろうとしているわけですが、いまだに関心を集め、漱石について何か書いてみたくなる。稀有な人物のひとりであり、そして何よりも今も漱石は生きているかのようです。
漱石の研究においても優れている文学者坪内稔典先生が、実は『明暗』は完結していたと述べていることを知り、新鮮な衝撃を受けました。『明暗』は1916年5月26日から連載が始まり、12月14日、188回をもって、作者の死去によって終了しました。死後数日連載できたのは、11月21日に188回分まで執筆していたから。客観的に漱石の病状はかなり悪化し、あまり長くないと感じさせたかもしれませんが、本人も家族もこのように早く死を迎えるとは思ってもいなかったでしょう。漱石も『明暗』について、もっと先まで構想をもって執筆していたでしょうから、完結と言って良いものか。水村美苗さんは『続明暗』などという小説も書かれています。
けれども、坪内先生の述べるところに耳を傾けると、『明暗』はあの場面で終わっても不自然ではないなと思えてきます。ひょっとしたら、すでに天命を知った漱石は、その導くままに『明暗』を完結させていたのかもしれません。
もちろんこれは私の妄想かもしれませんが、けれどもちょっと見方を変えると、そもそも小説で「完結」とはいったいどういうことでしょう。『吾輩は猫である』は吾輩が死んでしまったので、「完結」と言えるでしょう。けれども、『三四郎』だって続きを書こうと思えば書くことができるし、『門』でも『行人』だって書けます。『こころ』も、私のその後を書いていくことはできます。つまり、ほとんどの作品が「完結」ではなく「絶筆」なのです。無理やり作者自身が幕を下ろしてしまっただけです。
人生という甕の中に落っこちた漱石は、甕の中から這い上がろうと、がりがりと甕のふちを引っかきながら、必死で最期までもがき続け、ふっと力を抜いてすべてを天にゆだね、1916年12月9日(土曜日)午後6時30分、甕の中から旅立って行きました。吾輩のように、「南無阿弥陀仏」を唱えていたか。それは私にはわかりません。
高知県立文学館へ行って来ました。私に小説を書くことを完全に諦めさせてしまった「三宮さん」(宮尾登美子さん・宮本輝さん・宮部みゆきさん)の一人、宮尾登美子さんの展示室もあり、一度、訪れてみたいところでした。それにしても、高知県出身の小説家・詩人などのじつに多いこと。その中でも寺田寅彦は一部屋与えられ、漱石の名前も頻繁に出て来る。漱石ファンにはたまらない一部屋です。一葉に恋心?を抱き、森田草平とも親しく接した馬場孤蝶、漱石がおおいに関心を寄せた幸徳秋水。漱石だけでなく、鏡花を押し上げることに大きな役割を果たした田岡嶺雲。文学館とは直接関わりはありませんが、秋聲が『仮装人物』で登場させている浜口雄幸も現在の高知市出身。高知は坂本龍馬だけではありませんね。漱石がらみで言うと、漱石が生まれたのは1867年2月9日。龍馬が暗殺されたのは12月10日。10ヶ月ほどですが、この地上において同じ時を過ごしたことになります。
夕食は美術館通の電停で降りて、南へ5分ほどの西村商店。おまかせコース(込2750円)で頼んだら、次つぎ、出るは出るは、刺身の盛り合わせや、あら炊きも二頭。7品が手抜きなく、一つ一つの量がすごい。そして、締めのデザートも本格的。あまりの感動に、ついつい、つぶやいてしまいました。(今、「これはあくまでも個人の感想です」というテロップが流れています。)

漱石と走る東京2020オリンピックマラソンコース、という題で書こうと思っていた矢先、マラソン札幌開催の話が浮上して、書くことを一旦中止しました。漱石は札幌までは行ったことがないので、漱石と走るというわけにはいきません。漱石がオリンピックに対して、どのような考えをもつかわかりませんが、今回の事態、どうみるでしょうか。8月の東京開催そのものに、何か言うかもしれませんし、オリンピックそのものについて、何か言うかもしれません。いろいろな出来事が起こるたび、漱石なら、と意見を求めたくなります。漱石がコメンテーターを務めるニュース番組を観てみたい、そんな気がします。百年も前に亡くなった漱石ですが、何か現代に生きているような気がする、不思議な存在です。
デイリーBOOKウォッチ(2019年2月27日)に、「夏目漱石がもしも、森田療法を受けていたら・・・」というタイトルを見つけました。これは、山崎光夫著『胃弱・癇癪・夏目漱石』(講談社、2018年10月10日)を紹介したものです。当館にも、「漱石気分」の「8.漱石は精神病だった?➂」および、「漱石こぼれ話」の「24.浄土真宗の教えから語る漱石」に漱石と森田療法の関係について記しています。参照していただければ嬉しいです。
もうすぐ10月。1910年の漱石はこの時期、まだ修善寺に療養生活を送っていました。1923年の犀星は震災後、まだ金沢へ戻ることも出来ず、田端にいました。きっと、朝子の泣き声が聞こえたことでしょう。別館三文豪、犀星の部屋に、4.文壇に地位を築く、を掲載しました。昭和戦前の犀星を紹介しています。
先日、NHKの「ダーウィンが来た」に登場したカエルの映像について、漱石の『門』という作品に描写されていることを紹介しました。NHKの番組スタッフにもそのことを紹介しましたら、この度、丁寧なお礼のハガキが番組スタッフから届きました。やはり嬉しいものですね。今月の番組では、東京の生き物たちがけっこう出てくるようです。蛍は出てくるかな。漱石は『それから』で、電灯がつくようになり、明るくなったので、最近は蛍をあまり見かけないというような記述をしています。百年以上前のことです。さすが漱石というか、このようなところまでも観察していたんですね。
今朝、九月一日の某紙コラムに、石井正己著「文豪たちの関東大震災体験記」などを引用した文章が掲載されていました。芥川は夏目漱石の書1軸を風呂敷に包んだだけで避難準備。泉鏡花は観音像を、井伏鱒二はカンカン帽を持ち出したと。谷崎潤一郎が箱根で関東大震災に遭ったことにも触れられています。自然の脅威を私たちは止めることができませんが、災害をなくし、あるいは被害を減らして行くことは、できそうです。防災の日、そして二百十日。九月も気が抜けません。
おかげさまで来館者が3万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。ところで、九月一日は関東大震災が発生した日です。これに合わせて、鏡花、秋聲、犀星、三人の関東大震災について、別館三文豪に文章を掲載しました。潔癖症の鏡花がどのように避難生活を送ったか、娘が生まれて間もない犀星の不安な震災体験、金沢にいて大震災を体験しなかった秋聲、三人三様の関東大震災を紹介しています。芥川龍之介も出てきます。よろしく。
