館長の部屋
エッセイ
【館長の部屋】 文豪と本郷③

漱石がイギリスから帰国して、千駄木に住むようになった翌年の1904年、つまり『吾輩は猫である』が発表される年、須田町から本郷三丁目、さらに上野広小路へと電車が開通した。この時、交差点はまだ三叉路であった。やがて春日通りが真砂坂(東富坂)にむかって伸び、交差点は今日のように十字路になった。この新しい道路に電車が走り始めたのは、『三四郎』が書かれた2年後の1910年である。春日通りは本郷三丁目交差点を起点にして、西が国道254号線になっている。
本郷三丁目交差点は北側が本郷四丁目になっているため、本郷四丁目交差点とよばれることもあった。『野分』で切通坂を上ってきた白井道也と高柳周作は、《二人は四丁目の角でわかれた》。『三四郎』でも、《その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って》、《神田の商業高等学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗ったところが》、さらに『それから』でも、《四丁目から又電車へ乗って、今度は伝通院前まで来た。》と、四丁目が使われている。ところが1912年に書かれた『彼岸過迄』では、主人公田川敬太郎は小川町の電停で探偵をしている場面で、《其所で本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。》と、本郷三丁目の名称が使われている。
本郷三丁目交差点界隈はちょっとした商店街を形成しており、漱石もよく出かけたとみえて、店などの様子もしばしば描写される。例えば、『三四郎』では、三四郎が夕方野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過ぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、襯衣を買いに大きな唐物屋へ入ったところ、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た場面を、《二人の女は笑いながら側へ来て、一所に襯衣を見てくれた。仕舞に、よし子が「これになさい」と云った。三四郎はそれにした。今度は三四郎が香水の相談を受けた。一向に分らない。ヘリオトープと書いてある罎を持って、好加減に、これはどうですと云うと、美禰子が「それに為ましょう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であった。(略)聞いてみて、妹が兄の下宿へ行くところだという事が解った。三四郎は又奇麗な女と二人連で追分の方へ歩くべき宵となった。日はまだ全く落ちていない。》と描いているが、この唐物屋は本郷通りから菊坂へむかう道が分かれる角にあった三角堂がモデルとみられている。この段階で、野々宮宗八は大久保の家を引き払って、追分にある三四郎の下宿の近くに住んでおり、妹の野々宮よし子は里見美禰子の家に住んでいた。
また、『道草』でも、健三が呉服屋へ寄った場面が、《彼は又本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物を買った。織物に就いて何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好い加減な選択をした。》と描かれている。『それから』の三千代も電車に乗って、伝通院前から本郷へ買物に来ている。
時には店の名前が実名で出てくるものもある。
『吾輩は猫である』では、藤村の羊羹が出てくる。《「いやー珍客だね。僕の様な狎客になると苦沙弥はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍位くるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村の羊羹を無雑作に頬張る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った》。この藤村は本郷三丁目交差点南東角の菓子店「三原堂」の隣り(本郷三丁目34-6)にある和菓子屋。羊羹で有名だった。1626年、加賀藩主江戸出府に従って金沢からやって来たと言われている。1996年頃から閉店した。
『三四郎』では、《三四郎は忽ちさきの二十円の件を思い出した。けれども不思議に可笑しくてならなかった。与次郎はその上銀座の何処とかへ天麩羅を食いに行こうかと云い出した。不思議な男である。云いなり次第になる三四郎もこれは断った。その代り一所に散歩に出た。帰りに岡野へ寄って、与次郎は栗饅頭を沢山買った。これを先生に見舞に持って行くんだと云って、袋を抱えて帰っていった。》と、岡野が出る。これは岡野栄泉堂で、栗饅頭が有名な和菓子屋。当時本郷三丁目11番地にあったようだ。
『三四郎』には、淀見軒や青木堂も出てくる。野々宮宗八に続いて三四郎は昨日ポンチ画をかいた男(佐々木与次郎)に連れられて、本郷三丁目交差点界隈を知るようになる。《昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日ポンチ画をかいた男が来て、おいおいと云いながら、本郷の通りの淀見軒と云う所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒と云う所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ画をかいた男はこの建築の表を指して、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものと始めて悟った。帰り路に青木堂も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである》。この淀見軒は当時本郷四丁目28番地(現、本郷五丁目)にあった。本郷通りに面して、三角堂の4軒北側にあった。水菓子(果物)屋だが、裏で西洋料理屋をしていて、ライスカレーが名物だった。他にビフテキもあった。また、青木堂は本郷通りを挟んで、淀見軒の斜め向かいの方向、当時本郷五丁目3番地(現、本郷五丁目24番)にあった。1階では洋酒・煙草・食料品などを販売し、2階は喫茶店になっていた。
赤門の並びなので、三四郎は青木堂を教わった後、与次郎とともに、赤門を這入って、二人で池の周囲を散歩しているが、後日、三四郎は図書館を出て、一人で青木堂へ入った。その様子は、《這入って見ると客が二組あって、いずれも学生であったが、向うの隅にたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎が不図その横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃を沢山食った人の様である。(略)三四郎は凝とその横顔を眺めていたが、突然手杯にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。》と描かれている。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と本郷②

ここで取り上げる「本郷」。大きく五つの地区に分けて見ていくことにしたい。
本郷通りの西側の地域:菊坂で南北に分け、南を「本郷地区」、北を「西片地区」。
本郷通りの東側の地域:南を「湯島地区」、北を「東京大学地区」。
上記より北の地域:一括して「千駄木・本駒込地区」(根津神社北側を通る根津裏門坂から北の地域含む)。
また、追分界隈や本郷三丁目交差点界隈は独立して扱っていくことにしたい。
こうした地域区分は便宜的に分けたもので、境界などにおいて漠然としたものを含んでいる。

「本郷地区」

本郷三丁目交差点界隈

漱石は『三四郎』において、東京に住むようになった三四郎が大都会を感じている場面を、《四角近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には黒山の様に人がたかっている。そうして雑誌を読んでいる。(略)四角へ出ると、左手の此方側に西洋小間物屋があって、向側に日本小間物屋がある。その間を電車がぐるっと曲って、非常な勢で通る。ベルがちんちんちんちん云う。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向うの小間物屋を指して、「あすこで一寸買物をしますからね」と云って、ちりんちりんと鳴る間を駆抜けた。(略)それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になった。野々宮君の話では本郷で一番旨い家だそうだ。(略)西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰るところを丁寧にもとの四角まで出て、左へ折れた。下駄を買おうと思って、下駄屋を覗き込んだら、白熱瓦斯の下に、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物の様に坐っていたので、急に厭になって已めた。》と描いている。この四角が本郷三丁目交差点である。
西洋小間物屋は本郷三丁目交差点の南東角、今の三原屋のところにあたり、日本小間物屋は南西角の有名な「かねやす」である。それはつぎの一文から明らかになる。《三四郎の頭の中に、女の結んでいたリボンの色が映った。そのリボンの色も質も、慥に野々宮君が兼安で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった》。二人は北東角から南東角へ横断し、さらに横断して南西角へ至り、「かねやす」へ入った。「かねやす」は電車開通を機に南東角から現在地の南西角へ移転している。買物後、二人は道路を横断して北西角(現在、交番がある)に出て、春日通りを少し西へ、桜木神社西側付近の西洋料理屋(彌生亭と推定されている)に入った。
地下鉄「本郷三丁目」駅3番出入口を上ると春日通りで、本郷三丁目交差点南西角にあたる。角に「かねやす」がある。本郷三丁目交差点は、東西に走る春日通りと、南北に走る本郷通り(国道17号線、旧中山道)が交差している。交差点で右折してすぐのところに、かつて岡野栄泉堂があった。春日通りを横断した北西角には交番があり、そのまま本郷通りを進むと、菊坂へむかう道が左斜めに入っている。本郷通りは菊坂口付近で少し低くなっており、南側を見送り坂、北側を見返り坂という。「本郷も兼康(兼安)までは江戸の内」と言われたように、本郷三丁目交差点までは江戸の内で、そこを越えると江戸の外になる。中山道を行く旅人をここで見送り、また江戸を去る旅人は見返る。そんな情景が眼に浮かぶ坂の名前である。菊坂口のところに三角堂、少し行ったところに淀見軒、さらに本郷通りの向い側には青木堂があった。赤門前で東大側へ渡り、本郷三丁目交差点方向にもどると、東大構内に沿って、本郷通りから左折する狭い道がある。この辺りがかつての日蔭町で、地下鉄「本郷三丁目」駅4番出入口の前を過ぎると春日通りに出る。通りの向い側に藤村があった。江戸時代、切り通しから来た道が中山道にぶつかった先に真光寺があり、本郷三丁目(四丁目)交差点は三叉路になっていた。当時はこの南東角(現在の三原堂の位置)に「かねやす」があった。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と本郷①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川を皮切りに銀座、〇○と、「文豪と〇〇」という題で、〇○に東京の地名を当てはめて巡って来た。巡っているうちに、〇〇に当てはまる地名がだんだんなくなってきた。そろそろこのシリーズもおしまいか、そう思っていたら、「大物」を扱っていなかったことに気がついた。「本郷」である。
ここでは、「本郷」を旧本郷区、それも台地上(台地と低地を結ぶ坂道を含む)に限定する。本郷区は戦後、小石川区とひとつになって、文京区を形成している。
本郷区のほとんどの区域が台地上にある。漱石は本郷の台地を越える場面を、『こころ』では、学生時代の先生とKは大学の図書館から上野公園へ行き、その帰りに、《我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、又向うの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです》、奥さんからお嬢さんとの結婚の承諾を取り付けた先生は、《私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上って、本郷台へ来て、それから又菊坂を下りて、仕舞に小石川の谷へ下りたのです。》と書いている。
七文豪の中で本郷に住んだことがあるのは、漱石、鏡花、秋聲、犀星、龍之介、藤村の六人。このように大勢いる地域は今までに「文豪と〇〇」の「〇〇」の中にはない。東京帝国大学に学んだのは漱石と龍之介の二人だが、鏡花も犀星も東大出身者を友人にもっていた。本郷の東大キャンパスは加賀藩前田家の江戸屋敷を引き継いだものであり、金沢出身の人間にとって、本郷は故郷の一部のようである。秋聲などは本郷に終の棲家を得ている。
漱石が本郷に住んだのは、1903年から1907年まで。イギリス留学から帰り、講師として勤め始めた第一高等学校、東京帝国大学に近い千駄木57番地の借家(現在、「猫の家」と呼ばれる)に住み、1906年に西片町10番地ノろノ7号の借家に転居。1907年に本郷台を離れ、早稲田南町へ転居、終の棲家になった(「漱石山房」と呼ばれる)。
鏡花は、1890年に初めて上京して以来、憧れの尾崎紅葉に会うまでの10か月ほどの間に、神田山本町(現、外神田四丁目)の水野家に一泊したのを皮切りに、その後、湯島一丁目女坂下にある福山の下宿、麻布区今井町、浅草田原町、神田五軒町、本郷四丁目、鎌倉の材木座にある妙長寺、本郷龍岡町、湯島新花町、妻恋坂下と、転々と居候生活を続けた。本郷にも何度か住んだことになる。
秋聲は、1899年に紅葉宅の裏にあった十千万堂塾が解散された後、薙城館(なぎしろかん)、今井館で過ごし、本郷向ヶ丘弥生町と転じ、1901年7月末、三島霜川との共同生活を解消し、薙城館に戻った。その後、幾度か転じて、1904年8月、清水橋(川が見られないので、「から橋」とも呼ばれる)の本郷森川町1番地に転居。この間、仕事場を確保するため菊坂界隈に下宿している。1906年5月、秋聲一家は本郷森川町1番地に転居した。同じ番地でも、今度は高台で東京大学に近い。この家が秋聲の終の棲家になる。
1910年に初めて上京した犀星は、赤倉錦風の家にしばらく滞在した後、根津片町、谷中三崎町、駒込千駄木林町と安下宿を転々としながら、同じように文学を志す若者たちや画学生と知り合い、安酒を飲み、昼夜逆転のような生活も送ったとされている。1913年、再上京した犀星が住んだところが、『詩歌』十二月号の消息欄に「本郷弥生町一、六条方」に下宿したとの記述があることを『評伝』は指摘している。(また、小田切は1913年2月、三度目の上京をしたとしており、根津権現裏の紅梅館に下宿したとしている。《本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠》というのが紅梅館かもしれない)。1914年7月頃には小石川白山前町の妙清寺の土蔵の一室に住んでいた。いずれにしても、田端に住む以前、犀星が漂泊の時代を暮らしたのは、谷中・根津・千駄木、今日「谷根千」と呼ばれる地域で、本郷の台地上にも、いくばくかの期間、居を置いたことになる。
龍之介は1910年9月に第一高等学校に入学した。全寮制だったが、一年間自宅からの通学を認められ、1911年に入寮し、本郷に住むことになった。後に親しくなる龍之介と犀星。同じ時期、青春のふたりが本郷に過ごしていたことになる。
龍之介は1926年『彼』という作品で、第三中学校時代の友人について、《僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好い。彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室のようにがたがた身震いをする二階である。まだ一高の生徒だった僕は寄宿舎の晩飯をすませた後、度たびこの二階へ遊びに行った。すると彼は硝子窓の下に人一倍細い頸を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮の油壺の吊りランプが一つ、いつも円い影を落していた。……》《彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所の第三中学校へ通っていた。彼が叔父さんの家にいたのは両親のいなかったためである。両親のいなかったためと云っても、母だけは死んではいなかったらしい。彼は父よりもこの母に、――このどこへか再縁した母に少年らしい情熱を感じていた。彼は確かある年の秋、僕の顔を見るが早いか、吃るように僕に話しかけた。》と書いている。「彼」が本郷のどこに住んでいたか定かではない。
馬籠宿にあった島崎家は1892年、拠点を東京に移していた。1895年7月、島崎一家は三ノ輪町から本郷区湯島新花町24番地に転居した。現在の文京区湯島2丁目13番の一角。この辺り一帯、かつて「大根畠」「御花畑」と呼ばれていた。藤村もここから明治女学校まで通勤した。1896年8月、島崎家は本郷区森川町1番地宮裏319号に移転したが、藤村は9月、仙台の東北学院教師として赴任した。10月に母縫が亡くなったので一旦東京へ戻ったが、1年間教師を務め、1897年に東京へ戻った。藤村は翌1898年、東京音楽学校選科に入学。そして1年。1899年4月。小諸義塾に赴任。6年を過ごすことになる。
藤村が本郷の湯島新花町に住んでいた1895年頃、鏡花は東京帝国大学の寄宿舎に同郷の吉田賢龍をしばしば訪ねていた。そこで、隣室の笹川臨風、姉崎嘲風、畔柳芥舟らとも親しくなった。後に姉崎は帝大教授、畔柳は一高教授と、共に漱石の同僚となっている。笹川は漱石とも長く親交をもち、旧制中学校長や大学教授も務めている。吉田も旧制中学校長や大学学長なども務めている。
                          (つづく)
【館長の部屋】 犀星『忘春詩集』と母②

実の父、母に育ててもらうことができなかった犀星は、長男誕生によって父となった。自分は実の父として、これから関わっていく。そしてこの子を育てていく。まちがいなく「ここ」は、ほんとうの家庭であり、犀星、とみ子、そして二人と血のつながった豹太郎という三人が織りなす家族がいる。
『忘春詩集』の中に、『ちちはは』という詩がある。

われとわが子を愛づるとき
老いたる母をおもひいでて
その心に手をふれしここちするなり、
誰か人の世の父たることを否むものぞ
げに かれら われらのごとく
そだちがたきものを育てしごとく
われもこの弱き子をそだてん。

「この子を育てる」という、父となった犀星の決意が読み取れる。と、同時に、犀星は《老いたる母をおもひいでて》と、養母赤井ハツに思いを致す。孫、豹太郎に会うため、金沢から東京田端までやって来た養母を。《そだちがたきものを育てしごとく》という一行には、ハツに対する感謝の念さえ感じられる。「子をもって、初めて知る親の恩」である。自分が父となり、犀星は自分を育ててくれた養母とは、いったい何者なのか。実の子でもない自分を、しかも実にひねくれ者の自分を、どうして育て上げたのだろうか。
『忘春詩集』の中には、『母と子』という、明らかに他の詩とは異質な詩がある。

母よ わたしの母。
わたしはどうしてあなたのところへ
いつころ人知れずにやつて来たのでせう
わたしにはいくら考へてもわかりません
あなたが本統の母さまであつたら
わたしがどうしてこの世に生れてきたかを
よく分るやうに教へてくれなければなりません
わたしは毎日心であなたのからだを見ました
けれどもわたしが何処から出てきたのかわかりません。

わたしは毎日あなたを見詰めてゐるのです
ふしぎな神さまのやうに
あなたの言葉のひとつひとつを信じたいのです
母さまよ わたしに聞かしてください
わたしがどうして生れてきたかを――

いいえ 坊や
お前はそんなことを訊いてはなりません。
おまへは温良しく育つてゆけばいいのです
大きくなればひとりでにみんなわかることです。
母さまの たましひまで舐りつくしておしまひ。
母さまが瘠せほそれるまで。

おまへが大きくなるほど
母さまはぼろぼろになるのです
それほど瘠せおとろへしてしまふのです
母さまはいまは誰もふりかへつて見てくれません。
母さまの心臓もからだも
そしてしまひにはお前を抱き上げるちからもなくなるでせう。
子守唄もうたへなくなるでせう
けれども子供よ かまはず大きくおなり
母さまのおちちのなくなるまで
みんなみんな舐つておしまひ。

母よ わたしの母。
あなたはなぜ一人で門のところへ出るのです
そして一日何をつぶやいてゐるのです
わたしはなぜ寒いところへ出なければならないんですか
わたしはすやすや睡りたいのに
きのふも今日も同じい石壇の上に座つて
そして同じいことを聞かなければならないんですか。

わたしが目をあけてゐると
なぜさうわたしを見詰めてゐるのです
わたしを起してはなりません
うとうと睡るとすぐあなたは起してしまひなさる
そして同じいことばかり
わたしには分らないことを呟きなさる
あなたが本統の母さまであつたら
わたしをあの寒い門のところへ抱いて出ないでください

子供よ
おまへはよく似てゐます
そつくりお前のいふことは二度聞く気がします
いいえ いいえ
似てはなりません
さういふ物の言ひかたをしてはなりません
おまへは母さまだけに似るのです
誰にも似てはなりません
おお 母さまだけに
そして微塵もよそのひとに似てはなりません

おまへは母さまの子供です
この世でただひとつの母さまの大切なおたからです
そして母さまの心のとほりにならなければなりません

母よ わたしの母。
わたしはあなたに似て居ります
あなたの美しいお心そつくりのわたしです
わたしは誰にも似たりしません
わたしはあなたを舐りつくしませう
そのかはりあの寒いところへ出るのは厭です
あそこへ出ると暗い咳の音がするのです
わたしはあの音がきらひです
陰気でさびしい音が今にもしさうです

いいえ 坊や
あれは咳の音ではありません
水の音です
母さまは水の音がすきです
母さまはあの音をきいてゐると心が憩まるのです。
子供よ おまへはあれを聞かないで
わたしにいつまでも抱かれておいで
そしておちちをお舐り
かまはず大きくおなり。

子供よ
みんなお前にあげたのだから
さう悲しさうにわたしの顔を見てはなりません。
母さまの大切なからだも
さうしてその心も
みんなみんなお前にあげたのだから。

この詩は、母と子の掛け合いで構成されている。もちろん、母はハツであり、子供は犀星である。犀星は、この詩の中でハツの役割も演じているのである。自分が父親となって、親の立場を理解しようとする犀星がそこにいる。
犀星はハツが実母でないことは知っている。けれどもあえて、《母よ わたしの母。/わたしはどうしてあなたのところへ/いつころ人知れずにやつて来たのでせう/わたしにはいくら考へてもわかりません/あなたが本統の母さまであつたら/わたしがどうしてこの世に生れてきたかを/よく分るやうに教へてくれなければなりません》と、何か「かまをかける」ような素振りをみせる。そして、《母さまよ わたしに聞かしてください/わたしがどうして生れてきたかを――》と問うて、《いいえ 坊や/お前はそんなことを訊いてはなりません。》と、それを打ち消している。どちらも犀星が紡ぎ出した文章である。
犀星は、《あなたが本統の母さまであつたら/わたしをあの寒い門のところへ抱いて出ないでください》と、ハツを試したかと思うと、ハツは《子供よ/おまへはよく似てゐます/そつくりお前のいふことは二度聞く気がします》と、実母であることを匂わすと、それを打ち消すように《いいえ いいえ/似てはなりません/さういふ物の言ひかたをしてはなりません/おまへは母さまだけに似るのです/誰にも似てはなりません/おお 母さまだけに/そして微塵もよそのひとに似てはなりません》と続け、その後へ、《おまへは母さまの子供です/この世でただひとつの母さまの大切なおたからです》と、実母と養母を行ったり来たりする。このような揺らぎはその後も続く。
犀星にとってハツは「生みの親」ではない。その意味において実母ではない。しかし、犀星にとってハツは明らかに「育ての親」であって、幼い頃から母親は他になく、その意味において実母である。ハツが「実の子」同然に犀星を育て上げてくれた、それを感じられるからこそ、この詩のように、犀星の中でハツは養母と実母とを行ったり来たり、あるいは混然となって存在したのであろう。
芥川が亡くなった翌年の1928年4月28日、養母ハツが亡くなった。犀星はハツの葬儀に金沢へかけつけた。

犀星のおいたちに、欠かすことのできない人物。育ての親、赤井ハツ。
女だてら昼間から友人たちを呼び、肌ぬぎして大酒を飲み、贔屓の役者に狂い、カネをつぎ込む。ヒステリイの手に負えない莫連女。しばしば子どもを打擲し、内縁の夫をも虐待。『弄獅子』(1936年)には、半狂乱のような養母の姿が容赦なく描かれている。とうとう赤井ハツの人物像は、このように定着してしまった。
はたしてほんとうにハツはそのような人物だったのか。犀星も最初から養母を莫連女に描いていたわけではない。『幼年時代』では、実家へたびたび行く「私」に対して、「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家へ来たらここの家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」など、穏やかな対応である。
そして、《「これを持っておへやへいらっしゃい」母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた》と言うように、まあ普通の母親像である。『忘春詩集』の中の『母と子』という詩に出てくる母親のイメージと重なり合う。それが『弄獅子』では大きく変化している。「市井鬼物」と呼ばれる作品群の時期、養母もそれにふさわしく描かれなければならなかった。
ハツを、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であったと、文学書や場合によっては研究書にさえ、事実として記されている。現在、「里親」をされている方なら、この表現に憤りを感じるかもしれない。ハツの行為というのは、今の「里親制度」に相当するものである。ハツは預かる時に幾ばくかの金銭を受取ったかもしれない。しかしその後は自己負担である。経済的にはマイナス。気苦労も絶えない。それにも関わらず、あえて四人の子どもを貰い受けて育てたのは、子どもを育てたいという、抑えがたい「母性」によるものだったのではないだろうか。
私は船登芳雄の『評伝室生犀星』を読んで、この推論が間違っていなかったと言う確証を得た。つまり、ハツには子どもがあり、その子を亡くしているというのである。1882年に兄毛利元造預かりになったのは、その頃、不義の子を宿したためかもしれない。我が子への供養と、抑えがたい「母性」から、最初に貰い受けたテヱは、ハツの姪にあたる。その後貰い受けた三人の子ども、いずれも実家ははっきりしている。船登も『評伝』で、《乳飲み子から育てる日々の苦労を考えるとき、そこに打算を超えた彼女なりの母性を感じる》《犀星の自伝小説は、ことさら養母を莫連の女に仕立てる露悪的側面がないとは言えない。自伝小説に、とらわれ過ぎてはならないだろう》と記している。
犀星はハツをどのように思っていたのだろうか。それは表に出た事実から類推するしかないが、犀星が初めて上京して以来、何度も金沢に戻っているという事実。幼い頃から過ごした雨宝院に隣接した養家に、犀星はたびたび戻っている。東京では住処を転々としながらも、金沢には帰る家があった。そして、そこにはハツが居る。まさに「母港」である。
犀星が育った家庭は、父母はともに養父母であり、養父真乗、養母ハツは内縁関係で、正式の夫婦ではない。四人の子どもはみんなもらい子で、血のつながりがない。それでも一つの家族をつくり、家庭というものが築かれてきた。まさに映画『万引き家族』(是枝裕和監督、2018年)を先取りしたような一家であった。巷で言われるように愛のひと欠けらもない家庭ではなかっただろう。このような中で、犀星のハツに対する思いも捉えられるべきだと私は考える。『母と子』という詩もそれを暗示しているように思われる。
大震災の後、金沢に避難して来た犀星一家。寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツは、一日おきくらいに訪ねて来て、8月27日に生まれた朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの孫、豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
芥川が亡くなった翌年の1928年4月28日、養母ハツが亡くなった。犀星はハツの葬儀に金沢へかけつけた。
犀星は『杏っ子』で、「一生つながれている犬でさえ血統はわかるもの」であるのに、自分にはそれすらわからないと書いている。せめて子どもたちにはそのような思いをさせたくない。そして犀星は自分の娘や息子に、「間違いなく、私はあなたの父親です。実父です。」ということができる人間になった。それはまさに、「あなたの実の父親は私です。そしてあなたの実の母親は山崎千賀です。」と一言も語らず逝ってしまった小畠生種を乗り越えたのだという宣言でもある。
実の親でもないハツが、自分をねんごろに育ててくれたのだから、実の父親である自分は、愛情をもって子どもたちを育てていこう。それは、1年余で逝ってしまった豹太郎にも、いかんなく注がれていたであろう。『忘春詩集』の詩が、それを物語っている。
                         (完)
【館長の部屋】 犀星『忘春詩集』と母①

光りが強ければ、影もまた濃い。『忘春詩集』は、犀星の人生において、最も強い光と最も濃い影が織りなす時期に生み出された作品が集められている。『忘春詩集』は関東大震災の前年、1922年12月に出版された。
1918年、犀星は浅川とみ子と結婚した。犀星に、とみ子を紹介したのは腹違いの兄小畠悌一で、婚儀は実家の小畠家でおこなわれた。新婚生活は田端で始まったが、犀星は29歳にして念願の「自分の家庭」をもつことができた。これからはこの家庭を「理想の家庭」に築き上げていかなければならない。
この年、犀星は『抒情小曲集』を出版し、詩人としての地位を固めるとともに、翌1919年には、『幼年時代』・『性に眼覚める頃』・『或る少女の死まで』を発表し、小説家としても知られるようになっていった。
このような光は、また影をも伴っていた。1918年に、ヒトにおける最初のA型インフルエンザが世界各地で大流行し、秋頃からは日本でも感染爆発、多くの犠牲者を出すようになっていった。世に言う「スペイン風邪パンデミック」である。1920年までに日本でも40万人ほどが亡くなったとみられている。犀星は1919年、実父小畠生種の妻たま(珠)を失っている。珠は犀星の結婚に際しても何かと寄り添ってくれた人である。
「スペイン風邪パンデミック」も一段落した1921年。5月に犀星待望の長男が誕生し、豹太郎と名づけられた。内縁の夫婦のもとに、まったく血のつながりがない4人の兄弟姉妹で構成された「家庭」で育った犀星にとって、初めて血のつながった家族をもつに至ったのである(なお、犀星養母赤井ハツが最初に貰い受けたテヱはハツの姪であるので、二人の間には血縁関係がある)。

『忘春詩集』の中に、『ちゃんちゃんの歌――萩原朔太郎に――』という詩がある。

けふ町に出で
君が愛児のため
うつくしきちやんちやんを求め購ひぬ。

君が子はをんな児なれば
綾なすちりめんこそよけれと念へるなり、
その包みを抱へかへらんとすれど
わが家にもあかん坊の居るべかれば
君が子のみに送り
わが赤ん坊を何とておろそかに為すべき、
われは今一枚の羽二重なる
あまりに派手ならざるちやんちやんを選み
その包み二つを提げ
上野広小路の雑閙の中を歩めり。
人込みのなかに揉まれつつ
君とともに身搾らしく歩みたる時と
既に人の世の父たることを思ひ
ぼんやりとまなこ潤み
いくたび寂しげにその包みを抱き換へしことぞ。

君がまな児はわが児にくらべ
一つ上なる姉なり
かく寂しきことを心に繰り返し
早や君に送らんことに心急ぎ
ふたたび車上の人となる。
やがて子守唄やさしき君が家に
わがちやんちやんの到くならん。

朔太郎の娘は長女葉子(1920~2005年)、犀星の息子は長男豹太郎(1921~1922)。共に父親となった思いが込められている。二つのちゃんちゃん(ちゃんちゃんこ)は上野広小路の松坂屋で買ったのであろうか。自分の親が誰であるかはっきりしない犀星にとって、我が子を得たことはこのうえもない喜びと安心であっただろう。

『ふいるむ』

わが家はきのふもけふも
子守唄には暮れつつ
洋灯の下にみな来りて
おころりころりをうたへり。
人の世の佗しさおのれ父たることの
その真実を信じる寂しさ。
ふいるむのうつり変りゆく
その羽毛のごとき足なみの早さに
おのれひとり
いくたびか停まらんとしつつ
その陰影をさへとらへんすべもなし

しかし、このような光も、また影をも伴っていた。1922年6月、豹太郎が亡くなった。これらの詩をつくった時、生きていた豹太郎は、この詩集を出版した時、すでに生命尽きていたのである。

『忘春詩集』の中には、亡き我が子を想う詩がいくつもある。

『夜半』

みな花をもて飾りしひつぎをばとりまき
あめふる夜半をすごしぬ。
人の世のちひさき魂をなぐさめんと
けぶる長き青い草のやうなるせん香を
たえまなくささげたりけり。
その座にわれもありまづしき父おやとして
そだちがたきものをそだてんと
日夜のつかれさびしき我もつらなりぬ。

『靴下』

毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちやをも入れ
あみがさ、わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ。

おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめて泣きけり。

『最勝院自性童子』

朝日のうつれる、
みどりのかげさせる障子のうちに、
ねむりふかく居しなれ。

庭よりその部屋をさしのぞくに
白き肌せる時計のみ音しづかにかかり
なに人もとどまりあらず。
きのふ乳母ぐるま買はんとおもひ
よこはまにも行かば形やさしきを得んと
立ちあがりしわれなるに
なに人もなき部屋にさす朝日のみあかるく
ひとつの影だにもなき。

『童子』

やや秋めける夕方どき
わが家の門べに童子ひとりたたずめり。

行厨をかつぎいたくも疲れ
わが名前ある表札を幾たびか読みつつ
去らんとはせず
その小さき影ちぢまり
わが部屋の畳に泌みきゆることなし。

かくて夜ごとに来り
夜ごとに年とれる童子とはなり
さびしが我が慰めとはなりつつ……

豹太郎の葬儀は、近くの大龍寺でおこなわれた。真言宗大龍寺には、板谷波山、正岡子規などの墓がある。
『忘春詩集』の中から、さらにいくつかの詩を紹介したい。

『溜息』

わが家には子守唄はたと止みつつ
ひとびと物言はず
ものうげにうごくことなく
ただ溜息のみつき
きのふもけふも暮れけり。
われの飯を食みつつ
ふとものの声音に耳そば立て
しばしば顔をあはせ悲しみけり。
あか児の生きてありせば
涼しきレースのころも着せんものをと
かへらぬことのみ言ひ暮らしぬ。

『我が家の花』

そとより帰りきたれば
ちひさきおもちやの包みかかへ
いそいそとして我が家の門をくぐりしが
いまそのちひさき我が子みまかり
われを迎へいづるものなし。

母おやはつねにしづかにしづかにと言ひ
あかごの目のさめんことをおそれぬ。
さればわれはその癖づきし足もとを静め
そとより格子をあくればとて
もはや眠らん子どもとてなし。
かくして我が家の花散りゆけり。

『あきらめのない心』

わが子のあらんには
夏はすずしき軽井沢にもつれゆき
ひとの子におとらぬ衣をば着せんもの
こころなき悪文をつづり世過ぎする我の
いまは呆じたるごとき日をおくるも
みな逝きしものをあきらめかねるなり。

ひとびとはみなあきらめたまへと云へども
げにあきらめんとする心、
それを無理やりにおしこまうとするは
たとへがたくおろかなり。
あきらめられずある心よ
永くとどまれ。

『おもかげ』

よその児をながめむとて
何しにこころ慰め得べきものぞ。

よその子はよその子にして
わがおもかげをつたふべきにあらず
されば何しに羨やむものぞ
かく思へどもよその児のよく肥り
可愛げなるを見れば
畳を掻くごとくくやしきここちす
みまかりあとかたもなきわが子の
いまはいづこにあらむかと思へば
とり返しのつかぬことをせし、
泣きもえぬことをせしものかな。

『五月幟』

あをき魚のかたちせる
五月幟もたてつつ
わが子をことほぎ
かくなせしもみな過ぎたることとなりつつ
いまはその鯉幟をつつみ
目にみえぬところに匿せり。
かるはづみにながめてならぬ――。

『衣をわかちて』

その衣手にとることなかれ
その紅きいろまなこに泌みつき
せんかたもなし。
されどわれは妻にかく言ひまどひつつ
その衣手にとることなかれと云へり。

衣のなかに何の眠りがありしか。
すやすやと呼吸がよひしものを
なんの眠りのあるものぞ。
貧しき子らにあたへんものをと人を馳せ
いまは皆わかちあたへ終りぬ。

『いづこに』

わが家の湯殿に
灯を入れ
母おやひとり湯にひたれり。
膝の上に児のありしものを と 悲しむ。
いくたび我もそれに触れけん
まろやかに肥えたる我が子の
胸おもひいでて泣きけり。

『秋の水溜り』

朝は清き水溜りをつくれる、
露めきて雨のたまれる、
悒せきこのやうなる日は籠りて語らず、
白白しき障子閉めきり
まことに語らぬ我等となりぬ。
ゆめのやうなる人生に
われのみ居残れるものか、
水溜りをさし覗けば樹のうつれる、
されど我が子うつらずなる……。

ぽっかりと穴のあいてしまった生活。詩的に言葉を整えつつも、その喪失感を脚色することができない犀星がそこにいる。犀星は『忘春詩集』の冒頭、つぎのように書いている。

この詩集がはしなく忘春と名づけられたのも、今から考へると何となく相応しいやうな気がする。さまざまな大切なものを忘れて来たやうで、さて気がついて振り返つて見ても何ひとつ残つてゐないやうな私には、この忘春といふ美しい織物の裏地をさし覗くやうな文字のひびきからして、しつくりと私の心からゑぐり出したもののやうに思へる。私ばかりではなく誰人でも忘春の心があわただしく胸を衝くことがあるかも知れない。それだのに私は私らしく人一倍にそれを言はうとする迅りかけた心をもつものである。つまり私は私らしくをりをり自分の暮しのなかに何かを拾ひ蒐めようとして、扨て何物をも拾ひ得なかつたかも知れない。あるひは私の拾ひ得たものは瓦と石の砕片で、さうして他に貴重なものがこぼれてゐたと言つた方が適当かも知れないのである。
も一つ私はこの詩集のなかで、自分の子供を亡くしたといふよく有り触れた境致に、さういふ人生の真実に何時の間にかに触れたといふことに、私は始めて驚いたと言つてよいのである。人生といふものは辛酸の続きであるといふより、私にとつて人生は結極美事な驚きをその悲しみより先き立つて囁いたからである。人一倍さういふことに打たれる私には、一切の哀愁よりも先づ私といふ微些な一個の人間が始めてこの世のものに、さうして人生といふものを解りかけたからである。平淡で、その上すこしの波動のない私の暮しの中では、何ものに増して私を驚かせたことは実際である。
                     (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々⑧

結局、桐生の「避戦論」がよくわからないまま終わってしまったが、①大日本帝国憲法解釈、②桐生の「避戦論」を探る、以上2点について私なりにまとめて終止符を打つことにしたい。

①大日本帝国憲法解釈
大日本帝国憲法は「天皇主権」「欽定憲法」であると、私は教えられてきたし、教えてきた。それは事実であるが、実際には天皇が憲法を起草したわけでもない。天皇親政でもない。そのことをわかりながら私は、帝国憲法下の日本は天皇が絶大な権力をもち、天皇中心の国家が形成されていたというイメージをもち、戦争の時代と相まって暗いイメージをもってきた。もちろんそのイメージが全面否定されることはないが、小島さんの『合理的避戦論』に書かれた「帝国憲法解釈」を読んで、私が今まで理解していた「帝国憲法」観は修正を迫られることになった。
桐生は《「帝国憲法に基づいて天皇が専制独断で行えることは皆無である」》《帝国憲法に於ても、第一条に於ては「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって、政治するとは書いてない。そして第五十五条には「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあり、各国務大臣が責を負うて政治の局に当っているのである。》《天皇直接の政治であれば、天皇が直接にその責を負わなければならない。》と論じている。
これは、帝国憲法はプロシアの立憲君主政の憲法を取り入れたと言われているが、プロシアに比べ君主の権限が強くなく、むしろ、「君臨すれども統治せず」というイギリス型の立憲君主政であるという指摘であろう。事実上、国民主権に近い形で、権利も一定の制約をもちながら、かなり自由度の高いもので、イギリスに親和性をもち、私がもつような暗いイメージの憲法ではなかったようだ。
漱石は直接、帝国憲法を論じていないが、明治と言う時代そのものにも、それほど暗いイメージをもっていない。それを暗転させたのが大逆事件である。漱石は「自由な明治は死んだ」と直感していく。世の中は漱石ほど敏感ではなかったが、揺れ戻しながら、現実に日本を変質させていった。
とりわけ昭和になってくると、帝国憲法における「天皇主権」の性格を利用して、一部の人たちが天皇の名の下に国家主義的な性格を強めさせていった。小島さんはこれを、《帝国憲法起草当事者たちがいた頃は、日本の憲法運用もまずは順調・円滑に運んだのであるが、彼らが没してしまった昭和になって急に極端におかしくなっていった。まさに憲法は、現実の歴史と共に柔軟に流動するものなのである。》と表現している。そして、イギリスへの親和性をもっていたはずの日本は、政治権力を握って独裁者になる者が現れていったドイツやイタリアへ接近していく。桐生は、《目下政府当局及び盲目的にこれに追随する一部国民の如く、ドイツまたはイタリーの思想及び制度を直訳した「全体主義」の名の下に制限されてはならない。》と的確に把握している。私が大日本帝国憲法に暗いイメージをもつに至ったのは、憲法が悪かったのではなく、憲法の運用が悪かった、さらに言えば、憲法を無視して政治がおこなわれたことによるのだ。つまり、「憲法に基づいて政治をおこなう」いわゆる「立憲主義」が捨て去られ、結果的に「全体主義」の方向に日本が進み、とうとう大きな戦争に突き進んでしまった。
小島さんに文章を読みながら、私はこのようなことを考えた。
小島さんが、「はじめに」の中で、《立憲国家体制が成立して以来の近代史に照らして見ると、古今東西、「戦争と平和」論議および国家の行動においては、必ず憲法の解釈変更と改定が絡んでいる。》《いずれにせよ憲法問題は、究極、国民一人一人の身に降りかかる「戦争と平和」問題であるから、「政府任せ」とか「政府の説明責任」などと無責任で悠長なことを言っている場合ではないであろう。それには国民一人一人が判断材料を持ち、よく考え、自由に意見を発信し合うことしかなく、それは絶対にやらなければならないことだと私は思う。》と書いていることが理解できるような気がする。
現行憲法は「平和憲法」と言われる。ただ、いくら「平和憲法」であっても、その憲法に基づいて政治をおこなう「立憲主義」が崩れ、憲法が無視された政治がおこなわれるようになれば、日本は「いつか来た道」をたどることになるのだろう。
桐生の「帝国憲法解釈」から、「避戦論」は直接見えてこないが、「戦争と平和」について憲法の側面からみていく手がかりになりそうだ。

②桐生の「避戦論」を探る
桐生が戦争を好まないことは彼の生涯をたどることで明らかになる。けれども「論」という観点から、桐生の「避戦論」に関する記述はみられない。私は桐生の生涯から、会社の上司とぶつかると退職しているところから、生き方としては、とことん戦わず、「逃げること」を選択しているように思われる。一般的に生き物はキケンから逃げることによって生命を守ろうとする。「逃避」というのはりっぱな手段である。と言って、国家は国土と国民を伴ってどこかへ逃げるわけにはいかないから、外交交渉によって、どこかで引き下がることが「戦争」を回避する重要な手段になる。これを「避戦論」と呼んで良いのであろうか。「チキンレース(チキンゲーム)」で、正面衝突を避けるため最後にハンドルを切ったとしても臆病者とされない風潮をつくり出していくこと、これが戦争の回避につながっていくような気がする。逃げても逃げても這い上がってきた桐生の生きざまが、「避戦論」を具現化しているようにも思える。
何か妙に自分自身を納得させて、桐生悠々の話に終止符を打ちたい。
                        (完)
【館長の部屋】 桐生悠々⑦

彼の人生をたどって、どうとうその最期まで来てしまった。小島さんは、最後に「悠々の憲法論議」という一項を設けている。
小島さんは、《帝国憲法には「統帥権条項」(第一一条)があったので、軍国主義が自由に闊歩した、したがってそのよってきたる「帝国憲法」は悪法であったという人はかなり多い。》と書いて、これをまったく間違いとは言わないが、《もっと複眼的に見ないと見当違いになってしまうといいたい。》として、『他山の石』の1937年5月号に載せた「議会中心主義」で桐生が《「帝国憲法に基づいて天皇が専制独断で行えることは皆無である」と》論じていることを指摘し、その一文を紹介し、解説を加えている。
それによると、桐生は《帝国憲法に於ても、第一条に於ては「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって、政治するとは書いてない。そして第五十五条には「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあり、各国務大臣が責を負うて政治の局に当っているのである。》と書いて、天皇が政治をするといっても間接的なもので、《天皇直接の政治であれば、天皇が直接にその責を負わなければならない。》と続けている。大学で法科に学んだ桐生である。
この桐生の文章を受けて小島さんは、《たしかに国家の行為には権利と責任が表裏一体の関係になっている。基本的に第一条と第五五条を合わせ読めば、一見天皇の行為であってもそこには国務大臣の現実的サポートが不可避・不可分に付いている。言い換えれば、天皇に責任を負わせることができない以上、天皇の独断行為はあり得ないと桐生はいう。》と書いて、これだけでは舌足らずと思ったのか桐生は他の文章で、勅語も参照した上、憲法前文から「臣民の権利」として規定されている要素を拾い出し、《帝国憲法が立憲君主制を目指していることを論証している。》として、『他山の石』の1939年8月号に掲載された「日本の自由主義」の一文を紹介している。
その一文の中で桐生は「臣民の権利義務」において、義務として規定されているものは「兵役の義務」と「納税の義務」だけで、《他は悉く与えられた権利即ち自由に関する規定である。》と書いており、《戦時に於ては、この自由は寧ろ極度に制限されなければならない。》としながら、《目下政府当局及び盲目的にこれに追随する一部国民の如く、ドイツまたはイタリーの思想及び制度を直訳した「全体主義」の名の下に制限されてはならない。》と指摘している。桐生は、日本は憲法の性格から言っても「全体主義」の国家に成り得ない、また成ってはいけないと警鐘を鳴らしたのであろう。戦後、ドイツ、イタリアといった「全体主義」国家と結びついたことは最大の失敗、選択の誤りであったとの見解を示す人たちがいることからも、桐生の見方は的確であったと思う。
《そもそも帝国憲法を含むいかなる法律も、全条文は一体となって必ず一つの方向に向うベクトルを持っているはずである。特定の条文だけ取り出してそこだけを穴の開くほど見ても本質は分らない。帝国憲法は伊藤博文がプロシアはじめ欧州各国の憲法を研究し、有識者にも意見を聴いて、推敲して作成されたものである。》と小島さんは書いて、伊藤がどのようにして憲法草案をつくりあげていったか述べた後、当時、ヨーロッパの憲法学者などには、《「帝国憲法がプロシア的に強い王権を表明してはいるが、イギリス流議会主義に土台を置いている」と理解されたのである。》と指摘している
さらに、小島さんは《帝国憲法起草当事者たちがいた頃は、日本の憲法運用もまずは順調・円滑に運んだのであるが、彼らが没してしまった昭和になって急に極端におかしくなっていった。まさに憲法は、現実の歴史と共に柔軟に流動するものなのである。》と書き、《斎藤隆夫も戦後「帝国憲法の本質はかなり民主的であったが何とも解釈の幅があり過ぎる条文だった」と述懐している。》と、桐生悠々の項を結んでいる。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々⑥

さて、1899年、桐生は帝国大学を卒業。東京府付属官として就職。上司と衝突して半年で辞め、東京火災保険、博文館と勤めて、帝国大学大学院に入学。憲法学に熱中し、言文一致協会を経て、1902年、宇都宮にある下野新聞に主筆として就職。旧加賀藩士の家に生まれた藤江寿々と結婚。14歳年下だったから、結婚当時はまだ16歳くらいの「幼妻」であった。後に6男5女に恵まれる(五男昭男の次女塩見郁子さんは現在尾張旭市に在住)。一方、桐生は東京で一人暮らしする「井波のおばさん」に仕送りを続けていた。
桐生は社長と衝突して下野新聞を退社。東京へ戻って、今度は大阪毎日新聞に就職。3年勤めて、大阪朝日新聞に移って2年。足かけ5年の大阪生活を終えて、1908年に東京朝日新聞に転じる。前年の1907年に漱石が、また翌年1909年には石川啄木が東京朝日新聞に入社している。当時の東京朝日新聞には杉村楚人冠、半井桃水らも籍を置いていた。桐生は「べらんめえ」という匿名時評を東京朝日に連載した。樋口一葉は一時、半井の門下にあった。
桐生は1910年、信濃毎日新聞に主筆として赴任。「二三子」というコラム欄を設けて執筆。おりから大逆事件。幸徳秋水の公判を新聞に書いてはならぬという警察からのお達しがあり、桐生はこれをネタに「二三子」を書いた。小島さんはその文章を紹介している。続いて、天皇崩御とそれに続く乃木対象の自刃。小島さんは乃木の一件を書いた桐生の文章を紹介。結局この記事が信濃毎日不買運動にまで発展し、桐生は1914年、信濃毎日を去って新愛知新聞の主筆として名古屋へ。ここで10年。桐生にとって、人生でもっとも継続して勤めた職場である。
落着いたかにみえた桐生。1924年、桐生は衆議院議員選挙に立候補。惨敗。小島さんは《退職金七〇〇〇円もつぎ込んでしまったので、彼はまさに路頭に迷ってしまった。何とか中京商業学校の歴史の講師という唯一の定職とバートランド・ラッセルの翻訳などアルバイトにも精を出すが、貧乏神は去らなかった。》と書いて、《しかし苦節四年の後の一九二八年、件の信濃毎日の小坂順造社長から、再び同紙の主筆に呼び戻されたのである。》と続けている。まさにドラマになりそうな浮き沈みの人生である。なお、桐生に刺激されたのか、秋聲も1930年に衆議院議員選挙に出馬すると言い出し、周囲の反対などもあって断念している。
1933年、桐生に今度は「沈む」事態が訪れる。
8月11日、桐生は信濃毎日新聞論説に、「関東防空大演習を嗤う」と題する一文を掲載した。小島さんはその文章を紹介しているが、この大演習は8月9日から始まったが、東京付近一帯の空でおこなわれ、参加した航空機の数も非常に多く、しかもその模様はラジオを通して全国に放送された。
桐生はこの論説で、もしこれが実戦であったら、その惨状言語に絶すると痛感するだろう、したがって、これが実戦になることがあってはならないので、「起らないこと」であるならば、このような架空の演習をおこなっても実際にはそれほど役に立たないであろう、という趣旨のことを書いている。何か今もこのようなことがおこなわれているような気がする。
桐生はまたこうも書いている。《敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に焦土たらしめるだろうからである。》《関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである》。関東大震災の復興にも尽力したアメリカは、つぶさに状況を把握し、ついに敵国になるや、密集する木造家屋の特性を利用して、東京はじめ全国の都市を焦土と化す作戦を編み出し、実戦に使用していった。桐生は東京大空襲を見ることなく亡くなったが、生きていれば、不幸にして自分の予測が的中してしまったことに、大きな衝撃を受けたことだろう。
桐生は書く。《こうした空襲は幾たびも繰り返えされる可能性がある。だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである》。確かに敵機が東京の空に飛来するようになり、結局、日本は戦争に負けた。桐生は書きながらも、現実にそれが起きると考えていなかっただろう。考えていたとしても、それが「考え過ぎ」であって欲しいと願っていたことだろう。そもそも、日本が負けることを想像したくもなかったであろう。
要は、戦争しなければこのようなことにならなかったわけで、防空演習するよりも、戦争しない、戦争にならない工夫をするべきであったのだ。どっかの国からミサイルが飛んで来たことを想定して避難訓練をするよりも、ミサイルが飛んで来ないように、外交交渉をするべきだ、桐生の考えを今日に当てはめれば、このようになるのだろう。防空システムを突破してミサイルが飛んで来れば、いくら避難訓練をしていても、確実に悲惨な状況になる。
日本のリスクに警鐘を鳴らした桐生の論説も、一部の読者から避難轟々。結局、桐生は信濃毎日新聞を辞めざるを得なくなって、名古屋近郊に引っ越した。そして、沈んでも、また浮き上がって来る桐生である。
今度は会員制の啓蒙雑誌を発行。『他山の石』と名づけられ、1934年から、桐生が癌で死去する1941年まで続いた。小島さんは、《社会的には何の栄誉も受けられなかったが、知る人ぞ知るジャーナリスト・桐生悠々は死ぬまで走り続け、死後ずっと経った現代になって始めて卓見が見直されている。》と書いている。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々⑤

三人は越前堀(現、中央区新川)にある小島の親戚の家に落着き、4月に入って、桐生と秋聲は尾崎紅葉宅を訪れたが、玄関番をしていた鏡花に「先生はお出かけでお留守でございます。」と告げられた。鏡花は気づかなかったが、秋聲は入試の時に見かけた男だと思ったという。二人は翌日、紅葉に原稿を郵送したが、「柿も青いうちは鴉も突つき不申候」の一文が入った手紙とともに送り返されてきた。
三人は博文館を訪ねたが採用の見込みもなく、越前堀近くの大工の屋根裏に移り、京橋八官町(花椿通りを外堀通りへ出た辺り)にあった桐生の友人谷崎安太郎の家で、消火器の部品製作を手伝ったりして生活の糧を得た。
けれども、消火器をつくりに上京したわけでもなく、桐生と秋聲は大久保余丁町に坪内逍遥を訪ねたが、小島さんの表現では、《滔々と逍遥の文学論を聞かされて、ついぞ原稿を差し出すタイミングを》失い、その先、小島さんは書いていないが、話している時、発熱を感じ、早々に辞し、受診すると軽い天然痘にかかっていることがわかり、桐生・秋聲ともに静養した。当時、東京では天然痘が流行していた。
5月になって、桐生は復学するため金沢へ戻り、秋聲は大阪にいる長兄の許に身を寄せることにした。東京の魅力を感じる余裕もなく、滞在期間二か月ほどで、桐生たちの第一回上京は挫折のうちに終わった。
《金沢に戻った桐生は四高生に復帰し、元いた下宿に戻り、子供たちを教えるアルバイトも再開した。》と書いた小島さんは、ここで《井波という下宿の女亭主と深い仲になっていく。物心付かないうちに母親を失くした苦学生・桐生にとっては、きわめて自然の流れだったかもしれない。そしてこの年上の女性がその後長年桐生の背後に見え隠れする。》と、「井波のおばさん」が登場してくる。桐生は1895年四高を卒業し、東京帝国大学法科に進学。しかし桐生は《アルバイトをして学資を稼がなければならないことにも変わりなかった。そのうち四高時代に書き溜めた短編が雑誌に載せられ、一部読売新聞にも転載された。これによって若干の学資も稼げ、文壇に桐生悠々の名もささやかながら知られ、かすかな曙光が射したのである。》と言うところへ、《経済的には未だ汲々としていたところに、件の金沢の井波のおばさんが彼を追いかけて転がり込んできたのである。》と、「押しかけ女房」同然。桐生22歳、井波のおばさん44歳。桐生はまだ稼ぎがないから、金銭目当てとは思われない。下宿していた時と同様に桐生の世話をしたいと思ったのか、少なくとも桐生は井波のおばさんを好いていたわけではないだろうから、迷惑な話だったかもしれない。小島さんは、《桐生にとって手っ取り早い日常の伴侶ともいえたが、何かと足手まといになっていたと秋声は観察している。》と書く。
秋聲の方は、大阪で1年ほど過ごして、1893年4月に金沢へ戻ったが、翌年に第四高等中学校補欠入試を放棄して、長岡の平等新聞に勤め、1895年元日に上京。4月、博文館に入社。6月、尾崎紅葉に会い、門下生になることを認められ、こうして桐生と秋聲は共に東京で暮らすことになる。
それから30年ほど経った1923年、関東大震災。秋聲は『余震の一夜』に「井波のおばさん」を登場させている。名前は「井村」と変えられているが、すでに73歳くらいで、「婆さん」と表現されている(桐生も竹内と変えられている)。独居で、どうやら桐生が結婚してからも何かと厄介な存在だったらしく、時どき秋聲の家も訪ねてきていた。
余震の夜の「茶飲み話し」で、この婆さんの話題に移った。彼女は下町の行き詰まった路地の中に二階の一室を借りていたので、地震で助かっても火災に遭っていることは確かで、秋聲も近くの公園の池に浮かんでいる彼女の死体を想像していた。ところがこの婆さん。荷物は全部近所の人達に出させ、「岩崎の避難場」へ逃げ込んだ後、秋聲の家にやって来た。その時、秋聲は金沢にいたので直接経験していないが、ずいぶん威張って無遠慮だったと「茶飲み話し」に集った人たちは語る。その彼女が、9月8日には金沢の秋聲の前に姿を現す。彼女は《半夜を大宮で、野天で明かした。そして死物狂いになって、しかし老人の特権を可也我武者羅に主張して、威張りくさって、人を押退け押退けして》、故郷金沢へやって来た。荷物は秋聲の家に預けてきたと言う。ここで、秋聲は井村の婆さんから貴重な情報を得る。《「不忍池にも人死があたって?」「不忍池!なあに、そんなことは大噓。蓮が青々してゐますよ。」私はその時彼女の見聞によって、初めて本統に安心することができた。》と、秋聲は書いている。
ところで、「岩崎の避難場」とは、三菱財閥の岩崎弥太郎が深川清澄に約30000坪の土地を購入して築造した庭園(清澄庭園)で、大震災の時、ここへ多くの人達が避難して来た。その数、2万人とも言われている。
大地震にともなう火災から逃れるため、多くの人が広い空地や公園に逃げ込んだが、逃げ込んだ場所が生死を分けた。陸軍被服廠の跡地と清澄庭園は、今日、地下鉄で一駅、距離で2kmほどしか離れていない。ともに隅田川の左岸に近接する。『関東大震災で清澄庭園に逃げた2万人が助かった理由……「樹木の防火力」の歴史的事実』によると、陸軍被服廠の跡地(約4ha)は周囲が鉄骨の板塀と幅1m程の溝。そこへ4万人程の人が避難したが、延焼速度が遅かったため、人びとが家財道具などを運び入れ、これに引火して一面火の海となり、避難民のほとんどが亡くなった。一方、清澄公園(約4.8ha)は煉瓦塀と土塁に取り囲まれ、土塁の上をはじめ各所に常緑樹が植えられ、しかも中央に池があった。どちらも周囲を民家に囲まれていたが、樹木と池の水分によって庭園内の延焼が食い止められ、2万人の生命は守られた。「井村の婆さん」というか「井波の婆さん」はたまたま清澄庭園に近いところに住んでいたため命拾いしたのである。もし彼女が陸軍被服廠の跡地に逃げていたなら、おそらく性別も判別しない状態になっていたであろう。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々④

長野駅前の扇屋に泊まった翌日。《しかし其処からが又御難で、ちやうど隧道の工事中にある碓井峠を、徒歩で昇り降りするのも容易ではなかった。等達は到るところで荒くれた土工たちの凄い顔に出逢つて、通を避けて通つた。山の腰を繞つて転つてゐる馬車の喇叭の音も耳についたが、近づいて乗る気にもなれなかった。夜になつて上野へついて、三人は漸く東京の土を踏んだ》と秋聲は『光を追うて』に書いている。すでに1888年12月1日、長野・軽井沢間の鉄道が開通しており、長野から3時間ほどで軽井沢まで行くことができるようになっていた。当時の運賃は60銭。あくまで、ひとつの目安として、米15kgくらい買うことができる金額。
軽井沢から横川まで碓氷峠越えの難所。まだ鉄道は工事中で、開通は三人が通過した1年余り後の1893年4月。工事真っ盛りの様子が、秋聲の文章から伝わってくる。この時、三人が通った道には、離れたり合流したりしながら、軽井沢・横川を結ぶ馬車鉄道が運行されていた。この碓氷馬車鉄道は1886年に開通し、約19kmを2時間30分ほどで結んでいた。その様子は『光を追うて』にも記されている。運賃は40銭という「大金」(今で言うと、4~5000円くらいか)であり、下り道が多いので、歩いたのだろう。
じつのところ、この馬車鉄道、急勾配、急カーブの連続で、とくに下りの怖いこと。鉄製の車輪を木製のブレーキで速度抑制するというもので、ブレーキが壊れるキケン大。馬車に乗るのを怖がって、駕籠で下った人もいるとか。森鴎外は『みちの記』で、《つくりつけの木の腰掛はフランケット二枚敷きても膚を破らむとす。》《山路になりてよりは2頭の馬あえぎあえぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息寵もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪へがたし》(1890年8月17日)と記している。
上野から高崎まで1884年に開通した鉄道は、翌年には横川まで延伸されており、秋聲たちは汽車に乗って一気に東京・上野へ。『光を追うて』の文章も一足飛びである。翌1893年、碓氷峠越えの鉄道が開通し、上野・直江津間の直通運転が可能になった。
『光を追うて』によると、金沢を出発して、3泊4日で長野に到着したことになる。一般的に江戸時代の徒歩による旅は1日30km。金沢・滑川間およそ90kmは途中に2泊が妥当。若さで頑張ったとしても、途中、小杉あたりで1泊していたはずである。秋聲は宿泊地として、この後の宿泊地「市振」の名は書いているが、最初の宿泊地は書いていない。事実を変更して書いたため、曖昧にせざるを得なかったと推測される。
滑川から人力車で3時間。乗っている方は歩くより楽なだけで、早く着くわけではない。おそらく約10数km先の黒部まで人力車に乗ったのだろう。ここから徒歩で泊(とまり)を過ぎ、県境を越えて市振へ。約20km。この日は市振で宿泊しているので、一日の移動距離30数kmは妥当なところである。つぎの日は親不知の難所を越えて、糸魚川までは約20km。手前まで人力車を利用し、いざ親不知の難所。と言っても、1878年の天皇行幸の後、海抜約100mの断崖を開削して国道がつくられたので、思ったほど怖くなかったようだ。この国道、1882(明治15)年から工事が進められ、翌年開通。糸魚川から直江津まで50km以上あるので、途中で1泊したようで、翌日午前中歩いて直江津まで来て、三人は午後の汽車に乗って長野へむかっている。
『光を追うて』によれば、金沢・東京間、4泊5日の上京の旅。三人が歩くことを余儀なくされた金沢・直江津間は、およそ200km。実際には作品の記述より日数を要しており、6泊7日、あるいはそれ以上かかったと思われる。北陸線が全線開通したのは1913年。じつに10年余り後のことだった。
現在では、北陸新幹線に乗れば、金沢から2時間30分で、東京駅に到着するご時世。朝、金沢を発って、東京で尾崎紅葉に会って、入門を断られ、夕方には失意のうちに金沢へ帰って来る。そのようなことが起きる可能性がある時代になった。江戸時代、加賀藩主の参勤交代は金沢・江戸間、およそ13日かかったという。それが桐生たちの頃になり、行程の半分ほどに鉄道が開通し、7日くらいに短縮され、今や日帰りが可能な時代になった。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々③

小島英俊さんは『合理的避戦論』の「第二章 防空演習を嗤った桐生悠々」を、《桐生悠々の本名は桐生政次で、一八七三年、下級士族の三男として金沢市に生まれた。政次が金沢で通った高等小学校や高等中学校(第四高等学校の前身)の同級には、作家の徳田秋声がおり、家庭環境も似ていた二人はずっと親しい交友関係を続けた。》と書き出している。桐生は鏡花と同い年だが、二年遅れて入学してきた秋聲と気が合った。
1887年、金沢に第四高等中学校が設置された(1894年に第四高等学校と改称)。1888年、桐生、秋聲ともに第四高等中学校に入学した。小島さんは《桐生の場合、学費の工面は厳しかったので、下宿先で子供向けの塾を開いて補った。さらに彼は地元紙・北陸新報の主筆で改進党系の赤羽万次郎の論説の代筆も行ったというから、知能や早熟さが目立っていたのであろう。いずれにせよこの経験が後年新聞ジャーナリストとなる動機となり、執筆訓練にもなったのである。》と書いて、《四高在学中に桐生と徳田はさらに親密になっていくが、二人を結びつけた共通の関心は文学であった。》と続けている。
結局、《このように文学に憧れる二青年はもう金沢には留まっておられず》、桐生と秋聲は高等中学校を退学し、小説家になることを夢見て、1892年(明治25)3月末、連れの小島とともに上京した。鏡花より二年余遅れての上京であった。
初めての上京の様子を後に秋聲は、『光を追うて』(1938年)という作品に描いている。日数や宿泊地など脚色されたと思われるところもあるが、上京の経路や沿線の光景など、現実と合致する内容も少なくないと判断される。もちろん、すでに46年前の出来事を書いたのであるから、思い違いがあって、むしろ当然である。
北陸線が金沢まで延伸に、米原経由で東京へ行くことができるようになったのは、1898年である。1892年当時は敦賀(1882年開業)まで出て鉄道を利用するか、直江津(1886年開業)まで出て鉄道を利用するか、どちらかであった。鏡花は敦賀まで出て、上京するルートを選んだが、桐生たちは直江津まで出るルートを選んだ。
『光を追うて』によると、桐生・秋聲(作中、向山等)・小島の三人は朝、金沢を出発し、森本・津幡を過ぎ、倶利伽羅峠を越えて、石動で昼食。水橋まで来ると、《春らしい午後の光線の明るさに浮きあがり》、このあたりまで来ると、足も段々重くなり、丘や松原を越えて蒸汽船の汽笛が聞こえ、《「おーい、船にすれば可かつたぢやないか。」先きに立つた桐生が振かへつた》が、やはり歩いて、宿屋のある町まで来ると、行き当りばったりに宿をとった。こうして三人の第一日目は終わる。
翌日は、車(人力車だろうか)に3時間ほど乗った後、歩いて市振までやって来て宿泊。次の日は、親不知の難所の手前まで車で行って、難所を通るが、《御巡幸のをり岩を削つて道を拓いたので、親不知子不知といふほどのこともなかつた》。どこで宿泊したか書いていないが、翌日午後、直江津から汽車に乗って、晩に長野に着いた。鉄道は直江津から関山まで1886年、さらに長野まで1888年に開通している。
桐生たち三人は駅前の扇屋という旅館に一泊。翌年に出版された『長野土産』には、《末広町両側には藤屋支店・扇屋支店・山屋支店・綿屋支店・中島屋支店などがある。各店女五、六人が手を揚げ腰をかがめて、声をあげて客を招く。互いに競って客を引き、宿泊客をおのおのの本店に案内する》と書かれている(小林玲子の善光寺表参道日記――2006年2月21日より)。この扇屋支店というのが、三人が泊まった旅館であると推察される。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々②

ところで、『合理的避戦論』という本の題になっている「避戦論」とはいったい何?小島さんは「はじめに」の中で、《さて戦争に反対する立場は通常「反戦」とか「非戦」と表現されるようであるが、今回私はあえて「避戦」という言葉を使わせていただいた。》と述べている。そしてその理由として、「反戦」というとマルクス的解釈が支配的で、「非戦」はキリスト教的、あるいは被爆体験からの「非核・非戦を訴える」、さらには与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」と謳った母性的なもの、《これらのアピールにも重要なものが含まれてはいるが、現代人に訴えるにはそれだけでは不十分ではなかろうか。》と疑問を投げかけ、《その欠落する部分とは「合理性」だと私は考える。》と、自ら回答する。
けれども、これだけではよくわからない。そこで小島さんは、《仮に戦争した場合の「目的と結果予測」「コスト+リスク対パフォーマンス」を国内的・国際的に、短期的・長期的に大きな論脈で考えることが必要である。この切り口を「反戦論」や「非戦論」とは区別して「合理的避戦論」と私は呼びたい。》と、解説し、《そこには些細な具象と固有名詞の羅列という暗記物の歴史を持ち込んではいけない。必要なのはあくまで正しい情報に基づく合理的思考、歴史を読む確かな眼である。》と付け加える。
小島さんのこの説明。私はわかったようでわからない。自分なりに解釈してみると、こうなる。
――どうも人間というのは「自分」という意識が強いためか、「争い」を起しやすく、「戦い」にまで発展することもある。このような「戦争」は、人間が武器をもつことによって、お互いに殺傷し合う状況をつくりだしていった。人間の歴史は「戦争」の歴史と言っても良い。そのような人間だからこそ、「戦争」はイヤだ、「戦争」したくない、という思いも強いが、「戦争」反対と言っても、「戦争」しないと言っても、それだけではなかなか戦争の抑止にならない。そこで、人間というものは「戦争」を起しやすいということを前提に、お互いに「戦争」を避ける、さまざまな工夫をしていくことが、戦争を防ぐ有効な手段になる。ここにおいて重要なのは、戦争をしたら「どのような利益があるか」「どのような不利益があるか」、理性にしたがってよく考えていくこと。戦争と言うのは相手があることだから、戦争を避けるための交渉がどうしても必要になってくる。
この「不利益」の中には「戦争に負ける」ということも含まれるから、こちらが強い軍事力をもっていれば、相手は戦うことを避けるだろう。そうすれば、戦争に発展しない。いわゆる「抑止論」であり、小島さんとの対談相手、東郷さんはこのような考えをもっているようだ。ただし、こちらが一定の軍事力をもてば、相手もそれを上回る軍事力をもとうとするから、互いの「軍事力拡張」競争が強まって、ほんとうに戦争に発展してしまうかもしれない。東郷さんも、何より外交の重要性を強調している。
日本国憲法は武力をもたないという徹底した平和主義を貫くとともに、「二度と戦争しない」という「非戦」を宣言している。それとともに、人間というものはどうしても争いごとを起しやすいということを前提に、話し合いによって争いごとを解決していかなければならないと強調している。これが「避戦」の立場と言えるのではないか。――
このようなことを私なりに思いめぐらして、興味は尽きないが、この後は『合理的避戦論』と題する本そのものに任せて、この先、桐生悠々に焦点を絞っていくことにしたい。もちろんここで桐生を取り上げるのは、文豪徳田秋聲の親友だからである。
                        (つづく)
【館長の部屋】 桐生悠々①

私の手元に『合理的避戦論』(イースト新書、2014年)がある。著者の小島英俊さんから10年ほど前、つまり出版した年にいただいて、さっそく読んだけれども、その後は本箱に並んでいる状態になった。それでも、何か気になる本で、時おり手に取って、関心のあるところを拾い読みしていた。
小島さんは国際政治学者ではない。大手商事などで勤務した企業人、経営人である。と同時に、鉄道史、旅行史にも関心をもち、『文豪たちの大陸横断鉄道』(新潮新書)、『時速33キロから始まる日本鉄道史』(朝日文庫)といった著書もある。これだけで私は小島さんのファンになってしまいそうだ。ただ、小島さんはこれだけにとどまらない。『昭和の漱石先生』(文芸社文庫)、『漱石と『資本論』』(祥伝社)、『旅する漱石と近代交通』(平凡社新書)などと、漱石に関する著述も多い。
小島さんは、「はじめに」の中で、《立憲国家体制が成立して以来の近代史に照らして見ると、古今東西、「戦争と平和」論議および国家の行動においては、必ず憲法の解釈変更と改定が絡んでいる。》と書いて、《いずれにせよ憲法問題は、究極、国民一人一人の身に降りかかる「戦争と平和」問題であるから、「政府任せ」とか「政府の説明責任」などと無責任で悠長なことを言っている場合ではないであろう。それには国民一人一人が判断材料を持ち、よく考え、自由に意見を発信し合うことしかなく、それは絶対にやらなければならないことだと私は思う。》と、自身の考えを述べている。
『合理的避戦論』は小島さんと東郷和彦さんの対談で始まっている。東郷さんは外務省で勤務し、駐オランダ大使を歴任、国内外の大学でも教え、父も外務省、駐米大使、祖父は外務大臣も務めたと言う外交一家に育った。
対談で東郷さんは、《さて、直近で特に注目すべきはウクライナ問題でしょう。場合によっては冷戦後の世界構造を変えてしまう可能性がある》と述べている。対談は2014年、ロシアのクリミア侵攻という事態の中でおこなわれたものであるが、2022年からのロシアによるウクライナ侵攻の出発点がクリミア侵攻にあると言われることを考えれば、東郷さんのベテラン外交官の臭覚というか、その指摘が的確であったと、10年余の時を経て、あらためて読み返して思うことである。
本のカバーの折り返し部分には、《「戦争と平和」は、いかに語られてきたか?》のタイトルで、《軍国主義華やかなりし昭和初頭、「空気」に抗って反戦平和を唱えた言論人がいた。斎藤隆夫、桐生悠々、水野広徳、北一輝、石橋湛山、石原莞爾、清沢冽。彼らの生涯を精緻に辿りながら、戦後の興味深い三島由紀夫・野中広務の対比も含め、通底する“合理的”避戦思想を再評価する。》と書いてある。
石橋湛山は1956年、鳩山一郎内閣の後を受けて首相になった。私が小学校3年生の時である。当時、新聞の1面には首相の顔写真がよく載った。なじんだ鳩山首相の顔が石橋湛山の顔に変わり、私には衝撃的な出来事であった。この世に9年ほど生息して、首相が替わるのは私の中では初めての出来事だった。もちろん私が生まれた時の片山哲から始まって、芦田均、吉田茂、鳩山一郎と首相は替っている。私は新聞に吉田茂が首相として載っていたことをかすかに覚えてはいるが、首相が交代する場面をしっかり認識したのは、鳩山から石橋への交代が初めてだった。
子どもの私は鳩山さんが良いか、そうでないか、石橋さんがどのような人物であるかわからなかったが、子ども心に何か時代が変わったようで、ちょっぴり嬉しい気分になった。と、思ったら、3ヵ月で石橋さんは病気で首相を辞め、岸信介首相が誕生した。子どもの私は岸さんが良いか、そうでないか、わからなかったが、石橋さんが辞めたことに衝撃を受け、それとともに石橋さんの潔さを快く思った。ずいぶんませた小学校3年生である。が、とにかく石橋湛山の名はしっかり私の記憶に刻み込まれて、今日に至っている。
                        (つづく)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木⑥

1911年、8月7日、啄木一家は小石川区久竪町(ひさかたちょう)に転居します。この頃には、医者代や薬代の出費がかさむようになっていました。ここで、漱石と啄木の、1910年7月以来の二度目の接点が生まれます。
今度は、例によって、おカネ絡みです。
第1回目の用立ては、森田草平が「見舞金」として7円渡したのですが、これまた無心の心得がある森田は、7円を漱石の妻鏡子に出させています。
第2回目は、漱石夫妻の五女雛子が急に亡くなった、その悲しみも癒えない1912年1月21日です。雛子は1910年3月2日に生まれ、翌1911年11月29日に亡くなりました。啄木自身は、慢性腹膜炎からの結核が進行し衰弱してきていましたが、森田草平は、鏡子の意を受けて、15円と征露丸150錠を持って啄木を見舞っています。意地の悪い私は「ほんとうに15円、きちんと啄木に渡したんでしょうね」と突っ込みを入れたくなるのですが、1月22日の啄木の日記には、《午頃になって森田君が来てくれた。外に工夫はなかったから夏目さんの奥さんへ行って十円貰って来たといって、それを出した。私は全く恐縮した。まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかった事もないのである。》と書いてあるので、5円は森田の懐に入った可能性があります。森田一人でも随分、漱石夫妻には負担を掛けているのに、いくら同じ朝日新聞社社員と言っても、あまりにもあつかましい森田の行為と言えます。
さすがに啄木も恐縮して、1月26日、鏡子に宛てて礼状を書いています。
ところが、1月28日、丸谷喜市からの1円と、鏡子からの10円、合わせて11円のうち、残っていたのは1円だけだったと言います。漱石は知らなかったようですが、結局、鏡子は17円の金を啄木に、返ってこないことを承知で用立てているわけです。大学卒初任給半月分にあたる額である。実際には森田の懐に入ったとみられる5円を入れれば、22円になります。
「働けど働けど……」とは裏腹に、「借りても借りても我が暮らし楽にならず」、じっと手をみながら、「つぎはどこからどんな手口で借金しようか」と考えたのではないかと思いたくなるような啄木です。
鉄幹の好意による汽車賃でヴァイオリンを買った啄木です。欲しいと思えば買い、遊び歩き、好き放題して、生活費に困り、下宿代も滞納。支払いに追われて、借金をする。あちらこちらから借金をするが、とりわけ中学の先輩金田一京助は自分の本や衣服を売ってまで用立てています。冒頭、お話ししたように、京助の息子春彦は、石川啄木がほんとうは石川五右衛門の子孫ではないかと思ったとか。
啄木が残した克明な借金メモによると、借金総額は1372円50銭に達すると言います。これだけの金をよく貸してくれる人がいたもので、良き時代であるとともに、わかっていても金を出させてしまう不思議な力を啄木はもっていたのでしょう。井上ひさしは、戯曲『泣き虫なまいき石川啄木』で、《嘘つき、甘ちゃん、借金王、生活破綻者、傍迷惑、(略)ほとんど詐欺師》と評しています。

早くも、「漱石、啄木との別れ」です。
1912年3月に啄木の母が肺結核で死去。そして、4月13日、啄木は素晴らしい作品と借金を残して亡くなりました。26歳。それでも樋口一葉より二年長く生きたことになります。15日、西浅草にある等光寺でおこなわれた啄木の葬儀には漱石も参列しています。等光寺は東本願寺別院の脇にある寺院で、啄木の親友土岐善麿の実家。皮肉なことに、連載中の『彼岸過迄』で、漱石はこの寺のすぐ傍を主人公田川敬太郎に歩かせています。そう言えば、啄木の実家もお寺でした。
中西さんは、岩城之徳の調査によると、《妻・節子が記録した啄木、石川家、最後の八ヵ月の金銭出納簿によれば、この時期での最大の収入は、四月一三日の「お香奠」一二〇円だった、という。》という文章で締めています。
啄木が亡くなった1912年。7月30日に明治天皇が亡くなり、明治は終りを告げて大正に改元されました。
啄木の妻節子は、啄木の後を追うように1913年、肺結核で28年の生涯を閉じました。
平出修は1914年3月17日、37歳で死去。葬儀にあたる永訣式は、神田の東京基督教青年会の青年会館でおこなわれ、森鴎外、それに漱石も参列しました。漱石の『こころ』が朝日新聞に連載されるようになったのは、4月20日。連載は8月11日まで続きました。
それから2年余。1916年12月9日、漱石も49歳で亡くなりました。第一次世界大戦の最中でした。
漱石からみた啄木はどうだったのか。まったくわかりません。けれども、国家主義が進行する明治末期の日本、東京の同じ光景をみていたことは確かです。
啄木と節子の間の男の子は夭折。長女は24歳、次女は19歳で他界。長女は子どもをふたり産んでおり、ひ孫にあたる真一氏は2019年に盛岡市に建てられた「盛岡・文京区友好都市提携記念碑」に揮毫しています。

最後に、「漱石の見た啄木」総決算です。
漱石が啄木と会ったのは2回だけ。
妻鏡子が啄木に与えたおカネ。推定17円。
漱石が啄木の葬儀に包んだ香奠、いくらかわかりません。
漱石は啄木について何も書いていません。
漱石から見た啄木はどうだったか。まったくわかりません。
けれども、国家主義が進行する明治末期の日本、東京の同じ光景をみていたことは確かです。
朝鮮併合、大逆事件に対する視点。漱石と啄木に共通するところが多い。
もし、弾圧される恐れのない状態で、二人が自由に対談する機会があったなら、 朝鮮併合、大逆事件に関して、意気投合したであろうと思います。

啄木が亡くなって、すでに113年。それでもなお、大勢の人が「啄木祭」として、このように集まるのですから、やはり啄木は今でも多くの人を惹きつける魅力をもった人と言うことができるでしょう。たくさんの借金を残したとはいうものの、たくさんの素晴らしい作品を残して、社会的には、借金はすでに帳消しになっているかもしれません。ご清聴ありがとうございました。
                           (完)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木⑤

ここで、平出修が登場します。
平出修は弁護士で、明星派の歌人、与謝野鉄幹の新詩社同人。
新潟県の出身で、高田の平出家に養子に行った。高田は漱石の修善寺の大患でも、漱石の命を救う役割を果たしたと言う、医師の森成麟造の出身地でもあります。漱石はお礼も兼ねて、森成が開業した高田を訪ね、講演しています。
さて、平出は鉄幹の依頼を受け、大逆事件の被告崎久保誓一らの弁護を引き受けていました。さらに平出は高木顕明の弁護も担当しました。大審院特別裁判が開廷して1週間ほどした12月18日、幸徳秋水は獄中で書いた陳弁書を三人の担当弁護士に送りましたが、その陳弁書は、11人の担当弁護士に資料として配付され、平出にも渡されました。
平出は「被告たちの無政府主義に深い理解と同情をもち、極めて優れた弁護」をおこない、12月28日の大審院で平出の弁護を聞いた崎久保・高木はもちろん、明星派歌人大石誠之助、幸徳秋水・管野須賀子ら9人が直接・間接に平出に礼状を書いたと言われています。
その12月。中西さんによると、《ともあれ、この時期に啄木は、時代の「閉塞」状況に苦悩しつつも、自らは歌人としての地位を確立しつつあった。同年の一二月には、歌集『一握の砂』も刊行でき、その一首三行書きでの青春と生活吐露の短歌は注目を浴びていく。》と、客観的には順調な生活を送っていました。
1911年に入って、1月3日、啄木は平出修を訪れました。
啄木に会った平出は、「もし自分が裁判長だったら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の4人を死刑、幸徳・大石を無期、内山愚童を不敬罪で5年位に、あとは無罪にする」と語ったと、啄木は日記に記しています。
この時、啄木は平出から幸徳秋水の陳弁書を借用し、1月4日・5日と書き写し、6日に、東京朝日新聞の上司杉村楚人冠、さらに友人の丸谷喜市、並木武雄に貸しています。この書き写した陳弁書に啄木は「A LETTER FROM PRISON」と名づけています。
陳弁書を書き写した啄木は、日記に《無政府主義に対する誤解の弁駁(べんばく)と検事の調べの不法とが陳べてある。この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男ではない。さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。幸徳と西郷!こんなことが思はれた。》と書いています。
当時、この事件に関しては徹底した報道管制が敷かれており、不確かな情報が断片的に巷に流れ、啄木はそうした庶民の会話を聞きとって、詳細に記録しています。
1911年1月18日に幸徳秋水ら24名に死刑が言い渡されると、1月20日の東京朝日新聞は社説に「特別裁判判決」と題して、《此度の裁判判決に対しては、議論は一切無用なり。》と書いています。書いたのは漱石を朝日新聞に引き抜いた池辺三山とみられています。
けれども朝日新聞社内では、公表できない秘密資料をもっており、判決翌日の朝日新聞とともに、こうした資料が、坂元雪鳥を通じて入院中の漱石のもとに届けられました。漱石の五高時代の教え子で、後に国文学者としても活躍する坂元は、当時朝日新聞社に勤めていました。その中に、啄木が書き写した秋水の陳弁書があったかどうか不明です。漱石は坂元に宛てた20日付の書簡に、《無事御安着結構に候》と書いています。
死刑判決から1週間。1月24日から25日にかけて、幸徳秋水ら12名は、さっさと処刑されてしまいました。
結局、漱石は大逆事件の真相に迫る情報に接しながらも、事件に関して何も語らず、何も書きませんでした。危機を脱したとはいえ、予断を許さない状況で、入院生活をしていた漱石ですから、責められる筋合いはないのですが、漱石は沈黙した自分自身を責める心境になったのでしょう。沈黙によって、Kつまり幸徳秋水を見殺しにしてしまった、そんな思いが『こころ』という作品を生み出すことになります。Kについては、石川啄木だとか、さまざま憶測がなされていますが、私は幸徳秋水だと思っています。
『こころ』という作品は、「秘密」と「沈黙の罪」がテーマです。『こころ』は先生の名前を「秘密」にするところから始まって、先生の遺体を「秘密」にして終わります。国家主義の台頭で、「秘密」がどんどん増えていく。今も「秘密保護法」だとか。タモリさんが「新しい戦前」などと呼ぶ時代です。漱石の年齢は「明治何年」そのものです。その明治は、自由闊達な時代、自由民権運動などもひろがった時代です。それが、明治を通じて、国家主義がしだいに台頭し、とうとう「自由な明治」は死んだ。死んだ明治天皇に殉じたのが乃木大将です。『こころ』の先生は、死んだ「自由な明治」に殉じて死んだんです。これでは、読者が「なぜ先生は自死しなければならなかったのか」、わかるはずありません。
そして、先生が親友Kを、黙って見殺しにしたように、漱石もまた幸徳秋水を黙って見殺しにした。これが、『こころ』です。
                           (つづく)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木④

1909年3月1日、啄木は朝日新聞に入社しましたが、漱石は6月27日から10月14日まで、朝日新聞に『それから』を連載しました。その連載の最中、
9月から10月にかけて、漱石は親友で満鉄総裁の中村是公の招待で満州から朝鮮を旅行。漱石を大連に送って、下関に戻ってきた鉄嶺丸は、今度は伊藤博文を乗せて大連へ。そして伊藤博文は10月26日、ハルビン駅で暗殺されます。すぐそばにいた中村是公も流れ弾に当たって負傷。
漱石は帰って来て、『満韓ところどころ』を朝日新聞に連載します。約束ですから仕方ありません。けれども漱石は、周りが期待するように、日本が満州や朝鮮を植民地化することを鼓舞するようなことは書くことができず、朝鮮を書く前に年内に、さっさと連載を終了してしまいました。
1910年。ついに啄木が漱石に出会う年です。
漱石は『それから』、続いて『門』を発表していますが、中西さんは「漱石『門』から世相史を読む」に、《啄木が校正係をしていたとき、漱石の『それから』と『門』が、朝日新聞に連載された。その校正を啄木も担当し、『それから』を一番はじめに読んだのは僕だ、と日記に書き残している。》と書かれています。
啄木も校正に加わった『門』の掲載が終り、漱石は1910年6月18日に内幸町の胃腸病院に入院。中西さんは、《啄木は、七月一日と五日にその漱石を病院に訪ねている。五日の訪問は、「漱石日記」に「石川啄木来(スモークを借りに)」と記録されている。》と書いて、「スモーク」とは果たしてなにか?と問いかけ、《漱石にタバコを借りるために入院先の病院に行くとは不思議》と思って調べてみたら、ツルゲーネフの英訳全集五巻に「スモーク」という小説があることがわかったと記しています。
当時、朝日新聞社は事故死した二葉亭四迷の『全集』を編集中で、啄木も校正を担当しており、《二葉亭は未発表ではあったが「けふり(煙)」を翻訳しており、その参考のために》、啄木は《漱石所有の英語本を借りに来たのだった》。啄木は、《面会のきっかけを見つけて大作家を訪ねたのだろう。》と中西さんは推察しています。
数寄屋橋近くの京橋区滝山町にある朝日新聞社から、漱石が入院する長与胃腸病院まで、山下門から帝国ホテルの脇を通って800m程。初対面の二人はお互いどのような印象をもったでしょうか。
「資料」からわかるように、漱石と啄木が出会った1910年、明治43年は、後に「大逆事件」と呼ばれる弾圧事件が進行した時期であり、8月29日には朝鮮国が日本に統治下に入る、いわゆる「朝鮮併合」がおこなわれています。漱石は転地療養中の修善寺温泉菊屋で、8月24日、大量吐血して危篤状態に陥っていました。その間に朝鮮は日本の植民地になっていたのです。
この大逆事件と朝鮮併合において、漱石と啄木は共通する視点をもっていました。
啄木は「朝鮮併合」に関して、《地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く》と歌っています。あえて「朝鮮国」と「国」をつけているところに、啄木の視点がうかがえます。
漱石は1909年、親友で満鉄総裁の中村是公の招待で満州から朝鮮を旅行し、『満韓ところどころ』を朝日新聞に連載しました。けれども、日本が満州や朝鮮を植民地化することを鼓舞するような場面はなく、朝鮮を書く前に年内に連載を終了し、翌1910年3月1日から『門』の連載を開始しました。
『門』では、朝鮮併合を進めた伊藤博文を、「殺されて良かった」と書き、『門』という作品に、暗に朝鮮併合を批判するメッセージを書き込みました。あまりに巧妙に書いたので、いまだに見破られていません。『門』は、主人公宗助が親友安井の妻御米を奪い取って、自分の妻にした。その結果、宗助は常に安井の影におびえて暮らすことになり、御米との間の子どもは、流産・早産・死産で、結局、子どもを得ることができない。妻を奪い取るという「非道徳的」な行為が許されないとするならば、国家を奪い取るという行為は「非道徳的」ではないのか?そして、日本が朝鮮を植民地化することによって、得られるものはあるのか?不幸だけ生み出されるのではないか。漱石の「朝鮮併合」への思いが見えてきます。
伊藤博文を暗殺の地に送った鉄嶺丸は、漱石を満州へ送った船であり、ハルビン駅で伊藤博文のすぐそばにいた中村是公も流れ弾に当たって負傷しています。一国の首相が暗殺され、親友が負傷しているにも関わらず、「伊藤さんは殺されて良かった」という漱石。もちろん漱石は「死んで良かった」とは書いていません。「ただ死んでごらん。こうはいかない。」「殺されたから歴史上、偉い人になる。」と言っている。暗殺と言う歴史的出来事としての側面を重視している。とは言うものの、やはり漱石を「空気を読むことができない変わり者」とみるべきなのか、そのくらい朝鮮併合に反対する気持ちが強かったと言えるでしょう。
朝鮮併合、修善寺の大患、そして首都東京が大水害に見舞われた8月。本郷丸山町、かつて樋口一葉が住み、そこで亡くなった家も、がけ崩れで全壊し、当時そこに住んでいた森田草平もケガをしました。そのような8月も過ぎ、啄木は9月15日、「朝日歌壇」の選者を託されました。渋川玄耳(しぶかわ・げんじ)の意向によると言われています。
一方、危機を脱した漱石は、10月に入って東京に戻り、長与胃腸病院に再入院しました。
                           (つづく)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木③

啄木は、1909年、明治42年、3月1日、朝日新聞社に入社しました。中西昭雄(てるお)さんの書いた「漱石『門』から世相史を読む」には、《石川啄木が、東京朝日新聞社の校正係に就職したのは、一九〇九年三月一日。啄木、二四歳のときだった。》と書かれており、啄木の朝日入社は、同郷の朝日新聞編集長佐藤真一へ手紙で売り込んだのが功を奏しての採用で、啄木は生活上30円必要と条件提示している。啄木は佐藤と面識がなかった、と書いています。すごいと言うか、図々しいと言うか、自信過剰と言うか、給料まで指定して、採用してくれと言うのですから。実際、啄木が校正係として受け取った給料は25円で、途中から27円になりました。が、当時大学卒の初任給が35円くらいでしたから、けっして悪くない金額でした。
朝日新聞社に入社した1909年の4月3日から、啄木はローマ字で日記をつけ始めました。それは、妻子・母といっしょに喜之床――本郷区弓町床屋の二階に住むようになる6月16日まで続いています。喜之床というのは、東大正門の向側にあった喜多床という西洋理髪店、『吾輩は猫である』にも出てくる床屋さんですが、その分かれの床屋になります。
これ以前から、啄木は足繁く浅草十二階下の私娼窟に通い続けており、その様子も克明に、赤裸々にローマ字で日記に書いていました。十二階というのは、浅草のシンボルみたいになっていて、エレベーターもありました。関東大震災であっけなく崩れてしまいました。「私娼窟」というのは、吉原のような公認の娼婦がいるところと違って、公認されていない娼婦のいるところで、江戸時代の「岡場所」にあたるところです。荷風なども「私娼窟」に通っていたようです。
啄木のローマ字日記。例えば、4月10日の日記には、《いくらかのカネのあるとき、余は何のためろうことなく、かの、淫らな声に充ちた、狭い、汚い街に行った。余は去年の秋から今までに、およそ13~4回も行った、そして10人ばかりの淫売婦を買った。》《余の求めたのは、温かい、柔らかい、真っ白な体だ:体も心もとろけるような楽しみだ。しかしそれらの女は、やや年のいったのも、まだ16ぐらいのほんの子どもなのも、どれだって何百人、何千人の男と寝たのばかりだ。顔に艶がなく、肌は冷たく荒れて、男というものには慣れ切っている、何の刺激も感じない。わずかのカネを取って、その陰部をちょっと男に貸すだけだ。》
ローマ字を変換して読んでいくと、こんな内容です。この先、まだまだ生々しい描写が続くけれど、さすがに荷風でも公表は差し控えるであろう描写ですから、この辺でやめておきます。他の日にも、憚られるような記述があります。
日本語をローマ字表記にする考えは明治の初めからありましたが、1905年には「ローマ字ひろめ会」が設立され、啄木もそのような流れの中で、自分の書く日記にローマ字を使ってみようと思ったのでしょう。一般的にローマ字が普及しているわけでないので、ローマ字で書かれた日本語というのは、まことに読みにくい。読んでいて途中で嫌になる。別の言い方をすると読まれにくい。日記はほんらい、他人に読んでもらうものではありません。他人の悪口を書いても良い。自分のあふれ出る醜い感情をありのままに書いても良い。知られたくない自分のおこないをありのままに書いても良い。けれども、何かの拍子に、誰かに見られるかもしれない。特に、妻に見られるかもしれない。見られても読まれなければ良い。ローマ字は啄木にとって、とても都合の良いものだったと思います。
日記には、借金のことや会社を休んだことなど書いた部分もあります。金田一京助のことも書いてあります。普通の日記の部分もたくさんあります。啄木の名誉のために言うならば、女遊びの描写だけ書いてあるわけではありません。
また、啄木のローマ字日記には英文で書かれた部分もあります。ひょっとしたら、啄木は英文で日記を付けたかったけれど、そこまで英語力がなくて、雰囲気だけ英文調に、ローマ字で書いたのかもしれません。自分の思いを直接的に日本語で書くことは、自分にとっても刺戟が強すぎる。生々し過ぎて、感情的になりやすい。ローマ字で書くと、書き慣れた日本語を一度変換する必要がある。そこにクッションが入ることによって、自分を多少なりとも、客観的な立場に置くこともできます。
そのようなさまざまな思いから、啄木は日記を一時期、ローマ字で書いたのでしょう。しかしそれは、意外に短期間に終わりました。私も高校2年生の時、ノートを全部ハングルで書いて、だんだん面倒くさくなって、やめてしまったことがあります。啄木もローマ字で書くことが、しだいに面倒になって、やめてしまったのかもしれません。
土岐善麿は1910年、「ローマ字ひろめ会」から第一歌集『NAKIWARAI』を出版。ローマ字つづりの一首三行書きの短歌を発表しました。この歌集に啄木が批評を執筆したことが縁で、二人は友人として交流するようになっていきました。善麿と啄木は今の学年制度でいけば、同学年です。二人の交友期間は短く、1912年、啄木の葬儀は善麿の実家、西浅草の等光寺でおこなわれました。
啄木がローマ字で日記を書いていた当時。啄木は朝日新聞社からの給料の他、印税なども入って、月収は50円に達していたとみられるのです。中西さんは、《ここからが啄木の短い生涯のなかでもっとも生活が安定した時期だと思われるが、借金の返済などで困窮はつづき、月初めには毎月給料を前借りしている。母、妻、長女を呼び寄せて、本郷区弓町の床屋の二階二間を借りて生活し、そこから、電車で京橋区滝山町の朝日新聞に通勤した。》と、書いています。《京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな》。啄木はこのような歌を詠んでいます。
啄木は50円のカネも使い果たし、借金を重ねていました。
                           (つづく)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木②

夏目漱石。本名、夏目金之助は、「資料」にあるように、1867年、慶応3年に、現在の新宿区喜久井町生まれました。生まれたところは、江戸という都市の範囲を表す「朱引地」のはずれで、すぐ「朱引地」の外になる、つまり江戸の町のはずれにあたるところで、「俺は江戸っ子だ」などと、あまり威張ることができない地域の生れでした。
1868年、慶応4年が明治元年になる年ですが、漱石は父直克が、同じ名主仲間で、目をかけていた塩原昌之助の養子になりました。昌之助の妻「やす」は、夏目家で下働きをしていました。と、言っても、江戸近郊の豪農の娘でしたから、必ずしも下働きではなかったかもしれません。
江戸幕府の崩壊、明治政府の誕生という大きな変革の中、江戸市民の支配制度も変えられ、名主も戸長、区長などの役職に変えられていきました。塩原昌之助も戸長として、配属が転々と変わり、それにともなって漱石も、内藤新宿、浅草三間町、浅草諏訪町と住家を変えました。
養父昌之助が元旗本の未亡人日根野かつ、と不倫関係になり、漱石は養母といっしょに実家へ戻り、その後、再び養父のもとへ戻って、「かつ」、その連れ子の「れん」と四人の生活が浅草壽町で始まりました。「れん」は美少女で、頭も良く、昌之助は、漱石と、一歳年上の「れん」を結婚させて、塩原の家を継がそうと考えていたそうです。結論から言いますと、漱石も「れん」も、昌之助より先に死んでしまいました。
1876年、養父母が正式に離婚し、漱石はまた生家へ戻りました。もちろん、漱石は塩原金之助のままで、養父などとの交流も続いていたようです。しかし、実父の直克も夏目家の将来を考え、1888年、漱石を夏目家に復籍させました。
漱石は、1893年、帝国大学を卒業。1895年、子規のふるさと松山にある旧制松山中学校に赴任、翌1896年、熊本にある旧制第五高等学校に赴任、貴族院書記官長中根重一の娘鏡子と結婚しました。1900年から1903年までイギリスに留学し、帰国後は熊本へ戻ることを嫌って、いろいろ手を尽くし、旧制第一高等学校や帝国大学で教え、多くのストレスから過激な行動がみられるようになり、その緩和のために、1904年に書き始め、「ホトトギス」に発表した『吾輩は猫である』が好評で、『坊っちゃん』『草枕』などつぎつぎと書き、ついに1907年、朝日新聞社入社。職業作家として、『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』など発表。住まいも本郷から、実家に近い早稲田南町に移しました。そして、1910年、啄木と出会います。

石川啄木の略歴は、あえて紹介することもないでしょうが、概略を「資料」に載せておきました。
啄木は1886年、明治19年、現在の盛岡市日戸(ひのと)に生まれました。漱石の満年齢は明治の何年と同じなので、啄木が生まれて時、漱石は19歳、大学予備門、第一高等中学校の学生で、中村是公と本所の江東義塾の寄宿舎に住んでいた頃です。啄木は漱石の弟子で言えば、1884年生まれの小宮豊隆と、“ヤンガー・ジェネレーション”と言われる1891年生まれの松岡譲などのちょうど間くらいの生まれにあたります。
1902年、明治35年、旧制中学2年の夏休み。啄木は初めて東京へやって来て、10日くらい滞在。その1902年、啄木は旧制中学を中退し、文学を志して上京。かねてから惹かれていた与謝野鉄幹・晶子を訪れ、主宰する「新詩社」の社友になりました。
啄木が最初に住んだのは小石川区小日向台3丁目、現在の文京区音羽1-6-1。目白坂下交差点から今宮神社を経て八幡坂を上ったあたり。北側すぐ裏手が鳩山会館。小日向台小学校西300mのところです。
小日向台は漱石が過ごした牛込台の、江戸川を挟んだ対岸にあります。漱石は絶筆となる『明暗』で、主人公津田の叔父藤井と、妻お延の叔父岡本の住家を小日向台に設定しています。津田と友人小林が小日向台から江戸川へ下る大日坂の上から眺める場面は、《二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横たわっていた。秋の夜の燈火が所々に点々と少量の暖かみを滴らした。》と描かれ、荷風も《金剛寺坂荒木坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤坂番町辺を見渡すによい。》と書いています。
啄木は当時の日記に、小日向台からの眺めを、《今わが腑瞰する大都よ。汝は果して如何なる活動をかなしつゝあるか。何ぞたゞ魔の如きのみならむや。吾はこの後心とめて汝の内面を窺はんや。》と、書いています。16歳にしては、すごいですよね。
翌1903年、明治36年、2月末、一旦帰郷しましたが、1904年になって青森・小樽旅行した後、再び上京。しかし、堀合節子(ほりあい・せつこ)との結婚が決まり、翌1905年、明治38年、に帰郷しました。ウソか本当かわかりませんが、この時、汽車賃さえない啄木は鉄幹宅を訪れ、餞別として15円もらったものの、この金で10円のヴァイオリンを買い、盛岡近くまで行きながら、自分の結婚式には出席しなかったと言われています。
この、1904年から1905年にかけては日露戦争の戦時中でした。そして、漱石が『吾輩は猫である』を書いていた時期でもあります。
しばらく故郷で働いた啄木は、新天地を求めて北海道に渡り、函館・札幌・小樽・釧路と1年程転々とした後、1908年、明治41年、に上京を果たしました。この頃の日記には、《どうせ貧乏するにも、北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ》と書いています。この言葉、すごくよくわかります。共感できます。実際、上京しなかったら、いくら素晴らしい短歌を詠んだとしても、全国に知られる有名人になっていなかっただろうし、漱石に会うこともなかっただろうと思います。やはり、「東京だ、東京だ」です。
4月27日、函館から単身船で横浜に着いた啄木は、翌日東京に着いて、千駄ヶ谷の「新詩社」にむかいました。こうして啄木の3度目の東京生活が始まったのですが、上京後まもなく生田長江(いくた・ちょうこう)や森田草平と会っています。森田草平は漱石の弟子で、もっとも迷惑をかけた弟子であると、本人が言っています。生田長江は森田の友人で、鉄幹・晶子夫妻の家の隣りに住んでいたこともあります。
啄木は赤心館(せきしんかん)の金田一京助の部屋に泊まっていましたが、空き室が出たので、5月4日から赤心館に下宿するようになりました。この赤心館の3畳半の部屋で、6月23日夜から25日までに250首程の歌をつくったと言われ、その後つくった歌とともに『明星』に発表され、1910年12月に発刊された『一握の砂』にまとめられました。赤心館は菊坂82番地にありましたが、菊坂北側の台地上、長泉寺や本妙寺の南側にあたります。
                           (つづく)
【館長の部屋】 講演:漱石からみた啄木①

本日は「啄木祭」でお話しする機会を与えてくださり、ほんとうにありがとうございます。主催者の方から石川啄木について話して欲しいと依頼され、啄木については、啄木愛好家の皆さんの方が詳しいでしょうから、困ったのですが、漱石との関係について話してくれれば良いということなので、お引き受けしました。

私は、石川県の金沢市で生まれました。
小さい頃から「東京大好き人間」で、東京には、松島トモ子がいる、小鳩くるみがいる。「母恋もの」、松島トモ子のあの大きな眼からこぼれる涙を見ると、子どもながらに涙が出てきました。小鳩くるみは、一度、遠くに見かけたことがあるのですが、もう、ぽーっとなってしまいました。私と同じ学年です。
「東京へ行きたいなあ」と思っていて、やっとそれが実現した。小学校二年生の時です。今でも、出発から帰るまで、断片的ではありますが、泊った旅館や西郷さんの像、鮮明に覚えています。ガード下には靴磨き、浮浪者もたくさんいました。雑踏、けっしてきれいではない。けれどもそうしたことも含め、人の動きが活発な東京にますます魅力を感じました。
もう、20年以上前になると思うのですが、一度、松島トモ子の家を訪ねました。芸能人の自宅住所は公開されていません。けれども、私は「柿の木坂」というところに住んでいることだけは、小さい頃から知っていました。おそらく私が東京の地名で初めて覚えた地名は「柿の木坂」だったのではないでしょうか。ずっと憧れの地名でした。柿の木坂へ行って、年配の方に訪ねたら、教えてくれました。家の前まで行きましたが、そこから引き返しました。
小鳩くるみさんは本名、鷲津名都江さんで、永井荷風の母方の子孫にあたります。大学の先生をされて、どこの大学かわかっていたので、「鷲津先生の講義を1回だけ聴講させてもらえないか」と頼みに行こうと思ったのですが、さすがに「小鳩くるみのファンでした。」と言うのも恥ずかしくて、やめました。
私が初めてテレビを観たのは、小学校2年生、上野の旅館でしたが、やがて、テレビ時代になって、私は「ポンポン大将」という番組に夢中になりました。佃島、隅田川のもっとも下流が舞台です。桂小金治さんが船長さんの役でした。小柳徹が出ていました。一つ下ですが、あかぬけて、都会っ子。憧れました。「ポンポン大将」に出てくる隅田川の風景は、私にとって故郷の原風景のように思われます。小柳徹は交通事故で、二十歳で亡くなり、ショックでした。
私が創った『その光景』という詩を紹介します。

隅田の川風に吹かれながら
眺める東京タワーは
東京に憧れた子どもの頃の
なつかしい光景
テレビの画面に収められた 
その光景に 今
やっと出会うことができた
何十年経ったのだろう
なつかしい光景に出会った私は
もう 子どもの頃の私に
出会うことはできないのだ

私は、子どもの頃から文章を書くことが好きでした。
ふとしたことから漱石にはまり、大好きな「東京」と「文章を書くこと」が一つになって、『漱石と歩く東京』を自費出版しました。2017年、ネット上に、「勝手に漱石文学館」を開設し、おかげで来館者は累計16万人を超えるところまできました。
さて、今日の主人公、漱石と啄木。共通点は「写真がイメージをつくった二人」。
漱石の写真は明治天皇死後、「喪章をつけた漱石」。暗く、考え込む漱石。「あんなところで笑えるか!」ですよ。実はよくしゃべり、よく動き、社交的。内向的な作家ではなく、社会派の作家。ジャーナリスト。新聞に何を書けば、みんな読んでくれるか、新聞が売れるか考えていた人です。胃潰瘍だって、悩み過ぎて、ストレスからなったんじゃない。働き過ぎ、食べ過ぎでなったんです。結婚式で、南京豆を食べ過ぎて、胃潰瘍が悪くなって亡くなったとも言われています。
一方、啄木。このチラシにある啄木の写真。「働けど働けど……」なんて、とってもかわいそう。放っておけない。助けてあげたい。母性本能をくすぐるような写真ですね。どっこい借金の名人。あんなに欲しい物、つぎつぎ買っていたら、誰だって「働けど働けど」ですよ。啄木の先輩の金田一京助の息子、春彦は石川啄木のことを、「石川五右衛門の子孫ではないか」と思ったと言われています。
                           (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑭

秋聲の『爛』の主人公お増。浅井に見受けされたお増が与えられた下谷の家は、賑やかな上野広小路の通りから少し裏へ入った、ある路地の中の小さな平屋で、《上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞こえる台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。》と、描写されている。上野広小路辺りで、このような特徴を示す地域は御成道(中央通り)から東側。松坂屋のところから東へ伸びる小路を入った一帯、徒町二丁目あるいは竹町辺り(現、台東三丁目・四丁目)が想起される。
漱石もこの地域一帯を『道草』で、《其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚ならしい一廓を--様の御屋敷という名で覚えていた。堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋が何処までも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。この御屋敷と反対の側には小さな平家が疎らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交っていたその町並は無論不揃であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居を拵えたのである。健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。然し彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間しかない狭い家だったけれども、木口などは可成吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎる程立派な御影の石燈籠が据えてあった。島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などは始終浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てる積でいるらしかった。然しその企ては何時までも実現されなかった。冬になると鴨が下りるから、今度は一つ捕ってやろうなどと云っていた。》と描写している。道路の左手一帯は東上野一丁目24番から20番へと続いているが、かつてはすべて下谷区西町3番地で、江戸時代、立花飛騨守の上屋敷であった。『道草』で「--様の御屋敷」とよんでいる屋敷である。屋敷の周りは堀で囲まれ、不忍池から流れ出る忍川の水が流れ込んでいた。『道草』の主人公健三の養父のモデルとなった漱石の養父塩原昌之助が住んだのは、下谷区西町15番地(現、台東区東上野二丁目10番)、ついで西町4番地(現、東上野二丁目8~9番)である。松坂屋から東の地域、旧西町や荷風が幼少期を過ごした旧竹町一帯、全般的に低湿地であった。
『道草』にはつぎのような場面もある。昌之助の再婚相手の連れ子れんは作中御縫として登場する。《健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友人は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」と云って彼をひやかした。然し御縫さんは年歯からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪も有たなかった。それから羞耻に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球のように、却って女から弾き飛ばした》。
泥溝に美少女。何か甘酸っぱいものが漂う下谷区西町界隈。西町3番地では、1883年3月13日、高村光太郎が光雲の長男として生れ、10歳で一家が千駄木に引っ越すまで住んでいた。光太郎が出てくると『智恵子抄』を思い出しそうだが、私は犀星の『我が愛する詩人の伝記』に書き込まれた光太郎と智恵子を思い出してしまう。
数回の連載で終わってしまうと考えていた『文豪と上野』。意外に書くことがあった。上野は私が初めて接した東京である。旅館で初めて放送されているテレビを観た。そのむこうに、高架を走る山手線の電車が見えた。
                            (完)
【館長の部屋】 文豪と上野⑬

上野広小路交差点南東角にある松坂屋。1659年、名古屋で創業した「伊藤」が、1768年、江戸へ進出して呉服商松坂屋を買収し、「伊藤松坂屋」と称したのが始まり。1907年、店舗を改装し、座売りから陳列売りに改め話題をよんだ。後、建物をビルディングに変え、百貨店経営に切り替えていったが、関東大震災で焼失し、仮店舗で営業しながら、1929年に地上8階、地下1階、屋上をもつビルディングを完成させた。日本で初めてエレベーターガールを登場させ、さらに1930年には、これまた日本で初めて地階を地下鉄駅と直結させた。松坂屋百貨店上野店は今も創業の地「上野広小路交差点角」で営業を続けている。
秋聲の『仮装人物』に登場する葉子は、この松坂屋を本郷三丁目のアパートから眺めることができた。このアパートは震災後、その辺に出来た最初のアパートであった。そのようすは、《この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあらかた外貌を整えて来た。巌丈一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や袋戸棚も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の子息が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六帖ばかりで、瓦斯はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の扉を開けると、広小路のデパアトの、額にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に巣喰ったカフエの灯影やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に籠もったように閑寂していた。》と、描写されている。
大正の頃、御成道(中央通り)は松坂屋の南のところで、道路が少し横づれしたように曲がっていた。その少し南、松坂屋側に「常磐しるこ」があった。当時の地図にも「トキワシルコ」と書かれている。この店が芥川龍之介の『しるこ』(1927年)に出てくる汁粉屋で、《震災以来の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶ってしまった。その代りにどこもカツフエだらけである。僕等はもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛った「おきな」を味うことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少からぬ損失である。》《精養軒のマネエヂヤア諸君は何かの機会に紅毛人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るが善い。》などなど、龍之介の「しるこ」にかける並々ならぬ思いが伝わってくる。外国人の間でも日本食ブームで、日本を訪れた外国人が和食店へけっこう足を運ぶ昨今。「しるこ」も案外受けるかもしれない。常盤は関東大震災をきっかけに廃業した。
ついでながら、私は高校時代、学校の帰りに時おり「しるこ」を食いに、金沢駅前にあるビルの地下街の店に立ち寄った。どうもこのような行為は学校的にあまり望ましいものではなかったようだが、私自身は健全な高校生であると思っていた。
「常盤」からもう少し南へ行って、御成道の向う側に和菓子の「うさぎ屋」がある。1913年、谷口喜作が創業した。喜作最中は甘党の芥川龍之介が好物で、懇意にしていたところから、1924年、鎌倉にいる龍之介は手紙に、鎌倉にはおいしいお菓子がないので、このようなお菓子をつくって送って欲しいと、絵を描いて注文している。
荷風はうさぎ屋のどら焼きが大好きだった。最中もどら焼きもどちらも食べたいが、行列のできるお店だそうで、果たして買うことができるのか。甘いもの大好きの犀星は、何を買うだろうか。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑫

犀星の『或る少女の死まで』には、主人公が根津のS酒場から帰宅する友人Sを上野広小路まで送る場面がある。画家として世に出ることをめざしているSと二人で、久しぶりにS酒場へ行くと、鶴のように痩せた女の子は病気で、医者はむずかしいと言っている、とのこと。その帰り道。《二人はいつの間にか池の端へ出た。もう蓮はやぶれ初めて、水分をふくんだ風はすこし寒さをかんじた。広小路で二人は別れた。二、三歩すぎると、Sは思い出したように、つと走って来て、「今夜は握手して別れよう。ね、いいだろう。」「よかろう。」二人は鍵のように握手した》。S酒場から広小路へ行くには、現在の不忍通りのルートを通る。道を多少ジグザグしながら、不忍池の西側を通り、南側へ曲がり込んで、三橋のところで電車が通る広い道(現、中央通り)へ出る。上野広小路はすぐである。 
犀星はまた、『ちゃんちゃんの歌――萩原朔太郎に――』(忘春詩集、1922年)において、《けふ町に出で/君が愛児のため/うつくしきちゃんちゃんを求め購ひぬ》と書き出し、朔太郎の娘のちゃんちゃんを買い、自分の子どものちゃんちゃんも買い、《その包み二つを提げ/上野広小路の雑閙の中を歩めり。人込みのなかに揉まれつつ/君とともに身搾らしく歩みたる時と/既に人の世の父たることを思ひ/ぼんやりとまなこ潤み/いくたび寂しげにその包みを抱き換へしことぞ。》と続けている。
朔太郎の娘は長女葉子(1920~2005年)、犀星の息子は長男豹太郎(1921~1922)。共に父親となった思いが込められている。自分の親が誰であるかはっきりしない犀星にとって、我が子を得たことはこのうえもない喜びと安心であっただろう。しかし、この詩をつくった時、生きていた豹太郎は、この詩集を出版した時、すでに生命尽きていた。二つのちゃんちゃん(ちゃんちゃんこ)は松坂屋で買ったのであろうか。当時、田端に住んでいた犀星。田端から山手線電車で上野へ出て来たと思われる。
1923年、大地震発生!生まれて間もない犀星の長女朝子は御茶ノ水の浜田病院にいる。母子が火に追われながら、病院から湯島を経て、上野広小路から上野公園に避難する様子を犀星は『杏っ子』に克明に描いている。切通坂を下って、池之端の仲通り、そして上野広小路へ出てみると、万世橋の方からも大群が上野公園をめざしており、上野山下辺りでは、火の手に追われて大群衆が浅草あたりから逃げて来る。広小路から上野の段々をのぼるまで、ほとんど一時間近くかかり、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着した。ちゃんちゃんを買って上野広小路を歩く犀星。続けて襲い来る災難を予測すべきもなかった。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑪

山下雁鍋は上野山下の三橋町にあった。おおむね現在の上野公園交差点あたり(かつての都電上野公園電停付近)である。江戸時代からの名物だった。『吾輩は猫である』には、《ある日の午後、吾輩は例の如く椽側へ出て午睡をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁鍋へ行って誂らえて来いと云うと、蕪の香の物と、塩煎餅と一所に召し上がりますと雁の味が致しますと例の如く茶羅ッ鉾を云うから、大きな口をあいて、うーと唸って嚇してやったら、迷亭は蒼くなって山下の雁鍋は廃業致しましたが如何取り計いましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折って馳け出した》、また『虞美人草』には、《花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。》と、二作品に登場している。
中央通りへ動物園通り・不忍池通りが合流する辺りは、不忍池から流れ出る水路(忍川)があり、通りには江戸時代から三つの橋が架けられ、三橋(さんきょう)とよばれたが、1890年、内国勧業博覧会の混雑を予想して一つの橋になった。
上野広小路交差点北西角を少し北へ行った北大門町12~14番地(現在の鈴本演芸場近く)には、「博品館」第二店舗があった。1908年に白煉瓦造り三階建で完成し、150店舗入っていた。新橋の「博品館」二号店である。けれども、『行人』で、二郎の父が《やあ何時の間にか勧工場が活動に変化しているね》と語っているので、1913年頃までには閉館したようだ。あっけないものだ。
不忍池の周囲は池の端とよばれる。池の端の表記には、池ノ端・池之端なども使用される。現在の上野二丁目の池寄りの地区は旧町名池ノ端仲町であり、また現在、池の西側と北側の地区は、池之端一丁目~三丁目になっている。
池ノ端仲町は不忍池の南側に、ほぼ東西にのびる通り沿いの街で、守田宝丹本舗をはじめ、蕎麦の蓮玉庵・池之端藪、鰻の伊豆栄、惣菜の酒悦、櫛の十三屋、小間物の日野屋、江戸指物の京屋、袋物の越川、帯紐の道明など江戸時代からの老舗も多い。神田藪蕎麦・浅草並木藪蕎麦と並ぶ藪御三家の一つ池之端藪蕎麦、古式せいろが有名な蓮玉庵、1653年創業の有職組紐道明、手作りツゲ櫛の十三や、創業は吉宗の時代という鰻割烹伊豆栄など、現在も営業を続けており、江戸情緒を楽しめる。
漱石は『道草』で、健三が養父島田のことを思い出している場面を、《健三は昔この男につれられて、池の端の本屋で法帖を買って貰った事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例のないこの人は、その時も僅か五厘の釣銭を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。》と描き、また健三がある日、一人の青年と散歩した思い出を、《或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼等が新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三は不図思い出したように青年の顔を見た。》と描いている。
漱石は、池の端を通過地点や散歩コースとしていくつかの作品に登場させている。『野分』では、音楽会の帰り、西洋軒(精養軒)の前で中野と別れた《高柳君は往来の真中へたった一人残された。淋しい世の中を池の端へ下る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」見上げたら西洋軒の二階に奇麗な花瓦斯がついていた。》と描かれている。これは先に精養軒の項でも紹介したが、この情景は不忍池の東側から精養軒を眺めたものである。
『三四郎』では、美禰子と上野へ歩く《三四郎は池の端へ出るまでの路を頗る長く感じた。》という。『それから』では、《平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立って、来た事もある。そうして、代助と前後して、三千代と懇意になった。三千代は兄とこの二人に食付いて、時々池の端などを散歩した事がある。四人はこの関係で約二年足らず過ごした。》と語られ、『こころ』で、先生とKは《二人は別に行く所もなかったので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました》。
『吾輩は猫である』《今度は日記帳を出して下の様な事を書きつけた。寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔は頗るまずい。何となくうちの猫に似ていた。(略)宝丹の角を曲ると又一人芸者が来た。是は脊のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。(略)所謂源ちゃんなるものの如何なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た。寒月は何となくそわそわしている如く見えた》。
苦沙弥と寒月は、不忍池の西側から南側へ回り込み、池ノ端仲町を抜けて、中央通り(御成道)へ入り、南下して、上野広小路、万世橋を通り、神田へ向ったのであろう。神田で晩飯を食っている。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑩

藤村は『春』に、本郷台を下る無縁坂からの眺めを、《岸本はある邸の塀について無縁坂を下りた。不忍池が見える。》と描かれている。ある邸とは財閥の岩崎邸である。
同じく『春』では、《公園の木の葉は多く枯れ落ちていた。市川と青木の二人は、東照宮の杜について暗い木立の間を通り抜けた。やがて広い道路へ出た。》《二人はごちゃごちゃ並んで生えている古い常盤木の下に立った。高いところからは暗い葉が垂下っている。その木と木の間を通して、不忍の池が見える。枯々とした蓮の葉の残ったさまも見える。下谷から本郷台へかけて、対岸の町々は夕方の明い色の中にあった》。《月は空にあった。時は夜の十二時に近い。涼しい風の来る不忍の池の畔へ集まった男女も、一人減り、二人減りして、もう人の影が見えない。水に臨む家々でも多く戸を閉めて寝た。弁天の境内から出て来て、蒼白い闇の中を帰って行く人々があった。》と不忍池一帯を描写している。本郷台と上野山に囲まれた、池の立地した地形環境がよくわかる一連の文章である。

広小路とは江戸時代以降に設けられた幅の広い街路で、江戸の街においては、1657年の明暦の大火をきっかけに、火除地として、上野、両国などに設けられた。上野広小路は下谷広小路とも呼ばれてきた。上野広小路は、万世橋(江戸時代の筋違門)から上野山下に至る道で、もともと寛永寺の参道で、将軍が寛永寺に参拝するため「御成道」と呼ばれた。門前町として江戸時代から賑わっていたが、道路が拡幅されてからは、仮設の芝居小屋や屋台も建ち並び、ますます賑わいをみせた。
上野広小路交差点は、御成道を引き継いだ南北に走る中央通りと、明治期の市区改正によって拡幅されてできた、東西に走る春日通りが交差する十字路である。南東角には松坂屋デパートがある。付近一帯は商店や飲食店が建ち並び、鈴本演芸場・上野広小路亭・黒門亭などの寄席もある繁華街で、アメ屋横町(アメ横)も賑わいをみせている。
中央通りを北へむかう一帯が上野山下で、そのまま行けば上野山へ上っていくが、自動車の通る道は右へ除けて、まもなく上野駅前に達する。上野広小路交差点の北西地域に不忍池があり、その南岸一帯は池の端と呼ばれる。
漱石の作品で、『彼岸過迄』には、《広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか》、『道草』には、《或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼等が新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三は不図思い出したように青年の顔を見た。》と、上野広小路が登場する。春日通りは上野広小路交差点を通って西へ、切通しから本郷四丁目交差点に続いている。文中、広小路から切通しへ抜ける道とは、春日通りのことであろう。
                            (つづく)

【館長の部屋】 文豪と上野⑨

上野山の西側、本郷台地との間は紀元前には入江であったと考えられる低地で、そこに自然に形成された池が不忍池である。寛永寺造営に際して、不忍池は琵琶湖に擬せられたので、池の中に、竹生島になぞらえて弁天島(中之島)が築かれ、弁天堂がつくられた。明治以降、上野公園の一部になっており、博覧会が開かれる時には第二会場として使用されることが多かった。とくに1907年におこなわれた東京勧業博覧会では、水面に映える夜のイルミネーションが殊更きれいで、漱石の『虞美人草』に詳しく描写されている。池の北部は1884年、競馬場建設のため埋め立てられ、現在は上野動物園西園として利用されている。東園との間はモノレールで結ばれている。
弁天島に初めて架橋されたのは1672年で、島の東側に石橋がつくられた。1907年の東京勧業博覧会に際して、西側に観月橋が架けられた。この橋は『虞美人草』の中にも登場する。1929年に築堤工事がおこなわれ、池が四つに分割されたが、現在は三分割である。
◎西側:ボート池(1931年から貸ボートの営業が続けられている。)
◎北・東側:鵜の池(上野動物園の一部として鵜が飼われ、水上動物園になっている。当初、二つの池に分けられていた。)
◎南・東側:蓮池(一面、蓮で覆われている。)
荷風は『日和下駄』において、「水」の項で、江戸城の濠を取り上げた後、池に話題を転じ、鏡ケ池・姥ケ池・浅草寺境内弁天山の池・赤坂溜池ことごとく消え、江戸時代からの池で、東京市中に残された池は不忍池のみと記している。
漱石の作品では不忍池や池の端の様子が、『吾輩は猫である』・『野分』・『虞美人草』・『三四郎』・『それから』・『こころ』・『道草』の7作品に描かれている。
とくに、1907年に書かれた『虞美人草』には、同じ年に開かれた東京勧業博覧会における不忍池会場の様子が詳しく描写されている。この作品は朝日新聞社入社第一作で、新聞社の者として読者の知りたい情報、話題を届けようという思いが強かったものと思われる。漱石自身も感動したのか、分量はかなり多い。宗近一・糸子兄妹の会話。《「ハハハハ実は狐の袖無の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」「もう花は散ってしまったんじゃありませんか。今時分御花見だなんて」「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」「いつ」と糸子は縫う手を已めて、針を頭へ刺す。「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」》。
甲野欽吾・藤尾、宗近一・糸子の四人が博覧会を見に来ている。《蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存のうちに無聊をかこつ。(略)刺激に麻痺して、しかも刺激に渇くものは数を尽くして新らしき博覧会に集まる。(略)蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽く。(略)閃く影に躍る善男子、善女子は家を空しゅうしてイルミネーションに集まる。文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。苟しくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんが為にイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。(略)星ならずして夜を護る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点いた。「あら」と糸子が云う。「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。(略)「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」「夜見ると」と甲野さんがすぐ但書を附け加えた。「ねえ、糸公、まるで竜宮の様だろう」「本当に竜宮ね」(略)かくして塔は棟に入り、棟は床に連なって、不忍池の池の、此方から見渡す向を、右から左へ隙間なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。(略)「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。「あれが外国館。丁度正面に見える。此所から見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君は一寸躊躇した。「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。「冠に紅玉を嵌めた様だ事」と藤尾が云う。「成程、天賞堂の広告みた様だ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。(略)「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼は悉く水と橋とに聚った。一間毎に高く石欄干を照らす電光が、遠き此方からは、行儀よく一列に空に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。「あの橋は人で埋っている」と宗近君が大きな声を出した》。
一方、小野清三が井上孤堂・小夜子父子といっしょに博覧会を見に来ている。宗近君は3回も博覧会に来ている。若者4人はイルミネーションを見ながら、博覧会を満喫している。それに引き換え、孤堂先生は人ごみに恐れをなしている。小夜子は心細そうである。得意そうなのは一人小野だけである。《「あの橋は人で埋っている」と宗近君が大きな声を出した。小野さんは孤堂先生と小夜子を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の祠を抜けて圧して来る。向が岡を下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲を捨てて悉く細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も行く人も只揉まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸に見出して、安々と踵を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後から前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢の様に心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰す為めに皆が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢の間に立って、多数より優れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションは尤も当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。(略)文明の波は自から動いて頼のない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へ崩れ出す。二人は漸く胸が広くなった様な心持になる。(略)小野さんは二人を待ち合わせている。「どうも怖ろしい人だね」と追い付いた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。「随分出ます」「早く家へ帰りたくなった。どうも怖しい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛の子の様に暗い森を蔽うて至る文明の民は皆自分の同類である。「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」(略)運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である》。   やがて、二つのグループは茶屋でバッタリ出会うことになる。ものすごい人ごみの様子が漱石の文章から伝わってくる。
                            (つづく)

【館長の部屋】 文豪と上野⑧

《震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。》という文章で始まる『上野』は、荷風によって1927年6月に書かれた。小説ではなく随筆と言って良いだろう。荷風は、樹木に囲まれた広大な敷地をもつ上野公園は、すぐ傍まで迫った猛火に焼かれることなく、多くの人びとの生命を救ったと書き、続けて、《まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までと全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。》と、その変貌ぶりを描いている。
そのような中で、《一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖に花をつけているのを見た》。荷風は他にも谷中瑞輪寺の老桜、大行寺の垂糸桜なども猶すこやかと記している。この荷風の一連の文章、似たようなことを龍之介も書いていたような。『本所両国』における回向院の墓地の場面。墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられる。ただ、過去を留めている木々にほっとする荷風に対し、龍之介は「哀れ」と表現している。
『上野』は早くも終りに近づく。《わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。》と、引用が長くなったが、荷風は大きな提言をおこなっている。
要は明治になって寛永寺跡地は広大な公園になったが、その空間をねらっていろいろな施設がつくられ、狭くもなり、趣も失われた。それでも広大な敷地と樹木は多くの人びとの生命を、関東大震災の猛火から救った。これを考えれば大都市東京における広域避難場所としての空間はじゅうぶんでなければならない。荷風は学校(東京音楽学校・東京美術学校、今日の東京芸術大学)の園外移転などで空間を広げ、さらに谷中への公園の拡張を提言している。
荷風の提言をよそに、大震災後も上野公園内には、府立(都立)美術館、図書館、科学博物館、西洋美術館、東京文化会館、上野の森美術館などが建てられ、東京芸術大学も残っているし、上野高校もつくられている。ますます所狭しの状況になっている。もちろんこれだけ集まっていると、上野公園へ行けば、一日中、文化施設に接することができるわけで、計画もなく、フラッとやって来ても、何かしら催しものをやっている。また、大都会にあって、じゅうぶんに広い空間が確保されていると感じる。私にとって上野公園は魅力的であり、誇らしくも思い、これで良いように思いつつ、なぜか荷風の提言は捨てがたい。
捨てがたいと感じる大きな要因が、彼がけっして「もうけ主義」に走っていないこと。そして、彼なりの「都市デザイン」がしっかり頭の中にあること。彼が各所で書く「都市論」は一貫性があり、けっして思いつきでないことだ。
荷風は、《新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如き》で、《都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。》と、半ば諦めた感があるが、大震災後の「帝都復興」のデザインが考えられていた時期を受けて、荷風もまた日頃考えていたことを、この『上野』に書き込んだのではないだろうか。荷風のつぎの一文は痛烈である。《東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる》。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑦

上野精養軒は、築地精養軒の支店として1876年に創業した(開業当時は京橋が本店)。西洋料理店「精養軒」は、あこがれの西洋文明の象徴として、漱石の作品に登場する。
一般庶民には少々高嶺の花の「精養軒」。『野分』において、大学は出ても仕事がない高柳周作と、大学の親友で裕福な家庭に育った中野輝一の立場の違いが、精養軒を通して浮き彫りにされる。《音楽会の帰りの馬車や車は最前から絡繹として二人を追い越して夕暮を吾家へ急ぐ。勇ましく馳けて来た二梃の人力が又追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄昏の白き靄のなかに、逼り来る暮色を弾き返す程の目覚しき衣は由ある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。「僕はこれで失敬する。少し待ち合わせている人があるから」「西洋軒で会食すると云う約束か」「うんまあ、そうさ。じゃ失敬」と中野君は向へ歩き出す。高柳君は往来の真中へたった一人残された。淋しい世の中を池の端へ下る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」見上げたら西洋軒の二階に奇麗な花瓦斯がついていた》。
『三四郎』で三四郎は与次郎に誘われて、精養軒の集まりに出席する。著名な学者なども参加しており、30名近くの集まりである。原口や野々宮もいる。与次郎はこの会を、広田先生を大学へ就職させる売り込みの機会として利用しようとしていた。三四郎が黒い紬の羽織を着て出席したところにも、精養軒とこの会に対する格付けがうかがえる。『三四郎』では、美禰子と三四郎が原口から精養軒へ誘われている。行ったかどうかは書かれていないが、おそらく行かなかったのであろう。《与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。(略)三四郎はこの出立で、与次郎と二人で精養軒の玄関に立っていた》。帰りに三四郎と与次郎は擂鉢山に上って、月を眺めている。
『行人』の主人公長野二郎の家は裕福である。表慶館の帰り、父は二郎に精養軒へ行って食事をしようと言う。《二人は又のそのそ東照宮の前まで来た。「精養軒で飯でも食うか」時計はもう一時半であった。(略)行き掛けに気の付かなかったその精養軒の入口は、五色の旗で隙間なく飾られた綱を、何時の間にか縦横に渡して、絹帽の客を華やかに迎えていた。(略)二人は山を下りてとうとうその左側にある洋食屋に這入った。「此処は往来がよく見える。ことに寄ると一郎が、絹帽を被って通るかも知れないよ」「嫂さんも一所なんですか」「さあ。どうかね」二階の窓際近くに席を占めた自分達は、花で飾られた低い瓶を前に、広々した三橋通りを見下した》。前まで来てみると結婚披露宴がある雰囲気で、しかも長男一郎がそれに出席する予定であることを思い出し、結局、山を下りて別の洋食屋(レストラン三橋亭と思われる)へ入る。実際、一郎が精養軒でおこなわれたKの結婚披露宴に出席していたことが後述されている。上野精養軒は結婚式と披露宴を一つにまとめた「婚礼パック」を、日本で最初に始めたところであり、1923年の関東大震災後には、結婚式用の神殿も設けている。三橋通りとは、現在の中央通り、上野広小路。上野広小路から上野山下に至る道路を横切って忍川が流れていた。小さな川であるが、道路が広いため三つ橋が架かっていて、三橋とよばれた。江戸時代、真ん中の橋は将軍専用であった。1890年、内国勧業博覧会の混雑を予想して三橋は一つにされた。
二郎の父はたびたび築地精養軒も利用していたようである。《「御父さんは?」「御父さんは御留守よ。今日は築地で何かあるんですって」「精養軒?」「じゃないでしょう。多分外の御茶屋だと思うんだけれども」》という一文もある。築地精養軒はすでになくなったが、上野精養軒は現在も営業を続けている。
                            (つづく)

【館長の部屋】 文豪と上野⑥

上野公園には国立西洋美術館(1959年開館)、東京都美術館(1926年開館)、上野の森美術館(1972年開館)の三つの大きな美術館がある。開館時期をみてわかるように、漱石の時代には三館ともなかった。当時、絵の展覧会は博覧会の折や、日本美術協会展示館などでおこなわれた。
1907年、上野公園でおこなわれた東京府勧業博覧会では、絵画の展示館も設けられ、そこに出品されていた青木繁の作品「わだつみのいろこのみや」について、『それから』(1909年作)に、《いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである。》と、記されている。
『三四郎』では、美禰子に誘われて丹青会の展覧会を見に行く場面がある。おそらく展覧会は日本美術協会展示館でおこなわれたのであろう。《会場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会と云う字も、字の周囲についている図案も、三四郎の眼には悉く新しい》。丹青会の展覧会場で二人は原口と野々宮に会う。《「もう、皆見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。「まだ」「どうです。もう廃して、一所に出ちゃ。精養軒で御茶でも上げます。(略)「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」「難有う」》。日本美術協会は、1879年に「龍池会」として発足し、1887年に日本美術協会と改称した。現在の上野の森美術館は、日本美術協会展示館を建て替えてつくったものである。会場を出た三四郎と美禰子の二人。《「精養軒へ行きますか」美禰子は答えなかった。雨の中を濡れながら、博物館前の広い原の中に立った。幸い雨は今降り出したばかりである。その上烈しくはない。女は雨の中に立って、見廻しながら、向うの森を指した。(略)「みんな、御遣いなさい」と云った》。
大地震発生!犀星は浜田病院から避難するりさ子たちの様子を『杏っ子』に克明に描いている。火に追われながら、りえ子は、杏子を背負う丸山看護婦に付き添われ、「湯島天神に出る裏道」から切通坂を下って、池之端の仲通り、そして上野広小路へ出て、上野公園をめざす。そして、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着した。この美術館というのが、『三四郎』で登場した日本美術協会展示館であろう。現在は上野の森美術館が建っている。
余震が続く中、犀星は自宅近くのポプラ倶楽部の空き地で一夜を明かし、夜が明けて、被災した人たちが続々と上野公園に避難しているとのうわさが流れ、犀星は義種、詩人仲間の百田宗治とともに、上野公園を捜しまわり、昼近く、美術協会の建物に避難していた妻子と再会した。
『杏っ子』には、《動物園裏から公園にはいると、小便の臭いと、人いきれと、人の名前を呼ぶ声と、そしてそれらの人間のながれが、縦横無尽に入り乱れ、幟に書いた人の名前、旗に記された家族の尋ね人に、鳥籠を下げた女の子までが交って息苦しく、泥鰌の生簀のようだった。》《殆ど全山隈なくさがし終えた時に、突然、一等年のわかい甥が短期美術館の建物の前に出たときに、彼はへんな声でいった。この中がくさいぞ。》と、描写されている。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野⑤

上野公園内にある、さまざまな施設も作品に登場する。
まず、奏楽堂。正式には東京音楽学校奏楽堂(楽堂)。『野分』には、《楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人の様にぼうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂に攀じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺めが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥かの谷底にある。》と描写されており、当時のようすを知ることができる。『趣味の遺伝』では《上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくの如く四辺の光景と映帯して索寞の観を添えるのか。》という記述がある。とくに楽堂と記されていないが、上野の音楽会といえば楽堂でおこなわれていたはずである。
奏楽堂は1885年に落成した。1887年に東京音楽学校と改称される音楽取調掛の奏楽堂。東京音楽学校は東京美術学校と統合されて、現在東京藝術大学になっている。奏楽堂は東京都美術館横に保存・利用されている。
教育博物館開館は1878年に建設され、国立科学博物館の前身にあたる。当時、現在の東京藝術大学敷地に建てられていた。 
博物館は、1882年に上野博物館として開館し、1889年から帝国博物館、1900年から帝室博物館と名称を変更。1909年、帝室博物館に皇太子(後の大正天皇)成婚を祝した募金で建設された表慶館が開館した。
1912年から1913年にかけて書かれた『行人』には、表慶館の様子が詳しく描写されている。すでに下宿生活を始めていた自分(長野二郎)は、父に連れられて表慶館へやって来る。《その日自分は父に伴られて上野の表慶館を見た。今まで彼に随いてそういう所へ行った事は幾度となくあったが、まさかその為に彼がわざわざ下宿へ誘いに来ようとは思えなかった。自分は父と共に下宿の門を出て上野へ向う途々も、今に彼の口から何か本当の用事が出るに違ないと予期していた。(略)表慶館で彼は利休の手紙の前へ立て、何々せしめ候……かね、といった風に、解らない字を無理にぽつぽつ読んでいた》。
戦後、1947年、国立博物館に改称、さらに1952年には東京国立博物館と改称し、現在まで歩みを続けている。
表慶館の西側に位置する上野の図書館(上野帝国図書館。1906年開館。現在、国際子ども図書館)。『野分』では、白井道也が上野の図書館の帰り道、切通しのところで高柳周作に出会い、いっしょに本郷四丁目交差点まで歩いている。
上野と言えば、動物園が有名である。もともと上野動物園は1882年、博物館の付属動物園として、水族館(「魚のぞき」)が開園したところから出発し、やがていろいろな動物がやって来て、動物園としての体裁を整えるようになっていったものである。
動物園内部の描写はないが、漱石の2作品に上野動物園が登場する。
『吾輩は猫である』では、苦沙弥先生・武右衛門君・寒月君の会話で動物園が話題になる。《「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。「なに構わん、まあ御上がり」「実は一寸先生を誘いに来たんですがね」「どこへ行くんだい。又赤坂かい。あの方面はもう御免だ。先達は無闇にあるかせられて、足が棒の様になった」「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」「どこへ出るんだい。まあ御上がり」「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」「つまらんじゃないか、それより一寸御上り」》。
『野分』では、高柳周作と中野輝一が動物園の前で出会う。《「どこへ行く」中野君が高柳君をつかまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹が黒ずんだ色のなかから、銀の様な光りを秋の日に射返して、梢を離れる病葉は風なきに折々行人の肩にかかる》。
1911年、上野動物園にカバがお目見えするが、漱石の作品には出てこない。新しもの好きの漱石もカバにはあまり興味がなかったのかもしれない。
犀星の『或る少女の死まで』には、主人公が少女ふじ子と一緒に上野動物園を見てまわる様子が描かれている。
《秋がくるとすぐに黄葉がちになった公園の桜の並木の、よく掃かれた道路を歩いて》、二人は動物園に行った。ふじ子は《水いろのうすい単衣の上から、繊い彼女の頸が、小さい頭をささえて、それがまるで瑪瑙のように透いて》見えた。真島町からは、谷中坂町を過ぎれば谷中清水町で、上野動物園の出入り口があった。歩いても十分程度で行けたであろう。二人は「魚のぞき」を観ている。
《「魚のぞき」は彼女を喜ばした。彼女は象や鶴やお猿を見たときとは、全然別な心からの愛をもって、そのお友達のような美しい阿蘭陀金魚の紅い尾や鰭ふるさまを眺めていた。「ほんとに綺麗ね。」その絢爛と光る魚を指した。私はこの金魚というものの、どこか病的な、虚偽な色彩のようなものを好まなかった。その娼婦のように長い尾や鰭に何かしら人間と共通な、わけても娼婦などと一しょなもののあるのが嫌いであった。ときには、汚なくさえ感じた。》と、ふじ子との会話を読んでいると、何となく『蜜のあわれ』が連想されるが、とくにこの「魚のぞき」の場面はそうである。後に、老いた文豪は、この娼婦のような金魚を相手に、しばし恋愛に妄想する。
二人は鶴、象、ライオン、虎など見物しているが、猿はまだ広い檻の中。上野動物園にサル山が登場したのは1932年である。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野④

上野公園は施設建設にともなって樹木は多く失われたが、それでも、今も樹木が多い。当初はとくに西側や北側に鬱蒼とした森林が残り、まさに上野の森にふさわしかった。漱石の作品では、不忍池、東京大学構内、谷中清水町(現、池之端四丁目)、本郷台町(現、本郷五丁目)の4地点から眺めた上野の森が記されている。
まず、『虞美人草』では不忍池から、《「空が焦げる様だ。――羅馬法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圏を画いた。》と描写。『三四郎』では、三四郎が初めて東京帝国大学の理科大学に野々宮宗八を訪ねた時の場面で、《廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくの間は、正気を回復する為に、上野の森を眺めていたが、突然「御出かも知れません」と云って奥へ這入って行った。》、『彼岸過迄』では、 本郷台町にある下宿の3階、田川敬太郎の部屋の窓から見た上野の森のようすが、《彼は景気よく三階の室に上った。其所の窓を潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸した。》と「上野の森」が登場する。
これらは「上野の森」という全体でくくられて、具体的な描写はない。これに対して『それから』では、代助と平岡共通の学友菅沼は、東京藝術大学や上野動物園のすぐ西側にあたる谷中の清水町(現在、池之端四丁目)に住んでいたが、《菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、縁側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆た鉄の様に、頗る異しい色をしていた。その一本は殆ど枯れ掛かって、上の方には丸裸の骨ばかり残った所に、夕方になると烏が沢山集まって鳴いていた。(略)代助は其所へ能く遊びに行った。始めて三千代に逢った時、三千代はただ御辞儀をしただけで引込んでしまった。代助は上野の森を評して帰って来た。》と、これだけ描写されれば、漱石の作品としては上出来である。
寛永寺は江戸の鬼門(丑寅つまり北東)の方角を封じるため建てられた。寺は比叡山延暦寺(寛永寺の山号東叡山は、東の比叡山の意味)、不忍池は琵琶湖、そして桜は吉野に擬せてつくられた。そのようなわけで、上野の桜は江戸時代から人々に親しまれてきた。
漱石も、『吾輩は猫である』で、山芋の贈り主多々良三平が苦沙弥先生の奥さんに、《奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」》と言わせ、『行人』では、《四月は何時の間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、段々咲いていって段々散ってしまった。》と、何やら新聞記事のように東京における花見の順序を示している。『虞美人草』でも、《「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。》などという表現がある。このように書きながら、上野の桜をめでる場面はみられない。
漱石は『こころ』で、上野公園内を散歩する場面を描いている。私が先生と上野公園を散歩した場面では、《ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或時花時分に私は先生と一所に上野へ行った。そうして其所で美しい一対の男女を見た。(略)先生と私とは博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。》と、おそらく二人は桜並木を抜け、博物館の前へ出て、さらに裏手へまわって、鶯谷へ出たのであろう。また、「先生と遺書」の章において、《二人は別に行く所もなかったので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ這入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。(略)二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖たかな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが脊中へ噛り付いたような心持がしました。(略)上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。》と、私(先生)とKが大学の図書館から上野公園へ散歩にでかけた場面を描いている。木立のようすも描かれ、漱石にしては具体的な情景描写をおこなっている。
『三四郎』で、三四郎と与次郎が擂鉢山に上ったようすは、《会が済んで、外へ出ると好い月であった。今夜の広田先生は庄司博士に善い印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。三四郎は与えたろうと答えた。与次郎は共同水道栓の傍に立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いから此処で水を浴びていたら、巡査に見付かって、擂鉢山へ駆け上がったと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。》と描写されている。擂鉢山は擂鉢を伏せたような形をしているところから名づけられた。実際は前方後円墳で、擂鉢山古墳とよばれる。東京文化会館前にある。
震災後を描いた秋聲の短編『青い風』には、二番目のお坊ちゃんが、《「どこも信用がなくなって、寝るところもないから、三晩もつづけて、上野公園のベンチに寝て、こんなに蚊に刺されたと仰って、目を窪まして》と、おしのが語る場面がある。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野④

上野公園は施設建設にともなって樹木は多く失われたが、それでも、今も樹木が多い。当初はとくに西側や北側に鬱蒼とした森林が残り、まさに上野の森にふさわしかった。漱石の作品では、不忍池、東京大学構内、谷中清水町(現、池之端四丁目)、本郷台町(現、本郷五丁目)の4地点から眺めた上野の森が記されている。
まず、『虞美人草』では不忍池から、《「空が焦げる様だ。――羅馬法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圏を画いた。》と描写。『三四郎』では、三四郎が初めて東京帝国大学の理科大学に野々宮宗八を訪ねた時の場面で、《廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくの間は、正気を回復する為に、上野の森を眺めていたが、突然「御出かも知れません」と云って奥へ這入って行った。》、『彼岸過迄』では、 本郷台町にある下宿の3階、田川敬太郎の部屋の窓から見た上野の森のようすが、《彼は景気よく三階の室に上った。其所の窓を潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸した。》と「上野の森」が登場する。
これらは「上野の森」という全体でくくられて、具体的な描写はない。これに対して『それから』では、代助と平岡共通の学友菅沼は、東京藝術大学や上野動物園のすぐ西側にあたる谷中の清水町(現在、池之端四丁目)に住んでいたが、《菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、縁側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆た鉄の様に、頗る異しい色をしていた。その一本は殆ど枯れ掛かって、上の方には丸裸の骨ばかり残った所に、夕方になると烏が沢山集まって鳴いていた。(略)代助は其所へ能く遊びに行った。始めて三千代に逢った時、三千代はただ御辞儀をしただけで引込んでしまった。代助は上野の森を評して帰って来た。》と、これだけ描写されれば、漱石の作品としては上出来である。
寛永寺は江戸の鬼門(丑寅つまり北東)の方角を封じるため建てられた。寺は比叡山延暦寺(寛永寺の山号東叡山は、東の比叡山の意味)、不忍池は琵琶湖、そして桜は吉野に擬せてつくられた。そのようなわけで、上野の桜は江戸時代から人々に親しまれてきた。
漱石も、『吾輩は猫である』で、山芋の贈り主多々良三平が苦沙弥先生の奥さんに、《奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」》と言わせ、『行人』では、《四月は何時の間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、段々咲いていって段々散ってしまった。》と、何やら新聞記事のように東京における花見の順序を示している。『虞美人草』でも、《「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。》などという表現がある。このように書きながら、上野の桜をめでる場面はみられない。
漱石は『こころ』で、上野公園内を散歩する場面を描いている。私が先生と上野公園を散歩した場面では、《ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或時花時分に私は先生と一所に上野へ行った。そうして其所で美しい一対の男女を見た。(略)先生と私とは博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。》と、おそらく二人は桜並木を抜け、博物館の前へ出て、さらに裏手へまわって、鶯谷へ出たのであろう。また、「先生と遺書」の章において、《二人は別に行く所もなかったので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ這入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。(略)二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖たかな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが脊中へ噛り付いたような心持がしました。(略)上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。》と、私(先生)とKが大学の図書館から上野公園へ散歩にでかけた場面を描いている。木立のようすも描かれ、漱石にしては具体的な情景描写をおこなっている。
『三四郎』で、三四郎と与次郎が擂鉢山に上ったようすは、《会が済んで、外へ出ると好い月であった。今夜の広田先生は庄司博士に善い印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。三四郎は与えたろうと答えた。与次郎は共同水道栓の傍に立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いから此処で水を浴びていたら、巡査に見付かって、擂鉢山へ駆け上がったと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。》と描写されている。擂鉢山は擂鉢を伏せたような形をしているところから名づけられた。実際は前方後円墳で、擂鉢山古墳とよばれる。東京文化会館前にある。
震災後を描いた秋聲の短編『青い風』には、二番目のお坊ちゃんが、《「どこも信用がなくなって、寝るところもないから、三晩もつづけて、上野公園のベンチに寝て、こんなに蚊に刺されたと仰って、目を窪まして》と、おしのが語る場面がある。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野③

上野公園は上野山一帯に広がる公園で、総面積およそ53万㎡。徳川幕府三代将軍家光の命によって建てられた東叡山寛永寺(徳川家の菩提寺)の寺地であったが、戊辰戦争で彰義隊が立てこもり、一帯は焼け野原になった。明治政府は医学校と病院建設を計画したが、オランダ人医師ボードウィンの建議を入れて、1873年、日本初の公園に指定された。1876年、公園は開園したが、その後、園内にさまざまな施設、とりわけ文化施設が建設されていった。1890年、帝室御料地となり、宮内省の管轄に置かれたが、1924年、当時の東京市に払い下げられ、上野恩賜公園という名称になった。
上野公園は寛永寺の跡地につくられたもので、基本的なレイアウトは引き継がれている。上野山下から参道を上って行く。右手に「清水観音堂」。やがて左手に「時の鐘」と「大仏」。その間を入った所に精養軒がつくられた。大仏は彰義隊の戦いで焼失をまぬがれたが、二層の大仏殿は1873年撤去され、大仏は露座となった。1923年の関東大震災で頭部が落ち、現在頭部のみ保存されている。右手に「擂鉢山」がある。さらに進むと、東照宮へ行く道が左手に続いている。東照宮は1873年から一般の参詣が許可された。参道沿いの桜並木は「上野の桜」として、現在も花見の人気スポットになっている。道が広くなって噴水がある辺が「竹の台」で、寛永寺の根本中堂があったところである。江戸時代には伽藍、堂塔が回廊式に建ち並んでいた。その奥が法親王常住の坊舎(御本坊)で、跡地は現在国立博物館になっている。
この参道は現在も上野公園のメインストリートである。上野山下から上ると、右手に石段。広場には西郷隆盛像。右手にはこの後、上野の森美術館、日本芸術院会館、東京文化会館(擂鉢山の奥)、国立西洋美術館、国立科学博物館と続いている。左手には精養軒、東照宮があり、噴水のところ(竹の台)まで来ると、左手に東京都美術館、その奥に上野動物園、東京藝術大学がある。メインストリート突き当りが国立博物館で、その裏手が寛永寺墓地になり、徳川家墓地もここにある。現在の寛永寺は墓地の北西側にあり、言問通りに面して、谷中霊園と相対している。
当館の主である漱石は上野公園の様子を、『吾輩は猫である』・『趣味の遺伝』・『野分』・『虞美人草』・『三四郎』・『それから』・『彼岸過迄』・『行人』・『こころ』の9作品で描いている。よくもこれだけの作品に登場させたものである。ただし、これだけ書いても、漱石は「上野のシンボル西郷さんの銅像」を一度も登場させていない。西郷銅像除幕は1898年だから、当然、漱石は見たことがあるはずだが。ちなみに初めての上京時、私はこの西郷像を見て、何となく東京を感じていた。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野②

どうも七人の文豪たちにとって、上野駅は通過点で、描写するところではなかったのだろうか。要するに乗降できれば良いのである。荷風などに至っては、上野公園地丘陵の東麓、維新前は寛永寺の末寺が堂舎を連ねていたこの地に上野駅がつくられたことを、『上野』(1927年)と題する随筆において、《此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。》と書き、荷風は当初から上野駅や倉庫は《水利の便ある秋葉ケ原のあたりを卜して経営せらるべきものであった。》と続け、上野駅の立地そのものを批判しているが、上野駅の描写はしていない。
私がやっと見つけた上野駅に関する描写は、芥川龍之介の『父』(1916年)という作品である。この作品は自身の思い出話しを書いたものだから、随筆の類いにあたるだろうが、「父」というのは自分の父ではなく、友人の能瀬五十雄の「父」である。
中学4年の秋(1908年)、日光から足尾にかけての修学旅行。「午前六時三十分上野停車場前集合、同五十分発車」ということで、遅刻してはいけないと、気が気ではない龍之介少年は朝飯もろくに食わずに家を飛び出し、電車に乗る。龍之介にも、そのように真面目な時代もあったのかと言いたくなるが、その車内で能瀬に会い、そろって上野駅へ。車内での会話は省略するが、《こんな話をしている中に、停車場前へ来た。乗った時と同じように、こみあっている中をやっと電車から下りて停車場へはいると、時刻が早いので、まだ級の連中は二三人しか集っていない。互に「お早う」の挨拶を交換する。先を争って、待合室の木のベンチに、腰をかける》。そこからまた、生徒たちの会話が続くが、《すると、その時、自分たちの一人は、時間表の前に立って、細い数字をしらべている妙な男を発見した》。その男は能瀬の父であったが、能瀬は《「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」》と言い放つ。《曇天の停車場は、日の暮のようにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そっとそのロンドン乞食の方をすかして見た。すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫と斜めにさしている。能瀬の父親は、丁度その光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のように蔽っている。しかし能瀬の父親だけは動かない》。
龍之介が描いたのは、煉瓦造りの上野駅初代駅舎である。駅前を電車が通っている。電車を下りて広場を直進すると、駅舎へ入る。両側から鉄製アームが伸びた構内は天井が明り取りになっており、まっすぐ進むとホームに出る。ターミナル形式でホームは2面ある。当時の写真を見ながら、龍之介の文章を読むと、なるほどと頷ける。上野駅の描写など、ほとんどない中、これだけ書かれていれば、「良し」としなければならないだろう。
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と上野①

私が今から70年ほど前、生まれて初めて東京の地を踏んだのは上野駅であった。金沢の街も市内電車が走り、デパートもあって、それなりに都会だと思っていた私は、人の多さと賑やかさに驚いた。確かに、私が憧れていた東京はそこにあった。ガード下には靴磨きの少年がいるし、粗末な服装の人もいた。けっしてきれいというわけではない光景に、東京の匂いが感じられ、私の目は異常に爛々としていたことだろう。
上野駅のある地域一帯は1947年に台東区ができるまで下谷区だった。当館でおなじみの七人の文豪のうち、下谷区に住んだことがあるのは荷風で、1883年から86年にかけて、竹町(現在の台東2丁目~4丁目)にある母の実家鷲津家で暮らし、そこから幼稚園に通った。私が東京へ憧れるきっかけの一人になった小鳩くるみ(本名:鷲津名都江)は荷風の大叔父鷲津蓉裳のひ孫にあたる。名古屋に生まれ、東京都で生育した、そして東京はかつて江戸と呼ばれたのだから、名都江とはよく名づけられたものである。小鳩くるみは私と同じ学年で、彼女は輝いて見えた。
漱石は下谷区に住んだことはないが、養父の塩原昌之助が1876年から西町(現在の東上野1丁目~3丁目)に住むようになったので、少年期に何度も訪れたとみられる。西町は竹町の北隣りにある。東京へ出てきて、悪戦苦闘する犀星が短期間、谷中三崎町(現在の谷中2丁目~5丁目)に下宿していた。
さて、そのような上野を、当館でおなじみの七人の文豪はどのように描いたであろうか。ここでは、上野をつぎの三つの地区(①上野駅とその周辺、②上野公園・不忍池、③上野広小路)に分けてみていくことにしたい。

《ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく》という啄木の有名な歌。停車場とはもちろん上野駅である。現在、上野駅構内には、この歌の碑がある。上野駅は日本鉄道の駅として、1883年に開業した。私が初めて上京した時そうであったように、東北・北海道、信越・北陸からの上京者の多くのが東京に第一歩を踏み出すのが上野駅であった。
犀星が初めて上京した時、東京での第一歩は新橋駅であった。その犀星にとって、上野駅が東京と故郷を結ぶ特別な場所になったのは、1913年4月1日の北陸線全線開通。北陸線・信越線を経由して金沢と東京を往来することができるようになったからである。
犀星の詩「上野ステエション」は、《トップトップと汽車は出てゆく》という一文で始まる。トップトップという表現が、何とも軽やかでユーモラスである。続いて、《汽車はつくつく》《あかり点くころ》と、「つく」という音を同音異語で繰り返している。私はこうした表現が、また東京に暮らすことになった犀星の喜ばしい気持ちの表れと捉える。犀星は上野ステエションと言っても、駅のホームに立っているのではない。《ふみきりの橋のうへ》にいるのである。踏切と言うのは鉄道と平面交差で、橋があるはずがない。これは跨線橋の上であり、詩の題に駅名をつけたのだから、駅構内に限られる。そうなれば犀星の立っている跨線橋はただひとつ。当時、上野公園の中にある東京帝室博物館(現、東京国立博物館)の前から両大師堂のある輪王寺の前を通る道は、上野山から切通し(屏風坂)で下り、踏切で線路を越え車坂へ。しかし、駅構内で遮断されることも多く、踏切の上に跨線橋が設置されていた(1925年、山手線を環状運転するため高架にする際、切通しを廃止して、上野山から直接跨線橋で車坂へむかう方式に変更され、現在の両大師橋に至っている)。
けれども、「上野ステエション」という題がついているにも関わらず、上野駅の描写はまったくなく、《浅草のあかりもみえる橋の上》と、視線は喧騒の浅草にむけられる。
『或る少女の死まで』で主人公の私が駒込署高等掛刑事の来訪を受け、恐怖心から、優しい魂につつまれた姉を思い出し、いっさいから別れてあの緑深い国へ行こうと思い立って、ふじ子一家に見送られ「今夜九時三十分の直行で出発」したのは上野駅である。ただし、犀星は設定時期を脚色しており、「私が第一回の都落ちをした」という、1911年10月3日、北陸線はまだ全線開通していなかった。上野駅の描写をしていないのも当然である。
秋聲は『爛』で、《汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙に黝んだ夏木立の下陰へ来たころ》、《「静ちゃん。もう東京よ。」お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。日暮里へ来ると、灯影が人家にちらちら見えだした。》と、上野駅へ近づく描写をしながら、さっさと上野駅から市電に乗せて、赤坂の自宅に送り届け、《「何といったって、自分の家が一番いいのね」》と、お増に語らせている。
同じく秋聲は、金沢にいる姉の危篤の報を受け、金沢へむかい、姉の死から葬儀を描いた『町の踊り場』(1933年)で、《駅へついてみて、私は長野か小諸か、どこかあの辺を通過してゐる夜中に、姉は彼女の七十年の生涯に終りを告げたことを知った。》と、金沢駅に着いて姉が夜のうちに亡くなったことを知らされた場面を描いた後、《多分私はその頃――それは上野駅で彼女と子供に見送られた時から目についてゐたのだが、或る雑種じみた脊の高い紳士と、》と、上野駅が夜行汽車の出発地として登場するのだが、駅の描写はない。
藤村は『家』(1910年)で、三吉夫婦が東京を発つ場面を、《三時頃には、夫婦は上野の停車場へ荷物と一緒に着いた。多くの旅客も集って来ていた。》(上、四)と書いているが、上野駅の描写はしていない。
                            (つづく)
【館長の部屋】 『松山 坊っちゃん会』の会報(第40号)発行

『松山 坊っちゃん会』の会報(第40号)が発行された。今号は松山生まれの俳人高浜虚子生誕150年ということで、高浜虚子特集の感がある。

巻頭は昨年秋例会記念講演、俳人阪西敦子さんの講演録。《短さという『極楽』――高浜虚子生誕百五十年によせて》という題が目に止まった。阪西さんは、《今日のタイトル「短さという「極楽」」。虚子は俳句を「極楽の文学」と呼んだ。虚子はこう言っています。》と、《如何に窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に帰する事によってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるという所以である。》という虚子の一文を引用している。子規の晩年を考えると、確かに子規が生活苦、病苦にあって、それでも活き活きと生きることができたとしたならば、この「極楽の文芸」のお蔭であっただろう。漱石の『草枕』にも苦しきことの多いこの世に、ひと時の幸福をもたらすものは「文芸」であると繰り返されているが、俳句は短いがゆえに、ある面、体力も落ち、一文無しになったとしても、なお創作することが可能な文芸であるところが、短歌や詩以上に極めて楽、「極楽」の文学、文芸であるということができるのだろう。
ところが阪西さんは、《その虚子の話に寄せて、俳句は短い、短いから幸せだだという話をしますが、「短い」といえば、今、巷には「バズる」という現象があります。ちょっとうまく端的に言って取り囃されるというもの。または、発言の中から切り取ったことで人の怒りを掻き立てて「炎上」させたりという現象も起きています。》と現代へ話を引き戻し、それは《わかりやすく耳触りのいいことが勝ちとされ、曖昧さや複雑さを投げ捨てたり、物事を極端にして、その分断をたのしむという風潮です。》と指摘して、《今日話す「短さ」というのは、それとは逆で、「言えない」という仕方なさを分かち合う、短さの前でみな公平にひれ伏す、それがいいんだという話です。》と続けている。どうやら俳句は短くても、トランプさんとは真逆の立ち位置にあるようだ。
七歳から俳句を創り始めたという阪西さんの話しは、この後、本論に入っていく。

続いては昨年冬例会において、佐藤栄作さん(松山坊っちゃん会会長)が話された『文章家虚子が残したもの』の要旨。《高浜虚子(清、池内清)の幼年期の夢は文学者=小説家になることであった。》と始まり、《この夢は生涯持っていたとされるが、彼の実人生は、正岡子規門下となり、子規の後継者として、俳句を国民文芸に広げ、今に続く雑誌『ホトトギス』を発行し、数多くの俳人を世に送り出した。まさに俳句界の巨人である。そして虚子は俳句だけでなく、かなりの数の文章・小説を書いた。》と続けている。佐藤さんが虚子を「文章家」としているのは、こうした虚子の生涯を見通してのことだろう。私は俳人虚子を知っていても、小説家としての虚子を知らない。この意味で虚子は幼年期の夢を実現できなかったと言えるかもしれないが、ある面虚子は「小説家」を超えて夢を実現したとも言えるであろう。
佐藤さんは、《日本語研究者であり松山坊っちゃん会の私は、文章家虚子の残したものとして、文豪夏目漱石、明治の松山方言、「凡人」という生き方の三つを挙げたい。》と、はじめにを締めて、文豪夏目漱石と虚子の関係を語り始める。
《虚子が漱石に文章を書くことを勧め、そこに『吾輩は猫である』が生まれ、虚子が手を入れて『ホトトギス』でデビューさせたことはよく知られている。》と、改めて言われてみると、確かに虚子がいなかったら、『猫』も文豪夏目漱石もいなかった。当然、松山坊っちゃん会も勝手に漱石文学館も存在しなかった。こうなると、虚子に足をむけて寝ることなどできない。ところが、《『猫』発表後、漱石は瞬くまに人気作家と》なり、やがて「文豪」と呼ばれ、お札の肖像にまで使われるようになるが、虚子は一部のマニアには知られていても、多くに知られた存在ではない。三番目の項につながるが、虚子は「凡人」である。虚子からすれば、「トンビに油揚げさらわれた」状態であるが、そのような二人の微妙な関係に佐藤さんは言及している。
『猫』以前、虚子にとって、漱石は子規の親友であるから兄貴分で、漱石は虚子に対して学費を援助したり、『ホトトギス』への苦言、提案をおこなっている。ところが、文章を書くという点においては、《虚子は早くから写生理論の実践として小説や俳文を発表しており、文章に関しては自分の方が「一日の長」があると自任していた》。つまり、『猫』を『ホトトギス』に発表した時点で、虚子にとって漱石は人生の先輩であっても、文学の世界においては虚子の方が先輩だったのである。虚子が漱石に文章を書くことを勧めた結果、文学の世界における立ち位置がまったく逆転してしまったのである。これに近い現象は、鏡花と漱石との関係においてもみられる。
虚子と漱石の微妙な関係は、佐藤さんが引用した、漱石から野村伝四に宛てた書簡からもうかがえる。《「虚子は学問のない男である。長い系統立った議論も出来ぬ男である。然し文章に関しては一隻眼を有して居る。(略)彼の云ふ所は理屈も何もつけずにして直ちに其根柢に突き入る断案を下すに於て到底大学の博士や学士の及ぶところではない。」》というものである。
「凡人」という生き方で、私が注目した文章は、《虚子は、学士になれなかったことを取り戻すために、自らの俳句の才と商才とを出し切って、俳句界の第一人者となり、文化勲章受章にまで登り詰めた。》という一節である。この凡人虚子の才能によって、漱石は学者の道から逃げるように小説家の道に入り込み、ついに文豪とまで呼ばれるようになった。人生とは不思議なものであり、どちらが良いとも言えない。
佐藤さんは、《虚子にとって人生の目標は、芸術としての俳句を究めることではなく、無学でも大文学者になり裕福な生活を送ることだった。それが長兄や母への孝行であった。虚子は全て実現した(小説以外)。これが虚子の「凡人主義」だったのである。》と締めくくっている。

読書会余滴は、和田隆一さんの《『吾輩は猫である』高浜虚子の添削、削除について》。これは、令和5年5月から令和6年8月にかけて、延べ13回にわたって、『吾輩は猫である』について話し合ってきた、その中から論点のいくつかを披露したものである。
今回は、『吾輩は猫である』第1回の生原稿に対して「ホトトギス」編集者として虚子が振るった添削、特に「原稿紙二枚ほど」の削除とはどのようなものだったのかということ。「文豪漱石の原稿を削除するなどとんでもない。」と私は思ったが、当時の「文学」あるいは「文筆活動」という点からいけば、虚子の方がはるかに先輩であるから、ある面、自然な流れだ。和田さんも『回想 子規・漱石』(岩波文庫)の中から、《気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句と思われるものを指摘した。(漱石)氏は大分不平らしかったけれども、未だ文章に就いて確かな自信がなく寧ろ私を以て作文の上には一日の長あるものとしておったので大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。》という一文を引用している。
漱石の方も、『猫』執筆当時を振り返って、虚子が「これは不可ません。」と言うので、訳を聞くと尤もなので書き直したと記しているので、両者の間に食い違いはない、ということで、読書会の話題は、「これは不可ません」という言葉が何を指したのか、原稿紙二枚分の削除はどの部分においておこなわれたのかという点に移っていく。
大岡昇平氏は、「衣服のことが書いてあったのではないか」。水川隆夫氏は「車屋の八ちゃんの写生に関する部分」などから、「猫食い」に関する話まで、想像は尽きない。和田さんは今年、虚子生誕150年ということで、《いつの日か、漱石の『猫伝』の生原稿が発見されることを……、そしてそこから漱石と虚子の「文体」についての差違を見て取ることができるのではないか……》と結んでいる。
ここで結んで終わるはずだが、和田さんの文章を読み返してみると興味深いことがある。『猫』は第一回とそれ以降で文体が異なる。第一回はそれ以降に比べすっきりしている。つまり、虚子が手を入れて、筆が滑り過ぎたと思われる箇所を容赦なくカットしてしまった。ところが第一回が大ヒットして、「ホトトギス」も息を吹き返し、結果的に、「作文において、一日の長がある」と虚子に対して抱いて、アドバイスを受け入れた漱石と、虚子の立場は逆転し、《お抱えの人気作家と原稿を依頼する編集者という関係に変わっていった》。もはや、漱石の文章に手を入れることなど、できなくなってしまったのである。
私は漱石の小説は、ごてごてと余分なものがなく、簡潔で読みやすい、その分、情感に欠け味気ないと思うことがある。おそらく漱石は、装飾を徹底的に削ぎ落としていく俳句というものに踏み込んだため、文章を削ぎ落し簡潔にする習慣を身につけたのだと思っていた。けれども、和田さんの文書を読んで、俳人虚子は、それでもまだ漱石の文章を削ろうとしていたのだ。そのような二人の違い。もっとも簡潔な文章を求めた虚子は、俳人としては成功しても、小説家としては成功しなかった。私は自分で理屈を展開して、自分で納得してしまった。このような言い方しかできないのは、実は、私は虚子の小説を読んだことがないのである。
【館長の部屋】 ふるさとの味