今日、8月27日は岩波茂雄の誕生日です。1881年に生まれました。森田草平と同じ年です。 学生時代、5歳年下の藤村操の自死に大きな衝撃を受けました。岩波書店を創立した茂雄ですが、漱石なくして、今日の岩波書店はなかったと言えるでしょう。「今日は何の日」みたいですが、今日8月27日は、1881年に岩波書店を創立した岩波茂雄の生まれた日です。
8月18日、日曜日放送の「ダーウィンが来た」。今回は東京に住んでいるツバメやタヌキなどが登場しました。その中に、カエルが産卵のために移動する姿がありました。メスのカエルの上にオスが乗って、平地ばかりではありませんし、落ちてしまうもの。車や人間に踏まれるかもしれません。まさに生命がけの移動です。しかもこの移動にカエルの未来がかかっているのです。その場面を観ながら、ふと思い出したのが漱石の『門』の一場面です。紀尾井坂に近い清水谷公園の方から、外濠の弁慶濠の方に向かってカエルが大移動するのです。『門』22。宗助が坂井の家を訪れる。話し好きの坂井はこんなことを話し始める。--「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別に御目出度もありませんが、其所が物は比較的なところでね。私は何時か清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。(中略)彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流れの中に、春先になると無数の蛙が生まれるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互いの睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数が殆んど勘定しきれない程多くなるのだそうである。「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分からないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。(後略)」--しかしながら、安井が坂井とつながっている以上、友人安井の妻を奪った宗助は、安井に頭を破られるのではないかという不安が、蛙の話しから大きく膨らんでしまうのです。「ダーウィンが来た」がまさか漱石に結びつくとは思ってもみませんでした。あらためて、カエルの夫婦が大群でゆっくりと行進する様が思い起こされます。
残暑お見舞い申し上げます。と言っても、この残暑の季節が十月までも続くようになりました。子どもの頃には、お盆を過ぎると秋の気配を感じるようになっていたものですが。それにしても、この年令になっても、八月の下旬というのは、夏休みが終わってしまう憂鬱が思い出され、何となく気分がすぐれなくなってしまいます。終戦の日を前後して、当時を振り返るさまざまな番組や記事が目に止まります。考えてみれば、すべて漱石の死後のことであるわけです。今、八十歳を超えるのが当たり前のようになっているわけですから、漱石も戦争を経験し、終戦を迎えていたとしても不思議はありません。もしそうであったなら、漱石はどのような思いで、終戦を迎えたでしょうか。
金沢には三文豪それぞれの記念館があります。泉鏡花記念館では、企画展、「みんみいー泉鏡花が愛した少女ー」。みんみいは7歳でこの世を去った、鏡花の家の筋向かいの女の子。9月1日まで。徳田秋聲記念館では、「室生犀星生誕130年記念企画展ー徳田さんと僕」11月4日まで。室生犀星記念館では、室生犀星の生誕130周年記念展「犀星発句道」11月10日まで。詳しくは各記念館のホームページで確認してください。
「漱石と歩く東京」112ページ。銀座資生堂前にある交番ですが、すでに廃止されました。資生堂前が何かすっきりした感じですが、歴史ある交番がなくなるのは寂しい感じがします。なお、近隣の銀座八丁目交番は明治の頃から、ほぼ変わらないところに存在しています。同書を書いてすでに八年ほど経過しているため、変化していることもあります。気がつき次第、つぶやいていきます。情報提供もお待ちしています。
昨日、思い切って上野精養軒で食事をしました。漱石の作品にもたびたび登場する精養軒。その頃から、高級でおカネがないと入れない。漱石も経済格差を描く物差しとして作品に登場させていました。精養軒で食事をできるようになると、何となく格が上がったような。そんなわけで、何回も精養軒の前まで行って引き返し、不忍池の方から見上げたり。一度も中へ入ることなく過ぎてきました。そして昨日。ついに意を決して中へ。手頃と言っても昼食にはかなり高い1600円余のオムハヤシライス。お昼時で、しばらく待たされてから案内されたのは店の片隅の席。ちょっぴりいじけた気持ちになりましたが、何と食堂全体を見渡すことができる特等席ではありませんか。食べたとたん、薄いと感じた味でしたが、肉は臭みなく、軟らかく、程よく脂身を含み。不自然に味付けや匂い付けされた感じがなく、素直な味。食べ終わった時の満腹感はありませんでしたが、満足感はバッチリ。さすがでした。その後、充たされた思いで谷根千を歩きました。
現在、勝手に漱石文学館の別館を建設中です。ここには、加賀百万石の城下町金沢が生んだ三文豪、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星に関する私の文章を順次、掲載する予定です。漱石の作品は、今でもよく読まれていますが、鏡花の作品は今でも、とくに演劇において、よく上演されています。犀星の『蜜のあはれ』は現在の作品としても、じゅうぶん通用する作品です。金沢に興味のある方も、開館したら、ぜひ訪ねてみてください。
『漱石と歩く東京』の訂正です。

第4章 上野を歩く
 塩原昌之助の家 73ページ
 日根野れん(平岡れん)の学歴について、1888年に東京で初めて高等女学校(後の第一高等女学校、現在の白鴎高校)ができると、さっそく入学し、卒業を果たしている。高等女学校は現在の白鴎高校の位置にあたるので、下谷区西町の塩原家から300m程の、きわめて近い所であった、と記述してあります。しかし、その後の調べで、東京府高等女学校(1888年設立)が現在の白鴎高校の位置に移転したのは1903年で、それまで築地にあったことがわかりました。したがって、塩原家から近いという記述は誤りです。れんは片道4km近い道を通学したことになります。徒歩が当たり前の時代、通えない距離ではありませんが、ここでもうひとつ、1882年設立された東京女子師範学校附属高等女学校(1886年、官立東京高等女学校に改組)が竹橋にあったことを私は知りました。地下鉄東西線九段下・大手町の間に「竹橋」という駅があります。築地より1km以上近く、れんが1885、6年頃に陸軍中尉(あるいは少尉)平岡周造(1860~1909年)と結婚したことを考えれば、竹橋の高女へ通っていた可能性が高いかもしれません。この高女には、後に三宅雪嶺の妻になる花圃も同じ頃に在籍、卒業しています。
 
第5章 浅草・両国を歩く
 吉原(新吉原) 81ページ6行目
 (誤)日本橋分署⇒(正)日本堤分署

静岡県中部、お茶処を抱える牧之原市の教育委員会が発行している文芸まきのはら第13号に、文人俳句夏目漱石五十選が掲載された。書いたのは大石孝さん。漱石の学生時代から、漱石山房まで、時代を追って、作られた俳句から50句を紹介。解説を加えている。楽寝昼寝われは物草太郎なり、という句も紹介されている。生き残る吾恥かしや鬢の霜、という、二人の兄が早く逝ったことと、修善寺の大患をくぐり抜けた漱石の心境を詠んだものもある。漱石の新たな一面を知ることができる大石孝さんの文章だった。
いよいよ10連休。東京の街歩きをされる方も多いのではないかと思います。
神楽坂を歩かれる時には、ぜひ文悠書店へ寄ってみてください。『漱石と歩く東京』を販売しています。黄色い表紙が目印です。文悠書店さんは、リニューアルされたとのことです。漱石はよく坂を描いています。
漱石山房記念館の入館者が2月27日に6万人に達したそうです。おめでとうございます。当文学館は比較するべくもないかもしれませんが、おかげで、2万人を超えました。ほんとうにありがとうございました。今日は、お彼岸の中日で、彼岸過迄という小説の題名を思い出しますが、今日は漱石の長兄大助の命日です。漱石より10歳年長の大助は、1887年、肺結核によって、31歳で亡くなりました。このような情報を提供してくれる「日めくり漱石」は当文学館のリンクから直接アクセスすることができなくなりました。リンクからアクセスすると、サライのページに入りますので、検索のところで、「日めくり漱石」と入力して検索してみてください。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と浄土真宗に関する話を公開する予定です。今後とも勝手に漱石文学館を、よろしくお願い申し上げます。
ある方から質問されました。なぜ2月だけ28日なのか。全部30日にして、はみ出す5日を31日ある月にして、うるう年だけ、31日ある月が6回あるようにすれば良い。確かに。さて、2月28日、漱石を朝日新聞に引っ張った池辺三山の命日。1912年2月28日、三山が亡くなった。49歳。午後11時頃、その報を受けた漱石は人力車で三山の自宅へ向かった。同じ牛込区の若松町に三山の自宅があった。その漱石も4年後、49歳で亡くなった。
旧制一高で論理学を教えた松本源太郎のえんま帳が福井県で見つかった。漱石の成績は一学期80点、二学期90点で、30人ほどの受講生でトップ。けれど、二学期だけで言うと、米山保三郎が94点と、漱石の成績を上回る。米山は金沢の出身で、漱石の親友、漱石が文学の道を目指す大きなきっかけを与えた人物である。それにしても、有名人になると、100年以上経っても、成績を公表されてしまうのだな。自分自身の成績は公表される心配などないと、安心しながら、ふと、そんなことを思ってしまう。
新しい年の始まりです。猫も冒頭の項で新年の様子が描かれています。年賀状も出てきます。吾輩が描かれたものもあります。のどかな新年の風景ですが、日露戦争の真っ最中でした。今年、2019年のお正月は、それに比べれば、のどかに始まったと言えるのでしょうか。本年も勝手に漱石文学館、よろしくお願い申し上げます。
いよいよ年の瀬。漱石はいくつかの作品で年の瀬を描いています。猫では冒頭で12月。しかし年の瀬を描くことなく、二で新年になっています。門では10でもうじき正月と御米が小六に。11で神田の通りで暮れの売り出しが行われている様子が描かれています。13では、宗助が正月に向けて床屋へ行っています。15では、小六が大晦日の夜の景色を見ると言って、銀座や日本橋へ行き、年が明けて帰宅します。道草では94で、年は段々暮れて行ったで始まる。97では、人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。こんな書き出しで、暮れの賑わいと、自分の人生を自問自答する健三。「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」少なくとも彼自身は何も買わなかった。こんな健三の姿。年暮れの哀愁がなぜか今、共感をよぶ。漱石の時代も現代も、年の瀬とはこのようなものなのだろうか。
今年も巡ってきました。今日は漱石忌。没百年を早くも二年過ぎてしまいました。漱石忌も季語になっているようで、一句いかがでしょうか。私はまだ浮かびませんが。
いよいよ今日から12月。早いものです。漱石忌も近づいてきました。
連載漱石気分は、予定した原稿の掲載を完了しました。漱石こぼれ話は、短文、単発ですので、今後も連載していきますので、よろしくお願いいたします。近日中に、漱石と中勘助を公開する予定です。お楽しみに。
来館者がついに一万人を突破しました。一万人目の方には、一般的には、記念品をお渡しし、くす玉でも割るのですが、そのようなこともなく、申しわけありませんが、一万人目の来館者になられた方、おめでとう🎉ございます。
あと少しでこの文学館も開館1周年を迎えます。来館者も一万人目前。予想もしなかった人数で、ほんとうにありがとうございます。今後とも、漱石ともどもよろしくお願いいたします。
漱石とまったく関係ないけれど、今日はどうしてもつぶやかなければならないことがある。ついにその時が来た。安室奈美恵引退。いちご白書と言うドラマで初めて彼女を観て、すっかり引き込まれてしまった。主役ではない。演技が上手いとも言えない。
けれども、その素朴さに惹かれた。彼女がスーパーモンキーズの一員であることがわかり、やがてメンバーが一人増えて、安室奈美恵wlthスーパーモンキーズになり、バックの方がマックスとして、先に売れてしまい。とにかく25年間、応援してきた。今、1993年のCDを聴きながら、当時からけっこう声が出ていたんだな。声もとっても魅力的。25年間、ありがとう。安室奈美恵!