ふるさとを離れて半世紀以上。ふるさとはほんとうに遠い存在になってしまったが、美味しい食べ物たちの記憶が、子どもの頃の思い出とともに今もよみがえってくる。
母の実家が七尾にあった。祖母は時どき仏壇に手づくりの団子を供えていたが、私はこの団子が大好きで、祖母も心得て、私が行くとつくってくれた。祖母はきつい性分で、甘えさせてくれるような人ではなかったので、長く接した割には、親近感を抱くことができず、団子の思い出と、そばに付いて畑に行った記憶くらいしかないが、私が高校受験した時、心配のあまり落ち着かない様子だったという話しを聞いて、祖母を身近に思えることができた。
実家には叔父・伯母、いとこたちも集まり、正月餅やかきもち(寒餅)をついた。かきもちには豆や紅を入れたもの、サクラエビを入れたものもあった。餅を棹状にして、餅切りで薄く切り、藁ひもで三つ編みするように縛って吊るす。かきもちはすぐに食べることができない困りものだが、途中で乾燥しすぎて割れて落ちてくるのが、楽しみで心待ちにしていた。
ようやく食べることができるようになったかきもちを、火鉢で伸ばしながら焼く。冷めるとパリッとしてくる。私は、あんな美味しいかきもちをその後食べたことがない。
末の叔父が灘浦に居たため、寒ぶりが手に入り、刺身が美味しかった。鱈の刺身に鱈子を絡めた「鱈の子つけ」も出た。松明を灯して、岩場でサザエを採った思い出もある。七尾湾で採れた牡蠣もうまかったし、こりこりしたなまこや、とろっとしたこのわたも好きだった。当時の豆飴はほんとうに美味しかった。
人の寄り合いの温もりと、自然の味に触れる子ども時代を過ごすことができて、私はしあわせである。全国どこにも美味しいものがあると思う。私は私で、石川県に生れたことをとても感謝している。

輪島の味

金沢っ子の私は小学校四年の時に輪島に移り住んだ。七尾も海の幸に恵まれているが、輪島はそれ以上に感じられた。朝市が近いし、売りに来ることもあるので、ぶり、いかをはじめとする刺身も多く、私が大好きな「鱈の子つけ」も口に入った。「だだみ」と呼ばれる鱈の白子も、ねぎといっしょに味噌汁に入れて、あのとろける食感が大好きだった。
時にはアワビを食べることもできたが、サザエはもっと日常的だった。サザエを刻んで糀に漬けたものを、私は子どもの頃に聞いたままに、ずっと「サザエユベシ」だと思ってきたが、じつは「サザエぶし」が正しいようだ。コリコリしたサザエの食感に糀の甘みが絡みつき、ほんとうに口の中が幸せになる。熱いご飯の上に載せて、もう一度食べてみたい。
何か、こうして書いているだけで、つばが出てきそうだが、日常の中にグルメがあったということだろう。
輪島へ来て、蒸しアワビだと思ったら、お菓子だったというものがある。その名も「丸柚餅子」。柚子の中身をくりぬき、もち米を詰めて、数回蒸しながら自然乾燥させる。切ると透明感のある飴色。さわやかな苦味が口の中に広がる。地味なお菓子ではあるが、まさに値段はアワビ並。母は「(価値を)知らない人にはあげられない」と、よく言っていた。姉は、この丸柚餅子に、棹柚餅子や玉柚餅子を加えて、よく送ってくれた。
輪島へ来て、金沢や七尾ではお目にかからないものもあった。お菓子では「丸柚餅子」とともに「塩せんべい」があげられる。もともと素麺づくりの副産物から生れたと言われる素焼きのせんべいで、ごまの入ったものが一般的であるが、私は昆布の入ったものが好きだった。マーガリンを塗ると、一段と美味しかった。いしる(いしり)も輪島で知った。魚介類に食塩を加えて漬け込み、一年以上かけて発酵・熟成させた魚醤で、輪島では「イカのいしる」が一般的だった。ナスを煮る時に使ったり、焼きナスやナスの漬物にかけたり。とにかくナスと相性が良かったのを覚えている。
輪島へ来てからと言えば、小学生の私が父親の名代として親戚の法事に出た時のこと。私の前にも一人前にお膳が置かれ、かしこまって食べることになった。その時、遭遇した未知の食べ物は、後に「すいぜん」であることがわかった。お椀に載せられた「それ」は、白く、きしめんのように見えて、さらに幅広で厚手があり、ぷるんとした中に、つるんとした食感があった。この白い物体に黒いたれをつけて食べる。ごまの風味がして甘い。「これは、料理なのだろうか、それともお菓子なのだろうか」、そんな疑問をいだきながら、私はすっかり虜になり、以後、「すいぜん」食べたさに、どこかで法事があるのを待ち望むようになった。「すいぜん」は、テングサを煮て、もち米の粉を入れ、短冊状に突き出したもので、刺身がわりに出される精進料理である。たれは黒ゴマ・黒砂糖などでつくる。精進と言えば、私の家では、二代前くらいまでの家族の月命日は、すべて食事は精進で、魚のだしは一切使わず、もちろん、肉料理や魚料理もつくらなかった。私は、朝のご飯炊き、味噌汁づくりを任せられることも多かったが、台所に月命日の表が張ってあり、味噌汁のだしから気をつけなければならなかった。
いわしと言えば、こんかいわし(糠いわし)が思い出される。とにかくご飯が進む。けれども、輪島で出会った「いわし寿司」は、私にとって、いわしを使ったメニューの最高傑作である。
「いわし寿司」は頭を取り、開いて酢で〆たいわしのお腹の部分に、味付けしたおから(卯の花)を詰め、一晩ほど押しをかけてつくったもので、「いわしの卯の花寿司」とも呼ばれる。酢で〆た魚が好き、押し寿司が好き、おからが好き、という私だから、そのすべてが揃い踏みをしたような「いわし寿司」が私を虜にしたのは当然である。とくに家の近くのお店でつくっている「いわし寿司」は、おからに山椒の実が入り、酢加減も良く、買いに行く時は売り切れていないか心配だった。「いわし寿司」を思い出す時、光沢のある皮に、特有の点々が連なるいわしの姿が思い出される。
私の家のむかいに豆腐屋があった。朝の味噌汁に入れる豆腐は、直前に買いに行く。朝の豆腐屋は活気がある。私は豆腐の味噌汁より、おからの入った味噌汁が好きだった。ネギを入れると味も格段に引き締まり、とくに冬はお勧めである。この豆腐屋で私がもう一つ好きなものは「ひりょうず(飛龍頭)」。時どき銀杏の入ることもあったが、大きくて、豆腐の部分がしっかりしていて、具だくさん。輪島を離れ、私はあちらこちら、あの「ひりょうず」の味を求めたが、ついに出会うことはできなかった。私の中では、むかいの豆腐屋のものだけ「ひりょうず」で、あとは「がんもどき」という、妙な価値観が形成されてしまった。
水羊羹は夏の物と思われるけれど、輪島では冬の食べ物とラジオで紹介されていた。「そうだったんだ」と思いつつ、急に水羊羹を食べたくなった。私の家の近くには二軒の和菓子屋があり、羊羹とさほど変わらない色をした長方形の木のおりに入った水羊羹を、短冊状に切り分け、それを取って包んでくれる。冷たくて、かんだ途端に黒砂糖の風味と甘さが口の中に広がり、そのままツルンと喉を通り過ぎていく。こたつに入って食べると、一段とうまい。
こたつで食べると言えば、みかんも冷たくてうまい。私の家には親戚の子どもたちがよく集まったので、こたつを囲んで「みかん突き」をやった。みかんの皮を剥き、一ほろづつにして、糸をつけた針で突き刺し、糸の先を持って自分の所まで吊り下げて来る。途中で落としたら自分のものにはならない。みかんの代わりに、ふわふわ煎餅を使うのが「煎餅突き」。どちらも穴が大きくなりやすく、けっこう途中で落ちてしまう。
和菓子屋では、水羊羹と並んで私が大好きな「ういろう」も売っていて、三角形で、白と黒糖があった。近くの肉屋でつくっていたハート型のコロッケも、おやつ代わりに時おり食べた。輪島の味も海の幸だけではない。

金沢の味

母は戦後、金沢に住むようになった。今、あらためて数えてみると、私が小学校に入学する頃の母は、金沢生活7、8年程度だったことになるが、生まれも育ちも金沢のような生活をしていた。
母は友人も多く、よく家へ遊びに行った。香林坊の映画館にもよく行ったし、寿司屋にも行った。私は甘エビのお寿司が好きだった。公会堂に東千代之介が来れば観に行った。母は競馬もやれば、パチンコもやった。小立野電停近くのパチンコ屋を出ると、どじょうの蒲焼の匂いが煙に乗ってやって来る。焼いてはタレに浸け、また焼いてはタレに浸け、とにかくタレが良いのか、うまい。よく食べた。同じ並びにある肉屋のミンチカツ。その後、同様の物を探し求めているけれど、お目にかかったことはない。母は幼稚園の弁当に、玉子焼きとビフテキを定番としていたので、この肉屋はよく行った。近所のIさんの家でつくったクリームコロッケも絶品だった。
正月になると旗源平をやった。出初式には犀川へ行き、春は兼六園に夜桜を見に行き、三小牛から別所にかけての山へ入り、地元の人に「熊が出るぞ」などと脅されながら、山菜やキノコ採り、夏には内灘の海水浴場、金石ではボートに乗り、秋には農家に招待されて、スズメなどもいただき、湯涌や深谷の温泉につかり、四季折々の金沢生活を満喫していた。これに私がすべてくっついているわけだから、私も子どもの頃に金沢を満喫し、故郷金沢が全身にしみ込んだことになる。こんな風に書いていると、三十代の母が活動的で、適応力に富んでいたことを改めて知らされる。母の金沢的は、祭りでもいかんなく発揮された。酢飯と魚がよく馴染んで、彩りもきれいな押し寿司を、どこで習ってきたのか、上手につくっていた。私はこの「まつり寿司」が大好きだった。
そのような私であったから、高校時代には、押し寿司食べたさに、思い立ったように一人で片町の「芝寿し」へ行った。母がつくってくれた「まつり寿司」を思い出しながら。
かぶら寿司も私の大好物である。近江町市場へ行くと、かぶら寿司に目が行ってしまう。ブリと蕪が白い麹を仲立ちにして、なじんでいる。ブリも蕪も良いが、私は甘くとろける麹が好きだ。お行儀の悪い話だが、包装紙や皿についた麹までなめ尽くす。
そんなことを知っている知人や親戚が、「芝寿し」やかぶら寿司を送ってくれるのはありがたい。
『鶴舞坂』は主人公のひさと母親が鶴舞坂で氷室の饅頭を食べる場面から始まる。なぜ、あえて氷室の饅頭なのか。一年の時の流れを表現したいと言うこともあったが、何よりも私自身、氷室の饅頭が好きだからだ。氷室の行事自体、江戸まで氷を運ぶと言う、そこに何かロマンを感じたし、この時しか食べることができないという期間限定の魅力もあった。クリスマスケーキを食べたいという気持ちと同じではあるが、7月1日は私の大好きな夏に向かう入口であり、それだけでもワクワクさせられた。
けれども、何と言っても氷室の饅頭の魅力は、「うまさ」である。私は子どもの頃食べた氷室の饅頭を超える「うまい」饅頭を食べたことがない。皮はツンと鼻をつく臭いがなく、ほのかに穀物の匂いがしてくる。それに少しパサパサしているが、それが餡の甘みを抑えて、不思議なバランスをとっている。長い間、氷室の饅頭を食べていないので、今も私好みに仕上がっているのか、心配である。
それにしても、なぜ氷室の饅頭は三色なのか。慶事は紅白、仏事は茶(緑)白で、どちらにも使用できそうだが、結局、三色食べたくなるので、菓子屋の知恵かもしれない。
東京大学赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)前には、昭和二十五年創業の扇屋という和菓子屋があり、「涼菓・加賀の氷室」を売っている。氷室の饅頭とは似ても似つかぬお菓子だが、加賀の菓子職人が移り住んでいるだけに、本郷は和菓子文化が根づいている。
季節のお菓子と言えば、前田家の紋どころをかたどった福梅も正月を告げる、金沢独特のものであろう。この福梅も『鶴舞坂』に登場する。
――(去年の正月はどうしていたのかな)母と二人、旗源平をした。岡野聡子の家で百人一首をした。ひさの一番好きなのは式子内親王。ひさはとつぜん、福梅を食べたいと思った。紅白の梅花の形、ぱりっとした最中の皮、黒いつぶあん、最中の皮についたザラザラした砂糖。福梅の形、味、感触を思い出すと、ひさはむしょうに福梅を食べたくなった。この正月をのがすと、また一年待たなければならない。――
私が子どもの頃、立派な金沢駅ができ、地下街などもつくられて、何か大都会になったような気がした。地下街にバッテラ寿司を売る店があり、駅へ来ると、ついつい買ってしまった。今、金沢駅はさらに立派になって、金沢百番街も生まれた。
百番街は試食品が多く、土産物を求めて食べ歩いていると、それだけでお腹がいっぱいになる。買いたいお菓子はたくさんあるが、私自身へのお土産の定番は柴舟である。もともと生姜糖が好きで、それがパリっとした煎餅についている柴舟は見逃せない。
駅と言えば、圓八のあんころ。汽車に乗ったらすぐ食べたいところ、浅野川の鉄橋を渡るまでがまんすることに決めていた私は、過ぎたとたん食べ始める。竹皮に九粒納まったあんころは、津幡に着く前になくなってしまった。
一度、汽車の窓から元祖の松任駅で、あんころを買った。私にとって金沢から南は異郷の地であった。中学生の私は一人、加賀平野を眺めながら小松へ。気晴らしだけが目的だった。それにしても、あんころは汽車で食べるには、都合良くできた代物である。
【館長の部屋】 ふるさと金沢②

◆遠きにありて
私は、ふるさと金沢を二度離れた。最初は小学校三年の終わりで、初めて住んだ輪島の家は、同年代の親戚が集まる、遊び相手には事欠かない楽しいところであったし、友人や教師にも恵まれた。それでも私は、金沢に対する募る思いから、中学二年の途中に金沢へ舞い戻った。
大学へ行くため、再び私は金沢を離れた。それ以来、私にとって金沢は輪島への通過地点となり、やがて半世紀になる。それでも、始めのうちは、中学・高校時代を過ごした下宿に泊まったりしていたが、就職で静岡へ来てからは、輪島へ行く機会さえ、少なくなってしまったから、ふるさと金沢は、ほんとうに「遠きにありて思うもの」になってしまった。
時おり出会う金沢は、ふるさとなのか他所の街か判然としない懐かしさをもっている。

◆医王山
私にとって、医王山と戸室山はふるさとの山である。一年間だけ過ごした小立野小学校の窓からもよく見えた。医王山は戸室を従えて、どっしりと構え、千メートルに満たない山とは思えない風格をもっている。七尾線に乗って、医王山が見えなくなると、私は何かとても寂しい気持ちになったし、金沢にむかって、医王山が見えて来ると、ホッとした気持ちになった。私にとって、医王山は、理想を示して励ましてくれる父なる山であり、温かく包み込んでくれる母なる山でもあった。
紫錦台中学二年、秋の遠足。私は友人に強く誘われて、医王山三十キロコースに参加した。星を見ながら出発し、星を見ながら学校へ戻って来る。鳶岩は、今思い出しただけでも、恐怖がよみがえる。それでも、翌年また参加した。

◆安藤町の路地
広坂から小立野へ引越したのは、幼稚園の途中で、転園まで、兼六園の中を通って、今までの幼稚園へ一人歩いて通園した。小立野の家は、地番は上百々女木町だったが、実際は安藤町の路地に面しており、三年余、私の遊び場だった。
団塊の世代である。知らぬ間にみんな路地に集まってきて、缶蹴り、鬼ごっこ、段跳び、「王さん門番」などに遊び興じた。紙芝居が来ると、おじさんのまわりに群がって、われ先にお菓子(水飴やスルメが多かった)を買って紙芝居に見入った。靴職人の家に上りこんで、木型を使って靴をつくる様子を眺めていたり、揚げ物屋で新作のクリームコロッケをもらったり、女の子に教えてもらったリリアンにはまったり。冬には木曽坂へ竹スキーを滑らせた。近所の話しによると、私はいつも路地を走っていたそうだ。

◆市電の思い出
漱石の小説には、『吾輩は猫である』以来、たびたび市電が登場する。三四郎は東京を知るため市電に乗っており、『彼岸過迄』では市電を使って探偵ごっこが行われる。坊ちゃんは市電の会社に就職し、『門』の宗助は市電で通勤し、『それから』の代助は市電の中で発狂する。
小学校二・三年の私は、日々の変わりない生活から来る閉塞感にイライラして、母親と衝突し、市電を乗り回すため家を飛び出した。小立野から三番で野町、そのまま四番で鳴和。東金沢まで田んぼ道を歩いて、五番で寺町。二番で金沢駅まで来て、そのまま一番で小立野へ戻った。臨時の六番は除いて、いちおう一筆書きのように市電の旅をした。ちょっとした私の自慢である。漱石の作品に接し、代助が同様に市電で憂さ晴らしする場面に、私は親しみを感じた。

◆江戸・東京の中の金沢
東京の本郷界隈を歩いていると、「江戸っ子には負けないぞ」という気になる。なにしろ、東京大学本郷キャンパスは、1683年以来の加賀藩上屋敷。明治以降も大正末まで前田氏のお屋敷があった。漱石の小説にも出てくる藤村は、金沢から来た加賀藩ご用達の菓子屋。赤門前には戦後創業だが、「加賀鳶」いう銘菓を売る扇屋がある。そう言えば、鏡花は姉崎嘲風・笹川臨風、犀星は芥川龍之介など、東大出と親友になっており、秋声は東大のすぐ近くに居を構えた。
白山の由来となる白山神社の本社は加賀一宮白山神社。鏡花の母すずが生まれたのは神田金沢町(現、外神田三丁目)で、1682年の大火まで加賀藩上屋敷があった。板橋区加賀町は加賀藩下屋敷があった所で、金沢小学校がある。
【館長の部屋】 ふるさと金沢①

私の母は金沢の生まれではない。おそらく私を産むために金沢へやって来て、犀川河畔の杉浦町に住み、その後、ガスタンクのある古道を経て広坂へ転じた。私の記憶はこの石浦神社横の二階の間借りで始まる。私はこの神社の池に落ち、水が目の辺りまで来た記憶の後、かつがれて運ばれる途中まで記憶がとんでいる。金属模型の消防車を買ってもらった祭りの思い出もある。私が書いた『鶴舞坂』という小説に、《神社の土蔵壁には金具がついていて、ちょうど乳房のようだった。ひさは小さい頃、ここを通ると、その乳房のような金具をさわってみた。母の温もりは感じられなかったが、ひさは妙にその感触がなつかしかった》という金具も石浦神社のものである。
幼稚園の途中で母と小立野へ引越した私は、第二幼稚園へ転園するまで、どれくらいの期間かわからないが、兼六園の入口まで母が付いて来て、そこから一人で本多町にある第一幼稚園まで通った。その道すがら、私は習慣のように金具の乳房をさわったり、ちょっと口をつけてみたりした。ちょうど好い高さに金具はあった。
小立野の家のすぐ前から木曽坂へ下る急坂があった。この小立野が、ひさの生活空間である。宝町にある長周寺の横を入った小路に、ひさと母が二年間暮らした《寺の裏小路の長屋》を設定した。寺の向かいには善隣館の建物があったと記憶している。ひさが預けられる《めんの老舗かどや》の設定は、二十人坂を上って、市電が通っていた石引の通りに出る左角である。市電の小立野終点はすぐで、どじょうの蒲焼屋さんから、おいしい臭いがたちこめ、パチンコ屋さんからはジャラジャラと賑やかな音が聞えてきた。このパチンコ屋は母のお供で、子どもの私も常連となり、おかげで大人になってからパチンコをしたいと思ったことはない。払下げになったパチンコ台やスマートボール台は、わが家で活躍していた。終点から大学病院までは、地方都市には似合わない広い道で、「東京にだってない」と、私は勝手に誇りに思っていた。病院に向って右側に、見舞いや付添いなどで来た人たちが泊まったのであろう、旅館が建ち並び、左側に大学湯という銭湯があって、床屋と冷たいもの屋がセットになっていた。この広い道で、かばやキャラメルの箱から「文」の字がついた黄色いカードが出てきた喜びは今でも覚えている。「かばや文庫」の五文字の中で、「文」のカードはなかなか出なかった。
終点から少し先へ行くと、左側に石引小学校があった。ひさが通っていた小学校のモデルである。辰巳用水を渡ると校門で、正面に築山があり、二宮金次郎の像が建っていた。入学式の日、桜花の下、記者が撮ってくれた写真が新聞に載った。木蔭を少し行くと校庭が広がり、そのむこうに木造二階建ての校舎が建ち、左手に体育館があった。校舎の配置は思い出せないが、教室の位置は覚えている。

クリスチャンでもない母がどうして北陸学院幼稚園を選んだのかわからないが、私が絵を描き、文章を書くことが好きであるとしたら、それはまさにこの幼稚園、とりわけ第二幼稚園のおかげであり、担任の先生とは今でも交流させてもらっている。瓶牛乳とストローの匂い。中学・高校のお姉さんたちが歌う讃美歌。クリスマス劇で三人の博士の一人をやったこと。マリア役の女の子を好きで、椿原坂(天神坂)途中の家まで遊びに行ったことも覚えている。私はアメリカ人宣教師の息子Dと親しくなり、時おり家にもおじゃました。『鶴舞坂』で、中学生になったひさが肉屋で会った金髪のおばさんはDの母親がモデルである。私が一年の時、Dの姉が、日本の生活に馴染むため、私たちの教室に入ってきた。そして知り合いということで私の隣りの席になった。当時十二歳だったと記憶している。横目で見る彼女の金髪、青い目、透き通るように白く、そこへピンクと青をにじませたような肌は、今も強く印象に残っている。後年、Dに会う機会があり、尋ねると、彼女は病気がちで、比較的若くして亡くなったとのことだった。二年の担任は、幼稚園の時から知っている先生で、とても嬉しかった。ひさの六年の担任笠松佐知子先生は、この先生をモデルにしており、今でも交流が続いている。絵のコンクールに入選して、表彰式に初めて東京へ行くことができたり、床屋を描いた絵は日本の児童画の一枚としてフランスへ行ってしまった。自分としても上手く描けたと、好きだった絵だけに、嬉しいような悲しいような思いがした。ロクボクのある体育館の壁面に展示されたのが見納めであった。
三年生になって、石引小学校が崎浦小学校と統合され、小立野小学校として出発したため、新しい場所(現在地)に建てられた鉄筋コンクリートの校舎に通うことになった。私の行動範囲も広がった。小立野小学校から先は、まだ家も少なく、野っ原になっていて、そこに一番山・二番山などと呼ばれる小高いところがあり、よく登った。当時は自然の山だと思っていたが、おそらく、旧日本陸軍の上野練兵場・射撃場に残る壕だったのだろう。『鶴舞坂』には、《「ある。あれが百番山。もっとずっといくと、千番山だってある。」指さすかなたは白山連山。そんな男の子たちの会話をききながら、ひさの想いも遠い世界にひろがっていた。》と描かれている。
天徳院のまわりには、友人が多く、十人くらいの名前がすぐ思い浮かぶし、年賀状のやり取りが続いている人もいる。この天徳院のそばに、ひさのおば美津の恩師相田トシ子の家を設定した。金沢に生活して十年にも満たない母には、どういうわけか知り合いが多かった。大学病院の煙突の近く住んでいたことから、私が「えんとつ姉ちゃん」と呼んでいた人の近所に、まだ若いA画伯が住んでいて、どういう経緯かわからないが、私はA画伯に絵を習うようになっていた。おかげで絵のコンクールに入選し、表彰式に出席するため、二人で東京へ出かけた。その時のいくつかのシーンを今でも鮮明に思い出すことができる。相田トシ子はA画伯の母親がモデルで、《黒い瞳が輝く、透き通るように白い肌の、美しく優しい女》の人は、その娘さんがモデルである。私が中学になってからのことだったのか、懐かしくて訪ねたその家には、娘さん一人で、北極という西洋料理店からオムライスを取ってくれた。それからどれだけか経って、娘さんの死を聞いた。『鶴舞坂』に娘さんの話を書いてしばらくして、A画伯が東京に住んでいることが住所と共にわかり、家族ぐるみのお付き合いが始まった。きっと、娘さん、つまりA画伯のお姉さんが引き合わせてくれたに違いない。A画伯の絵が何枚もわが家に飾られるようになり、私を「一番弟子」と呼んでくれ、亡くなる前にガーゼルや絵具、パステルまで分けてくれた。
石引通りに面して、小立野で初めての映画館、スター劇場ができたのは、私が二年か三年の頃であった。何回か観に行ったのだろう。しかし私が思い出せるのは、洞爺丸沈没を扱った映画、ただ一本だけである。劇場から程なく、紫錦台中学がある。ひさが通う中学校はここに設定されている。辰巳用水を渡ると校門で、正面に明治に建てられた本館がある(現、金沢くらしの博物館)。木造二階建て、左右対称。中央に少し低めの、左右に高めの三角屋根があり、「三尖塔」と呼ばれて、旧制金沢第二中学校時代からのシンボルである。私は二年の時、むかって左側の塔の下、三年は右側の塔の下、いずれも二階の教室で過ごした。一度、塔についている避雷針に雷が落ちて、ものすごい衝撃を感じた。古くて使いにくい面もあったが、風格があり、どことなく西洋風のモダンな校舎で過ごせたことは、私にとって大きな財産である。後に別棟から出火した時、消防の人たちが必死で三尖塔のある建物を守ったと聞く。今でも感謝している。
小立野は台地で、他地域との往来には坂を通らなければならない。高校の通学に自転車で坂の上り下りをしなければならなかった私は、とにかく太ももに筋肉がついて、ズボンを選ぶ目安は、ウエストではなく、太ももが入るかどうかだった。二十人坂・白山坂・亀坂など、たくさんある坂の中で、『鶴舞坂』に実名で出てくる坂は三つである。
鶴舞坂は作品のタイトルにもなった坂で、冒頭と最後の場面で出てくる。私が中学・高校を過ごした家から、刑務所の塀に沿って数百メートル行ったところにあったので、医王山・戸室山を見たくなった時、出かけていった。今でも、金沢へ行く機会があれば、この鶴舞坂だけは訪れるようにしている。当時はもっと眺望が良かったはずだ。
木曽坂・馬坂が出てくるのは、御小人町(現、扇町・横山町・暁町)に住んでいる美津の知人に、ひさがうどんを届ける場面である。御小人町に母の知人が住んでいたことから設定したのだが、町名が何となく城下町金沢らしく気に入っていたし、実際この界隈、古い木造住宅が狭い道を挟んでひしめき、時おり門構えが立派で、格好よく剪定された松が顔をのぞかせるお屋敷などもあり、城下町の風情をかもし出し、私の好きな場所のひとつであった。帰りに馬坂をまわらせたのも、その眺望である。急坂を上って行くと、黒光りする雪国の瓦屋根がしだいに数を増し、そのむこうに卯辰山が見えてくる。その風景が私にとって、何となく金沢らしく思えるのだ。椿原天満宮のお祭りの時には、ウキウキとこの馬坂を下ったし、帰りには坂の途中にある水天宮さんで一休みした。今と違って、水は音を立て、しぶきをあげて流れ落ちていた。
《市電は兼六園に沿って台地を下った》。ひさが辰真と年の瀬の近江町市場へ買出しに行く場面で、『鶴舞坂』の中に名前は出てこないが、兼六坂(尻垂坂)である。《兼六園の雪つりが、市電からもみえかくれしてみえた。うっすらと雪をのせた屋根が続くそのむこうは卯辰山。目をやると、戸室、そして医王》。夢にも出てくる景色である。
私は四年半、輪島で過ごした後、金沢へ舞い戻った。私にとって、すべてが懐かしく、再び金沢で暮らすことが何か夢のようであった。中学二年の私は、行く先々で、それほど昔でもない昔を思い出しては、ひとり感傷にふけって、その情景を記憶の中に刻み込んでいった。私の中には、中学から高校にかけての思春期の私が住む現実の金沢と、幼き日々の思い出の金沢が、同時進行で存在した。そして、大学へ行くため金沢を離れた私が、金沢住民となることは二度となかった。こうして私は、思春期を過ごした金沢の情景をも、記憶の中にしっかりと刻み込んでしまった。
幸なことに私は、金沢の情景一つひとつを好意的に刻み込むことができた。私には楽しい思い出がいっぱいあり、好きな場所がいっぱいある。医王・戸室、白山連山の姿。犀川や浅野川の流れ、しだいに広がってくる坂からの眺望。氷室の饅頭、福梅、かぶら寿司。私が想い描く金沢はすべて過去の金沢である。しかし、ビルが建ち並び、東京の一角と変らぬ姿の金沢を見ることがあっても、私の好意は変らない。ひょっとしたらこれは、ふるさと金沢を離れた人間だけが味わうことができるものなのかもしれない。
【館長の部屋】 陽のあたる本棚②
                
「24.『ふるさと』」の項は島崎藤村著、竹久夢二挿画とあるので、通り過ぎるわけにいかない。
島崎藤村は児童文学者としての顔ももっていて、少年雑誌に詩や童謡を書き、1913年には「愛子叢書」を出版し、その第一編に最初の童話『眼鏡』を書き下ろしている、と星野さん。また、鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊すると、藤村は子どもの頃の話を書いており、さらにフランスから帰国後、『幼きものに』(当初、『仏蘭西土産』)、第二童話集として『ふるさと』、続いて『をさなものがたり』を出している。
第二童話集『ふるさと』には70のちいさな話が収められている。その第一話は「雀のおやど」。続いて、「五木の林」、「荷物を運ぶ馬」、「庄吉爺さん」などなど。こうした話の概要を紹介した星野さんは、《十歳になると三歳上の兄と東京へ学問の修業に出ることになる。おばあさんが金平糖を小さな鞄に詰めてくれて、東京に出るのが楽しみになる。》と、ふるさとの藤村に想いをはせている。そして星野さんは《いろいろな状況が落ち着いたら、藤村の「ふるさと」を訪ねたいものだと願っている。馬籠宿にある藤村の生家跡にある「藤村記念館」は谷口吉郎設計による日本初の文学館として知られるが、地元の人々の尽力によって建てられた。木曽谷や遠くにそびえる恵那山などの風景を前に、本陣・問屋・庄屋を兼ねた生家ですごした藤村の幼い日々のことや『夜明け前』など真摯に取り組んで描かれた作品世界を感じたい。》と書き進んでいる。2021年当時は、新型コロナパンデミックの最中であった。谷口吉郎は金沢の生まれである。藤村のふるさとに、金沢が見える。そんな思いである。

「20.『先人群像七話 三百年前の金沢で』第一~第三」は金沢三文豪に直接関わるものではないが、かつおきんや作とあると、子どもの頃を思い出し、触れないわけにいかなくなった。
星野ひかりさんの『陽のあたる本棚』は、年2回発刊される同人誌「雪嶺文学」に連載されたものをまとめたものである。「20.『先人群像七話 三百年前の金沢で』第一~第三」は、《前回の泉鏡花『化鳥』の舞台となった天神橋や浅野川あたりは、私がかつて住んだところから近かった。日常的な生活圏として歩いていたのだが、橋の向こうは、「東の廓」と呼ばれ、観光に来た友人知人を時々案内する程度だった。「ひがし茶屋街」と名称変更される前で、泉鏡花や徳田秋聲、五木寛之『朱鷺の墓』などの明治や大正の世界は遠くなっても、井上雪『廓のおんな』の昭和の世界がまだ感じられたものだ。北陸新幹線開通以来、昼間は国内外の観光客でごった返す通りだが、ひっそりとして妖艶な雰囲気にどきりとした頃が懐かしい。》という文章で始まっている。このような記述に触れることは金沢を離れた人間にとって、嬉しいことである。
星野さんは続けて、《その町の歴史を知り、先人の暮らしを思って暮らすと、自分たちの暮らしが豊かになり、よりその町に愛着を感じると引っ越すたびに思う。》《先日は、近くの公民館主催で辰巳用水をさかのぼる歴史散歩があり、地域のことを学ぶ機会が多いこの町に暮らすありがたみを感じる。》と書いて、しだいに本論へと導く。
『先人群像七話 三百年前の金沢で』は約300年前、加賀藩下級武士森田小兵衛盛昌が親類・同僚・友人・知人から聞いてまとめた『咄随筆』をもとにしており、第三巻では堀麦水が加賀・能登・越中に伝わる不思議な話をまとめた『三州奇談』などももとにしているという。
本論では、第一集第三話の「ねんねを守った数え唄」、第三集第二話「袖ふれ合うも……」について詳しく紹介し、とくに後者から星野さんは2008年7月28日の浅野川が氾濫した集中豪雨を思い出している。そして、《女川といわれ静かに流れる浅野川が氾濫することに驚いたが、桜や紅葉で目を楽しませてくれる卯辰山が「崩れ山」ともいわれ、おそろしい一面を持っていることをこの話を通じて知った。》と記している。
星野さんは最後に、かつおきんや先生に、《身体をお大事にされて、これからも、もっともっと物語を紡いでいただきたいものだと思う。》と書いているが、先の⑥で紹介した「24.『ふるさと』」(2021年)の最後に星野さんは、《残念なことにかつおきんや先生が先ごろお亡くなりになられた。中学や大学で教鞭にたたれ、子どものための物語を数多く書かれた。金沢子どもの本研究会の代表ほか研究も続けられ、晩年には金沢で図書館、子ども文庫等の関係者が生徒となって、明治・大正・昭和にかけての児童文学の歴史や作家が書いた児童文学についてたくさん教えていただいた。ここに深く感謝したい。》と綴っている。

終戦の8月15日が近づいてくると、「戦争」に関する話題が多くなる。今年で「終戦79年」。来年はいよいよ「終戦80年」である。つまり、終戦の年に生まれた赤ちゃんが80歳を迎えるのである。私は『陽のあたる本棚』の中で、文豪の作品ではないが、「21.『りんこちゃんの8月1日――とやま大くうしゅう』」をどうしてもここで紹介しておきたい。私の義叔母も富山大空襲で親を亡くしたひとりである。
星野ひかりさんは、「21.『りんこちゃんの8月1日――とやま大くうしゅう』」の冒頭、《平成から新しい時代の幕開けとなった。上皇さま、上皇后さまと亡き両親は同世代、この度即位された天皇陛下、皇后さまはわが夫婦と同世代である。次の世代につなぐということについて実感をもってしみじみと考えるこの頃である。》と書いている。この文章が書かれたのは2019年である。
続いて星野さんは、《平成の日本では、数々の災害に見舞われ心が痛むが、ありがたいことに昭和二十年(一九四五年)八月十五日以降七十余年、戦争をしていないという平和な時代が続いている。世界ではいまもどこかで戦争や紛争が続いている。政情不安により祖国をあとにしている人々もいる。いつも思うのは、子どもたちが笑顔でいられるような世界であってほしいということだ。》と願いを込めた後、《私も子どもや孫の世代も戦争を知らない。昭和、平成の時代を経て、遠くなった戦争のことを、おとなも子どもも一緒に考えることができればと、小学四年生で富山大空襲を体験した亡き母の思いを感じて、この一冊を選んでみた。》と、『りんこちゃんの8月1日――とやま大くうしゅう』を選んだ理由を綴っている。
りんこちゃんは四歳。りんこちゃんの家は神通川のすぐそば。昭和二十年八月一日。午後十時頃、りんこちゃんはお母さんの声で起こされる。空襲警報が鳴っている。機関士のお父さんは仕事で金沢。お母さんは乳母車に布団とリュックを積み、妹のせいこちゃんをおんぶし、りんこちゃんと三人で近くの川沿いの神社に避難する。
空襲が始まり、三人は土手に上り、爆弾を避けるため布団をかぶる。富山の町がまっ赤に燃えるのが見える。ようやく静かになり、親子三人は助かったが、《お父さんやお母さんを探す子どもの声、子どもを探すおとなの声がする。目の前には真っ黒こげの人間が木の枝のように横たわっている。りんこちゃんは胸がいっぱいになり、お母さんが声をかけても何ものどを通らなかった》。朝になってお父さんも帰ってきた。この空襲で三千人近くが亡くなり、りんこちゃんの近所でも家族を亡くした人がたくさんいた。
この話は村上凛子さんの体験が描かれている。りんこちゃんは《五歳で金沢に転居した後も、昼の十二時を知らせるサイレンが鳴るたびに、かまどの火が炎となって燃え上がるたびに、泣き叫んでいた》という。村上さんは後に小学校の先生になり、戦争の悲惨さ、むごたらしさと共に平和の大切さを伝えたいと、富山空襲の体験を子どもや父母に語り、学級通信にも書いた。そして、一年生の担任になった時、一年生にもわかるようにと、「りんこちゃんの八月一日」として話すようになり、やがて西嶋弘子さんが絵を描いて、絵本になった。
星野さんはこの項の最後に、村上凛子さんの「あとがき」を紹介している。
《震災は いつやってくるかわかりませんが  戦争は、人間が はじめるのです。  戦争を、終わらせるのも  やめさせるのも 人間です。  そこに 私は 希望を もつのです。》
私はこの言葉を読みながら、村上凛子さんに会っていろいろお話しをうかがいたいと思った。私より少しお姉さんだから、金沢のどこかで暮らしているのだろう。星野さんにうかがえばわかるかもしれない。けれども、凛子さんも西嶋さんも共にすでに亡くなられたとのこと。
なお、凛子さんは私が出た高校の7期先輩にあたる。私が『りんこちゃんの8月1日――とやま大くうしゅう』に惹かれたのも何かの縁であろう。
【館長の部屋】 陽のあたる本棚①

『陽のあたる本棚 児童文学からのおくりもの』(北國新聞社出版局、2022年)は、金沢にある「雪嶺文学」の同人、星野ひかりさんが書かれた。本書は同人誌『雪嶺文学』に26回にわたって連載した『陽のあたる本棚』をまとめたものである。
その中から、金沢三文豪を扱った、「1.『室生犀星童話全集』全三巻」、「19.『絵本 化鳥』」、「25.『秋聲少年少女小説集』」の三項について、私なりに紹介していきたいが、あわせて、「24.『ふるさと』」の項は島崎藤村著、竹久夢二挿画とあるので、通り過ぎるわけにいかず、「20.『先人群像七話 三百年前の金沢で』第一~第三」も、かつおきんや作とあると、子どもの頃を思い出して、引き留められ、「21.『りんこちゃんの8月1日――とやま大くうしゅう』」も、富山大空襲で亡くなった親戚がいることを思うと、紹介したくなってくるので、これら三項についても触れていきたい。

星野ひかりさんは本を読むことが大好きのようだ。それは「はじめに」にあるように、《幼い時から本が身近にあった。両親が本好きなので本棚にぎっしり本が並んでいた。子ども部屋にはリンゴ木箱を利用した母手づくりの本棚があった。》という環境に育まれたからだろう。そう言えば、鏡花や秋聲もむさぼるように本を読んでいた。私は幼稚園の時に、家から近い広坂通りにある本屋さんで『キンダーブック』を買ってもらっていたし、「カバヤ文庫」も懸命にカバヤキャラメルを食べて「カ」「バ」「ヤ」「文」「庫」の券を集めて(「文」の券がなかなか出ず、黄色い券が見えるとうれしかった)、本をもらっていたのだが、どういう風の吹き回しか、読書熱はイマイチである。
星野さんは「1.『室生犀星童話全集』全三巻」の冒頭の方で、《昨秋、金沢市に玉川こども図書館が誕生した。開館時に福音館書店相談役の松居直さんが講演された際のメッセージが印象に残る。親子連れだけでなく、高齢者の方も訪れて子どもの本を読んでほしいと。》と書いている。松居さんは自分が高齢者になって、子どもの本を読むと、かつてとは別のことに気づかされると言う。私も高齢者の仲間だから、きっと気づきがあるだろう。「昨秋」とは2008年秋のこと。最初の玉川こども図書館が開館した時である。

読書好きの星野さんは、《長らく親しんできた石川県立図書館が今年(注:2021年)の十月いっぱいで閉館し、来年度には小立野の新図書館で開館する。古くは兼六園内にあった県立図書館。本多町での五十五年を含め、長い歴史をもつだけに皆それぞれの思い出があることだろう。》として、《私にとっては、高校生の時に「知」の宝庫としての県立図書館へ足を運んだのが始まりだ。子育ての始まりの頃に子どもと通い始め、数々の絵本や物語に出会った。「おはなし」を語りで初めて聴いたのもここだった。》と続けている。
新しい石川県立図書館は2022年7月に開館し、同様に星野さんが期待を寄せていた玉川こども図書館は、その少し前の4月にリニューアルオープンした。
この年の11月に松居さんは亡くなっている。

「1.『室生犀星童話全集』全三巻」で星野さんは、三文豪の中で金沢の子どもたちにとって身近な存在は犀星であろうとしながら、《だが、童話はそれほど知らないのではないだろうか。》と書いている。星野さんも知らなかったように、私も星野さんの文章を読むまで、まったく知らなかった。
星野さんは、犀星が小説を書きながら、《大正九年十二月から童話を書き始め》、《『少年倶楽部』、『コドモノクニ』、『赤い鳥』、『金の船』、『小学男生』などの雑誌に大正十五年まで書き、その後しばらくは童話を書いていない。そして、昭和十五年頃から戦争に向かう暗い時代に、再び子どものために童話を書くようになった。また、子どものための詩もたくさん作り、『動物詩集』(昭和十八年)として知られている。》と、犀星と童話のつながりについて紹介し、『室生犀星童話全集』の編集、解説をしているのは娘の朝子で、《丁寧な解説と解題がなされ、愛情深い父、そして童話作家としての犀星像の理解を助けてくれる。》と続けている。
星野さんは『室生犀星童話全集』の中から、いくつかの作品をとりあげている。
『鮎吉、船吉、春吉』(昭和17年)には犀星を思わせる少年が登場。星野さんは《川岸に住む十歳の鮎吉は川漁師の息子。船大工の息子の船吉、植木屋の息子の春吉とは同い年。家も三軒並び仲良しで「三吉」と呼ばれ、学校へ行くのも遊ぶのもいつも一緒だ。父親の仕事を手伝い、それぞれ得意な魚とり、船の模型作り、虫とりを一緒に遊ぶ少年たちの生き生きとした生活が描かれている。》と紹介している。「童話」というより、私の分類では「児童文学」にあたるだろうか。「三吉」はそれぞれに得意なものがあり、三人三様、みんな違っているけれど、みんな仲良しで、「みんな違って、みんな良い」。私の父の名も登場し、親しみが湧く。
『鮎吉、船吉、春吉』には続編があって、学校の先生や他の生徒も登場し、建て増しした「三吉」の家にそれぞれ本を持ち寄り、互いに読み合う。《三人の童謡、詩、綴り方に加えて学校の皆にも呼びかけて雑誌づくりをする。夏休みに入り、第一号が出る日、学校の皆や先生もやって来て、一緒に詩を鑑賞する。》と、星野さん。このような学校生活だったら、犀星も学校嫌いにならずに済んだかもしれないが、その代わり、「文豪室生犀星」は生まれなかったかもしれない。高校の時、私も仲間が集まって同人をつくり、雑誌を発行していたことを思い出す。
犀星の童話には、《日本や中国に伝わる話を基にした話もあり、中国の馬さんという男が虹の精と出会う「虹おとめ」、医王山を舞台にした「不思議な国の話」などがある。》と、星野さんは私が初めて知る情報を提供してくれる。
星野さんはまた、『四つのたから』のはじめに載せられた、《おはなしというものは、たからもののようにたのしいものであります。よむ人にもたからでありますが、かくわたしからいえば、たからものをわけるようなこころもちであります。/昭和十六年はる/犀星》という文章を紹介し、《かつて子どもだった者も、平成の子どもたちも皆でお祝いし、犀星の「たからもの」をもっとわけてもらいたいと思う。》と結んでいる。「昭和十六年はる」という時期が、私には気がかりだ。「いくさ」が始まれば、「たからもの」など分けてもらえないであろう。

「19.『絵本 化鳥』」で星野さんは、《いまも若者が本離れしているのではと聞くが、自分が学生の頃にもよく言われていた。》と書き出している。結局、本離れはますます進んでいるようであるが、《文豪を登場させた漫画やゲームが流行っているらしい。その文豪のなかに泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星という金沢の三文豪や四高に通った中野重治も入っているとのことだ。その影響か、このところ、若者たちが続々と金沢に来て、石川近代文学館や三文豪それぞれの記念館を訪れているらしい。》と星野さん。まあ、あれだけイケメンに描かれれば、ついついその気にもなるだろうが、星野さんは《どんな入り口からでもいい、大人も子どもも関心を持って本に親しんでくれるのはうれしいことだ。》と書いている。とにかく、金沢の街を歩いていて、若者の多いことにびっくりさせられる。もともと「学生の街」として生きてきた側面がある金沢だから、ほんとうはびっくりすることでないのかもしれないのだが。
『化鳥』は鏡花23歳の時の作品で、鏡花初の口語小説。「愉快いな、愉快いな」と、印象的な言葉で物語に誘われ、《主人公の少年、廉という子どもの目線で物語が進められる。》と星野さん。その後、物語のあらすじを紹介している。
廉は母と二人暮らし。まちはずれ、堤防には松の木が並んで植えられ、橋のたもとには榎の木が一本ある。母子はこの榎の下の小さな番小屋で橋番をして橋銭をもらって生活している。さまざまな人が橋を通るが、その姿は廉には鳥や獣のようになって見える。ある日、廉は猿にぶつかり橋から川に落ちる。おぼれかけたところ、「はねのはえたうつくしいねえさん」に助けられ、廉はその人にまた会いたくて、鳥屋、林、山へと探しに行く。自分が鳥になりそうに思えてこわくなり、キャッと叫んだ時、母が背後から抱きしめてくれた。
星野さんは、《「はねのはえたうつくしいねえさん」のイメージは草双紙(「釈迦八相倭文庫」)の挿絵から得られた可能性が大いにあるとのことだ。鬼子母神の夫がヒヒを獲ろうとして川に流され、「青だく」と呼ばれる女性の顔をもつ霊鳥に助けられる場面(挿絵は主に歌川国貞)にとてもよく似ているとされる。》と解説している。
星野さんは、昨年(2017年)、『絵本 化鳥』の英語版が出版されたことを紹介している。訳者はピーター・バナードさん(慶應義塾大学文学部助教、1989年生まれ)。《ピーター・バナードさんは、日本語研修で金沢を訪ね、鏡花記念館に立ち寄り鏡花に一目ぼれし、生涯研究したい思いになったという。鏡花はKYOKAとして海外でもさらにファンを増やしていくことであろう。》と星野さんは期待を寄せる。鏡花の作品はいまだに演劇などでたびたび上演される。まさに鏡花は漱石などと並んで「現代を生きる」文豪の一人である。翻訳者に恵まれれば、鏡花文学は世界で広く受け入れられるであろう。
星野さんは、『絵本 化鳥』が金沢市内の小中学校にも配布されたことに触れ、《おとなが子どもに読んであげることで、この幻想的な話と鏡花という金沢の文豪が子どもに身近になってくれればいい。そして、子どもが成長しいつか鏡花作品を手に取るきっかけとなればうれしい。また、おとなの方にとっても鏡花作品を読むきっかけとなればいいと思う。》と書いている。私自身、子ども時代に鏡花の作品に触れたことはない。もっと言えば金沢三文豪の作品に触れたことはない。けれども金沢という文学の風土の中で、文学にあこがれ、今も何らかの形で文学との関わりをもっている。おとなの子どもたちへの読み聞かせも、自然な形で、そうした風土づくりに一役買っていくであろう。
星野さんは最後に、《絵本の最後の場面は見覚えのある浅野川の風景である。榎の木が天神橋のたもとにあったことが地誌で確認されていて、また、鏡花の母が眠る卯辰山に向かう橋として重要な意味を持つことから、天神橋が描かれたとのことだ。「母様がいらっしゃるから、母様がいらっしゃったから」という最後の言葉に誘われて、鏡花の世界を歩いてみたくなる。》と締めくくっている。

星野ひかりさんは、「25.『秋聲少年少女小説集』」において、《自然主義文学作家の秋聲は、庶民や弱い者を描いた作品で知られているが、作家としての初期約十年間で三十編ほどの子ども向け作品も書いていた。今回はそのなかから十三編を集めた作品集を取り上げたい。》として、13作品のうち「今、今」、「めぐりあい」について詳しく紹介し、作品集最後の作品「『老話』と『童話』」についても触れている。また、星野さんは「土耳其王の所望」「何でも金になる話」「十二王子」といった秋聲の翻訳による作品を列記している。
「今、今」(1896年1月発行『少年世界』掲載)は、《十歳の時に自分(主人公)の心に「非常な革命が起こって、全く生れ変ったような心持のした」話とある。自分は「今、今」と言うのが口癖で、やらなければいけないことを先に延ばしてしまう》話であると記した星野さん。《ある時、学校へ行こうとして近所で年上の子どもたちが凧揚げをしているのを見て、つい仲間に加わってしまう。それが、駅長をしている厳格な父に見つかり、怒られるかと思ったら列車事故が起こり、それは工夫が片づけを先送りにしていたことによるものだった。父は自分のことを怒りはせず「一日休んでたこをあげるが宜い」と言うが、自分で気づいて改めるようになったのである。》と、あらすじを紹介している。
一方、「めぐりあい」は《主人公の友吉が物心ついた頃から十一歳という少年期ぐらいまでの話》である。あらすじは、酒癖の悪い夫に嫌気がさして、乳飲み子だけ連れて家を出て、田舎の実家へ帰ってしまった母の許へ行くため、妹お清を連れて、友吉が東京経由で母のいる田舎を目指す。再会できた母と進学のため東京で生活を始め、さらに幼なじみの福子が元のように幸せになっている姿にも再会する、というもの。星野さんは、《この話は、家族の中での心の葛藤や当時の生活が描かれていて、どうにもならない状況にも負けず、(その原因である)父と決別して自立して生きていこうとする友吉の姿に秋聲作品らしさを感じる。》と述べている。当初、「強い子弱い子」という題だったが、後に「めぐりあい」と改題された。星野さんは《つらく暗いこの物語に竹久夢二の挿画がぴったり合う。》としている。そして、《藤村の児童向け作品でもそうだったが、明治という新しく近代化する時代に、ひと昔前の時代に育った子どもの話を語り聞かせ、子どもたちがこれから生きていくことを励ますような思いを感じる。》と続けている。
星野さんは、秋聲が少年少女小説へ関わるようになったきっかけについて、彼が1895年4月から翌年秋まで博文館に勤めたことにあるとしている。当時、博文館は『少年世界』を発刊し、巖谷小波、泉鏡花、三島霜川などが作品を寄せており、秋聲は『少年世界』編集部のそばで、樋口一葉作品の校正などをしていた。
                           (つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑭

中西昭雄著「漱石『門』から世相史を読む」(作品社)は、第Ⅱ部「メディアと暴動」に入る。
第四章(内務省の「官僚」と足尾の「坑夫」)、第五章(伊藤博文と新聞)、ともに多くの資料を駆使して文章がつづられ、読みごたえがある。そして、第六章(泥棒、探偵、高等遊民――「探偵」が漱石のキイワードになったわけ)に入っていく。
第六章の1は「泥棒と探偵」。『門』や『吾輩は猫である』に描かれた泥棒のことが論じられ、2「探偵小説」へ。ここでは、『門』のつぎに発表された『彼岸過迄』が取り上げられている。読み進んでいくと、《で、小川町停留所での敬太郎の探偵行動と推理が、この章(「停留所」)のハイライトになる。》との記述。横に、「小川町のT字路。」と説明がある写真が掲載されている。説明はさらに、
右前方が「須田町」方面、左が「神保町」方面。T字の右手前が「神田橋」方面
と続いている。線路がはっきり写っており、電車も1台見受けられる。
中西さんは敬太郎に与えられたミッションを紹介し、《ここでのポイントの一つは、電車の小川町停留所の地理的な環境だった。先に第三章の「神田」の項で叙述したが、この時代、神田・小川町は繁華な街で、東京で生活している者ならば、一度は歩いたり覗いたりした所でもあったろう。》と書いて、高木文雄の『漱石の命根』(1977年)から《この時点で、小川町を通過する電車は、五系統あった。》と、その5系統を紹介している。
《このうち、三田方面から来る電車は》、「1.本郷三丁目―三田」と「5.巣鴨―三田」の路線で、《1がT字路を右折で、5が左折になる。》と説明したうえ、中西さんは《この時代、電車は日々、路線が延長されていたので、(『門』では、「一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過ごしたりする」と書かれている)、路線の始発駅、終点駅の開通日時を今日たどることはむずかしい。》と書き、5の路線の全線開通は『彼岸過迄』より後になるが、白山下まで1910年4月に開通しているので、《三田方面から来て小川町で左折する電車は走っていたわけだ。》と続けている。
ここまで来ると、何やら見たことのある図が……。《漱石『彼岸過迄』の小川町停留所付近の説明図》と書いてある。本文中には、《小川町の交差点に下りてみて、敬太郎はあることに気がついて愕然とする。それからの推理と行動が面白いのだが、漱石の克明な記述を理解するのには、北野豊『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書、二〇一一年)の地図が大変に便利だ(長年、地理の教師をしてきた北野は、漱石の全小説の東京地理を実地で考察している。私はこの本を神楽坂の書店で見つけた)。》と、私が書いた『漱石と歩く東京』が、どこで買ったかも含めて紹介されている。嬉しいことである。説明図はこの本からの引用であるから、「見たことのある図」は当然。中西さんは説明図を使いながら、「小川町の探偵ごっこ」を解説する。
私には、これ以上の拡がりがないのだが、中西さんのすごいのは、《3……日比谷焼打と「警犬」》、《4……市電事件と「社界主義」》と、どんどん発展し、当時の新聞をはじめとする、さまざまな資料を駆使して、当時の社会を描き出そうとしているところである。
中西昭雄著「漱石『門』から世相史を読む」(作品社)は、ほぼ半分まで来た。後は直接読んでもらうのが一番良い。あわせて、「勝手に漱石文学館」の本館「夏目漱石、常設漱石気分」も読んでもらえればありがたい。
                            (完)
【館長の部屋】 城下町・松山へ

ジパング倶楽部2025年3-4月号に「路面電車で散策 城下町・松山へ」が掲載された。
まず、松山城。――「戦」と「太平」2つの時代を伝える現存天守――との見出しに、松山城が紹介され、その築城による技の伝承は「道後温泉本館」の建造につながり、《2024年12月に約6年の保存修理工事を終えた「道後温泉本館」ですが、その姿は歴史を伝える渋い雰囲気のまま。初めて訪れる人は、松山城天守から受け継がれる匠の技に感嘆し、訪れたことのある人は、工事前と変わらない姿に驚くはずです。》と、さりげなく道後温泉まで導かれる。
さて、つぎのページを開くと、――偉人の足跡を散策 城下町・松山をめぐる――。冒頭には、《夏目漱石や正岡子規など著名人を多数輩出した歴史深い松山。偉人たちの残した足跡を路面電車でゆったり辿りましょう。「坊っちゃん列車」に乗れば、当時の気分をより感じられることでしょう。》と書かれている。漱石ファンとしては嬉しいのであるが、松山生まれの子規より前に漱石が来て良いのだろうか。しかも、子規は確かに松山が輩出したかもしれないが、漱石は輩出されたわけではない。『坊っちゃん』の舞台として使ったけれど、松山という土地が漱石や漱石文学に多大な影響を与えたわけではない。むしろ、漱石が松山、そこから輩出された人びとに影響を与えたと言って良いだろう。「松山」と言えば「漱石」。徹底的に漱石を使いこなした松山の人びとは立派と言って良いだろう。
伊予鉄道市内電車は予讃線松山駅をスタート。松山駅電停から約11分で松山市駅に到着。徒歩5分で「子規堂」。《正岡子規と親交があった当時の正宗寺住職が、子規が17歳まで暮らした家を境内に復元。室内には子規が使っていた机や遺墨など展示。野外には現存する最古の「坊っちゃん列車」の客車も。》と説明があり、2枚の写真が掲載されている。
再び松山市駅から市内電車で8分。大街道電停で下車、徒歩2分で「坂の上の雲ミュージアム」。《松山出身の3人の主人公である正岡子規と秋山好古・真之兄妹を中心に、西洋を追いかけた明治時代を描いた小説『坂の上の雲』。日本が近代国家へと成長していく時台の物語を伝えていくミュージアムです。》と説明され、そこから徒歩2分で、萬翠荘。《大正時代の伯爵の世界を体感》との見出し、《「坂の上の雲ミュージアム」から見た「萬翠荘」》の写真が掲載されている。松山にもこのようなところがあったのかと思う。
絶景も史跡も神社仏閣も、行きつくところは「食い物」である。萬翠荘から徒歩1分の漱石珈琲店「愛松亭」。《夏目漱石ゆかりの地でひと休み》の見出し。《松山中学校に赴任した夏目漱石の最初の下宿先が小料理屋「愛松亭」でした。同じ地に立つのがこのカフェ。「愛媛県産フルーツパフェ」や、店内の猫「坊っちゃん」「マドちゃん」が評判です。》と説明があり、おいしそうなパフェの写真、それに《「愛松亭」の猫は写真家・岩合(いわごう)光昭さんも撮影》と説明のある写真も掲載されている。そういえば、坊っちゃんの母校東京理科大学のキャラクターも「坊っちゃん」と「マドンナちゃん」だったような。この猫ちゃん、「坊っちゃん」か「マドちゃん」かわからないが、傍らの書架には漱石全集が並んでいる。きっと、教養の高い猫であろう。漱石ゆかりとあれば、漱石ファン、ぜひ訪ねてみたいところである。それにしても、松山中学校の後、漱石が五高でなく、第四高等学校に赴任してくれていれば、金沢の観光資源として大いに活かすことができたのにと、きわめて打算的に悔やまれる。まあ、漱石は「西へ西へ行く運命」にあったから、それに逆らうことはできなかったであろう。
大街道電停から市内電車で約12分。ページをめくれば、《ゴール 日本三古湯のひとつで癒やしの時を 道後温泉本館》。ここにも、《夏目漱石や皇室の方々も訪れた趣ある建物は、1994年に公衆浴場で初めて国の重要文化財に指定されました。》と、漱石の名が、皇室の方々と並んで登場する。子規だってここの湯につかったことがあるだろうに。でも安心。写真③の説明には、《三階には夏目漱石と正岡子規が利用したといわれる「坊っちゃんの間」が》の記述が。
ページを戻ると、《道後温泉電停を出発する「坊っちゃん列車」》の説明とともに、坊っちゃん列車の写真。《レトロな列車で漱石や子規の気分に 坊っちゃん列車》を見出しに、《夏目漱石の小説『坊っちゃん』にも登場した、1888(明治21)年製の1号機関車と1908年製の14号機関車を、汽笛の音も含めて可能なかぎり再現した伊予鉄道の観光列車》と、説明がある。運賃は1300円。漱石、びっくりであろう。とにかく、子規の名も登場しているが、地元松山出身の子規が、余所者の漱石の「従」になっている感はいなめない。
そんなことはどこ吹く風で、読んでいて松山へ行ってみたくなった。「坊っちゃん会」のメンバーは元気だろうか。
【館長の部屋】文豪と吉原⑩

荷風は1946年、『草紅葉』を発表した。荷風は東京大空襲のことなどにも思いいたしているが、やがて話しは昭和13年(1938年)夏に戻っていく。そこで栄子という芸名の踊子が登場する。
栄子と大道具の頭の家族が住んでいる家は、《商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直に北へ行き、横町の端れに忽然吉原遊郭の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった》。ある日、栄子は近所に住んでいる踊子仲間の2,3人を誘って、荷風を《吉原の角町、稲本屋の向側の路地にある「すみれ」という茶漬茶屋まで案内してくれたことがあった。》と、ここからいよいよ吉原へ入って行く。
《水道尻の方から寝静った廓へ入ったので、角町へ曲るまでに仲の町を歩みすぎた時、引手茶屋のくぐり戸から出て来た二人の芸者とすれちがいになった。芸者の一人と踊子の栄子とは互に顔を見て軽く目で会釈をしたなり行きすぎた。その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子は富士前小学校の同級生で、引手茶屋何々家の娘だと答えたが、その言葉の中に栄子は芸者を芸者衆といい、踊子の自分よりも芸者衆の方が一だん女としての地位が上であるような言方をした》。
ここで登場した富士前小学校、調べてみると同名の学校を本郷の本駒込に見い出すことができる。けれども、これでは吉原から離れてしまう。浅草の富士小学校と捉えるのが妥当であろう。
《これに依って、わたくしは栄子が遊郭に接近した陋巷に生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。》と続けるが、滅びゆく江戸文化を惜しむ荷風の思いが伝わる一文である。昭和13、4年(1938~39年)頃、芸妓は下降気味で、女給や踊子が台頭してくるが、そのような中でも芸妓が格上に捉えられていたことを、荷風は当時の作品で記している。
荷風が『草紅葉』を書いている1946年。「意外の発見」がなされたのは、ほんの7、8年前であるが、荷風は《しかしこの伝統もまた三月九日の夜を名残りとして今は全く湮滅してしまったのであろう。》と書いている。3月10日の朝、大空襲を受けて、吉原はほとんど焼け野原になっていた。
ここで、《この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。》と、1938年夏の夜の吉原に戻っていく。その話の内容は省略するが、吉原を描写した文章には、《暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶えたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。》との記述がある。
この後の文章は吉原を離れて綴られ、戦前、戦時下、そして戦後へと続き、《巴里は再度兵乱に遭ったが依然として恙なく存在している。春ともなればリラの花も薫るだろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟。》という一文をもって終了する。
女性を性の商品として極限まで高めようとした吉原。これを漱石は「高等淫売」と名づけるのか。女性の人権を踏みにじった上に成り立った文化を、懐かしみ、保存すべきなのか。漱石と荷風とでは、見解も異なるかもしれないが、明治の大水害、大火、大正の大震災と言った惨事を経験して、それでもなお、かろうじて江戸時代から続く遊郭の風情を残して来た吉原も、東京大空襲によって完全に息の根を止められてしまった。亡くなった人が戻って来ないように、吉原遊郭も、戻って来ない。

吉原に荷風寝転ぶ草紅葉

                         (完)
【館長の部屋】文豪と吉原⑨

明治30年、1897年《当時遊里の周囲は、浅草公園の向う南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田や竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」などいう江戸座の発句を、そのままの実景として眺めることができたのである》。
この後、《浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的情熱を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであろう。》と書いた荷風は、日本堤などから見た光景を描き、見返柳を後にして堤の上を半町ほど行って左手へ細い道を降り、《これが竜泉寺町の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。》と書いて、ここから見える廓内の吉原を、《道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常口を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。》と描いている。
荷風は、そこから大音寺前あたりの四辻、それぞれの方向の様子を語り、《真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通りへ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過ぎるのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数えたのであった。》と、紹介しているが、この後もしばし、『たけくらべ』の話題が続き、大音寺の今昔を語った後、吉原田圃へ話題が移る。
《吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町一、二丁目の西側、お歯黒溝に接した娼楼の裏窓が最もその処を得ていた。この眺望は幸にして『今戸心中』の篇中に委しく描き出されている。》と、この後、『今戸心中』の一文を引用している。さすがに荷風は吉原にも詳しいが、後に文化勲章をもらうだけあって、文学の匂いは漂っている。一文を引用した荷風は、《この文章を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っているさまを目撃すると、かつて三十年前に白鷺の飛んでいたところだとは思われない。》と続けている。新道路は浅草国際通り、東西の二筋は言問通りと、明治通りであろうか。
《『今戸心中』はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼にあった情死を材料にしたものだという。しかし中米楼は重に茶屋受の客を迎えていたのに、『今戸心中』の叙事には引手茶屋のことが見えていない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあった娼家で、中米楼についでやや格式のあったものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒と、京一の稲弁との二軒だけで、その他は皆小格子であった。》と、荷風は引き続き『今戸心中』にこだわっている。
中米楼は『吉原夜話』の著者喜熨斗古登子(きのしことこ、初代市川猿之助の妻)の実家。四代目市川猿之助の本名は喜熨斗孝彦。
荷風は、『今戸心中』に出てくる《箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処にあった浄閑寺をいうのである。》と、話題は浄閑寺、さらにその周辺の風景に及んでいく。荷風にとって、吉原は孤立して存在するのではなく、その周辺とともに存在していたのだ。

『里の今昔』という題が示す通り、荷風は吉原やその周辺、時の流れに関心を寄せている。《『たけくらべ』や『今戸心中』のつくられた頃、東京の町はまだ市区改正の工事も起らず、従って電車もなく、また電話もなかったらしい。『今戸心中』を読んでも娼妓が電話を使用するところが見えない。》と書いた荷風は、《東京の町々はその場処場処によって、各固有の面目を失わずにいた。例えば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを持続して行くことができたのである。》と、自論を展開する。東京の魅力と言うのはここにあるようで、荷風の時代に比べれば、それが薄れてきたかもしれないが、残存し、私が東京を故郷のように懐かしく感じるのは、そのためであろう。
荷風は外国生活を終えて帰国し、《明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思いをなさねばならなかった。》と書いて、《仲の町にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の燈影」というような町の眺めの調和が破られ、張店がなくなって五丁町は薄暗く、土手に人力車の数の少くなった事が際立って目についた。》と吉原の変貌ぶりを描き、さらに《明治四十三年八月の水害と、翌年四月の大火とは遊里とその周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き陋巷に化せしむる階梯をつくった。》と、文章を続けている。
その後、荷風は「遊里文学」についての論考を語り、『たけくらべ』の一節を引用し、《遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲っていた》。《しかし歳月の過るに従い、繁激なる近世的都市の騒音と燈光とは全くこの哀調を滅してしまったのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里において殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである》。
荷風が語れば、吉原も何やら格調高いものになってくる。さすが学者である。しかし、性戯をいかに文化にまで高め、「江戸らしさ」「日本らしさ」に高めたとしても、それは女性の人権を踏みにじった上でのこと。何か割り切れないものを感じつつ、一葉が書いた『たけくらべ』や、荷風の『すみだ川』を読む時、そこに登場する少女たちをどうみるか。このようなことを思いめぐらしているうちに、私はふと、ふるさとの輪島遊郭を思い浮かべる。この街も生命漲る時代があったのだろう。
      (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原⑧

昭和に入って時が過ぎ、荷風が『ひかげの花』を発表する昭和9年(1934年)。荷風は『里の今昔』を書いている。「里」とはもちろん「吉原」である。
《昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀は既に埋められ、日本堤は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道もまた取広げられていたが、一面の石塊が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社の境内に出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三輪行の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである》。荷風は『里の今昔』を龍之介が亡くなった1927年(昭和2年)の思い出から出発させている。関東大震災から4年を経過している。震災復興計画にもとづき、吉原とその周辺も変貌をとげようとしている。
当時の吉原が荷風の目にどのように映ったか。荷風は《吉原の遊里は今年甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。》と続けている。
公娼廃止の令は1934年に出されている。売春と売春取り締まりは歴史的に「いたちごっこ」を繰り返してきた。結局、公的に売春を認め、非公認の売春を時おり取り締まるという妥協的な状況が江戸時代から、そして明治に入っても続いてきた。江戸・東京において、公然と売春がおこなわれ、売春をおこなっても罪に問われない公娼が存在する街、それが「吉原」である。ところが江戸においても、「吉原」は敷居が高く、遊ぶにもおカネがかかる。多くの人びとがむかったのは、幕府非公認の「岡場所」であった。明治になっても、そうした遊郭は引き継がれ、一部は花街となって、社交の場とともに、半ば公然と売春がおこなわれる場となり、明治の経済成長とともに繁栄していった。
これに対して、「吉原」は下降気味で、1911年の大火で大きな打撃を受け、再建の矢先、1923年9月1日、関東大震災に見舞われた。その11月、「全国公娼廃止期成同盟会」が「国民に訴ふ――公娼の全廃に就いて」を発表し、羽仁もと子、村岡花子、与謝野晶子、吉岡彌生をはじめ29人が名を連ね、さらに「他」となっている。訴えの綱領第一に「焼失した遊郭を再興しないこと」を求めており、言い換えれば「吉原」の再建を認めるなということである。前に紹介した「遊女の悲劇」が、実態をことさら誇張し、公娼廃止のキャンペーンに利用されたと捉える見解もある。
このような動きが政府に公娼廃止を宣言させることにつながっていくが、もとより、公娼廃止を待つまでもなく、「吉原」は衰退の一途をたどっていたことが荷風の文章から読み取れる。
しかし、「吉原」は衰退にむかっても、売春業が衰退したわけでなく、大震災後、とくに昭和に入って、カフェーの女給やダンサーなどへと私娼が広がって、明治期に発展した花街さえも脅かすようになっていた。荷風の志向も吉原や花街から女給などへひろがり、『つゆのあとさき』『ひかげの花』を描くところとなり、ついに大震災後銘酒屋などが移転して労働者の街へ展開した私娼窟にまで入り込んで、『濹東綺譚』を書くに至る。戦後、荷風の関心はさらに浅草の踊子へと移っていく。
どうも、荷風の話しになると、「この世界」が当たり前のようになって、やはり「元祖不良老人」とは付き合うべきでないと思わされるが、その荷風はちゃんと「文化勲章」を受賞している。さすが、後に文化勲章をもらう文豪だけあって、次なる文章は、《江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉鏡花の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。》とあって、《わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行ったのは明治三十年の春であった。》と、明治期の「吉原」描写へ筆は進む。
      (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原⑦

関東大震災直後、芥川龍之介は吉原を訪れた。なぜ、龍之介はわざわざ吉原まで足を運んだのか。吉原について、よく言われるのが「遊女の悲劇」。吉原では遊女が逃げないように囲われ、まさに廓になっているため、地震とその後発生した火災から逃げ出すことができず、弁天池につぎつぎ飛び込み、亡くなった遊女500人のうち、弁天池で命を落とした遊女490人と言われている。当時、このような噂話しが、龍之介のもとに届いていたのか、そうでなくても、何となく遊女たちがどうなったか、気になったのか。
実際には、この「遊女の悲劇」はつくり話で、当時、すでに大門に扉はなく、6か所の非常門もすべて開放されていた。とりわけて、発災時は昼間である。組合の発表によると、吉原遊郭内で亡くなったのは155人で、このうち娼妓・芸妓あわせて死者96人。もちろんこれは大きな数字であるが、閉じ込められていたからではないし、500人というのは大げさである。
龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』の「二」は、《「浜町河岸の舟の中に居ります。桜川三孝。」これは吉原の焼け跡にあつた無数の貼り紙の一つである》という一文から始まる。災害の後、このように居場所を知らせることは、現在でもおこなわれる。桜川さんには知り合いに水上生活者がいて、そこに身を寄せたのだろう。ごく自然であるのだが、龍之介は《真面目に書いた文句かも知れない》が「哀れにも風流」と評し、《秋風の舟を家と頼んだ幇間の姿を髣髴した》と記している。この貼り紙が吉原にあったからこそ、龍之介の想像はここまで拡がったのであろうが、じつは桜川三孝は江戸時代からの幇間(男芸者、太鼓持ち)の名であり、龍之介はそのことを知っていたのである。大震災の頃、吉原に桜川三孝の名を継ぐ者がいたのか、粋に気取ってみたのか、それはわからない。龍之介は《兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脱の気を示した幇間のゐたことは確かである》と続けている。
結局、龍之介は被災した吉原の状況や、遊女のことなど、まったく書いていない。やはり、龍之介は吉原にそれほど興味もなかったのであろう。それに引き換え荷風は違う。大震災の翌年に発表された『桑中喜語』の(七)に、《さても僕の初めて芸者の帯解く姿を見たりしは既に記せし如く富士見町の寿鶴といふ待合にして、勘定何もかも一切にて金参円を出でざりし。その頃は半助といふ言葉も通用しまた壱円のことを大そうらしく武内に面会せんなぞといふもあり。当時売女の相場、新吉原仲の町角海老の筋向あたりにありし絵草紙屋にて売る活版の細見記を見ても、大見世の女の揚代金壱円弐拾銭にて、これより以上のものはなかりし。》と、「女遊び」にいくらかかるか指南している。荷風は吉原だけでなく、東京市中至る所の「遊び場」に詳しい。
荷風は江戸時代の吉原情報にも詳しかったとみえ、『向嶋』(1927年)に、三囲堤の下にあった葛西太郎という有名な料理屋は、《嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸山谷堀の入口なる川口屋お直の店のみなお昔日に変らず繁昌していたことが知られる。川口屋の女主お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。》と記している。
      (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原⑥

『吉原新話』は「百物語」を扱っているので、怪談話しめいたものがいくつも登場するが、その合間に、吉原の情景なども描写されている。
三には、《欄干下の廂と擦れ擦れな戸外に、蒼白い瓦斯が一基、大門口から仲の町にずらりと並んだ中の、一番末の街頭がある。》と、仲の町は方形の街吉原の、中央を貫く幹線。都で言えば「朱雀大路」にあたる。当時は瓦斯燈が夜の吉原の幹線を照らしていたのだ。その一番末と言えば、大門の対面、水道尻にあたる。
五に入ると、《「おおおお、三人が手を曳ッこで歩行いて行きます……仲の町も人通りが少いなあ、どうじゃろう、景気の悪い。ちらりほらりで軒行燈に影が映る、――海老屋の表は真暗だ。ああ、揃って大時計の前へ立佇った……いや三階でちょっとお辞儀をするわ。》
どうやらこの頃、吉原も景気が良くないようだ。これなら「百物語」の会場を提供してくれるのもうなづける。ここで出てくる海老屋は、仲の町と京町1丁目の角にある角海老楼のことで、時計塔が聳えていた。時計塔は大門からも見え、東京市中でも有名で、一葉の『たけくらべ』でも登場する。大門からまっすぐ伸びた仲の町通りの名称はここで終わり、この先、吉原遊郭のはずれ、吉原病院や組合事務所があるところまでが水道尻(すいどじり)と呼ばれる。
八には、《灯は水道尻のその瓦斯と、もう二ツ――一ツは、この二階から斜違な、京町の向う角の大きな青楼の三階の、真角一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放した裡に、青い、が、べっとりした蚊帳を釣って、行燈がある、それで。――夜目には縁も欄干も物色われず、ただその映出した処だけは、たとえば行燈の枠の剥げたのが、朱塗であろう……と思われるほど定かに分る。》
ここで出てくる青楼は角海老楼であろう。屋根が青かった。少し後に、《時々、海老屋の大時計の面が、時間の筋を畝らして、幽な稲妻に閃めき出るのみ。》との一文がある。
ところで、私は混乱している。冒頭、《間も無く大引けの鉄棒が廻ろうという時分であった。》と出てくる。二に《が、電燈を消すと、たちまち鼠色の濃い雲が、ばっと落ちて、廂から欄干を掛けて、引包んだようになった。夜も更けたり、座の趣は変ったのである。》と、いよいよ怪談話が始まりそうで、六に、《「なぜですか。」「新橋、柳橋と見えるでしょう。」「あら、可厭だ。」「四つ、」と今度は、魯智深が、透かさず指を立てて、ずいと揚げた。すべてがこの調子で、間へ二ツ三ツずつ各自の怪談が挟まる中へ、木皿に割箸をざっくり揃えて、夜通しのその用意が、こうした連中の幕の内でもあるまい、》《八畳一杯赫と陽気で、ちょうどその時分に、中びけの鉄棒が、近くから遠くへ、次第に幽かになって廻ったが、》と、ここで出てくる「中びけ」は吉原では午前零時頃。吉原では伝統的に鉄棒を引いて時を告げて廻っていた。あれ?一の冒頭に、《間も無く大引けの鉄棒が廻ろうという時分であった。》と書いてあったではないか。「大引け」とは、当然、「中びけ」より後、午前2時頃である。もともと、「大引け」が午前零時頃であったものが、深夜営業がどんどん伸びていったのである。
そのような私の混乱をよそに、鏡花はどんどん筆を進めていくが、どこまでが怪談話で、どこからがその場で「現実」に起きている怪奇現象か、判然としなくなる。そして、「百物語」は最後に魔がさす。
ところが、ほんとうに怖いのはその後である。
鏡花が『吉原新話』を発表したのは、1911年3月。そして、4と9が重なり、今日では4と9で「子宮の日」に制定されている4月9日。人間は苦しんで生まれ、やがて死んでいくのだから、「子宮の日」とは、よくできたもの。鏡花も好みそうである。その4月9日。吉原を焼き尽し、周辺にも及び、焼失家屋6500戸、死者8人。まさに「吉原炎上」「吉原大火」である。
衰退の一途をたどっていた吉原への追い討ち。それでも、吉原はまた立ち上がって、1923年9月1日、関東大震災。また、吉原は焼失。そのような吉原へやって来たのが芥川龍之介である。
                         (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原⑤

民弥が梅次に語る、話しはそのまま昨夜の「百物語」の会の様子で、過去と現在が同時進行して、ちとわかりにくい。《京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後になったらしい。遣手です、風が、大引前を見廻ったろう。それが見えると、鉄棒が遠くを廻った。》と、時刻は深夜の2時頃。《(あれ、照吉姉さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪》が言う。
どこかのお婆さんが家の中へ入ってきたような。あの婆さん!《「茶番さ。」》誰かの悪戯。しかし、現実か。《(誰や言うてもな、殿、殿たちには分らぬ。やいの、形も影も、暗い、暗い、暗い、見えぬぞ、殿。)》と、さらに《(殿たちの。私が言うは近間に居る、大勢の、の、その夥間じゃ、という事いの。)(何かね、廓の人かね。)(されば、松の森、杉の林、山懐の廓のものじゃ。)(どこから来ました。)(今日は谷中の下闇から、)》《(何をしに……)(「とりあげ」をしようために、な、殿、「とりあげ」に来たぞ、やいの。)(嬰児を産ませるのか。)(今、無い、ちょうど間に合うて「とりあげ」る小児は無い。)(そんな、誂えたようなお産があるものか、お前さん、頼まれて来たんじゃ無いのかね。)(さればのう、頼まれても来たれど、な、催促にももう来たがいの。来たれどもの、仔細あってまだ「とりあげ」られぬ。)(むむ、まだ産まれないのか。)(何がいの、まだ、死にさらさぬ。)(死……死なぬとは?)(京への、京へ、遠くへ行ている、弟和郎に、一目未練が残るげな。)》
《(この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等が国はの、――殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、――広大な国じゃぞの。》《何――不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来ては攫えて行く……老若男女の区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪も、顔はいろいろの木偶の坊。孫達に人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄具じゃがの。身代りになる美い婦なぞは、白衣を着せて雛にしよう。芋殻の柱で突立たせて、やの、数珠の玉を胸に掛けさせ。》いや、もう聞くに堪えん。(まあ、面を取れ、真面目に話す。)と子爵が憤ったように言う。》《(身代りが、――その儀で、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、奪ろう!……さて、どれにしようぞ、と思うて見入って、視め廻いていたがやいの、のう、殿。)皆、――黙った。(殿、ふと気紛れて出て、思懸のう懇申した験じゃ、の、殿、望ましいは婦人どもじゃ、何と上臈を奪ろうかの。)》
《(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦を奪ろう!……も一つ他にもある。両の袂で持重ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上臈たち、此方衆にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇申した戯じゃ。安堵さっしゃれ、蠅は掌へ、ハタと掴んだ。さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)ぱっと屋上を飛ぶ音がした。》《けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯も蹴出しも、だらだらと血だらけの婦の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈が真赤になって、蒼い細い顔が、黒髪を被りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。ト車軸を流す雨になる》。
やはり、「百物語」は最後に魔がさす。
《婆々の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――》と、なれば、後の一人は。
《戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠のように、三階で立騒いだ。照吉は……》と民弥は言って、愁然とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。「ああ、その弟ばかりじゃない、皆の身代りになってくれたように思う。」》こうして、作品は終りを告げる。
鏡花の作品には、身代わりの話しが多い。『夜行巡査』や『日本橋』もそうである。鏡花の妹の生命と引き換えに逝った母。母は娘の身代りになって死んだ。その母を想う気持ちが、鏡花をして、このような作品を書かせているのかもしれない。
          (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原④

『吉原新話』は27節で構成されている。吉原の仲の町も水道尻(みとじり)に近い引手茶屋「蔦屋」に、参会者が集まって来る。女性もいる。茶屋の若い娘「お三輪」なども接待しながら、「怪談話し」の輪に加わってくる。進行は、お三輪が照吉の身の上を語るところで、一旦途切れ、十三から舞台は翌日の佐川民弥の家に移り、民弥が妻の梅次に語る。
民弥は葬式を終えて吉原へ急ぐ途中のようすを語り、やがて十二で中断した照吉の話しの続きへとつながって、そこで民弥の体験とお三輪による照吉の話しが結びつき、時刻は深夜の2時半を過ぎ、「百物語」は「魔がさす」と言われるごとくの状態になり、夜明けへとむかっていく。民弥は「百物語」の会の当夜の幹事の付き添いで、雑誌記者。どうも蔦屋とは馴染みのようで、民弥は梅次を見受けして妻に迎えたようで、梅次は照吉と並ぶ美人芸者。
さて、夜通し怪談話を語り合う「百物語」。
聞くだけで、まだひとつも怪談話をしなかった民弥。《詰らない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。》と話し始めるが、九に入って、《「可恐い事、ちょっと、可恐くって。」と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするような袖を窄めた気勢がある。「私に附着いていらっしゃい。」と蘭子が傍で、香水の優しい薫。「いや、下らないんですよ、」と、慌てたように民弥は急いで断って、「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌になるんだけれど……何にも彼にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪ちゃん。」とちと更まって呼んだ時に、皆が目を灌ぐと、どの灯か、仏壇に消忘れたようなのが幽に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷の五ツ紋に、白麻の襟を襲ねて、袴を着でいた。――あたかもその日、繋がる縁者の葬式を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。》《「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」と妙な事を沈んで聞く。「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。》《「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」「そこらにあるかい。」と気を入れる。「無い事よ、――やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。「何だい、詰らない。」と民弥は低声に笑を漏らした》。
捜しては来たものの、お産の家ではなく、病人の家。それも「夜伽」をする状態で、照吉という美人芸者。すでに覚悟を決め、《大事の人の生命に代って身代に死ぬ》という。《「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、「誰の身代りだな、情人のか。」「あら、情人なら兄さんえすわ、」と臆せず……人見知をしない調子で》、と実は弟の身代わりと。照吉の弟は京都の大学へ行っているが、三年続きの大病で。いよいよ危ない。こう、話すのはお三輪で、《「才ちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束ない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった》。お三輪は最後の勇気を振り絞って、照吉が17日、塩断ちして、谷中の方まで夜明け前に行って願掛けし、弟の病気が治ったと語る。《そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前へ死ぬ方がまだ増だ、あの子は男だから堪えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が、出てよ。……》
場面変った十三。葬式が遅れて午後7時。7時より前に会場の吉原「蔦屋」へ来て欲しいと言われていた民弥。すぐ腕車(くるま、「人力車」のこと)を頼んで吉原へ急ぐ。途中、根岸から天王寺へ抜ける細く狭い道。《鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込むってね。手巾が一枚落ちていても悚然とする、と皆が言う処だよ》。坂の途中で、《袴着た殿い、な、》(墓場来た、殿)、と《爺か、婆か、ちょっと見には分らなかったが》、どこへ行くと訊くから、「吉原へ」。突如、現れたものも「吉原へ」「取揚げに」。
こうしてわけもわからず蔦屋。話しは進んで十六で、《「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ…… 思わず、心が、先刻の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」》と、お三輪の話しへつながってくる。
          (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原③

漱石は『吾輩は猫である』で吉原を登場させたが、描写はしなかった。
当館でおなじみの7人の文豪。漱石以外の6人。犀星に吉原を描いた作品はみつからず、藤村もほとんど吉原には触れていない。秋聲は多少触れてはいるものの、中洲や白山などで事足りているようだ。龍之介は関東大震災後の吉原へ行ったことを記している。何と言っても荷風は吉原にも熱心だ。荷風は浅草や玉ノ井にとどまることはなかった。
さて、洲崎へも繰り出した鏡花。意外にも私が発見した吉原作品は『吉原新話』ただひとつである。「いやいや、まだある。」と私に教えてくれたのが荷風で、『里の今昔』で、鏡花の『註文帳』(1901年)を《廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰鬱な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺との描写はこの作者にして初めて為し得べき名文である。》と、紹介している。
『吉原新話』である。
《表二階の次の六畳、階子段の上り口、余り高くない天井で、電燈を捻ってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師》。7月の末というのに、まだ梅雨が明けず、畳も壁もじめじめする。今宵集まった連中は、ここで「百物語」の会を催そうというのである。「百物語」は集まった一人ひとりが、今流に言えば「世にも奇妙なお話し」を披露し、夜を明かすものである。どうも人間は今も昔も「怖い」と言いながら、このようなお話しが好きである。
当日の参会者12~3人。《仲の町も水道尻に近い、蔦屋という引手茶屋で。》と、『べらぼう』を意識したかのように「蔦屋」の名。もちろん、日本で放送が開始されたのは、今から100年前の1925年であるから、『吉原新話』の時代、放送などなかった。
もともと、吉原は「百物語」をやるようなところではない。《会をここで開いたのは、わざと引手茶屋を選んだ次第では無かった》。料理屋はのっけから相手にならず、待合もダメ。席貸も徹夜でしゃべるようではムリ。旅籠屋は寝る所だから、これもダメ。お寺は億劫、教会へ持ち込めば叱られる。向島の別荘でやった時には飛んだ騒ぎを起こして(当時の状況から考え、反政府活動家が夜な夜な集まっての謀議と間違えられ、踏み込まれたのではないだろうか)、《席を極めるのに困りました。》というところへ、「蔦屋」が何とか引き受けてくれた。引手茶屋なら徹夜営業、部屋はある、客はやがて妓楼へ行って夜を過ごす。店は開いていても、客の迷惑にはならない。二階に人が大勢集まっていても、店としては困らない。客の入りも減ってきた吉原にとって、こうした臨時収入はありがたい。このようなことを思いついた鏡花、まさに蔦屋重三郎並みの才覚である。
会場が吉原と聞いて、《誰も会場が吉原というのを厭わず、中にはかえって土地に興味を持って、到着帳に記いたのもある》。とにかく、この「百物語」の会には女性も参加している。
さっそく、参会者のひとり、浜谷蘭子。
《「吉野橋で電車を下りますまでは無事だったんですよ。」》《「ええ、何か出ましたかな。」「まさか、」と手巾をちょっと口に当てて、瞼をほんのりと笑顔になって、「お化が貴下、わざわざ迎いに出はしませんよ。方角が分りませんもの。……交番がござんしたから、――伺いますが、水道尻はどう参りましょうかって聞いたんです。巡査さんが真面目な顔をして、(水道はその四角の処にあります。)って丁寧に教えられて、困ったんです。」》
このようなところに仕掛けられた鏡花の「オチ」。ちと、出るところが早すぎる。女性が吉原へ行くとは思ってもいない巡査。というより、吉原へ行くのに、「水道尻」などと訊く人もいないだろう。蘭子さん、「吉原」という言葉を口にするのが憚られたのか。そもそも吉原へ行く道を尋ねる人もあるまい。
                         (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原②

吉原は浅草寺の裏手(北側)およそ1kmのところにあった遊郭である。正式には新吉原。江戸にはいくつかの盛り場に遊女屋ができていたが、京都、大坂のように公認の遊郭はなかった。そこで、1618年、江戸の遊女屋は日本橋葺屋町(現、日本橋人形町近辺)一ヵ所に集められ、江戸唯一の公認の遊郭“吉原”が成立した。葦や葭の茂っていたところから葭原と名づけられたが、のちに縁起をかついで吉原となった。吉原の由来には、江戸の繁栄を聞きつけて、吉原(現、静岡県富士市)の遊女屋が江戸移り住んだとする説もある。江戸の町の発展にともない、吉原遊郭は市街地と隣接するようになり、1656年、幕府は吉原の移転を決意した。おりしも、翌1657年(明暦3年)の明暦の大火で吉原は全焼し、現在地への移転が実行された。
当時は一面の田圃であった。葺屋町の時の吉原を元吉原、日本堤の吉原を新吉原という(ここでは、新吉原を単に吉原と記載する)。深川・品川などの岡場所(非公認の私娼窟)と違い、吉原の遊女は源氏名を名乗り、花魁と呼ばれる最高級の遊女は客を拒む権利さえもっていたという。昼夜営業を認められた吉原は不夜城を呈し、全盛時代には“闇の夜は吉原ばかり月夜かな”とうたわれた。
遊客が吉原へ行くには大きくは、浅草から籠で日本堤を通るルートと、大川から舟で山谷堀に入るルートがあった。後者のルートをたどってみよう。柳橋から猪牙船(猪牙舟、ちょきぶね)という小さな舟に乗って大川(隅田川)をさかのぼり、山谷堀へ入るとすぐ今戸橋をくぐる。江戸時代に舟で吉原に通ったものが大川から山谷堀へ入る時、必ず橋の下をくぐった。“今戸橋わたる人よりくぐる人”。現在このあたりは隅田公園になり、リバーサイドスポーツセンターもある。今戸橋をくぐると左手に待乳山(まつちやま)がある。待乳山の上の聖天の社は花柳界の信仰の的になってきた。待乳山北端吉野橋のたもとから山谷堀に沿って遡ること約1.5km、三ノ輪に至る間の西岸が日本堤である。日本堤は待乳山を削って、その土でつくったもので、山谷堀は江戸時代堀と言えば山谷堀を指すくらい有名であった 吉原遊郭は日本堤の途中、西側の土手下にある。
日本堤の土手から吉原をめざす遊客。右に高札場、左に見返り柳、その間を下る衣紋坂(えもんざか、ここへ来ると衣紋をつくろうというのでこの名がついた)。両側に引手茶屋のならぶ五十間道(約175m)を行くと大門である。見返り柳は京都島原遊郭の門口の柳を模したもので、遊び帰りの客が後ろ髪引かれる思いをもって、この辺りで振り返ったところから見返り柳と呼ばれるようになった。現在でも、土手通りに面して見返り柳があり、五十間道にあたる道路は当時のようにS字形にゆるやかにカーブしている。
廓の周りは鉄漿溝(お歯黒溝、おはぐろどぶ)に囲まれていた。通用口は北門にあたる大門だけで、遊女たちはまさに廓の中に囲われていた。大門を入るとすぐ会所があり、出入りする人を見張っていた。その隣りに7軒の引手茶屋があり、最高級の茶屋として有名だった。大門からまっすぐ水道尻(みとじり)まで続く中央の通りが仲の町で、両側に楼閣が並んでいた。仲の町を挟んで、大門から向って、右手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左手前から伏見町、江戸町二丁目、角町、新町。京町一丁目には最高級楼閣角海老楼があった。鉄漿溝には刎橋(はねばし)とよばれる板橋があった。これは廓の者が用事の時だけ降ろして使用し、内から外へしか渡すことができないもので、橋の脇に番人小屋があった。通常は遊女逃亡を防ぐためはね上げてあった。
吉原は幕末以降、岡場所に客を奪われ、明治以降は花柳界の発展に押されてしだいに衰退し、1958年の売春防止法施行にともない一斉廃業した。しかしながらかつての吉原一帯(現、千束4丁目)は今日でも、風俗営業の多い地区である。
                         (つづく)
【館長の部屋】文豪と吉原①

今年のNHKテレビ大河ドラマ『べらぼう』は「江戸のメディア王」と呼ばれる蔦屋重三郎(1750~1797年)が主人公。吉原(新吉原)に生まれ育った重三郎は、衰退しかかった吉原の再興をめざすのだが……。
吉原は江戸の文化を語る時、欠くことのできない場所、落語などにも出てくる場所であることは確かと言っても、今では法的にも禁止された「売春」がおこなわれた場所。その吉原に「客を呼び込もう」というのだから、NHKが率先してそのような番組を制作するのも「いかがなものか」とも思う。遊女を「一目千本」と生け花に見立ててしまうのも、「いかがなものか」。漱石なら、どのように論評するだろうか。
その漱石も『吾輩は猫である』で吉原を登場させている。珍野苦沙弥先生の姪にあたる雪江に、「一体叔父さんはどこを散歩したの」と訊かれた苦沙弥先生、《「どこって日本堤界隈さ。吉原へも這入って見た。中々盛な所だ。あの鉄の門を観た事があるかい。ないだろう」「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦の居る所へ行く因縁がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」》。作品だから、漱石の真意がどこにあるかわからないが、「ちょっと、見てみたいところでありながら」、そこで生業を立てる女性たちは「賤業婦」であり、「教師たるもの行くようなところではない」。男性と女性の「吉原」に対する捉え方の違いを漱石は描いたとも言える。
苦沙弥先生が吉原へ行ったのは、吉原へ行きたかったからではない。苦沙弥先生の家に泥棒が入り、その泥棒が捕まって、刑事が泥棒を伴ってやって来て、「山の芋は出ない様だが外の物件は大概戻った様だから、明日の九時までに浅草警察署日本堤分署まで取りに来いと言われたため。《「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君只の所じゃないよ。吉原だよ」「何だ?」「吉原だよ」「あの遊郭のある吉原か?」「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行ってみる気かい」》と、迷亭にからかわれた苦沙弥先生。《主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡の体であったが、忽ち思い返して「吉原だろうが、遊郭だろうが、一反行くと云った以上はきっと行く」といらざるところに力味で見せた》。ここでも、「普通は行かないところ」と言った意味合いがにじむ。
警察署へ行ったので、吉原へ行ったのではないが、苦沙弥先生、どうやら警察署で待たされている間に吉原見物に行ったようで、《「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃ猶いけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」》と、雪江の言葉は鋭い。
苦沙弥先生、そこで油壷を買ってきた。《「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」「それを吉原で買っていらしったの?まあ」「何がまあだ。分りもしない癖に」「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだって有るじゃありませんか」「ところがないんだよ。滅多に有る品ではないんだよ」「叔父さんは随分石地蔵ね」「又小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」「叔父さんは保険が嫌でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入る。女学生は無用の長物だ」「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」「来月から這入る積だ」「きっと?」「きっとだとも」》。
落語好きの漱石らしく、吉原の一件も妙なところでオチがつく。漱石にかかると吉原もこのように「料理」されてしまうのか。この流れでいけば、蔦屋重三郎も保険屋に仕立てられてしまうかもしれない。吉原大火のことを考えれば、吉原の再興に欠かせないのは、火災保険であろう。江戸時代に火災保険があればと、漱石は考える?
苦沙弥先生が油壺を買ったのは、五十間道沿いの古道具屋であろう。武田勝彦氏は日本橋分署の位置について、東浅草2丁目27(当時、浅草区官有地方今戸町2番地)にあったとしている。東浅草小学校付近である。土手通りの吉原大門交差点から歩いても2~3分のところである。
吉原は登場させても、吉原をいっさい描写しなかった漱石。やはり、吉原とは一線を画していたようである。当時は現職教員である。「教師の身で」行くべきところではなかったのだろうか。
                         (つづく)
【館長の部屋】 ゆれる灯②

学校での純子はまた「だんまりの純子」であった。笑顔の純子が浮かんで、晴夫は何回かはなしかけようとしたが、学校の純子にはそれを許さない雰囲気があった。純子も晴夫と話したかった。それがどんなに楽しいことかも純子は知っていた。けれども、話したい気持ちが強ければ強いほど、純子はよけい固く口をつぐんだ。(かんにんな。かんにんな。)と、心のなかで何度も繰り返しながら――。純子は晴夫と別れる時、つぎにいつ会って欲しいと、かならず約束した。もしそうしなければ、偶然会うまで、晴夫と話すことはできない。
幾度か会って、八月は夏休み。
「南さん、ごめん。遅くなって。心配した?」
「ううん。……うん、心配した。松山君、今まで遅くなったことなかったし。どうかしたんやろか思ったり、約束まちがったんやろか思ったり」
「急に配達がはいって……」
「お店やってると、しかたないもんね」
「ほんとうは今、配達のとちゅう。遅くなって、南さん心配してると思って、先にこっちへ来た。今から一度うちに帰らないといけないんだ。南さんいっしょに来ない?」
「私、ここにいる。ここから海みてる」
「でも、ここ暑いし。それに一度、母さんに紹介したいから」
「ううん。私とつきあってること知ったら、お父さんも、お姉さんも、きっと怒る。そしたら、松山君も困るし、お母さんも困るやろ。私、そんなことできへん。私、ここに待ってる。私、ここ好きなんや。だって、いつも松山君に会うところやもん」
「じゃあ、いそいで行ってくる」
嶽山も水平線も青味を帯びてかすんでいる。純子は防波堤のコンクリートにひじをついて、海をながめていた。
「あっ、松山君。早かったね」
「気がついた?僕、南さんびっくりさせようと思って、そっと来たんだけど」
「私、うしろに敏感なの……。でも、松山君おもしろい。私をびっくりさせようなんて」
「これから、どこへ行く?」
「うーん、狭い町だもの、どこへ行っても見られてるみたいやし。なんか行くところないみたいやね」
「じゃあ、ほんとにうちおいでよ」
「ありがとう。でも、ほんとに私、行けないん。私、そうして言ってくれるん、とっても嬉しいし、それに、松山君があの家、自分のうち思えるようになったんも、私うれしい。そや、光浦行こ」
「光浦?」
「うん。松山君、知ってるやろ」
「知ってる」
「岬の山越したところで待ってて」
岬の山を越えると、なだらかな山並みと、ところどころに岩が顔をのぞかせた海との境を、一筋の道が、わずかばかり蛇行しながら続いて、光浦部落のむこうへ消えていた。晴夫と純子は柴垣の残った光浦部落をすぎて、海につきだした大きな岩のところで止まった。
「松山君、いっぱい汗出てるや」
純子はポケットからハンカチを取り出すと、晴夫の額の汗をぬぐって、それから自分の額の汗をぬぐった。あまりに自然な純子のふるまいに、晴夫はお礼を言うのも忘れそうだった。
「ありがとう」
「私、松山君の汗、ふいちゃった。ねぇ、海、おりよう」
「うん」
晴夫は額にまだ、純子のハンカチの感触をかんじながら、岩と岩のあいだをつたいながら、波打ち際までおりた。
「波、静かやね」
「うん。南さん、兄弟は何人?」
「私、ひとり」
「南さん、兄弟がいるみたい、たくさん。だってとってもしっかりしているんだもの」
「ありがとう。松山君はお姉さんたちと話しするの?」
「少しだけ。上のお姉さんはいろいろ話しかけてくれるんだけど、なに話したらいいか、よくわからなくて……。悪いなって思うんだけど。下のお姉さんとは、最近すこし話すようになってきたかな。でも、南さんと話すほどには話せないよ」
「お姉さん、高校生?」
「うん。上の姉さんはもう結婚してる。兄さんはお盆には来るんだって、大阪から」
「松山君はお店にもでるの?」
「そんなには出ないけど、忙しい時とか、みんな食事してる時とか。食事の時は交代でお店出ないと……。そう、お祭りの時もいそがしいんだって。下の姉さんがお祭りの時には、お店の前に店出すんだって……。もうけは小遣いになるって言ってた」
「おもしろそうね」
「僕も少し手伝っていいんだって、南さんも手伝いに……。ごめん」
「いいんよ、そんなに気つかってくれなくても。だって、友達の家、遊びに行ったり、ほんとはそんなの、当たり前のことなんだもの。……あそこの砂のところで、何かつくって遊ぼ」
砂が赤味を帯びて、はっとするまで、晴夫と純子は砂遊びをしていた。岬の山を越えるところまで来ると、水平線に太陽がかかり、一筋の赤い帯が、細かな波の上を袖ヶ浜の海水浴場にむかって伸び、光浦部落はくっきりとしたかげの中に、すでに見えなかった。
「きれい。私、これ見たかったん。ここから夕陽みてると、なんか故郷へ続いてるみたいなんや。ねぇ、松山君、今度いつ会ってくれる?」
「うーん」
「もうすぐお盆。それから、お祭りも近づいてくる。忙しくなるんよね」
「僕はじめてだから、よくわからないんだけど、たぶんそうだと思う」
「じゃぁ、お盆がすぎてから。いつものとこ」
純子は日と時間を繰り返すと、
「私、ここで、さよなら。ありがとう、松山君」
さっと、自転車を走らせた。
いつかきっと、ずっといっしょにいてくれる人になるような、そんな予感をいだきながら、晴夫は純子のうしろ姿を、坂のむこうに消えるまで見つめていた。

「松山君、今日はうちへ来て」
「えっ」
「だって、私たち、友達どうしだもの。でも、松山君、私の家きたら、びっくりするよ。そう、新しい橋のところで待ってて……」
うなづいて、晴夫はさきに自転車を走らせた。コンクリートでできた新しい橋から少し行った長屋の一番奥が純子の家だった。
「どうぞ。今、誰もいないの。母さん、今日はもう働きに行ったし……」
「あがってもいい?」
「うん。きたないところでしょ」
「落ちつくよ。僕が前に住んでいたところも、こんなだった。お母さん、帰り遅いの?」
「そう。母さん、お化粧して出ていくん。酔っぱらって帰って来ることもある。私、いややけど、でもお仕事だもん。いやって言えないんや」
「南さんがご飯つくるの?」
「そんな時もある。けど、母さん、やっぱ自分がご飯つくらないかん、思ってる……。父さんと母さんと大阪で知り合ったん。父さん、もうすぐ帰ってくる。二年たったから。私、父さん好きだよ。おこるとこわいけど、間違ったこと大嫌いなんや。だから……きっと、相手を許せなかったんや。ここの隣り、母さんの友達住んでる。父さん行ってから、母さん、その友達たよって、この町、来た。私、隣りのおばさんにとっても感謝してる」
「……」
「ごめん。私、一人でしゃべっちゃった」
「ううん。南さん、もうじきお父さんといっしょに住めるんだね」
「うん。うれしい」
「あの本、何?」
「あれ?みつけた……。隣りのおばさんに教えてもらってるん。あの字、ハングルっていうの。母さん、あんまりハングルが読めないから。私、少し、読んだり書いたり、できるんだよ。私、もっともっと上手にならないと。だって自分の国の言葉だもの」
「自分の国?」
「そう。私のほんとうの名前、ナム・スンジャ言うん。南って書いて、ナム。純子って書いて、スンジャって言うんや。……松山君、私のこと、嫌いになった?」
「どうして?」
「だって、私のこと知ると、みんな私のこと嫌いになるんやもん」
「どうして?」
「わからへん、どうしてか。わからへんけど、みんな嫌いになるんや。だから、私、自分から言ったことなんて、今まで一度もない。松山君がはじめて……」
「南さん、今度のお祭り、いっしょに見よう」
「いっしょに?」
「うん。いつものところ。約束」

店の前には、みかん箱に板がわたされ、唐津物や鍋が並べられた。美津江が大きな声で呼び込みをしている。小遣いがかかっているとはいうものの、こんな愛想の良い美津江を、晴夫はみたことがなかった。このところようやく、美津江は晴夫を弟として認めはじめていた。祭りの店も美津江の方から、「いっしょにやろう」と、声をかけてきた。晴夫は美津江の横で、売れた唐津物や鍋を新聞紙に包んだ。
海岸通りには、御幣のついた大きな松明がたてられ、日もとっぷり暮れた頃、各町内から担がれたキリコが、灯にそれぞれの文字や絵を浮かびあがらせながら、威勢のよい掛け声と鐘の音に、右に左に大きくゆれながら、集まってくる。晴夫は祭りの店を終わり、夕食をすますと、純子との約束の場所に急いだ。
キリコが数を増し、約束の時間を大きくすぎても、純子は姿を見せなかった。いよいよ大松明に火がつけられ、その下を神様が高下駄をはいて、悠然とくぐりぬけて行く。大松明が倒れると、下の浜に待ち構えた若者たちが、いっせいに御幣にむかって駆け、はげしく御幣を奪い合う。再び、キリコが右に左に大きくゆれながら、動きはじめる。その時、晴夫は、ゆれる灯のなかに、たしかに、ゆかた姿の純子を見た。
「南さーん」
晴夫は手をふった。
純子は、しかし、再び晴夫の前に姿をあらわすことはなかった。

                          (完)
【館長の部屋】 ゆれる灯①

私が小説『ゆれる灯』を「雪嶺文学」に発表したのは1997年である。
2024年1月1日に発生した能登半島地震を受けて、私は急に『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った。晴夫と純子が60年以上の時を経て、被災した輪島の街に立つ。そこで二人は何を思うのだろうか。私は被災後の輪島へ、まだ行っていないが、多分、変わり果てた光景に泣いてしまうであろう。と言うか、今、この文章を綴りながら、私の目には涙が溢れている。
『ゆれる灯』の中で、晴夫と純子の待ち合わせ場所に設定した、海岸通りから下の浜に降りる階段のあったところは、一帯、沖にむかって埋立てられ、ホテルが建っている。つまり、この『ゆれる灯』で描いた出会いの場や、キリコ祭りの場すべて、すでに土砂の下に埋められてしまった。この埋立地の上には、ホテルやキリコ会館が建てられ、今また仮設住宅が建てられている。
埋立地の出現は、子どもの頃の輪島の風景を一変させてしまった。懐かしい輪島の風景はここで一度死んでしまった。そして、このたびの地震。私の中の輪島は二度、殺された。
晴夫と純子の二人が遊ぶ場所として設定した「猫地獄」のある鴨浦も、地盤が隆起し、海水プールの水もなくなってしまったという。同じく、光浦の海岸も隆起し、海水に透けて見えていた岩盤も、岩肌をさらすようになっているのだろう。光浦の岩場は、岩陰が多く、ちょっとした秘密基地のようだった。私はこのような場所で、女の子と二人遊ぶ経験をもっていないが、友達と「ロケット実験」などと称して、手製のロケットを発射させた。もちろん推進力は模型飛行機用のゴムである。
『ゆれる灯』のその後を書きたいと思った私。けれども、私は書くことをやめた。小説としては、あそこで完結している。「なぜ、南さんは来なかったのだろうか」。「その後、二人が会うことはなかったのだろうか」。「大人になって、二人が偶然出会って、結婚したのだろうか」。「南さんのその後の人生はどうなっていっただろうか」など、それは読者一人ひとりが想像をひろげるところであり、小説のおもしろさ、余韻である。私自身、この『ゆれる灯』の作者であるから、続篇を書くことはいっこうに差し支えない。けれども、読者から想像を奪い取ることは許されないであろう。私も時どき、『坊っちゃん』の「坊っちゃん」はその後どうなっただろうか、『三四郎』の三四郎はその後どうなっただろうかと想像することがある。時に、美禰子が離婚して、三四郎と結婚するなどという不謹慎な想像をすることもある。そこがまたおもしろい。
自分の人生は自分自身しか描くことができない。今回の地震で被災した人たちが、どのような人生を描いていくのか。報道陣もボランティアも去った被災地は、作品として完結した小説のようなものである。一人ひとりはその後も、自分の人生を描いていかなければならない。そして、それは想像の世界ではなく、現実の世界である。考えただけでも、気が遠くなってしまう。
そのような思いをもって、ここに『ゆれる灯』を再掲する。もはやこの作品に描かれた輪島の情景は存在しない。

『ゆれる灯』

「松山くーん」
純子が手をふっている。
「やっぱり、松山君や」
晴夫は純子の笑顔を初めて見た。
「どこ、行くん?」
「家へ帰るところ」
「松山君の家、ここから近いん?」
「うん。自転車でニ、三分」
「びっくりした?私が声かけて……」
「うん」
「学校で話ししないもんね。隣りどうしなんに。ずっと、隣りどうしなんに」
「うん」
「少し、話していい?」
「うん」
「うれしい。あそこ行こ……」
海岸通りの防波堤が少し突き出して、階段が下の浜へむかっている。二人は並んで海を見た。
「松山君。もう、この町のこと、だいぶ覚えた?」
「まだ、少し」
「あの岬のほう、行ったことある?」
「うん」
岬にいだかれるように港がある。
「あの島、知ってる?」
「七つ島」
「よく知ってる。でも、ほんとうに七つあるん?私、まだ、七つ数えたことない。松山君は?」
「僕もまだない。でも、ほんとに七つあるって、岡田君が言ってた」
「岡田君って、ラーメン屋の子?」
「うん」
「あっ、そうそう。あの高い山、知ってる?」
「嶽山(だけやま)」
「私、一度登ってみたいけど、しんどいやろな。でも、海がずっと見えて、広うて、気持ちいいやろな……」
「うん」
「松山君。よく知ってるや、この町のこと。まだ三か月ほどやのに。私なんか、この町来て、もう二年以上なるのに、ほとんど知らへん」
「南さんも転校して来たの?」
「うん。大阪。私、友達いないから。六年生になって、松山君が来るまで、私、隣りの席、誰もいなかった」
晴夫はあらためて純子の顔を見た。目じりのすーっと切れた、整った顔は、じゅうぶんに美しい。たしかに学校では無口で、うつむき加減で、暗い感じがする。しかし、晴夫は横顔の純子に魅力さえ感じていたし、今の純子は笑顔がとっても明るい。こんな笑顔を誰にも見せたことはないのだろうか。きっと、友達いっぱいになるだろうに。友達がいないという純子を、晴夫は不思議だった。
「私、まだ、大阪弁のこってるし……」
「僕、大阪弁、好きだよ」
「ありがとう。ここね。八月の終わり頃、お祭りある。キリコっていうのが出て、松明なんか燃やして。私、去年、はじめて見た。美しかった。そう、この海岸通り、キリコが明かりともして、うねりながら、いくつもいくつも通るん」
「南さん、今年も見る?」
「うん」
「僕も……。はじめてだから。いっしょに見れるといいね」
「いっしょ……」
純子のその言葉に晴夫ははっとして、急に顔のほてるのを感じた。
「南さんは冬の海、見たことある?」
「あるよ。とってもこわい。ここまで波が来るん、波しぶきがドーンとあがって……、波にさらわれそう」
「そんな海、見たことないな。僕の前に住んでいたところからは、海、離れていたし……」
「私だって、大阪でそんな海、見たことなかったし、もう、びっくりしたわ。死ぬかと思った。でもそのほうが……、そうしたら、今こうして松山君と話しできんかった、ね」
「冬にこのあたり、配達あったらどうしよう」
「松山君、配達してるん?」
「うん。金物屋さんだから」
「そうやったね、松山君の家。でも、まだこの町来て、そんなにたってへんのに」
「早く、町のこと覚えて、店のこと覚えて、松山の家の者にならなけりゃいけないから。母さんも頑張ってるし……。僕、いっぺんに父さんもできたし、姉さんもできたし、兄さんもいるんだって。そう、大阪に」
「大阪?」
「うん。お店の修業に出ているんだって……」
「大阪か……」
「なつかしい?」
「そう。でも、帰りたくはないよ。松山君、今度いっしょに岬のほう行ってくれる?」
「うん」
「約束だよ。今度の日曜日、二時にここに来て」
「今度の日曜、二時、ここだね」
「指切り……」
純子は右手の小指を晴夫のほうに差し出そうとして、さっとひっこめた。
「私、馴れ馴れしすぎるね。でも、指切りしたよ松山君。明日から、私また学校で、松山君とも口きかへんけど、かんにんな」
自転車の純子のうしろ姿を、晴夫はしばらく見送っていた。小指にほのかな温もりを感じながら。

「松山くーん」
純子が手をふっている。
「来てくれたんだね、ほんとうに。私、学校で口きかんかったから、来てくれないかと思ってた」
「僕、気にしてないよ。それに、南さんとの約束だもの」
「ありがとう。松山君、岬のところまで先に行ってて。私、あとで行くから」
「いっしょに行かないの?」
「並んで走ってるとこ、誰かに見られたら、松山君、困るし」
「僕、困らないよ。学校でだって、隣りどうしだし」
「ううん、松山君、先に行ってて」
海岸通りから橋を渡って、港の魚の臭いをぬけて少し行くと、家並みが途切れて、道は大きく左へ曲がりこみ、岬の北側へ出る。崖を背に海を見ると、肌色っぽい岩盤が、ぼこぼこと続き、一際高い岩のむこうに青緑色の海が広がっている。晴夫は「猫地獄」と名付けられたその高い岩へむかう道の入口で、純子が来るのを待った。
しばらくして、純子の姿が見えてきた。晴夫は手をふった。
「ごめんね、待たせて」
「そんなことないよ」
「あそこ、行こ……」
「うん」
二人は「猫地獄」へ行く道をとちゅうではずれて、たいらな岩場をかけた。いく筋も岩場が平行にのび、その間の海は波静か。
「水がきれいやね」
「うん」
「あっ、さかな」
「ほんと。あそこにも。あっ、そこにも」
「水のなかのさかなって、だんだん見えてくるんやね、松山君」
「そうだね。目が慣れてくるんかな」
「あそこに貝がくっついてる」
「ほんと。……あ、まだ水すこし冷たいね」
「とらんといて、貝」
「南さんって、優しいんだね」
「だって、せっかくくっついてるんやもの」
「大阪の海って、こんなふうにきれい?」
「ううん。だって、泥の川が流れこんでるんやもの」
「じゃあ、さかなも貝も見えないね」
「そう。手いれる気もせぇへんよ」
「南さんはこの町へ来るまで、ずっと大阪に住んでいたの?」
「そう」
「じゃあ、大阪が故郷なんだね」
「わからへん。私、どこ行っても、よそもんやから」
「どこ行っても?」
「そう」
「でも、南さんの故郷、大阪だろう」
「そやけど、私、よそもんなんや」
「そう。僕もこの町ではよそもの」
「帰りたい?」
「うん。ここで頑張らなければいけない、わかってるけど、でも、やっぱり帰りたい、ほんとうは……」
「帰りたいところがあっていいね、松山君は」
「そうだね。僕、ときどき夢みる。目を覚ましたら、古ぼけた長屋の部屋で、そうだ僕はまたここに帰ってきたんだって思ったら、今度はほんとうに目を覚まして、今の家なんだ。しばらく、ぼーっと薄明かりの天井みてて、涙が出てくる。僕、町の中あっちこっち住んだけど、長屋の家が一番落ちついて好きだった。近くの大学病院に高い煙突があって、ちょっと気味悪い煙突だったけど、悲しい時、煙突見てた」
「やっぱり、松山君も悲しいこと、いっぱいあったんやな。ううん、今もあるやろな。私、松山君が転校してきた時のこと、今でも覚えてるよ。いきなり学級委員に推薦されたり、帰りに難波君たちにずいぶんひどくされてたみたい。私、なんとかしなければなんて思いながら、結局なにもできなかった。難波君たちには、誰も何も言えない。先生だって……」
「的場先生は違うよ。僕もずいぶん助けてもらった。真っ赤な顔して怒ると、難波君たちもこわいみたい」
「私も的場先生には感謝してる。廊下で会っても時どき声かけてくれる。担任の先生だって、私にほとんど話しかけてくれないけど」
「僕も的場先生みたいになりたいけど」
「なれるよ、松山君。だって、松村君や佐藤君とは話すようになったんだもの」
「南さん、よく見ているんだね。ちょっと、算数のわからないところ教えてあげてから、かわったみたい。難波君といっしょだと、そんなにかわらないみたいだけど、いないと、いじわるなんかしないよ。ほんとは難波君だって、優しいんだと思う」
「でも、きっと、私のこと、へんな子だと思ってたでしょうね、松山君。私なに話しても黙ってるし」
「ううん。南さん、僕の机の上きれいにしてくれたり、お掃除だって、すみまで一人できれいにふいてるんだもの。僕、かんしんしてた」
「ありがとう」
「ねぇ、南さん。どうして僕に声かけたの?」
「だって、学校で隣りの席だもの。ずっと」
「それで……?」
「うん。でも、ほんとは松山君なら私と話してくれると思った。松山君みかけて、私、声かけようか迷って、もう、ほんとに思いきって声かけた。でも、声かけてよかった。私、学校でだれとも話しせぇへんけど、やっぱ、ほんとは話ししたいもん」
「どうして話ししないの?南さん、可愛いし、話しもよくするのに。こうして……」
「ありがとう。私もこの町へ来て、はじめは話しをしたんだよ。そやけど、すぐ、だれも話してくれなくなった」
「どうして……?」
「私、まだ言えへん。かんにんな、松山君。でもいつか、きっと言う」

                       (つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑬

小川町が2ページほどの分量で終わったので、《4……錦町》は、それより少ないであろうと、ページをめくったら、何と82ページで始まって96ページまで進んでしまった。
《4……錦町》が15ページに及ぶ分量になった大きな要因は、錦町に「錦輝館」があったからで、中西さんの関心から、書きたいことがいっぱいあったからであろう。話しは『野分』から始まる。
『野分』で主人公白井道也が演説する「清輝館」は、「錦輝館」をモデルにしたことは明らか。中西さんは《錦輝館は、一八九一年(明治二四)一〇月九日に開場した貸ホールで、いろいろな集会に利用された。一階が演説などへの貸会場、二階に料理店があった。》と紹介している。
この後、「自由党大演説会」の記述があって、《その後、錦輝館は草創期の「活動写真」の上映会場にもなったので、多くの人に知られた会館になっていった。》と解説され、《永井荷風の「濹東綺譚」(一九三七年)は、この錦輝館の思い出から始まっている。》と続き、その一節が引用され、映画史研究家・田中純一郎による錦輝館の紹介などが記され、《堺利彦、幸徳秋水が「萬朝報」を退社後、平民社を立て、週刊「平民新聞」を刊行して社会主義運動を始めたが、その演説会場として、神田の「錦輝館」や「東京基督教青年会館」(一九二三年の関東大震災で焼失)を多用したのも、「同地は府下に於て学生の巣窟なれば」というエリアのもつ特性があったからだろう。》と、話題は移って、幸徳や堺をはじめ、大杉栄や内村鑑三、山川均、田添鉄二なども登場し、11ページを超える記述が続き、《錦輝館はその後、映画専門館になったが、一九一八年(大正七)八月一九日、火災で焼失した。》と締めくくられる。
ここで、第Ⅰ部は終り、《第Ⅱ部 メディアと暴動》へと移って行く。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑫

《『門』では、宗助が駿河台下の歯医者に虫歯の治療に通う。》と、やっと駿河台下が出てきたが、話題はすぐに《そこの応接室で、テーブルの上に置かれた雑誌を手にとる。》と、「成効」という雑誌(実在は「成功」)に移る。そしてそれはいつしか片山潜の話題に変わり、金子喜一が出てきて、ついに永井荷風の『あめりか物語』まで登場する。
中西さんの博識が話題をどんどん拡げた感じだが、《こう見てくると、宗助が歯医者でなにげなく手にした雑誌「成功」は、『門』の一つのテーマ――大学進学ができない青年の行く末――をさりげなく暗示していることがわかる。》と、話しを本筋に戻し、大学進学が《「もし駄目なら、僕は学校を已めて、一層今のうち、満州か朝鮮へでも行かうかと思つてるんです」》という『門』の一節を引用し、《この時代、海外で未来を拓こうとする青年たちの「新世界」は、アメリカだけでなく、すでに朝鮮や満州も入っていることがわかる。》と解説している。
中西さんはこの項を、《宗助は、人生の「成功」の道を歩ませてやりたいという親心(兄心)はあるものの、経済的に苦慮する。最後には、大家の坂井家の好意で、弟を書生にすることで問題がやっと解決する、というストーリー展開で、『門』は終わる。》と結んでいる。
漱石が当時の社会をしっかり見つめていたからこそ、書くことができた作品であり、漱石作品の魅力はここにある。スッと読み見過ごしていた一文を、さまざまな資料や文学作品を駆使して解説していく中西さんによって、漱石作品がより「深読み」される。ありがたいことである。
《3……小川町》は《「漱石没後一〇〇年展」(二〇一六年四月、神奈川近代文学館)を見に行ったら、そのロビーで面白い記録映画が映写されていた。》という一文で始まる。「漱石没後一〇〇年展」とは、懐かしい。私の著書『漱石と歩く東京』が販売され、好調な売れ行きに増刷した、嬉しい思い出の企画展である。
そのような私事はさておいて、中西さんはこの記録映画が「小林商店」創業者、小林富次郎(歯みがきのライオン株式会社創業者)の葬儀の記録で、1910年12月16日、《撮影場所は三か所の定点で、柳原河岸の小林商店から出発し、靖国通りの柳原橋では、万世橋・須田町方面と両国方面に頻繁に行き来する電車が繁華街の活気を伝えており、葬列は小川町を左折して美土代町の「東京基督教青年会館」(YWCA会館)に到着。》と紹介している。
「東京基督教青年会館」というと、1914年に亡くなった平出修の永訣式(葬儀)がおこなわれたところとしても知られている。平出は大逆事件(幸徳事件)の弁護人であり、小林の葬儀がおこなわれた頃、裁判は大きな山場を迎えていた。この事件は石川啄木を通じて漱石にも伝えられていたようだが、1912年に啄木が亡くなり、1914年に平出も亡くなった。二人の葬儀には漱石も参列しているが、その漱石も1916年に亡くなった。
小川町というと、漱石ファンなら、『坊っちゃん』の下宿や、『彼岸過迄』を思い浮かべるであろう。中西さんは『彼岸過迄』を取り上げ、若干の文章を書いているが、《停留所をめぐる推理は後に楽しむ(第六章「2探偵小説」)として、ここで注目したいのは、この時代の小川町の繁華なにぎやかさだ。》と、主人公敬太郎が小川町で電車を待っている間に時間つぶしにするウィンドウショッピングの描写に出てくる商店を列挙し、《電車道の両側に並ぶこれらの店舗は、夕闇の中で電灯で輝いていた。小川町は、この時代、銀座と並ぶ繁華街だった。》と結んでいる。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑪

やっと、《第三章 盛り場・神田――銀座の前の盛り場は神田だった》に入る。『漱石と歩く東京』を思わせるテーマである。まずは《1……駿河台下(1)》。
《「駿河台下」は、「御茶ノ水」から坂を下ってきて、「土橋」へ向かう元外濠線の電車とクロスする場所で、神田ではにぎやかな街だ。ここで宗助は、まず、洋書屋の窓ガラスを覗く。(略)通りを渡って、今度は時計屋を覗く。(略)こうもり傘屋、西洋小間物店、呉服店を覗く。(略)角の雑誌屋で新刊書の広告を読み、その隣りの路上で山高帽の男がゴム風船のおもちゃを売っている。一銭五厘で一つ買って、電車に乗って帰る。》と書いた中西さんは、《さらっとした記述で、盛り場・神田の日曜日の光景を浮き彫りにしている。》と続けている。漱石の作品は、文章が簡潔で、短い中に多くが詰まっている。このようなところも私が漱石の作品が好きな理由の一つである。
中西さんはさらに、《「宗助のさびしみは、単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである」。で、宗助の「さびしみ」はどこから来るのか、と興味をかきたてる。》と書いて、《このとき、「駿河台下」には「勧工場」があったはずだが、この日、宗助はそこを覗いていない。》と指摘している。このように言われると、私は「宗助はどうして勧工場を覗かなかったのだろうか。」などと思ってしまう。宗助が勧工場を覗くかどうかは作者の漱石が決めることで、詮索しても仕方ないが、勧工場へ入れば描写が多くなり、時間もかかってしまう。ほとんどウインドウショッピング程度で、それほど神田に長居しなくても、「一週間分が慰藉」されるのであるから、宗助の「さびしみ」はそれほど大きくなかったのかもしれないが、盛り場へ出てきて、一銭五厘の出費で留め置かなければならない宗助の懐具合を示しているとも言える。
中西さんはここで、勧工場に注目し、猿楽町に生まれた作家、永井龍男に言及し、1943年の作品『手袋のかたっぽ』の一節を紹介している。ここでは、駿河台下にあった勧工場東明館が描写され、図版として、東明館と表神保町にあった勧工場南明館が掲載されている。
この辺りには中国からの留学生も多く生活していたということで、話しは周恩来に及んでいく。
《2……駿河台下(2)》は《『門』の宗助の父親は資産家だった。》で始まる。その父親が亡くなり、遺産がどのようになっていったか語られ、弟小六が叔父に預けられ、そしてその叔父が亡くなって、叔母から小六の面倒をみることができないということで、《その善後策を話すために、小六は兄夫婦の家を訪ねることが多くなった。宗助が番町に住む叔母を訪ねる》。この後が、作品の引用で綴られる。
そうか。そうだった。『門』という小説は、弟小六を引き取った宗助夫婦が、自分たちには弟を大学に進学させるだけの収入がなく、あれこれ工面する物語であった。中西さんが指摘したように、国家公務員といっても大学中退の宗助には弟を大学にやるだけの経済力はない。それでは、資産家だった父親の遺産はどうなったか。『門』には、《小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。さうして、まだ保険を付けないうちに、火事で焼けて仕舞った。小六には始めから話してない事だから、其儘にして、わざと知らせずに置いた》。つまり、叔父は不正を働いたのではなく、小六のために資産を残してやろうとしたのであって、それが残っていれば、それを売って小六の学費を捻出することは可能であったのだ。「火災保険に入っていれば、こんなことにならなかったのに」と、何やら「火災保険」の宣伝のようであるが、中西さんは《神田は火事の多い町だった。『千代田区史』(新編)の年表を見てみると、》として、1892年4月10日、猿楽町から出火、4170戸焼失した大火を紹介。この時の大火を書いた田山花袋の文章を引用している。
中西さんは、《これが明治期最大の「神田の大火」だが、資料を調べてみると、この後も何回も火事が起こっている。それだけ火災の多い地域に家屋をもって、事業を手掛けていた叔父が火災保険を掛けないでいた、というのは不思議なはなしだ。この叔父は、かなり山っ気のある人物のようだから、叔母の話はそのまま信ずることができない。》と、叔母の話しに疑問を呈している。私は先程「叔父は不正を働いたのではなく」と善意に書いたが、どうやら私は甘かったかもしれない。遺産を騰貴に使ってなくしてしまい、火事で焼けたとつくり話をしたのかもしれない。おそらく漱石も頭でこのような設定を描いていたのだろう。そう言えば、《小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。さうして、まだ保険を付けないうちに、火事で焼けて仕舞った。》という文章は、本来なら《小六の名義で保管されべき財産は、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。さうして、不幸にして、まだ保険を付けないうちに、火事で焼けて仕舞った。》と、すべきであろう。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑩

漱石は『門』の掲載が終り、1910年6月18日に内幸町の胃腸病院に入院。中西さんは、《啄木は、七月一日と五日にその漱石を病院に訪ねている。五日の訪問は、「漱石日記」に「石川啄木来(スモークを借りに)」と記録されている。》と書いて、「スモーク」とは果たしてなにか?と問いかけ、《漱石にタバコを借りるために入院先の病院に行くとは不思議》と思って調べてみたら、ツルゲーネフの英訳全集五巻に「スモーク」という小説があることがわかったと記している。
この後、なぜその本が必要だったか、二葉亭四迷に話しが及び、当時、朝日新聞社は事故死した二葉亭の『全集』を編集中で、啄木も校正を担当しており、《二葉亭は未発表ではあったが「けふり(煙)」を翻訳しており、その参考のために、》啄木は《漱石所有の英語本を借りに来たのだった》。啄木は、《面会のきっかけを見つけて大作家を訪ねたのだろう。》と続けている。
時すでに、後に「大逆事件」と呼ばれる弾圧事件が進行し始めている。
啄木は9月15日、「朝日歌壇」の選者を託される。渋川玄耳の意向によるという。《ともあれ、この時期に啄木は、時代の「閉塞」状況に苦悩しつつも、自らは歌人としての地位を確立しつつあった。同年の一二月には、歌集『一握の砂』も刊行でき、その一首三行書きでの青春と生活吐露の短歌は注目を浴びていく。》と、中西さん。この後、大逆事件に絡んで、平出修と啄木の交流、啄木の会話採録などを紹介し、啄木が大逆事件の時期、何を読み、何を考え、何を書いたか、詳細に言及し、さらに1911年大晦日から翌年1月2日にかけて敢行された「東京市電大ストライキ」を取り上げ、《『東京百年史』(第三巻、一九七二年)の筆者は、「東京市電のストライキ」の稿を、啄木の日記(一月三日)の引用で終えている。》と、続けている。
啄木の影に主人公の漱石が隠れてしまったかに見えたが、《しかし、啄木自身は、慢性腹膜炎からの結核が進行し衰弱していった。》と書いた後、《一二年一月二一日には、漱石の弟子、森田草平が、夏目鏡子(漱石夫人)の意を受けて、一五円と征露丸一五〇錠を持って見舞っている。》と建て直す。この文章、意地の悪い私は「ほんとうに15円、きちんと啄木に渡したんでしょうね」と突っ込みを入れたくなる。
啄木母、3月に肺結核で死去。4月13日、啄木、肺結核で死去。26歳。それでも樋口一葉より二年長く生きたことになる。4月15日、浅草の等光寺で葬儀。漱石も会葬。
中西さんは、この項を、《妻・節子が記録した啄木(石川家)最後の八ヵ月の金銭出納簿によれば、この時期での最大の収入は、四月一三日の「お香奠」一二〇円だった、という(岩城之徳の調査による)。》という文章で締めている。
なお、その後について、私も少し調べてみた。節子も1913年、肺結核で28年の生涯を閉じた。啄木と節子の間の男の子は夭折。長女は24歳、次女は19歳で他界。長女は子どもをふたり産んでおり、ひ孫の真一氏は2019年に建てられた「盛岡・文京区友好都市提携記念碑」(盛岡市)に揮毫している。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑨

電車運賃値上げに対する反対運動には当時の社会主義者も関わっている。そこで中西さんは《漱石は社会主義者?》の一項を設けている。
中西さんのすごいところは、さまざまな文献を紹介していることで、この項でも、黒岩比佐子『パンとペン』、『都新聞』(1906年8月11日付)、森長英三郎『史談裁判』など登場し、日本社会党の「電車値上反対意見」のチラシの写真も掲載されている。もちろん、漱石の『野分』も。漱石が「社会主義」を「社界主義」と書いていることや、漱石の代わりに鏡子夫人が反対デモに参加していたというのは誤報であるという、興味深い記述もある。
後は、直接読んでもらう方が良い。ネタバレしたのでは申し訳ないので、私が『漱石と社会主義』と題して書いた文章を掲載する(と、格好良いことを言いつつ、自分の文章を売り込もうとしているだけかもしれないが)。

《伊藤さんみた様な人は、哈爾濱へ行って殺される方が可いんだよ》《伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ》。小説『門』でこんなことを書いた夏目漱石は、伊藤博文の後を受けて千円札の肖像になった。伊藤が哈爾濱(ハルピン)で暗殺されたのは1909九年。『門』はその半年後に書かれた。朝鮮を植民地化していく日本に対する痛烈な批判である。
漱石は社会派作家である。それも「その筋」から言わせれば、かなりの危険分子である。漱石が小説を書いたのは、日露戦争から第一次世界大戦までの12年ほどの期間で、資本主義発達期の日本は、同時に多くの苦難を庶民に与え、労働運動や社会主義運動がわき起こった時期だった。
1906年に起きた「東京市電運賃値上げ反対運動」を題材として取り入れた『野分』(1907年)で漱石は、《「人を救うって、誰を救うのです」「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。(中略)」「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから・・・」「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」》。主人公と妻の会話である。
漱石は電車事件に関連して、知人に宛てて「自分は値上げ反対の行列には加わらないが趣旨は賛成であり、自分もある点において社会主義であるから、堺利彦と同列に加わったと新聞に出ても驚くことはない」といった内容の手紙を書いている。
漱石は留学中のイギリスでマルクスの『資本論』第一巻を購入して読んでおり、「欠点はあると思うが、こうした考え方が出てくるのは当然のこと」との感想をもっている。
1915年、漱石は衆院選挙に「女子参政権、軍縮、言論・思想の自由」を掲げて立候補した馬場孤蝶の選挙応援をおこなった。

ここへ来て、ついに石川啄木が登場する。《啄木が『門』を校正》と題する項である。
《石川啄木が、東京朝日新聞社の校正係に就職したのは、一九〇九年三月一日。啄木、二四歳のときだった。》と書き出した中西さん。啄木の朝日入社は、同郷の朝日新聞編集長佐藤真一へ手紙で売り込んだのが功を奏しての採用で、啄木は生活上30円必要と条件提示しているという。啄木は佐藤と面識がなかった。
実際啄木が校正係として受け取った給料は25円で、途中から27円になったが、《ここからが啄木の短い生涯のなかでもっとも生活が安定した時期だと思われるが、借金の返済などで困窮はつづき、月初めには毎月給料を前借りしている。母、妻、長女を呼び寄せて、本郷区弓町の床屋の二階二間を借りて生活し、そこから、電車で京橋区滝山町の朝日新聞に通勤した。》と中西さん。この後、啄木の短歌二首を紹介し、《啄木が校正係をしていたとき、漱石の『それから』と『門』が、朝日新聞に連載された。その校正を啄木も担当し、『それから』を一番はじめに読んだのは僕だ、と日記に書き残している。》と続けている。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑧

秋水の後は《「坊っちゃん」、街鉄に就職》。
中西さんは当時発生した「電車事件」に関して、《「電車運賃三銭」は、馬車鉄道の動力を電気に転換させ、さらに電車申請で「雨宮派」の発起人のひとりとなって「街鉄」の開業にも貢献した藤岡市助の提案で実現していた。》と書いて、藤岡が同一料金で全国一律のサービスをしている郵便にならって全線一律三銭を主張したと説明している。これが三社合併を見越して、三社全線利用可能としたうえで、五銭に引上げようとして市民の激しい抵抗にあうことになったのである。
現在でも東京では、地下鉄が東京メトロと都営地下鉄に分かれており、当時の市電が三社に分れていた不便さは理解できる。三社共通になれば、今まで3銭+3銭で6銭かかったところが5銭になるからありがたいが、同じ社内で今まで3銭で行くことができたところも5銭になり、これは明らかに値上げである。市民はメリットよりデメリットの方に強く反応したのである。
中西さんもこの項では小池滋著『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』を紹介している。私もこの「勝手に漱石文学館」の【館長の部屋】に、「『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』に紹介された漱石」と題して文章を書いている。2023年。この年の4月13日に、小池滋先生が逝去されている。
ここで、私の文章を再掲する。――
『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』とは、何と漱石ファンの歓心を誘うタイトルであろうか。「日本文学の中の鉄道をめぐる8つの謎」という副題がつけられ、田山花袋、永井荷風、佐藤春夫、芥川龍之介、宮沢賢治、山本有三と言った作家の作品も紹介されているが、やはり漱石を前面に出した方が「よく売れるであろう」という出版社の親心だろうか。
この本の著者小池滋は有名な「鉄道先生」である。もちろん本業は漱石と同じ英文学者だが、漱石同様、副業の方が面白くなったようで、《もっと正統的な文学研究や教育活動に使うべきだとは、重々わかっている。》が、《それなのに、わかっちゃいるけどやめられない》。そこでついつい、《ある作品を読んで面白かったと満足すると、その作品を目を皿のようにして読み返し、作者が書いてくれなかったこと、ちらとだけ書いて止めてしまったことなどをほじくり返して、もう一度別の、あるいは裏の物語をでっち上げたくなる》。これが《わたしのくせなのだ。》と、小池は言う。私も鉄道ファンであるが、どうも鉄道ファンというのは、レールからはずれることが好きなようだ。
坊っちゃんは「街鉄」(東京市街鉄道)の技手になった。理科系の学校を出て数学の教師だったから、転職先として理工系の仕事を選ぶのは納得できるが、なぜ「街鉄」なのか、《漱石先生は何も教えてくれない》し、《一般読者もあまり気にしていないらしい》。しかし、小池の「くせ」でそこのところが気にかかる。気にかかるから調べてみたくなる。調べてみたら知らせたくなる。その結果、本に書いて出版したくなる、というわけだ。
本書はとくに番号がついているわけではないが八つの章から成り立っており、その第一が書名にもなった『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』である。この章は前置きと、六つの項目で構成されているが、本論の大きなテーマである坊ちゃんが市電の技術者になった理由に絞ってみていきたい。
坊っちゃんは旧制中学校の教師をやっていた。四国辺の学校はもう嫌だから東京へ戻りたいというのなら、東京に教職を得る努力をしただろう。実際、漱石は東京に教職の口を求めて画策した。けれども坊ちゃんは問題を起し、辞表を叩きつけて飛び出して来たのであり、坊っちゃん自身も、二度と教師なんかになるものかと思っていただろうから、転職先に教職を選ぶはずがない。「だが」と小池は言う。《退職金を貰ったわけではないから長いこと無職では暮らせない》。『坊っちゃん』を読んでも退職金のことまで書いてない。書いてないが、登場人物を一人の人間として見る限り、ここのところは重要である。作家はすべてを書くわけにいかないから、省略や編集をおこなわざるを得ない。けれどもそのように省かれたところに関心をもって見ると、登場人物も身近になり、一人の生きた人間になる。私も、「どうやってそこまで行ったのだろうか」と気になって、何日も調べまわすことがよくある。それが小説を読む楽しみでもある。結局、すぐに就職するとなれば、《民間会社の技術者というのは賢明な選択である。》と小池は記している。
それでは、どうして選択した職業が「市電」の技術者だったのか。
東京で最初の市電営業は1903年で、東京電車鉄道(東鉄)が新橋―品川の運行を開始した。一か月遅れて「街鉄」、翌年には東京電気鉄道(外濠線)がそれぞれ営業を開始した。
『坊っちゃん』が書かれたのは1906年である。「市電」の会社は出来立てで、伸びしろのある、未来のある職場である。路線はどんどん拡張されていき、人手も大いに必要だっただろう。坊っちゃんのような人物でも、採用される可能性はきわめて大である。小池も《漱石は鉄道には興味ないかもしれない、あるいは嫌いだったかもしれないが、鉄道に全く無関心だったとも言えないだろう。東京市の文明開化の先端を行く市内電車については、おそらくかなり関心は持っていたと考えることができる。物理学校出の天才の就職先として、テクノロジーの先端産業を思いついたのも当然ではなかろうか。》と書いている。
それとともに小池は、《もう一つ、漱石が当時東京市電に関心を寄せずにいられなかった事情があった》として、市電の運賃値上げに対する市民の反対運動をあげている。
この反対運動の顛末について小池は、最初から街鉄は全線三銭の均一運賃を採用し、東鉄も外濠線も当局の強制で三銭均一にさせられ、けれどもこの運賃設定では採算がとれないことが判明し、1905年に各社代表が集まって五銭均一を申請。この値上げに市民が反発し、1906年3月には電車焼き討ち事件まで発生したと説明している。つまり、《当時市民の話題はこの事件でもち切りであった。だから、「坊っちゃん」の再就職先をどこにしようかと考えた時に、東京市電の三会社のことが頭に浮かんだ》と小池は推理する。
それでは、市電三会社の中で、選んだ会社がどうして「街鉄」だったのか。他の二社も受けたが不採用で、街鉄だけ合格したという推理も面白そうだが、そこまでイメージを膨らませる必要もないだろう。小池の推理は、《このように市民に親しまれた市電三社の中で、おそらく漱石先生が、いちばん多く利用したのは街鉄であったろう。》と、直球勝負である。当時、東鉄の路線は下町、外濠線は外濠の周りに限られ、街鉄のみ山の手から下町まで網羅する路線をもっていた。
坊っちゃんが就職した街鉄も、1906年、他の二社と合併して東京鉄道会社になり、1911年には東京市電気局になった。坊ちゃんが街鉄の職員だった期間はきわめて短い。そして、民間会社に就職したはずの坊っちゃんも、いつしか東京市の公務員になってしまったのである。小池は《あのような気性の人間が、はたして市役所のような大きな組織の中で、うまくやって行けたのかどうか、これも心配になるのだが、そこまでお節介を焼いていたらきりがない》と宣言している。
なお、小池は市電会社における坊っちゃんの「技手(ぎて)」という職務内容を、《油にまみれて現場で修理などをする職工や運転手よりは上で、そういう現場労働者に命令したり、監督したりする役》で、《大学出の学士なら幹部の技師になれただろうが、専門学校卒業なので中間の技手で我慢せねばならなかったと思われる。》と書いている。まあ、坊ちゃんのことだから、見るにみかねて、現場へ飛び込んで行って、油にまみれて修理する姿が見られたかもしれない。
小池は『坊っちゃん』以外の作品についても、『彼岸過迄』『それから』など市電が重要な役割を担っているものがあるとして、《市電について注目なさって、その面から検討を加えることをおすすめしたい。》と文章を締めくくっている。当「勝手に漱石文学館」では、鉄道ファンの地理屋として、市電をはじめ実に多くの鉄道が登場する。ぜひ、探して楽しまれることを「おすすめしたい」。
(小池滋著:『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』、発行所:早川書房、発行年:2001年)

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑦

カネに潔白な漱石は、しかしカネにまったく興味がなかったわけではない。もらうものはもらう。カネは何より生活のために必要だ。そのような漱石は株をもっていた。私の父は、ある製紙会社の株をもっていたので、私も子どもの頃、新聞の株のページを見て、その製紙会社の株価を確認していた。その延長線上に今、私が株をもっていても不思議はないが、1株ももっていない。所詮、大したカネもなく、株を買っても実入りは少ない。株価の上がり下がりに一喜一憂するより、40%引きのシールが貼られるのを待って買う方が得策である。
このような私だが、漱石の作品を読んでいると、「私も株をもってみようかしら」と思わされる。中西さんは《「街鉄」「外濠線」の株》という一項を設けて、『吾輩は猫である』における株の記述を紹介し、《維新から三〇年を過ぎ、日清、日露という大戦争を経て、二〇世紀に入った日本の資本主義は、中産階級以上の者に株式への強い関心を生み出していたといえよう。》と述べ、『猫』に出て来た街鉄や外濠線の株に関連して、《さて、ここで、東京の都市交通の発展とその経営について調べてみる。》と、話題を移す。
中西さんは、《明治期になって、まず出現したのが人力車であった。》と書いて、柳田國男の『明治大正史世相篇』、松原岩五郎の『最暗黒の東京』を紹介。続いて鉄道馬車、そして路面電車へと。急速な成長に、《庶民が、鉄道株は高騰して儲かるという期待をもっても不思議でなかった――苦沙弥先生の書斎での株談義には、こうした背景があった。》と中西さん。ここに1903年8月1日の電鉄・街鉄・外濠線各社の株価が紹介され、《この時点では、額面二五円が五八円にもなっている「街鉄」株の高値が目立っている。『猫』の鈴木藤三郎のように「街鉄」六〇株をもっていれば、かなりの資産になっているといっていい》。このような背景を知ると、漱石の作品を2倍楽しく読むことができる。
と、ここで《幸徳秋水の電車株疑惑》というショッキングな見出しが飛び込んで来る。
電車株疑惑は東京市街鉄道(街鉄)を市営に移管するかどうかの中で起きてきたもので、街鉄の「権利株」は人気株。中西さんは、《その「権利株」数株の権利を手に入れた小泉三申が、そのうち何株かを秋水に譲ったと推測されるが、日常の生活費にも窮していた秋水は株を買う現金をもっておらず、その「権利」を三申の知人に売って、金を手に入れた、ということではなかろうか》と秋水の電車株疑惑の実相を推察し、「リクルート未公開株疑惑」に似た「醜関係」の中で、秋水は筆を曲げて市営反対の論陣を張った。なぜなら、《私営でなければ、「街鉄」株は存在しないことになる――政争がここにある。》と、秋水の名を何度も登場させた漱石も書かなかったことを、中西さんは書いている。そして、『時至録』に秋水が書いた自身の生計費について紹介している。
秋水の収入は、花形記者だけあって月給60円と高額だが、借金の返済なども含め、毎月5円ほどの赤字。こうした《日常の金銭不足のなかで、政治の裏金の誘惑に勝てなかったわけだ。》と、中西さん。「裏金疑惑」は事実だったということだろうか。私には、支出の中で、《「関係を断つための」お茶屋の遊蕩料二〇円余で、》という一文が引っかかる。ここにはどのような「関係」なのか書いていないが、とかく吉原遊郭との噂が絶えない秋水であるから、「お茶屋」、「遊蕩」などの文字はそれを裏付けるかのようである。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑥

やっと、36ページ「第二章 電灯と電車」の章に入った。このペースだと、いつ終わるのか、予想もつかない。
《電気の文明――原発事故から》と、冒頭から大きなテーマ。一挙に現在まで引き戻されて、『門』はいったいどこへ行ってしまったのか。中西さんは、歴史学者、三谷太一郎の『日本の近代とは何であったか』を読んで、三谷が「あとがき」で漱石の『思い出す事など』を引用していることに言及し、続いて、《三谷が研究生活の最後にたどりついた視点は、次の文章にあらわれている。》として、その箇所を紹介し、中西さんの論評を加えている。
まず、《「原発には、現在および将来の日本の資本主義の全機能が集中していた」という評価はいかがなものか。》と問いかけ、《三谷はつづけて、原発事故は「強兵」なき「富国」路線を進めてきた戦後日本の「電力を産出するエネルギー資源の供給の危機を顕在化させた」と書くが、この視点は、日本の歴史学者たちの歴史観への反省でもある。政治、制度、外交の分析を主たる目標にしてきた歴史記述では、エネルギー問題は軽視されてきた。考察されるとしても、それは石炭、石油資源の獲得といった記述で、電気という文明が、時代と生活をどう変えていったかという分析は皆無にひとしかった。》と、何やら漱石からどんどん離れていきそうだ。が、中西さんは、《その視点を、漱石の小説で考えてみたい。》と、話題を漱石へ引き戻す。テーマは《ランプから電灯へ》に移る。
まず、明治期における電力の普及状況を年表風にたどり、《漱石の新聞連載小説のなかで、作中の年代(物語時間)が最も早いのが、『道草』だ。》として、新聞連載は1915年だが、作中年代は1904年から05年で、《無心に訪れた養父・島田が、主人公の健三の家でランプの芯の具合を確かめるシーンが印象的だ。》と書いて、中西さんはその箇所を引用している。
その後、『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などの作品にランプから電灯への変化をみているが、合わせて、勝手に漱石文学館「常設 漱石気分」の『26.漱石が描いた「現代」生活①』も、ぜひ読んで欲しい。
続いては《首都の動脈・電車》。ここで、中西さんが、森鴎外が漱石の『三四郎』を意識して書いた小説『青年』について、《Y県から上京した青年、小泉純一に、東京を歩くために「東京方眼図」という手製の地図を利用させている。その方眼図に電車の路線が書き込まれているので、「お上りさん」にとって便利な案内図になっていた。漱石の三四郎は東京の電車に迷い迷いしながら慣れていったが、鴎外の純一は「方眼図」を片手に颯爽と目的地に向かったであろう。ふたりの作家の素質のちがいが出ていて面白い。》と紹介していることが印象に残った。鴎外と漱石は何かと対照的に比較される同世代作家であるが、電車の描き方も対照的であるようだ。もちろん、漱石自身は「方眼図」などいらないくらいに、東京の地理にも、電車の路線にも精通していた。精通していたからこそ、三四郎に正確に「間違えさせる」ことができた。この項でも、勝手に漱石文学館「常設 漱石気分」の『16.~19.漱石と路面電車①~④』を、合わせて読んで欲しい。
中西さんは《電車の発達と普及は、地理的な行動範囲の拡大だけでなく、電気灯で明るい車両が闇のなかを走るので、夜の克服、つまり生活時間の大幅な延長をも意味していた。》として『それから』の一節を引用し、《こうした都市生活の夜間の行動を可能にする「二四時間化」は、今日まで世界の大都市での共通な現象である。それと同時に、もうひとつ見逃せないのは、電車が時代の進歩を表す新しい速度を象徴していたことだ――明かりとスピード、これこそが新時代なのだ。》と指摘している。
ここで私が思い浮かべるのが『濹東綺譚』(1937年刊)である。荷風は《わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。》と書き、《吉原遊郭の近くを除いて、震災前東京の町中で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外はなかった。》と続けている。そして荷風は、《現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと》いう帚葉翁の言葉を紹介している。そしてこのような深夜に及ぶ活動は、電燈の普及と電力の安定供給なくして実現しない。
漱石の時代から荷風の時代を経て今日へ。「眠らない街」はますます進化し、それは電力の安定供給の実現と深く結びついている。漱石の作品の延長線上に現代があるからこそ、その作品が「現代に生きている」。それが漱石の作品の魅力でもある。漱石は「今」を忠実に描いたからこそ、私たちが生活する「今」も生きている。私にはそう思える。
中西さんは《首都の動脈・電車》の項の終わりに、《『門』は、この『それから』のテーマを引き継いだ連作なのだが、『それから』が電車の「速度」のなかでの赤い「焦げる焦げる」という官能的な描写で終わっているが、他人の妻との恋というテーマを引き継いだ『門』のほうは、電車の終点からぬかるみ道を歩いた所での薄暗く、寒さに身を細めての落魄した暮らし、という対比になっている。季節でいえば、『それから』は夏、『門』は冬、という対比だ。》と書いている。私は二つの作品をこのように対比して考えたことはないので、新しい視点を与えられた気分だ。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む⑤

《小説『門』は、同居するようになった宗助の弟・小六の帝国大学への学資をいかに工面するかが、物語のテーマの一つだ。下級とはいえ国家公務員がその月給で家族一人を国立大学に進学させることができない、というのは不思議ではないか。》と、中西さんは問題を投げかける。
内閣制度が発足した1886年当時、《奏任官の初任給(六等)の年俸四〇〇円から六〇〇円(月々三三円から五〇円)なのに対し、判任官(一〇級)は月給一二円。キャリア組は、ノンキャリアの三倍から四倍の高給を取っていたことになる》。その後、1898年に給与改定がおこなわれ、増額されたが、その後、《日露戦争に向けての軍事費の増大、戦後の国債の返還などで国家予算は圧迫され、官吏の給与には大きな変化がなく、物価の高騰などで下級官吏の生活の苦しさは増していった》。中西さんは、《日露戦争後のこの時期、官吏の俸給の低さが一つの社会問題になっていた。》と書いているが、漱石がこのような問題意識をもって、作品を書いていたことがわかる。それとともに、宗助が大学中退の官吏として設定された事情がみえてくる。
中西さんはこうした官吏のおかれた状況を東京朝日新聞(1907年12月29日、「生活難」という連載記事)から引用し、《この「生活難」を訴える官吏は、給与からみると、判任官六級の中級の役人である。中級でも、両親、夫婦離別しなければやっていけないほどの薄給なのだ。「判任の中位」でこういう生活だとすると、野中宗助の場合はどうか。》と問いかける。漱石の作品が当時の生活する人間を描いているからこそ出てくる問いかけであり、漱石が「社会派作家」である所以である。
宗助の場合、《弟・小六を自分の家に置き、大学に通わせ、月々の小遣いをねん出することができるかを、宗助とお米は相談するが》、結論的に「到底駄目だね」「何うしたつて無理ですわ」ということになる。中西さんは《『門』には、いろいろな値段、物価、金銭勘定がかなりこまかく記述されているが、宗助の月給となると、薄給だったことは推測できても、その金額自体は言及されていない。》と書いているが、《宗助の月給を知ることのできる記述が、小説の最後に登場する。》として、その箇所を引用し、この時点の設定が1910年と考えられるので、2月8日に政府が固定されていた官吏の増俸を実行し、全官吏が20~30%増俸したことが背景にあるとみて、《ここで宗助の月給を計算することができる――昇給が五円。原則の二割五分ではない、ということは二割の増給とみていいだろう。二割が五円、ということは本給は二五円だったと推定される。判任官の二五円は七等にあたる。宗助とお米は「結婚して六年」で、入省時の一〇等(月給一五円)から八等まで昇格していたことになる。この増俸で宗助の月給は三〇円になったことになる。》と推定している。1895年に松山中学に赴任した時、漱石の月給は80円、五高では100円、1907年に朝日新聞社に入社した時、漱石の月給は200円。宗助の給与とあきらかに異なり、宗助の生活難とかけはなれたところにいた。そのような漱石が書いた《『門』のリアリティはどこからきたのか?》――どこからきたのか、私にもわからないが、それが「他者のイメージ化」、自分ではないものを自分事として思いやって想像していく、小説家として必要な能力を、漱石もまたしっかり持ち合わせていたということであろう。
中西さんはさらに、「月給25円の生活程度」について検証を試み、「表4『門』の金銭一覧」なども掲載している。また、「借家・野中家の間取り」図なども掲載しながら、東京朝日新聞1907年10月13日付の「家賃引上の狡策」という記事を参考に、宗助の家の家賃を10円と推定し、《月給二五円で家賃一〇円、収入の四割が家賃、というのは高すぎないだろうか。》と疑問を投げかけ、残り15円で何が買えて、どのような生活ができるか、試算し、《家賃、米代を除いて、月々一〇円でのやりくりはラクではなかろう。真冬になっても、宗助の古い外套や穴のあいた靴の新調はままならない。》としている。これでは弟を帝大に進学させるのは無理である。そして、このような生活感覚が100年以上経った今でも共感できるのであるから、漱石の作品は素晴らしいというか、庶民の生活実態が何も変わっていないということを示しているというか、いまだに根強い漱石人気はこのようなところにあるのだろう。それにしても、これだけしっかり家計の分析をできるのであるから、中西さんは「家計のやりくり上手」であると推察される。
私が疑問に思うのは、このようにギリギリの生活をしている野中家で、下女を雇っていることである。お米は勤めに出ているわけではない。俗にいう「専業主婦」である。家事一切、下女に頼まなくても自分でできたはずである。確かに漱石の家では下女を雇っていた。窮屈と言いながらそれなりの収入があり、来客も多い家だから鏡子一人ではたいへんだろう。けれども漱石の作品では多くの下女が登場し、野中家のような生活状態の家もいくつか含まれている。漱石の中では、下女のいる生活は当たり前で、何の疑いもなく作品に登場させたのであろうか。当時の「下女事情」。中西さんに訊いてみたいところである。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む④

第一部「東京の暮らし」は第一章「家計」。副題に《国家公務員でも弟の大学の学費を払えない!》と書かれている。「いやいや、今だってムリでしょう。」と、つっこみを入れたくなる。大学の学費が高いのは、この日本において100年以上変っていないようだ。
中西さんはまず、《宗助・お米の住んでいた「山の手の奥」》を検証している。このようなところに関心を示すことに私は「頼もしい味方」を得た気持ちになる。中西さんは「山の手」と言うと、今では山手線の外側を指すので、早稲田あたりを「山の手」と呼ぶのは現代の読者には違和感を与えると思ったのか、『門』の頃は早稲田あたりが「山の手」で、第一の「山の手」が本郷・小石川・上野あたりで、しだいに周辺部へ移動していった、歴史的に推移を紹介している。
また、中西さんは「電車の終点から歩くと20分ほど」という記述を頼りに宗助たちの家がどこにあったか推定しようとしている。私も同様である。ところが、中西さんの文章を読みながら私は冷や汗をかいている。私は大曲・江戸川橋間の電車開通を1911年としており、『門』が書かれた時、当然、終点は大曲。中西さんは江戸川橋まで1907年開通。中西さんは『門』が書かれた1910年当時、電車は江戸川橋まで来ているが、宗助夫妻が当地に住むようになったのは1906~07年頃で、その頃の終点は大曲。このような細やかな検証が好感もてる。中西さんは「電車の終点から歩くと20分」は江戸川橋からと考え、《漱石が『門』を執筆していたときは江戸川橋まで延びていたので、漱石の思い違いであろう。》としているが、大曲からでも設定地まで徒歩20分くらいで行くことができる。漱石が早稲田南町に引っ越したのは1907年で、その頃はまだ大曲が終点。そこから歩いた感覚で、20分は妥当な数値であろう。
私の冷や汗は電車の開通年の違いである。ウィキペディアなどを見ても、江戸川線は飯田橋・大曲が1906年、江戸川橋まで1907年。私は江戸川橋まで1911年。『彼岸過迄』の終点は江戸川橋で、私は開通間もない路線に主人公を乗せたと考えた。ウィキペディアなどの情報によると、数年前に開通していたことになる。どうも私は「漱石と歩く東京」の東京市電に関する記述を一部修正しなければならないようだ(小石川表町・大曲も1910年でなくて1909年)。ただ私は漱石という人は新たに開通した路線に登場人物を乗せたがる習性に一縷の望みを託したいと思う。
私は宗助夫妻の自宅を推定できれば、概ね満足できるが、中西さんは宗助の職業に関心を示す。宗助は大学を中退して広島、福岡で地方採用の役人を勤め、大学時代の同級生にひろわれて、東京の本省に引上げられた内務省の下級公務員であると、中西さんは推定し、《宗助が通勤していた内務省から内堀沿いに少し南下すれば「馬場先門」駅があり、この赤煉瓦のビジネス街になるのだ。》と、続けている。赤煉瓦のビルが建ち並ぶ道は「一丁倫敦」と呼ばれた。
中西さんは、《本省勤務とはいえ、雨水が浸み込む穴のあいた革靴を履いた下級官吏には場違いの「一丁倫敦」といえる。》と書いた後、《漱石は、このときの宗助にはこの三菱エリアを歩かせていないが、希望をふくらませていた大学生時代、夏季休暇で帰京した宗助の就職活動での会社訪問をさりげなく叙述している。》として、その箇所を引用している。つまり、大学時代、宗助は官吏になるか実業家になるか判然としないまでも、前途洋々として煉瓦街でも就活をおこなっている。結果、宗助の今は、穴のあいた靴をはいて歩く下級官吏。当時の知識階層のひとつの姿を漱石は巧みに描き出したのであるが、『門』を読んだ私が完全に読み落としていた。私があまり関心をもたなかった証しである。
宗助が入学したのは京都帝国大学だが、生まれは東京のようだ。そして、彼の前途洋々を突き崩したのが友人の妻を略奪したことであり、結局大学は中退。広島、福岡と「西へ西へ」と「都落ち」していった。それは自らが蒔いた種、自業自得であるが、漱石はそのように設定した主人公を、当時の社会の中でしっかり描いている。そのように設定から中西さんは、《大学中退の宗助は、旧制高校卒の資格で受験し、中央官庁の地方支所の職員に採用されていたと推定される。》として、宗助の月給がいくらくらいであったか、明らかにしようと試みている。このあたりも私の視点にはなかったところであり、学ぶところが大きい。

(つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む③

こうして、ヘッセへ行きかけた話しを何とか漱石に戻して、小見出し《「日露戦後」の社会》の冒頭。《『門』が「朝日新聞(東京・大阪)」に連載されたのは、一九一〇年(明治四三)三月一日から六月一二日だが、小説内の時間は、その前年の〇九年一〇月末から始まっている。伊藤博文のハルビンでの暗殺(一九〇九年一〇月二六日)が夕食時の話題になっているので、時間が特定できる。》と書き出した中西さんは、《漱石のほとんどの新聞小説は、描かれた時代が掲載時のほぼ半年前から前年という同時代性が大きな特徴だ。そのことが、小説を丁寧に読めば、そこからその時代の世相を読みとることができる、という性格をもっているのだ。》と続ける。漱石について論ずる時、この視点はきわめて重要であると私は思う。まさに漱石を社会派作家と評する所以である。
今、漱石が新聞小説を書いていれば、岸田首相が出てきたり、能登半島地震に関する論評が出てきたり、プーチン大統領やネタニヤフ首相がやり玉にあがったり、「裏金問題というのが、ありましたでしょう。ところが裏金は裏にあるから裏金で、明るみに出りゃ、そりゃもう、あなた、表金ですよ。」などというセリフが出てくる。「若者たちは、何百万という借金をかかえて世の中に出てくる。これでは結婚も子育てもままならない。これは国家的損失である。」と言った文章もみられる。当時の読者はこのような感覚で漱石を読んでいた。そう、私は推察する。
中西さんは、《漱石の小説は、ほとんどすべて「日露戦後」の時代の小説でもある。》として、当時の日本を経済、社会の面から総括的、かつ簡潔に述べている。そして、中西さんが朝日新聞に勤め、マスメディアの一翼を担ってきたということもあって、当時の新聞メディアの発達にも言及し、漱石が《毎年毎年、日露戦争後の都市民衆に小説を提供し、中間層を中心に部数増加に貢献することになる。》と記している。
明治末期当時の社会に目をむけた話しは、「縁側での会話から」で、突然日常の何気ない生活に引き戻される。縁側に座ったり腰掛けたりの会話は、かつての日本の定番だったが、今その縁側はほとんど見かけない。チコちゃんと岡村が会話する場面に痕跡を残す程度であるが、確かに会話にはもってこいの場所である。
中西さんの文章で私は初めて気づいたのであるが、『門』は宗助たちの家の縁側の場面から始まり、縁側の場面で終わる。穏やかな場面で始まり、穏やかな場面で終わる。荒天の日の縁側は会話どころではない。締切らなければならない。チコちゃんたちはスタジオの中だから常に好天を演出できるが、穏やかな陽だまりが縁側の会話には付きものである。
『門』は穏やかな縁側の間に、宗助たちの波乱万丈の人生が挟み込まれているが、そのほとんどが個人的な要因によるものでありながら、漱石はそれをしっかり社会の中に位置づけている。個人を社会の中で捉えている。中西さんはそれを400ページに近い本の中で実証していくのである。漱石は黎明期の日本資本主義と帝国主義・国家主義にしっかり向き合ったからこそ、今の時代にも漱石は「現役作家」として生き続けているのである。
『門』は《「うん、然し又ぢき冬になるよ」と答へて、下を向いたまゝ鋏を動かしてゐた。》という一文で終わる。この時すでに後に「幸徳事件(大逆事件)」と呼ばれる出来事が進行し始めており、時に陽が射す時があっても、日本は35年に及ぶ長い冬の時代を迎えることになる。縁側にはすでに冬が迫り来ていたのである。

                (つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む②

「漱石『門』から世相史を読む」の目次を見ただけで共感をおぼえ、400ページ近い本を読み終えてしまった私であるが、やはり私は書くことが好きである。今度は書きながら、もう一度読んでいくことになる。

「漱石『門』から世相史を読む」の巻頭にあたる「はじめに」では「『門』を読んで考えた」と題して、《夏目漱石の『門』は地味な小説だ。》と切り出し、《ふたりの男女が所帯をもって、東京の片隅に移り住んで、肩を寄せ合って生活している、というただそれだけの物語だ。》と続け、《こんなわびしい小説を、なぜか、読書の達人たちが高く評価するのだ。》と一連の文章を締めくくっている。
そして中西昭雄さんは、《『坊っちゃん』『三四郎』『こゝろ』が私たちの青春時代の漱石体験だとすれば、『門』を読んだ人は、おそらく青春がすぎて、漱石とふたたび出会った人ではないだろうか。》と、推察している。
私自身を振り返っても、私が高校時代触れた漱石作品は『こゝろ』であり、それも夏休みの宿題として読書感想文を書くためで、半ばイヤイヤ「書かされた」ものである。高校などの読書感想文や放送コンテストの朗読課題で、漱石作品として選ばれるのは『坊っちゃん』『三四郎』『こゝろ』で、『門』が選ばれることは、皆無と言ってよいだろう。
私も半ば強制的にでも、『こゝろ』という漱石の作品に接したものの、そこで漱石も近代文学も卒業して、長らく触れることはなかった。ところが中年を過ぎて、「東京」をキーワードに私は漱石と出会い、のめり込んでしまった。私の場合は、東京の出てくる作品を、『吾輩は猫である』から順次読み、『坊っちゃん』や『三四郎』も『門』も、通過する一作品であったが、若い頃なら『門』あたりで挫折して、その後の作品に触れることはなかったかもしれない。「青春をすぎて」接したからこそ、『門』をくぐり抜けることができたのであろう。
私は高校で『車輪の下』を読んで、すっかり作品の中にはまり込み、大学に入ってヘルマン・ヘッセの作品を読み漁った。学長が「学生たるもの本を読め。1年に100冊以上読め」と入学式で訓示したことも引き金となった。結果、毎年100冊以上、4年間で400冊以上の本を読んだが、ヘルマン・ヘッセの作品は当時、日本語で刊行されている作品すべて読んだ。古本屋を活用したこともあって、戦前・戦中に出版され、ところどころ××と伏字になっているものもあって、戦後出版されたものが手に入ると、何が××にされたか調べるのも面白かった。
日本にもヘルマン・ヘッセのファンは多く(すでに「多かった」と過去形になっているのかもしれないが)、ほとんどが青春時代に読んだ『車輪の下』や『デミアン』などが入口となったと思われる。漱石の『坊っちゃん』『三四郎』と同じである。
今、私がもう一度ヘッセの作品に立ち返り、『ガラス玉演戯』など読んだら、何か新しい発見があるかもしれない、と思いつつ、ヘッセは一貫して「青春」を描き続けたように思われる。そして、青春を過ぎたヘッセを見い出すのは小説ではなく、エッセイ。『庭仕事の愉しみ』からは多少なりとも老境に入ろうとするヘッセが感じとれるだろうか。詩を集めた「花の香り」には、
―― ヘリオトロープの香りは
夢中に踊ったあとみごとに
ほどけた女性の髪の毛の
濡れた輝きのように
黒く すばらしい魅力をもつ。 ――
そう言えば、『三四郎』の一節に、ヘリオトロープが出てくる。