三四郎は文面から初めての上京のようだ。それでは、三四郎はどこで東京帝国大学の入学試験を受けたのだろうか。結論は簡単だった。三四郎の頃、日本には、東京、京都、東北の三つの帝国大学があったが、当時、全国に七つあった高等学校、つまり旧制高等学校から、帝国大学は無試験で入学できた。三四郎は熊本の第五高等学校に学んでいたから、無試験で東京帝国大学入学の切符を手にしたのである。と言うことは、いわゆるナンバーのついた高等学校入学が帝大への道で、必然的に狭き門となっていた。泉鏡花や徳田秋声もこの狭き門に挑戦して破れ、結果的に文学の道で成功を収めることになる。漱石は学歴でも文学の道でも成功を収めた、とんでもなくすごい人物である。なんか、そう言えそうだ。
9月になり、夏休みも終わり、学校が始まる。二学期のところもあれば、後期のところもあるだろう。私の子どもの頃は夏休みは8月一か月であったが、その後、夏休みは長くなった。しかし、昨今、夏休みは短くなる傾向がある。大学は依然として、二か月が多いのだろうか。三四郎を読んでわかるが、当時、大学は9月から新しい学年が始まった。三四郎の上京も、暑い時期であったことが、冒頭から少し読み進めばわかる。もともと寺子屋などに入学時期などなかったが、明治になり、西洋式に9月が入学時期と定められた。けれども、徴兵令の関係で、高等師範学校が1887年に4月入学を採用し、その後、4月入学が増えていった。日本に二つの入学時期が並存する時代を経て、1919年に旧制高等学校、1921年に帝国大学が4月入学に移行して、日本全国、4月から新学年と言うことになった。
今年は台風が多く、各地で大雨が降っています。漱石が修善寺に行った夏も、台風に大雨。東京も大きな被害が出ました。今日、24日は修善寺で漱石が危篤に陥った日。修善寺の大患です。それにしても漱石は、その時の様子を見ていたのではないかと思うくらい克明に、当時の状況を描いています。
夏休み、そしてまもなくお盆休みですが、当館は年中無休、24時間開館しています。ぜひ、お休み中の期間も当館にお越しください。お待ちいたしております。
1910年8月6日、漱石は修善寺の菊屋旅館に到着しました。ところが、台風が近づいて、8日、9日に東海地方で大雨が降り、10日には伊豆、11日から13日にかけては関東一円に大雨が降りました。とにかくこの時、前線が停滞し、台風が二つもやって来て、前線を刺激したのですから、長時間にわたって大雨が降る条件はそろっていました。今、日本列島に台風が接近し、前線もある。嫌なことに、何やら1910年8月と似ています。近日中に、「東京大水害」を漱石こぼれ話に掲載します。
8月を前に、おかげで来館者が7000人を超えました。ほんとうにありがとうございます。
さて、台風が東日本から西日本へと横断して行きました。前例のないことで、気象庁も今まで経験したことのない事態が起こるかもしれないと、警鐘を鳴らしていました。いろいろなことに関心を示す漱石ですから、もし漱石が生きていたら、「寺田君、これはどう言うことだね」と説明を求めていたかもしれません。「猫」で寒月は「なんぼ越後の国だって冬、蛇が居やしますまい」と言ったのに対し、苦沙弥先生、「鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」と答えている。想定外の出来事が続く昨今、鏡花の小説の世界が、けっしてあり得ないことではなくなってきているかもしれません。
九州、中国、四国、近畿、岐阜など、全国各地で大きな水害が発生し、多くの犠牲者が出てしまいました。被害にあわれた皆様にお見舞い申し上げます。岡山でも大きな被害が出ました。ふと思い出したのが、漱石が岡山で水害にあったことです。明治25年、1892年、7月に子規と旅に出た漱石は、いっしょに京都、大阪をまわり、神戸で子規は松山へ、漱石は岡山へ。11日に岡山に着いた漱石は旭川沿いの片岡家に逗留。片岡家は次兄の妻小勝の実家で、1887年に次兄が亡くなったため、小勝は実家に戻っていた。16日、漱石は小勝の再婚先の岸本家を訪れ、19日に片岡家に戻った。片岡家は岡山市内の内山下町138番地。岸本家は海岸に近い、西大寺金田にあった。23日から24日にかけて、岡山は大雨に見舞われ、旭川が氾濫。浸水が始まり、漱石は本の入った柳行李を抱えて、当時の県庁付近へ避難した。片岡家は床上150センチの浸水だった。漱石たちはしばらく、当時の県庁近くの光藤家に避難。この大水害で、岡山県内、74人の方が亡くなった。思いもかけない災害に直面した漱石は、8月10日、子規のいる松山へ旅立った。

映画「万引き家族」を観てきました。映画に出てくる5歳の女の子と、先日、文章を残して亡くなった女の子が重なり、涙してしまいました。亡くなったおばあちゃんを埋め、生きていることにして、年金を受け取る。今の日本。映画に出てくるひとつひとつが「ある、ある」の状況です。けれども、海外の人びとにとっては、このような映画が日本でつくられたという事実に衝撃を受けた人もいるのではないでしょうか。ところで、この映画を観ていて、また私のクセが出てしまいました。「この家族が住んでいるところは、どこ?」スカイツリーの見え方から、数キロ離れたところ。専門家ならわかるかもしれませんが、私には、どこから見ても同じ形に見えるので、スカイツリーの北か南かは不明。川は隅田川だろう。墨田区、足立区、荒川区が該当しそうだが、電柱広告の住所表示に、ちらりと荒川と見えたような。私鉄電車も映っている。東武と京成が考えられるが、なんとなく京成のような。ということで、荒川区荒川が設定場所であり、ロケ地ではないかと。日本の家族のあり方を問いかけた映画だから、設定場所がどこだって良いのだけれど、性分だから仕方ないですね。漱石は、とても家族思いで、家族を大切にしました。家族の方はどう思っていたかわかりませんが。『行人』など、家族を書いた作品もある漱石ですが、現代に漱石が生きていたら、家族をテーマにどんな小説を書いたでしょうか。新聞の連載小説ですから、今起きているさまざまな事件、問題を作品の中に描きこんだことでしょう。
勝手に漱石文学館開設から半年。思いのほか多く方がたにご来館いただき、おかげで来館者数5000人を超えることができました。ほんとうにありがとうございました。これからも内容の充実に努めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
18.鏡子の出生地続編の間違いを訂正しました。漱石が亡くなった時、鏡子さんはまだ38歳。今の基準からすれば、ずいぶん若かったですね。あれこれ言われますが、漱石にとって、鏡子さんは最良の妻だったのではないでしょうか。鏡子さんにとって、漱石が最良の夫だったかわかりませんが、夫が亡くなって100年経っても、こうして話題になる妻も、そうそういないでしょう。現実の扱いはともかく、妻というものは大切にしなければならない、明治の男性にあって、漱石はそう思っていたようです。
漱石こぼれ話に掲載した「18.鏡子の出生地続編」。文中、「これはきっと、図書室の机の上かどこかに忘れてきたに違いない の後に、」を入れ忘れました。また、横浜が一か所、横花になっていました。しっかり校正して、掲載すべきと、反省。
近日中に、漱石山房記念館へ行った収穫の文章を漱石こぼれ話に掲載する予定です。先月紹介したギター音吉様のブログに明暗が登場しました。続明暗についても詳しく紹介されており、興味深いです。最終回に漱石と歩く東京も紹介くださり、嬉しいです。
ついに漱石山房記念館に行ってきました。図書室では漱石関連の本がたくさんあって、何冊か読みました。それにしても漱石に関わる本の何と多いことか。漱石の幅の広さも感じます。漱石と歩く東京、も並んでいました。黄色い本は目立ちます。
ギター音吉様から21世紀の木曜会にご参加がありました。嬉しいです。木曜会と言っても曜日に関係なく参加できますから、皆様の来訪をお待ちいたしております。
漱石こぼれ話、16交番の位置、において、日本堤分署の現在を、交番になっていると書きましたが、警視庁第六方面本部になっていることがわかりました。交番より敷地が広いから、警察施設でも、それなりの施設に引き継がれたのですね。
3月17日は平出修の命日。
大逆事件の弁護を担当した平出は、1914年、37歳の若さで亡くなりました。平出は弁護士であり、与謝野鉄幹の率いる明星派の同人であり、石川啄木とも親しくしていました。啄木は平出から大逆事件の真相に迫る情報を入手し、一部は漱石にも伝えられていたようです。大逆事件から2年後、啄木が亡くなり、その2年後、平出が亡くなり、神田青年会館で行われた式には漱石も参列しています。それから2年後、漱石も世を去りました。
今日3月7日は小宮豊隆の誕生日。漱石の門下生の中では、もっとも真面目な人物かもしれません。三四郎のモデルとも言われています。漱石について、詳しい著作もあります。漱石先生を擁護する面も見られますが、全般的に感情移入せず、淡々と書いています。小宮は東京オリンピックも過ぎて、亡くなりました。
3月2日、明日はひな祭りという、ひなの宵を迎えました。このように書き出すと、何となくわかります。漱石の幼くして亡くなった五女雛子の誕生の日。子ども好きの漱石が大きなショックを抱えながら、書き上げた『彼岸過迄』に、宵子として登場します。漱石の雛子に対する思いが詰まった作品です。漱石の作品には、息子達や、娘達が登場します。描かれた字数だけで比べることはもちろんできません。漱石は子ども達を等しく愛していたことでしょう。ただ、字数だけから言うと、雛子が圧倒的に多いように思われます。
今日2月28日は池辺三山が亡くなった日です。三山は朝日新聞主筆で、漱石を朝日新聞に引き抜いた人物としても知られています。引き抜く方も、引き抜かれる方も、冒険だったと思いますが、二人の信頼関係がそれを可能にしたのだと思います。亡くなる前年に朝日を退社していた三山ですが、漱石は三山の死に大きなショックを受けます。三山の葬儀に参列した漱石ですが、それから四年後、漱石も同じ49歳でこの世を去りました。
まもなく三月。ほんとうにはやいものです。この勝手に漱石文学館もおかげで来館者2200人を超えました。ほんとうにありがとうございます。パソコンで文章を読むと、横に伸びて読みにくいとのご意見をいただきました。PDF形式で読んでいただければ、読みやすくなると思います。
今日2月23日は
富士山の日。
そう言えば、漱石は二回、富士山に登りました。交通機関の不便な中、よくも行ったものです。私も二回、富士山に登りましたが、もう登りたくないですね。やはり富士山は登る山ではなく、眺める山です。批判精神旺盛な漱石も、富士山だけは、褒めています。汽車の窓から眺める富士山。漱石が書いた富士山はすべて登りの汽車でした。
今日2月22日は猫の日。猫と言えば、日本でもっとも有名な猫は、吾輩は猫である、の猫であろう。名前がないので、有名というのもへんだが、まあ、仕方ない。ところで今日は、高浜虚子の誕生日。吾輩は猫である、の発表の機会をつくり、文豪漱石を世に送り出していった虚子が、猫の日の生まれというのも、因縁の深さを感じさせる。そんな2月20日、猫の日でした。
ニャー。
今日は石川啄木の誕生日です。1886年2月20日、啄木は生まれました。1908年に3度目の上京を果たした啄木は森田草平らと出会い、翌年、朝日新聞社に入社。1910年に、長与胃腸病院に社用を兼ねて、入院中の漱石のもとを訪れました。1912年、啄木は草平を介して、漱石の妻鏡子から借金。結局、啄木は17円借りたまま、4月13日、借金の返済をすることのできないところへ旅立ってしまいました。葬儀には漱石も参列しました。近日中に、漱石こぼれ話に、漱石と啄木を掲載します。お楽しみに。
漱石気分や、漱石こぼれ話をパソコンでご覧になられる方がた。PDF版を利用していただくと、読みやすいと思います。
今日2月10日は平塚雷鳥の誕生日です。漱石より19歳ほど年下です。漱石がどのくらい雷鳥に会ったかわかりませんが、三四郎に出てくる美禰子は確かに雷鳥に似ています。漱石の門弟森田草平と恋に落ち、雪の逃避行をおこなった雷鳥。漱石は草平のために再出発の機会を与えます。雷鳥は近代日本の女性史に足跡を残しながら、日本の高度経済成長も見届け、85歳の生涯を閉じました。