                (つづく)
【館長の部屋】 漱石『門』から世相史を読む①

ある日、「漱石『門』から世相史を読む」(作品社)という分厚い本が私に宛てて送られてきた。送り主は何と著者の中西昭雄(なかにし・てるお)さんである。どうしてまた、と思ったら、私の書いた「漱石と歩く東京」を引用したからだという。
指示にしたがってページを開けると、確かに私が描いた地図が載せられ、本文には《小川町の交差点を下りてみて、敬太郎はあることに気がついて愕然とする。それからの推理と行動が面白いのだが、漱石の克明な記述を理解するのには、北野豊『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書、2011年)の地図が大変に便利だ(長年、地理の教師をしてきた北野は、漱石の全小説の東京地理を実地で考察している。私はこの本を神楽坂の書店で見つけた)。》と書かれ、『彼岸過迄』の小川町における探偵の場面が地図に沿って説明されている。人名索引にも私の名前が記され、何と北白川宮能久と北村透谷に挟まれている。北がつくから当然であるが、「このようなところにいて良いのだろうか」と思ってしまう。
著者の中西昭雄さんは1941年に東京で生まれ、京都大学文学部を卒業して、1965年に朝日新聞入社。言ってみれば漱石の後輩である。1981年に退社した後、1985年に寒灯舎を設立した。
私はもともと書くことは大好きだが、読書家ではない。私の「読書」は「書物を読む」のではなく、「書くために読む」のである。だから、書きながら必要な部分を読むという何とも「不謹慎」な「読書」になってしまう。ところが、「漱石『門』から世相史を読む」は目次を見ただけで、共感をおぼえ、読み始めたら、どんどん読み進んで、400ページ近い本を読み終えてしまった。このようなことは、滅多にあることではない。
私は漱石を、外向的な人物、社会派作家と捉えている。よく食べ、休む間もなく活動し、過食と過労が死をもたらしたと考えている。ところがこのような漱石観をもつ人物は、どうやら少数派らしく、それでいじけることはないものの、誰か同じような考えの人がいないものか、その出現を心待ちにした。そして、ついに現れたのが中西昭雄さんである。

「漱石『門』から世相史を読む」は4部9章で構成されている。

第Ⅰ部 東京の暮らし――第一章 家計 第二章 電灯と電車 第三章盛り場・神田
第Ⅱ部 メディアと暴動――第四章 内務省の「官僚」と足尾の「坑夫」 第五章 伊藤博文と新聞 第六章 泥棒、探偵、高等遊民 
第Ⅲ章 アジアへ――七章 満洲、朝鮮、蒙古意識を探る
第Ⅳ部 近代と病――第八章 社会と世間 第九章 病い

一方、「勝手に漱石文学館」の本館「夏目漱石」の目次を紹介すると、

常設 漱石気分
1.気の毒な塩原昌之助
2.『道草』に登場するひとびと
3.漱石好みの女性
4.お札仲間
5.漱石と下女
6~8.漱石は精神病だった?
9~11.漱石は真宗が嫌いだった?
12・13.漱石の『こころ』がわからない?
14・15.漱石と旅
16~19.漱石と路面電車
20~22.「どこ?」の楽しみ
23.漱石と巡る病院
24・25.「現代」を描いた作家
26~29.漱石が描いた「現代」生活
30.地方の人びと、東京の人びと

こうして比較してみると、関心の方向性が似ていることがわかるだろう。
もちろん、中西さんは膨大な文献と資料を引用しながら文章を書いている。私などは中西さんの足元にも及ばない。ただただ敬服である。
                
                            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑱

1936年、藤村は国際ペンクラブに出席するため、妻静子を伴って、アルゼンチンのブエノスアイレスへむかった。有島生馬も一緒だった。帰途、アメリカ、フランス、スペインなどをまわって、翌年1月に帰国した藤村は、麹町下六番町の新居に入った。鏡花の自宅から300m足らず、四ツ谷駅のすぐ近く。鏡花が亡くなったのは1939年であるから、当時まだ健在であった。
鏡花宅の向いは有島武夫・有島生馬・里見弴の有島邸。藤村が新居を建てるにあたって、この地を選んだのは、生馬の存在が大きかったであろう。そして、有島邸からすぐのところに、1909年に閉校した懐かしの明治女学校(羽仁もと子1891~92在籍、藤村は1892~93在職)があった。藤村邸をはじめ、鏡花邸、有島邸、明治女学校などが建ち並んでいた通りは、今日「番町文人通り」と呼ばれている。文学に興味があれば、街歩きを楽しむことができる地域である。
1939年、後に第二次世界大戦と呼ばれる戦争が始まり、1940年12月、「戦局に備え65歳以上は東京を去る準備をせよ」、ということもあって、藤村は1941年2月、天明愛吉に紹介されて、神奈川県大磯町東小磯88―9に家を借り、夫婦で移り住んだ。12月には真珠湾攻撃が起こり、日米の戦闘が本格化、太平洋戦争へと発展していったが、日本の戦況が思わしくなくなる1943年、8月22日、藤村は大磯の借家で亡くなった。
                           (完)

【館長の部屋】 文豪と麹町⑰

荷風が『ひかげの花』を書き上げたのは1934年8月。荷風は麻布市兵衛町1丁目6(現在の六本木1丁目6)の「偏奇館」に住んでいた。
『ひかげの花』の登場する中島重吉は1917、18年頃、或る私立大学を卒業。第一次世界大戦の影響で日本の商工界は好況時代で、重吉は難なく或る商会に就職し、雑誌の編集係になった。けれども職務怠慢で一年ほどで解雇され、玉突きや釣りなどやってぶらぶら過ごし、小説なども書いてみていた。その重吉が学生時代、種子という未亡人が営む玉突場に出入りしていたが、玉突場のあった場所が麹町平河町。ただし、具体的な描写はまったくない。
麹町区平河町は現在の千代田区内、新宿通りと青山通りに挟まれた地域にある。当時、1丁目から6丁目まであり、玉突場を特定することはできない。平河町の名は平川神社に由来し、荷風は平川町と表記しているが、この稿では平河町に統一して表記している。
荷風が関根歌と出会ったのは麹町三番町9番地にある川岸家抱えの寿々龍(あるいは鈴龍)として出ていた1927年の8月。歌は二十歳で、『つゆのあとさき』の君江の年齢にあたる。「断腸亭日乗」によると、歌は15、6歳の頃、芸妓の世界へ入ったようで、歌の15、6歳の頃というのは、ちょうど関東大震災の頃で、関根家として経済的に立ち行かなくなり、歌が家計を助けるため芸妓になったとも考えられる。
8月31日、荷風は川岸家を訪ねているが、目当ては歌であったと思われる。
「日乗」には、9月4日、病床にある荷風を歌が見舞ったこと、5日に荷風が歌に会うため川岸家を訪ねたこと、10日には二人で神楽坂を歩いたことが記されている。そして早くも12日、《阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす。》と「日乗」に記される。歌は芸者を辞めたがっており、借金も500円くらいということで、荷風が身請けして、妾として囲うことにしたのである。10月12日に歌は、偏奇館に近い西久保八幡町の菓子屋壺屋の裏にある借家に引越す。荷風はこの妾宅に「壺中庵」と名づけた。
1928年正月、荷風は歌を連れて雑司ケ谷霊園に父の墓参りに出かける。荷風は歌が毎晩のように夕食の総菜を持ってやって来る、芸者をしていたものに似合わず正直で親切と「日乗」に記している。3月になると、三番町の待合蔦の家の亭主が選挙立候補の資金づくりのため、持っていた待合を売りに出したので、荷風はこれを買い、歌にもたせた。かねてから歌は芸者を辞め、待合を営業したいとの希望をもっていた。歌は三番町へ転居し、待合の屋号を「幾代」と改めた。歌は経営面においてもしっかり者で、三人連れの客が文無しであることがわかると、二人を人質にして、一人を金策にやったり、支払いが滞ると弁護士とともに督促に出かけたなど、逸話が残っている。荷風は頻繁に歌のもとを訪れている。
荷風と歌の関係も、待合の経営も維持され、1931年を迎えた。6月24日、歌が荷風の前で失神し、中洲病院に担ぎ込まれ、即入院になった。7月6日、荷風は「断腸亭日乗」に《お歌入院して早くも十日後となりしが病勢依然たり、一時はやや快方に赴く事もあるべけれど、待合の商売などはもはや出来まじく、行々は遂に発狂するに至るべしと、大石博士の診断なり、人の運命は淘測り知るべからず、お歌年僅に二十五にて此の如き病に陥りたる前世の因縁なるべし、哀れむべきことなり》と書き込んだ。歌は一カ月ほど入院して、7月27日に退院した。結局、荷風は歌と別れた。
妾という関係は解消されても、歌は待合の経営を続け、また、しばしば荷風を訪ねている。1932年3月には、幾代の家主から二重払いの家賃分を取り返して来たと現金を持って歌は荷風を訪ねており、荷風はそのカネを病気見舞いとして歌に与えている。また、11月に、歌は夜具蒲団を仕立てて荷風に届け、荷風は「日乗」に、《お歌が縫ひたる新しき夜具の上に横たはりしが、さまざまの事心に浮び着たりて眠ること能はず。》と書き込んでいる。まことに純情、かわいらしい荷風である。
1938年の暮、麻布谷町の路上で歌に会った荷風は、「おう僕のところに来たのかい」と声をかけ、「いえ、妹が氷川町に住んでいますので」と歌が答えることもあったようで、1939年正月には、歌が荷風を訪ねている。その後も、交流は続き、1943年8月17日の「日乗」に《夜六番町のお歌來る。カマス干物一枚一圓鰺干物一枚一圓ベアス石鹸を貰ふ。九時その歸るを送りて我善坊崖上の暗き道を歩み飯倉電車通りに出づ。十七年前妾宅壺中庵の在りし處なり。》と書き、23日には《夕方六番町なるお歌の家より電話にて汁粉つくりたればと言來りしが出で行く元氣なかりき。》と書いており、1944年1月18日には、《日も暮近き頃電話かゝりて十年前三番町にて幾代と云ふ待合茶屋出させ置きたるお歌たづね來れり。其後再び藝妓になり柳橋に出てゐるとて夜も八時過まで何や彼やはなしは盡きざりき。》《お歌余と別れし後も余が家に尋ね來りし事今日がはじめてにあらず。》《思出せば昭和二年の秋なりけり。一圓本全集にて以外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり。お歌今だに其時の事を忘れざるにや。その心の中は知らざれど老後戦乱の世に遭遇し、独り旧盧に呻吟する時、むかしの人の尋ね来るに逢ふは涙ぐまるるまで嬉しきのもなり》と書き込む。歌との交流は続き、荷風は歌の現状をある程度把握していたことがうかがえる。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑯

9月2日。正午ごろ麹町の火は一度消え、皆、帰り支度をする。鏡花の妻も風呂敷包みを提げて駆け戻った。女中も一荷背負おうとする。ところが消えたはずの火が再び燃え拡がり、煙が黒こげに舞い上がる。鏡花は《渦も大い。幅も廣い。尾と頭を以って撃つた炎の大蛇は、黒蛇に變じて剩へ胴中を蜿らして家々を巻きはじめたのである。》と表現する。
一度、家の中に入って、神棚と玄関の三畳間の土を拂った鏡花の妻は、またこの避難場所へ戻ってきた。《私たちばかりではない。――皆もう半ば自棄に成った。》と、鏡花は書く。
夜。濵野英二と鏡花の妻が、缶詰か何かないかと四谷通りへ出向くと、物音一つ聞こえない静まり返った中で、あちらこちらの窓から、どしんどしんと戸外へ荷物を投げている。火はここからの方が押し包まれたように激しく見える。8時というのに、歩く人はほとんど二人のみ。缶詰どころか、ろうそくもマッチもない。通りかかった顔見知りの書店の厚意でゴザ二枚と番傘を借りて帰る。何につけてもほとんど「ふて寝」でもするように、疲れて倒れて寝た。
深夜。二時を過ぎても鶏の聲は聞こえない。《鳴かないのではあるまい。燃え近づく火の、ぱちぱちぱち、ぐわうぐわうどツと鳴る音に紛るゝのであらう。》と、この時、大通りを騎馬のひづめの音。この後、避難場所における鏡花のまわりの状況が記される。
《續いて、どの獸の面も皆笑つた。》まで読み進むと、「その時であった」と、目は四谷見附の火の見櫓に転じられる。火の見櫓は、《窓に血をはめたやうな兩眼を睜いて、天に冲する、素裸の魔の形に變じた。土手の松の、一樹、一幹。啊呍に肱を張つて突立つた、赤き、黒き、青き鬼に見えた。が、あらず、それも、後に思へば、火を防がんがために粉骨したまふ。焦身早や、煙に包まれたやうに息苦しい。》と、何やら火が迫っているような気配。
鏡花は婦人と婦人の間をぬって大通りへ出る。出るまでのあいだの様子が描写され、やがて、《私は露を吸つて、道に立つた。火の見と松との間を、火の粉が、何の鳥か、鳥とともに飛び散った。が、炎の勢は其の頃から衰へた。火は下六番町を燒かずに消え、人の力は我が町を亡ぼさずに消した》。おそらく、下六番町一帯が焼けていなかったことは帰ってわかったことであろうが、火災のおさまりは感じられたのであろう。《「少し、しめつたよ。起きて御覽。」婦人たちの、一度に目をさました時、あの不思議な面は、上臈のやうに、翁のやうに、稚兒のやうに、和やかに、やさしく成つて莞璽した》。「めでたし、めでたし」みたいな感である。
『露宿』は1923年10月に泉鏡太郎の名で発表されたもので、一部に鏡花的な表現はあるものの、事実を伝えるものとして、麹町一帯の大震災の貴重な記録を提供してくれる。
結局、鏡花の住む麹町区では、飯田町(現、飯田橋)一帯、上六番町・中六番町・上二番町・下二番町・元園町(現、三番町・四番町・二番町・麹町)一帯が広範囲に焼失した。地図で見てみると、鏡花の自宅は北・東・南の三方向に焼失地域が拡がっており、よく焼けなかったと思わされる。鏡花夫妻は二晩露宿して、3日になってようやく帰宅した。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑮

そうこうしているうちに、《「雨戸をおしめに成らんと不可ません。些と火の粉が見えて來ました。あれ、屋根の上を飛びます。……あれがお二階へ入りますと、まつたく危うございますで、ございますよ。」と餘所で……經驗のある、近所の産婆さんが注意をされた。》と、これは現在でも通用する貴重な助言。この後、《實は、炎に飽いて、》から、鏡花調の描写が続き、《中天に聳えた番町小學校の鐵柱の、火柱の如く見えたのさへ、ふと紫にかはつたので、消すに水のない劫火は、月の雫が冷すのであらう。火勢は衰へたやうに思つて、微に慰められて居た處であつたのに――》
五番町から元園町へまわった火が、今度は北へむかって延焼している。番町小学校は鏡花の家より北にあるが、南に燃え盛る炎が映えて、鉄柱が火柱のように見えたのだろう。鏡花は途方にくれた。
なるほど、ちらちらと、流れ星ではない、火の粉である。地震が怖いので屋外にいるのであって、二階へ上がるのは命がけ。鏡花は「意気地なしの臆病の第一人者」。かと言って、家が燃えても良いと言うわけではない。濱野は元園町の下宿へ様子を見に行っていたが、下宿は焼け、濵野のたくさんの書籍も衣類も燃えた。意を決して鏡花と妻が家の中に飛び込もうとするのを見て、「私がしめてあげます。お待ちなさい。」と、白井さんが懐中電灯をキラリと点けて、そう言う。鏡花は頭を下げ、「俺も一番。」と、来合わせた馴染みの床屋の親方も一緒に入る。
白井さんと床屋の親方は鏡花の家の二階の雨戸を一枚一枚閉めてゆく。これに勢いをもらって、鏡花も駆け上がり、懐中電灯頼りに、戸袋の棚から観世音の塑像一体懐に収め、机の下を壁土の中を探って、亡父が彫った鏡花の真鍮の迷子札を小さな硯の蓋にはめ込んで大切にしていたのを拾って、袂に入れた。
それから鏡花たちは御所前の広場、現在の迎賓館前(中央線の四ツ谷駅近くのトンネルは「御所トンネル」と呼ばれる)を目指して避難を開始する。時間はない。火は《尾の二筋に裂けた、燃ゆる大蛇の兩岐の尾の如く、一筋は前のまゝ五番町へ向ひ、一筋は、別に麹町の大通を包んで、此の火の手が襲ひ近いたからである》。麹町の大通とは、半蔵門前から伸びる新宿通りである。
避難の途中、鏡花たちは、《「はぐれては不可い。」「荷を棄てても手を取るやうに。」口々に言ひ交して、寂然とした道ながら、往來の慌しい町を、白井さんの家族ともろともに立退いた》。避難の鉄則ではあるが、鏡花がこのような声を上げているとしたら、まことに珍しい、非常時のなせる業であろう。
さすが鏡花は有名人である。このような時でも、「泉さんですか。」「荷物を持って上げましょう。」など、声がかかる。
横町の道の両側は、荷と人。両側二列の人。もっと火に近いところの人たちが先にこの町内へ避難して来たので。……皆、ぼう然として火の手を見ている。赤い額、蒼い頬――《辛うじて煙を拂つた絲のやうな残月と、火と炎の雲と、埃ともやと、》……《朝顔の蕾は露も乾いて萎れつゝ、おしろいの花は、緋は燃え、白きは霧を吐いて咲いて居た。》と、後から書いた文章なので、鏡花は文学的に表現しているが、おそらく避難の途中はそれどころではなかっただろう。
四谷見附を出て、御所前の公園の広場。すでに幾万の人で満ちている。鏡花たちも広場の外側の濠にむかった道端に座り込む。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑭

この後、鏡花は当時を冷静に振り返る。
――その当時、風は荒かったが、真南から吹いたので、いささか身勝手のようではあるが、町内は風上。さしあたり火に襲われる恐れはない。そこで各自が、あの親不知子不知の波を、岩穴へ逃げるように、急いで入っては、さっと出て、お勝手や居室などの火を消して、用心して、それに何よりも気をつけたのは、足袋と履物で、すわ逃げ出すと言う時に、自宅への出入りにも、ガラス、瀬戸物のかけら、折れ釘でケガをしないことであった。――と、鏡花、地震避難の心得を見事に書いている。
そのうち、鏡花はすきをみて、縁台、薄縁などを持ち出し、何が何でも今夜は戸外で明かす覚悟をして、《まだ湯にも水にもありつけないが、吻と息をついた處へ――前日みそか、阿波の徳島から出京した、濱野英二さんが駈けつけた》。
ここで、逸話としてよく出てくる葡萄酒が登場する。《内の女中の情で。》で始まって、日本酒は台所へ全部流れたが、葡萄酒は安物ではあるが、台所から二罎持ち出すのが命がけで、公道へ出て一杯というわけにもいかないので、土間へ入って、框にうずたかく崩れた壁土の中に、キノコの生えたような瓶から、逃げ腰で、茶わんであおった。鏡花は、《言ふべき場合ではないけれども、まことに天の美祿である。》と、評しているが、鏡花の妻も一口。普段一滴も飲まない、一軒隣の歯科の白井さんも白い仕事着のまま傾け、二杯のんだ隣の辻井さんは、向う鉢巻、肌ぬぎの元気になって、《「さあ、こい、もう一度揺つて見ろ。」と胸を叩いた》。この言葉に女性たちは快く思わなかったが、結果的にこれに勢いづいて、ゴザ・縁台を引きずり引きずり、黒塀に伝って、折れ曲がって、各自の家に取って帰すことができた。
鏡花の家はどうであったか。鏡花は、《襖障子が縦横に入亂れ、雜式家具の狼藉として、化粧の如く、地の震ふたびに立ち跳る、誰も居ない、我が二階家を、狭い町の、正面を熟と見て、塀越のよその立樹を廂に、櫻のわくら葉のぱらぱらと落ちかゝるにさへ、婦は聲を發て、男はひやりと肝を冷して居るのであった。が、もの音、人聲さへ定かには聞取れず、たまに駈る自動車の響も、燃え熾る火の音に紛れつゝ、日も雲も次第々々に黄昏れた。》と記しているが、ここで、地震も、小やみになっているので、風上とは言うものの、火事のことが心配で、鏡花が中六番町の広い通りの市ヶ谷に近い十字街へ出てみると……。
一度やや安心しただけに、口も利けず、驚く鏡花。半町(50m余)先の目の前を、火が燃え盛る様はまっ赤な大川が流れるようで、しかも無風状態だったのが、北向きに変って、一旦、九段上へ焼けぬけたのが、燃え返って、しかも低地から高台へ、逆流してくる。50m余と言うが、実際にはもっと先であるが、今度は大波のような火の塊であるから、ほんとうに間近に見えたことだろう。
鏡花は続けて、《もはや、……少々なりとも荷もつをと、きよときょとと引返した。が、僅かにたのみなのは、火先が僅かばかり、斜にふれて、下、中、上の番町を、南はづれに、東へ……五番町の方へ燃進む事であった。》と、かなり冷静な分析をしている。
実際には、中六番町から出火した火は、三番町(招魂社の南一帯)に飛び火し、そこから、上六番町へ延焼。さらに東へ一番町方面、南へ上二番町から五番町、そして元園町へと燃え広がった。五番町にあるイギリス大使館が焼けなかった。鏡花の記述は実態と合わない部分もあるが、地上から見ている火事は実に錯覚が多いので、やむをえない。
《火の雲をかくした櫻の樹立も、黒塀も暗く成った。舊暦七月二十一日ばかりの宵闇に、覺束ない提灯の灯一つ二つ、婦たちは落人が夜鷹蕎麥の荷に●(𧾷ヘンに居)んだ形で、溝端で、のどに支へる茶漬を流した。誰ひとり晝食を濟まして居なかったのである。》と書いた鏡花は、《火を見るな、火を見るな、で、私たちは、すぐ其の傍の四角に彳んで、突通しに天を浸す炎の波に、人心地もなく醉つて居た。》と、続けているが、時どき、魔の腕のようなまっ黒な煙が、おおいなる拳をかためて、世を打ちひしぐ如くに、むくむくと立ち、そこだけ火が消えかかり、下火になるだろうと思ったのも空頼みで、「ああ、悪いな、あれがいけねえ。……火の中へふすぶった煙の立つのは新しく燃えついたんで、……」と、通りがかりの消防夫が言って通っていく。
そして、《――前のを續ける。……》と、本論に戻っていく。が、ここで顔を出したのが里見弴である。
弴のいで立ちが描写され、それに盛り場の女中らしいのが一人付いている。弴の話しによると、執筆のため赤坂の某旅館に滞在していたが、旅館は潰れ、不思議に窓の空所へ橋に架かった襖を伝って屋根に出て、それから山王神社の山へ逃げたが、そこも火に追われ、番町へ逃げ帰る途中に、《おなじ難に逢つて燒出されたため、道傍に落ちて居た、此の美人を拾つて來たのださうである。》と、何か落とし物でも拾ったような書き方。赤坂一帯は推定震度6弱から6強。
鏡花の家のむかいの家の二階の障子は紅。私も大火で、わが家に火が迫り来る気配を、向かいの家の板張りに感じたので、この不気味さはよくわかる。黒塀の溝端のござへ、さも疲れたようにほっとくの字に膝をつき、女性たちが出した、ぬるま湯を飲み、美人の方の風情はなまめかしい。やがて、弴はすぐそばの有島邸へ。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑬

1923年9月1日。50歳台に入っていた鏡花は下六番町(現、六番町)の家で地震にあった。このあたりは麹町台地上にあるため、比較的揺れは少なく、震度は5強と推定されている。幸い家の倒壊は免れたが、隣町の中六番町(現、四番町)から出火し、鏡花夫妻も近隣の人たちと夢中で逃げた。しかし、しばらくして、当面大丈夫そうだということで、みんな様子を見ながら何度も家に戻り、はきものを履いたり、荷物を持ち出したりした。鏡花は小さな観世音の塑像と父が彫った真鍮の迷子札を懐にしまった。女中は台所から葡萄酒を二瓶持ち出し、鏡花夫妻は気つけ薬のつもりで一杯あおり、近所の人たちにも分けた。ところがその後、火は飛び火し、強い北風にあおられて、上六番町(現、三番町)から一気に南へ燃え広がった。少し離れているとはいえ、いつまた風向きが変わって、類焼しないともかぎらないので、風上にあたる外堀公園へみんなで避難した。やがて里見弴がやって来て、挨拶を交わした後、有島邸へ急いで行った。里見は赤坂の旅館で仕事をしていたが、旅館がつぶれ、幸い二階にいた里見は助かって、窓から屋根伝いに降り、山王神社へ逃げたが、火に追われてさらに逃げてきたという。
鏡花は関東大震災で被災した体験、見聞を『露宿』に詳しく描いている。
鏡花は9月2日の真夜中から、3日の午前3時半頃の状況から書き出している。
――ほとんど5~6分おきに余震がある。とにかく人びとは夜の明けるのを「一時千秋」の思いで待っている。火の手から逃げて来た人、焼け出された人、思い思いに逃げ延びてきた人たちが、四谷見附外や新公園内外に幾千万集まり、ほとんど残らず眠りに落ちた。荷物と荷物を合わせ、ござ、筵を接して。外濠を隔てた空に凄まじい炎の影、それに映し出された人びとは、見える限り、老も若きも体裁などかまわず、ころころと萎えたようにみんな倒れている。何しろ、9月1日午前11時58分に起った大地震の後、誰も一睡もしたものはないからである。――
鏡花の自宅は麹町区の下六番町(現、六番町)にある。火の手に追われて四谷見附から外濠を越えたのだろう。外濠を隔てて麹町区内の空は炎に包まれている。自宅もすでに焼けたのではないかと、鏡花は気が気でなかったと推察される。
この後、鏡花は時を戻して、自宅からの避難の様子を描いている。
――鏡花も、隣り2、3軒の人たちも、みんな裸足で逃げ出して、片側の平屋の屋根から瓦が土煙をあげて崩れる向い側を駆け抜け、いくらかキケンの少なそうな四つ角を曲がった。一方が広い庭を囲んだ黒板塀で、向い側の平屋がつぶれても30~60cm、すき間があるだろう、その黒塀に突っ伏すように取りすがった。
その手がまだ離れないうちに、1町(100m余)ほどしか離れていない中六番町から黒煙が上がり始めたのが、麹町・番町の火事の始まりである。――
この火元、現在の四番町、武蔵野大学附属千代田高等学院(当時、千代田女学校、後の千代田女学園)の北西にあたり、鏡花の自宅から300mほど。火事は近くに見えるから100mほどと思ったのもムリはない。火事はその後、北東と南南西へ延焼していく。
――黒煙があがると同時に、警鐘乱打。このような激震に、四谷見附の高い火の見櫓のてっぺんに、生きている人間がいるとは思われず、鏡花たちは雲の底で、天が「摺り半鐘(すりばん)」を打っていると思って戦慄した。そこに、「水が出ない。水道が留まった」という声が一団となって、足と地とともに震える鏡花たちの耳を貫く。息つぎに水を求めたが、火の注意に水道の如何を試みた誰かが、さっそく警告したのであろう。夢中に、誰とも覚えていない。その間近な火は樹に隠れ、棟に伏って、かえって斜めの空はるかに、一柱の炎が火を巻いて真直ぐに立った。続いて、地軸も砕けるかと思う凄まじい爆音が聞こえた。女性たちが「あっ」と言って地にひれ伏すものも少なくない。その時、横町を縦に見通しの正面の空へさらに黒煙が舞起って、北東の一天が一寸を余さずまっ黒に変わると、たちまち、どどどどどどどという、陰々たる律を帯びた重く凄い、ほとんど形容のできない音が響いて、炎の筋をうねらせた恐ろしい黒雲が、さらに煙の中を波がしらの立つごとく、烈風に駆け回る!……「迦具土(かぐつち)の神」(日本神話に出てくる「火の神」)が鉄の車を駆って大都会を焼き滅ぼす車輪の轟く音かと疑われた。「あれは何の音でしょう。」「さよう、何の音でしょう。」と、近隣の人だけで話してもよく分らず、そこに居合わせた禿げ頭で白い髯の見知らぬ老紳士に訊ねる鏡花の声も震えれば、老紳士の唇の色も、尾花の中に、例えばなめくじの這う如く土気色に変っていた。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑫

上智大学の南側一帯、赤坂見附にかけてが紀尾井町。地名は、紀州徳川家上屋敷、尾張徳川家中屋敷、井伊家(彦根藩)中屋敷があったところから、名付けられた。紀州屋敷跡は現在のザプリンスギャラリー東京紀尾井町と清水谷公園、尾張屋敷跡は上智大学、井伊屋敷跡がホテルニューオータニに、ほぼあてはまる。
荷風は『日和下駄』で、紀尾井坂について、赤坂喰違より麹町清水谷へ下る急坂で、下弦の月、鎌の如く、樹頭に懸る冬の夜、広大なこの辺の屋敷から犬の遠吠え聞こえる折など、市中とも思えないさびしさがあると解説している。赤坂喰違は赤坂見附と四谷見附の間にある。外濠は赤坂見附側が弁慶濠、四谷見附側が真田濠(現在は埋め立てられ、上智大学の真田堀グランドになっている)。紀尾井坂の上、赤坂喰違のところでは、1874年、岩倉具視が襲われて負傷し、1878年には坂下の清水谷で大久保利通が暗殺されている。自宅近くである。1884年、現場近くに大久保利通哀悼碑が建てられた。この碑一帯が東京市に寄贈され、都市計画で公園として整備され、1890年に清水谷公園として開園した。哀悼碑を中心に心字池や各種樹木がある。
紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家などの屋敷跡は、ほとんど分譲されず、広大な屋敷地として残っていたし、二つの襲撃事件を思い出すにつけ、市中とも思えぬさびしさというのはうなずける。荷風が生まれたのは大久保暗殺の翌年である。
弁慶橋は赤坂見附そばの弁慶濠(外堀の一部)に架かる橋。ザプリンスギャラリー東京紀尾井町とホテルニューオオタニの間の道を南下して、赤坂見附に出るところにあたる。この南下する道路のルートにあたるドブを、蛙たちが移動して行ったのである。それにしても、蛙などどこにでもいるだろうに、なぜ清水谷公園の蛙なのか。安井・御米夫婦を打ち砕いた宗助にとって、蛙の夫婦が殺されていく話は、坂井のちょっとしたもてなし話であったとしても、内面をえぐられるものであっただろう。『門』の主人公野中宗助は、鎌倉の寺での参禅から東京へ戻った翌々日、坂井の家を訪れた。そこで、ある人の銀婚式で貰ったという金玉糖が出された。《主人は肖りたい名の下に、甘垂るい金玉糖を幾切か頬張った。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食える様に出来た、重宝で健康な男であった。「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別に御目出度もありませんが、其所が物は比較的なところでね。私は何時か清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客を飽かせない様に引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流の中に、春先になると無数の蛙が生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦まじく浮ていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数が殆んど勘定し切れない程多くなるのだそうである。「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全く御目出たいに違ありませんよ。だから一切位肖って置く必要もあるでしょう」と云って、主人はわざと箸で金玉糖を挟んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた》。
2019年8月18日にNHKの「ダーウィンが来た!」では港区立赤羽小学校プールを産卵場所にするヒキガエルの様子を紹介している。ヒキガエルはメスがオスを背中に乗せ、夫婦が群れをなして産卵場所へむかうもので、漱石は清水谷から弁慶橋にむけて大挙して移動するヒキガエルの様子を『門』の中で描き出した。奇しくも赤羽小学校が建っているのは江戸時代の久留米藩有馬家上屋敷。「有馬が原」として、『日和下駄』でも「閑地」の中で取り上げられている。「有馬が原」の時代から脈々として受けつがれてきたヒキガエルたちが、NHKの番組に登場したことになる。『門』に登場するヒキガエルと、『日和下駄』に登場するヒキガエルは500mくらいしか離れていない。

『それから』では、赤坂見附・弁慶橋が出てくる。代助は神楽坂に住んでいる。青山にある実家へ行く代助は通常、牛込見附から外濠線の電車に乗り、赤坂見附で青山七丁目行に乗り換えた。赤坂見附交差点が外堀通りと青山通りの交差するところであるので、今日的にも理解しやすい。赤坂見附(弁慶橋)で乗り換えたことが、《定刻になって、代助は出掛けた。足駄穿で雨傘を提げて電車に乗ったが、一方の窓が締め切ってある上に、革紐にぶら下がっている人が一杯なので、しばらくすると胸がむかついて、頭が重くなった。(略)弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになった。》と、記されている。紀尾井町の東側一帯が平河町地区になる。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑪

半蔵門から四ツ谷にかけてのびる大通りは、新宿通りの一部であるが、かつての甲州街道にあたる。荷風は『日和下駄』において、「麹町」の通りに関して、隅田川沿岸などは夕陽の美を待たなくても別の趣があるが、麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通り(現在の新宿通り)などは、だだっ広いだけで雪にも月にも何の風情も増しはしないが、こうした無味殺風景な山の手の大通りを、幾分かでも美しいと思わせるのは、《全く夕陽の関係あるがためのみである。》と書いている。荷風は《夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連る箱根大山秩父の山脈までを望み得る。》として、青山一帯、神田駿河台、牛込寺町辺りとともに、九段坂上の富士見町通りも、例としてあげている。
話しは少し後のことになるが、関東大震災から数年。元号は大正から昭和へ改まり、芥川龍之介が自死する1927年(昭和2年)に書いた『冬』。市ヶ谷の刑務所に従兄と面会した「僕」が、帰り道、《僕はごみごみした町の中をやっと四谷見附の停留所へ出、満員の電車に乗ることにした》。この後、電車は半蔵門の方へむかって走っているのだろう。《「会わずにひとりいる時には」と言った、妙に力のない老人の言葉は未だに僕の耳に残っていた。それは女の泣き声よりも一層僕には人間的だった。僕は吊り革につかまったまま、夕明りの中に電燈をともした麹町の家々を眺め、今更のように「人さまざま」と云う言葉を思い出さずにはいられなかった。》と続いている。この程度の描写ではどこもたいして変わらないが、とにかく「麹町」という地名が出てくる。

『爛』(初出『たゞれ』)は1913年3月から8月まで、「国民新聞」に連載された。『黴』とともに、これまた読みたくなる題名ではない。主人公の「お増」は実業家の淺井に見受けされ、妾からやがて正妻へと立場を変えるが、最初に囲われた上野広小路辺の妾宅が本妻にバレ、暑い夏、お増は麹町へ移された。家は《迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画》にある。麹町区内でこの表現に該当する地区は、当時の地図を見ると、紀尾井町6番地(現、上智大学、聖イグナチオ教会が建つ区域)、元園町一丁目31番地付近(現、麹町小学校南側の区域)の二か所。私は前者と推察する。
お増の住家は、お柳が住む浅井の本宅に近いキケンなところ。近ければお柳とお増の間を頻繁に行き来し、両方に良い顔できると、浅井は考えたのだろうか。用心していたものの、お柳がポチという浅井の飼い犬を見かけ、後をつけたため家が知れ、お柳が訪ねて来た。二人は外出中で、お今が対応したが、その話しにあわてた二人は、とにかく電車に乗って、本郷の知人の家に行き、一晩泊り、浅井はお増のために下宿を探した。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑩

藤村は『桜の実の熟する時』で、《麹町に住む吉本さんの家を指して、捨吉は田辺の留守宅のほうから歩いて行った。》と書いている。吉本とは藤村を明治女学校に招いた巌本善治のことであろう。木村熊二とともに明治女学校の設立に尽力し、1887年に教頭に就任している。
明治女学校は1885年、木村熊二が九段下牛ケ淵に開校したもので、翌年、九段坂上の麹町区飯田町三丁目、現在、暁星学園があるところに新校舎を建設し、移転した。移転間際に熊二の妻で、学校運営でも良きパートナーであった鎧子がコレラで急逝した。明治女学校は、さらに1890年、麹町区下六番町6番地(現、六番町)に移転。日本テレビの交差点を隔てて斜め向かいにあたる。
この地の明治女学校に1892年、藤村が教師として赴任した。藤村は通勤の便を考え、下宿を牛込区赤城元町34番地、赤城神社の東側に移した。『桜の実の熟する時』では、《捨吉は田辺の留守宅から牛込のほうに見つけた下宿に移った。麹町の学校へ通うには、恩人の家からではすこし遠過ぎたので》。《牛込の下宿は坂になった閑静な町の中途にあって、吉本さんと親しい交りのあるというある市会議員の細君の手で経営せられていた。》と記されている。
藤村は明治女学校までの通勤経路を記している。《牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うにちょうど好いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見いだされる。その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向こうに見える樹木の多い市ヶ谷の地勢の眺望はいっそうその通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった》。神楽坂を下って、現在の神楽坂下、飯田橋駅のところから外濠を越え、牛込見付。1894年の甲武鉄道新宿・牛込間開業をめざして、工事が始まろうとしている。外濠に沿って土手を新見付、市ヶ谷見付へと。
市ヶ谷見付から帯坂(切通坂)を上って、右折して100m少し行き、左折して中六番町(現、四番町)と下六番町(現、六番町)の境界を歩むこと約200m。二筋目右角が明治女学校。現在の日本テレビ通りと番町文人通りの交差点北西角(「番町文人通り」の案内板が設置されているところ)。後に、同じ下六番町、200mほど行ったところに鏡花が住み、さらに300mほど行ったところに、1937年、藤村自身も移り住むことになる。鏡花は1939年に亡くなるので、二人の文豪がこの地に共に過ごしたのは二年程である。
《麹町のほうまで歩いて、ある静かな町の角へ出ると、古い屋敷跡を改築したような建築物がある。その建築物の往来に接した部分は幾棟かに仕切られて、雑貨を鬻ぐ店がそこにある。角には酒屋もある。店と店の間に挟まれて硝子戸の嵌った雑誌社がある。吉本さんの雑誌はそこで発行されている。こうした町つづきの外郭の建築物は内部に隠れたものをとりまきながら、あだかも全体の設計としての一部を形造っているように見える。二つある門の一つを潜って内側の昇降口のところへ行くと、女の小使が来て捨吉に上草履を勧めてくれる》。
後に藤村が親しく交わる有島生馬。有島一家が明治女学校すぐ西の一角に、広大な旧旗本屋敷を買い取って住むようになったのは1896年。藤村が勤めていた当時、有島邸はまだなかった。明治女学校は1896年に焼失した。
この明治女学校で藤村は佐藤輔子(1871~95年)に恋をする。『桜の実の熟する時』の記述にしたがえば、「安井お勝さん――あの人も好い生徒だそうですね」と「勝子」の名を聞いただけで思わず捨吉は紅くなり、下宿に帰っても、自分の部屋を歩きながら、勝子の名を呼んでみる。
そして、とうとう、《例の牛込見付から市ヶ谷のほうへ土手の上の長い小径を通って麹町の学校まで歩いて行ってみると、寄宿舎から講堂のほうへ通う廊下のところで、ノオト・ブックを手にした二三の生徒の行過ぎるのが眼についた。その一人は勝子と同姓だった》。こうなってくると、すべて良く見えてくるのか、《どこか容貌にも似通ったところがあった。勝子には見られない紅い林檎のような頬から受ける感じは粗野に近いほどのものであったが、それだけ地方から出てきた生地のままの特色を多分にもっていた。その生徒と勝子は縁つづきでもあるのか、それとも地方によくある同姓の家族からでもできているのか、と捨吉は想像した。勝子に縁故のあることは、どんなことでも捨吉の注意を引かずにはいなかった。》という状態に。捨吉と言うか、藤村と言うか、気持ちはよくわかる。今も昔も恋心というものは変わらないもののようだ。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑨

『門』では、《「おい、佐伯のうちは中六番町何番地だったかね」と襖越に細君に聞いた。「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、「手紙じゃ駄目よ、行って能く話をして来なくっちゃ」と付け加えた。》と、佐伯の家が「中六番町25番地」と番地まで明記されている。
 話は一旦さかのぼり、佐伯家と宗助、弟小六との関係、宗助と御米が京都から広島、さらに福岡と転じ、再び東京へ戻る顛末が記される。二人が東京へ戻って一年くらい経って、叔父が急に亡くなった。《「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」「貴方まだ、あの事を聞く積だったの、貴方も随分執念深いのね」と御米が云った。それから又一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助と一所に中六番町に引き移った》。それから二年ほど経った時点が、話の現在形である。叔母から自分の学費をもう出してもらえないと聞かされた小六が、兄宗助を訪ねて来た。《それから二三日すると丁度土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄ってみた。叔母は、「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、何時もよりは愛想よく宗助を款待してくれた》。やがて、季節は秋になった。《その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後れるので、この要件を手紙に認めて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである》。小六が本郷の下宿を引き払い、宗助の家に同居するようになって日が過ぎた。《佐伯の叔母も安之助もその後頓と宗助の宅へは見えなかった。宗助は固より麹町へ行く余暇を有たなかった。又それだけの興味もなかった。親類とは云いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。ただ小六だけが時々話しに出掛ける様子であったが、これとても、そう繁々足を運ぶ訳でもないらしかった》。
この後、番町という言葉は出てこないが、佐伯の家は、「中六番町」「番町」「麹町」と、表現を変えて登場する。しかしながら、『行人』同様、地域の描写はまったくない。どうも漱石という作家は、登場人物の位置関係やその地域のもつイメージには関心があっても、その地域の風情にはあまり関心がなかったようだ。もちろん、漱石の作品にもしっかり情景描写しているものがある。『門』『行人』では、その必要性がなかったのだろう。
佐伯家のある中六番町は、そのまま現在の四番町に相当する。千代田女学園・四番町図書館・上智大学比較文化学部などがある。ピンポイントで指定された二十五番地。中六番町区画の中程を東西方向に貫く通り(番町学園通り)に面し、千代田女学園(当時、千代田女学校)裏手にあたり、後に千代田女学園の敷地の一部になった。千代田女学園は女子文芸学舎として、現在地に1888年創立された西本願寺系の女子校。1910年から千代田高等女学校、1947年から千代田女学園高等学校・中学校。千代田女学園高等学校は2018年に男女共学化され、武蔵野大学附属千代田高等学院に名称変更後、中学校も含めて校名変更が続き、2025年度から千代田中学校・高等学校に校名変更される予定。
なお千代田女学園高校校舎西隣り付近は1910年~1915年、与謝野鉄幹・晶子が住んだところである。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑧

『行人』の長野家は番町にある。
《それから二三日しても兄の事がまだ気に懸ったなり、頭がどうしても自分と調和して呉れなかった。自分はとうとう番町へ出掛て行った》。下女お貞との婚儀のため、岡田と佐野が大阪からやって来て、《翌日番町へ行ったら、岡田一人のために宅中騒々しく賑っていた。兄も外の事と違うという意味か、別に苦い顔もせずに、その渦中に捲込まれて黙っていた。》《何時もより早く起きて番町へ行って見ると、お貞さんの衣装が八畳の間に取り散らしてあった》。佐野のもとに嫁いだお貞は東京を去った。それと共に冬も去った。《自然の寒い課程がこう繰返されている間、番町の家は凝として動かずにいた》。春が来た。彼岸の中日の翌日、嫂が二郎の下宿を訪れた。《「御無沙汰って云えば、貴方番町へも随分御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。自分は全く番町へは遠ざかっていた。始めは宅の事が苦になって一週に一度か二度行かないと気が済まない位だったが、何時か中心を離れて余所からそっと眺める癖を養い出した》。兄と嫂の関係は案の定、ますます悪くなっている。《自分は明日にも番町へ行って、母からでもそっと彼等二人の近況を聞かなければならないと思った。》《自分はこの間に一人の嫂を色々に視た。(略)事務所の机の前、昼餐の卓の上、帰り途の電車の中、下宿の火鉢の周囲、さまざまの所でさまざまに変って見えた。自分は他の知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。その間思い切って番町へ出掛けて行って、大体の様子を探るのがともかく順序だとは屢胸に浮かんだ》。それから五日目の土曜に父から電話があり、翌日父が二郎の下宿へ訪ねて来て、二人で上野へ出掛けた。《自分は番町と下宿と方角の岐れる所で、父と別れようとした。「用があるのかい」「ええ少し……」「まあ好いから宅まで御出」(略)自分は父に伴れられて、とうとう番町の門を潜った》。だんだんに様子のおかしくなっていく兄。三沢を通じてHに何とかしてもらおうと頼む。桜の季節であった。《Hさんからは何の通知もなかった。自分は失望した。電話を番町へ掛けて聞き合わせるのも厭になった》。雅楽稽古所で会った女。じつは三沢が、二郎に紹介したい女であった。《それから二三日は女の顔を時々頭の中で見た。然しそれが為に、又会いたいの焦慮るのという熱は起らなかった。その当日のぱっとした色彩が剥げて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た》。兄がHさんと一所に旅に出たことを二郎は電話で知った。《その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。》《その晩番町を出たのは燈火が点いてまだ間もない宵の口であった》。
「番町」という地名を追っかけているうちに、とうとう『行人』を読み終えてしまった。じつによく「番町」が出て来たものだが、番町地域の描写は一切ない。これでは「番町」でも「日比谷」でも「麻布」でもどこでも良い感じである。漱石がなぜ「番町」に設定したのか、訊けるものなら漱石に訊いてみたい。
『行人』の長野家は番町としか出てこないが、上六番町と中六番町の間(千代田女学校、現在の千代田女学園東側)に通る「行人坂(法眼坂)」付近とみるのも、おもしろいだろう。もちろん、『行人』は「こうじん」、「行人坂」は「ぎょうにん」坂と読むのであるが、『行人』の題名を「行人坂」から名付けたと考えるなら、長野家を行人坂付近に設定しても不自然ではない。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑦

当時、公使館西側の道は、公使館南西角で元園町北側を東西に通る道にぶつかって、T字路になっていた。八田巡査は公使館の南側に沿って、堀端の道(現在の内堀通り)へ。ここで、第三の人物が登場する。婚礼帰りの老人と姪。姪のお香は《半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき》、酔っぱらって足元がふらつく伯父に《「伯父さんおあぶのうございますよ」》と注意をする。おそらく現在の内堀通りにあたる道を歩いているのだろう。進行方向の背後にあたる南には、三宅坂が下っている。この辺りの光景は、《見渡すお堀端の往来は、三宅坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる》と、表現されている。真夜中にそんな景色が見えるものかと思うが、その辺は鏡花の作品、驚くことはない。半蔵濠から桜田濠は二段下がっているので、南へ伸びる三宅坂の先は、かなり下の方になり見えにくく、《三宅坂にて一度尽き》という表現もうなずける。
鏡花はその先の光景を《一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる》と表現している。三宅坂を下り、桜田濠がカギの手に曲がる辺り一帯が霞が関で、明治政府はここに中央官庁を集中させる計画を立て、建設を進めていた。
大審院と司法省、二つの建物が完成したのは1895年。鏡花が半蔵門辺りから眺めたのは前年で、鏡花はほぼ完成した司法省の煉瓦屋を見て、日本の首都東京の光景を刻み込み、作品の中に取り入れていったのではないだろうか。しかしながら、一大煉瓦建築群が出現するはずだったこの計画も、紆余曲折を経て、完成したのは二つの建物だけだった。
八田巡査がお香の伯父を助けるため、飛び込んだのは半蔵濠。場所を特定することはできないが、《「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶えたり》、とあるので、英国公使館正門を少し過ぎた辺りだろう。今でも、暗くなってから通りたいところではない。
荷風は『日和下駄』で、半蔵門から外桜田の堀、あるいは日比谷馬場先和田倉御門外にかけての堀端の柳は、広重の東都名勝などには描かれていないので、明治になって植えられたものであろうと推察し、水を隔てて対岸に古城の石垣や老松が望まれるのに、こちらの岸に柳があると眺望を遮り、視界を狭くするので良くないと述べ、ましてこのようなところに西洋風の楓を植えるなどは、「もっての外だ」と批判している。先ほど紹介したように、『夜行巡査』の中にも、半蔵濠の西側にある「英国大使館」(当時は英国公使館)辺りにも柳が植えられていたことが記されている。
規則正しい八田巡査は1時間の巡回で、歩数およそ38962歩。歩幅が10センチなら、約3.8キロになり、一時間の移動距離として納得できるものだが、はたして歩幅10センチと、きわめて小刻みに歩くことができるものなのだろうか。この辺も鏡花らしいところだが、この夜、八田巡査の歩みは完結しなかった。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑥

番町地区の中で、内堀に近い地域が舞台となるのは、鏡花の初期の作品のひとつ『夜行巡査』である。この作品で描かれる地域は、八田巡査が巡回する英国公使館の周囲に限られる。作品では「一番町英国公使館」と書かれている。現在の英国大使館が一番町にあることから、何の違和感もないが、当時、一番町は五番町で、「五番町英国公使館」と書かなければならなかった。どうして鏡花はこのような間違いをしたのだろうか。周囲の誰かが気づかなかったのだろうか。
東京の街は地図をみると、全体に市街地が広がり、地形がわかりにくいのだが、山手とよばれる武蔵野台地の地域は、尾根筋と谷筋が入り組んで起伏に富み、坂が多い。八田巡査の巡回コースも、このような地域にある。
八田巡査が勤務する交番はどこか。英国公使館周辺の交番は、1907年の「東京市十五区番地界入地図」によると、甲州街道に面した麹町二・三丁目境界の角と、一番町・五番町の境界を千鳥ヶ淵方向に下る五味坂の上にある。麹町一丁目には麹町警察署がある。
八田巡査は最初に、破れた股引きをはいた車夫をとがめてから、《麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く》と、南へむかっているので、五味坂上の交番所属であろう。警察署や交番の位置というのは、設置当初から現在まで、あまり変化しない。麹町二・三丁目にあった交番は移転して「麹町四丁目交番」になったが、麹町警察署と五味坂交番の位置は現在も変わっていない。
さて、交番を出発した八田巡査は、五味坂を千鳥ヶ淵にむかって下り、つぎの角を右折し、やがて公使館の西側の坂を上った。車夫をどこでとがめたか明確ではないが、その後、《行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて》と、書かれている。この物体が幼児を抱く母親である。公使館の東側は半蔵濠に臨むので、柳は似合いそうだが、人家はない。西側なら、南へ向かって進めば、左手は公使館、右手は人家がある。
江戸城の大手側は幕府の要職を務める大名たちの屋敷で占められたが、裏手には将軍直属の家臣である旗本が配置され、番方として城の裏手を固めていた。武家としての格式はそれほど高くない。この辺り、幕府が滅亡し、明治の代を迎え、旗本たちの離散が相次ぎ、地域全体が荒廃していった。武士の割合が非常に高く、幕藩体制の崩壊によって荒廃していった金沢の街と、きわめてよく似た番町。鏡花はそこにふるさと金沢を感じたかもしれない。
旗本の屋敷が並ぶ中、半蔵濠に面した、南部丹波守、永井信濃守、前田丹後守など大名の屋敷は何倍もの広さをもち、英国公使館はそれらを引き払ってつくられた。《たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、(略)路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、》と鏡花は書いている。この一文に当時の英国公使館一帯の風景を知ることができる。
「電燈局」とは東京電燈会社が運営する第一電燈局。麹町一丁目15(現、麹町一丁目1)、新宿通りと内堀通りが交差する半蔵門前の交差点、南西角からすぐのところにあった。
東京電燈会社は1887年から1890年にかけて、第二(茅場町)を皮切りに、第一(麹町)・第三(銀座)・第四(神田錦町)・第五(浅草)の五つの発電所(直流)を建設。発電機が小さいため、電力供給できるのは半径二キロ程度だったという。したがって電力需要の多い地域に限定され、第五は吉原遊郭への電力供給という役割をもっていた。1896年、浅草集中火力発電所から一括送電(交流)するようになったので、電燈局による発電は終了した。第一電燈局が煙突から煙を立ち昇らせて発電していたのは、1888年から1896年までの8年程であり、鏡花は貴重な描写を残してくれたことになる。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町⑤

市ヶ谷駅と四ツ谷駅の間、外濠の土手に沿う一帯、東京中華学校や雙葉学園のある地域が五番町で、かつて土手三番町とよばれた。四ツ谷駅前から三年坂の上り口辺りにかけて、外濠の土手にはたくさんの松がみられる。
『吾輩は猫である』には、この土手三番町と松が出てくる。苦紗弥先生のところへ迷亭がやって来た。さらに水島寒月もやって来た。迷亭が例によって事実とも空想ともつかぬ話をし始める。
《「慥か暮の二十七日と記憶しているがね。(略)母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、何時でも十行内外で御免蒙る事に極めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせて置けと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。丁度その晩は少し曇って、から風が御濠の向から吹き付ける、非常に寒い。神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。よく人が首を縊ると云うがこんな時に不図誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、何時の間にか例の松の真下に来ているのさ」「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台には鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん。(略)それでは先ず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」》。
『明暗』でも土手三番町の松が描かれている。吉川の家から帰る津田由雄は外濠線に乗って、車窓から外堀の土手の松を眺めている。《堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、そこからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった》。
鏡花がこの土手三番町30番地に住んだのは1905年から1910年までの5年余。三念寺坂(三年坂)下、台地と土手に挟まれた水はけの悪い土地で、湿気が多く、鏡花の家にはキノコも生えたようである。その様子は『くさびら』(1923年6月)につぎのように描写されている。
《先年、麹町の土手三番町の堀端寄に住んだ借家は、太い濕気で、遁出すやうに引越した事がある。一體三間ばかりの棟割長屋に、八疊も、京間で廣々として、柱に唐草彫の釘かくしなどがあらうと言ふ、書院づくりの一座敷を、無理に附着けて、屋賃をお邸なみにしたのであるから、天井は高いが、床は低い。――大掃除の時に、床板を剥すと、下は水溜に成つて居て、溢れたのがちよろちよろと蜘蛛手に走つたのだから可恐い。此の邸……いや此の座敷へ茸が出た。生えた……などと尋常な事は言ふまい。「出た」とおばけらしく話したい》。茸のようすはまだまだ続くが、私は「土手三番町」と聞くと、「首懸の松」と「茸」を思い出し、印象は陰湿ではなはだ良くない。住民には申し訳ない。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町④

雅楽所は低地にあるが、この先、麹町の台地へ上る二合半坂の途中に暁星小学校がある。漱石の息子二人も通い、そのためか、『明暗』の主人公津田由雄の甥にあたる藤井真事は《そうして其所にさも悪戯小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章の着いた制帽と、半洋袴と、脊中にしょった背嚢とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。「今学校の帰りか」「うん」子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。》《奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚い始めた。ジュ、シュイ、ポリ、とか、チュ、エ、マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながら可笑しく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。》と、暁星に通っていると推定される表現がされている。妻お延の甥にあたる岡本一も同じ学校へ通っていたと推定される。
暁星学校はパリのカトリック修道会・マリア会によって1888年、築地カトリック教会内に創設され、1890年に現在地(中学高校敷地)に移転し、暁星小学校設立。1899年には中学校が開校した。1902年、フランス陸軍の制服をモデルにした制服を制定し、制帽・制靴・制鞄も制定された。小学校は1913年に現在地へ移転した。
新見附は牛込見附と市ヶ谷見附の間の見附で、新見附交差点から法政大学市ヶ谷キャンパスの高い校舎が見える。この交差点脇に高浜虚子が住んでいた。この一画は靖国神社の裏手にあたる。
『それから』では、招魂社や新見附、番町などが出てくるが、《代助は堀端へ出た。この間まで向うの土手にむら躑躅が、団々と紅白の模様を青い中に印していたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草が生い茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処までもつづいている。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乗って、宅へ行って、嫂を調戯って、誠太郎と遊ぼうと思ったが、急に厭になって、この松を見ながら、草臥る所まで堀端を伝って行く気になった。新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民だと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。》と、外堀の土手のようすがよく描かれている。季節は春から夏にむかっていく。
地下鉄「九段下」駅1番出入口を上ると靖国通りで、九段坂を田安門交差点まで上がると、左手に常燈明台、奥の方に日本武道館がみえる。右折すると左手に靖国神社、右手に東京理科大学校舎(偕行社跡)がある。少し行くと、右手へ中坂が下っており、その先、和洋九段女子高校・中学校(旧、和洋裁縫学校)の前から右折すると、冬青木坂が下っている。和洋九段女子高校の隣りには暁星中学校高等学校(旧、暁星中学校、小学校)がある。
『それから』には、《留めるのを外へ出て、飯を食って、髪を刈って、九段の上へ一寸寄って、又帰りに新宅へ行ってみた。三千代は手拭を姉さん被りにして、友禅の長襦袢をさらりと出して、襷がけで荷物の世話を焼いていた。》という記述がある。九段の上と言っても、具体的にどこをさしているのかはっきりしない。平岡夫妻が神田の宿から新宅へ引越す日。代助は神田の宿に顔を出した。
招魂社は現在では靖国神社と呼ばれるが、1869年に戊辰戦争戦没者を慰霊する目的で建立されたもので、1879年、靖国神社と改称された。
『吾輩は猫である』では、苦沙弥先生の家に迷亭が来ている時、金田夫人が訪ねて来る。《鼻だけは無闇に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けた様に見える。三坪程の小庭へ招魂社の石燈籠を移した時の如く、独りで幅を利かしているが、何となく落ち付かない。――》と、金田夫人の鼻は、このように例えられる。招魂社は苦沙弥先生の姪雪江と、先生夫人の会話の中にも登場する。二人の会話に口をはさんだ長女とん子は、《「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女すん子が姉さんに向って斯様な相談を持ちかけた。「御ねえ様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きましょう。ね?いや?いやなら好いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」「坊ばまで行くの」と遂には坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。斯様に三人が顔を揃えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう》。漱石は何度も招魂社を出しているが、招魂社そのものを描写した文章は見当たらない。
招魂社参道口の真向かい、飯田町二丁目52番地に建てられたのが偕行社で、陸軍の士官の社交クラブであった。現在は東京理科大学の校舎が建っている。ここから靖国神社を見ると、参道がまっすぐ上って、その先に大鳥居がそびえたっている。靖国通りの方を見ると、道路の向い側に燈明台が立ち、そのむこうに日本武道館が見える。『三四郎』に偕行社と燈明台の話題が出てくる。
三四郎は借家探しをしている与次郎・広田先生と出会った。《それから三人は元の大通りへ出て、動坂から田端の谷へ下りたが、下りた時分には三人ともただ歩いている。貸家の事はみんな忘れてしまった。ひとり与次郎が時々石の門の事を云う。麹町からあれを千駄木まで引いてくるのに、手間が五円程かかったなどと云う。(略)少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、奇麗に地平をした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見ていた。「時代錯誤だ。日本の物質界も精神界もこの通りだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」「先生冗談云っちゃ不可ません。なんぼ九段の燈明台が旧いたって、江戸名所図会に出ちゃ大変だ」広田先生は笑い出した。実は東京名所と云う錦絵の間違だと云う事が解った。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っている傍に、偕行社と云う新式の煉瓦作りが出来た。二つ並べて見ると実に馬鹿気ている。けれども誰も気が付かない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと云う》。ここで出てくる燈明台は招魂社の御燈明として、また東京湾を航行する船舶の目印として、1871年、参道口につくられた(現在は、千鳥ケ淵北端、田安門入口付近に移設)。したがって、江戸時代にあるはずがない。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町③

今回は時代を関東大震災以前と震災および以後に分け、富士見地区から順に南へみていくことにしたい。
富士見地区は飯田橋から新見附の間の、外濠の内側つまり南側にあたる。
《自分は事務所へ通う動物の如く暮していた。すると五月の末になって突然三沢から大きな招待状を送って来た。自分は結婚の通知と早合点して封を裂いた。ところが案外にもそれは富士見町の雅楽稽古所からの案内状であった。「六月二日音楽演習相催し候間同日午後一時より御来聴被下度候此段御案内申進候也」と書いてあった。(略)六月二日は生憎雨であった。十一時頃には少し歇んだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外の柳は烟のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉か黴が着物にくっ付いて何時までも落ちないように感ぜられた。雅楽所の門内には俥が沢山並んでいた。馬車も一二台いた。然し自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕のついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行って呉れた》。これは漱石の『行人』の一節で、三沢がある女性を引き合わせる場として、富士見町の雅楽稽古所が使われている。
江戸城地域への出入りをチェックする見附は城門の外にある。ここで出てくる見附は牛込見附である。宮内省雅楽稽古所(式部寮雅楽部)は富士見町五丁目14番地にあり、神楽坂下(牛込見附)から牛込橋で外濠を渡れば、すぐ右側にある。現在の住所は富士見二丁目で、警察病院が移転した後、日本歯科大学が建っている。牛込停車場側の隣には朝倉病院がある。現在の飯田橋郵便局が当地にあたる。
この後、『行人』では、《我々は又元の席に帰って二三番の欧洲楽を聞いた後、漸く五時頃になって雅楽所を出た。周囲に人が居なくなった時、三沢は漸く「もう一人の女」の事に就いて語り始めた。彼の考えは自分が最初から推察した通りであった。「どうだい、気に入らないかね」「顔は好いね」「顔だけかい」「あとは分らないが、然し少し旧式じゃないか。何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね」「家庭が家庭だからな。然しああいうのが間違がないんだよ」二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒く空に映った。自分は三沢と飽かず女の話をした。彼の娶るべき人は宮内省に関係のある役人の娘であった。その伴侶は彼女と仲の好い友達であった。三沢は彼女と打ち合せをして、とくに自分のためにその人を誘い出したのであった。自分はその人の家族やら地位やら教育やらについて得らるる限りの知識を彼から供給して貰った。自分は本末を顛倒した雅楽所で三沢に会うまでは、Hさんと兄とがこの夏一所にするという旅行の件を、その日の問題として暗に胸の中に畳み込んでいた。雅楽所を出る時は、それがほんの付けたりになってしまった。自分は愈彼に別れる間際になって、始めて四つ角の隅に立った。》と、雅楽所の内部の様子なども記されている。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町②

おなじみの七文豪のうち、この地域に住んだのは泉鏡花、島崎藤村、それに永井荷風であるが、少なくとも坊っちゃんに登場する清には、「麹町」というと、高級住宅街、金持ちの住むところという意識があったようだ。漱石の『坊っちゃん』の一節には、《それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。(中略)ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ》と書かれている。
鏡花が麹町に住んだ最初は1905年、土手三番町30番地。台地下のじめじめした土地で、家の中にきのこが生えるくらいであったことが『くさびら』に記されている。1910年、鏡花は台地上の下六番町11番地に転居し、1939年に亡くなるまで住む、終の棲家となった。藤村は下六番町17番地に新築し、1937年から1941年まで住んだ。現在では、土手三番町は五番町、下六番町は六番町、一番町は三番町に改名されている。
荷風は1890年から翌年にかけて永田町1丁目21番地三ベ坂上の文部省官舎に住み、1894年から一番町42番地に住んだ。多感な少年期である。永井家が住んでいた官舎は、庭先が急な崖になっており、物凄い竹藪で、夏の夕なお、この竹藪から何十匹となくヒキガエルがはい出して来て、気味悪かったと荷風は思い出している。荷風はさらに、《この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて独逸公使館の立っている高台の背後がやはり樹木の茂った崖になっていた。》と続けている。永井家の人たちが住んでいた官舎は現在の永田町1丁目11番の一画で、独逸公使館があったところには現在、国立国会図書館が建っている。国立国会図書館西側の道が荷風の言う「一筋の細い裏通」に相当する。崖が形成されているところは、議員会館裏手を走る谷筋の谷頭(浸食が始まるところ)に当たり、高さは数m程度であろう。今日では地形が改変され、谷筋がわかりにくくなっている。麹町台もこの付近、標高29mに達する地点がある。

【関連情報】 順番が変わった番町
番町の道路は直線的で、直交しているものも多いが、T字路や、わずかに食い違った交差点もみられる。番町の地名は、江戸城の裏手を守る番方が住んでいたことに由来するが、番方は、あっちに一番、こっちに二番とバラバラに六番まで配置され、明治になって番方がなくなっても、地名だけ残ってしまった。そのため江戸時代以来、漱石の時代においても、一番町から六番町はバラバラに存在し、しかも、一番町・上二番町・下二番町・三番町・土手三番町・四番町・五番町・上六番町・中六番町・下六番町の全部で10の町に分かれていた。二松学舎は一番町(現在は三番町)、英国大使館は五番町(現在は一番町)にある。『門』の佐伯家は中六番町二十五番地と、じつに細かく設定されている。これでは不便であり、昭和に入ってから、五番町は一番町、一番町は三番町、土手三番町は五番町というふうに、一番から六番まで整然と並ぶように再配置された。現在では番町は一番町から六番町まで順序良く並んでいる。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と麹町①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座、浅草、神田、深川、神楽坂そして外濠の順で東京を巡って来たが、七人がそろって登場する地域はほとんどなく、この館の主である漱石がまるで登場しなかった地域もある。これはこれで、それぞれの文豪とその地域との関りの濃淡を示すものとして興味深いことである。もちろん、その地域へ行くことと作品に描くことは別で、銀座などは作品に描いても描かなくても、いずれも馴染みの場所としている。

15区および35区時代の麹町区は、23区に再編される際、神田区とひとつになって現在の千代田区になった。麹町区は皇居を中心に旧江戸城の外濠(神田川・日本橋川含む)に囲まれた地域で、したがって飯田町や大手町、日比谷さらに永田町なども含まれていた。
今回テーマとして取り上げる麹町は、皇居の西から北西にかけての地域である。北から西にかけて外濠で限られ、飯田橋から新見附にかけて富士見地区、九段坂を上って市ヶ谷へむかう靖国通りの両側にあたる九段地区、その南に麹町の通り(新宿通り、旧甲州街道)にかけての番町地区、麹町の通りの南側、青山通りまでの間にある平河町地区、その西の紀尾井町地区などに分けられる。この地域、武蔵野台地の先端部にあり、高台ではあるが、浸食によってできた谷がいく筋もみられ、地形的には変化に富んでいる。
荷風は『日和下駄』で「上二番町辺りの樹木谷へ下りる坂」と書いているが、ここで出てくる樹木谷も谷筋のひとつ。現在の麹町4丁目辺りから東北東にのびる樹木谷は、善国寺谷あるいは地獄谷とも呼ばれる。上二番町とは現在の一番町で、女子学院などがある。荷風は樹木谷へ下る坂は、赤坂喰違より麹町清水谷へ下る急坂に同じであると紹介している。樹木谷は木々が生い茂っていたところから名づけられたと思われるが、「地獄谷」の音が転化したとも考えられる。

麹町の地域には大学や高校など学校がたくさんある。大使館も多い。藤村が勤めた明治女学校もこの地域にあったし、鏡花の『夜行巡査』に登場するイギリス公使館(現、大使館)もこの地域である。
大学では、日本歯科大学、法政大学、二松學舍大学、上智大学、城西大学、大妻女子大学、日本大学(通信教育など)などがある。このうち、漱石も学んだ二松學舍の流れをくむ二松學舍大学には漱石のアンドロイドが存在する。
高校では、暁星高校、和洋九段女子高校、三輪田学園高校、大妻高校、白百合学園高校、武蔵野大学附属千代田高等学院、雙葉高校、女子学院高校、麹町学園女子高校、永田町の方まで行くと日比谷高校がある。暁星は漱石の息子たちが小学校へ通った。また、藤村の姪にあたる島崎こま子は三輪田学園に在籍した。
大使館では、イギリス、ベルギー、アイルランド、ルクセンブルグ、ポルトガル、イスラエル、イエメン、インド、バングラデシュ、東ティモール、チュニジア、ベナン、リベリア、南アフリカ共和国、ドミニカ、パラグアイ、それにローマ法王庁大使館や駐日欧州委員会代表部などもある。
1953年、この地域に高さ154mのテレビ塔が出現した。日本テレビである。2004年、本社機能などは新橋へ移転したが、一部機能は残り、「日テレ通り」の名称もそのまま使用されている。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑬

「文豪と日本橋」を締めくくるのは芥川龍之介の『妖婆』(1919年)である。この作品は文明の世に起きる摩訶不思議な話し、しかも舞台は東京という、龍之介の作品の中でも異色である。この話の主人公は、「平常私の所へ出入をする」出版書肆の若主人新蔵で、日本橋に住んでいる。これは期待がもてる、と思いきや、舞台のほとんどが本所両国辺りで、日本橋界隈の描写などまったくない。
そうこうしているうちに、《泰さんは新蔵の顔を見ると、手をとらないばかりにして、例の裏座敷へ通しましたが、やがてその手足の創痕だの、綻びの切れた夏羽織だのに気がついたものと見えて、「どうしたんだい。その体裁は。」と、呆れたように尋ねました。「電車から落っこってね、鞍掛橋の所で飛び降りをしそくなったもんだから。」「田舎者じゃあるまいし、――気が利かないにも、ほどがあるぜ。だが何だってまた、あんな所で、飛び降りなんぞしたんだろう。」――そこで新蔵は電車の中で出会った不思議を、一々泰さんに話して聞かせました。》という場面。鞍掛橋は浜町川復活によって明治に再架橋されたもので、馬喰町と小伝馬町の間にあり、市電も通っていた。鞍掛橋の名が登場したものの、主人公は、すぐ東両国へ行ってしまう。何ともあっけない。「文豪と日本橋」も締まりのない形で終わらざるを得ない。
                          (完)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑫

「路地」の話題に移った荷風。日本橋地域では、日本橋際の木原店、八丁堀北島町の路地、両国の広小路に沿って石を敷いた小路、横山町辺のとある路地などを紹介している。路地の多い地域である。
〇日本橋際の木原店:軒並み飲食店の行燈が出て、食傷新道の名がつく。――白木屋の裏手にあり、木原店という寄席があったところから名づけられた。漱石も『三四郎』で寄席としての木原店を登場させ、『こころ』では先生が下宿の奥さんに連れられて、木原店の横丁で食事をごちそうになっている。
〇八丁堀北島町の路地:いつも夜店でにぎわう。片側に講釈の定席、片側に娘義太夫の定席が向かい合っている。堂摺連の手拍子は毎夜張扇の響きに打ち交じる。――北島町は現在の日本橋茅場町2・3丁目。南に隣接するのが八丁堀1丁目。堂摺連は「どうする、どうする」と掛け声をかけるところから名づけられたと言われる娘義太夫の熱烈なファンで、追っかけ。とくに竹本綾之助は絶大な人気を博し、「会えるアイドル」の先駆け的存在で、堂摺連の一人と結婚、引退した。
〇両国の広小路に沿って石を敷いた小路:小間物屋・袋屋・煎餅屋など種々の小売店がにぎわう。まさしく屋根のない勧工場の廊下。――両国広小路は江戸期には見世物小屋や茶屋ができてにぎわったところ。現在の東日本橋2丁目。「屋根のない勧工場の廊下」に屋根をつけたのが現在のアーケード街であろうか。
〇横山町辺のとある路地:立派に石を敷き詰めた両側ともに、長門筒・袋物・筆など製造している問屋ばかり続く。路地一帯が倉庫のように思われる。――横山町は元禄頃からの問屋街で、「横山町へ行けば何でも揃う」と言われた。現在の日本橋横山町。
また、芸者屋の許可された町の路地として、新橋・柳橋の路地より、新富座裏の一角を、そのあたりの堀割の夜景、芝居小屋の背面を見る様子が最も趣がある、と記している荷風は、このような路地の中で、《最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは葭町の芸者家町であろう。》として、《わが拙作小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。》と語っている。そういえば、神楽坂も路地が多い。
この後、しばし路地に関する文章が続き、《路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明には描き出されていない。》と来る。《どこから這入って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず行止りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。》と記した荷風は、路地には中橋とか狩野新道とか江戸時代から伝承してきた古い名称のあるものも少なくないが、その土地に住み古したものの間にのみ通用する名前で、東京市の市政が認めて公の町名になっているものは恐らく一つもないだろう、とした上で、《路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。》と、いかにも荷風らしい「路地論」を展開している。
そして、そのような路地自体が荷風にとって小説の舞台であり、芝居の舞台となるのであろう。荷風は、《凡てこの世界のあくまで下世話なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞいう道具立と一致している。この点よりして路地はまた渾然たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。》と、路地の項を結んでいる。

中橋:江戸時代前期、日本橋と京橋の間にある堀割に架けられていた橋。現在の日本橋3丁目、八重洲交差点の位置にあたる。橋はなくなったが、中橋広小路町などの地名として残った。
狩野新道:現、京橋1丁目。北側に狩野永徳の住居があったことから名づけられたという。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑪

その荷風が『日和下駄 一名 東京散策記』を書いたのは1914年である。「東京の街歩き」を趣味とする荷風。「運河」に話題が移って、運河の眺望は隅田川の両岸よりも一体にまとまった感興を起させると、荷風は第一声。
深川の小名木川はもちろんだが、他にも一例を挙げれば、中洲と箱崎町の出端との間に深く突入っている掘割を、箱崎町の永久橋、または菖蒲河岸の女橋から眺めやると、水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなして、薄暮風収まる時、競って炊烟を棚曳かせるさまは、まさに江南沢国の趣をなしていると、想いは中国まで飛んでしまう。
当時、隅田川沿岸にある中洲や箱崎町は堀割で隔てられて島状を呈し、浜町川が流入する辺りは堀割の十字路になっていた。中洲をつなぐ橋は男橋と女橋の二つ。箱崎町をつなぐ橋は土州橋、永久橋など六つ。女橋と浜町川の川口橋が交差点の横断陸橋のように架かっていた。中洲と箱崎町をつなぐ橋や隅田川に架かる橋はなかった。荷風はすべて溝渠運河の眺望の最も変化に富み、かつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように、あちらこちらから幾筋の細い流れが、やや広い堀割を中心にして一か所に落ち合って来る処であると評している。
そのような風景の中で、荷風は日本橋を背にして江戸橋の上から菱形をした広い水の片側に荒布橋・思案橋、片側に鎧橋を見る眺望を、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑踏と合わせて、東京市内の堀割の中で最も偉大なる壮観を呈する処と評し、歳暮の夜景の如き橋上を往来する車の灯は、沿岸の燈火と相乱れて徹宵水の上に揺き動くありさまは銀座街頭の燈火より遥かに美麗であると、絶賛である。こうやってみると、荷風もただ江戸情緒のみを追い求めているのではないことが見えて来る。
この荷風が絶賛した場所。日本橋川が西から来て南へ曲がるところで、北から二つの並行する堀割(西堀留川・東堀留川)が合流し、南へ楓川が分岐する。荒布橋・思案橋・鎧橋・兜橋・江戸橋で囲まれた日本橋川の水域は菱形になっている。西側の水路に架かるのが荒布橋、東側が思案橋、日本橋川に江戸橋と鎧橋、楓川に兜橋。鎧橋と兜橋の間の地区には株式取引所(現、東京証券取引所)がある。まさに日本経済の中心地とも言える。
また、閑地の項で荷風は、市中繁華な町の、倉と倉との間や荷船の込み合う堀割近くにある閑地には、今も昔と変わりなく、折々紺屋の干場または元結の糸繰場などになっている処があると記し、それらの光景に北斎の画題を思い起している。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑩

荷風の『すみだ川』(1909年)では主人公長吉の幼なじみお糸が葭町の芸者になるので、学校をさぼって長吉が葭町まで行く場面で、葭町界隈が描かれる。
長吉の通う学校は神田。今戸から浅草寺の境内を抜け、浅草橋まで出て、柳原通りを西進して神田へむかったと思われる。すべて徒歩である。
約束の日、お糸は帰って来たが、あっという間にすべてが芸者になっており、長吉は《幼馴染の恋人お糸はこの世にはもう生きていないのだ》と思う。朝七時前に家を出たもの気の進まない長吉は、浅草寺本堂横手のベンチに腰を下ろしたが、お参りに現れた若い芸者を見て、急にお糸のことを思い出し、もう居ても立ってもいられない。その芸者の後を追ったが見失い、《長吉は夢中で雷門の方へどんどん歩いた》。
ついに長吉は《学校の事も何も彼も忘れて、駒形から蔵前、蔵前から浅草橋……其れから葭町の方へどんどん歩いた。然し電車の通っている馬喰町の大通りまで来て、長吉は何の横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生まれたものだけに道をきくのが厭である。恋人の住む町と思えば、其の名を徒に路傍の他人に漏すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐ろしくてたまらない》。
長吉は左へ左へと折れ、蔵造の問屋らしい商家の続いた同じような掘割の岸に二度出て、《遥か向うに明治座の屋根を見てやがて稍広い往来へ出た時、その遠い道のはづれに河蒸気船の音が聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚った》。すでに竃河岸は埋められているので、掘割は浜町川であろう。おそらく蠣濱橋辺りだろう。ここから藤村が若い日を過ごした吉村家のある日本橋浜町2丁目11番地の道をまっすぐ。隅田川に出る。
とにかくやっと、お糸が身を置く松葉屋を見つけ、お糸が出て来るのを待つが、人目につくだけで、朝早くから出て来るはずもないだろう。長吉は浜町の横町を大川端の方へ歩くが、両国橋と新大橋との間を一回りして、浅草の方へ帰ろうとするが、もしやの思いに葭町へ取って返し、おそるおそる松葉屋の前を通ってみた。出て来て欲しいような、出て来て欲しくないような、このような気持ち、身に覚えがある。長吉は《恋人の住む家の前を通ったと云うそれだけの事が、殆んど破天荒の冒険を敢てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを》遂に後悔しなかった。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑨

夏期学校へ行くため田辺の家から学校へ向かう捨吉。《学校まで捨吉は何にも乗らずに歩いた。人形町の水天宮前から鎧橋を渡り、繁華な町中の道を日影町へととって芝の公園へ出、赤羽橋へかかり、三田の通りを折れまがり、長い聖坂に添うて高輪台町へと登った》。捨吉は田辺の家を出て蠣濱橋まで来ると、浜町川に沿って、ひとつ下流の中ノ橋を渡り、水天宮の前から鎧橋を渡り、この後は京橋・銀座の繁華な街を裏道、近道など使いながら、高輪を目指している。
また、母と別れて田辺の家をあとに、学校へ向かう捨吉は、《お母さんに別れを告げて、捨吉は田辺の家を出た。学校の寄宿舎を指して通い慣れた道を帰って行く彼の心は、やがていっしょに生長って行った年の若い人たちの中を帰って行く心であった。明治座の横手について軒を並べた芝居茶屋の前を見て通ると、俳優への贈物かとみゆる紅白の花の飾り台なぞが置かれ、二階には幕も引き廻され、見物の送迎にいそがしそうな茶屋の若い者が華やかな提灯の下を出たりはいったりしていた。田辺の小父さんばかりでなく、河岸の樽屋までも関係するという新狂言の興行がまたはじまっていた。久松橋にさしかかった。若い娘たちの延びてきたにはさらに驚かれる》。《捨吉は人形町への曲り角まで歩いた》。江戸時代から芝居小屋が多かった浜町河岸の様子が伝わってくる。明治座は当時千鳥座で、焼失していた。
捨吉は竃河岸に沿うように人形町の通りまで出て、さらに現在の人形町交差点にあたるところから左折し、芳町へ。この辺一帯、江戸時代の「葭原(吉原)(葭原)」遊郭の地。《その日は、捨吉は芳町から荒布橋へととって、》《小舟町を通りぬけて捨吉はごちゃごちゃと入組んだ河岸のところへ出た。荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣れた市街の中でもその辺はことに彼が好きで歩いて行く道だ。鎧橋のほうから掘割を流れてくる潮、往来する荷船、河岸に光る土蔵の壁なぞは、いつ眺めて通っても飽きないものであった》。この地域を貫流するのが隅田川に流入する日本橋川。江戸橋が架かる辺り、北へ二本の水路が入り込み、南に楓川が三十間堀、八丁堀へ延びている。東側の北水路には親父橋、西側の方に荒布橋が架かり、この間が小舟町で、日本橋川沿いは末廣河岸。まさに「ごちゃごちゃと入組んだ河岸」である。江戸橋の一つ下流の橋が鎧橋。この辺りでも東京湾の干満の影響を受ける。「鎧」があるなら「兜」も。楓川に架かるのが兜橋。末廣河岸の対岸、この二つの橋の間にあるのが、日本橋兜町の東京証券取引所。藤村は江戸・東京の経済活動の中心地を巧みに描き出している。
江戸橋から西へ数百mで日本橋。《いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通う日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町のほうへ廻って、そこで品川通いのがた馬車を待つかした》。この後、捨吉は、《その日は何も乗らずに学校まで歩くことにして、日本橋の通りへかからずに、長い本材木町の平坦な道を真直にとって行った》。江戸橋をまっすぐ南へ。楓川に沿って京橋川まで本材木町が続く。1丁目、2丁目は日本橋区、3丁目は京橋区で確かに長い。捨吉は白魚橋のところから京橋へむかい、銀座通りへ入って、高輪をめざす。
『桜の実の熟する時』では、《麹町に住む吉本さんの家を指して、捨吉は田辺の留守宅のほうから歩いて行った。》という場面もある。吉本とは藤村を明治女学校に招いた巌本善治のことであろう。木村熊二とともに明治女学校の設立に尽力し、1887年に教頭に就任している。この場面の設定時期は1891年9月下旬である。
《彼は久松橋の下を流れる掘割について神田川の見えるところに出、あの古着の店の並んだ河岸を小川町へととり、今川小路を折れ曲った町の中へはいって行った。京橋日本橋から芝の一区域へかけては眼をつぶっても歩かれるほど町々を暗記じていた彼にも、もう神田へはいるとたまにしか歩いてみない東京があった》。どうやら、藤村に道案内してもらえば、迷うことはなさそうだ。
捨吉は浜町川に沿って北西に、小川橋、鞍掛橋、神田区に入って橋本橋と過ぎ、柳原橋のところで神田川へ出た。神田川沿いに柳原河岸を和泉橋、万世橋、須田町から淡路町、小川町、そして九段坂を上って麹町を目指した。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑧
  
漱石の作品に登場したのは、日本橋を中心とした地域であるが、藤村の『桜の実の熟する時』に登場するのは、浜町を中心とした地域である。
『桜の実の熟する時』に田辺として登場するのは吉村家。当主の吉村忠道は、藤村の父正樹が亡くなった翌年にあたる1887年、日本橋浜町3丁目1番地に引越した。寄宿する藤村は、そこから神田の共立学校へ通い、9月から明治学院へ通い始めた。当時の日本橋浜町3丁目1番地は現在の日本橋箱崎町30~44番全域にあたるため、番地だけで吉村家があった場所を特定することはできない。その後、吉村家は日本橋浜町2丁目11番地に引越した。現在も日本橋浜町2丁目で、関東大震災後、浜町公園がつくられている。
11番地は浜町公園前の通り付近から北側、浜町川から隅田川まで帯状に延びる一帯。浜町川は1972年までには埋め立てられ緑道になっているが、浜町川には蠣濱橋が架かり、そのひとつ上流の久松橋の前には明治座があった(明治座は関東大震災で焼失後、100mほど東に移転し、現在地に1928年に再建された)。明治座は1873年に喜昇座として設立後、久松座、千鳥座と改称を繰り返し、1890年に焼失。その後、再建され、1893年に明治座と改称した。蠣濱橋と久松橋の間の浜町河岸周辺には、江戸時代、芝居小屋や遊郭が多かった。

『桜の実の熟する時』で藤村は、捨吉が学校のある高輪と田辺の家がある日本橋浜町とを往来する経路や交通手段を極めて克明に描かれている。
1890年、3学年を終えて夏休みになり、田辺の家に帰る捨吉。日本橋小伝馬町で乗合馬車を下車し、《人形町の賑かな通を歩いて行って、やがて彼は久松橋の畔へ出た。町中を流れる黒ずんだ水が見える。空樽を担いで陸から荷舟へ通う人が見える。竈河岸に添うて斜に樽屋の店も見える。何もかも捨吉にとっては親しみの深いものばかりだ。明治座は閉っているころで、軒を並べた芝居茶屋まで夏季らしくひっそりとしていた。そこまで行くと田辺の家は近かった。表の竹がこいの垣が結い換えられ、下町風の入口の門まですっかり新しくなったのがまず捨吉の心を引いた》。当時の日本橋浜町界隈が克明に描かれている。
日本橋小伝馬町の停留所は、現在の地下鉄日比谷線小伝馬町がある小伝馬町交差点付近。ここから人形町の通りを現在の人形町交差点まで来て左折。300mほどで小川橋。橋を渡って右折して浜町川沿いに、まもなく久松橋。この辺りから蠣濱橋にかけての浜町川両岸が浜町河岸。江戸時代から芝居小屋が多かった。藤村は一般的にわかりやすいと思って明治座の名称を使っているが、1890年当時はまだ千鳥座で、焼失した後だった。久松橋の畔から西へ入り込む水路は竃(へっつい)河岸と呼ばれ、かつて竃をつくる家が多かったところから名づけられたとも。延長200mほどの水路は、吉原遊郭の曲輪の一部とも言われる。この竃河岸、1888年に廃止され埋め立てられたことになっている。けれども藤村が設定した1890年に、水路はまだ残っている。おそらく順次埋め立てられ、1905年には完全に埋め立てられたと考えられる。1907年の地図から竃河岸は完全に消えている。いずれにしても、藤村によって、この界隈の貴重な情景が残されたことになる。久松橋から近いということで、吉村家は現在の明治座付近にあったのではないだろうか。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑦

日本橋交差点を過ぎ、高島屋デパート(日本橋高島屋、1900年開店)の前まで来ると、むかいに丸善がある。丸善は早矢仕有的が1869年、福沢諭吉の勧めによって横浜に創業した球屋商社(まるやしょうしゃ)が始まりで、翌年、現在地(日本橋二丁目3-10)に日本橋店がつくられた。社名は後に、球屋から丸屋、さらに丸善と改められた。輸入販売をおこなう丸善は、洋書・薬品・医療機器を皮切りに、西洋小間物雑貨・西洋家具をはじめさまざまな輸入品を扱い、1907年から販売を始めたオノト万年筆(英国デラルー社製)は漱石も愛用した。1910年、丸善は4階建て赤煉瓦造りの本社社屋を竣工した。エレベーターがついた、わが国初の鉄骨建築である。
丸善は多くの文豪に愛され、作品にも登場する。漱石には3作品ある。まず、『吾輩は猫である』では、吾輩に迷亭の相手をまかせて、苦沙弥先生は外出する。迷亭は吾輩だけでは不足とみえて、細君を話しに引っ張り出す。《「ほかの道楽はないですが、無暗に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取て来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜って大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」》。
『それから』でも代助が丸善に本を注文している。《寺尾の御蔭で代助はその日とうとう平岡へ行きはぐれてしまった。晩食の時、丸善から小包が届いた。箸を措いて開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であった。代助はそれを腋の下に抱え込んで、書斎へ帰った》。
『こころ』の私は大学を卒業して、一旦国へ帰る。その前に母から頼まれたものを買わなければならなかった。それから私は丸善へ入っている。《私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものを予め作って置いたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った》。
龍之介の『歯車』(1927年)には丸善が出てくる。《僕の銀座通りへ出た時にはかれこれ日の暮も近づいていた。僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂鬱にならずにはいられなかった。(中略)僕は薄明るい外光に電燈の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った》。どうやら彼は中央通りを北へ、銀座から京橋、そして日本橋界隈へ入って来たようである。《そのうちに僕の目を捉えたのは雑誌などを積み上げた本屋だった。僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた》。こうして彼は丸善に入った。
《僕は丸善の二階の書棚にストリンベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。》と、この後、本の紹介などがあり、《日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。それから「宗教」と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した》。
ここでまた本の紹介。本屋に入ったのだから仕方ないが、丸善店内の様子を垣間見ることはできる。《僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた》。ここで彼は「韓非子」の中の屠竜の技の話を思い出し、《展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた》。丸善も当時の龍之介の精神状態を反映するかのように描かれている。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑥

日本橋三越の東側に日本橋瀬戸物町がある。現在ともに日本橋室町二丁目になっている。ここに伊勢本という寄席のあったことが『硝子戸の中』に、《私は小供の時分能く日本橋の瀬戸物町にある伊勢本という寄席へ講釈を聴きに行った。今の三越の向側に何時でも昼席の看板が掛かっていて、その角を曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。この席は夜になると、色物だけしか掛けないので、私は昼より外に足を踏み込んだ事がなかったけれども、度数からいうと一番多く通った所の様に思われる。》と記されている。当時漱石は浅草に住んでいたが、片道でも4kmくらいある道を、電車のない時代、歩いて来たものか、人力車で来たものか、とにかく連れて来たのは養父の塩原昌之助であろう。兎にも角にも、作家漱石にとってこの寄席が大きな肥やしになっていることは確かである。

日本橋から中央通りを南へ。地下鉄「日本橋」駅C5番出入口を上ると、永代通りと昭和通りが交わる江戸橋一丁目交差点北西角で、永代通りを日本橋交差点にむかって行くと、まもなくコレド日本橋がある。ここには、かつて白木屋デパートが建っていた。
『吾輩は猫である』では、苦紗弥先生の細君が「どんなのが月並なのか」と迷亭に問答を仕掛ける。《「何そんな手数のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首を捻ったまま納得し兼たと言う風情に見える。「君まだ居るのか」と主人はいつの間にやら帰って来て迷亭の傍へ坐わる。》と、妙なところで白木屋が出る。つづいて、金田の令嬢と小間使いの会話。《「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶へ相撲の番附を染め出したので御座います。妾しには地味過ぎていやだから御前に上げようと仰っしゃった、あれで御座います」》。また、迷亭が苦沙弥先生夫婦に静岡在住の伯父について語る場面でも、大丸・白木屋の名が出てくる。《「(略)洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ・・・」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間違えたんだあね」》。「新しもの好き」には、この一文でもじゅうぶん東京への魅力をかきたてられる。
白木屋は江戸時代創業の木材商。呉服商から百貨店になった。1911年に増築された建物は、八角形の和洋折衷塔屋付き三階建てで、エレベーターがついていた。後に白木屋は東急デパートになったが、玄関には白木名水の井戸が置かれ、屋上に井戸から発見された白木観音が祀られた。大丸の方は1910年、関西に主力を注ぐため、東京・名古屋の店舗を閉じた。コレド日本橋5階には、早稲田大学日本橋キャンパスがある。
コレド日本橋の中央通路を通って裏手へ出ると、「漱石名作の舞台の碑」がある。これは早稲田大学が建立したもので、2005年6月27日除幕式がおこなわれた。この辺りにかつて寄席の木原店があった。通りは日本橋通一丁目東新道とよばれた。『三四郎』では与次郎が三四郎を誘い出し電車に乗る。本郷四丁目から新橋、引き返して日本橋まで来て、《そこで下りて、「どうだ」と聞いた。次に大通から細い横町へ曲って、平の家と云う看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を呑んだ。其処の下女はみんな京都弁を使う。甚だ纏綿している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又「どうだ」と聞いた。次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。三四郎は物足りたとは答えなかった》。木原店界隈の雰囲気は伝わってくる。
それは、『こころ』においても同様である。奥さんが私と御嬢さんを誘い出す。《三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。(略)こんな事で時間が掛って帰りは夕飯の時刻になりました。奥さんは私に対する御礼に何か御馳走すると云って、木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家も狭いものでした。この辺の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚ろいた位です》。
漱石もこの辺り、時どき訪れていたのであろうか。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋⑤

龍之介の『魚河岸』(1922年)は《去年の春の夜、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。》という一文で始まる。三人とは、俳人の露柴、洋画家の風中、蒔絵師の如丹。四人は日本橋の方へ歩いて行く。ついに河岸の取つきへ来てしまって、このまま河岸を出抜けるのは物足りない。《するとそこに洋食屋が一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。》と、四人は店に入る。
それぞれに注文したものを飲食し、おしゃべりをする。そこへ中折帽をかぶった客が、如丹と若い衆との間の席に大きい体を割り込ませる。保吉はライスカレエを掬いながら嫌な奴だと思い、《これが泉鏡花の小説だと、任侠欣ぶべき芸者か何かに、退治られる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた》。ところが、この男に「幸さん」と呼ぶものがあり、男はたちまち当惑。《「やあ、こりゃ檀那でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主に御辞儀をした。声の主は俳人の露柴、河岸の丸清の檀那だった。》《それから側目には可笑しいほど、露柴の機嫌を窺いだした。……》。龍之介はこのように書いて、《鏡花の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未にあの通りの事件も起るのである。》と続けている。

日本橋界隈にある三越(三井越後屋)・白木屋・大丸と、いずれも呉服屋から百貨店になったもので、白木屋はいち早く洋服に乗り出していた。日本橋を南へ行くと白木屋。北へ行くと三越である。
北へ日本橋を渡り終わると、中央通りは「くの字」に曲る。左手斜め前方に三越デパート新館、続いて本店がある。本店を過ぎたところの交差点を右折すると、旧日本橋瀬戸物町にはいる。左折して三越デパート本店と三井本館の間を行くと日本銀行本店がある。日本橋界隈を歩いてみると、ここが日本経済の一大中枢であることが感じ取れる。
三越は江戸時代の1673年、越後屋呉服店として駿河町に創業し、1904年に三越呉服店、翌1905年、日本で初めてのデパートメントを宣言した。つまり、漱石が『吾輩は猫である』を書いていた時、三越も大きな変革をとげていたのである。漱石の時代、三越呉服店は木造三階建て、欧風ルネサンス様式の店舗。周りには、黒々とどっしりした屋根をもつ商家が建ち並び、中には三階建てもあった。中央通りをさらに進み、今川橋を渡って神田区にはいったところ(神田鍛冶町)には、1907年、洋風三階建てに建て変わった松屋呉服店があった。
漱石の作品で三越は、実に6作品に登場する。
『趣味の遺伝』では、《古き空、古き銀杏、古き伽藍と古き墳墓が寂寞として存在する間に、美くしい若い女が立っている。非常な対照である。(略)こんな物寂びた境内に一分たりとも居るべき性質のものでない。居るとすればどこからか戸迷をして紛れ込んで来たに相違ない。三越陳列場の断片を切り抜いて落柿舎の物干竿へかけた様なものだ》。
『三四郎』では、同級生の親睦会に出席した翌日、三四郎が朝のうち湯に行った。《閑人の少ない世の中だから、午前は頗る空いている。三四郎は板の間に懸けてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が画いてある。その女の顔が何処か美禰子に似ている。能く見ると目付が違っている。歯並が分らない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたものは眼付と歯並である。与次郎の説によると、あの女は反っ歯の気味だから、ああ始終歯が出るんだそうだが、三四郎には決してそうは思えない》。
『それから』では、主人公長井代助の嫂について。代助は嫂梅子を好いている。《この嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である。わざわざ仏蘭西にいる義妹に注文して、むずかしい名のつく、頗る高価な織物を取寄せて、それを四五人で裁って、帯に仕立てて着てみたり何かする。後で、それは日本から輸出したものだと云う事が分って大笑いになった。三越陳列所へ行って、それを調べて来たものは代助である》。
『行人』では、主人公長野二郎の妹重子が嫂を嫌っている。《お重は何でも直むきになる代りに裏表のない正直な美質を持っていたので、母よりは寧ろ父に愛されていた。(略)最後に佐野さんの様な人の所へ嫁に行けと云われたのが尤も神経に障った。彼女は泣きながら父の室に訴えに行った。父は面倒だと思ったのだろう。嫂には一言も聞糺さずに、翌日お重を連れて三越へ出掛た》。 
『道草』では、健三と、姉の夫比田の会話の中で、《「健ちゃんは江戸名所図絵を御持ちですか」「いいえ」「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸と云った昔の日本橋や桜田がすっかり分るんだからね」(略)その健三には子供の時分その本を蔵から引き摺り出して来て、頁から頁へと丹念に挿絵を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町という所に描いてある越後屋の暖簾と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点となった》。
『明暗』では、お延が結婚前を懐かしく思い出している。《継子の居間は取りも直さず津田に行く前のお延の居間であった。其所に机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。硝子戸を嵌めた小さな棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇の花を刺繍にした籃入のピンクッションもそのままであった。二人してお対に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ》。
漱石にこれほど書いてもらえれば、三越も嬉しいだろうが、『虞美人草』の新聞連載にあやかって、三越は「虞美人草浴衣地」を発売し、飛ぶように売れており、漱石の恩恵はじゅうぶん受けている。そのようなこともあってか、本店屋上には2006年12月、「漱石の越後屋の碑」が建立された。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋④

葛木が雛祭りの翌夜、一石橋で巡査に尋問される場面は、《近間に大な建築の並んだ道は、崖の下行く山道である。峰を仰ぐものは多いけれど、谷を覗くものは沢山ない。夜はことさら往来が少い。》と描写される。日本橋川の両側も明治後期から大正にかけてビルも建ち、ビルの谷間になっていたのであろう。葛木が川を覗いていたのが不審に思われるきっかけになったようだ。
さらに、《その夜は、ちょうど植木店の執持薬師様と袖を連ねた、ここの縁結びの地蔵様、実は延命地蔵尊の縁日で、西河岸で見初て植木店で出来る、と云って、宵は花簪、蝶々髷、やがて、島田、銀杏返し、怪しからぬ円髷まじり、次第に髱の出た、襟脚の可いのが揃つて、派手に美しく賑うのである。それも日本橋寄から仲通りへ掛けた殷賑で、西河岸橋を境にしてこなたの川筋は、同じ広重の名所でも、朝晴の富士と宵の雨ほど彩色が変って寂しい》。
一石橋の下流、次の西河岸橋から日本橋にかけては賑わっているが、一石橋辺りは静かで、カラーとモノクロの違い。《夜は、間遠いので評判な、外濠電車のキリキリ軋んで通るのさえ、池の水に映って消える長廊下の雪洞の行方に擬う》。一石橋は外濠線の電車が通る。巡査の尋問を切り抜けさせたお孝が、《「そうね……姉さんの御志で、お雛様の栄螺と蛤を、一石橋から流すと云うのに一人ぽっち。それまで檜物町に差向いでいた芸者が、一所に着いて来ない意気じゃ、成程出来ていませんね」》と、葛木に絡む。芸者の清葉は檜物町。あっという間に恋愛が成立するという今宵に、お孝の痛烈な皮肉。
「空蝉」では、植木屋の甚平爺さん登場。一石橋の上で清葉が行合う。甚平が元数寄屋町の中程の煎餅屋の爺だった頃からの顔見知り。数寄屋町は日本橋花街にあり、元数寄屋町は数寄屋橋辺りの町名。「彩ある雲」に至って、清葉の笛のことを甚平が持ち出す。世間では誰も知らないことを甚平に言われて、心動く清葉。そっとしまった笛を取り出し、《「……世に出て月が見たいんでしょう。……吹きはしませんよ。」》と言いつつ、《指白々と口に取る》。《ああ、七年の昔を今に、君が口紅流れしあたり。風も、貝寄せに、おくれ毛をはらはらと水が戦ぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍜治橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す。橋の名所の橋の上。九百九十九の電燈の、大路小路に残ったのが、星を散らして玉を飾って、その横笛を鏤むる。清葉は欄干に上々しい。》
外濠は飯田橋付近で神田川と一体化するが、小石川で神田川と分れ、日本橋川と同一になる。一ツ橋、常盤橋など多くの橋をくぐって、分岐して日本橋川に入ったところに一石橋が架かっている。下流に西河岸橋、日本橋と続く。外濠には呉服橋、鍜治橋、数寄屋橋と架かっていく。一石橋からは、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・日本橋・江戸橋・銭瓶橋・道三橋が見え、一石橋を加え「八つ見橋」と呼ばれてきた。鏡花はそれを念頭にこの文を書いたのであるが、鏡花の手にかかると艶やかになる。
鏡花の作品は時間も空間も超越した印象を受けるが、決してそうではない。「当時」の状況をきちんと描くことも忘れない。『日本橋』が書かれた1914年。東京市内に路面電車が走り始めて十年余、路線も拡大し、人びとの中に定着。《電車が来る、と物をも言わず、味噌摺坊主は飛乗に飜然、と乗った。で、その小笠をかなぐって脱いだ時は、早や乗客の中に紛れたのである。――白い火が飛ぶ上野行。――文明の利器もこう使うと、魔術よりも重宝である》、《上野から日本橋へ来る電車――確か大門行だったと思う――品川行きにした処で、あの往復切符、勿論乗換札じゃないのだよ。……その往か復か、どっちにしろ切符の表に、片仮名の(サ)の字が一字、何か書いてあると思いますか」》といった記述もみられる。電車のパンタグラフと架線がスパークして、青白い火花が散る光景は私が子どもの頃にもよく見られた。上野から中央通りを日本橋へ来る電車は、新橋、大門を通って品川(八ツ山)まで行く。もっとも早く全通した路線で幹線、都電時代も一系統(一番)。車庫(現、浜松町駅前)のある大門行もみられた。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋③

鏡花の作品には、現実離れしたようなもの(いわゆる「異界小説」)も多いが、『婦系図』のように芸者や花街が登場するものもある。『日本橋』もそのひとつで、すでに大正に入った1914年に書かれた。
日本橋界隈は、江戸城下の中心街で、深川同様、堀割あり、神社仏閣あり、庶民の息遣いが伝わって来る地域で、威勢の良さも加わった江戸の風情が残る地域。鏡花にとって魅力的なところであった。舞台となる日本橋花街は柳橋とともに、天保の改革で深川などの岡場所がつぶされ、深川から流れた芸者が住みついたため、深川芸者(辰巳芸者)の「意気と張り」を受け継いだ。これに魚河岸関連の人たちが訪れたから、その気風が好まれ、明治、大正と続いてきた。
魚河岸は日本橋と下流の江戸橋の間、北側の河岸である。1935年に築地市場へ移転するまで、水産物取引の中心だった。紅葉が贔屓にした神楽坂の芸妓小ゑんの実家は、魚河岸の魚屋「虎長」。小ゑんも「意気と張り」をもった、紅葉好みであったのだろう。
それでは、「日本橋花街」とはどこにあり、どんなところだったのか。位置的には東京駅八重洲口を出て、八重洲通り・永代通りと、外濠通り・中央通りに囲まれた地区で、作品が書かれた1914年当時、元大工町・数寄屋町・檜物町の三町にまたがっていた。現在の八重洲一丁目・日本橋二丁目・日本橋三丁目に含まれる。1914年と言えば、東京中央停車場(東京駅)が開業した年で、外濠があり、八重洲橋が撤去されたため、完全に駅裏になってしまった。それでも外濠に沿った「城辺河岸」を外濠線、日本橋から京橋・新橋にむかう中央通りには系統一番の東京市電、永代通りでは市電の延伸が進んだため、1912年には大手町と深川の門前仲町を結ぶ電車も走るようになっていた。『日本橋』では、日本橋川の一石橋から日本橋にかけての情景が描写されている。途中に西河岸橋がある。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋②

時代劇でおなじみの日本橋は、1603年の江戸開府とともに平川(日本橋川)に架けられた、江戸城下第1号の木橋。翌年、五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の起点になった。
漱石の作品で日本橋の名が出てくる作品は五つ。
『虞美人草』では、《「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」「ホホホ死んじゃつまらないわね」二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側へ連れて行こうとした。相手は墓の向側のある事さえ知らなかった。》と、行き先として出てくる程度。
漱石留学中の紀行文と言える『倫敦塔』では、《行ったのは着後間もないうちの事である。その頃は方角もよく分らんし、地理などは固より知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。》と、倫敦塔へ行った時の記述で一回だけ日本橋が出てくる。要は「都会の真ん中」の意味合いで、日本橋でなくて銀座でもかまわない。「都会」の対比で御殿場を出したとすると、今なら物議を醸しだすだろう。
『草枕』は日露戦争が終わった翌年に発表された。日露戦争の戦地へ向かう久一さんを川舟で吉田の停車場まで見送る場面に日本橋が登場する。さりげなく戦争への皮肉がにじむ。《日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何等の説明をも求めなかったのは幸いである》。多少、日本橋の情景が描写された作品である。
『彼岸過迄』では、橋そのものでなく、日本橋界隈のことが話題になる。田川敬太郎は東京生れの須永市蔵を通して、《それでも須永の方では成るべく敬太郎の好奇心に媚びる様な話題を持ち出した気でいた。(略)先ず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋の隠居の妾がいる。その妾が宮戸座とかへ出る役者を情夫にしている。それを隠居が承知で黙っている。》と、東京下町の生活の一端を垣間見る。また、別の箇所では、《彼は今日まで、俗にいう下町生活に呢懇も趣味も有ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜れない格子戸だの、三和土の上から訳もなくぶら下がっている鉄燈篭だの、上り框の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光が透って赤く見える程薄っぺらな障子の腰だのを眼にする度に、如何にもせせこましそうな心持になる。(略)要するに敬太郎はもう少し調子外れの自由なものが欲しかったのである。》と、敬太郎は東京生れの須永と境遇の違いを感じている。
『門』では、大晦日の夜、《「何処の夜景を見る気なんだ」「銀座から日本橋通のだって」御米はその時もう框から下り掛けていた。(略)小六は幸にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。白牡丹へ這入って、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上られる風船を一つ攫んだら、金時計は当らないで、こんなものが中ったと云って、袂から倶楽部洗粉を一袋だした。それを御米の前に置いて、「姉さんに上げましょう」と云った。》と、若い小六が日本橋から銀座、さらに水天宮辺りまで歩き回っている。
どの作品も日本橋を細かく描写した作品はない。漱石が作品を書いていた時代、日本橋は木造から現在も使用されている橋に架け替えられる時期だった。現在の日本橋が開通したのは1911年4月3日で、花崗岩造り二連アーチ橋。橋中央に日本国道路元標が埋め込まれた。工事中、電車は横の仮橋を渡っていた。1912年には、日本橋川北岸の魚河岸も建物が新しくなった。
その日本橋も、東京オリンピックの前年にあたる1963年、首都高速道路都心環状線が橋の上を立体交差するようになり、「二本橋」になってしまった。しかし、日本橋に青空を取り戻そうと、首都高の地下化が進められることになり、工事が始まった。ただ、地下化工事は2034年頃までかかる予定で、現在の首都高が撤去され、日本橋上空に青空がひろがるのは2040年頃になるという。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と日本橋①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座、浅草、神田、深川、神楽坂そして外濠の順で東京を巡って来たが、七人がそろって登場する地域はほとんどなく、この館の主である漱石がまるで登場しなかった地域もある。これはこれで、それぞれの文豪とその地域との関りの濃淡を示すものとして興味深いことである。もちろん、その地域へ行くことと作品に描くことは別で、銀座などは作品に描いても描かなくても、いずれも馴染みの場所としている。

さて、今回テーマとして取り上げる日本橋であるが、東海道の起点となる日本橋だけを扱ったのでは、それほどの文章量にはならない。ここでは東京市15区、あるいは35区時代の日本橋区を対象としていきたい。現在の中央区の北半部にあたり、南半部は京橋区になる。ただし、浜町界隈の一部や中洲など大川端にあたる地域は既に「文豪と隅田川」で扱ったので、除外する。
日本橋区は江戸城外濠と隅田川に挟まれた地域で、北は龍閑川や神田川で神田区や浅草区と接し、南は東京駅八重洲口からのびる八重洲通りを境に京橋区に変わる。この地域は、江戸時代、江戸城の城下町として町人が多く住む地域で、堀割がいくつも走り、水運の便が良く、物流の拠点として、おおいに繁栄していた。そのような水運の大動脈になっていたのが、日本橋川である。前回、江戸城外濠を取り上げたが、日本橋川は小石川門から始まり、外濠の一部をなして、呉服橋までやって来て、ここで外濠と別れて東へ流れ、隅田川へ注いでいる。
外濠を別れた日本橋川を、まず渡るのは一石橋。続いて西河岸橋、そして日本橋。川の北側は裏河岸、南側は西河岸と呼ばれる。日本橋の次が江戸橋で、この間の北側が有名な魚河岸、南側は四日市河岸である。日本橋川を渡る橋はさらに鎧橋、湊橋と続くが、北側は末広河岸、それが鎧河岸へと変わり、南側は茅場河岸などと呼ばれる。湊橋の先は豊海橋で、まもなく隅田川に出る。北側は北新堀河岸、南側は南新堀河岸。
                          (つづく)
【館長の部屋】 銀座を歩く②

「むかう」と言っても、資生堂パーラーから中央通りを斜め向かい側である。カフェーパウリスタの前に立つと、対照的な姿を見せる資生堂の二つのビルが、とても良く見渡せる。さて、いよいよカフェーパウリスタ。間口はそれほど広くないが、黒い枠組みのガラス戸のむこうに高級感ある店内が輝いている(この程度の表現しかできない自分に、やはり小説家はムリそうである)。CAFÉ PAULISTAと描かれた金色の半円ドームの下にある両開きのガラス戸の取手は銀色である。
左手にレジ。右手は2階へ上る階段。正面に陳列ケース。後でお土産を買おう。その左横手から通路を奥へ、案内された席に座る。全体的に珈琲色で壁には農夫を描いた銅盤が飾られ、照明もほど良く、落ち着ける。ここで、龍之介も荷風も「くつろいだのかなあ」と思うと感無量であるが、当時のパリウスタは別のところにあり、関東大震災で焼失している。現在の建物は1970年につくられた復刻版。さらに2014年に改装されている。しかしながら、当時の雰囲気をなるべく忠実に再現しようとしたというから、私も文豪気取りで「くつろいで」当然である。
メニューを見て、キッシュ・ロレーヌを注文する。今日はすでに昼食がわりに、葛餅と大盛そばを食べており、三度目の昼食である。コーヒーは「パウリスタオールド」を注文。「森のコーヒー」もこの店で由緒あるコーヒーで、飲んでみたかったが、次回に試してみよう。「パウリスタオールド」は苦味が強く、酸味があり、濃い感じがしておいしい。舌に酸味が残ってスース―してハーブのような感じが心地よい。もう1杯おかわりできるので、当然2杯目もいただく。「銀座のブラジルコーヒー」が「銀ブラ」の語源になったという説もあるくらい、パウリスタは珈琲の老舗である。
キッシュは初めて食べたが、ほとんど自己主張がなく、かえってコーヒーの味を引き立てたか。アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理、家庭料理であるから、我が家でも作ってみようか。
それにしても、さすがに東京である。平日の昼間というのに、つぎつぎ客が入って来る。上品そうな年配夫婦がひとつ奥の席に座った。店内に見事に調和している。私はここに至るまでの二人の来歴をあれこれ想像しながら眺めていた。
ブランデーケーキを購入して店を出た。帰宅後、さっそく食べたが、ブランデーがほのかに香り、しっとり感がある。一切れ食べて満足感のあるケーキだった。ふんだんにおカネをもっていれば、東京はもっともっと楽しい街になるだろう。
               
カフェーパウリスタを後に、銀座を8丁目から7丁目、さらに6丁目で銀座シックスへ入る。地下2階へ下りて、ぐるぐる回ってみる。以前来た時と、ずいぶんお店が変わっている。「ぎんざ鏡花水月」もなくなっている。「鏡花水月」は泉鏡花のペンネームの由来にもなっているので、店名になんとなく親しみを感じ、ここで販売している「ゆしま花月」のかりんとうを買ったものである。湯島も鏡花縁の地である。
早々に銀座シックスを出て、銀座5丁目の裏通りへ。ここにトリコロールという1936年創業の老舗喫茶店がある。入口は回転ドアで、その上に半円を引き延ばした赤いフード。2階の四つの窓には半分まで赤いシートが下げられている。煉瓦風の外観に、煉瓦風の煙突もついている。一度2階席へ入ったことがあるが、じゅうたんの床、イスの背もたれの張りも格調高く、暖炉もあり、ちょっと「リッチ」になった気分で、ゆったりと時を過ごすことができる。
今回はパウリスタに入ったので、通り過ぎ、晴海通りへ出て、竹葉亭の前を通り、銀座4丁目交差点へ。対面に服部時計店の時計塔。あの裏あたりに子どもの頃の藤村が住んでいたのだ。この銀座4丁目の交差点に立ち、時計塔を眺めていると、私は「今、東京にいるんだ」と幻のような現実を実感する。そして私は『銀座カンカン娘』という歌を思い出す。

♪ あの娘可愛いや カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘

私はこの『銀座カンカン娘』を時どき口ずさむ。なぜかこの歌、子どもの頃から好きだった。きっと、「銀座」という言葉が入っていて、憧れの大都会東京を思い描かせたからであろう。それにしても、今の銀座の通り、何かすっきりし過ぎている。私はやはり大きな音を立てて都電が何台も続いて通る銀座が、大都会らしくて好きだった。自分にとって、通りを電車が走る街が都会だと思っていた。
ここまで来て三越へ寄らないわけにはいかない。とくに買うものもないが、ざっと「デパチカ」を回って、中央通りを3丁目へと歩く。
銀座3丁目には松屋デパートがある。ここから京橋にむけて、荷風『つゆのあとさき』(1931年)の世界である。主人公の君江が勤めるカフェー「ドンフワン」は、《松屋呉服店から二三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、此の字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカツフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカツフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入るのである。》と設定されている。
これだけ描いてくれれば、目的地へ行けそうである。大きな目印は松屋呉服店、つまり銀座3丁目にあるデパートの松屋。そこから銀座の通りの東側を京橋方向、つまり北にむかって行く。文房具などの伊東屋、篠原靴店、スズコー婦人子供洋装店、明治製菓売店、松島眼鏡店。実際には松屋から二三軒以上過ぎてしまったが、小説であるから、実態と一致する必要はないだろう。この眼鏡店が、「手前隣の眼鏡屋」らしいが、隣りは大黒屋玩具店である。一軒おいて鞄のアオキがあり、東西の道路を越えて銀座2丁目に入り、角に三共薬局、続いて菊秀金物店。この金物店が「手前隣の眼鏡屋と金物屋」の金物屋であろう。そして隣りはカフェ・キリンである。その先、レストランのオリンピック、カフェ・クロネコ(すでに、バー「赤玉」に変っていたかもしれない)、銀座会館。東西の道路を越えると銀座1丁目に入る。
このような世界が「昭和モダン」の時代には展開されていたが、店舗も変化しているので、当時と今を「場所的に」比較するのは難しい。そもそも当時3丁目にあった文具の老舗伊東屋も2丁目に移転している。
1904年に銀座3丁目に開店した文具の伊東屋は、幾多の変遷を経て1952年、銀座2丁目に移転。現店舗は2015年にリニューアルオープンしたもの。エレベータ塔のように細く上に伸びた12階建て。文房具店と言うより、デザイン展を見ているような店舗で、何だか楽しくなってくるが、そこにいるお客さん。2階へ行っても3階へ行っても、圧倒的に外国人が多い。とくに万年筆が人気のようだ。おそらく観光客が日本のお土産のひとつとして買い求めていくのだろう。自分がつくっているわけでもないのに、何だか誇らしく思えてくる。観光地ではない、このようなお店。ガイドブックにはしっかり紹介され、「行ってみたい」と思わせているのだろう。
「伊東屋」という老舗の名前に魅かれて入ってみたものの、拾いものをして儲けた気分になって、色とデザインの美しさを目に焼き付けて店を出た。1丁目から国際フォーラムをまわって東京駅へ。私は大手町側の煉瓦造りの東京駅から入らないと気が済まない。
               (完)
【館長の部屋】 銀座を歩く②

「むかう」と言っても、資生堂パーラーから中央通りを斜め向かい側である。カフェーパウリスタの前に立つと、対照的な姿を見せる資生堂の二つのビルが、とても良く見渡せる。さて、いよいよカフェーパウリスタ。間口はそれほど広くないが、黒い枠組みのガラス戸のむこうに高級感ある店内が輝いている(この程度の表現しかできない自分に、やはり小説家はムリそうである)。CAFÉ PAULISTAと描かれた金色の半円ドームの下にある両開きのガラス戸の取手は銀色である。
左手にレジ。右手は2階へ上る階段。正面に陳列ケース。後でお土産を買おう。その左横手から通路を奥へ、案内された席に座る。全体的に珈琲色で壁には農夫を描いた銅盤が飾られ、照明もほど良く、落ち着ける。ここで、龍之介も荷風も「くつろいだのかなあ」と思うと感無量であるが、当時のパリウスタは別のところにあり、関東大震災で焼失している。現在の建物は1970年につくられた復刻版。さらに2014年に改装されている。しかしながら、当時の雰囲気をなるべく忠実に再現しようとしたというから、私も文豪気取りで「くつろいで」当然である。
メニューを見て、キッシュ・ロレーヌを注文する。今日はすでに昼食がわりに、葛餅と大盛そばを食べており、三度目の昼食である。コーヒーは「パウリスタオールド」を注文。「森のコーヒー」もこの店で由緒あるコーヒーで、飲んでみたかったが、次回に試してみよう。「パウリスタオールド」は苦味が強く、酸味があり、濃い感じがしておいしい。舌に酸味が残ってスース―してハーブのような感じが心地よい。もう1杯おかわりできるので、当然2杯目もいただく。「銀座のブラジルコーヒー」が「銀ブラ」の語源になったという説もあるくらい、パウリスタは珈琲の老舗である。
キッシュは初めて食べたが、ほとんど自己主張がなく、かえってコーヒーの味を引き立てたか。アルザス・ロレーヌ地方の郷土料理、家庭料理であるから、我が家でも作ってみようか。
それにしても、さすがに東京である。平日の昼間というのに、つぎつぎ客が入って来る。上品そうな年配夫婦がひとつ奥の席に座った。店内に見事に調和している。私はここに至るまでの二人の来歴をあれこれ想像しながら眺めていた。
ブランデーケーキを購入して店を出た。帰宅後、さっそく食べたが、ブランデーがほのかに香り、しっとり感がある。一切れ食べて満足感のあるケーキだった。ふんだんにおカネをもっていれば、東京はもっともっと楽しい街になるだろう。
               
カフェーパウリスタを後に、銀座を8丁目から7丁目、さらに6丁目で銀座シックスへ入る。地下2階へ下りて、ぐるぐる回ってみる。以前来た時と、ずいぶんお店が変わっている。「ぎんざ鏡花水月」もなくなっている。「鏡花水月」は泉鏡花のペンネームの由来にもなっているので、店名になんとなく親しみを感じ、ここで販売している「ゆしま花月」のかりんとうを買ったものである。湯島も鏡花縁の地である。
早々に銀座シックスを出て、銀座5丁目の裏通りへ。ここにトリコロールという1936年創業の老舗喫茶店がある。入口は回転ドアで、その上に半円を引き延ばした赤いフード。2階の四つの窓には半分まで赤いシートが下げられている。煉瓦風の外観に、煉瓦風の煙突もついている。一度2階席へ入ったことがあるが、じゅうたんの床、イスの背もたれの張りも格調高く、暖炉もあり、ちょっと「リッチ」になった気分で、ゆったりと時を過ごすことができる。
今回はパウリスタに入ったので、通り過ぎ、晴海通りへ出て、竹葉亭の前を通り、銀座4丁目交差点へ。対面に服部時計店の時計塔。あの裏あたりに子どもの頃の藤村が住んでいたのだ。この銀座4丁目の交差点に立ち、時計塔を眺めていると、私は「今、東京にいるんだ」と幻のような現実を実感する。そして私は『銀座カンカン娘』という歌を思い出す。

♪ あの娘可愛いや カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘

私はこの『銀座カンカン娘』を時どき口ずさむ。なぜかこの歌、子どもの頃から好きだった。きっと、「銀座」という言葉が入っていて、憧れの大都会東京を思い描かせたからであろう。それにしても、今の銀座の通り、何かすっきりし過ぎている。私はやはり大きな音を立てて都電が何台も続いて通る銀座が、大都会らしくて好きだった。自分にとって、通りを電車が走る街が都会だと思っていた。
ここまで来て三越へ寄らないわけにはいかない。とくに買うものもないが、ざっと「デパチカ」を回って、中央通りを3丁目へと歩く。
銀座3丁目には松屋デパートがある。ここから京橋にむけて、荷風『つゆのあとさき』(1931年)の世界である。主人公の君江が勤めるカフェー「ドンフワン」は、《松屋呉服店から二三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、此の字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカツフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカツフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入るのである。》と設定されている。
これだけ描いてくれれば、目的地へ行けそうである。大きな目印は松屋呉服店、つまり銀座3丁目にあるデパートの松屋。そこから銀座の通りの東側を京橋方向、つまり北にむかって行く。文房具などの伊東屋、篠原靴店、スズコー婦人子供洋装店、明治製菓売店、松島眼鏡店。実際には松屋から二三軒以上過ぎてしまったが、小説であるから、実態と一致する必要はないだろう。この眼鏡店が、「手前隣の眼鏡屋」らしいが、隣りは大黒屋玩具店である。一軒おいて鞄のアオキがあり、東西の道路を越えて銀座2丁目に入り、角に三共薬局、続いて菊秀金物店。この金物店が「手前隣の眼鏡屋と金物屋」の金物屋であろう。そして隣りはカフェ・キリンである。その先、レストランのオリンピック、カフェ・クロネコ(すでに、バー「赤玉」に変っていたかもしれない)、銀座会館。東西の道路を越えると銀座1丁目に入る。
このような世界が「昭和モダン」の時代には展開されていたが、店舗も変化しているので、当時と今を「場所的に」比較するのは難しい。そもそも当時3丁目にあった文具の老舗伊東屋も2丁目に移転している。
1904年に銀座3丁目に開店した文具の伊東屋は、幾多の変遷を経て1952年、銀座2丁目に移転。現店舗は2015年にリニューアルオープンしたもの。エレベータ塔のように細く上に伸びた12階建て。文房具店と言うより、デザイン展を見ているような店舗で、何だか楽しくなってくるが、そこにいるお客さん。2階へ行っても3階へ行っても、圧倒的に外国人が多い。とくに万年筆が人気のようだ。おそらく観光客が日本のお土産のひとつとして買い求めていくのだろう。自分がつくっているわけでもないのに、何だか誇らしく思えてくる。観光地ではない、このようなお店。ガイドブックにはしっかり紹介され、「行ってみたい」と思わせているのだろう。
「伊東屋」という老舗の名前に魅かれて入ってみたものの、拾いものをして儲けた気分になって、色とデザインの美しさを目に焼き付けて店を出た。1丁目から国際フォーラムをまわって東京駅へ。私は大手町側の煉瓦造りの東京駅から入らないと気が済まない。
               (完)
【館長の部屋】 銀座を歩く①(全2回連載)

本所・両国を歩いたついでに銀座を歩いてみることにする。何となく、こういったパターン、「荷風的」である。
銀座へ行くなら有楽町の方が便利だろう。ホームに何人かのお相撲さんを見かける両国駅から、秋葉原で山手線に乗換えて有楽町へ。数寄屋橋へむかう。
数寄屋橋は外濠に架かる橋で、高速道路建設にともない、1958年に外濠が埋立てられることによって廃止された。晴海通り、高速道路の高架をくぐると、すぐ数寄屋橋公園。菊田一夫作『君の名は』で有名になった数寄屋橋は、私も子どもの頃から知っていたので、「数寄屋橋」の名を聞くと懐かしい感じがする。公園の入口、道路沿いに「数寄屋橋の碑」があり、「数寄屋橋 此処に ありき 菊田一夫」と刻まれている。公園は緑に包まれ、ベンチも整備されて、多くの人が憩っている。
高速道路の高架に沿って、泰明小学校の裏手をまわり込み、みゆき通りに出る。泰明小学校・泰明幼稚園の表玄関があり、「北村透谷・島崎藤村記念碑」の説明坂が立っている。細長く変形した敷地をうまく利用して建てられた校舎は、いかにも都会のど真ん中の、由緒ある学校の雰囲気を醸し出し、一度はこの校舎で学んでみたいと思わせる。そのためか、通学区を越えて中央区内各地から児童が通って来ている。そう言えば先ほど、ちょうど下校時だったので、有楽町センタービル有楽町マリオン(西側)の前にある数寄屋橋バス停に並んで、ブランド品のアニマール標準服に身を包んだ泰明小学校の子どもたちが、晴海通りを東へむかうバスを待っていた。
説明坂の手前に、「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに 学ぶ」と刻んだ石碑がある。その横に「銀座の柳 二世」も。二人が学んだ頃、二階建ての赤煉瓦校舎で、学校の前には外濠があった。
               
去りがたい思いをもちながら、泰明小学校を後に銀座西五丁目交差点に出て、外堀通りを八丁目へ。とにかくビルの谷間を歩いているので、「どのあたり」という表現の仕様がない。左側の通りに気をつけながら、通り過ぎずに「花椿通り」を見つけることができた。行く手、ビル屋上の看板から東京タワーが頭をのぞかせている。
私がこの地にこだわったのは、この一帯がかつての八官町で、1892年、友人たちと初めて上京した秋聲が、生活の糧を得るため、越前堀近くの大工の屋根裏から、八官町にあった桐生の友人谷崎安太郎の家で消火器の部品製作を手伝ったからである。秋聲は後に『ファイヤガン』という作品を書いている。
外堀通りの植樹は柳だったが、花椿通りではハナミズキ。街灯に菱形の黄色い看板が対で取り付けられ、「花椿通り GINZA」と表示されている。中央通りへ出る両角に資生堂がある。このあたり、「銀座〇丁目」になる以前は出雲町。大正初め、資生堂主力商品のひとつが椿油であったとこから、マークに椿が採用され、やがて出雲町、出雲大社と結びついた縁が出雲椿へとつながり、1935年頃、出雲から藪椿(出雲椿)が寄与され、街路樹として植えられ、「花椿通り」の由来になったという。「花椿」のマークで知られる資生堂があるから「花椿通り」になったという単純なものではなさそうだ。
中央通りへ出る左角がかつての「資生堂竹川町店」。1916年に化粧品部として独立したもので、現在は「FUKUHARA GINZA ビル」として、化粧品販売を中心に、美容とも関連するいくつかの業種が入る11階建てのビル。縦長のガラスと木の板を不規則に組み合わせた外観が、けれどもどことなくスッキリ感がある。
右角にはかつての「資生堂出雲町店」。漱石の『それから』にも登場する。店内に1902年、ソーダ・ファウンテンがつくられ、後に資生堂パーラーになった。現在の建物は11階建てのチョコレート色のビル。秋聲は『縮図』を、《晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。銀子と均平とは、しばらく二階の片隅の長椅子で席の空くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文した。》と、銀座資生堂の場面から書き出している。当時も待つ場所は長椅子のようであるが、資生堂パーラー、現在はディナーAコース8500円。ちょっと、考えてしまう。1階はお菓子売り場だが、化粧品か宝石でも売っているようなたたずまい。こちらの方も何だか高そうで、私などは足がすくんでしまう。そのようなわけで、外から店内をのぞき込むだけで退散し、カフェーパウリスタへむかう。
               (つづく)
【館長の部屋】 本所・両国を歩く④

私は隅田川河畔の遊歩道から上がって両国橋の袂に出た。石組の頑丈な欄干で、「兩國橋」の銘板がはめこまれた上には、擬宝珠を模したのか、仮面戦士の頭部のような球形の石組が乗っている。真上を首都高が走っている。龍之介は両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記しているが、当時の橋は1904年に完成したもの。彼が小学時代には、まだ木造の橋が残っており、鉄橋より50mほど下流にあった狭い木造の両国橋に彼は愛惜を感じているという。
その木造の両国橋を渡って江東義塾の宿舎から、中村是公と一緒に一ツ橋の予備門に通ったのが漱石である。後に『永日小品』で漱石は、《二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。》《予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。然しその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。》と書いている。漱石は大川水泳場への往復、太田達人と両国橋を渡っており、『こころ』のKと先生や、『彼岸過迄』の田川敬太郎、須永市蔵に両国橋を渡らせているが、両国橋に関する具体的な描写はない。
関東大震災に耐えた両国橋だが、結局架け替えられることになり、龍之介の死後にあたる1932年に完成し、現在に至っている。
両国橋を渡った龍之介。両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路(向こう両国)の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。二年前の1925年に治安維持法が成立しているが、まだこのような文章を新聞に掲載しても許される状況にあったのだろうか。
表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。 漱石の『こころ』に出て来る、先生とKが食べた両国の軍鶏は「坊主軍鶏」か「かど家」であろう。いずれも江戸時代からの老舗である。
こうなると、どうしても「坊主軍鶏」に行かなければ。京葉道路を横断して回向院の西側へ。回向院が母体の学校法人が経営する両国幼稚園の前へ。回向院の正門は、かつてこの辺りにあった。幼稚園のすぐ向かい側、角地(両国1丁目9-7)に坊主軍鶏がある。小豆色の和風建築。瓦屋根の軒下の壁は白。一階部分は黒い板塀で囲まれた感じになっている。入口も閉まり、開店前のようだ。龍之介が訪れた当時は、まだバラック造りだった。

京葉道路に戻り、回向院へ。朱塗りの柱に、両脇の仁王像。それを覆うようなアーチ型の屋根が印象的である。龍之介は『本所両国』で、《僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかった》と書いている。当時、ドーム型の屋根をもった国技館は回向院の東隣にあった。元町通り(現、京葉道路)と馬車通りに挟まれた位置にある。震災で焼失したが、翌年には早くも再建し、夏場所を開催している。
龍之介はここで、《僕の通っていた江東小学校は丁度ここに建っていたものである。現に残っている大銀杏も江東小学校の運動場の隅に――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた》と、私にとっては意外なことを書いている。現在の両国小学校は相生小学校や江東小学校を引き継いだもので、明治期から現在地に建っている。龍之介の母校として龍之介の文学碑もある。この地が龍之介の通ったところであると、少なくとも私は承知してきた。ところが1898年に入学した当時、江東小学校は回向院の東隣にあり、その後、常設の相撲小屋を建設するため、学校は現在の両国小学校の位置へ移転し、1903年に常設館の建設が始まり、後に国技館と命名された。新旧江東小学校の間に吉良邸があった。なお、「江東(こうとう)小学校」は「高等(こうとう)小学校」と同音で、紛らわしいため、龍之介が卒業した後のことになるが、「江東(えひがし)小学校」と呼称が変えられている。
境内に入ると、まもなく左手に「力塚」。回向院は大相撲発祥の地と言っても良いところで、1936年に相撲協会が相撲年寄慰霊のため建立したもの。大きな石に彫られた「力塚」の字も力強い。龍之介が訪れた時は、震災で焼失して、本堂はまだバラックである。境内に乞食が3,4人。
回向院は明暦の大火による焼死者を葬ったのが起源だけに、その後の大火や震災で亡くなった人たちを葬るようになり、人間はもちろん、犬、猫をはじめ、さまざまな生き物を供養する、特色ある寺院になっていった。盗人の墓があるのも、命の平等ということであろうか。龍之介は真っ先に鼠小僧の墓へ行った。
境内へ入って、左手に「力塚」、右手に念仏堂。正面に本堂。私は「力塚」の隣りにある聖観世音菩薩立像をいただく万人塚の角で左折。鼠小僧の墓をめざす。墓所にむかう参道の右手一帯、供養塔の団地のようになっている。「明暦大火の供養塔」「安政の大震災の供養塔」「浅間山大噴火の供養塔」「信州上州地震、奥州飢餓の供養塔」「関東大震災の供養塔」など、日本の災害史をたどるようである。その一本奥の参道の右手にも、「牢病死者供養塔」「二代目中村勘三郎の墓」などがあり、お目当ての鼠小僧の墓も。
鼠小僧の墓石を欠いて持って行く人が後を絶たなかったようで、墓の前に「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた小さな紙札がはりつけてあることを龍之介は記している。「盗人の墓を盗むとは何事ぞ!」と言いたいところだが、人びとに犯罪をさせないよう、回向院の方でも配慮したようで、今でも《鼠小僧之墓 こちらの「お前立ち」を お削り下さい》と記した立て札が立っている。むかって左側に「猫塚」がある。鼠が悪さをしないように、常に猫に見張りをさせようということか。
龍之介が驚いたのは、膃肭臍(オットセイ)の供養塔。この塔は毛皮などを得るため膃肭臍を捕獲してきた団体が建立したものではない。「つい、去年」にあたる1926年に国技館有志一同によって建立された新品で、膃肭臍市作という四股名の明治期の相撲取り(三段目)を供養するものである。珍しい四股名に魅かれて私もお参りしようと探したが、鼠小僧の墓と対面して、本堂を背に建てられており、すぐに見つかった。
墓所に入ると、墓石が所狭しと、まさにひしめき合っている。さすが大都会の墓地である。「竹本〇○太夫」とか義太夫関係の墓もよく見かけられる。鼠小僧の墓の裏手あたりに、山東京伝の墓もある。この墓を訪れた龍之介は、《この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちと一しょに度たびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである》と、思い出を綴っているが、同じ『大東京繁昌記』に鏡花は、連れが悪乗りして、《河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます》と言い出して、鏡花が《「これ、芥川さんに聞こえるよ」》と真面目にたしなめたと書いている。鏡花の連れは龍之介が書いた新聞記事を読んでいたであろうから、それを思い出して言ったのであろう。鏡花の『深川』連載中に龍之介が自死しており、急遽挿入された文章とみて良いだろう。
墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられるが、龍之介は「哀れ」と表現している。
私は回向院を出て、目の前の両国2丁目交差点の横断歩道を渡って、右手へ京葉道路を進み、龍之介が子ども時代を過した家の跡地へ。

ほぼ東西に伸びる京葉道路の北側歩道を100mほど東へ行くと、歩道橋の先に「芥川龍之介成育の地」の説明板。所在地「両国3丁目22-11」と記され、掲載された当時の地図には、本所区小泉町15番地に四角印がついている。その右隣りに細い小路があり、現在の横綱横丁(こちらの方は「横網」ではなく、れっきとした「横綱」である)と思われる。現在は両国ウェルストンハイツが建っている。
ところが両国駅東口へまっすぐ伸びる横綱横丁のもう一つの角にも、「芥川龍之介生育の地」(こちらは「成育」ではなく「生育」)の説明板が立っており、所在地「両国3丁目21-4」となっている。じつはこの説明板、両国3丁目21-1にあるグレイスビル両国の敷地内に立てられており、21-4は裏側(北側)の一画にあたる。21-3の両国商事ビルと、その東隣りの21-5にあるアンティークカフェが入っている丸安毛糸ビルの間で、現在その地番表示の住所はない。関東大震災や東京大空襲をくぐり抜けた地域であるから、当時の住所をそのまま現在に当てはめて確定するのは難しいかもしれない。
そう言えば、船橋屋で食べた葛餅の影響で、昼時を過ぎてもお腹がもちこたえたので忘れていたが、昼食だ。ちょっと先に「元禄二八そば玉屋」(両国3丁目21-16)があるので、入ることにする。昔懐かしい蕎麦屋のたたずまい。昼時を過ぎたというものの、さすが東京で、店内に二三人客がいる。玉屋は大正8年(1919年)に創業しているので、まさにスペイン風邪パンデミックの真っ最中。毎日、バタバタと人が亡くなっていた時期である。さらに追い打ちをかけるように、1923年には関東大震災。おそらく玉屋も焼失したであろう。ほんとうに困難の船出だったことになる。力士の写った写真がいっぱい貼ってある店内でそんなことを考えていると、何だかこの蕎麦屋が愛おしく思われてくる。
とにかく蕎麦を食べたいので「大もり」を注文。石臼引きの蕎麦粉を使用しているという。私は蕎麦そのものを味わいたいので、めんつゆは蕎麦に3分の1程度しかつけない。細いわりに腰がしっかりしており、まあ食べ応えがある(個人の感想)。しかし、どこで蕎麦を食べても、私は自分で打った不細工な「手打ち蕎麦」が一番と思っている。
玉屋が建っているところは、かつて近藤医院があった辺りだろう。300mほど東へ行くと、清澄通り(当時の二ツ目通り)。緑1丁目交差点がある。《僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った》というから、船橋屋の方から円タクに乗ってやってきた龍之介は、現在の緑1丁目交差点で円タクを降り、京葉道路を両国橋にむかって歩いたことになる。菓子屋の寿徳庵は昔のように繁昌しているようだが、質屋は安田銀行に変っている。龍之介は友達だった質屋の「利いちゃん」の話しを挿入しているが、さすが大相撲の両国である。
京葉道路の南側は現在両国4丁目だが、当時は相生町。玉屋の斜め向かい100mほどのところ、現在の両国4丁目29―5(当時、本所相生町10番地)には、本所警察署があった。龍之介は、《本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に変っている。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦の建物だった》と書いてあるが、当時は本所相生警察署が正式名称で、大震災で署の建物が焼失しただけでなく、人命救助にあたって署長以下34名が殉職している。建物は赤煉瓦からコンクリートに変わり、龍之介の死後、1929年に本所両国警察署に改称された。東京大空襲で今度は6名が殉職し、その年、名称が本所警察署に戻った。本所警察署は2013年、横川4丁目8-9に移転した。
龍之介が子ども時代を過ごした地域だけに、警察署長の息子も、署の隣にある蝙蝠傘屋の木島さん、その他、大勢の友達がいたが、《もう全然僕等とは縁のない暮しをしているだろう》と記して、《僕は四、五年前の簡閲点呼に大紙屋の岡本さんと一緒になった》と続けて、土蔵造りの紙屋を思い出している。簡閲点呼とは、一定期間ごとに在郷軍人の本務を査閲点検し教導する集まりである。

横綱横丁を抜けて両国駅へ。龍之介の事実上の「ふるさと」を後にする。両国は相撲の街である。ホームにも何人かの相撲取りがいる。本場所中のこの時間帯にいるのだから、関取ではなさそうだ。母親と思われる女性と会話している相撲取りも。女性から、あなたの相撲はこうすれば良かったとか、誰々の相撲はどうだとか、批評も語られている。関取でなくてもプロ選手であるから、体格的にも私が勝てる相手ではないが、まだまだ身体をつくらないと関取になるのはムリそうだ。私の父は「横綱になれる見込みがない」と、大相撲の誘いを断ったそうだが、相撲界に入っていれば、回向院境内の国技館で相撲を取っていたことだろう。膃肭臍(オットセイ)に対抗して海豹(アザラシ)なる四股名を名乗っていたかもしれない。
(完)
【館長の部屋】 本所・両国を歩く③

法恩寺入口から墨田区内循環バス南部ルートに乗車。錦糸町駅北口を経由して北斎通りを両国にむかう。右折して清澄通りへ入り、すぐ都営両国駅バス停。バスを降りると目の前に日大第一中学校・高等学校。この辺りから、かつて陸軍被服廠があったところ。少し行くと横網町公園南口で、園内へ入ると左手の大きな建物が「東京都慰霊堂」。前方に「東京都復興記念館」。1919年、被服廠が赤羽に移転し、1922年から跡地に公園造成を進めていた矢先の1923年9月1日、いわゆる関東大震災が発生し、多くの人が被服廠跡に避難。ところが周辺からの火災が、避難民の運び込んだ家財道具などにつぎつぎ飛び火して、新たな火災を起こし、とうとう3万8000人余が焼死。翌年、仮納骨堂がつくられ、1930年に「震災記念堂」、1931年に「震災復興記念館」が完成した。
東京は1945年3月10日の東京大空襲によって、再び大きな火の海になり、8万人以上が亡くなり、震災記念堂に増設された納骨室に安置され、1951年、震災記念堂は「東京都慰霊堂」に、震災復興記念館は「東京都復興記念館」に改称された。「東京都慰霊堂」には関東大震災と東京大空襲などによる死者およそ16万3000体の遺骨が安置され、毎年9月1日と3月10日に慰霊大法要が営まれ、また「東京都復興記念館」には関東大震災とともに東京大空襲などの遺品・資料などが展示されている。
「東京都慰霊堂」の中は椅子席になっており、着席してしばらく慰霊の気持ちを表し、「東京都復興記念館」へ。2階建ての年代を感じさせる重厚な建物。それもそのはずで1931年に完成したもの。よく東京大空襲で焼失しなかったものだ。階段を五段昇って玄関を入ると、正面に階段。まずは1階の関東大震災の展示コーナーから見学することに。横網町公園に避難してきた多くの人たちの写真。この人たちが何時間か後には黒焦げの焼死体になっていると思うと心が痛む。パネル展示と共に、ナマの展示物もかなりある。
映像コーナーではアニメをやっていた。そこに出てくるキャラクター、どう見てもその場の雰囲気と違和感がある。けれども、このような場で放映するからには、それなりに意味があるのだろう。作品の題は『閻魔裁判鯰髯抜』(えんまさいばんなまずのひげぬき)。鯰が地震を起こすという迷信に基づくお話しで、関東大震災でたくさんの人が亡くなり、地獄が大いに潤ったために、その功績を讃えられ、大鯰が地獄に招待されるところから始まる。どうもこの辺からして「いいのかなあ」と思わされる。大鯰は有頂天になって、自慢話についつい嘘をついてしまう。その嘘が浦島太郎と俵藤太などと地獄の役人たちの機転で見破られ、閻魔大王は舌の代わりに髯を抜いて蒟蒻地獄へ落とすと言う判決を下す。けれども魚の王が減刑を提案、閻魔大王はそれを受け入れ、髯を抜いて元の沼に返して、要石の代わりに盃をかぶせて、再び暴れることのないように、「地震封じ」をしてしまった。
要は、二度とこのような大きな震災が起きないようにと念じたお話しだから、この場に受け入れられるということだろう。じつはこのお話し、震災の翌年9月に読売新聞社から発行された、『震災記念おとぎ歌舞伎 閻魔裁判鯰髯抜』。作者は何と巖谷小波。島崎藤村のところではおなじみだったが、このようなところで出会うとは思ってもいなかった。それにしても、閻魔大王が要石ではなく、盃をかぶせたからか、大鯰にはいっこうに効果なかったようで、今も大鯰は世界中で暴れまくっている。
2階は東京大空襲の展示も交じっている。階段を降りてくると、スタッフから「エレベーターがありましたのに」と声をかけられた。余程、危なっかしい降り方をしていたのだろう。何と言われようが、階段は転倒のリスクが大きいから、「慎重に、慎重に」である。
西門から出るつもりで、慰霊堂の北側を通りかかると、朝鮮人犠牲者追悼碑。正面、黒い石盤に「追悼」の大きな文字、その下に「関東大震災朝鮮人犠牲者」の文字が刻まれている。私は龍之介が書いた『大正十二年九月一日の大震に際して』の「大震雑記、五」の項を思い出した。
大火の原因は朝鮮人だそうだと言う龍之介に、菊池寛が「嘘だよ、君」と言い、「不逞鮮人はボルシェビキの手先だそうだ」、と言うと、寛が「嘘さ、君、そんなことは」と言ったことを紹介し、「善良なる市民というものはボルシェビキや不逞鮮人の陰謀を信じるもの。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じているらしい顔つきを装はねばならないが、野蛮な菊池は信じもしなければ、信じる真似もしない」として、《尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。》と結んでいる。
龍之介も「善良な市民」を装っていたのか、デマを心底信じていたのか私にはわからないが、多くの「善良なる市民」たる朝鮮人が、多くの「善良なる市民」によって殺されていった。「追悼」という言葉では言い尽くせないものがある。震災から間もない時期に発表された秋聲の『ファイヤガン』は、デマを信じていく人間の愚かさを、巧みに描いている。
そうしてみると、閻魔大王の前でウソを重ねて自慢話をして、髯を抜かれた大鯰は、デマをまことしやかに吹聴し、拡散させた「人間」そのものだったのではないか。『閻魔裁判鯰髯抜』も、巖谷小波の「おとぎ話」だけでは片づけられないようだ。
                
横網町公園西口を出て、隅田川河畔にむかう。この辺一帯、安田邸の敷地で、震災前の1922年、東京市に寄贈された。震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。
左手には、旧安田庭園。これは1927年に安田庭園として復旧、開園されたもので、同じ区画内に1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた。》と、龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
右手には、安田学園中学校・高等学校。創立者は安田財閥の安田善次郎。関東大震災が発生する1923年、神田に設立されたが、震災で大きな被害を受け、翌年、安田家本邸などがあった現地に、新しい校舎を建てて移転した。安田学園の西側、隅田川との間には同愛会病院がある。龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。
同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。2022年に11階建てであろうか、白っぽくすっきりと清潔感のある新しい病棟が完成している。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です」》。震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。
現在、両国駅や国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園、横網町公園などがある一帯は、江戸時代には「御竹蔵」という貯木場があったが、後に「米蔵」に変った。大川をはさんで対岸にも大規模な御蔵があり、「蔵前」の地名のもとになった。明治になって「御竹蔵」はなくなったが、龍之介が小学生の頃には雑木林や竹藪が残っていた。さらに中学頃には両国停車場や陸軍被服廠があり、「大溝」と呼ばれる堀に囲まれていた。龍之介が幼少期を過ごした家から100mも行けば「大溝」があった。
                 
龍之介は震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。
「お竹倉」は総武鉄道会社の所有地になっていたが、龍之介は鉄道会社の社長の次男と友達だったため、みだりに立ち入ることを禁じられた「お竹倉」の中へ遊びに行くことができた。そこには維新前と変わらず、雑木林や竹藪がひろがっていた。龍之介は総武鉄道の工事の始まったのは自分の小学時代と記して、それ以前の「お竹倉」は昼間でさえ、「本所の七不思議」を思い出さざるを得なかったとしている。「本所の七不思議」とは、「置いてけ堀」「狸囃子(馬鹿ばやし)」「送り提灯」「落葉無き椎の木」「津軽屋敷の太鼓」「片葉の葦」「消えずの行灯(燈無蕎麦)」「送り拍子木」「足洗い屋敷」。以上九つの中から七つ選べば良いという、何とも都合の良い話で、話の内容も諸説あり。おそらく時代とともに、語る人とともに、いろいろ変化したのであろう。龍之介は「置いてけ堀」や「片葉の葦」はどこかにあるものと信じ、「狸囃子(馬鹿ばやし)」を聞いたという。
龍之介は、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。ここで出てくる「椎の木松浦」とは、大川端にあった大名松浦家の椎の木で、誰も葉っぱの落ちたのを見たことがなく、「落葉無き椎の木」として、「本所七不思議」のひとつに数えられている。お竹倉と大川の間にあり、本所会館のすぐそば。横網2丁目2、安田学園のフェンスを背景に「椎の木屋敷跡」の立て札がある。「横網」はお竹倉を含む一帯で、現在両国国技館が建っているので、「横綱」と間違える人がいる(私もその一人)。
さらに龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
昭和に入ったばかりの東京でこのような大きな変化を感じたのであるから、龍之介が現在の東京を見たら、何と表現するであろうか。とにかく今は隅田川沿いに首都高の高架が通っており、直接隅田川を臨むことはできない。
わたしは刀剣博物館の前で左折して、旧安田庭園を囲む黒板塀に沿って両国国技館にむかう。黒板塀が切れたところに、隅田川から入り込んだ大溝を渡る御蔵橋が架かっていた。現在、両国国技館北交差点になっている。今回は国技館へ行くわけではないので、横断歩道で隅田川側の歩道へ移動。
この辺りの河畔に「御蔵橋の渡し」の船着き場があったのだろう。

両国橋の方からやって来た龍之介は、「伊達様」とともに、「富士見の渡し」がないことに衝撃を受ける。しかも三十前後の男に聞いても、そもそも「富士見の渡し」という名前も、存在したことすら知らない。龍之介より少し若い程度だから、龍之介が知っていれば、当然、その男が知っていてもおかしくないはずだが。
龍之介は、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》と書いている。ところが明治末の地図を見ると、「百本杭」辺りから出る富士見の渡しは、柳橋花街の大川端にある代地河岸の北端の瓦町を結んでおり、お竹倉の出入口に架かる御蔵橋から明治病院裏手の掘割に至る渡しは「御蔵の渡し」(御蔵橋の渡し)と呼ばれている。この二つの渡しは接近しており、大正期を通じて、利用状況の変化によって、航路も名称も混在してしまったのではないだろうか。男は「富士見の渡し」は知らなくても、「御蔵の渡し」は知っていたかもしれない。
龍之介は「富士見の渡し」で、三遊派の「五りん」のお上さんだという親戚へ行ったというところから、今村次郎という講談の速記者の話しに移り、寄席の話しへと。龍之介は日本橋区米沢町(両国橋を渡って、すぐ左折した一帯で、薬研堀町に隣接)にあった立花家にも行ったが、本所小泉町に隣接する本所相生町にあった広瀬は近いこともあって、よく行った。
子ども時代のことを思い出しているうちに、龍之介は両国駅の引込線をとどめた、三尺に足りない草土手を見つけた。この引込線はお竹倉の南側にある掘割に沿って、御蔵橋まで伸びており、現在は江戸東京博物館や国技館が建っている。
廃線跡というのは、まさに「国亡びて山河あり」の感がする。なお、龍之介が取材で歩いた当時の国技館はまだ回向院境内にあり、後に日本大学講堂として使用された。
「さて、隅田川河畔へ出たいなあ」と思って歩いていると、右手にヒューリック両国リバーセンターなる9階建てのビルが。その一角が中抜けして隅田川河畔に出ることができるようになっている。しかも、エスカレーターまでついている。上ると隅田川が見え、階段状の観覧席になっている。ちょうど、首都高の高架下。川岸には東京水辺ラインの船着き場。おそらくこの辺りに横網の浮き桟橋があったのだろう。龍之介はここでかつては「一銭蒸汽」と呼ばれた川蒸汽に乗った。当時、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。浮き桟橋の屋根も震災で焼失したであろうが、復旧し、明治時代と変わらぬ風情をもっている。
大川は変わらず濁った水が流れているが、起重機をもたげた浚渫船の先にある対岸は、「首尾の松」や「一番堀」「二番堀」でなく、五大力・高瀬舟・伝馬・荷足・田舟といった大小の和船も流転の力に押し流されて、すでに大川を行き交うのは小蒸汽や達磨船である。ここで龍之介は「沅湘日夜東に流れて去る」という中国の詩を思い出す。
龍之介は《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。(略)唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった》と書く、そこへ久しぶりに見る五大力が上って来る。五大力は艫が高く、鉢巻をした船頭が一丈余ある櫓を押し、お上さんも負けずに棹を差している。四、五歳の男の子も乗っている。龍之介は《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない》と書いて、《幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた》と続けている。当時、総武線はまだ両国駅がターミナルだったので、川下に両国橋を臨むことができた。いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。何度も乗った、明治時代から変わらぬ船で、満員。立っている客もいる。船は静かに動き出すが、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。
今、私の目の前にも隅田川が緩やかな曲線を描き流れている。視界には常に何隻かの川船が見られる。都会にあって、何となくのどかで、清々する。当時と趣はまったく違うだろうが、100年ほどの時を経ても、大川には時代を超えて私たちを魅了する風情がある。対岸はさまざまなビルが建ち並んでいるが、江戸時代には御蔵があったところ。川下の総武線鉄橋を、時おり電車が通り過ぎていく。

総武線の鉄橋をくぐると、両国橋が見えてくる。この辺りが「百本杭」があったところだろう。隅田川が緩やかに湾曲するところへ、川の水が勢いよくぶとかると河岸が浸食されるため(いわゆる「攻撃斜面」)、川の中にたくさんの杭を打って、川水の勢いを弱め、浸食を食い止めようとしたもの。龍之介にもその光景が印象的だったのだろう。
『大川の水』で龍之介は、《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである》と書き、『本所両国』では両国橋を渡りながら、《浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めていた。》《中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。》と書いて、「百本杭」とは、両国橋の上流側、隅田川の左岸に沿って打ち込まれた膨大な数の木杭の総称で、《その名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である。》と解説を加えている。さらに、『大川の水』で龍之介は、《ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりないさびしさに迫られたことであろう》と書き、「百本杭」に釣りをする人を眺めに行って、釣り師がいなくて、《その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人うつむけに浪にゆられていた……》思い出を記している。
両国橋は目の前。対岸を見ると、神田川が直角に隅田川へ合流している。「あれが、柳橋だ」。橋の下から神田川には、川岸に沿って行列するように船が碇泊している。柳橋は花街として鏡花の『婦系図』にも登場するが、その柳橋に住んだ藤村は、『新生』「第1巻」を、《神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た》という一文で書き出している。
「河岸」というのは「代地河岸」で、まさに私の眺める先である。《その河岸へ来る度に、釣船屋米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、》岸本は一人の青年を思い出す。その青年は葉書に「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書き、岸本はそれらしい石の側に立って、《浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、》青年を思い出す。《河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋いである三四艘の小舟も見えた》。岸本がかつて《毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ》。
やがて、河岸の船宿の総領息子と会話した岸本は、少年と別れて、また《細い疎らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。》《「何があったんだろう」と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った》。藤村、6年ばかりこの地に住んだだけあって、描写は具体的である。じつはこのあたり、時おり死体が漂着するそうで、この日も朝、若い女性の死体が漂着した。これは砂揚場に立っていた男の一人による情報で、すでに検視も終わり、遺体も綺麗に片づけられていた。
藤村は、さらに『新生』で、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。》と描いている。
(つづく)
【館長の部屋】 本所・両国を歩く②

柳島橋の上で別れる時、蘿月はもう一度、「後一年辛抱して学校を卒業するよう」念を押して、俳諧の運座が開かれる亀戸の龍眼寺書院にむかった。龍眼寺は天神社にむかって200mほど行ったところにある。私も横十間川に沿って、通称「萩寺」と呼ばれる龍眼寺へ行ってみる。龍之介は《掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている》と記しているが、震災で樹木もやられ、掘割の沿って見られた柳もなくなっていたようだ。中学時代に蕪村の句(「君行くや柳緑に路長し」)を読んだ時、この柳を思い出したと記している。私が見る妙見様は9階建てのマンションで、その右側に東京スカイツリーが聳えている。
《それから僕等は通りがかりにちょっと萩寺を見物した。》と龍之介。龍眼寺は江戸初期に諸国の萩を集めて、いつしか「萩寺」として有名になった。震災で焼けずにすんだが、龍之介たちが訪れた時は萩も4~5株。落合直文の石碑前の古池の水も渇れ、哀れな状況に。けれども私が目にした萩寺は緑に包まれ、法性寺と趣を異にしている。いくつかのお堂があり、緑の中、境内を散策できる。本堂は六角形の屋根。
龍之介は萩寺の門を出ながら、本所猿江にあった芥川家菩提寺(慈眼寺)のことを思い出している。どうしてこのようなことを思い出したかわからないが、「龍眼寺」と「慈眼寺」は1字違いだからかもしれない。慈眼寺は現在の猿江恩賜公園南端地区にあり、1907年と1910年の水害で大きな被害を受け、1912年に巣鴨にある染井霊園の西側に移転した。
龍之介らは萩寺の先にある電柱(?)に「亀戸天神近道」というペンキ塗りの道標を頼りに、その横町を曲り、《待合やカフェの軒を並べた、狭苦しい往来を》歩いていった。ここが亀戸天神裏の「城東花街」で、この頃、待合が80軒ほど、震災後転入してきたカフェが100軒くらいあったようだ。私は地図で読み込んだ「栗原橋の先、二筋目左折」を頼りに、「亀三天神町会々館」前の道へ入り込んだ。
かつて待合だったのか、当時の花街の名残を留めた建物(料亭七福だった建物)、その先に写真で見覚えのある「亀三天神町会々館」の建物が見える。何やら妙にホッとする。「亀三天神町会々館」(亀戸3丁目6-17)は城東三業組合(見番)事務所だったところ。
龍之介は、《僕等の歩いているのは有田ドラッグや愛聖館の並んだせせこましいなりににぎやかな往来》と記し、続けて、《近頃私娼の多いとかいうのも恐らくはこの往来の裏あたりであろう》と記している。まさに、亀戸天神裏の「城東花街」で、現在の亀戸3丁目11~25番の一帯である。この花街は1905年に開かれたものであるが、関東大震災で焼け出された浅草あたりの銘酒屋(めいしや)が大挙して流れ込み、私娼街が形成されていた。同様に形成された玉ノ井と並ぶ東京の二大娼婦街。「城東花街」は一大カフェー街に変貌し、私娼も増え、周辺に増加した工場に勤める労働者たちの遊び場として繁盛し、戦後も赤線地帯として、1958年に売春防止法が制定されるまで「大人の遊園地」と化してきた。亀戸天神すぐ裏にあたる亀戸3丁目19~25番辺りが、当時の地図では「遊園地」と表示されている。
龍之介は浅草千束町にまだ私娼の多かった頃の夜の景色を覚えているとして、《それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えているために殆ど荘厳な気のするものだった》が、今、見ている亀戸天神裏の往来は《どちらへ抜けてもボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない》と続けている。
気にかかる「愛聖館」と「有田ドラッグ」であるが、調べても情報が得られない。「愛聖館」はキリスト教の慈善団体の活動拠点だろうか。娼婦たちの救済・支援、あるいは廃娼運動をおこなっていたかもしれない。ただ、掲示板の文言は性交渉を推奨しているとも捉えられる。龍之介は、《僕は碌でもないことを考えながらふと愛聖館の掲示板を見上げた》と書き出して、《「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらっしゃいます。」》という掲示板の文章を紹介している。ここで龍之介は《産児制限論者は勿論、現世の人々はこういう言葉に微笑しない訳にはゆかないであろう。人口過剰に苦しんでいる僕等は(略)寧ろ全能の主の憎しみの証拠とさえ思われるであろう》と続けたが、本所の場末に小学生の教育をしている旧友が、《少なくともその界隈に住んでいる人々は子供の数の多い家ほど却って暮しも楽》で、それは10か11になるとそれぞれ子供なりに一日の賃金を稼いでくるからで、これに対し龍之介は、《子供自身には仕合せかどうか》、多少の疑問があると記している。
子どもを産むという行為が「聖なるもの」であるとともに「俗なるものでもある」。江戸時代、有名寺社に隣接して岡場所が形成されたことを思えば、まさに「清濁併せ持つ」。亀戸天神に隣接する城東花街も例外ではない。龍之介はこのようなところに視点をおいて、文章を書いているように思える。古来、神殿には「神殿娼婦」なるものがいたという。「有田ドラッグ」は花街にあって、梅毒の薬「毒滅」(森下仁丹)など「花柳病」と言われた病気の治療薬も販売していたのであろう。「愛聖館」「有田ドラッグ」はまさに花街を象徴するものとして、龍之介には映ったと思われる。
                 
「亀三天神町会々館」をぐるっと回り込み、小路を進むと亀戸天神社の裏口に。祭りに使う器具など入れる各町会の器具庫が長屋になって左右にある。それぞれ八つの町会が入っている。《僕等は門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へたどりついた》というから、龍之介も同じところから天神社へ入ったようだ。「城東花街」が亀戸天神にぴったり隣接していることがわかる。
境内へ入ると、広場で外套を着た男が法律書を売り、背広を着た男が最新化学応用の目薬を売っていたことを龍之介は書いている。龍之介の小学時代、広場はなかったが、拝殿も筆塚や石の牛は変わっていない。筆塚に何本も筆を納めたけれど、一向に字は上達しないと龍之介。私も境内へ入ってすぐ御神牛にお目にかかった。すでに本殿のすぐ前である。
天神社は私にとっても縁のある神社であるから、本殿にお参りして、振り向けば参道が緑の中をまっすぐ鳥居まで続いている。途中に二つの太鼓橋がある。一つ目の橋の上から池を眺めると、石の上に亀が何匹も甲羅を寄せ合っている。そのような石がいくつかある。やはり「亀戸天神社」だから、「亀」がいないと様にならない。池の水も緑色をしている。龍之介は、「太鼓橋も掛け茶屋や藤棚も変わっていない。亀戸天神はもちろん梅の名所だが、何と言っても藤の名所として知られ、菊も有名。定番のお土産である張り子の亀の子も売っているが、新たにカルシウム煎餅も加わったようだ」と記し、太鼓橋はこんなに小さかったのかと、添えている。
龍之介は「亀戸天神へ来たら、船橋屋の葛餅。」と思っていたが、境内にあったはずの船橋屋がない。水を撒いている女性に尋ね、花柳病の医院の前を通って、店に着いた。現在も本店が営業している亀戸3丁目2-13である。龍之介は1盆10銭の葛餅を食べたが、中学の時、江東梅園へ行った帰りに船橋屋の葛餅は1盆3銭だったという。龍之介は《水田や榛の木のあった亀戸はこういう梅の名所だった為に南画らしい趣を具えていた。今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べている……》と書いているが、大正期にこの辺りは、都市化が進行し、東京の近郊農村から都市の一部に変化していたのである。私も、そこだけ古めいて、「それ」とわかる船橋屋へ入って、葛餅をいただく。もちろん、船橋屋の葛餅は葛粉を使っているわけではないので、ほんとうは「葛餅」ではない。小麦でんぷんを自然発酵させたもの。そのようなことを配慮してか、「久寿餅」と表記することもあるという。まあ、わらび粉を使ってなくても「わらび餅」、かたくりの粉を使ってなくても「かたくり粉」というのだから、いいのかも?
                 