漱石の胃病は深刻な顔をして、悩んでいた結果ではなく、食べ過ぎによるものであると思っています。それを裏付けるかのようなエピソードが日めくりに載っていました。漱石47歳の今日、2月8日、漱石は家族の目を盗んで、後の内田百間から贈られた吉備団子を食べたと言うのです。漱石は甘いものが大好きで、作品の中にも登場します。結局、漱石は吉備団子の一件から2年後、過食による胃病によって生涯を閉じることになります。
北陸地方は大雪になっています。泉鏡花は雪の中、福井県の峠道を越えています。まだ北陸線は開通していませんでした。雪の中でも、この文学館には来館できます。多くの方にご来館いただきありがとうございます。近日中に、漱石気分に、漱石と電車を掲載します。鉄道ファンとしては、書いていても楽しいものです。
一月は行ってしまう。二月は逃げる。三月は去る。などと言われますが、あっという間に一月が終わり、二月になってしまいました。当館も開館三カ月。おかげで1500人を超える皆様に来館いただきました。ありがとうございます。ということで、今日は漱石の話題なしで、つぶやきを終わります。
全国的な寒波。東京でも雪が降ったり。今から120年以上前の1月29日も東京は大雪だったという。漱石は外神田の青柳亭で「英国詩人の天地山川に対する概念」と題して講演した。漱石はこの講演をどうしても子規に聴いてもらいたかった。しかし子規は来なかった。漱石は体調でも悪かったのだろうと考えたが、じつは、一旦家を出たものの、会費の10銭を忘れ、大雪の中、家に戻り、再び出かけることはなかった。10銭がなかったのである。子規は貧窮していた。雪の東京から、漱石に関する話題を拾ってみた。日めくりを参照した。あっと言う間に1月も終わってしまう。
「漱石とぶんきょう」が2月5日〜11日、文京シビックセンター1階にあるアートサロンで行われます。10時〜18時。最終日は17時まで。足を運べる方はぜひ。なお、私はその近くで自転車を借りて、東京の街をさっそうと?走りました。漱石ゆかりの東京は坂が多く、自転車はけっこうきついですが、ブラタモリのつもりで。
東京都心も雪に覆われ、漱石が雪をどのように描いているか探してみたけれど、漱石はあまり雪を描いていません。『門』の16に正月に雪が降ったことが、ほんのわずか、書かれています。雪があまり降らない東京だから、仕方ないのかもしれませんが。雪の東京のニュースを観ながら、ちょっとつぶやいてみました。
今日は阪神淡路大震災から23年目。今から111年前、漱石は長い手紙を野上八重、野上豊一郎の妻に出した。後の作家、野上弥生子に出した。弥生子は大分の大企業、フンドーキン醤油の娘であった。教職よりも作家の道を選んだ漱石だが、終生、教師であったように思われる。
大学入試センター試験が終わりました。地理では、ムーミンが出題され、マスメディアでも話題になっていました。ひょっとしてこれから、漱石のイギリス留学へのコースも出題されるのかしら、などと思ってしまいます。「漱石気分」に「漱石と旅」を掲載する予定です。お楽しみに。
「漱石気分」を拝見するや、「kとは誰か」など惹きつけられる内容が満載で、つい食い入って読んでしまいました。という感想をいただきました。嬉しい感想です。
今日は門弟寺田寅彦再婚の日。漱石も祝儀を贈ったようです。最初の妻
夏子は15歳で結婚、娘貞子を残し、20歳で死去。肺結核。それから三年、寅彦が再婚。少しは心の傷も癒え、漱石もホッとしたことでしょう。漱石の子弟を思う気持ちが伝わってきます。寅彦の二人目の妻寛子とは13年添い、4児に恵まれたが、31歳で、これまた肺結核で死去。その後、寅彦は三人目の妻紳と結婚。先妻二人の残した五人の子どもを育てあげ、70歳過ぎまで生きた。研究者として成功した寅彦も、妻には恵まれなかったと言えるかもしれないが、三人の妻はそれぞれに寅彦を支えたと言えるだろう。
「漱石と鏡花」を公開しました。金沢生まれの鏡花ですが、母親は東京生まれであり、鏡花もどことなく江戸っ子的な雰囲気があります。二人はけっこう意気投合するところがあったのではないでしょうか。
近日中に「漱石と鏡花」を公開する予定です。知られざる漱石と鏡花の関係に迫ります。(どこかで聞いたことのあるような言葉)。お楽しみに。
気がつけば、漱石の誕生日を過ぎていました。命日は有名な割に、誕生日は影が薄い感じです。そんなわけで、今日はすでに七草。正月気分とおさらばしなければなりません。正月と言うと、『吾輩は猫である』は12月に始まり、2章目で新年を迎えます。年賀状が届いています。芸者が羽根をついています。じつにのどかな正月風景ですが、この時、日露戦争の真っ最中だったんですね。確かに文章を読んで、戦時であることはわかるのですが、そんなピリピリした雰囲気は、まったく感じられません。やはり、猫が書いたのかな。
さて、いよいよ迫ってきました。1000人目の来館者になるのは、いったい誰でしょうか。ふつう、くす球が割られたり、花束などが贈呈されるのですが、何もなくてすみません。気持ちだけ受け取ってください。
漱石気分に、漱石の『こころ』がわからない、を掲載しました。その中に、乃木大将が出てきます。今の若者には乃木大将と言ってもピンとこないかもしれませんが、乃木坂46なら、知っているでしょう。乃木坂に続く坂シリーズ、欅坂46。乃木坂から数100メートルのところにあるのが欅坂です。私は、たかがアイドルと思っていたのですが、欅坂46の歌、けっこう辛口のものがありますね。人が溢れた交差点を・・・で始まる、サイレントマジョリティー。「どこかの国の大統領が 言っていた(曲解して) 声を上げない者たちは 賛成していると・・・」。まさにこれは『こころ』を通じて漱石が言いたかったことではないか。そして、「この世界は群れていても始まらない」。漱石が学習院で若者たちにむかって投げかけたメッセージ。さて、欅坂46の歌う、サイレントマジョリティーを、漱石が聴いたなら、どのような感想を書くであろうか。アイドルグループから漱石を考える。やはり漱石は現代を生きているように思われるのです。
『君の名は』が地上波で放映された。
君の名は、と言うと、聖地巡礼が思い浮かぶが、元祖君の名は、の聖地は数寄屋橋である。君の名はに惹かれて、数寄屋橋を訪れた人も多いであろう。そんなことが起きようとも思わない漱石も、幾度となく数寄屋橋を渡ったことであろう。現代の君の名は、の聖地はいくつもある。あり得ないようなストーリーの割に、映し出される風景はじつにリアルであり、そのギャップがなんとも言えない。不思議な魅力を醸し出している。東京の場面では、新宿から四ツ谷にかけて多く登場する。ちょっぴり漱石と関連づけられそうだ。四ツ谷と言うと、漱石の母の出身地である。最後の場面の階段のある坂は、須賀神社のすぐそばと言われている。四ツ谷と言うから、谷が多く、当然、坂も多くなる。漱石も四ツ谷を、そして坂を、作品の中にいくつも登場させている。詳しくは『漱石と歩く東京』に譲りたい。
当たり前のことですが、当館は
年中無休。お正月にもかかわらず来館者があり、嬉しいことです。この三ヶ日、当地は穏やかな日々でしたが、風雪の地域もありました。子どもの頃、日本海側に住んでいた私には、晴れている地域があることなど信じられませんでした。まあ、穏やかに三ヶ日すごした私ですが、漱石も、「一人居や思う事なき三ヶ日」の句を残しています。漱石にしては珍しい心情のように思えます。
あけましておめでとうございます。漱石節目の二年間を過ぎ、新しい出発の年を迎えました。今年もよろしくお願いいたします。
今日は大晦日。年越しになると、去年今年貫く棒の如きもの、という虚子の句を思い出す。何とも力強い句である。虚子は漱石にも大きな影響を与えた。俳句の面はもちろんだが、虚子がいなければ、漱石が猫を書くこともなく、したがって文豪夏目漱石もなかっただろう。漱石は50を待たずに亡くなったが、虚子は85まで生きた。亡くなった二日後に皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式が行われ、ご成婚のパレードはテレビ中継され、私もワクワクしながら観ていた。皇太子殿下も天皇に即位され、30年になろうとしている。漱石が生きた明治はもちろんであるが、なんだか、昭和も急速に遠くなっていく感じがする。
今年も後わずかになりました。勝手に漱石文学館も開館以来、2ヶ月足らずで、延べ800人余りの来館者を迎えることができました。メジャーなところと比べる、まさに月とスッポンですが、スッポンのごとく、元気いっぱい、食いついたら離さない意気込みで、運営していきたいと思いますので、末永くご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
日めくりによると、今日12月28日は、漱石と鏡子がお見合いをした日。鏡子はずいぶん苦労しただろうけれど、鏡子でなければ漱石の妻は務まらなかっただろう。漱石も鏡子のことを思いやり、浮気の噂も伝わってこない。作家の中には、けっこうこの手の話が多いのだが。後の鏡子は貫禄も感じられるが、見合い当時の写真を見ると、なかなか漱石好みである。
クリスマスも過ぎました。猛吹雪の地域があります。そんな中で、漱石は雪の情景を書いただろうか。どうもあまり印象にないのですが。
クリスマスイブ。車内を電飾した電車が走った。日頃、見慣れた車内も一味違う。電飾が当たり前の時代になって
さえ、なんとなく興奮をおぼえるのだ
から、博覧会で電飾を見た漱石は、さ
ぞ興奮おぼえたことであろう。私たち
は今、それを虞美人草から知ることが
できる。東京市内に電灯が普及し始める頃のことである。
京都の水川隆夫先生と言えば、漱石研究の第一人者である。私も漱石について書くにあたって、先生の著書を随分参考にさせていただいた。水川先生は来年一月、『漱石と明治』という本を
文理閣から出版される。今までに発表された小論を、明治の前中後期に時代区分してまとめられたもので、今という時代への警鐘も込められている。今年も後わずか。漱石は道草などでも年の瀬を描いている。百年経過した年の瀬も、ある面、道草の時代と何も変わらない。
前段のつぶやきは、12/24のものであった。一日間違えてしまった。今日は23日だ。年の瀬も近くなると、こんな間違えも起きるのか。いや、これは年のせいで起きたことなもかもしれない。
1905年の今日。漱石は猫のカレンダーを受け取ったという。漱石は筆まめな人で、礼状はもちろん、気遣いの手紙や葉書をせっせと出している。弟子であろうと、読者であろうと、子どもであろうと、分け隔てがない。私はその姿から、ドイツの作家ヘルマンヘッセを思い出す。そして、ヘッセの作品の翻訳家としても有名な高橋健二先生。来年は犬である。犬があって、猫がないのは、深い?訳があるようだ。
今日は安倍能成と藤村恭子の結婚記念日。1912年、二人は結婚し、漱石も参列した。恭子の兄は、あの華厳の滝から投身自殺した藤村操。安倍は操の友人であった。漱石は精神病だった?で書いたように、漱石はこの自殺に少なからず責任を感じており、思いは格別であったのではないか。人間関係を大切にする漱石の生き方が、今日でも漱石の作品が読まれる一因であるかもしれない。
1905年の今日、漱石は上野の伊予紋で行われた会合に出席したそうです。すでに、はた目には成功者となっていた漱石も、プライベートではいろいろな心配事を抱え、束の間の安堵の中、伊予紋での会合に出席したようです。大きなストレスを抱え、それを発散するために、食べる。漱石の胃潰瘍の原因を、ストレスとみるか、食べすぎとみるか。何かそんなことを考えさせる上野の料亭行きでした。

学生時代、京都で過ごし、初めて口にしたものは、冷やし飴と、わらび餅であった。先日、京都へ行った時、嵯峨野でわらび餅を食べようと決めていた。せっかくだから、本格的なわらび餅をと、本わらび粉使用と書いた店に入った。600円くらいを想定していたら、なんと1300円近いではないか。やめて出ようかと思ったが、かえって後悔するだろうと、30分ほど待たされて、席に案内された。わらび餅5個。一個250円以上。しかし、食べてみると、
弾力があり、口の中でとろけるように馴染んでいく。これぞ本物と、満足感。10キロのわらびから、わらび粉70グラムというから、高いわけだ。さて、何度も京都に足を運んだ漱石。食通の漱石は京都で何を食べたのだろうか。本わらび粉使用のわらび餅は食べただろうか。