店内で食べると消費税は10%になるので、一皿790円。龍之介、びっくり!である。たかが葛餅、と思っていたが、一皿食べたらお腹がいっぱいになった。しっかりとした食感で歯ごたえもあり、きな粉も黒蜜もうまい(あくまで、個人の感想)。やはり、このようなものは、全体こげ茶色の重厚な木造の中で食べると雰囲気がある。
「ごちそうさまでした」。船橋屋を出て、蔵前橋通りを西へ。横十間川に架かる天神橋手前に天神橋交番がある。30歳台くらいの女性だろうか、交番へ入って行って、「天神様はどこですか」と尋ねている。私はふと、『本所両国』に書かれた一場面を思い出した。近いはずが天神様にたどり着くことができず、道端でメリンスの袂を翻しながらゴム毬をついている女の子に、「天神様へはどう行きますか?」と訊いた龍之介。女の子は「あっち」と答えた後に、「みんな天神様のことばかり訊くのね」。この言葉にかなりガチンと来た龍之介だが、自分も小学生の時、生薬屋へ「半紙ください」と言った思い出を記している。さて、天神橋交番の警察官、「みんな天神様のことばかり訊くのね」と、思ったかどうか。警察官に訊いてみたい気もしたが、「職務中では申し訳ない」と止めて、天神橋を渡って、再び墨田区に入った。
龍之介は天神橋の袂で円タクに乗るが、一帯は《もう今昔の変化を云々するのにも退屈した》という状態。円タクは精工舎を過ぎた辺りで左折し、現在の四ツ目通りにあたる道を南下し、総武線を越えて右折。右側一帯が本所駅(錦糸町駅)構内。大横川にぶつかるところで左折すると、まもなく龍之介の母校第三中学校(現、両国高校)である。龍之介が通っていた頃は鼠色のペンキを塗った二階建の木造校舎だったが、震災で焼失して、鉄筋コンクリートに変っている。この時、新校舎は未完成で、龍之介が亡くなって4か月ほど経った11月に落成記念をおこなっている。
龍之介は5年間通った第三中学校時代の思い出を綴っている。《僕はそこへ通っているうちに英語や数学を覚えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。こういうのは僕の先生たちや友だちの悪口をいっているのではない。僕等人間といううちには勿論僕のこともはいっているのである》と書き出した龍之介は、友達をいじめて生き埋めにしたこと、剣道部の山田治郎吉先生のことなど書いている。と言う間に、学校の前を通り過ぎ、大横川に架かる江東橋を渡り、本所緑町へ。
私は蔵前橋通りを、四ツ目通りを過ぎ、二筋目で右折して、法恩寺入口バス停へ。
                             (つづく)
【館長の部屋】 本所・両国を歩く① (4回連載)

芥川龍之介は東京日日新聞社の社命を受けて、ふるさとを巡り、『本所両国』を執筆。1927年5月6日から22日まで連載された。龍之介は社命によって人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。今回はその本所と両国を巡ってみたい。
龍之介がどうして「両国本所」という題にしなかったのかわからないが、当時、両国も含めて「本所区」であり、「本所を巡る」と題しても良かったのだが、「本所」というのはあくまでも一地域の名称で、彼が育った「両国」を「本所」の中に丸め込んでしまうことを許すことができなかったのであろう。
龍之介は「本所両国」と名づけながら、両国から本所へまわり、また両国へ戻っているが、現在、墨田区内を走るコミュニティバスの南部コースが、押上駅を起点として、両国をまわって起点の押上駅に戻る、一方向循環型になっているため、吾妻橋から入って、亀戸天神社を経て、コミュニティバスを使って両国へ移動し、両国橋から出て行くことにした。などと言っているうちに吾妻橋である。
両国から川蒸汽に乗り、隅田川を遡って吾妻橋までやって来た龍之介は、橋の袂で船を下り、円タクに乗って柳島にむかっているが、私はどうしても吾妻橋を渡って江東の地へ入りたい。浅草の喧騒の余韻が感じられる吾妻橋西詰。がっちりした風格のある石組に、「あずまはし」と彫られた銘板。
『吾輩は猫である』にも、吾妻橋にまつわる迷亭の不思議な経験の中で、《只蹌々として踉々という形ちで吾妻橋へきかかったのです。欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまって只動いている様に見えます。花川戸の方から人力車が一台馳けて来て橋の上を通りました。その提灯の火を見送っていると、段々小さくなって札幌ビールの処で消えました。》と、「札幌ビール」の名が出てくるが、さまざまな経緯を経てアサヒビールと名前が変わっても、漱石の時代から吾妻橋の向う岸に本社を構えている。札幌ビールの工場が完成したのは1903年である。
吾妻橋西詰から欄干伝いに対岸。川沿いにはしる首都高のむこうに、不思議なオブジェ。スーパードライホールという黒い建物の上に取りつけられた黄色のオブジェは、フィリップ・スタルク作「炎のオブジェ」と名づけられ、時おり金色に光って見える。そのむこうの高層ビルが背景のようになっている。このオブジェ、一度見たら、忘れられないくらい存在感があるが、私にはどうしても「炎」には見えない。色が色だけに、私には巨大な「〇〇〇」のように映る(私だけだと思うが)。むかって左隣りには22階建てのアサヒビールタワーがある。屋上部に灰色の板がいっぱい取りつけられており、これもビルをビールのジョッキに見立て、こぼれるビールの泡を表現しているのだとか。聞けば納得である。さらに左隣り少し奥に高層の墨田区役所の建物。その間に東京スカイツリーが空にむかって伸びている。

《毎夜吾妻橋の橋だもとに佇立み、往来の人の袖を引いて遊びを勧める闇の女は、梅雨もあけて、あたりがいよいよ夏らしくなるにつれて、次第に多くなり、今ではどうやら十人近くにもなっているらしい。女達は毎夜のことなので、互にその名もその年齢もその住む処も知り合っている。》と、荷風は『吾妻橋』という作品を書き出している。今は朝であるから、そのような女性はいない。というより、夜になっても出没することはないだろう。これは1953年暮に発表された作品である。
《道子は橋の欄干に身をよせると共に、真暗な公園の後に聳えている松屋の建物の屋根や窓を色取る燈火を見上げる眼を、すぐ様橋の下の桟橋から河面の方へ移した。河面は対岸の空に輝く朝日ビールの広告の灯と、東武電車の鉄橋の上を絶えず往復する電車の燈影に照され、貸ボートを漕ぐ若い男女の姿のみならず、流れて行く芥の中に西瓜の皮や古下駄の浮いているのまでがよく見分けられる。》と、ここで道子は小岩のパレスにいた時の客木嶋にばったり出会い、そのまま客として袖を引いて旅館に連れ込む。ここではすでに「朝日ビール」になっている。現在と異なるものの、当時も川向うに目立っていたことだけは同じである。西瓜の皮も古下駄も見かけないが、今日も東武電車が鉄橋の上を通って行く。とてもゆっくりである。貸ボートはないが、水上バスの発着場が西詰下につくられている。
『濹東綺譚』では、主人公大江が小説家であり、小説の中に小説が出現する。大江が書こうとしている小説『失踪』の一節。ここにも吾妻橋が登場する。冒頭、《吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合しているのである。》と、主人公種田順平は隅田川に架かる吾妻橋の上にいる。上流の浅草側には、1931年の東武鉄道浅草雷門駅(現、浅草駅)開業にあわせて建てられた松屋浅草店が、八階建ての巨大な壁のように立っている。船で言えば船首にあたる、正面の上に時計塔がそびえている。このデパート、屋上にスポーツランドがつくられていた。
私も吾妻橋の中程まで来ている。下流側の歩道に目をやると、遠足か社会見学だろうか、小学校の低学年の子どもたちが列になって浅草の方にむかって歩いていく。そのむこうに駒形橋が見える。
『すみだ川』では、お豊を載せた人力車が、花川戸の方からよたよたとやって来て、吾妻橋へさしかかる。《吾妻橋は午後の日光と塵埃の中をおびただしい人出である。着飾った若い花見の男女を載せて勢よく走る車の間をば、お豊を載せた老車夫は梶を振りながらよたよた歩いて橋を渡る》。車は蘿月の住む小梅瓦町にむかう。私も今から蘿月の自宅設定地へむかう。
吾妻橋を渡り終え、いよいよ墨田区。浅草通りを東へむかう。当然のことながら、足を一歩踏み出すたびに東京スカイツリーが近づいて来る。やがて清澄通りが斜めに合流してくる。左からは墨堤通りが入り込んでくる。しばらくして、三ツ目通りと交差。地下に本所吾妻橋駅がある。左折して三ツ目通りを行くと、北十間川に架かる源森橋。吾妻橋東三丁目交差点の少し先に、かつて大横川を渡る業平橋が架かっていた。お豊を載せた人力はよたよたと吾妻橋を渡り終えると200m近く行って、左折して中ノ郷瓦町に入り、折れ折れしながら業平橋へ。後に路面電車を敷設するため、業平橋へ直通する道路(現在の浅草通り)がつくられた。

私は吾妻橋東三丁目交差点で左折。ほどなく小梅橋。お豊が蘿月の家にむかった当時、この橋はなかった。小梅橋から北十間川の隅田川方向に目をやると、右手に東武電車の高架が並走し、先に源森橋が見える。東武電車は車体の形式が豊富で、通るたびについついシャッターを切ってしまう。反対方向を見ると、目の前に東京スカイツリー。北十間川はここで行く手をふさがれている。じつはここで、川は右折して大横川になり、正面に曳舟川が流入し、そこに水門が設けられていた。大横川も曳舟川も埋立てられてしまい、大横川は親水公園、曳舟川は途中から道路になって、曳舟川通りと呼ばれている。
お豊は業平橋を渡ると、すぐ左折して、水門橋で曳舟川を渡り、そのまま曳舟川沿いに「への字」に折れ曲がるあたりまで進んで、蘿月の家に到着したと思われる。当時の小梅瓦町40番地辺り。私は小梅橋を渡って、東武電車の高架をくぐって、すぐ右折して、また高架をくぐり、抜けたところで再び高架をくぐる。この辺、私の左手は墨田区向島1丁目31番の地域である。ほどなく道路が「への字」に曲っている。「ここだ、ここだ」。左手は30番に変わっている。右手は墨田区小梅児童公園。30番と31番の間の道を入って行くと、左手に屏風博物館がある。荷風は小梅瓦町界隈を、《この辺はもう春と云っても汚い鱗葺の屋根の上に唯だ明く日があたっていると云うばかりで、沈滞した掘割の水が麗な青空の色を其のまま映している曳舟通り》と描写している。今では見上げるばかり間近に東京スカイツリー。
大横川や曳舟川が埋め立てられたため、狭くなってしまった北十間川が復活したところに、東武橋が架けられている。その東武橋を渡ると、まもなく浅草通り。私は左折して柳島橋にむかう。これは荷風の『すみだ川』で、蘿月が甥の長吉を連れて家を出て、法性寺(妙見堂)へむかうコースである。当時の一帯の様子は、《小梅の住居から押上の掘割を柳島の方へと連れだって話しながら歩いた。掘割は丁度真昼の引汐で真黒な汚ない泥土の底を見せている上に、四月の暖い日光に照付けられて、溝泥の臭気を盛に発散して居る。何処からともなく煤烟の煤が飛んで来て、何処という事なしに製造場の機械の音が聞える。道端の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外に女房共がせっせと内職して居る薄暗い家内のさまが、通りながらにすっかりと見透かされる。そう云う小家の曲り角の汚れた板目には売薬と易占の広告に交って至る処女工募集の貼紙が目についた。》と描写されている。工業化が進みつつある本所、貧しい労働者の街が広がる下町のようすが、丁寧に的確に描かれており、ここでも「文豪の筆」に脱帽。北十間川は当時、現在の東武橋・京成橋間はなかったので、「押上の掘割」とは現在の京成橋から柳島橋にかけての北十間川を指している。
ソラマチを左手に見ながら数100m、四ツ目通りを横切って、さらに数100m。私は十間橋交差点に到着。前方、通りの両側に「柳島妙見山法性寺」の看板が見える。『すみだ川』では、この辺り、《然し間もなくこの陰鬱な往来は迂曲りながらに少しく爪先上りになって行くかと思うと、片側に赤く塗った妙見寺の塀と、それに対して心持よく洗いざらした料理屋橋本の板塀のために突然面目を一変させた。貧しい本所に一区が此処に尽きて板橋のかゝった川向うには野草に蔽われた土手を越して、亀井戸村の畠と木立とが美しい田園の春景色をひろげて見せた。》と描写されている。当時は浅草通りがなく、狭い道が折れ折れにつながっていた。
                 
前方に架かる橋は柳島橋。下を流れるのは横十間川。当時の本所区と南葛飾郡の境を流れる川で、現在は墨田区と江東区の境界。右手に「柳島の妙見さん」で知られる法性寺。葛飾北斎が信仰していた寺としても有名。道路の向こう側、柳島橋の畔にあったのが川魚料理で有名な老舗料亭「橋本」で、「橋本」の前で円タクを下りた芥川龍之介は、橋本は関東大震災で焼けずに残っていたが、すでに食堂に変っており、《すりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった》と『本所両国』に書いている。
蘿月は急ぐ長吉を引き留めて、妙見さんの門前の葦簀を張った休茶屋で茶を飲む。掘割は汚い水底を見せ、其処此処に工場の煙突から煙が立ち上る。けれども遠くの畠の方から吹いてくる風は爽やかで、寺の門の屋根には雀と燕が絶え間なく囀っているし、《天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃いて》おり、《市街からは遠い春の午後の長閑さは充分に心持よく味われた》。「天神様」とは亀戸天神社で、500mほど離れている。
私は十間橋交差点で左折して、すぐに北十間川に架かる十間橋へ。ここからは、川面に映る「さかさ東京スカイツリー」が見られる。貴重なスポットである。
いよいよ、法性寺。妙見堂が有名なため、「柳島の妙見さん」として親しまれている。妙見堂は本堂の西側にある。ネットに公開されている「山田君の世界」には、《元町に在り、妙見山玄和院法性寺と号す 其堂前に影向の松と名くるあり 星降の松 千年松とも呼ぶ 元和の頃 将軍家此地に至らせ給ふ時 鏡の松の名を賜ふ 俗謡白蛇の出るは柳島と云ひしは此松也》《毛塚の碑 其外名高き碑あれども 震災の為 昔日の観なし》との文章と、「昔日」の写真が掲載されている。そのうちの1枚は妙見堂の前を南にむかって撮影したもので、前方に泉染物工場の二本の煙突も写っている。横十間川や大横川に沿って、明治後期にはすでに多くの工場が建ち並んでいた。もう1枚は本堂を正面から撮影したもので、手前に大きな松がそびえ立っており、これが荷風の『日和下駄』に出てくる「柳島妙見堂の松」、すなわち「影向の松」であろう。などと言って、私の目の前にドンと建っているのは茶色の9階建てのビル(写真)。どう見てもマンションである。どうやらこのビルの1階に妙見堂や寺務所が「入居」しているようだ。正面に葛飾北斎辰政翁の碑、右手へ行くと近松門左衛門碑がある。左手にある本堂との間の、まさにビルの隙間を奥へ行くと墓地につながっている。文学に登場する「妙見さん」の大いなる変貌。荷風には見せたくない光景だ。
柳島橋を渡ると江東区。かつては南葛飾郡亀戸村。1919年に柳島まで市電が開通し、1958年に福神橋まで延伸されるまで、柳島は終点だった。落語の「死神」にも、診てもらった医者が「柳島終点先生」で、これでは患者も「先がない」訳だと評されている。
                             (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠⑧

場面変わって、しばらく店に出るのを休んでいるうち、にわかに真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなった君江。村岡から来た手紙を、《ぶらぶら堀端を歩みながら、どこか静な土手際で電燈の光の明い処でもあったらもう一度読み直そうという気もしたのである。然し電車と自動車の往復する堀端は、新見附の土手へ来るまでは手紙を読返す事のできるような処もなかった。》と、外濠沿いの道(外堀通り)の往来の激しさが伝わって来る。
ここで、現在でも見られる「お堀の貸ボート」が登場する。《行手に牛込見附の貸ボートの灯が見え、二三人女学生風の女が見附の柵に腰をかけて涼んでいたので、君江は蔦の葉つなぎの浴衣のさして目にたたぬを好い事に、少し離れた処に佇立んで、束ねた洗髪を風に吹かせながら、街燈の光に手紙を開いて見た》。君江は新見附にいるので、「二三人女学生風の女」というのは、すぐそばにある三輪田高等女学校の生徒かもしれない。藤村の姪島崎駒子も卒業生である。
《あまりいつまでも同じところに立ってもいられないので、君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつも其辺の夜学校から出て来て通り過る女にからかう学生もいないのは、大方日曜日か何かの故であろう》。この「夜学校の学生」。これまたすぐそばにある法政大学の夜間部の学生であろう。
《金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、其の響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂の音に雑って若い女の声が聞える》。真下は現在の中央線、向うは現在の外堀通りである。当時は路面電車(外濠線)が走っていた。
貸ボートはさらに続く。《貸ボートが夜毎に賑かになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川の家へ同居した当時の事を憶い出す。京子と二人で、岸の灯のとどかない水の真中までボートを漕ぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三四年の間、誰にも語ることのできない淫恣な生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横っている飯田橋から市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつも其背景にして進展していた。》と描かれた君江はまだ二十歳である。それにしても、二人は「当たり屋」同然に、相手に難癖つけて客にしていたのであろう。好きな男性を物色するためではない。客を物色していたのである。さて、こんな時、「どうする荷風」。《火取虫が礫のように顔を掠めて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった》。さすがに文豪の表現である。
ここで君江は、かつて京子を妾にしていた川島に出会う。「今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」と言う君江に、《「成程小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、明いところが神楽阪だな。そうすると、あそこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》などと、お互い懐かしそうに話していると、《突然土手の下から汽車の響と共に石炭の烟が向の見えない程舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなく袂に顔を蔽いながら立上った》。中央線は電車であるが、飯田町駅を起点とする貨物輸送は貨車を蒸気機関車が牽引しておこなわれていた。土手上にいれば、まともに蒸気機関車の煙を浴びることになる。荷風もこのような経験があるのだろう。わざわざこのような場面を挿入しなくても話は進行しただろうが、荷風のちょっとしたリアリティであろう。
君江と川島は歩き始める。《公園の小径は一筋しかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程なので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて其のまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方向へ行こうとするのやら、二三度電車が停っても一向に乗ろうとする様子もない》。この後、川島は付いて君江の貸間にむかう。翌朝、目が覚めた君江が手にした川島の置手紙の中には、《あなたが京子に逢って此のはなしをする間には僕はもう此の世の人ではないでしょう。》の一節があった。《君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた》。
こうして『つゆのあとさき』は終わりを迎えるのであるが、やはり荷風は荷風らしく外濠を描写している。

外濠では鏡花、秋聲、犀星の三人、あまり出番がなかった。申し訳ないので、金沢三文豪の碑が金沢城外濠にあることを書き添えておこう。もちろん、濠に浮んでいるわけではない。私が子どもの頃にはすでに埋め立てられていた。
                              (完)
【館長の部屋】 文豪と外濠⑦

清岡進は君江が自分に惚れていると思っていたが、ある日、ドンフワンへ行ってみると、君江は体調を崩して店を休んでいるという。見舞いに君江の家にむかう清岡。《いつも曲る濠端の横町から、突と現われ出た女の姿を見た》。深夜12時前である。《女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感ずかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂回して左内阪を昇り神社の裏門から境内に進入って様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖上のベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤もベンチは三四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺寄せて腰をかけていた》。君江の相手は好色の老人松崎である。
君江と松崎の密会の場は市谷亀ヶ岡八幡神社の境内である。外濠に面した道路は標高13m程であるが、社殿は標高30m程になる。かなり急な直線の石段を上る。脇へ回り込む坂道がある。清岡はすぐ東側の左内坂を上って、長泰寺の手前を左へ入って、本殿の裏手へ。現在の目印はセブンイレブン。その北側を入る。荷風はこのような道をも知っていたのである。
いちゃつく様子は省略し、二人は立ち上がって石段を下りる。清岡は、今度は女坂を迂回して後を付ける。《二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新見附を曲り、一口阪の電車通から、三番町の横町に折れて、軒燈に桐花家とかいた芸者家の門口に立寄った》。
外濠に沿って500m程、飯田橋の方にむかって進み、右へ曲ると新見附である。そのまま真っ直ぐ300m程の坂道が一口坂で、上ると、九段坂上から市ヶ谷見附に伸びる電車道。両側三番町である。二人は電車道を横断し左へ折れて、九段坂上の方向に進み、やがて右へ入ったと思われる。この辺り一帯、つまり現在の九段南三丁目一帯、かつて「芸者横町」と呼ばれていた。京子こと京葉がいる芸者家桐花屋はこの地に設定されたとみられる。君江と松崎は京葉に紹介された待合へむかい、清岡も後を付けて、同じ待合へ入る。荷風は設定にあたって、関根歌にもたせた待合「幾代」(三番町10番地、現在の九段南三丁目5番付近)が念頭にあったと思われる。
翌朝、清岡は一口坂を下り、《四番町の土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた》。清岡は新見附で土手へ上り、向うの高台は牛込台である。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠⑥

荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは1931年である。主人公君江の借間が市ヶ谷本村町に設定されているので、外濠の情景も描写される。
日比谷の四辻から赤電車(終電)に乗った君江、春代、そこへ出会った矢田。おそらく新宿行き(築地―新宿駅、11系統)に乗ったのだろう。三宅坂、半蔵門を経て四谷見附。ここで君江は矢田を振り切るように電車を下りるが、矢田はついて来る。ここで矢田は《「君江さん。もう乗換はないぜ。自動車を呼ぼう。」》と、彼女が外濠線に乗り換えようとしていると判断したようだ。《「いいのよ。すぐ其処ですから。」と君江は人通の絶えた堀端を本村町の方へと歩いて行く》。それでも矢田はぴったり寄り添い、《この近辺はいけないのか。荒木町か、それとも牛込はどうだ。》と、どこかの貸間に連れ込もうとする。
《土手上に道路は次第に低くなって行くので、一歩ごとに夜の空がひろくなったように思われ、市ヶ谷から牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼く霧のようにかすんでいる。そよそよと流れて来る夜深の風には青くさい椎の花と野草の匂が含まれ、松の聳えた堀向の空から突然五位鷺のような鳥の声が聞えた》。匂いまで嗅ぎ分ける荷風はさすが文豪である。《本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。》《「わたしの家はすぐ其処の横町だわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中には屋根の上に仁丹の広告がついているからすぐにわかるわ。わたし此の荷物置いて来るから待っててヨ。」》《高力松の下から五六軒先の横町を曲ると、今までひろびろしていた堀端の眺望から俄に変わる道幅の狭さ》と、しだいに君江の住居が絞られてくる。
四谷見附から外濠に沿って北へ。左側は四谷区四谷塩町1丁目。右側は外濠である。交番を過ぎると左側は四谷区市ヶ谷本村町になり、本村町電停がある。ここから外濠沿いに右へカーブして高力坂が下っていく。坂上に高力松が枝を伸ばしている。東京都の説明板には、《新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の屋敷あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外堀線往復す。」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂の名前を高力坂と名づけたものと思われる。昭和五十八年三月》と記されており、荷風も『日和下駄』で、《しかし大正三年の今日幸に枯死せざるものいくばくぞや。》と書いているように、すでに枯死してしまった松であるが、枯れてなお坂の名前として生き続けている。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠⑤

『露宿』は1923年10月に泉鏡太郎の名で発表されたもので、関東大震災で被災した鏡花の体験、見聞が詳しく描かれている。一部に鏡花的な表現はあるものの、事実を伝えるものとして、大震災の貴重な記録を提供してくれる。
鏡花は9月2日の真夜中から、3日の午前3時半頃の状況から書き出している。
《ほとんど5~6分おきに余震がある。とにかく人びとは夜の明けるのを「一時千秋」の思いで待っている。火の手から逃げて来た人、焼け出された人、思い思いに逃げ延びてきた人たちが、四谷見附外や新公園内外に幾千万集まり、ほとんど残らず眠りに落ちた。荷物と荷物を合わせ、ござ、筵を接して。外濠を隔てた空に凄まじい炎の影、それに映し出された人びとは、見える限り、老も若きも体裁などかまわず、ころころと萎えたようにみんな倒れている。何しろ、9月1日午前11時58分に起った大地震の後、誰も一睡もしたものはないからである》。鏡花の自宅は麹町区の下六番町(現、六番町)にある。火の手に追われて四谷見附から外濠を越えたのだろう。外濠を隔てて麹町区内の空は炎に包まれている。自宅もすでに焼けたのではないかと、鏡花は気が気でなかったと推察される。

『文豪と外濠』と、勢いよく叫んだものの、大正期において見出すのは、関東大震災で外濠至近の公園に避難した記述を『露宿』に見出す程度で、一気に昭和へ突入しなければならない。しかも荷風の独壇場である。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠④

漱石は以上紹介してきたように、『吾輩は猫である』、『それから』、『行人』といった小説において外濠を登場させているが、土手の描写ばかりで、濠の水に目をむけた描写がない。
『それから』の代助は神楽坂に住居が設定されているため、外出するとしばしば外濠沿いを通っている。ある時、代助は何処か遊びに行く所はあるまいかと、神楽坂から外濠線へ乗って、御茶の水までいっている。またある時は、青山の実家へ行って、甥の誠太郎と遊ぼうと思って家を出たが、堀端まで来て急に気が変わり、堀沿いに新見付、堀を横切り、招魂社の横から番町、引き返して神楽坂へ。 代助はまた、士官学校(現防衛省敷地)の前を真直ぐに、すなわち現在の靖国通りを市ヶ谷見附まで出て、外濠沿いに牛込見附まで歩き、自宅へ戻らずに、そのまま揚場から新小川町・安藤坂を経て、伝通院近くの三千代の家へむかったこともあった。そして、父からは勘当同然の状態になり、三千代をめぐる平岡との確執もぬきさしならぬところまできて、追いつめられた代助は、平岡が訪ねてくるという朝、いたたまれなくなって、「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と書生の門野に言い置いて外へ出、神楽坂から牛込見附、飯田町(現、富士見)を抜けて、九段坂下へ出て、古本屋へ寄り、帰りは暑いので電車に乗り、飯田橋で降りて、揚場を筋違いに毘沙門前に出て、帰宅している。
『琴のそら音』の余は、四ツ谷坂町の露子の家を訪れた後、市ヶ谷見附に出て、外濠沿いに牛込見附までやって来て、そこから神楽坂を上って、床屋へ入ったと思われる。その距離、およそ2.5km。

漱石が『それから』を書いたのは1909年である。それより20年近く前の1892年4月、牛込区赤城元町34番地、赤城神社の東側に住むようになったのが島崎藤村である。『桜の実の熟する時』には、《捨吉は田辺の留守宅から牛込のほうに見つけた下宿に移った。麹町の学校へ通うには、恩人の家からではすこし遠過ぎたので》。《牛込の下宿は坂になった閑静な町の中途にあって、吉本さんと親しい交りのあるというある市会議員の細君の手で経営せられていた》。そして藤村は明治女学校までの通勤経路を記している。《牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うにちょうど好いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見いだされる。その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向こうに見える樹木の多い市ヶ谷の地勢の眺望はいっそうその通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった》。《例の牛込見付から市ヶ谷のほうへ土手の上の長い小径を通って麹町の学校まで歩いて行ってみると、寄宿舎から講堂のほうへ通う廊下のところで、ノオト・ブックを手にした二三の生徒の行過ぎるのが眼についた。その一人は勝子と同姓だった》。藤村も土手を描いて、外濠の水を描いていない。
神楽坂を下って、現在の神楽坂下、飯田橋駅のところから外濠を越え、牛込見附。1894年の甲武鉄道新宿・牛込間開業をめざして、工事が始まろうとしている。外濠に沿って土手を新見付、市ヶ谷見付へと。牛込台が一望である。このあたり、私はやはり外濠に沿って桜咲く頃が一番好きである。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠③

牛込見附まで来ると雅楽稽古所は近い。『行人』では、《自分は事務所へ通う動物の如く暮していた。すると五月の末になって突然三沢から大きな招待状を送って来た。自分は結婚の通知と早合点して封を裂いた。ところが案外にもそれは富士見町の雅楽稽古所からの案内状であった。「六月二日音楽演習相催し候間同日午後一時より御来聴被下度候此段御案内申進候也」と書いてあった。(略)六月二日は生憎雨であった。十一時頃には少し歇んだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外の柳は烟のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉か黴が着物にくっ付いて何時までも落ちないように感ぜられた。雅楽所の門内には俥が沢山並んでいた。馬車も一二台いた。然し自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕のついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行って呉れた》。この後、雅楽所の内部の様子なども記され、《我々は又元の席に帰って二三番の欧洲楽を聞いた後、漸く五時頃になって雅楽所を出た。周囲に人が居なくなった時、三沢は漸く「もう一人の女」の事に就いて語り始めた。彼の考えは自分が最初から推察した通りであった。「どうだい、気に入らないかね」「顔は好いね」「顔だけかい」「あとは分らないが、然し少し旧式じゃないか。何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね」「家庭が家庭だからな。然しああいうのが間違がないんだよ」二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒く空に映った。》と、続いている。宮内省雅楽稽古所(式部寮雅楽部)は富士見5丁目14番地にあり、神楽坂下(牛込見附)から牛込橋で外堀を渡れば、すぐ右側にある。現在の住所は富士見二丁目で、警察病院が建っている。牛込停車場側の隣には朝倉病院がある。現在の飯田橋郵便局が当地にあたる。
牛込見附から飯田橋の間、飯田濠にあたる。飯田橋は外濠に江戸川(神田川)が合流するところで、外濠はそのまま神田川として大川(隅田川)に流れ込む。飯田濠の神楽坂側の河岸が揚場で、船着場、文字通り荷揚げ場だったのだろう。『硝子戸の中』には、漱石の姉達が、高田の馬場の下(自宅)から猿若町(浅草)へ芝居見物に出かけたようすが書かれている。電車も車もない時分、揚場から屋根船に乗って、今戸の有明楼の傍らまで行っている。早朝の出発、深夜の帰宅になり、無用心ということで、自宅と揚場の間は下男がお供をしている。《彼等は筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねて其所の船宿にあつらえて置いた屋根船に乗るのである。私は彼等が如何に予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工廠の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。・・・大川へ出た船は、流を遡って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けたものだという。姉達は其所から上って芝居茶屋まで歩いて、・・・帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す》。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠②

四ツ谷見附から市ヶ谷見附へ行く途中、ちょうど埋立てを免れて市ヶ谷濠が姿を現すあたり、麹町区土手三番町(現、千代田区五番町)側の土手には松が生い茂る。『吾輩は猫である』には、当地の松の中でも有名な首懸の松の話しが出てくる。苦紗弥先生のところへ迷亭、さらに水島寒月もやって来て、迷亭が例によって事実とも空想ともつかぬ話をし始めた場面である。《「慥か暮の二十七日と記憶しているがね。(略)母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、何時でも十行内外で御免蒙る事に極めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせて置けと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。丁度その晩は少し曇って、から風が御濠の向から吹き付ける、非常に寒い。神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。よく人が首を縊ると云うがこんな時に不図誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、何時の間にか例の松の真下に来ているのさ」「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台には鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん。(略)それでは先ず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」》。
市ヶ谷見附を過ぎて500mも行かないところに新見附がある。『それから』で《代助は堀端へ出た。この間まで向うの土手にむら躑躅が、団々と紅白の模様を青い中に印していたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草が生い茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処までもつづいている。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乗って、宅へ行って、嫂を調戯って、誠太郎と遊ぼうと思ったが、急に厭になって、この松を見ながら、草臥る所まで堀端を伝って行く気になった。新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民だと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした》。春から夏にむかっていく季節である。
                    (つづく)
【館長の部屋】 文豪と外濠①

江戸城外濠は小石川門から始まる日本橋川を起点として、呉服橋付近で日本橋川と別れ、数寄屋橋、虎ノ門、溜池などを経て、赤坂見附から四ツ谷、飯田橋、そこから神田川となって、やがて隅田川に至り、「の」の字を描いている。今回、「文豪と外濠」で対象とする「外濠」は、赤坂見附から弁慶濠、真田濠、市ヶ谷濠、新見附濠、牛込濠、飯田濠を経て飯田橋までである。このうち、真田濠のすべてと、市ヶ谷濠の一部は埋め立てられている。

紀尾井町から赤坂見附に出る道は弁慶橋で弁慶濠を渡る。漱石は『門』において、つぎの場面で弁慶橋の名を登場させている。鎌倉の寺での参禅から東京へ戻った宗助。翌々日、宗助は坂井の家を訪れる。そこで、ある人の銀婚式で貰ったという金玉糖が出された。《主人は肖りたい名の下に、甘垂るい金玉糖を幾切か頬張った。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食える様に出来た、重宝で健康な男であった。「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別に御目出度もありませんが、其所が物は比較的なところでね。私は何時か清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客を飽かせない様に引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝の様な細い流の中に、春先になると無数の蛙が生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれ等の愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦まじく浮ていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ち付けて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数が殆んど勘定し切れない程多くなるのだそうである。「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全く御目出たいに違ありませんよ。だから一切位肖って置く必要もあるでしょう」と云って、主人はわざと箸で金玉糖を挟んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた》。
                       (つづく)
【館長の部屋】 隠れる

息子は子どもの頃、私が帰って来たのがわかると、よく隠れた。自分から見えなければ、相手も見えないと思っているので、お尻の方が見えている。「頭隠して、尻隠さず」である。見えないふりをして、しばらく探してやる。見つけてもらうとニコニコして出てくる。たまにいじわるして、放っておくと、しばらくして、しびれを切らして自分から出てくる。
今、孫が同じことをしている。ひょっとしてこれは人間に共通する現象ではないか。園バスの中に置き去りにされ、誰からも顧みられず死んでいった子どもたちがいることを思う時、「隠れる」という行為は単なる遊びではなく、自分の生命を守る本能からくるものではないかと、思わされる。
自分がいなくても、その存在を忘れずにいてくれる。これは生命に関わることである。自分がいなくても、常に気にかけてくれる人がいる。これは安心感であり、絆を確かめ合うことでもある。人間はそうした中で、信頼関係を築いていくのであろう。
子どもが「隠れる」という行動が本能から来るものであるならば、同時に、大人は子どもが見えなくなったら探すという本能をもっているはずである。その本能が失われたとしたら悲しい。
息子と孫。二代続けて「隠れる」ということは、その先代にあたる私もまた、子どもの頃、「隠れる」行動をしたのであろうか。
【館長の部屋】 南海トラフ

8月8日、最大震度6弱を観測する地震が日向灘を震源に発生した。この地震を受けて気象庁は南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)を初めて発出した。南海トラフ巨大地震が発生すると想定される震源域は大きく二つに分かれ、その一方で大きな地震が発生すると、もう一方の地域で数日から数年の間に大きな地震が発生するという、過去何回かの事実から出されたものである。
もちろん今回の注意情報は、必ずしも適切な表現ではないかもしれないが、「お試し」のような発出である。今回の日向灘における地震は、南海トラフ巨大地震の想定震源域の一方で起きたものだが、地震がよく起きる地域であり、マグニチュードも7程度で、巨大と言われる8クラスの地震ではない。専門家も特段の警戒を呼びかけてはいない。と言って、絶対に地震が発生しないとも言えないから、「心配しなくても大丈夫。巨大地震はすぐには起きません」とも言えない。そもそもいまだに、地震の予知は困難である。
地震大国日本は、いつでもどこでも、突然、大きな地震に見舞われるキケンがある。津波だって襲ってくるキケンがある。要はいつ来るかわからないから、日頃から備えをしっかりしておきなさい、今回はそうした備えをおこなう、あるいは再確認をおこなうチャンスですよ、ということである。台風のように、去ったからもう大丈夫というものでもない。巨大地震注意が解除されたから、「もう大丈夫。地震は来ない」というものではない。家具の転倒防止も、注意情報が解除されたから、取り外して良いものではない。
高知の「よさこい踊り」や徳島の「阿波踊り」。津波避難経路を参加者や見物客に徹底するという方策がおこなわれた。これは今年だけやれば良いというものではない。毎年おこなわなければならない。もちろん、高知や徳島に住んでいる人は、毎日、津波避難場所を頭に入れて生活していかなければならない。私も何年か前、高知・徳島を旅行した時、常に津波避難を考えていた。何しろ、二つの街、ともに海抜ゼロメートルに等しい地域である。巨大地震に伴って発生した巨大津波が襲ってくれば、ひとたまりもない。災害用の食料も持って行った。私にとって、旅行用品のひとつである。
「天災は忘れた頃にやって来る」。漱石を終生の師と仰ぐ寺田寅彦の言葉とされる。日本では天災は毎年、どこかで起きているから、「天災は忘れる前にやって来る」と言う人もある。けれども、どうやら人間は忘れやすい動物のようで、来年の今頃には、南海トラフ巨大地震に関する注意情報など、すっかり忘れているかもしれない。地震を恐れていたら日本に生活することはできないが、地震とともに生きる「生活の知恵」はもち続けたいものである。
【館長の部屋】 文豪と戦争⑥

島崎こま子は叔父藤村の子を身ごもった。藤村は二人の関係を『新生』という小説に描いた。こま子との関係を断つため藤村は1913年、渡仏。その直前、藤村は日露戦争当時を舞台にした『突貫』を書いている。
フランスへ渡った藤村は、そこで第一次世界大戦に巻き込まれる。《「戦争は避けられないかも知れませんよ」と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動って見せた。》という端緒から、出征する兵士、見送る女性。《彼の耳にする話は一つとして戦争の惨苦を語らないものは無かった。》《開戦以来、五六十万の仏蘭西人は既に死んでいるとの話もあった。》と激しくなる戦闘、そして困難をきわめた帰国を、藤村は『新生』に書いている。
1935年、藤村は日本ペンクラブ会長に就任。こま子は1932年に左翼学生長谷川博と結婚し、救援活動に身を投じ、何度も逮捕・拷問を受けたが非転向を貫いた。1937年に養育院に保護されたこま子の情報を島崎家にもたらしたのは特高だった。
1941年、「戦陣訓」作成にあたり、今村中将は軍人の文章は堅いので、藤村らに意見を聞くよう指示。藤村は原文に手を入れた。翌年、日本文学報国会がつくられ、藤村は名誉会長に就任。川端俊英は藤村の文章に積極的な戦争賛美・鼓舞はみられない。軍部に必要最小限の協力をして摩擦を避けたと分析している。藤村はまもなく亡くなったが、やがて戦争が終り、こま子は日本国憲法下において、日本共産党再建に穏やかに関わったという。

永井荷風は「元祖不良老人」とよばれる。しかし、元来「不良」は気ままであり、統制されて一色に染まった軍隊や国家主義は大嫌いである。もちろん、戦争も。荷風は『日和下駄』において、陸軍を《俗中の俗なる》と表し、騎馬の兵士が大久保柏木の小路を、隊をなして馳せまわるのは甚だ五月蠅い、癪にさわる、と「非国民」ぶりを発揮している。
荷風は1917年から1959年まで『断腸亭日乗』と名づけた日記をつけており、戦火もくぐり抜けて残った。
1941年1月、荷風は《支那は思うように行かぬゆえ、今度は馬来人を征服せむとする心ならんか。彼方をあらし、此方をかじり、台処中あらし回る老鼠の悪戯にも似たらずや。(㊟馬来:マレー、台処:台所)》、さらに6月には《日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果てに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出したり。(㊟膺懲:懲らしめること)》と、「日乗」に書いている。
そのような荷風であるから、《余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ。》とまで「日乗」に書き込み、空襲で二回焼け出されても、《東京住民の被害は米国の飛行機よりもむしろ日本軍人内閣の悪政に基づくこと。》などと書いている。
                     (完)
【館長の部屋】 文豪と戦争⑤

自分の生い立ちを脚色された室生犀星は小説家になった。そして、多くの脚色された人生を描いた。犀星は戦争に対して明確な態度を示していないが、戦争を推進する権力に対して、葛藤し、苦悩した人物である。
関東大震災後、金沢に避難していた犀星のもとに、四高在学中の中野重治、窪川鶴次郎が訪れた。犀星が東京へ戻った後も交流は深まり、堀辰雄などを加えて、同人誌『驢馬』が発刊され、芥川龍之介らも寄稿した。やがて中野・窪川らは、プロレタリア文学の道を明確にし、創立数年の日本共産党に入党した。犀星は後に、《私がその仲間の一人でなかつたことは、私が原稿を書いてゐて食へたからであり、食へずにゐたら容易に仲間にはいつてゐたかも判らなかつた。》と書いている。
その後も犀星は『驢馬』に援助を続け、自分も弾圧で検挙される危険を強く感じていた。犀星は中野や窪川に理解を示しながら、結局、プロレタリア文学に舵を切ることはできなかった。日本共産党大弾圧がおこなわれた1928年3月、犀星は詩『情熱の射殺』で、《自分は結果に於て恐ろしいことになるので/仕方なく引金を曳いて/自分の中にある情熱を射殺した。》と書いている。さらに、1932年、自宅新築にあたって犀星は、本を売り骨董を売り、《僕はもう売るものがなかった。このつぎは魂に嘘をつかした原稿よりほかになかつた。》と『茱萸(ぐみ)の酒』に書いている。
きわめて実直で、したたかな表明である。

1926年、東京の珈琲店で日仏水兵が喧嘩をして、死者まで出た。その事件をきっかけに日仏艦隊がホノルルで衝突。日仏開戦。《近代の大文豪其名海内に轟ける芥川龍之介(エヘン)氏は早稲田の別邸に引きこもり大日仏戦史著作中なり》。ほんとうに文豪になってしまった芥川が中学生の時に書いた『廿年後之戦争』である。
それから10年。1916年、芥川は海軍機関学校の英語教師になった。そして、日本軍の牙城において、「戦争というものは、勝った国も敗けた国も、末路においては同じ結果である。多くの国民が悲惨な苦悩をなめさせられる。」と、学生たちに語った。
喧嘩から戦争に発展する作品を中学時代に書いた芥川は、人間の本性に「戦争」を見ていた。『侏儒の言葉』(1923年)で芥川は《人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈がない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。》と書いている。その最大の殺人が戦争であり、軍隊は殺人のために存在する。芥川は、《軍人は小児に近いもの》で、《殺戮を何とも思はぬなどは一層小児と選ぶところ》なく、《軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。》と続ける。《理想的兵卒はまづ理性を、失はなければならぬ》。暴力は理性の上に立つ。
『桃太郎』(1924年)は人間の本性をよく描いている。ご一読を(青空文庫に有)。
                     (つづく)
【館長の部屋】 文豪と戦争④

漱石編はこれで終了するが、長く書くことができたのは、漱石が戦争の要因から平和のつくり方まで総合的に書いた文豪だからである。以下登場する泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星、芥川龍之介、島崎藤村、永井荷風といった文豪は、ある面、断片的である。
鏡花というと、変幻自在の魔界を描く異次元の作家の様に思われるが、とくに初期、地位や金力に絡んで情欲渦巻く社会を鋭く暴く作品も書いているし、戦争に関する作品もある。それは『豫備兵』(1894)に始まり、『琵琶傳』『海城発電』など10作品に及ぶ。
『豫備兵』は炎天下、冬服の重装備で訓練する兵士に、「聞いてさえ酷い」と同情を寄せ、その訓練を命じる将校を抑圧者として描き出している。日清戦争中の作品である。
『琵琶傳』も、将校ではなく兵士に寄り添った作品である。謙三郎は幼馴染お通との結婚が叶わず、出征に際し、お通会いたさに脱営し、銃殺刑になる。お通の夫となっていた将校は刑の執行にお通を立会わせるが、お通は夫を銃で殺し、自らも銃で果てる。
『海城発電』は、「愛国の志士」である軍夫のリーダー海野と、赤十字の看護員が主人公。軍夫とは、兵士とは別に非戦闘員として雇われ従軍する者。最後の場面。イギリス人記者が「海城発」として本国に打電する。《日本軍の中には赤十字の義務を完して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。然れどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉えて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。》

自らの女性とのスキャンダルを小説に描き続けた徳田秋聲。愛人山田順子をモデルに、『仮装人物』では《彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に蔓っている》と言い放った。
そのような秋聲であるが、国家権力や戦争については、かなり厳しい目をもっていた。明治政府が「文芸院」をつくろうとした時、漱石も反旗を翻したが、秋聲も1909年、「わが国の文芸は今まで政府の保護を受けず、寧ろ迫害を受けながら発達してきた。政府が金を出しても文芸の奨励にならない」と批判している。桐生悠々は秋聲の大親友である。
1912年の『躯』で秋聲は、入隊した一人息子が、川へ飛び込んだ上官を助けに行って水死したが、内地で死んだので賜金は出ず、《息子が死んでも日本が克った方がいいか、日本が負けても、子息が無事でいた方が好いか》と仲間にからかわれる父親を描く。
秋聲は1930年、社会民衆党から立候補を要請されたが、その頃が舞台の『仮装人物』では、山本宣治が殺された場所や、プロレタリア文学の佐多稲子を登場させている。
恋愛や花柳界を描きながら、反戦・反権力を作品の中に忍ばせた秋聲は、『戦時風景』で、出征兵士が万歳の声を受けながら、《畜生、行けない奴は陽気でゐやがる。》という一文を伏字にされ、1941年から連載を始めた『縮図』を、当局から「主人公を芸者から看護婦に変えるよう」言われ、「妥協すれば作品は腑抜けになる」と「潔く筆を断った」。
                     (つづく)
【館長の部屋】 文豪と戦争③

前回、国家主義と戦争との関係について、漱石の指摘を紹介したが、それではどのようにして平和をつくり出していけば良いのか。
漱石は、学習院における講演の最後に、《国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります》。だから、国家を標準にすると、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないが、個人主義の基礎から考えると、それがたいへん高くなってくるから、《国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私には》当然のように思われる、と述べている。
漱石がいう「個人主義」は、キリスト教でいう「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」に共通する考えで、日本国憲法前文の、《われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。》という一節に共通するもの。これは、第二次世界大戦後の国際的な規範、国際平和主義の基本原則。個人主義を基礎にした外交、それによって戦争を防止し、平和をつくりだす。これが漱石の「平和のつくり方」である。

学習院における講演で漱石は、《今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。従っていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。》と警鐘を鳴らしている。
今でも同様に、国家存亡の危機のように、「北朝鮮からミサイルが飛んでくる」「中国が台湾に攻め込んでくる」など、さまざまに不安があおられ、「軍事費増額は必要」「憲法変えろ」など、世論がつくられている。
ところが、このような世論に批判的な言動をおこなうと、危険人物扱いされる。「国家主義」はけっして一部の権力や金力をもった人たちだけで進められるものではない。多くの一般庶民による「同調圧力」を伴う。危機感があおられ、国民を「国家存亡の危機」のように思い込ませ、「個人」より「国家」を優先する風潮がつくりだされると、社会から排除されないように、自分の思いと違っても、同じような言動をしようとする人間が増えていく。漱石はこれを《槇雑木でも束になっていれば心丈夫ですから》と表現し、このような風潮こそが戦争につながるのであり、《まず理非を明らめ》、時には一人ぼっちになっても、「個人主義」を貫く、個としての確立を強く主張している。
                     (つづく)
【館長の部屋】 文豪と戦争②

デビュー作『吾輩は猫である』は、日露戦争中に書かれたものであるが、戦争中とも思えない、のんびりしたもの。けれども、漱石は一瞬をついて、戦争に対する思いを、作品に書き込んでいる。
迷亭が、静岡に住んでいる母から届いた手紙を読んで、思ったことを話している場面。《露西亜と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦をして御国の為に働らいているのに》、お前は幸せ者だ。《そのあとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。》
『趣味の遺伝』という作品はあまり知られていないが、主人公の親友が戦死し、その恋人を探し出して、親友の母親に会わせてやりたいと奔走する話。「探偵好き」の漱石らしい作品だが、当時流行っていた遺伝学を引出し、女性に対する好みも遺伝するという仮説を立てて、ついに恋人を探し当てる。
『趣味の遺伝』は、つぎの一文で終わる。
《浩さんは塹壕へ飛び込んだきり上って来ない。誰も浩さんを迎(むかい)に出たものはない。天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人の睦まじき様を目撃する度に、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す。》

これまで、戦争に対する漱石の思いを作品の中にみてきた。ここからは1914年11月に学習院の生徒たちを前に、『私の個人主義』と題しておこなった講演から学んでいきたい。
漱石があえて「個人主義」と掲げたのは、それとは正反対の「国家主義」に対する挑戦。結論的に言えば、「国家主義」は民主主義を否定し、「戦争」に向かう道。民主主義と平和を求めるなら、「個人主義」を貫くことが、どうしても必要。これが漱石の主張である。「国家主義」というのは、「個人」の上に「国家」を置く考えで、「利己的」な考えを捨てて、「みんなの利益」を優先する、とても「崇高」な考えのように思われる。けれども漱石は、「私の個人主義」は「利己主義ではない」と言い、「国家主義」と言うのは、「崇高」そうに見えて、実は究極の「利己主義」であると、その本質を見抜いていた。
もとより「国家」は生命体ではない。ひとつの意思といっても、それは「国家」がもつものではなく、「国家」の意思を決定する、権力や金力をもったごく一握りの「個人」。その彼らが、他人の自由や権利を抑え込んででも、自分の思いを押し通そうとする。自分の「欲望」、「我儘」のために、「国家」を利用する。「崇高」に見せかけて、人をだます。これが「国家主義」の正体であり、その結果のひとつが戦争となって現れてくる。漱石は戦争の根源を見事に捉えていたのである。
                     (つづく)
【館長の部屋】 文豪と戦争①
  
8月を迎えると、さまざまな場面で「戦争」が語られる。来年2025年は、いよいよ「戦後80年」の節目の年を迎える。つまり、1945年に「おぎゃあ」と生まれた赤ちゃんも80歳を迎えるわけで、戦争を体験した人たちは、ますます少なくなっていく。

「文豪」とは、明治から昭和にかけての時代に、小説家として高い評価を受けた人。と言って、明確な基準はない。この連載では、「勝手に漱石文学館」でおなじみの七人の文豪を取り上げ、戦争をどのように捉え、描いたか、書いていきたい。しばらくは夏目漱石が続く。
漱石は千円札の肖像になったし、喪章を付けて憂鬱そうな顔をした写真が知られている。内向的で、時の政府に従順だったように思われがちだ。けれども実態は外交的、行動的、社会派の作家。そして、反権力的である。
慶応3年生まれの漱石は、「富国強兵」政策を掲げる明治政府の世の中に、どっぷり浸かって成長した。しかし漱石は軍隊というものに馴染まなかった。1888年、第一高等中学校予科一級の時、漱石はつぎのような内容の英作文を書いた。《軍事教練は私にとっては辛すぎる訓練であります。(略)それが強制的、つまり、私の意志に反して私に訓練を課するという理由によるものであります。(略)軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります。》
漱石が軍事教練で感じたのは肉体的苦痛ではなく、精神的苦痛。自分の意志、自分の良心に反して、人を殺す訓練を強制される苦痛。漱石が戦争に向き合う原点がここにある。そして漱石は、1892年、北海道の浅岡家に移籍して、兵役を免れるという行動に出る。

漱石の作家生活は、1904年に最初の部分が発表された『吾輩は猫である』に始まり、1916年の『明暗』執筆途中に終わる。つまり、日露戦争に始まり、第一次世界大戦に終わる。戦争で始まり、戦争で終った、まさに「戦争の時代」を生きた。これが漱石の作家生活。そんな漱石は、戦争をつぎのように描いた。『三四郎』を読んでみよう。
三四郎が東京へむかう汽車の中。後に広田先生とわかる男は、三四郎に《「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。」》と言う。これに対して三四郎は《「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った》。
三四郎はまた、汽車の中で爺さんのこんな言葉も聞いた。《自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んでしまった。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云うものはなかった。みんな戦争の御蔭だ。》
もう、これだけで戦争の本質すべてが語り尽されているのではないだろうか。「戦争の時代」に、現実を直視しながら、時流に囚われず、人間主義(ヒューマニズム)、個人主義を貫いた、国家より、まず人間個人を尊重する民主主義を貫いた、それが漱石である。
                        (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑫

ちょっと寄り道

坊っちゃんは東京物理学校の卒業生である。ということは、現在の東京理科大学卒業生にあたる。そんなわけで、神楽坂にある東京理科大学構内には「坊っちゃんの塔」と名づけられたモニュメントがある。そのユニークな形状はペンタドロン展開図だそうだ。坊っちゃんは四国辺の中学で、このペンタドロン展開図について教えたことがあるだろうか。坊っちゃんが通った当時、東京物理学校は神田小川町にあったので、坊っちゃんは神楽坂のキャンパスで学んだことはない。けれども、東京理科大学の公開講座は「坊っちゃん講座」と名づけられている。東京理科大学のイメージキャラクターは坊っちゃん。ご丁寧にマドンナちゃんもいる。坊っちゃんの恋人としてマドンナちゃんはあまりふさわしくなさそうだが、そう思うのは私だけかもしれない。
そのような坊っちゃんであるが、東京理科大学の卒業生名簿に坊っちゃんの名前はない。なぜなら、氏名がわからないからである。
ついでながら、小川三四郎は氏名がはっきりしているものの、東京大学の卒業生名簿に名前がない。なぜなら、卒業したことが確認できないからである。



神楽坂

神楽坂は楽しい
何が楽しいのか
よくわからないけれど楽しい
ひょっとしたら
名前が楽しいのかもしれない

                           (完)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑪

1923年9月1日、いわゆる関東大震災が発生した。ところが神楽坂は永井龍男が《神楽坂下まで来て、私達はみんな思わず声を挙げた。坂にかかるところから、ここは一切今朝までの火災とは無関係であった。潰れた家も焼けた店もなく、私達は呆然と立ちすくんだ。このまま坂を上がって、町へ入ってよいものか疑われた位であった。》と『東京の横丁』に書いたように、被害が少なかった。当時の被害状況を町ごとに記した統計においても、神楽坂地区は家屋全壊もなく、焼失率も0%、したがって焼死者もなし。これは災害を研究する学者たちにとっても注目すべき事象だろう。
焼失を免れた神楽坂には老舗店舗が競って仮店舗を出店した。肴町には三越、通寺町には銀座プランタン、その他、白木屋や松屋も登場し、「山の手銀座」と呼ばれた。けれども、昭和の初めにはその勢いを失い、大震災後、東京都市圏が郊外へ拡大したため、私鉄ターミナル駅のある新宿、渋谷が大きく発展することになった。
漱石はすでに亡くなっている。残る六人、鏡花、秋聲、犀星、藤村、龍之介、荷風。私の見落としはあるかもしれないが、大震災後の神楽坂を作品に描いた人はいない。
一縷の望みをかけて荷風の日記『断腸亭日乗』を読んでみた。1928年1月2日に、《早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽坂を登る。日既に暮れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三ゝ伍ゝ相携へて来徃するを見る。街頭の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり。田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す。》と、神楽坂を訪れた記述がある。
田原屋は善国寺の隣りにあり、明治初めは牛鍋屋。後に西洋レストランになり、1階がフルーツパーラー、2階がレストラン。漱石も純一や伸六を連れて訪れ、荷風や菊池寛なども通ったという。後に神楽坂下交差点角から二軒目に移転し、2002年に閉店した。
1928年の記述の後、神楽坂の登場はなく、正月になると神楽坂へ行くのかと、調べてみると、1929年、1930年ともになく、1931年1月4日になって、《午後神楽坂の鶴福にき園香を招ぎ夕餉を食して帰る。》の記述。そして、1932年1月1日には、《面影橋を渡り早稲田に出で、市内電車に乗換へて飯田橋に至るに、日は既に暮れて松飾の竹さらさらと夕風に鳴りそよぎ、霰降り来りぬ。神楽坂上田原屋に入りて夕食を命ず。この地の妓窩久しく新旧二派に分れゐたりしが今年二月より合併する由、給仕人のはなしなり。雪をおそれて直に家に帰る。》と、神楽坂が登場する。さすが荷風だけあって、花街の情報を書き込んでいるが、滞在時間は長くなかった。翌1933年にも1月1日、《飯田橋の河岸に出づる頃短き日は忽暮れかかりぬ。去年の如く今年も神楽坂上の田原屋に憩ひ夕飯を食し車にて家にかへる。》と神楽坂を訪れている。けれどもこの3年連続、正月の神楽坂訪問の後、神楽坂の文字はパタリと途絶えてしまう。銀座や浅草へは頻繁に通うものの、どうも神楽坂に荷風の足はむかなかったようである。
私も神楽坂を後に、坂を下りて、外濠沿いへ。どうやら、つぎは「文豪と外濠」と題するのが、移動距離が少なくて良さそうである。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑩

お千代と慶三の絡みは原作に譲るとして、ここでは神楽坂の描写に焦点をあてていきたい。二ヵ月ほど経って、夏。《神楽坂上の土地の事とて横町全体の地盤が坂になっている処から妾宅の二階から外を見ると、大抵は待合か芸者家になっている貸家がだんだんに低く箱でも重ねたように建込んでいて、いずれもその裏側を此方へ向けている。》と、慶三の妾宅を若宮神社付近と設定したのはそれほど間違っていなかったようだ。神楽坂は坂下が海抜7mくらいで、坂上が15m。地蔵坂は上り口が17~8mくらいで、ここから短い距離で海抜25m以上になり、光照寺(牛込城址)の前に出る。光照寺の境内は海抜30mを超え、この地域の最高点に達する。ここから北東方向に下り傾斜になり、若宮神社あたりで海抜20m、飯田橋まで行くと、海抜は5m。この地がモンマルトルの丘に例えられる所以である。
このような地形を利用して、荷風の視点は私とはチト違うようである。《夏にならない中は一向気が付かずにいたが、この頃の暑さにいずこの家も窓と云わず、勝手の戸口と云わず、いささかでも風の這入りそうな処は皆明けられるだけ明け放ってしまったので、夜になって燈火がつくと障子に映る島田の影位の事ではない。芸者が両肌抜いで化粧している処や、お客が騒いでいる有様までが、垣根や板塀を越し或は植込の枝の間を透して円見得に見通される。》と、荷風の観察にはもってこいの場所のようで、ついに、隣りの家、つまり幾代という待合になっている二階座敷の話声。《「あなた、それじゃ屹度よくって。屹度買って頂戴よ。約束したのよ。」という女の声が一際強くはっきり聞えて、それを快諾したらしい男の声とつづいて如何にも嬉しそうな二人の笑声がした。》《慶三はどんな芸者とお客だか見えるものなら見てやろう、何心なく立上って窓の外へ顔を出すと、鼻の先に隣の裏窓の目隠しが突出ていたが、此方は真暗、向うには燈がついているので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴が丁度二ツ開いてるのがよく分った。》《お千代は暫く覗いていたが次第に息使い急しく胸をはずませて来て、「あなた。罪だからもう止しましょうよ。」》《兎角する中に慶三もお千代も何方からが手を出すとも知れず、二人は真暗な中に互に手と手をさぐり合うかと思うと、相方ともに狂気のように猛烈な力で抱合った。かくの如く慶三はわが妾宅の内のみならず、周囲一帯の夏の夜のありさまから、絶えず今まで覚えた事のない慾情の刺戟を受けるのであった。》と、荷風だから描いた情景であるが、このような情景抜きに神楽坂、とりわけ神楽坂花街を語ることはできないであろう。
夜の神楽坂を描いた荷風は、対比的に昼間の神楽坂も描写している。
慶三は《今まで毎日通うもののそれはいつも夕方からの事で、こんなに早く昼間の中から出掛けた事はなかった処から、神楽坂を上って例の横町へ曲ると、炎天の日の下に夜を生命の世界は今しも寂と物音なく静まり返っている最中で、遠くの方に羅宇屋の笛の音が聞えるばかり。人一人通らぬ有様に慶三は却って物珍らしく初めて通る横町のような気がすると共に、両側の芸者家の明け放った窓や勝手口から、簾やレースの間を透して、薄暗い家の中には暑さに弱り果てた女達がまるで病人のように髪も乱し浴衣の裾や胸をも乱して細帯をも解けたら解けたまんまで、居汚なくごろごろと寝そべっている様子が、通りすがりに覗きながら歩いて行く慶三の眼には、夜になって綺麗に化粧をして帯をきちんと〆めてしまった姿よりも遥に心を迷わすように見えた》。
さすがに荷風である。目のつけどころが違う。覗き見るのはいかにも荷風らしい。それにしても、神楽坂もお化横町と何ら変わらない、昼から夜に大きく化ける。花街はみんな「お化横町」であろう。
後はネタバレせぬよう。『夏すがた』そのものに任せよう。
荷風が『四畳半襖の下張』を発表したのは1917年である。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑨

横寺町に尾崎紅葉、矢来町に広津柳浪。永井荷風が柳浪の門を叩いたのは1898年、二十歳の時である。荷風は1915年、『夏すがた』という小説を書いた。
小川町あたりの唐物屋の二代目主人慶三が、地所の売買で儲け、半分で会社の株を買い、残りの半分で下谷のお化横町の芸者千代香を見受けして、神楽坂へ移すところから物語は始まる。慶三は四十に近い。千代香は二十四、五である。お化横町とは、湯島天神下花柳界にあり、湯島天神男坂からまっすぐ東にのびる「学問のみち」と春日通りの間に、湯島3丁目地内を東西に伸びる小路。東京の中でも最大級の賑わいをみせる花街だった。
五月初めの晴れた日、千代香は富坂下春日町電停で慶三と待ち合わせ、妾宅探しに出かける。
砲兵工廠の赤煉瓦塀沿いに富坂を小石川へ。途中から電車に乗って大曲で降り、江戸川端から横町へ入り、気がつけば筑土明神下の広い道。《鳥居前の電車道を横ぎると向うの細い横町の角に待合の燈が三ツも四ツも一束になって立っているのが見えて、その辺に立並んだ新しい二階家の様子なぞ、どうやら頃合な妾宅向の貸家がありそうに思われた。》と、二人は神楽坂花街へ入り込んだ。おそらく本多横丁なども近く、蔦永楽なども近いと思われる。《土地の芸者が浴衣を重ねた素肌の袷に袢纏を引掛けてぶらぶら歩いている。中には島田をがっくりさせ細帯のままで小走にお湯へ行くものもあった。箱屋らしい男も通る。稽古三味線も聞える。互に手を引合った二人は自然と広い表通よりもこの横町の方へ歩みを移したが、すると別に相談をきめたわけでもないのに、二人とも、今は熱心にこの土地の貸家札に目をつけ始めた》。荷風の気に入った光景であろう。筆が進む。
《神楽坂の大通を挟んでその左右に幾筋となく入乱れている横町という横町、露路という露路をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の痛むほどすっかり疲れてしまったが、しかしそのかいあって、二人は毘沙門様の裏門前から奥深く曲って行く横町の唯ある片側に当って、その入口は左右から建込む待合の竹垣にかくされた極く静な人目にかからぬ露地の突当りに、またとない誂向の二階家をさがし当てた》。地理に詳しい荷風がついているので、道に迷うことはない。きっと、荷風もこのようにして家を探したことがあるのだろう。
毘沙門様の裏門というのは、現在では確認できないが、「裏門の前の道は南蔵院へ通ずる」とする情報もある。南蔵院は箪笥町にあり、地蔵坂を上って、北町の方から下りてすぐのところに位置する。地蔵坂の途中に善国寺の方へむかう短い袋小路があるので、おそらくこの突き当り付近に裏門があったのではないか。この位置は、善国寺横、開運出世稲荷側にある毘沙門横丁から寺の裏手へのびる袋小路の突き当りと至近の距離である。
荷風も設定場所を特定できる描写はしたくないだろうから、毘沙門横丁から若宮神社にむかった一画、若宮町から神楽町三丁目、鏡花も住んだ神楽町二丁目あたりと見て良いだろう。この辺り一帯、待合や芸者屋が多く、神楽坂演芸場もこの地区にある。この貸家、持ち主は筋向いの待合松風。もちろん、これは小説であるから実在しない。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑧

I氏の家を後にした笹村の足は自然とO氏の家にむいた。O氏とは小栗風葉であろう。風葉は1900年に豊橋市の加藤倉次の長女と結婚している。《去年迎えた細君》という表現は合わないが、東京に迎えたのが1902年だったのかもしれない。笹村とO氏は連れ立って神楽坂の縁日を訪れ、坂の下まで行って、そこでO氏は庭に植える草花を探し、台湾葭のようなものを二鉢ばかり買った。ここで二人は花物の鉢を提げたI氏とも出会った。紅葉四天王の三人が顔を合わせたことになる。 O氏は残った小銭でビアホールに入った。笹村もいっしょである。東京に日本初のビアホールができたのは1899年。恵比寿ビアホール(新橋)である。その後、神楽坂をはじめ東京各所に恵比寿ビアホールが開業していったのだろう。現在もエビスバー神楽坂店がある。
その後、7月末頃、一時小康を得たものの、状況は好転せず、秋聲は『黴』の中で、《M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころには不断のようになっていた。》(三十六)と描いている。そして、ついに絶望的な状況の中で皆が集まり、M先生は死骸を医学界のために解剖に附してくれというようなことを話し始める。《「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑んだ。「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、曇んだ目にじろりと見廻した。「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。》(三十七)。このようなことがあった10月30日の午後11時15分、紅葉は帰らぬ人となった。巨星といえども、36歳であった。その時のようすを鏡花は『紅葉先生逝去前十五分間』に記しているが、紅葉の言葉はあまりにも立派であり、どこまでが真実で、どこからが脚色なのか、判然としない。臨終の場には小ゑんの姿もあったと言われている。葬儀は11月2日、青山斎場でおこなわれ、鏡花も門弟を代表して弔辞を述べた。紅葉の家族、妻と一男三女が残された。妻32歳、子どもたち9歳、7歳、3歳、2歳であった。
日露戦争終戦の1905年の7月、鏡花は逗子に居を移した。10月、鏡花、春葉らも集まって紅葉三回忌が自宅でおこなわれたが、紅葉が亡くなって以後、紅葉のもとに集った若き文士たちは、しだいに神楽坂から姿を消していた。それはあたかも紅葉と神楽坂からの巣立ちのようであった。逗子で過ごした鏡花は、神楽坂へ戻ることなく、1908年1月に土手三番町、さらに1910年5月に下六番町に引っ越して、ここが終生の家となった。
その後、喜久と子どもたちはどのようになっていっただろうか。次女の弥生は杉山家に嫁ぎ、二女一男が生まれている。三女の三千代は紅葉の伯母の嫁ぎ先横尾平太の養女となり、両もらいの形で石夫と結婚した。息子の晃夫は軍務で中国に赴き、1943年に亡くなった。夫妻は1967年、『残照-海軍主計大尉横尾晃夫』(精興社)を出版した。石夫は戦後、飯野炭礦専務など、いくつかの会社の役員を務めた。長男が早逝したため、尾崎家の跡取りとなった夏彦は東京帝国大学文学部美術史科を卒業し、国際聯盟協会学芸協力委員会の嘱託、美術研究所などを経て、1936年4月11日、療養先の平塚海岸で父紅葉と同じ年齢で亡くなった。妻は菊池幽芳の娘豊乃。戦時中、喜久は息子の嫁豊乃、孫の直衛、伊策たちと千葉に暮らした。孫たちが家計を助けるために新聞配達をしていることを知った菊池寛は、出版社からカネを出してもらい、援助したという話が残されている。神楽坂の家は空襲で焼失し、その後、家主の鳥居家が自宅を建て、現在に至っている。喜久は1953年、81歳で亡くなった。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑦

1903年3月3日、紅葉は東大病院に入院し、胃癌と判明した。十日程で退院し、その後、医師をしている妻の弟の家で静養した。秋聲は『黴』の中で、紅葉の病状の進行を記している。伝通院前の易者に占ってもらうと、《「もう病気がすっかり根を張っている。」「手術の効はないですか。」「とても……。」と反りかえって、詳しく見る必要はないという顔をした》(二十二)。
鏡花はその3月、南榎町22から神楽坂2丁目22に転居。6月には秋聲が紅葉から依頼された仕事に集中するため、柿ノ木横丁の紅葉館に下宿。紅葉館は、《棟が幾個にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人が一人いるぎりであった。(略)そして立ち木の影の多い向きの窓際に机を据えた》(二十二)、《下宿は昼間もシンとしていた》(二十三)と、描写されている。
神楽坂を上り始め、仲通りへ曲がるとは反対方向の路地に曲がって少し行ったところで、現在の東京理科大学の裏手にあたり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の碑が立ち、「新宿区指定史跡」として説明板も設置されている。家を借りるのと、すずの落籍には吉田賢龍の物心両面の援助があった。この神楽坂の家で、鏡花は祖母、弟といっしょに住み、すずとも事実上の夫婦生活を始め、1906年2月には祖母を見送り、その年の7月、逗子(田越亀井)に引っ越すまで3年4ヵ月を過ごした。秋聲は『和解』(1933年)で、《三日前、火葬場へ行つたときも、二十幾年も前に、嘗て私がK―の祖母を送つたときと同じ光景であつた。》と、当時を思い出している。
鏡花は神楽坂の家について、1903年、『草あやめ』で《二丁目の我が借家の地主、江戸兒にて露地を鎖さず、裏町の木戸には無用の者入るべからずと式の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。》《朝まだきは納豆賣、近所の小學に通ふ幼きが、近路なれば五ツ六ツ袂を連ねて通る。お花やお花、撫子の花や矢車の花賣、月の朔日十五日には二人三人呼び以て行くなり。》などと記している。鏡花の筆にかかると、小学生の通学風景さえ風流に感じられるが、すぐ近くに竹内小学校があった。
秋聲は『黴』の中で、鏡花の家と思われるI氏の家を、《ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下の部屋へ入ると、そこには綺麗な簾のかかった縁の檐に、岐阜提灯などが点されて、青い竹の垣根際には萩の軟かい枝が、友禅模様のように撓んでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえに堆く積んである校正刷りも、I氏の作物が近ごろ世間で一層受けのよいことを思わせた。》(二十九)、《客が帰ってしまうと、瀟洒な浴衣に薄鼠の兵児帯をぐるぐる捲きにして主が降りて来たが、何となく顔が冴え冴えしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装の好みや部屋の装飾は、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応しいものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むようなきがした。奥には媚いた女の声などが聞えていた。草双紙の絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えてみたり、こっちへ移して見たりね。もう弄りだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、I氏は刻み莨を撮みながら、健かな呼吸の音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。》(三十)と描写している。笹村がM先生を見舞った後、そこから遠くもないI氏の家を訪ねた時の場面であるが、現実を重ねると、1903年7月、つまり一穂が生まれた月であるが、いっそう衰弱した紅葉を秋聲が見舞った後である。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑥

『神楽坂七不思議』を書いて約30年の時を経て、鏡花は関東大震災の翌年にあたる1924年、『春着』という作品を発表している。その中で、第一に出て来た浜野屋について、鏡花は、《あら玉の春着きつれて酔ひつれて 少年行と前がきがあつたと思ふ……こゝに拝借をしたのは、紅葉先生の俳句である。處が、その着つれてとある春着がおなじく先生の通帳を拝借によつて出来たのだから妙で、そこが話である。(略)「先生、小清潔とまゐりませんでも、せめて縞柄のわかりますのを、新年は一枚と存じます……恐れ入りますが、お帳面を。」「また濱野屋か。」神楽坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつたが、此の濱野屋の方の主人が、でつぷりと肥つて、莞爾々々して居て、布袋と言ふ呼称があつた。》と書いている。
鏡花はまた『春着』で、《時に、川鐵の向うあたりに、(水何)とか言った天麩羅屋があつた。くどいやうだが、一人前、なみで五錢。……横寺町で、お嬢さんの初のお節句の時、私たちは此を御馳走に成った。》《その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三錢と云ふのを狙つて、小栗、柳川、徳田、私……宙外君が加はつて、大擧して押上つた、春寒の午後である。》など、若き日の神楽坂での思い出は尽きない。

1896年暮。紅葉は子どもも弟子も増えて自宅が手狭になったため、裏手に弟子たちの住居として十千万堂塾を用意した。それに至る顛末を秋聲は『光を追うて』(1938年)に、《その時分等は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町の万世庵で、猪口を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、(略)小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというのには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒を借りようかと思いましてね。それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に口をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですが、君も何うでしょう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互い先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」》と書き、その後へ建物の様子など描いている。等というのは、向山等のことで、この作品の主人公、つまり秋聲自身を指している。ここに登場する万世庵は鏡花の『神楽坂七不思議』の第三に出てくる「藪蕎麦の青天井」。肴町22番地にあったとされている。
こうして、十千万堂塾には、風葉・春葉・田中涼葉、それに秋聲が寝泊まりするようになり、さらに中山白峰・藤井紫明、鏡花の弟斜汀も加わり、小杉天外・後藤宙外・田山花袋なども出入りするようになった。このようにして、神楽坂には紅葉に引き寄せられた若者の輪が大きくなっていった。1899年、十千万堂塾は解散され、それぞれの住まいに散ったが、鏡花が横寺町に隣接する南榎町に自宅を構え、斜汀も同居した。紅葉も訪れ、執筆の時を過ごすこともあった。秋聲の方は、柿ノ木横丁にある下宿の薙城館(なぎしろかん)に移り住み、10か月ほど過ごし、その後、今井館、本郷弥生町と転じ、1901年7月末、三島霜川との共同生活を解消し、薙城館に戻って来た。その後、年末から大阪・別府などに長期滞在した秋聲は、翌1902年4月18日から十日ほど、柿ノ木横丁にある下宿の薙城館(なぎしろかん)で過ごしている。『黴』では、《下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓の青葉が初夏の風に戦いでいた。》(一)と描かれている。柿ノ木横丁は下宮比(みやび)町にあり、揚場河岸から宮比神社へむかう狭い道。外堀通りから飯田橋中央ビルの角を入って、タリーズコーヒーの前を通る短い小路が横丁の名残で、今日では地元の人さえ名前を知らない横丁になってしまった。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂⑤

鏡花は自分が暮らした神楽坂を文章にとどめておきたいと考えたのであろう。『夜行巡査』に続いて、3月に発表したのが『神楽坂七不思議』である。現実離れした世界を何の不思議とも思わず書いた鏡花が、現実の何気ない街の風景に不思議を見出した。そこにおかしさを感じる。地方から出てきた人間が、東京の空気を思いっきり吸って、ちょっとしたことにも心躍らせ、活き活きとしている、若き日の鏡花の姿が文章から伝わってくる。
神楽坂の七不思議。第一は、「しゝ寺のもゝんぢい」。獅子寺とは曹洞宗保善寺のことで、大弓場がある。「もゝんぢい」は、この弓場の管理人をしている爺さん。「えひゝゝ。」と愛想笑いをする爺さんの顔を見て、子どもが泣き出さないから不思議だと言う。
大弓場は紅葉の家から歩いて五分ほど。弓を引きに出かける紅葉に鏡花もお供をした。この大弓場に神楽坂の「浜野屋」という呉服屋の主人も通って来ていた。でっぷり太って、にこにこして、布袋さんのようだった。紅葉とも親しく、付けが利くほど信用のない弟子たちは、正月になると紅葉に頼み込んで、浜野屋へ連れて行ってもらい、付けで着物を新調したという。
第二は、「勧工場の逆戻」。勧工場は基本的に入口と出口が違う回廊型の集合商業施設であるが、牛込通寺町(現、神楽坂6丁目)にある勧工場は敷地の関係でそうなったのか、入口と出口が同じで、それが不思議だと言う。この勧工場は大弓場から近く、神楽坂通り(早稲田通り)に面し、後に「文明館」、「神楽坂日活」、「武蔵野館」といった映画館を経て、1970年代からスーパー「よしや」。隣りに文悠書店がある。
第三に、「藪蕎麦の青天井」。団子坂にある藪蕎麦の支店で、夏の書き入れ時には、屋根の上に柱を建て、席を設けた。屋根の物干しで食事をする感じで、青空の下、清々するが、時どき夕立に蕎麦を攫われるから不思議だと言う。紅葉や弟子たちも食べに来たようで、紅葉は大久保彦左衛門が書いたと伝える「勤倹」二文字の額を気に入っていたとか。
この蕎麦屋。諸説概ね神楽坂上交差点一帯の旧肴町にあったという点で一致し、少し早稲田寄りに行った左側、肴町22番地にあった万世庵が有力。秋聲の『光を追うて』に風葉と語ったことが記されている。後に鳥料理の川鉄になり、文士たちがよく利用した。川鉄はやがて肴町27番地に移転した。
第四に、「奥行なしの牛肉店」。この店「いろは」は、安養寺(神楽坂六丁目)の横にあった。神楽坂上交差点から大久保通りを飯田橋の方へむかうと、大久保通りができる前の旧道が斜めに入り込んでいる。その角に「いろは」があった。立派な構えで、高くそびえていたが、道が斜めに入り込むため、敷地が三角形になっている関係で、内部は奥行きがなく狭い。幾何学的に言って不思議だと言う。
第五に、「島金の辻行燈」。島金(志満金)は神楽坂2丁目にある鰻屋。1869年に「開化鍋」の店として開業し、その後、鰻屋に転身した。志満金はどういうわけか、人通りの多い神楽坂の通りではなく、小栗横丁に面して店を出していた。そこで神楽坂通りから小路へ入る角に「蒲焼」などと書いた辻行燈を置いた。ところが角には洋服の八木下があり、「ここだ」と思って入ると、何とそこは仕立て屋。これが不思議。現在は志満金ビルが建っているが、店は小栗横丁から入る。
小栗横丁は小栗風葉とまったく関係なく、神楽坂2丁目22番地の泉鏡花旧邸跡に通じるため、鏡花横丁などとも言われる。この文章を書いた当時、まさか自分の名前が横丁に付くとは思ってもいなかったであろう。
第六は、「菓子屋の鹽餡娘」。ツンとすまして、ケンもほろゝの無愛嬌者の女性が店番をしているけれど、鹽餡の饅頭餅は甘いから不思議。今ではどこの菓子屋か特定できない。
第七は、「絵草紙屋の四十島田」。「小僧や、紅葉さんの御家へ参つて…」は実際に鏡花がかけられた言葉であろうが、一面識もない大家の名を聞こえよがしにひやかしおどかす奴の気が知れないから不思議だと。「四十島田」とは、年齢不相応な若い身なりをすること。絵草紙屋は挿絵のたくさん入った読み物を売る書店。神楽坂にはいくつもあったので特定できないが、鏡花は神楽坂上から下るかたちで七不思議を書いているので、洋服の八木下のむかいの絵草紙屋ではないだろうか。
『神楽坂七不思議』からは、花街とまた違った神楽坂の人間模様が見えて来る。紅葉は弟子たちを連れて、寄席へよく行ったようだ。神楽坂には神楽坂3丁目に牛込会館・神楽坂演芸場、肴町に柳水亭、通寺町に牛込亭・文明館、地蔵坂の上り口(いわゆる藁店)の右側には牛込館(和良店亭)など、寄席や映画館が生まれているが、当時、どのくらいの寄席があったか明確でない。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂④

尾崎紅葉が神楽坂の横寺町に一軒を借り、樺島喜久を妻として迎えたのは1891年3月。花街あり、縁日あり、夜店も出る神楽坂は、何となく紅葉に似合っているが、紅葉がなぜ神楽坂に住もうと思ったのか、あれこれ調べてみたが、私はまだ回答を得ていない。紅葉に憧れ、紅葉宅を訪れて入門を希望する若者たちの中で、一番弟子になったのが泉鏡太郎。紅葉が横寺町に住んで半年余の1891年10月。幸運にも彼は「泉鏡花」の名を与えられ、玄関番として紅葉宅に住み、神楽坂生活の第一歩を踏み出した。
翌1892年1月、島崎藤村が明治女学校の教師として就職し、その時、藤村は牛込区赤城元町34番地(赤城神社の東側)の下宿に移っていた。まさに神楽坂。紅葉が住み、鏡花も駆け出しで悪戦苦闘していた時代、藤村もまた神楽坂に住んでいたのである。『桜の実の熟する時』には、《捨吉は田辺の留守宅から牛込のほうに見つけた下宿に移った。麹町の学校へ通うには、恩人の家からではすこし遠過ぎたので》。《牛込の下宿は坂になった閑静な町の中途にあって、吉本さんと親しい交りのあるというある市会議員の細君の手で経営せられていた。》(11)と記され、通勤途上のようすも、《例の牛込見付から市ヶ谷のほうへ土手の上の長い小径を通って麹町の学校まで歩いて行ってみると、寄宿舎から講堂のほうへ通う廊下のところで、ノオト・ブックを手にした二三の生徒の行過ぎるのが眼についた。その一人は勝子と同姓だった。》などと書かれている。
明治女学校は1890年、麹町区下六番町6番地(現、六番町)に移転していた。藤村は下宿から神楽坂を下り、牛込見附(現、飯田橋駅付近)から右折し、外濠の土手沿いに市ヶ谷見附(現、市ヶ谷駅付近)まで来て、ここで帯坂を上って、右折。200mほど行って左折、2、3分で明治女学校に着く。後に、同じ下六番町、200mほど行ったところに鏡花が住み、さらに300mほど行ったところに、1937年、藤村自身も移り住むことになる。鏡花は1939年に亡くなるので、二人の文豪がこの地に共に過ごしたのは二年程である。明治女学校跡地前には「番町文人通り」の案内板が設置されている。
藤村が明治女学校に奉職した1892年、小栗風葉は入門を許されたが姿を消し、秋聲は入門を断られた。1893年、地元に育った柳川春葉が入門を許され、玄関番になった。玄関番が二人になったが、1894年に鏡花は8カ月も帰郷している。
紅葉にとっても、弟子たちにとっても、神楽坂は日常生活の場であった。とくに玄関番第一号の鏡花は、庭掃除、薪割り、それに紅葉の凧揚げの相手と言った内向きの仕事とともに、使い走りなどで神楽坂の街へ出かけることも多かった。紅葉から大福餅を10銭だけ買ってくるよう言われ、船橋・紅谷・亀沢など名だたる店は通り越し、露店で買ったなど、語り継がれる失敗談はいくつもある。それでも鏡花は毎月50銭の小遣いをもらっていた。
そのような鏡花は1895年2月、帰郷で断続しながらも、二年半過ごした紅葉宅を離れ、博文館の日用百科書の編纂にたずさわるため、編集室が置かれていた小石川戸崎町の大橋乙羽の自宅に移り住み、神楽坂を離れた。父を亡くした鏡花が定期的な収入を得ることができるよう、紅葉が博文館に勤める道を開いたのである。
紅葉は壮行の意味を込め、鏡花を西洋料理店の明進軒へ連れて行った。明進軒は神楽坂を上り、現在の大久保通りを横切り、左側の最初の路地を入った左側にあり、住所は牛込岩戸町24番地(現、岩戸町1番地)。向かい側の通寺町に求友亭という料亭があった。
この年には、風葉が再入門を許され、玄関番になった。秋聲も鏡花の紹介で入門を許されたが、博文館で寝泊まりし、玄関番にはならなかった。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂③

『それから』で三千代は、《――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方の方へ出て来てみた。》と、神楽坂へ買物に来ている。安いところを探しで買物する習慣は明治も今も変わらないが、漱石にとって神楽坂は子どもの頃からの繁華街で、『坑夫』では、《町並が次第に立派になる。仕舞には牛込の神楽坂位な繁昌する所へ出た》、『坊っちゃん』では、松山へ赴任した坊っちゃんが、松山の町を散歩しながら、《神楽坂を半分に狭くした位》と、神楽坂を引き合いに出しながら、松山の大通りを評している。
現在の神楽坂は両側から街路樹の葉枝に覆われ、落ち着いたモダンさが漂った商店街である。漱石の時代から道幅はあまり変化していない。代助の自宅が神楽坂の通りを入ったところにあることから、『それから』には神楽坂がしばしば登場する。ある時、代助は青山の実家へ行く予定が堀端まで来て急に気が変わり、堀沿いに新見付、堀を横切り、招魂社の横から番町、引き返して神楽坂へ。《神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭に応えた》。また、代助が青山の実家から終電に乗って帰る時、電車を降りて神楽坂の途中で、《寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。(略)その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。》と、地震に襲われる。
神楽坂と聞くと、地名のごとく何となくうきうきしてくる。『琴のそら音』で、婚約者宇野露子がインフルエンザによって亡くなったのではないかという不吉な予感にとらわれて、坂町の宇野家を訪れた余は、その無事を知って、《うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かった様なものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んが為だと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好く様にしたいと思っている。》と、神楽坂で床屋へ入っている。床屋では、源さん松さんが将棋をさしていて、しばし幽霊談義に花が咲く。家へ戻ると露子が来ている。昨夜の興奮を話題に、露子も婆さんも、余も大笑い。笑いが最大の厄払い、厄払い。おどろおどろしい名調子から、一気に落ちへ。漱石得意の小話の手法である。
『坊っちゃん』には「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸の昔から信仰を集めてきた善国寺が《神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて》、ぽちゃりと落としたと登場し、『それから』でも《秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。》と登場している。また、こんな場面でも毘沙門が出る。《牛込見附を這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合あって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余り酷かったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た》。
神楽坂を上って来ると、善国寺を過ぎ、坂上少し手前で左へ折れる小路がある。かつて左側が牛込肴町、右側が牛込袋町で、袋町2番地に「和良店亭(わらだなてい)」という寄席があったところから、小路全体が藁店とは呼ばれるようになった。
藁店というと、『吾輩は猫である』にこんな一節が出てくる。《火事で茸が飛んで来たり、御茶の味噌の女学校へ行ったり、恵比寿、台所と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺してみると裏店と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞く度に笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。》と、吾輩は皮肉たっぷりである。
この先、S字状に曲った地蔵坂の急坂が上っており、坂上、光照寺前まで来ると、むかいの出版会館あたり(牛込袋町6番地)に、『それから』の主人公長井代助の家設定地と考えられる。光照寺は牛込城の址に建立されたもので、出羽国松山藩2万石酒井家の菩提寺。
《五月雨の重い空気に鎖されて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした。神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店を上った》。「藁店を上る」とは、「地蔵坂を上る」という意味である。平岡三千代が代助の家を訪ねる場面では、《今日はその積りで早く宅を出た。が、御息み中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障って、息が苦しくなって困った。》と、確かに上ってみると、地蔵坂、けっこう急である。
上りだけでなく、《午少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯を済ますや否や、護謨の合羽を引っ掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。》と、神楽坂下まで下りた場面もある。代助の実家には電話があったが、代助の自宅にはなかったので、今で言う公衆電話をかけに、神楽坂下まで行ったのである。牛込見附で外堀を渡る手前、左手に牛込警察署、右手に代助が使用した自働電話があった。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂②

漱石が作品の中で描く神楽坂は基本的には20世紀に入ってからのものであるが、回顧の中で明治前期から中期にかけての神楽坂も語られている。
『硝子戸の中』では、漱石の姉達は馬場下(自宅)から揚場まで来て舟に乗り、猿若町(浅草)へ芝居見物に出かける様子が、《彼等は筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねて其所の船宿にあつらえて置いた屋根船に乗るのである。(略)帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。》と記されている。揚場は現在飯田橋駅になっている一帯で、外濠にある船着場、文字通り荷揚げ場であった。現在でも「揚場町」の町名が使われている。飯田橋のところで江戸川(神田川)が外濠に合流し、そのまま隅田川、また日本橋川を経て隅田川へ通じており、舟運に利用されていた。
『硝子戸の中』でまた、漱石は子ども時代を振り返って、《当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のある筈もなかった。》と記している。概ね現在の早稲田通りのルートである。神楽坂がこの地域の中心的な繁華街であったことは、漱石の作品の随所に出てくる。
『硝子戸の中』には、《「あの寺内も今じゃ大変変った様だね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」「変ったの変らないのって貴方、今じゃまるで待合ばかりでさあ」私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒燈の多いのを知っていた。然しその数を勘定してみる程の道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気が付かずにいた。「成程そう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」「ええ沢山出来ましたよ。尤も変る筈ですね、考えてみると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東屋ってね。丁度そら高田の旦那の真向でしたろ、東屋の御神燈のぶら下がっていたのは」》と、神楽坂花街のことも書かれている。漱石がこの文章を書いたのは1915年である。
「寺内」とは、肴町にあった行願寺(行元寺、天台宗)の境内ということで、すでに天保以前から善國寺や行元寺の門前に岡場所がみられたが、幕末に行願寺境内の一部が遊行地として加えられ、明治になって、この「寺内」にも待合茶屋をはじめ料理屋、芸者置屋ができ始めた。漱石も『硝子戸の中』で、漱石の従兄の家に二兄などがごろごろしており、《時々向うの芸者屋の竹格子の窓から、「今日は」などと声をかけられたりする。それを又待ち受けてでもいる如くに、連中は「おい一寸御出で、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌に遊びに来る。といった風の調子であった。私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅の方に引込んでばかりいた。それでも私は何かの拍子で、これ等の人々と一所に、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。》と、この後芸者の咲松(御作)との思い出が語られる。17、18歳ころ、つまり明治17、18年(1884年、85年)頃のことである。
その行願寺が1907年に西五反田に移転し、境内跡に急速に花街がひろがったのである。ここで、神楽坂花街が発展した要因を私なりにまとめてみると、
第一に、江戸時代から神楽坂一帯は、善國寺(毘沙門さま)・行元寺(行願寺)・筑土八幡神社など寺社が多く、善國寺の縁日、行元寺周辺の岡場所などが各地から人を呼び込む、人の集まる場所で、明治になっても、神楽坂の通りにはお店が並び、1887年から縁日に東京で初めて夜店が出るようになるなど、各地から人を呼び込む傾向が変わらなかったこと。
第二に、明治維新によって武家屋敷が空き家になり、町屋より広い敷地を活用して、待合茶屋をはじめ料理屋、芸者置屋などを建設できたこと。紅葉が神楽坂に住む少し前くらいから、通行の便のため、「芸者新道」「かぐら横丁」「兵庫横丁」「かくれんぼ横丁」などの小路が幾筋もできていった。行願寺の移転はさらに新たな用地を提供したのである。
第三に、1894年、甲武鉄道の新宿・牛込停車場(牛込御門のところにあり、現在の飯田橋駅にあたる)間が開通し、翌1895年、飯田町まで開通し、これによって、神楽坂が郊外からも人を呼び込む街になっていったこと。
このような神楽坂を漱石はさまざまな作品で描いている。概ね、1910年前後の神楽坂とみて良いだろう。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神楽坂①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座、浅草、神田そして深川の順で東京を巡って来たが、深川などはこの館の主である漱石がまるで登場しない。まことに申し訳ない。そこで今回は漱石登場間違いなしの神楽坂を扱うことにしたい。
神楽坂は坂の名前である。牛込御門から外濠を越え、市ヶ谷と江戸川(神田川)にはさまれて伸びる牛込台の先端を、そのまま上る坂で、名前の由来は諸説あるが、神楽坂下と善國寺の中間辺りに高田穴八幡の御旅所があり、ここで神楽が奉納されたことに由来するとする説もある。
今回、神楽坂として扱う地域は、神楽坂とその周辺地域で、現在の町名で概ね、神楽坂1丁目から6丁目までと、揚場町、津久戸町、筑土八幡町、白銀町、赤城元町、それに横寺町、岩戸町、袋町、若宮町の範囲である。
深川は、富岡八幡宮と成田山不動(深川不動)という二つの参詣対象を求心力に、江戸時代に岡場所(幕府非公認の遊郭)、明治以降、花街が形成されたが、神楽坂も同様で、善國寺(毘沙門さま)・行元寺(行願寺)・筑土八幡神社など寺社を求心力に、岡場所、花街が形成された。下町にある深川は水路の街であるが、山の手の神楽坂は坂の街であり、丸みを帯びた遠望は多くの人にパリのモンマルトルの丘を想起させている。私も市ヶ谷あたりから見て、「なるほど」と思うが、ただ残念なことに実物のモンマルトルの丘を見たことがない。
神楽坂は私にとって子どもの頃から、東京の中でも気になる場所のひとつだった。ところが、柿の木坂は松島トモ子の家がある、佃島はテレビドラマ「ポンポン大将」の舞台、と言った明確な理由があるのに対し、神楽坂にはそれがない。神楽坂はん子など、芸者姿の歌手がいたが、小学生の自分が憧れるとも思われない。それにも関わらず、私は神楽坂へ行きたい、行きたいと思い続けて来た。
そのような私が初めて神楽坂を訪れたのは、漱石に魅せられて、東京の街をレンタサイクルで回るようになってからで、中年をとっくに過ぎていた。神楽坂もそうだが、東京の街というのは不思議なところ。名前だけは馴染みになっているので、初めてでも故郷へ帰ってきたような安らぎ、懐かしさが、少なくとも私には感じられる。
当館七文豪のうち、神楽坂地域に住んだことがあるのは鏡花、秋聲、それに藤村である。とくに紅葉門弟の鏡花、秋聲にとって神楽坂は「文豪への道」の第一歩を踏み出したところである。2019年1月17日、熱海市東海岸町の「貫一・お宮の像」の横に尾崎紅葉記念碑が建立され、除幕式がおこなわれた。紅葉の遺族を代表して挨拶した伊策(当時85歳)は、《祖父紅葉の生まれた慶応三年(一八六七年)は幸田露伴、夏目漱石、正岡子規が生まれ、去年、生誕百五十年を迎え、それぞれの故郷で盛大に顕彰された。記念館や資料館をお持ちになり、銅像まで建立されている。残念ながら、祖父紅葉だけは何一つそういうものがない》と述べ、《そんな中、百三十九人の我々遺族にとって積年の悲願だった記念碑が、第二の故郷とも言える熱海の地で完成したことは無常の喜びだ》としている(「熱海ネット新聞」から引用)。確かに「尾崎紅葉記念館」はない。若死にしても樋口一葉の記念館はある。門弟の鏡花や秋聲にも記念館がある。神楽坂に紅葉と門下生の「紅葉山脈文学館」(仮称)のようなものをつくって欲しいと、私は常々願っている。
                          (つづく)
【館長の部屋】 生成AI俳句

能登半島地震の被災、衝撃を乗り越えて、雪嶺文学会(金沢)の同人誌『雪嶺文学』69号(2024年夏号)が発刊された。その中で今回、興味深い試みがおこなわれた。生成AIによる俳句の講評(感想)である。雪嶺文学会はその起源が作家井上雪さんによる「雪垣」という俳句の結社である。そのため、現在でも「雪嶺俳句」として、同人誌の中に投句のコーナーがある。
『雪嶺文学』69号の冒頭、「朝見れば井戸端にある蝉の殻」という井上雪さんの句に対する生成AIの講評が掲載されている。ここにそれを紹介することはしないが、講評がどのようなものであるか知ってもらうため、私の句を例として紹介したい。
「雪嶺俳句」は5句を提出して、かつては句会のように、みんなで投票して選じていたが、やがて選者が応募者各人の句の中から選んで講評するようになり、今回、生成AIに講評が委ねられた。
私が今回送った句は、

七夕に浴衣のかおりそっと追い
長崎の鐘降りそそぐ原爆忌
浴衣着て連詩編みたる古き恋
夏の日を四角の箱に詰め込みて
ひまわりが疲れ果てたる午後三時

この五句の中で、生成AIが講評の対称として選んだのは、
「七夕に浴衣のかおりそっと追い」
生成AIはつぎのように評する。
――この俳句は、七夕の季節感と浴衣が織りなす風情を表現していますね。七夕という特別な日に、浴衣を着ることで感じる日本の夏の風物詩を感じさせます。また、「そっと追い」という言葉には、控えめでありながらも、その香りや雰囲気が周囲に広がっていく様子が感じられます。俳句全体からは、伝統と自然が織りなす静かで穏やかな美しさが伝わってきます。とても情緒豊かで、季節の移ろいを感じさせる作品ですね。――
穴があったら入りたいくらいの好評価。これは他の人に対する評価も同様で、批判めいたところがない。こうした方が良いなどという「お節介」もない。素直な感想が語られ、しかも核心をしっかりつかんでいる。
じつは、この「七夕」の句。季語が二つ入っている。「七夕」と「浴衣」である。しかも「七夕」の季語は「秋」で、「浴衣」は「夏」である。生成AIがそこまでの情報をまだ学習していないのか、何らかの設定が加えられているのか私にはわからないが、季語というのは基本的に旧暦にもとづいており、しかも季節感もずれてきているので、季語における季節の分類は実情に合わなくなっている。どう考えても今では「七夕」は夏の季語である。つまり私の句は、矛盾した季語が入っているが、堂々と「夏」の句である。
生成AIはしかし、そのような面倒くさいことは言わず、俳句そのものを味わってくれている。二重季語を避けるために、「七夕」を他の言葉に置き換えたいと思っても適語は見当たらず、「浴衣」もワンピースなどに置き換えるわけにもいかない。「七夕」も「浴衣」もそれぞれが独自の情感を有しており、それを重ねることによってひとつの特別な情感を醸し出す。私にとって「七夕」と「浴衣」は一対の季語であり、投句して、後で読み返して季語が二つ入っていることに気がついたくらいである。生成AIという、感情もなければ情緒も感じない「道具」が、私がもっとも大切にした「七夕」「浴衣」の醸し出す情感を的確に評価してくれたことに、驚きを感じ、敬意を表さざるを得ない。
そのうち、生成AIが俳句をつくり、自らが講評する時代がくるだろう、というより、すでに来ているのだろう。私はこう言いたくなる。「お願いだから生成AIさん。俳句を創る楽しみだけは、人間に残しておいてね。」
【館長の部屋】 鎌倉にて⑥

経蔵には堂内中心に転輪蔵がある。すべての経典が収められ、ぐるぐる回して必要な経典を取り出すことができる優れもので、図書館などでも活用できそうだが、この転輪蔵のもっと優れたところは、これを一回転させれば、すべての経典を読んだと同じ功徳があるということ。それなら、高校教科書と参考書、問題集すべてをここに収めて一回転させれば、東大合格も夢ではなさそうだ。当然そのようなことはない。天神さまだって「祈願しても合格を保証するものではない」と言っている。
転輪蔵は保護のため、年13回しか回すことができない。それにしても人間のズボラさを象徴するかのような経蔵だが、さらにおまけがついていて、周囲の壁面に摩尼車が、一枠に3基ずつ、全部で18基ある。この一つを一回転させると一つの経文を読んだのと同じ功徳があるとされている。私も回してみたが、功徳はとにかく、ネパールへ行ったような気分になった。
どうしてももう一度、観音像にお目にかかりたく、本堂へ立ち寄ってから、長谷寺を後にした。
せっかくここまで来たのだから、歩いて10分ほど、鎌倉の海岸に出てみた。この海で『こころ』の先生と私は出会い、そして先生はこの海で自ら生命を断った。もちろん、遺体があがっていないので、ここで入水自殺したのかどうか、それは謎に包まれている。
緩やかに湾曲した海岸線。その先は逗子、葉山へと続いている。都会の海とも思えない砂浜。踏み心地が良い。砂浜に人びとが点在し、海にはウインドサーフィンをする人びとが点在する。上空にはトンビが3羽、ゆったりと旋回している。
のどか、と思っていると、1羽のカラスが砂浜に置かれた荷物に接近。きっと、中に食べ物があるとにらんだのだろう。荷物をつつき始めたところで、持ち主が気づいて走って来た。カラスは逃げる。持ち主が行ってしまうと、カラスはまたチョンチョンと砂の上をやって来た。また、持ち主が。結局、カラスはあきらめて、私の近くにある漁網にやって来た。そこへ、小さめのカラスが飛んで来て、漁網の上をしばらくチョンチョンしていたが、突然、大きなカラスにむかって大きく口ばしを開けて威嚇し始めた。咽喉の奥まで見える。カラスは人間と違って争い事が嫌いで、威嚇する場面などめったにお目にかからない。しかも今回は小さなカラスの方が威嚇している。
と、見るや。大きなカラスが小さなカラスに接近し、口ばしで相手の口ばしを攻撃しようとしている。ついに口ばしが相手の口の中に入った。さあ、どうなることかと思ったら、決闘にはならず、大きなカラスは離れて、砂の中に口ばしを突っ込み、しばらくしたら、また相手の口ばしにむかった。逃げる様子はない。こんなことを繰り返す様子を見ていて、待てよ。小さいカラスは、確かにふつうに飛んではいるが、エサをねだる子ガラスではないか。あの口の開け方は、巣のなかの子ツバメそっくりだ。砂の中にいる小動物を捕まえては、子ガラスにエサを与える、あれはきっと親ガラスであろう。威嚇ではなく、エサをおねだりしていたのだ。何か、ほっこりした気分になった鎌倉の浜である。
空には相変わらず、悠然とトンビが3羽舞っている。

(完)
【館長の部屋】 鎌倉にて⑤

昼時を少し過ぎたが、豊島屋の3階へ直行し、パーラー扉で「謎の物体」を注文。前回ここへ入った時、気になって、「次に来た時には、絶対に食べる」、と心に決めていた料理である。注文すると、「15分くらいかかりますが良いですか」と訊かれた。もちろん、「1時間でも2時間でも待ちますよ」と、心の中で。この謎の物体は正式には「扉風オムライス」。黄色いプリンの親玉のようなものは、バターライスらしきものを卵で包んで蒸したらしいもの。プリン状の型を使ったと思われる。全体黄色で、均質であるので、ひょっとしたら卵の黄身だけ使用したのかもしれない。これほど類推表現をしなければならない料理も少ないだろう。実際に食べても「謎多き」料理である。クリームシチューらしきものも、まろやかな味で、とろみもほど良く、これだけでも絶品。料理好きの私も、さすがにこのオムライスに挑戦したいと思わない。
料理が運ばれて来た。私が前回やったように、周囲の目が私の前の「扉風オムライス」に注がれる。つぎはこの人たちが再びやって来て、「扉風オムライス」を注文するのであろう。
ごちそうさまでした。「つぎは江ノ電に乗って長谷寺です」。
と言うことで長谷寺の前までやって来たが、道すがらもとにかく混んでいる。外国人の姿が目立つ。中国語に韓国語も混じっている。とうとう私は日本語の会話まで中国語に聞えるようになってしまった。
何しろ、紫陽花の季節。通常の拝観料の他に、「あじさい路」への入場料も必要。しかもこれが110分待ち。一定の人数を番号で区切って、混雑しすぎないように調整しているようだ。現在、どの番号まで入場できるか、入場券にあるQRコードを読み取ると確認できる。お寺も時代と共に進化している。
実のところ、私は紫陽花を見に来たのであって、観音様を拝みに来たわけではない。しかしながら、本堂を参拝しないわけにはいかない。そちらの方が本来である。何の期待もなく本堂へ入ってみると、正面、やや薄暗くなったあたりに長谷観音が立っている。全身光背をもち、思わずひれ伏してしまいそうな威厳をもっている。こんなに迫力があるとは思わなかった。長谷観音として有名になっただけはある。
見晴台で時間待ちをする。イスやテーブルがいくつも設置されており、鎌倉の海が一望で、心地よい風が吹いて来る。こうして見ていると、何だか鎌倉の街に住んでみたくなる。文豪はじめさまざまな文化人が鎌倉に居を構えた理由が何となくわかってくる。トンビが大空を悠々と舞っている。風に身を任せているようにも見える。けれども各所に日本語と英語で「トンビに注意」と警告板が出ている。とくに食べ物を出していると、急降下して持って行ってしまうらしい。「トンビに油揚げさらわれた」という言葉はどうやら本当らしい。
などと言っているうちに、予定よりかなり早く順番がやって来て、「あじさい路」へ。急な上り階段が続く。ゴム製なのか、すのこ状のものが各段に敷かれており、水はけが良く、かつ滑りにくそうだ。それにしても急だ。休みたくなる。と思ったら、「気分が悪くなった時の連絡先」が、ところどころに掲示されている。
さまざまな紫陽花が急斜面に植えられ、思い思いに花を咲かせている。その間を人びとの列が続く。こちらもまた思い思いの服装で、浴衣がけの男女も見かけられる。そうした人びとを見ているのもまた楽しいものである。各所で写真を撮っている。だいぶん下りて来て、経蔵の脇の竹林を透かして見る紫陽花の斜面もまた一興である。

(つづく)
【館長の部屋】 鎌倉にて④

3月に鎌倉を訪れて3ヵ月。6月の鎌倉は紫陽花でにぎわっている。
また、北鎌倉で下車。「駅前寺院」の円覚寺と違って建長寺は歩いて15分くらいかかる。何しろ「あじさい寺」として有名な明月院があるため、平日というのに線路沿いの道路は人・人・人である。小さな川を渡って、明月院へ行く道が左へ折れていくと、人の数はかなり減ったが、バスも通る県道21号線へ出ると、両側にある歩道はすれ違いが困難なくらいに狭く、時どき車道に下りてすれ違ったり、自分の速度で進むことが難しい。それでも何とか建長寺の前までやって来た。
建長寺で最初の門にあたる天下門の前、向かって左手に「臨済宗 五山第一 建長寺」と刻した石柱がどっしりと立っている。この石柱からも寺の大きさがうかがえるが、広びろと清々した雰囲気が感じられる。駐車場としても使われている広場を行くと、左へ折れて総門。くぐると右手に受付があって、ここから有料拝観区域になる。この建長寺も「谷戸」と呼ばれる谷筋に立地しているので、主要な伽藍が谷奥にむかって直線的に配置されている。
受付を通って間もなく、参道の左側が庭のようになって、その一画に「さざれ石」。樹木のむこうに鎌倉学園の校舎が見える。立て札には、《さざれ石 この石は国歌「君が代」に歌われるさざれ石(細石)です。石灰岩が長い年月をかけて溶解し、小石を凝結してこのような形状の石となりました。》と書かれている。そう言われて見れば、大きさも形状もさまざまな個性あふれる石たちが、「みんな違って、みんな良い」と言いながら、ひとつにまとまっている、国家のあり様を指し示しているようでもある。もちろん、「君が代」の歌意には、男女のあり様や人としてのあり様が込められているという。
目の前に三門。吹き抜けになり、上階はどっしりと、屋根は反って、天にむかって羽ばたくかのようにのびやかである。三門にむかって右手に鐘楼がある。ところでこの鐘楼、何か変っている。屋根は茅葺きで、桂離宮の屋根を凝縮したようである。屋根を支える四方の柱がこれまた太い。鐘も一際大きい。感心して見ていると、柱の脇に立て札。《「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」 この俳句は明治二十八年(一八九五)九月、夏目漱石によって作られました。親友の正岡子規は、この句を参考に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作りました。》と書いてある。このようなところで突然の漱石登場。不意を衝かれてしまった。
「柿くへば……」も有名ではあるが名句であるかどうかはわからないが、子規が参考にした句も、その出来栄えのほどは?である。しかし、漱石の句となれば、それだけで名句に思えてくる。確かに、あの大きな鐘を撞けば銀杏の葉も散りそうである。
三門を抜け、こんがらがった大樹ビャクシンを、身体をよじりながら見て、目の前には仏殿。やはり「どっしりとのびやか」。横綱の土俵入りで力士が両手を挙げた感じである。堂内中央、地蔵菩薩という本尊にして、他の寺院と違う雰囲気があるが、見上げれば、さまざまな鳥を描いた板がたくさんはめ込まれた天井絵。本尊の真上は蓮の華でも象ったか。欄間には鳳凰も彫られている。創建当時は極彩色の堂内であっただろうが、時の流れのままに色あせている。その自然な味わいがまた良い。
仏殿からすぐに法堂。火灯窓が目立つ。堂内に入ってまず目を引くのが釈迦苦行像。どこかでみたような。そうだ!歴史の教科書で、ガンダーラ仏教紹介のところだった。そっくりだと思ったら、ラホール中央博物館にあるホンモノのレプリカで、パキスタン政府から寄贈されたという。教科書でも印象的な写真だったので、レプリカと言っても、まさにホンモノそっくりの仏像に遭遇して感激した。
そのむこう、堂内奥には本尊であろう。手がたくさん出ているので千手観音と思われる。「猫の手も借りたい」という言葉があるくらいだから、このくらい手を差し伸べても追いつかないくらい、仏様も忙しかろう。苦行をしても、手を差し伸べても、人間は次から次へと戦争し、貧困を生み出し、事件を起こし、自らを不幸に陥れるのであるから、そろそろ仏様に匙を投げられそうである。
堂内中央の天井に龍の図。新しい作品である。そして本尊にむかって左側に靴箱があって、黒や赤に色塗られた木靴が整然と入れられ並んでいる。「ブラタモリ」で出て来たので、一度見たかった品である。禅が中国から入り、中国様式が取り入れられている、それが色濃く残るのが建長寺である。
法堂からすぐに方丈(竜王殿)。靴を脱いで袋に入れ持ち歩く。靴の盗難が多いそうだ。お寺に来てまでこのような行為をしないでもらいたい。方丈は縁側をぐるりと回ることができるが、何と風の心地よさ。裏手にまわると、池を配した日本庭園。ちょうど座るところが用意されている。つぎつぎと外国人観光客が通り過ぎて行く。蝶が舞う。赤とんぼが飛ぶ。小鳥が舞い降りる。ふと見ると、池のむこうの、盆栽の松のような低木の影がハートに見える。座っている外国人たちに指し示すと笑っていた。
この先、建長寺の境内はまだまだ続くが、つぎもあるので、北鎌倉駅へ引き返す。そして島式1ホームの鎌倉駅に下りたった。これが、幕府があった街の表玄関である。

(つづく)
【館長の部屋】 鎌倉にて③

鎌倉と言えば「大仏」。有名過ぎて、行くのに気がひけるが、一度も行ったことがないので、江ノ電に乗って長谷へ。なぜか江ノ電は古くて新しい感じ。単線で家並の間をぬうように走る。何もおしゃれじゃないのに、江ノ電と聞くとおしゃれなイメージ。和田塚、由比ケ浜と、古めかしい駅名が続くが、江ノ電と聞くとおしゃれ。長谷駅でやっとすれ違いができる。つまり、鎌倉・長谷間は閉塞区間になっていて、この区間には1列車しか存在できない。長谷駅を出て、鎌倉駅まで行き、乗客を降ろし、その後、つぎの乗客を乗せて、再び長谷駅へ来るまでの間、つぎの電車は長谷駅から鎌倉駅にむかって出発できない。要は電車を増発したくてもできない。その割に、江ノ電は地元の人にも利用され、観光客には絶大な人気を誇っている。一度は乗ってみたい鉄道である。どうしても満員電車になってしまう。
長谷駅を降りる。まっすぐ大仏へむかう道は人でいっぱい。観光客を目当てにしたお店も多い。ここでも外国人の姿が目立つ。10分ほど歩いて入口へ。この辺り、極楽寺を中心に畿内にあった有名な寺社を模して配された寺社が多く、鎌倉幕府が本拠地の鎌倉を畿内と並ぶ中心地にしようとした表れと、「ブラタモリ」でも説明されていた。当然、鎌倉の大仏は奈良東大寺の大仏を意識したものである。与謝野晶子が「美男におはす」と詠んでいる。その気になって見ると確かに美形である。とくに横顔が良い。と言うか、露坐なので奈良の大仏と違って明るく見えるし、自分の好きな位置から見ることができる。
ところで、鎌倉大仏が露坐になったのは室町時代に襲った大地震と津波によって、大仏殿が破壊されたからと言われている。この地は海から800m以上離れているが、海にむかって開けた谷筋の谷頭にあたり、海抜は12~13m。当時は海抜11m、海からの距離500mくらいだったと想定されており、東日本大震災にともなう津波を考えても、じゅうぶんに被害は想定できる。これを未来に活かすなら、多少条件が異なるものの、大津波が想定される場合には、さらに高いところに避難しなさいということである。どうも、私はどこへ行っても災害と結びつけて見てしまうようだ。これは「地理屋」だから、宿命みたいなものである。
関東大震災では、大仏の台座が一部壊れ、大仏が40cmほど前へ移動し、つんのめるような状態になったという。大仏が猫背に見えるのはこのためだと言われているが、美男も猫背では「イマイチ」だが、哀愁を帯びた背中と言うものもまた、味わいのあるものだ。あまりにも有名で、かえって来ることをためらった鎌倉大仏であるが、思いのほか好印象、来て良かったと思う。長谷観音も人がいっぱいである。今回は行くことをやめよう。

(つづく)
【館長の部屋】 鎌倉にて②

北鎌倉駅から電車で一駅、鎌倉駅で下車。駅から近いホテルニューカマクラへ。くねくねと路地を入ったところに、突如駐車場が現れた。オレンジと肌色を混ぜたような色の建物が二棟。とりあえず正面の建物で玄関から呼んでみたが誰もいない。うろうろしていると駐車場の係員が声をかけてきたので、「芥川龍之介の資料があるはずだが、どこ?」と尋ねてみると、左手の建物を教えてくれた。その建物に入ると、玄関でお掃除をしている若い女性。「芥川……。それならこれ」と、玄関の左手に芥川の写真などが並んでいる。
芥川龍之介がこの地に宿泊した当時は「平野屋」。龍之介は直前に東京へ帰ったが、岡本かの子はここで関東大震災に遭遇し、平野屋も壊滅したため、近くで避難生活を送った。したがって、現在の建物は大正ロマンを感じさせるが、大震災後の建物。「この近くで、おいしいパン屋さんはありませんか」ときいてみると、豊島屋を教えてくれた。「ありがとう」と言ったものの、「豊島屋って、鳩サブレーのお店じゃなかった?」
近いことは近い。地下道で横須賀線をくぐり、鎌倉駅西口から東口へ出ると、豊島屋はすぐ。店内、鳩サブレーが目につくが、右手に確かにパン屋がある。戦後、配給のパンをつくったのが始まりとかで、全部買って食べたいくらい魅力的なパンが、それほど広くない店内に並び、その中から昼食用にいくつか選んで購入。2階・3階がパーラーになっていて、購入したパンを食べることができるので、2階席でコーンスープを注文。なめらかでこくがあり、飲み心地が良いスープ。パンの味も素直である。ホテルのスタッフさんに、「教えてくれてありがとう」といった気持ちだ。
スタッフの黄色い鳩サブレ―マスクが、店内を明るくしている感じ。と、突如、隣りの席に運ばれてきたのは、楕円形の皿に黄色いプリンの親玉のようなものが載って、とろとろの白い液体がかかっている。あれは、料理なのかスウィーツなのか。次回、ここへ来た時は絶対にあの「謎の物体を食べてやる」。豊島屋さんが意図したわけではないが、鎌倉のリピーターをつくり出す結果になってしまった。

(つづく)
【館長の部屋】 鎌倉にて①

四国辺のある中学校へ赴任が決まった坊っちゃん。《生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない》。妙なところで鎌倉が引き合いに出されたものだが、漱石作品では『門』や『こころ』にも鎌倉が登場する。
そんなわけで鎌倉にやって来た。今回は円覚寺と鎌倉大仏をまわる予定である。
北鎌倉の駅を降りると、目の前が円覚寺。「駅前寺院」とでも言うのだろうか。「駅から5分」どころではない近さである。踏切のところから左手を見ると石段があり、その先に総門が見える。右手、踏切を渡ると、すぐ白鷺池があって橋が架かっている。どうやら円覚寺の境内はそこから始まっているようで、参道を横須賀線が横切ってしまったようだ。
石段を上って、総門をくぐる。それにしても上りやすい石段だ。総門をくぐり、拝観料を払って、少し石段を上ると山門が見える。屋根の先端が反り返って、鳥が羽ばたいて飛び立とうという雰囲気である。山門に入って見上げると、木組みが重なり、力強く屋根を支えている感じで、屋根裏部分は木の骨組みが幾本も幾本も伸びて、流れるような動きを感じる。まさに静と動である。漱石の『門』の由来はこの門であろうか。
仏殿は一般で言う本堂にあたるのだろうか。横長にどっしりとした感じの建物。中へ入ってお参りし、天井を見上げると龍。今年は辰年だからちょうど良い。「ブラタモリ」で円覚寺や建長寺など鎌倉の寺院は、丘陵地が浸食されてできた「谷戸(やと)」とよばれる谷筋に伽藍が配置され、谷川を巧みに利用していると学習していたので、それを実証見分、まさに修学旅行である。漱石は人生の旅の途上、この寺院において、坐禅から何かを学んだであろうか。
そのようなことを考えながら、さらに奥、大方丈、そして妙香池、白鹿洞へ。いわれはともかく、白鹿洞は崖に鹿が座っている様に窪んでいる。苔や草がはえているが地肌は白っぽい。丘陵の谷筋に見られる露頭である。つまりこの丘陵地の地層を知ることができる場所である。と、思って見渡すと、あっちにもこっちにも白い露頭が見られるではないか。これがうわさの鎌倉石?ということは、もともと海で堆積した砂土が隆起して、今日私たちの目の前にそそり立っている。能登半島地震で瞬時に地盤が隆起した現実を目の当たりにした後だから、ここでもそのような隆起が繰り返し起きた、その結果が今、目の前にあるのだろう。私の関心は禅も漱石もすっ飛んで、地殻変動の方へ行ってしまう。

(つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑯

荷風は《崎川橋という新しいセメント造りの橋をわたった時》、向うに見える同じような橋を背景にして、《炭のように黒くなった枯樹が二本、少しばかり蘆のはえた水際から天を突くばかり聳え立っているのを》見た。崎川橋は仙台堀を、亀久橋から東へ末広橋、木場公園大橋と行った三つ目の橋。荷風は二本の木を《震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。》としている。
荷風はこの巨大な枯樹があるために、《単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗鬱なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。》と記している。私はふと、この景色を曽宮一念が描いたらどうなるだろうかと思った。何か共通する風合いを感じる。
崎川橋の上を《材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。》と、荷風。その足音がその姿と共に、《橋の影を浮べた水の面をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す》。荷風はシャルパンチエー作曲のオペラを思い出している。
現在の葛西橋通りにあたる福砂通りは深川の福住と、砂町を結ぶセメントの大通りであるから、大横川を越え、十間川を越えると《砂町の空に突き入っている》。荷風は《砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、》《好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。》と記し、《折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。》と、『深川の散歩』を結んでいる。その翌月、荷風は『元八まん』と題する「砂町の記」を書いている。
喧騒の銀座、猥雑な浅草をこよなく愛しながら、一方でどんどん江戸・東京の都心を離れていく荷風。それは逃げていくのではなく、新しい魅力を、心の安らぎを感じてのことである。
東京には地域に根差した魅力的な商店街がいくつもある。私はそのような商店街を歩くことが好きだ。東京というのはけっして着飾った、余所行きの街ではない。温かみのある、長年その街に住んでいるような親しさと気安さを与えてくれる街である。地元商店街はとくにそのような思いを強く感じさせてくれる。私はまだ「砂町商店街」に行ったことがないので、いつか行ってみたいと思っている。「砂町銀座商店街」は1932年に成立しており、荷風が『深川の散歩』や『元八まん』を書く2年前である。
荷風につられて、話しは砂町まで行ってしまったが、『文豪と深川』はこのへんで「終」としたい。深川は関東大震災と東京大空襲などで二度焼失した。その中から立ち上がり、今日も江戸・東京情緒を醸す深川をつくり出している。これがまさに文化・伝統の力、人間の力なのだろう。そして、堀割のある限り、深川は深川であり続けることができる、そのような気がする。
                          (完)
【館長の部屋】 文豪と深川⑮

荒川放水路完成は1932年であるが、荷風はこの頃から、たびたびこの地域を歩き、玉ノ井へ足を踏み入れたのも1932年。そして1934年の『ひかげの花』では、主人公の千代の出生地を、中川沿いの西船堀(現在の江戸川区小松川1丁目)に設定。『深川の散歩』が書かれたのは1934年11月である。
江戸情緒を好み、東京にその名残を求め続けたはずの荷風であるが、その嗜好は変化してきたようである。荷風はこうした変化について、《災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ走せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱すべき時の来った事を悟らなければならないような心持もするのである。》と、心境を吐露している。そして荷風はギヨーム・アポリネールの『坐せる女』という小説を取り上げ、パリの美術家になった一青年が爆裂弾のために全村尽く破滅した故郷に遊び、戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、《悲愁の情と共にまた一縷の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。》と記している。
ギヨーム・アポリネールの「爆裂弾」は第一次世界大戦による破壊であったが、荷風の心境に一撃を与えた「爆裂弾」は、まさに関東大震災だったのだろう。そしてその後を見渡せば、第二次世界大戦という「爆裂弾」、とりわけて東京大空襲という「爆裂弾」は荷風にどのような影響を与えただろうか。旧時代の審美観から蝉脱すべき時の再び来った事を悟ったのだろうか。
とは言っても、荷風には断ち切れぬ思いもあるようだ。《木場の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加松の山積せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場を思い出す人はいない。かつて八幡宮の裏手から和倉町に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。》と書き出した荷風は、さらに続けている。《冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその址を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう》。
和倉町は富岡八幡宮の裏手を行く油堀の北岸に沿う町。冬木町はその北にある町で仙台堀の南岸に沿っている。仙台堀に亀久橋が架かるあたりで、冬木は木場の木材豪商冬木家に因む。和倉町の町名は消えたが、冬木町は残存している。冬木弁天社は冬木町22-31にあり、葛西橋通りに面している。深川七福神のひとつ。かつて木場であった一帯は貯木池が多く、冬木弁財天も池に囲まれ、島のようなところに立地していた。知十翁とは俳人岡野知十(1860~1932)のこと。知十の句碑は一周忌を記念して建てられた三つの句碑(雪・月・花)のうち「月」にあたる。荷風がこの文章を書いたのは句碑ができた翌年の1934年であるから、それから90年経過した今日ならいざ知らず、当時において「句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう」という表現はかなり寂しすぎる。
荷風は冬木弁天社の前を通り過ぎ、「広漠たる」福砂通り(福住と砂町を結ぶ。現在の葛西橋通り)を大横川の岸に出る。《仙台堀と大横川との二流が交叉するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。木材の匂を帯びた川風の清涼なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事に感じられるのである》。荷風は当時の木場のようすをこのように描写している。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑭

深川座についてはすでに『深川の唄』のところで紹介したが、当時の富岡門前仲町44・45番地(現在の門前仲町1丁目13)あたりにあり、震災後、道路が新しく取広げられ、後に清澄通りになる。荷風は《むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋のあったあたりである。》と記しているが、『深川淺景』で説明したように、閻魔堂近くでは油堀(十五間川)と、これに交差する堀があり、油堀に閻魔堂橋、交差する堀に油堀の両岸に沿ってそれぞれ黒江橋、江川場橋が架けられ、四ツ橋に一つ足りない三つの橋が架けられていた。門前仲町から森下へ向かう電車通りをつくる際、堀の交差点上を道路が通ったため、黒亀橋という一つの橋になった。
荷風はこのあたりについて、《今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。》と書いて、《かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。》と続けている。関東大震災を境に、このあたりも大きく変わってしまったのだろう。
荷風たちが墓を掃った鶴屋南北は、墓が心行寺にあるので、五世(1796~1852)であろう。一方、三角屋敷は四世鶴屋南北(1755~1829)の人気演目『東海道四谷怪談』において、主人公「お岩」の妹にあたる「お袖」が住んだところとして設定されたもので、お袖はここで直助によって殺害されている。三角屋敷について荷風は、《三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たものである。》と注釈を加えている。
三角屋敷は油堀が屈折する沿岸にあり、深川亀住町22番地、現在の深川1丁目5あたり。四世鶴屋南北は晩年、深川の黒船稲荷(牡丹1丁目12-9)境内に住み、ここで『東海道四谷怪談』を執筆。墓は業平の春慶寺にある。今では油堀は埋められ、上を首都高9号線が走っている。荷風には見せられない光景である。
《今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。》と荷風。地下鉄東西線で門前仲町・木場・東陽町と三つの駅を過ぎ、つぎが南砂町である。途中で明治通りを越えている。砂町は南葛飾郡に属していたが、1932年に城東区の一部として東京市に編入された。つまり荷風の表現を解釈すると、大震災から10年経っても、深川区内、一木一草もなかったことになる。《震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。》と続けた荷風であるが、この景観が関東大震災という自然大災害のなせる業である故、いやおうなしに受け入れざるを得ないといった体である。
そして、不思議なことにこの景観を荷風はけっして嫌っていないようである。それは、《災後、新に開かれたセメント敷の大道は、》からの一文に表れる。これらの大道は、深川の町を東西に走る福砂通(黒亀橋から冬木町を貫き、仙台堀に沿って走る)、清砂通(清洲橋から東に向かい小名木川と並行して中川を渡る)の二筋。南北に電車の通らないもの三筋。これらの新道はいずれを歩いても、《道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯タンクばかりで、鳶や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。》という状況で、昼中でも道を行く人は途絶えがちで、《たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている》。このような深川の新道に荷風は、《夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好い道は他にない事を知った。》のである。かくして荷風は、《それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。》と、ずいぶんお気に入れのようである。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑬

全文引用はできないが、終了にするのも心残りである。この後は端折りながら『深川の散歩』を続けていきたい。
清洲橋を渡って深川へ足を踏み入れた荷風。北へ少し行って小名木川の隅田川に一番近いところに架かる万年橋を渡って北側へ。万年橋は江戸時代、この橋からの富士山の眺望が素晴らしく、葛飾北斎や安藤広重などが風景版画絵の題材として描いたところである。北詰近くに、芭蕉が37歳から奥の細道の旅に出るまで住んだ芭蕉庵があった。
《河岸の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。》と、万年橋界隈を描写した荷風は、ここに芭蕉庵址が神社となって保存され、その筋向いに柾木稲荷の祠が新しい石の華表(とりい)を聳えさしているのを見て、《東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。》と、感想を記している。現在の東京は荷風を嘆かせるかもしれないが、それでも江戸以来の伝統を何とかつないでいるように、私には思われる。これも東京の魅力であり、一度も住んだことのない私に、東京に「ふるさと」を感じさせる由縁である。
隅田川沿いに遡って行った荷風は、新大橋手前で右折して六間堀に架かる猿子橋へ。荷風は《六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方本所堅川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横切って、再び小名木川の本流に合している。》と解説し、《下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。》と評している。その六間堀とその支流も現在では埋められてしまったが、一部に溝のような水路が残り、新旧地図を比べると、堀割のルートが道路の形状として浮かび上がる。
荷風は猿子橋を木造の汚い橋と書き、橋の上に立つと、《亜鉛葺の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸きれを翻しながら幾町となく立ちつづけている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。》と続けて、亡友A氏との思い出や、常盤亭の高座に上ったことなど思い出している。A氏とは荷風の親友井上精一(唖々)。1923年、46歳で亡くなっている。
猿子橋があったところは、深川芭蕉通りにある常盤1丁目交差点すぐ東。常盤亭はそこから100mほど東へ行った、現在の田口屋(常盤2-6-11)の斜め前あたりにあったという。
A氏は1909年頃から3,4年、六間堀に沿った東森下町の裏長屋に住んでいたことがあった。荷風は《東森下町には今でも長慶寺という禅寺がある。》と書いている。長慶寺は現在の住所で森下2-22-9にあるので、東森下町が六間堀と小名木川で囲まれた地域の北部にあったことがわかる。新大橋通りと清澄通りが交わる森下駅前交差点の北東部にあたる。地下鉄森下駅では都営新宿線と都営大江戸線が交差する。
芭蕉の句碑や日本左衛門の墓があることで知られた長慶寺は、《その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた》。電車通とは現在の清澄通り。荷風は《この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平屋建の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じていた。》と描き、長屋の人たちは大久保長屋または湯灌場大久保と呼び、堀向うの林町三丁目の方へ架かる小橋が大久保橋と呼ばれていたが、この地に5000石を拝した旗本大久保豊後守の屋敷があったことに因んでいると紹介し、さらに荷風はA氏が深川夜烏という別号で書いた、大久保長屋に関する一文を長々と紹介している。
それへ続けて荷風は《この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなかった。竹格子の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴の吊されたところもあったほどで、向三軒両鄰り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯など生したものはお廻りさんでなければ、救世軍のような、全く階級を異にし、また言語風俗をも異にした人たちだと思込んでいた。》と書いているが、このような場末に生きる庶民に荷風はある種、風情を感じていたようである。
荷風はさらにA氏について、その経歴や生き方を披露し、《場末の小芝居を看に行く日記の一節を》、これも長々と紹介している。この日記に深川座が登場するため、荷風は《かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。》と、一挙に1.5km以上南下して門前仲町あたりまでやって来る。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑫

秋聲の『仮装人物』の設定時期は、鏡花の『深川淺景』が書かれたほんの少し後の時期である。主人公庸三が馴染みになる小夜子が営む待合がある中洲。
《薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた》(七)と、対岸の深川を描写している。大きな橋は清洲橋、煙を上げるのは対岸にある深川セメント(浅野セメント)。清洲橋とは、清澄と中洲を結ぶところから名付けられ、1928年に完成した。震災復興事業の一環として建設された。

《中洲の河岸にわたくしの旧友が病院を開いたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雜筆中にこれを記述した。》と荷風は『深川の散歩』を書き出している。旧友とは、荷風の弟貞二郎(牧師)と中学で同級の大石貞夫医師。1915年、南茅場町河岸5番地に鎧橋病院を開業し、1919年に中洲養生院を引き継いで、中洲病院を開業している。中洲病院は中洲12番地にあり、現在の清洲橋畔にすぐ北隣。《病院はその後箱崎川にかかっている土洲橋のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋をわたって深川の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。》と荷風は続ける。大石医師の病院が経緯あって土洲橋に移転したのは1932年、荷風が『深川の散歩』を書いたのは1934年である。
荷風は中洲まで来て、どうして清洲橋を渡ってしまうのか。荷風は《多年坂ばかりの山の手に家する身には、時たま浅草川の流れを見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。》と説明している。台地と低地という異なった地形にひろがった江戸・東京の街の魅力である。
荷風は清洲橋について、《この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳しているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。》と、その魅力を語っている。かなりの文章量書いているということは、荷風お気に入りの風景であることを示しているとみて良いだろう。荷風は単なる自然ではなく、人と自然が織り成す都市景観を好む傾向にある。このように描かれると、私も清洲橋へ行ってみたくなるが、私も『ポンポン大将』の映像を通じて憧れた東京は、まさにこのような景観であった。
清洲橋を渡った荷風。《南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐ろしい建物と煙突とを聳かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平い倉庫の立ちつづく間に、一条の小道が曲り込んでいて、洋服に草履をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が俄に耳につく。》と、さすが文豪が描くと、工業地帯も「文学的」に表現される。
されるのは良いが、このままいくと、この後、全文引用しなければならない。それではいささか苦労が多い。いっそ、「この後、青空文庫をお読みください」と、終わらせてしまった方が良いかもしれないが、それでは芸がない。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑪

閻魔堂の隣りに心行寺がある。大震災で焼失し、1932年に再建された。したがって文中には、「仮門」と書かれている。連れが電車の行き交うすきに、「えゝ、一寸懺悔を。……」と言う。この寺の墓地には洲崎の女郎が埋まっていると、ある女の話しを始める。その女は後に洲崎を抜けて所帯をもち、土手でおでん屋を出していたが、気が変になって亡くなった。旅芸者をしていた時、親なしの娘を養女にしていたが、その娘も芸者になり、養母を見送ってくれたが、ある時、連れが養女に巡り合い、心行寺にお参りしてくれるよう頼んできたが、その養女も震災で行方知れずと言う。閻魔堂で羽目の影がちらりちらり鬼のまわりに白い女。地獄の絵というと女が裸で気になったと、連れは笑う。
《電車通りへ突つ立つて、こんなお話しをしたんぢあ、あはれも、不氣味も通り越して、お不動樣の縁日にカンカンカンカンカン――と小屋掛で鉦をたゝくのも同然ですがね》。鏡花がお参りするように言うと、《何だか陰氣に成りました。こんな時、むかし一つ夜具を被つた女の墓へ行くと、かぜを引きさうに思ひますから》とは、この連れ。まこと鏡花の作品のような話をする。
海辺橋は仙台堀川に架かる橋。黒亀橋と同様に、大震災で落橋し、市電の線路は仙台堀川上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は横に仮橋をつくって、新しい橋を建設していた。市電の線路が急な曲線を描いて仮橋へさしかかっていたと思われる。《「あ、あぶない。」笑事ではない。――工事中土瓦のもり上つた海邊橋を、小山の如く乘り來る電車は、なだれを急に、胴腹を欄干に、殆ど横倒しに傾いて、橋詰の右に立つた私たちの横面をはね飛ばしさうに、ぐわんと行く時、運轉臺上の人の體も傾く澪の如く黒く曲つた。二人は同時に、川岸へドンと怪し飛んだ。曲角に(危險につき注意)と札が建つてゐる》。鋼鉄製の新しい海辺橋は、翌々年の1929年に完成した。海辺橋の南西たもとに松尾芭蕉ゆかりの採荼庵跡があり、芭蕉はこの辺りから奥の細道の旅に出発したと言われる。
時間の都合で今日は行かないが、この川を渡って大きな材木堀を一つ越せば、浄心寺・霊巌寺があると鏡花は記している。仙台堀川の向こうにある堀は、地図に「材木堀」と書かれていないが、この辺り木場であり、一般的に貯木池を「材木堀」と呼んだのであろう。霊巌寺には白河藩主で老中として活躍した松平定信の墓があり、この地が「白河」と呼ばれる由来になった。境内の南東一角は深川区役所。現在、深川江戸資料館になっている。
鏡花は、《いまは東に岩崎公園の森のほかに、樹の影もないが、西は兩寺の下寺つゞきに、凡そ墓ばかりの野である》と東西逆に書いているが、実際は、西には岩崎公園(現、清澄庭園・公園)、東から南は浄心寺周辺にかけて寺院が多い。霊巌寺と言えば「江戸六地蔵」の一つがあることで知られる。鏡花は《その夥多しい石塔を、》から《また趺坐なされた。》まで、かなり詳しく記している。
《その尾花、嫁菜、水引草、雁來紅をそのまゝ、一結びして、處々にその木の葉を屋根に葺いた店小屋に、翁も、媼も、ふと見れば若い娘も、あちこちに線香を賣つてゐた。狐の豆府屋、狸の酒屋、獺の鰯賣も、薄日にその中を通つたのである。……思へばそれも可懷しい……》鏡花らしい「締め」である。
深川を舞台にいくつも作品を書いてきた鏡花であり、何度も深川を訪れているが、大震災後に深川へ来るのは初めてであり、かつての霊巌寺界隈を思い出したのであろう。やはり、深川の風情も、江戸から明治・大正にかけての方が鏡花には似合っているかもしれない。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑩

佐賀町の東側。現在、大島川西支川と名付けられた水路の永代通りから首都高9号線(深川線)の間、西に深川小松町と深川松賀町、東に深川松村町があった。《松村に小松を圍つて、松賀町で淨瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、》と、すべて「松」がつく面白さに、鏡花は地名で言葉遊びしながら、情景を描写している。この辺りの様子が変わったと連れが言うと、鏡花も変わったと応じながら、「この道は行留りぢやあないのかね」と言うと、冗談言うなと連れ。「洲崎に土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな抜け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや」と来たから、これには鏡花も思わず「えらいよ!」と感嘆。水路を通れば洲崎から東京湾に出て、全国各地、いや世界各地へ続いているから、行き止まりどころではない。まさに発想の転換で、この一言は名言である。
二人は下之橋、中之橋を渡って、さらに上流にある仙台堀川に架かる上之橋。仙台堀という名前は、北側に仙台藩の蔵屋敷があり、堀を使って舟運がおこなわれたことに由来する。藏屋敷跡には1872年、日本初のセメント工場である官営深川工場(後のアサノセメント)が建設された。連れは、《大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな》と説明し、すぐ向うに煙か雲か、灰汁のような空にただ一か所、樹がこんもりと、青々しているのが岩崎公園と続けている。岩崎公園は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の発注によってつくられたもので、現在の清澄公園・清澄庭園。
連れの話しだけは、隅田川沿いにさらに上流へむかって進み、中洲・箱崎を向うに見てと記されている。実際に歩いているのではないので、翌1928年3月に完成する清洲橋の工事中の姿は何も記されていない。
話しは小名木川まで及んで、萬年橋。《吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に舟受けて……》と、安政2年の大地震の話しが飛び出し、「また、地震かい」と言う鏡花をものともせず、連れはしゃべり続ける。サイカチは皀角(さいかち)の木があったことから名付けられた河岸の名。海辺大工町は現在白河1丁目。
話しは現在に戻って、この4、5年、浦安でハゼやマコ(鰈、カレイ)がたくさん釣れるようになり、釣り人気で、高橋を出る汽船は満員。朝一番の船などは、汽船の屋根まで人で埋まり、途中の大富橋、新高橋では、欄干の外に出て、橋にぶら下がり、汽船の屋根に飛び乗るという話まで。大震災で東京湾にも異変が起き、急にハゼやマコが捕れるようになったのかもしれない。連れの話しは萬年橋からさらに先へ。隅田川に架かる新大橋付近のお船藏。三代将軍家光の命で建造された軍船形式の御座船安宅丸(あたけまる)と、その後も幕府の艦船を格納してきたところ。今も、安宅丸を模した御座船安宅丸が観光クルーズをおこなっている。先、小松川の向こうは回向院。
二人は、上之橋から引き返し、中ノ堀から油堀沿いに歩いて閻魔堂へ。鏡花は《常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承はつた》と書いているが、常光院とは法乗院のことで、大震災で焼失したが、再建された。現在の閻魔大王像は1989年に完成したコンピュータ制御のもの。
《黒龜橋。――こゝは阪地で自慢する(……四ツ橋を四つわたりけり)の趣があるのであるが、講釋と芝居で、いづれも御存じの閻魔堂橋から、娑婆へ引返すのが三途に迷つた事になつて――面白い……いや、面白くない。が、無事であつた》。閻魔堂近くでは油堀(十五間川)と、これに交差する堀があり、油堀に閻魔堂橋、交差する堀に油堀の両岸に沿ってそれぞれ黒江橋、江川場橋が架けられ、四ツ橋に一つ足りない三つの橋が架けられていた。門前仲町から森下へ向かう電車通りをつくる際、堀の交差点上を道路が通ったため、黒亀橋という一つの橋になった。
その黒亀橋も大震災で落橋。市電の線路は油堀上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は仮復旧だったと思われるが、鋼鉄製の新しい橋が翌々年にあたる1929年に完成し、富岡橋と名付けられた。しかしその後も黒亀橋の名は使用された。閻魔堂橋、黒亀橋を受け継いだ富岡橋も、首都高速9号線(深川線)建設にともなって、1975年、油堀を埋め立てられて消失してしまった。深川に橋の歴史は尽きない。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑨

《永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた》と、どうやら二人は円タクに乗って、永代橋を渡った袂で降りたようだ。《すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い》。永代橋を渡って深川へ入った辺りの賑わいが伝わって来る。この通り(現、永代通り)には市電が通っていたが、ここでは描写されていない。深川地域では当時、永代橋から洲崎に伸びる路線、黒江町で分れて森下へ向かう路線、門前仲町で分れて月島へ行く路線があった。
この後、深川の街を、佐賀町、松村、小松、松賀町、仙台堀、黒亀橋、常光院、心行寺、海辺橋のコースで歩いている。はじめに、洲崎や仲町のようなカネのかかるところは行かないと宣言している。
永代橋を渡ってすぐ、二人は左へ入って、隅田川沿いに上流方向にむかう。道の両側が佐賀町である。貨物車(トラックのことであろう)が凄まじい音を立てて、つぎつぎやって来る。《燒け土がまだそれなりのもあるらしい、道惡を縫つて入ると、その癖、人通も少く、バラツク建は軒まばらに、隅を取つて、妙にさみしい。休業のはり札して、ぴたりと扉をとざした、何とか銀行の窓々が、觀念の眼をふさいだやうに、灰色にねむつてゐるのを、近所の女房らしいのが、白いエプロンの薄よごれた服装で、(略)》。関東大震災で焦土と化した深川の復興状況がうかがえる一文だが、銀行の描写が昭和金融恐慌の生々しさを伝えている。
この年、第一次世界大戦後の不況と、関東大震災後に発行した手形が不良債権化して、3月14日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が失言したのをきっかけに、取り付け騒ぎが発生し、多くの銀行が休業した。後任の蔵相に就任した高橋是清は、4月22日以降、21日間支払猶予令を出すなど、収束策を次々打ち出したが、鏡花が取材に出かけた6月になっても、銀行休業は見受けられたようだ。
《御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して――こゝに見取圖がある。――斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。(略)藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、(略)川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮かぶ》。佐賀町の名は、元禄期に永代橋が架けられ、そこからの眺めが佐賀に似ていたところからつけられたと言う。深川一帯は江戸時代、江戸湾(東京湾)の干拓や埋め立てによって生まれた土地で、有明海の干拓で生まれた佐賀平野と同様である。
佐賀町は深川漁師町とよばれた八町の一つで、永代橋から下之橋(油堀)・中之橋(中之堀)そして仙台堀に架かる上之橋まで、左側には隅田川に臨む蔵(河岸蔵)が並び、右側にはほぼ同じ間口の町屋敷が並び、米問屋・油問屋・干鰯問屋などが連なっていた。大震災ですっかり姿を変えてしまった風景を目の当たりにしながら、鏡花は昔を思い出していたことであろう。江東区深川江戸資料館の常設展示室で再現している実物大の街並みは、佐賀町をモデルにしている。
ところで、ここに突然出て来た赤穂浪士の討ち入り。じつは、本所吉良邸を襲撃した浪士たちは、隅田川沿いにまっすぐ南下し、佐賀町河岸通りを永代橋から高輪泉岳寺に向かったと伝えられている。浪士たちは永代橋近くの乳熊屋(現、ちくま味噌)で休息したということで、甘酒をふるまって労をねぎらったという由来の碑がある。鏡花はこうした話も心に留めて文章を書いている。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑧

荷風が『深川の唄』を執筆した1908年、東京市勢調査によると深川区の人口は11万9098人。東京市(15区)全体の人口は162万6103人だった。これが、芥川龍之介が『捨児』という作品を書いた1920年になると、第1回国勢調査で深川区の人口は18万1259人、率にして52.2%増加した。同様に東京市全体では217万3201人(増加率33.6%)で、深川区は平均的な増加率を超えている。ついでながら増加率50%を超えたのは、他に四谷区(69.1%)、本所区(56.3%)、小石川区(55.2%)の計4区。当時の山の手近郊と江東地区である。
龍之介の『捨児』という作品では、主人公の信行寺の和尚は深川の左官出身と設定されている。何でも19の年に足場から落ちて、一時正気を失った後、急に菩提心を起したとかいう。一方、龍之介の友人にあたる室生犀星は『蒼白き巣窟』で、「おすゑ」という女性を深川生まれと設定している。
その犀星は、1921年刊行した『寂しき都会』に収められた「我永く都会に住まん」という詩において、「私が初めて上京したころ/どの街区をあるいてゐても/旅にゐるやうな気がして仕方がなかつた/ことに深川や本所あたりの/海近い町の/土蔵作りの白い家並をみると/はげしい旅の心をかんじ出した」と、余所余所しかった東京も、「五年十年と経つて行つた」頃には「東京が」「私を」「抱きしめてくれた」と言うことができるまでになった、東京が「第二の故郷」になったと宣言しているが、その中で、海に近く、土蔵作りの白い家並みが続く深川の情景を描き込んでいる。

1923年。関東大震災は深川にも壊滅的な打撃を与えた。深川区内の推定震度は震度5弱から震度7まで分布しているが、地震による建物の倒壊より、火災による被害が大きく、区域の85%、世帯にして92.7%が焼失したと分析されている。深川不動堂も焼失したが、荷風が『深川の唄』で登場させた「内陣、新吉原講」と金字で書いた鉄門は焼け残った。
この関東大震災から4年ほど経って、少しずつ復興を遂げて来た深川へ鏡花が訪れた。昭和を迎え、関東大震災からの復興事業が一区切りする時期、東京復興をアピールすることを目的に「東京日日新聞」が企画したもので、「大東京繁昌記下町編」として、『深川淺景』の題名で、1927年7月17日から8月7日まで、泉鏡太郎の名前で連載された。この連載中の7月24日、同じ企画で『本所両国』を書いた龍之介が自死するという衝撃的な事件が起きている。
『深川淺景』は小説ではない。いわゆる「街歩きレポート」で、鏡花は新聞社の社員と連れ立って6月頃に深川を訪れたと思われる。
《時節がら、槍、白馬といへば、モダンとかいふ女でも金剛杖がひと通り。……人生苟くも永代を渡つて、辰巳の風に吹かれようといふのに、足駄に蝙蝠傘は何事だ》と鏡花。「辰巳」とは「深川」の別称である。『葛飾砂子』から27年を経て、北アルプスへ登る女性も見受けられるようになってきた、「昭和モダン」の真っただ中で鏡花が描いた、大好きな深川はどのくらい変化しているのだろうか。鏡花は「東京日日新聞」社の記者あるいは編集者と思われる同伴者と、永代橋を渡って深川に入った。《震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつた》。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑦

《細い溝にかかった石橋を前にして、「内陣、新吉原講」と金字で書いた鉄門をはいると、真直な敷石道の左右に並ぶ休茶屋の暖簾と、奉納の手拭が目覚めるばかり連続って、その奥深く石段を上った小高い処に、本殿の屋根が夕日を受けながら黒く聳えている。参詣の人が二人三人と絶えず上り降りする石段の下には易者の机や、筑波根売りの露店が二、三軒出ていた。そのそばに児守や子供や人が大勢立止っているので、何かと近いて見ると、坊主頭の老人が木魚を叩いて阿呆陀羅経をやっているのであった。阿呆陀羅経のとなりには塵埃で灰色になった頭髪のぼうぼう生した盲目の男が、三味線を抱えて小さく身をかがめながら蹲踞んでいた。阿呆陀羅経を聞き飽きた参詣戻りの人たちが三人四人立止る砂利の上の足音を聞分けて、盲目の男は懐中に入れた樫のばちを取り出し、ちょっと調子をしらべる三の糸から直ぐチントンシャンと弾き出して、低い呂の声を咽喉へと呑み込んで、あきイ――の夜 と長く引張ったところで、つく息と共に汚い白眼をきょろりとさせ、仰向ける顔と共に首を斜めに振りながら、夜は――ア と歌った》。この後、荷風はこの盲人の来歴についてあれこれ推定しているが、この盲人の唄が『深川の唄』という題名の由来となったようだ。それにしても、荷風の描写は細やかで、当時の深川不動堂のようすが伝わってくる。このような寺社が首都東京にはいくつもあって、信仰心などあまりなさそうな私も、その中に身を置いて、お参りし、東京に包まれたような安らぎのひと時を味わうのが好きである。
荷風はふと石垣に目をやる。《石垣を築いた石の一片ごとに、奉納した人の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、博奕打、皆近世に関係のない名ばかりである。自分はひと後を振向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲が物すごい壁のように棚曳き、沈む夕日は生血の滴る如くその間に燃えている。真赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く鈍り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。あの夕日の沈むところは早稲田の森であろうか。本郷の岡であろうか。自分の身は今如何に遠く、東洋のカルチェエ・ラタンから離れているであろう。盲人は一曲終ってすぐさま、「更けて逢ふ夜の気苦労は――」と歌いつづける。》と、深川不動堂境内で荷風は夕暮れを迎えようとしている。江戸・東京とパリが荷風の中で交錯する。夕日は様々な文豪が描いている。犀星にも坂上の夕日を描いた詩がある。やはり本郷の岡だ。
荷風は《いつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。》と、深川にぞっこん惚れ込んでいる。深川に残る江戸情緒が荷風を魅了したのであろう。《いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。》とまで、書き綴っている。けれども荷風は隅田川を渡って大久保の森へ帰らなければならない。なぜなら《自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに》荷風を待っているから。どうやら、荷風は西洋文化からも離れられないようである。
            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑥

荷風はさらに、《夏中洲崎の遊郭に、燈籠の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を延した庭構え、燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞える。》と書いている。鏡花と視点は違うが、まさに『葛飾砂子』に描かれたと同時期の洲崎へむかう大横川の情景である。
荷風はしばし当時の深川の情景や硯友社の文学、江戸文学に触れながら、《日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由にいい現してくれるものだと信じて疑わなかった。》と結んで、《自分は今、髯をはやし、洋服を着ている。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにいられよう。》と、現在、つまり1908年に戻ってくる。荷風は「激変」と表現しているが、期間から言えば、日露戦争をはさんで5年ほどである。この間、少なくとも東京は大きく変化し、それは市電の開業と路線の急拡張をともなって進行している。漱石に描きたい欲望を焚きつけたのも、この「激変」の時代であった。
永代橋を渡って市電を下りた荷風。《その頃は殆ど門並みに知っていた深川の大通り。角の蛤屋には意気な女房がいた。名物の煎餅屋の娘はどうしたか知ら。一時跡方もなく消失せてしまった二十歳時分の記憶を呼び返そうと、自分はきょろきょろしながら歩く。》と書く荷風だが、この時まだ30歳くらい。ずいぶん老けた感じもするが、私も中学の時、金沢へ戻って、数年間の記憶を取り戻そうと、金沢の街のあちらこちら走り廻ったから、荷風の文章も納得できる。荷風は、《無論それらしい娘も女房も今は見当てられようはずはない。》と続ける。
さて、久しぶりに深川へ足を踏み入れた荷風。《しかし深川の大通りは相変らず日あたりが悪く、妙にこの土地ばかり薄寒いような気がして、市中は風もなかったのに、此処では松かざりの竹の葉がざわざわいって動いている。よく見覚えのある深川座の幟がたった一本淋し気に、昔の通り、横町の曲角に立っていたので、自分は道路の新しく取広げられたのを殆ど気付かず、心は全く十年前のなつかしい昔に立返る事が出来た》。
深川座は当時の富岡門前仲町44・45番地(現在の門前仲町1丁目13)、「道路の新しく取広げられた」というのは、後に清澄通りになるもの。当時まだ油堀(十五間川)には富岡橋は架かっていなかったので、最寄りの橋は黒亀橋。
この深川座の東の方向に成田山深川不動堂、さらにそのむこうに富岡八幡宮がある。荷風は、《つい名を忘れてしまった。思い出せない――一条の板橋を渡ると、やがて左へ曲る横町に幟の如く釣した幾筋の手拭が見える。紺と黒と柿色の配合が、全体に色のない場末の町とて殊更強く人目を牽く。自分は深川に名高い不動の社であると、直様思返してその方へ曲った。》と書いて、その後、深川不動について描写している。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川⑤

深川へやって来た荷風。まず、《数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。》と、過ぎし日の深川が語られる。荷風が渡米したのは1903年9月だった。1904年から05年にかけて日露戦争。この間に漱石が『吾輩は猫である』を書いて、作家への道を踏み出している。荷風は1907年にアメリカからフランスに渡り、1908年に帰国した。
東京に市電が走り始めたのは1903年8月で、かろうじて荷風渡米前であるが、荷風は《電車はまだ布設されていなかった》と記し、《既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわずかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和の美を味わしてくれたのである。》と、深川に古き良き時代の江戸・東京を見い出そうとしている。いかにも荷風らしい。
荷風の思い出の中にある外遊前の深川は、電車の便なし、《人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた》ので、誰も彼も皆汐留から出て三十間堀を通って来る小さな石油の蒸気船や、南八丁堀の河岸縁に、《「出ますよ出ますよ」と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴し立てている櫓舟に乗り、石川島を向うに望んで越前堀に添い、やがて、引汐上汐の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下を横切り、越中島から蛤町の堀割に這入るのであった》。
永代橋は1897年に鉄橋として架け替えられているが、おそらく荷風の記憶にある工事による混雑は、市電布設工事にともなうものであろう。
新橋の架かる汐留川は、新橋駅前が芝口河岸と呼ばれ、すぐ下流に汐留橋が架かっている。芝口河岸の対岸を北へ伸びる堀割が三十間堀で、水谷橋をくぐると東西に伸びる八丁堀と丁字路をつくりだす。八丁堀を東に進むと、南岸が魚河岸、続いて南櫻河岸。荷風が南八丁堀の河岸と表現している一帯である。やがて、湊河岸あたりで隅田川本流に出る。左へ曲り込むとすぐ、石川島ノ渡しの発着場。そのまま越前堀の河岸に沿って遡ると、大川口ノ渡しの発着場がある。永代橋下流200mほどのところ。荷風が記した船は新橋駅前の芝口河岸(汐留)や南八丁堀から出発し、隅田川へ出て、越前堀あたりから川を横断し、対岸の深川、大横川へ入ったのだろう。「大川口ノ渡し」の名が示すように、当時はこの辺りが隅田川河口になっていた。川幅も広く、潮の干満や波浪の影響も受けるので、荷風の表現はけっして誇張ではないと、泳ぎができない私は断言したい。
鏡花が『葛飾砂子』で描いた隅田川横断もまさにこの場所であり、これは1900年の作品であるので、荷風外遊少し前。二つの作品は同時期を描いている。
大横川へ入って300m余。鍵の手に屈曲して再び東へ直行する。北側一帯が蛤町。大横川は黒船橋を越え、石島橋へとむかっていく。黒船橋は現在、清澄通りの橋として大横川を渡っている。
鏡花は、《砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く。》と描いているが、黒船橋から石島橋を過ぎれば、蓬莱橋の間、門前河岸とよばれる。まさに不動様や八幡様の門前である。荷風は、《不動様のお三日という午過ぎなぞ参詣戻りの人々が筑波根、繭玉、成田山の提灯、泥細工の住吉踊の人形なぞ、さまざまな玩具を手にさげたその中には根下りの銀杏返しや印半纏の頭なぞも交っていて、幾艘の早舟は櫓の音を揃え、碇泊した荷舟の間をば声を掛け合い、静な潮に従って流れて行く。水にうつる人々の衣服や玩具や提灯の色、それは諸車止と高札打ったる朽ちた木の橋から欄干に凭れて眺め送る心地の如何に絵画的であったろう。》と、水運と不動様・八幡様、深川らしさにあふれている。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川④

藤村は「藪入」という詩を1901年に刊行された詩集『落梅集』に収めている。この詩は、藪入りで浅草の奉公先から、深川のわが家へ帰る様子が隅田川の情景とともに描いたもので、藤村は1899年に小諸へ行ったので、それ以前の情景と思われるが、2、3年ではそれほど大きな違いもないであろう。詩は、

――朝浅草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に帰るなり

と、始まって、大川端を下流にむかい、やがて、

潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿――

と、深川の実家に着き、やがてまた浅草の奉公先にむかって、大川端を上流へ。

茶舟を下す舟人の
声遠近に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲――

振りむけば深川。けれども『藪入』に出てくる深川は地名のみで、目立った描写はみられない。

1908年、荷風は『深川の唄』を発表した。「一」は《四谷見付から築地両国行の電車に乗った。》で始まり、全体の3分の2近く進んだ辺りで「二」に入り、冒頭、《自分は既に述べたように何処へも行く当てはない。大勢が下車するその場の騒ぎに引入れられて何心もなく席を立ったが、すると車掌は自分が要求もせぬのに深川行の乗換切符を渡してくれた》。そこで荷風は《自分は憤然として昔の深川を思返した。幸い乗換の切符は手の中にある。》ということで、《自分は浅間しいこの都会の中心から一飛びに深川へ行こう――深川へ逃げて行こうという押えられぬ欲望に迫められた》。こうして荷風はようやく深川にやって来るのであるが、ここまでほとんど市電の描写である。それはそれでとても興味深いものであり、いずれ『荷風と市電』と題する一文を書いてみたい。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川③

弁天橋まで最後の客を送り届けた船頭、七兵衛。年の頃なら60歳くらい、胡麻塩の禿げ頭。「題目船」(七~九)は、本所の七不思議、遊女の話しを挟み込みながら、題目を唱えて川を引き返す七兵衛を描く。九において《蓬莱橋は早や見える》辺りで七兵衛は若い女の水死体を引き上げる。七兵衛は蓬莱橋辺りの岸の松の木に船をつないで、近くの佃町にあるわが家へ水死体を担ぎ込む。一人暮らしである。この水死体が朝になって息を吹き返し、十一で《「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く》。この生き返りがやがて菊枝とわかる。七兵衛は《ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ》、と答える。
佃町は、大横川に架かる蓬莱橋を渡って100m、牡丹2丁目交差点までの両側50mくらいという小さな町で、東を平富町、西を牡丹町にはさまれていた。広場というのは、牡丹3丁目12番にある住吉神社の境内地。今では見過ごしてしまいそうな小さな神社だが、かつてはもっと広い境内をもっていた。もともと、深川佃町は佃島の漁師が網を干した場所で、住吉神社は佃島の住吉神社の分社。富岡八幡の「八幡さま」と「住吉さま」は対面する形になっており、八幡の菊枝に対して、住吉の七兵衛。鏡花にとって、七兵衛はどうしても佃町に住んでいなければいけなかったのであろう。
そして、もう一つ。この佃町は江戸時代に岡場所があったところ。そう言われてみれば、中央に道路が走り、100m四方という佃町の形状も納得できるが、鏡花はこうしたことも念頭に置いて、設定したのであろう。そうなると、生娘を水揚げした七兵衛の行動も、かなり違って見えてくる。七兵衛は大横川を挟んで娘の家が近いと察していたのだろう。《一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが》と、娘や親のことを考え、家に連れて来ることにした、と話す。交番とは、汐見橋東詰にあったもので、現在は廃止されている。「浅緑」(十二・十三)に入っても、七兵衛と菊枝の会話が続く。
そして、「記念ながら」(十四・十五)へ。時刻は9時か10時。《このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた》。佃町界隈から描写は広がり、何やら、深川が凝縮されたような表現になっている。《七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄み切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と、濡れた衣の色を乱して記念の浴衣は揺めいた。親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた》。現在、越中島橋から牡丹二丁目交差点を通り、平久橋に伸びる道路はかつての海岸線で、鏡花が取材した当時、ここから先は新開の埋め立て地、と言っても干潟に近い状況で、鏡花はこの情景をきちんと作品に描き込んだ。
七兵衛は仕事に出る前に、《いや半間な手が届いたのもお前の運よ、こりゃ天道様のお情というもんじゃ、無駄にしては相済まぬ。必ず軽忽なことをすまいぞ、むむ姉や、見りゃ両親も居なさろうと思われら、まあよく考えてみさっさえ》、《思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方角を暗剣殺に取違えねえようにの、何かと分別をつけさっせえ》と菊枝を諭し、何日ここにいても、他へ行きたければ行っても、挨拶なしに出て行っても良いと言い、土地柄、戸締りには用心するように言い残す。
とくにこの場面。父を失い、絶望の淵に立たされ、金沢の城濠百間堀へ身投げしようとさえ思い、紅葉の言動によって、生きる望みを取り戻した鏡花を思い出す。おそらく鏡花は紅葉と七兵衛を重ね合わせて書いた、むしろこのことを書きたくて、『葛飾砂子』という作品を書いたと言えるだろう。
菊枝は家に戻り、両親に許され、身を投げた蓬莱橋から、お縫といっしょに橘之助記念の浴衣を投げて供養した。その場面は《「南無阿弥陀仏、」「南無阿弥陀仏。」折から洲崎のどの楼ぞ、二階よりか三階よりか、海へ颯と打込む太鼓。浴衣は静に流れたのである》と描かれる。蓬莱橋から洲崎まで、およそ1km。当時はそれほどさえぎる物もなく、妓楼の太鼓も聞こえたのであろう。『葛飾砂子』には「水運の深川」の情景がたっぷり描かれている。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川②

『葛飾砂子』は1900年の作で、1920年に映画化された(栗原トーマス監督、大正活映)。葛飾とは深川がかつて下総国(後に武蔵国)葛飾郡の内にあったこと、「砂子(すなご)」は、江戸の地誌「江戸砂子」(1732年刊)に由来すると言われている。この作品では、深川の南部を東西に走る現在の大横川に沿って、その情景が描かれている。
富岡八幡宮門前(深川門前町)の三味線屋「待乳屋」の一人娘菊枝16歳。近所の深川不動の縁日に詣る、と言って家を出て、夜の11時になっても帰らない。洲崎方向に2町(約220m)行ったところ(深川門前東仲町)に、新吉原の新造だった江崎とみ(富)の家があり、その貸家に娘のお縫が住んでいる。お縫は器量も気立ても良く、看護師になり、見込まれて、肺を患った歌舞伎役者尾上橘之助の看病にあたっていたが、橘之助は25歳に満たず亡くなった。菊枝は橘之助の大のファンだった。菊枝の両親は、親しくしているお縫のところへ行っているだろうと、案ずることもなかったが、それにしても遅いと小僧をやると、菊枝がお縫の家にいないことがわかる。ここまで、富岡門前界隈の光景はまったく描写されていない。
「橋ぞろえ」(五、六)になると、場面は変わって、深川を洲崎遊郭へむかう乗合船。吉原も今戸から山谷堀、船で行ったが、この洲崎遊郭も同様である。乗客は三人。船頭の名は後に七兵衛とわかる。おそらく相乗りタクシーのような形態で、客を乗せたのであろう。
どこから乗ったか記されていないが、《「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋はもう越した、不動様の前あたりだよ、直に八幡様だ」》と客のひとりが言い、《昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい》という描写があるので、日本橋川・神田川辺りから、隅田川(大川)を越えてやって来たと思われる。この川は何という名前かとたずねる客に、「名はねえよ」と船頭は答えているが、現在は「大横川」という名前が付いている。ところで、明治期の地図に「石島橋」はあっても「石見橋」は見当たらない。その後の橋はすべて実名である。メモに際して「島」という字を「見」と書いたのかもしれない。鏡花は船に乗りながら、克明に記録したのであろう。この後の描写も具体的で、細かい。しばし、当時の深川の風景に触れてみたい。
《砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く》。この辺り、石島橋と蓬莱橋の間、門前河岸とよばれる。まさに不動様や八幡様の門前である。蓬莱橋の《橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸に溢れるよう。左手は洲の岬の蘆原まで一望渺たる広場、船大工の小屋が飛々、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる》。
やがて汐見橋が左手に見えてきて、船は弓なりに曲がる。《寝息も聞えぬ小家あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯と靡き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い》。この石碑が「津波警告の碑」(波除碑)。江戸時代の1791年9月3日から4日にかけて来襲した台風の影響で、4日午前10時頃、おりから満潮を迎えていた洲崎・木場一帯に高潮が押し寄せ、多くの住民が犠牲になった。幕府は洲崎弁天社から西の一帯、東西約500m、南北約54mを買い上げて空地とし、ここから海側に居住することを禁止。1794年、東北地点の洲崎弁天社と西北地点の平久橋付近に「波除碑」を建立した。この作品に出て来る「波除碑」は、西北地点のもので、砂岩でできており、今日では読み取ることが困難だが、鏡花が取材に訪れた当時は、百年程しか経っていないため、鏡花は全文書き写すことができた。

――此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はこりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。――

後世の人びとに災害の危険を知らせる重要な記念碑、地域の財産。鏡花は貴重な史料を『葛飾砂子』に残してくれた。
大横川はここで北から流れて来る平久川と合流して、鍵の手に曲がって、再び東へ。《「や!」響くは凄じい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり》。神川橋はどこ?平久川にかかる平久橋あたりに、明治末期の地図に名前の書かれていない橋があるので、これが神川橋に該当するものであろう。この辺りが江戸時代の海岸線で、この先、海にむかって明治期に埋め立てられたが、鏡花が訪れた当時まだ入江のように海が入り込み、潮の干満を調節する水門が設けられていたと考えられる。満潮後の引き潮で、海にむかって水の流れが速くなっていたのではないだろうか(現在の水門は、平久川をさらに下流、時雨橋を過ぎ、石浜橋の先に設けられている)。
船は《やがて平野橋、一本二本蘆の中に交ったのが次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についているのは川蒸汽で縦に七艘ばかり》。現在では両岸コンクリートで固めら、人家もみられるが、ビルの方が多い。蘆や薄の生える余地はなさそうだ。《程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳へ乗りかえ、棹を引いて横づけにする、水は船底を嘗めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり》。弁天橋は大横川から南へ分れる川に架かる橋で、東北地点の「波除碑」がある洲崎弁天社に近いところから名付けられた。ここで大横川は北へ直角に曲がって、木場の中へ入って行く。現在、弁天橋のすぐ南に水門が設けられている。
弁天橋で船を降り、北側の洲崎川に沿って200mほど歩き、洲崎橋を渡ると洲崎遊郭。三方を川、南を海と、水で囲まれた四角形の埋め立て地に、1888年、根津遊郭を移転するかたちでつくられたもので、洲崎橋を渡ると仲の町通り(大門通り)と呼ばれる中央の広い道路。区画の形状は吉原を模している。さて、船を降りた一行。遊郭の中で、どのような楽しみをしたのであろうか。

            (つづく)
【館長の部屋】 文豪と深川①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座、浅草そして神田の順で東京を巡って来たが、いよいよこれから深川である。
深川は隅田川を越えた江東の地にあるが、江戸幕府五代将軍綱吉の時代に永代橋が架けられ、江戸時代後期には江戸朱引内に含まれるようになった。明治になって1878年、郡区町村編制法によって深川区がつくられ、さらに東京市が発足すると、隣接地域も含めて深川区が成立した。
深川は、富岡八幡宮と成田山不動(深川不動)という二つの参詣の対象と、広大な木場をもつ、江戸・東京の中でも独特の雰囲気をもつ地域である。地図を見ると、水路が縦横に走り、さながらベニス(ヴェネチア)の地図を見ているようである。神楽坂もそうだが、神社仏閣には岡場所がつきもので、深川も同様であった。花街も発展し、深川の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、木場や漁師町をかかえるだけに、芸者も威勢と意気を売りにしていた。明治になって、東はずれにある洲崎に遊郭がつくられ、深川は新たな顔を加えることになった。
また、明治後期から大正にかけて、工場がつぎつぎつくられ、工業地域としての顔ももつようになった。藤村の『桜の実の熟する時』には、《早起の兄も、郷里の方から出て来たお母さんを休ませるために、床を離れずにいる様子であった。このお母さんと兄との側で親子三人めずらしく枕を並べて寝た大川端の下宿の二階座敷で、捨吉も眼を覚ました。本所か深川のほうの工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。》との一文がある。捨吉のモデルは藤村自身であり、明治学院に通っていた頃を描いているので、設定時期は1890年頃。日清戦争前夜で、日本が本格的な産業革命にむかう時期である。
それでも深川には江戸情緒がたっぷり残っていたのであろう。鏡花が初めて深川を訪れたのは、小栗風葉や柳川春葉らと洲崎遊郭で遊ぶためと推定されているが、船から眺める深川の風景などに、鏡花はすっかり魅了されてしまったようで、1898年の『辰巳巷談』を皮切りに、『三尺角』(1899年)・『葛飾砂子』(1900年)・『木精』(1901年)・『芍薬の歌』など、「深川もの」と呼ばれる作品をいくつも書いている。
鏡花は取材のため、たびたび深川に足を運んだ。市電のない時代。神楽坂から大手町、日本橋、永代橋を渡って門前仲町へと、歩いたと思われる。東京メトロ東西線のルートにあたり、神楽坂駅・門前仲町駅の営業キロ数7kmなので、ほぼこの距離を歩いたことになる。徒歩が当たり前の時代、それほど苦にならなかっただろう。
               
          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑬

神田は明治以来、さまざまな商店に混じって、書店や寄席、それに観工場などもでき、銀座と並ぶ東京屈指の繁華街だった。大震災後、幹線道路が拡幅され、「昭和モダン」を通じて映画館や喫茶店なども増加。庸三はもちろん、映画の好きな葉子も頻繁に神田へ出かけている。
『仮装人物』の七では姿を消した葉子から手紙が来て、スタンプが猿楽町局のものとわかり、庸三は翌日の午後、葉子を探しに神田へ。知人は《「替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ」》と助言を与える。そのくらい葉子は映画が好きで、封切りになると、足を運んだようだ。二十三にも、「行きつけの南明座かシネマ・パレス」という記述、三十には、《彼女が行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが》という記述もある。
シネマ・パレスは神田淡路町二丁目、昌平橋すぐそば、外堀通りに面して建っていた(現在の神田郵便局向かい辺り)。黒澤明監督の兄・須田貞明が弁士をしていたことでも知られる。当時、神田には、シネマ・パレス、神田日活館、東洋キネマの名門三館をはじめ、九館の活動常設館(映画館)があった。
駿河台から小川町の広い電車通りへ出て神保町方向へ歩く庸三は、《近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は寄席へ入って、油紙に火がついたように、べらべら喋る円蔵の八笑人や浮世床を聴いたものだった。》と、下宿時代の神田を思い出していた。フルウツ・パラアは須田町にあった「万惣」、寄席はその隣にあった神田立花亭だろう。
神保町の裏通りは、《神保町の賑やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の変貌は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り潰されていた。》と描かれ、さらに《表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具店や、支那料理などの目貫の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並べ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。》と、変貌ぶりが詳しく描かれ、庸三の若い時分と違って、寄席に入っても円蔵や三馬のような噺家がおらず、雰囲気もがらりと変わっていたと記されている。
神田の裏通りとは、すずらん通り。以前はこちらが表通りであったが、靖国通りができ、裏通りになってしまった。名高い大きな書店は三省堂書店、文房具店は文房堂であろう。秋聲は、《ちょうど政友会の放漫政策の後を享けて、緊縮政策の浜口内閣の出現した時であった。ラジオは下宿から少し奥へ入ったところの、十字路の角の電気器具商店からだったが、聞きたいと思っていたところなので、彼はステッキに半身を支えてしばらく耳を傾けながら、葉子の姿がもしも見えはしないかと、下宿の方に目を配っていた。》と、神田で浜口雄幸のラジオ演説を聴く場面を挿入している。
1925年に本放送を開始したラジオは急速な進化を遂げ、1927年には甲子園野球を中継。年末には寛永寺の除夜の鐘中継。1928年には大相撲実況中継、ラジオ体操。現在も続く定番の始まりがここにある。
このラジオの速報性と大衆性に目を付けたのが浜口雄幸(1870~1931)。1929年7月2日に首相になると、8月28日、日本の首相として初めてラジオ演説し、国民にむけて自分の政策を直接訴えた。秋聲には浜口のラジオ演説は新鮮で、設定時期を無視して、作品の中に描き込んだのだろう。浜口は根回しを嫌い、「ライオン宰相」と呼ばれたが、1930年11月14日、東京駅で狙撃され重傷を負い、翌年4月に辞職。その年の8月26日、61歳で亡くなった。
秋聲はまた、《後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった》と記している。「左翼代議士」とは、山本宣治(1889年~1929年)。1928年の衆議院議員選挙京都二区で、労農党(当時非合法の日本共産党が推薦)から立候補して当選。治安維持法改正などに反対。1929年3月5日、神田神保町一丁目103番地にある旅館光栄館で、右翼団体七生義団に所属する黒田保久二によって刺殺された。光栄館の跡地は電気書院になり、現在は東京パークタワーが建っている。秋聲は左翼に対する弾圧が強まるなかで、なぜわざわざ山本宣治を連想させる文言を書き込んだのだろうか。
『杏っ子』で、一生のうちにピアノを買えるような男になって見せたかったという平四郎は、杏子にピアノを買ってやることに決め、《神田の教益商社に出掛けた。小さい店でピアノが三台くらいしかなく、平四郎は牛山充氏の紹介状を出して、商社夫人に会った》。平四郎が出かけた神田の教益商社は、「共益商社」として実在。京橋区竹川町14番地(現、銀座七丁目)にあり、日本楽器製造株式会社東京支店の役割を持ち、神田賣店が神田区裏神保町8番地(すずらん通り、現在の冨山房ビルの位置)にあった。
(完)
【館長の部屋】 文豪と神田⑫

1910年、犀星は初めて上京した。1912年、元号は明治から大正に改まり、『抒情小曲集』(1918年)に収められた「坂」という詩の中に、《坂は谷中より根津に通じ/本郷より神田に及ぶ》との一節がある。おそらく犀星は、谷中から坂を下って、団子坂・根津裏門坂・S坂で本郷台へ上がり、東京帝国大学の前を通って、御茶ノ水橋を渡って神田駿河台の坂(現、明大通り)を下り、古書店を含め出版社や書店が集まる神田神保町へたどり着いたのであろう。犀星は本を買いに、あるいは自分の詩誌を置いてくれそうな書店を物色したりするため、たびたび神田を訪れたと思われる。
「坂」という詩が作られた後のことになるが、1915年10月に上京した犀星は感情詩社を立ち上げ、1916年6月に詩誌「感情」が創刊された。その販売について犀星は『泥雀の歌』に、《雑誌は本郷の郁文堂に十冊、文武堂に十冊、お茶の水橋から駿河台を下りて、神保町の角の大きい本屋に十冊、そこの向かひの何とかいふ本屋に十冊、長駆して浅草仲店の角からたしか二軒目の本屋に十冊あづけた。何で浅草公園の本屋に持つて行つたかといへば、それはやはり郷愁に似たあまえた気持ではなかつたろうか。それから根津の通りの本屋にも十冊、――東京堂にはたいてい二十冊あづけ、北隆館と東海堂に十五冊くらゐ委託した。》と記している。犀星にとって、神田へ続く道は、詩人としての成功へ続く道であったかもしれない。

1923年9月1日、いわゆる関東大震災が発生した。その数日前の8月27日、神田駿河台の浜田病院で犀星の長女朝子が誕生し、母子ともに浜田病院で大地震に遭遇した。『杏っ子』には《大正十二年の大震災の日には、りえ子は出産後四日目であった》と書かれている。りえ子のモデルは犀星の妻とみ子である。
『杏っ子』の杏子は、朝子同様、浜田病院で生まれたことになるが、浜田病院は神田区駿河台袋町13番地(現、千代田区神田駿河台2丁目5)にあり、犀星は浜田病院から避難するりさ子たちの様子を『杏っ子』に克明に描いている。
《病院を出ると、患者達は長い数珠つなぎになり、みんな毛布を一枚ずつ携え、りえ子はお坊さんのけさの襟のような印をまいたが、そこには、施療病院という文字が記されていた。(略)駿河台の通りに出ると、行列は直ぐ一息に群衆の間に呑み込まれ、進むことも退く事も出来ない、(略)気がつくと、たったいままでいた浜田病院は火に呑まれ、火を吹いていた。(略)お茶の水橋にかかると、避難民が上手と下手から落ち合い、にっちも、さっちも身動きが出来なかった。(略)お茶の水橋を渡ると、高等師範の校庭に患者の列はながれこんだ。病院を出てから、僅かな道のりを一時間半という永い時間がかかったのだ。そして誰がいうともなく、避難先の目的地は上野公園であることが、胸につたわった。(略)「順天堂に火がついた。」》
お茶の水橋が落橋しなかったのが幸いして、駿河台から神田川をはさんだ対岸の師範学校までたどりついた。現在では東京医科歯科大学・附属病院になっているが、西隣りに今も順天堂病院がある。りえ子は、杏子を背負う丸山看護婦に付き添われ、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着。とにかく丸山看護師の冷静な判断と励ましによって、母子ともに当座の生命は助かった。
戦後、「無為」の章の「眼が光る」。杏子は夫の亮吉と銀座へ。亮吉の仕事が思うようにいかず、バスや電車に乗るカネもなく本郷まで歩く。《小川町の交叉点から明治大学への坂を登り、お茶の水橋を渡ったとき、震災の時に母が焼け出されてこの橋をわたったことを聞いていたが、いま、また十円も持たないでその娘が本郷まで歩いて帰ることを、杏子はまた光る眼のうちにそれを有難いことだと思って、反対にちからが出てどんどん歩いた。》と、犀星は再びお茶の水橋を登場させている。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑪

神田駿河台一帯。
旧交通博物館前から昌平橋詰へ進む間、中央線の煉瓦造りの高架が開業当時の面影を残している。中央線に沿いながら淡路坂を上り、聖橋交差点を渡って左折し、本郷通りを100m程行って右折すると、左手にニコライ堂、右手に井上眼科がある。直進してお茶の水中通りで右折すると、正面に御茶ノ水駅がみえる。神田駿河台のランドマーク的存在のニコライ堂。正式には日本ハリストス正教会復活大聖堂といい、幕末に来日したニコライ大主教によって、日本におけるギリシア正教の大本山として建てられた。建物は鹿鳴館を設計したジョサイア=コンドル(イギリス人)が設計したビザンチン様式で、1891年に完成した。同じ年、御茶ノ水の切通しに神田川の深い谷を跨ぐ初めての橋として、鉄橋吊橋の御茶ノ水橋が完成している。ニコライ堂は関東大震災で破損したが、その後修復がおこなわれた。
『それから』では、手紙に書いてある神田の宿屋を訪ねようと思っていた代助の家に、平岡の方からやって来た。なぜ大阪から東京へ戻って来たのか、なかなか言わない平岡に業を煮やした代助は、無理に近所の西洋料理屋へ引っ張って行く。
《両人は其所で大分飲んだ。飲む事と食う事は昔の通りだねと言ったのが始りで、硬い舌が段々弛んで来た。代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐鎮まる頃を見計って始る。参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰って来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いている。法衣を着た坊主が行列して向うを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。(略)代助はそれから夜の二時頃広い御成街道を通って、深夜の鉄軌が、暗い中を真直に渡っている上を、たった一人上野の森まで来て、そうして電燈に照らされた花の中に這入った。「人気のない夜桜は好いもんだよ」と云った》。漱石の時代には本郷通りがなかったので、ニコライ堂の前を通って幽霊坂を下り、昌平橋を渡って右折し、少し行くと御成街道(現在の中央通り)へ出ることができた。
『黴』には、《つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこを見に行った。「何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。」「僕も子供の時分は寺が厭だった」》と、描写された場面がある。秋聲一家が本郷森川町の終の棲家となる家に転居した夏、長男一穂が生死をさまよう重病になり、神田駿河台西紅梅町の瀬川小児科(1902年開設。現、瀬川小児神経学クリニック)に入院した事実がもとになっている。
瀬川小児科の2階からは、堀割を通る甲武鉄道の電車、その向こう本郷台に沿って走る外濠線の電車、御茶ノ水橋を渡る電車が望まれたであろう。《二階からは坊やの大好きな電車が見えてよ。」お銀はそう言って、正一を負い出した》とあるように、鉄道ファンにはたまらないスポットである。
ニコライ堂近くには、井上眼科がある。1881年、東京大学眼科学教室の創始者井上達也が開設したもので、現在も同じ場所で開業している。町名変更前の住所は駿河台東紅梅町11番地、現在の神田駿河台4丁目3番。1890年、漱石もトラホームの治療のため通院した。その途中、銀杏返しに竹なわをかけた可愛らしい女の子に会ったと言われる。
御茶ノ水駅前で左折し、明大通りを渡って、まっすぐ300m程行くと左手に主婦の友社がある。成立学舎は現在の主婦の友社辺りにあったとみられている。漢文を学ぶため二松学舎にはいった漱石は、それでも大学への思いは断ちがたかったようで、大学予備門を受けるためには、やはり英語が必要であると、成立学舎に入学した。英語学校の成立学舎は神田駿河台鈴木町(現、神田駿河台二丁目)にあった。同級に太田達人(1866~1945年)らがいた(太田達人については、『硝子戸の中』九・十に書かれている)。
『私の経過した学生時代』で漱石は、成立学舎における新渡戸稲造との思い出を、
《この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曾我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学資を得るために、内職として勤めているのが多かった。でも、当時此の塾舎の学生として居た者で、目今有要な地位を得ている者が少くない。(略)又新渡戸博士は、既に札幌農学校を済して、大学選科に通いながら、その間に来ていたように覚えて居る。何でも私と新渡戸氏とは隣合った席に居たもので、その頃から私は同氏を知っていたが、先方では気が付かなかったものと見え、つい此の頃のことである。同氏に会った折、「僕は今日初めて君に会ったのだ」と初対面の挨拶を交わされたから、私は笑って、「いや、私は貴君をば昔成立塾に居た頃からよく知っています」と云うと、「ああ其那ことであったかね」と先方でも笑い出されたようなことである。》と記している。まさかこれが「千円札と五千円札の会話」になろうとは、二人とも思ってもみないことであろう。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑩

神田淡路町・神田須田町とその周辺。
『彼岸過迄』には、《表へ出るや否や、どういう料簡か彼はすぐ一軒の烟草屋へ飛び込んだ。そうして其所から一本の葉巻を銜えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端に、喫烟御断りという社則を思い出したので、又万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たす積で、ゆっくりゆっくり足を運ばせながら猶須永の事を考えた。》との記述がある。
近くにはかつて万世橋駅があり、一時期、甲武鉄道(中央線)のターミナル駅になっていた。万世橋駅というと広瀬中佐の銅像が有名であった。『それから』が執筆された1909年当時は、像はまだ建っていなかったが、広瀬中佐に関して、漱石は、《それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加わって斃れたため、当時の人から偶像視されて、とうとう軍神とまで崇められた。けれども、四五年後の今日に至ってみると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなってしまった。英雄の流行廃はこれ程急劇なものである。(略)露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だろうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。(略)一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になった方が長持がする。新聞はその方面の代表的事業である。》と書いている。万世橋駅跡には後に交通博物館がつくられたが、現在では移転している。もちろん、広瀬中佐の像も撤去されて久しい。
  
神田猿楽町・神田三崎町とその周辺。
『三四郎』で美禰子が通う教会は一般的に本郷の中央会堂と言われている。けれども作品に描かれた道順では中央会堂へ行くことはできない。弓町本郷教会(1886年、海老名弾正設立)なら可能性はある。けれども、どちらもプロテスタントの教会である。『三四郎』には、初めて三四郎が美禰子の家を訪れた場面で、《向うにある鏡と蝋燭立を眺めている。妙に西洋の臭いがする。それから加徒力の連想がある。何故加徒力だか三四郎にも解らない。》という記述がある。美禰子のモデルは平塚らいてう(雷鳥)であると言われ、彼女はカトリックの信者であるので、漱石はそれをにおわしたのであろう。そうであるならば、道順としては弓町本郷教会でも、描かれたのは、小栗坂を下りたところにあるカトリック神田教会(天主公教会、猿楽町六番地、1874年創設)と断定して良い。
教会の場面は、《前へ立って、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往ったり来たりした。ある時は寄り掛かってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つ積りである。(略)忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。》と描写されている。
平塚雷鳥と心中事件を起こした森田草平は、『煤煙(煤烟)』において、草平にあたる要吉、雷鳥にあたる朋子が顔を出している金葉会が猿楽町の教会でおこなわれており、ある日、朋子が来るのを教会向いの珈琲店の二階からうかがっていた要吉は、遅れて来た朋子が《殆んど側目も振らず眞直に道を歩いて、教会の玄関を上って行った。間もなく又姿を現して、石段の上に立ったまヽ外面を見廻して居る》のをみつけている。このカトリック神田教会は、赤煉瓦の建物で、教会西側に附属の女学部をもち、これが女子仏学校(1881年創立、女子仏英和学校)で、現在の白百合学園。関東大震災後、女学校は九段へ移転したが、教会の方は現在まで位置を変えていない。神田教会は暁星学園創設にも深い関わりをもっており、漱石の息子たちは九段の暁星学園に通った。
駿河台にある主婦の友社前を水道橋方向に進み、東洋高校の角で左折して小栗坂を下り、錦華通りを行くと、一帯が猿楽町で、神田女学園前から300m程で左手にお茶の水小学校がみえてくる。左折して小学校前の道(猿楽通り)を行くと、右手に運動場を背にして「猫の碑」が建っている。学校の隣が錦華公園で、その横に錦華坂があり、坂を上った駿河台には山の上ホテルがある(漱石の時代、錦華坂はなかった)。お茶の水小学校は錦華小学校の歴史を引き継いでいるが、漱石が通った当時の学校は別の場所にあった。猿楽通りを錦華公園の前で左折し、まっすぐ行って、錦華通りを越え、さらに100m程、ヴィラフォンテーヌ神保町が建っている辺りが、漱石の通った錦華小学校があったところである。そこから程なく白山通りに出る。左折して100m程行くと神保町交差点で、北東角にあるA5番出入口を下ると、都営三田線「神保町」駅に行くことができる。
猿楽町には大学予備門に通う漱石が、1885年から86年にかけて下宿した末富屋がある。猿楽町の町名は現在、錦華通り東側の駿河台との間にみられるが、旧町名では西側一帯にも猿楽町がひろがっていた。中猿楽町(現、西神田2丁目・神田神保町2丁目の東半部)、猿楽町(現、西神田1丁目・神田神保町1丁目)、猿楽町1丁目~3丁目・裏猿楽町(現、猿楽町1丁目・2丁目、および神田小川町3丁目の一部)。
錦華小学校は後に100mほど東の猿楽町1丁目6番地(現、千代田区神田猿楽町1丁目1-1)へ移転し、さらに1993年、小川小学校・西神田小学校と合併してお茶の水小学校(校地は錦華小学校の位置)になった。漱石が錦華に学んだのは半年ほどであったが、錦華小学校は漱石の学んだ学校として有名になり、その校史を引き継いだお茶の水小学校には漱石の記念碑(『吾輩は猫である』の石碑)が建っている。
錦華学校は神田猿楽町2番地に1874年創立された。2番地はかなり広いが、当時の地図によると、校地は現在の千代田区神田神保町1丁目30番・31番(ヴィラフォンテーヌ神保町が建っている辺り)に記されている。
荷風の『日和下駄』には、神田三崎町の調練場跡が出てくる。荷風が中学に通っている頃くらいまでは、殺人や首くくりの噂で、夕暮れからは誰一人通るものがいない恐ろしい処だったという。幕末につくられた講武所が明治になって陸軍の練兵場(調練場)になり、1890年に三菱に払い下げられ、三崎町が開発された。練兵場の機能が麻布などに転じ、三崎町が開発されるまでの間、恐ろしい閑地になっていたのであろう。結局、三崎町はもう一つの「一丁倫敦」になることなく、劇場が人びとを集める街になっていった。
神田三崎町には、三崎座(1891年開設)・東京座(1897年開設)という二つの劇場があり、1903年に焼失した川上座(1896年開設)と合わせて「三崎三座」と呼ばれた。
秋聲の『黴』では、笹村と深山の二人が、《「どこへ行こうかな」「三崎町へ行って一幕見でもしようか。」二人はそんなことを呟きながら、富坂の傍らにある原ッぱのなかへ出て来た。》という場面がある。二人がめざした劇場は、歌舞伎をやっているので、東京座を念頭に置いていた可能性が高い。現実には、お銀(はま)を巡って関係の悪化した深山(霜川)と、笹村(秋聲)は、1905年に復交している。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑨

神田錦町とその周辺。
地下鉄「神保町」駅A9番出入口を上ると、学士会館前交差点、北東角のパークタワー東京前に出る。白山通りが南北に走り、北西角が小学館(1922年創立)、南西角が共立女子大学、南東角が学士会館である。パークタワー東京・神保町三井ビルディング・神保町101ビルはあわせてジェイシティ東京(J city Tokyo)とよばれ、2003年に再開発によって生れた。この敷地一帯がすべて旧表神保町10番地で、『明暗』の津田由雄の妹が嫁いだ堀の家設定地である。『明暗』では登場人物の住所は書かれていないが、津田由雄の妹堀秀の家だけは神田にあると記されている。さらにお延が堀の家へ行く経路が書かれているので、おおむねどの辺りに設定されたか知ることができる。
《堀の家は大略の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。藤井や岡本の住居と違って、郊外に遠い彼の邸には、殆んど庭というものがなかった。(略)市区改正の結果、余程以前に取り広げられた往来には、比較的余所で見られない幅があった。それでいて商買をしている店は、町内に殆んど一軒も見当らなかった》。
病院へ行くには小川町で下車するが、その二つ手前の停留所つまり神保町でお延は下車している。電車を「下りた処から、すぐ右へ切れ」というのは、電車通りを横断して、南の方へむかったのであろう。当時は広い白山通りがつくられる少し前で、神保町から南下した道路は高等商業学校につきあたって左折し、10~20m行って右折して再び南下。左手に外国語学校(1897年、高等商業学校の付属校として開校。1899年、独立して東京外国語学校。東京外国語大学の前身)右手に高等商業学校を見ながら一ツ橋へと続いていた。この左折して右折する地点が、現在の学士会館前交差点にあたり、神保町から数百mの距離にある。旧表神保町10番地は江戸時代、榊原式部大輔上屋敷があり、明治になって東京英語学校校地として利用された後、宅地化された。南側の道路、つまり東京外国語学校(現、学士会館敷地)との間の道路は、漱石の時代にはすでに現在のような道幅になっていた。
《「じゃ、それは極ったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清輝館の前に、大きな広告があって、わたしは吃驚させられましたよ」「何の広告で御座んす」「演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ」(略)清輝館の演説会はこの風の中で開かれる。講演者は四名、聴衆は三百名足らずである。書生が多い。その中に文学士高柳周作がいる》。『野分』にこのように出てくる清輝館は1891年開場した錦輝館(錦町三丁目18番地)であると考えられる。
神田警察通りと外濠線の交差点の南西にあったから、道也の兄は電車から演説会の広告を見ることができただろう。錦輝館は1897年、関東で初めて活動写真の興業を開始したが、演説会場としても利用され、『野分』が発表された翌年の1908年には「錦輝館赤旗事件」も起きている。この事件はその後の大逆事件の引き金にもなっている。
『それから』で漱石は、新聞社に勤める平岡が、訪ねて来た代助に世の中の出来事をいろいろ話す場面で、幸徳秋水について、《秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失いでもしようものなら非常な事件になる。今本郷に現われた。今神田へ来たと、それからそれへと電話が掛って東京市中大騒ぎである。》と書いている。当時としてはかなり危ない記述である。錦輝館があったところには、現在、東京電機大学が建っている。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑧

神田神保町とその周辺。
学士会館前交差点から白山通りを北へ行くと、「すずらん通り」入口を越えて、ほどなく神保町交差点に出る。南西角に岩波ホールがある。交差点で右折して靖国通りを東へむかう。古書店が建ち並ぶ。三省堂書店辺りまで来ると駿河台下である。駿河台下交差点は、明大通り・千代田通りに、靖国通りがS字状に曲線を描きながら交差し、さらにすずらん通りなどが加わって六差路になっている。三省堂の対角線上にあたる交差点の北東角にある道路をはいり、T字路の突き当り、日本大学カルザスホールと太田姫神社の間に、漱石も通った渡邊良齋診療所(駿河台南甲賀町19番地、現在の神田駿河台一丁目)があった。
《彼はその日役所の帰り掛けに駿河台下まで来て、電車を下りて、酸いものを頬張った様な口を穿めて一二町歩いた後、ある歯医者の門を潜ったのである。(略)その時向うの戸が開いて、紙片を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。(略)靴を穿こうとすると、今度は靴の底が何時の間にか破れている事に気が付いた》。これは『門』(1910年連載)の一節である。野中宗助は通常、小川町で電車を乗り換えていたが、この日は駿河台下の歯医者に行くため、白山方面に行く電車へ乗って、駿河台下で下車したのであろう。この歯医者は漱石自身が通っていた渡邊良齋診療所がモデルと考えられている。
専修大学前交差点から神保町、駿河台下交差点にかけて靖国通り沿いを中心に、150を超える古書店が集まり、世界的にも珍しい古書店街を形成している。『それから』と『門』には主人公が古書店へ立ち寄ったようすが描かれている。また『こころ』の先生もこの古書店街を利用していたことをうかがわせる記述がある。
『それから』では、代助が平岡の社まで出かけて行き、《帰りに神田へ廻って、買いつけの古本屋に、売払いたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ》。『門』の宗助は大した趣味もなく、日曜の散歩か勧工場めぐりは唯一の娯楽、息抜きであった。ある日曜日、《宗助は駿河台下で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子の中に美しく並べてある洋書に眼が付いた。(略)奇麗な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、何処にそんな奇麗なのがあるか、一寸見付からないうちに、日が限って来たので、又電車へ乗って、宅の方へ向った》。『こころ』では、私(先生)が御嬢さんをくださいと申し込んで、母親から了承をされた後、散歩に出ている。《「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこの界隈を歩くのは、何時も古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺のした書物などを眺める気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅の事を考えていました》。
駿河台下交差点から西へのびる「すずらん通り」が、靖国通りとの間に三角形の区画をつくり出すところに三省堂書店(1881年に古書店として創業)がある。この「すずらん通り」と靖国通りにはさまれた地域が裏神保町である。
『それから』では、東京へもどった平岡夫妻が、しばらくの間、裏神保町の宿屋で過ごしている。《端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある》。  《代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二辺あるが、一度は留守であった。一度は居ったには居った。が、洋服を着たまま、部屋の敷居の上に立って、何か急しい調子で、細君を極め付けていた》。《神田へ来たが、平岡の旅宿へ寄る気はしなかった。けれども二人の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので一寸顔を出した。夫婦は膳を並べて飯を食っていた。下女が盆を持って、敷居に尻を向けている。その後から、声を懸けた》。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑦

『坊ちゃん』の坊ちゃんは小川町に下宿していた。母親が死んで六年目の正月に父親が亡くなり、兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならない。そこで兄が家屋敷すべて処分したためである。
《おれは一カ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大に残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。(略)清も兄の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん》。ここで坊ちゃんは近くにあった東京物理学校に通う。
太田姫神社の角から左折するとお茶の水中通り、右折すると200m程で靖国通りへ出る。直進すると駿河台道灌道で、二筋目を右折して神田小川町二丁目へはいった左手辺りに東京物理学校があった。この辺り一帯が旧小川町1番地である。ふりむけば駿河台が北にむかってなだらかに上っており、その先に三井住友海上駿河台ビルが巨大な姿でそびえたっている。神田小川町二丁目10番に沿って進み、左折して100m程で本郷通りに出る。右折するとすぐ小川町交差点北西角である。漱石の時代、本郷通りがなかったので、小川町交差点はT字路で、北西角辺りには交番や天下堂ビルがあった。
東京物理学校は1881年、飯田町に開校した東京物理学講習所が始まりで、1883年に東京物理学校と改称し、1886年に神田小川町1番地に移転してきた(1906年に神楽坂移転、1949年に東京理科大学と改称)。この物理学校に坊ちゃんが入学した顛末は、……。
九州に就職することになった坊ちゃんの兄は、親の遺産の分け前として600円置いていった。坊ちゃんはその使用法を考えた。《資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へ這入ろうか考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とかと云うものは真平御免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌なものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続をしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して置いた。卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師がいる。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。(略)引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して小言は只の一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった》。
物理学校を出た後、四国辺のある中学校へ赴任した坊ちゃんは宿直しながら小川町の下宿を思い出す。《寐られないまでも床へ這入ろうと思って、寐巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、頓と尻持を突いて、仰向けになった。おれが寐るときに頓と尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒れても構わない》。
『彼岸過迄』の田川敬太郎の親友須永市蔵も神田小川町に住んでいる。道筋や周りのようすがかなり詳しく書かれている。
《けれども五日と経たないうちに又須永の宅へ行きたくなって、表へ出ると直神田行きの電車に乗った。須永はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った極めて分り悪い所に居た。家並の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間程御影の上を渡らなければ、格子先の電鈴に手が届かない位の一構であった。もとから自分の持家だったのを、一時親類の某に貸したなり久しく過ぎた所へ、父が死んだので、無人の活計には場所も広さも恰好だろうという母の意見から、駿河台の本宅を売払って此所へ引移ったのである》。この一文から、須永の家も東京物理学校や坊ちゃんの下宿と同じ小川町1番地とみて良いだろう。
このあたりは狭い道路が入り組んでいた。もともと須永の家は神田駿河台にあったから、台地の上から下へ、距離的には比較的近い転居であった。ところが漱石は台地の上と下に意味をもたせる。その人物の住まいをどちらに設定するかが、同時にその人物の階層を設定する。上には富裕層が住み、下には庶民が住む。須永は台地の上から下へ移り住むことによって、庶民の階層に仲間入りしたはずだが、彼自身は依然富裕層の意識をもっている。漱石は須永を現実から遊離した人物として皮肉をこめて描いているのであろう。《彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、如何に小さな家と細い小路の為に、賽の目のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上がらない戯曲が殆んど戸毎に演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた》。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑥

《二人は又歩き出した。敬太郎も壺入のビスケットを見棄ててその後に従がった。二人は淡路町まで来て其所から駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。(略)それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入をする家であった》。宝亭とは、神田淡路町にあった西洋料理屋多加羅亭。軍人たちもよく利用していたようである。この後、宝亭の様子や、店の中で男女の言動をうかがう敬太郎の様子が描かれる。
《表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電燈の光を後にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、又は中川の角に添って連雀町の方へ抜けようが、或は門からすぐ小路伝いに駿河台下へ向おうが、何方へ行こうと見逃す気遣はないと彼は心丈夫に洋杖を突いて、目指す家の門口を見守っていた》。古着屋のような洋服屋のような店とは古着・洋服商の米屋。道を挟んで多加羅亭のむかいにあった。連雀町は現在の神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目の一部。男女はかなり経って店を出て来た。
《二人は最前待ち合わした停留所の前まで来て一寸立ち留まったが、やがて又線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似た。すると二人は又美土代町の角を此方から反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人は又歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、其所にも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍へ寄って立った。彼等は又三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気が付いた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した》。女はここから電車に乗って、三田方面に向ったが、男は電車に乗らなかった。男は、《それから足の向を変えて又三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前で留った。其所は敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。(略)この電車で何処へ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった》。こうして敬太郎は、男を追って、江戸川橋まで電車に乗り、さらに雨の中、人力をかって矢来交番の下まで来て、そこで男を見失うのである。
ところで、西洋料理屋を出たあとの行動にどうしても実情と合わない記述がある。男女は小川町の電車通りを横切って美土代町側に移る。角を曲って神田橋方面へ南に行けば、まもなく三田線に乗車することができる停留所である。ここは敬太郎が本郷から来て下車した停留所である。ところがどうしたことか、漱石は神田橋の通りを横断させて、錦町側に移し、そこから女を三田線に乗せている。ここには停留所がないはずである。女を見送った男がこの後、道路を横断することなく、交差点の角を左折して、江戸川行が停まる停留所に来ている。ないはずの停留所からの道順としては確かなので、やはり停留所の位置を勘違いしたのであろう。熟知した小川町交差点の電停の位置を間違えたとしたならば、漱石にしては珍しいことである。
『明暗』で津田由雄が痔の手術を受けた病院は、お延が神田にあると明記されている堀の家から病院へむかう経路と、電車の停留所と病院の行き来のようすから、1912年、実際に漱石が痔の手術で入院した佐藤診療所(錦町一丁目10番地)とみて、差し支えないだろう。
それはつぎのように書かれている。《堀の宅から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、其所に丁字形を描いている大きな往来を又一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へ掛った時、北から来た一台の電車が丁度彼女の前、方角から云えば少し筋違の所で留った。(略)電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影を少時見送ったあとで、通りを東側へ横切った。彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、幾何かの小路を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着く積であった》。電車は外濠線であろう。外濠線は現在の千代田通りのルートを通っていた。通りを越えて東へ行くと、表神保町1番地から錦町へはいる。
《その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭の居そうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中程にある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った》。《手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った》。これらの文は病院から電停が近いことを示している。
靖国通りを横断して南西角へ行くと、松岡小川町ビルがある。この付近にかつて新宿行きや巣鴨行きが停車する電停があった。『彼岸過迄』の敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した停留所である。男が飛び出してきたのは、現在の松岡小川町ビル横の小路で、100m程のところに、佐藤診療所があった(現在の北日本銀行の裏手辺り)。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田⑤

いよいよ敬太郎の神田小川町での探偵ごっこが始まる。《けれども只眼の前に、美土代町と小川町が、丁字になって交叉している三つ角の雑沓が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘うに足る上分別は浮ばなかった》。現在、小川町交差点は十字路になっている。けれども当時は交差点から北の本郷通りはなく、現在の靖国通りに丸の内方面から北進する道路がぶつかるT字路であった。そして突き当たったところに交番(派出所)があった。交番に位置は現在の本郷通りの真ん中あたりである。本郷台の最南端に位置する駿河台が突き出しているため、東西方向に走る道路(現、靖国通り)は小川町付近で南へ湾曲している。漱石はそのような道路の状況も克明に描き出している。
《やがて目的の場所へ来た時、彼は取り敢えず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分程間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。其所には交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめに掛った》。青年会館とは東京基督教青年会の赤煉瓦の建物である(1894年完成。東京基督教青年会は2003年に江東区に移転し、跡地に住友不動産神田ビルが建てられた)。この後、連載日数で言うと12日分に亘って、小川町における敬太郎の探偵ごっこの様子が続く。
《赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。此所にさえ待っていれば、仮令混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、又目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。(略)その隣りは皮屋であった。(略)又次の店に移った。そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、(略)美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た。その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側で留ったので、若しやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、其所にも一本の鉄の柱に、先刻のと同じ様な、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念の為この角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、何れも万世橋の方から真直に進んで来るので彼は漸く安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうという積で、彼は足の向を更えに掛った途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、又敬太郎の立っている傍で留った。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気が付いた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、又右へ曲っても先刻彼の検分して置いた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、何方へ降りるのだか、彼にはまるで見当が付かない事になるのである。(略)彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていた為、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気が付かずにいた自己の迂闊を深く後悔した。(略)すると其所へ江戸川行の電車が一台来てずるずると留まった。誰も降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちに又車を出そうとした。敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を脊にして、眼の前の車台には殆んど気の付かない程、此所にいようか彼所へ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除ける様にして、ハンドルへ手を掛けた運転手の台へ飛び上がった。敬太郎の驚ろきが未だ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出して既に動き始めた。飛び上がった男は硝子戸の内へ半分身体を入れながら失敬しましたと云った》。当時の小川町交差点の様子と電車の運行状況がじつに克明に描かれている。
しかし現地を知る人間でなければ、敬太郎の迂闊もなかなか理解しにくい。まして、東京市電(のちの都電)さえなくなってしまった今日、敬太郎の迂闊、そして彼が選択を迫られる、ある面おもしろい場面はきわめて理解しにくい。限られた資料から当時の小川町交差点周辺を再現してみよう。
本郷三丁目から電車に乗った敬太郎は、宮本町・松住町・須田町を経て、小川町交差点へ東から進入し、南へ曲り、神田橋の通り(現、本郷通り)へ入って、青年会館(現、住友不動産神田ビル)付近にある小川町停留所で下車した。このあたりは美土代町になる。電車を降りた敬太郎は北へ進み、小川町の通り(現、靖国通り)を横断して、突き当たりにある交番の前へ。東側にポストがある。小川町の通りを少し東へ(つまり、須田町の方へ)行くと、小川町停留所がある。ここには、神田橋の方から来て本郷へ行く「本郷三田間を連絡する」電車と、江戸川橋から亀沢町へ行く電車、それに新宿や青山から来た電車が停車した。敬太郎は瀬戸物屋の前にある小川町停留所を確認すると、西へ引き返し、いろいろな店や交番、そして天下堂の前を通り越して、唐木細工の店先から小川町の通りを斜め横断して、唐物屋前の錦町側の小川町停留所へやって来る。ここには、九段を経由して新宿へ向う電車、青山へ向う電車、江戸川橋へ向う電車が停車する。いずれも小川町の通りを須田町方面から西進して来たものである。ところが突然、神田橋の通りから来た電車が、右へ曲らず、左へ曲って停車したから、敬太郎はびっくりした。当時巣鴨方面には小石川原町まで電車が開通していた。巣鴨橋まで延伸されたのは『彼岸過迄』(1912年1月1日~4月29日連載)の連載が終わった翌日の4月30日である。つまり連載中は「巣鴨行」の電車は走っていなかった。したがって漱石の記述は誤りとの指摘がある。しかし、少なくとも1910年には神田橋の通りから左へ曲る線路が建設され、薩摩原(三田)と白山下を結ぶ路線が運行を開始していた。白山下から小石川原町へ延伸された路線はまもなく巣鴨橋まで伸びることになっており、巣鴨方面という意味で、「巣鴨行」という表示が使われていたとしても不思議はない。漱石は新しい系統ができたことを驚きと喜びをもって、作品の中に書き込んでいったと考えられる。
当時の電車停留所は交差点を越えたところに設置されたようで、小川町の停留所は全部で三ヵ所あったことがわかる。急いで電車に乗ろうとした男に突き飛ばされ、その拍子に敬太郎の持っていた洋杖は蹴飛ばされ地面に落ちた。男は佐藤診療所へ通じる小路から飛び出して来たとみられる。拾おうとして見ると、洋杖の蛇の頭が東向きに倒れており、敬太郎はそれを、方角を教える指標と感じて、結局、敬太郎は洋杖の指し示す瀬戸物屋前の小川町停留所で見張ることになる。
《其所で本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。(略)彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じ様に立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴の如く振り分ける分別盛りの中年者であった。その内で何時出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた》。やがて敬太郎はいっこうに電車に乗ろうとしない一人の女に注目し始める。外套ははっきり霜降とわからないが、帽子は中折で、年恰好とも田口の伝えた相手と似た男が電車を降りる。敬太郎はこの男女を尾行することに決める。敬太郎が尾行する男女が西洋料理屋へはいる。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田④

神田小川町とその周辺。
漱石の時代、神田小川町界隈は日本橋や銀座界隈と並ぶ繁華な場所であった。路面電車の路線も集中し、『彼岸過迄』における探偵ごっこの場所に選ばれた。須永市蔵の自宅や坊ちゃんの下宿も神田小川町に設定された。現在の小川町はスポーツ用品の街として知られ、靖国通りの小川町交差点から駿河台下交差点にかけて一帯に、大小のスポーツ用品店が集まっている。
《彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑やかな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽がないので、何時でも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活ていると云う自覚は近来頓と起った事がない》。『門』にこのように記されている賑やかな町というのは小川町である。大手町の役所に通っている宗助は、新小川町から電車に乗り、小川町で三田線に乗り換え、大手町で下りる。帰りは、本郷や白山方面に行く電車に乗って、小川町で新小川町行の電車に乗り換える。宗助は乗換えの折、小川町界隈で飲食することもあった。
親友安井から御米を奪い取って妻に娶った宗助。こともあろうに、安井が坂井の家に来るらしい。そのことを知った宗助は安井との出会いを恐れた。《そのうち電車が神田へ来た。宗助は何時もの通り其所で乗り換えて家の方へ向いて行くのが苦痛になった。(略)その内店に灯が点いた。電車も燈火を照もした。宗助はある牛肉店に上がって酒を呑み出した。一本は夢中に呑んだ。二本目は無理に呑んだ。三本目にも酔えなかった。(略)宗助はこういう風に、何ぞ事故が出来て、役所の退出からすぐ外へ回って遅くなる場合には、何時でもその顛末の大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。御米もそれを聞かないうちは気が済まなかった。けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒を呑んだ事も、まるで話したくなかった》。
さらに、歳暮れの神田小川町の繁華なようすは、《宗助は例刻に帰って来た。神田の通りで、門並旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、勧工場で紅白の幕を張って楽隊に景気を付けさしている事だのを話した末、「賑やかだよ。一寸行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」と勧めた。そうして自分は寒さに腐蝕された様に赤い顔をしていた。御米はこう宗助から労わられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。》と描かれている。宗助の妻御米は広島でも福岡でも、そして東京へ戻ってからもあまり健康には恵まれなかった。暮も二十日を過ぎた頃、御米は発熱した。
この勧工場というのは、小川町の勧工場のことで、小川亭という寄席の後につくられた天下堂(現、神田小川町二丁目2番)のことである。『吾輩は猫である』にも、《この歴然が多少気にかかると見えて、主人は往来をあるく度毎にあばた面を勘定してあるくそうだ。今日何人あばたに出逢って、その主は男か女か、その場所は小川町の勧工場であるか、上野の公園であるか、悉く彼の日記につけ込んである。》と、引き合いに出されている。
この界隈での飲食は『門』の他にも、『吾輩は猫である』『それから』『彼岸過迄』に記されている。『吾輩は猫である』では、苦沙弥先生のところに昔の仲間の迷亭、鈴木が集まる。苦沙弥は、《「(略)すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢りっこかなにかに極めた》。『それから』では、代助が平岡の家を三度訪ねていた。《代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗って、本郷まで来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入って、麦酒をぐいぐい飲んだ》。
『彼岸過迄』では、敬太郎の探偵ごっこの場面などで描写されている。主人公田川敬太郎は須永市蔵の叔父田口によって、じつにバカバカしい探偵ごっこをさせられる。そのことが結果的に就職へとつながったのであるが。探偵ごっこの舞台となった小川町界隈と電車のようすが、じつに詳しく描写されている。速達便で届いた田口からの依頼はつぎのようであった。
《今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い脊の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった》。 敬太郎は田口の手紙に不安を感じた。《田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見付出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、丁度役所の退ける刻限なので、丸の内から只一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。それに外と違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電燈以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい》。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田③

漱石が小説を書いたのは1904年から1916年までで、ほとんどが「現在」を書いているので、漱石の作品に描かれた神田は、ほぼ明治後期の神田である。
“火事と喧嘩は江戸の華”といわれるが、「江戸っ子」の代名詞が住んでいるような神田では、明治になって、1892年と1913年に大きな火事に見舞われている。漱石は神田大火に関して、『永日小品』と『門』の二つの作品で言及しているが、ともに1892年、漱石25歳の時の大火のことであろう。
《飯を食っていても、生活難が飯と一所に胃の腑まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹が切歯詰って、如何にも苦しい。そこで帽子を被って空谷子の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者見た様な占者見た様な、妙な男である。無辺際の空間には、地球より大きな火事が所々にあって、その火事の報知が吾々の眼に伝わるには、百年も掛るんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。尤も神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのは慥かな事実である》。(『永日小品』)
《小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険を付けないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずに置いた》。(『門』)
1892年の大火は4月10日、猿楽町から出火し、小川町・表神保町・錦町などを中心に4000戸あまりが焼失した。この時、三省堂も全焼している。当時、火災保険が登場し、普及し始めていた。1913年の大火は三崎町の救世軍から出火し、一ツ橋にかけて1500~2000戸ほどが焼失した。

漱石は市電を多く描いた文豪である。とくに神田は市電の路線が多く集まり、漱石の好奇心を誘ったと思われる。それは『彼岸過迄』(1912年)に結実するが、先端を切るのが『三四郎』(1908年)である。
一ツ橋にあった高等商業学校へ行こうと思った三四郎。《実を云うと三四郎はかの平野家行以来飛んだ失敗をしている。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、序に飯田橋まで持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行った事がある》。
当時の市電事情を知らないと理解しにくいが、当時、本郷四丁目(三丁目)、神田須田町、九段下、飯田橋を経由して大曲(新小川町)に至る路線があった。本郷に住んでいる三四郎は、最寄りの本郷四丁目から市電に乗り、本来なら駿河台下で下車するところ、九段坂下まで行ってしまった。急な九段坂を迂回して九段下と九段上を結ぶ路線は1907年に開通している。三四郎は飯田橋で下車し、本来なら同じ路線を引き返すのだが、そこは知識豊かな漱石で、わざわざ外濠線の神田松住町行きに乗せ、それでは駿河台下へは行かないので、御茶ノ水橋で途中下車させて、土橋方面へ行く外濠線に乗換えさせている。これで、つぎが駿河台下であるが、漱石は三四郎にここでも乗り過ぎをさせ、神田橋を過ぎて鎌倉河岸まで行かせる。三四郎が本郷四丁目から飯田橋まで乗った市電は、坊っちゃんが就職した東京市街鉄道(街鉄)で、1910年に本郷四丁目から春日町・表町を経由して大曲へ行く路線が開通したので廃止された。つまり、市電開業初期の6年ほど走った路線に三四郎は乗ったことになる。漱石のおかげである。
外濠線は東京電気鉄道が運行していたが、1906年に東京電車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道(外濠線)の三社が合併して東京鉄道になっていた。
1906年に市電運賃値上げ反対運動が起こり、1908年まで続いていることから、市電は東京市民の関心を集めており、漱石が市電を登場させるのは、読者を引き寄せる狙いもあったとみられる。
なお、高等商業学校・東京外国語学校の敷地は、本郷移転前の東京大学の敷地で、江戸時代には安中藩板倉家上屋敷。同志社創設の新島襄はここで生れた。学士会館(千代田区神田錦町三丁目28番)の敷地内には「東京大学発祥の地」の碑が建っている。大学予備門や東京府立第一中学校もこの地にあった。高等商業学校(1875年創立)は東京大学(前身)の移転にともない、1885年に銀座(木挽町)から移転してきたもので、1930年に国立へ移転するまで一ツ橋にあった(戦後、新制大学になる際、学校名を旧地の一橋とした)。
『門』(1910年)、『明暗』(1916年)でも神田界隈を市電で通る主人公などの姿が描かれている。
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田②

漱石は神田に学び、一時期住んだこともあったが、鏡花・龍之介、いずれも神田への通学も、居住もない。秋聲は神田への通学はないが、1900年に読売新聞に入社し、神田錦町に下宿した。その後、秋聲は新聞社を翌年退職し、春葉春陽堂に入った。1902年暮れに東京を離れ、九州、大阪などで過ごした後、1903年に東京へ戻り、1900年に一時住んでいた筑土の下宿へ入った。したがって秋聲が神田で過ごした時期は短いが、作品にはしばしば登場する。
藤村は1886年に泰明小学校を卒業後、翌年に明治学院へ入学するまでの間、神田錦町の三田英学校、神田淡路町の共立学校に通った。
1891年3月、神田駿河台にニコライ堂が完成。6月に藤村は明治学院を卒業した。『桜の実の熟する時』(1914~1918)に、《彼は久松橋の下を流れる掘割について神田川の見えるところに出、あの古着の店の並んだ河岸を小川町へととり、今川小路を折れ曲った町の中へはいって行った。京橋日本橋から芝の一区域へかけては眼をつぶっても歩かれるほど町々を暗記じていた彼にも、もう神田へはいるとたまにしか歩いてみない東京があった》。《今川小路と九段坂下との間を流れる澱み濁った水も彼の眼についた。》と描写された場面は9月下旬が設定時期と思われる。
捨吉は浜町川に沿って北西に、小川橋、鞍掛橋、神田区に入って橋本橋と過ぎ、柳原橋のところで神田川へ出た。神田川沿いに柳原河岸を和泉橋、万世橋、須田町から淡路町、そして小川町へ。さらに捨吉は裏神保町から今川小路へ。まだ路面電車が走る前で、東西を貫く道路(現在の靖国通りの前身)がつくられていないので、道も折れ曲っている。《今川小路と九段坂下との間を流れる澱み濁った水も彼の眼についた》。この流れ。神田川から分流し外堀をなして、再び河川として隅田川へ流入する日本橋川である。
この先、麹町にある吉本宅への道順は書かれていないが、麹町区に入って九段の坂を上り、番町へむかったと思われる。吉本とは藤村を明治女学校に招いた巌本善治のことであろう。木村熊二とともに明治女学校の設立に尽力し、1887年に教頭に就任している。
明治学院を卒業し、翌1892年、明治女学校に勤めるまでの間、藤村は、長年世話になった吉村家を出て、神田区中猿楽町9番地(現、西神田2丁目)に下宿、さらに明治女学校に就職した時には、牛込区赤城元町34番地(赤城神社の東側)の下宿に移った。
荷風は、1890年から神田錦町にあった東京英語学校に通学し、1891年、一ツ橋の高等師範附属中学校に入学。1年留年して1897年に卒業し、一ツ橋にあった官立高等商業学校附属外国語学校清語科に入学し、1899年に中退した。荷風が神田に居住したことはないが、在学期間は10年ほどになる。ただし、療養などで通学していない時期もあり、学業へ関心がむかず、学校へ足がむかわなかったことも度々あったと推定される。 
(つづく)
【館長の部屋】 文豪と神田①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座、浅草の順で東京を巡って来たが、いよいよこれから神田である。
私はいちおう「地理屋」であるから、神田の範囲について定義しなければならない。現在、神田は千代田区に含まれるが、千代田区は麹町区と神田区が合併して、1947年に誕生したものであるから、ここで扱う「神田」は神田区の範囲を指すことにしたい。と言いたいところだが、下記のように、その範囲をさらに絞り込みたい。
神田小川町とその周辺。
神田神保町とその周辺。
神田錦町とその周辺。
神田淡路町・神田須田町とその周辺。
神田猿楽町・神田三崎町とその周辺。
神田駿河台一帯。
したがって、山手線より東の地域や、神田明神下にあたる「外神田」は含まない。

神田は現在でも多くの人が集まる地域であるが、明治・大正期まで、東京屈指の繁華街だった。それは何と言っても交通の便の良さ。とりわけ市内電車(路面電車)の系統の多さがそれを示している。都電になっても、41系統のうち9系統が神田須田町を通っていた。すなわち、南北方向(中央通り)を1・19・20・24・30・40、東西方向(靖国通り)を10・12・25・29の各系統である。5系統以上が交り合う交差点(電停)は、上野公園・上野広小路・春日町・水道橋・万世橋・神田須田町・神田小川町・神田神保町・神田橋・日本橋・銀座4丁目・日比谷公園・田村町1丁目・赤羽橋で、神田地域に多いことがわかる。このように市電が多く集まる神田の特性に目をつけて小説を書いたのが漱石である。

私が銀座や浅草を初めて訪れたのは高校2年の時であったが、神田はもっとずっと後で、「一度は神田の古本屋をまわってみたいものだ」と思ってからである。学生時代、京都でも古本屋をよくまわったし、ヘルマンヘッセの作品などはすべてそろえたが、さすが、神田の古書店は規模が大きく、またその中に三省堂など新刊書を販売する大きな書店があるのも驚きだった。周辺まで含めてまわってみると、出版社の多いのにも驚かされた。
これから私は、「文豪と神田」を書いていくわけであるが、どうも漱石と秋聲に多くを費やすことになりそうである。ただ、七人の文豪たちも小説に神田を描くかどうかは別として、実際には足しげく神田に通ったことであろう。

漱石にとって神田は学び舎であった。1877年、すでに実家に戻って市ヶ谷学校に通っていた漱石は、神田猿楽町の錦華学校に転校。1878年10月、錦華学校を卒業し、東京府立第一中学校に第一回入学生として入学した。漱石が入学したのは英語を教えない正則科で、英語を教える変則科と違って、大学予備門への道が閉ざされていた。第一中学から大学予備門にかけての学校遍歴について漱石は、『私の経過した学生時代』(初出『中学世界』1909年、『筑摩全集類聚版夏目漱石全集10』筑摩書房1972年収録)につぎのように記している。《明瞭記憶して居らぬが、何でも十一二の頃小学校の門(八級制度の頃)卒えて、それから今の東京府立第一中学――其の頃一ツ橋に在った――に入ったのであるが、何時も遊ぶ方が主になって、勉強と云う勉強はしなかった。尤も此の学校に通っていたのは僅か二三年に止り、感ずるところがあって自ら退いて了ったが、それには曰くがある。此の中学というのは、今の完備した中学などと全然異っていて、その制度も正則と、変則との二つに分かれていたのである。正則というのは日本語許りで、普通学の総てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかった。変則の方はこれと異って、ただ英語のみを教えるというに止っていた。それで、私は何れに居たかと云えば、此の正則の方であったから、英語は些しも習わなかったのである。英語を修めていぬから、当時の予備門に入ることが六カ敷い。これではつまらぬ、今まで自分の抱いていた、志望が達せられぬことになるから、是非廃そうという考を起したのであるが、却々親が承知して呉れぬ。そこで、拠なく毎日々々弁当を吊して家は出るが、学校には往かずに、その儘途中で道草を食って遊んで居た。その中に、親にも私が学校を退きたいという考が解ったのだろう、間もなく正則の方は退くことになったというわけである》。
1881年、漱石は結局一中を中退するが、英語には直結しない二松学舎へ転校してしまうのである。この年には、実母千枝が亡くなっている。1883年9月、神田駿河台の成立学舎入学で、漱石は再び神田へ通学することになった。1884年には一ツ橋にあった大学予備門予科、さらに1885年には自宅を出て、神田猿楽町の末富屋に下宿。初めて神田に住むことになった。末富屋は錦華小学校近くにあったという。1886年には予備門に通いながら、本所の江東義塾で教え、その寄宿舎に住むようになった。1887年に自宅へ戻り、そこから予備門に通い、1888年に第一高等中学校本科へ進学。1890年に帝国大学に入学したため、神田への通学は終了し、本郷へ通うことになった。
                          (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑩

この1953年暮、荷風は『吾妻橋』という作品を発表している。
《毎夜吾妻橋の橋だもとに佇立み、往来の人の袖を引いて遊びを勧める闇の女は、梅雨もあけて、あたりがいよいよ夏らしくなるにつれて、次第に多くなり、今ではどうやら十人近くにもなっているらしい。女達は毎夜のことなので、互にその名もその年齢もその住む処も知り合っている。》と、隅田川に架かる吾妻橋の光景から短編は始まる。「ああ、やはり荷風だなあ、荷風の作品だなあ」。主人公道子は《いつも黒い地色のスカートに、襟のあたりに少しばかりレースの飾をつけた白いシャツ。口紅だけは少し濃くしているが、白粉はつけているのか居ないのか分らぬほどの薄化粧なので、公園の映画を見に来る堅気の若い女達よりも、却ってジミなくらい。》の女性で、年齢は二十代半ば。
《道子は橋の欄干に身をよせると共に、真暗な公園の後に聳えている松屋の建物の屋根や窓を色取る燈火を見上げる眼を、すぐ様橋の下の桟橋から河面の方へ移した。河面は対岸の空に輝く朝日ビールの広告の灯と、東武電車の鉄橋の上を絶えず往復する電車の燈影に照され、貸ボートを漕ぐ若い男女の姿のみならず、流れて行く芥の中に西瓜の皮や古下駄の浮いているのまでがよく見分けられる。》と、ここで道子は小岩のパレスにいた時の客木嶋にばったり出会い、そのまま客として袖を引いて旅館に連れ込む。窓の下はすぐ川の流れで、駒形橋の橋影と対岸の町の灯が見える。《「お前、パレスにいた時分露呈症だって云われていたんだろう。まったくらしいな。」》と言う木嶋に、《「じゃ、ストリップは皆そうね。暑い時は涼しくっていいわ。さア、あんたもおぬぎなさいよ。」と道子は》応じる。
道子は南千住の出身で、兄は戦地へ送られ間もなく病気で倒れ、父は空襲で焼死。松戸の母の実家に共に行ったが、ここでも生活は困窮。18歳になったのを機に小岩の売笑窟へ身売り。戦争が色濃く影を落とす人生である。やがて、母も亡くなり、その後さまざまな経路をたどって、アパートに出入りする仕出し屋の婆さんに勧められるまま、戦後浅草上野辺の裏町に散在している怪しげな旅館や料理屋へ出入りして客を取り始め、しかし、客も四、五日に一人か二人あればいい方なので、《道子はその頃頻と人の噂をする浅草公園の街娼になろうと決心したが、どの辺に出ていいのか見当がつかないので、様子をさぐりに、或日あたりの暗くなるのを待ち、映画見物の帰りのような風をして、それらしく思われる処をあちこちと歩き廻っている中、いつか仮普請の観音堂の前に来かかったのに心づき、賽銭箱に十円札を投り込み手を合して拝んでいた時である。》と、浅草寺観音堂の前。観音堂は空襲で焼失後、1951年から再建工事にとりかかり、1955年に落成しているので、『吾妻橋』が書かれた頃は工事中であった。
ここで《「アラ、道ちゃん」》と、小岩の私娼窟にいた頃、姉妹のように心安くしていた蝶子に声をかけられ、浅草の街娼をしていたことがあるというので、道子はその辺の蕎麦屋へ誘い、蝶子からいろいろ話しを聞く。《このあたりで女達の客引に出る場所は、目下足場の掛っている観音堂の裏手から三社権現の前の空地、二天門の辺から鐘撞堂のある弁天山の下で、ここは昼間から客引に出る女がいる。次は瓢箪池を埋めた後の空地から花屋敷の囲い外で、ここには男娼の姿も見られる。方角をかえて雷門の辺では神谷バーの曲角。広い道路を越して南千住行の電車停留場の辺。川沿の公園の真暗な入口あたりから吾妻橋の橋だもと。電車通りでありながら早くから店の戸を閉める鼻緒屋の立ちつづく軒下。松屋の建物の周囲、燈火の少い道端には四、五人ズツ女の出ていない晩はない》。
これではもう、浅草公園全域と言ってよいくらい、各所に出没している感があるが、これも浅草に関する記述であることに変わりないので紹介した。取り締まりの差こそあれ、少なくとも江戸時代以来の浅草のひとつの顔を表していると言ってよいだろう。瓢箪池は観音堂再建のため、1951年に売却、埋立てられ、歓楽街に生まれ変わった。「聖」を生み出しすために「濁」が一緒に生み出された、まさに浅草の象徴のようである。神谷バーは1880年創業の日本初のバー。雷門通りと馬道通りが交わる角、浅草1丁目1-1に現在も営業している。松屋や吾妻橋は至近の距離。
道子は吾妻橋が性に合って出るようになり、稼ぎを上げる。そしてそのカネで母親の墓を建てる。まさに「濁」が「聖」を生み出した。身を売って親の墓を建てた女と、池を売って本堂を建てた浅草寺。どこに違いがあるものか。「聖」と「濁」が共存する、まことに浅草に相応しい話である。松戸の寺へ行っていたため一日稼ぎを休んで次の日。心安くなっている女から、《「宵の口には橋の上で与太の喧嘩があるし、それから私服がうるさく徘徊いててね、とうとう松屋の横で三人も挙げられたって云うはなしなんだよ。」》と知らされる。道子は《ハンドバックからピースの箱を取出しながら、見渡すかぎりあたりは盆の十四日の夜の人出がいよいよ激しくなって行くのを眺めた》。すでに喫煙しない私でも、「ピース」の名を聞くと、何となく吸ってみたくなる。子どもの頃から「ピース」は高級品とすり込まれたイメージは今も変わらない。もっとも、子どもの頃の私は銀紙でカップを作ったりすることが楽しみだった。ほのかにタバコの香が漂ってくるのが快感だった。そのくせ、私が学生時代に吸ったタバコは「エコー」と「わかば」だった。
ところで、明日の道子は果たして吾妻橋の上でピースを吸うことができたであろうか。1954年の荷風。最初に浅草を訪れたのは1月5日である。そして歳月は流れ、1959年。荷風は1月1日に浅草を訪れている。その後も度々浅草を訪れ、3月1日の「日乗」には、《雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる》。以後、症状思わしくなく、浅草へ行くこともなくなり、時おり近所の大黒屋で食事。4月29日、「日乗」には《祭日。陰》。この日、大黒屋でかつ丼を食べている。4月30日、自宅において心肺停止の状態で発見。その後、死亡が確認された。

                         (完)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑨

1950年に入っても、1月9日には銀座から浅草を過ぎて帰宅し、翌10日には夕方、浅草のロック座へ。11日にも浅草でサーカスを見て、13日にも浅草というように、浅草通いはやむところがない。
この1950年。荷風は、《浅草公園のはなしもあんまり古いことは大抵忘れてしまったからここでは話すことができない。十二階の初めて建てられた時も、六区に米国南北戦争のパノラマの出来た事も、見に行ったことは記憶しているがはっきりした年代がわからないから暫くおあずけにして置こう。僕が二十になった頃から(即明治三十年頃から)のことならどうやら記憶しているようだ。》と書き出して、近代浅草の歴史をまとめたような『浅草むかしばなし』という一文を「東京日日新聞」に書いている。
それによると――
一番はずれの江川劇場は玉乗や手品の興行で人に知られていた。(漱石が『それから』に、《この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。あの一図な所はよく、嫂の気性を受け継いでいる。》と、記している「玉乗り」である)。現在吉本のグランド映画劇場のところは何があったかわからない。その隣りの現在ロック座のあるところは戦争で取り払いになるまで萬盛館という劇場で剣劇と五一郎一座の軽演劇をやっていた。それ以前は萬盛庵という蕎麦屋があった。戦争中までオペラ座のあったところは都座。源氏節と女芝居がかかっていた。常盤座は古くから現在のところにあった芝居小屋で、明治30年代には新派の役者が出ていた。映画女優山田五十鈴の父山田九州男(女形)も出ていたと思う。その時分映画館はまだ一軒もなかった。常盤座の向側はルナパークで、それ以前は人工の富士山があった。興行町の広い通りはその辺で行き止まりになり、そこから細い路地のような横町を抜けると表通りの古書肆浅倉屋の近くに出る。
明治40年頃には映画館は既に盛ん。安来節の踊りや泥鰌すくいの流行ったのは大正になってから。その時分、現在の松竹座は御国座という芝居で、沢村訥子の一座がかかっていた。大正10年頃、自分のところから出火し焼失。新築して松竹座になり、松竹少女歌劇の初めて興行されたのは松竹座。公園劇場だったか観音劇場だったかはっきり覚えていないが、大正時代に今の大勝館の裏あたりにも劇場があって、一時中村又五郎が明治座の左団次一座から分かれて一座をつくっていた事もあった。
公園裏の宮戸座は明治30年頃に新しく出来た芝居で、初めは伊井蓉峰一座が掛っていたと思う。大正の初頃には旧派に代わって源之助翫五郎鬼丸秀調などが掛っていた。活動と芝居とを一所にした連鎖劇というものも掛っていた。
公園内外の料理屋や飲食店は大正12年の地震までは数も多く繁昌した。料理屋では花屋敷近くの松島が会席茶屋で知られ、一直も花屋敷裏にあった宴会茶屋。その頃一番繁昌したのは公園裏の鳥料理大金。芸者の箱も入るし心持のいい風呂場もあった。震災前道路拡幅の頃、閉店したらしい。千束町の通りにあった平野という鳥料理屋で大金に劣らぬ家。庭も座敷も悪くなく、震災後も繁昌していた。吉原帰りの客が仲の町の芸者幇間を引連れて来るので、朝早くから風呂が焚いてあった。公園内外の料理屋の上等な家はいずれもむかしから仲の町とは連絡がついていた。
弁天山鐘撞堂の近くに菅野という鳥料理屋があった。初めは手軽で行きやすい家であったが、大正になってから芸者でもあげなくてはいけないような騒々しい家になった。伝法院裏門前の天麩羅屋仲清も初めは食事を主にしていたが、震災後、女中がお召の着物に厚化粧をしてお酌に出るようになって客の種類がすっかり変わった。仲清近くの古びた煉瓦づくりの何とかいう洋食屋があった。公園で洋食屋らしい洋食を出す家はこの一軒だけであったが、震災で焼けて廃業したらしい。公園裏に逢坂屋という洋食屋があるが、ここも料理は悪くなかった。戦災後も引き続き商いをしているそうだ。
金龍館横手の賑やかな商店街には戦災前、花屋、みやこ、米作。それから薬湯のとなりに貝類の料理や釜飯を出す店があった。その中で、米作という店の料理はなかなかうまいもので、いつも江戸前の新しい魚を用意していた。しかし戦災後は米作も釜飯屋も見えなくなった。仲店裏の岡田、丸留、その隣りの宇治の里は古くから東京の人には広く知られた家だったが、これも戦災後まだ復興しないようだ。仲店から馬道へ出る通りにあった金田という鳥鍋屋は芸者づれの客も堅気の家族連もよく行った店であったが、今はどうなったか知らない。
現在、食べ物屋で人の目につくのはとんかつ屋と中華蕎麦屋である。震災前、公園の名物であった藪蕎麦は観音堂の裏手から震災後は千束町の花柳界に移転したが、名高い汁粉屋松村は戦後、公園内のもとの所近くに店を出しているという噂。梅園という汁粉屋も近頃もとの所に看板を出している。牛鍋屋は戦争前までは今半にちん屋に常盤の三軒が繁昌していた。仲店の常盤は代替わりして大増になったのは震災後だったと思う。
――さすが荷風である。食べ歩きもかなりしていたようである。
1950年。5月11日、荷風作『渡り鳥いつかへる』がロック座初日。その前からも稽古を見に行ったり、楽屋へ行ったり、女優と食事をしたり、浅草通いが続く。8月10日には東京地方裁判所から召喚状。わいせつ文書販売被告星啓二の鑑定人尋問。1951年には1月2日に早くも浅草。12月31日付の「日乗」にも《夜浅草。つるやに飰す。》の記述。1952年は1月1日の「日乗」に《夜浅草。公園興行物去年夏頃より女剣劇流行。》の記述。10月21日、文化勲章受章決定。12月31日の「日乗」には、《夜銀座マンハッタン女給三人と共に浅草観音堂に賽す。家に帰る暁三時半。月よし。》の記述。文化勲章をもらっても何ら変わることなく、浅草に始まり浅草に終わる。「銀座」もいっしょにやっつけてしまった。「元祖不良老人」遺憾なく発揮。月をめでること変わりなし。
1953年は正月2日、早くも浅草。3月10日の「日乗」には、《夜浅草。ロック座楽屋の噂に公園近辺の旅館にて男女また女同士の閨中の秘戯を見せるところ少からず。見料二千円より五、六千円なりといふ。》との記載がある。まあ、文化勲章をもらったのは永井壮吉で、「日乗」を書いているのは永井荷風である。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑧

こうして、昭和モダンを迎えると、荷風が頭をもたげてくる。

『ひかげの花』(1934年)では、重吉と千代は警察の捜査を恐れて、浅草千束町1丁目にある藤田という荒物屋へむかう。浅草千束町は吉原遊郭の西側から南側にひろがり、1丁目はもっとも西にある。この地は、《松竹座の前を真直に南千住へ出る新開の大通りである。》と書かれているが、この大通りが国際通りである。大震災後につくられた。松竹座の跡地は現在、ROXビルになっている。二人は当座の住居を浅草柴崎町に定めた。浅草六区の西側にあり、現在の西浅草3丁目。日輪寺、東光院など寺院が多い。《横町の片側は日輪寺のトタンの塀であるが、彼方に輝く燈火を目当に、街の物音の聞える方へ歩いて行くと、じきに松竹座前の大通に出る。》というので、日輪寺のそばであろう。さすが荷風は浅草に詳しく、描写も具体的である。国際通りへ出て200m程で、《田原町の角に新聞売が鈴を鳴しているのを見て、重吉は銅貨をさがし出して、毎夕新聞に国民の夕刊をまけさせた》。

『濹東綺譚』(1937年)で、主人公大江匡は浅草にいる。夕風も追々寒くなって来たある日、大江は活動小屋(映画館)の入口の看板を一軒一軒見尽して、公園のはずれから千束町へ出た。《右の方は言問橋左の方は入谷町》と言うから、花やしきの裏手辺りの言問通りへ出たのだろう。荷風は人物の位置情報をきちんと提供してくれるから、地理屋はこのようなところに惚れこんでしまう。どっちへ行こうか思案している大江はポン引きに声をかけられ、断りの文句に「吉原へ行く」と言ってしまったものだから、その方向にむかって歩き始める。おそらく現在の千束通りにあたる道筋だろう。大江はこの先に古本屋のあることを思い出し、大門前日本堤からぐるりとまわって、隅田公園に出ている。
さらに大江は種田の失踪先を求めて、6月末のある夕方、梅雨はまだ明けていないが、朝からよく晴れた日、夕飯を済ませて、遠く千住や亀戸、足の向く方へ行ってみようと家を出る。《一先電車で雷門まで往くと、丁度折好く來合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。》と、大江はバスに乗って玉の井へ。
四に入ると、大江が書こうとしている小説『失踪』の一節。玉の井のことも少し出てくるが、つぎへの伏線であろう。
『失踪』冒頭、《吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合しているのである。》と、主人公種田順平は隅田川に架かる吾妻橋の上にいる。上流の浅草側には、1931年の東武鉄道浅草雷門駅(現、浅草駅)開業にあわせて建てられた松屋浅草店が、八階建ての巨大な壁のように立っている。船で言えば船首にあたる、正面の上に時計塔がそびえている。このデパート、屋上にスポーツランドがつくられていた。
橋の上には円タクの他には、電車もバスも通っていないというから、かなり遅い時刻である。いつもは駒形橋を渡っていくというすみ子が思ったより早くやって来て、とりあえずすみ子のアパートへ。「歩いたって、停留場三つぐらいだから、円タクに乗ろう」ということで、吾妻橋を渡り終らぬうちに、秋葉神社前まで30銭で行くというタクシーが見つかって、二人は乗り込む。
何のことはない。結局また隅田川を渡って、向島の方へ行ってしまった。どうも、昭和ロマン時代の荷風。銀座と玉の井には熱心でも、浅草にはあまり思い入れがなかったようである。

1945年3月10日の東京大空襲では、浅草寺の本堂をはじめさまざまな建造物も焼失してしまった。その後、瓢箪池は本堂復興のため、埋立て売却された。そのような戦後の浅草を見ることができたのは荷風と犀星である。ところが、犀星にとって浅草は遠い存在になってしまったようで、ここからは荷風の独壇場である。
荷風の『断腸亭日乗』、1948年1月9日には、《午下省線にて浅草駅に至り三ノ輪行電車にて菊屋橋より公園に入る。罹災後三年今日初めて東京の地を踏むなり。》の記述がある。荷風は戦後、1946年1月から市川に住んでいるが、丸二年、隣接する東京に足を運ぶことがなかったようである。荷風は「浅草駅」と書いているが、実際には総武線の「浅草橋駅」まで来て、駅前から都電31系統(都庁前―三ノ輪橋)に乗り、江戸通りから新堀通りを通って、菊屋橋で下車した。浅草通りと交差する南東角に宗圓寺があり、荷風は《菊屋橋角宗円寺門前の石の布袋恙なくしてあり。》と記している。都電はここから、かっぱ橋道具街通りを通って、つぎの停留所は合羽橋である。浅草公園に行くなら、合羽橋の方が近いが、荷風はこの布袋像が気になっていたのかもしれない。日乗は《仲店両側とも焼けず。伝法院無事。公園池の茶屋半焼。池の藤恙し。露店の大半古着屋なり。木馬館旧の如し。その傍に小屋掛にてエロス祭といふ看板を出し女の裸を見せる。木戸銭拾円。ロック座はもとのオペラ館に似たるレヴューと劇とを見せるらしく木戸銭六拾円の札を出したり。公園の内外遊歩の人絡驛たるさま戦争前の如し。来路を省線にてかへる。》と続いており、戦災後の浅草を知る手掛かりになる。
2月22日の「日乗」によると、荷風は《午後小滝氏と共に浅草公園》にやって来た。浅草は⦅日曜日の雑沓殊に甚し。六区の諸劇場皆裸踊の看板を掲げたり。》という状況で、その後、二人は《合羽橋より電車に乗り千束町停留場に降り大鷲神社焼跡を過ぎて吉原遊郭に入⦆っている。荷風は「裸踊」が気になっているようだが、5月7日の「日乗」に、《『東京朝日新聞』に余の旧作『襖の下張』を秘密に印行せしもの警視庁に拘留せられし記事出づ。》の記述あり、後日の「日乗」には、警視庁の警部が荷風のもとを訪れたことなども記されている。そして、6月1日。《午後浅草公園大都座楽屋。裸体舞踊一時禁止の噂ありしがその後ますます盛にて常盤座ロック座大都座の三座競ひてこれを演じつつあり。今日見たる大都座にては日本服きたる女踊りながら赤きしごきを解き長襦袢をぬぐところまで見せる。午前十時開場と共に各座満員の由。》と、荷風もどっぷり浸かって様子。それでも、浅草の老舗も気になるようで、9月20日の「日乗」には、《午後浅草。仲店追ゝ復旧し佃煮塩漬などむかし見しもの次第に店頭に出るやうになれり。汁粉屋梅園も先月来開店せり。》の記述がある。
1949年に入っても、《午後浅草に徃く。ロック座にて余の小説『踊子』を脚色し昨日より上演の由聞きたればなり。》など、浅草と荷風は深く結びついていく。荷風はこの年、『裸体談義』なる一文を書いているが、戦後まもない頃、荷風もびっくりするくらいの「裸体」の流行。言い換えれば、公然たる「裸体」の流行である。そして、その一大中心が浅草である。《戦争前からわたくしは浅草公園の興行界には知合の人が少くなかった。浅草の興行街は幸に空襲の災難を免れていたので映画の外に芝居やレビューも追々興行されるようになったから、是非にも遊びに来るようにと手紙をもらうことも度々になったので、去年の正月も七草を過ぎたころ、見物に出かけた、その時木馬館の後あたりに小屋掛をして、裸体の女の大勢足をあげて踊っている看板と、エロス祭と大書した札を出しているのがあった。入場料は拾円で、蓄音機にしかけた口上が立止る人々の好奇心を挑発させていた。しかし入口からぽつぽつ出て来る人たちの評判を立聞きすると、「腰巻なんぞ締めていやがる。面白くもねえ。」というのである。小屋掛の様子からどうしてもむかし縁日に出たロクロ首の見世物も同じらしく思われたので、わたくしは入らずにしまった。》と荷風は書いているが、「腰巻を締めてなければ入ったのか」と、突っ込みを入れたくなるが、見世物小屋で落胆した子どもの頃を思い出すと、妙に荷風に親近感が湧く。とにかくこうした見世物、「親の因果が子に報い」の口上で始まる。
荷風はこの後、日本館隣りの空き地で「女の首」の見世物をやっていたことに言及し、《エロス祭と女の首の見世物とは半歳近くつづいて、その年の秋にはなくなっていた。》としている。さらに荷風は、《ジャズ舞踊と演劇とを見せる劇場は公園の興行街には常盤座、ロック座、大都劇場の三座である。踊子の大勢出るレヴューをこの土地ではショーとかヴァライエチーとか呼んでいる。西洋の名画にちなんだ姿態を取らせて、モデルの裸体を見せるのはジャズ舞踊の間にはさんでやるのである。見てしまえば別に何処が面白かったと言えないくらいなもので、洗湯へ行って女湯の透見をするのと大差ない。》と、「荷風さん、あなた、やってたんですか?」と言いたい。ただし、銭湯では番台の前が少し空いているので、見ようと思わなくても見える。もちろん、子どもの頃の私は女湯の方から見ていたことになるのだが。銭湯のことなど思い出していると、荷風は《われわれ傍観者には戦争前にはなくて戦敗後に現れて一代の人気に投じたという処に観察の興味があるのだ。》と、元大学教授として学者ぶりを発揮している。
そのようなわけで、この後も「風俗史」の記述のような文章が続く。《ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売り場の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草では名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれて看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た》。続いて荷風は《一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。》と、彼女たちの楽屋へ入らなければわからないような情報を、私たちに提供した後、《踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される。》と記して、具体例を挙げているが、ここでは割愛し、《これらはその一例に過ぎない。いずれも戦争前のレヴィューにはなくて、戦敗後の今日において初て見られるものである。世の諺にも話が下掛ってくるともう御仕舞いだという。十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下がかってくるのも是非がない。》と、品性を保つ一線はわきまえているようである。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑦

淺草に魅せられた犀星の友人になった龍之介は、1927年、『浅草公園――或シナリオ――』を書いた。凌雲閣(十二階)は関東大震災(1923年)で上半身が崩れ去り、倒壊のキケンがあるので、すべて解体撤去された。観音堂とその周辺は火災を免れ、避難して来た7万人とも15万人とも言われる人びとの生命を守った。鏡花は『露宿』の最後に、浅草寺に思いを馳せる。《確に聞く。浅草寺の觀世音は八方の火の中に、幾十萬の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたゝるばかり嚴に氣高く燒殘つた。塔の上には鳩が群れ居、群れ遊ぶさうである。尚ほ聞く。花屋敷の火をのがれた象は此の塔の下に生きた。象は寶塔を背にして白い》。不思議である。まわりは猛火の中、浅草公園1区から4区は焼けなかったのである。鏡花ならずとも、神仏の力を信じてしまいそうな奇跡である。鏡花はそこにまた、復興への確かな希望と力をみたのである。白い象が出たから、普賢菩薩も登場しなければならない。《普賢も影向ましますか。 若有持是觀世音菩薩名者。 設入大火。火不能燒。由是菩薩。威神力故。》と、鏡花は締める。

『浅草公園――或シナリオ――』は「シナリオ」という言葉が示すように、映画のシナリオを意識しており、「映画として製作、上映されることを意図しない映画の台本」、言い換えれば「映画台本風の小説」で、これを「レーゼ・シナリオ」と呼んでいる。昭和モダンの真っただ中、映画隆盛の時期である。「映画の都」のような浅草を舞台に、龍之介も映画人気にあやかって、新たなる挑戦をおこなったのであろうか。四か月後に自死するとは、とても思われない。
『浅草公園――或シナリオ――』は、映画のシナリオを気取っているので、全体が78のカットで構成されている。
カット1は浅草仁王門。仁王門に吊った火の灯らない大提灯が次第に上り、雑踏した仲店(仲見世)が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。門の前に飛びかう無数の鳩。まさに映画の1シーン。情景が見えてくる。話は浅草寺のシンボル的存在の仁王門(宝蔵門)から始まる。
2は雷門から縦に見た仲店で、正面はるかに仁王門。位置関係がよくわかる。雷門と言えば、今日では浅草の象徴。外国人にも人気のスポットである。雷門は幕末の1866年に焼失し、現在の雷門が1960年に再建されるまで、時おり仮設されたが、恒常的な門は存在しなかった。龍之介が描いた時も門のない状態だった。
3で仲店に一二、三歳くらいの男の子と、その父親にあたる外套を着た男とが登場。7で少年は父親を見失い、父親と思った男ふたり、まったくの別人で、11で当てどもなく歩き始める。12は目金屋の店の飾り窓。人形の首は「お父さんを見付るには目金を買ってかけなさい」と話しかける。14から造花屋の飾り窓。17には「わたしの美しさを御覧なさい。」「だってお前は造花じゃないか?」
18から煙草屋の飾り窓。煙の満ちた飾り窓の煙の中から三つの城。そのひとつの城門には、「この門に入るものは英雄となるべし。」吊り鐘だけ見える鐘楼の内部に続いて、24から射撃屋の店。少年が撃ったコルクの弾丸が西洋人の女の人形に中って倒れるが、後は中らない。少年は渋々銀貨を出し、店を出る。
27では薄暗い中に四角いもの。電燈が灯って「公園六区」「夜警詰所」の文字。この場面から、日が暮れ、夜の情景に入ったようだ。暗くなってきたというのに、少年はまだ父親に会うことができていない。言葉で表現されていないが、少年はさぞ心細いことであろう。28から劇場の裏。ポスタアの剥がれた痕。少年はそこに佇んでいる。逞しいブルテリアが一匹、少年の匂いをかぎながら足元を通り過ぎる。劇場の火のともった窓に踊り子が一人現れ、冷淡に下の往来を眺める。《この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない》が、いつか少年に似た可憐な顔を現してしまう。《踊り子は静かに窓をあけ、小さな花束を下に投げる》。花束はいつか茨の束に変っている。
32では、黒い一枚の掲示板にチョオクで「北の風、晴」と書かれているが、やがて「南の風強かるべし。雨模様」と変わる。33では標札屋の露店。徳川家康、二宮尊徳などと書かれた見本が有り来たりの名前に変り、その向こうに南瓜畠。
34で電燈の影映る池。その向こうに並んだ映画館。少年の帽子が風に飛ばされ、歩く少年の表情はほとんど絶望に近い。ここで出て来る池の名は「大池」であろう。35からはカッフェの飾り窓。久々の飾り窓登場であるが、砂糖の塔、生菓子、麦わらのパイプ(ストローのことだろう)を入れた曹達水のコップなど。夫婦らしい中年の男女が硝子戸の中へ。女はマントルを着た子供を抱いている。カッフェが自動的にまわり、コック部屋の裏。煙突一本。労働者二人がカンテラをともして、せっせとシャベルを動かす。子供はにこにこ首を振ったり手を振ったり。そこへ薔薇の花が一つずつ静かに落ちる。38で自動計算器が出て来て、39でカッフェの飾り窓。少年はおもむろに振り返り、足早に接近してきて、顔ばかりになった時、ちょっと立ち止まって、多少驚きに近い表情。
40で、人だかりの真ん中に立ったセリ商人。手に持った一本の帯。帯の模様は雪片。それがくるくる帯の外へも落ち始める。42でメリヤス屋の露店。婆さんが一人行火に当たり、黒猫が一匹、時どき前足を嘗めている。左に少年の下半身。黒猫はいつしか頭の上にフサの長いトルコ帽をかぶっている。《「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」「僕は帽子さえ買えないんだよ」》。45ではメリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。少年は涙を流し始めるが、気を取り直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩き始める。
46は、かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きな顔ぼんやり浮かぶ。少年の父親らしい。愛情はこもっているが、無限に物悲しく、霧のように消えてしまう。縦に見た往来。あまり人通りない。少年の後ろから歩いて行く男。マスク顔。48になると、斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前に人力車三台。角隠しをつけた花嫁が先頭の人力車に乗り、後に二台続く。
49は「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」と書いた長方形の板。これがサンドウィッチ・マンの前後の板に変る。サンドウィッチ・マンは年をとっているが、仲店を歩いていた都会人らしい紳士に似ている。少年はサンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚もらっていく。50で再び縦に見た往来。松葉杖をついて歩いて行く廃兵一人。いつか駝鳥に変るが、また廃兵に戻る。横町の角にはポストが一つ。51は《「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」》のみ。そのポストは透明になり、無数の手紙が折り重なった円筒の内部を現して見せたかと思うと、もとのポストに戻ってしまう。
 53は斜めに見た芸者屋町。お座敷へ出る二人の芸者が通り過ぎ、少年が歩いて行く。そこへ背の低い声色遣いが一人。どこか少年に似ていないことはない。54は大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。いつの間にか理髪店の棒に変る。55は理髪店の外部。大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。少年はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗く。56では頭を刈っている男の横顔が出て来る。
57ではセセッション風に出来上がった病院。少年が石の階段を登り、すぐ下って来て左へ行った後、病院が静かに近づき、玄関だけになり、看護婦が一人出て来て、何か遠いものを眺めている。膝の上に組んだ看護婦の両手。左の手の婚約指環が急に落ちる。
59で、わずかに空を残したコンクリイトの塀。自然に透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿。塀全体は操り人形の舞台に変り、西洋人の人形がおずおずと。覆面をしているので盗人らしい。室の隅に金庫一つ。金庫をこじあける西洋人の人形。人形の手足についた細い糸が何本かはっきり見える。61で塀は何も現さず、そこを通り過ぎる少年の影。そのあとから背むしの影。
62に入ると、前から斜めに見おろした往来。落葉が一枚。最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って、「生活、正月号」の初号活字。63は大きい常盤木の下にあるベンチ。木々の向こうに大池。少年はがっかりしたようにベンチに腰かけ、涙を拭い始める。背むしもベンチに座り、焼き芋を取り出しがつがつ食べる。64で焼き芋を食う背むしの顔。65で頭を垂れて少年どこかへ歩いて行く。66では斜めに上から見おろしたベンチ。蟇口が一つ残り、誰かの手がそっととり上げる。67ではベンチの上に蟇口を検べる背むし。それがどんどん増え、ベンチの上は背むしばかりで、皆熱心に蟇口を検べている。何か話しながら。
68で写真屋の飾り窓。男女の写真が何枚も額縁にはいって懸かり、その顔が老人に変る。フロック・コオトに勲章をつけた顋鬚のある老人の半身だけ変わらないが、いつの間にか背むしの顔に。
69になると、横から見た観音堂。少年がその下を歩いて行き、観音堂の上には三日月。観音堂の扉はしまっているが、その前で何人か礼拝しており、少年はちょっと近づき、観音堂を仰ぎ、行ってしまう。71に大きい長方形の手水鉢。憔悴し切った少年の顔が水に映る。大きい石燈籠の下部。少年はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。74で、この男。マスクをかけた前の男。しばらく後、少年の父親に変ってしまう。75で石燈籠は柱を残したまま、自然に燃え上がり、下火になった後、開き始める菊の花一輪。菊の花は石燈籠の笠より大きい。76で巡査が少年の肩へ手をかけ、巡査と会話の後、手を引かれたまま、静かに向こうへ歩いて行く。石燈籠に下部にはもう誰もいない。
78で、冒頭登場した仁王門。大提灯が次第に上り、前のように仲店が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。これで、『浅草公園――或シナリオ――』は終了である。結局、父親とはぐれてしまった少年は父親に会うことができなかった。
少年はどのようなコースでさまよったのだろうか。仁王門と雷門の間に続く仲店で父親とはぐれ、いろいろな飾り窓を見ながら、六区の映画街。凌雲閣(十二階)は関東大震災で崩壊したので、ここではまったく出てこない。大池周辺をうろうろしながら、花屋敷の北へ回り込み、浅草花街。登場する病院は浅草寺裏手にある浅草寺病院であろう。1910年の大水害の救護所が出発点。その後、観音堂にやって来て、燈籠や手水鉢は堂前の境内にあるものだろう。少年はこの後、巡査に連れられて、二天門を抜け、浅草馬道町6丁目にある派出所(現在、台東区民会館があるところ)へむかったものと思われる。
『浅草公園』は昼から夕暮れ、そして夜へと、移り変り、少年はどんどん不安になっていく。『トロッコ』(1922年)を連想させるが、線路上を引き返せば良い『トロッコ』の良平少年にくらべれば悲惨である。良平は父母の許に帰ることができた。けれども浅草公園の少年はその後、どうなったかわからない。しかも、良平は現実に存在するものを見てきたが、浅草公園の少年が見るものは幻影であり、あっという間に変化してしまう。『浅草公園』でもう一点気になるのが、「暗」である。ある部分にスポットライトが当てられ、その先に「暗」がある。《この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり》(6)、《人形の後ろにも暗のあるばかり》(25)、《ポストの後ろには暗のあるばかり》(52)、《棒の後ろにも暗のあるばかり》(54)。四か所ではあるが、この繰り返しが妙に印象に残る。明るく光の当たる表舞台の明るさに反比例するかのように深い闇を抱え、必死に何かを探し求め、さまよい、ついにみつからない。そしてそのまま逝ってしまった龍之介を象徴しているような作品である。『トロッコ』から五年。龍之介の中に「暗」は増々大きくなっていたのだろうか。
『浅草公園――或シナリオ――』が書かれた年、龍之介は亡くなり、鏡花も犀星も参列している。もし漱石が生きていれば、参列したであろう。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑥

かれは夕食をとるため、とある飲食店に入る。
《かれは其処でさまざまな人人を見た。それは、当時に流行った小唄をヴァイオリンに併せて弾いたりする卑俗な街頭音楽者のむれであった。かれらは、吉原に近い土手裏の湿め湿めした掘立小屋のような木賃に、蛆のように蠢きながら、朝から晩まで唄いつづけていたのであった。かれがふとしたことから、そこの木賃をたずねたときは、午後三時ころの斜陽が、煤と埃とボロにまみれた六畳の、黒ずんだ畳の上をあかね色に悲しげに射していた。音楽者らは、みなヴァイオリンを一日十銭ずつに賃借りをしていた上に、糸や楽器の破損は凡て自分持ちにしていたのである。》と、話しは「音楽者」である四人の青年に移っていく。ひとりは歳太郎という、かれと同郷の旧友である。
そのような話題も一通り終わると、《十二階から吉原への、ちょうど活動館のうしろの通りの、共同便所にならんで、いつも一台の自動車が憩んでいた。晩の十二時ごろからどうかすると明方の一二時ごろまで、いつも決ったように休んでいる自動車はめったに動いたことがなかった。何時の間にやって来て、いつ動き出すか分らないが、きまったように窓窓にカーテンをおろしながら、街燈と街燈との間の暗みに、にぶい玻璃窓を光らしながら置かれてあった。それに又、ふしぎなことには、ただの一度も運転手の姿を見たことがなかった。》と、話題は転ずる。
《かれは、そこにある柏の並木の黄葉がぽろぽろ落ちる夜なかに、一度、ふとした好奇心から》その自動車をうかがい、とんでもないものを見てしまった。何が起きたかよくわからないうちに、結局、自動車は走り去った。《かれは間もなく、殆ど幽霊のように樹立から樹立を縫いながら公園をあるいていた。かれ自身何の目的もなく、多くの用なしとともに其処のベンチにもたれていたのであった》。そこに例の街頭音楽者たち。演奏が終わると少年が刷り物を売り始める。歳太郎が少年を急がせている。早く売り捌かないと公園廻りの巡査に追立を食うからである。《歳太郎は手早く刷り物を風呂敷包みにたたんだ。そして二人は観音堂の方へ急いで人込みのなかへ隠れて行ったのである。かれはそれを見ているうち、果して一人の巡回の警吏が靴音をしのびながら歩いてくるのを眺めた》。
ここでまた、舞台は変わっていく。
新たな舞台は凌雲閣。通称「十二階」。《或る晩、かれは十二階のラセン階段を上っていった。いつかは昇って見ようと思いながら、一度も昇ったことがなかったのである。かれの予測した古い黴のような匂いや、埃のむれや、至るところに不思議な軋り泣きする階段をおもしろく感じた》。凌雲閣は1890年に完成しているので、この時、20年余経過している。この二年後。凌雲閣は関東大震災で半壊し、結局解体撤去されたので、内部の貴重な描写である。《何かしら彼の好奇心をそそるような寂然とした自分の足音の反射、またかれと同じようにこの塔を見物するために上った少女のむれなどが、かれに奇怪な或る幻像を編み立てさせたのである》。私はウイーンにあるシュテファン大聖堂の南塔を上ったことを思い出した。ラセン階段は塔の上にむかって343段ある。塔の高さは136m余。好奇心にかられて上ったので楽しかったが、それでも確かに疲れた。それに比べれば高さ52mの凌雲閣など、たいした高さではない。
《かれは第九階にまで昇りつめたとき、そこの壁にさまざまな落書が鉛筆や爪のあとで記されてあるのを読んだ。地方人らしい見物の人人がその生国をかいたり、年号を記したりしてあるのがあった。》《「われは笈をみやこに負い来れど、いまわれ破れてむなしく帰る」とか又は「ここよりして、遠く故郷の空気をかぐ。此処よりしてわが願いは空し。」などと記されているのがあった》。どうもこの落書きは犀星が書いたものではないか、と思っていると、《それらの都会の落伍者はかれはかれ自身の上にも感じるのであった。都会を去るもの去ろうとして悩むものが、かれの目にありありと考え出された。》と、続いている。主人公の「かれ」というのは、犀星そのものであるのか。この後へ、《あるいは「明治四十五年十月五日武島天洋。」などと無意味にかいてあるものもあった。》という文章が続くが、よく考えると「明治45年」は「7月30日」までしかなく、「明治45年7月31日」は存在しない。ここからは「大正元年」が始まり、その初日が「大正元年7月31日」である。もちろん「明治45年10月5日」もない。そのようなことを承知で犀星は書いたのだから、「無意味」と書きつつ、何らかの「意味」をもたせていると思われる。
《かれが頂上に昇りつめたとき四囲の窓窓がすべて金網を張りつめられ、そこから投身できないようにしてあった。風は烈しかった。かれはそこから公園一帯の建物と道路と電燈のむらがりとを見おろした。道路には蟻のように群れた通行人のうごめく黒い諸諸の影が、砥のように白い道路の上に、伸びちぢみしながら、あるものは水の上にあるもののように、あるものは鳥のように蠢いてみえた。そこには電燈がいたるところに悲しげに点れていた。あたかも人影と人影との間に、建物と建物とのまわりに煌然として輝いていた。かれはそれを眺めているうちに、恰も射すくめられたような一羽の鴉が舞いおちるように、かれ自身がいま地上へ向けて身を投げることを思いいたった。》と、最上階からの展望が巧みに描写されているが、かれはそこからの投身を考えている。そのような思いにかられる人が多いためか、窓には金網が張り巡らされている。
この後、しばし投身談義が続き、後から昇って来た少女たち。《「わたし此処から飛び下りて見たいわ。死んじまうでしょうか。」と、その少女は、そばにいた最っと大きい少女にたずねた。「え。きっと死ぬわ。あら危ないわ。そんなにそばへ行っては――。」と、うしろから小さな少女の肩を抱きすくめてやっていた。かれは、何気なかったが次第に蒼ざめながら立っていた。このふたりの少女がおれを地上まで連れて行ったら、この階上から、飛び下りたら、そしたら或いは、ひょっとするとおれは……などと悩ましげに考え込んでいたのであった》。これはかなり精神医学者が注目しそうな表現である。
《そのとき初めて少女達はかれの姿をドアと金網との間に見い出した》。そして顔色が変わり、やがて《慌しく階段から下りる音がした》。かれは金網の方へ走って行き、破れたところを引っ掻いてみる。そこへ番人の老人。《「そういう乱暴をなすってはいけません。それを破いてはいけない。」と、凡ての老人がもつ皺枯れた声で言って》、《「だいぶ永くそこにいらっしゃるじゃありませんか。此処は高いところですよ。俗にいう魔が射すというようなこともありますからね。さあもうお降りなすったらいいでしょう。」》《「ずっと下りなさい。わき目をふらずに下りなさい。」と言ってくれた》。
一つの階段ごとに一人の番人がいて、テーブルにむかっている。反対の階段からもぎしぎし昇ってくる足音が微かにしてくる。八階目。《窓外から吉原の灯つづきがぼんやり見えた》。やっと、道路の上に立ったかれ。《その塔はあたかも四囲なる電燈の海にひたっているため、影というものがなく、呼吸をのんで立ちあがっていた》。「影がない」。確かに。犀星はよくぞそれに気がついた。
《かれは、それから間もなく或る不吉な冬の夜の出来事に出会した。いつものように歩いていたとき、公園全体の人込みがみな塔の方へ向いて走ってゆくことと、そのなだれが塔の根の方を黒黒と染めたこととであった。かれは端なくその晩、いつかの電気娘が塔の上から投身したことを聞いたのであった。かれが馳けつけたときは既うその死体は運ばれてしまって、群衆も次第に散りはじめたころであった。かの女が何のために投身したかすら判らなかったが、かれは三四度かの女を見ただけの理由で、或る悪寒と哀惜とを同時にかんじた。しかもあの純白な皮膚がかれの目に前から去ることもなく、いつまでもかれにこびりついていたのである》。この後、歳太郎や少年が登場し、投身した電気娘の話題が出て、その娘が生きて、まだそこを歩いているとか。《かれはそのとき又背後に大きな重い十二層の建物がのっしりと立ちあがっていることを何気なく感じた。射落された鴉のような姿をも、その塔の上から飛下する姿を、一切が衰弱したかれの神経のうえに去来する影をも。》と、文章は結ばれる。
1910年、上京初夜に見た浅草を、10年後の犀星はこのように描いた。断片的に構成された作品は、つぎに紹介する龍之介の『浅草公園――或シナリオ――』を想起させる。そして、この『幻影の都市』につきまとう「死の影」は、1918年から1920年にかけて、日本でも多くの犠牲者を出した「スペイン風邪パンデミック」の余韻のようでもある。それは、パンデミック最中の1919年に発表された『或る少女の死』と共通するものがある。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草⑤

この『妖術』が発表されたと同じ1911年に、秋聲は『黴』で、「今日はどこかへ行こうかな。」と言う笹村に、お銀は何かおいしいものを食べたい、天麩羅か何か。坊だけつれて行きましょうか、「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね」と言わせて、《「中清で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した。》と、中清を実名で登場させている。お銀は天麩羅が大好物である。
中清は1870年、浅草公会堂前に店を出した、江戸前天麩羅の老舗。荷風や久保田万太郎もひいきにしていた。雷神揚げが有名。この作品の当時も「お値段の高い店」だったのだろう。
漱石が、『彼岸過迄』で、浅草の魅力を描き出し、また老舗の店を登場させたのは、『妖術』が発表された翌年である。

『濹東綺譚』(1937年)で荷風は、《聞いたばかりの話だから、鳥渡通めかして此盛場の沿革を述べようか。》と、玉の井の沿革を紹介しているが、その起源は浅草にある。
1918~19年頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路がつくられる際、むかしからその辺にあった楊弓場・銘酒屋などが立ち退きを命じられ、京成バスの通っている大正道路の両側に所定めず店を移した(広い道路というのは、現在の言問通りである)。続いて、伝法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追われて来るもの引きも切らず、大正道路はほとんど軒並み銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ、帽子を奪われるようになったので、警察署の取り締まりが厳しくなり、車の通る表通りから路地の内へと引き込ませられた(なぜ、玉の井が選ばれたのか荷風は書いていない。浅草界隈は空地もなく、やむなく隅田川を越えたのだろう。すでに向島には花街があり、そこへ移転することは困難であり、1914年に白鬚橋がつくられ、そこから伸びる大正道路を進んだ玉の井あたりは、まだあまり都市化されず、空地も多く、浅草から比較的近く、移転先としては適地であったのだろう。玉の井の形成を震災後とする向きもあるが、実際にはそれ以前に起源があることがわかる)。
凌雲閣の裏手から公園の北側の千束町の路地にあったものが、手を尽くして居残りの策を講じたものの、1923年の関東大震災のために中断し、この辺りで営業していたものも、玉の井へ逃げるように移転してきた。こうして、《この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った》。

淺草寺裏手一帯が大きく変貌をとげた頃。1921年、犀星は『幻影の都市』を発表した。
主人公のかれは《悩ましげな呉服店の広告画に描かれた殆ど普通の女と同じいくらいの、円い女の肉顔を人人が寢静まったころを見計って壁に吊るしたりしながら、飽くこともなく凝視める》ような人間で、《かれの住むこの室のそとは往来になっているために、いつも雨戸は閉され》、《昼間は、広告画を始めとして、かれが蒐集したところの総ゆる婦人雑誌や活動写真の絵葉書、ことに忌わしげな桃色をした紙の種類、それからタオルや石鹸や石鹸入れなどが、みんな押入れのなかに収われてあった》。かれは日ぐれころになると、的もなくぶらりと街路へでかけて、いつまででも歩きつづける。歩くのはかれが住んでいる町裏から近い芸者屋の小路。その通りは、《すべての都会にあるような混乱された一区劃で、新建で、家そのものさえ艶めかしい匂いとつやをもっている》。ことに、《その小路に多い二階には、いつも影があって女と男とがうつって》いた。かれにとって堪えがたいものは、《その通りで聞くところの何処から起ってくるとも分らない一種の女の肉声であった。それは何の家家からも二階からも起るらしい艶めかしい笑い声と交って、かれの喉すじを締めつけるような衝動的な調子でからみついてくる》のであった。
ある蒼白い冬の晩、人びとが「電気娘」と呼ぶ女を見かけた。彼女の肩や手に手を触れると、エレクトリックの顫動を感じ、おんぶされた子供は窒息する。いついしか、かれはこの「電気娘」と話したいと思うようになる。ある日、かれは「電気娘」の奇声を聞いた。それは自分を呼んでいるようだったので、その女に訊いてみると《「いえ。わたしではございませんわ。わたしは……。」》と不審そうな顔をする。
《かれはこの巷に於けるさまざまな汚ない酒場やカフェ、飲食店などの併んでいる通りをあるくごとに、それらを包む夜のそらをながめながら、そこの公園にうとうと一と眠りをするか、でなければ、必ず毎夜のように一時間余も同じところに客待ちをしている自動車の側面に、追い立てを食わないばかりの安逸さを、わずかな時間を偸んで眠る人人のむれを見た。または泥にはまり込んで腰から下が水気で腫れた毎夜の乞食が、どこからどう消えてゆくか分らないが、集まっては消え失せてゆくのを見た。かれは昼間も、この騒騒しい公園の池のほとりに置かれたベンチの上に坐っていた。かれが二度目に例のふしぎな女を見かけたのは、この池のまわりであったのである》。この後、ベンチからの光景が延々と続き、とても引用できる文章量ではないが、《そこにある池のなかにいる埃と煤だらけの鯉をながめていた。》《日かげは、これらの高層な建物のうしろにつづく大通りの屋根屋根の上にかがやいているらしく、》《風船玉の破れや、活動のプログラムを丸めたのや、果物の皮、または半分に引きさかれた活動女優の絵はがき、そういうものが岸の方へみな波打ちに寄せられ、あるかないかのさざなみに浮かんでいた。》《かれの正面の××館の看板絵にもなまなましいペンキ絵の女の顔が、するどく光った短刀を咥えて、みだれた髪のまま立っているのであった。》など気になる箇所がある。
どうも、これだけヒントが出てくると、「ここは浅草六区。池は瓢箪池」と確定できそうだ。
そうこうしているうちに《「あの女は電気をからだに持っているんだそうだ。何をするか分らない。得体の知れない女だそうだ。」と言うのがきこえた。にぶい虻のように疲れた声であった。「どういう風に電気があるのだ。そんなものが人間のからだにある筈がないじゃないか。」別な声がいうと、さきの声が再たこれに答えた。》と、しばし会話が続き、かれはしばらくすると、そこのベンチを離れた。《そのとき日の光は、人家の屋根の上にななめにさしていた。冬近く、黄ばんだ夕方ちかい光線は、あらわに二階家の内部や、商店や飲食店の暖簾をそめていた。この巷にきて、これらの光線を見ることは、いつも彼にとっては堪えがたい寥寥とした気持に陥らせるのであった。かれが観音堂の裏あたりへきたとき、うしろから来た男が何か言いたげに、うそうそと影のようにつき纏っていることを見いだしたのである。かれは、若い銀杏の木のしたに来たとき、その男は、低い声で、すれすれに寄ってささやいた。「あなたは電車の切符をおもちでしょうか。実は……。」と言いかけて、かれは藍色した切符を一枚取り出した。「これをあなたに買っていただきたいと思いましてお願いしたいんです。わたしはまだ何も食わないんです。けさから……。」かれは、その男のよれよれになった単衣と古下駄と、この都会を絶えず彷徨しているもののみに見る浅黒い皮膚とを目にいれた。》と、ここで「観音堂」の名が出たので、いよいよもってここは「浅草」に間違いない。かれは切符を断り、銀貨を一枚、この男にくれてやる。それにしても「かれ」は一体何者なのか。暮らしぶりをみれば、銀貨なぞ持っているようにもみえない、まして「くれてやる」ようにもみえないのだが。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草④

荷風の『すみだ川』は、題名通り、隅田川の描写は多いが、浅草に関しては通過地点としての性格が強い。その『すみだ川』が発表された翌年にあたる1910年の5月。新橋駅に上京の第一歩を印した犀星。その晩、犀星は幼馴染の田辺と幸崎に連れられて浅草公園六区の映画館街へ行った。
30年後に書かれた『洋灯はくらいか明るいか』によれば、《田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。(略)江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた》。この後、犀星は十二階(凌雲閣)を見た。そして永い間うごかずに感動していた。《田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた》。そしてさらに犀星は、《今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。》と総括している。30年経ってからの文章ではあるが、活き活きと淺草が語られている。上京初夜、「半分病ましげ」で「半分健康」、清濁併せ持つ浅草は犀星をすっかり虜にしてしまった。鏡花も浅草の魅力に取りつかれたが、犀星も同様であった。犀星にとって、東京は「一目見ればたくさんなところ」ではなかった。すっかり東京に魅了されてしまった。これが、幾多の波乱がありながら、結局、東京に住み着いてしまった原動力である。鏡花にしても、犀星にしても、日本の首都東京の入口は浅草だった。  注:混鬧(こんどう)
犀星は、「上野ステエション」という詩の中でも、上野駅構内の跨線橋の上に立って、《浅草のあかりもみえる橋の上》と綴っている。ふるさとと共に、大都会東京の喧騒もまた犀星を誘いかけるのである。浅草六区は直線で1kmほどしか離れていない。見晴らしの良い跨線橋の上から、浅草のあかりが間近に見え、その中に凌雲閣(十二階)が浮かび上がっていたはずである。「みやこへ」という詩は、《こひしや東京浅草夜のあかり》で始まっている。犀星にとって浅草は東京の象徴のようになっていたのであろう。

犀星が上京初夜、大いに興奮し、すっかり魅了された浅草を、その翌年にあたる1911年、鏡花は『妖術』において描き出した。作品からは浅草の雰囲気が立ち上る。
《むらむらと四辺を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶な姿で、電車の中から、颯と硝子戸を抜けて、運転手台に顕われた、若い女の扮装と持物で、大略その日の天気模様が察しられる。》と、書き出しから鏡花調。なにか電車まで妖艶な感じになってしまうが、日本橋通三丁目で電車を待っていた舟崎一帆、電車から降りて来た件の女に一目惚れ。なのに何故か電車に乗ってしまう。しかも、《標示は萌黄で、この電車は浅草行》。本来、帰宅に利用する上野行きではなかった。「ありゃりゃ」と後悔したものの、気がつけば件の女が電車の中にいて、《ぱっちりした、霑のある、涼しい目を、心持俯目ながら、大きく睜いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟と見た》。「これはラッキー!」結局、一帆はそのまま電車に乗って行く。女は《厩橋、蔵前でも、駒形でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行くように信じられた》。さあ、いよいよ《浅草へ行くと、雷門が、鳴出したほどなその騒ぎ。》とは言うものの、「雷門」は1865年に焼失し、1960年まで再建されなかったから、「雷門」そのものはなかった。
《どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただしさより、仲見世は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女の姿。》と、当時も今も変わらぬ仲見世の賑わい。もっとも、今は外国人の方が圧倒的に多そうだ。折からのにわか雨に女の姿は見えなくなる。
《鼠の鍔をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的に来たように、素直に広小路を切って、仁王門を真正面。濡れても判明と白い、処々むらむらと斑が立って、雨の色が、花簪、箱狭子、輪珠数などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目も触らないで、御堂の方へ。そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂が、雨を蒸して、暖かく顔を包む》。どうやらこの豆屋。鳩のえさを製造しているようだ。
♪ お寺の屋根からおりてこい
豆をやるからみな食べよ
このような歌詞の入った『鳩ポッポ』の歌は1901年に発表されているから、鏡花も自然と豆に関心がむかう。現在、浅草寺の境内に「鳩ポッポ」の歌碑がある。ただし、鳩があまりにも増えすぎ、糞害も深刻化したため、浅草寺境内における鳩の豆やり(餌やり)は2003年に禁止された。
姿が見えなくなった女が突然現れ、一帆と肩を並べる。《なよなかな白い手を、半ば露顕に、翻然と友禅の袖を搦めて、紺蛇目傘をさしかけながら、「貴下、濡れますわ。」》とは、どこかで見たような場面。「雨と傘と女」――荷風の『濹東綺譚』を思い出させるが、大江のさす傘に、「檀那、そこまで入れてってよ。」と首を突っ込んできたのは、お雪という女である。傘の持ち手が男女で違う。《花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ傘の中を歩行いた。「人が見ます。」どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の路へ上るのである。また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然ともう映ろう。》と、この女、いったい何者。大江は結局、お雪の客になってしまったが……。
《門の下で、後を振返って見た時は、何店へか寄ったか、傍へ外れたか。仲見世の人通りは雨の朧に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。》と、結局、女は一帆の前から姿を消す。《それきり逢わぬ、とは心の裡に思わないながら、一帆は急に寂しくなった》。どうやら、一帆はこの女の客にされることはなかったようだ。一帆は、《妙に心も更まって、しばらく何事も忘れて、御堂の階段を……あの大提灯の下を小さく上って、厳かな廂を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠で留まって、何やら吻と一息ついて、零するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布で、ぐい、と拭った。「素面だからな。」と歎息するように独言して、扱いて片頬を撫でた手をそのまま、欄干に肱をついて、遍く境内をずらりと視めた。》と、浅草寺本堂(御堂、観音堂)がよく描写されている。
《大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から、鳩が二三羽、衝と出て翻々と、早や晴れかかる銀杏の梢を矢大臣門の屋根へ飛んだ》。ここで出てきた矢大臣門とは二天門のこと。本堂の東側にある。《胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆の前を、内端な足取り、裳を細く、蛇目傘をやや前下りに、すらすらと撫肩の細いは……確かに。》と、女が再び姿を現す。二人は「観世音の廻廊の欄干」に立ち並ぶ。この時、一帆はこの女に大形の紙幣を一枚、紙入れから抜き取られていたことが後に判明する。
二人はやがて、《御堂の裏、田圃の大金》へ。浅草田圃は浅草寺本堂裏から吉原にかけて広がる田圃。しだいに遊興施設や料理屋などがつくられていき、「吉原遊女」の控え屋などもあった。大金は鳥料理で知られていた。一帆はここで、女が「娘手品」の芸人であると告げられるのだが……。
《フト現から覚めた時、女の姿は早やなかった。女中に聞くと、「お車で、たった今……」》。
『濹東綺譚』の大江同様、一帆も女にカネをかなり使う羽目になったようである。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草③

淺草に住んだのは漱石だけではない。鏡花もまた、1890年に初めて上京して間もない、1891年の一時期を浅草に暮らした。鏡花は上京して紅葉に会うまでの10カ月、湯島1丁目を皮切りに、9カ所ほど転々と居候生活を続けた。浅草田原町の裏長屋にいた時には、300mほどのところに、鏡花が上京した年に開館した日本パノラマ館、さらに200mほど行ったところに、上京した月に完成した凌雲閣(通称「十二階」)が建っていた。とにかく浅草は、1885年に花やしきが開園したのをはじめ、歓楽街として進化をとげていた。まさに東京は、18歳の若者に時間を忘れて夢中にさせる魅力をもっていた。そしてこの期間が後の鏡花の糧になっていたことは確かである。

藤村は「藪入」という詩を、《朝浅草を立ちいでて》の一文で始めている。この詩は1901年に刊行された詩集『落梅集』に収められており、藪入りで浅草の奉公先から、深川のわが家へ帰る様子が隅田川の情景とともに描かれている。私は1900年頃の浅草が描写されていることを期待したが、その願いは叶えられなかった。

荷風の『すみだ川』は、1909年に発表されたが、小山書店版『すみだ川』(1935)の「はしがき」に、荷風は《小説すみだ川に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五六年の時代である。》と記していることから、設定時期を「明治35・6年(1902~3年)」とみることができる。ただし、主人公の長吉は自宅最寄りの浅草(雷門)まで電車を利用しているので、設定時期は1904年2月以降でなければならない。けれどもその辺はあまりこだわる必要はなく、荷風が渡米する(1903年)前に記憶に留めた隅田川や浅草を思い描きながら、帰国後、すでに市電網が形成された東京において『すみだ川』を書いたとみれば良いだろう。
長吉の自宅は待乳山近くにあるので、ひとりで、あるいは幼馴染お糸と一緒に、浅草を訪れている。長吉の叔父蘿月も二人を連れて浅草の奥山へ見世物を見に行ったことがある。
『すみだ川』の二では、まもなく芸者になるお糸と長吉の絡み。今夜暗くなって人の顔がよく見えない時分になったら、今戸橋の上でお糸と会うことにしていた長吉は、まだ日の落ちないうちに今戸橋に。長吉とお糸が落ち合うことになったのは、お糸が葭町の芸者屋まで相談に行くので、その道中をいっしょに行こうとお糸が持ち掛けたのである。芸者になればそう会うことはできない。二人は二歳違いの幼馴染。小走りにお糸がやって来て、二人は《待乳山の麓を聖天町の方へ出ようと細い路地をぬけた》。何年も前からお糸が芸者になることは長吉もわかっていた。けれどもいよいよその時となると、長吉は居たたまれない。けれどもお糸の方は芸者になることを喜んでいるようで、そこがまた長吉を悲しくさせる。《この悲みはお糸が土産物を買う為め仁王門を過ぎて仲店へ出た時更に又堪へがたいものとなった》。と、二人は今戸橋から待乳山の南を通って聖天町に入り、猿若町を抜けて浅草寺の境内へ。南へ折れて仁王門(宝蔵門)をくぐって仲見世へやって来た。この後、南下して駒形堂の前に出て、現在の江戸通りを浅草橋、さらに葭町へ。
長吉の通う学校は神田。今戸から浅草寺の境内を抜け、浅草橋まで出て、柳原通りを西進して神田へむかったと思われる。すべて徒歩である。三に入ると、学校は昨日から始まったが、長吉は気が進まない。約束の日、お糸は帰って来たが、あっという間にすべてが芸者になっており、長吉は《幼馴染の恋人お糸はこの世にはもう生きていないのだ》と思う。朝七時前に家を出たもの気の進まない長吉は、浅草寺本堂横手のベンチに腰を下ろしたが、お参りに現れた若い芸者を見て、急にお糸のことを思い出し、もう居ても立ってもいられない。その芸者の後を追ったが見失い、《長吉は夢中で雷門の方へどんどん歩いた》。ついに長吉は《学校の事も何も彼も忘れて、駒形から蔵前、蔵前から浅草橋……其れから葭町の方へどんどん歩いた。然し電車の通っている馬喰町の大通りまで来て、長吉は何の横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生まれたものだけに道をきくのが厭である。恋人の住む町と思えば、其の名を徒に路傍の他人に漏すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐ろしくてたまらない》。
長吉は卒業を迎える年の正月、風邪からインフルエンザに進み、正月いっぱい寝込んで、やっと外出できるようになって浅草公園へ。
《歩いて行く中いつか浅草公園の裏手に出た》。そこの細い通りの片側には深い溝があって、それを越した鉄柵の向こうにところどころ冬枯れして立つ大木の下に、五区の楊弓店の汚らしい裏手が続いて見える。屋根の低い片側町の人家はちょうど後ろから深い溝の方へと押し詰められたような気がするので、それほど混雑していない往来がいつも妙に忙しく見え、うろうろ徘徊している人相の悪い車夫が一寸身なりの小綺麗な通行人の後ろに煩わしく付きまとって乗車を勧めている。《長吉はいつも巡査が立番している左手の石橋から淡島さまの方までずっと見透される四辻まで歩いて来て、通りがかりの人々が立止って眺めるまゝに、自分も何という事なく、曲り角に出してある宮戸座の絵看板を仰いだ》。
長吉はいつものように、今戸の自宅から待乳山聖天の下を通り、猿若町を抜けて、浅草公園の裏手に出た。しばらく西へ進むと左手に溝があり、そのむこうが浅草公園五区で、楊弓店など遊興施設がある。溝に沿って100m余進むと四辻で、まっすぐ行くと、まもなく交番がある。左折するとすぐ溝に架かる石橋、その道の奥に淡島神社が見える。右折すると50mほどで宮戸座。この道、現在は言問通りの一部になり、楊弓店などがあったところは浅草寺病院。1910年の大水害に際し、浅草寺がその救済のために設立した救護所が原点。芥川龍之介の『浅草公園』にも登場する。荷風は宮戸座の絵看板について詳しく描き、やがて長吉は宮戸座へ吸い込まれて行く。
望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第したばかりか、学校へ行きたくない、学問はいやだ、「役者になりたい」と言い出した。お豊は兄蘿月に説得を依頼しようと思い立ち、小梅にいる兄の家にむかう。話し終えてお豊は人力で。春の夕陽は赤々と向うに傾いて、花見帰りの混雑をいっそう引き立てる。お豊は神仏にすがりたい思いで、人力を雷門前に止めさせ、仲見世を通って観音堂へ。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草②

『道草』には、直接的な浅草の描写はみられないが、『彼岸過迄』では、主人公田川敬太郎が本郷台町の下宿から占い師を探しに浅草まで歩いていくようすが描かれている。
《彼は久し振に下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃と一所に並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た》。敬太郎は上野駅前から、神仏具の問屋街がある稲荷町を通って、門跡の境内を横切り、現在の雷門一丁目交差点のところへ出たのだろう。交差点の対角線に奴鰻がある。
「門跡」とは東本願寺東京別院の通称で、現在は東本願寺から分かれ、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺になっている。明暦の大火(振袖火事、1657年)後に、神田明神から現地へ移転したもので、当時多くの寺院が近辺へ移転してきた。その結果、稲荷町一帯に神仏具製造販売業が発展するようになった。江戸時代には朝鮮通信使の宿舎としても使用された。
奴鰻として出てくる浅草・田原町の「うなぎやっこ」(台東区浅草一丁目10-2)は、店のホームページによると、創業は寛政年間(1789年~1800年、将軍家斉の時代)。ジョン万次郎や勝海舟も来店したとか。
《彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、色々云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。(略)大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎っていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢は固より手痛く打ち崩されてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠の鳥が巣を食っているだろう位の考にふらふらとなる事がある。今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡が暗に働らいて、足が自ずと此方に向いたのである。然しルナパークの後から活動写真の前へ出た時は、こりゃ占ない者などの居る所ではないと今更の様にその雑沓に驚ろいた。せめて御賓頭顱でも撫でて行こうかと思ったが、何処にあるか忘れてしまったので、本堂へ上って、魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。》
漱石は田川敬太郎を、当時でもすでに創業100年を越える老舗奴鰻から、開園間もないルナパーク、さらに活動写真へといざなって行く。老舗の味にも新しいものにも興味を示す漱石の姿がよく表れている。ルナパークは、第六区の中の南西部(現在のROX付近)に、1890年にオープンした日本パノラマ館が前身。これは360度見渡せる巨大ジオラマで、建物も直径36m、全高約30mと巨大な円形をしていた。浅草より半月ほど早く日本初のパノラマ館が上野公園にオープンしている。その後、全国各地にパノラマ館がつくられ、ブームになった。浅草のパノラマ館における、最初のパノラマは、南北戦争の名場面をサンフランシスコから購入したものであった。パノラマの題材は戦争モノが多く、日清・日露戦争の時期とあいまって、戦意高揚に一役買ったようである。パノラマの絵は時々替わるものの、しだいに人気はなくなり、浅草や上野のパノラマ館も1909年に消滅した。『彼岸過迄』に出てくるルナパークは、日本パノラマ館跡地に1910年、日本版ルナパークとしてつくられたものである。本場アメリカのルナパークは月世界への旅と不夜城の夢を併せ持った遊園地として1903年に開園した。浅草のルナパークには、模擬飛行機・回転木馬(メリーゴーランド)が設置され、「光と影」を売り物に、夜間照明も工夫されていた。翌年、失火で全焼したが、『彼岸過迄』が書かれた1912年には再開園している。

金龍山浅草寺の本堂(観音堂)は、1649年に3代将軍家光が造営、5代綱吉が改修。18間四面の大きなお堂に祀られている本尊は1寸8分の黄金の観音像という。現在の本堂は1958年落慶。本堂の裏を奥山といい、江戸時代から見世物小屋、酒を出す水茶屋・料理屋が集まって賑わい、中には風俗営業をおこなう茶店もあった。明治になって、1873年、浅草寺境内は浅草公園として東京市の管轄になった。浅草公園は1884年、7区に分けられた。
第一区は本堂を中心にした区域で、仁王門から雷門まで約130m続く仲見世は第二区と第七区にあたる。雷門は幕末に焼失し、漱石の時代には雷門をみることはできなかった。現在の雷門は1960年に再建されたものである。『明暗』では、手術後の夫の津田を寝かせて、芝居見物に出かけたお延が従妹継子、百合子に会う場面が、《継子は長さ二寸五分幅六分位の小さな神籤箱の所有者であった。(略)お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子に取って、処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けて呉れる無邪気な装飾品であった。》と、描かれている。
第三区には傳法院(浅草寺の総本坊)があり、第四区は林地も交えて庭園として整備され、西には大池(ひょうたん池)があった。浅草にはすでに明治末にローラースケート場があり、有島武雄の弟里見弴もローラースケートに興じたようである。公園の西側は浅草寺の火除地として水田があったが、1886年、埋め立てて第六区とし、第五区の奥山にあった見世物小屋などをここに移した。ここには従来の見世物小屋に加え、電気館・水族館・昆虫館・木馬館、さらにはオペラコミック、活動写真(映画館)と、興行街として発達し、とくに映画とレヴューの街として一世を風靡した。奥山の見世物小屋を第六区へ移転するのとあいまって、第五区には1885年、花やしきと称する遊園地が開園した。花やしきそのものの始まりはペリーが浦賀に来航した1853年で、珍しい草花の展覧会が開かれている。漱石は『それから』に、《この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。あの一図な所はよく、嫂の気性を受け継いでいる。》と、記している。
第六区の北側には1890年、12階建ての凌雲閣がつくられた。これは新潟県長岡の生糸商福原庄三郎がパリのエッフェル塔を見て、建設を思い立ち、イタリア人の設計(東京の上水道設計者でもあるイギリス人ウイリアム・K・バートンの設計との説もある)によって建てられた。赤レンガ330万個を使い、高さ60m、八角形12階の建物。8階まで、日本で最初のエレベーターが取り付けられた。惜しくも関東大震災で崩壊した。『野分』では、神田の清輝館における道也の演説、最後の部分で、《「(略)岩崎は別荘を立て連らねる事に於て天下の学者を圧倒しているかも知れんが、社会、人生の問題に関しては小児と一般である。十万坪の別荘を市の東西南北に建てたから天下の学者を凹ましたと思うのは凌雲閣を作ったから仙人が恐れ入ったろうと考える様なものだ……」》と、凌雲閣が出てくる。
敬太郎は六区から五区、一区とまわり、二区、七区と浅草公園・浅草寺を通り過ぎて来たことになるが、新旧入り乱れ、清濁併せ持つ、不思議な活況が浅草の魅力であったのか、漱石にしてはよく描いている。幼少期を浅草で過ごしたからだろうか。

                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と浅草①

「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちと、隅田川、銀座の順で東京を巡って来たが、いよいよこれから浅草である。
私が初めて浅草を訪れたのは、銀座と同じく高校2年の時。銀座同様、「東京へ来た」と実感できるところであったが、近代的な銀座に比べ、何とも前近代的。けれども、さすが東京だけあって、規模の大きさ、人の多さに圧倒された。
今、浅草へ行くと、外国人観光客が実に多い。浅草を「日本文化の代表」と思われては困るなあ、と思いつつ、確かに日本の庶民の文化の中に「浅草的」要素はいっぱいあるし、自分自身、東京へ来ると、銀座や本郷や丸の内に惹かれながら、後ろ髪をぐいと引っ張られて、浅草へ連れて行かれる。この不思議さが、どうやら漱石の時代からも変わらないようで、鏡花や犀星、そして荷風なども、浅草に惹かれている。

七人の文豪の中でもっとも早く浅草と関りをもったのは漱石であろう。
1870年、3歳の頃、漱石は浅草三間町で養父母と一緒に暮らしていた。現在の雷門二丁目一帯が、かつての浅草三間町である。『道草』には、その時のようすが、《それから舞台が急に変った。淋しい田舎が突然彼の記憶から消えた。すると表に櫺子窓の付いた小さな宅が朧気に彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想することが出来なかった。彼は其所で疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻き挘って泣き叫んだ》。
3歳頃の記憶がこれだけ鮮明にあるものかと思いつつ、漱石ならあったのかな、それともやはりこれは小説なのか。とにかく疱瘡に関しては事実のようで、『吾輩は猫である』九では、《主人は折々細君に向って痘痕をせぬうちは玉の様な男子であったと云っている。浅草の観音様で西洋人が振り反って見た位奇麗だったなどと自慢する事さえある。成程そうかも知れない。ただ誰も保證人の居ないのが残念である。》と、しばし吾輩による主人の痘痕談義が続いている。明治初期にも西洋人が浅草の観音様に来ていたのか。そうであるなら、150年を経過した現代に外国人観光客が訪れるのも、納得である。
浅草における漱石の2度目の住居は、浅草諏訪町4番地。当時ここには扱所があり、養父は第五大区五小区戸長として扱所の棟続きに住んでいた。駒形一丁目交差点で江戸通りを横断し、そのまま狭い道をはいって行くと、まもなく隅田川に沿う道に出る。この辺りが旧浅草諏訪町4番地である。右折して道をさらに南下すると、厩橋詰へ出る。『道草』には、《その時夫婦は変な宅にいた。門口から右へ折れると、他の塀際伝いに石段を三つ程上らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地で、抜けると広くて賑やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。(略)小さい健三が不図心付いて見ると、その広い室は既に扱所というものに変っていた。扱所というのは今の区役所の様なものらしかった。(略)島田の住居と扱所とは、もとより細長い一つ家を仕切ったまでの事なので、彼は出勤と云わず退出と云わず、少なからぬ便宜を有っていた。彼には天気の好い時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す億劫を省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅へ帰った。》と記されているが、この箇所については、『文豪と隅田川』ですでに触れた。漱石はここに6歳(1873年)からの一時期を過ごしたが、家庭環境はめまぐるしく変化し、漱石の人格形成にも大きな影響を与えたといわれている。最大の問題は養父母の不仲で、漱石は1874年に一時養母と共に実家へ引き取られた。
学校開設に合わせて、再び浅草の養父のもとへもどった漱石は12月、第一大学区第五中学区第八番小学(戸田小学校)に入学した。この学校は戸長をしていた養父塩原昌之助も運営に関わっていた。浅草壽町7番地にあったとされるが、実際は壽町11番地・12番地にあったとみられている。この時、養父は壽町10番地、つまり学校の隣りに居を移しており、ここで後妻となる愛人日根野かつ、連れ子れんと共に暮し、漱石はれんといっしょに学校へ通ったとみられる。結局漱石は1876年になって、養母と共に実家へ引き取られ、以後養父と暮らすことはなかった。
駒形どぜうの角を曲ると100m程で浅草消防署がある。消防署の向い側の寿三丁目が旧寿町で、かつて戸田小学校があった。『道草』31には、《書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。「小学校の卒業証書まで入れてある」その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。「何ですかそれは」「何だか己も忘れてしまった」「よっぽど古いものね」》と、卒業証書の話が出てくる。
戸田小学校は1888年、浅草富坂町29番地(北富坂町)に移転し、翌年、精華小学校と改称、今日に至っている(現、台東区蔵前四丁目)。

                         (つづく)
【館長の部屋】 私が「生種実父説」を主張する理由
         ――犀星の実父をめぐって
《後編》

犀星は自分の父親をはじめとする大人たちによって、その出生を脚色され、仮構の人生を歩むことになった。そのような犀星が、他人の人生を脚色して、仮構の世界を描き出して、誰がそれを批判できるであろうか。犀星の復讐の思いが、犀星の小説の原点、エネルギーの源と言うことができるのではないか。
小説家に化けた犀星は、自分の人生を創作し始めた。『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』では、幼少期から青少年期、そして上京後の不安定な時期まで描かれ、その後『弄獅子』(らゐさい)などを経て、『杏っ子』は犀星の人生を振り返るものになった。
これは俳句でも、詩でも表現することができない、小説と言う創作法によってのみ実現できるものであった。光太郎は生涯かけてナマの智恵子を刻みに刻んで彫刻を創り上げていったが、犀星もまた生涯かけて自身の人生を小説として創り上げていった。
小説は創作であるから、登場人物がどのように描かれようが、それは作者の自由である。けれども自伝的小説のように現実が基盤になっていると、モデルにされた人物は、小説の中に書かれたことがすべて真実のように捉えられ、名誉棄損などで問題化することもある。漱石の『道草』によって養父塩原昌之助のイメージがつくられ、養母もずいぶん「ひどい人物」のように描かれて迷惑を被った。
犀星のおいたちに、欠かすことのできない人物。育ての親、赤井ハツ。ハツもまた、犀星の作品、とりわけ『弄獅子』(1936年)によって、じつに悪いイメージがつけられた。
女だてら昼間から友人たちを呼び、肌ぬぎして大酒を飲み、贔屓の役者に狂い、カネをつぎ込む。ヒステリイの手に負えない莫連女。しばしば子どもを打擲し、内縁の夫をも虐待。『弄獅子』には、半狂乱のような養母の姿が容赦なく描かれている。とうとう赤井ハツの人物像は、このように定着してしまった。
はたしてほんとうにハツはそのような人物だったのか。犀星も最初から養母を莫連女に描いていたわけではない。『幼年時代』では、実家へたびたび行く「私」に対して、「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家へ来たらここの家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね」など、穏やかな対応である。
そして、《「これを持っておへやへいらっしゃい」母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた》と言うように、まあ普通の母親像である。
それが『弄獅子』では大きく変化している。「市井鬼物」と呼ばれる作品群の時期、養母もそれにふさわしく描かれなければならなかった。
ハツを、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であったと、文学書や場合によっては研究書にさえ、事実として記されている。現在、「里親」をされている方なら、この表現に憤りを感じるかもしれない。ハツの行為というのは、今の「里親制度」に相当するものである。
ハツは預かる時に幾ばくかの金銭を受取ったかもしれない。しかしその後は自己負担である。経済的にはマイナス。気苦労も絶えない。それにも関わらず、あえて四人の子どもを貰い受けて育てたのは、子どもを育てたいという、抑えがたい「母性」によるものだったのではないだろうか。
私は『評伝』を読んで、この推論が間違っていなかったと言う確証を得た。つまり、ハツには子どもがあり、その子を亡くしているというのである。1882年に兄毛利元造預かりになったのは、その頃、不義の子を宿したためかもしれない。我が子への供養と、抑えがたい「母性」から、最初に貰い受けたテヱは、ハツの姪にあたる。その後貰い受けた三人の子ども、いずれも実家ははっきりしている。
船登も『評伝』で、《乳飲み子から育てる日々の苦労を考えるとき、そこに打算を超えた彼女なりの母性を感じる》《犀星の自伝小説は、ことさら養母を莫連の女に仕立てる露悪的側面がないとは言えない。自伝小説に、とらわれ過ぎてはならないだろう》と記している。
犀星はハツをどのように思っていたのだろうか。それは表に出た事実から類推するしかないが、犀星が初めて上京して以来、何度も金沢に戻っているという事実。
幼い頃から過ごした雨宝院に隣接した養家に、犀星はたびたび戻っている。東京では住処を転々としながらも、金沢には帰る家があった。そして、そこにはハツが居る。まさに「母港」である。
犀星が育った家庭は、父母はともに養父母であり、養父真乗、養母ハツは内縁関係で、正式の夫婦ではない。四人の子どもはみんなもらい子で、血のつながりがない。それでも一つの家族をつくり、家庭というものが築かれてきた。まさに映画『万引き家族』(是枝裕和監督、2018年)を先取りしたような一家であった。巷で言われるように愛のひと欠けらもない家庭ではなかっただろう。このような中で、犀星のハツに対する思いも捉えられるべきだと私は考える。
ハツは犀星の婚儀に出席していない。その後の経過から見て、犀星や小畠家が出席を拒否したというより、ハツの方で遠慮したのではないかと私は思う。
大震災の後、金沢に避難して来た犀星一家。寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツは、一日おきくらいに訪ねて来て、8月27日に生まれた朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの孫、豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
芥川が亡くなった翌年の1928年4月28日、養母ハツが亡くなった。犀星はハツの葬儀に金沢へかけつけた。
もし、『弄獅子』や『杏っ子』に書かれた内容を事実として論じる人たちがいるとするならば、犀星はニンマリと笑うことだろう。
犀星は『我が愛する詩人の傳記』(1958年)で、高村光太郎に関して、つぎのように描いている。この文章を書いた時、犀星はすでに69~70歳に達していた。
《かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)》。1917年頃の光太郎と智恵子。どう考えても、犀星がこのような場面を目撃するはずがない。事実無根、犀星の「仮構」であろう。

「一生つながれている犬でさえ血統はわかるもの」であるのに、それすらわからない犀星。せめて子どもたちにはそのような思いをさせたくない。自分の娘や息子には真実を伝えたい。すべてを語る父親でありたいと、犀星は『杏っ子』の筆を走らせていたはずである。もちろん、『杏っ子』は小説であるから、仮構の世界であり、すべてを事実と捉えるわけにはいかない。けれども、平四郎の目を通して語られる子どもたちへの思いは、犀星の真実と私は捉えたい。

追記)私は生種が犀星の実父であることを疑わないが、「吉種実父説」という通説が、いつ頃から、どのように形成されていったのか、じゅうぶんに把握していない。もし、その根拠に『杏っ子』があったとしたならば、犀星にまんまと一杯食わされたことになる。

                 (完)
【館長の部屋】 私が「生種実父説」を主張する理由
         ――犀星の実父をめぐって
《前編》

文豪室生犀星の実父を小畠生種(なりたね)とする説を唱えるのは、けっこう勇気がいる。それは、室生犀星記念館において記載されている犀星の生い立ち、言わば公式の生い立ちを根底から覆すことであり、多くの学者が論じてきた根拠をも完全に覆すものであり、犀星が「金沢生まれ」の作家ではなくなってしまうという事態まで引き起こしてしまうからである。これは、金沢において、「恐ろしい結果」を招くかもしれない。
けれども私は、「もう、そろそろ真実を明らかにしましょうよ。犀星だって、実父と実母が誰であったのか、わかっていたのだから。」と言いたい。

私が「生種実父説」を主張するのは、
①「吉種実父説」には多くの不自然な点がある。
②犀星自身が生種を実父として確信していた。
③生種を実父とすれば、きわめて自然な流れになる。
おおむね以上三点の理由による。

①「吉種実父説」には多くの不自然な点がある。
犀星の公式の生い立ちは「吉種実父説」にもとづいている。それは、多少の表現の違いはあっても、おおむねつぎのような内容になっている。
――犀星は、1889年8月1日、裏千日町三十一番地に生れた。父は元加賀藩百五十石扶持武士の小畠弥左衛門吉種64歳。吉種には富山県で一家を構え、小学校長を務める一人息子の生種がおり、世間体、とりわけ息子への体裁から、吉種は生後七日目の犀星を赤井ハツのもとに手渡した。こうして犀星は、「赤井ハツ、私生子男、照道」と戸籍に記されることになった。ハツは犀川のほとりにある雨宝院(千日町一番地)住職室生真乗の内縁の妻で、隣りの二番地に住み、カネを受取って、もらい児を養育することを一種の職業とする人物であった。――
室生犀星記念館のホームページを見ても、「明治22年8月1日、金沢に生まれた犀星は、生後まもなく真言宗高野山派、千日山雨宝院にもらわれ、養父母のもとで育ちました。」と紹介され、年譜には「明治22年(1889年)8月1日、小畠弥左衛門吉種の子として生まれる。生後ほどなく雨宝院住職・室生真乗と内縁関係にあった赤井ハツにもらわれ、照道と命名される。」と記されている。
これらの記述にいくつかの不自然さがある。
第一に、吉種と同居していた佐部すて、あるいは池田初のどちらが生母であっても、大きなお腹を近所に隠しようもない。当然、母親が誰か、近所の人は知ることになり、やがて犀星の耳にも入るはずである。ところが、「吉種実父説」をとっている船登でさえ、《犀星生母についての情報が生家や程近い養家周辺に、まったく残っていない》と『評伝』に記している。つまり、犀星は他所から持ち込まれた子であるというのだ。
第二に、生後1週間で生母から引き離して、母乳はどうしたのか、という点である。ハツは乳が出ない。今のように粉ミルクがあるわけではない。少なくとも生後1、2年は生母のもとで育てる必要があるのではないか。
そして、第三に、ある面もっとも不自然な点であるが、どうして父親がわかっていて、母親がわかっていないのか。犀星の出生に関する公的な証明は『評伝』(船登芳雄:『評伝室生犀星』)によると、「出生:明治22年8月1日、父:空欄、母:赤井ハツ、明治29年3月11日石川県金沢市千日町赤井ハツノ子養嗣子トシテ入籍、室生真乗養子室生照道、男、本籍:金沢市千日町二番地」という戸籍のみ。
これだけから見れば、生母は赤井ハツ。父は不詳。母親は実際に子どもを産むので、誰かはっきりしているが、父親がわからないことは、よくある例である。けれども、犀星に関して、このような記載をしている年譜はない。つまり、よくある例とは真逆で、父親がわかって、母親がわからないのである。
不思議なのは、小畠家がもっとも隠したかったのは、「60歳を過ぎた老人が、女性を妊娠させたこと」ではなかったか。その一番隠しておきたかったことが明るみに出て、今日の通説としてまかり通っている。皮肉な言い方をすれば、犀星の研究者たちが、小畠家の秘密を、堂々と語って世の中を歩いてきたのである。ここには、犀星の父親は吉種という「フェイクニュース」を流してまでも守りたかった、「ほんとうの秘密」が小畠家にあったとみるのが、むしろ自然だろう。

②犀星自身が生種を実父として確信していた。
私が犀星自身、生種を実父として確信していたと判断する理由は、
第一に、1929年、犀星が生種の長男悌一に「僕のオヤヂの名前をしらせて下されたく、年譜をつくる必要があるのです」と問い合せていること。実父は吉種とされていたのであるから、知りたいのは実母(生母)のはず。けれども犀星は実父が吉種であることに疑問を感じていたから、探りを入れたのであろう。これに対して、悌一は「実父は吉種」という返事とともに、実母を山崎千賀と伝えている。小畠家において、「犀星は、吉種じいさんと、廓で働く山崎千賀との間に生まれた子」ということは、必ずしも秘密事項でなかったと推察される。小畠家において、むしろ秘密事項は犀星の実父が生種ということであったのだろう。犀星は実母には何の反応も示していない。当然である。
犀星はすでに実母を山崎千賀と特定していた。もっとも早い段階では、初めて上京する以前に特定していたと推定され、犀星が1908年12月に希望して金石へ転勤したのは、金石生まれの千賀が実母であることを把握しており、その確証を得たいと思ったのではないだろうか。あるいは、生母のふるさとで暮らしてみたいという思いもあったかもしれない。
犀星が1943年に発表した《夏の日に匹婦の腹に生まれけり》という句は、廓の女性である千賀から生まれたことを、犀星が知っていたことを示している。匹婦(ひっぷ)とは「身分の低い女」「道理のわからない女」の意味で、下女を指すとも考えられるが、犀星が廓勤めの女性を念頭に置いたことは間違いない。
第二に、私が疑問に思ったことに対して、犀星が『杏っ子』の中で見事に応えていること。
『杏っ子』は犀星の長女朝子をモデルにした作品であるが、同時に小説家平山平四郎を通して、犀星自身の人生をたどる作品でもある。冒頭の章である「血統」には平四郎の出生が書かれている。それによると、
――小畠弥左衛門と女中お春の間に子どもができ、あと二た月で出産。生後一年くらいは手元に置きたいというお春に、弥左衛門はすでに二人の貰い子をしている近所の青井かつに目をつけ、引き渡す算段をつけてきた。弥左衛門はお春のお腹が目立つようになって来ると、外出を控えさせ、買物も自身で出かけた。弥左衛門は出産後も目立たぬよう、寺町裏通りの赤門寺に一部屋借り、お春をそこに住まわせることにした。男子が生まれ、平四郎と名付けられた。一月後、青井の使いが来て、乳母が泊りがけで来ているので、今日からでも引き取ることができると言って来た。お春は引き渡しを拒んだが、弥左衛門に「殺す!」とすごまれて、子どもを引き渡す決心がつく。弥左衛門が死に、長男種夫一家が家に入り、お春は小畠家に出入りすることもできなくなって、赤門寺の一間で暮らし、まもなく亡くなった。――
この記述は、犀星の出生に関して私が抱いた疑問にみごとに応えている。つまり、大きなお腹は、「弥左衛門が買い物などに出かけ、出産後は赤門寺の一間に住まわせる」という設定で解決。母乳に対しては乳母を用意している。つまり、犀星自身も「吉種実父説」という通説に納得できなかったから、納得できる形に脚色したのであろう。吉種が犀星の実父でなければ、実父は生種以外あり得ない。もしそれ以外に実父がいるならば、犀星はもはや小畠家の一員ではなく、室生犀星記念館も小畠家のあった現在地に建つことはなかったであろう。犀星は『杏っ子』を書く時、すでに実父母を特定していたにも関わらず、あえて「通説」に従ってみせたからで、納得のいかないところを補正したのである。
第三に、『杏っ子』の冒頭が、「犀星が生種を実父として確信していた」ことを、何より私に確信を与えてくれる。犀星は『杏っ子』を、つぎのような一文で書き出している。《小説家の平山平四郎は、自分の血統については、くわしい事は何一つ知っていない、人間の血すじのことでは、たとえば父とか母とかを一応信じて見ても、若い父が何時何処で、どういう事情で何をしていたかは、判るものではない、父親という名前の偉大さは、何も彼を匿してしまわなければならなくなる。父親は子供がうまれると急に立派な人間面をするし、どんな正直者でも、うっかりしたことを喋らなくなる。父親のわかい日の匿し事のなかで、或る時に関係した女がいても、それは父親の死んだ後でも判らない、そのくらい一日の行状が血統のうえでどういう不幸な現われがあっても、うわべでは誰も知る事が出来ない、恐ろしい事である》。
この一文がなくても、『杏っ子』という作品は成り立つ。冒頭の一文は明らかに異質である。「通説」をもとに自分の出生を書いていく犀星が、じつは「通説」を信じていない、これから書くことはすべて「仮構」であるという宣言でもある。
自分のほんとうの父親は吉種の長男生種で、一日の行状によって、ある女性との間に自分が生まれた。この若気の至りは、沈黙によってすべてが隠され、その結果、実父母ともに誰だかわからない、不幸な犀星というものが出来上がった。一生つながれている犬でさえ血統はわかるものを。
第四に、自分が生まれた頃の吉種の年齢に達した犀星である。1956年から57年にかけて書かれた『杏っ子』にも「性慾」という言葉はたびたび出てくる。犀星の性欲は「老いて、なお盛ん」であった。さすが小畠吉種の子である。吉種がある女性と肉体関係をもち、犀星が誕生した時、吉種は満63歳。船登芳雄は吉種の実年齢はさらに4歳上だったとしている。つまり、犀星が『杏っ子』を書いていた年齢で、吉種は子をもうけたのである。その吉種の子であるならば、自分もまた、今、どこかの女性との間に子どもをもうけても、何の不思議もないではないか。と、言いつつ、犀星自身が老境に入り、自分が生まれた頃の吉種の年齢に達して、性欲はあっても、子を設けることは難しいと、犀星は実感していたであろう。そうなれば、どう考えてみても、吉種が「実父」であるはずがない。生種が実父であることは疑う余地もなくなってくる。
1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表した。犀星のお相手は金魚であるが、あきらかに若い「ギャル」。その「ギャル」が水槽の中で飼育されている。犀星は書く。《「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ》と。妄想しながら犀星は一人ニヤニヤと執筆していたことであろう。《「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」「するさ。」「あきれた。」》
70歳になっても、文筆の上で犀星の「性欲」は衰えをみせてはいなかった。

③生種を実父とすれば、きわめて自然な流れになる。
犀星の実父を生種、実母を山崎千賀とすれば、出生に関わるすべての矛盾が一挙に解決してしまう。ここで、この二人を両親とする「犀星出生物語」を描いてみたい。すべてが「つくり話」であるかもしれないし、真実が描かれているかもしれないが。
小畠生種は士族の子息が歩む道筋のひとつとして教職に就き、1883年、富山県高岡近郊の作道村(つくりみち村)にある篤親尋常小学校(作道小学校の前身)に赴任した。二十歳の時である。
1885年、生種は金沢の中村珠と結婚。珠15歳。二人の間には、1888年3月、長男悌一が生まれた。ところが、まもなく生種は下田子村の小学校へ転勤。
高岡で大きな遊郭と言えば「下川原町遊郭」。はじめは村の名士に連れられて行かれたのかもしれないが、生種も通うようになる。もともと生まれ育ったところは西廓に隣接する。廓はけっして遠い存在ではなかった。1880年の金沢西廓・石坂大火(315戸焼失)の時、生種はそれを間近に見ていた。
作道村から下川原町遊郭まで、およそ8キロ。下田子村も氷見街道沿いで高岡に直結しており、8キロくらい。当時は子どもたちでも片道4キロ以上を歩いて通学したくらいだから、歩けない距離ではない。
そのうち生種は、茶屋「勇木楼(『評伝』では遊亀戸と記載、下川原町百七番地)」で芸妓の千賀と親しくなった。千賀は1868年6月13日、金石(宮腰)に林宇兵衛長女として生まれ、「勇木楼」を営む山崎忠四郎の養女として入籍し、1887年6月には勇木楼所在地に分家している。珠より二つ年上である。
そして1888年の秋、ついに千賀は生種の子を身ごもった。妊娠を知って、生種も千賀もあせった。生種はやむなく父吉種に相談した。すべてを察した吉種は、当時すでに二人の子どもを引き取って育てていた、近くに住む赤井ハツに目をつけ、「老いぼれの身で恥ずかしながら・・・」と、自分の不始末で子どもができ、世間体もあるので、引き取ってくれるよう依頼した。
子どもの処置は決着し、千賀に関しては、吉種と山崎忠四郎などとの間で話し合いがもたれ、その後の処置が決まり、それに絡むカネは吉種が負担することとなった。千賀は年が明けて1月、横田村三百三番地に転居した。横田村というと遠い感じがするが、千保川をはさんで高岡に隣接し、下川原町のすぐ近くである。
5月、生種は太田村の小学校に転任した。雨晴海水浴場に近く、ここも高岡まで8キロ程。8月1日、犀星が生まれた。届出が遅れることは、それほど珍しくなかったので、「父不詳、母ハツ」と出生が届けられたのも、かなり経ってからであった(あるいは、出生の報を受けて、早い時期にハツが届けを出したかもしれない)。
ハツは乳が出ないし、鉄道もない。千賀は横田村で犀星に母乳を与えながら、しかるべき時まで暮らすことになる。偶然なのか、本人の希望によるものかわからないが、翌1890年4月、生種は千賀母子が暮らす横田の小学校に赴任した。
この段階において、珠が千賀の存在も、子どもができたことも知らないはずがない。おそらく、「吉種が高岡へ来て、千賀との間に犯した不始末」という言い訳を、疑いをもちながらも承知せざるを得なかったと思われる。
1891年、千賀は乳離れするようになった犀星を連れて金沢へ戻り、犀星を正式にハツに引き渡し、自分は上新町に住むようになった。高岡から金沢まで、倶利伽羅峠の区間を除いて、乗合馬車を使ったのではないだろうか。勇ましい乗合馬車が登場する鏡花の『義血侠血』が書かれたのが1894年である。
千賀は過去を捨てて、金沢で再出発し、一度も犀星に会うことはなかった。それが宿命と、大きな決断をしたのであろう。
こうして、「父吉種、母不詳」という不自然な通説と異なり、戸籍上は「父不詳、母ハツ」という一般的にみかける記載になった。自分の不始末を一身に背負ってくれた父吉種に顔向けできない生種は、実家への足は遠のき、父が亡くなると、それに合わせたかのように家族を連れて金沢へ戻って来た。
1918年、犀星の婚儀が小畠家でおこなわれた。犀星の妻となるとみ子を紹介したのは生種の長男悌一であり、小畠家での婚儀に積極的に動いたのが珠であった。それは珠がすでに、犀星の実父が生種であることを確信していたからであろう。
生種と結婚してすでに30年余。四男三女に恵まれ、それなりの安定した生活を得て、夫を許し、犀星を受け入れる余地が珠にはできていた。犀星が多少なりとも有名になっていたことも後押ししたかもしれない。
珠は翌1919年、49年の生涯を閉じた。時期的にみて、私はスペイン風邪による死ではないかと推理している。
近年、犀星を「高岡生まれ」と書くものがみられるようになってきた。どこでどのように生まれようが、犀星は犀星であり、金沢で育まれてきたことは確かである。


                 (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑭

1945年8月15日、戦争が終り、荷風は11月5日の『断腸亭日乗』に《銀座を歩むに店窓に友禅染の古着を陳列し英語にて米人を歓迎する由を書し、日本字にて日本の方は御遠慮下さいとしるしたる店あり。》と書き、犀星は1957年、連載中の『杏っ子』で、《終戦になった》と宣言し、《勝った人間は日本人の手から腕時計を剝ぎ取り、外套を脱がせ、ゆびわをもぎとり、白昼日本の娘を強姦し、自動車は子供達を轢き殺して行った。》と書いた。
戦争は終わったが、杏子とその夫となった亮吉の戦いの日々が『杏っ子』で描かれていく。亮吉は飲酒家で酒癖が悪かった。ある日、杏子は言い争い中に亮吉に殴られ、家を飛び出して新橋駅で父平四郎と落ち合う。この後、二人は銀座の江安餐室へ行き、往来の見える窓の円卓に向い合い夕食。さらに二人は帝国ホテルにむかう。
ある日、杏子はデパートの広告写真の金を取ることができなかった亮吉といっしょに、銀座から白山町の家まで二時間かけて歩いて帰った。帰りのバス代がなかったであるが、銀座の描写はない。この後、平之介の結婚相手となる、りさ子と銀座へ来た杏子が、平四郎のカネでりさ子の言うままに物を買う場面なども登場するが、ここでも街の描写などない。さらに、一時、杏子と亮吉は平四郎のもとで生活するが、やがて亮吉に平之介まで加わって庭を破壊する場面があり、《亮吉夫妻が本郷の方に越してから、》《杏子はまだ平四郎の家から、本郷の亮吉のもとに通うて》と二回「本郷」が出てくるが、杏子の足は次第に本郷から遠のいて、二カ月程経ったある日、杏子は友達と夕食をとるため新橋で下りた。《土橋をわたる時に、夕映えの川波がうつくしく、往来の若い男達のズボンは、どの人も折目がきちんとし、杏子は爽かにそれを見過した。橋を渡りきると、おなじ川べりを一人の男が此方向きになり、少しうつむきかげんに歩いてきた》。その男は亮吉であった。《「君は盛装でこれから夕食だが、おれは土橋を渡って新橋の階段をのぼって行くんだが、夕食も盛装も橋の上から投げ込んで了いたいくらいさ」》と亮吉。杏子は亮吉にカネをやり、川べりを左右に別れた。新橋駅日比谷口を出ると、すぐ土橋。杏子は銀座へ行くところだろう。土橋を渡って右折して川沿いに歩いているところで、銀座方向から来た亮吉と出会った。秋聲の『縮図』で登場した「全線座(作中、前線座)」があったあたり。まだ川の上に高速道路が建設される前の光景であるが、銀座は描写されていない。

銀座と言えば、私は『銀座カンカン娘』という歌を思い出し、時どき口ずさむ。なぜかこの歌、子どもの頃から好きだった。きっと、「銀座」という言葉が入っていて、憧れの大都会東京を思い描かせたからであろう。

♪ あの娘可愛いや カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘

この歌は、戦後まもない1949年に公開された『銀座カンカン娘』という映画の主題歌。高峰秀子と、今また多くの人が知るようになった笠置シズ子が主役で、高峰秀子が歌っている。

♪ 雨に降られて カンカン娘
傘もささずに 靴までぬいで
ままよ銀座は 私のジャングル
虎や狼 恐くはないのよ
これが銀座の カンカン娘

重苦しい戦争が終った開放感が伝わってくる歌詞だが、やはり戦前から繁華街はキケンな一面ももっている。

♪ 指をさされて カンカン娘
ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家がなくても お金がなくても
男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘

銀座カンカン娘は、何やら荷風の小説に出てきそうな女性。

♪ カルピス飲んで カンカン娘
一つグラスに ストローが二本
初恋の味 忘れちゃいやよ
顔を見合わせ チュウチュウチュウチュウ
これが銀座のカンカン娘
これが銀座の カンカン娘

カルピスがこの歌にどうして登場したのかよくわからないが、確かにモダンな感じが銀座のイメージにぴったりくるような。カルピスそのものは1919年に発売が開始されており、『銀座カンカン娘』が世に出た時、ちょうど発売開始30周年の節目の年。ほぼ、発売当初から「初恋の味」というキャッチフレーズが使われている。甘酸っぱいカルピスの味が何となく初恋の味のような。「一つグラスに ストローが二本」などという体験を、銀座のパーラーでやってみたいと思うが、どうも今からではムリなようだ。まあ、私の初恋は乳香とともにあるので、あながち、遠からず。

1956年11月28日。荷風は『断腸亭日乗』に《旧作『つゆのあとさき』の映画を六区松竹映画館に見る。銀坐街上及びカフェーの空気映画に現れず。全体に面白くなし。映画技師は松竹のものどもなり。》と記している。足しげく銀座に通った荷風も、市川に住むようになって足を運ぶのは浅草であり、この後はやはり、『文豪と浅草』を書かなければならないだろう。

                          (完) 

【館長の部屋】 文豪と銀座⑬

秋聲の『縮図』とともに銀座の歴史をたどり、戦前、それも事実上、戦中と言ってよい時代までやってきた。秋聲は『縮図』において、良き時代の銀座を振り返りながら、密かに軍部の力が強まってきた時代に嫌悪感を示そうとしたのだろう。『縮図』は、そのような時代の、銀座資生堂から始まる。
《晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。銀子と均平とは、しばらく二階の片隅の長椅子で席の空くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文した。》と、当時も待つ場所は長椅子のようであるが、資生堂パーラー、現在はディナーAコース8500円。ちょっと、考えてしまう。
《パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草をふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でつい嚏をしたり、ナプキンの紙で水洟をふいたりしながら、パンを毮っていた。》と、資生堂パーラーが興ざめしそうな記述だが、均平は《「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」》と、冷気から何かを感じ取っているようだ。畳みかけるように均平は、《「幕末には二年も続いてひどい飢饉があったんだぜ。六月に袷を着るという冷気でね。」返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端に立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。》《もちろん車は二台や三台に止まらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台と駆け出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先が閊えるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはことに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった》。当時の銀座の一端が、克明に描写されている。
この後、秋聲の関心は銀座の裏通りへむけられる。秋聲はレストランで洋食を食べ、パーマをかけて洋装の女性と歩くのも好きだが、お座敷で和食を食べ、日本髪に着物姿の女性と歩くことも好きな「両党づかい」である。
《この裏通りに巣喰っている花柳界も、時に時代の波を被って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤の可笑しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育まれて来たさすが時代の寵児であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎などとともに日本の矜りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興の蔭、時局的な統制の下に、軍需景気の煽りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった》。実にまわりくどい書き方で、何を言いたいのかよくわからなくなってしまうが、新橋花街(花柳界)は、戦時中になっても、それなりに潤っている。このようなご時世、国民には「贅沢は敵だ」とか言いながら、政界や軍部の「お偉方」は芸者をあげて、銀座(新橋花街と言っても、実際は銀座から築地にかけての地域)あたりで宴会を開いて、贅沢三昧している。何かそのようなことを悟られないように言おうとしているようである。
《「今夜はとんぼあたりで、大宴会があるらしいね。」均平は珈琲を搔きまわしながら私語いた》。「とんぼ」がどこにあったか確認できないが、戦時下の銀座界隈の一面を垣間見ることができる。
《二人が席を立つと、後連がもうやって来て、傍へ寄って来たが、それは中産階級らしい一組の母と娘で、健康そのもののような逞しい肉体をもった十六七の娘は、無造作な洋装で、買物のボール箱をもっていた。均平は弾けるような若さに目を見張り、笑顔で椅子を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子のことが思い出されて、暗い気持になるのだったが、同窓会の帰りらしい娘たちが、嬉しそうに派手な着物を着て、横町のしる粉屋などへぞろぞろ入って行くのを見たりすると、その中に加世子がいるような気がして、わざと顔を背向けたりするのだった。》と、二人は資生堂を後にするが、すでに戦時下で、太平洋戦争前夜という時期であるが、まだまだ若い娘たちのおしゃべりや笑顔があったのだと、世相の一面をうかがうことができる。
この後、《「いかがです、前線座見ませんか。」映画狂の銀子が追い縋るようにして言った。》と、どうやら均平と銀子の足は新橋の方に向い、博品館のところで右折すると、まもなく右手に「全線座」という映画館がある。現在の銀座8丁目7-13で、1938年に開館。作品中には「前線座」と表記されている。結局、二人は映画を観るのはやめて、早く帰って風呂へ入ろうと、電車に乗って帰宅した。
                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑫

犀星が田端から馬込に移り住んだのは1928年である。終生の地となった馬込も、田端同様、武蔵野台地の東端にあり、全般的に起伏に富み、「馬込九十九谷(つづらだに)」と呼ばれる。海抜は25メートル程度までで、東端部の山王台の崖下に沿って鉄道が通り、大森駅がある。田端と同じく、馬込も「都心に近い田舎」であった。大森駅へ出れば、《銀座へ十八分、田端へ四十五分》(馬込谷中引っ越し当初の小畠悌一宛手紙)。大森駅は山王台の発展にともない、1913年、西口(山王口)がつくられており、14年から東京・高島町(横浜)間に電車線の京浜線が走り、犀星が馬込に転居した年には赤羽まで延長運転された。
昭和に入ってからの大森駅周辺の魅力は、何と言っても、「プチ都会」。「不二家レストラン」、「資生堂パーラー」をはじめ、飲食店、喫茶店、酒場、映画館、美容室、ホテル、銀行などが建ち並ぶようになった。1929年には白木屋デパートの大森分店が開業。大森駅構内には「大森倶楽部」という会員制の倶楽部があり、山王の高級住宅地に住んでいる華族、政治家、財界人など富裕層の社交場になっていた。
犀星は大森駅前のようすを、『馬込随筆』(1936年)で、《停車場付近は他のごみごみした埃っぽい光景と異うて、銀座あたりの大商店の支店が軒を並べ、建築などもモダンで小奇麗で整頓的》と、記している。犀星が朝子を連れて、正月に食べるケーキを買いに来たという「不二家レストラン」は、大森駅西口の向かい側にある天祖神社の横、現在野口ビルが建ち、一階に上島珈琲が入っている。
大矢幸久は『昭和戦前期の東京郊外における都市化と景観表象――馬込文士村を事例にして――』で、犀星と竹村俊郎の日記から、外出先とその頻度を調べている。すべてを日記に書き込んだとは思われないが、傾向を知る手がかりになる。それによると、馬込でも大森駅に近い谷中に住んでいた犀星は、1928年11月から1931年5月までの日記で、大森25回、銀座17回と、この二カ所が群を抜いており、新橋・上野・丸の内が各4回、田端・新井宿・大森海岸がともに3回で、地元の繁華街と都心をうまく活用しているようであるが、これも大森が銀座の出張所のようになったからで、犀星の銀座志向は強かったと思われる。にも関わらず、荷風や秋聲のように銀座を描くことはあまりなかった。

以上、藤村が子どもの頃に住んだ明治前半の銀座から、昭和モダンの銀座までをみてきたが、秋聲の最後の作品、そして「未完」の作品である『縮図』(1941年)には、近代の銀座を総括するような文章がある。均平とは三村均平、この作品の主人公である。
《ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦の舗装が出来ており、馬車
がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈に陣取って自由民権の論陣を張り》。馬車がレールの上を走るというのは、鉄道馬車のことで、銀座には1882年に登場している。自由民権運動は国会が開設された1890年までを一つの区切りとみることができる。銀座界隈には大小およそ30の新聞社が活動していた。1892年に初めて上京した秋聲は、しばらくの間、花椿通りを外堀通りへ出た辺りにある八官町に通って、消火器の部品をつくっていたので、当時の銀座をよく知っている。
均平の年齢ははっきりしないが、「日蔭に居りて」の「三」に、《今から十年余も前の四十前後には、》との一文があるので、1941年当時、50歳前後。生まれたのは1890年前後と推定される。銀座を鉄道馬車が走ったのは、1882年から1903年までであるから、これなら、少年期に鉄道馬車を見て不自然ではない。
《洋品店洋服店洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地で縞の綿服に襷がけのボオイが曹達水の給仕をしており、》と、出てくるのは資生堂で、均平と銀子はこの資生堂の食堂で食事をしているのだが、ソーダ水を売る、いわゆる「資生堂パーラー」ができたのは1902年である。資生堂は漱石も『それから』で登場させている。
《手狭な風月の二階では、同じ打份の男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。》と出てくる「風月」は「凮月堂」のこと。銀座6丁目にある。創立は1753年だが、1869年にはパンの販売を始め、1877年にはフランス料理の営業も始めている。
《尾張町の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭って、慶応ボオイの金持の子息や華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。》と、ここで銀座ライオンが登場するが、『仮装人物』で中洲に待合を営む小夜子を、銀座ライオンにおける最初の七人組美人の一人に設定している。この銀座ライオンが出来たのは1911年で、『縮図』の30年前で、「そう遠いことではなく、立派に遠いじゃないですか、秋聲さん。」と、つっこみを入れたくなるが、美空ひばりが亡くなって36年ほど経つのに、昨日のことのように思われる自分自身がいるのだから、前言撤回である。
《そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草蓬々たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌を一新しようとしていた》。「そのころ」とは「いつ頃を指すか」と、国語の試験問題のようであるが、秋聲の作品は常に「いつのことか」気にかけていなければならない。「そのころ」とは銀座ライオンが出来た1911年頃であろう。1903年から走り始めた市街電車は、その年のうちに銀座も走るようになったが、路線拡張に努め、東京市営になった1911年には、営業キロが100kmほどになっていた。丸の内一帯の開発は1890年頃から、三菱によって始められ、しだいに煉瓦街が形成されていき、いわゆる「一丁倫敦」と呼ばれるようになっていった。1914年には東京駅が開業し、やがて駅前に、いわゆる「一丁紐育」が出現する。
《銀座にはうまい珈琲や菓子を食べさす家が出来、勧工場の階上に尖端的なキャヴァレイが出現したりした。》と、秋聲の文章は続くが、ここで登場した「キャヴァレイ」、今では一般的に「キャバレー」と書くが、気になるところだ。キャバレーは戦後に誕生したように書いてあるものもあるが、どうやら戦前からあったようだ。尖端的なキャバレーがつくられた勧工場は、銀座8丁目、新橋の目の前に1899年開業した帝国博品館勧工場で、漱石の『それから』にも登場する。デパートの出現によって客足が遠のき、撤退したテナント部分などを活用して、榎本正という「一大カフェー王」が、銀座パレスというカフェを出店した。カフェではあるが、ダンスホールなども具え、キャバレーの形態になっていたのだろう。戦後を迎えることができなかった秋聲がキャバレーという言葉を使っているのだから、戦前においてキャバレーがあったことはあきらかで、社交ダンスが好きな秋聲も利用したことがあるのだろう。結局、勧工場の方は1930年に営業を終了したが、榎本は1935年、銀座4丁目に、キャバレー美松を開店させている。戦後の1964年、当時観光会館になっていたビルを福富太郎が買収し、キャバレー銀座ハリウッドを開店させ、1978年、ビルは全面的に建て替えられて、現在の「おもちゃの博品館」として、かつての勧工場「博品館」の名称が復活した。
秋聲は、「尖端的なキャヴァレイ」のことを書いた後、《やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨張するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。》と、続けている。勧工場は乱立や商品内容の問題などもあって、明治期のうちに衰退していったが、デパートメントストアがそれにとって替るようになり、銀座でもすでに述べたように、1924年に松坂屋、1925年に松屋、1930年に三越が開店し、銀座3丁目から6丁目の間、通りの東側に三つのデパートが建ち並ぶようになり、勧工場の老舗帝国博品館も銀座三越が開業した1930年に、その幕を閉じている。今、そのデパートも経営悪化を招き、大都市圏周辺の比較的人口の多い都市や県庁所在都市などにあったデパートも、つぎつぎに姿を消すようになっている。そして、デパートに替って、成長してきた郊外型の大規模商業施設が、まさに地元の商店街を寂れさせると言われ、デパートまでも脅かしている。その大規模商業施設も乱立で熾烈な集客競争をおこなっているが、テナント店が軒を連ねる周回型商業施設の原型は、皮肉にも勧工場である。
                         (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑪

《何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。》と書いた荷風は、5年前、秋の彼岸も過ぎた頃、東京府下の町々が市内に編入されたことを祝って、花電車が銀座を走ったと、聞き伝えを続けている。この編入がおこなわれたのは1932年で、実際は「4年前」になるが、東京市は15区から35区に拡大した。この記念に日比谷公園で東京音頭と称する公開舞踏会が挙行されたが、荷風はここで「舞踏会論議」を展開する。帚葉翁とも論じている。そして、《こんな話をしてゐると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の聲が、其頃は何となく耳新しく聞きならされた》。尾張町(銀座4丁目)交差点角の朝野新聞社跡に時計台をもった服部時計店ができたのは1895年。その店舗ビルも1932年に建て替えられたので、時計台の鐘も荷風の耳には「何となく耳新しく」聞えたのであろう。
ここで帚葉翁は震災前まで八官町(銀座8丁目)にあった小林時計店の鐘の音が新橋八景の中に数えられていたことを語り出す。そもそも服部金太郎が時計に興味をもったきっかけは小林時計店である。1911年頃、小林時計店の時計台の鐘の音を、帚葉翁と違って荷風は《毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら》聞いている。
荷風と帚葉翁二人が行きつけの萬茶亭。《萬茶亭の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを当込んで円タクが集って来る。》と書いた荷風は、この付近の酒場でその名前を記憶しているものとして、《萬茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、此方の側にはムーランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また萬茶亭と素人屋との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなどと名づけられたものがあった。》と、貴重な情報を残している。
そのような界隈。《服部の鐘の音を合図に、それ等の酒場やカフェーが一齊に表の灯を消すので、街路は俄に薄暗く、集って来る円タクは客を載せても徒に喇叭を鳴すばかりで、動けない程込み合う中、運転手の喧嘩がはじまる。かと思うと、巡査の姿が見えるが早いか、一両残らず逃げ失せてしまうが、暫くして又もとのように、その辺一帯をガソリン臭くしてしまうのである。》と、当時の深夜の喧騒が伝わってくる。
1934年に新橋まで開通する地下鉄。1932、3年頃、銀座通りは地下鉄工事真っ最中である。《この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのづから芝口の方へと導かれるのであった。》と、省線(現在のJR)すぐ脇の土橋か、その隣の難波橋を渡って省線のガードをくぐる荷風と帚葉翁。
ガードの《暗い壁の面に、血盟団を釈放せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった》。その下に《いつも乞食が寝てゐる。》と荷風。俗に言う「血盟団事件」が発生したのは1932年。ガード下を出ると歩道の片側に「栄養の王座」など書いた看板を出し、四角な水槽に鰻を泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田本郷町の四つ角近くまで続き、カフェー帰りの女給や近所の遊び人らしい男が大勢集まっている。
荷風はこのような界隈の情景描写をさらに続ける。《裏通へ曲ると、停車場の改札口と向い合った一條の路地があって、其両側に鮓屋と小料理屋が並んでゐる。その中には一軒わたくしの知ってゐる店もある。》として、焼鳥金兵衛の話題に。そして、《この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねてゐたが、銀座通にカフェーの流行り始めた頃から、次第に飲食店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフェー帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯を消さずにゐる。鮨屋横町とよぶ人もある。》と、さすがに荷風は詳しい。
続けて荷風は《わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。》と書いている。夜も出歩くのは、少なくとも都会では昔から当たり前と思ってきた私であるが、どうも違うらしい。荷風は《吉原遊郭の近くを除いて、震災前東京の町中で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外はなかった。》と書いており、どうも「朝帰り」なるものは「昭和に入ってからの風習」であるようだ。
どうしてそうなったのか。帚葉翁の言葉を荷風は紹介している。つまり、《現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと》言う。要は帰宅の足の確保が前提になるが、しだいに帰りが遅くなるにつれて、帰宅の足も遅くまで伸ばされる相乗作用である。そして何と言っても、深夜に及ぶ活動は、電燈の普及と電力の安定供給なくして実現しない。
このような現代の風俗を矯正しようと思うなら、《交通を不便にして明治時代のようにすればいゝのだ思います。そうでなければ夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。》と帚葉翁が述べていると、荷風は書いている。やはり、明治の頃には深夜まで遊びまわることは、あまりなかったようだが、帚葉翁の提案するごとく、今ではタクシーは深夜割増料金を設定しているが、それでも外出は深夜に及び、一旦つくられた風俗習慣はなかなか変えられるものではなさそうだ。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑩

1932年5月15日、いわゆる「五・一五事件」が発生したが、荷風はこの時の様子を、《霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月であった。わたくしは丁度其夕、銀座通を歩いてゐたので、この事を報道する号外の中では讀賣新聞のものが最も早く、朝日新聞がこれについだことを目撃した。時候がよく、日曜日に当ってゐたので、其夕銀座通はおびたゞしい人出であったが電信柱に貼付けられた号外を見ても群集は何等特別の表情を其面上に現さぬばかりか、一語のこれについて談話をするものもなく、唯露店の商人が休みもなく兵器の玩具に螺旋をかけ、水出しのピストルを乱射してゐるばかりであった。》と描いている。日本史の教科書に出てくる事件も、民衆の目からはこのようであったのだろうか。荷風は、帚葉翁が毎夜尾張町の三越前に現れるようになったのは、この頃からと記している。
荷風は当時を振り返って、《銀座通の裏表に處を択ばず蔓衍したカフェーが最も繁昌し、又最も淫卑に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。いづこのカフェーでも女給を二三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いてゐる女達は必ず二人づつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘ったりする。商店の飾付を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。わたくしは若い女達が、その雇主の命令に従って、其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店が復興したような思をなした。》と描いている。
さすがに現地をナマでつぶさに観察している荷風だけあって、実に詳しい「現地レポート」である。「文豪の中の文豪」たる漱石でも書くことができない、ひょっとしたら漱石先生、「このようなところへは、教師たるもの立ち入るべからず」と寄り着こうともしなかったかもしれない。同じく大学で教えた漱石先生と荷風先生であるが、「みんな違って、みんな良い」。
荷風は「其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て」と記しているが、閉鎖的で自由がなく、時には飢饉で生活にも窮する田舎から、憧れの大都会へ出て来て、見せかけではあるかもしれないが、うたかたの自由を得て、ほんとうに嬉しくて高揚していた少女たちも少なからずいたであろう。しかしそこは荷風である。《いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。》と書いている。
五・一五事件から銀座の賑わいへ。「エログロ、ナンセンス」の時代を描き出す荷風。「軍国主義は牙をむいて、恐ろし気にやって来るだけではない」と、荷風からの警鐘のようにも思われる。《月島小学校の女教師が夜になると銀座一丁目裏のラバサンと云うカフェーに女給となって現れ、売春の傍枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑した。それは矢張この年昭和七年の冬であった。》と、荷風が紹介する事件。「91年前の事件」では済ますことができない現実味をもっている。
1927年、浅草・上野間に日本で最初の地下鉄が開通し、引き続き新橋へむかって工事が進められた。1931年には神田、そして1932年12月24日には京橋まで開通した。荷風は、《地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひゞきわたり、土工は商店の軒下に處嫌わず昼寝をしてゐた。》と、地下鉄銀座線の工事の様子も描いている。銀座線は1934年、新橋まで開通した。
工事は基本的に既存の道路を地下へ掘り進んでいく。路面電車や自動車などの通行を確保しながらの工事である。私も1964年の東京オリンピックにむけて進められる地下鉄工事に、大都会の喧騒と混雑、そして妙に高揚感をおぼえた思い出がある。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑨

『濹東綺譚』は、「濹東」つまり隅田川の東のことを書いたのだが、付録のような「作後贅言」に、《小説の命題などについても、わたくしは十餘年前井上啞々子を失い、去年の春神代帚葉翁の訃を聞いてから、爾来全く意見を問うべき人がなく、又それ等について諧語する相手もなくなってしまった。》と書き出して、神代帚葉※との思い出を記しているが、それにまつわりつくのが銀座である。

※神代帚葉翁(こうじろそうよう):「校正の神様」とよばれた。荷風より4歳ほど若い。1935年3月30日、千駄木の自宅で突然倒れ死去。3月31日付の『断腸亭日乗』には、《神代帚葉昨夕心臓麻痺にて没せし由。年五十三なりといふ。いつもの諸子五拾銭づつ出し合ひ香奠を贈る。雪深夜に至るも歇まず。》と記されている。

荷風と帚葉翁が毎晩のように会っていた頃。二人は銀座尾張町の四つ角(銀座4丁目交差点)で待ち合わせし、それから店に入って話した。翁は待っている間、街行く人たちの様子を観察し、手帳にメモしていた。終電に乗るため待っている尾張町か3丁目の松屋前の電停でも、同じく電車を待つ花売り、辻占い、門付けなどに話しかけていた。
「作後贅言」に書かれた順序を前後させるが、荷風が帚葉翁と親交をもったのは1921年頃。会うのは古本屋の店先。荷風は1927~28年頃から銀座へ行くことを避けていたが、その後また銀座へ足を運ぶようになって1932年の夏。荷風は銀座の通りで翁と出会った。翁のいでたちは白足袋に日光下駄。《直に現代人でない事が知られる》。荷風も表通りのカフェーに行くことを避けている。それを察した翁は荷風を西銀座の裏通りにある萬茶亭という喫茶店へ案内する。客はほとんどいない。この頃から『断腸亭日乗』には、萬茶亭(万茶亭)の名が頻繁に出てくるようになる。萬茶亭は現在の銀座5丁目5、晴海通りから並木通りへ入ってすぐのところあった。同じ並び、すぐのところに三笠会館がある※※。

※※湯川説子:永井荷風と銀座(東京都江戸東京博物館紀要第13号、2023年3月)

帚葉翁が萬茶亭に荷風を案内したのは、胃腸の弱い荷風が冷たいものを口にしないことを知っていたからで、萬茶亭は多年南米の植民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店で、夏でも温かい珈琲を売っていた。荷風は《然し其主人は帚葉翁と前後して世を去り、其店も亦閉されて、今はない。》と記している。
翁と荷風は狭い店内の暑さと蠅の多いのを避けて、店先の並木の下に出してある椅子に腰かけて、夜も12時になって店の灯が消えるまでじっとしていたが、翁は萬茶亭と隣接したラインゴルド(現在の三笠会館辺り)、向い側のサイセリヤ、スカール、オデッサなどという酒場に出入りする客の数を数えて手帳に書き留める。かと思うと、円タクの運転手や門付けと近づきになって話しをする。表通りへ買い物に行ったり、路地を歩いたりして、戻って来て荷風に報告する。
荷風は《翁の談話によって、銀座の町がわづか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。》として、震災前表通りにあった商店で、もとのところに同じ業を続けているものは数えるほどで、《今は悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。》と続けている。地方の人が多くなり、外で物を食べる人が増加し、屋台も増えた。《飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これ亦其範を大阪に則ったものだという事である。》と、食品サンプルまで登場する。世界から注目される日本の食品サンプルであるが、1923年に白木屋の食堂で使われ始めたものの、今日の源流となるものは大阪の岩崎製作所が作製したもので、1932年、そごうデパートの食堂で使用が始まった。「元祖食品サンプル屋」として営業を続け、東京でも合羽橋などに店舗を構えている。荷風は表面から一枚も二枚も入り込んだ銀座を見ている。それは今日において、貴重な記録である。「元祖不良老人」も、ただ遊んでいるわけではない。
荷風はまた、《街に灯がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人づつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新に見る所の景況で、震災後頻にカフェーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。》と記して、この不体裁、無遠慮な行動がどうして生じたかはっきりしないが、1927年初め、慶應の学生・卒業生が野球見物の帰りに、群れをなして銀座通りを襲ったことを看過できないと、この事件に言及している。とにかく彼らは酔いに乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフェーに乱入して店内を荒し、警官と争い。これがその後、年に二回おこなわれ、何の処分も受けていない。荷風は、自分自身も慶應で教鞭をとったが、《早く辞して去ったのは幸であった。》と痛烈。ついでに、その頃、経営者の一人から、三田の文学を稲門に負けないように尽力して欲しいと言われ、《彼等は文学芸術を以て野球と同一に視てゐたのであった。》と書いている。この後、荷風は《わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことは欲しない。むしろ之を怯となして排けてゐる。》として、持論を展開する。それは区切りの*まで続くが、一旦、《われわれ東京の庶民が満洲の野に風雲の起った事を知ったのは其の前の年、昭和五六年の間であった。》という文章まで戻る。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑧

《女給の君江は午後三時から其日は銀座通のカツフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた》。『つゆのあとさき』の書き出しである。君江は四谷見附からバスに乗った。新宿発築地行きである。この後、麹町9丁目、半蔵門と停車して、ここで新宿通りを離れて内堀通りへ入り、三宅坂の次が日比谷である。君江はここで下りたが、バスは銀座4丁目を経て築地まで行く。
君江は《鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町へ曲り、貸事務所の硝子窓に周易判断金亀堂という金文字を掲げた売卜者をたづねた》。場所的には有楽町駅と新橋駅の間、日本で初めて高架下を店舗として開発したところで、その歴史は1910年にさかのぼるが、荷風が描いた1931年の光景は、ある面、現在も変わっていない。易者はアパートメントの一室を店にしており、《省線電車の往復するのが能く見える》。
君江が《建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流行の衣裳の飜えるのが目に立って見える。》と一帯の様子が描かれ、《君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、をちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっている》。
外濠が埋められ、数寄屋橋が消えたのは1958年である。ガードを抜けると、すぐ左側に朝日新聞社の社屋が建っている。8階以上の高さのどっしりしたビルである。1927年に完成したから、1931年当時はまだ新しい建物であった。1980年に朝日新聞は築地へ移転し、その跡に有楽町センタービル(有楽町マリオン)が建てられている。数寄屋橋を渡れば200m程で銀座4丁目交差点である。まさに東京最大の繁華街になったこの界隈の様子が、よく表れた描写である。

秋聲は『仮装人物』(1935~38年)の中で、葉子について、《彼女は十六時間もかかる古里と東京を、銀座へ出るのと異らぬ気軽さで往ったり来たりするのであった。》と、銀座を引き合いに出している。
『仮装人物』の主人公庸三や葉子たちは買物や食事に、たびたび銀座を訪れている。『仮装人物』が書かれた当時、銀座はすでに8丁目まであったが、設定時期には4丁目までで、「銀座八丁」になっていなかった。銀座という地名は、二から二十六まで、たびたび登場し、二十四には「銀ぶら」という表現もある。
しかし、秋聲は書くに及ばないと思ったのか、銀座に関して長く細かな描写はおこなっていない。そのかわりいくつかの店舗の名が登場する。モナミ(喫茶と食事)。1927年、銀座7丁目、中央通りに面して花椿通り角の資生堂と立田野との間に開業。岡本太郎の母、岡本かの子が名付け親と言われている。秋聲お気に入りだったのか、モナミの名はたびたび登場する。銀座ライオンもに出てくる。サッポロライオンの出発点になる恵比寿ビアホールは1899年に現在の銀座8丁目に開業しているが、二で出て来るライオンは思い出として「白と桃色シャーベット」が登場するので、1911年創業、銀座尾張町(銀座五丁目)のカフェー・ライオンではないだろうか。八で出て来るライオンは、小夜子が最初のライオンの七人組の美人女給のひとりであったと書かれており、銀座竹川町(銀座7丁目)に1918年開業した銀座ビアホール(ビアホールライオン銀座7丁目店前身)。
この「昭和モダン」の時期。和服に替わって洋服が普及し始め、洋風の髪形も登場してきた。「昭和モダン」を地で行く葉子は、とくに美容のために銀座へ足を運んでいる。夜も大分更けた時分、《メイ・ウシヤマで綺麗にウエイブをかけた黒髪をてらてらさせて、濃いめな白粉やアイシェドウに、眉や目や唇をくっきりさせながら、何か型にはまったような美しさで》、自動車に乗って帰って来た。メイ・ウシヤマ、メイ・ハルミの名は度々登場する。メイ・ハルミと書かれているのが初代メイ牛山(牛山春子)である。牛山清人・春子夫妻が経営するハリウッド美容室は1925年に登場。パーマネントを始めていた。1927年に銀座7丁目に開業した。《ある時彼は葉子について、そのころ銀座にあったメイ・ハルミへ行ったが、ちょうどその階下が理髪屋であったところから、葉子がウエイブをかけている間、彼も階下で髪を刈ることにした。しかし頭髪が出来あがった葉子が、いつまで待っていても上がって来ないので、降りて行ってみると、彼は椅子のうえで反りかえって、マニュキュアと洒落れているのだった。》と、すっかり魅せられたのは葉子だけでなく、庸三もはまりそうであった。マニュキュアをした秋聲を想像するのもおもしろい。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑦

荷風の『つゆのあとさき』(1931年)はカフェーが舞台になっている。
君江が勤めるカフェー「ドンフワン」は、《松屋呉服店から二三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、此の字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカツフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカツフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入るのである。》と設定されている。
これだけ描いてくれれば、目的地へ行けそうである。大きな目印は松屋呉服店、つまり銀座3丁目にあるデパートの松屋。そこから銀座の通りの東側を京橋方向、つまり北にむかって行く。文房具などの伊東屋、篠原靴店、スズコー婦人子供洋装店、明治製菓売店、松島眼鏡店。実際には松屋から二三軒以上過ぎてしまったが、小説であるから、実態と一致する必要はないだろう。この眼鏡店が、「手前隣の眼鏡屋」らしいが、隣りは大黒屋玩具店である。一軒おいて鞄のアオキがあり、東西の道路を越えて銀座2丁目に入り、角に三共薬局、続いて菊秀金物店。この金物店が「手前隣の眼鏡屋と金物屋」の金物屋であろう。そして隣りはカフェ・キリンである。その先、レストランのオリンピック、カフェ・クロネコ(すでに、バー「赤玉」に変っていたかもしれない)、銀座会館。東西の道路を越えると銀座1丁目に入る※。

※ネットで公開されている「トトやんのすべて」における「戦前(1928)の銀座を復元する」などを参照した。

岡本哲志(都市史学者)は君江の働くカフェー「ドンフワン」が、カフェ・キリン(1923年に現地に開店)に設定されているとしている。《階下は銀座の表通から色硝子の大戸をあけて入る見通しの広い一室で、坪数にしたら三四十坪程》という店の描写もカフェ・キリンを印象づけるものであろう。その設定を念頭にみるならば、荷風は「眼鏡屋と手前隣の金物屋」とするところ、あいまいにするため、「手前隣の眼鏡屋と金物屋」としたのであろう。
今、一つ、「ドンフワン」は《この店の持主池田何某という男》《というのは五十年配の歯の出た貧相な男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカツフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。》とされている。この設定、ブラジル移民の水野龍が、ブラジルコーヒーを提供する喫茶店として、1911年に銀座7丁目に開店したカフェーパウリスタを取り入れたのかもしれない。荷風なども足しげく通った。後に銀座8丁目に移転し、現在も営業しているが、「銀座のブラジルコーヒー」つまり「銀ブラ」の語源になったとも言われている。
ついでながら、荷風が『つゆのあとさき』を書いた前年の1930年、大阪のカフェーで成功した榎本正が銀座2丁目に銀座会館という大規模なカフェーを開店している。「ドンフワン」設定にあたって、このような事情も反映されたかもしれない。
《銀座通のカツフェーは此のドンフワンに限らず、いずこも十時過ぎてから店のしめ際になって急に込み合って来るのが常である。絶間なく鳴りひびく蓄音器の音も、どうかすると搔消されるほど騒しい人の声や皿の音に加えて、煙草の烟や塵ほこりに唯さえ頭の痛くなる時分、》などという描写の中にも、急速に普及してきたレコードが大音量でかけられていた様子がうかがえる。
ところで、君江の職業は「女給」である。本来、食堂などで客に飲食物を運ぶ「給仕」が仕事であり、「ウエイトレス」であった。カフェーの女給も同様である。けれども、関東大震災後、つぎつぎにカフェーが出来てくる中で、酒の提供も増え、女給が客の接待をするようになっていった。そして、客を引き付け、店の売り上げも伸ばし、競争に打ち勝つため、客に濃厚な接待をすることに拍車がかけられていった。場所を移して売春をおこない、「私娼」と化す女給もみられるようになっていった。君江も女給としてドンフワンで働きながら、男と床を共にすることが少なくなかった。
君江が芸者にならず、女給の道を選んだのは、《鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合わせの手続をする規定》があったからで、家出をしてきた君江は実家に問い合わされることを怖れていたからである。つまり、女給というのは、芸者と違って、比較的かんたんに風俗営業の道に入るということであった。
君江の友人で、この道の先輩である京子も、私娼を続けながら、《其筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言出》しているが、カフェーの風俗営業化が進むと、当局も放置できず、1933年から規制強化に乗り出している。また、本来、カフェーはコーヒーを飲む喫茶店であるから、風俗営業店と同一視されてはたまらない。1935年、カフェープランタンは「茶房ル・プランタン」と改名しており、女給の接待を伴わないカフェーは「純喫茶」とよばれるようになっていく。
さて、君江のようなカフェーの女給であるが、大学卒初任給の8倍くらい稼ぐと言われた人もあるようだが、実際にはそううまくいくわけがなく、「一日に幾番くらい持てるの。」と松子に訊ねられた君江は、「そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。」と答え、松子は《「それで、綺羅を張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。」》と応じている。
当時の女給の勤務について、ネットの「てくてくレトロ」に掲載された「喫茶よもやま通信」を参照しながら紹介すると……。
早番
10~11時 開店前準備
11~14時 営業時間
14~16時 片付け、休憩
ここで遅番が出勤して来るが、早番の勤務は続く。
16~0時 営業時間(18~19時頃に夕食)
その後、カフェー近くで食事
3時 帰宅して就寝。
荷風は君江が出勤した時の様子を、《朝十一時から店に出ていた女給と、今方来たものとの交代時間で、座る場所もない程混雑している最中。》と描いているので、当日、君江は遅番だったのだろう。君江は松子に《「六十人で、三十人づつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼も男の人がするから、それだけ他よりも楽だわ。」》と語っている。二組というのは早番・遅番のことだろう。別の箇所で、清岡は君江に《「今日十一時だと明日は五時出だね。」》と言っているが実際に遅番は三日に1回程度だったという。また早番でも深夜まで通して働いたことは、清岡に対する辰千代の《「そう仰有るけれどカツフェーは割に堅いところよ。何しろ昼間から夜の十二時まではちゃんとお店にいるんですもの」》という言葉からもうかがえる。けれども、清岡の《「十二時から先のはなしさ。」》という言葉が示すように、女給としての勤務を終えてから、私娼と化す常態も見えて来る。女給60人というのは、カフェーとして大きい部類に属するが、1930年当時、女給50人以上のカフェーは銀座に10軒以上あったという。
表通りの華やかさに対して、荷風は路地の様子をつぎのように描いている。《路地は人ひとりやっと通れる程狭いのに、大きな芥箱が並んでいて、寒中でも青蠅が翼を鳴し、昼中でも鼬のような老鼠が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜の水をはね飛ばす》。すべてを物語るような描写で、悪臭さえ伝わってくる。そこにもう一つの人間模様が感じられる。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑥

「昭和モダン」とは、《昭和時代の初めの1930年代に花開いた、和洋折衷の近代市民文化のこと。現在では、1920年代以後の文化(大正ロマン)をも含む》(ウィキペディア)。第一次世界大戦(1914~18年)の戦勝国、アジア唯一の先進国として、日本では大都市を中心に大衆消費社会が本格化し、旺盛な日本市場を狙って欧米の企業が進出してきた。そして、1923年9月1日に発生した大地震によって、首都東京をはじめ各地で大きな打撃を受けたが、その復興の中で大衆消費社会も復活を遂げてきた。
大正から昭和に改元され、あっという間に昭和2年、1927年。日本で初めての地下鉄が浅草・上野間に開通、小田急も小田原まで全通した。ポリドールが日本国内でレコードを製造するようになった。宝塚少女歌劇が「モン巴里」を上演。新宿中村屋はカレーライスを売り出し、松坂屋デパートは食堂の女店員を洋装に。日本橋三越はファッションショウ。パラマウント映画は丸の内に邦楽座を開館。この年の流行語は、「チャールストン」「モガ・モボ」「マルクスボーイ」「大衆」「円本」など。
1928年には、初の衆議院普通選挙がおこなわれ、プロレタリア文学の「キャラメル工場から」(窪川稲子)が注目され、日本共産党の機関紙「赤旗」創刊。一方で大弾圧(三・一五事件)がおこなわれた。「人民の名において」「マネキンガール」「モン=パリ」「ラジオ体操」などが流行語になった。
世界恐慌の起きた1929年には、『東京行進曲』が大ヒット。一番の歌詞には「昔恋しい銀座の柳/仇な年増を誰が知る/ジャズで踊ってリキュルで更けて/明けりゃダンサーの涙雨」と、銀座の名が登場する。「ジャズで踊ってリキュールで更けて」「恋の丸ビル」「あなた地下鉄わたしはバスよ」といった歌詞が踊っており、四番に至っては、「シネマ見ましょか/お茶のみましょか/いっそ小田急で逃げましょか/かわる新宿あの武蔵野の/月もデパートの屋根に出る」。これが「戦前の昭和」の歌なのか、「世界恐慌当時」の歌なのかとびっくりさせられる。
新宿の武蔵野館でアメリカのトーキー映画が日本で初めて封切られた。4月16日には衆議院議員の山本宣治が刺殺された。田中義一内閣に替わって浜口雄幸内閣が登場し緊縮政策を開始した。「カジノ」「ステッキガール」「ターミナル」などと並んで、「緊縮」「大学は出たけれど」「国産品愛用」なども流行語になった。
タイピスト、バスガール、ウェイトレス(女給)と言った分野での女性の職場進出も盛んになった。デパートも新規開店が相次ぎ、バス、タクシーと言った自動車交通も広がり、自家用車を所有する人も増加した。レストランやカフェも増え、カレーライス、オムライス、カツレツ、お子様ランチまで登場。森永ミルクキャラメル、三ツ矢サイダー、カルピス、ネスカフェのインスタントコーヒー、サントリーの角瓶。この時代からあったのかと驚かされる。
軍部の力が増々強まり、「昭和モダン」は五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)を経過して、終わりを迎える。秋聲は『仮装人物』(1935~38年)の一で、《戦争景気の潮がやや退き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった》と書いている。これは言い換えれば、執筆当時にはすでに「不安の空気が漂っていた」ことを示している。それでも、二・二六事件の年に大ヒットした『東京ラプソディー』の歌詞には、「銀座」「神田」「浅草」「新宿」といった盛り場の名前が登場し、一番では「花咲き 花散る宵も/銀座の 柳の下で/待つは 君ひとり 君ひとり/逢えば行く 喫茶店(ティルーム)」。東京って、どんな街?一番から五番まで、すべてが「楽し都 恋の都/夢の楽園よ 花の東京」で締められている。この後、1937年には支那事変から日中戦争へ。1938年、東京オリンピック中止、国家総動員体制。1939年に第二次世界大戦が始まり、1941年に日米開戦。しかし、民衆レベルでは、ここに至るまで、欧米の映画・音楽・服装・演劇、そして洋食や野球は高い人気を持ち続けていた。
このような「昭和モダン」の時代。東京第一の盛り場は日本橋から銀座に移動した。繁華街の代名詞になった銀座は「昭和モダン」の象徴のようなところである。デパートは大きく進化し、1924年に松坂屋、1925年に松屋、1930年に三越が開店し、銀座3丁目から6丁目の間、通りの東側に三つのデパートが建ち並んだ。銀座3丁目に新店舗を開業した松屋は、下足預かり廃止、カフェテリア式大食堂やツーリストビューローなどの開設。1926年には、当時流行のモガファッションのエレベーターガールなども登場させた。こうした動きの中で、カフェーやバーなどもつぎつぎにつくられ、1929年に警察の調査で600軒を超えたという。街にはモボ・モガが闊歩した。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座⑤

1910年5月7日午前10時。後の文豪室生犀星は新橋駅に降り立った。親友の田辺孝次、幸崎伊次郎、それに吉田三郎が迎えに来た。犀星は生まれて初めて東京の土を踏み、生まれて初めて市電に乗った。犀星を乗せた市電は上野にむけて銀座を走る。《彼等はあかるい電車に私を乗せてくれ、電車というものにはじめて乗った私は、派手な女の人の服装をはじめて見て、まばゆい感じであった。田辺孝次は大きな声で犀星此処は銀座だと、せまい大通りの人ばかり沢山歩いている歩道を教えた。その声が大きいので今ついたばかりの東京という都会にたいして、また乗客の手前、私は顔をあからめた。彼はここが須田町、ここが上野というふうに云い、私は分っている分っていると低い声でこたえた。私が低い声をすれば田辺孝次も低い声になるかと思うと、彼は反対に大声になり私はひやひやした。私は電車と電車とがすれ違う時、眼をつぶった。そして電車というものがその時代の文明をいかによく代表的にあらわしていたかに、私は驚いた。舶来的な、ひとりで走るような車体はどれもあたらしく、自動車がすくなかったから大抵の人は電車に乗り、車内はいまの映画館の坐席のように美しい人が乗り合い、そういう客間のお茶の会のような光景が、そのまま街のなかを走って行った。往復五銭であった。私はできるだけこれから電車に乗ってやろう、そういうふうに私は東京についた第一日の印象に、電車というものを好いた。》と、犀星は『洋灯はくらいか明るいか』書いている。

犀星が初めて上京した翌年の1911年に発表された秋聲の『黴』では、主人公笹村と妻お銀の《夫婦はその日、新橋まで人を見送った。そして帰りに橋袂で、お銀の好きな天麩羅を食べた。(略)二人は腹ごなしに銀座通りを、ぶらぶら歩いた。「私こんなところを歩くのは何年ぶりだか、築地にいたころは毎晩のように来たこともありますがね」》と、銀座を歩いたことが記され、その後、《「歌舞伎を一幕のぞいて見ようか。」笹村は尾張町の角まで来たとき、ふと言い出し》、二人は歌舞伎座へ。そこでお銀は歌舞伎座の中で目がくらんで倒れてしまう。
また、『黴』によると、笹村は電車に乗って銀座へ出ることもあったようで、「四十九」では、息子の正一に《お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ。」》という、お銀の言葉がある。笹村は電車に乗って銀座まで行ったついでに、木村屋の餡パンを買って来たことがあるのだろうか。設定時期は1906年頃である。木村屋が餡パンを生み出して32年ほど経っていた。
秋聲は、1913年に発表した『爛』でも、1910年頃の銀座をつぎのように描いている。主人公お増の夫浅井と、お増の遠縁の娘お今。ある朝、酔い覚ましに立ち寄った浅井は、お今のところで昼過ぎまで眠った。帰りがけに、「私もそこまで出ましょうかしら」と、お今は甘えてくる。浅井は興のさめた顔で、「どこへ行くね」と訊くが、《「どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。」(略)電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥いだ舗石のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。「こんなところ、いつ来たって同じね。」お今は蓮葉なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟巻きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧らせていた。「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」お今は体を浅井に絡みつくようにして低声で言った》(五十六)。銀座よりもっと面白いところがどこなのか、作品には書いてないが、当時の銀座通りの雰囲気が伝わって来るようだ。銀座に下駄の音が響いていたのは、いつ頃までだろうか。

大正期の銀座。ここで取り上げた七人の文豪たちは作品の中にほとんど描いていない。龍之介が『大正十二年九月一日の大震に際して』の「五.廃都東京」で加藤武雄に宛てた手紙として紹介している、《僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処か折り合へない感じを与へられてゐました。》の一文に「銀座」の名を認める程度である。そしていよいよこれから、「昭和モダン」の「銀座」に入って行くわけであるが、大正期の銀座は、龍之介の表現から察すれば、明治の銀座の上に「昭和モダン」の銀座が少しずつ色を濃くしていく時期であると、みることができるだろう。
明治を代表する文豪漱石が1916年(大正5年)に逝き、大正を代表する文豪龍之介が1927年(昭和2年)に逝き、「昭和モダン」の銀座を積極的に描いたのが荷風と秋聲である。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座④

中央通り沿線を離れた銀座については、歌舞伎座と有楽座が登場し、数寄屋橋付近も描かれている。
『それから』には、父によばれて代助が青山の実家へやって来た場面で、《「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行って御覧なさい。面白いから」「貴方もう行ったの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」「怠けものは可くない。勉強の方向が違うんだから」》と言う場面がある。兄の誠吾は珍しく酒を呑んでおり、傍に嫂の梅子がいる。さらに、ある日、実家へ呼ばれてやって来た代助。梅子が、《「代さん、今日貴方、無論暇でしょう」と云った。「ええ、まあ暇です」と代助は答えた。「じゃ、一所に歌舞伎座へ行って頂戴」代助は嫂のこの言葉を聞いて、頭の中に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日は平常の様に、嫂に調戯う勇気がなかった。面倒だから、平気な顔をして、「ええ宜しい、行きましょう」と機嫌よく答えた》と、嫂梅子、姪縫子、代助、それに兄も加わって、歌舞伎座へ芝居見物に出かけている。じつは、代助の見合いの席として設定されていた。それからしばらくしたある日。家へ帰ると誠太郎が来ている。《誠太郎はこの間代助が歌舞伎座でした欠伸の数を知っていた。そうして、「叔父さんは何時奥さんを貰うの」と、又先達てと同じ様な質問を掛けた》。
歌舞伎座は1889年につくられ、帝国劇場の開館を受けて、1911年に大改造された。『それから』が発表されたのは1909年であるから、作品に出てくる歌舞伎座は初代のものである。と言っても、建物そのものについての描写は何もない。大改造された歌舞伎座は1921年、漏電によって焼失したが、関東大震災後の1924年に再建された。終戦後つくられた四代目は2010年にその役目を終え、2013年に五代目が完成した。
『行人』には、つぎのような場面で有楽座が登場する。二郎が番町の家に帰ると、父が謡「景清」をやるところだった。客が二人、それに兄夫婦も同席している。それも終って、父は実話の女景清の話を始める。その概要は、《その男がその女をまるで忘れた二十何年の後、二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会とかのあった薄ら寒い宵の事だそうである。その時男は細君と女の子を連れて、土間の何列目か知らないが、かねて注文して置いた席に並んでいた。それでどうかして女の居る所を突き留めようとした》。次に有楽座へ行った時、男は案内者から無理やり女の居場所を聞き出し、百円札一枚と大きな菓子折を父に託した。女の家を訪ねた父は《意外な女の見識に、話の腰を折られて、己を得ず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情を面に湛えて、縋り付くように父を留めた。そうして何時何日何処で○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包み蔵さず盲人に話して聞かせた。「丁度あなたの隣に腰を掛けていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気が付いていたのです。然し細君や娘の手前、口を利く事も出来悪かったんでしょう。それなり宅へ帰ったと云っていました」父はその時始めて盲目の涙腺から流れ出る涙を見た。(略)父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目程気の毒なものは御座いませんね」と云ったのが、痛く父の胸には応えたそうである》。話はなおしばらく続くが、男女の仲や結婚という『行人』を貫く一つの大きなテーマにもとづく挿話である。
漱石がこの挿話の舞台をなぜ有楽座に設定したのか明確ではないが、有楽座は1908年に開場した東京で初めての西洋劇場であり、『行人』が書かれたのは1912~13年である。新しい西洋劇場に、伝統的な謡をあしらう。この滑稽が漱石の好むところであり、魅力であろうが、歌舞伎座同様に、建物の内部や外装、まわりの風景などの描写は一切ない。有楽座は数寄屋橋で外堀を渡ったところにあり、現在、有楽町マリオンB館(有楽町2丁目5-1、ピカデリー劇場)が建っている。設計建築は帝国劇場と同じ横河民輔(横河グループ創始者。鉄骨建築の草分け)。
数寄屋橋は、東京高速道路建設のため外堀が埋め立てられたため、橋は取り壊されてしまったが、戦後、ラジオドラマ『君の名は』(菊田一夫作)で有名になった。現在は数寄屋橋公園に数寄屋橋の碑がある。藤村の母校でもある泰明小学校はすぐそばで、200m程離れた瀧山町(現、銀座6丁目)には、漱石が社員でもある朝日新聞社があり、石川啄木も勤めていたことがある。
漱石はこの数寄屋橋付近で、妙なものに心惹かれて、『それから』の中に描き込んだ。前述の歌舞伎座へ行った帰りである。夜11時近くに芝居が終わり、代助は《嫂の勧を斥けて、茶屋の前から電車に乗った。数寄屋橋で乗り易え様と思って、黒い路の中に、待ち合わしていると、小供を負った神さんが、退儀そうに向うから近寄って来た。電車は向う側を二三度通った。代助と軌道の間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に挟まっていた。代助は始めて間違った所に立っている事を悟った。「御神さん、電車へ乗るなら、此所じゃ不可ない。向側だ」と教えながら歩き出した。神さんは礼を云って跟いて来た。代助は手探でもする様に、暗い所を好加減に歩いた。十四五間左の方へ濠際を目標に出たら、漸く停留所の柱が見付った。神さんは其所で、神田橋の方へ向いて乗った。代助はたった一人反対の赤坂行へ這入った》。
銀座一帯、いくつかの作品に登場させながら、ほとんど情景を描写しなかった漱石が、電車の路線工事にともなう変貌を克明に記述した。『それから』が書かれていた1909年、電車専用高架線(現、山手線)が品川駅から烏森駅(現在の新橋駅)まで開通し、有楽町にむけて工事が進められていた。とくに外濠線土橋停留所付近の路線は高架線の用地にひっかかったり、工事の関係でレールを撤去、移設せざるを得ない状況であった。このため、外濠線は数寄屋橋・虎ノ門(琴平町)間の路線で、次のように路線変更されていた。
【従来の路線】
数寄屋橋・土橋・内幸町、日比谷公園の南側から虎ノ門を通って、琴平町
【工事中の路線】
数寄屋橋・日比谷、日比谷公園の北側から霞ヶ関・虎ノ門を通って、琴平町
これにともなって、外濠線数寄屋橋停留所の位置が変更になっていたのに、代助は気がつかなかったのである。工事が完成し、数寄屋橋・土橋間は通行できるようになったが、内幸町側は道路がなくなってしまったため、芝区内に新路線が建設された。電車専用高架線は1910年、有楽町駅、さらに建設中の東京駅前を迂回して呉服橋駅(仮駅)まで開通した。1908年から工事が進められていた東京駅(東京中央停車場)は1914年12月開業した。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座③

漱石は1900~1910年代の銀座を描いている。
漱石は東京生まれであるから、子どもの頃から銀座へ出る機会はあったかもしれないが、繁華な街としては日本橋界隈の方が、馴染みがあったようだ。作家になった漱石が何らかのかたちで銀座を描いたのは、『吾輩は猫である』(設定1904~5年)、『野分』(設定1906年)、『それから』(設定1909年)、『行人』(設定1911~12年)、『明暗』(設定1914年頃)の5作品で、この他、『彼岸過迄』(設定1911年頃)で、白山の裏、芝公園の中と並んで、銀座にも易者のいることが言及されている。
『明暗』において登場する銀座は、津田の入院中、小林がやって来て、何か意味ありげな言葉を残して帰って行った場面で、お延が、《それから急に二階の梯子段を駆け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。(略)パナマや麦藁製の色々な帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅だの、突当たりに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、聯想として付き纏わっていた。》と描写されている。日比谷公園から霞が関あたりの光景は多少描かれているが、銀座は買物に行ったことがわかる程度である。
『それから』では、嫂の肉薄と三千代の引力を恐れ、すべてを振り払うため旅に出ることを決意した代助は、その支度のために《電車に乗って、銀座まで来た》。代助は銀座の通り(現、中央通り)を新橋から京橋にむかって歩いているが、その様子は、《朗らかに風の往来を渡る午後であった。新橋の勧工場を一回して、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の眼には、向う側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。代助は二三の唐物屋を冷かして、入用の品を調えた。その中に、比較的高い香水があった。資生堂で練歯磨を買おうとしたら、若いものが、欲しくないと云うのに自製のものを出して、頻に勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包を腋の下に抱えたまま、銀座の外れまで遣って来て、其所から大根河岸を回って、鍛冶橋を丸の内へ志した。当もなく西の方へ歩きながら、これも簡便な旅行と云えるかも知れないと考えた揚句、草臥れて車をと思ったが、何処にも見当たらなかったので又電車へ乗って帰った。》と、描写されている。「京橋の方へ下る」という表現は奇異に感じるかもしれない。銀座も京橋の方から新橋にむけて、1丁目・2丁目と下っているからだ。けれども、もともと京都の方が上りであるから、東海道を京橋・日本橋へむかうのは「下り」であって、差し支えない。漱石の時代、まだそのような感覚が残っていたのだろう。

ここで、漱石時代の銀座の通り(中央通り)を、代助に従って、新橋から京橋にむけて歩いてみたい。当時、銀座5丁目から8丁目はなかったが、漱石は一括して「銀座」と認識していたことが『それから』からもうかがえる。
新橋停車場の前には交番があり、自働電話も設置されていた。「新橋停車場前」という電停はなく、芝口が最寄の電停であった。駅前広場を抜けると、1899年に鉄製アーチ橋に架け替えられた新橋を渡ると、ここから京橋まで車道と煉瓦敷きの歩道に分離され、その間に街路樹が植えられている。銀座(1丁目から4丁目)の街路樹は1887年以来、柳である。車道の中央を路面電車が通っている。
新橋にもっとも近いところ、左手角に帝国博品館が建っている。三階建ての建物は、当時の流行を反映して時計塔をもっていた。この帝国博品館がある南金六町(現、銀座8丁目)には日本初の果物専門店千疋屋(1894年に当地出店)などの商店や新橋電停もある。さらに出雲町(現、銀座8丁目)にはいると、右手角に2階建ての資生堂薬局が建っている。店内にはソーダ・ファウンテンがある。店の前に交番があったが、現在は廃止されている。
竹川町(現、銀座7丁目)にはいると、亀屋などの商店、竹川町電停、竹川町郵便局がある。
尾張町2丁目(現、銀座6丁目)には喫煙具専門店銀座菊水(1903年創業)・天賞堂など、尾張町1丁目に入って日報社(1872年創立、東京日日新聞発行)がある。この南角・西角一帯が尾張町新地で、尾張町1丁目とともに、現在銀座5丁目になっている。
尾張町交差点(銀座4丁目交差点)は、北東から南西へむかう中央通りに、数寄屋橋から築地へぬける道(現、晴海通り)が直交する。各方向交差点の手前に銀座尾張町の電停がある。北角には時計塔で有名な服部時計店(1894年、朝野新聞社屋を買収)がそびえている。高さ15.5mは銀座界隈にいくつかあった時計塔のうち最大で、時計はスイス製。東角(現在の三越の位置)には山崎高等洋服店があって、その三階建ての建物は服部時計店の時計塔と並んで、銀座のシンボルになっていた。前に自働電話がある。南角には毎日新聞社があり、その周辺に日本麦酒が開設した日本初の常設ビアホール恵比寿ビアホール(1899年創業)や、うなぎの竹葉亭がある。西角(現在の三愛の位置)には京橋銀行があり、交番が建っている。中央通りに面して同じ並びに薬種商鳩居堂(1880年当地出店)、4丁目には真珠のミキモト本店(1899年創業)や、アンパンを創作し、1873年から販売している木村屋(1869年創業、1870年当地出店)などの商店、それに銀座郵便局がある。
銀座3丁目には日本初の文具専門店伊東屋(1904年創業)・洋食の煉瓦亭(1895年創業)などがあり、銀座2丁目へはいると、明治屋(1900年当地出店、輸入食品販売)・越後屋(呉服店)などの商店があり、大倉組の前には銀座2丁目電停。銀座1丁目には、かばん専門店銀座タニザワ(1874年創業、「鞄」という言葉を生み出す)などの商店、読売新聞社の前身「日就社」(1874年当地移転)の前には京橋電停がある。京橋の手前、左手に交番と自働電話がある。
漱石が作品の中で登場させた店舗は、帝国博品館・資生堂(ともに『それから』)、亀屋(『吾輩は猫である』)、天賞堂(『野分』)、竹葉亭(『吾輩は猫である』)の五つ。
帝国博品館は《新橋の勧工場》と表現されているが、《一回り》と書かれているだけで、店内の描写はない。帝国博品館勧工場は1899年に創業され、「おもちゃのデパート」博品館の前身にあたる。三階建ての建物は、当時の流行を反映して時計塔をもっていた。スロープを3階まで上りながら、両側に70余の店舗が並ぶ。表参道ヒルズのさきがけのような建物であった。代助が「一回り」したという表現は店舗のようすを的確に表すものである。
資生堂は1872年、日本初の洋風調剤薬局として創業。町名が出雲町であるため、出雲と縁を深めるため、北側の通りに出雲椿(藪椿)を植えた。1888年、日本初の練歯磨(福原衛生歯磨石鹸)を発売し、好評を得た。ただし、『それから』における資生堂に対する評価は芳しいものでなく、漱石自身の体験が背景にあるのではないだろうか。店内には1902年開設のソーダ・ファウンテン(資生堂パーラーの前身)がある。資生堂は1914年、出雲椿をもとにしながら、「花椿」の商標を考案し、1916年に資生堂薬局は道路をはさんで隣りにあたる竹川町角にも三階建て店舗を構えた。資生堂両店舗の間を通る道路には、出雲椿が植えられ、「花椿通り」と呼ばれている。
『吾輩は猫である』にトチメンボーなる妙なものが出てくる。水島寒月の紹介で越智東風が苦紗弥先生を訪ねて来た。迷亭に関して東風が話し始める。《「しばらくしてボイが出て来て真に御生憎で、御誂ならこしらえますが少々時間がかかります、と云うと迷亭先生は落ち付いたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと云いながらポッケットから葉巻を出して(略)「するとボイが又出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと、先生はそりゃ困ったな、切角来たのになあと私の方を御覧になって頻りに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾ですな、遺憾極るですなと調子を合せたのです」》。
ここに登場する亀屋は竹川町(現、銀座7丁目)にあった西洋食料品店(トチメンボーの材料など売っていなかったであろう)。江戸時代からの唐物屋伊勢屋与三郎(三枝商店。現、銀座のサヱグサ)の義兄弟杉本鶴五郎が開いた。1903年、三井越後屋と並んで商品配達用自動車(クレメント)を購入し、日本最初の自家用トラックになった。亀屋と三井越後屋のどちらが早いかは定かではないが、亀屋はすでに1902年、オールズモビル1台を購入しているとの説もある。
《女は燦たるものを、細き肉に戴いている。「その指輪は見馴れませんね」「これ?」と重ねた手は解けて、右の指に耀くものをなぶる。「この間父様に買って頂いたの」「金剛石ですか」「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」》。このように『野分』に登場する天賞堂は、尾張町2丁目(現、銀座6丁目、松坂屋が建っていた所、現在はGSIX)にあった。1879年、印房店として創業。1891年から貴金属販売を始め、漱石も足しげく訪れた。戦後現在地(銀座四丁目)に移転、1949年から鉄道模型の販売も始めた。
『吾輩は猫である』で迷亭が、赤十字の総会出席のため静岡から来た伯父を、《「ハハハハそうなっちゃあ敵わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉でも奢りましょう。これから電車で行くとすぐです」》と、竹葉亭へ誘っている。伯父は白木屋へ注文した例のフロックコートを着ている。この竹葉亭は尾張町新地7(現、銀座5丁目8-3)にあり、現在も同地で営業している。もともと竹葉亭は江戸末期、京橋付近の浅蜊河岸(当時、京橋区新富町1丁目1番地)に創業し、1876年から鰻の蒲焼を提供。迷亭と伯父が訪れた尾張町店が支店第1号(1897年営業開始)。関東大震災被災を契機に京橋店(創業の地)は5代目得三の時に閉店。1924年にできた木挽町店(現、銀座8丁目14-7)が本店となった。現在8代目。2007年に初めて「ミシュラン一つ星」に認定された。
ここまでみて、漱石の作品に登場する銀座は五つの店舗のみで、それも店内の詳しい描写があるわけではない。唯一、銀座の光景を描写したと言えるのは『それから』における《新橋の勧工場を一回して、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の眼には、向う側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。》という箇所で、何となく代助の病理を示すものとなっている。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座②

馬籠で生まれた藤村が上京したのは1881年9月、9歳の時。三兄の友弥と共に、長兄秀雄に付き添われ上京し、長姉「その」の嫁ぎ先、高瀬薫の家に寄寓した。高瀬宅は京橋区鎗屋町にあり、銀座4丁目角、朝野(ちょうや)新聞社屋――時計塔のある服部時計店(銀座和光)の建っているところ――の裏手にあたる。藤村は、まさに木曽の山中から東京のど真ん中に連れて来られたのである。
藤村は数寄屋橋と山下門の間にある泰明小学校(京橋区元数寄屋町1丁目)に通った。家から歩いて数分。二階建ての赤煉瓦校舎で、学校の前には外濠があった。
藤村が上京した翌1882年、高瀬薫が帰郷し、藤村は薫の母方の親戚にあたる力丸元長の家に移された。翌1883年、藤村は高瀬の同郷、士族の吉村忠道宅(京橋区銀座4丁目4番地)に引き取られた。現在、ミキモト銀座本店や木村屋総本店が建っている辺り。小学校に近いことは変わりなかった。藤村は1884年、泰明小学校を卒業。海軍省官吏石井其吉に英語を学ぶようになるが、二年ほど学歴は不明で、1886年、吉村忠道の伯父武居用拙に「詩経」「左伝」、英学者島田奚疑に英語を学ぶ、と記録された後、三田英学校(のちの錦城中学)に入学する。三田英学校は当時、芝区愛宕町3丁目(現、港区新橋5丁目)にあった。寄寓する吉村宅から、歩いて15分くらいのところである。
しかし、9月には共立学校(のちの開成中学)に転校する。共立学校は当時、神田淡路町2丁目3番地にあり、現在の地下鉄千代田線新御茶ノ水駅東側すぐ、淡路公園あたり。歩いて30分ほどかかっただろう。この共立学校で藤村は木村熊二の教えを受けた。
父正樹が亡くなった翌年にあたる1887年。吉村宅は日本橋浜町3丁目1番地に引越した(その後、日本橋浜町2丁目11番地に引越し)。藤村にとって、共立学校に通うには近くなったが、9月に芝区白金今里町にある明治学院に入学。日本橋浜町から、水天宮の前を通り、鎧橋から日本橋へ出て、京橋・新橋、さらに芝大門から田町、西へ入って白金へ。今なら、都営地下鉄浅草線人形町駅から高輪台駅まで一本で約16分、そこから徒歩5分。当時、日本橋・新橋間(約2.5km)には馬車鉄道が走っていたが、おそらく利用しなかったであろう。学校までの道のりは9km以上。若者の足でも1時間半はかかったと推測される。
『桜の実の熟する時』には、日本橋浜町の吉村宅から明治学院へ通う様子がたびたび記され、時に1880年代の銀座も描かれている。
ある日、捨吉は、《その日は何も乗らずに学校まで歩くことにして、日本橋の通りへかからずに、長い本材木町の平坦な道を真直にとって行った》。江戸橋をまっすぐ南へ。楓川に沿って京橋川まで本材木町が続く。1丁目、2丁目は日本橋区、3丁目は京橋区で確かに長い。捨吉は白魚橋のところから京橋へむかい、銀座通りへ入って行く。《京橋から銀座の通りへかけて、あの辺は捨吉が昔よく遊び廻った場処だ。十年の月日はまだ銀座の通りにある円柱と円窓とを按排した古風な煉瓦造の二階建の家屋を変えなかった。あらかた柳の葉の落ちた並木の間を通して、下手な蒔絵を見るように塗られた二人乗の俥の揺られて行くのも目につく。塵埃を蹴たて喇叭の音をさせて、けたたましく通過ぎる品川通いのがた馬車もある。四丁目の角の大時計でも、縁日の夜店が出る片側の町でも、捨吉が旧い記憶に繋がっていないところはなかった》。「十年の月日」というのは、泰明小学校に通っていた頃、銀座に住んでいたことを表している。
こうして、捨吉は《昔自分が育てられた町のあたりを歩いて通ってみる気に》なって、《ある小路について、ちょうど銀座の裏側にあたる横町へ出た。そこに鼈甲屋の看板が出ていたはずだ。ここに時計屋が仕事をしていたはずだと見て行くと、往来に接して窓に鉄の格子の嵌った黒い土蔵造の家がある。入口の格子戸の模様はやや改められ、そこに知らない名前の表札が掛け変えられたのみで、その他はほとんど昔のままにある。》《黄ばんだ午後の日あたりを眺めながら彼が歩いて行く道は、昔自分が田辺のおばあさんに詰めてもらった弁当を持って学校のほうへと通ったところだ。(略)それを悦んで連れだつおばあさんや静かに歩いて行く姉さんの後について、野菜の市のたつ尾張町の角のほうへと自分もいっしょに出かけたところだ》。このような日々を思い出しながら、捨吉は学校の寄宿舎の方へ帰って行く。
『桜の実の熟する時』には、十字屋が登場する。《捨吉が玄関のほうから取出して来て友だちの前に置いたのは、青いクロオス表紙のウォルヅウォースの詩集だ。菅はその表紙をうちかえし見て、二枚ばかり中にいれてある英吉利の銅板の挿絵をも眺めた。捨吉もいっしょに眺めいりながら、「好い画だろう。これは君、僕がはじめて買った西洋の詩集サ。銀座の十字屋に出ていたのサ」》《はじめてナショナルの読本が輸入されて、十字屋の店頭なぞには大きな看板が出る》。十字屋は聖書類などを販売する書店として1874年、銀座3丁目に開業。後に楽器販売をおこなうようになり、今日に至っている。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と銀座①

私が初めて銀座を訪れたのは高校2年の時である。東京の風景は写真でみる機会が多いので、銀座4丁目交差点などもお馴染みのものだったが、「ナマ」を見ると、「夢」を見ているような心持になった。当時はまだ、都電が走っていたが、さすがに首都を走るだけに威厳が感じられた。
これから連載する『文豪と銀座』は、「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上七人の文豪たちの銀座に対する思いと、作品に描かれた銀座を紹介するものである。
銀座は日本でもっとも有名な商店街、繁華街であり、東京はもちろん全国各地に「〇〇銀座」なるものがある。「〇〇新宿」「〇〇渋谷」などはないから、銀座はやはり特別な存在であろう。そのような銀座であるから、東京在住の七人の文豪たちも銀座へはよく出て来たものと思われる。また、七人の文豪の中でもっとも早く銀座と関りをもったのは藤村であろう。藤村は1881年に木曽から東京に出てきて、銀座に住んだ。漱石は大正初期に亡くなり、龍之介は昭和初期に亡くなったが、後の五人は昭和モダンの銀座を見た。戦後の銀座を見ることができたのは荷風と犀星である。
このような七文豪であるが、作品となると、漱石や荷風、秋聲などはしばしば登場させても、銀座に住んだことのある藤村はそれほど描いていないし、犀星や龍之介は銀座に出没することは多くても、描くことは少なく、おそらく鏡花は「足しげく」という状況ではなかっただろう。作品の面から言えば、七人の文豪、銀座に対する思い入れはさまざまである。

銀座の地名は江戸時代はじめに駿府から銀座役所が移転され、銀貨の鋳造がおこなわれたことに由来する。日本橋を起点とする東海道が京橋を渡ると、新両替町1~4丁目が連なり、通称「銀座」の呼称が用いられ、明治に入って1869年に銀座1~4丁目の名称が使用されるようになった。1930年、尾張町が銀座5丁目・6丁目、竹川町が銀座7丁目、出雲町と南金六町が銀座8丁目に名称変更され、「銀座八丁」が成立した。
日本橋を起点とする東海道が江戸の街を通り抜ける、その京橋と新橋の間がいわゆる「銀座」である。1872年2月26日に銀座一帯が大火で焼失し、これを機会に耐火構造の建築が進み、1877年までには煉瓦街が出現した。道路幅も27mほどに拡げられ、歩道もつくられた。1872年と言えば、10月14日に新橋(汐留)・横浜(桜木町)間に鉄道が開業し、煉瓦街へと生まれ変わっていく銀座は、東海道筋というだけでなく、駅前通りとして繁華な街を形成していくことになる。
煉瓦家屋の前面には二階部分にバルコニーが張り出し、その下は歩廊(アーケード)となっており、この空間は間もなくショーウィンドウとして活用されるようになった。歩道と「車道」の境界には、1874年から街路樹が植えられるようになり、当初、松・楓・桜だったが、環境に合わず、1877年に柳が植えられたのをきっかけに、1884年にはほとんど柳に替えられてしまった。また、1874年にはガス燈が設置され、1882年にはアーク燈(電気街燈)の設置が始まった。乗合馬車はすでに1869年から走っていたが、1882年になると鉄道馬車が銀座の通りを走るようになった。
藤村が日本橋浜町から明治学院まで通った1890年頃の体験を描き込んだ『桜の実の熟する時』には、《いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通う日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町のほうへ廻って、そこで品川通いのがた馬車を待つかした。》と記されており、鉄道馬車や乗合馬車が銀座を走っていたことが読み取れる。
                         (つづく)
【館長の部屋】 玉ノ井へ行く⑤

わたくしは東向島5丁目21と22の間から国道6号線に出て、南西つまり言問橋方向へ歩む。北東と南西方向を結んで、まっすぐ伸びている国道は、ビルの谷間を走る状態になっている。まもなく、かつて白鬚線が通っていたところを通過。右側がかつての玉の井3部、左側が玉の井4部。わたくしは玉の井3部側を歩いている。
やがて、平和通りから東向島5丁目14と20の間を南へまっすぐ伸びる道路が合流する。かつて、賑本通り(現、平和通り)にあった大正堂薬局の前から改正道路(現、国道6号線)に伸びていた道路で、途中に呉服屋や薬局もあり、改正道路に出る角にも長岡薬局(通称、狸薬局)があった。やはり色町である。改正道路には市営バスの寺島町5丁目停留所(荷風は6丁目と表記していることもある)があった。
改正道路は「広小路」とも呼ばれたが、荷風は『濹東綺譚』に、《それでも銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷の如きは、いづれも以前のまゝ大正道路に残っていて、俚俗広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。》と書いている。流れる汗と息苦しさに堪えかね、改正道路にあたる広小路へ出て、帰るつもりで7丁目のバス停へむかった大江。《車庫からわづか一二町のところなので、人の乗ってゐない市営バスが恰もわたくしを迎えるように来て停った。》が、帰りがたくぶらぶら歩き、酒屋の前の曲がり角にポストの立っている5丁目(6丁目)バス停。このバス停に立って大江は空地を眺める。《この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴し立ててゐた》と、これは「ゴリラ広場」とよばれた空地の描写であろう。サーカスやお化け屋敷などの見世物小屋が、よく興行した。現在、朝日シティパリオ東向島(東向島6丁目37-4)が建っている一帯である。国道6号線の向う側に並び立つビルの上に東京スカイツリーが尖塔部分をのぞかせている。
ほどなく、東向島6丁目の標示をつけた信号がある。ここから東向島5丁目4と 18の間を真西に入る道路があり、50mほどで南北に伸びる道路と丁字路をつくっている。左側の東向島5丁目4は台形の区画になっており、かつてここに玉ノ井市場があった。右側は東向島5丁目18から16へと変わり、ここに昭和病院があった。現在は墨田区保健所向島保健センターになっている。
荷風は『濹東綺譚』に、《警察にて検梅をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部といふ順序なり。検梅所は玉ノ井市場側昭和病院にて行ふ。入院患者大抵百人以上あり 女の総数は千五、六百人なり 入院料一日一円なり。》と記し、昭和病院の名を登場させている。
丁字路を構成する南北の道路は、玉ノ井の五叉路から南南東方向に伸び、今里医院の前を通るもの。かつて白鬚線の土手をトンネルでくぐって越えていたものである。
わたくしは国道から丁字路にやって来た。突き当りにカーサ東向島、その1階に中華料理店。右手にある保健センターの向かいには東京墨田看護専門学校がある。左手はかつて玉ノ井市場があったところで、現在は14階建てのステーションプラザメッツ東向島駅前。コンビニや整形外科も入っている。物件の名称通り、コンビニの前からまっすぐ西へ伸びる道路は東向島駅に達している。この間が東向島駅前商店街のメインストリートになる。わたくしは左折して、まもなくコンビニの前で右折して、地元商店街を100mも行かないうちに東向島駅に到着した。これでわたくしの玉ノ井探訪は一応の終わりである。
この後は東武電車に乗って、浅草に行こう。

10分ほどで淺草駅着。街へ出ると人が多い。大都会東京へ出てきたと実感する。雷門前に。外国人観光客の姿が目立つ。着物で人力車に乗る人たちも。おそらく、日本に来たら、着物を着る、人力車に乗る、仲見世で食べる、土産を買うと、下調べをして、楽しみにしてきたことだろう。雷門の大きな提灯を背景に写真を撮ることも予定に入っているだろう。たぶんわたくしが外国人観光客でも同様であろう。人力車は多少値段が高くても、この際、思い切って乗るだろう。旅の思い出づくりにきっと役立つ。
淺草を日本文化の代表のように思われるのも心外だが、外国人がこの浅草に自国とは違う魅力、違う文化を感じているとしたら、間違いなく淺草は日本文化そのものを表出しているのであろう。と言うより何より、わたくし自身がこの猥雑な浅草に魅力を感じ、何度も来てみたくなるのであるから、日本人の心をも捉えるものがあるのだろう。そしてまた、鏡花も犀星も浅草に魅了され、龍之介や荷風も浅草を愛し、漱石さえも浅草を描いている。不思議な空間「浅草」。いずれ『文豪と浅草』を執筆したいと考えている。
舟和で芋ようかんを買って、雷門通りのバス停から、また「ぐるーりめぐりん」に乗って上野駅にむかう。今度は台東区の南半分をぐるり回る。台東区内、似た雰囲気のところが多く、地図を見ていても、今どこを走っているのか、わからなくなってしまう。

                       (完)
【館長の部屋】 玉ノ井へ行く④

『濹東綺譚』最大の「聖地」であるお雪の住家設定地一帯は現在も「迷宮(ラビラント、ラビリンス)」である。わたくしは手帳に地図を描きながら、住居表示を細かく書き込んでいる。このようにしないと、後で文章を書くことさえできなくなってしまう。けれども、戦災や戦後の再開発の波もくぐりぬけ、今日も『濹東綺譚』の時代さながらに「迷宮」が残っていることを、わたくしは嬉しく思う。ここが区画整理されてしまえば、お雪の住家がどのあたりに設定されたか、まったくわからなくなってしまうし、たとえわかったとしても、直交する道路の真ん中とか、マンションの敷地の一画では情緒が伝わってこない。もちろん、現在あるのは普通の住宅で、私娼窟になっているわけではないが、道路の形状が残っているだけで、情緒が伝わってきて、わたくしを荷風文学の世界へ誘ってくれる。ここでは「ぬけられます」とでも書いてもらわないと、ほんとうに永久にぬけることができないのではないかと思わせる「迷宮」である。
とりあえず、かつての溝の経路に沿って、東清寺へむかう道路に出た。『濹東綺譚』では、大江が《溝づたいに路地を抜け、こゝにも板橋のかゝってゐる表の横町に》出てと描写されている。わたくしは左折する。この道路、《両側に縁日商人が店を並べてゐるので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いてゐる。》と描写されたもので、《板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻で。》と、ここで出てくる「馬肉屋」は、肉を扱う大越商店(東向島5丁目29-2)として現存している。チョコレート色のレンガ造り風、2階建てのビルである。この横町を出て、大正道路、現在のいろは通りを横切ると、道は東清寺にむかっている。それは《辻の向側には曹洞宗東清寺と刻した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立ってゐる。》と描かれる。いろは通りに面した大越商店の入口上はタイル張りになって、「O-KOSHI」とタイルを使って表示されている。
このあたり、大正道路(現在の、いろは通り)の冬にむかう街の光景を荷風は、《十月になると例年よりも寒さが早く来た。既に十五夜の晩にも玉の井稲荷の前通の商店に、「皆さん、障子張りかえの時が来ました。サービスに上等の糊を進呈。」とかいた紙が下ってゐたではないか。最早や素足に古下駄を引摺り帽子もかぶらず夜歩きをする時節ではない。》と描写している。生活感の中に季節の移ろいが感じられる。「さすが文豪である」と言いたいが、これは作家・大江が書いたことになっている。
さて、わたくしは、いろは通りを横断する。東清寺へむかう道路はゆるく曲がっているが、かつてこの入口にお稲荷さんの赤い鳥居が立っていたのだ。東清寺には玉の井稲荷があり、2日と20日の縁日の晩は賑やかで、《路地の中は却て客足が少いところから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでゐる。》と荷風は書き、縁日の賑わいを、《こゝにも夜店がつゞき、祠の横手の稍広い空地は、植木屋が一面に並べた薔薇や百合夏菊などの鉢物に時ならぬ花壇をつくってゐる。東清寺本堂建立の資金寄附者の姓名が空地の一隅に板塀の如くかけ並べてあるのを見ると、この寺は焼けたのでなければ、玉の井稲荷と同じく他所から移されたものかも知れない。》と描写している。東清寺は1927年に当地へ移されたものである。
わたくしは当時の賑わいを妄想しながら、静まり返った道路を突き当りの東清寺へ。門柱の左手前に石柱が立ち、「玉の井稲荷 豊川稲荷尊天 身代り不動尊 東清禪寺」と刻まれている。本堂は3階建てで、正面の階段を2階へ上がってお参りすることになる。
大越商店のところまで戻って、せっかく玉の井稲荷まで行ったのだから、満願稲荷社も確認しようと、いろは通りを五叉路の方に100m足らず歩く。あと少しで角の交番だ。墨田3丁目6の玉ノ井ビルと理髪店の間に狭い道があり、すぐ突当りの住宅を越えたむこうに満願稲荷社がある。玉ノ井ビルが建っているところ付近には、かつて玉の井館という寄席があり、道路の向側に京成バスの車庫があった。
入口がわかりにくく、今回は行くことをやめるが、お稲荷さんにお地蔵さん、それに日蓮さんの石柱が押し込められたように狭いところに共存する不思議な空間になっているという。何か都会のアパートの一室がシェアルームになっているような、異なる人びとが都会の片隅で肩寄せ合って暮らす、ある意味ほほえましい空間だ。これなら争いは起きまい。
わたくしは平和通り(賑本通り)へ出るため、大越商店の角を曲がり、再び東向島5丁目29と31の間の道路にやって来た。右側がかつての玉の井2部、左側が1部で、中間地点の右側に玉の井町会会館がある。荷風は《この道の片側に並んだ商店の後一帯の路地は所謂第一部と名付けられたラビラントで》と書いている。右側が東向島5丁目24、左側が23、その間から平和通りへ。『濹東綺譚』当時、右角に改進亭、左角におでん屋があり、その隣りがたばこ屋、そしてポスト。《大分その辺を歩いた後、わたくしは郵便箱の立っている路地口の煙草屋で、煙草を買い、五円札の剰銭を待っていた時である。》と、ここで突然の雷雨。大江は傘を持たずに外出することなく、傘を広げていると、「檀那、そこまで入れてってよ。」と、女が傘の下に首を突っ込んでくる。大江とお雪の出会いの場がここである。今は何ごともなかったかのように、住宅や水道屋さんが建っている、どこにでもありそうな街の一画である。
平和通りへ出て左へ行けば当時の改正道路、現在の国道6号線に出るが、わたくしは右方向、五叉路方向に100mほど歩く。少し先に信号が見えている。この間を荷風は、《ポストの立ってゐる賑な小道も呉服屋のあるあたりを明い絶頂にして、それから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾屋などが目に立って、遂に材木屋の材木が立掛けてあるあたりまで来ると、幾度となく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自転車預り所と金物屋との間の路地口に向けられるのである。》と描写している。この自転車預り所は現在の東向島5丁目25-1、金物屋は現在の東向島5丁目26-13にあった。わたくしも今、平和通りの右側、東向島5丁目25と26の間にある自動車1台通るのがやっとの道路の入口に立っている。
道路はすぐ右へ曲るが、直行して「けもの道」が木の茂みに伸びて消えている。ここを入ったところに、先に紹介した伏見稲荷社があり、《この路地の中にはすぐ伏見稲荷の汚れた幟が見えるが、素見ぞめきの客は気がつかないらしく、人の出入は他の路地口に比べると至って少ない。これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果の茂ってゐるのと、溝際の柵に葡萄のからんでゐるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしてゐるのである。》と、お雪の住家に通じる。大江が初めてお雪と会い、連れ込まれて行く場面を荷風は、《路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀の日蔽をかけた家の前に立留った。》と描写している。鬱蒼とした小径をわたくしは左側にお稲荷さんを感じながら、と言っても、現在では住宅が建っているのであるが、もう一度、お雪の住家設定地まで行ってみた。
のんびりしてもいられないので、もと来た道を戻って、二人の出会い設定地も過ぎ、国道6号線へ。東向島5丁目23を過ぎ、36との間に北から道路が交差し、そのまま突っ切って国道6号線に合流している。この北から来る道路、荷風が、《お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはづれの道端に現われて、中島湯という暖簾を下げた洗場の前を流れ、許可地外の真暗な裏長屋の間に行先を没している。》と描いている、中島湯前を通る道。中島湯は寺島町7丁目46(現在の東向島5丁目34-3)にあり、1980年代までは営業していたが、跡地には1995年、ライオンズマンション東向島第2が建てられている。荷風は、さらに、《縁日の露店はこの通には出てゐない。九州亭というネオンサインを高く輝してゐる支那飯屋の前まで来ると、改正道路を走る自動車の灯が見え蓄音機の音が聞える。》と描写しているが、中島湯の前を通る道路が平和通りへ交差する角、現在の東向島5丁目36-1に九州亭があった。
平和通りを直進しても、間もなく国道6号線(当時の改正道路)に出るが、わたくしは右折して、間もなく国道6号線に出た。

                       (つづく)
【館長の部屋】 玉ノ井へ行く③

このあたりにおけるわたくしの関心は、京成電車白鬚線の線路と玉ノ井駅がどこにあったかということ。事前に当時の地図と、現在の地図を重ね合わせて、おおよそ目星をつけてきたが、戦前になくなり、線路跡に住宅なども建てられたので、痕跡はまったく残っていない。現地へ行って、果たしてどこまでわかるだろうか。
東向島駅東口から高架沿いに「東向島粋いき通り」を北へ100m余。右手つまり東側、東向島5丁目10と11の間に、東へ伸びる小路がある。途中で左折している。このあたり一帯、途中で途切れる小路が多く、おそらくここに白鬚線が通り、京成玉ノ井駅があったと思われる。そのすぐ南側、角に中華料理店がある、5丁目10と9の間の道路は多少広く、貫いており、おそらくこれが玉ノ井駅南側の道路であろう。その南、つまり5丁目9の一画に玉ノ井御殿があったと考えられる。そう考えると感慨深いものがあるのだが、このあたり、どこにでもありそうな、家々が建て込んだ庶民の街の光景である。
わたくしは5丁目10と9の間の道路を東へ、かつての昭和病院(現在、墨田区保健所向島保健センターが建っている)の前を通って、玉ノ井の五叉路へむかう道路に出て左折。まもなく左手に今里医院(東向島5丁目10-12)がある。おそらくこのあたりに白鬚線が通り、土手をくぐるコンクリート製の土管を埋めたようなトンネルがあったと思われる。白鬚線は東武電車より後にできたため、玉ノ井駅付近では東武電車の上を立体交差するため土手が築かれていた。
荷風がこの地を訪れたのは、京成白鬚線が廃止された1936年3月1日から半年ほど経った時期である。『濹東綺譚』に荷風は、《京成電車もと玉の井停車場はいつの頃よりか電車の運転を中止し既に線路と共に待合所の建物をも取払ひたれば、線路敷地の土手に芒生茂り、待合所の礎石プラットフォームに昇る石の階段のみ雑草の中に聳立ちたるさま城塞の跡の如し。》《線路に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかゝった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている》。玉ノ井駅と土手に関しては、《子供のあそぶ姿の見えたれば石段を登りセメント敷のプラットフォーム跡に佇立するに、西方にはかの安田別墅の林樹眼界を遮り、空には高く七、八日頃の月浮びたり。土手の下の南方に立派なる屋敷二、三軒石の塀を連ねたり。これ噂に聞きし玉の井娼家主人の住宅にて玉の井御殿と呼ばるるものなるべし。》と『断腸亭日乗』(1936年9月22日付)にも記されている。
今里医院の前を五叉路にむかって、北西方向に少し行くと、「東向島粋いき通り」と「平和通り(賑本通り)」とを弧を描いて結ぶ小路と交差する。左手へ小路を入ると、北側つまり東向島5丁目12の一画に、「魚八栄五郎(サカナヤエイゴロウ)」という看板を掲げたお店があり、弁当や唐揚げなども売っている。下町情緒あふれる光景である。荷風は『濹東綺譚』に《わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。》と始めて、大江が見た玉の井近辺を描写しているが、おそらくこのあたりのことであろう。要約すると、眼の下に遮るものもなく、今歩いて来た道と空地と新開の町とが低く見渡され、土手の向う側はトタン葺きの陋屋が秩序もなく、端もなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の煙突(この湯屋、つまり銭湯は「松の湯」として実在した)が屹立して、トタン葺きの屋根の間からはネオンサインの光と共にラジオの響きが聞え始める。「魚八栄五郎」の建っているあたりに向島劇場があったのではないだろうか。
「魚八栄五郎」と反対方向の小路を行くと、すぐ平和通りである。途中に「松の湯」があったと推定されている。《すると意外にも、其処はもう玉の井の酒場を斜に貫く繁華な横町の半程で、ごたごた建て連った商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通」など書いた灯がついている。》と、まんまと荷風はわたくしを玉ノ井の街の中に連れて来る。当時、「賑本通り」(現在の平和通り)の名前の通り、玉ノ井でもっとも賑やかだった。
わたくしは五叉路にやって来た。白鬚橋の方から東行してきた大正通りが、東武電車の高架をくぐって、北東へ向きを変え、「玉の井いろは通り」になったところへ、平和通りが交差し、そこへ南東方向から今里医院の前を通る道路が合流する。ちょうど漢字の「大」の字のような形状をした五叉路である。
交差点から南西方向には、大正通りが東武電車のガードが見える。荷風が描いた当時はまだ踏切になっていた。越えるとまもなく左手に隅田町郵便局があった。『濹東綺譚』では、大江は《帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷の間を迂曲する小道を辿り辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。》と描かれている。平和通りも交差点を過ぎて西行すると、すぐ東武電車のガードをくぐる。
北東方向へ「玉の井いろは通り」を眺めると、正面、狭い道が左へ分岐する角地に、向島警察署墨田三丁目交番(墨田3丁目6-17)がある。「玉の井いろは通り」をはさんで、この交番の向かい側、つまり東向島5丁目27と26の間の小路を入ったところに、『濹東綺譚』に登場する「お雪」の住家設定地がある。当時、交番が現在地になかったことが、荷風にとって幸いであった。とにかくこのあたり、道路沿いに派手さはないが、商店が多い。
わたくし、いよいよ東向島5丁目27と26の間の小路に足を踏み入れる。軽自動車でも通行は難しそうだ。なぜかワクワクする。何と言っても『濹東綺譚』最大の「聖地」である。数十m行くと、小路は左折。直進は人一人通ることができる程度の、まさに「けもの道」。右手一帯に伏見稲荷があったから、「けもの」は「おキツネ様」であろうか。稲荷社があったと思われるところには住宅が建っている。
左折した小路。左側が東向島5丁目27-10および7-9でブロック塀が続き、右側が26-6で住宅やアパートが並んでいる。狭い道路にはマンホールが続き、かつてこの小路にミゾが流れていたことをうかがわせる。この左側の27-10および7-9こそ、「お雪」の住家が設定されたところとして推定されている区画である。荷風は、お雪の家を、《其家は大正道路から唯ある路地に入り、汚れた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶奥深く入り込んだ處に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラディオのひゞきを避けるにはこれほど適した安息處は他にはあるまい。》と描写している。
このあたり、溝があるため蚊が多い。このような場面。お雪が歯医者へ出かけている間に、お雪の抱え主と思われる男がやって来る。お雪は「商売女」であり、男二人、それは承知ではあるが、亭主と不倫相手が顔を合わせたようなものであり、大江は気まずい。この二人の男の中を取り持つのが「蚊」である。蚊遣香(蚊取り線香)が焚かれていないので、家じゅうにわめく蚊の群れは顔を刺すのみならず、口の中にも飛び込もうとする。扇風機は壊れている。これを機に二人の男性に会話が生まれる。《「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、「そうですか。こゝはもともと埋地で、碌に地場もしないんだから。」と主人もしぶしぶ口をきゝ初めた。「それでも道がよくなりましたね。」「その代り、何かにつけて規則がやかましくなった。」「そう。二三年前にゃ、通ると帽子なんぞ持って行ったものですがね。」「あれにゃ、わたし達この中の者も困ったんだよ。用があっても通れないからね。女達にそう言っても、そう一々見張りをしても居られないし、仕方がないから罰金を取るようにしたんだ。店の外へ出てお客をつかまえる處を見つかると四十二圓の罰金だ。それから公園あたりへ客引を出すのも規則違反にしたんだ。」「それも罰金ですか。」「うむ。」》と。もともと田圃だったのだろう。今では溝も地下へもぐっているので、蚊はあまりいないだろうが、これは住んでみなければわからない。
作品ではさらに、二階から見える街の光景が、《窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られてゐるが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐ってゐる女の顔、往ったり來たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空までも薄赤く染められてゐるのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしてゐる。》と描かれている。「溝の向側に並んだ家」とは、現在の東向島5丁目26-6にあたると推定される。
それにしても、このようなところで、写真を撮ったり、住居表示をメモしたりしていると、きわめて怪しまれそうである。幸い誰も通らない。荷風がここに通った頃には、狭い道に人が押し合っていたこともあると言う。この小路に立っていると、何やら荷風の息遣いが感じられそうである。

                       (つづく)
【館長の部屋】 玉ノ井へ行く②

桜橋を渡って墨田区に入り、目指すは桜餅。長命寺の桜餅であるから、食べる前に長命寺を訪ねなければ申し訳ない。墨堤通りから首都高をくぐって、桜餅のお店と言問団子のお店は発見したものの、長命寺の山門が見つからない。そのうち、やっと山門を見つけたと思ったら、「弘福寺」と書いてある。がっかりしかけたところ、「淡島寒月旧居跡」の説明板。せっかくなので読んでみると、この寺の地内には、江戸時代からのせんべい店「淡島屋」の主人で趣味人でもあった淡島椿岳の隠居所があり、息子の淡島寒月も1893年頃からこの隠居所で悠々自適の生活を送っていたが、《夏目漱石の「吾輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。》と、思いもかけず漱石が登場。「転んでも、ただでは起きない」気分である。
また、探し回ってやっと長命寺の山門を見つけたと思ったら、境内は言問幼稚園の敷地になっていて、中へ入ることができない。「地理屋」としては、道を訊くのは恥であるが、時間の関係もありいたしかたない。桜餅のお店で訊いてみる。「うちの店の横を入って行けばいいよ。」と教えてもらい、やっと長命寺の本堂へ。ギリギリまで幼稚園の敷地が広がっている。
お参りを済ませて、桜餅のお店の前まで戻ると、「正岡子規仮寓の地(長命寺桜もち)」の説明坂。寒月に続く漱石つながり発見に嬉しくなる。説明文によると、子規は《隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生》だった時、《長命寺桜もち「山本や」の2階を3カ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在》したという。その時、《花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ》という和歌を詠み、さらに明治28年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍した折も、《から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻  今か散るらん》と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んだ。俳人正岡子規の説明に、俳句を出さず、子規の和歌を三首掲げた説明文に執筆者のこだわりを感じるが、おかげでわたくしは子規が和歌も詠んでいたことを知った。収穫である。
やっと桜餅である。山本やに入る。販売する商品の種類は限られているので、店内は簡素である。すぐ食べる用に一個購入し、お土産用にも購入した。伯母といっしょに川蒸汽に乗った時、伯母が膝に載せている長命寺の桜餅を男女の客から「糞臭い」と言われたと書いた龍之介の『本所両国』を思い出す。帰りの電車の中で臭いませんように。店を出て、近くの木陰に腰をおろし、桜餅を食べる。
と、道路の向う側で「言問団子」が呼んでいるではないか。行かないわけにはいかない。行けば食べないわけにはいかない。食べなければきっと後悔するであろう。旅の名物とはそのようなものである。桜餅を食べたばかりだが、一皿注文する。白色・小豆色・黄色の団子が皿に乗っている。串刺しではない。独立している。墨堤の桜のすぐ脇にあり、「花見団子」だと思ったら、どうもそうではないようだ。店の人によると、隅田川七福神めぐりの中間地点で、一服するのに丁度良かったから、という。何か「チコちゃんに叱られる」の回答のようである。もちろん、花見の時には店内も混雑するとか。店の人は長命寺とのつながりもまったくないと教えてくれた。
言問団子の店を出ると、すぐ「隅田公園少年野球場」の説明坂がある。この球場には王貞治少年もここから育ったと記されている。公園の向うの隅田川の川岸一帯には、かつて大学の艇庫が建ち並び、「向島艇庫村」などと呼ばれた。
わたくしは墨堤通りを北へ。向島高速道路入口交差点まで来る。左手へ行くと首都高速道路6号向島線に入る。もちろん歩行者は入れない。右手からは何本も狭い道が伸びている。そのうちのひとつが鳩の街商店街。ひっそりとした一方通行の道路には、「鳩の街」の看板がつけられた街燈が何本か見られるが、やがてゆるいカーブによって、その先は見ることができない。終戦頃から一時期、鳩の街は赤線地帯として賑わい、荷風も訪れ、作品の舞台としている。
わたくしは鳩の街商店街に入っていくのをやめ、墨堤通りを北へ300mほど、地蔵坂通りの入口に達した。地蔵坂通りは二車線で、このあたりの生活道路としては広い方で、店舗も多い感じ。きびだんごがわたくしを呼んでいるが、心を鬼にして店の前を立ち去り、地蔵坂通りを渡って、角地にある子育て地蔵尊へ。道端から隠れるように祠が建っているが、道路沿いには提灯がいくつも飾られ、それなりに地蔵尊の存在を主張し、そのむこうにきびだんごの店が見える。
『濹東綺譚』では、お雪と別れた大江が隅田町郵便局の前から白髭神社へまわり、地蔵坂のバス停までやって来る。そして荷風は、《わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちゞめて風をよけた。》と描く。わたくしの方はこれから玉ノ井へ行く身である。その途中、どうしても白髭神社へ寄らなければならない。200mほどである。荷風は、《帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷の間を迂曲する小道を辿り辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。》と、大江を歩かせている。
白髭神社の境内はいびつで、本殿を直視することができない。わたくしにとってここでのお目当ては鷲津毅堂の碑である。境内へ入って左手にすぐ見つかった。大きな石に細かな字がぎっしり彫られ、何と書いてあるのかまったく読めない。説明坂が立っているが、この鷲津毅堂こそ荷風の祖父であり、荷風もこの地を訪れたことがある。
わたくしは「陋巷の間を迂曲する小道を辿り辿って」、向島百花園の脇に出た。びっくり!「海抜-1.0m」の標示が。やがて明治通りを横断し、さらに200mほど。東武鉄道東向島駅の南端。ガードをくぐれば、東武博物館の展示車輌が出迎えてくれる。特急「けごん」の車輌の一部もある。鉄道ファンとしては東武博物館に入ってみたいが、今回は素通り。東向島駅口の標示には、確かに「(旧玉ノ井)」の文字も。やっと、玉ノ井の入口に立った気分である。

                       (つづく)
【館長の部屋】 玉ノ井へ行く①

「意を決して玉ノ井へ行く」などと、仰々しく書く必要はない。墨田区東向島という、東京下町のどこにでもありそうな地域である。けれども、荷風が『濹東綺譚』に書いてしまったために、文学的に何か特別な由緒ある地域になってしまった。わたくしも縁あって荷風について書くようになって、何とはなしに玉ノ井に興味を抱くようになり、行ってみたいと思うようになった。いわゆる「聖地巡礼」の類いである。

上野駅入谷口から台東区循環バス「ぐるーりめぐりん」に乗る。一葉記念館、三ノ輪駅前、吉原大門、橋場を経て、明治通りを白鬚橋西詰で右折して隅田川沿いを南下する。地元密着のコミュニティーバスである。運転手さんとも顔見知りとみえて、気軽に言葉を交わしている人もいる。上野駅を出発した時はまばらだった乗客も次第に増え、そのうちに満員状態になった。さすが東京である。わたくしは花川戸で下りた。上野駅から40分。浅草方面ならもっと早く着く方法もあるのだが、荷風の作品には橋場あたりのことも出て来るし、白鬚橋の西詰も見たかった。つけ加えれば、秋聲の『仮装人物』に浅草の方から白鬚橋にむかって隅田河畔をドライブするようすが記されている。歩くのはたいへんだから、せめてバスの車窓からでも眺めてみたい。このような思いがわたくしにはあった。

花川戸でバスを下り、引き返すかたちで北上し、言問通り(浅草公園裏の大通り)を越えると、隅田川沿いの道路(橋場通り)に、南千住方面から南下してきた道路(吉野通り)が鋭角に交わる交差点があり、その鋭角部分に浅草警察署聖天町交番が建っている。『濹東綺譚』には、《道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髭橋の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁である。》と、明確に書かれている。つまり交番は戦前からその位置を変えていない。『濹東綺譚』の主人公大江は、隅田川沿いの公園で不審者として巡査に声をかけられ、この聖天町交番へ連れて来られた。結局、58歳の大江は戸籍抄本と印鑑証明書を持っていたおかげで豚箱へ入れられずに済み、麻布区御箪笥町1丁目6番地の自宅へ帰った。
わたくしは交番の前に立っている警察官に、『濹東綺譚』のことなど話してみようかと思ったが、荷風のように交番を避けるつもりはないものの、職務中では申し訳ないと思って遠慮し、200mほど北上して今戸橋に達した。途中左手、道路の向う側に待乳山聖天がある。
今戸橋と言っても、1987年に山谷堀が埋め立てられてしまったので、今戸橋跡の説明坂と欄干の一部が残っているだけである。それでも山谷堀は緑道に整備され、まっすぐに伸びているので、何となく橋の上にいるような感覚におちいる。かつて山谷堀を通って船で吉原へ通う人びとが多く、「今戸橋わたる人よりくぐる人」という句があるが、今では今戸橋をくぐることができない。それでも、当時のようすを想像してみたり、漱石の姉たちが猿若町へ芝居見物に行く時、《流れを遡って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍らに着けたものだという。》と、『硝子戸の中』の一文を思い出したり、『すみだ川』で長吉がお糸と今戸橋で待ち合わせる場面を思い浮かべたりしていると、わたくしの思いは100年以上前に、一気にタイムスリップして、明るく乾いた現実の風景が、にわかにしっとりとしてくるのである。これが文学散歩の魅力である。と、書いていると、《今戸橋を渡りかけた時、掌でぴしゃりと横面を張撲るような河風》という『すみだ川』の一文に、わたくし自身、思わず胴震いしたり、『吾輩は猫である』に出てくる「今戸焼の狸」の姿がポッコリ浮かぶ。
今戸橋北詰で川沿いの道路から鋭角に分かれて、清川方面にむかってまっすぐ北上する道路がある。その分岐してすぐ左側に慶養寺がある。門の両脇に一対の仁王像が立っているが、屋根もなく雨ざらしである(かろうじて、山門の屋根のひさしが掛っていると言えば、言えないこともないが、風が強ければ雨がかかるであろう)。本堂は門をくぐって、ぐんと奥になる。『すみだ川』には、《一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた。》などという、美文がある。
慶養寺の前を北上すると、本龍寺、その先に今戸神社(今戸八幡神社、今戸1丁目5-22)がある。距離にして100mほど。『すみだ川』では、隅田川を渡った蘿月が急に思い出して近所の菓子屋を探して土産を買い、今戸橋を渡ってまっすぐ歩くと、二三軒、今戸焼を売る店がある以外、《何処の場末にもよくあるような低い人家つゞきの横町である。人家の軒下や路地口には話しながら涼んでいる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立って白く見えながら、あたりは一体にひっそりしていて何処かで犬の吠える声と赤兒のなく声が聞こえる。天の川の澄渡った空に繁った木立を聳かしている今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豐と勘亭流で書いた妹の家の灯を認めた。》と、蘿月の妹お豊と、その息子の長吉が住む家まで案内してくれる。今戸神社の本殿では二体の大きな招き猫が出迎えてくれる。ひょっとして雄雌?この猫たちも縁結びで結ばれたのかもしれないが、江戸時代、今戸焼は招き猫の唯一の生産地(招き猫発祥地)。
わたくし、今戸橋跡まで戻る。今度は川下をむいているので、左手一帯、隅田川まで100mほどあるだろうか。その間が隅田公園で、荷風は「川端の公園は物騒だ」と書いている。山谷堀は隅田川まで続いており、今戸橋から隅田川を望むことができた。『すみだ川』では、《山谷堀から今戸橋の向に開ける隅田川の景色を見ると、どうしても暫く立止らずにはいられなくなった。河の面は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞めている。荷船の帆の間をば鷗が幾羽となく飛び交う。長吉はどんどん流れて行く河水をば何がなしに悲しいものだと思った。川向の堤の上には一ツ二ツ灯がつき出した。》と描写している。
今戸橋と隅田川の中間あたりに船着き場があり、三圍(みめぐり)稲荷神社を結ぶ「竹屋の渡し」(「待乳の渡し」ともいう)も、ここに着いた。蘿月もこの渡しを利用しているが、言問橋架橋にともない、1928年に廃止された。
わたくしは台東リバーサイドスポーツセンターの南から東へ回り込み、隅田河畔の道に出て、桜橋へ。このあたりの情景、『すみだ川』には、《残暑の夕日が一しきり夏の盛よりも烈しく、ひろびろした河面一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目に反映していたが、忽ち燈の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐の上を滑って行く荷船の帆のみが真白く際立った。と見る間もなく初秋の黄昏は幕の下るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩しくきらきら光り出して、渡船に乗って居る人の形をくっきりと黒絵のように黒く染め出した。堤の上に長く横わる葉桜の木立は此方の岸から望めば恐しいほど真暗になり、一時は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘残らず上流の方に消えてしまって、釣の帰りらしい小舟がところどころ木の葉のように浮いているばかり、見渡す隅田川は再びひろびろとしたばかりか静に淋しくなった。遥か川上の空のはづれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間なく閃めいては消える。》と描写されている。こうなってくると、上流の視界をさえぎる桜橋が邪魔になってくるが、これから渡らせていただくのであるから、文句を言うわけにはいかない。
桜橋はXを細長く、Xの形に架けられた珍しい橋で、人道橋。橋の中程まで来て下流を見ると、言問橋が正面に見える。右手河岸に「山谷堀水門」。山谷堀は埋め立てられたが、暗渠になっており雨水渠として利用されている。したがって水は現在も流れており、隅田川に流入するところに水門が設けられている。かつてはこの水門部分を通って、隅田川と山谷堀を船が行き交っていたのである。
蘿月は左手河岸から「竹屋の渡し」に乗る。《丁度河の中程へ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄にもあるようにいかにも投遣った風に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独で鼻唄をうたった》。目の前の隅田川はそのようなことも知らずに、今も滔々と流れている。わたくしだけが当時を感じとっていれば、それで良い。

                       (つづく)
【文豪と隅田川】 第13回

龍之介は物心ついて、旧制中学校を卒業する1910年頃まで両国に住み、隅田川はすぐ近くにあった。『大川の水』(1914年)で龍之介は、《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。》と記し、やがて内藤新宿に移った龍之介は、《この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。》と、隅田川に対する思いを表している。
1927年に書いた『本所両国』は大震災後の隅田川や本所・両国を見ながら、15年以上前の思い出を重ねている。「パンの会」発会が1908年であるから、藤村や荷風が作家として隅田川の現時点を描き込んだ情景が、龍之介の子どもの頃の思い出の隅田川である。

龍之介は『本所両国』で、小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じていると書き、子どもの頃、両国橋を渡りながら、《浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めていた》が、《中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。》と「百本杭」を懐かしむ。《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、両国界隈を懐かしむ。
子どもの頃、《水泳を習いに行った「日本遊泳協会」は丁度、この河岸にあった。》と龍之介は思い出す。その隅田川と大川端は大きく変貌して目の前にある。
龍之介は『大川の水』で、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあったとして、《その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている》と続けている。そしてこの「隅田川の渡し」について、『本所両国』で、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》が、《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と記している。
龍之介は『本所両国』に、《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。(略)唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった》と書き、自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう》と記し、そこへやって来た五大力に、《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない》と評し、《幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた》と続けている。
『本所両国』は現地を実際に歩いているので、目の前につぎつぎ驚きが出現する。《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。そして龍之介は、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。また、龍之介は同行した新聞社の者が「駒形橋」を「コマガタばし」と発音したことに、《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである》と記している。

龍之介は『大川の水』の結びに、《自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。》と書いているが、隅田川の水と船と橋と砂洲、水上に生まれ暮らす人びとのあわただしい生活、石炭船の鳶色の三角帆、吐息のような、おぼつかない汽笛の音を見聞きしながら、龍之介は《「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスのにおい》、そして、《もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう》と記している。
《ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりないさびしさに迫られたことであろう。》と、「百本杭」あたりの隅田川の水に「死」の呼吸を感じた龍之介であるが、《あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じる。》《昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落としたいような、言いがたい慰安と寂寥とを感じ》、《自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もち》がして、《この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛する》、そして、さらに《大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。》《つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖を洗ってゆく》と、『大川の水』に書いている。
龍之介は江戸浄瑠璃作家河竹黙阿弥描く世話物に思いをはせ、その場面の演出に用いたのが、《実にこの大川のさびしい水の響きであった》と言い、《ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう》と、大川の渡しに言及する。《この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮かんでいる》。しかも、《自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする》とまで言ってのける。
『大川の水』『本所両国』ともに小説ではない。したがって思い切り隅田川について語ることができるのであるが、龍之介の隅田川に対する思いは、並々ならぬものがある。

ここで取り上げた作品は、明治から大正、そして昭和戦前期に書かれたもので、首都となった東京が、江戸の情景を少しずつ失いながら、近代都市に変貌していく様子が描かれている。隅田川の左岸にあたる本所、深川には工場が建つようになり、右岸と大きな対比をみせるようになっていった。隅田川につぎつぎと橋が架けられ、両岸を結んでいた「渡し船」がしだいに姿を消していった。
七文豪の中で、とくに「大川愛」に溢れた龍之介、そしてそれに続く藤村、荷風において共通する点は、東京という大都市を流れる川として、多くの人びとが生活する中を流れる川として、隅田川を捉えていることである。つまり隅田川は自然の中を流れて「美」を発揮する川ではなく、人びとの生活の中を流れるからこそ、「美」を発揮する川であるということ。東京から江戸の情景が失われようとも、そこに人びとの生活がある限り、隅田川はその時どきに美しい。
荷風は一見薄汚れたような風景にも、そこに「生活」がある限り「美」を感じている。消えゆく江戸の情景を惜しみつつ、それでも隅田川に惹かれる荷風。その矛盾した心情に均衡を与えるものが、「生活」であろう。
私にとっての犀川、浅野川も、田んぼの中を流れる川にそれほどの感慨もなく、金沢の街を流れてこそ、ふるさとの川犀川であり浅野川である。そして、用水も含めて、水の流れが生活と懐かしさをつくりだしていくように思われる。

藤村が1901年につくった『藪入』という詩を再録して、この連載を終わりたい。

――朝浅草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に帰るなり

(略)

大川端を来て見れば
帯は浅黄の染模様
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か

柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁り舟の艪の音は
静かに波にひゞくかな
 
白帆をわたる風は来て
鬢の井筒の香を払い
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり

潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿――

(略)

――夕日さながら画のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川

茶舟を下す舟人の
声遠近に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲――

                        (完)
【文豪と隅田川】 第12回

藤村も金沢の三文豪と同様、東京生まれではないが、子どもの頃に東京へ出てきて、隅田川に近いところで生活したこともあり、泳いだこともある。所帯をもってからも隅田川からすぐの柳橋に住んだ。自分をモデルに作品を書いた藤村、必然的に隅田川を描く機会も多くなった。
藤村が浜町あたりに住んだのは1887年から92年頃にかけて、今で言う高校生時代を中心とした時期で、『桜の実の熟する時』に当時の隅田川を書き込んでいる。
《岸の交番のならびには甘酒売なぞが赤い荷を卸していた。石に腰掛けて甘酒を飲んでいるお店者(おたなもの)もあった。柳の並木が茂りつづいている時分のことで、岸から石垣の下のほうへ長く垂下った細い条が見える。その条を通して流れて行く薄濁りのした隅田川の水が見える。裸体で小舟に乗って漕ぎ廻る子供もある。》《旧両国の橋の下のほうから渦巻き流れてくる隅田川の水は潮に混って、川の中を温暖く感じさせたり冷たく感じさせたりした。浮いてくる埃塵の塊や、西瓜の皮や、腐った猫の死骸や、板片と同じように、気にかかるこの世の中の些細なことは皆ずんずん流れて行くように思われた》。まさに藤村は隅田川の水泳場で、隅田川の水を実感している。
さらに藤村は、《本所か深川のほうの工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。》《お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外はすぐ大橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右にして、夏中よく泳ぎに来た水泳場の附近に沙魚釣の連中の集まるのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くというだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室について折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこは釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でもわずかな閑を見つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。》と、隅田川河畔で過ごす人びとの様子から対岸の風景まで描写している。
1906年、藤村一家は柳橋に住むようになり、1913年まで続いた。藤村の『新生』「第1巻」は、《神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た》という一文で始まり、『桜の実の熟する時』で描かれた隅田川より20年ほど後の隅田川が描かれる。浜町より少し上流にあたる。《毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。》《細い疎らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。》《「何があったんだろう」と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った》。
両国橋詰をさらに下流へ。『新生』には、《川蒸汽の音の聞こえるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。》と描かれている。
1907年9月、藤村は『春』の執筆に集中するため、佃島の海水館に一人移り住んだ。『春』には、《大川端には柳の多くあったころのことで、黄ばんだ霜葉が地に落ちていた。水の中へも落ちた。》《いつ来てみても同じような隅田川の眺めは岸本の眼前にある。潮は上げている。帆をかけた船は順を追って樹と樹の間を静かに通り過ぎた。一銭蒸気も往来していたが、そのたびに気紛れな浪がやって来ては、浮いている塵芥を柳の下へ打ちつけた。》《河岸にある柳並木の蔭は、岸本が静思の場所であった。》《彼が旅に出かけようとした時も、帰って来てそこで叔父に逢った時も、今も、隅田川の水は増しもせず減りもせず、同じように冷たく流れている。岸本は柳の下で涙を流した。》と、隅田川が幾度となく描写されている。

荷風は隅田河畔に過ごしたことはないが、『すみだ川』には荷風の隅田川に寄せる思いが表出している。荷風が『すみだ川』を執筆したのはフランスから帰国した1908年である。けれどもその荷風は、《小説すみだ川に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五六年の時代である。》と、小山書店版『すみだ川』(1935)の「はしがき」に記している。つまり、1902~3年という、荷風が欧米へ発つ前の時期である。
荷風が描いた隅田川のスポットは大きく二つある。第一が主人公の自宅を設定した今戸付近。待乳山聖天があり、吉原遊郭に通じる山谷堀がある。下流には吾妻橋。浅草公園はすぐそばである。まさに江戸情緒たっぷりだった地域である。第二は浜町河岸。この地域は藤村の「ふるさと」と言っても良く、『桜の実の熟する時』に描かれている。
今戸付近の隅田川を荷風は、《残暑の夕日が一しきり夏の盛よりも烈しく、ひろびろした河面一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目に反映していたが、忽ち燈の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐の上を滑って行く荷船の帆のみが真白く際立った。と見る間もなく初秋の黄昏は幕の下るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩しくきらきら光り出して、渡船に乗って居る人の形をくっきりと黒絵のように黒く染め出した。堤の上に長く横わる葉桜の木立は此方の岸から望めば恐しいほど真暗になり、一時は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘残らず上流の方に消えてしまって、釣の帰りらしい小舟がところどころ木の葉のように浮いているばかり、見渡す隅田川は再びひろびろとしたばかりか静に淋しくなった。遥か川上の空のはづれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間なく閃めいては消える。》《一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた。》《見る見る中満月が木立を離れるに従い河岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に湿れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、逸早く月の光を受けて蒼く輝き出した。》《山谷堀から今戸橋の向に開ける隅田川の景色を見ると、どうしても暫く立止らずにはいられなくなった。河の面は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞めている。荷船の帆の間をば鷗が幾羽となく飛び交う。長吉はどんどん流れて行く河水をば何がなしに悲しいものだと思った。川向の堤の上には一ツ二ツ灯がつき出した。》《今戸橋を渡りかけた時、掌でぴしゃりと横面を張撲るような河風》に、思わず胴震いする。隅田川に関する描写も細かく、心情を交えたり、まさに「文学的」に表現されているが、荷風はその情景から、何とか江戸情緒を感じとろう、見つけ出そうとしているように思われる。
荷風自身、「第五版すみだ川之序」に《この一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によつて其の抒情詩的本能を外発すべき象徴を捜めた理想的内面の芸術とも云ひ得やう。》などと記している。消えてしまわないうちに何とかスケッチしておこうとしたかのようである。
浜町河岸では、《川端には、水練場の板小屋が取払はれて、柳の木陰に人が釣をしている。》《川向は日の光の強い為に立続く人家も瓦屋根をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛に煤煙を吐く製造場の烟筒よりも遥に低く、動かずに層をなして浮んでいる。》と、藤村より若干後の時期を描写しているのであるが、藤村同様に水練場(水泳場)が登場し、対岸の江東深川界隈の工場地帯の様子も描かれている。
磯田光一は《荷風が帰朝した明治四十一年には、大きな歴史の流れのうちでも、“隅田川”は次第に人々の心をとらえつつあった。荷風が異国にあってセーヌのうしろに隅田の流れを感じとっていたころ、日本では隅田のうしろにセーヌをみようとする文学運動が、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇らによって準備されていたからである。それが同年十二月十二日に発会した“パンの会”にほかならない。》(『永井荷風』講談社文芸文庫)と書いていることを紹介している。明治41年と言えば、1908年。藤村が新佃島の海水館に一人移り住み、『春』を執筆していた時期である。
思春期を隅田河畔で過ごした藤村にとって、隅田川は懐かしいふるさとの川になっていたのだろう。『新生』には、1916年にフランスから帰国した後のことも綴られているが、その中で藤村は、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。》と書いている。藤村もまた、セーヌの後ろに隅田川、隅田川の後ろにセーヌを見ていたひとりである。
藤村と荷風。タイプの違うふたりの文豪であるが、フランスに住んだという共通の体験から、隅田川とセーヌ川を重ね合わせてみる共通点をもっている。

『すみだ川』において、隅田川に対する並々ならぬ思いを込めた荷風であるが、その後の作品に隅田川はあまり描写されていない。『濹東綺譚』において、隅田川を越えて向島に舞台があるものの、隅田川は通過するだけで、描かれることはない。そのような荷風は『日和下駄』(1915年)において、フランス人エミル・マンユの『都市美論』に触れ、都市に対する水の美を論ずる一章をおいて、広く世界各国の都市とその河流、江湾の審美的関係からさらに進んで、運河、沼沢、噴水、橋梁など細節にわたって説き、なお足りないところを補おうとして、水流に映ずる市街燈火の美を論じていると紹介し、これを受けて荷風は、試みに東京の市街と水との審美的関係を考えると、水は江戸時代から継続して今日でも東京の美観を保つ最も重要な要素となっており、陸路運輸の便を欠いた江戸時代には、天然の河流である隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、言うまでもなく江戸の生命線であったが、それとともに都会の住民に春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の詩歌絵画をつくらせた。けれども今日、東京市内の水流は単なる運輸のためのみになり、伝来の審美的価値を失ってしまったとして、《市中の水流は、最早やわれわれには昔の人が船宿の桟橋から猪牙船に乗って山谷に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった》。今日の隅田川は、パリにおけるセーヌ川の如き美麗なる感情を催さしめず、ニューヨークのハドソン川、ロンドンのテムズ川に対する如く、偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流は品川の入海と共に、さして美しくもなく、大きくもなく、さほど繁華でもなく、まことにどっちつかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない、と自らの考えを披露しつつも、東京市中の散歩において、《今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。》と続けている。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第11回

隅田川を下って河口まで来た。
ここまで、漱石の『道草』『門』、鏡花の『深川淺景』『葛飾砂子』、秋聲の『仮装人物』、龍之介の『本所両国』、藤村の『新生』『桜の実の熟する時』、荷風の『すみだ川』『日和下駄』などの作品を紹介してきたが、この『文豪と隅田川』で取り上げる七人の文豪の中で、唯一、今まで名前が出て来なかった人物がいる。犀星である。
けれども犀星が絶妙に隅田川の水を形容したことを、龍之介が『都会で――或は千九百十六年の東京――』で、つぎのように書いている。《夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Мの言葉を越えることは出来ない。――「羊羹のやうに流れてゐる。」》と。詩人S・Мとは室生犀星のことである。
金沢の森八の練羊羹なども、実に黒々と、しかもこってりとしている。隅田の流れもゆったりと、夜には黒々と、川の流れが羊羹に見えて一向に不思議はない。龍之介も犀星も無類の甘党で、とくに龍之介は「汁粉」、犀星は「羊羹」がお気に入りだった。「羊羹のやうに流れてゐる。」という表現をきわめて詩的に捉える向きもあるが、黒々とした隅田川が、大好物の羊羹に見え、それを犀星はただ見たままに表現したのであろう。隅田川の流れを羊羹などに例えて欲しくないと思いつつ、龍之介が「羊羹のやうに流れてゐる。」という表現を賞賛したのも、親友犀星に対する温かい皮肉とみることもできるだろう。漱石も羊羹が好きで、金沢の伝統を引く「藤村の羊羹」を送ってくれと、友人に頼んでいる。
龍之介の代筆によって、何とかこれで七人全員、登場することができたが、犀星がまったく隅田川を無視したわけではない。『性に眼覚める頃』に《東京では隅田川ほどあるこの犀川は、瀬に砥がれたきめのこまかな柔らかい質に富んでいて、茶の日には必要欠くことのできないものであった。》という一文がある。もっともこれは犀川を説明するために、便宜的に出てきたものであるのだが。

七文豪の作品で、と言っても実際には犀星を除く六文豪であるが、隅田川にどのような思いをもち、どのように描いてきただろうか。復習する形で、一人ひとりみていきたい。
漱石は七人の中で唯一、大正に亡くなった文豪である。そして、唯一、隅田川河畔で過ごしたことのある人物。『道草』(1915年)には1873年頃と思われる隅田川の情景には白い帆掛け船が描かれ、弁慶蟹も登場する。江戸時代にもっとも近い隅田川の情景である。
けれども漱石は主人公に千住大橋を渡らせても、隅田川の描写はなく、隅田川で泳いでも、両国橋を渡っても、隅田川を描かない。河口部にある月島の名を何度も登場させながら、工場が建ち並ぶ隅田川の姿は描かない。人力車の渡る吾妻橋の下に《満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまって只動いている様に見えます。》(『吾輩は猫である』)と描いただけである。
漱石の作品に登場する人物の多くが、今日の文京区・新宿区など山の手に住んでおり、下町へやって来ても日本橋・銀座界隈までで、隅田川まで出てくることはほとんどない。言い換えれば、漱石自身、隅田川あたりに人物を住まわせ、隅田川を何としても描きたいという強い思いをもっていなかったということになる。漱石の隅田川に対する距離感を知る思いである。

鏡花は『葛飾砂子』で、1900年頃の隅田川から深川の情景を描いた。深川の玄関口にあたる永代橋は、当時、隅田川最下流の橋、河口に近い橋だった。鏡花はまだ干潟が見られる深川からの遠望を、《このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。》と描写し、隅田川を漕ぎ渡る船を《昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい》と描写しているものの、隅田川そのものをほとんど描写していない。
それからおよそ30年後の1927年。永代橋を渡って、震災後の深川へ入った鏡花。両国橋方向にむかって隅田川左岸を行く鏡花は、佐賀町一帯の河岸の情景を、《藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、》《川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮かぶ。》と描いている。鏡花は船の形状を見て、違いがわかったようであるが、河水の描写はない。(茶船:接岸できない大型船と荷上場を結んで、積荷を運搬する小舟を指す。伝馬船:母船に積み込まれているが、同様の役割を担う場合がある。なお、他にもさまざまな用途の小舟が茶船と呼ばれているので、鏡花がどのような船を指したか定かではない。)
漱石と違って鏡花は、隅田川流域の下町地域を舞台にたくさんの作品を書いているが、隅田川そのものを描写しようという思いは、それほど強くなかったようである。

秋聲は『仮装人物』において、中洲から見た隅田川を描写した。《薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた。》《ある晩もまた庸三は小夜子の家で遊んでいた。彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋あたりの夜景を眺めていた。》と、隅田川の河水から川風、そして対岸の様子、新しい橋など、一枚の風景画のように描写している。また、一帯の情緒の変化についても、《金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思いっ切り大規模の清洲橋も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座のあった時分の下町情緒も影を潜め、水上交通が頻繁になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。》と、記している。
『仮装人物』において秋聲は隅田川について、じつにバランスの取れた描写をしているが、『あらくれ』に、《「あの時王子の御父さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川へ流してしまったと云って御母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ」》と、隅田川を引き合いに出したり、『仮装人物』でもやのかかった隅田河畔をドライブさせた程度で、ほとんど描いていない。秋聲が居住したのは、現在の文京区、新宿区がほとんどで、登場人物の多くもこれらの区を中心に山の手地域が多い。下町でも上野広小路から日本橋、銀座といったあたりが行動範囲で、隅田川に及ばない。
鏡花と同様、下町地域を舞台に作品を書いても、隅田川そのものを描写しようという思いは、それほど強くなかったようである。つまり、ほとんど何も書かなかった犀星を含め、金沢の三文豪の隅田川に対する思いはそれほど強くなく、隅田川を描きたいという意欲はあまりなかったようである。そうであるならば、「私が書いてやろう」などと思うのであるが、どうも小説の才能の方が欠けるようである。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第10回

藤村もまた、隅田川河口に魅かれた人物のひとりである。新佃島に1905年開業した割烹旅館「海水館」に、1907年から翌1908年にかけて宿をとり、『春』などを執筆している。
藤村がこの「海水館」で執筆した作品のひとつ『苦しき人々に』には、《秋から、わたしは製図の仕事を急ぐために新佃の閑静な旅館へ移った。本所深川だけを取りのけて見ると、あたかも東京の市街は羽をひろげた一つの蝶である。その蝶のひげのように、隅田川の川口に添うて突出した島の一角がちょうどわたしの旅館のあるところだ。》と、地形図を見るかのような記述があり、《日を受けて光帆、動揺する海、いわしを分けるために諸方から岸へ集まった漁夫の群れ――そのごちゃごちゃしたありさまは間もなくわれわれの目の前にあった。ちょうど築地の方へ出ようとする渡し舟に乗る前に、大竹君はちょっとわたしのほうへ向いて、握手を求めた。》と、一帯の情景や渡しについても描かれている。

1908年の7月、荷風はフランスから帰国した。そして、12月、「パンの会」が発足した。この会は木下杢太郎や北原白秋ら詩人と、石井柏亭・倉田白羊ら画家が、東京をパリ、隅田川をセーヌ川に見立てて、月に数回、隅田川河畔の西洋料理店などに集まり、交流を図ったもので、荷風も時おり参加した。荷風はまさに、もっとも新鮮なパリとセーヌ川を持ち込むことができる人物であっただろう。飲んで気焔をあげる場としての性格が強かったと言われている「パンの会」であるが、「江戸・東京」の隅田川から、「東京・西洋」の隅田川へと美意識が近代化していったことの表れではないだろうか。そしてそのポイントが1908年、隅田川河口において出現したのである。藤村がパリにむかうのは1913年である。セーヌ川を見て来た荷風と、これからセーヌ川を見ることになる藤村が、1908年に隅田川河口地域を共有しているのは、単なる偶然であろうか。
セーヌ川。藤村もまたセーヌ川に隅田川を見、隅田川にセーヌ川を見たひとりであろう。「パンの会」は皮肉なことに、荷風が帰国した1908年に発会し、藤村が渡仏した1913年に幕を閉じている。
私はセーヌ川を見ていないので、セーヌ川と隅田川とに共通点を見出すことはできないが、少なくとも隅田川河口地域の情景は、東京をふるさととしない私に、ふるさとを感じさせてくれる。そして、私は川ではないが、高校の時、『ザ・サウンドオブミュージック』というミュージカル映画を観て、アルプスの山並みに魅せられ、やがてふるさと金沢の背後にある連山に「アルプス」を見るようになった。そして、実際にアルプスを見た時、そこにふるさとの連山を見ていた。

佃島・新佃島から月島にかけて描かれた藤村の『苦しき人々に』は1908年に書かれ、1909年に発表された。翌1910年に発表された漱石の『門』に
月島は漱石の作品に登場する。時期設定は1909年から1910年にかけてで、『苦しき人々に』とほぼ時期を同じくしている。
『門』の主人公宗助の叔父の一人息子である佐伯安之助は大学を出たばかり。自分でも事業を起こしたいと考えていた矢先、《同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月島辺に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注ぎ込んで、一所に仕事をしてみようという考えに》なって、安之助の母親が宗助の妻に語るところによると、《この九月から、月島の工場の方へ出る事になり》、先日、安之助が神戸へ行ったのも、《全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船へ据え付けるんだ》と、当時としては最新の話題が登場する。中部幾次郎が日本で最初の石油発動機船を開発したのは1906年。日本の漁業は動力船の時代へと大きく舵を切る。『門』の書かれたのは1910年である。
月島は明治中頃から大正にかけて東京湾を浚渫して出た土砂を利用してつくられた埋立地。住宅と共に工場や倉庫もつくられ、まさに東京における新興の工業地域であった。月島そのものに対する描写はないが、産業史的には貴重な描写である。

                        (つづく)
【金沢ブログ】 卯辰山

昨年が卯年で、今年が辰年。「卯辰山」とはそのバトンタッチを表す、2023年末から2024年元日にかけて、もっともふさわしい名前の山が金沢にある。このことは何としても書きたい、そう思っていた矢先、元日に能登半島地震が発生し、「卯辰山」などテーマに書いていたら申し訳ないような雰囲気になってしまった。
時期を逸してしまったようだが、ここで思い出したのが旧暦。もともと干支は旧暦の時代からあるから、旧暦で論じても構わない。旧暦の1月1日、今年は2月10日にあたる。この前後、「卯辰山」を話題にしてもけっして不自然ではないだろう。
「卯辰山」。金沢城から見て「卯辰」の方角にあるところから名づけられた。金沢の人ももちろん「卯辰山」と呼ぶが、「向山(むかいやま、むこうやま)」とも呼ぶ。浅野川の向うにある山だからだろうか。秋聲が自分を登場させる時、「向山」という姓を使っている。この場合、「むこうやま」と読む。徳田秋聲記念館の館報は「夢香山」と書いて、「むこうやま」と読ませている。そのようなことが関係するのか、徳田秋聲文学碑が卯辰山にある。けれども、子どもの頃の私に、秋聲はあまり馴染みがなかったので、私が「卯辰山」と聞いて思い浮かべる人物は「蓮如さん」であった。ひがし茶屋街の東、「卯辰山」の麓に東別院蓮如堂があり、奥に蓮如像が立っている。おそらくこのようなところから、結びついたのだろうが、私は蓮如さんが「卯辰山」に居ると思っていた。今はどうかわからないが、私が子どもの頃は「蓮如さん」という言葉をよく聞いた。
私にとって「卯辰山」と言えば、「蓮如さん」、お花見の場所、「ヘルスセンター」そして「相撲場」。昼は「卯辰山」でお花見。夜は兼六園の夜桜見物。考えてみれば、今よりよほど季節感のある生活をしていた。その頃、「卯辰山」に「ヘルスセンター」という娯楽施設ができた。白い建物は「卯辰山」を望めばよく見えた。結局、私は一度も入ったことがない。むしろ、私が懐かしく思い出すのは相撲場である。
高校相撲の全国大会のひとつ「高等学校相撲金沢大会」は1961年から卯辰山相撲場に場所を移して開催されている。野球の応援に全校挙げて行く話はよく聞くが、金沢では全校挙げて相撲の応援に行く。私も子どもの頃から、遊びのひとつが相撲だったから、観戦は大好きで苦にならなかった。すでに大会は100年以上続いている。初期の頃には私の父も出場していたのだろう。記録はないが、大相撲から誘われたくらいだから、多分そうだろう。舛田山、出島、そして遠藤など、この大会で個人優勝し、その後、大相撲の世界に入った人たちである。
それほど高くない山だから、私も歩いて登ることが多かったが、登れば山であるから見晴らしが良い。金沢市街から加賀平野、河北潟から日本海まで一望できる。気持ちまで清々するのだが、どういうわけか思春期の私はこの卯辰山で母に口ごたえして、一人で帰ってしまったことがある。

能登で大きな地震が起こって、それでは金沢の方は大丈夫なのか。私には気になることがある。金沢の街は山地と平地の境界に発達しているが、その境界は北北東から南南西にかけて一直線に伸びている。何か断層がありそうだ。そう思って調べると、確かにある。卯辰山の西端が平地に接するあたりに「森本断層」(約13km)、南方の大乗寺山西端が平地に接するあたりに「富樫断層」(約8.5km)。このうち、「森本断層」は6000年ほど前に動いたことが確認されており(今回の能登半島地震と同じ逆断層)、副次的な断層が2000年ほど前に動いたことも確認されている。1回のずれは1mくらいとされているが、必ずしも1回で終わっているわけではなさそうだ。つまり、金沢の街も正真正銘の「活断層」の上に発達しているのである。歴史上、マグニチュード7クラスの地震は起きていないようで、言い換えれば「数千年に1度」と言われる能登半島地震のような地殻変動が、近未来に起る可能性もないとは言えないのである。もちろん、これは地質年代でのモノサシであり、近未来が1年後かもしれないし、1000年後かもしれない。とにかく、専門家は近未来において大地震を起こす可能性が大きい断層として、「森本断層」「富樫断層」そしてその間にある「野町断層」を注視している。徳田秋聲記念館・泉鏡花記念館・室生犀星記念館、いずれも野町断層のほぼ真上に建っている。

「卯辰山」も結局、地震の話になってしまったが、断層を描いていくと、石川県の地図ができてしまいそうなくらい、断層が地形を形づくっている石川県である。
【文豪と隅田川】 第9回

荷風は『日和下駄』において、永代橋あたりの思い出を語っている。
15、6歳の頃、永代橋の川下に旧幕府の軍艦が一艘、商船学校(後の東京商船大学。現在の東京海洋大学)の練習船として立ち腐れのまま繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋の船宿から小舟を借りて漕ぎまわり、川中に停泊している帆前船を見物して、こわい顔をした船長から椰子の実をたくさんもらって来た。その時、船長がこの小さな帆前船で遠く南洋まで航海するという話しを聞き、ロビンソンの冒険談を読むようで、自分たちも勇猛な航海者になりたいと思った。
このような話しのついでに荷風はさらに、同じ頃、築地の河岸の船宿からボートを借りて、千住の方まで上って、帰りに佃島の手前まで来たところで、大きな高瀬舟に衝突し、けが人はなかったもののボートが壊れ、弁償を怖れた一同は、船宿へ船を着けると、破損を気づかれないうちに、急いで荷物を引っ掴んで、一目散に銀座の大通りまで逃げた思い出を書いている。そして、今日の築地の河岸を散歩しても、その船宿の場所がはっきりとはわからないとして、《わずか二十年前なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外はない。》と書いているが、船宿がはっきりわかれば、堂々と前など通ることはできなかったであろう。 
このような思い出を語った荷風は、吾妻橋・両国橋などの眺望は今日あまりにも不整頓で、感興を集中できず、例えば、「浅野セメント会社の工場と新大橋の向うに残る火の見櫓」、「浅草蔵前の電燈会社と駒形堂」、「国技館と回向院」、「橋場の瓦斯タンクと真崎稲荷の老樹」のような、工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、私を錯乱させるとして、《大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。》と、言い切っている。つまり、永代橋から隅田川河口にかけての光景は、工業的近世と江戸名所が混在しても、調和していると、荷風は感じているのであろう。
そして荷風は、どうも混在による不調和が気になるようで、《過去と現在、即ち頽廃と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工業地に変形し江戸名所の名残も容易くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。》と述べ、大川筋でも千住から両国に至るまでは今日においては、まだまだ工業の侵略が緩慢に過ぎており、本所小梅から押上辺に至る辺りも同じであるとしている。本所小梅から押上辺は、『すみだ川』において、荷風が長吉の伯父蘿月の自宅を設定したところである。荷風はこうした工業の侵略が緩慢な地域を、「新しい工業町」として眺めようとする時、《今となってはかえって柳島の妙見堂と料理屋の橋本とが目ざわりである。》と結んでいる。今日、スカイツリーがそびえ立つ本所小梅から押上辺。そっくり全部「ソラマチ」になった方が良いということだろうか。

永代橋の下流は隅田川の河口部にあたったが、そこにあったのが森島・鎧島などと鉄砲洲である。江戸時代初期、森島・鎧島などをまとめて石川氏の屋敷が置かれ、石川島と呼ばれるようになり、その南にある鉄砲洲には大阪・佃村の漁民たちが移り住んで埋立て、佃島を形成した。明治期になって、佃島の南東側の干潟が埋立てられて新佃島、南側に月島がつくられた。隅田川は河口部で石川島を先端に分岐し、したがって、中央大橋・佃大橋とともに、越中島と佃島・月島を結ぶ相生橋も隅田川に架かる橋として数えられる。
荷風は『日和下駄』において、《荷船の帆柱と工場の煙筒の叢り立った大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦ばす事が出来るかも知れぬ。》として、木下杢太郎や北原白秋の名をあげ、彼らのある時期の詩編には《築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが》少なくなかったと、記している。つまり、この光景は詩になりうるもので、石川島の工場を後ろにして、幾艘となく帆柱を連ねて停泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船を見ればおのずと特種の詩情が湧いて来ると、荷風は言うのである。
荷風は産業革命の影響を受けて変わりゆく情景を、すべて否定的に捉えたのではないことが、私には伝わってくる。荷風は、付け加えて、《永代橋を渡る時活動するこの河口の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。》と書き、今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想させるものは何もないとしながら、《私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口の風景に一致している。》と続けている。
ここで登場したドオデエは、アルフォンス・ドーテ(1840~1897年)というフランスの小説家。田山花袋も1923年、『アルフォンス・ドオデエ』と題する一文を書いている。セエン河とはセーヌ川のことで、「セエン」の方がフランス語の発音に近い。どうも、荷風にとっての美醜は、古いものに美を感じたり、澄んだものに美を感じたり、均整のとれたものに美を感じたりするのではなく、人間生活の営みを写しとったところに美を感じるようである。それが一般的に汚れた場所で、汚れた人間の生活の場であっても、荷風は美を感じ、それを文章や、あるいは絵画として切り取って残しておきたい。それがその後も一貫する荷風ではないだろうか。

                        (つづく)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加12】

「能登半島地震発生から1か月」という報道を聞くようになりました。私にとってもいろいろなことがあり、とても長く感じた1か月。「まだ、1か月しか経っていないの?」というのが実感です。1月4日から、この『ふるさとを襲った大きな地震』を書き始め、多くの方に読んでいただき、読まれた方から「能登半島地震義援金募金」に応じましたという声が寄せられ、とても嬉しく、感謝いたしております。また、その時どきに書くことによって、「時系列で書いた記録ですね」と評してくださる方もあり、励まされます。とにかく地震の多い国ですから、能登半島の状況が、明日の「わが身」になるかもしれない。常に「自分ごと」として捉え、イメージしていくことが、「わが身」に起きた時の身の処し方の支えになるでしょうし、これから国の災害対策、具体的に何をしていけば良いか、官民の連携も含めて考え、実行していく指針にもなるでしょう。
現実には1か月経って、子どものところや実家、親戚・知人のところに避難した人たちも、「いいよ、いいよ、お互い様だから。ずっといてくれても良いよ。」と優しい声をかけてもらっても、何となく居づらく感じてしまう。公的に開設された2次避難所を選択した人の中も、「指定されたホテルを1月いっぱいで出なければならない。それなのに、次の避難先がみつからない。」という声などが。
2次避難所でホテルへ入り、宿泊費は公費でまかなわれ、エアコンもテレビもあり、「私もその身になった時には、ホテルを選択……」と思ったものの、昼食・夕食は自前で、駐車料金も払わなければならないと聞くと、考えてしまいます。

「メンタルケア」の重要性も指摘されています。不調の大きな要因は、地震発生時からの「恐怖感」、親しい人や大切な家財などを失った「喪失感」、そしてこれからに対する「不安感」など。この中で、「恐怖感」と「喪失感」は日常を取り戻すことによって少しずつ和らいでいくでしょうが、それには時間もかかるし、日常を取り戻すこと自体が、まだまだ困難。このどうしようもない状況の中で、「傾聴」「共感」が大きな支えになっていくのだろうと思います。
これからに対して。住宅を改修して、元通りに住めるようにする。瓦礫を撤去して更地にして、新しく住宅を建てる。現実には住宅再建のメドはまったく立ちません。自営業の人たちにとっては、店舗や工場、あるいは漁船などなど、生業をおこなう手段が失われて、再建のメドは立ちません。勤めていた事業所も被災して、このまま再建されず、解雇されてしまう。再就職先のメドも立たない。具体的に再建のメドが立ち、日常が取り戻されていかなければ、「不安感」は容易に和らぐものではありません。
災害ボランティアの受け入れが始まっても、需要に応えられる数ではない。まだ、受け入れることができない自治体や地区もあります。ボランティアは自分たち自身の食料を持って来ることはできても、宿泊先の確保は困難。空き地を借りてテントを設営するとしても、この時期の能登では冬山登山並みの装備が必要でしょう。家の中を整理したい、瓦礫を撤去したいと思っても、ボランティアの手を借りることができない人は、あまりにも多くいます。誰も助けてくれない、誰も来てくれない、見捨てられた感を抱いている人も少なくないでしょう。
まだ地震活動は続いており、いつまた大きな地震が起きないとも限らない。屋内の作業は怖い。通行も心配だ。「ボランティアさん、どんどん来てください」というわけにもいきません。
このようなことを書いていると、授業再開、事業所再建などのニュースが伝えられても、なかなか前向きになれません。 (2024年1月31日追加)
【文豪と隅田川】 第8回

中洲とは文字通り、隅田川の中洲であった。江戸時代にこの中洲が埋立てられ遊興の地になったが、幕府の政策によって取り壊され、もとの浅瀬に戻ったところ、明治に入って再び埋立てがおこなわれて、真砂座ができ、それとともに待合や料亭が進出するようになり、賑わいを取りもどした。浜町側に男橋・女橋が架けられ、後に菖蒲橋・中洲橋も架けられたが、関東大震災で男橋が損傷し、再架橋されなかった。真砂座は1893年に開業し、1906年11月には『吾輩は猫である』も初演されている。しかし、1917年には早くも廃業。中洲の賑わいも下降線をたどっていった。「江戸バス」の中洲バス停を過ぎると、左側一帯が日商岩井日本橋浜町マンションで、「真砂座跡」の碑がひっそりと建っている。
中洲の隅田川河岸は緩やかに弧を描いている。秋聲の『仮装人物』に登場する小夜子の待合が設定されたのは、このあたりだろう。隅田川に沿って割烹・料亭などが建ち並んでいた。
庸三が初めて小夜子の待合を訪れた時の様子は、《薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた》(七)と描写され、十九には、《ある晩もまた庸三は小夜子の家で遊んでいた。彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋あたりの夜景を眺めていた》という描写もある。
大きな橋は清洲橋、煙を上げるのは対岸にある深川セメント(浅野セメント)。清洲橋とは、清澄と中洲を結ぶところから名付けられた「震災復興橋梁」(九橋)のひとつで、1928年に完成した。藤村や荷風だけでなく、秋聲も対岸の工場地帯を描写しており、浜町から中洲、さらに永代橋にかけての右岸と、対する左岸の違い、江戸情緒と近代工業の対比が文豪たちの筆を動かしたのであろう。
秋聲は『仮装人物』において、震災後の中洲とその周辺について、《世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思いっ切り大規模の清洲橋も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座のあった時分の下町情緒も影を潜め、水上交通が頻繁になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった》(十四)、と記している。

やがて、永代橋。江戸時代から存在した、当時としては隅田川の最下流つまり河口部に架けられた橋で、江戸の中心街と深川を結んでいる。永代橋は1897年に日本で最初の鉄橋として架けられたもので、やがて路面電車も通るようになった。橋底などに木材が使用されていたため関東大震災で炎上し、1926年に新しい永代橋が完成、今日に至っている。
この永代橋を鏡花は「大東京繁昌記下町編」取材のため、円タクに乗って渡った。1927年である。鏡花は《震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつた。》《永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた。》《すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い。》と永代橋を渡って深川へ入った光景を描写している。この通り(現、永代通り)には市電が通っていたが、ここでは描写されていない。深川地域では当時、永代橋から洲崎に伸びる路線、黒江町で分れて森下へ向かう路線、門前仲町で分れて月島へ行く路線があった。
永代橋を渡ってすぐ、鏡花は左へ入って、隅田川左岸沿いに上流方向にむかう。道の両側が佐賀町である。佐賀町の名は、元禄期に永代橋が架けられ、そこからの眺めが佐賀に似ていたところからつけられたと言う。深川一帯は江戸時代、江戸湾(東京湾)の干拓や埋め立てによって生まれた土地で、有明海の干拓で生まれた佐賀平野と同様である。
佐賀町は深川漁師町とよばれた八町の一つで、永代橋から下之橋(油堀)・中之橋(中之堀)そして仙台堀に架かる上之橋まで、左側には隅田川に臨む蔵(河岸蔵)が並び、右側にはほぼ同じ間口の町屋敷が並び、米問屋・油問屋・干鰯問屋などが連なっていた。鏡花はそのようすを、《御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して――こゝに見取圖がある。――斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。》《藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、》《川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮かぶ。》と描いている。
鏡花は下之橋、中之橋を渡って、さらに上流にある仙台堀川に架かる上之橋。仙台堀という名前は、北側に仙台藩の蔵屋敷があり、堀を使って舟運がおこなわれたことに由来する。藏屋敷跡には1872年、日本初のセメント工場である官営深川工場(後のアサノセメント)が建設された。同行した新聞社の男が、《大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな》と説明し、すぐ向うに煙か雲か、灰汁のような空にただ一か所、樹がこんもりと、青々しているのが岩崎公園と続けている。岩崎公園は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の発注によってつくられたもので、現在の清澄公園・清澄庭園。
このあたり、隅田川の対岸は中洲。鏡花が訪れた翌年、両岸をつなぐ清洲橋が完成している。同行者の話しは、小名木川まで及んで、萬年橋。さらに先へ隅田川に架かる新大橋付近のお船藏。これは、三代将軍家光の命で建造された軍船形式の御座船安宅丸(あたけまる)と、その後も幕府の艦船を格納してきたところで、今も安宅丸を模した御座船安宅丸が観光クルーズをおこなっている。この先、小松川の向こうは回向院。話しだけは両国橋のところまで遡ってしまった。

鏡花が初めて深川を訪れたのは、小栗風葉や柳川春葉らと洲崎遊郭で遊ぶためと推定されているが、船から眺める深川の風景などが、鏡花をすっかり魅了してしまったようだ。1898年の『辰巳巷談』を皮切りに、『三尺角』『葛飾砂子』『芍薬の歌』など、「深川もの」と呼ばれる作品をいくつも書いている。
『葛飾砂子』には、洲崎遊郭へむかう船のようすが、《昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい》と描写されている。日本橋川・神田川辺りから出た船は、永代橋の下をくぐり抜けながら隅田川を渡り、大横川へ入り、洲崎へむかったものと思われる。吉原遊郭も隅田川を今戸から山谷堀へ入ったが、この洲崎遊郭も同様に船を利用することが多かったようである。
『葛飾砂子』話しの終盤。七兵衛と菊枝の会話が続く中で、佃町界隈(現在の牡丹2・3丁目)にある七兵衛の家からの情景は、《このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。》《七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄み切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と、濡れた衣の色を乱して記念の浴衣は揺めいた。親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。》と描写されている。
現在、越中島橋から牡丹二丁目交差点を通り、平久橋に伸びる道路はかつての海岸線で、鏡花が『葛飾砂子』を執筆した当時、ここから先は新開の埋め立て地、と言っても干潟に近い状況で、鏡花は越中島、さらにそのむこうの佃島、月島に至る情景をきちんと作品に描き込んだ。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第7回

両国橋の上流側すぐ、隅田川右岸に神田川の川口がある。その北側にひろがるのが、花街柳橋。「百本杭」の対岸にあたる。鏡花の『婦系図』に登場し、藤村が住んだこともある。藤村の『新生』「第1巻」は、《神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た》という一文で始まる。
「河岸」というのは「代地河岸」である。《その河岸へ来る度に、釣船屋米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、》岸本は一人の青年を思い出す。その青年は葉書に「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書き、岸本はそれらしい石の側に立って、《浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、》青年を思い出す。《河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋いである三四艘の小舟も見えた》。岸本がかつて《毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ》。
やがて、河岸の船宿の総領息子と会話した岸本は、少年と別れて、また《細い疎らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。》《「何があったんだろう」と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った》。藤村、6年ばかりこの地に住んだだけあって、描写は具体的である。じつはこのあたり、時おり死体が漂着するそうで、この日も朝、若い女性の死体が漂着した。これは砂揚場に立っていた男の一人による情報で、すでに検視も終わり、遺体も綺麗に片づけられていた。
藤村は、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。》と『新生』に描いている。
両国橋詰をさらに下流へ。『新生』には、《川蒸汽の音の聞こえるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。》と描かれている。

両国橋から新大橋にむかって、隅田川右岸を柳河岸から浜町河岸へ。
藤村の『春』には、《大川端には柳の多くあったころのことで、黄ばんだ霜葉が地に落ちていた。水の中へも落ちた。》《いつ来てみても同じような隅田川の眺めは岸本の眼前にある。潮は上げている。帆をかけた船は順を追って樹と樹の間を静かに通り過ぎた。一銭蒸気も往来していたが、そのたびに気紛れな浪がやって来ては、浮いている塵芥を柳の下へ打ちつけた。》《河岸にある柳並木の蔭は、岸本が静思の場所であった。》《彼が旅に出かけようとした時も、帰って来てそこで叔父に逢った時も、今も、隅田川の水は増しもせず減りもせず、同じように冷たく流れている。岸本は柳の下で涙を流した。》と、龍之介に劣らぬ「大川愛」を感じさせる描写が続く。
浜町1丁目と2丁目の境目辺りに交番がある。藤村は『桜の実の熟する時』に、《岸の交番のならびには甘酒売なぞが赤い荷を卸していた。石に腰掛けて甘酒を飲んでいるお店者(おたなもの)もあった。柳の並木が茂りつづいている時分のことで、岸から石垣の下のほうへ長く垂下った細い条が見える。その条を通して流れて行く薄濁りのした隅田川の水が見える。裸体で小舟に乗って漕ぎ廻る子供もある。》と、隅田川水泳場について描いている。藤村は永田水泳場で「永田流」で水泳を学び、泳力をつけていったらしい。
文章は続いて、《旧両国の橋の下のほうから渦巻き流れてくる隅田川の水は潮に混って、川の中を温暖く感じさせたり冷たく感じさせたりした。浮いてくる埃塵の塊や、西瓜の皮や、腐った猫の死骸や、板片と同じように、気にかかるこの世の中の些細なことは皆ずんずん流れて行くように思われた》。このような水の中で泳いでほんとうに大丈夫なのか。漱石も泳いだのだから、大丈夫と思いたい。
一方、荷風の『すみだ川』。お糸会いたさに、長吉は《学校の事も何も彼も忘れて、駒形から蔵前、蔵前から浅草橋……其れから葭町の方へどんどん歩いた。然し電車の通っている馬喰町の大通りまで来て、長吉は何の横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生まれたものだけに道をきくのが厭である。恋人の住む町と思えば、其の名を徒に路傍の他人に漏すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐ろしくてたまらない。》と、左へ左へと折れ、蔵造の問屋らしい商家の続いた同じような掘割の岸に二度出て、《遥か向うに明治座の屋根を見てやがて稍広い往来へ出た時、その遠い道のはづれに河蒸気船の音が聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚った》。すでに竃河岸は埋められているので、掘割は浜町川であろう。おそらく蠣濱橋あたり。ここから藤村が若い日を過ごした吉村家のある日本橋浜町2丁目11番地の道をまっすぐ。隅田川に出る。
とにかくやっと、お糸が身を置く松葉屋を見つけ、お糸が出て来るのを待つが、人目につくだけで、朝早くから出て来るはずもないだろう。長吉は浜町の横町を大川端の方へ歩く。《川端には、水練場の板小屋が取払はれて、柳の木陰に人が釣をしている。》と、藤村同様に水練場(水泳場)が登場する。《川向は日の光の強い為に立続く人家も瓦屋根をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛に煤煙を吐く製造場の烟筒よりも遥に低く、動かずに層をなして浮んでいる。》と、対岸に目をやった荷風は、江東深川界隈の工場地帯の様子も描かれている。両国橋と新大橋との間を一回りした長吉は、浅草の方へ帰ろうとするが、もしやの思いに葭町へ取って返し、おそるおそる松葉屋の前を通ってみた。
このあたり一帯、浜町河岸である。『桜の実の熟する時』で捨吉の兄民助の下宿が設定されている。《障子の嵌硝子を通して隅田川の見える二階座敷で、親子は実に何年ぶりかの顔を合わせた。》という記述に続いて、つぎの朝、《本所か深川のほうの工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。》《お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外はすぐ大橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右にして、夏中よく泳ぎに来た水泳場の附近に沙魚釣の連中の集まるのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くというだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室について折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこは釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でもわずかな閑を見つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。捨吉は自分でも好きなその道をとって、田辺の家のほうへお母さんを案内して行った。》と描写される。藤村馴染みの場所であり、筆が進む。
新大橋は隅田川が浜町地先で大きく曲がるあたりに架けられていた。そこを過ぎると、まもなく中洲である。《隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄した》「元園町」とよばれる人のモデルは中沢臨川。岸本も誘って中洲で遊んでいたようで、《「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱るように言った。「一体、この男は馬鹿です」「ヨウヨウ」と髪の薄い女性は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番が出ましたね」》などと描かれている。臨川の実家は養命酒で有名な塩澤家。「馬鹿」が口癖だったとか。

                        (つづく)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加10】

テレビのニュースでは、今も能登半島地震の報道時間が長く、あらためて大きな地震、大きな災害だったのだと思わされる。小さな地震も回数は減ってきたものの、依然として続いている。その地震は今回の広範な震源域全域に及んでいる。こうした活動がつぎの大きな地震に連鎖しないとも言い難い。

七尾線が1月22日、七尾まで運転を再開したのに続いて、1月25日、金沢と能登を結ぶ特急バスの運行が再開された。当面、輪島市役所前まで1日2便、珠洲の「すずなり館」まで1便、能登町役場前まで1便。いずれも朝出発して、午後、折り返して金沢駅西口に戻って来る。所要時間4~5時間で、通常の2倍くらいかかる。運賃は1か月間無料。
少しずつ復旧していると感じつつ、断水している地域は依然多く、とりあえず避難して、何とか1か月近く、生き延びることを優先して考えてきたけれど、「これから、どうするか」と考えた時、生活においても、生業においても、まったく見通しが立たない。そもそも、これからどこに住むことになるのかわからないし、どこに住むのが良いのかの判断もつかない。テレビでも新聞でも、そのような人びとの取材をおこない、声を届けようとしているが、私自身も「こうしたら良いんじゃない」という助言すら思いつかない。
壊れた家。どうやって撤去したら良いのか。私も映像を観ているだけで途方にくれてしまう。人間の力だけではどうにもならない。どうしても重機が必要だが、どこへどのように頼んだら良いかわからない。たくさんの建物が倒壊しているから、すぐにやってもらえるかどうかもわからない。個人ではとてもムリだ。そのような中、半壊以上の場合、自治体が全額公費で解体・撤去してくれる公費解体制度が適用されるということで一安心だが、被災した家財も含めて、最終的にどこへ集積するのか、自治体としては頭の痛いところだろう。
地震で押しつぶされた自動車。地震による損傷は原則、保険による保障がない。押しつぶされた自動車は動かすこともできない。どのように撤去したら良いだろうか。廃車手続きもしなければならない。
仮設住宅はプレハブだけでなく、ある程度長く住むことができる木造も建設するという。とくに高齢者にとって、住宅再建の可能性はきわめて低い。仮設が「終の棲家」になる可能性がきわめて高い。そのような能登の特性から言って、木造の仮設建設はどうしても必要だと思う。しかしながら、ある程度しっかりしたものとなれば、建設にも時間がかかるだろう。はたして、いつ仮設住宅に入居できるのか。不安は尽きない。
子どもたちの保育・教育をどうするか。病気やけがの人をどうするか。妊婦さんをどうするのか。高齢者をどうするのか。障がい者をどうするのか。仕事を失った人たちをどうするのか。一人ひとりの状況に寄り添うには1対1。10万人の被災者がいるなら、10万人の支援者が必要になってくる。

輪島である。テレビや新聞、ネットの情報をみていると、知っている人に出会う。経営する幼稚園を避難所として開放しているため、2次避難できないという人。よく知っている幼稚園である。ある輪島塗工房の五代目は、被災を免れた製品の販売と、今後の工房復活にむけて動き出している。五代目は私より五つほど年下で、私が子どもの頃は四代目が商売を切り盛りしていた。私の家にはテレビがなかったので、よくテレビを観に行った。集ってきた連中の方がいばって、五代目は小さくなっていた。少年探偵団ごっこになると、裏から表へ子どもたちが駆け抜けたり、おおらかな時代だった。とにかく、輪島の街全体が遊び場だったから、変わり果てた街の姿を見ると、懐かしさが余計にこみ上げてくる。
(2024年1月26日追加)

【追加11】

この『ふるさとを襲った大きな地震』の初回、1月4日に公開した文章で、NHKテレビの津波避難の放送について触れた。「ボーッとテレビなんか観てるんじゃねえよ」とチコちゃんに叱られているようなアナウンスだったが、奥能登ではテレビどころではなかった。とにかく家から出ることだけがすべてだった。避難先でも停電しているから、テレビを観ることはできない。被災地のことを思って、とにかく必要な情報を届けようと、頑張ってくれたのに、多くの被災者はテレビから情報を得ることができなかった。もちろん、新潟などではテレビの呼びかけに避難して助かった人もいるだろうし、携帯電話やショートメールが使用できるようになって、テレビから得た情報を、親戚・知人などが被災者に伝えて、何かと役立ったこともあるだろう。
テレビもダメ。ネットもダメ。そのような中で、停電でも使えるラジオの、情報源としての重要性が改めて強調されている。それも広範囲に電波を届けられるAM。そのAMラジオの停止が順次開始され、代わって登場するワイドFMラジオで、果たして大丈夫かとの意見が出されているという。また、テレビは地上波が受信しにくい状態になっており、NHKでは昨年12月1日から番組放送をやめた衛星放送BS3を使って、必要に応じて地上波の放送を流している。けれども3月31日をもって、完全に停止する。今後、各地で災害が発生した際、被災地にテレビ電波を送るため、どのようにしていくかも課題として浮かび上がってくる。  
災害というのは、多くの課題を私たちに突きつけてくる。
(2024年1月29日追加)

【文豪と隅田川】 第6回

龍之介は少し引き返して、横網の浮き桟橋へ降りて川蒸汽に乗った。おそらく「百本杭」の近くであろう。かつては「一銭蒸汽」と呼ばれたが、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。浮き桟橋の屋根も震災で焼失したであろうが、復旧し、明治時代と変わらぬ風情をもっている。
龍之介は《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。(略)唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった》と書く、そこへ久しぶりに見る五大力が上って来る。
五大力は艫が高く、鉢巻をした船頭が一丈余ある櫓を押し、お上さんも負けずに棹を差している。四、五歳の男の子も乗っている。龍之介は《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない》と書いて、《幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた》と続けている。
いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。何度も乗った、明治時代から変わらぬ船で、満員。立っている客もいる。船は静かに動き出すが、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。
船は満員。立っている客もいる。船は静かに動き出す。
大川は変わらず濁った水が流れているが、起重機をもたげた浚渫船の先にある対岸は、「首尾の松」や「一番堀」「二番堀」でなく、五大力・高瀬舟・伝馬・荷足・田舟といった大小の和船も流転の力に押し流されて、すでに大川を行き交うのは小蒸汽や達磨船である。ここで龍之介は、「沅湘日夜東に流れて去る」という中国の詩を思い出す。
川蒸汽は蔵前橋をくぐり、厩橋へ。もちろん蔵前橋は工事中で未完成であった。川蒸汽がもう一艘。それにお客や芸者を乗せたモオター・ボート。龍之介は自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう》と記している。
そして、ここで河童の登場である。《僕は船端に立ったまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重も描いていた河童のことを思い出した》。龍之介は維新前後には大根河岸の川にさえ河童が出没したとか、河童が実際にいるかのような話しを書きながら、こういう話しを事実とは思っていないと続けている。
川蒸汽は厩橋をくぐりぬける。薄暗い橋の下だけは浪の色も蒼んでいる。昔は磯臭い匂いがしたが、今日の大川の水は何の匂いもなく、あるとすれば、唯泥臭い匂い。連れが「あの橋は今度出来る駒形橋ですね?」と龍之介に尋ねる。駒形橋も蔵前橋と並んで、関東大震災を契機に架けられた橋で、この『本所両国』の連載が終わって一か月ほど経った1927年6月25日に開通した。龍之介の死、一か月前である。ところで、連れは「駒形橋」を「コマガタばし」と発音したようで、これを聞いた龍之介は、《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである》と記している。龍之介にとって、「駒形」は「コマカタ」と澄んだ音でなければならなかった。川蒸汽を下りた龍之介は、吾妻橋の袂から円タクに乗って柳島へむかった。

漱石存命中、駒形橋はなかった。駒形の渡しが通っており、右岸には「駒形堂(こまんどう)」が建っていた。浅草寺本尊の観音様がこのあたりから引き上げられた縁起に因んで建てられたもので、馬頭観音を本尊に祀る。『文豪と隅田川』の冒頭、川をさまざまなものが流れると書いたが、観音像も流れてくるようだ。駒形堂の前には江戸時代からのどじょう料理専門店「駒形どぜう」がある。
駒形堂から下流。厩橋の間にあるのが浅草諏訪町である。浅草三間町から転居した幼い日の漱石。当時、この浅草諏訪町4番地(現、駒形2丁目4-8)に第五大区五小区扱所が置かれ、漱石養父塩原昌之助が戸長を務めていた。扱所の棟続きに漱石は養父母と暮らしていた。家を出れば隅田川。漱石は『道草』で、《土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。》と描いている。東京の作家、文豪夏目漱石が描いた唯一の隅田川情景である。
一旦、実家へ転じた漱石は、浅草諏訪町の隣り町浅草壽町に移り住み、れんと一緒に小学校に通った。浅草の三か所に住み、『道草』には浅草黒舩町を登場させ、『彼岸過迄』では主人公を、今日の江戸通り、浅草橋まで歩かせ、自ら蔵前の東京工業学校で講演しながら、さらには『硝子戸の中』で親友と大川の水泳場に通ったと書きながら、漱石は隅田川を描写しない。そして、ついに両国橋の橋の上。親友中村是公と《予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。然しその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった》(『永日小品』)。きっと、両国橋の下には隅田川が流れていたはずである。
                        (つづく)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加9】

とりあえず七尾線が七尾まで復旧し、22日から運転を再開した。
今回の大地震で能登半島の北部海岸地域が隆起したことから、私にとって「岩場の風景」であった鴨浦が、かつての隆起の証しではないかと思い始め、風景が地形形成を物語っていることを改めて認識した。
そう思って、輪島沖合の七ツ島や舳倉島を思い浮かべた時、これも隆起の証しではないかと、気になり始めた。舳倉島は輪島からは見えないが、七ツ島は輪島の海の風景に欠かせない。私にとって、子どもの頃から、七つ確認する楽しみを与えてくれた七ツ島が、今回の地震で新たな視点を与えてくれた。
過去の文献から海底地形を調べてみると、七ツ島も舳倉島も、それぞれ西南西から東北東にのびる堤防上の海底の、一部海面に姿を現したものである。まさにそれは能登半島北部の海岸線に並行して伸びており、明らかにそれは断層の存在を示している。今後、これらの断層が大きく動くことも考えられる。そうなれば、七ツ島がいくつかまとまって一つの島になってしまったり、舳倉島が大きくなったりするかもしれないが、大きな津波が押し寄せるキケンもある。
私は鳳至川から輪島川へ至る谷筋が、断層の証しではないかと推定したが、輪島川が流入した海は、溝状に深くなった「溺れ谷」のようになっており、断層の証しともみられる。この断層では今回の地震をきっかけに、マグニチュード4程度までの地震が頻発している。とにかく、今回の大地震の前後、能登半島やその沖合にある断層が、連鎖的に動き始めている。そうなると、まだまだ地震は収まりがつかないだろう。
「風景が地形形成を物語る」。その視点でみると、七尾湾というのは陸地の沈降によってできた、「沈降海岸」ではないかと思わされる。そうなれば、奥能登の北部海岸地域(外浦)は隆起し、南部海岸地域(内浦)は沈降する、奥能登丸という船が傾くような状態になっているのではないか。このようなことが風景を通して見えてくる。奥能登観光にとって、この外浦と内浦の風景の対比は重要な資源である。そしてそれは、長い地殻の変化の営みがつくりだしたものである。事実、今回の大地震で北部は隆起したが、七尾湾の一部を構成する穴水湾では沈降が確認されたという。
何か文学からどんどん離れていくような感じがするが、自然がつくり出した景観のうえに、また文学もつくり出されているのだから、時にはこのようなことを考えても良いのだろう。(2024年1月23日追加)
【文豪と隅田川】 第5回

両国橋を渡って両国へやって来た龍之介は、両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記している。関東大震災に両国橋が耐えた証でもあるが、彼は小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じているという。木造の両国橋は龍之介が小学時代に架けられた鉄橋より下流にあり、彼は橋を渡りながら、「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたことを記している。
両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。
表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。 漱石の『こころ』に出て来る、先生とKが食べた両国の軍鶏は「坊主軍鶏」か「かど家」であろう。いずれも江戸時代からの老舗である。
龍之介は両国橋の袂から左折。「百本杭」があった方へむかっている。龍之介は昔、両国橋を渡り、《浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めていた》という。その《中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。》と、龍之介はちょっぴりがっかりした様子。この「百本杭」とは、両国橋の上流側、隅田川の左岸に沿って打ち込まれた膨大な数の木杭の総称で、《その名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である。》ということで、別に百本あったわけではない。「多い」という意味だ。このあたりで隅田川、上流から来ると右へ曲っているため、左岸に川の流れがぶつかって削り取られる「攻撃斜面」で、水流の勢いを弱め、浸食を減らすため杭が打たれた。打っても打っても倒れ、「杭倒れ」状態になっていたと考えられる。
龍之介は『大川の水』で、《ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりないさびしさに迫られたことであろう》と書いているが、大川というのは水の量に圧倒される感がある。この「百本杭」に龍之介が釣りをする人を眺めに行って、釣り師がいなくて、《その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人うつむけに浪にゆられていた……》ことを思い出している。

龍之介は、『大川の水』を《自分は、大川端に近い町に生まれた。》という一文で始めている。龍之介が生まれた築地は確かに大川端であるが、もの心ついてからの実質的なふるさとは両国であり、こちらも確かに大川端である。『大川の水』で龍之介は、《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。》と記し、やがて内藤新宿に移った龍之介は、《この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。》と、隅田川に対する思いを表している。
「伊達様」を抜けると、まもなく左手は富士見の渡しである。龍之介は、ちょうど道ばたで芋を洗っていた三十前後の男の人に「富士見の渡し」がどこにあったか尋ねた。けれども男はそもそも「富士見の渡し」という名前も、存在したことすら知らない。龍之介は大いにショックを受ける。その男は龍之介より少し若い程度。当然、知っていてもおかしくないはずだが。
龍之介は、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》と書いている。ところが明治末の地図を見ると、「百本杭」辺りから出る富士見の渡しは、柳橋花街の大川端にある代地河岸の北端の瓦町を結んでおり、お竹倉の出入口に架かる御蔵橋から明治病院裏手の掘割に至る渡しは「御蔵の渡し」と呼ばれている。この二つの渡しは接近しており、大正期を通じて、利用状況の変化によって、航路も名称も混在してしまったのではないだろうか。男は「富士見の渡し」は知らなくても、「御蔵の渡し」は知っていたかもしれない。龍之介は「富士見の渡し」で、三遊派の「五りん」のお上さんだという親戚へ行ったというところから、今村次郎という講談の速記者の話しに移り、寄席の話しへと。龍之介は日本橋区米沢町(両国橋を渡って、すぐ左折した一帯で、薬研堀町に隣接)にあった立花家にも行ったが、本所小泉町に隣接する本所相生町にあった広瀬は近いこともあって、よく行った。
龍之介は『大川の水』で、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあったとして、《その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている》と続けている。
龍之介は現在の両国駅、国技館の前を通り北上。龍之介は震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。「お竹倉」の跡地は陸軍被服廠になり、現在は東京都慰霊堂や復興記念館が建っている。「お竹倉」は総武鉄道会社の所有地になっていたが、龍之介は鉄道会社の社長の次男と友達だったため、みだりに立ち入ることを禁じられた「お竹倉」の中へ遊びに行くことができた。そこには維新前と変わらず、雑木林や竹藪がひろがっていた。
大川端を上流へ。やがて本所会館。《水泳を習いに行った「日本遊泳協会」は丁度、この河岸にあった》と、龍之介先生。これを聞いた同行のO君、《「この川でも泳いだりしたものですかね」》とびっくりしている。荷風、漱石、藤村いずれも、この大川で泳いでいる。《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。
震災前の1922年、安田邸敷地は東京市に寄贈されたが、震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。邸跡には1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。庭園も復旧し、安田庭園として1927年に開園した。本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、本所会館の隣に建設中の同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。
龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
龍之介はさらに、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。ここで出てくる「椎の木松浦」とは、大川端にあった大名松浦家の椎の木で、誰も葉っぱの落ちたのを見たことがなく、「落葉無き椎の木」として、「本所七不思議」のひとつに数えられている。お竹倉と大川の間にあり、本所会館のすぐそば。「横網」はお竹倉を含む一帯。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です。」》
震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。

                        (つづく)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加8】

珠洲市と能登町の中学生の一部が、集団で金沢へ避難し、医王山スポーツセンターで学校生活を再開させた。金沢の東、富山県境に医王山(いおうぜん)があり、その麓に独特の山体をした戸室山がある。私は戸室山の表面にある雪の縦じまが小さくなっていく姿に春が近づくことを感じていた。この戸室山の裏手、これから医王山に登るぞと見上げる辺りに医王山スポーツセンターがある。私の『鶴舞坂』において、主人公大沼ひさの母親の新たな嫁ぎ先として設定したのが、このあたりである。
医王山は山好きの友人と何回か上ったが、中学の遠足でも2回上った。星を見ながら学校を出発し、現在の医王山スポーツセンター前を通り、山道を山頂めざす。途中、「トンビ岩」という断崖絶壁の岩山を上る。手か足を滑らせたら、確実に死ぬ。よくそのようなところを学校行事で上らせたものだが、結局のところ落ちた生徒はひとりもいないようだ。それはもう、恐怖と戦いながら、全神経を上ること、というより、落ちないことに集中している。山頂で昼食をとり、星を見ながら学校へ戻って来る、30kmの行程だ。他のコースを選ぶことはできるが、この学校の生徒である限り、拒否できない雰囲気の、一種の通過儀礼のようなものだ。私も「もう嫌だ」と思いながら、二回参加してしまった。
そのようなことを思い出しながら、私は珠洲市、能登町の中学生たちには、医王山を見上げながら頑張ってもらいたいと思う。テレビなど観ていると、輪島市の中学生も含め、親は涙を流していても、子どもは泣いていない。思春期にある子どもたちは涙をみせることを必ずしも「良し」とはしない。その分、感情を深く押し殺してしまうことにもつながる。その押し込めた感情をムリにこじ開けようとすれば、大きなストレスがかかる。自然に感情を出すことができる場をどのようにつくり出していくか。
私は『鶴舞坂』で、小学6年生から中学1年生の間の大沼ひさを描いた。ひさは感情を押し殺しながらも、少しずつ自分らしさを見つけ出そうとしていく。

輪島の街の西側には輪島崎などと呼ばれる高台が岬のように突き出し、輪島の海岸に湾を提供している。この岬の東側が海士町や輪島崎町で輪島港もある。西側は袖ヶ浜とよばれる砂浜海岸で海水浴場になっている。そこからトンネルを抜けて北側へ出ると、鴨浦とよばれる岩石海岸である。岬の先端が60mほどストンと落ち、海岸部に浸食されて比較的平板になった岩場が筋状に東へ伸び、輪島の湾に形成された防波堤のようになっている。
この岩場の一部には海水が入り込んでおり、昭和の天皇皇后両陛下輪島訪問の際、コンクリート製の遊歩橋が架けられた。この橋を渡ったところに25mプールがつくられている。自然の海水が入るようにつくられた塩水プールで、オリンピック選手の山中毅も泳いだことで知られている。輪島中学(初代)のプールは、もちろん山中毅が中学生の時泳いだプールである。私の担任は山中選手を育てた教師のひとりであり、その手前、私は泳げなければいけないのであるが、そのようなプレッシャーに負けて、5m程しか泳げなかった。袖ヶ浜海水浴場では兄に「大丈夫だ」と言われながら、岩場から飛び込んだものの、「もうコリゴリ」という結果に終わった。
そのような訳で、塩水プールは学校のプールに比べれば浮きやすく、海水浴場と違って水深ははっきりしているし、流される心配もない。砂まみれになることもない。けれども、水泳恐怖症ゆえ、あまり泳ぎたい場ではなかった。塩水プールの先、岩場の最北端に高さ8m以上あるだろう、「猫地獄」とよばれる岩山があり、その絶壁から海に飛び込んでいる子どもたちもいた。
今回の能登半島地震に関連して、なぜ鴨浦や塩水プールを話題にしたかというと、地震によって塩水プールの水がなくなったからである。私も写真を見て愕然とした。まさにローマの浴場の遺跡のようである。つまり、地震で地盤が隆起して、海水が入ってこなくなったからである。近くにある検潮所で津波の高さを測定できなくなったのも、この隆起によるものとみられている。
けれども、輪島崎の岬そのものが、かつての隆起でできた海岸段丘の名残であろうし、鴨浦の岩場も比較的新しい時期(と言っても、人間の感覚とは異なるが)に形成された海岸段丘が、その後、海水などによって浸食され、平板になりながら、一部「猫地獄」のように残ったのであろう。
私がこれからここに書くことは、今の時期、はなはだ不謹慎かもしれない。私もそう思いながら書くのであるが、もしそう思われるなら、読む時期を2~3年後にしてもらいたい。私は、この海水のなくなった塩水プールを、そのままぜひ残してもらいたい。壊してしまってからでは遅いので、今、そのようにお願いしたい。私も子どもの頃からずっと鴨浦を見てきて、そして、大学で地形形成などについても学びながら、鴨浦の岩場は常に風景であって、地盤の隆起がなせる業として見てこなかった。今回の地震は、私の視点を変えさせた。地盤の隆起!自然の力がいかに大きいものであるか、その中で私たちはどのように生きていけば良いのか、そのことを考える貴重な教材として、塩水プールをぜひとも残してもらいたい。1分で数m地盤が隆起した「生き証人」として。
今回の隆起は鴨浦の岩場形成と同じ時期に属するもので、前述の袖ヶ浜の岩場から、光浦の岩場へと続く低位の段丘面へとつながっているように思われる。まだまだこれから隆起は続くのだろう。もちろんそれがどのくらいの期間、どれくらいの間隔で続くのかわからない。自然の時間のモノサシは人間とは異なる。
今回の隆起は輪島市街地を境に、西海岸と東海岸で高くなっている。大きくは連動しながらも、輪島市街地を境に二つの大きな断層列があるようだ。どうもその境界が鳳至川・河原田川から輪島川へ至る谷筋を形成しているようである。そのように見てくると、輪島市役所の真下付近地下10km付近を震源とする地震が、今も時おり起きていることは、注目しなければならないだろう。

七尾線復旧のメドはある程度立ってきたが、穴水まではメドがたたない。金沢からの能登方面特急バス運行のメドも立っていない。(2024年1月21日追加)
【文豪と隅田川】 第4回

隅田川と言えば、滝廉太郎作曲の『花』を思い出される。《春のうららの隅田川・・・》の歌い出しで有名な歌詞。作詞したのは武島羽衣。1897年から東京音楽学校で教えており、ここへ1898年、藤村が入学している。武島と藤村はともに1872年の生まれであり、1900年に『花』が発表され、藤村も刺激され、隅田川をテーマに詩を創ってみたいと思ったのか、1901年に『藪入』という詩をつくった。これは『落梅集』に収められている。
この詩は浅草あたりで奉公している人が、藪入りになって深川の実家めざして帰る様子を描いたもので、実家から奉公先へ戻る様子も描かれている。詩の主人公は隅田川に沿って歩いている。藪入りは商家などの奉公人が、盆と正月の年二回、実家へ帰る風習である。浅草は商家が多く、藪入りともなれば、一日という限られた時間の中で、少しでも長く実家にいることができるよう、急ぎ足の奉公人がたくさん見られたのだろう。奉公先からしばし解き放たれた浮き立つような嬉しさが伝わってくる。

――朝浅草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に帰るなり

(略)

大川端を来て見れば
帯は浅黄の染模様
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か

柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁り舟の艪の音は
静かに波にひゞくかな
 
白帆をわたる風は来て
鬢の井筒の香を払い
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり

潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿――

隅田川は永代橋まで来てしまって、水は東京湾へ流れ込んで、海水と混じる。品川の沖辺り。橋を渡れば、なつかしい深川。「宿」とは、ここでは実家を指していると思われる。
ここまでで、「上」が終って、詩は「下」に入る。
「下」は実家から奉公先へ帰る場面。あっという間に夕方になって、いとまごいをして見返ると、「蚊遣に薄き母の影」。歩みは重い。「西日悲しき土壁の まばら朽ちたる裏住居」「南の廂傾きて」など綴られて、

――夕日さながら画のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川

茶舟を下す舟人の
声遠近に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲――

茶舟というのは、物売り舟や荷物などを運ぶ小舟のことである。陸上で言えば、物売りの車や荷車にあたるだろう。きわめて日常的な光景である。そのような隅田川の川岸から、もう一度、実家のある深川の空を眺めて、詩は終わっている。
藤村にしては珍しく、東京の情景を詠んだ詩である。「藪入」を『花』のメロディーで歌ってみたら、素直に歌うことができた。
それにしても、小諸に住んでいる藤村、しかも藪入りで実家へ帰るという経験などないはずの藤村が、なぜ、わざわざ東京の藪入りの光景を詩にしたのであろうか。
さて、「大川愛」に満ちた龍之介なら、どのような詩を創っただろうか。

話しは藤村の詩につられて、両国橋を通り過ぎ、永代橋まで行ってしまったが、ここで両国橋まで戻って、「大川愛」に満ちた龍之介の『本所両国』で吾妻橋まで戻ってみたい。
《僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った》。これは『本所両国』の書き出しである。関東大震災からの東京の復興を宣伝しようと、「東京日日新聞」が企画した「大東京繁昌記」の記事を書けというのが、芥川龍之介に下された社命である。この社命は、鏡花・秋聲をはじめ、十数人の作家にくだっている。
龍之介はO君と取材に出かけた。二人は両国橋を渡って本所区に入り、隅田川を吾妻橋まで行き、業平、柳島、錦糸町を経て、両国へ戻っている。本所区を一周したことになるが、題名を『本所』とせず、『本所両国』としたことについて、《なぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである》と記している。両国で育った龍之介にとって、「両国」は特別な響きをもっていたのであろう。本所に埋没させるわけにいかなかった。その結果、《ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることに》なってしまった。こうして、『本所両国』は1927年5月6日から22日まで、「東京日日新聞」に連載されたが、社命によって、龍之介は人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第3回

荷風の『すみだ川』は、1909年に発表されたものだが、隅田川の情景は渡米する1903年以前に、荷風が目に焼き付けたものである。
二に入ると、お豊のひとり息子長吉がまだ日の落ちないうちに今戸橋に立っている。今夜暗くなって人の顔がよく見えない時分になったら、今戸橋の上でお糸と会うことにしていたのだ。
《残暑の夕日が一しきり夏の盛よりも烈しく、ひろびろした河面一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目に反映していたが、忽ち燈の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐の上を滑って行く荷船の帆のみが真白く際立った。と見る間もなく初秋の黄昏は幕の下るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩しくきらきら光り出して、渡船に乗って居る人の形をくっきりと黒絵のように黒く染め出した。堤の上に長く横わる葉桜の木立は此方の岸から望めば恐しいほど真暗になり、一時は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘残らず上流の方に消えてしまって、釣の帰りらしい小舟がところどころ木の葉のように浮いているばかり、見渡す隅田川は再びひろびろとしたばかりか静に淋しくなった。遥か川上の空のはづれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間なく閃めいては消える。》と、隅田川の情景描写が続く。艇庫は隅田川沿い河岸各所にあったが、桜餅の長命寺や言問団子のすぐ北にある、王貞治少年も通った「隅田公園少年野球場」一帯の河岸に大学の艇庫が建ち並び、「向島艇庫村」などと呼ばれた。
《一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた》。慶養寺は今戸橋脇、浅草今戸町71番地にある禅寺。人通りが途絶え、長吉は隅田川に目をやる。川面はさっきより明るくなり、長命寺辺りの堤の上の木立から満月が昇る。《見る見る中満月が木立を離れるに従い河岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に湿れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、逸早く月の光を受けて蒼く輝き出した》。この後、まもなく芸者になるお糸と長吉の絡み。二人の暮らしている地域が描かれている。
年明けて、インフルエンザからの病み上がり。長吉は今戸橋のそばにいる。《山谷堀から今戸橋の向に開ける隅田川の景色を見ると、どうしても暫く立止らずにはいられなくなった。河の面は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞めている。荷船の帆の間をば鷗が幾羽となく飛び交う。長吉はどんどん流れて行く河水をば何がなしに悲しいものだと思った。川向の堤の上には一ツ二ツ灯がつき出した》。この後、長吉は《今戸橋を渡りかけた時、掌でぴしゃりと横面を張撲るような河風》に、思わず胴震いする。

荷風が『すみだ川』を書いた頃、白鬚橋の下流、吾妻橋までなかった。震災復旧事業で言問橋ができ、これが改正道路につながって、『濹東綺譚』を書く頃には玉ノ井のある東向島まで伸び、現在は日本橋から言問橋を通り、水戸、いわき、仙台へと続く国道6号線になっている。
四月。『すみだ川』のお豊は今戸の自宅を出て、吾妻橋へむかっている。《お豊は今戸橋まで歩いて来て、時節は今正に爛漫たる春の四月である事を始めて知った。手一ツの女世帯に追われている身は空が青く晴れて日が窓に射込み、斜向の「宮戸川」と云ふ鰻屋の門口の柳が緑色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり、いつも両側の汚れた瓦屋根に四方の眺望を遮られた地面の低い場末の横町から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川は、一年に二三度と数へるほどしか外出する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につヾく桜の花、種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺から起こる人人の叫び声、鉄砲の響。渡船から上下りする花見の混雑。》《お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐るる如く踵を返して、金龍山下の日蔭になった瓦町を急いだ、そして通りがかりの成るべく汚い車、成るべく意気地のなさそうな車夫を見付けて恐る恐る、「車屋さん、小梅まで安くやって下さいな。」と云った》。
待乳山聖天のある金龍山の隅田川畔と南側が浅草金龍山下瓦町である。鰻屋の宮戸川は「陽炎の辻」(佐伯泰英原作)にも登場する。この辺りの隅田川は宮戸川とも呼ばれ、ウナギがよく捕れた。屋号の「宮戸川」は、これに由来する。