天理図書館では10月から11月にかけて、「漱石――生誕150年を記念して」と題する記念展を開催していたとのことです。子規と漱石の激しいやり取りを留めた、1891年11月7日付の子規宛書簡も展示されていたとのことで、親友である二人は、じつは随分考え方、生き方も違い、だからこそ、忌憚のないやり取りをし合いながら、親友であり続けたのかもしれません。
新聞にこんな内容の記事が載っていた。子規をあつかったものですが、載っている写真は漱石。若き日、子規は書いて、書いて、書いた。漱石はそんな子規に対して、出してばかりじゃダメ。読んで、入れなければ。そういえば、漱石は、読んで、読んで、読んで、そして、書いて、書いて、書いた。本をたくさん買い、たいへんな読書家だった。じつは、同じようなことを、中学の時、兄から言われた。私は書くことは好きだったが、読まなかった。今もその傾向は変わらない。子規と漱石、生き方は違ったが、二人とも成功した。私の方は、○○○である。
先日、紹介した「ギター音吉」さんのブログ、漱石展の文章を、「北野豊の本」の、『漱石と歩く東京』からアクセスできるようにしました。ぜひ読んでみてください。
漱石忌の影響か、急に来館者が増え、開館以来、500人を超えて、びっくりしました。先日お知らせしたように、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開しました。長いので、三つに分けて、とりあえず1と2のみの掲載ですが、自分なりに力を入れて書きました。
漱石が亡くなり、その翌日、漱石の解剖がおこなわれました。漱石の意を汲んだ鏡子の申し出と言われています。今から100年も前の話ですから、ある面、ものすごく進んだ考え方と思います。漱石の作品を読み、また鏡子の様子を知るにつけ、100年後の今とまったくずれていない。これが、漱石の作品が今も読まれ続ける所以ではないでしょうか。
いよいよ、今日は漱石の命日。当日の様子は「日めくり」の12月9日に詳しく書かれています。今から101年前のできごとがリアルに蘇ってきます。急を知らせる当時の方法がよくわかります。自分が死んだら、万歳を唱えてくれとまで言い放った漱石。今ごろ、どうしているだろうかとも思ってしまいます。近日中に、「漱石は真宗が嫌いだった?」を公開する予定です。
いよいよ明日は漱石忌です。死んで大平を得ると考えていた漱石も、死の間際まで、生への執念を持ち続けていたようです。
『漱石と歩く東京』に関心がある方。『東京紅團』というサイトがあります。興味深い内容が多く、私もよくお邪魔しています。検索サイトで、東京紅團、と検索してみてください。
日めくりによると、1911年の今日、つまり12月6日、漱石は神田の佐藤診療所で顕微鏡を見せられた。この診療所のことは、『漱石と歩く東京』に書いてあるので省略しますが、佐藤の話題が、現代に通じて興味深いです。
ネット上でさまざまな出会いがある。「ギター音吉のブログ」では、昨年、神奈川近代文学館」で開催された「漱石展」の様子が紹介され、その中で、『漱石と歩く東京』について、「今回の収穫の最大のものと言って良い」と、嬉しい言葉をいただきました。写真までつけてくださり、感謝です。展示もしっかり見ていただきました。『門』当時の電車終点は、展示と私の見解は異なりますが、お互い確認し合いながら、それぞれの見解を尊重しました。違いに気づいたギター音吉さんはすごいですね。
今日12月3日、今から105年前、漱石は行人の連載を前に、筆が進まず、新富座に鏡子を連れて、義太夫を聴きに行ったそうです。気分転換のようですが、作品にはしっかり描き込まれました。
さすが漱石!
漱石こぼれ話に出てくるマーメイド。
絵画全体ではありませんが、マーメイドの部分だけ、掲載されている本があります。朝日新聞社刊、江戸東京博物館と東北大学編、文豪・夏目漱石ーーそのこころとまなざし、です。今から10年ほど前に出版されました。
今日、11月30日の日めくり。いかにも森田草平らしい、漱石との逸話が載っていました。
日めくりを見たら、今日は雛子の命日でした。不思議なものです。
早いもので、今年もあとわずかで師走。そして、あと10日で漱石忌です。とくにカウントダウンするつもりはありませんが、漱石を思う日々です。
ついに来館者が300人を超えました。ほんとうにありがとうございます。漱石は精神病だった?が長いので、三つに分けてみました。漱石こぼれ話に、篤姫と、マーメイドを追加しました。いろいろな漱石をお楽しみください。
漱石は精神病だった?を公開しました。①と②に分かれています。独自の考えも書いてみました。
「日めくり漱石」にリンクして、私自身とても重宝しています。12月22日の日めくりでは、藤村操の妹と安倍能成の結婚式の話しが。後日、公開する「漱石は精神病だった?」で、藤村操の話しも出てきます。
リンクに「日めくり漱石」を追加しました。漱石に関する「今日は何の日」です。毎日、毎日、今日の漱石を知るのは、とても楽しいと言うか、新しい発見があります。ぜひ、リンクのページを開いて見てください。
近日中に、連載漱石気分に、「漱石は精神病だった?」を発表する予定です。お楽しみに。
おかげさまで延べ入館者が200人を超えました。ありがとうございます。リピーターの多い文学館を目指して、更新に努めていきます。
漱石こぼれ話に、「我輩は豚である」を掲載しました。短編小説です。ぜひ、読んでみてください。
漱石気分に4と5を追加しました。これからも順次、追加していきます。
お楽しみに。
連載は現在、どちらも1から3まで公開しています。21世紀の木曜会に感想をお寄せください。お待ちしています。
開館して1週間、延べ来館者が100人を超え、とても嬉しいです。
このサイトはリンクフリーです。リンクの輪を広げてもらえれば、嬉しいです。
漱石気分は1~3まで掲載。
漱石こぼれ話も1~3まで掲載しています。ぜひお読みください。
© 2017-2021 Voluntary Soseki Literature Museum