いよいよ吾妻橋である。最初の橋は江戸時代の中頃に架けられた。
『吾輩は猫である』には、吾妻橋にまつわる迷亭の不思議な経験が、《只蹌々として踉々という形ちで吾妻橋へきかかったのです。欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまって只動いている様に見えます。花川戸の方から人力車が一台馳けて来て橋の上を通りました。その提灯の火を見送っていると、段々小さくなって札幌ビールの処で消えました。》と語られている。よく考えてみると、別段怪奇な話しではない。話術のなせる業である。隅田川沿いの札幌ビール工場は1903年9月に完成しているので、漱石は最新情報を作品の中に織り交ぜて、札幌ビール人気にあやかろうとしたようだ。現在はアサヒビール本社になっている。
『すみだ川』では、お豊を載せた人力車が、花川戸の方からよたよたとやって来て、吾妻橋へさしかかる。《吾妻橋は午後の日光と塵埃の中をおびただしい人出である。着飾った若い花見の男女を載せて勢よく走る車の間をば、お豊を載せた老車夫は梶を振りながらよたよた歩いて橋を渡る》。車は蘿月の住む小梅瓦町にむかう。
『濹東綺譚』では、主人公大江が小説家であり、小説の中に小説が出現する。大江が書こうとしている小説『失踪』の一節。ここに吾妻橋が登場する。冒頭、《吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合しているのである。》と、主人公種田順平は隅田川に架かる吾妻橋の上にいる。上流の浅草側には、1931年の東武鉄道浅草雷門駅(現、浅草駅)開業にあわせて建てられた松屋浅草店が、八階建ての巨大な壁のように立っている。船で言えば船首にあたる、正面の上に時計塔がそびえている。このデパート、屋上にスポーツランドがつくられていた。
橋の上には円タクの他には、電車もバスも通っていないというから、かなり遅い時刻である。いつもは駒形橋を渡っていくというすみ子が思ったより早くやって来て、とりあえずすみ子のアパートへ。「歩いたって、停留場三つぐらいだから、円タクに乗ろう」ということで、吾妻橋を渡り終らぬうちに、秋葉神社前まで30銭で行くというタクシーが見つかって、二人は乗り込む。
吾妻橋から浅草通り、三ツ目通りへ折れて北進。水戸街道(国道6号線)へ出て、向島を1丁目から2、3、4丁目。ここに秋葉神社がある。《「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」「向島の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」》と、二人の会話。ここに市電(向島線)が開通したのは1931年であるから、当時はまだ新しい路線だった。秋葉神社は現在の向島4丁目9にあり、参道の目の前が向島の終点になっていた。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第2回

白鬚橋は1914年に地元の人などが出資してつくられた有料の木造橋が起源。もともとこの地には「橋場の渡し」「白鬚の渡し」があり、千住大橋ができるまでの街道筋にあたり、伊勢物語に出てくる「言問」の歌を詠んだのはこの渡しとされている。明治以降、隅田川に橋が架けられ、渡しがつぎつぎに消えていくが、龍之介の作品などにその様子が記されており、あらためて紹介していきたい。
木造の白鬚橋は経営難から1925年、東京府に買い取られ、新たに建設される環状道路である明治通りの一部として組み込まれ、1928年から鉄橋への架け替えが進められ、1931年に現在の白鬚橋が完成した。
荷風の『濹東綺譚』に登場する京成電車白鬚線は1928年に開通した。白鬚橋鉄橋化工事が始まった年である。鉄橋開通後、その上に路面電車を走らせ、王子電気軌道の路線と結びつける計画だった。結局、この計画はうまくいかず、荷風が『濹東綺譚』を書く頃には、跡地を残すのみとなっていた。玉ノ井への玄関口のひとつとなるはずだった白鬚橋も、荷風によって描かれることもなく、秋聲が『仮装人物』において、庸三が葉子を連れて、もやのかかった長い土手(おそらく隅田川の土手)を白鬚橋までドライブした記述程度になってしまった。

白鬚橋から下流へ。
川は下流にむいて、右側が右岸、左側が左岸である。つまりここでは、隅田川の右岸は台東区、左岸は墨田区。白鬚橋から少し下った左岸、川から200mほどのところに白鬚神社があり、境内には荷風の母方の祖父鷲津毅堂の碑がある。もちろん、荷風もここを訪れている。脇を通る墨堤通りを下ると、言問団子の店や、桜餅で有名な長命寺がある。龍之介は直接訪れていないが、伯母といっしょに川蒸汽に乗った時、伯母が膝に載せている長命寺の桜餅を男女の客から「糞臭い」と言われたことを思い出したと『本所両国』に書いている。龍之介は「糞臭い」を否定しながら、《饀や皮にあった野趣だけはいつか失われてしまった。……》と記している。桜餅の桜葉は伊豆松崎産のオオシマザクラで、ひとつの餅に三枚の桜葉がついていて、私はびっくりした。
このあたりの隅田川沿岸。向島の桜として江戸時代から有名な地。両岸の隅田公園を結んで、1985年に歩行者専用橋の桜橋が架けられた。
桜橋と言問橋の中間あたり、右岸に山谷堀の出入り口があり、すぐ南に左岸の三圍(みめぐり)稲荷神社を結ぶ「竹屋の渡し」の船着き場があった。山谷堀へ入ってまもなく今戸橋。目の前が待乳山聖天。
このあたりを荷風は『すみだ川』で詳しく描写している。
主人公の伯父蘿月の家は本所区小梅瓦町に設定されている。現在、東京スカイツリーの建っている地域一帯の西側。妹お豊の住んでいる今戸へむかう蘿月。《小径に沿うては田圃を埋立てた空地に、新しい貸長屋がまだ空家のまゝに立並んだ処もある。広々した構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつゞいている処もある。それ等の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった》という、都市化が始まったばかりの都市近郊農村の景観をもった地域を抜け、三圍神社の横手をめぐって、隅田川の土手に上る。河風に桜の病葉がはらはら散っている。
《蘿月は休まず歩き続けた暑さにほっと息をつき、ひろげた胸をば扇子であおいだが、まだ店をしまわずにいる休茶屋を見付けて慌忙て立寄り、「おかみさん、冷で一杯。」と腰を下した。正面に待乳山を見渡す隅田川には夕風を孕んだ帆かけ船が頻りに動いて行く。水の面の黄昏れるにつれて鷗の羽の色が際立って白く見える。宗匠は此の景色を見ると時候はちがうけれど酒なくて何の己れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。》と、意気なことを言うが、要は「単に酒を飲みたいだけではないか」と、突っ込みを入れたくなる。蘿月は冷酒をグイと飲み干すと竹屋の渡しに乗る。《丁度河の中程へ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄にもあるようにいかにも投遣った風に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独で鼻唄をうたった》。言問橋が架けられたのを機に、1928年、渡しは廃止された。
向こう岸に着いた蘿月は急に思い出して近所の菓子屋を探して土産を買い、今戸橋を渡ってまっすぐ歩く。二三軒、今戸焼を売る店がある以外、《何処の場末にもよくあるような低い人家つゞきの横町である。人家の軒下や路地口には話しながら涼んでいる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立って白く見えながら、あたりは一体にひっそりしていて何処かで犬の吠える声と赤兒のなく声が聞こえる。天の川の澄渡った空に繁った木立を聳かしている今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豐と勘亭流で書いた妹の家の灯を認めた》。
竹屋の渡しは待乳の渡しともいう。船を下りると正面に待乳山聖天。ちょっとした山(標高9.7m)になっている。右折するとすぐ今戸橋。下は山谷堀で、隅田川から吉原の方に伸びており、船で吉原へ行く人たちはこの山谷堀を通る。「今戸橋わたる人よりくぐる人」という句がある。
漱石の姉たちが猿若町へ芝居見物に行く時、神田川をくだり、柳橋のところから隅田川に出た船が、《流れを遡って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍らに着けたものだという。》と、『硝子戸の中』に書かれている。西へ300mも行けば猿若町である。
今戸焼は狸が有名で、『吾輩は猫である』に、《そりぁ酷い事を云うんgだよ。自分の面あ今戸焼の狸みた様な癖に》、《往来で「今戸焼の狸今戸焼の狸」と四五人わいわいと云う声がする》、《「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。》、《主人はここに於て落雲館事件を始めとして、今戸焼の狸から、ぴん助、きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて滔々と哲学者の前に述べ立てた。》と繰り返し出て来る。この「今戸焼の狸」。信楽焼の狸の姿を想像するとかなり違う。さまざまな形のある土人形。もともと招き猫が有名な今戸焼だけに、招き狸などもある。今日、私たちが知っている姿の信楽焼の狸は戦後、1951年の天皇行幸によって全国に知られるようになったもので、当然、120年前の漱石は知らなかったはず。そうなると、ますます「今戸焼の狸」がどうして「悪口」として使われたのかわからなくなる。
今戸橋を渡って上流へむかうと、100mほどで左手に今戸八幡がある。蘿月の妹お豊の家は浅草今戸町に設定されている。

                        (つづく)
【文豪と隅田川】 第1回

私のふるさと金沢には、犀川と浅野川というふたつの美しい川が流れている。もちろん私にとって「ふるさとの川」であり、誇りに思う川である。にもかかわらず、私は隅田川を眺めていると、ふるさとへ帰ってきたような安らぎをおぼえる。私にとって隅田川もまた「ふるさとの川」なのである。じつに贅沢な話しである。おそらく子どもの頃から東京に憧れ、上京志向がきわめて強かった私は、テレビに映し出される東京の風景をしっかり焼き付け、「ふるさと」の情景として取り込んでしまったのだろう。とりわけNHKのテレビドラマ『ポンポン大将』で舞台となった佃の渡し付近の隅田川、遠望する東京タワーは、今思い出しただけでも、懐かしさがこみあげてくる。
隅田川は川幅いっぱいに、緑がかった鉛色の水がゆったりと流れている。その水は中央が盛り上がって見え、時には吞み込まれそうに思える。それは大都会東京の圧力を感じさせるようでもあるが、そこがまた、なぜか私を惹きつける。

私もいちおう「地理屋」であるから、隅田川の定義から始めなければならないだろう。
隅田川はもともと入間川の下流部で、江戸時代に瀬替えによって荒川の水が流れ込むようになり、荒川本流の下流部になった。明治末から昭和はじめにかけて、岩淵水門地点から荒川放水路が建設され、1964年にこの放水路が荒川本流と定められたため、岩淵水門から下流の荒川は正式に隅田川と定められた。延長約23.5km。
江戸東京博物館のホームページにある《「隅田川」とはどこからどこまでを指すのか。》によると、835年にはすでに「住田河」の名称が登場するが、「入間川」とも呼ばれ、江戸時代に入ると「浅草川」の呼称もみられ、この川が武蔵国と下総国の国境(「両国橋」とは武蔵と下総の両国を結ぶ橋の意味)を流れることから、武蔵側からは浅草川、下総側から隅田川と呼ばれたこともあった。この他、浅草観音付近では浅草川の他に宮戸川、両国付近では大川とか両国川と呼ばれた。また、「隅田」の字も「墨田」「住田」「角田」とさまざま。
どうあろうと、隅田川は一本であるから、どのような呼び方をしようと、お互いにそれほど不便はなかったのであろう。古い歴史をもつ隅田川ではあるが、国家的に名称が定まったのは1964年で、2024年は「隅田川名称確定60周年」の節目の年である。
なお、「両国」とか「両国橋」の語源になった武蔵・下総の国境であるが、江戸時代になって、1610年頃、下総国葛飾が中川を境に西側が武蔵国に編入されたため、以降、隅田川は国境の川ではなくなった。もしこのようなことがなければ、東京スカイツリーの高さ634m(ムサシ)は場違いなものになってしまう。現在の墨田区が下総国のままだったら、東京スカイツリーの高さは何mになっていたのであろうか。

この『文豪と隅田川』は、文豪たちの隅田川に対する思いと、作品に描かれた隅田川を紹介するものであるが、登場する文豪はおなじみの七人である。芥川龍之介を筆頭に、島崎藤村、永井荷風は隅田川に対する思い入れが強く、夏目漱石、徳田秋聲は「そこそこ」、泉鏡花や室生犀星には思い入れがほとんど感じられない。鏡花は浅野川、犀星は犀川にあまりにも思い入れが強かったためであろうか。東京を終の棲家とした文豪も、隅田川に対する思いの軽重はさまざまである。

これから、隅田川を上流から下流にむかって進みながら、作品に描かれた隅田川を紹介していくが、もっとも上流と思われるできごとが秋聲の『あらくれ』にある。《「あの時王子の御父さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川へ流してしまったと云って御母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。》と、お島は故あって、このような理由をつけて実母から引き離され、実父から養父母へと引き渡された。隅田川の最初の引用としてはあまり良いものではないが、王子は西新井大師の南西方にあり、もっとも上流にあたることは間違いない。このあたり隅田川が蛇行している。もちろん、「隅田川に流した」は言い訳で、実際に流したわけではないが、親と似ても似つかないと、「おまえは川から拾って来た」などと、ずいぶん子どもの心を傷つける言葉が、かつては時に聞かれた。そう言えば、桃太郎も川を流れているところを拾われたし、モーセはナイル川に流された。川はいろいろなものが流れていく。私の母も、私のおむつを犀川で洗っていて、一度、流されてしまったことがあると言う。友禅流しのように、優雅であったかわからないが、一条の布が流れる様は同じである。隅田川をどのようなものが流れていたか、これはいずれ紹介される。

ところで、この後、橋の名前がよく出てくるので、あらかじめ確認しておきたい。
隅田川には現在、鉄道橋などを除いて、岩淵水門から下流、新神谷橋・新田橋・新豊橋・豊島橋・小台橋・尾久橋・尾竹橋・千住大橋・千住汐入大橋・水神大橋・白鬚橋と架かっているが、ここまでは千住大橋を除いて、この後、登場することがない。以下、◎をつけたものは関東大震災後の復興事業の一環として架けられた橋、◇は戦後架橋されたものである。
白鬚橋から下流部は、旧東京市(15区)の市街地を流れる区間で、白鬚橋・桜橋(歩行者専用)◇・言問橋◎・すみだリバーウォーク(歩行者専用)◇・吾妻橋・駒形橋◎・厩橋・蔵前橋◎・両国橋・清洲橋◎・隅田川大橋◇・永代橋◎・(相生橋◎)・中央大橋◇・佃大橋◇・勝鬨橋・築地大橋◇。
七文豪の作品で、渡ったことが記載されている橋は、上流から千住大橋、吾妻橋、両国橋、永代橋と意外に少なく、いずれも江戸時代から架橋されていたものばかりである。

《自分は昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て、袷の尻を端折ったなり、松原へかかっても、茶店へ腰を掛けても、汽車に乗っても、空脛のままで押し通して来た》。ここで取り上げる七人の文豪が、隅田川に架かる橋として登場させた最も上流の橋がこの千住大橋である。文豪の名は夏目漱石、作品名は『坑夫』。ところが千住大橋を渡ったのは午後九時頃であり、暗いのと逃げるように東京を後にしているのとで、隅田川の描写も橋の描写も何もない。
千住の橋は隅田川に架けられた最初の橋で、1594年。江戸幕府が成立する以前である。奥州街道や水戸街道がこの橋を渡った。

                        (つづく)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加7】

私が子どもの頃、朝市がおこなわれる本町通りの1本北側の道が海岸線で、波除壁の下は3mほど切り立って、狭い砂浜になり、私たちは「下の浜」と呼んでいた。祭りになると、この浜で大松明が焚かれ、争って御幣を奪い合う。海岸通りには、ゆったりとキリコが過ぎて行く。冬には大波が壁にぶつかり、ドンという鈍く大きな音を立て、波除のはるか上までしぶきが上がって、ずぶ濡れになる。下手をすれば大波にさらわれるキケンがあるが、そこがまたスリルがあって、行きたくなる。
今、その海岸部は埋め立てられ、陸化している。平地の少ないところであるから、貴重な平地かもしれないが、私の知っている輪島の味わいはなくなってしまった。この陸地の一画にホテルが建っている。私も宿泊するが、まず、階段で上まで昇って確認する。津波避難のためである。ホテルそのものが地震で倒壊したり、津波で倒されれば、運命とあきらめるしかないが、生きている限りは「生命を守る」手立ては考えておかなければならない。
そのようなホテルの、さらに海側に「キリコ会館」がある。その広場の前に、このたびの地震被災者のための仮設住宅がつくられるという。確かに市街地に近く、海岸部が隆起したから、津波にも安全かもしれない。近くホテルまで逃げることもできるかもしれない。しかし、「けれど、なあ」と、何か割り切れない。「では、どこか良いところがあるのか」と言われても、高台でもたくさん亀裂が入っているし、地すべりの心配なところもある。私有地に勝手につくるわけにもいかない。
仮設住宅の入居期間は2年以内と言われている。高齢化が進み、住宅再建を見通すことができない人も多い。仮設入居が長期化する可能性もある。復興計画策定の中で公営住宅の建設なども考えていかなければならないのだろう。

七尾線も羽咋(はくい)まで復旧し、22日には七尾まで復旧の見込みという。けれどもその先、和倉温泉まで復旧の目途はなく、さらに穴水までの「のと鉄道」も復旧の見通しが立たないという。すでに鉄道が廃止された輪島や珠洲では、路線バスが復活しない限り、公共交通機関を利用して現地から出ることも、行くこともできない。
1200年の歴史をもつと言われる和倉温泉。鉄道が七尾まで開通したのは早く、1898年だが、和倉延伸は1925年。鏡花は1929年に和倉温泉を訪れ、和歌崎館(1877年創業、現存しない)に宿泊した。すゞ夫人、従姉の目細てるも一緒である。和倉温泉と言えば「加賀屋」が思い出される。今回の地震でも、宿泊客への対応などがネット上でも評判になった。この加賀屋には戦後一時期、永井荷風の愛人関根歌が女中として働き、その手腕は今でも語り継がれている。
じつはこの和倉温泉。今年は厳しい年になることが予想されていた。和倉温泉には大阪発10:42のサンダーバード17号が直通運転し、14:30に和倉温泉に到着した。運賃は9360円(普通車指定席)。ところが3月16日に北陸新幹線が敦賀まで開業すると、直通運転は廃止され、敦賀と金沢で乗り換え、運賃は12050円に跳ね上がると見込まれている(加賀温泉は7950円)。現在でも北陸新幹線開業にともない、金沢・津幡間がJRから切り離され、第三セクターになったため、金沢・和倉温泉間はジパング倶楽部の割引が適用されない。
そのような厳しい年の始まりに襲った大地震である。ほとんどの旅館・ホテルが営業できないくらいの損傷を受け、営業再開さえ危ぶまれる。すでに和倉温泉駅は2022年に無人化されており、玄関口として寂しくなったが、これから温泉街自体がどうなってしまうのか。荷風や関根歌が生きていれば、どんなにか落胆したことだろう。

テレビを観ていると、被災者のさまざまな声が伝わってくる。2次避難せざるを得ない人の声も、避難できない人の声も。どの声にも「そうだ、そうだ」と思う。被災地で頑張っている人たちの姿も伝えられてくる。手伝いに行きたい気持ちは強くなるが、私が行ったのではかえって迷惑をかけることになる。頑張る人びとの姿に、「この国の人びと、まだまだ捨てたものではない」と、勇気づけられる。(2024年1月16日追加)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加6】

通信状況が少しずつ改善されて、個人が撮影した写真や動画を観ることができるようになった。私が一番びっくりしたのは、マンホールが土管ごと道路の上に1m以上の高さに飛び出している光景である。まるで道路に巨大なきのこが生えたようだ。数年前、私が親子丼を食べた蕎麦屋さんも、屋根がそのまま地面に乗っかっている。店主たちは何とか無事だったという。軽量鉄骨と思われる三階建ての建物は、あちらこちら原型を留めている。友人の家もそのような建物のひとつだ。けれども、木造住宅は軒並み倒壊している。
私が気がかりだった重蔵神社の鳥居は、2007年の地震後、補強したということで、柱は残っていたが、上部にある笠木・島木は崩落していた。拝殿なども大きく破損し、「危険」の赤紙が貼られている。
津波が来るということで、内陸の大屋地区の方へ逃げた人の話によると、鳳至川に水がまったくなく、このような光景は初めてという。津波の引き潮の可能性も考えられるが、地盤が隆起した影響とも考えられる。2日あたりの輪島港の映像を観ても、津波が襲ったにしては何か不自然な船の状態で、土色になった輪島川(河口から1kmほどの区間の名称で、その先の上流部は、鳳至川と河原田川に分れる)の状態も、津波の影響だけとは思われない。火災発生時も、川の水がほとんどなくて、消火に大きな影響をもたらしたという。これらも地盤隆起が影響しているのではないか。輪島港も水深が1mほどになってしまったという。
能登では珪藻土を使ってコンロを生産してきた。輪島塗が堅牢であるのは地元で採れる「地の粉」と呼ばれる珪藻土を使っているからである。「珪藻」というのは海の生物で、それが海底に溜まり、やがて地上に現れ、珪藻土として、私たち人間が利用してきたものである。このことは能登半島が隆起を続けてきたことを示している。たまたまその大きな隆起が今回発生したわけで、これが一度で終わるのか、何度も続くのか、自然の営みはまだよくわからない。

今回の地震。1月1日ということで、帰省していた人たちも多く、各地から悲惨なニュースが伝えられたが、一方、高齢者のまわりに若い人たちがいて、避難や、その後の避難所生活などにおいても大きな役割を果たしていた。おそらく通常時だったら、逃げることができない高齢者も多く、亡くなる人ももっと増えていたかもしれないし、逃げたとしてもその後の避難所運営はもっとたいへんだっただろう。餅があったことも、食料支援が遅れる中で、大きな役割を果たしていたという。また、新型コロナ流行にともない、各所で感染対策にアルコールなどが常備されるようになっており、避難先で水道が使えない中、トイレの後などに役立ったという話も聞いた。反面、市役所職員なども休暇に入っていたため、各自の避難が優先されるのは当然のこと。この結果、初動に遅れが生じた。このようなことは全国どこでも起こりうるわけで、各自治体、そのことを想定した避難・支援計画づくり、別な言い方をすれば、マニュアルがなくても適切に柔軟に機敏に対応できる人材の育成と、避難所におけるじゅうぶんな備蓄が必要だろう。
輪島市街地の多くの住民が津波のキケンから避難したのは、一本松公園という高台で、ここには輪島中学校がある。この輪島中学校は津波の際の一時避難所に指定されているが、避難場所はグランドとテニスコート、いずれも屋外である。けれどもグランドには亀裂が入り、外は寒い。けれども避難所でないため、すぐには、校舎内へ入ることができなかったという。一方、この輪島中学校は屋内運動場・全天候型広場・武道館が洪水指定避難所に指定されており、避難所として使用することを想定、対策を講じていたはずである。私の少ない情報から語ることは控えた方が良いだろうが、何か不思議な印象を受けた。
また、こちらの方は輪島に住んだことのある人間として、小学生から中学生にかけて輪島の水害について研究した人間として、はっきりと言えることだが、輪島市役所の位置。輪島市役所は先ほどの鳳至川と河原田川が合流し、輪島川になるY字部分に位置し、きわめて地盤が悪く、津波浸水地域、洪水浸水地域に建てられている。防災拠点として果たして適切であるのか、検証する必要がありそうだ。
私はまた、倒壊した自宅へ戻ったら「電気が来ていた」という話をいくつか聞いた。電気の復旧はありがたいが、通電火災は大丈夫か。心配になった。

1月14日、輪島市長はつぎのような声明を発表した。「輪島市長の坂口です。私より市民の皆さまにお願いです。市民の皆さまには厳しい避難生活で大変なご苦労をおかけしております。このたびの大地震により、電気・水道などのライフラインに壊滅的な被害を受け、復旧には相当の時間がかかる見込みです。また、長引く避難所での生活環境は悪化する恐れがあります。このため、安全で快適に生活できる市外への2次避難を是非お願いいたします。避難されている間に私たちは復興に取り組み、皆さまが再び輪島市に戻ってくることができるよう全力を尽くします。ぜひ、市外への2次避難をお願いいたします。」
原発事故や火山の噴火といった事態に陥ったわけではない自治体の長がこのような要請をしなければならない、そこに輪島市の現状をみることができるのではないか。これは隣接する珠洲市についても言うことができる。珠洲市(約12000人)は全国の市の中で8番目に人口が少ない。そしてこれは、能登半島に限ったことではないだろうと思わずにはいられない。(2024年1月15日追加)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

【追加5】

冬休みが終って、能登半島の被災地からも、小学校の始業式のようすなど放映されるようになった。中学校はどうだろう。私が心配したのは、すでに輪島市に中学校は三校しかなく、生徒たちが遠距離通学していることである。道路が寸断され、今でも孤立集落が多数ある。登校したくてもできない子どもたちがたくさんいるはずだ。私は当面、まだ各地に残っている小学校に、それぞれの地域の中学生を通わせ、オンライン授業するのも一つの方策などと、勝手に思いをめぐらしていたが、輪島市の当局が出してきたのは全校避難だった。これは珠洲市でも出されている。金沢市の南にある白山市の県の宿泊施設などを使って、学校生活を再開させるというのである。私は一瞬、戦時中の集団疎開を思い出してしまったが、実際には全校で長期間の合宿をおこなうと捉えた方が良さそうだ。日本航空高校石川も、系列の山梨校へ丸ごと移って、授業やクラブ活動など学校生活を再開するという。余震は収まらず、寒さ厳しい冬。このような選択も思い切っておこなう必要があるのだろう。
現在の輪島市は1954年、輪島町とその周辺の6村合併による輪島市の発足に始まる。当時の人口は33832人。かろうじて3万人を超えたため市になった。1956年、東に隣接する町野町(当時の人口6441人)を合併し、人口も4万人を超える市になった。ところが高度経済成長期を過ぎて、輪島市の人口は減り始め、3万人を割るようになり、1935年から走り続けた鉄道(七尾線)も2001年に廃止。このような中で2006年、門前町(当時の人口8062人)を合併し、人口3万人台を何とか維持した。けれども、2023年、輪島市の人口は23192人にまで減少してしまった。1960年には現在の輪島市域の人口は57244人いたのだから、6割も減少してしまったことになる。
輪島市では1961年、輪島中学校を松陵中学校と上野台中学校に分割し、河原田中学校・鵠巣中学校・深見中学校を松陵中学校に、大屋中学校を上野台中学校に合併させた。新校舎が完成するまで、旧輪島中学校の校舎に松陵中学校と上野台中学校が同居するという変則的な状態で、私もその中で中学生活を送った。
ところが生徒数の減少にともない、2014年に松陵中学校と上野台中学校が合併して元の輪島中学校の名称に戻り、これに三井中学校が加わった。旧町野町にあった町野中学校も2010年に南志見中学校と合併して、東陽中学校になり、旧門前町でも剱地中学校と七浦中学校を合併しながら、門前中学校一校に統合され、結局、輪島市の中学校は輪島中学校・東陽中学校・門前中学校の三校になってしまった。遠距離通学を可能にするため、スクールバスも運行されている。
このようなことを書いていると、ふるさとに対して、ますます寂しい気持ちが強くなる。中学生の全校避難の話題に接して、地震によって地域そのものが崩れていくような、そのような思いがよぎる。七尾線に気動車が走り、快速が金沢まで3時間かからずに行くようになり、観光客でにぎわい、あちらこちらで映画のロケがおこなわれ、山中毅をはじめ三人のオリンピック水泳選手が、メダルを掲げて街の中をパレードし、輪島の街がもっとも活気に満ち、輝いていた時期を知っている自分は、幸せ者と言わなければならないだろう。(2024年1月12日追加)
【金沢ブログ】 ふるさとを襲った大きな地震

子どもの頃と違って、正月気分などまるでなくなってしまった昨今だが、あまりにも衝撃的な2024年の幕開けだった。
津波避難を呼びかける女性アナウンサーの語調は、今まで聴いたことのない激しいものだった。とくにNHKのアナウンサーは感情を表してはいけないと指導され、緊急事態の避難呼びかけに切迫感がなく、危機感が伝わらないとの指摘があり、どのようにして切迫感を伝えるか、さまざまな模索がおこなわれてきた、その表れのひとつが今回の放送だったのだろう。
彼女の中には、金沢放送局時代に接した能登のおじい、おばあ、その他さまざまな人びとの顔が浮かんでいたかもしれない。何とか逃げて欲しいとの思いが込められていたかもしれない。けれども、繰り返しの呼びかけの中で、感情的にも高揚してきたのか、聴いている方は何か叱られているような思いにさせられた。「これは若干まずいな」と思っていた時、解説委員が穏やかで冷静な口調で、彼女がどうしてこのような強い口調で呼びかけるのか、日本海沿岸特有の津波の特徴について話し始めた。解説委員とアナウンサーは上司と部下の関係ではないが、頑張っている後輩職員に対する見事なフォロー、もつべき上司の姿である。
今回、この放送によってどのくらいの人が避難したかわからない。また、視聴者の多くは直接津波の影響がない地域の人びとである。けれども津波到達までに一定時間があった新潟県の人などには役割は果たしたかもしれないし、また、何時どこで起るかわからない地震・津波。この時の放送の衝撃が残っていて、活かされるなら、大きな役割を果たしたことになる。
じつは私の兄も、娘が正月で帰省していたため、とにかく娘に怒鳴られながら、瓦礫の間を何とか家から脱出して高台の一本松公園まで逃げた。おそらく一人なら逃げることはしなかったであろう。朝市のおこなわれる本町通りは、海岸部であるが、浜堤上で、2~3m程度の津波なら大丈夫。火災も手前でとまったので、家に居ても無事だったかもしれないが、援助の手も届かぬまま家の中に閉じ込められた状態になっていたであろう。
2007年の能登半島地震の時には、高齢の姉の家が大きな被害を受けた。そして今回、兄も高齢になっている。高齢になって、住み慣れた住居が崩壊するのを見るのは、考えただけでも辛いものがある。
火災は当初、「河井1部」という連絡が入ったものの、いろは橋の方だろう程度はわかったが、それ以上にはわからない。そのうちテレビに映し出されのは、樹木のむこうの炎。蓮江寺から善龍寺あたりの樹木とすれば、だいたいあの辺りだろう。空撮映像が入るようになって、「これは永井豪記念館も焼けただろう。一点モノもたくさんあったはずだ。『まれ』にも登場した塗師屋さんもあの辺りのはず。子どもの頃好きだった女の子の家もあの辺りにあったはず。あそこは親戚の家の焼け跡。私の大好きな“えがら饅頭”のお店も焼けてしまったのだろう」。このような映像は各地の災害でよく映し出されるものであるが、ふるさととなると、そこに思い出が重なってくる。
私が子どもの頃、輪島は4年のうちに3度、水害に見舞われ、それから少し時を経て、本町通り一帯50戸ほど焼ける大火があった。私も何時、自分の家まで火災が及ぶか、むかいの家の板壁に映る赤橙の揺らめきに怯えていたことを思い出す。今回はそれを上回る。明治に1000戸を超える焼失家屋を出した輪島大火につぐものであろう。
今回の地震の揺れは大きく、各地で崩落や陥没が起きるのは当然。液状化現象も起きやすい。けれども今回は、昨年末の大雪の影響も見逃せないのではないか。輪島でも60cm超と、12月としては考えられない積雪。いや一冬通じても起らないような積雪である。それがほとんど融けて地下へしみ込み、蒸発することなく溜まったままで、融雪時の崩落に似た状態になっていたのではないだろうか。能登では大雪で孤立した家もたくさんあった。今また、地震による崩落などで孤立しているのではないだろうか。

昨年5月8日、「金沢ブログ:能登半島の地震」には――
2007年に「能登半島地震」(M6.9)が発生し、震度6強を観測した輪島市を中心に大きな被害が出た。その後も時どき地震が起きていたが、2018年頃から珠洲市を中心に地震が発生するようになり、2020年頃から群発地震の様相を呈して来た。そして、今年5月5日、M6.5の地震が発生し、珠洲市正院で震度6強を観測した。地下でかなり激しい地殻変動が起きているようで、火山がみられない地域で、これほどの地殻変動がみられるのは珍しいと言う。けれども、もともと能登半島ができたこと自体、長年にわたる大きな地殻変動の結果であるから、自然の流れの中では理解しうることであろう。
東日本大震災やこれからが心配される東海・東南海トラフに起因する大地震。海洋プレートの大きな力が押し寄せていることを示しているが、その力によるひずみは日本海側にも大きく現れてくる。つまり、能登半島の地震は容易に収まりがつかず、今後さらにM7クラスの大きな地震が発生する危険性も高くなってくるかもしれない。そのような流れの中で、私たちがどのように生活していくのか、考えていかなければならない。

私も先の文章に「今後さらにM7クラスの大きな地震が発生する危険性も高くなってくるかもしれない」と書いた。しかし、こんなにも早くそれが起きるとは思っていなかった。これからどうなっていくのか。専門家の間でも見解は分かれている。これは「最悪のシナリオ」の序章に過ぎないとみる人たちもいれば、収束にむかっているとみている人たちもいる。地殻のわずかな変化を捉える技術も進化し、地殻内部の状況を知る技術も進化している。専門家たちはそこから得られる手がかり、言ってみれば地殻からのサインを見逃すまいと神経を集中させて、地震の原因と今後を予測する手がかりを得ようと努めている。それでも何が起きるか、どうなっていくのか、わからないことの方が多い。まして、多少の興味と知識があっても、専門家でもない私が何か言うことは慎まなければならないだろう。
ただ確実なのは、いつかどこかで、同じようなことが起きるということ。地震をとめることができないとすれば、どのように被害を減らすのか、災害が発生した時、救助・支援をどのようにおこなうのか。ここは実際の被害を受ける人間の側で考えて、対応していかなければならない。そしてそれは人間が予測し、具体化していくことが可能である。

黒ぐろと静まりかえるふるさとは赤き炎に照らされうかぶ

ふるさとは崩れゆくなり黄昏に地のふるえたる能登の元日

【追加1】

停電が続き、携帯の充電などもできないだろうから、現地との連絡窓口を一本に絞って、そこから情報を共有するようにしている。兄のいる避難所では、4日に電気が使えるようになり、充電できるようになったという。ようやく食料も供給されるようになり、兄も「腹いっぱい食べた」らしい。
従姉たちの情報も入り始め、どこどこの避難所にいるとか、家の中はガチャガチャだが、道路が通行できなくなって、高台の自宅から街へ下りることもできないとか。大相撲の遠藤のふるさと穴水から輪島へ通じる道の中間点にある三井(みい)とは、いろいろな人が連絡を試みても一向につながらないとか。
津波の被害は輪島では比較的少なかったようだが(未確認)、珠洲の方は被害が大きかったとか。七尾や羽咋(はくい)にある親戚の被害状況も少しずつ入ってきた。羽咋では停電も解消し、水道も使えると言う(地域によって異なると思われる)。
奥能登では住民の半数以上が避難している状態だろう。家にモノを取りに帰りたくても体力的にムリな人も多い。帰ることができても、家の中に入ることができない人。たとえ家の中に入ることができても、余震が続き、倒壊のキケンが心配で、ゆっくり探すこともできない状況。
私が子どもの頃に起きた水害では、浸水しなかったわが家では炊き出しをして、親戚・知人に届けたり、復旧作業の手伝いにも行ったが、今回の地震では被災した人があまりに多く、地域での助け合いにも限界がある。他所にいる親戚・知人が荷物を担いで現地へ入ることも困難である。自助・共助がかなり難しい。どうしても公助に頼らざるを得ない。避難生活、ほんとうに乗り切れるのか心配である。(2024年1月5日追加)

【追加2】

災害対応は時間の経過とともに変化する。初動は「避難」と「救助・救命」。その後、「救助・救命」をおこないながら、「避難者支援」が始まる。水や食料の供給、毛布など寝具・防寒具の供給、トイレの確保もきわめて重要である。その後、ティッシュペーパー、生理用品などなど、さまざまな生活用品の供給も必要となる。薬やオムツ、粉ミルクの必要な人もある。避難所ではなく自宅に点在する人もいるから、把握しながら届けることも必要だ。わが家では東日本大震災の教訓から、ガソリンの「半量給油(ガソリンがメーターの1/2になったら給油する)」を実行しているが、ガソリンの供給も必須だ。こうした支援をおこなうためにも、道路の復旧、電気や水道の復旧も優先して必要だ。
こうした先に「仮設住宅」の建設が出てくるが、兄は早くも「仮設住宅」に申し込むと言っているらしい。これは、「ワシは輪島から動かん!」という強い意思表示と捉えた方が良い。奥能登一帯高齢化が進み、ふるさとを離れがたい人は多いだろう。一方、住宅が倒壊しても、もう一度、自宅再建する気力も金力も残っている人は皆無に近いだろう。すでに輪島市では仮設住宅の建設場所を探しているという話も聞こえてくるが、1戸毎はワンルームでも、バリアフリー化し、被災したデイサービス、さらには訪問介護・訪問看護ステーション、ケアマネ事務所などの仮設も近接させ、1ユニットとして医療・介護ケアの体制を構築していくことも必要だろう。
また、私は現在の「罹災証明」の発行システムは、住民にも自治体職員にも大きな負担を強いているように思う。現在では上空から被災状況を確認することは可能であり、住んでいる場所が特定できれば、全壊とか全焼とか床上浸水とか被害状況は概ねつかむことができる。
私は1月1日から5日までの最大震度4以上の地震震源を地図に落としてみた。西南西から東北東にのびた奥能登の陸地部分に、震源が分布し、とくに西南西部の志賀町の旧富来(とぎ)町付近と、東北東部の珠洲市北部に多く発生している。前者は2007年の能登半島地震震源、後者はその後の群発地震発生地で今回の大地震の震源でもある。今のところこの範囲にとどまっており、沖合に拡がったり、石動山・宝達山西側に走る断層帯に拡がったりしていない。もちろん、私は最大震度で拾ったので、マグニチュード4以上とか5以上で拾ったら、状況は少し変わってくるかもしれないが、東京の電車間隔くらいの回数で発生する地震を拾い集めるのは容易ではない。
今回の地震による死者が石川県内で100人を超え、168人に達したと報じられた。死者数の記録が残る石川県内の災害としては最悪ではないだろうか。もちろん、私が赤ん坊の頃に起きた福井地震(1948年)では、お隣りの福井県で3728人が亡くなっている。この時、石川県は41人。38豪雪(1963年)は24人だった。石川県も例外なくさまざまな災害に遭っている。私が金沢にいる間だけでも、福井地震・第二室戸台風(1961年)・38豪雪などがある。けれども東日本大震災・阪神淡路大震災、伊勢湾台風といった、いわゆる「超」が付くくらいの大災害は経験してこなかった。今回の報道傾向からも、とんでもない大災害がふるさとに起きたことを感じる。(2024年1月6日追加、死者数:1月8日変更)

【追加3】

地震が続いており、輪島では雪も積もり始めた。今、奥能登から離れる人が増えているようだ。とにかく地震が続いて、怖いと言う。自分で車を運転して金沢などの親戚・知人の家に避難。金沢などに住んでいる親戚・知人が車で迎えに行く例もあるようだ。まずは、一旦、地震と寒さからの避難。
1月7日にも最大震度4の地震が2回発生した。14:48に珠洲市北部を震源にM4.5の地震。それから40分ほど経った15:26に旧富来町の沖を震源にM4.5の地震。いずれも深さは10キロ。【追加2】で、「とくに西南西部の志賀町の旧富来町付近と、東北東部の珠洲市北部に多く発生している。前者は2007年の能登半島地震震源、後者はその後の群発地震発生地で今回の大地震の震源でもある。」と書いたが、まさにその2か所で、呼応するかのように発生している。このような状況を専門家はどのように読み解くのか。
1月6日23:20には、旧富来町沖を震源にM4.4の地震(深さ10キロ)が発生したが、旧富来町中心街の西、丘陵地帯にある香能で震度6弱を観測した。停止中の志賀原子力発電所から十数キロの地点。周辺各地点が震度3で、観測機器に異常が発生しているのではないかと、気象庁が調べたが、異常はみられなかったという。他のデータからは、震度6弱を観測しても不思議のない数値が出ているという。
国土地理院の分析によると、今回の地震で、能登半島の西部から北部にかけての海岸、つまり今回地震が頻発している地域の海岸が、およそ85キロにわたって隆起し、海岸線から沖へ200mほど海が陸化、面積は240ヘクタール以上という。私の小学校の時の友人が住んでいる皆月の五十洲海岸では4.1m隆起したと報道されている。
例えば、千年に一度、このような大地震が起き、能登半島が4m隆起したとして、1万年で40m、100万年で400mに達する。五千年に一度としても、100万年で80m、1000万年で800mに達する。このような隆起を繰り返しながら能登半島も形成され、私たちが生命を育んできたのである。たまたま私たちは数千年に一度の大きな変動に遭遇してしまったことになる。
三浦半島へ行くと、土地の隆起が一望される。しかし、その劇的な変動に遭遇した人びとは大きな障害を受けたであろう。(2024年1月7日追加)

【追加4】

石川県内の死者が221人に達した。そしてその中に「災害関連死」という言葉を聞くようになった。避難生活も長期化している。食事もじゅうぶんに摂ることができない。水もじゅうぶんではない。トイレもままならない。日頃から飲んでいる薬もない。そこへもってきて寒い。地震はいまだに続き、不安感をかきたてる。安眠することができない。健康体の若者でも、ダウン寸前になっているだろうが、高齢者にはさらにこたえる。
もともと高齢者には「冬を乗り切ること」が至難の業である。私の身内の葬儀も12月から1月に集中している。葬儀には出たものの、雪で交通が止り、帰れなくなったことも何度かある。普段からそのような状況であるから、この冬はとりわけ厳しいであろうと想像すると、私まで脱力感に襲われてしまう。
そう言えば、漱石の養父塩原昌之助の後妻かつ。関東大震災による災害関連死の可能性も否定できない。

恐れていたことが起きた。1月9日17:59、佐渡沖でマグニチュード6の地震が発生し、中越で震度5弱を観測した。今回地震が頻発している能登半島をそのまま東北東へ佐渡にむかって断層が伸びているようで、ここで大きな地震が発生する可能性も否定できない。マグニチュード7クラスの地震となれば、新潟県内にも大きな被害が予想され、津波のキケンもある。秋田内陸における地震も素人目には心配である。能登から佐渡を延ばしていくと秋田内陸が見えてくる。専門家でも予測が難しいから、これ以上には言及しないが、「備えあれば憂いなし」である。 (2024年1月10日追加、死者数:1月15日変更)


【館長の部屋】 文豪と東京市電⑭

荷風の『つゆのあとさき』は1931年3月から5月にかけて書かれた作品で、関東大震災から8年、昭和もすでに6年になっている。
「昭和モダン」の真っただ中である。カフェーも盛況で、女給も忙しく立ち働いている。黒ビールやチキンライスも登場する。銀座のカフェーで女給をする君江。仕事の終わるのは深夜。日比谷の四辻から赤電車(終電)に乗った君江、春代、そこへ出会った矢田。おそらく新宿行き(築地―新宿駅、11系統)に乗ったのだろう。三宅坂、半蔵門を経て四谷見附。君江は矢田を振り切るように電車を下りるが、矢田はついて来る。《「君江さん。もう乗換はないぜ。自動車を呼ぼう。」》と、彼女が外濠線に乗り換えようとしていると判断したようだ。《「いいのよ。すぐ其処ですから。」と君江は人通の絶えた堀端を本村町の方へと歩いて行く》。それでも矢田はぴったり寄り添い、《この近辺はいけないのか。荒木町か、それとも牛込はどうだ。》と、どこかの貸間に連れ込もうとする。
《本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。》《「わたしの家はすぐ其処の横町だわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中には屋根の上に仁丹の広告がついているからすぐにわかるわ。わたし此の荷物置いて来るから待っててヨ。」》
終電後まで書く文豪は、本稿では荷風と秋聲くらいであろうか。
清岡進は君江が自分に惚れていると思っていたが、ある日、ドンフワンへ行ってみると、君江は体調を崩して店を休んでいるという。見舞いに君江の家にむかう清岡。《いつも曲る濠端の横町から、突と現われ出た女の姿を見た》。深夜12時前である。《女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感ずかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂回して左内阪を昇り神社の裏門から境内に進入って様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖上のベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤もベンチは三四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺寄せて腰をかけていた》。君江の相手は好色の老人松崎である。ここでも、市電の停留所しか登場しない。
いちゃつく様子は省略し、二人は立ち上がって石段を下りる。清岡は、今度は女坂を迂回して後を付ける。《二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新見附を曲り、一口阪の電車通から、三番町の横町に折れて、軒燈に桐花家とかいた芸者家の門口に立寄った》。電車通りは出てきても、市電の姿はない。
翌朝、清岡は一口坂を下り、《四番町の土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた》。清岡は新見附で土手へ上り、向うの高台は牛込台である。《金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、其の響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂の音に雑って若い女の声が聞える》。真下は現在の中央線、向うは現在の外堀通りである。当時は市電(外濠線)が走っていた。
外濠では、《公園の小径は一筋しかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程なので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて其のまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方向へ行こうとするのやら、二三度電車が停っても一向に乗ろうとする様子もない。》という記述もある。

『つゆのあとさき』に続いて取り上げるのは『ひかげの花』。この作品は荷風によると、1934年8月に書き終わったもの。荷風はやはり麻布市兵衛町1丁目6(現在の六本木1丁目6)の「偏奇館」に住んでいた。
『ひかげの花』の主人公は私娼の千代。そしてもう一人の主人公として千代の内縁の夫にあたる中島重吉。最後の方で、千代の娘おたみと塚山という老人が登場する。
千代と重吉が暮らす借間がある家は、《階下は小売商店の立続いた芝櫻川町の裏通に面して、間口三間ほど明放ちにした硝子店で、家の半分は板硝子を置いた土間になっている》。重吉は店を出ると、やがて《表の通を電車のある方へと歩いて行った》。表通りというのは桜田通りで、当時は市電が走っていた。重吉が出かけた郵便局は麻布六本木の坂下にある麻布谷町郵便局である。現在の六本木2丁目2番にあたる。郵便局を出て、重吉は《すぐさま電車の停留場へ引返す》。この停留場は福吉町であろう。福吉町は現在の赤坂2丁目・6丁目。重吉は《こそこそ逃げるように電信柱と街路樹との間を縫って、次の停留場の方へと歩みを運ぶ》。次は溜池である。重吉はそこで玉子に出会う。
電車通りや停留所は出て来るものの、結局、市電には乗っていない。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑬

東京市電は関東大震災で大きな被害を受けた。当時、市電の路線は営業距離307km、車両1795輌。それが地震にともなう火災で、運行中の車両393輌、車庫にあったものも含めると779輌、じつに4割の市電車両が焼失した。レールが熱などで曲り、枕木も11万本焼失し、26の橋梁が破損するか焼失した。架線も66km分が焼損した。この結果、路線の6割にあたる175kmで運行不能になった。
しかし東京市電は10日あまりで全体の3分の1程度が復旧し、11月下旬には深川方面を除いて概ね復旧し、運転距離は216km余になった。全体の復旧は1年後の1924年9月17日。

東京日日新聞は1927年から翌年にかけて、「大東京繁昌記下町編」「大東京繁昌記山手編」を連載し、大震災からの復興事業が一区切りしたことをアピールした。本稿で扱う文豪のうち、鏡花・龍之介が下町編、秋聲・藤村が山手編に執筆している。
鏡花の文章は泉鏡太郎の名で『深川淺景』として、1927年7月17日から8月7日まで連載されており、その間に『本所両国』を書いた龍之介が自死している。
深川は関東大震災による市電の復旧がもっとも遅れた地域であるが、鏡花は『深川淺景』の中で、市電も描いている。当時、永代橋から洲崎に伸びる路線、黒江町で分れて森下へ向かう路線、門前仲町で分れて月島へ行く路線があった。
森下へ向かう路線は、油堀(十五間川)などを渡る黒亀橋、仙台堀川を渡る海辺橋など、いずれも大震災で落橋。市電の線路は堀川上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は横に仮橋をつくって、新しい橋を建設していた。
鏡花は海辺橋での出来事を、《「あ、あぶない。」笑事ではない。――工事中土瓦のもり上つた海邊橋を、小山の如く乘り來る電車は、なだれを急に、胴腹を欄干に、殆ど横倒しに傾いて、橋詰の右に立つた私たちの横面をはね飛ばしさうに、ぐわんと行く時、運轉臺上の人の體も傾く澪の如く黒く曲つた。二人は同時に、川岸へドンと怪し飛んだ。曲角に(危險につき注意)と札が建つてゐる》。市電の線路が急な曲線を描いて仮橋へさしかかっていたと思われる。鏡花の文章から、当時の復旧工事の様子が伝わってくる。
黒亀橋は1929年に完成し、富岡橋と名付けられたが、その後も黒亀橋の名は使用された。海辺橋も同じ年に完成したが、いずれも鋼鉄製。

藤村の『食堂』では、震災を契機に、芝公園の蓮池に面した休茶屋を食堂に変えて営業したお力たちを手伝って、新しい活路を見出した息子新七を訪ねたお三輪が、新七や、お力と一緒に芝公園の中を抜けて赤羽橋電停までやって来た。《「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」》。このように言って、お三輪は市電に乗って、浦和へ帰るために駅にむかう。震災後1年経っている。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑫

現実離れしたようなもの(いわゆる「異界小説」)を描く作家とみられる鏡花も、『婦系図』では市電を登場させているが、『日本橋』も市電が登場する作品のひとつ。すでに大正に入った1914年に書かれた。
1914年と言えば、東京中央停車場(東京駅)が開業した年で、外濠があり、八重洲橋が撤去されたため、完全に駅裏になってしまった。それでも外濠に沿った「城辺河岸」を外濠線、日本橋から京橋・新橋にむかう中央通りには系統1番の東京市電、永代通りでは市電の延伸が進んだため、1912年には大手町と深川の門前仲町を結ぶ市電も走るようになっていた。
一石橋の下流、次の西河岸橋から日本橋にかけては賑わっているが、一石橋辺りは静かで、カラーとモノクロの違い。《夜は、間遠いので評判な、外濠電車のキリキリ軋んで通るのさえ、池の水に映って消える長廊下の雪洞の行方に擬う》。一石橋は外濠線の電車が通る。外濠は飯田橋付近で神田川と一体化するが、小石川で神田川と分れ、日本橋川と同一になる。一ツ橋、常盤橋など多くの橋をくぐって、分岐して日本橋川に入ったところに一石橋が架かっている。
『日本橋』では、《電車が来る、と物をも言わず、味噌摺坊主は飛乗に飜然、と乗った。で、その小笠をかなぐって脱いだ時は、早や乗客の中に紛れたのである。――白い火が飛ぶ上野行。――文明の利器もこう使うと、魔術よりも重宝である。》(四)という記述がある。電車のパンタグラフと架線がスパークして、青白い火花が散る光景は私が子どもの頃にもよく見られたが、秋聲の『黴』にも「第5回」で紹介したように、《産後から体が真実でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈がした。》(六十一)と、描かれている。
また、《上野から日本橋へ来る電車――確か大門行だったと思う――品川行きにした処で、あの往復切符、勿論乗換札じゃないのだよ。……その往か復か、どっちにしろ切符の表に、片仮名の(サ)の字が一字、何か書いてあると思いますか」》(三十三)といった記述もある。上野から中央通りを日本橋へ来る市電は、新橋、大門を通って品川(八ツ山)まで行く。もっとも早く全通した路線で幹線、都電時代も1系統(1番)。車庫(現、浜松町駅前)のある大門行もみられた。
外濠が埋められ、外堀通りがつくられるのは戦後の1948年。この時、東京駅八重洲口駅舎ができ、1954年に大丸百貨店ができた。八重洲口は人の流れも多くなり、実質的な東京駅表口になった。そして、日本橋花街があったところは、つぎつぎにビルが建てられ、大きく変貌していった。

「市電の文豪夏目漱石」は1916年に亡くなった。

小説家を目指した鏡花や秋聲と違って、犀星は詩人になることを目指して上京した。浅川とみ子と結婚した1918年。二つの詩集を自費出版した犀星は、詩では食べていけないと、翌年から小説家の道を歩み始めた。第一作が『幼年時代』で、文字通り幼年時代、続いて『性に眼覚める頃』で少年時代、そして上京した漂泊の青年時代を描いたのが『或る少女の死まで』。ともに、自分と重ね合わせた小説であるが、ほとんどが仮構で、その中に事実が見え隠れする「自伝的小説」である。
『或る少女の死まで』の終末部には、《明治四十四年十月三日、私は第一回の都落ちをした》という明確な設定時期。明治44年は西暦1911年である。ところが、上野動物園からの帰り、もうすぐ郷里の鹿児島へ帰るふじ子は、一年くらいしたら父親もいっしょに東京へ出て来るので、《「そのころは根津へ電車が通るようになるでしょうね」》と言う。これに対して、《「来年できるんだから、きっと通るでしょう」》。当たり前の応答であるが、これが不可解。東京市電が上野公園(上野三橋)から不忍池東岸を通って、根津を縦断し、駒込動坂下まで開通したのは、1917年7月。設定時期の6年後である。市電を登場させたばかりに犀星の「うそ」がバレてしまったことになる。市電といえども侮れない例だが、所詮、小説は仮構であり、このようなことをあえて取り上げる必要はないだろう。けれども、当時ならかんたんにわかってしまう設定の甘さをもちながら、犀星はどうして設定時期を1911年にしたのだろうか。このような問いかけを私に起させる。私は、犀星が最初に上京してから10年近くの体験や思いを、作品の中にごちゃ混ぜにして押し込め、もっとも苦しかった1911年に設定時期をもっていったのだと推察する。「鉄道ファン」ならではの、読み方と言えるだろうか。

藤村の『新生』は1918(大正7)年5月1日から10月5日までと、1919(大正8)年4月27日から10月23日まで二回にわけて東京朝日新聞に連載された。
第2部32回は《八月に入って泉太や繁の母親の忌日が来た。学校も暑中休暇になった二人の子供は久し振で父と一緒に外出することを楽みにして、その前の晩から墓参りに行く話で持切った》という文章で始まる。岸本に子ども二人、それに甥の一郎、姪の節子が同行する。節子は岸本がフランスから帰国して一緒に外出するのは初めてだった。
こうなると、私の習性で大久保までどのようにして行ったのか、知りたくなる。そのような人間がいることを察したのか、藤村は32回の最後に、《子供達は足の遅い節子を途中で待受けるようにしては復た先へ急いで行った。節子はこうした日の来たことを夢のように思うという風で、叔父と一緒に黙し勝ちに清正公前の停留場まで歩いた》と書き、33回は《新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供達や節子と一緒に大久保の方角を指して歩いた》と書き始めている。
岸本たちは当時、二本榎西町に住んでいる。この日は品川へ出ないで、明治学院の前をまっすぐ北上し、陸軍墓地の脇を通って清正公像のある覚林寺のそばから、電車道に出た。清正公前停留場は現在の「清正公前」交差点、つまり桜田通りから目黒通りが分岐するところにあたる。
五反田駅前と清正公前の間に市電が開通したのは1927年。したがって『新生』の設定時期にはまだ市電は走っていない。岸本たちが乗ったのは目黒駅前発。後に都電5系統になる路線。当時と経路が変わらなければ、古川橋・赤羽橋と過ぎ、日比谷公園で降りて、新宿行きに乗り換え。半蔵門・四谷見附と過ぎて新宿駅前に到着した。
岸本たちが墓参りに行く寺は、現実に即して言えば曹洞宗玉寶山長光寺である。
新宿駅前で市電を降りた岸本たちは山手線に沿って北上し、現在の西武新宿駅前を通り過ぎ、職安通りへ出て右折。ほどなく左手に長光寺がある。
帰り、岸本は節子や子どもたちと別行動の予定であった。けれども節子のことが心配で、岸本は《往きと同じ新開の町を新宿の近くまでも送って行った》。
30回で岸本は《高輪の家を出て、岡に添うた坂道を電車の乗場まで歩いた》。東京市電は品川と浅草(雷門)を一系統で結んでおり、途中、柳橋最寄りの浅草橋も経由する。《電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸がもう一度岸本の眼にあった》。柳橋から高輪への転居は不便な土地への移動のようにみえて、意外な便利さをもっていた。岸本は7年住み慣れた町を回り、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た》。隅田川への思いは芥川龍之介の「専売特許」ではなさそうだ。
隅田川を後に、帰宅する岸本。《家をさして品川行の電車で帰って行く度に、岸本はよく新橋を通過ぎて、あの旧停車場から旅に上った三年前のことを思出した。その日の帰路にも彼は電車の窓から汐留駅と改まった倉庫の見える方を注意して、市街の誇りと光輝とを他の新しいものに譲ったような隠退した石造の建築物を望んで行った》(31)。東京駅開業にともなう新橋の変化が伝わって来る。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑪

漱石は市電をめぐって、当時の世相も描きが出している。東京電車鉄道会社(電鉄)・東京市街鉄道会社(街鉄)・東京電気鉄道会社(外濠線)の三社は1906年合併して東京鉄道株式会社になった。乗換えは便利になったものの、それと引き換えに料金が値上げされることになり、その年の夏、「電車料金値上反対運動(電車事件)」が起こった。『野分』では、演説会で演説するという白井道也と妻との間で、《「人を救うって、誰を救うのです」「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから・・・」「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」「だって、もしあなたが、その人の様になったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、些とは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」》という会話がなされている。

漱石は、教師をやめた坊っちゃんを街鉄、つまり東京市街鉄道会社に就職させた。1906年である。職種は技手。月給は25円、家賃は6円だった。理科系の学校を出て数学の教師だったから、転職先として理工系の仕事を選ぶのは納得できるが、なぜ「街鉄」なのか、《漱石先生は何も教えてくれない》し、《一般読者もあまり気にしていないらしい》。しかし、小池滋はそこのところが気にかかり、調べてみた。調べても、架空の人物であるからわかるはずはない。小池は『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』で概ねつぎのように推論を展開している。
坊っちゃんは旧制中学校の教師をやっていた。四国辺の学校はもう嫌だから東京へ戻りたいというのなら、東京に教職を得る努力をしただろう。実際、漱石は東京に教職の口を求めて画策した。けれども坊ちゃんは問題を起し、辞表を叩きつけて飛び出して来たのであり、坊っちゃん自身も、二度と教師なんかになるものかと思っていただろうから、転職先に教職を選ぶはずがない。「だが」と小池は言う。《退職金を貰ったわけではないから長いこと無職では暮らせない》。『坊っちゃん』を読んでも退職金のことまで書いてない。書いてないが、登場人物を一人の人間として見る限り、ここのところは重要である。作家はすべてを書くわけにいかないから、省略や編集をおこなわざるを得ない。けれどもそのように省かれたところに関心をもって見ると、登場人物も身近になり、一人の生きた人間になる。私も、「どうやってそこまで行ったのだろうか」と気になって、何日も調べまわすことがよくある。それが小説を読む楽しみでもある。結局、すぐに就職するとなれば、《民間会社の技術者というのは賢明な選択である。》と小池は記している。
それでは、どうして選択した職業が「市電」の技術者だったのか。
東京で最初の市電営業は1903年で、東京電車鉄道(東鉄)が新橋―品川の運行を開始した。一か月遅れて「街鉄」、翌年には東京電気鉄道(外濠線)がそれぞれ営業を開始した。『坊っちゃん』が書かれたのは1906年である。「市電」の会社は出来立てで、伸びしろのある、未来のある職場である。路線はどんどん拡張されていき、人手も大いに必要だっただろう。坊っちゃんのような人物でも、採用される可能性はきわめて大である。小池も《漱石は鉄道には興味ないかもしれない、あるいは嫌いだったかもしれないが、鉄道に全く無関心だったとも言えないだろう。東京市の文明開化の先端を行く市内電車については、おそらくかなり関心は持っていたと考えることができる。物理学校出の天才の就職先として、テクノロジーの先端産業を思いついたのも当然ではなかろうか。》と書いている。
それとともに小池は、《もう一つ、漱石が当時東京市電に関心を寄せずにいられなかった事情があった》として、市電の運賃値上げに対する市民の反対運動をあげている。
この反対運動の顛末について小池は、最初から街鉄は全線三銭の均一運賃を採用し、東鉄も外濠線も当局の強制で三銭均一にさせられ、けれどもこの運賃設定では採算がとれないことが判明し、1905年に各社代表が集まって五銭均一を申請。この値上げに市民が反発し、1906年3月には電車焼き討ち事件まで発生したと説明している。つまり、《当時市民の話題はこの事件でもち切りであった。だから、「坊っちゃん」の再就職先をどこにしようかと考えた時に、東京市電の三会社のことが頭に浮かんだ》と小池は推理する。
それでは、市電三会社の中で、選んだ会社がどうして「街鉄」だったのか。他の二社も受けたが不採用で、街鉄だけ合格したという推理も面白そうだが、そこまでイメージを膨らませる必要もないだろう。小池の推理は、《このように市民に親しまれた市電三社の中で、おそらく漱石先生が、いちばん多く利用したのは街鉄であったろう。》と、直球勝負である。当時、東鉄の路線は下町、外濠線は外濠の周りに限られ、街鉄のみ山の手から下町まで網羅する路線をもっていた。
坊っちゃんが就職した街鉄も、1906年、他の二社と合併して東京鉄道会社になり、1911年には東京市電気局になった。坊ちゃんが街鉄の職員だった期間はきわめて短い。そして、民間会社に就職したはずの坊っちゃんも、いつしか東京市の公務員になってしまったのである。小池は《あのような気性の人間が、はたして市役所のような大きな組織の中で、うまくやって行けたのかどうか、これも心配になるのだが、そこまでお節介を焼いていたらきりがない》と宣言している。
なお、小池は市電会社における坊っちゃんの「技手(ぎて)」という職務内容を、《油にまみれて現場で修理などをする職工や運転手よりは上で、そういう現場労働者に命令したり、監督したりする役》で、《大学出の学士なら幹部の技師になれただろうが、専門学校卒業なので中間の技手で我慢せねばならなかったと思われる。》と書いている。まあ、坊ちゃんのことだから、見るにみかねて、現場へ飛び込んで行って、油にまみれて修理する姿が見られたかもしれない。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑩

漱石の作品の中で市電に関する記述が出てくるものは、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』『野分』『虞美人草』『三四郎』『永日小品』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『硝子戸の中』『明暗』。小説12編、随筆2編。そのうち、『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『明暗』ではしばしば市電が登場する。とくに『彼岸過迄』では、市電がきわめて重要な役割を果たす。『夢十夜』の第十夜にも電車が出てくるが、余程長い電車で、しかも電車へ乗って山へ行ったというから、市街地を走る路面電車ではなさそうである。確認したわけではないが、漱石ほど市電を書いた作家は少ないかもしれない。
漱石は、東京の市電に関して、詳細な記述を残している。それは、当時の市電を知る貴重な手がかりを提供してくれる。

1907年、上野でおこなわれた東京勧業博覧会で、花電車の走ったことが『虞美人草』に《花電車が風を戴って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。》と、描かれている。ひょっとしたら、東京における花電車の「初めて」かもしれない。私の子どもの頃にも、お祝い事があると、花電車が走った。
『虞美人草』では、市電の行き交う街角の様子が、《電車が赤い札を卸して、ぶうと鳴って来る。入れ代って後から町内の風を鉄軌の上に追い捲くって去る。按摩が隙を見計って恐る恐る向側へ渡る。茶屋の小僧が臼を挽きながら笑う。旗振の着るヘル地の織目は、埃が一杯溜って、黄色にぼけている。》と、描かれる。当時、交通信号機はなかったし、市電のポイントも遠隔で切り替えることはできなかった。そこで市電が分岐する交差点では、旗振りやポイントマンが活躍していたことが漱石の作品からわかる。
『彼岸過迄』では、小川町交差点で田川敬太郎が探偵させられている場面では、旗振りとポイントマン両方が登場する。《彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見做して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じ様に立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴の如く振り分ける分別盛りの中年者であった。その内で何時出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた》。旗振りは正式には「信号人」で、夜間は色燈で市電の整理をした。ポイントマンは正式には「転轍人」。交通信号機の設置試行は漱石死後の1919年、上野広小路交差点でおこなわれたが、うまくいかず、1930年、京都駅前などに設置された自動交通信号機が日本における実用化第一号になった。この分野でも東京は京都に先を越されたことになる。
『それから』には、市電の移設工事も。《数寄屋橋で乗り易え様と思って、黒い路の中に、待ち合わしていると、小供を負った神さんが、退儀そうに向うから近寄って来た。電車は向う側を二三度通った。代助と軌道の間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に挟まっていた。代助は始めて間違った所に立っている事を悟った。「御神さん、電車へ乗るなら、此所じゃ不可ない。向側だ」と教えながら歩き出した。神さんは礼を云って跟いて来た。代助は手探でもする様に、暗い所を好加減に歩いた。十四五間左の方へ濠際を目標に出たら、漸く停留所の柱が見付った。神さんは其所で、神田橋の方へ向いて乗った。代助はたった一人反対の赤坂行へ這入った》。
歌舞伎座の前を通って数寄屋橋へむかう市電は、旧街鉄系の路線で、築地方面から数寄屋橋を通り、新宿や青山へむかう。代助は神楽坂下(牛込見附)まで行くので、数寄屋橋で外濠線に乗り換える。外濠線は循環路線になっているので、どちらを回っても良いのだが、代助はいつも赤坂見附を経由していたのだろうと思われる。代助は数寄屋橋で市電を下り、何の苦もなく外濠線の停留所に待っていた。ところが日々変貌を遂げる東京のこと、前回と事態は一変していた。『それから』が書かれていた1909年、電車専用高架線(現、山手線)が品川駅から烏森駅(現在の新橋駅)まで開通し、有楽町にむけて工事が進められていた。とくに外濠線土橋停留所付近の路線は高架線の用地にかかったり、工事の関係でレールを撤去、移設せざるを得ない状況にあった。このため、外濠線は数寄屋橋・虎ノ門(琴平町)間の路線で、つぎのように路線変更されていた。
【従来の路線】
数寄屋橋・土橋・内幸町、日比谷公園の南側から虎ノ門を通って、琴平町。
【工事中の路線】
数寄屋橋・日比谷、日比谷公園の北側から霞ヶ関・虎ノ門を通って、琴平町。
これにともなって、外濠線数寄屋橋停留所の位置が変更になっていたのに、代助は気がつかなかったのである。当時の資料がないので、具体的にどのように変更されていたか文中からはわかりにくいが、数寄屋橋の有楽町側でも高架線工事がおこなわれており、工事の状況に応じて変更が繰り返されていたと思われる。
電車専用高架線は1910年、有楽町駅、さらに建設中の東京駅前を迂回して呉服橋駅(仮駅)まで開通。1908年から工事が進められていた東京駅(東京中央停車場)は1914年12月開業した。
工事が完成し、数寄屋橋・土橋間は通行できるようになったものの、内幸町側は道路がなくなってしまったため、芝区内に新路線が建設された。
【新路線】
数寄屋橋・土橋・櫻田本郷町・南佐久間町・琴平町。
1964年の東京オリンピックを知っている人ならば、めまぐるしい変貌に、生え抜きの東京人でさえ道に迷った経験をもっているかもしれない。漱石の時代の東京も、市電路線がつぎつぎにつくられ、市区改正によって道路整備も進められ、めまぐるしく変貌していた。東京に住み慣れた代助のような人でも、市電の失敗をしているのである。
漱石は、市電を例え話的に登場させている。
『野分』には、《電車の走るのは電車が走るのだが、何故走るのだかは電車にもわかるまい。高柳君は自分があるくだけは承知している。然し何故あるくのだかは電車の如く無意識である。》の一文。言われてみればなるほどと思える、ある面、哲学的表現である。
『吾輩は猫である』には、「無理なことを要求する」例えとして、《形体以外の活動を見る能わざる者に向って己霊の光輝を見よと強ゆるは、坊主に髪を結えと逼るが如く、鮪に演説をしてみろと云うが如く、電鉄に脱線を要求するが如く、主人に辞職を勧告する如く、三平に金の事を考えるなと云うが如きものである。》という文章がある。
『虞美人草』では、とうとう市電が屑籠にされてしまった。宗近に出会った小野は「散歩ですか」と訊く。宗近は「うん。今、その角で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」と、急ぐと言う小野について行こうとする。しかも、小野の荷物を紙屑籠と評して、持ってやると言う。《「なに持って歩けるよ。電車は人屑を一杯詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多な屑は入れられない」「歌反古とか、五車反古と云う様なものを入れちゃ、どうです」「そんなものは要らない。紙幣の反古を沢山入れて貰いたい」》。
『草枕』では、日露戦争の戦地へ向かう久一さんを川舟で吉田の停車場まで見送る場面で、《日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何等の説明をも求めなかったのは幸いである》。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑨

市電を利用することができるのに、人力車を使った例もある。『明暗』では、手術後の夫を病院に残して劇場へむかうお延は、《自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を云ったなり、すぐ俥に乗った。門前に待たせて置いたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新しいものであった。小路を出た護謨輪は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑やかな方角に向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方が、お延に感染した》。帰りも、市電を下りてそれほど歩く必要がないのに、それでもお延は人力車を利用している。《「オー、ライ」四人の車はこの英語を相図に走け出した。津田の宅と略同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角まで一所に来る事が出来た》。
鉄輪の人力車は振動もひどく、「人力車は胃腸に悪い」と言われるくらい乗心地は悪かったが、明治40年(1907年)代に入ると、車輪にゴムタイヤを使った人力車(護謨輪)が登場した。お延の乗った人力車は車輪にゴムタイヤを使ったものであった。
市電を下りてから自宅まで人力車を利用した例が、『彼岸過迄』に登場する。江戸川橋終点で市電を下りた松本は、《雨の中へ出ると、直寄って来る俥引を捕まえた》。松本を尾行していた敬太郎も、《後れない様に一台雇った。車夫は梶棒を上げながら、何処へと聞いた。敬太郎はあの車の後に付いて行けと命じた。車夫はへいと云って無暗に馳け出した。一本道を矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒を留めて、旦那何方へ行くんですと聞いた。男の乗った車は幾何幌の内から延び上っても影さえ見えなかった》。
『三四郎』では、三四郎が新しい四角な帽子を被って、一寸得意気に野々宮の妹が入院している病院(現、東京大学病院)へむかっている。《御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗った。いつもの三四郎に似合わぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。》と描かれるが、三四郎が下りたのは甲武線の電車であろう。

結局、速さでは人力車は市電にはかなわない。漱石の作品で、登場人物たちが市電に乗る姿が描かれ始めるのは、『三四郎』(1908年)あたりからで、まさに人力車と新参者の市電が並走する。
『それから』では、一つ場面に人力車と市電が同時に登場する。青山の実家へむかう代助が市電の中から人力車に乗った父と兄を見かける。《生暖かい風の吹く日であった。曇った天気が何時までも無精に空に引掛って、中々暮れそうにない四時過から家を出て、兄の宅まで電車で行った。青山御所の少し手前まで来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通った。挨拶をする暇もないうちに擦れ違ったから、向うは元より気が付かずに過ぎ去った。代助は次の停留所で下りた》。綱曳とは、通常一人で曳く人力車に綱をつけ、もう一人が綱を曳くもので、運賃は高くなるが、速く行きたい時や、坂道などで利用された。 
『明暗』では人力車の車夫が市電に乗っている。妻お延と吉川夫人を会わせたくない津田由雄は、「病院へ来てはいけない」と急いで妻に知らせる必要があった。今なら携帯電話をかければ用は足りるが、まだ電話そのものが各家庭に普及していない時代である。手紙を出すしか方法がない。しかしながら郵便では時間がかかってしまう。ところがきわめて急いでいた由雄は、車夫に市電に乗って行くように命じている。《手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。其所を少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなく又名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した》。「さすが漱石さん、考えましたね」。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑧

江戸が東京と変わって、1870年、日本で最初の人力車が東京に登場した。人力車の増加にともなって、激しい競争で運賃も相対的に低下し、東京に市電が登場した1903年頃、矢来から神田まで3銭から5銭で乗れたという。就職二年目の多々良三平(苦沙弥先生の教え子)の月給は30円であった。
東京の街に市電が登場して馬車鉄道は姿を消したが、人力車は残った。それは現在の電車・バスといった公共交通機関とタクシーの関係に似ているであろう。今日でも、家から目的地までタクシーを利用したり、駅からタクシーを利用することがある。夜遅いから、雨が降っているから、タクシーを利用することもある。

『吾輩は猫である』で苦沙弥先生は盗品の返還を受けるため、吉原の日本堤分署まで往復人力車を使っている。『琴のそら音』では婚約者の宇野露子が人力車で余の家を訪れている。『趣味の遺伝』では浩一の恋人と思われる女性が、白山方面へ疾走する人力車の上に見かけられる。『坊っちゃん』では、四国へ旅立つ坊っちゃんが下女の清と共に、人力車を並べて新橋駅へむかう。『野分』では白井道也が取材のため中野輝一の家を訪れる時、人力車を利用している。
『虞美人草』では、《あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一輌の車はクレオパトラの怒を乗せて韋駄天の如く新橋から馳けて来る。》と、人力車の動きは切迫感をもり立てている。『行人』では、下女お貞さんの婚礼に、番町の長野家から日比谷の大神宮まで人力車が使われている。《愈出る時に、父は一番綺麗な俥を択って、お貞さんを乗せて遣った》。
市電を乗り回すのと同じように人力車を乗り回したのは『それから』の代助である。《「善かろう」と云って、又家を出た。そうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場まで来て、奇麗で早そうな奴を択んで飛び乗った。何処へ行く当もないのを好加減な町を名指して二時間程ぐるぐる乗り廻して帰った》。車夫は災難であったが、実際、人力車が登場した翌年の1871年、毎日人力車を雇って一日中市内を乗り廻す人物がいたようで、車夫はいつもヘトヘトになるまで乗り廻されて、身がもたないので、その人物を見かけると逃げ出したとのことである。
そのような代助も別の場面では、三千代を独り返す気になれず、わざと人力車を雇わずに自分で送って出た。江戸川の橋の上で三千代と別れた代助は腹の中で「万事終る」と宣告している。『明暗』では、叔父の家から帰るお延は、叔父が人力車で送らせると言うのを断ったが、停留所まで自分で送るという好意まで断ることはできなかった。
藤村の作品にも人力車が登場する。
『春』の一節をみてみよう。藤村が尊敬する北村透谷の葬儀(1894年)の様子をもとにしている。芝公園辺りの自宅でキリスト教式葬儀をした後、白金の寺まで行く場面である。赤羽橋から慶應義塾大学を過ぎて、角で右折。《豊岡町、松坂町の裏通は、やがて白金へ通う樹木の多い道路である。これはやや迂回した道順ではあったが、一番上り下りが少く白金台のほうへ行くことができたからで。》と、女性は多くが人力車を利用しているから、なるべく傾斜の少ない経路を選ぶ必要がある。一行は立行寺の前から清正公像のある覚林寺の前に出る。どっちにしても最後は上らなければならない。《三光町から坂にかかるころ、婦人や子供を乗せた車の列がときどき止った。若い人々が翳す美しい洋傘は、車が動くたびに、路傍の青葉に触れた。これが上りきるまで、待っているのは容易でない、こう思って、後から行った連中は白金のほうへその坂を急ごうとした》。現実にむかう瑞聖寺は、聖心の正門側から目黒通りへ出て、地下鉄白金台駅すぐ南である。
白金台へ上るには、谷筋を通る目黒通りのルートが、比較的傾斜が緩やかで、道幅も広く、急な蜀江坂や三光坂、狭い雷神坂にくらべ、人力車のルートとして選びやすかったと考えられる。
荷風の『すみだ川』では、《お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐るる如く踵を返して、金龍山下の日蔭になった瓦町を急いだ、そして通りがかりの成るべく汚い車、成るべく意気地のなさそうな車夫を見付けて恐る恐る、「車屋さん、小梅まで安くやって下さいな。」と云った。》と、お豊は『明暗』のお延などと違って安い人力車を選んでいる。着飾った若い男女の花見客を載せた人力が勢いよく走る間を、お豊を載せた人力はよたよたと吾妻橋を渡る。
小梅にいる兄蘿月と話し終えたお豊は、帰りも人力車を利用している。春の夕陽は赤々と向うに傾いて、花見帰りの混雑をいっそう引き立てる。お豊は神仏にすがりたい思いで、人力車を雷門前に止めさせ、仲見世を通って観音堂へ。今も雷門前には多くの人力車が見られるが、乗っている多くは外国人で、お豊が見たら、さぞかしびっくりすることであろう。いや、荷風だってびっくりするだろう。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑦

漱石が作品を書いていた時代は、三社時代から合併、さらに市営化と移り変わっていく時期。路線がつぎつぎと新設されていく。東京に住んでいても、少し市電に乗らなければ、もう変ってしまって戸惑ってしまう時代。漱石の作品には、市電の乗り間違えや、停留所の乗り場間違いの描写がいくつか出て来る。市電好きの漱石もこんな過ちを何回か犯して、一人苦笑していたのかもしれない。
『三四郎』には、《実を云うと三四郎はかの平野家行以来飛んだ失敗をしている。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、序に飯田橋まで持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行った事がある。それより以来電車はとかく物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いているから安心して乗った。》と、三四郎の失敗談が記されている。
本郷三丁目(四丁目)から市電に乗った三四郎は、神保町で下りるところを飯田橋まで乗り過ごしてしまった。小川町で乗り換えた記述がないので、当時市電は新小川町(大曲)まで直通運転されていたと考えられる。飯田橋で外濠線に乗り換えた三四郎は、今度は錦町三丁目で下りるところを乗り過ごし、竜閑橋か常盤橋あたりで気づいて外濠沿いに一ツ橋まで引き返す。通常、乗り過ごせば、逆方向の市電で戻るはず。外濠線に乗り換えるなど、市電路線に精通した人間でなければ考えつかないことで、三四郎の迂闊を描くつもりが、思わず自身の知識を披露してしまった漱石の迂闊と言えるだろう。
東京に生活するようになって、日の浅い三四郎はもちろん、『虞美人草』の井上孤堂先生は東京生れながら、京都の生活が長く、東京に戻って住むようになったものの、すっかり変わってしまった東京について行けないようで、市電でも失敗をしている。
《格子ががらりと開く。古の人は帰った。「今帰ったよ。どうも苛い埃でね」「風もないのに?」「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭な所だ。京都の方が余っ程いいね」「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日の様に云っていらしったじゃありませんか」「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」(略)「今日はね。座布団を買おうと思って、電車へ乗った所が、つい乗り替えを忘れて、ひどい目に逢った」「おやおや」と気の毒そうに微笑だ娘は「でも布団は御買いになって?」と聞く。(略)「少し綿が硬い様ね」「綿はどうせ――価が価だから仕方がない。でもこれを買う為めに電車に乗り損なってしまって・・・」「乗替をなさらなかったんじゃないの」「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々しいから帰りには歩いて来た」》。

『野分』では高柳周作が市電の中での遺失物を探しに行った話しが出てくる。日比谷公園で大学時代の親友中野輝一に出会った高柳は、《「いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇はない。今日は新橋の先まで遺失品を探がしに行ってその帰りがけに一寸序でだから、此所で休んで行こうと思って来たのさ」と顔を攪き廻した手を顎の下へかって依然として浮かぬ様子をする。悲劇の面と喜劇の面をまぜ返えしたから通例の顔になる筈であるのに、妙に濁ったものが出来上ってしまった。》《「遺失品て、何を落したんだい」「昨日電車の中で草稿を失って――」「草稿?そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌に出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾々に取って、命より大切なものだからね」(略)「大方車掌が、うちへ持って行って、はたきでも拵えたんだろう」「まさか、然し出なくっちゃ困るね」「困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭な奴だ事って――実に不親切で、形式的で――まるで版行におした様な事をぺらぺらと一通り述べたが以上、何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。あいつは二十世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違ない」「ひどく癪に障ったものだね。然し世の中はその遺失品係りの様なのばかりじゃないからいいじゃないか」》。
新橋の先とは、東京鉄道株式会社の社屋で、1906年に三社が合併するまでの東京電車鉄道会社の社屋と車庫を引き継いだもの。東京における最初の市電が新橋・品川間に建設された時、芝の大門通りを増上寺と反対方向に(つまり海側にむかって)引込み線が布設され、市電の車庫と社屋がつくられた。明治40年東京市十五区番地界入地図芝区にも、東京電車會社の文字と引込み線の表示が記されている。浜松町駅は1909年に開業したので、『野分』が書かれた1907年には浜松町駅はまだ開設されていなかった。
市電の車庫はその後、東京市営、東京都交通局と引き継がれ、都電廃止にともないバス車庫に転換。その後、民間駐車場などを経て、現在では日本生命浜松町クレアタワーなどが建っている。世界貿易センタービルが建っている敷地の一部も、市電車庫になっていた。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑥

『草枕』の観海寺和尚は、《「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、一寸乗って見たい様な気がする」》と、東京に対する憧れが市電と結びついている。市電は上京者にとって、憧れの東京の象徴のようであった。
漱石は『三四郎』に、上京当初の三四郎を、《第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。》と、表現している。
『三四郎』が書かれた1908年の翌々年にあたる1910年。犀星が初めて上京した。新橋駅に親友の田辺孝次、幸崎伊次郎、それに吉田三郎が迎えに来た。犀星は上京し、初めて市電に乗ったことを、『私の履歴書』で、《東京の印象は電車という物、乗客という者らが田舎と違って美しいことを知った。》と記している。
また、『洋灯はくらいか明るいか』では、さらに詳しく、《彼等はあかるい電車に私を乗せてくれ、電車というものにはじめて乗った私は、派手な女の人の服装をはじめて見て、まばゆい感じであった。田辺孝次は大きな声で犀星此処は銀座だと、せまい大通りの人ばかり沢山歩いている歩道を教えた。その声が大きいので今ついたばかりの東京という都会にたいして、また乗客の手前、私は顔をあからめた。彼はここが須田町、ここが上野というふうに云い、私は分っている分っていると低い声でこたえた。私が低い声をすれば田辺孝次も低い声になるかと思うと、彼は反対に大声になり私はひやひやした。私は電車と電車とがすれ違う時、眼をつぶった。そして電車というものがその時代の文明をいかによく代表的にあらわしていたかに、私は驚いた。舶来的な、ひとりで走るような車体はどれもあたらしく、自動車がすくなかったから大抵の人は電車に乗り、車内はいまの映画館の坐席のように美しい人が乗り合い、そういう客間のお茶の会のような光景が、そのまま街のなかを走って行った。往復五銭であった。私はできるだけこれから電車に乗ってやろう、そういうふうに私は東京についた第一日の印象に、電車というものを好いた。》と、書いている。
上野公園で電車を降り、駒込千駄木林町にある田辺の下宿まで、池之端から不忍池に沿って根津、そして団子坂を上ったと思われるが、もしこの時、犀星が市電を嫌いになっていたら、「文豪室生犀星」は生まれなかったかもしれない。田辺孝次の方は、後に石川県立工業学校の校長になった。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電⑤

「文豪と東京市電」と銘打ってあるにも関わらず、市電に関して言えば、これまで登場したのは漱石ばかりであった。漱石は確かに市電の描写をおびただしくしている。しかも漱石が作家活動をした十数年は、東京市電の黎明期であり、本稿が市電の始まりの方から追っているので、漱石が多くなるのはやむを得ないだろう。
ここでようやく荷風が登場するのであるが、『すみだ川』に、わずかに市電のことが書かれている。『すみだ川』は、1909(明治42)年12月に発表された。1903年10月に「文藝界」に発表された『すみだ川』と、同名ながらまったく別の小説である。その荷風は1903年9月に渡米、後に渡仏し、1908年7月に帰国した。
小山書店版『すみだ川』(1935)の「はしがき」に、荷風は1909年に発表された《小説すみだ川に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五六年の時代である。》と記している。明治35年と言えば1902年。ところが、『すみだ川』では、待乳山近くに住む主人公の長吉が本郷からの帰宅に、最寄りの浅草(雷門)まで市電を利用している。
東京に市電が走り始めたのは1903年であり、本郷(4丁目)や浅草(雷門)へ市電が通じたのは1904年である。結果的に設定時期は1904年2月以降でなければならない。けれどもその辺はあまりこだわる必要はなく、荷風が渡米する(1903年)前に記憶に留めた隅田川を思い描きながら、帰国後、すでに市電網が形成された東京において『すみだ川』を書いたと、私は理解する。
そして、急速に都市化・工業化が進む明治末の東京において、江戸情緒がつぎつぎと失われていく。隅田川も本所も、帰国してみれば渡米前と大きく変化している。荷風は作品の中に江戸情緒をもった隅田川・本所を残したいと考え、しかし同時に変貌していく姿も『すみだ川』の中に描き込んでいったのではないだろうか。市電の開通時期を使って作品の設定時期を推定することができる一例である。

鏡花の『婦系図』は、東京に市電が走り始めて2年半ほど経った1907年1月から4月まで新聞連載されている。この作品には「電車」という項もあり、主人公たちが市電を利用した記述もみられる。それは本郷薬師の縁日で俊蔵に出会った主税が、いっしょに主税の家まで行く場面と、さらに俊蔵に連れられ、柳橋へ行く場面である。
まず、本郷台を下って砲兵工廠に沿って歩いた二人。水道橋の袂に着き、ここから外濠線の電車に乗って、二つ目の飯田橋で下車。現在の中央線では水道橋から飯田橋まで一駅である。なぜこのような近距離を電車に乗ったのかと思うが、外濠線電車が御茶ノ水から神楽坂下まで開通したのは1905年5月であり、『婦系図』が書かれる一年半程前である。ちょっと乗ってみたかったのだろう。
飯田橋で外濠を渡れば、そこは飯田町五丁目(現、飯田橋三・四丁目)。町域は電車道をはさんでいるが、主税の家がどの辺りに設定されたか、特定できない。お蔦が家にいることを知られては困るので、主税はとっさに言い訳をするが、見透かした俊蔵は付いて来るように命じ、両国行きの電車に乗る。飯田町三丁目電停から乗車したのであろう。電車は始発の大曲(新小川町)から現在の明治通り、九段下から現在の靖国通りのルートへ入り、神保町・小川町・万世橋・浅草橋を経て、両国へむかう。二人は浅草橋で下りると、そこは両国西広小路。それから、神田川に架かる《淺草橋を渡果てると、富貴竈が巨人の如く、仁丹が城の如く、相對して角を仕切つた、横町へ、斜めに入つて》柳橋の花街を歩き、柏家(柏屋)に到着した。
漱石の『虞美人草』は6月から10月まで連載され、人力車とともに市電も登場する。

漱石の推挙によって東京朝日新聞に連載された秋聲の『黴』(1911年)には「電車好き」の子どもが登場する。この作品は1902年から1907年にかけての秋聲の実生活をもとにしている。電車好きの子ども正一のモデルは、秋聲の長男一穂(1903年生まれ)である。
東京に市電が走り始めて3年の1906年夏、一穂が生死をさまよう重病になり、入院する。神田駿河台西紅梅町の瀬川小児科(1902年開設。現、瀬川小児神経学クリニック)であろう。
瀬川小児科はニコライ堂のすぐそばにあり、二階からは堀割を通る甲武鉄道の電車、その向こう本郷台に沿って走る外濠線の市電、御茶ノ水橋を渡る市電が望まれたであろう。『黴』には、《二階からは坊やの大好きな電車が見えてよ。」お銀はそう言って、正一を負い出した》とあるように、鉄道ファンにはたまらないスポットである。
東京市電と同い年の子ども。市電はすぐに子どもの心をとらえたようである。改めて、「電車」をキーワードに『黴』を読み返してみると、いくつも出てきている。
「四十九」には《お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ」》。笹村は市電に乗って銀座まで行ったついでに、木村屋の餡パンを買って来たことがあるのだろうか。「五十三」では、《縁側を電車を引っ張って歩いていた正一も》という記述がある。ブリキのおもちゃは少し後に普及してくるので、木製だったのか。それとも何かを電車に見立てていたのだろうか。
「六十七」では市電に乗って疲れた正一、「七十五」では、《子供が電車通りで逢ったという男のことを、笹村はちょいと考えがつかなかった》。当時、本郷通りを湯島にむかう道路、春日通りを切通坂にむかう道路に市電が通っていた。
須田町から市電に乗った笹村とお銀。《産後から体が真実でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈がした。》(六十一)と、市電の様子が具体的に描写されている。
私も子どもの頃、将来何になりたいか訊かれると、「汽車の運転手」とか「電車の運転手」とか答えていた。「鉄道好き」は今も変わらない。
 
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電④

市電の路線延伸に強い関心を示す漱石は、それを作品の中の謎解きに利用した。まさに西村京太郎の先を行く漱石である。
本郷台町の下宿に住む田川敬太郎は、学校を出たがこれといった職がなく、何とか職を得たいと思っている。敬太郎の友人須永市蔵は、得ようと思えば良い職を得ることができるにもかかわらず、職に就こうとも思わない。そんな須永を羨ましく、また憎々しく思いながらも、敬太郎は須永から離れられない。敬太郎は「叔父田口が職探しに動いてくれそうだ」という須永の言葉に望みを託す。そして敬太郎は田口によって、じつにバカバカしい探偵ごっこをさせられる。そのことが結果的に就職へとつながるが、『彼岸過迄』では、探偵ごっこの舞台となった神田小川町界隈と電車のようすが、じつに詳しく描写されている。そして、路線新設が謎解きのキーワードとなる。

ある日、速達便で届いた田口からの依頼は、《今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い脊の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった》。
《田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見付出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、丁度役所の退ける刻限なので、丸の内から只一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。それに外と違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電燈以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい。》と、敬太郎は田口の手紙に不安を感じる。
現代的感覚で言えば、夕刻の銀座四丁目交差点で特徴だけ教えられた面識のない人を探せと言う指令。いよいよ敬太郎の神田小川町での探偵ごっこが始まる。《やがて目的の場所へ来た時、彼は取り敢えず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分程間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。其所には交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめに掛った》。
本郷から来た市電(本郷三丁目―薩摩原)は三田線へ入ってから停まる。赤煉瓦建の青年会館(東京基督教青年会)の少し手前。敬太郎はそこから引き返し、道路(現、靖国通り)を横断し、交差点の北へ立つ。東京基督教青年会は2003年、江東区に移転し、現在は住友不動産神田ビルが建っている。交番の位置は現在の本郷通りの真ん中辺り。靖国通りは駿河台が南へ突き出しているため、小川町で彎曲しているが、当時も同様であったことが、この一文からわかる。この後、連載日数で言うと12日分に亘って、小川町における敬太郎の探偵ごっこの様子が続く。
《赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。此所にさえ待っていれば、仮令混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、又目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。(略)その隣りは皮屋であった。(略)又次の店に移った。そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、(略)美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た》。三田線から本郷へむかう市電は交差点を右折してから停まる。三田方面から来る人を見張るなら、ここで待てば良い。安心して敬太郎は、瀬戸物屋(住吉屋)、皮屋、宝石店(金石舎)、勧工場(天下堂)、唐木細工屋(青木屋)などを見て廻わる。天下堂は現存するので、どの辺りまで来たかわかる。その時、敬太郎は道の向う側にも電停のあるのに気がつく。第三の停留所発見!敬太郎は道を横切り、唐物屋(松屋)の前まで行く。現在はちょうど横断歩道があるので、それを渡って、松岡小川町ビル前まで来れば良い。佐藤診療所へ続く小路も確認できる。
《その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側で留ったので、若しやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、其所にも一本の鉄の柱に、先刻のと同じ様な、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念の為この角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、何れも万世橋の方から真直に進んで来るので彼は漸く安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうという積で、彼は足の向を更えに掛った途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、又敬太郎の立っている傍で留った。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気が付いた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、又右へ曲っても先刻彼の検分して置いた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、何方へ降りるのだか、彼にはまるで見当が付かない事になるのである。(略)彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていた為、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気が付かずにいた自己の迂闊を深く後悔した。(略)すると其所へ江戸川行の電車が一台来てずるずると留まった。誰も降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちに又車を出そうとした。敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を脊にして、眼の前の車台には殆んど気の付かない程、此所にいようか彼所へ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除ける様にして、ハンドルへ手を掛けた運転手の台へ飛び上がった。敬太郎の驚ろきが未だ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出して既に動き始めた。飛び上がった男は硝子戸の内へ半分身体を入れながら失敬しましたと云った》。
第三の電停には予想通り両国方面から青山行き(青山―両国―青山、循環運転?)、九段経由新宿行き(新宿―尾張町―両国―九段上―新宿、循環運転)がやって来る。安心した矢先、三田線から曲って来る市電がある。敬太郎はびっくり。当時、巣鴨方面には小石川原町まで市電が開通していた。巣鴨橋まで延伸されたのは『彼岸過迄』(1912年1月1日~4月29日連載)の連載が終わった翌日の1912年4月30日であるとされている。つまり連載中は「巣鴨行」の市電は走っていなかったことになる。したがって漱石の記述は誤りとの指摘がある。しかし、それ以前に三田線から左へ曲る線路が建設され、薩摩原(三田)から春日町、さらに白山下、というように巣鴨方面にむかって路線が延伸されており、巣鴨方面という意味で、「巣鴨行」という表示が使われていたとしても不思議はない。
当時の電車停留所は交差点を越えたところに設置されたようで、小川町の停留所は全部で三ヵ所あった。さて、どちらの電停で待とうかと思案しているところへ、江戸川行き(江戸川橋――両国・亀沢町)が停まり、急いで電車に乗ろうとした男に突き飛ばされ、その拍子に敬太郎の持っていた洋杖は蹴飛ばされ地面に落ちてしまう。男は佐藤診療所へ通じる小路から飛び出して来たとみられる。拾おうとして見ると、洋杖の蛇の頭が東向きに倒れており、敬太郎はそれを、方角を教える指標と感じて、結局、洋杖の指し示す瀬戸物屋前の小川町停留所で見張ることにする。この頃すでに漱石は佐藤診療所に痔疾治療で通院していたと考えられ、ひょっとしたら、突き飛ばしたのは漱石自身であったかもしれないし、突き飛ばされたのが漱石だったのかもしれない。
1910年頃から病気、さらにひな子の死など、苦難が立て続けに襲い、市電に乗ることもなかったであろう漱石が、久々に小川町電停に立って、「巣鴨行」を見つけた時の驚きと喜び。漱石はそれをさっそく作品の中に書き込んでいったのではないだろうか。
やがて敬太郎はいっこうに市電に乗ろうとしない一人の女に注目し始める。外套ははっきり霜降とわからないが、帽子は中折で、年恰好とも田口の伝えた相手と似た男が市電を降りる。敬太郎はこの男女を尾行することに決める。男女は西洋料理屋へ入る。
《二人は又歩き出した。敬太郎も壺入のビスケットを見棄ててその後に従がった。二人は淡路町まで来て其所から駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。(略)それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入をする家であった》。宝亭とは、神田淡路町にあった西洋料理屋多加羅亭。軍人たちもよく利用していたという。この後、宝亭の様子や、店の中で男女の言動をうかがう敬太郎の様子が描かれる。
《表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電燈の光を後にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、又は中川の角に添って連雀町の方へ抜けようが、或は門からすぐ小路伝いに駿河台下へ向おうが、何方へ行こうと見逃す気遣はないと彼は心丈夫に洋杖を突いて、目指す家の門口を見守っていた》。洋服屋は米屋という屋号、そして中川は牛肉屋。連雀町は現在の神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目の一部。男女はかなり経って店を出て来た。
《二人は最前待ち合わした停留所の前まで来て一寸立ち留まったが、やがて又線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似た。すると二人は又美土代町の角を此方から反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人は又歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、其所にも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍へ寄って立った。彼等は又三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気が付いた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した》。女はここから市電に乗って、三田方面に向かう。男は、《それから足の向を変えて又三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前で留った。其所は敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。(略)この電車で何処へ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった》。こうして敬太郎は、男を追って、江戸川橋まで市電に乗り、さらに雨の中、人力をかって矢来交番の下まで来て、そこで男を見失う。
ところで、西洋料理屋(多加羅亭)を出たあとの行動にどうしても実情と合わない記述がある。男女は小川町の電車通りを横切って美土代町側に移る。角を曲って神田橋方面へ南に行けば、まもなく三田線に乗車することができる停留所である。ここは敬太郎が本郷から来て下車した停留所。ところがどうしたことか、漱石は神田橋の通りを横断させて、錦町側に移し、そこから女を三田線に乗せている。ここには停留所がないはず。女を見送った男は、この後、道路を横断することなく、交差点の角を左折して、江戸川行が停まる停留所に来ている。ないはずの停留所からの道順としては確かなので、やはり停留所の位置を勘違いしたのはないだろうか。熟知した小川町交差点の電停の位置を間違えたとしたならば、漱石にしては珍しい迂闊と言えるだろう。

ところで漱石はどうして神田小川町を「探偵ごっこ」の舞台に選んだのか。それは、当時、神田小川町は東京の代表的な繁華街で、市電の系統も多く、「探偵ごっこ」を仕組むには好都合だったからではないか。
小川町を通る市電の系統は当初、「本郷三丁目――三田(薩摩原)」「大曲(新小川町)――両国・亀沢町」「本郷三丁目――小川町――大曲(新小川町)」の三つ。その後、市電路線の急速な新設にともない、変遷をとげていく。まず、1907年に九段下・九段上間が開通すると、「新宿――両国」「青山――両国」(ともに銀座尾張町を経由する循環運転)が加わったものと推定される。1910年に「本郷三丁目――春日町――伝通院前――大曲」の路線が開通すると(『それから』の記述をもとにすると1909年開通)、「本郷三丁目――小川町――大曲」の系統は廃止され、1911年になると、大曲――江戸川橋が開通し、「江戸川橋――亀沢町」の運行が始まっている。新小川町から三田方面へ行く系統はなく、新小川町から大手町へ通勤する『門』の宗助も、小川町で乗り換えている。したがって、三田線を大手町から小川町へ来て、左折する線路はなく、左折する電車もなかった。『彼岸過迄』ではこの「左折路線」が大きな鍵を握っている。
神保町から春日町、さらに白山上、小石川原町と路線が延伸されたのは1910年。これを三田線に直結するため、小川町交差点に「左折路線」が新設される。ところが不思議なことに、1909年が設定時期の『門』で、宗助が大手町から駿河台下まで電車で来て、神田駿河台の歯医者へ行っている。つまり、1909年には、「左折路線」がつくられ、三田線から神保町へむかう系統の運行が始まっていたことになる。「本郷三丁目――春日町――大曲」も『それから』をもとにすると、1909年には開通していたとみられる。ことごとく、一般的に知られている開通年次より1年早い。そして、この年次を使用すると、『彼岸過迄』の「巣鴨行」も理解しやすい。漱石は遠い過去を振り返って書いているわけではない。リアルタイムで書く作家である。漱石の小説から、逆に東京における路面電車の開通時期を特定できるかもしれない。
なお、神保町から春日町さらに巣鴨方面にむかう電車は、1921年頃、神保町から一ツ橋を経由して神田橋に至る路線が新設され、小川町を経由せず神田橋へ至り、三田線に入るようになっている(このルートが今日の都営地下鉄三田線のルートにあたる)。
『彼岸過迄』の連載が開始される1912年の二年以上前に、三田線を北行して小川町で左折する線路がつくられていた。しかし「本郷三田間を連絡する」電車ばかり乗っていた敬太郎は、迂闊にも左折路線の存在を知らなかった。漱石はそんな設定をしたのではないだろうか。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電③

1903年8月、新橋と品川八ツ山の間に市電が走り始め、1905年の末には、この三社の合計営業キロは63kmに達し、漱石死後3年の1919年、東京市電の営業キロは138kmに達した。
つぎつぎと路線が建設されていく東京の市電。それによって東京が変っていく。『こころ』では、父の病気が悪化して帰郷した私が父を励ます。《「そんな弱い事を仰しゃっちゃ不可せんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃる筈じゃありませんか。御母さんと一所に。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新らしい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないと云って可い位です」私は仕方がないから云わないで可い事まで喋舌った》。もちろん私は父が死病に罹っている事をとうから自覚していた。
市電布設にともなって道路が拡幅されていく。そのため土地が買収される。漱石は、《自分が東京を立つ前に、母の持っていた、或場末の地面が、新たに電車の布設される通り路に当るとかでその前側を幾坪か買い上られると聞いたとき、自分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連て旅行なさい」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑われた事がある。》と、『行人』に描き込んだ。さらに『こころ』では、《電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。》と、市電が通ることによって、風景まで変わってしまったことを記している。私が「先生」と呼ぶ人は、小石川の台地に住んでおり、本郷台・小石川台へ通じる坂道は、市電を走らせるため、勾配を緩やかにした新しい道路がつくられた。
『明暗』では、江戸川橋から早稲田までの市電延伸の様子が書かれている。主人公津田由雄の叔父藤井の家に行くには、市電を江戸川橋で下りて、右へ江戸川を渡る。ある日、藤井の家を訪ねる津田は、《彼は何時もの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻き挘って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た》。『明暗』が書かれていたのは1916年。江戸川橋から早稲田まで市電が開通したのは1918年6月である。

漱石の作品は時に、市電敷設の時期を特定する重要な手がかりを提供してくれる。『それから』の代助は神楽坂に住んでいる。青山の実家への行き帰り、通常は外濠線と青山通りを通る市電を利用している。ところがある日、実家から帰宅する代助は、《「何分宜しく」と頼んで外へ出た。角へ来て、四谷から歩く積りで、わざと、塩町行の電車に乗った。錬兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、真赤になって広い原一面を照らしていた。それが向うを行く車の輪に中って、輪が回る度に鋼鉄の如く光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かった。日は血の様に毒々しく照った。代助はこの光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持って行かれた。重い頭の中がふらふらした。終点まで来た時は、精神が身体を冒したのか、精神の方が身体に冒されたのか、厭な心持がして早く電車を降りたかった。代助は雨の用心に持った蝙蝠傘を、杖の如く引き摺って歩いた》。塩町(現、四谷三丁目)で市電を降りた代助は、津守から士官学校前(現、防衛省)を通って濠端へ出て、本来なら砂土原町へ曲るところを直進して、牛込見附(神楽坂下)へむかう。
ところで、梅雨空のある日、代助は歩く距離が長くなるにもかかわらず、青山の実家から帰宅する時、どうしてわざわざ塩町経由を選んだのか。青山一丁目から信濃町まで市電が開通したのは1905年。信濃町から塩町まで開通したのは1910年頃とされている。『それから』が書かれたのは、1909年。同年起きた日糖事件のことが書かれているので、時代設定はリアルタイム。とすれば、『それから』が書かれた頃、市電で塩町へ行くのは不可能なことになる。ここで、かならずしも明確でない信濃町・塩町間の市電開通年を、作品から逆に特定することができるのではないか。『それから』は1909年6月から10月まで連載されている。少なくとも梅雨の6月までには、市電が開通していたと考えられる。漱石はこの新路線にさっそく主人公を乗せてみたかったのだろう。「わざと、塩町行きの電車に乗った」と言う表現も、それを裏付けている。いかにも漱石らしい!漱石の作品から、はっきりとしなかった路線の開通年を知ることもできるのである。
                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電②

江戸から東京に変っても、人びとの移動手段にほとんど変化はなかった。一部に馬を利用する人あり、船を利用する人あり、また自分は歩かずに他人に担いで運んでもらう駕籠もあったが、ほとんどは自分で歩くしかなかった。そのような東京市内の移動手段に変革をもたらしたのが、人力車と馬車の登場であった。
人力車は1870年(明治3年)に登場したと言われ、駕籠にとって代わるようになり、タクシーのような形で利用されていったが、所詮、人間が曳くのであるから、基本的に徒歩と変らず、速度も航続距離も限界がある。これに対して馬車の方は人間より走行性能に優れた馬を使用するので、公共交通機関としても注目された。
乗合馬車はすでに17世紀、フランスで登場し、日本にも明治初めに入って来た。やがてレールの上に馬車を走らせる鉄道馬車が登場し、東京でも1882年に営業を開始した。ところが馬糞による汚染などが大きな問題となり、馬車を電車に置き換える動きが現れてきた。
藤村は『桜の実の熟する時』で、徒歩時代から市電時代へと、東京の都市交通の変遷する過程で登場した馬車時代を作品の中に描き出している。
まず、市電が登場する以前の明治20年代。捨吉が白金にある学校の寄宿舎から日本橋の田辺の家に帰る場面。《明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものもないころであった。学校から田辺の家まではおよそ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身にとって何でもなかった。よく捨吉は岡つづきの地勢に添うて古い寺や墓地のたくさんにある三光町よりの谷間を迂回することもあり、あるいは高輪の通を真直に聖坂へととって、それから遠く下町のほうにある家を指して降りて行く》。
この後、伊皿子坂(いさらござか)の下で乗合馬車に乗車。新橋で乗換えて日本橋小伝馬町で乗合馬車を下車。日本橋小伝馬町から人形町の賑やかな通りを歩き、久松橋の畔へ出ると、田辺の家は近い。
品川と新橋の間に乗合馬車が営業を開始したのは1889年(明治22年)で、会社名は品川乗合馬車鉄道だったが、レールは敷設されず、実際には鉄道ではなかった。捨吉が新橋で乗り換えた東京馬車鉄道はレールが敷設されていて、1882年(明治15年)に新橋から日本橋、浅草にかけて路線網をつくり上げた。
捨吉はいつも同じ道ではおもしろくないので、その日の気分や状況などによって、さまざまな経路を選んだようである。夏期学校へ行くため田辺の家から学校へ向かう場面は、《学校まで捨吉は何にも乗らずに歩いた。人形町の水天宮前から鎧橋を渡り、繁華な町中の道を日影町へととって芝の公園へ出、赤羽橋へかかり、三田の通りを折れまがり、長い聖坂に添うて高輪台町へと登った。》《聖坂の上から学校までは、まだかなりあった。谷の地勢をなした町の坂を下り、古い寺の墓地についてまた岡の間の道を上って行くと、あたりはもう陰鬱な緑につつまれていた。寄宿舎の塔が見えてきた。》と描かれている。
捨吉は急ぐ必要がない時は徒歩、急ぐ時には馬車を利用している。それは、《いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通う日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町のほうへ廻って、そこで品川通いのがた馬車を待つかした。》と描写され、母が上京したというので、学校から急いで田辺の家に向かう場面は、《取りあえず伊皿子坂で馬車に乗って、新橋からは鉄道馬車に乗換えて行った。》と記されている。おカネはかかっても、早く母に会いたいという気持ちが伝わって来る。

市電は徒歩に頼っていた人びとの行動範囲をおおいに広げた。
漱石は、『三四郎』(1908年)・『それから』(1909年)・『門』(1910年)と続く三部作で、主人公たちを市電に乗せることで、鬱々とした日常生活から解放し、ささやかな楽しみと気分転換の機会を与えている。
いよいよ大学の講義が始まり、三四郎は律義に講義を聞いている。そのうち出るのをやめたものもあったが、それでも平均一週40時間程度、講義に出席していた。三四郎は断えず一種の圧迫を感じ、然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなっていき、ある日、それを佐々木与次郎に話す。
与次郎は《四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十返食ったら物足りる様になるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎を打しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたら善かろう」と相談をかけた。「電車に乗るがいい」と与次郎が云った。三四郎は何か寓意でもある事と思って、しばらく考えてみたが、別にこれと云う思案も浮かばないので、「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ら物足りる様になるさ」と云う。「何故」「何故って、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ」その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、「どうだ」と聞いた》。この後、与次郎は平野家と云う料理屋、木原店と云う寄席に三四郎を連れて行く。
『それから』では、凡ての娯楽には興味を失った代助が、《旅行案内を買って来て、自分の行くべき先を調べてみた。が、自分の行くべき先は天下中何処にも無い様な気がした。しかし、無理にも何処かへ行こうとした。それには、支度を調えるに若くはないと極めた。代助は電車に乗って、銀座まで来た。朗らかに風の往来を渡る午後であった。新橋の勧工場を一回して、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。その時代助の眼には、向う側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。代助は二三の唐物屋を冷かして、入用の品を調えた。その中に、比較的高い香水があった。資生堂で練歯磨を買おうとしたら、若いものが、欲しくないと云うのに自製のものを出して、頻に勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包を腋の下に抱えたまま、銀座の外れまで遣って来て、其所から大根河岸を回って、鍛冶橋を丸の内へ志した。当もなく西の方へ歩きながら、これも簡便な旅行と云えるかも知れないと考えた揚句、草臥れて車をと思ったが、何処にも見当らなかったので又電車へ乗って帰った。》と、市電が代助の気晴らしに一役買っている。
『門』の宗助は、弟小六の件で佐伯の叔母に手紙を出し、その足で又同じ道を戻るのが不足だったので、《ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻み付けて、そうしてそれを今日の日曜の土産に家へ帰って寐ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑やかな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽がないので、何時でも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活ていると云う自覚は近来頓と起った事がない。(略)必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がなんだという結論に到着すると、彼は其所に何時も妙な物淋しさを感ずるのである。そう云う時には彼は急に思い出した様に町へ出る。(略)だから宗助の淋しみは単なる散歩か観工場縦覧位なところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にも拘らず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠たりと落付いている様に見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道伴程殺風景なものはない。革にぶら下がるにしても、天鵞絨に腰を掛けるにしても、人間的な優しい心持の起った試は未だ嘗てない。(略)宗助は駿河台下で電車を下りた》。
私も小学校3年の時、イライラして金沢の市内電車を乗り回し、気晴らししたので、三四郎や代助、宗助には共感をおぼえる。
市電の登場によって行動範囲を広げたのは、どうも「善良な市民」だけではなかったようで、漱石は『永日小品』の中で、《昼過には刑事が来た。座敷へ上って色々見ている。桶の中に蝋燭でも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶まで検べていた。まあお茶でも御上がんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。泥棒は大抵下谷、浅草辺から電車でやって来て、明くる日の朝又電車で帰るのだそうだ。大抵は捉まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割り振るのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ。――警察の力なら大抵の事は出来る者と信じていた自分は、甚だ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。》と書いている。漱石の家に泥棒がはいって、捜査にやって来た刑事に漱石は取材したようである。それにしても、今日の台東区民には聞き捨てならぬ記述である。

「交通公害」という言葉があるが、便利な乗り物も騒音・振動・排気ガス・渋滞などで、人びとの生活をおびやかす。市電は排気ガスを出さないが、騒音・振動の発生源となり、自動車時代になると交通渋滞の元凶として疎まれ、結局、多くの市電が姿を消すことになった。
漱石は、とくに市電の騒音に注目している。『草枕』の観海寺和尚は、東京に対する憧れが電車と結びついているようで、主人公とこんな会話をしている。《「どこで御逢いです。東京ですか」「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、一寸乗って見たい様な気がする」「つまらんものですよ。やかましくって」「そうかな。蜀犬日に吠え、呉牛月に喘ぐと云うから、わしの様な田舎者は、却って困るかも知れんてのう」「困りゃしませんがね。つまらんですよ」「そうかな」》。
『明暗』でも、《津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いた所で、一時間と掛らない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、却って八釜しい交通機関の援に依らない方が、彼の勝手であった。》という一文がある。
どうも、このやかましさ。東京帝国大学の先生方は気に入らなかったようで、《非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通る筈の電車は、大学の抗議で小石川を廻る事になったと国にいる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端にしゃがみながら、不図この事件を思い出した。電車さえ通さないと云う大学は余程社会と離れている。》と、『三四郎』に書かれている。
けれども、都会に住んでいると、やかましさもまた、日常の一部になって来る。東京で学生生活を送る『こころ』の私は、父の病状を案じて帰省したものの、《小勢な人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私は行李を解いて書物を繙き始めた。何故か私は気が落ち付かなかった。あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚々々にまくって行く方が、気に張があって心持よく勉強が出来た。》と述べている。

                      (つづく)
【館長の部屋】 文豪と東京市電①

今年、2023年。東京市内で初めて路面電車が営業運転を開始して120周年になる。
これから連載する『文豪と東京市電』は、「勝手に漱石文学館」でおなじみの、夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風の7人の文豪が、東京の路面電車とどのように関わり、作品の中にどのように描いていったかを書き綴ったものである。市街地を走る路面電車は、市街電車、あるいは市内電車の略として「市電」と呼ばれることが多い。ここでもそのような慣習にしたがって「市電」と記すことにしたい。そのため、1911年に東京市営の「東京市電」が登場する以前も「市電」と記す。また、1943年に東京府が都になり、東京都制が始まると、東京市営電車(東京市電)は東京都営電車(東京都電)に衣替えしたが、やはり「市電」と表すこととする。なお、私の得られた情報の範囲では、龍之介だけは作品の中に市電が登場しない。

日本に初めて電車が登場したのは京都より東京の方が早く、1890年、上野の博覧会場において試運転されている。けれども営業運転となると京都の方が早く、市電が走り始めたのは1895年2月。名古屋でも1898年に市電が登場した。
京都に遅れること8年。名古屋に遅れること5年。日本の最先端を行く東京が京都に後れを取ったことが癪に障ったのか、漱石は『虞美人草』で、京都の市電に対してこんな悪口を言って逆襲している。《「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない」と宗近が言う。「又夢窓国師より上等じゃないか」と甲野が受ける。「ハハハハ第一義に活動しているね」「京都の電車とは大違だろう」「京都の電車か?あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」「乗る人があるからさ」「乗る人があるからって――余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」「ハハハハ京都には調和している」「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日の如しと云うのは賞める時の言葉なんだがな」朝になって汽車の窓から富士が見える。「(略)ちっと富士でも見るがいい」と宗近。「叡山よりいいよ」と甲野。「叡山?何だ叡山なんか、高が京都の山だ」「大変軽蔑するね」「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちぁ駄目だ」「君にはああ落ち付いちゃいられないよ」「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車位な所だ」「京都の電車はあれでも動くからいい」「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」》。京都から東京へ戻る汽車の中で、甲野と宗近の会話である。京都の市電だって、この時点で営業運転を始めて12年。名所古蹟の類にされるには、まだ早すぎる気がする。

漱石がイギリス留学から帰国したのは、1903年1月で、東京の街に市電が走り始めたのは、その年の8月。市電を走らせたのは東京電車鉄道会社で、新橋と品川八ツ山の間である。続いて、東京市街鉄道会社、東京電気鉄道会社が営業運転を開始し、1905年の末には、この三社の合計営業キロは63kmに達し、1906年に三社が合併して東京鉄道株式会社になり、1911年に東京市に買収され、公営の東京市電になった。
漱石はこの市電を、初めての小説『吾輩は猫である』(1905年1月から1906年8月まで「ホトトギス」に連載)でさっそく登場させている。
東京に住む苦沙弥先生は、地方勤めから東京へ戻った旧友鈴木藤十郎を、「田舎者」扱い。迷亭も同席している。《「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。「今日は諸君からひやかされに来た様なものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄を六十株持ってるよ」(略)「株などはどうでも構わんが、僕は曽呂崎に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕を憮然として眺める。「曽呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうわ、それよりやっぱり天然居士で沢庵石へ彫り付けられてる方が無事でいい」「曽呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云う》。
この一節。当時、東京電車鉄道会社が運行する路線が新橋と品川八ツ山の間であったことを反映している。品川は終点であるから、曽呂崎は下りるところがわからないか、うっかりしていて、結局、終点まで行ってしまうというのである。つまりは浮世離れして、時流について行くことができないであろう曽呂崎を皮肉っているのであるが、はたしてモデルの米山保三郎はどのような人物であっただろうか。
漱石はこの一節で、「街鉄」つまり東京市街鉄道会社も登場させている。漱石はデビュー作に「現時点」を描いたことになる。そして、この姿勢はその後も維持され、東京市電に関する貴重な情報を提供してくれる。
そのような漱石であったが、イギリス留学で体験では、《二年の留学中只一度倫敦塔を見物した事がある。(略)行ったのは着後間もないうちの事である。その頃は方角もよく分らんし、地理などは固より知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。(略)恐々ながら一枚の地図を案内として毎日見物の為め出あるかねばならなかった。無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用仕ようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何等の便宜をも与える事が出来なかった。》(『倫敦塔』)と、あまりかんばしいものではなかった。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第60回 濹東綺譚⑰

《今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍に墸をなしてゐるのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもより大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。》と、荷風は今となれば貴重な史料を残してくれた。東京鉄道を買収し東京市電気局が市電の営業を開始したのは1911年。1936年、25周年を迎えた。往復乗車券は14銭。
《何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。》と書いた荷風は、5年前、秋の彼岸も過ぎた頃、東京府下の町々が市内に編入されたことを祝って、花電車が銀座を走ったと、聞き伝えを続けている。この編入がおこなわれたのは1932年で、実際は「4年前」になるが、東京市は15区から35区に拡大した。
この記念に日比谷公園で東京音頭と称する公開舞踏会が挙行されたが、《東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するように言われてゐたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃いの浴衣を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。》と、荷風の筆は手厳しい。ここで登場した百貨店は「美松百貨店」で、伊勢丹から分かれる形で1931年に開店したが、1935年には閉店に追い込まれた。「前途洋々の大東京」の陰に咲いた「ひかげの花」のようなデパートである。
荷風はここで「舞踏会論議」を展開する。帚葉翁とも論じている。そして、《こんな話をしてゐると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の聲が、其頃は何となく耳新しく聞きならされた》。尾張町(銀座4丁目)交差点角の朝野新聞社跡に時計台をもった服部時計店ができたのは1895年。その店舗ビルも1932年に建て替えられたので、時計台の鐘も荷風の耳には「何となく耳新しく」聞えたのであろう。
ここで帚葉翁は震災前まで八官町(銀座8丁目)にあった小林時計店の鐘の音が新橋八景の中に数えられていたことを語り出す。そもそも服部金太郎が時計に興味をもったきっかけは小林時計店である。1911年頃、小林時計店の時計台の鐘の音を、帚葉翁と違って荷風は《毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら》聞いている。
荷風と帚葉翁二人が行きつけの萬茶亭。《萬茶亭の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを当込んで円タクが集って来る。》と書いた荷風は、この付近の酒場でその名前を記憶しているものとして、《萬茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、此方の側にはムーランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また萬茶亭と素人屋との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなどと名づけられたものがあった。》と、貴重な情報を残している。
そのような界隈。《服部の鐘の音を合図に、それ等の酒場やカフェーが一齊に表の灯を消すので、街路は俄に薄暗く、集って来る円タクは客を載せても徒に喇叭を鳴すばかりで、動けない程込み合う中、運転手の喧嘩がはじまる。かと思うと、巡査の姿が見えるが早いか、一両残らず逃げ失せてしまうが、暫くして又もとのように、その辺一帯をガソリン臭くしてしまうのである。》と、当時の深夜の喧騒が伝わってくる。
1934年に新橋まで開通する地下鉄。1932、3年頃、銀座通りは地下鉄工事真っ最中である。《この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのづから芝口の方へと導かれるのであった。》と、省線(現在のJR)すぐ脇の土橋か、その隣の難波橋を渡って省線のガードをくぐる荷風と帚葉翁。
ガードの《暗い壁の面に、血盟団を釈放せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった》。その下に《いつも乞食が寝てゐる。》と荷風。俗に言う「血盟団事件」が発生したのは1932年。ガード下を出ると歩道の片側に「栄養の王座」など書いた看板を出し、四角な水槽に鰻を泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田本郷町の四つ角近くまで続き、カフェー帰りの女給や近所の遊び人らしい男が大勢集まっている。
荷風はこのような界隈の情景描写をさらに続ける。《裏通へ曲ると、停車場の改札口と向い合った一條の路地があって、其両側に鮓屋と小料理屋が並んでゐる。その中には一軒わたくしの知ってゐる店もある。》として、焼鳥金兵衛の話題に。そして、《この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねてゐたが、銀座通にカフェーの流行り始めた頃から、次第に飲食店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフェー帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯を消さずにゐる。鮨屋横町とよぶ人もある。》と、さすがに荷風は詳しい。
続けて荷風は《わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。》と書いている。夜も出歩くのは、少なくとも都会では昔から当たり前と思ってきた私であるが、どうも違うらしい。荷風は《吉原遊郭の近くを除いて、震災前東京の町中で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外はなかった。》と書いており、どうも「朝帰り」なるものは「昭和に入ってからの風習」であるようだ。
どうしてそうなったのか。帚葉翁の言葉を荷風は紹介している。つまり、《現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと》言う。要は帰宅の足の確保が前提になるが、しだいに帰りが遅くなるにつれて、帰宅の足も遅くまで伸ばされる相乗作用である。そして何と言っても、深夜に及ぶ活動は、電燈の普及と電力の安定供給なくして実現しない。
このような現代の風俗を矯正しようと思うなら、《交通を不便にして明治時代のようにすればいゝのだ思います。そうでなければ夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。》と帚葉翁が述べていると、荷風は書いている。やはり、明治の頃には深夜まで遊びまわることは、あまりなかったようだが、帚葉翁の提案するごとく、今ではタクシーは深夜割増料金を設定しているが、それでも外出は深夜に及び、一旦つくられた風俗習慣はなかなか変えられるものではなさそうだ。
《晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃いに行こう。落葉ははわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしてゐるのであろう》。こうして、『濹東綺譚』は終わる。1936年10月25日の『断腸亭日乗』には《『濹東綺譚』の草稿成る。夜十日頃の半月明なり。》とあり、欄外朱筆で《『濹東綺譚』脱稿。》とある。荷風は月が好きだ。

その年の12月30日。中川大橋を渡り、そのあたりを写真に収めた荷風は、《小名木川くさやという汽船乗場に十七、八の田舎娘髪を桃われに結い盛装して桟橋に立ち船の来るを待つ。思うに浦安辺の漁家の娘の東京に出で工場に雇われたるが、親の病気を見舞わんとするにやあらむ。然らずば大島町あたりの貧家の娘の近在に行きて酌婦とならんとするなるべし。》と、想像を膨らませ、『断腸亭日乗』に記している。

(完)

わたくし、ようやく玉ノ井を抜けられそうである。これを機にわたくし、荷風からも卒業しようかと思う。「元祖不良老人」とこれ以上つき合うのはよろしくないかもしれぬ。と、思いつつ、1939年1月1日の『断腸亭日乗』に目をやれば、《昨夜より猪場平井谷中の諸氏と共に浅草公園にあり。除夜の鐘を千束町の酒店にきき、玉の井の里を歩み、六区の森永に休憩して夜明けに至りしが、遊興なお歇まず、再び玉の井の里に至らんとて東武電車に乗るに、西新井の大師に参詣せんとする男女ますます多し。空は憂欝にほのぼのと明け行けど隅田川の面はなお薄暗く橋々依然として煌々たり。玉の井の里に入るに「ぬけられます」と書きし燈影いまだ消えず、娼家は皆戸をとざして寐しづまりたり。》云々と、61歳の荷風先生は、まだまだ盛んである。東京の街を昼夜分かたず歩き廻り、ふんだんに東京の地名を繰り出す荷風は、「地理屋」であるわたくしには、やはり魅力的である。
とりあえず、この後、「文豪と東京市電」の連載が始まる。その後は、「文豪と隅田川」の連載、などなどと、市電によく乗り、隅田川を愛す荷風先生から離れることはできないが、作品の紹介は『濹東綺譚』をもって、ひとまず終了とさせていただきたい。
【文豪の東京3――永井荷風】

第59回 濹東綺譚⑯

1931年、雀合戦が見られた年。年暮に荷風は葛西村の海辺を歩いていて道に迷い、日暮れて、燈火頼りに船堀橋までやって来た。葛西村は翌年、東京市に編入され、江戸川区の一部になった。荷風は《二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。》と書いている。当時は地下鉄新宿線も東西線も通っていない。電車とはいったい何なのか。
そこで登場するのが、後に都電となる城東電車である。荷風は船堀橋までやって来たが、荒川放水路を渡っても電車がないことを知っているので、田んぼや集落を通る田舎道を1km以上北上し、中ノ庭から城東電車に乗ったとみられる。一駅で東荒川に到着し、小松川橋で荒川放水路を越え(東荒川と西荒川はバス連絡していた)、西荒川から再び城東電車に乗り、錦糸堀(現在の錦糸町)終点まで行き、そこで洲崎行きの城東電車に乗り換え、洲崎終点で下車。確かに「二三度電車を乗りかえ」ている。洲崎は東京市電14系統(早稲田行き)の始発である。荷風は《深川の暗い町を通り過ぎ》、日本橋の白木屋の横手で下車した。錦糸堀からでも市電に乗ることができるので、どうしてわざわざ洲崎を経由したのか。31系統は通らないが、30系統は日本橋を通るのに(どちらも市役所行き)。荷風の趣味としか言いようがないのだろうか。
この後、荷風は日本橋から市電を乗り換えている。荷風の自宅最寄電停は溜池か六本木。永代橋・青山六丁目間の7系統が通るが、日本橋は通らない。荷風は京橋まで乗って、さらに7系統に乗り換えたのであろうか。

1932年5月15日、いわゆる「五・一五事件」が発生したが、荷風はこの時の様子を、《霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月であった。わたくしは丁度其夕、銀座通を歩いてゐたので、この事を報道する号外の中では讀賣新聞のものが最も早く、朝日新聞がこれについだことを目撃した。時候がよく、日曜日に当ってゐたので、其夕銀座通はおびたゞしい人出であったが電信柱に貼付けられた号外を見ても群集は何等特別の表情を其面上に現さぬばかりか、一語のこれについて談話をするものもなく、唯露店の商人が休みもなく兵器の玩具に螺旋をかけ、水出しのピストルを乱射してゐるばかりであった。》と描いている。日本史の教科書に出てくる事件も、民衆の目からはこのようであったのだろうか。荷風は、帚葉翁が毎夜尾張町の三越前に現れるようになったのは、この頃からと記している。
荷風は当時を振り返って、《銀座通の裏表に處を択ばず蔓衍したカフェーが最も繁昌し、又最も淫卑に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。いづこのカフェーでも女給を二三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いてゐる女達は必ず二人づつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘ったりする。商店の飾付を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。わたくしは若い女達が、その雇主の命令に従って、其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店が復興したような思をなした。》と描いている。
さすがに現地をナマでつぶさに観察している荷風だけあって、実に詳しい「現地レポート」である。「文豪の中の文豪」たる漱石でも書くことができない、ひょっとしたら漱石先生、「このようなところへは、教師たるもの立ち入るべからず」と寄り着こうともしなかったかもしれない。同じく大学で教えた漱石先生と荷風先生であるが、「みんな違って、みんな良い」。
荷風は「其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て」と記しているが、閉鎖的で自由がなく、時には飢饉で生活にも窮する田舎から、憧れの大都会へ出て来て、見せかけではあるかもしれないが、うたかたの自由を得て、ほんとうに嬉しくて高揚していた少女たちも少なからずいたであろう。しかしそこは荷風である。《いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。》と書いている。
五・一五事件から銀座の賑わいへ。「エログロ、ナンセンス」の時代を描き出す荷風。「軍国主義は牙をむいて、恐ろし気にやって来るだけではない」と、荷風からの警鐘のようにも思われる。《月島小学校の女教師が夜になると銀座一丁目裏のラバサンと云うカフェーに女給となって現れ、売春の傍枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑した。それは矢張この年昭和七年の冬であった。》と、荷風が紹介する事件。「91年前の事件」では済ますことができない現実味をもっている。
1927年、浅草・上野間に日本で最初の地下鉄が開通し、引き続き新橋へむかって工事が進められた。1931年には神田、そして1932年12月24日には京橋まで開通した。荷風は、《地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひゞきわたり、土工は商店の軒下に處嫌わず昼寝をしてゐた。》と、地下鉄銀座線の工事の様子も描いている。銀座線は1934年、新橋まで開通した。
工事は基本的に既存の道路を地下へ掘り進んでいく。路面電車や自動車などの通行を確保しながらの工事である。私も1964年の東京オリンピックにむけて進められる地下鉄工事に、大都会の喧騒と混雑、そして妙に高揚感をおぼえた思い出がある。

(つづく)
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第58回 濹東綺譚⑮

『濹東綺譚』という大江匡が書いた小説は終わったのであるが、大江という皮を被った荷風は、皮を脱ぎ捨てて、公然と読者の前に姿を現したい欲望を、ずっと抑え続けてきたのであろう。『濹東綺譚』を書き終わると、とうとう化けの皮を剥いで、《向島寺島町に在る遊里の見聞記をつくって、わたくしは之を濹東綺譚と命名した。》と、荷風が現れる。それが「作後贅言」である。
荷風は「作後贅言」の中で、まず、この作品の名を、当初、『玉の井雙紙』と題したが、思うところあって『濹東綺譚』とした。「濹」の字は、文化年代に林述齋が墨田川を表すため作ったもので、寺島町5丁目から6・7丁目にわたる地域は、白鬚橋の東方4・5町に、即ち墨田堤東北にあるので、「濹上」とするには少し遠すぎるように思われ、「濹東」と呼ぶことにした、などと記している。
そして荷風は続けて、《小説の命題などについても、わたくしは十餘年前井上啞々子を失い、去年の春神代帚葉翁※の訃を聞いてから、爾来全く意見を問うべき人がなく、又それ等について諧語する相手もなくなってしまった。》と書き、その後は、何かにつけ帚葉翁が顔を出す。ある面、帚葉翁に対する回顧録のようである。以下、私の関心にしたがって、いくつかの記述を取り上げたい。

※神代帚葉翁(こうじろそうよう):「校正の神様」とよばれた。荷風より4歳ほど若い。1935年3月30日、千駄木の自宅で突然倒れ死去。3月31日付の『断腸亭日乗』には、《神代帚葉昨夕心臓麻痺にて没せし由。年五十三なりといふ。いつもの諸子五拾銭づつ出し合ひ香奠を贈る。雪深夜に至るも歇まず。》と記されている。

荷風は神代帚葉翁について、まず、《濹東綺譚は若し帚葉翁が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直に走って、翁を千駄木町の寓居に訪い其閲読を煩さねばならぬものであった。何故かというに翁はわたくしなどより、ずっと早くからのラビラントの事情に通曉し、好んで之を人に語ってゐたからである。》と書いて、翁は話しがその地に及べば、万年筆を借り、バットの箱から中身の煙草を全部出してしまうと、箱の裏面に市中から迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入り口を記し、分れてこうなってと、勝手知ったる説明をする。まさに玉の井の「通」である。ひょっとしたら『濹東綺譚』という作品は、神代帚葉翁に捧げられたのもかもしれない。
荷風と帚葉翁が毎晩のように会っていた頃。二人は銀座尾張町の四つ角(銀座四丁目交差点)で待ち合わせし、それから店に入って話した。翁は待っている間、街行く人たちの様子を観察し、手帳にメモしていた。終電に乗るため待っている尾張町か三丁目の松屋前の電停でも、同じく電車を待つ花売り、辻占い、門付けなどに話しかけていた。
このような帚葉翁の行動に、荷風も大きな影響を受けたのであろう。荷風も観察したことを積極的にメモし、略地図なども描いている。歳は荷風より若いが、荷風にとって翁は友人であるとともに、師であった。「作後贅言」から、それが伝わってくる。「ひょっとしたら」という言葉を再度使うなら、「作後贅言」を書きたいがために、荷風は『濹東綺譚』を書いたのかもしれない。

「作後贅言」に書かれた順序を前後させるが、荷風が帚葉翁と親交をもったのは1921年頃。会うのは古本屋の店先。荷風は1927~28年頃から銀座へ行くことを避けていたが、その後また銀座へ足を運ぶようになって1932年の夏。荷風は銀座の通りで翁と出会った。翁のいでたちは白足袋に日光下駄。《直に現代人でない事が知られる》。荷風も表通りのカフェーに行くことを避けている。それを察した翁は荷風を西銀座の裏通りにある萬茶亭という喫茶店へ案内する。客はほとんどいない。この頃から『断腸亭日乗』には、萬茶亭(万茶亭)の名が頻繁に出てくるようになる。萬茶亭は現在の銀座5丁目5、晴海通りから並木通りへ入ってすぐのところあった。同じ並び、すぐのところに三笠会館がある※※。
帚葉翁が萬茶亭に荷風を案内したのは、胃腸の弱い荷風が冷たいものを口にしないことを知っていたからで、萬茶亭は多年南米の植民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店で、夏でも温かい珈琲を売っていた。荷風は《然し其主人は帚葉翁と前後して世を去り、其店も亦閉されて、今はない。》と記している。
翁と荷風は狭い店内の暑さと蠅の多いのを避けて、店先の並木の下に出してある椅子に腰かけて、夜も12時になって店の灯が消えるまでじっとしていたが、翁は萬茶亭と隣接したラインゴルド(現在の三笠会館辺り)、向い側のサイセリヤ、スカール、オデッサなどという酒場に出入りする客の数を数えて手帳に書き留める。かと思うと、円タクの運転手や門付けと近づきになって話しをする。表通りへ買い物に行ったり、路地を歩いたりして、戻って来て荷風に報告する。
荷風は《翁の談話によって、銀座の町がわづか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。》として、震災前表通りにあった商店で、もとのところに同じ業を続けているものは数えるほどで、《今は悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。》と続けている。地方の人が多くなり、外で物を食べる人が増加し、屋台も増えた。《飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これ亦其範を大阪に則ったものだという事である。》と、食品サンプルまで登場する。世界から注目される日本の食品サンプルであるが、1923年に白木屋の食堂で使われ始めたものの、今日の源流となるものは大阪の岩崎製作所が作製したもので、1932年、そごうデパートの食堂で使用が始まった。「元祖食品サンプル屋」として営業を続け、東京でも合羽橋などに店舗を構えている。荷風は表面から一枚も二枚も入り込んだ銀座を見ている。それは今日において、貴重な記録である。「元祖不良老人」も、ただ遊んでいるわけではない。
荷風はまた、《街に灯がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人づつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新に見る所の景況で、震災後頻にカフェーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。》と記して、この不体裁、無遠慮な行動がどうして生じたかはっきりしないが、1927年初め、慶應の学生・卒業生が野球見物の帰りに、群れをなして銀座通りを襲ったことを看過できないと、この事件に言及している。とにかく彼らは酔いに乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフェーに乱入して店内を荒し、警官と争い。これがその後、年に二回おこなわれ、何の処分も受けていない。荷風は、自分自身も慶應で教鞭をとったが、《早く辞して去ったのは幸であった。》と痛烈。ついでに、その頃、経営者の一人から、三田の文学を稲門に負けないように尽力して欲しいと言われ、《彼等は文学芸術を以て野球と同一に視てゐたのであった。》と書いている。この後、荷風は《わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことは欲しない。むしろ之を怯となして排けてゐる。》として、持論を展開する。それは区切りの*まで続くが、一旦、《われわれ東京の庶民が満洲の野に風雲の起った事を知ったのは其の前の年、昭和五六年の間であった。》という文章まで戻る。

※※湯川説子:永井荷風と銀座(東京都江戸東京博物館紀要第13号、2023年3月)

(つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第57回 濹東綺譚⑭

九へ入った。九月も半ば近くである。大江は三日ばかりであるのに、行くべきところへ久しく行かなかった気がして、京橋まで出て、地下鉄に乗り換え、雷門から円タクに乗って、いつもの路地口。《いつもの伏見稲荷。ふと見れば汚れきった奉納の幟が四五本とも皆新しくなって、赤いのはなくなり、白いものばかりになってゐた。いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、然しその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられた此路地にも、秋は知らず知らず夜毎に深くなって行く事を知らせてゐた。》と、やっぱり玉の井、そしてお雪の家である。お雪は潰島田ではなく銀杏返しに手柄をかけたような牡丹とかよぶ髷に変っている。
ここからしばらく、大江とお雪の絡みが続き、袷が欲しいと言うお雪に、大江は30円渡し、家を出る。《伏見稲荷の前まで来ると、風は路地の奥とはちがって、表通から真向に突き入りいきなりわたくしの髪を吹き乱した》。奉納の幟も折れんばかり、路地口の屋台のおでん屋も暖簾ごと飛びそう、無花果と葡萄の葉は廃屋のかげになった闇の中にガサガサと。大江は表通りへ出る。《人家のうしろを走り過る電車の音と警笛の響とが烈風にかすれて、更にこの寂しさを深くさせる。》と、大江は大正道路へ出たようで、まもなく東武鉄道の踏切である。現在では高架になっているので、道路はガードをくぐる。
この踏切を越えると右側に向島劇場(当時の住所、向島区寺島町7丁目121)、その少し先、同じ並びに隅田町郵便局がある。大江は《帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷の間を迂曲する小道を辿り辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである》。つまり、大正道路を南へはずれて、京成白鬚線の廃線跡を越え、今でも、地元民でさえ道を間違えそうな狭く曲がりくねった道を進み、明治通りを越えれば、100m余行けば白髭神社(現、東向島3丁目5-2)の裏手に出る。100m余南へ行くと、墨堤通りに面するように子育地蔵尊(現、東向島3丁目2-1)があり、ここを入り口として地蔵坂がゆるやかに下る。まさかこのためにこちらへ廻る仕掛けをしたと思われないが、子育地蔵尊にむかう途中、白鬚神社の参道入口あたり(現、東向島3丁目4-4)には、荷風の祖父鷲津毅堂の碑がある。《わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちゞめて風をよけた》。

十に入る。《四五日たつと、あの夜をかぎりもう行かないつもりで、秋袷の代まで置いて来たのにも係らず、何やらもう一度行ってみたい気がして来た。》と、性懲りもない大江。
お雪はいつもの窓に坐っていたが、別の窓も開き、新入りあり。日が暮れてから凪、蒸暑く、《路地の中の人出も亦夏の夜のように夥しく、曲る角々は身を斜めにしなければ通れぬ程》と、玉の井の繁盛ぶりが描かれる。大江は流れる汗と息苦しさに堪えかね、改正道路にあたる広小路へ出て、帰るつもりで7丁目のバス停へ。《車庫からわづか一二町のところなので、人の乗ってゐない市営バスが恰もわたくしを迎えるように来て停った。》が、帰りがたくぶらぶら歩き、酒屋の前の曲がり角にポストの立っている6丁目バス停。このバス停に立って大江は空地を眺める。《この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴し立ててゐた》と、これは「ゴリラ広場」とよばれた空地の描写であろう。現在、朝日シティパリオ東向島(東向島6丁目37-4)が建っている一帯である。
バス停名の丁目であるが、寺島町の丁目である。荷風がここで6丁目バス停と表記している「寺島町6丁目」バス停は、「5丁目バス停」と書かれているメモや資料もある。改正道路の西側が5丁目、東側が6丁目で、どちらも正解のようだが、当時はどちらの呼称であったのだろうか。
結局、大江はお雪の家に行き、別れを告げることもできずに、しばらく二階にあがってから帰途につく。九月十五夜。大江はお雪のもとを訪ね、雇婆からお雪が病気で入院していることを知らされる。ひょっとしたら、昭和病院に入院か?

《十月になると例年よりも寒さが早く来た。既に十五夜の晩にも玉の井稲荷の前通の商店に、「皆さん、障子張りかえの時が来ました。サービスに上等の糊を進呈。」とかいた紙が下ってゐたではないか。最早や素足に古下駄を引摺り帽子もかぶらず夜歩きをする時節ではない。》と、生活感の中に季節の移ろいが感じられる。「さすが文豪である」と言いたいが、これは作家・大江が書いたことになっている。
そして大江は、《濹東綺譚はこゝに筆を擱くべきであろう。然しながら若しこゝに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、》と書く。『濹東綺譚』は小説なのか、体験記なのかよくわからない作品である。荷風もそのように感じたのであろう。「小説」である以上、「小説」らしくしなければならないと、《半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない處で、既に素人になってゐるお雪と廻り逢う一節を書添えればよいであろう。》と続けている。それなら、「そのような作品を書けば良いのに」と、荷風に一言申したくなるが、やはり、率直に奇妙な作品である。
けれども、この体験談のような作品は、それ故に、かえってリアルで、私を玉の井の奥深くまで連れ込んでしまうのである。
大江と、心を寄せた女・お雪とは、《互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯濹東の裏町、蚊のわめく溝際の家で狎れ親しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄》である。

(つづく)
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第56回 濹東綺譚⑬

七の段階では、お雪の家にいた大石は、八に入ると、《来そうに思われた夕立も来る様子はなく、火種を絶さぬ茶の間の蒸暑さと蚊の群とを恐れて、わたくしは一時》外へ出たのであるが、帰るのにはまだ早いと、《溝づたいに路地を抜け、こゝにも板橋のかゝってゐる表の横町に》出た。この横町は現在の東向島5丁目29と30・31との間の道路である。この道路は、《両側に縁日商人が店を並べてゐるので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いてゐる。》と描写されている。
続いて、《板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻で。》と、ここで出てくる「馬肉屋」は、肉を扱う大越商店(東向島5丁目29-2)として現存している。この横町を出て、大正道路、現在のいろは通りを横切ると、道は東清寺にむかっている。それは《辻の向側には曹洞宗東清寺と刻した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立ってゐる。》と描かれる。
玉の井稲荷は東清寺内にあり、豊川稲荷からの勧請。縁日は2日と20日で、縁日の晩は外ばかり賑やかで、《路地の中は却て客足が少いところから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでゐる》と、お雪からの情報を紹介している。
大江は人ごみの中を歩いて稲荷に参詣。《こゝにも夜店がつゞき、祠の横手の稍広い空地は、植木屋が一面に並べた薔薇や百合夏菊などの鉢物に時ならぬ花壇をつくってゐる。東清寺本堂建立の資金寄附者の姓名が空地の一隅に板塀の如くかけ並べてあるのを見ると、この寺は焼けたのでなければ、玉の井稲荷と同じく他所から移されたものかも知れない。》と、確かに東清寺は1927年、この地に移転されたもので、荷風はそれを知って書いたのか、推察が当たったのか。
大江は常夏の花一鉢買い、別の路地を抜けて大正道路へ出る。左折して少し行くと右側に交番がある。現在の東向島5丁目32-1付近で、渋井マンションが建っている。交番を避けたい大江は、少し戻って、《角に酒屋と水菓子屋のある道に曲った》。現在は渋井マンションが角地になっている。交番はその後、墨田3丁目6-17に移転し、現在に至っている。
《この道の片側に並んだ商店の後一帯の路地は所謂第一部と名付けられたラビラントで》。ということで、大正道路から改正道路にむかって歩く大江から見れば右手が第一部。ここで、《お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはづれの道端に現われて、中島湯という暖簾を下げた洗場の前を流れ、許可地外の真暗な裏長屋の間に行先を没している》。ここで「洗場」と出てくるのは銭湯のことで、中島湯は「墨田区の銭湯の変遷」によると、寺島町7丁目46(現在の東向島5丁目34-3)にあり、1980年代までは営業していたが、跡地には1995年、ライオンズマンション東向島第2が建てられた。
お雪の家の方から流れて来る溝。溝とは言っても、このあたり、もともとは水田地帯であるから、農業用水路であったのだろう。都市化によって、不要になったものもあり、流路を変えられながら排水路・下水路として機能していたと考えられる。荷風は《わたくしはむかし北廓を取巻いてゐた鉄漿溝より一層不潔に見える此溝も、寺島町がまだ田園であった頃には、水草の花に蜻蛉のとまってゐたような清い小流であったのであろうと、老人にも似合わない感傷的な心持にならざるを得なかった。》と描いている。北廓とは吉原(新吉原)遊郭のことである。荷風が地理学者でなかったことが残念である。
《縁日の露店はこの通には出てゐない。九州亭というネオンサインを高く輝してゐる支那飯屋の前まで来ると、改正道路を走る自動車の灯が見え蓄音機の音が聞える。》と、大江は九州亭のところまで来た。現在の東向島5丁目36の西角である。ここで大江は右折。賑本通り(現、平和通り)へ入る。《植木鉢がなかなか重いので、改正道路の方へは行かず、九州亭の四ツ角から右手に曲ると、この通は右側にはラビラントの一部と二部、左側には三部の一区画が伏在してゐる最も繁華な最も狭い道で、呉服屋もあり、婦人用の洋服屋もあり、洋食屋もある。ポストも立ってゐる。お雪が髪結の帰り夕立に遇って、わたくしの傘の下に駆込んだのは、たしかこのポストの前あたりであった》。これでは小説ではなく、「玉の井案内」であり、このまま行くと、ラビラント1・2部のまわりを一回りさせられそうである。けれども、地理屋としては興味をそそられる記述であり、街歩きをする時に役立ちそうである。
《ポストの立ってゐる賑な小道も呉服屋のあるあたりを明い絶頂にして、それから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾屋などが目に立って、遂に材木屋の材木が立掛けてあるあたりまで来ると、幾度となく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自転車預り所と金物屋との間の路地口に向けられるのである。》と、ついにお雪の家への路地口である。この自転車預り所は現在の東向島5丁目25-1にあった。金物屋は現在の東向島5丁目26-13にあった。
《この路地の中にはすぐ伏見稲荷の汚れた幟が見えるが、素見ぞめきの客は気がつかないらしく、人の出入は他の路地口に比べると至って少ない。これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果の茂ってゐるのと、溝際の柵に葡萄のからんでゐるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしてゐるのである。》と、大江はお雪の家の前。伏見稲荷は現在の東向島5丁目26-5にあった。
二階にまだ客がいるようなので、縁日で買った植木鉢を窓から中へ入れ、そのまま白髯橋の方へむかう。お雪の家を出ると、大正道路はすぐである。この道には京成バスが走っており、後ろの方からバスが走って来たが、バス停がよくわからず、そのまま歩く。
《幾程もなく行先に橋の燈火のきらめくのを見た。》と言うが、大江が歩いた距離は600mほど。『断腸亭日乗』によると、荷風が白鬚橋から玉の井へ来た記述は、9月30日と10月6日の二回ほどあるが、逆コースはない。荷風は白鬚橋(荷風は作品中、「白髯橋」と表記している)に大江が書く『失踪』の一場面を設定しようとしている。
大江は雷門まで歩いて、円タクで自宅へ帰る。そして書きかけの『失踪』の末節を読み返す。そこには、すみ子と種田の会話が綴られ、すみ子は女給をやめて、おでん屋をやるつもりと言い、照ちゃんに手金を渡す、照ちゃんのパトロンは玉の井で幾軒も店や家をもっている玉の井御殿の旦那だと語る。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第55回 濹東綺譚⑫

七に入ると、お雪が歯医者へ出かけている間に、お雪の抱え主と思われる男がやって来る。お雪は「商売女」であり、男二人、それは承知ではあるが、亭主と不倫相手が顔を合わせたようなものであり、大江は気まずい。この二人の男の中を取り持つのが「蚊」である。
蚊遣香(蚊取り線香)が焚かれていないので、家じゅうにわめく蚊の群れは顔を刺すのみならず、口の中にも飛び込もうとする。扇風機は壊れている。これを機に二人の男性に会話が生まれる。《「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、「そうですか。こゝはもともと埋地で、碌に地場もしないんだから。」と主人もしぶしぶ口をきゝ初めた。「それでも道がよくなりましたね。」「その代り、何かにつけて規則がやかましくなった。」「そう。二三年前にゃ、通ると帽子なんぞ持って行ったものですがね。」「あれにゃ、わたし達この中の者も困ったんだよ。用があっても通れないからね。女達にそう言っても、そう一々見張りをしても居られないし、仕方がないから罰金を取るようにしたんだ。店の外へ出てお客をつかまえる處を見つかると四十二圓の罰金だ。それから公園あたりへ客引を出すのも規則違反にしたんだ。」「それも罰金ですか。」「うむ。」》と、結局また聴き取り調査。窓も客引きやポン引き防止策であったのだとは、初めて知った。
荷風は『断腸亭日乗』に、《四十歳ばかりなる抱主と二人にてあたりを掃除しゐたり。(抱主は許可地外に住居するなり。)》(9月21日)、《白髯橋東畔より京成バスに乗りて玉の井なるいつもの家を訪ふ。日は早く暮れたり。家には三ツ輪のやうなる髷結ひし二十一、二才の女新に来り、また雇婆も来り、茶の間にて夕餉を食しゐたり。主人も来りたればこの土地のはなしききて、七時頃車にて銀座に行き》(10月6日)などと記している。
結局、お雪は明日抜歯することになった。大江はお雪にカネを渡し、先に二階へ。続いて、お雪。ここで、この家の様子が《二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間しかない。一体この家はもと一軒であったのを、表と裏と二軒に仕切ったらしく、下は茶の間の一室きりで台所も裏口もなく、二階は梯子の降口からつゞいて四畳半の壁も紙を張った薄い板一枚なので、裏どなりの物音や話聲が手に取るようによく聞える。》と記述されるが、『断腸亭日乗』の9月7日に描かれた「この家の間取り」が基になっている。
作品ではさらに、二階から見える街の光景が、《窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られてゐるが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐ってゐる女の顔、往ったり來たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空までも薄赤く染められてゐるのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしてゐる。》と描かれている。そして、男女の会話の絡み合い、ついに《「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先の事はわからないわ。ネエ。」ぢっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な心持がした。》となって、やがては《わたくしはこの土地の女がわたくしのような老人に対して、尤も先方ではわたくしの年を四十歳位に見てゐるが、それにしても好いたの惚れたのというような若くはそれに似た柔く温な感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。》と、大江はほんとうに妙な心持になっている。大江、もうじき60歳。お雪、26歳。
かと、思いきや。わたくしが殆ど毎夜のように足しげく通って来るのは、種々の理由があり、《創作「失踪」の実地観察。ラディオからの逃走。銀座丸ノ内のような首都枢要の市街に対する嫌悪。》《いづれも女に向って語り得べき事ではない。わたくしはお雪の家を夜の散歩の休憩所にしてゐたに過ぎないのであるが、そうする為には方便として口から出まかせの虚言もついた。》と、お雪が読んだら怒り出すような文章が続く。もっとも、お雪の方にも、「口から出まかせの虚言」があっただろう。それにしても、玉の井を後にした荷風が銀座へ行くこと、一度や二度でないのは、いったいなぜ?しかも、玉の井抜きに銀座へ行くこと、「数知れず」である。

「元祖不良老人」と呼ばれるだけあって、荷風は大江の名を借りて、《わたくしはこの東京のみならず、西洋に在っても、売笑の巷の外、殆その他の社会を知らないと云ってもよい。》と書いている。と言っても荷風は文化人である。知識人である。売笑の巷に来るような人間ではない。けれども《こんな處へ来ずともよい身分の人だのに、と思われるのは、わたくしに取ってはいかにも辛い。》と、荷風というか大江というかは胸中を明かす。したがって彼は、《彼女達の薄幸な生活を芝居でも見るように、上から見下してよろこぶのだと誤解せられるような事は、出来得るかぎり之を避けたいと思った》。
ここで、《こんな處へ来る人ではないと言われた事については既に実例がある。》と、改正道路のはづれ、市営バス車庫のほとりで巡査に呼び止められて尋問された件を紹介している。先にも述べたが、当時はまだ四ツ木橋が架かっておらず、現在の四ツ木橋南交差点で改正道路は行き止まりになり、交差点は丁字路になっていた。資産家と判断した巡査は円タクを止め、無理やり乗せる。《わたくしは已むことを得ず自動車に乗り改正道路から環状線とかいう道を廻った。つまり迷宮の外廓を一周して、伏見稲荷の路地口に近いところで降りた》。
「環状線」というのはどの道路を指しているかよくわからないが、改正道路、大正道路、賑本通りを合わせれば環状になり、玉の井の1部・2部をぐるりと取り囲むことになる。伏見稲荷は賑本通りから、お雪の家設定地へ行く路地を入って少し行ったところにあった。現在の東向島5丁目26-5付近。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第54回 濹東綺譚⑪

蚊帳の話は、お雪さんが歯痛になっても続く。
お雪さんは急に歯が痛くなって、窓際から引込んで寝たばかり。大江が来ると、蚊帳から這い出してきたが、座る場所がないので、二人並んで上がり框へ腰を掛ける。いくつかやり取りがあって、お雪は歯医者へ行って来るから留守番を頼むと。歯医者は「検査場のすぐ手前よ。」というお雪に、「それじゃ公設市場の方だろう。」と応じる大江。検査場とは検梅所のことであろうから、昭和病院にあたる。現在は保健センターになっている。公設市場は現在の東向島駅東100mほどの、東向島5丁目4の区画にあった。お雪のところから歩いて5分くらいかかるだろうか。玉の井4部に近いところだから、お雪は「あなた。方々歩くと見えて、よく知ってるんだねえ。浮気者。」と、大江をツネツネ。「痛い。」と大江だが、まんざらでもなさそうで、出かけて行くお雪に、「お前待ち待ち蚊帳の外……」などと言っている。
ここで蚊帳の話題は姿を消すが、《わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。》と、「ことば論」が始まる。さすが文学者である。《處と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、恰外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方も「おら」を「わたくし」の代りに使う。》
ここで、大江と言うか、荷風と言うか、「少し餘事にわたるが」として、現代人と交際する時(荷風は現代人ではないのか……)、口語を学ぶことは容易であるが、文書の往復になると頗る困難を感じる。ことに女性の手紙に返事を書く時、「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」とする。何ごとにつけても、「必然性」「重大性」だの「性」の字をつけてみるのも、冗談半分口先で真似している時と違って、これを筆にする段になると、実に耐えがたい嫌悪の情を感じなければならない、と言う。
文章を操る荷風には、会話と違って、文字に著す時、妥協しえない部分があったのだろう。それから80年余経過した「現在の現代人」。書き言葉が、ますます話し言葉に近づき、荷風はこの現状をどう思うか。
荷風は大江を借りて、かつてはじゅうぶんに字が書けない人であっても、当時は手紙には必ず候文を用いなければならない時代だったので、その頃の女性は硯を引き寄せて筆を取れば、文字を知らなくても候の調子を思い出した、として、――その日、虫干しをしていた大江は、柳橋の妓で、向嶋小梅に囲われていた女の古い手紙を見たと、手紙の文章を紹介している。
この手紙の中で、「ひき移り」が「しき移り」、「ひる前」が「しる前」となっているのは、《東京下町言葉の訛りである。》と、「ひ」が「し」に変音する、つまり、「あさひしんぶん」が「あさししんぶん」になるような、話し言葉が書き言葉に混ざり込むことに関しては、荷風は穏便であり、むしろ風情と感じているようだ。
六は、この後、《竹屋の渡しも今は枕橋の渡と共に廃せられて其跡もない。我青春の名残を弔うに今は之を那辺に探るべきか。》と、結ばれている。

『濹東綺譚』は、私娼窟を描いているはずなのに、妙に高尚な、「お上品」な作品である。文学論のようでもある。これでは、蚊もブンブン飛ぶわけである。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第53回 濹東綺譚⑩

改正道路の開通で玉の井も変貌してきたようだが、お雪の住むところは、新開の町の中でも古い一画に設定されている。荷風は、大江の名を借りて、《わたくしがふと心易くなった溝際の家……お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起させる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。》と、明治の東京に江戸の名残を探し、大正の東京に明治の東京を探し、愛おしく懐かしみ癒される荷風の姿が浮かび上がる。その荷風は今、昭和の東京に、関東大震災以前の大正の東京を見つけようとしている。現在の金沢に幼少期の懐かしい金沢を見つけ出そうと躍起になっている私には、荷風の思いがよくわかるような気がする。と、同時にこれは、都市を重層的に見るということでもある。
荷風は、お雪の家を続ける。《其家は大正道路から唯ある路地に入り、汚れた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶奥深く入り込んだ處に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラディオのひゞきを避けるにはこれほど適した安息處は他にはあるまい。》と、人の足音はあまり気にならないのか。
さらに荷風は、この盛り場では組合の規則で、女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線も弾かせないと書いて、《雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの聲も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の聲が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘しさが感じられて来る。》と続けるが、この溝際の家に果たして風流を感じることができるのか。せめて、蚊帳に蛍でも止まっていれば良いものを。
それでも荷風は、《昭和現代の陋巷ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。》と言い、《いつも島田か丸髷にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴聲とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三四十年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。》と、畳みかけるのである。
どうやら大江は、と言うか、荷風は女性が居れば蚊など気にならないのか、あまり明るくない電燈の光と、絶えざる溝蚊の聲の中に、お雪の振る舞い一つひとつ眺めやりながら、青春の頃に慣れ親しんだ女性たちやその住まいの様を思い出し、それだけでは足りず、友達の女性のことまで思い出す。その頃は、「彼氏」「彼女」「愛の巣」という言葉もなく、馴染めの女性は「君」でも「あんた」でもなく「お前」と言えば良かった云々と。そして、《溝の蚊の唸る聲は今日に在っても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。》と続ける。どうやら荷風にとって、蚊も古き良き時代の象徴のようである。蚊の話題は今しばらく続く。
「そのあたり片づけて吊る蚊帳哉」から「この蚊帳も酒とやならむ暮の秋」まで8首を紹介し、《これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。》として、そのうち半分は亡友啞々が深川の長慶寺裏の長屋に、親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、その折々訪ねて行った時に詠んだもので、明治43、4年頃であろうという。井上啞々は本名精一(1878~1923)。荷風の親友。長慶寺は江東区森下にある寺院で、芭蕉の句塚があった。

荷風は六の始めに、お雪の住む家のある位置を吉原遊郭に比定している。これは荷風が玉の井を新しい遊郭と見立てたのではないだろうか。玉の井は私娼窟とされているが、女性を品定めする30cm四方の小窓があり、女性たちは前借金で囲われて、自由を奪われている。女性たちは登録され、検梅が実施される。組合の規則もある。これでは遊郭と変らず、公娼と変らない。つまり玉の井は私娼窟ではなく、公認の遊郭と変らない、いわば、「新しい遊郭」だったのではないだろうか。
しかもこの遊郭。道路が直交し整然とした区画をもつ吉原と違って、大きな区画も歪んだ方形で、区画内の道路は狭く迷宮(ラビラント)の如く、これがまた魅力となっている。道路の形状自体が一種の演出効果を有している。ここにも「新しい遊郭」の仕掛けがある。建物は「〇〇楼」とはほど遠い、小さな民家で、自宅然としたところで営業がおこなわれている。吉原にくらべ低価格で、江東地域を中心にひろがった労働者の街で、低収入の労働者階級を客層として取り込むことができた。
玉の井の私娼たちは吉原の遊女に比べれば、自由度は高く、他地域へ営業におもむくこともある。けれどもカフェーの女給にくらべれば自由度は低く、収入も少なかった。前借金を返した後も、家主や地主あるいは抱え主に毎日揚銭を払わねければならず、休んでいても払わなければならなかった。このような実態を改善しようと、南喜一は1933年、「女性向上会」を結成し、一時は玉の井の娼婦の半数を組織化したという。その効あって、1933年に810人、34年に136人の娼婦を解放し、国元へ返したが、そのまま親元に残ったのは二人だけで、残りは一カ月もすれば、また玉の井に戻ってきた。東北地方の飢餓状態より、玉の井の生活の方がまだましだったのだ。以後、南の目は「売られてからでは遅い、売られる前に救おう」と、東北の飢餓の根本原因にむけられていくが、日本はどんどん戦争の方向にむかっていった。※

※小畑精武:コラム/温故知新「日本の盛り場――浅草の争議を巡って 下町の労働運動史を探訪する(8)」(ネット公開)参考。

                        (つづく)
【館長の部屋】 主人公たちのハザードマップ――漱石編②

【下谷区・浅草区】

漱石の作品で、主人公の住まいが下谷区や浅草区に設定されたものはない。漱石自身は浅草区内3カ所に住んだことがあり、養父はその後、下谷区西町に住み、『道草』に描かれている。
下谷区西町や浅草区内は低地であり、土砂災害のキケン性はないが、下谷区・浅草区、つまり現在の台東区内、ほぼ全域浸水キケン地域で、漱石に関わる4カ所すべて、状況によって1階が水没してしまう。また、西町は漱石自身が低湿地であることを描写しているが、内水氾濫によって床上浸水するキケンがある。
関東大震災時、下谷区西町、浅草区寿町・諏訪町いずれも推定震度5で、大きな被害はなく、三間町では全壊家屋がわずかに出ている(推定震度6弱になっていた可能性がある)が、全般的に被害は少なかった。ただし、これはあくまでも地震の震動による被害で、その後の火災によって、ことごとく焼失した。
西町の塩原家には、昌之助妻かつ、それに養子の秋男が住んでいたが、火災に追われ、おそらく上野公園に避難したものと思われる。かつは10月16日、亡くなった。
なお、漱石の作品で、主人公の住まいが日本橋区や京橋区に設定されたものはない。

【神田区】

神田区には、小川町に『坊っちゃん』の下宿、『彼岸過迄』の須永市蔵の家、表神保町に『明暗』の堀の家がある。
坊っちゃんの下宿や須永の家は駿河台にあるので、浸水のキケン性はないが、堀の家は神田川からつながる日本橋川の氾濫で、三崎町・西神田・神保町などで1階部分が水没する影響を受けて、場合によって床下浸水する。
土砂災害は駿河台でも猿楽町付近とニコライ堂付近に土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定された一画がある。しかし、坊っちゃんの下宿、須永の家ともに該当しない。
関東大震災時、推定震度は5であるが、堀の家は6弱になっていた可能性がある。とにかく建物の倒壊は免れているが、火災によってすべて焼失した。

【麹町区】

麹町区には、飯田町に『明暗』の津田由雄の家、番町地区に『行人』の長野家(長野二郎の実家)や『門』の佐伯家、内幸町1丁目に『彼岸過迄』の田口家がある。
浸水については、内幸町はキケン性がある。土砂災害について、津田の家は西側に麹町台の崖があり、一部が土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定されているので、崖との距離によって、被害に遭う可能性がある。
関東大震災時の推定震度は、各家概ね5強。火災によって津田の家は焼失。番町地区は半分くらい焼失したが、長野家は場所が特定できないため、焼失の有無は判然としない。しかし、行人坂付近と考えれば、焼失の可能性は高い。佐伯家は中六番町25番地と特定されているため把握しやすい。実はこの場所、延焼の先端部にあたり、微妙な位置にあり、北・南・東隣の家が焼失を免れた中で、西隣の家とともに焼失した可能性が高い。内幸町1丁目は、漱石も入院した長与胃腸病院のあった現在の内幸町1丁目の地区は焼失したが、田口の家は焼失を免れた現在の内幸町2丁目に設定されたと推定されるので、焼失しなかった。
『それから』の代助の実家は赤坂区の青山に設定されている。場所は特定できないが、この地域、概ね浸水のキケンや土砂災害のキケンはなく、関東大震災時も推定震度5、火災による焼失もない。

【四谷区】

四谷区では、『道草』の健三の姉夫婦が津守坂付近、『琴のそら音』の宇野露子の家が四谷坂町に設定されている。
姉夫婦の家が津守坂の西側にあたる荒木町にあれば、浸水のキケン性がある。また、宇野家も坂町の北端部分、つまり四谷台を下った辺りにあれば、浸水のキケンがある。ともに土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定された一画は見当たらない。
関東大震災時、推定震度は5、火災による焼失地域もない。

【まとめ】

漱石の作品に登場する人物は概ね山の手の台地上に住んでいるため、水害や土砂災害に遭うキケン性が少ない。また、関東大震災時の推定震度も5で、被害もなく、焼失のキケンもほとんどない。自然災害に対して安全なところに住んでいる人が多いと言える。
そのような中で、『道草』の健三の養父は下町にあたる下谷区(現、台東区)に住んでいるため、浸水のキケンがあり、『道草』の健三の姉夫婦や『琴のそら音』の宇野露子の家は、場所を特定できないので明言できないが、浸水のキケン性も否定できない。
土砂災害については、『明暗』の津田の家が近くに崖があり、土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定された一画もあるので、心配である。行政の側はとくにキケン性を指摘していないが、私としては『門』の宗助の家も心配である。
関東大震災で家屋が倒壊するような被害は出ていないが、『道草』の健三の養父宅、坊っちゃんの下宿、『彼岸過迄』の須永家、『明暗』の津田家や堀家、『門』の佐伯家が焼失。場合によって『行人』の長野家も焼失した可能性がある。けれども、推定震度はいずれも5であり、建物の防火性などから、今日では火災による焼失はほとんど考えられないので、関東大震災級の大地震が発生しても、大きな損失を被ることはなさそうである。

(完)
【館長の部屋】 主人公たちのハザードマップ――漱石編①

漱石の作品に登場する主人公たちは、どのような災害に気をつけたら良いのか。設定された主人公の自宅を、今日のハザードマップで確認してみた。地域は当時の東京15区内限定で、作品ごとでなく、地域ごとに見ていきたい。主人公以外の登場人物でも、関連して取り上げていきたい。なお、地震に関しては、主人公が関東大震災当時住んでいれば、どのような被害に遭ったのか推定しながら、現在ならどうか考えていきたい。

漱石の作品、すべてで主人公の自宅を特定できるわけではない。
例えば、『坊っちゃん』の主人公は漱石のふるさとである牛込台の北側斜面あたりで生まれ、幼少年期を過したようであるが、狭い範囲に特定することはできない。教師をやめて東京に戻ってから、どこに住んだか、麹町や麻布の方ではなさそうだが、ヒントになるものさえなく、まったくわからない。少なくとも坊っちゃんが幼少期を過ごした地域は、浸水被害のキケンはなく、関東大震災時の推定震度も5であるから、大きな被害に遭うことはない。現在でも、発生する地震の状況にもよるが、甚大な被害が出る確率は低い。ただし、赤城下町あたりに住んでいたとすれば、地震被害の確率も高くなり、土砂災害のキケンも高い。
『草枕』の主人公も東京出身であることはわかるが、どこに住んでいたか不明。『二百十日』『虞美人草』『坑夫』なども明らかでない。
これに対して、主人公の自宅を、ある程度狭い範囲に特定できる作品は、『吾輩は猫である』『琴のそら音』『趣味の遺伝』『野分』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『道草』『明暗』。『行人』は主人公長野二郎の現住地は不明。実家はある程度特定できる。また、『こころ』は主人公の一人「私」はどこに住んでいるかわからない。「私」が通う先生の家(かつての下宿で、妻の実家)はある程度特定できる。
この後、漱石のふるさとである牛込区を皮切りに、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、神田区、麹町区、四谷区の順に見ていくことにしたい。

【牛込区】

漱石の生家は馬場下、終焉の地となった漱石山房は早稲田南町にある。ともに江戸川の氾濫に対して、浸水のキケン性がない地域であり、土砂災害警戒区域や特別警戒区域にも指定されていない。関東大震災における推定震度も5で、被害も軽微である。
牛込区内には、『門』の宗助が東榎町、『それから』の代助が神楽坂袋町、『野分』の白井道也が市谷薬王寺町に住んでいる。いずれも浸水のキケン性がない地域で、土砂災害警戒区域や特別警戒区域にも指定されていない。関東大震災における推定震度も5で、被害も軽微である。この他、矢来町には『彼岸過迄』の松本、『門』の坂井が住んでいるが、いずれも同様である。
私としては、『門』の宗助が崖下に住んでいるので心配である。何しろ崖の高さは6m以上ある。しかしながら、土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定されておらず、関東大震災で崖が崩壊することなどもなかった。とは言うものの、私としては一応警戒しておきたい。
この地域全般に、江戸川沿いの低地地域が災害のキケン度が高い。東京大水害でも大きな被害が出ているし、関東大震災でも推定震度6強で、被害が大きかった。

【小石川区】

小石川区には、『琴のそら音』の靖雄が小日向台町、『こころ』の先生が上富坂町に住んでいる。この他、小日向台町には『明暗』の岡本と藤井、小石川表町には『それから』の平岡夫妻が住んでおり、漱石が下宿していた法蔵院もここにある。
浸水のキケン性が高いのは、江戸川沿いや小石川(千川)沿いの低地地域であり、上記、いずれも浸水キケン性はない。
土砂災害に関して、小日向台町は現在の小日向台小学校周辺にあたり、土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定された一画があるが、靖雄の家も岡本や藤井の家も、いずれも台地の上面に建っており、キケン性はない。伝通院の裏手には土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定された一画があるが、平岡夫妻の家、法蔵院ともに、伝通院の西側の台地上面にあるため、キケン性はない。先生の家も小石川台の東端の急傾斜地を上り切っているので、大丈夫。
要するに彼らが住んでいるところは、小石川台や小日向台の台地上面で、関東大震災における推定震度も5で、被害も軽微。火災による焼失もなかった。

【本郷区】

本郷区には、駒込千駄木町に『吾輩は猫である』の苦沙弥先生一家や吾輩が住み、同じところに『道草』の健三一家も住んでいる。追分付近には『三四郎』の三四郎や野々宮宗八など、西片町には『趣味の遺伝』の余や『三四郎』の広田先生などが住んでいる。また、本郷台町には『彼岸過迄』の田川敬太郎、真砂町には『三四郎』の里見美禰子が住む。漱石は駒込千駄木町や西片町に住んだ。
彼らが住んでいるところは、いずれも本郷台の台地上面にあり、浸水のキケン性はなく、土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定されたところもない。ということは、地震においても関東大震災における推定震度は5。大きな被害はなかった。ただし、他地域で発生した火災が湯島から本郷三丁目へと迫った。幸い、延焼は食い止められ、彼らの家は焼失しなかった。この地域では民家からの火災発生はなかったが、天下の東京帝国大学では、医化学教室など三か所から出火。図書館にも延焼したため、大火災になった。芥川龍之介はこの火災は「人災」であり、防ぐことができたものであると、おおいに憤慨している。さて、百年後の東京大学では、龍之介の提言を受けて、「地震と火災」の対策はしっかりとられているだろうか。
なお、樋口一葉が住み、後に森田草平が住んだ丸山福山町の家は、1910年の東京大水害の時、崖崩れで倒壊。草平は負傷している。現在、この一画は土砂災害警戒区域や特別警戒区域に指定されており、表通り一帯は浸水のキケンがある地域になっている。

(つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第52回 濹東綺譚⑨

『失踪』は大江がまだ執筆途中ということで、ここで物語は途切れ、五に入る。『失踪』の草稿は梅雨が明けると共にラジオに妨げられて中断し、もう十日あまり。大江はそのまま、《感興も消え失せてしまいそう》になっている。
そんなある日、《わたくしは散策の方面を隅田河の東へ替え、溝際の家に住んでいるお雪という女をたづねて憩むことにした。四五日つづけて同じ道を往復すると、麻布からの遠道も初めに比べると、だんだん苦にならないようになる。京橋と雷門との乗替も、習慣になると意識よりも身体の方が先に動いてくれるので、さほど煩しいとも思わないようになる。》《此に於いてわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。》と、大江は東武電車で浅草雷門駅から玉の井へ行く道を覚えたようである。この、「玉の井へのアクセス」については、六に詳しく書かれているので後述する。
ここへ来て、《十余年前銀座の表通に頻にカフェーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は拳ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。》と、作品の中に、大江の皮をかぶった荷風が出現する。
この事件の顛末については、「東京さまよい記 永井荷風と菊池寛」(ネット、2016年)などに譲るとして、荷風の筆は、《毎夜電車の乗降りのみならず、この里へ入込んでからも、夜店の賑う表通は言うまでもない。路地の小径も人の多い時には、前後左右に気を配って歩かなければならない。この心持は「失踪」の主人公種田順平が世をしのぶ境遇を描写するには必須の実験であろう。》と、持って行く。功名である。

こうして、六に入る。
お雪の住む番地のあたりは、《この盛場では西北の隅に寄ったところで、目貫の場所ではない。仮に之を北里に譬えて見たら、京町一丁目も西河岸に近いはづれとでも言うべきものであろう。》と、北里、つまり吉原(新吉原)を持ち出される。この後、荷風は《聞いたばかりの話だから、鳥渡通めかして此盛場の沿革を述べようか。》と、大江の筆を借りて、玉の井の概要を語る。
それは要約すれば、以下の通りである。
まずは玉の井の沿革である。
1918~19年頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路がつくられる際、むかしからその辺にあった楊弓場・銘酒屋などが立ち退きを命じられ、京成バスの通っている大正道路の両側に所定めず店を移した(広い道路というのは、現在の言問通りである)。続いて、伝法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追われて来るもの引きも切らず、大正道路はほとんど軒並み銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ、帽子を奪われるようになったので、警察署の取り締まりが厳しくなり、車の通る表通りから路地の内へと引き込ませられた(なぜ、玉の井が選ばれたのか荷風は書いていない。浅草界隈は空地もなく、やむなく隅田川を越えたのだろう。すでに向島には花街があり、そこへ移転することは困難であり、1914年に白鬚橋がつくられ、そこから伸びる大正道路を進んだ玉の井あたりは、まだあまり都市化されず、空地も多く、浅草から比較的近く、移転先としては適地であったのだろう。玉の井の形成を震災後とする向きもあるが、実際にはそれ以前に起源があることがわかる)。
凌雲閣の裏手から公園の北側の千束町の路地にあったものが、手を尽くして居残りの策を講じたものの、1923年の関東大震災のために中断し、この辺りで営業していたものも、玉の井へ逃げるように移転してきた。こうして、《この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った》。
初め市中との交通は白鬚橋の方面一筋だけであったので、1936年に京成電車が運転を廃止する頃までは、その停車場(京成玉の井駅)に近いところが一番賑やかであった(京成白鬚線は1928年に開業した。ずいぶんバカバカしい路線のように思われるが、荷風の文章を読めば、納得する部分もある。つまり当時、白鬚橋は玉の井の表玄関にあたり、一駅と言っても、玉の井への乗客を見込める。しかも、白鬚橋は1925年に東京府に移管されており、この橋を改良利用して、三ノ輪橋まで伸ばし、王子電気軌道に接続すれば、玉の井と同じ新興遊興地である尾久に直結できた。王子電軌鉄道、現在の都電荒川線は1913年に開通し、1914年には尾久は三業地として開かれた。1922年にはあら川遊園が開園。つまり、京成白鬚線は本線の都心乗り入れというより、近郊線としての性格が強かったとみられる。これは向島駅の本線合流形態からもうかがえる)。
ここまでが玉の井の第一期で、荷風は《然るに》と第二期の玉の井を伝える。
1930年の春、都市復興祭がおこなわれた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開通した(改正道路、現在の国道6号線・水戸街道)。当時、荒川に四ツ木橋は架かっていない。現在の四ツ木橋南交差点のところで、改正道路は行き止まりになっていた。市内電車は秋葉神社前まで、市営バスはさらに延長して寺島町7丁目まで、そこに車庫を設けた(現在の四ツ木橋南交差点の南方。東向島5丁目39付近)。それと共に東武鉄道が盛り場の西南に玉の井駅(現、東向島駅、1924年開業)を設け、夜も12時まで雷門から6銭で客を運ぶようになると、町の形勢は裏と表と、まったく一変するようになった。荷風は、《今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた處が、今では端れになったのである》と書いている。
荷風の書くところによれば、それまで玉の井2部が中心であったが、その東の1部に近いところに改正道路ができたため、1部さらに改正道路沿いの3部・4部・5部が開けてきたということになる。もちろん、これはバスの便によるもので、市電の終点から玉の井は改正道路を1km以上歩かなければならなかった。また、東武玉の井駅からは2部も4部も距離的にほとんど変わらない。したがって、荷風の対比しようとするほど、逆転があったとも思われず、改正道路開通によって、玉の井が拡大した感がある。荷風も、《それでも銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷の如きは、いづれも以前のまゝ大正道路に残っていて、俚俗広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。》と書いている。
小説にゼミのレポートのような内容が入り込むのも、いかにも荷風らしい。地理屋の心をくすぐるものであるが、荷風の言いたいことは、《このような辺鄙な新開に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。況や人の一生に於いておや。》という一文に込められている気がする。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第51回 濹東綺譚⑧

四に入ると、大江が書こうとしている小説『失踪』の一節。玉の井のことも少し出てくるが、つぎへの伏線であろう。
冒頭、《吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合しているのである。》と、主人公種田順平は隅田川に架かる吾妻橋の上にいる。上流の浅草側には、1931年の東武鉄道浅草雷門駅(現、浅草駅)開業にあわせて建てられた松屋浅草店が、八階建ての巨大な壁のように立っている。船で言えば船首にあたる、正面の上に時計塔がそびえている。このデパート、屋上にスポーツランドがつくられていた。
橋の上には円タクの他には、電車もバスも通っていないというから、かなり遅い時刻である。いつもは駒形橋を渡っていくというすみ子が思ったより早くやって来て、とりあえずすみ子のアパートへ。「歩いたって、停留場三つぐらいだから、円タクに乗ろう」ということで、吾妻橋を渡り終らぬうちに、秋葉神社前まで30銭で行くというタクシーが見つかって、二人は乗り込む。
吾妻橋から浅草通り、三ツ目通りへ折れて北進。水戸街道(国道6号線)へ出て、向島を1丁目から2、3、4丁目。ここに秋葉神社がある。《「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」「向島の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」》と、二人の会話。ここに市電(向島線)が開通したのは1931年であるから、当時はまだ新しい路線だった。秋葉神社は現在の向島4丁目9にあり、参道の目の前が向島の終点になっていた。
ところがここでやっかいなことが起きる。と言って、作品の中のことではない。『東京紅團』(ネット)の「荷風 寺じまの記」に掲載された、1933年の寺島町付近の地図には、市電の終点向島は寺島町2丁目に書かれており、先ほどの秋葉神社前の市電終点向島は「向島須崎町」に改名されている。玉の井も含め寺島町一帯が東京市に編入され、向島区になったのは1932年である。明治通りの手前で、向島区役所もつくられ、府立第七中学校も至近の距離であるから、市電が延伸されても不思議はない。
「問題は、丁寧に現地を取材する荷風が、どうしてそれを把握していなかったかということである。」と思いつつ、1936年9月19日付『断腸亭日乗』に目をやると、《電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。》と書いてあるから、1936年においても市電の終点は向島秋葉神社の前にあったことは間違いない(9月30日付にも、《向嶋終点に花電車の停留するに会ふ。》の記述がある)。さらに、ウイキペディアの「東京市電」に関する記述では、向島(向島須崎町)から寺島町(寺島町2丁目)の開通時期を1950年12月25日としている。この1950年5月1日現在の東京都電路線図は、本所吾妻橋から向島線に入った都電(30系統)は、言問橋、向島3丁目と停留所を過ぎ、向島終点になる。寺島町まで都電は行っていない。
以上から、『東京紅團』の「荷風 寺じまの記」に掲載された、「1933年の寺島町付近の地図」において、少なくとも市電の情報は誤りということになるのだが、向島区役所がしっかり書かれているから、1932年から1947年までの間の地図であることは疑う余地がない。どうしてこのようなことになってしまったのか。謎の向島線、「求む情報!」である。

《「玉の井――こんな方角だったかね。」「御存じ。」「たった一度見物に行った。五六年前だ。」「賑よ。毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかかるわ。」「そうか。」》と会話しているうちに秋葉神社の前。
すみ子は《「ここでいいわ。はい。」と賃銭をわたし、「そこから曲りましょう。あっちは交番があるから。」神社の石垣について曲ると片側は花柳界の灯がつづいている横町の突当り。俄に暗い空地の一隅に、吾妻アパートという灯が、セメント造りの四角な家の前面を照している》。ここで出てくる交番は現在の本所警察署向島交番(向島4丁目1-5)で、当時も同じ場所、向島終点で下り、秋葉さん側の道を200mほど戻ったところ。荷風はよほど交番を意識していたようで、さまざまな作品に交番が登場する。交番の位置はあまり変化していないので、荷風の「交番恐怖症?」は私としては場所を特定するのに役立つ。秋葉神社の西側一帯は向島花街の一画になる。向島花街はここから隅田河畔にかけて広がっている。二人は現在の向島4丁目6と10の間を通って、22へ突き当たった。ここで左折すると交番の方へ出る。交番の方からも来ることができるので、左折して左手一帯のどこかに吾妻アパートが設定されたと思われる。
とにかく、女性の部屋に男がいる。アパートで引っ張られたという事件も発生している。このようなところへ警察にでも踏み込まれたら、私娼と間違えられて引っ張られる。このアパートの部屋も、そのように利用されていることもあるようだ。すみ子は一緒でも良いが、種田に迷惑がかかってはと言い、種田の方も玉の井の方でも行って泊まるというが、すみ子は「今夜は寝ないで自分の話しを聞いて欲しい」と言い始め、父親が暴力団で、それが嫌で東京へ出て来たと話し始める。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第50回 濹東綺譚⑦

三に入り、《路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀の日蔽をかけた家の前に立留った。》というように、結果的に大江はお雪に連れ込まれた。
荷風がお雪の家をここに設定したのは、「溝」「小橋」のある情景に惹かれたからであろう。その上で、荷風はお雪の家の住所を「寺島町七丁目六十一番地(二部)」と、ピンポイントで書き込んだ。現在の東向島5丁目27の一画である。溝も小橋もすでにない。住所には「安藤まさ方」とある。お雪が、《「いいえ、御主人は別の家よ。玉の井館ツて云う寄席があるでしょう。その裏に住宅があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」》と言っている御主人が安藤まさであろうか。お雪の家から少し行けば大正道路(現在の、いろは通り)に出て、右折すればすぐY字路に派出所があり、その先に玉の井館がある。その裏手には満願稲荷社などがある。
お雪は、荷風によって、《年は二十四五にはなっているであろう。なかなかいい容貌である。鼻筋の通った円顔は白粉焼がしているが、結立の島田の生際もまだ抜上ってはいない。黒目勝の眼の中も曇っていず唇や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壊されて居ないように思われた。》と描写されている。荷風がお雪の健康状態にまで言及しているのは、この世界に入った女性が健康を破壊されていく現実を見てきたからであり、同時に、お雪がこの世界に入って、まだそれほど長い年月を経過していないことを、読者に知らせる意図があったかもしれない。《リボンの簾越しに、両肌をぬぎ、折かがんで顔を洗う姿が見える。肌は顔よりもずっと色が白く、乳房の形で、まだ子供を持ったことはないらしい。》と、荷風の筆は進む。漱石にはこのような観察眼はなく、仮にあったとしても、このような表現はしないであろう。似たような表現をするとしたら、秋聲である。
けれども、つぎの一文はいかにも荷風らしい。《「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。わたくしは花柳病よりも寧チブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙くから精神的廃人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。「顔でも洗うの。水道なら其処にあるわ。」と女の調子は極めて気軽である》。
荷風は『すみだ川』で長吉を腸チフスに罹らせているが、チフスのような伝染病を恐れている文豪は、何と言っても鏡花が筆頭だろう。しかしながら、漱石も三女栄子が赤痢に罹ったのをきっかけに水道を引こうと考えているし、秋聲の長女瑞子は疫痢で亡くなっている。このような劇症の伝染病を恐れるのは万人共通と言えるだろう。荷風の他と異なる点は、チフスなど伝染病に比べれば、梅毒など花柳病は恐るに足りないと言い放っているところである。
荷風は作品を書くためと称して、玉の井に何度も足を運び、取材したのであろう。私娼窟「玉の井」について、《この盛場の女は七八百人と数えられているそうであるが、その中に、島田や丸髷に結っているものは、十人に一人くらい。大体は女給まがいの日本風と、ダンサア好みの洋装とである》。この小説。小説と言うより、どことなくドキュメンタリー風。お雪は十人に一人の少数派である。
大江は結局、1時間と決めた客になり、「また近い中に出て来よう」と言って、お雪の家を去る。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第49回 濹東綺譚⑥

荷風が初めて玉の井を訪れたのは1932年1月22日で、荒川放水路をさかのぼって、四ツ木橋の方から南西に下って玉の井に入った。1936年5月16日付の『断腸亭日乗』には、「玉の井見物の記」と題した一文があり、冒頭、《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり。その時には道不案内にてどの辺が一部やら二部やら方角更にわからざりし》と記されている。
続いて、《先月来しばしば散歩し備忘のため畧図をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらゐの汚なさなり。西洋寝台を置きたる家尠からず。二階へ水道を引きたる家もあり。また浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴するといふ。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円。一寸の間は壱円より弐円までなり。路地口におでん屋多くあり。》と書いて、その後へ、おでん屋で話しを聞けば、「どの家の何という女はサービスが良いとか悪いとか」知ることができると、具体例を紹介している。寺島町七丁目何番地〇〇方まで書いてある。
さらに、《警察にて検梅をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部といふ順序なり。検梅所は玉ノ井市場側昭和病院にて行ふ。入院患者大抵百人以上あり 女の総数は千五、六百人なり 入院料一日一円なり。》と、荷風は私娼に対しても梅毒検査がおこなわれていたことを記しているが、玉ノ井市場は東武「東向島」駅の東、現在の国道6号線に沿う東向島5丁目4に、昭和病院は5丁目16(向島保健センターのあるところ。東京墨田看護学校向い)にあった。
「玉の井見物の記」は私娼の置かれた状況についても、《女は抱えといはず出方さんといふ。東北の生れの者多し。越後の女も多し。前借は三年にて千円が通り相場なり。半年位の短期にて二、三百円の女も多し。この土地にて店を出すには組合へ加入千円を収め権利を買ふなり。されど一時にまとまりたる大金を出して権利を買ふよりも、毎日金参円ヅツを家主または権利所有の名義人に収める方が得策なり。寝台その他一切の雑作付きにて家賃の代りに毎日参円ヅツを収るなり。その他聞く処多けれど畧して記さず。》と、まるで私娼窟研究の聴き取り調査メモのようである。

9月7日付の『断腸亭日乗』では、《言問橋をわたり乗合自動車にて玉の井にいたる。》との記述の後、お雪を思わせる女性の記述が登場する。
《今年三、四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人ゐるのみにて抱主らしきものの姿も見えず、下婢も初の頃にはゐたりしが一人二人と出代りして今は誰もゐず。女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四、五。上州訛あれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌、こんな処でかせがずともと思はるるほどなり。》《女は店口の小窓に坐りたるまま中仕切の糸暖簾を隔てて話する中、女は忽ち通りがかりの客を呼留め、二階へ案内したり 姑くして女は降り来り、「外出」だから、あなた用がなければ一時間留守番して下さいと言ひながら、着物ぬぎ捨て簞笥の抽出しより何やらまがひ物の明石の単衣取出して着換へ始める故、一体どこへ行くのだと問へば、何処だか分からないけれど他分向嶋の待合か円宿だらう。一時間外出は十五円だよ。お客ほど気の知れないものはない。》などと、まだまだ続く。やっと女が帰ってきて、《早や十一時近くなりたればまた来るよとてわれは外に出でぬ。留守中にかきしこの家の間取り左の如し。》
荷風は女遊びが目的なのか、取材が目的なのか、判然としないが、「日乗」の記載があまりにも小説的であるので、日記には荷風の作話が入っているのではないかと、疑いたくもなる。

                     (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第48回 濹東綺譚⑤

大江は京成白鬚線の跡にいる。
《線路に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかゝった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている》。
京成白鬚線。向島・白鬚間1.4kmを結び、途中、長浦と玉の井の2駅あった。1928年に開通したが、当初、隅田川を越えて王子電気軌道と結ぶ予定が頓挫し、利用客は少なく、1936年3月1日に廃止された。『濹東綺譚』が書き上げられたのは1936年11月。まさに廃線の年である。「去年頃まで」と書かれているのは、1937年に発表する際、手直ししたものであろう。
廃線跡をバス専用道に転用する計画も頓挫し、結局、宅地として売却された。したがって今日、路線の跡をたどるのはきわめて困難である。
1936年9月22日付の『断腸亭日乗』は、さらに、《子供のあそぶ姿の見えたれば石段を登りセメント敷のプラットフォーム跡に佇立するに、西方にはかの安田別墅の林樹眼界を遮り、空には高く七、八日頃の月浮びたり。土手の下の南方に立派なる屋敷二、三軒石の塀を連ねたり。これ噂に聞きし玉の井娼家主人の住宅にて玉の井御殿と呼ばるるものなるべし。》と続けている。荷風は「月」に対する関心が強く、作品中でもそれがうかがえる。
京成玉の井駅は京成「向島」駅から行くと、東武鉄道を鉄橋で跨ぐ手前にあった。京成が後からできたので、土手を築いて高架にしていた。そのため、東武玉の井駅側に土手を上ってホームに行く階段がつくられていた。「崩れかかった石段」がこれにあたる。駅には上下線にホームがあったから、駅構内はある程度広く、「広い草原」に見えたであろう。現在の国道6号線から分かれて、東京墨田看護専門学校の前を通り、玉の井の五差路に達する道は、玉の井駅のすぐ東で、コンクリート製のトンネルをくぐって、土手を越えていた。
『断腸亭日乗』にも記されているが、駅前には「玉の井御殿」があった。これは遊興施設ではない。玉の井の私娼たちは借家・借間で客をとって営業していたが、地主・家主たちは賃料などから莫大な収入を得て、立派な家を建て、それらが「玉の井御殿」と呼ばれ、こうした御殿を持つ者は15~16人に達したと言う。
駅前の御殿もそのひとつであった。
荷風が訪れていた頃、早々とレールは撤去されていたが、東武鉄道を跨ぐ鉄橋はまだ残っていたようだ。土手がいつ撤去されたかわからないが、土手上に住宅が建てられた可能性は少ないようなので、早くに撤去されたのではないだろうか。
《わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。》と、ここから大江が見た玉の井近辺の描写が続く。要約すると、眼の下に遮るものもなく、今歩いて来た道と空地と新開の町とが低く見渡され、土手の向う側はトタン葺きの陋屋が秩序もなく、端もなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の煙突(この湯屋、つまり銭湯は「松の湯」として実在した)が屹立して、その頂に七八日頃の夕月が懸っている(『断腸亭日乗』にも記されている)。空の一方には夕栄の色が薄く残っていながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺きの屋根の間からはネオンサインの光と共にラジオの響きが聞え始める。大江は足元が暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内がすっかり見下されるようになったので、草の間に残った人の足跡を辿って土手を降りた。
《すると意外にも、其処はもう玉の井の酒場を斜に貫く繁華な横町の半程で、ごたごた建て連った商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通」など書いた灯がついている。》と、まんまと荷風に玉の井の街の中に連れて来られた。荷風というか大江がたどり着いた「玉の井の酒場を斜に貫く繁華な横町」とは、玉の井で最も賑やかと言われた「賑本通り」(現在の平和通り)である。玉の井二部にあたる一画。大正堂薬局の向かいあたりから南へ伸びる道は改正道路(水戸街道、国道6号線)に通じ、そこには京成バスの東向島5丁目バス停があるので、「京成バス近道」にあたる。漫画家滝田ゆうの養家はこの道沿いにあった。白鬚線は、この「近道」から西側で土手を築いて玉の井駅にむけて上っていた。
《大分その辺を歩いた後、わたくしは郵便箱の立っている路地口の煙草屋で、煙草を買い、五円札の剰銭を待っていた時である。》と、ここで突然の雷雨。大江は傘を持たずに外出することなく、傘を広げていると、「檀那、そこまで入れてってよ。」と、女が傘の下に首を突っ込んでくる。これが大江とお雪の出会いである。もちろん、名前の知れるのはもう少し後になる。賑本通りを東へ行った、玉の井一部と三部の間、現在の東向島5丁目23あたりと推定される。
こうして大江はお雪について行く。
荷風は9月22日付の『断腸亭日乗』に、《土手を下りて細き道を横断すれば線路跡に沿ひたる色町に出づ。いつもの家に少憩し》と書き、日の暮れ果てし頃にこの家を去り、銀座へ出ている。この時すでに荷風はお雪のモデルとなる人物と昵懇になっていたようだ。

            (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第47回 濹東綺譚④

『濹東綺譚』は、作家大江匡が『失踪』という小説を書くため、取材をしたり、体験をしたりしていくという、鏡の中に鏡が写っているような小説である。
51歳で私立中学校の英語教師を辞めた種田順平が、退職金を受け取ったその日、行方をくらましてしまう。さて、どこへ失踪させようかと、大江は思案している。とりあえず、浅草駒形町のカフェーで働いている、かつて種田家の下女であったすみ子のアパートの一室に一晩泊めてもらう。その後、どうしようか……。
大江は、《これまで折々の散策に、砂町や亀井戸や、小松川、寺島町あたりの景況には大略通じているつもりであったが、いざ筆を着けようとすると、俄かに観察の至らない気がして来る》。そのようなわけで、大江は種田の失踪先を求めて、隅田川も越えてしまうのだが、荷風は大江の言葉を借りて、《巡査につかまり、路端の交番で厳しく身元を調べられた。この経験は種田の心理を描写するには最も都合の好い資料である。》と述べつつ、さらに《小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屡人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。》と続け、荷風文学の特色を自ら論じ、《且て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊郭の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊郭の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通いなすった甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなかろう。」と言われた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。》と結んでいる。

こうして、いよいよ大江は種田の失踪先を求めて、6月末のある夕方、梅雨はまだ明けていないが、朝からよく晴れた日、夕飯を済ませて、遠く千住や亀戸、足の向く方へ行ってみようと家を出る。日の長いころで、まだ黄昏ようともしていない。
《一先電車で雷門まで往くと、丁度折好く來合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。》と、大江はバスに乗る。
バスは吾妻橋を渡り、広い道を左折して源森橋を渡る。吾妻橋から400mほど行って、現在の三ツ目通りを左折して200mほど。北十間川に架かるのが源森橋。言問橋東交差点から北は国道6号線、通称水戸街道。この辺り、標高1m。1kmほど行くと、向島4丁目にある秋葉神社の前を過ぎ、またしばらく行くと、
《車は線路の踏切でとまった》。「しばらく」と言っても、実際の距離は1kmほど。線路は東武鉄道伊勢崎線。《踏切の両側には柵を前にして円タクや自動車が幾輌となく、貨物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる》。踏切は玉の井駅(1987年に東向島駅に改称)のすぐ南。このあたりは1966年から67年にかけて高架化が実現し、踏切は廃止された。東武鉄道の貨物輸送は2003年に全面廃止されたが、開業以来、貨物輸送は東武鉄道の中で重要な役割を果たしてきた。
大江がバスを下りて見ると、《白髭橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している》。この広い通りが明治通り。十字路は現在の東向島交差点。明治通りは震災復興事業として建設され、この地域では1932年に開通している。
《歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。》に続いて、この辺りを《ところどころ草の生えた空地があるのと、家並が低いのとで、どの道も見分のつかぬほど同じように見え、行先はどこへ続くのやら、何となく物淋しい気がする。》と描写した荷風は、大江の言葉を借りて、《わたくしは種田先生が家族を棄てて世を忍ぶ處を、この辺の裏町にして置いたら、玉の井の盛場も程近いので、結末の趣向をつけるにも都合が》良いと考える。かつての近郊農村地帯が労働者の街へとしだいに変貌していく、そのような地域に惹かれる荷風の一面が覗き見られる。
大江はさらに《一町ほど歩いて狭い横道へ曲って見た》。そのあたりは、《自転車も小脇に荷物をつけたものは、摺れちがう事が出来ないくらいな狭い道で、五六歩行くごとに曲っているが、両側とも割合に小綺麗な耳門のある借家が並んでいて、勤め先からの帰りとも見える洋服の男や女が一人二人づつ前後して歩いて行く。遊んでいる犬を見ても首環に鑑札がつけてあって、左程汚らしくもない。》と描写は細かく、しかもその視点は私が知る限りの他の作家にはみられないものである。大江は《忽にして東武鉄道玉の井停車場の横手に出た》。
《線路の左右に樹木の鬱然と生茂った広大な別荘らしいものがある。》と書いた荷風は、《むかし白髯さまのあたりが寺島村だという話をきくと、われわれはすぐに五代目菊五郎の別荘を思出したものであるが、》として、《そゞろに過ぎ去った時代の文雅を思起さずには居られない。》と続けている。
この別荘、『断腸亭日乗』に、《東武電車玉の井停車場の西方に樹木鬱蒼たる別墅
の如き一構あるを見、その方に歩みを運ぶ。人に問ふに安田銀行の別荘なりといふ。》(1936年9月22日)ものであろう。文章は《京成電車もと玉の井停車場はいつの頃よりか電車の運転を中止し既に線路と共に待合所の建物をも取払ひたれば、線路敷地の土手に芒生茂り、待合所の礎石プラットフォームに昇る石の階段のみ雑草の中に聳立ちたるさま城塞の跡の如し。》と続き、いよいよ京成白鬚線が登場する。京成白鬚線が廃止されたのは、1936年3月1日であるから、半年ほどですっかり荒れ果てたことが読み取れる。

耳門:くぐりもん。ここでは「くぐり戸」を表していると考えられる。
犬の鑑札:東京では1919年から狂犬病予防接種の集団接種が始まっているが、大震災の混乱によって狂犬病の発症が増加し、1925年から飼い犬の狂犬病予防接種と野良犬の取締が強化された。人間の致死率もきわめて高い病気で、荷風も警戒していたかもしれない。それとともに、荷風は犬の鑑札を取り上げることで、その地域の「民度」を表そうとしたのだろう。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第46回 濹東綺譚③

《日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのが煩いので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町を擇み擇み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋の灯が見えるあたりへ出た》。どうやら今戸橋あたりまで来たようだ。大門から1kmほどである。電車の通る吉野通りを横断したと思われるが、省略されている。
《川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径に沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた》。今戸橋一帯の隅田川沿いは震災復興公園のひとつである隅田公園になっている。むこうに見える言問橋も震災復興橋梁のひとつである。わざわざこのようなところまで来なくても良いようだが、荷風が二において、《わたくしは東京市中、古来名勝の地にして、震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った、其状況を描写したいが為に、種田先生の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草のはずれ。さもなくば、それに接した旧郡部の陋巷に持って行くことにした。》と主人公大江に語らせているので、震災後出現した隅田公園と言問橋を、荷風はどうしてもこの『濹東綺譚』に登場させたかったのだろう。
ところで、荷風が「川端の公園は物騒」と書いたのは、《夜隅田公園を歩む。芝生腰掛池のほとりなど処を択ばず殆ど裸体にひとしき不体裁なる身なりの男大の字なりに横臥するを見る。これ不良の無宿人にはあらず。散歩の人ならずば近巷の若い者なるべし。女を連れ歩むものまた尠からず。およそ東京市内の公園は夏になればいづこも皆かくの如く、紙屑とばななの皮とのちりばりたるが中に、汚れたるシャツ一枚の男の横臥睡眠するを見るなり。》(9月7日付の『断腸亭日乗』)という、実際の見聞にもとづくものであろう。荷風の助言によって、大江は隅田公園を避けたと言える。
鎖の引廻しは公園のしきりになっていたものだろうか、そこに腰掛けて荷物の整理をしていた大江は、不審者として巡査に声をかけられ、近くの交番へしょっ引かれて行く。《道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髭橋の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁である》と、交番の位置は地図を見るかの如く、正確に書かれている。つまり、南千住へむかう道は吉野通り、白髭橋へむかう道は現在の都道314号線(石浜通り)。この二つの道路が分岐する三角地に交番がある。明治期にはなかったものだが、荷風も「川端の公園は物騒だ」と書いているので、震災後、隅田公園などがつくられたのを契機に、設置されたのだろう。現在も浅草警察署聖天町交番として存在している。「浅草公園裏の大通」というのは言問通りである。
戸籍抄本と印鑑証明書を持っていたおかげで、明治12年生まれ(つまり荷風と同じ年の生まれ)、58歳の大江匡は豚箱へ入れられずに済み、麻布区御箪笥町1丁目6番地の自宅へ帰った。
ところで、麻布区御箪笥町1丁目6番地とはどこにあるか。番地まで書いたのでは差しさわりがあるのではないか。麻布区御箪笥町は、厳密には「麻布区箪笥町」。現在の六本木1丁目、首都高速道路谷町ジャンクションがあるあたり。何やら荷風の住む偏奇館に近いような。実は、箪笥町に1丁目・2丁目と言った丁目はない。そして、偏奇館は箪笥町の東に隣接する市兵衛町1丁目6番地である。つまり、二つの町の住所を合体させたものだが、生まれ年も同じであり、「大江匡は、実はわたくしです。」と言っているようなものである。「地理屋」は妙なところに関心を持つが、そうすると見えてくるものがある。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第45回 濹東綺譚②

大江匡は浅草にいる。夕風も追々寒くなって来たある日、大江は活動小屋(映画館)の入口の看板を一軒一軒見尽して、公園のはずれから千束町へ出た。《右の方は言問橋左の方は入谷町》と言うから、花やしきの裏手辺りの言問通りへ出たのだろう。荷風は人物の位置情報をきちんと提供してくれるから、地理屋はこのようなところに惚れこんでしまう。どっちへ行こうか思案している大江はポン引きに声をかけられ、断りの文句に「吉原へ行く」と言ってしまったものだから、その方向にむかって歩き始める。おそらく現在の千束通りにあたる道筋だろう。
大江はこの先に古本屋のあることを思い出す。《古本屋の店は、山谷堀の流が地下の暗渠に接続するあたりから、大門前日本堤のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。》と、かなり具体的に書かれている。さらにこの裏通り、《山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、》と描写されるので、浅草の方から来れば、日本堤を越え、東側を流れる山谷堀を渡って、この堀に沿う道である。山谷堀のむこうに日本堤があり、堤の上に住宅が建ち並んでいるが、堤上が表通りになるので、住宅は堀を背にすることになる。片側町の方は、《土管、地瓦、川土、材木などの問屋の間に稍広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気な小家がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などという橋の灯がわずかに道を照すばかり。》と、詳しく描かれている。このような調子で行ったら、玉の井へ何時着くかわからない。荷風が山谷堀に架かる橋の名前を記したので(紙洗橋は髪洗橋と記されている)、古本屋がある裏通りに面した片側町は、地方橋から正法寺橋の間、現在の東浅草1丁目15・12・5・6・3一帯と考えられる。この辺りで夜も割合におそくまで灯をつけている家は、《かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。》という。
古本屋でのやり取りも詳しく描かれるが、《主人は頭を綺麗に剃った小柄の老人。年は無論六十を越している。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町生粋の風俗を、そのまま崩さずに残しているのが、わたくしの眼には稀覯の古書よりも寧ろ尊くまた懐しく見える。震災のころまでは芝居や寄席の楽屋に行くと一人や二人、こういう江戸下町の年寄に逢うことができた――たとえば音羽屋の男衆の留爺やだの、高島屋の使っていた市蔵などという年寄達であるが、今はいづれもあの世へ行ってしまった。》《「明治十二年御届としてあるね。この時分の雑誌をよむと、生命が延るような気がするね。魯文珍報も全部揃ったのがあったら欲しいと思っているんだが。」》といった記述に、荷風の思いが伝わってくる。これがやはり荷風の魅力であろう。
これも60余りの禿げ頭の男が入って来て、今日はすんでのことで殺されるところだったと言い、《「お守が割れたおかげで無事だった。衝突したなア先へ行くバスと円タクだが、思出してもぞっとするね。実は今日鳩ケ谷の市へ行ったんだがね、妙な物を買った。昔の物はいいね。さし当り捌口はないんだが見るとつい道楽がしたくなる奴さ。」》と、風呂敷包を解き、女物らしい小紋の単衣と胴抜の長襦袢を出して見せる。結局、大江は《古雑誌の勘定をするついでに胴抜の長襦袢一枚を買取り、坊主頭の亭主が芳譚雑誌の合本と共に紙包にしてくれるのを抱えて外へ出た》。

『断腸亭日乗』を読んでいると、このような場面を描く基礎になったと思われる記述に遭遇する。1935年10月25日である。
荷風は3時過ぎ、丸ノ内の三菱銀行へ行き、その後、電車で浅草雷門。公園を散歩し、千束町を過ぎる時、この春一カ月ばかり荷風の家で雇っていた派出婦に会う。何やら『失踪』に出てくるすみ子のような。松竹座向い側の浅草ハウスというアパートに住んでおり、誘われるままに彼女の部屋にあがり、お茶を飲みながらアパートのようすを聞く。
日が暮れかかってきたので、アパートを出て、公園裏の大通りを歩いて待乳山に登る。山の側面は目下セメントにて工事中。聖天町に接する崖下は洋式の新公園に。山上の聖天の殿堂は新築落成したが、お百度を踏むものもいない。樹木は桜の若木20~30本植えただけである。
石段を下り、聖天町猿若町を歩いてみたが、町の様子はまったく変わって、昔の姿を思い返すこともできない。新築の今戸橋際から山谷堀の北岸を歩く。《堀は四、五町行きたるところにて尽きその先は土管にて地中に埋められたり。堀には新築の橋多し。第一は今戸橋、第二は聖天橋、第三は吉野橋、第四は正法寺橋、第五には山谷堀橋、第六は紙洗橋、第七は地方新橋、第八は地方橋、第九は日本堤橋にて、堀はこの橋の下より暗渠となるなり。》と、図が添えられている。
この後、荷風は《日本堤東側の裏町を歩み行く時、二間ほどの間口に古雑誌つみ重ねたる店あるを見たれば硝子戸あけて入るに、六十越したりと見ゆる坊主の亭主坐りゐて、明治廿二、三年頃の雑誌『頓智会雑誌』十冊ばかりを示す。聞き見るに宮武外骨の編輯する処小林清親のポンチ絵もあり、外骨氏重禁固三年の刑に処せられたる記事もあり。禿頭の亭主が様子話振りむかしの貸本屋も思出さるるばかり純然たる江戸下町の調子なれば、旧友に逢ひたる心地し、右の雑誌その他二、三種を言値のままにて購ひ、大通に出ればむかしの大門に近きところなり。》

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第44回 濹東綺譚①

わたくしは、とうとう隅田川を東へ越えて、向島の地に足を踏み入れてしまった。「元祖不良老人」と付き合うのは良くないかもしれないが、妙に荷風はわたくしを惹きつける。いや、表現の仕方が適切ではない。「妙にわたくしは荷風に惹きつけられる。」と、表現しなければならないだろう。

『濹東綺譚』は荷風の代表作のように言われる。けれども、話しの筋は至って単純で、何か山場があるわけでもない。私娼窟を描いたというものの、きわどい描写があるわけでもない。至って淡泊な表現である。大江匡という作家が、お雪とどの程度の関係をもっているのか、よくわからない。読者を惚れさせ、虜にさせるほどの描写も、お雪に対しておこなわれていない。しかも、最後の方へきて、編集後記のような文章が延々と続き、『濹東綺譚』全体の4分の1ほどを占めている。
この作品のどこが荷風の代表作なのか。と、言いながら、結局わたくしは作品の中に引き込まれてしまうのであるが、それは東京の地名がふんだんに登場し、東京の街が詳しく描写されているからである。わたくしが『濹東綺譚』に踏み込んでしまったのは、まさにこの点にある。作品をざっと概観、つまり「斜め読み」をして、わたくしはあっけなく引きずり込まれてしまった。

1931年の『つゆのあとさき』、1934年の『ひかげの花』と続いて、『濹東綺譚』が書かれたのは1936年である(発表は1937年)※。この間、1931年には満州事変が勃発し、翌年には満州国建国、5・15事件、1934年には東北地方で大凶作が発生し、多くの娘たちが身売りされた。そして、1936年には2・26事件、『濹東綺譚』が書き上げられた少し後の11月には日独防共協定が結ばれ、翌年には日中戦争が始まり、「昭和モダン」の影に、大きく成長した「戦争の時代」に突入していった。そのような時代背景を心に留めながら、主人公大江匡と一緒に玉の井をめざして行こう。

※荷風は『断腸亭日乗』に、《『濹東綺譚』起稿》(1936年9月21日欄外)、《秋陰昨の如し。終日執筆。命名して『濹東綺譚』となす。夜九時過銀座に往き久辺留に休み夜半にかへる。再び執筆暁二時に至る。静夜沈沈虫声雨のごとし。》(10月7日)、《『濹東綺譚』脱稿》(10月25日欄外)と記している。

(つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第31回――連載を終えるにあたって

今から100年前の1923年9月1日、関東大震災が発生した。東京の推定震度は5から7と、地域によってかなり差異がある。ここで取り上げた鏡花・秋聲・犀星・龍之介・藤村・荷風、この6人の文豪の自宅、および漱石山房。いずれも震度5と推定され、大きな被害はなかった。火災も鏡花・秋聲・藤村・荷風の4人の自宅にかなり迫ったが、焼失を免れた。すでに亡くなっていた漱石に関して言えば、旧養家塩原家は全焼した。
大震災の時、秋聲は金沢にいたため、直接体験することはなかったが、鏡花は火に追われて逃げ、露宿生活を体験した。荷風も用心して自宅前で露宿した。龍之介は余震がきても大丈夫と判断し、家族共々自宅内で過ごした。犀星は広場へ避難し露宿したが、出産した妻が入院中で安否が心配された。藤村はおそらく自宅内で過ごしたのだろう。

この大震災を文豪たちはどう受け止めたのか。鏡花や犀星、藤村について私は明確にすることができない。
秋聲は、《或地震学者は臆病になった市民が、科学の智識がないために、徒らに余震におびえて戸外へ出て寝てゐたのを非文明だと言って嗤ってゐるが》、大きな揺れの時に粗末な建物の中で安住していられないのは当然で、《その上悠久な地球の生命について、わづか三千年やそこいらの経験しかもたない我々の智識が、果して何程の権威をもつことができようか。》と述べ、《勿論我々はそれでも結構生きて行かれるには行かれる。生の不安と恐怖が、生活の歓びの裏づけとさえなってゐるのである。》としている。秋聲は大自然の中で生きる、人間の弱さと強さの視点から、この大災害を捉えている。私は秋聲の「地震論」「災害論」に納得である。
龍之介と荷風は「天譴論」から大震災を捉えている。
「天譴論」は、9月9日、東京商業会議所で開かれた実業家の集まりで渋沢栄一によって語られたものである。渋沢栄一は2021年、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で主人公として描かれ、2024年度から一万円札の顔になる。
渋沢は「今回の大震火災は日に未曾有の大惨害にして、之天譴に非ずや」「我が国の文化は長足の進歩を成したるも、政治、経済社交の方面に亘り、果して天意に背くことなかりしや否や」というくだりが、それにあたる。渋沢は常づね「私利を追わず公益を図る」ことを重視していたと言われ、9月10日の報知新聞には「経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか(略)この天譴を肝に銘じて東京の再造に着手せなければならぬ」との言葉が報じられている。
地震は自然のものとしても、これほどまでに大きな被害が出たのは、我々が「もうけ優先」で開発を進めて来た結果ではないか。これはまさに人間に対する天罰(現在では「人災」という言葉がよく使われる)。だから復興にあたっては、全体が益になることを考え、誰かがもうけるために事業をゆがめてはいけない、これが渋沢の主張であろう。
《この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり》と龍之介。天譴(てんけん)とは「天罰」と同義語である。龍之介は自身を省みて、脚にキズのない者などないだろうから、「天罰」と言われればそれまでだが、《されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし》と述べ、《否、天の蒼生に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず》と述べている。
龍之介は「天譴論」に賛同しているようだが、私利私欲で世の中をゆがめたのは一部の金持ち、権力者であって、力のない一般庶民まで罰を受けるのは、どう考えてみても不公平であると、納得いかないようである。
そこで龍之介は、つぎに《自然は人間に冷淡なり》と書き出して、《大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。》《自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり》と書いている。この文脈からは自然の公平性が見えてきて、先の文脈と矛盾するように思える。つまり、大震災を天の「罰」と捉えれば、罪もない人間までも被害を被るのは不公平であるが、「自然」と捉えれば、自然は分け隔てなく、人間に襲いかかる。きわめて公平に。それゆえ、きわめて容赦なく、冷淡に。要は「自然は人間に冷淡である」、このことを忘れてはならない、肝に銘ずべきであると主張しているように、私には捉えられる。この指摘は自然災害を考えるうえで、きわめて重要である。
荷風は、《帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。》《民は既に家を失ひ国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。》と、かなり具体的に「天譴論」を展開している。言い換えれば、明治以降の近代日本における政策について、かなり鋭い批判を加えている。
すべてを失った人、肉親を失った人。多くの困難と悲しみを抱えた人びとに対して「天譴論」は、追い打ちをかけるように傷つけるものであるが、逆に、そうした人びとを今後生み出さないためにも、「天譴論」が投げかけた真意はきちんと受け止めなければならないだろう。来年度から一万円札に渋沢栄一の肖像を見る時、この「天譴論」を肝に銘じたいものである。ただ、「災害は忘れた頃にやって来る」と同じく、一万円札も忘れた頃にやって来るのは残念である。

関東大震災のもうひとつの大きな教訓は、「デマ」である。それはある面、「悪意あるデマ」から出発し、「悪意と認識しないデマ」として拡散していった。SNSが日常生活に深く入り込んだ今日、この「デマ」の拡散は過去の出来事ではない。私は、関東大震災時に発生した朝鮮人などに対する虐殺事件の生々しさが身近に残る時期に秋聲が書いた『ファイヤガン』を、100年の時を経た今、多くの人に読んでもらいたいと思う。

東京大水害や関東大震災によって、江戸・東京の伝統が東京の街から広範に流されたり、焼き尽くされたりしていった。江戸・東京を懐かしむ鏡花、龍之介、荷風にとって、それは何とも衝撃的なことであっただろう。そして後に起きた東京大空襲は荷風に決定的な一打を与えたかもしれない。

                             (完)
《連載》文豪と関東大震災 第30回――荷風が描いた震災復興 上野

『上野』は1927年6月に書かれた。小説ではなく随筆と言って良いだろう。多くは明治の東京を紹介する内容などで占められているが、その中に埋められた震災後の東京を掘り起こしていきたい。

『上野』は、《震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。》という文章で始まる。樹木に囲まれた広大な敷地をもつ上野公園は、すぐ傍まで迫った猛火に焼かれることなく、多くの人びとの生命を救った。
荷風は続けて、《まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までと全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。》と、その変貌ぶりを描いている。
そのような中で、《一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖に花をつけているのを見た》。荷風は他にも谷中瑞輪寺の老桜、大行寺の垂糸桜なども猶すこやかと記している。この荷風の一連の文章、似たようなことを龍之介も書いていたような。『本所両国』における回向院の墓地の場面。墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられる。ただ、過去を留めている木々にほっとする荷風に対し、龍之介は「哀れ」と表現している。

『上野』は早くも終りに近づく。《わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。》と、引用が長くなったが、荷風は大きな提言をおこなっている。
要は明治になって寛永寺跡地は広大な公園になったが、その空間をねらっていろいろな施設がつくられ、狭くもなり、趣も失われた。それでも広大な敷地と樹木は多くの人びとの生命を、関東大震災の猛火から救った。これを考えれば大都市東京における広域避難場所としての空間はじゅうぶんでなければならない。荷風は学校(東京音楽学校・東京美術学校、今日の東京芸術大学)の園外移転などで空間を広げ、さらに谷中への公園の拡張を提言している。
荷風の提言をよそに、大震災後も上野公園内には、府立(都立)美術館、図書館、科学博物館、西洋美術館、東京文化会館、上野の森美術館などが建てられ、東京芸術大学も残っているし、上野高校もつくられている。ますます所狭しの状況になっている。もちろんこれだけ集まっていると、上野公園へ行けば、一日中、文化施設に接することができるわけで、計画もなく、フラッとやって来ても、何かしら催しものをやっている。また、大都会にあって、じゅうぶんに広い空間が確保されていると感じる。私にとって上野公園は魅力的であり、誇らしくも思い、これで良いように思いつつ、なぜか荷風の提言は捨てがたい。
捨てがたいと感じる大きな要因が、彼がけっして「もうけ主義」に走っていないこと。そして、彼なりの「都市デザイン」がしっかり頭の中にあること。彼が各所で書く「都市論」は一貫性があり、けっして思いつきでないこと。
それは上野駅に関する提言にも表れている。
上野公園地丘陵の東麓に上野駅がつくられたのは1883年。維新前は寛永寺の末寺が堂舎を連ねていた。荷風はこの上野駅について、《此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。》と書き、荷風は当初から上野駅や倉庫は《水利の便ある秋葉ケ原のあたりを卜して経営せらるべきものであった。》と続けている。この荷風の提言。すでに1890年、一部実施されていた。つまり秋葉原貨物駅の開設である。荷風はそれなら、ついでに旅客部門も秋葉原につくっておけば良かったのにと思ったのかもしれない。ただ、この貨物線の建設が地元住民の大きな反対があって難航した経緯がある。
結局、荷風は《新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如き》で、《都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。》と、半ば諦めた感があるが、大震災後の「帝都復興」のデザインが考えられていた時期を受けて、荷風もまた日頃考えていたことを、この『上野』に書き込んだのではないだろうか。
荷風のつぎの一文は痛烈である。《東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる》。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第30回――荷風が描いた震災復興 上野

『上野』は1927年6月に書かれた。小説ではなく随筆と言って良いだろう。多くは明治の東京を紹介する内容などで占められているが、その中に埋められた震災後の東京を掘り起こしていきたい。

『上野』は、《震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。》という文章で始まる。樹木に囲まれた広大な敷地をもつ上野公園は、すぐ傍まで迫った猛火に焼かれることなく、多くの人びとの生命を救った。
荷風は続けて、《まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までと全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。》と、その変貌ぶりを描いている。
そのような中で、《一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖に花をつけているのを見た》。荷風は他にも谷中瑞輪寺の老桜、大行寺の垂糸桜なども猶すこやかと記している。この荷風の一連の文章、似たようなことを龍之介も書いていたような。『本所両国』における回向院の墓地の場面。墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられる。ただ、過去を留めている木々にほっとする荷風に対し、龍之介は「哀れ」と表現している。

『上野』は早くも終りに近づく。《わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べた。明治時代の都人は寛永寺の焼跡なる上野公園を以て春花秋月四時の風光を賞する勝地となし、或時はここに外国の貴賓を迎えて之を接待し、又折ある毎に勧業博覧会及其他の集会をここに開催した。此の風習は伝えられて昭和の今日に及んでいる。公園は之がために年と共に俗了し、今は唯病樹の乱立する間に朽廃した旧時の堂宇と、取残された博覧会の建築物とを見るばかりとなった。わたくしをして言わしむれば、東京市現時の形勢より考えて、上野の公園地は既に狭隘に過ぐる憾がある。現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろう。》と、引用が長くなったが、荷風は大きな提言をおこなっている。
要は明治になって寛永寺跡地は広大な公園になったが、その空間をねらっていろいろな施設がつくられ、狭くもなり、趣も失われた。それでも広大な敷地と樹木は多くの人びとの生命を、関東大震災の猛火から救った。これを考えれば大都市東京における広域避難場所としての空間はじゅうぶんでなければならない。荷風は学校(東京音楽学校・東京美術学校、今日の東京芸術大学)の園外移転などで空間を広げ、さらに谷中への公園の拡張を提言している。
荷風の提言をよそに、大震災後も上野公園内には、府立(都立)美術館、図書館、科学博物館、西洋美術館、東京文化会館、上野の森美術館などが建てられ、東京芸術大学も残っているし、上野高校もつくられている。ますます所狭しの状況になっている。もちろんこれだけ集まっていると、上野公園へ行けば、一日中、文化施設に接することができるわけで、計画もなく、フラッとやって来ても、何かしら催しものをやっている。また、大都会にあって、じゅうぶんに広い空間が確保されていると感じる。私にとって上野公園は魅力的であり、誇らしくも思い、これで良いように思いつつ、なぜか荷風の提言は捨てがたい。
捨てがたいと感じる大きな要因が、彼がけっして「もうけ主義」に走っていないこと。そして、彼なりの「都市デザイン」がしっかり頭の中にあること。彼が各所で書く「都市論」は一貫性があり、けっして思いつきでないこと。
それは上野駅に関する提言にも表れている。
上野公園地丘陵の東麓に上野駅がつくられたのは1883年。維新前は寛永寺の末寺が堂舎を連ねていた。荷風はこの上野駅について、《此処に停車場を建てて汽車の発着する処となしたのは上野公園の風趣を傷ける最大の原因であった。》と書き、荷風は当初から上野駅や倉庫は《水利の便ある秋葉ケ原のあたりを卜して経営せらるべきものであった。》と続けている。この荷風の提言。すでに1890年、一部実施されていた。つまり秋葉原貨物駅の開設である。荷風はそれなら、ついでに旅客部門も秋葉原につくっておけば良かったのにと思ったのかもしれない。ただ、この貨物線の建設が地元住民の大きな反対があって難航した経緯がある。
結局、荷風は《新都百般の経営既に成った後之を非難するは、病の膏盲に入った後治療の法を講ぜんとするが如き》で、《都市のことを言うに臨んで公園の如き閑地の体裁について多言を費すのは迂愚の甚しきものであろう。》と、半ば諦めた感があるが、大震災後の「帝都復興」のデザインが考えられていた時期を受けて、荷風もまた日頃考えていたことを、この『上野』に書き込んだのではないだろうか。
荷風のつぎの一文は痛烈である。《東京の都市は王政復古の後早くも六十年の星霜を閲しながら、猶防火衛生の如き必須の設備すら完成することが出来ずにいる》。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第29回――藤村が描いた震災復興 『分配』

『分配』という題。何を「分配」するのか、ひょっとしたら遺産相続の「分配」かと思ったら、藤村の印税の「分配」だ。
1923年の関東大震災によって、東京の出版社や本屋も大きな被害を受け、庶民一般も本を買うどころではない苦難に落とし入れられた。そのような中で、改造社は1926年、1冊1円の「現代日本文学全集」の刊行に踏み切った。1冊1円。当時の大学出の初任給が50円~60円という時代に1円というのは、収入の2%に当たり、けっして安いものではないが、当時の本はもっと高かったので、割安感があり、「円タク」に倣って「円本」と呼ばれ、大いに売れ、震災後の出版業界立て直しのきっかけになった。著名な作家たちの生活と仕事を支えたことは言うまでもない。
藤村もそのような恩恵を受けた一人である。「明治大正文学全集」の1冊として配本される「島崎藤村」の予約数をもとにした印税(12%)のうち、社預かり分3%を除いても、2万円ほどのカネを一括して手に入れることになった。現在の金額に当てはめることは難しいが、大学出の初任給50円を20万円とするならば、8000万円ほどになる。『分配』はこれを4人の子どもたちに公平に一人5000円ずつ「分配」する話である。4人の子どもに対する藤村の分け隔てない思いが伝わってくる一方、生活に窮する身からすれば、「格差社会」を見せつけられる思いもする。
藤村も震災後の状況に、『分配』を書くことに多少なりとも気が引けたのだろう。つぎのように書いている。

―― 不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。――

あえて私がこの箇所を引用したのは、「今」を感じさせるからである。
「私」のところへも、物乞いに来る者が現れ、《年も若く見たところも丈夫そうな若者が、私ごとき病弱な、しかも年とったもののところへ救いを求めて来るような、その社会の矛盾に苦しんだ》。と言いつつ、恵んでやる「私」。《私たちの家の婆やは、そういう時の私の態度を見ると、いつでも憤慨した。毎月働いても十八円の給金にしかならないと言いたげなこの婆やは、見ず知らずの若者が私のところから持って行く一円、二円の金を見のがさなかった》。
婆やが憤慨するのももっともだが、それに追い打ちをかけるように、《そういう私たちの家では、明日の米もないような日がこれまでなかったというまでで、そう余裕のある生活を送って来たわけではない》と「私」は言う。《子供らが大きくなればなるほど金がかかって来て、まだ太郎の家のほうは毎月三十円ずつ助けているし、太郎の家で使っている婆さんも給金も私のほうから払っているし、三郎が郊外に自炊生活を始めてからは、そちらのほうにも毎月六十円はかかった。次郎や末子というものも控えていた。私も骨が折れる。でも、私は子供らと一緒に働くことを楽しみにして、どんなに離れて暮らしていても、その考えだけは一日も私の念頭を去らなかった》。
「親バカ!子どもを自立させなさい!」「そんなことしていたら、余裕ないのは当たり前でしょう」。このような声が聞こえてきそうだ。『分配』はあくまでも小説である。けれどもここに書かれたことを現実と捉えるなら、藤村は小説家をめざす中での困窮時代、三人の子どもを相次いで死なせ、その背負った重荷を四人の子どもたちに還すことで償いたいと思ってきたことだろう。するのが当たり前、義務とさえ思っていたかもしれない。加えて、こま子との一件。少なからず子どもたちを傷つけたであろう。ここでも藤村は子どもたちに償わなければならない。明らかにしなくても良い個人情報を明らかにして小説を書き、子どもたちからも離れて小説を書き、まさに子どもたちを犠牲にして小説を書き、小説家としてそれなりの地位と収入を得るようになった。これを「前向き」に表現するならば、子どもたちとの「共同作業」によって、作家島崎藤村が出来上がった。その収入を皆で分け合うのは当然のことではないか。
かくして、4人の子どもは、一人5000円ずつ手に入れることになった。為替で送金した太郎の分を除いて、5000円の定期預金が三人各名義でつくられた。太郎にも《この金を預けたら毎年三百円ほどの余裕ができましょう》と手紙にしたため、同様にするようほのめかしている。
大正から昭和初期にかけて、郵便貯金の利率は年4.8%である。5000円預ければ毎年240円の利子が入る。大学出の初任給で言えば5か月分ほど、婆やの1年分の給金より多い。太郎には利子が年に300円ほど入ると書いているので、「私」は郵便貯金より利率の良い金融機関に預けたのだろう。
『分配』の内容はきわめて現実的である。こうなってくると、ここまで具体的に書いて「税務署」の方は大丈夫なのかと、他人事ながら心配になってくるが、当時、贈与税はなかった。翌1928年、藤村が加藤静子と結婚することを合わせて考えれば、この臨時収入を子どもたちに分けることによって、援助にひとつの区切りをつけたいと考えたのかもしれない。利子だけでも、子どもたちへの少なからぬ援助となる。それにしても、この低金利の当世。2000万円預けて、一年でいったいどのくらいの利子が入るだろうか。

飯倉片町については、『新生』にも書いた。麻布台の南端に位置する飯倉片町。南の古川の谷筋へえぐれた地形を下る鼬坂。その入り口に近いところに藤村たちの家がある。
定期預金をつくるため、銀行へ行く「私」。《自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った》、《「新橋の手前までやってください。」と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた》。
この後、現在の経路で表現すると、桜田通りから外堀通りを通って新橋へ。《私たちを載せた車は、震災の当時に焼け残った岡の地勢を降りて、まだバラック建ての家屋の多い、ごちゃごちゃとした広い町のほうへ、一息に走って行った》。関東大震災で麻布台の方は火災を免れたところが多いが、下町は軒並み焼けている。《大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の》銀行でおカネを引き出すと、《私たちの乗る車はさらに日本橋手前の方角を取って、繁華な町の中を走って行った》。こうして、今度は地方銀行の支店へ。ここもバラック風の建物である。この後、《私は京橋へんまで車を引き返させて》銀行へ入り、さらに自宅近くの銀行へ。
「銀行のはしご」をした「私」。

――それにしても、筆執るものとしての私たちに関係の深い出版界が、あの世界の大戦以来順調な道をたどって来ているとは、私には思えなかった。(略)私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。

「小説は創作」。この観点からすれば、藤村の小説は「ほんとうに小説なのか」と思うこともあるが、自分には絶対に書けない優れた文学作品であり、やはり「文豪」なのだ。それにしても、当時、スキャンダルにまみれた秋聲そして藤村。その作品から伝わってくる「子どもたち」への優しい眼差し、優しい思いはいったい何なのだろうか。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第28回――龍之介が描いた震災復興 『本所両国』③

船橋屋から蔵前橋通りを少し西へ行くと、横十間川に架かる天神橋。ここで二人は円タクに乗るが、一帯は《もう今昔の変化を云々するのにも退屈した》という状態。円タクは精工舎を過ぎた辺りで左折し、現在の四ツ目通りにあたる道を南下し、総武線を越えて右折。右側一帯が本所駅(錦糸町駅)構内。大横川にぶつかるところで左折すると、まもなく龍之介の母校第三中学校(現、両国高校)である。龍之介が通っていた頃は鼠色のペンキを塗った二階建の木造校舎だったが、震災で焼失して、鉄筋コンクリートに変っている。この時、新校舎は未完成で、龍之介が亡くなって4か月ほど経った11月に落成記念をおこなっている。
学校の前を通り過ぎ、大横川に架かる江東橋を渡り、本所緑町へ。《江東橋を渡った向うもやはりバラックばかりである》。震災の後、この地域はまだ復興途上というか、仮設のままであったことがよくわかる。龍之介は円タクの窓越しに、赤さびをふいたトタン屋根だのペンキ塗りの板目だのを見ながら、明治43年(1910年)の水害のことを思い出していた。この水害は水害常襲地のこのあたりでも未曾有のもので、龍之介の家は床下浸水だったが、緑町2丁目は膝くらい。見舞ったSという友達と、他の友達のところへ見舞いに行く途中、Sが溝に落ち、あっという間に首までつかって、龍之介が笑ってしまったという話しも添えられている。江東橋界隈の人々は第三中学校へ避難したとか。
円タクは現在の京葉道路のルートを走る。《僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った》というから、龍之介たちは現在の緑1丁目交差点で円タクを降り、京葉道路を両国橋にむかって歩いたことになる。
二つ目通り、現在の清澄通りを横切ると、いよいよ相生町。元町通り、現在の京葉道路を両国橋にむかって少し行くと、左側に本所警察署がある。《本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に変っている。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦の建物だった》と書いてあるが、当時は本所相生警察署が正式名称で、大震災で署の建物が焼失しただけでなく、人命救助にあたって署長以下34名が殉職している。建物は赤煉瓦からコンクリートに変わり、龍之介の死後、1929年に本所両国警察署に改称された。東京大空襲で今度は6名が殉職し、その年、名称が本所警察署に戻った。長らく本所相生町10番地(現、両国4丁目29-5)にあった本所警察署は2013年、横川4丁目8-9に移転した。
《僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかった》と、龍之介たちは当時、回向院の東隣にあった国技館までやって来た。元町通り(現、京葉通り)と馬車通りに挟まれた位置にある。震災で焼失したが、翌年には早くも再建し、夏場所を開催している。龍之介はここで、《僕の通っていた江東小学校は丁度ここに建っていたものである。現に残っている大銀杏も江東小学校の運動場の隅に――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた》と、私にとっては意外なことを書いている。現在の両国小学校は相生小学校や江東小学校を引き継いだもので、明治期から現在地に建っている。龍之介の母校として龍之介の文学碑もある。この地が龍之介の通ったところであると、少なくとも私は承知してきた。ところが1898年に入学した当時、江東小学校は回向院の東隣にあり、その後、常設の相撲小屋を建設するため、学校は現在の両国小学校の位置へ移転し、1903年に常設館の建設が始まり、後に国技館と命名された。新旧江東小学校の間に吉良邸があった。なお、「江東(こうとう)小学校」は「高等(こうとう)小学校」と同音で、紛らわしいため、龍之介が卒業した後のことになるが、「江東(えひがし)小学校」と呼称が変えられている。
龍之介はこの取材をする少し前、小学校時代のT先生を訪ねていた。当時の校長は震災で亡くなったが、女生徒に裁縫を教えていた先生も、割下水(南割下水、現在の北斎通り)に近い京極子爵家の溝の中で死んでいたことがわかった。着物は腐れ、体は骨になっていたが、預金帳だけは残っていたので誰か分かったという。ついでながら、旧但馬豊岡藩主の家柄になる京極子爵家は亀沢町2丁目にあり、当主京極高義は震災時、むかいの陸軍被服廠跡地に避難しようとして死去。母・妻・二女・三女・二男・三男も亡くなった。二女孝子は14歳、三男高弘は6歳だった。長女智子、長男高光の二人が残された。この界隈の惨状が知られる。
いよいよ回向院。震災で焼失して、まだバラックである。龍之介は真っ先に鼠小僧の墓へ行った。乞食が3,4人。明暦の大火による焼死者を葬ったのが起源だけに、その後の大火や震災で亡くなった人たちを葬るようになり、人間はもちろん、犬、猫をはじめ、さまざまな生き物を供養する、特色ある寺院になっていった。盗人の墓があるのも、命の平等ということであろうか。
墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられるが、龍之介は「哀れ」と表現している。
龍之介たちは回向院の表門を出て、左手へ元町通りを進み、まもなく左折して一の橋通りを南下して一之橋へ。途中に坊主軍鶏がバラックのたたずまい。現在も「ぼうず志ゃも」として同じ場所(両国1丁目9-7)に営業している。
一之橋の辺りは大正時代には幾分か広重らしい画趣をもっていたが、今日ではそんな景色は残っていないと龍之介。震災が風情を一変させてしまったのであろう。そこに偶然、「泰ちゃん」の家の前を通りかかった。小学校時代、龍之介も、二、三年前に故人になった清水昌彦君の作文も大抵美文だったが、下駄屋「伊勢甚」の息子木村泰助君の『虹』という作文は生き生きした口語文で、先生はこれを一番にした。ひそかに自分の作文を一番と信じていた龍之介は、しかし『虹』という作文を聞いて敗北を認め、《僕を動かした文章は東西にわたって少なくはない。しかしまず僕を動かしたのはこの「泰ちゃん」の作文である》と記して、《若し「泰ちゃん」も僕のようにペンを執っていたとすれば「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を読んでいたかも知れない》と続けている。龍之介は店の中に「泰ちゃん」のお母さんらしい人が座っているのを見つけたが、泰助君は生憎どこにも見えなかった。

この文章は付録のようだが、龍之介の父(養父の芥川道章)・母(養母のトモ)、伯母(実母の妹にあたる芥川フキ)、妻(旧姓塚本文)に龍之介を加えた会話である。まもなく龍之介、翌年には道章が亡くなるのであるから、じつに貴重な会話である。
僕「きょう本所へ行って来ましたよ。」
父「本所もすっかり変ったな。」
母「うちの近所はどうなっているえ?」
僕「どうなっているって……釣竿屋の石井さんにうちを売ったでしょう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋もあった。……」
伯母「あすこに銭湯もあったでしょう。」
僕「今でも常盤湯という銭湯はありますよ。」
伯母「常盤湯といったかしら?」
かつて住んでいた本所小泉町あたりが震災でどのようになってしまったのか、みんなとても関心があったのだろう。田端はそれほどでもなかったが、本所両国一帯は甚大な被害が発生した地域のひとつである。芥川家は両国橋へ通じる元町通りに面していた。
妻「あたしのいた辺も変ったでしょうね?」
僕「変らないのは石河岸だけだよ。」
妻「あすこにあった、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまったさ。」
文は龍之介の三中時代の友人山本喜誉司の姪であるから、文にとっても本所は懐かしい地域である。と言いたいところだが、ここで突然「石河岸」が登場する。龍之介は『石河岸の妖婆』という作品を書いているが、石河岸は京橋区富島町、亀島川に沿ったところで、霊岸橋が架かっている。本所ではない。
妻「お鶴さんの家はどうなったでしょう?」
僕「お鶴さん?ああ、あの藍問屋の娘さんか。」
妻「ええ、兄さんの好きだった人。」
僕「あの家はどうだったかな。兄さんのためにも見て来るんだったっけ。尤も前に通ったんだけれども。」
兄というのは、文の叔父にあたる山本喜誉司のことであろう。
龍之介は「(略)知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。」と言うに、母は『お文様』のようじゃないかと言葉を入れる。真宗の信者でもないのに、「お文」を知っていたことになる。
僕「これですか?これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちょっと偉かった鴨の長明という人の書いた本ですよ。」
こうして『本所両国』の連載は終わる。行く川の流れは大川。河童は何処から来て、何処へ流れていったのか。『方丈記』などあることも知らず、今日も大川の水は流れ行く。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第27回――龍之介が描いた震災復興 『本所両国』②

龍之介たちは少し引き返して、横網の浮き桟橋へ降りて川蒸汽に乗ることに。おそらく「百本杭」の近くであろう。かつては「一銭蒸汽」と呼ばれたが、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。浮き桟橋の屋根も震災で焼失したであろうが、復旧し、明治時代と変わらぬ風情をもっている。(蛇足ではあるが、「横網」である。両国と言えば大相撲ということで、私も長い間「横綱」だと思ってきた。失礼な話だが、「綱」という字を「網」と間違えて印刷するなんて、漢字を知らない人が作業しているのか、そんなふうに思ったこともあった。恥じ入るばかりである。)
いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。何度も乗った、明治時代から変わらぬ船で、満員。立っている客もいる。船は静かに動き出すが、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。
川蒸汽は蔵前橋をくぐり、厩橋へ。もちろん蔵前橋は工事中で未完成であった。川蒸汽がもう一艘。それにお客や芸者を乗せたモオター・ボート。龍之介は自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう》と記している。
川蒸汽は厩橋をくぐりぬける。薄暗い橋の下だけは浪の色も蒼んでいる。昔は磯臭い匂いがしたが、今日の大川の水は何の匂いもなく、あるとすれば、唯泥臭い匂い。連れが「あの橋は今度出来る駒形橋ですね?」と龍之介に尋ねる。駒形橋も蔵前橋と並んで、関東大震災を契機に架けられた橋で、この『本所両国』の連載が終わって一か月ほど経った1927年6月25日に開通した。龍之介の死、一か月前である。ところで、連れは「駒形橋」を「コマガタばし」と発音したようで、これを聞いた龍之介は、《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである》と記している。龍之介にとって、「駒形」は「コマカタ」と澄んだ音でなければならなかった。

川蒸汽を下りて、吾妻橋の袂から円タクに乗って柳島へ。当時、路面電車が走る「電車道」で、現在の浅草通りにあたり、左手に東京スカイツリーがそびえる。龍之介は本所と言ってもこの辺りはあまり来たことがなかったようで、小学生の時、父と葬式に参列した帰り、維新前後の「御朱引外」の面影をとどめた様子を話してもらったと、草原や田んぼ、早桶が自分からごろりところげることなど書いている。そして、《今はどこを見ても、ただ電柱やバラックの押し合いへし合いしているだけである》と。
龍之介らは「橋本」の前で円タクを下りた。ここは北十間川に横十間川がT字に交わるところで、横十間川に柳島橋が架かり、西側袂に法性寺、道をはさんで向かい側に「橋本」がある。川魚料理で有名な老舗の料亭「橋本」(柳島橋の袂にあるところから名付けられたのであろう)は、焼けずに残っていたが、すでに食堂に変っており、龍之介は《すりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった》と書いている。
龍之介は《掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている》と記しているので、柳橋を渡ったようで、この後、掘割、すなわち横十間川に沿って南下し、亀戸天神をめざす。この横十間川は龍之介たちが歩いた当時は、東京市と南葛飾郡の境界で、柳島橋を渡ると南葛飾郡亀戸町。東京市に合併されたのは1932年で、城東区の一部になった(現、江東区)。
法性寺は柳島の「妙見様」として知られ、葛飾北斎が信仰していたことでも有名。龍之介の見た妙見様は、震災で樹木もやられ、掘割の沿って見られた柳もなくなっていたようだ。龍之介は中学時代に蕪村の句(「君行くや柳緑に路長し」)を読んだ時、この柳を思い出したと記している。
《それから僕等は通りがかりにちょっと萩寺を見物した》。萩寺は柳島橋と城東花街の中間くらいにある。萩寺は正式には龍眼寺。江戸初期に諸国の萩を集めて、いつしか「萩寺」として有名になった。震災で焼けずにすんだが、龍之介たちが訪れた時は萩も4~5株。落合直文の石碑前の古池の水も渇れ、哀れな状況に。
龍之介らは萩寺の先にある電柱(?)に「亀戸天神近道」というペンキ塗りの道標を頼りに、その横町を曲り、《待合やカフェの軒を並べた、狭苦しい往来を》歩いていった。ここが亀戸天神裏の「城東花街」で、現在の亀戸3丁目11~25番の一帯。この頃、待合が80軒ほど、震災後転入してきたカフェが100軒くらいあった。
「城東花街」は1905年に開かれたものであるが、関東大震災で焼け出された浅草あたりの銘酒屋(めいしや)が大挙して流れ込み、私娼街が形成されていた。ようで、同様に形成された玉ノ井と並ぶ東京の二大娼婦街。この辺は永井荷風に任せておけば良いだろうが、龍之介は、《僕等の歩いているのは有田ドラッグや愛聖館の並んだせせこましいなりににぎやかな往来》である。それに続けて《近頃私娼の多いとかいうのも恐らくはこの往来の裏あたりであろう》と記している。
龍之介は浅草千束町にまだ私娼の多かった頃の夜の景色を覚えているとして、《それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えているために殆ど荘厳な気のするものだった》が、今、見ている亀戸天神裏の往来は《どちらへ抜けてもボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない》と続けている。
「城東花街」は一大カフェー街に変貌し、私娼も増え、周辺に増加した工場に勤める労働者たちの遊び場として繁盛し、戦後も赤線地帯として、1958年に売春防止法が制定されるまで「大人の遊園地」と化してきた。亀戸天神すぐ裏にあたる亀戸3丁目19~25番辺りが、当時の地図では「遊園地」と表示されている。
《僕等は門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へたどりついた》というから、「城東花街」が亀戸天神にぴったり隣接していることがわかる。龍之介たちは花街を抜けて、北西側にある門から入ったのであろう。広場で外套を着た男が法律書を売り、背広を着た男が最新化学応用の目薬を売っている。
龍之介の小学時代、広場はなかったが、拝殿も筆塚や石の牛は変わっていない。筆塚に何本も筆を納めたけれど、一向に字は上達しないと龍之介。太鼓橋も掛け茶屋や藤棚も変わっていない。亀戸天神はもちろん梅の名所だが、何と言っても藤の名所として知られ、菊も有名。太鼓橋はこんなに小さかったのかと龍之介。定番のお土産である張り子の亀の子も売っているが、新たにカルシウム煎餅も加わったようだ。亀戸天神へ来たら、船橋屋の葛餅。境内にあったはずの船橋屋がないので、水を撒いている女性に尋ね、花柳病の医院の前を通って、到着。現在も本店が営業している亀戸3丁目2-13である。1盆10銭の葛餅を食べる。龍之介は中学の時、江東梅園へ行った帰りに船橋屋の葛餅は1盆3銭だった。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第26回――龍之介が描いた震災復興 『本所両国』①

《僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った》。これは『本所両国』の書き出しである。関東大震災からの東京の復興を宣伝しようと、「東京日日新聞」が企画した「大東京繁昌記」の記事を書けというのが、芥川龍之介に下された社命である。この社命は、泉鏡花・徳田秋聲をはじめ、十数人の作家にくだっている。
龍之介はO君と取材に出かけた。二人は両国橋を渡って本所区に入り、隅田川沿いに吾妻橋まで行き、業平、柳島、錦糸町を経て、両国へ戻っている。本所区を一周したことになるが、題名を『本所』とせず、『本所両国』としたことについて、《なぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである》と記している。両国で育った龍之介にとって、「両国」は特別な響きをもっていたのであろう。本所に埋没させるわけにいかなかった。その結果、《ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることに》なってしまった。
こうして、芥川龍之介の『本所両国』は1927年5月6日から22日まで、「東京日日新聞」に連載されたが、社命によって、龍之介は人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。

龍之介は両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記している。関東大震災に両国橋が耐えた証でもあるが、彼は小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じているという。
両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。二年前の1925年に治安維持法が成立しているが、まだこのような文章を新聞に掲載しても許される状況にあったのだろうか。
表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。
現在、両国駅や国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園、横網町公園などがある一帯は、龍之介の中学頃には両国停車場や陸軍被服廠があり、「大溝」と呼ばれる堀に囲まれていた。龍之介が幼少期を過ごした家から百メートルも行けば「大溝」があった。この一帯、江戸時代には「御竹蔵」という貯木場があったが、後に「米蔵」に変った。大川をはさんで対岸にも大規模な御蔵がある。明治になって「御竹蔵」はなくなったが、龍之介が小学生の頃には雑木林や竹藪が残っていた。
龍之介は歩きながら、震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。
《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。「お竹倉」の跡地は陸軍被服廠になり、現在は東京都慰霊堂や復興記念館が建っている。
大川、つまり隅田川に沿って歩く。《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。
震災前の1922年、安田邸敷地は東京市に寄贈されたが、震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。邸跡には1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。庭園も復旧し、安田庭園として1927年に開園した。本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、本所会館の隣に建設中の同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。
同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。
龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です。」》
震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第25回――秋聲が描いた震災復興 『仮装人物』

『仮装人物』が描いているのは、関東大震災からの復興の中で元号が昭和に改まり、日本とりわけ東京など大都市が「昭和モダン」と呼ばれる時代を迎えた、昭和2年から4年(1927年~29年)頃で、《世間ではモダアンな新興芸術が、花やかな行進曲を奏している一方、マルキシズムの研究が流行しはじめ、プロレタリアの文学が到るところに気勢を挙げていて、何かあわただしい潮が渦をまいていた》(十七)。
この時期、秋聲は順子との恋愛に翻弄されながらも楽しんでいた。渦中にある秋聲は、『神経衰弱』(1926年3月)から『日は照らせども』(1928年4月)までの2年1カ月の間に発表した作品の、4分の3にあたる29編の「順子もの」と呼ばれる、順子をモデルにした短編を発表した。
このような時期から7年余りの歳月を経て、1935年7月から1938年8月まで「経済往来」(35年10月から「日本評論」と改題)に連載されたのが『仮装人物』である。秋聲が65歳から68歳まで、途中、病気などで何度も休載しながら書き上げられた。まさに、突然復活した「順子もの」であり、「総集編」。
この間、「昭和モダン」の陰で、軍部の力、自由を抑える力は大きくなり、これに反対する人たちに対する弾圧も強められていった。1931年に満州事変が発生し、1936年に二・二六事件、翌1937年には支那事変から日中戦争へと、まさに十年足らずの間に、日本は明から暗へと大きく変わっていった。
秋聲は『仮装人物』の一で、《戦争景気の潮がやや退き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった》と書いている。これは言い換えれば、執筆当時にはすでに「不安の空気が漂っていた」ことを示している。
『仮装人物』も秋聲自身の体験をもとに書かれているので、設定時期はわかりやすい。書き出しは、社交ダンスが登場するので、1930年3月以降。ふとしたことから梢葉子(順子)と踊った庸三(秋聲)の記憶が一気に1926年1月の妻の死までさかのぼる。そして、さまざまな出来事があって、話しは1930年3月以降に戻って来る。まさに、葉子との思い出が二枚のパンの間に挟まって、サンドウィッチのようになっている。
この作品には、秋聲の視力異状、順子の故郷を訪ねたこと、順子の逗子転居、「朝日新聞」に秋聲と順子の交際が「醜聞的」に報じられ、翌日訂正を申し入れた一件、大晦日に順子と娘を追い出した件など、時系列的には事実に即して描かれているように思える。ところがどうもつじつまが合わない。
まず、1927年大晦日に順子と娘を追い出した件が二十三に書かれているが、ここに浜口雄幸首相の演説をラジオで聴く場面が登場する。しかし浜口内閣が成立するのは、2年以上後の、1929年7月2日である。
つぎに、十四には、清洲橋の完成や、金座通り・浜町公園のかたちが整ってきたという記述がある。十四は1927年の春頃を描いたもので、清洲橋完成は一年後の1928年3月。この頃、浜町公園の輪郭もできあがり、翌1929年春に開園している。
さらに、二十九は話の流れでは1928年秋であるが、その場面のもとになる、本郷のアパートに住む順子のところに、口述筆記・清書のため窪川(佐多)稲子が訪れていたのは1929年秋。当時身重だった稲子は翌年1930年、長男を出産している。
つまりこの作品は、1927年に、27年と28年の出来事、1928年に28年と29年の出来事を押し込め、浜口内閣に至っては1929年を27年にはめ込んだ。もちろん、これは自伝ではなく、あくまでも創作の「小説」であるから、批判されることではないのだが、事実の編集には何らかの意図が働いたとみて良い。

このような時代背景と編集を念頭に置いて、『仮装人物』に描かれた大震災後をみてみたい。
まず、葉子が引越して来た本郷三丁目のアパート。《三丁目のアパートは、震災後その辺に出来た最初のアパートであった》。震災の教訓から都市の不燃化が急務であった。このアパートも鉄筋コンクリートでできており、周辺の様子とともに、細かく描写されている。《この都会は今なお復興の途上にあったが、しかし新装の町並みはあらかた外貌を整えて来た。巌丈一方の鉄筋コンクリイトのアパアトも、一階に売薬店があり、地坪は狭いが、四階の上には見晴らしのいい露台もあって、二階と三階に四つか五つずつある畳敷きの部屋も、床の間や袋戸棚も中へくり取ってあり、美しい装飾が施されてあった。ある教育家の子息が薬局の主人と乗りで、十万金を投じて建てたものだったが、葉子の契約した四階の部屋は畳数も六帖ばかりで、瓦斯はあったが、水道はなかった。厳重に金網を張った大きい窓の扉を開けると、広小路のデパアトの、額にリボンをかけたような青と赤で筋取ったネオンが寂しく中空に眺められ、目の下には、早くもその裏町に巣喰ったカフエの灯影やレコオドの音が流れていたが、表通りの雑音が届かないし、上がり口のちがった背中合せの部屋に、たまに人声がするだけで、どの部屋にも客がないので、さながら城楼に籠もったように閑寂していた。》(三十)
当時最新の鉄筋コンクリートアパートの様子がよくわかる。すでに上層階でも水道を使うシステムがあったはずだが、このアパートに水道がない。つまり水洗トイレもないのが気にかかる。同潤会アパートに比べると、不便きわまりないアパートに思える。広小路のデパアトとは、松坂屋デパートである。

庸三が馴染みになった小夜子は《芝の神明で育った彼女は、桃割時代から先生の手におえない茶目公であったが、そのころその界隈の不良少女団長として、神明や金毘羅の縁日などを押し歩いて、天性のスマアトぶりを発揮したものだった》(八)が、その小夜子は中洲にいる。すぐそばに復興橋のひとつ清洲橋が姿を現している。清洲橋は両岸の清澄と中洲の名を取ったもの。
中央区のコミュニティバス「江戸バス」北循環で東京駅八重洲口を出発。浜町一丁目で下車。浜町を久松警察署の前を通り、浜町公園の北を隅田川に延びる「金座通り」を横切り、明治座前から左へ折れると、「震災復興公園」のひとつ浜町公園は目の前。公園前で右折して新大橋通りを横断して直進すると、首都高速道路の高架が見えて来る。首都高はかつての水路を通っている。当時、中洲はまだ島になっており、菖蒲橋・女橋・中洲橋でつながっていた。鍵の手に進んで高架下は、大震災前まで男橋が架かっていたところで、被災し廃止されてしまった。
男橋跡は両側が公園になっており、ここから先が中洲。マンションが建ち並び、狭苦しい道を抜けて清洲橋の袂に出るとホッとする。清洲橋は「震災復興橋梁」(九橋)のひとつ。川上に向かって眺めた大川端(リバーサイド)は緩やかに弧を描いている。小夜子の待合が設定されたのは、この辺りだろう。隅田川に沿って割烹・料亭などが建ち並んでいた。
庸三が初めて小夜子の待合を訪れた時の様子は、《薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた》(七)と描写されている。大きな橋は清洲橋、煙を上げるのは対岸にある深川セメント(浅野セメント)。十九には、《ある晩もまた庸三は小夜子の家で遊んでいた。彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋あたりの夜景を眺めていた》という描写もある。
秋聲は『仮装人物』において、震災後の中洲とその周辺について、《世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思いっ切り大規模の清洲橋も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座のあった時分の下町情緒も影を潜め、水上交通が頻繁になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった》(十四)、と記している。
「江戸バス」の中洲バス停を過ぎると、左側一帯が日商岩井日本橋浜町マンションで、「真砂座跡」の碑がひっそりと建っている。真砂座は1893年に開業し、1906年11月には『吾輩は猫である』も初演されている。しかし、1917年には早くも廃業。中洲の賑わいも下降線をたどっていった。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第24回――鏡花が描いた震災復興 『深川浅景』②

【仙台堀】 二人は下之橋、中之橋を渡って、さらに上流にある仙台堀川に架かる上之橋。仙台堀という名前は、北側に仙台藩の蔵屋敷があり、堀を使って舟運がおこなわれたことに由来する。藏屋敷跡には1872年、日本初のセメント工場である官営深川工場(後のアサノセメント)が建設された。
連れは、《大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな》と説明し、すぐ向うに煙か雲か、灰汁のような空にただ一か所、樹がこんもりと、青々しているのが岩崎公園と続けている。岩崎公園は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の発注によってつくられたもので、現在の清澄公園・清澄庭園。この庭園。樹木と池が猛火から避難民の生命を救った。多くの生命が失われた被服工廠跡と、よく対比される。
連れの話しだけは、隅田川沿いにさらに上流へむかって進み、中洲・箱崎を向うに見てと記されている。実際に歩いているのではないので、翌1928年3月に完成する清洲橋の工事中の姿は何も記されていない。
話しは小名木川まで及んで、萬年橋。《吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に舟受けて……》と、安政二年の大地震の話しが飛び出し、「また、地震かい」と言う鏡花をものともせず、連れはしゃべり続ける。サイカチは皀角(さいかち)の木があったことから名付けられた河岸の名。海辺大工町は現在白河一丁目。
話しは現在に戻って、この四、五年、浦安でハゼやマコ(鰈、カレイ)がたくさん釣れるようになり、釣り人気で、高橋を出る汽船は満員。朝一番の船などは、汽船の屋根まで人で埋まり、途中の大富橋、新高橋では、欄干の外に出て、橋にぶら下がり、汽船の屋根に飛び乗るという話まで。大震災で東京湾にも異変が起き、急にハゼやマコが捕れるようになったのかもしれない。
連れの話しは萬年橋からさらに先へ。隅田川に架かる新大橋付近のお船藏。三代将軍家光の命で建造された軍船形式の御座船安宅丸(あたけまる)と、その後も幕府の艦船を格納してきたところ。今も、安宅丸を模した御座船安宅丸が観光クルーズをおこなっている。先、小松川の向こうは回向院。連れは《河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます》と悪乗り。これには、鏡花も《「これ、芥川さんに聞こえるよ」》と真面目にたしなめた。
芥川龍之介は幼少年期をこの回向院近くで過ごしているので、話題になっても不思議はない。しかし、じつに微妙なタイミングである。この『深川淺景』は1927年7月17日から8月7日まで連載されたが、鏡花と連れが取材に深川を訪れたのは6月頃であろう。そして、連載中の7月24日、芥川は自死している。この衝撃的な死が生々しい時に新聞紙上に掲載されたことになる。ひょっとしたら、この一文は芥川の死を受けて急遽、挿入されたものかもしれない。あきらかに死者を意識している。

【黒亀橋】 二人は、上之橋から引き返し、中ノ堀から油堀沿いに歩いて閻魔堂へ。鏡花は《常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承はつた》と書いているが、常光院とは法乗院のことで、大震災で焼失したが、再建された。現在の閻魔大王像は1989年に完成したコンピュータ制御のもの。
閻魔堂近くでは油堀(十五間川)と、これに交差する堀があり、油堀に閻魔堂橋、交差する堀に油堀の両岸に沿ってそれぞれ橋が架けられ、四ツ橋に一つ足りない三つの橋が架けられていた。門前仲町から森下へ向かう電車通りをつくる際、堀の交差点上を道路が通ったため、黒亀橋という一つの橋になった。
その黒亀橋も大震災で落橋。市電の線路は油堀上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は仮復旧だったと思われるが、鋼鉄製の新しい橋が翌々年にあたる1929年に完成し、富岡橋と名付けられた。しかしその後も黒亀橋の名は使用された。
閻魔堂橋、黒亀橋を受け継いだ富岡橋も、首都高速九号線(深川線)建設にともなって、1975年、油堀を埋め立てられて消失してしまった。深川に橋の歴史は尽きない。

【心行寺】 閻魔堂の隣りに心行寺がある。大震災で焼失し、1932年に再建された。したがって文中には、「仮門」と書かれている。連れが電車の行き交うすきに、「えゝ、一寸懺悔を。……」と言う。この寺の墓地には洲崎の女郎が埋まっていると、ある女の話しを始める。
その女は後に洲崎を抜けて所帯をもち、土手でおでん屋を出していたが、気が変になって亡くなった。旅芸者をしていた時、親なしの娘を養女にしていたが、その娘も芸者になり、養母を見送ってくれたが、ある時、連れが養女に巡り合い、心行寺にお参りしてくれるよう頼んできたが、その養女も震災で行方知れずと言う。閻魔堂で羽目の影がちらりちらり鬼のまわりに白い女。地獄の絵というと女が裸で気になったと、連れは笑う。
《電車通りへ突つ立つて、こんなお話しをしたんぢあ、あはれも、不氣味も通り越して、お不動樣の縁日にカンカンカンカンカン――と小屋掛で鉦をたゝくのも同然ですがね》。鏡花がお参りするように言うと、《何だか陰氣に成りました。こんな時、むかし一つ夜具を被つた女の墓へ行くと、かぜを引きさうに思ひますから》とは、この連れ。まこと鏡花の作品のような話をする。

【海辺橋】 海辺橋は仙台堀川に架かる橋。黒亀橋と同様に、大震災で落橋し、市電の線路は仙台堀川上に宙づりになった。鏡花が訪れた時は横に仮橋をつくって、新しい橋を建設していた。
市電の線路が急な曲線を描いて仮橋へさしかかっていたと思われる。《「あ、あぶない。」笑事ではない。――工事中土瓦のもり上つた海邊橋を、小山の如く乘り來る電車は、なだれを急に、胴腹を欄干に、殆ど横倒しに傾いて、橋詰の右に立つた私たちの横面をはね飛ばしさうに、ぐわんと行く時、運轉臺上の人の體も傾く澪の如く黒く曲つた。二人は同時に、川岸へドンと怪し飛んだ。曲角に(危險につき注意)と札が建つてゐる》。
鋼鉄製の新しい海辺橋は、翌々年の1929年に完成した。海辺橋の南西たもとに松尾芭蕉ゆかりの採荼庵跡があり、芭蕉はこの辺りから奥の細道の旅に出発したと言われる。

《その尾花、嫁菜、水引草、雁來紅をそのまゝ、一結びして、處々にその木の葉を屋根に葺いた店小屋に、翁も、媼も、ふと見れば若い娘も、あちこちに線香を賣つてゐた。狐の豆府屋、狸の酒屋、獺の鰯賣も、薄日にその中を通つたのである。……思へばそれも可懷しい……》。鏡花らしい「締め」である。
深川を舞台にいくつも作品を書いてきた鏡花であり、何度も深川を訪れているが、大震災後に深川へ来るのは初めてであり、かつての霊巌寺界隈を思い出したのであろう。やはり、深川の風情も、江戸から明治・大正にかけての方が鏡花には似合っているかもしれない。

                        (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第23回――鏡花が描いた震災復興 『深川浅景』①

関東大震災からの復興は、首都東京の被災だけに、その復興は国としても急務で、東京市と連携しておこなわれ、復興計画作成の陣頭指揮に立ったのが後藤新平内務大臣だった。後藤は数か月前まで東京市長を務めていた。
この帝都復興計画は東京の街を大きく造り変えるもので、膨大な予算を必要とした。結局、財源不足、さらに後藤の辞職などによって、計画は大幅に縮小されたが、それでも今日の東京の基礎をかたちづくるものになった。
計画は地震より火災による被害が大きかったことを踏まえて、不燃化、避難経路になる幹線道路拡幅、広域避難広場の確保が基本になった。
幹線道路は国によって52本が整備され、とくに新宿と浅草橋を結ぶ道路は拡幅され「大正通り」と呼ばれ(現、靖国通り)、新橋と三ノ輪を結ぶ「昭和通り」とともに、東西・南北の大幹線道路となった。橋も103橋整備され、とくに隅田川では木橋に代わって、「震災復興橋梁」と呼ばれる鉄橋が9橋つくられた(国によって、両国橋・厩橋・吾妻橋、東京市によって、相生橋・永代橋・清洲橋・蔵前橋・駒形橋・言問橋。なお、言問橋・駒形橋・蔵前橋・清洲橋はこの時に初めて架けられたものである)。
また、「震災復興公園」として、隅田公園・浜町公園・錦糸公園がつくられた。このような幹線道路、鉄橋、公園などは、震災の教訓から、避難路の確保、避難場所の確保、延焼防止などの目的ももって建設された。同潤会アパートをはじめ鉄筋コンクリートの集合住宅も各地に建設され、被災者の住宅確保とともに、復興住宅街の不燃化、延焼防止、などの目的を併せ持っていた。復興事業では、水道管・ガス管・電線・電話線など生活基盤の復興整備も進められ、鉄筋コンクリートのアパートなどとともに、近代化の時流を押し進めるものとなった。
このような震災復興の様子を、鏡花は『深川淺景』、秋聲は『仮装人物』、そして龍之介は『本所両国』に描いている。

『深川淺景』は小説ではない。1927年7月17日から8月7日まで、「大東京繁昌記下町編」として「東京日日新聞」に泉鏡太郎の名前で連載されたもので、「街歩きレポート」と言える。企画のねらいは、昭和を迎え、関東大震災からの復興事業が一区切りする時期、東京復興をアピールすること。
1927年。《時節がら、槍、白馬といへば、モダンとかいふ女でも金剛杖がひと通り。……人生苟くも永代を渡つて、辰巳の風に吹かれようといふのに、足駄に蝙蝠傘は何事だ》と鏡花。「辰巳」とは「深川」の別称である。『葛飾砂子』から27年を経て、北アルプスへ登る女性も見受けられるようになってきた、「昭和モダン」の真っただ中で鏡花が描いた、大好きな深川はどのくらい変化しているのだろうか。
鏡花は「東京日日新聞」社の記者あるいは編集者と思われる同伴者と、永代橋を渡って深川に入った。《震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつた》。
《永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた》と、どうやら二人は円タクに乗って、永代橋を渡った袂で降りたようだ。《すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い》。永代橋を渡って深川へ入った辺りの賑わいが伝わって来る。この通り(現、永代通り)には市電が通っていたが、ここでは描写されていない。深川地域では当時、永代橋から洲崎に伸びる路線、黒江町で分れて森下へ向かう路線、門前仲町で分れて月島へ行く路線があった。
この後、深川の街を、佐賀町、松村、小松、松賀町、仙台堀、黒亀橋、常光院、心行寺、海辺橋のコースで歩いている。はじめに、洲崎や仲町のようなカネのかかるところは行かないと宣言している。

【佐賀町】 永代橋を渡ってすぐ、二人は左へ入って、隅田川沿いに上流方向にむかう。道の両側が佐賀町である。貨物車(トラックのことであろう)が凄まじい音を立てて、つぎつぎやって来る。《燒け土がまだそれなりのもあるらしい、道惡を縫つて入ると、その癖、人通も少く、バラツク建は軒まばらに、隅を取つて、妙にさみしい。休業のはり札して、ぴたりと扉をとざした、何とか銀行の窓々が、觀念の眼をふさいだやうに、灰色にねむつてゐるのを、近所の女房らしいのが、白いエプロンの薄よごれた服装で、(略)》
関東大震災で焦土と化した深川の復興状況がうかがえる一文だが、銀行の描写が昭和金融恐慌の生々しさを伝えている。この年、第一次世界大戦後の不況と、関東大震災後に発行した手形が不良債権化して、3月14日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が失言したのをきっかけに、取り付け騒ぎが発生し、多くの銀行が休業した。後任の蔵相に就任した高橋是清は、4月22日以降、21日間支払猶予令を出すなど、収束策を次々打ち出したが、鏡花が取材に出かけた6月になっても、銀行休業は見受けられたようだ。
佐賀町の名は、元禄期に永代橋が架けられ、そこからの眺めが佐賀に似ていたところからつけられたと言う。深川一帯は江戸時代、江戸湾(東京湾)の干拓や埋め立てによって生まれた土地で、有明海の干拓で生まれた佐賀平野と同様である。
佐賀町は深川漁師町とよばれた八町の一つで、永代橋から下之橋(油堀)・中之橋(中之堀)そして仙台堀に架かる上之橋まで、左側には隅田川に臨む蔵(河岸蔵)が並び、右側にはほぼ同じ間口の町屋敷が並び、米問屋・油問屋・干鰯問屋などが連なっていた。大震災ですっかり姿を変えてしまった風景を目の当たりにしながら、鏡花は昔を思い出していたことであろう。江東区深川江戸資料館の常設展示室で再現している実物大の街並みは、佐賀町をモデルにしている。

【松賀町界隈】 佐賀町の東側。現在、大島川西支川と名付けられた水路の永代通りから首都高9号線(深川線)の間、西に深川小松町と深川松賀町、東に深川松村町があった。《松村に小松を圍つて、松賀町で淨瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、》と、すべて「松」がつく面白さに、鏡花は地名で言葉遊びしながら、情景を描写している。
この辺りの様子が変わったと連れが言うと、鏡花も変わったと応じながら、「この道は行留りぢやあないのかね」と言うと、冗談言うなと連れ。「洲崎に土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな抜け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや」と来たから、これには鏡花も思わず「えらいよ!」と感嘆。水路を通れば洲崎から東京湾に出て、全国各地、いや世界各地へ続いているから、行き止まりどころではない。まさに発想の転換で、この一言は名言である。

            (つづく)
《連載》文豪と関東大震災 第22回――荷風が描いた大震災 『断腸亭日乗』②

大地震発生から1か月余り経過した10月3日。荷風は『断腸亭日乗』に、午後《丸の内三菱銀行に赴かむととて日比谷公園を過ぐ。》と記す。ところが日比谷公園は罹災者の収容施設と化している。公設のバラックも建てられ、日比谷公園では建坪3714坪、収容人数5389人。(この他、明治神宮外苑7699坪、7213人、靖国神社境内1750坪、3109人、上野公園5000坪、8819人、芝離宮・芝公園6179坪、12260人、他各区の小学校跡・公園・広場など28172坪、24810人。いずれも10月20日現在)※。荷風は《林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。》と記す。
続いて、《公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中往来留となれり》。日比谷公園の北東角から日比谷交差点に出ると、日比谷濠。日比谷通りを挟んで、濠に面するように警視庁、そのむこうに帝国劇場。ともに地震による倒壊は免れたものの、火災によって内部焼失。帝国劇場はその後内部改修などで再建されたが、警視庁の建物はダイナマイトで爆破解体された(警視庁は震災復興計画の中で現在地に移転)。荷風はその現場に行き合ったのである。
荷風は現在の晴海通りを、《数寄屋橋に出て濠に沿ふて鍛冶橋を渡る》。当時はまだ外濠があり、数寄屋橋や鍛冶橋が架かっていた。荷風は数寄屋橋を渡らず、外濠に沿って東京駅方向へ北進し、鍛冶橋を渡る。途中《到る処糞尿の臭気甚し》。やがて現在の中央通りへ出て南下。京橋から銀座へ。《帰途銀座に出て烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る》。虎ノ門から麻布台へ上る荷風帰宅時の代表的ルート。その名の通り、江戸・東京の街が一望である。《阪上に立って来路を顧れば一望唯渺ゝたる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。》と、何らの解説も要しない。
ここから荷風の私見が綴られる。《帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや》。関東大震災を「天譴」つまり「天罰」と捉える考え方は、早くに渋沢栄一から語られ、物議を醸し出しているが、荷風も同様の考え方を示していたことが読み取れる。
荷風はさらに《民は既に家を失ひ国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ》。簡単に言えば、「一部の人間の私利私欲の結果がこの度の大震災で、私利私欲を離れて都市づくり、国づくりが進められていれば、大きな地震が発生しても、ここまで被害が拡大することはなかったはずだ」との主張である。これに対して、当時から、私利私欲で大儲けした人でなく、儲けから見放された貧民がなぜこのような罰を受けなければならないのかとの意見もあった。すべてを失った人、肉親を失った人。多くの困難と悲しみを抱えた人びとに対して「天譴論」は、追い打ちをかけるように傷つけるものであるが、逆に、そうした人びとを今後生み出さないためにも、「天譴論」が投げかけた真意はきちんと受け止めなければならないだろう。

※安場浩一郎:関東大震災後の東京のオープンスペースにおける罹災者収容の展開

10月16日、荷風は《災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自動車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。》と書いている。下谷・浅草一面の焼け野原であるから、焼けなかった浅草観音堂がよく見えた。凌雲閣はすでにない。荷風は振り返って、《銀座京橋辺よりは鉄砲洲泊船の帆柱もよく見えたり。》とも記している。鉄砲洲は現在の中央区湊一帯で、京橋の東1km足らずの地域。市電の復旧が遅れ、乗合自動車が活躍している。
荷風はこの後、池ノ端で神代君と会い、精養軒で一茶。《この度の災禍にて安田氏が松の家文庫また小林氏が駒形文庫等の書画烏有となりし事を語りて悵然たり。》と、龍之介もそうだったが、荷風もまた多くの文書、書画等の失われたことを嘆いている。
荷風は、《弥生岡に日影のやや傾きそめし頃》などと文学的表現をして、《広小路に出でて別れ、自働車にて帰宅す》。
11月1日の「日乗」も、10月16日同様、荷風の関心がどこにあったか示している。木曜会句会。《小波先生震災の紀念にとて、被害の巷より採拾せし物を示さる。神田聖堂の銅瓦の破片、赤阪離宮外濇の屋根瓦、浅草寺境内地蔵堂にありし地蔵尊の首等。地蔵の首は避難民の糞尿うずたかき中より採取せられしなりといふ。先生好事の風懐、災後の人心殺伐たるの時一層敬服すべきなり。深夜強震あり》。
果たしてこのような物を持ってきて良いのかわからないが、放置すれば捨てられた物もあるだろうから、貴重な収集だったと言えるかもしれない。なお、小波先生とは巌谷小波。木曜会句会は高輪南町53(現、高輪4-1-18)にある小波の自宅でおこなわれた。荷風の自宅から4kmほどだから、徒歩で出かけたかもしれない。
12月12日。《帰途四谷通を歩む。外濠の電車一昨日十日より運転す》。12月14日には《帰途木挽町の焼跡を歩み本願寺前の電車に乗る。》と、市電の復旧が伝わってくる。市電は11月下旬までに深川地域を除いてほとんど復旧した。全線復旧は翌年9月17日である。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第21回――荷風が描いた大震災 『断腸亭日乗』①

荷風が『断腸亭日乗』と銘打った日記をつけ始めたのは1917年。さっそく「東京湾台風」の記述が登場する。1918年からは「スペイン風邪パンデミック」が始まり、日記にもその影が落ちている。そして、1923年9月1日、関東大震災。『断腸亭日乗』は、その様子も記録している。

当日、荷風は自宅である偏奇館にいた。荷風は日記に、《日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落来るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を弁せず。児女雞犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。予もまた徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。》と、地震発災時のようすを詳しく記している。
時刻は正午になろうとしている。昼食の時間である。荷風は《昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三人の外客椅子に坐したり。》と大地震があったにも関わらず余裕である。この辺り、震度5弱と推定するのは妥当であろう。
山形ホテルは現在麻布市兵衛町ホームズ(六本木1丁目7-24)にあった。「山形ホテル跡」の説明板によると、山形ホテルは1920年から1925年まで営業したホテルで、俳優山形勲の父巌が開いた。偏奇館の南100m程のところにあり、間に小さな谷があった。荷風は食事や接客のために頻繁に利用していた。
頻繁に余震が襲って来る。《食後家に帰りしが振動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。》と言っているうちに腹がすいて来たようで、《ホテルにて夕餉》をなす。
同じ東京市内と言っても、推定震度5の地域から7の地域まである。夕食を食べている人もあれば、建物の下敷きになっている人もいる。どこに住んでいるか、このような時、大きな差異が生じる。荷風は、《愛宕山に登り市中の火を観望す。》と、まさに「対岸の火事」状態である。
荷風は愛宕山を後に自宅へむかう。ところが火事の方も後を追いかけてくる様子。《十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。》と荷風は記す。江戸見坂は虎ノ門2丁目のホテルオークラの東側を麻布台へ上る坂。葵橋は霊南坂を下りて、外濠、現在の特許庁前交差点あたりに架かっていた。荷風は続けて、《河原崎長十郎一家来たりて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり》。
震度6強を示した溜池あたりで発生した火災が、東へ延焼し、さらに向きを南に変えて、地震被害が少なかった麻布台へ駆け上って来たのである。もう少し延焼していれば、「対岸の火事」と高をくくっていた荷風の家も焼失するところであった。

《昨夜は長十郎と庭上に月を眺めて暁の来るを待ちたり。》と、露宿も風流に感じる文章で9月2日の日記は始まる。長十郎は老母を扶けて赤阪一木の権十郎の家に。六本木の坂を下り、赤坂見附の方角に1km余である。推定震度6。今日では一ツ木商店街に老舗が並ぶ。荷風もしばらく眠った後、氷川神社(現、赤坂6丁目10-12)を経て権十郎の家に行き、夕食をごちそうになって午後9時頃帰宅。独身者の身軽さを感じる。《樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。》と、2日の日記は終わる。
3日。微雨。《白昼処々に放火するものありとて人心恟々たり。各戸人を出し交代して警備をなす。》と、この日、「自警団」に関する記述が登場する。ただ、デマ情報であっても、荷風にあまり情報がもたらされなかったのか、詳細は記されていない。
4日。荷風は自宅を出て青山権田原を過ぎ、西大久保に母親を訪ねている。このあたりも概ね推定震度5で、荷風は《近巷平安無事常日の如し。》と書いている。西大久保は現在の大久保から歌舞伎町一帯の地域。
その後、荷風は《下谷鷲津氏の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すと聞き、徒歩して上野公園に赴き、処々尋歩みしが見当らず、空しく大久保に戻りし時は夜も九時過ぎなり。疲労して一宿す》。西大久保から上野公園までは片道10km余はあるだろう。下谷一帯は推定震度5~6であるが、火災によって大半が焼失した。

(つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第20回――荷風が描いた大震災 『ひかげの花』

『ひかげの花』は荷風が関東大震災を舞台として描こうとした作品ではないので、登場人物の人生の一コマとして登場するに過ぎない。したがって、作品全体の中で占める記述の割合は多くはない。しかしながら、大災害であるだけに、その人物の人生に与えた影響は小さくはない。

中島重吉。
重吉は1917,18年頃、或る私立大学を卒業したが、学生時代、麹町平河町に玉突場を営む種子という未亡人がいて、玉突きに来る学生四五人を引連れて活動写真を見に行ったり、銀座通や浅草公園を歩いたり。重吉も欠かさず誘われる学生の一人だったが、鎌倉へ避暑に出かけた未亡人を追って行った重吉は、そこで関係を結ぶ。二人の同棲生活が始まり、実家が家をたたんで仕送りが途絶えた時も、会社を解雇された時も、未亡人のおかげで困ることはなかった。
1923年。種子45歳、重吉33歳。傍目には仲の良い夫婦にうつる。関東大震災が発生した当時、二人は東中野に住んでいた。現在の中野区一帯は震度5強から6弱と推定され、火災も免れたため、都心のような被害にはならなかった。
重吉は仕事で下目黒にいたため無事だったが、種子は買い物で白木屋にいた。日本の百貨店の草分けである白木屋(日本橋)は、一部5階建ての建物が震災で全壊した。種子は逃げる時、足に負傷した。《其の日の暮れ近く人に扶けられてやっと家へ帰って来た。》というが、火災も発生しており、交通機関も止まっている中、日本橋から東中野まで、さぞたいへんであっただろう。結局、負傷した種子は、続く冬風邪に端を発した腹膜炎で死去。今では「災害関連死」に該当するのだろうか。
重吉が葬儀が終ったある日、通夜の前日に手不足のため雇い入れた派出婦が目にとまり、ちょっかいを出す。この派出婦が千代であった。

千代。
千代が派出婦として初めて重吉のもとを訪れた時、重吉が《「震災には無事だったのかね。父さんやお母さんは……。」》と訊ねたのに対し、《「ええ。家は市外の……田舎ですから。」》と答えている。千代の実家は中川沿いの西船堀(現在の江戸川区小松川1丁目)であるから、確かに「市外」「田舎」である。ただし、千代が震災当時どこに住んでいたのか、特定する手がかりは何も書かれていない。
震災後、土地家屋の周旋業は景気が良く、千代は重吉に連れられて歌舞伎座へ行ったり、箱根へ行ったりし、やがて二人は牛込矢来町へ引っ越し、新婚生活を送るようになった。

おたみ。
おたみは千代の娘である。
1912年の春、都会に憧れ、両親の言うことをきかず、東京市内の知人を頼って家出した千代は、高輪のある屋敷に女中として住み込んだ。その夏、丸の内の芝原へ異様な風をした人々が集って加持祈祷するのを、千代も主家の書生や車夫と夜更けて何度か抜け出して見物に出かけた。ある夜、巡査に咎められ親元に送り返されたが、すでに妊娠しており、翌1913年に女の子を出産。この子がおたみである。18歳の千代は娘を母親に預け、再び女中として働いたが、3、4年後、ある雑貨商と結婚。母親が亡くなったので娘を引き取った。しかし、夫の両親や兄弟まで上京して同居するようになり、ごたごたが絶えず離婚。娘は近所の人に懇願され、養女に出した。それが塚山の妾である。
おたみは震災当時、塚山の妾と一緒に新栄町辺りに住んでいた。この辺りの推定震度は5。その後、火の手が伸びて来て、妾はおそらく火に追われながら日比谷公園に避難した。日比谷公園まではおよそ1.5kmある。
11歳のおたみは裁縫の稽古に出ていた。自宅からそれほど遠いところでもないだろう。とにかく逃げまどっているうちに、同じく避難途中の老夫婦と出会い、行動を共にすることになった。老夫婦は金貸しを営んでおり、日本橋区箱崎町に住んでいた。
結局、塚山の妾も、老夫婦も自宅が焼失してしまったから、妾は渋谷へ転じ、老夫婦はおたみを連れて郷里の桐生に避難したので、離れ離れになってしまった。1924年に老夫婦は東京に戻り、引き取り手が来るのを待ちながら、おたみを養育していた。
1927年。妾が丹毒で亡くなり、1928年に塚山が芸者と箱根へ遊びに行った時、旅館の隣室に60歳あまりの老夫婦が泊まっており、連れていた娘がおたみとわかる。おたみは16歳になっていた。塚山は妾が亡くなり養育者がいなくなったことを告げ、いくばくかのカネを与えて老夫婦に養育を託した。
半年後、新潟へ向かう汽車の中で塚山は、伊香保温泉へ行くという老人とおたみに会う。妻は箱根後すぐ亡くなったという。おたみは《年を秘している半玉などによく見られるような、早熟な色めいた表情が認められ》、塚山は二人の関係をあれこれ想像してみる。
それから半年、おたみはダンサーになっており、手紙で塚山にカネの無心を言って来た。それから音信不通で二年。新聞でおたみが拘留されたことを知った塚山は、弁護士に頼んで、おたみを釈放する手続きをとらせた。おたみはダンサーの許可証を取り上げられ、五反田の円宿のマスターに仕事を紹介してもらった。
おたみは一緒に捕まった友人のつゆ子によって、母千代と再会。同業者として再会した母子。おたみは再会の様子と近況、そして謝意をかいた手紙を塚山に書き送る。すでにおたみは自分を生んだ時の母の年齢を超えている。

荷風の住む偏奇館は、震災で大きな被害に遭うことはなかった。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第19回――藤村が描いた大震災 『食堂』

『食堂』(1926年発表)の設定時期は関東大震災が起こって一年経過した1924年9月。
主人公お三輪は63~4歳。浦和生まれの両親が東京へ出て来て、京橋の目貫に小竹という店を出した。店には香・扇子・筆墨・陶器・紙・画帳・書籍・宝石など、すべて「支那」産の品物が取り揃えてあった。一人娘のお三輪は婿養子をとり、一人息子の新七が生まれた。両親が始めた店は使用人を何人も雇うくらいに繁昌し、婿養子が亡くなってからも、お三輪が商売を切り盛りし、息子の新七へと受け継がれ、お三輪は「小竹の隠居」と呼ばれる身分になった。
まあまあ順調に日々は過ぎたが、突然襲った大地震。三代かかって築き上げた一家の繁昌は、あっという間に崩れ去った。
大地震発生時、《お三輪は女中を相手に、その台所で働いていた。そこへ地震だ。やがて火だ。当時を想うと、新七をはじめ、店の奉公人でも、近所の人達でも、自分等の町の界隈が焼けようなぞと思うものは一人もなかったのである。あの時ほどお三輪も自分の弱いことを知ったためしはなかった。新七でも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。彼女はお富達と手をつなぎ合せ、一旦日比谷公園まで逃れようとしたが、火を見ると足も前へ進まなかった。眼は眩み、年老いたからだは震えた。そしてあの暗い樹のかげで一夜を明そうとした頃は、小竹の店も焼け落ちてしまった。芝公園の方にある休茶屋が、ともかくも一時この人達の避難する場所にあてられた。その休茶屋には、以前お三輪のところに七年も奉公したことのあるお力が内儀さんとしていて、漸くのことでそこまで辿り着いた旧主人を迎えてくれた》。
小竹の店は京橋界隈にあった。この地域、推定震度もかなり錯綜しているが、5弱~6弱。小竹の店は建物の倒壊を免れているので、概ね震度5であろう。ところが、各地で火の手が上がり、お三輪たちは避難することに。火の手の反対方向で、広い空き地があるのは皇居側。外濠に架かる最寄りの鍛冶橋は、1914年に東京で初めてのコンクリートアーチ橋に架け替えられていたので、落橋を免れ、鍛冶橋から日比谷公園へと避難したとみられる。ここで夜を明かしたのだろうか。南へ1kmほど移動して芝公園までたどり着いた。
『関東大震災報告書(第1編)』(1923年)によると、焼失割合は、小竹の店がある京橋区が85.9%、北隣の日本橋区は100%、それに対し、麹町区は22.2%、芝区23.8%である。これでは小竹の店が焼け落ちるのは当然であるし、お三輪たちの選んだ避難地域は正解だった。芝公園内の休茶屋も焼けなかった。
お三輪たちが避難した休茶屋は、《公園の蓮池を前に》と記した箇所があるので、芝公園1号、増上寺や東照宮裏手にあたる蓮池のほとりにある。蓮池の中央には弁天堂がある。
この避難が縁で、新七はお力夫妻が震災後立ち上げた食堂を手伝うため、そこに残り、お三輪と新七の妻、それにお三輪からは孫にあたる幼子二人が、浦和に引越して避難生活を始めた。震災で身内をことごとく亡くし、一人ぼっちになった子守娘もいっしょだった。たくさんいた店の奉公人は、それぞれ暇を取って、皆ちりぢりばらばらになってしまった。
お三輪は避難当時を思い出して、《「平常なら一時間足らずで行かれるところなんでしょう、それを六時間も七時間もかかって……途中で渡れるか渡れないか知れないような橋を渡って……浦和へ着いた頃は、もう真暗サ。あの時は新七が宿屋を探してくれてね。その宿屋でお結飯を造ってくれたとお思い……子供がそのお結飯を見たら、手につかんで離さないじゃないか。みんな泣いちまいましたよ……」》と語っている。

それから一年。お三輪が上京し、お力夫妻や新七が営む芝公園内の食堂を訪れるというのが、この作品の中心である。
食堂が休日の新七にともなわれて浦和から汽車に乗るお三輪。
《震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。》《東京まで出て行って見ると、震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ》。震災後一年の東京が、このように描かれている。お三輪と新七は上野駅前から市電に乗り、金杉橋で下車し、天現寺橋行きに乗り換え、赤羽橋で下車したと思われる。
お三輪は一度、小竹の焼け跡に立ったことがあり、何とか再興したいと思ったが、自分にはどうすることもできず、一人息子の新七に賭けるしかなかった。けれども蓮池畔の食堂は、震災後のやり方としては異色の「本格的な料亭の味」をめざして、これがけっこう受けて大繁盛。《「そんなら、お前さんはもう未練はないのかい――あの小竹の古い店の暖簾に」》と言うお三輪に、新七は《「まだお母さんはそんな夢を見てるんですか」》。新七は小竹の店に未練なく、この食堂の運営を自分の仕事と定めている。お三輪の上京の目的は、新七の気持ちの確認と、新七が果たして食堂に将来を懸けて大丈夫か、自分の目で確認したいということであった。そして、その結論は出た。
新七は大震災に遭っても前を向いている。けれどもお三輪には向くべき前がない。そうなってみると、お三輪は震災前の東京に一層の懐かしさをおぼえる。
《休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲にべたべたと貼りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらされたようなその格子戸に取りすがって眺めた。 「あ、これはお閻魔さまだ」 この考えが、古い都会の残った香でも嗅ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万とか、玉つむぎとか、そんな昔流行った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節問屋、蒲鉾屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖なぞをかついだ肴屋がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところでなければ、ほんとうの日本橋のような気もしなかったのである。そして、そういう娘時代の記憶の残った東京がまだ変らずにあるようにも思われた。あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられもしなかった》。
ちょっと長い引用になってしまったが、少年期を京橋区・日本橋区に過ごした藤村にとって、震災で変わり果てた地域を見ながら、それ以前の姿を懐かしく思い出しながら、この文章を書いていたのではないだろうか。
とくに日本橋魚河岸は震災で壊滅的な打撃を受け、もともと出ていた移転の話しは一挙に進んだ。最終的な築地移転は1935年になるが、それまで芝浦で仮営業した後、海軍大学校などがある海軍省所有地(築地4丁目)の一角を借り受け、臨時の東京市設魚市場を開設した。勝鬨の渡しを利用して隅田川を越えれば月島である。新七たちが魚を仕入れに行ったのも、この臨時の魚市場であるが、築地と書かずに、「月島の方」としたのは、東京のはずれの印象を与えようとしたからではないだろうか。
蓮池から4km足らずの道のり。直通の系統がないうえに朝も早いので、市場の往復は徒歩であろう。《朝早く魚河岸の方へ買出しに行った広瀬さんも金太郎もまだ戻って見えなかったが、新鮮な魚類を載せた車だけは威勢よく先に帰って来て、丁度お三輪が新七と一緒に出掛けようとするところへ着いた》。
お三輪は新七と一緒に芝公園の中を抜けて赤羽橋電停まで来た。お力もついてきた。《「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」 それを聞くと、お力は精気の溢れた顔を伏せて、眼のふちが紅くなるほど泣いた。》

『食堂』は短編であり、とくに山場があるわけでもない。けれども関東大震災が人びとに与えた影響をよく描き出している。そして、この大災害後の人生を、前を向いて乗り越えていこうとする人と、もう前を向くほど前が長くないと捉える人、その二つの人生がよく描かれている。これは、阪神淡路大震災や東日本大震災においても同様なんだろうなと思いながら、『食堂』を読み終えた。


            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第18回――龍之介が描いた大震災 大正十二年九月一日の大震に際して⑤

「六」の「震災の文芸に与ふる影響」は、大震災を目の当たりにした直後の龍之介が、それをどう感じ、どう捉えたか、その後のことを知っている私たちからみると、検証として意義がありそうだ。阪神淡路大震災・東日本大震災を知っている私たちは、龍之介の文章をどう捉えるであろうか。

龍之介は《大地震の災害は戦争か何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない》と書き出している。「すぎない」という表現は反感を買いそうであるが、地震が起きたところに人間が住んでいて、初めて災害になるのだから、冷静に捉えれば龍之介の表現は間違ったものではない。
龍之介はそれだけに《我我作家に与へる影響はさほど根深くないであらう。作家の人生観を一変することなどはないであらう》と続けているが、東日本大震災が作家にも与えた大きな影響を考えると、龍之介の指摘は正しいのかと思わされる。当時と今と違うのか、龍之介の予測が違うのか、東日本大震災も作家に大きな影響を与えたようで、実は与えていなかったのか。
ただ龍之介はこのように書いている。《災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた》。ひょっとしたら、東日本大震災でも、私たちは大きく動揺したけれど、根深いところまで行っていないのかもしれない。そのあたりはもっと深く分析しなければ、結論付けることはできないが、私は龍之介のつぎの指摘は「当たり!」ではないかと思う。《我我ははげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない》。
人間の心理をつかみ取るような龍之介の指摘。つぎの一文からもうかがい知れる。《大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。》

龍之介は大震災によって、このような二つの傾向が現れるであろうと予測し、これらは相反するように思われるが、《前の傾向は多数へ訴へる小説をうむことになりさうだし、後の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい》と書いている。この指摘を大正末から昭和初期の文学で検証してみるのも、おもしろそうである。
一方、龍之介はそれどころではない。「七」は「古書の焼失を惜しむ」で、龍之介は《今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ》と書き出している。
龍之介の情報によると、表慶館(現、東京国立博物館)に陳列されていた陶器類はほとんど破損した。古書では黒川家の蔵書、安田家の蔵書、大学の図書館の蔵書も焼けた。古美術商の村幸・浅倉屋・吉吉なども焼けた。
とにかく取り返しのつかない損失だが、それを大地震の責任だけにできない、とくに《大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである》と、龍之介は手厳しい。そして龍之介はその落ち度を具体的に指摘している。大学というのは、もちろん東京帝国大学である。その図書館は漱石も愛用し、『三四郎』の中にも出てくる。大学批判は漱石も手厳しいが、龍之介もその後を継いだ感がある。
① 図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところに接近しているのが良くない。
② 休日などには図書館に小使いくらいしかいないのも良くない。
③ 書庫そのものの構造のゾンザイなのも良くない。
④ 古書の復刻をしてこなかったのも良くない。
防災上、参考になる指摘ばかりだが、要は学者に、(龍之介はそれ以上書いていないが、おそらく国家全体において)、文化軽視の傾向が強くみられることが最大の原因であると言いたげである。これは現代への警鐘と受け止めることもできる。
龍之介は《大野洒竹の一生の苦心に成つた洒竹文庫の焼け失せた丈けでも残念で堪らぬ》と記し、さらに「八九間雨柳」という士朗の編んだ俳書は二冊しかなかったが、そのうちの一冊がなくなり、《それも今は一冊になつてしまつた訣だ》、と結んでいる。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第17回――龍之介が描いた大震災 大正十二年九月一日の大震に際して④

なぜだか「四」は「東京人」という題がつけられている。とにかく、自分は東京に生れ、育ち、住んでいるので、愛郷心など感じないと言い、《東京東京と有難さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者に限つたことである。――さう僕は確信してゐた》と続けている。
するとそこへ突然、大彦の野口君が現れる。二代目大彦・野口真造の兄で、江戸染繍の大家として知られる野口功造(1888~1964)である。大地震の翌日、龍之介のもとを訪れ、一本のサイダアを中に二人は話し合っている。東京の大火の煙は田端の空さえ濁らせている。
龍之介は野口に、罹災民は続々東京を去っていると話した。《「そりやあなた、お国者はみんな帰つてしまふでせう。――」野口君は言下にかう云つた。「その代りに江戸つ児だけは残りますよ。」僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。(略)兎に角その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい》。最後まで読むと、「東京人」という題も納得である。
何があろうと、どっしりと東京に根を下ろした「東京人」。まさに東京を愛するからであろう。やはり東京が故郷であり、東京を愛している。震災によって、それに気づかされた龍之介。こそこそと故郷へ逃げ帰る「地方人」とは違うのだ。
そう言えば、犀星は故郷金沢へ「逃げ帰ってしまった」なあ。

「五」は「廃都東京」。加藤武雄に宛てた手紙である。小説家で文芸評論もおこなう加藤武雄(1888~1956)と思われる。加藤は「新潮社」からの出版物に載せるつもりだったのか、龍之介に「東京を弔う」という題で書くよう、原稿を依頼した。龍之介も加藤からの依頼では断るわけにもいかず、一旦引き受けたものの、書く気がせず、《この手紙で御免を蒙りたい》と断りの手紙を出した。その手紙が「五」は「廃都東京」の文章であるが、どうして立派に「東京を弔う」内容になっている。
龍之介は応仁の乱か何かに遇った人の歌、「汝も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」を引用して、結論的に《僕の東京を弔う気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?》と書いている。つまり、「東京を弔う」という文章は「落つる涙は」の一語で終わってしまうので、依頼された原稿という形で書くことなどできない、だから断りたい。
ところがこの一文に至るまで、龍之介は丸の内の焼け跡を歩いた時、「落つる涙は」の思いがしたが、だからと言って、このようになる前の東京に愛惜を持っていたわけでなく、江戸の昔を恋しく思っているわけでもない。そう断りを入れて、龍之介の「東京観」を記している。東京生まれの龍之介の「東京観」。私にはとても興味深い。
龍之介は書く。《僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処か折り合へない感じを与へられてゐました》。龍之介が愛する東京は「一昔前の東京」であって、急激に変わってしまった東京が焦土と化しても、惜しむ気持ちもなかったのでしょう。龍之介の中の東京は大震災前に、すでに消えてしまっていたのですから。
とは言っても、焦土と化した故郷東京を目の当たりにして、龍之介の感情も動かされたようで、《俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから》と書き、「一昔前」とはすっかり変ってしまった東京も捨てがたい思いがして、結局、何かよくわからないけれど、「落つる涙は」と云う気がしたことだけは確かであると述べている。平静を装いつつ、龍之介もやはり大震災で変わり果ててしまった東京に、大きな衝撃を受けているのだろうか。
手紙の最後に龍之介は、《僕はこの手紙を書いて了ふと》と書いて、《僕の家に充満した焼け出されの親戚故旧と玄米の夕飯を食ふのです。それから提燈に蝋燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです》と続けている。大きな被害を受けなかった芥川家は親戚の人たちなどの避難先になっていたのだろう。急に現実に戻って、「弔う」より「生きること」が先、という龍之介の思いが伝わって来る。
変わり果てた故郷東京。龍之介に「落つる涙」はあっても、感慨に浸っている余裕はなかったのかもしれない。


            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第16回――龍之介が描いた大震災 大正十二年九月一日の大震に際して③

《地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず》という文章で「三、大震に際せる感想」は始まる。龍之介は求めに応じ、いくつかの雑誌に書いたのだろうが、この「三、大震に際せる感想」では、《この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり》と、「天譴」論を展開している。
天譴(てんけん)とは「天罰」と同義語である。龍之介は自身を省みて脚にキズのない者などないだろうから、「天罰」と言われればそれまでだが、《されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし》と述べ、《否、天の蒼生に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず》と続けている。
龍之介は理解して書いているだろうが、私の頭の中は混乱してしまう。とくに《されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば》という一文。龍之介が妻子を殺した事実はないし、彼というには誰のことかよくわからない。

渋沢栄一は2021年、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で主人公として描かれ、2024年度から一万円札の顔になる。その渋沢栄一の「天譴論」は、9月9日、東京商業会議所で開かれた実業家の集まりで語られたもので、「今回の大震火災は日に未曾有の大惨害にして、之天譴に非ずや」「我が国の文化は長足の進歩を成したるも、政治、経済社交の方面に亘り、果して天意に背くことなかりしや否や」というくだりが、それにあたる。渋沢は常づね「私利を追わず公益を図る」ことを重視していたと言われ、9月10日の報知新聞には「経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか(略)この天譴を肝に銘じて東京の再造に着手せなければならぬ」との言葉が報じられている。
地震は自然のものとしても、これほどまでに大きな被害が出たのは、我々が「もうけ優先」で開発を進めて来た結果ではないか。これはまさに人間に対する天罰(現在では「人災」という言葉がよく使われる)。だから復興にあたっては、全体が益になることを考え、誰かがもうけるために事業をゆがめてはいけない、これが渋沢の主張であろう。
龍之介はこの考えに賛同しているようだが、私利私欲で世の中をゆがめたのは一部の金持ち、権力者であって、そのような力のない一般庶民まで罰を受けるのは、どう考えてみても不公平であると、納得いかないようである。
そこで龍之介は、つぎに《自然は人間に冷淡なり》と書き出して、《大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。》《自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり》と書いている。この文脈からは自然の公平性が見えてきて、先の文脈と矛盾するように思える。つまり、大震災を天の「罰」と捉えれば、罪もない人間までも被害を被るのは不公平であるが、「自然」と捉えれば、自然は分け隔てなく、人間に襲いかかる。きわめて公平に。それゆえ、きわめて容赦なく、冷淡に。要は「自然は人間に冷淡である」、このことを忘れてはならない、肝に銘ずべきであると主張しているように、私には捉えられる。この指摘は自然災害を考えるうえで、きわめて重要である。

この後、龍之介は《大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食ひしやも知るべからず》と書いて、《人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず》と、人間も中に自然をもっているのだから、人間もまた冷淡であって当然と、龍之介は言いたげである。確かに、江戸時代、天明の大飢饉(1782~88)では、人肉を食べた話しが、杉田玄白の『後見草』に記されている。
龍之介はここへ来て、重ねて《自然は人間に冷淡なり》と書き、《人間たる尊厳を抛棄すべからず》と説く。それはどういうことかと言うと、人肉を食べなければ生きていけないなら、食べても良いが、それで腹が満ち足りたら、躊躇せず自分の父母妻子を始め、隣人を愛しなさい。そしてその後、なお余力があったら、《風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし》。人間なのだから。その人間観は、人間を冷淡にし、非「人間」にしていく国家主義に抗して、芸術の重要性、必要性を説いた漱石の人間観と共通しているように、私には思われる。

龍之介は自身を省みて脚にキズのない者などないだろうし、自分などは両脚キズだらけだから、両脚切断しなければならないだろうが、この大地震を天譴と思わないし、不公平とも思わない。ただ、姉弟の家が焼かれ、数人の知友が亡くなったことに対して、《己み難き遺憾を感ずるのみ》。渋沢の「天譴論」に捉われることなく、極めて冷静。龍之介は続けて、みんな嘆いても良いけれど、絶望するな、《絶望は死と暗黒とへの門なり》。このように書いた龍之介は、4年後、自ら死の扉を開けた。きわめて矛盾するように思われるが、私には龍之介の自死は絶望から来たものではない、最期まで龍之介は「活き活きと生きていた」、生命の輝きをもっていた、そう思う。

龍之介は渋沢を相当意識していたようだ。「俺の方が才力がある」、そのように言いたげである。カンニングを見つけられた中学生のように、「天譴」など信じないで、面皮を厚くせよ。みんな!冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立しようではないか。《否定的精神の奴隷となること勿れ》。何ものにも捉われず、自由で自立した一個の人間であれ!それはまさに漱石がめざした「個人主義」を具現したものであり、民主主義の基盤でもある。漱石と龍之介、この共通した基盤の上に、お互いに惹かれ合うものを感じたのではないだろうか。
難解な面をもちながら、「三、大震に際せる感想」は文明史的にも、重要な意義をもつ小品。私はそのような印象をもった。そして、もし漱石が生きて、この大震災を体験したならば、漱石はどのような「大震に際せる感想」を書いたであろうか。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第15回――龍之介が描いた大震災 大正十二年九月一日の大震に際して②

続いて「二、大震日録」に入っても、大震災前の1923年8月25日から話しが始まる。平野屋別荘で一游亭(小穴隆一)と過ごした芥川龍之介は、鎌倉駅で久米正雄らの見送りを受け、午後1時頃、新橋駅着。そこからタクシーで聖路加病院へむかった。聖路加病院を訪れたのは、遠藤古原草(遠藤清平衛、1893~1929、俳人・蒔絵師)が入院していたからである。
8月29日になって、暑いのでもう一度鎌倉へ行こうかと思っているうち、夕方近くになって悪寒がして、38.6℃の熱。こんな時、頼りになるのが懇意にしている、近くに住む下島勲医師。さっそく往診してもらうと、流行性感冒の診断。家族も風邪気味。龍之介が結婚した1918年、新型インフルエンザ(スペイン風邪)が猛威を振るい、龍之介も感染。翌年にも再感染し、実父の新原敏三はこのスペイン風邪で命を落としている。流感というと、いやな思いがよみがえるが、31日には軽快し、森鴎外の『渋江抽斎』を読んでいる。この作品には「殆ど全く」という言葉が用いられ、かつて『芋粥』を書いた時、久米に「殆ど全く」という表現を笑われたことを思い出して、《一笑を禁ずるに能はず》と記している。
そしていよいよ、運命の9月1日。龍之介が昼頃、茶の間でパンと牛乳を飲食し、お茶を飲もうとした時、大地震。龍之介は母と屋外に逃げ、妻の文は二階へ息子の多加志を助けに、伯母は梯子段の下で文と多加志を呼び続けている。ようやくみんな屋外へ出たと思ったら、父と比呂志がいない。屋内に入って比呂志を見つけて抱いて外へ出る。父も庭から出て来た。
とにかく家族全員無事だったわけだが、この間、家が大きく動き、歩行困難。瓦が10枚余落下。大きな揺れが収まると、風が吹き、土の臭いで噎ぶほど。芥川家の被害は、屋根瓦が落ちたのと、石燈籠が倒れたのみ。
やがて円月堂が見舞いに来て、龍之介は病み上がりの身体をおして、いっしょに近隣の友人知人を見舞いに行く。神明町の傾斜地では倒壊家屋数軒。月見橋のほとりに立って東京の空を眺めると、《泥土の色を帯び、焔煙の四方に飛騰する見る》という状況で、帰宅後、蝋燭・米穀・蔬菜・缶詰類を買い集めた。さすが龍之介の機転だが、田端近辺、商店が営業できる状態にあったことを示している。
夜になって、また円月堂と月見橋のほとりに行くと、《東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鉱炉を見るが如し》と、何やら「対岸の火事」のような表現。本所両国に住んでいれば、生命のキケンにさらされているところだったが、田端へ転居しておいて正解だったと言える。ところで、ここで出て来た円月堂という人、そして月見橋。どんな人なのか、どこにある橋なのか、調べてみてもよくわからない。
龍之介はこの後、《田端、日暮里、渡辺町等の人人、路上に椅子を据ゑ畳を敷き、屋外に眠らとするもの少からず》と書いている。龍之介の家から尾根筋に道灌山へ至ると、この辺りから日暮里で開成中学などもある。道灌山西側には、渡辺銀行の頭取が1916年から建設を始めた田園都市があり、渡辺町と名付けられている。渋沢栄一の田園調布より2年早く開発が始まったが、頓挫している。
龍之介は帰宅後、もう大きな揺れは来ないからと、家族を家の中で眠らせている。冷静な判断である。龍之介は《電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり》と続けている。
9月1日の日記は下島医師の夫人の話で締められている。夫人は《単身大地震の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ふ。為めに出火の患なきを得たり》という活躍で、龍之介は「渋江抽斎の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし」と評している。彼女の行動は確かに素晴らしいが、室内を移動できる程度の揺れであったことが読み取れる。「気象庁震度階級関連解説表」によると、震度5弱では歩行は可能であるが、5強では歩行が困難になり、6弱では立っていることも困難になる。下島家も5弱であったからこそ、夫人は「いほ女」のような振る舞いをできたのである。

9月2日になっても、《東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る》という状況。龍之介は円月堂に頼んで、牛込、芝などの親戚を見舞ってもらっている。《東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず》と、情報が少ないだけに不安が大きくなるのは、今も変わらない。龍之介は8月25日まで鎌倉に滞在しており、駅に見送りに来た親友久米正雄の安否がとくに気にかかったのではないだろうか。当時、久米は鎌倉の長谷に住んでいた。幸い生命に別条なく、後に『鎌倉震災記』を書いている。横須賀では修学旅行に来ていた静岡高等女学校生徒・教職員が休憩中に地震で崩壊した土砂に巻き込まれ、一名を除いて全員死亡するという惨劇も発生していた。この学校に二年後の1925年、入学したのが作詞家の江間章子(1913~2005)である。
夕方近く、帰って来た円月堂から、《牛込は無事、芝、焦土と化せり》《姉の家、弟の家、共に全焼し去れるならん》との報告を受け、龍之介は《彼等の生死だに明らかならざるを》憂いている。姉とは龍之介の実姉新原ヒサ。当時、すでに西川豊(1885~1927)と再婚し、瑠璃子(1916~2007、龍之介長男芥川比呂志と結婚)が生まれていた。弟は実父新原敏三と実母の実妹フユの間に生まれた新原得二(1898~1930)。新原家は芝区新銭座町16番地にあった。
この日、《避難民の田端を経て飛鳥山に向ふもの、陸続として絶えず。田端も亦延焼せんことを惧れ、妻は児等の衣をバスケットに収め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む》。東京市中から火に追われた人たちが大挙して広域避難地の上野公園に逃げて来た。その中には犀星夫人と、生後間もない朝子がいた。幸い、探しに来た犀星たちと巡り合うことができ、田端の自宅へ戻ったが、多くの避難民に戻るところはない。つぎつぎ押し寄せる避難民に突き出されるように、上野公園から尾根筋を、谷中・道灌山・田端と通過し、中里から先へ飛鳥山をめざしたのであろう。飛鳥山は上野と並ぶ桜の名所であり、東京市民には避難地として適切であるというイメージができていたと思われる。
飛鳥山には渋沢栄一の邸宅があった。渋沢は大地震が発生した時、日本橋兜町の渋沢事務所にいた。建物の損壊は大きく、何とか隣の第一銀行に避難し、昼食を食べ、上野公園を経て、尾根筋に飛鳥山の自宅にたどり着いた。上野公園までの避難経路は結局、すべて猛火に包まれ、渋沢事務所も全焼してしまった。渋沢はすでに83歳を迎えており、よく無事に帰宅できたものである。
渋沢が1918年から、田園都市をめざして一大事業として始めた田園調布。分譲が8月から始まったばかりであった。大震災をきっかけに、郊外で被害も少なかった田園調布は人気の住宅地になっていった。
延焼のキケンはないものの、龍之介の体内は燃えている。体温は39℃に達し、頭が重くて立っていられない状態に。不穏な情報に夜警が出ることになり、龍之介は出ることのできる状態でなく、円月堂が《脇差を横たへ、木刀を提げたる状》で夜警に出て行った。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第14回――龍之介が描いた大震災 大正十二年九月一日の大震に際して①

芥川龍之介は関東大震災の体験をもとに、『大正十二年九月一日の大震に際して』という随筆を書いている。構成は「一、大震雑記」「二、大震日録」「三、大震に際せる感想」「四、東京人」「五、廃都東京」「六、震災の文芸に与ふる影響」「七、古書の焼失を惜しむ」の七章。

この随筆、興味深いのは9月1日以前の記述から始まること。
「一、大震雑記」は、《大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別荘の客となった》で始まる。平野屋別荘とは京都の料亭「平野屋」の経営によるもので、鎌倉駅西口からすぐ。当時、料亭は経営不振から貸間として利用されるようになっていた(現在はホテルニューカマクラ、鎌倉市御成町13-2、龍之介の写真も飾られている)。ここで登場した一游亭とは、小穴隆一(おあなりゅういち、1894~1966年)である。1919年、瀧井孝作(1894~1984年)に連れられて田端の芥川家を訪れた小穴は龍之介の無二の親友になった。1922年、龍之介をモデルにした「白衣」を二科会に出品して話題になった。小穴は龍之介のデスマスクも描いており、慈眼寺にある墓石に刻まれた「芥川龍之介墓」も小穴の筆によるものである。
平野屋別荘で、龍之介が借りた棟の隣り棟にいたのが岡本かの子。偶然である。一家で来ていたかの子たちは、この平野屋別荘で関東大震災に遭い、10日ほどバラック住まいした後、避難所となった御用邸(現在、御成小学校の校地)に移った。
平野屋別荘では八月というのに、藤棚に藤の花が咲き、裏庭に八重の山吹も花をつけ、小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競っている。《どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。「あの時は義理にも反対したかつたけど、実際君の予言は中つたね。」久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ》。
もちろん、異常気象と地震発生は関係ないと言って良いので、龍之介の予言はたまたま当たっただけで、龍之介も自分の予言を信じていなかったのは正解である。気象と地震が多少接点をもつとしたら、9月1日に台風が九州から日本海に進んで、関東一円に風が強まっており、火災を拡げる一因になったことがあげられる。関東大震災における死者の多くが火災によるもので、強風が吹いていなければ、これほどの死者は出なかったかもしれない。

「一、大震雑記」は、一から六まである。二では《「浜町河岸の舟の中に居ります。桜川三孝。」これは吉原の焼け跡にあつた無数の貼り紙の一つである》という一文から始まる。災害の後、このように居場所を知らせることは、現在でもおこなわれる。桜川さんには知り合いに水上生活者がいて、そこに身を寄せたのだろう。ごく自然であるのだが、龍之介は《真面目に書いた文句かも知れない》が「哀れにも風流」と評し、《秋風の舟を家と頼んだ幇間の姿を髣髴した》と記している。この貼り紙が吉原にあったからこそ、龍之介の想像はここまで拡がったのであろうが、じつは桜川三孝は江戸時代からの幇間(男芸者、太鼓持ち)の名であり、龍之介はそのことを知っていたのである。大震災の頃、吉原に桜川三孝の名を継ぐ者がいたのか、粋に気取ってみたのか、それはわからない。龍之介は《兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脱の気を示した幇間のゐたことは確かである》と続けている。
それにしても、龍之介は震災直後、吉原(新吉原)を訪れたことは確かである。なぜわざわざ吉原へ。吉原では遊女が逃げないように囲われ、まさに廓になっているため、地震とその後発生した火災から逃げ出すことができず、弁天池につぎつぎ飛び込み、亡くなった遊女500人のうち、弁天池で命を落とした遊女490人と言われている。このような数字を当時龍之介が知らされたとは考えられないが、震災にともなう火災で遊女たちは逃げることができたのか、気になるところだったのだろう。吉原の惨状を目の当たりにしたからこそ、桜川三孝という幇間の名がことさら際立ったと思われる。

《大地震のやつと静まつた後、屋外に避難した人人は急に人懐かしさを感じ出したらしい》という一文から三が始まる。災害を経験した人は共感できるのではないだろうか。龍之介は《向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、――殆ど至る処に見受けられたものである》と続けている。このような時だからこそ、まさに「絆のホルモン」とも呼ばれる「オキシトシン」があふれ出ていたのであろう。
この後、龍之介はポプラ倶楽部の芝生に避難して来た人びとを描き、《背景にポプラアの戦いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも楽しさうに打ち解けてゐた》《大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だった。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる》と記している。もちろん、龍之介が住む田端が震度5程度で、被害が少なかったから、余震を恐れて避難した人たちになごやかな雰囲気が生まれたのかもしれないが、龍之介の人間観が表れた一文である。このポプラ倶楽部へ避難した人びとの中に、犀星がいたことも忘れてはならない。
《僕も今度は御多分に洩れず、焼死した死骸を沢山見た》。四の書き出しである。そして、いくつかの死骸描写がある。その中で、手をゆかたの胸の上に組み合わせ、静かに宿命を迎えた死骸。苦しみ悶えた死骸ではない。龍之介はその死骸に哀れを感じたが、妻の文は《「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」》。まことに冷静な判断であるが、そして実際それが正しいのだろうが、《僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである》と、妻に一本取られた龍之介の悔しさがにじむ。

この後、五に入ると、有名な自警団の話しである。
《僕は善良な市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた》。当時、さまざまな噂、デマが飛び交い、それが虐殺にまで発展するのだが、自警団もそのような噂、デマを信じ、自衛しようとする行為であった。龍之介は積極的に自警団に加わり、リーダー的役割を果たすのだが、菊池は流布される情報を信じない。「嘘だよ、君」と龍之介を一喝する。龍之介は、《野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池のために惜まざるを得ない》、そして《尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである》。
龍之介は当時流布されていた情報を、どこまで信じていたのか、信じていないのに信じているふりをしていたのか、私にはわからない。
近藤富枝は『田端文士村』(中公文庫)で、《さて自警団は田端の諸所方々でそれぞれに作られた。東台倶楽部では、芥川の発案で、通路に丸太に梯子を固定させて通せんぼを作った。》《ところが自警団はおよそ二ヵ月余りも続けたのであるから、だんだん親睦会のようなぐあいになって、龍之介は籐椅子をもち出してそこに寝そべり、香取正彦や堆朱克彦(堆朱楊成)などが、龍之介の話術にひきこまれて、夜警に出るのが楽しみになったくらいである。「こんな雨の降った晩は、夜討があるから気をつけろ」と龍之介がおどしたり、得意のお化けの話をして面白がらせた》と書いている。龍之介の素顔が見えてくるような文章である。

続いて六に入ると、龍之介は丸の内の焼け跡。大地震の後、二回目である。馬場先の濠。ここで龍之介は水の上に頭ばかり出した少年が歌う「懐しのケンタツキイ」を聴く。龍之介は《芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである》。大震災直後であるだけに、この「芸術論」は重みがある。少なくとも私にはそのように響いてくる。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第13回――犀星が描いた大震災 『杏っ子』②(室生朝子生誕100年)

現実の犀星たちは十月になってから帰郷した。平木二六も同行した。いつかまた戻って来るつもりだったのだろう。家主谷脇岩千代との賃貸契約は解除しなかった。犀星は金沢へ帰るにあたって、芥川に辰雄の指導を託し、金沢から度々激励の手紙や葉書を送っている。
『我が愛する詩人の傳記』によると、後に百田宗治の還暦の祝いがおこなわれ、体調を壊した犀星に代わり、娘の朝子が出席した。犀星といっしょに捜した朝子が会に出席してくれたことを、百田はとても喜び、二次会まで誘ったと言う。その後、肺がんにかかって、房総海岸の岩井町に療養していた百田の見舞いに、再び父の代理として朝子が訪れている。

犀星は『杏っ子』の中で、大震災当時のことは克明に描写したものの、その後の東京の復興については記述していない。杏子の成長の方を描きたかったのであろう。けれども、戦後、夫亮吉と杏子が不仲になり、家を飛び出して来た杏子を、平四郎は日比谷にあるホテルに宿泊させている。着くと、《「このホテルは大谷石ばかりだから、まるでわたくし此処では蟹みたいね。」「これがホテルの代だ」》。平四郎はポンとホテル代を出す。
もちろんここは帝国ホテル本館。1967年に取り壊され、一部が明治村に移築された「ライト館」である。落成披露宴が開かれた日に関東大震災が起こった、いわくつきの建物だが、揺れにも耐え、焼失することもなく生き残ったものである。震災の炎から逃げ、生命をつないだ杏子が、離婚の危機にこのライト館に泊まる因縁は大きい。
現実に犀星が朝子を帝国ホテルに泊まらせたことがあるか、定かではないが、どんな因縁があろうと、私にとって帝国ホテルに宿泊することは憧れでしかない。

ある日、亮吉は今日こそ或るデパートの広告写真の金を取るといい、杏子をつれてバスに乗り、銀座四丁目で降りた。帰りのバス代はなかった。結局、カネはもらえず、二人は本郷まで歩くことに。お濠端に出て、小川町の交叉点から明治大学の坂を登り、お茶の水橋を渡った時である。震災の時に母が焼け出されてこの橋をわたったことを聞いていたが、いま、また十円も持たないでその娘が本郷まで歩いて帰ることを、杏子はまた光る眼のうちにそれを有難いことだと思って、反対にちからが出てどんどん歩いた。杏子は前向きである。震災後の復興について描かなかった犀星は、娘の復興については描いている。そしてそこには震災で救われた生命の尊さがしっかり意識されている。それが同時に、杏子、そして朝子の強さへとつながっていく。
            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第12回――犀星が描いた大震災 『杏っ子』①(室生朝子生誕100年)

《大正十二年の大震災の日には、りえ子は出産後四日目であった》。りえ子のモデルは犀星の妻とみ子、生まれた杏子のモデルは犀星の長女朝子である。
犀星にとって、関東大震災は最悪とも言える時期に襲った。と言うのも、数日前の8月27日、長女朝子が生まれていたのである。
『杏っ子』によれば、9月1日、犀星がモデルの平四郎の家に詩人の百田宗治(本名で出て来る)の夫人が、病院にりえ子を見舞いに行くといって立ち寄り、間もなくお昼に近いので昼食をたべてから、平四郎も一緒に行くことになっていた。近くの料理店でお菜のオムレツを注文したが、その出前を待ちあぐんで、甥と女中が、食卓をととのえ、茶の間に坐ったときに、突然、畳ごと持ち上げられる上下動の地震が来て、それが激しい左右動に変ったときに庭の石燈籠が、ひと息にくずれて了った。「オムレツを置いて行きますよ、や、地震だ、地震だ、大地震だ、オムレツを置いて行きますよ。」西洋料理店の出前持の声を聞いて、平四郎は庭に飛び出したが、あらゆる物体からほんの少しずつ発する鳴動が、まとまって、ごうという遠い砲撃のようなものになって聴えた。平四郎は失敗った、避姙をとくのではなかったと、変なことを頭にうかべ、赤ん坊なぞ作るのではなかったと思った。
長男豹太郎を亡くし、「今度こそは」の思いの中、やっと生まれた朝子である。その喜びから4日後に襲いかかった大地震。犀星はまさに「なにも彼もお終いの時が来た」と大きな衝撃を受けたことだろう。
『評伝』※によると、母子の安否を気遣う犀星は、小畠義種と自宅から近い駒込神明町でタクシーを拾って団子坂まで来たが、その先は通行禁止で引き返したという。義種は小畠生種の息子、悌一の弟にあたる。通説で犀星の甥にあたる(私は犀星の実父生種説をとっているので、義種は犀星の腹違いの弟にあたる)。当時、19歳。文学に憧れ、犀星を頼って東京へ出て来ていて、この大震災に遭遇した。『杏っ子』では吉種という名で登場する。
杏子こと朝子が生まれたのは浜田病院。神田区駿河台袋町13番地(現、千代田区神田駿河台2丁目5)にあり、1894年、増田知正が設立した東京産婦人科病院が前身で、1910年、浜田玄達が病院長に就任した。玄達は日本の「産婦人科学の父」と呼ばれる人物で、1914年、病院名も浜田病院に改称したが、翌年亡くなり、1919年に副院長の小畑惟清が病院長に就任していた。

大地震発生!犀星は浜田病院から避難するりさ子たちの様子を『杏っ子』に克明に描いている。犀星は災害研究にとって貴重な記録を残してくれたことになるが、犀星が見た話しではない。しかも書かれたのは関東大震災から34年後である。おそらく震災後の早い時期にとみ子から聞いて、記憶や記録に留めていたのだろうが、記憶違いや記録違いもあるだろう。どこまで事実と合致するか判然としない。とは言っても、公表されたさまざまな資料から察して、著しい演出はないように思われる。
『杏っ子』には、《病院を出ると、患者達は長い数珠つなぎになり、みんな毛布を一枚ずつ携え、りえ子はお坊さんのけさの襟のような印をまいたが、そこには、施療病院という文字が記されていた。》《駿河台の通りに出ると、行列は直ぐ一息に群衆の間に呑み込まれ、進むことも退く事も出来ない、》《気がつくと、たったいままでいた浜田病院は火に呑まれ、火を吹いていた。》《お茶の水橋にかかると、避難民が上手と下手から落ち合い、にっちも、さっちも身動きが出来なかった。》
神田三崎町などから出火した火災は駿河台を東へ延焼していく。神田神保町の方からも駿河台をかけのぼって来る。神田川を飛び火した火災が本郷台を東へ、人びとを追いかけて来る。お茶の水橋が落橋しなかったのが幸いして、駿河台から本郷台へ避難できたが、人びとは一本の命綱のようなお茶の水橋に集って来る。
《お茶の水橋を渡ると、高等師範の校庭に患者の列はながれこんだ。病院を出てから、僅かな道のりを一時間半という永い時間がかかったのだ。そして誰がいうともなく、避難先の目的地は上野公園であることが、胸につたわった》。ようやく駿河台から神田川をはさんだ対岸の師範学校までたどりついた。現在では東京医科歯科大学・附属病院になっているが、西隣りに今も順天堂病院がある。ところが、間もなく、《「順天堂に火がついた。」》。
これはもう、上野公園まで逃げるしかない。りえ子は、杏子を背負う丸山看護婦に付き添われ、「湯島天神に出る裏道」と言うから、湯島新花町の東側の道を湯島小学校の前を通って、切通坂を下って、池之端の仲通り、そして上野広小路へ出てみると、火に追われるように広い御成道を神田の方から逃げて来たのであろう、万世橋の方からも大群が上野公園をめざしており、上野山下辺りでは、火の手に追われて大群衆が浅草あたりから逃げて来る。広小路から上野の段々をのぼるまで、ほとんど一時間近くかかり、やっと避難先に指定されていた上野公園内の美術館に到着。とにかく丸山看護師の冷静な判断と励ましによって、母子ともに当座の生命は助かった。本郷台では現在の春日通り辺りまでで延焼が止まり、秋聲の家なども焼失を免れた。また、上野では駅が焼失したが、火はそのまま線路沿いに、上野山の崖に沿って伸びて行ったので、上野公園は焼失を免れ、多くの避難民の生命を守ることになった。上野公園は罹災民集団の一大集結地(いわゆる広域避難場所)になっていた。
翌9月2日。りえ子は一日がかりなら田端まで歩いて帰れると言うが、実際は歩けない。産後五日目、昨日、ここまで歩けただけでもユメみたいと言う丸山看護師。一方、余震が続く中、犀星は自宅近くのポプラ倶楽部の空き地で一夜を明かし、夜が明けて、被災した人たちが続々と上野公園に避難しているとのうわさが流れ、犀星は義種、詩人仲間の百田宗治とともに、上野公園を捜しまわる。
『杏っ子』には、《動物園裏から公園にはいると、小便の臭いと、人いきれと、人の名前を呼ぶ声と、そしてそれらの人間のながれが、縦横無尽に入り乱れ、幟に書いた人の名前、旗に記された家族の尋ね人に、鳥籠を下げた女の子までが交って息苦しく、泥鰌の生簀のようだった。》《殆ど全山隈なくさがし終えた時に、突然、一等年のわかい甥が短期美術館の建物の前に出たときに、彼はへんな声でいった。この中がくさいぞ》。こうして、昼近く、美術協会の建物(現在は上野の森美術館が建っている)に避難していた妻子と再会した。
この後、『杏っ子』では、上野公園から田端の家に戻る様子、芥川龍之介が訪ねてきたこと、動坂へ缶詰や日用品を買いに行った話、小学校における配給の話、夜警の話、戒厳令がしかれ、憲兵が立っている様子、そして金沢方面にむかう汽車が出るという、ごったがえす赤羽駅。女学生に助けられ一晩の宿。梨をもらって食べた。結局、汽車は屋根まで乗客で一杯になるものすごい混雑で、あきらめて田端へ戻ったことなどが記されている。
この震災直後の記述では、芥川の他、百田宗治・菊池寛・堀辰雄などが実名で登場する(『杏っ子』が書かれた時、実名の人物はすべて、この世にいなかった)。現実の堀辰雄は19歳。自宅が焼け、火の勢いに追われて父母とともに隅田川に飛び込んだが、母はそのまま亡くなった。

当時、犀星は田端に住んでいた。確かに大きな地震で、石燈籠が倒壊したが、子ども達は地震を面白がっており、動坂下辺りでは自動車も動いていた。谷筋にあたる現在の不忍通り一帯は震度6弱と推定されているが、上野山に続く高台にあたる谷中一帯は震度5強から5弱と推定されており、田端も同様であったと思われる。地震当時を描いた犀星の文章からも、それが裏付けられる。田端一帯ではそれほど大きな被害は出ていない。
浜田病院のある駿河台一帯も震度5弱で、上野公園までの避難経路もほとんどで震度5弱。お茶の水橋が落橋しなかったのも納得できる。建物が倒壊して道路をふさぐと言うこともほとんどなく、母子の生命を救う結果につながった。
今日では震度5程度で多大な被害が発生することはない。震度の割に大きな被害になったのは、住宅の全壊と火災である。神田区・日本橋区・京橋区・浅草区、それに隅田川を越えて、本所区・深川区のほぼ全域に火災が拡がり、火の手は下谷区・本郷区・芝区の一部に伸んだ。麹町区・赤坂区でも火災が発生した。東京市内における死者はおよそ9万千人、このうち焼死が7万6千人余と、8割以上が火災によって生命を奪われたもので、木造建築が広がった大都会における地震の恐ろしさを見せつけられた。『杏っ子』は火災を逃れて避難する人びとの姿を描き出している。
            (つづく)

※船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
【対談】 荒井麻美さんにきく

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」を掲載しています。今回は室生犀星が終の棲家を定めた馬込にある大田区立馬込図書館馬込文士村担当の荒井麻美さんの登場です。

北野:本日はよろしくお願いいたします。さっそくですが、犀星が馬込に住むようになったのは、1928年。初め、谷中に住んで、1932年、萬福寺のすぐそばに新居を構え、終の棲家になりました。犀星が住んでいた頃と、現在ではずいぶん変化していると思いますが、一言で言うと、馬込はどんなところですか。私はずいぶん、坂が多い所という印象をもちましたが。

荒井:北野さんの印象通り、馬込はかつて九十九谷と言われ、狭い坂の多い起伏のある土地が特徴です。馬込図書館も急な坂道を上った所に位置しています。

北野:馬込らしいところに図書館があるのですね。ところで、馬込は「馬込文士村」とよばれるくらい、多くの作家たちが住みました。馬込図書館には「馬込文士村資料室」がありますが、何人くらいの文士が紹介されているのですか。

荒井:馬込文士村の文士として資料の収集対象としているのは小説家、詩人、芸術家など計69名です。

北野:69名ですか。すごい数ですね。その中の一人犀星ですが、犀星に関する資料というのは、どういったものが、どのくらいあるのですか。

荒井:馬込文士村資料室では本人の著作の他、作家研究書などを収集しています。犀星関連の著作は約400冊ほどです。近年では文学館で開催される展覧会のパンフレット等も収集対象としています。

北野:これもすごい数ですね。しかも収集は書籍だけに留まらないようで……。犀星がなぜ、馬込に終の棲家を定めたのか、本人に訊いてみないとわかりませんが、荒井さんはどのように推察しますか。

荒井:馬込はとてものどかで住みやすいという印象は今もあります。図書館の利用者を見てもそう感じます。毎年、馬込文士村散歩という街歩きイベントを開催していますが、環状七号線や第二京浜など交通量の多い道路が近いにも関わらず、一歩路地に入ると閑静な住宅街となり、歴史がありそうな立派な庭つきの家が点在しています。馬込自然林といって雑木林を保存している場所があるのですが、そちらに入ると当時の馬込を体験することもできます。犀星が暮らしていた頃は、まだ農家や畑ばかりでしょうから都会にもアクセスしやすく自然が多くて四季を感じられる馬込を気に入り、長く暮らしたのだと推察します。

北野:萬福寺そばの犀星宅は、現在、室生マンションが建っていますが、馬込図書館から犀星宅まで近いのですか。

荒井:馬込図書館がある中馬込から室生マンションがある南馬込までは歩いて20分程度でしょうか。歩いて行ける距離ですので、馬込文士村散歩のルートに選ぶことが多いです。萬福寺の中にも立派な石に刻まれた犀星の句碑「笹鳴」「陽炎」がありますので、ぜひお近くに行かれた際はご覧になってください。

北野:犀星の家から大森駅まで、かなり距離があるようですが、当時は、どのような道を通って、大森駅まで行ったのでしょうか。

荒井:馬込図書館から大森駅までは徒歩で40分程度です。犀星の家からだと直線距離で30分程度です。散歩が好きだった犀星にとっては、大森駅までの距離はそこまで遠いとは感じていなかったのではないでしょうか。馬込図書館から大森駅北口を目指すには環状七号線(通称:環七)を歩いてバス通りを進むのが一般的です。環七から大森駅前の池上通りまでの道は「ジャーマン通り」とも呼ばれています。気になる名前ですが、関東大震災後の1925年から1991年までこの地にドイツ人学校があったそうです。今では学校も移転してしまい、その面影はなく名前だけが残っていますが、犀星もこの道を歩いたかもしれませんね。

北野:萬福寺そばの犀星宅の他に、馬込の中で、犀星ゆかりの場所というのは、どのようなところがありますか。個人的には「やっちゃん豆腐」など加えたいですが。犀星もそうでしたが、私も飛竜頭※が大好きなので。

荒井:実は「やっちゃん豆腐」は行ったことがなく、いつかはと思いつつ時が流れておりました。犀星のゆかりといえば、1つめは馬込第三小学校の校内にある犀星のはなれ(茶室)です。校庭の「いおの森」の一角に移築され、小さな日本庭園もあります。校内なので普段は入ることができないようです。2つめは日本画家の小林古径のアトリエと家があった場所が今は古径公園となっているのですが、犀星がよく散歩がてら古径の家の庭で飼っていた珍しい動物(なんと孔雀を飼っていました)を見に行っていたエピソードが残っていますので、ここも犀星ゆかりの場所と言えるでしょう。

北野:犀星は1939年、馬込小学校の校歌を作詞しています。馬込という地域の中で、犀星は地元の人たちと、どのような交わりがあったのでしょうか。

荒井:犀星は馬込小学校と馬込第三小学校の校歌を作詞しています。現在でも、学校で「校歌を作った人」として親しまれていて、室生犀星の名前を知っている子どもたちは多いです。

北野:私も子どもの頃から、鏡花や秋聲、犀星の名前を聞いて育ってきましたから、子どもの頃から文豪の名前に触れて育つのは、とても良いなと思います。ところで、馬込図書館はどのようなところにありますか。どのように行けば良いですか。

荒井:都営浅草線の馬込駅で下車していただき、A1出口を出て右手に行くとコンビニ(ローソン)がありますので、その前の信号を渡ります。左手に急な坂道が見えますので上がっていただいた先が馬込図書館です。駅から5分程度です。施設は開館52周年を迎えていますので古さも感じますが、昔ながらの図書館で、地元の方に長く愛されています。

北野:犀星の関わることでなくても、馬込に来たらぜひ行って欲しい、寄って欲しいという、お薦めスポット。どんなところがありますか。

荒井:古書店の「あんず文庫」がお薦めです。若い男性がお一人で開いているお店で、店名は『杏っ子』からとられているそうです。お店は小さいながらもセレクトされた本が並んでいて、雰囲気の良い隠れ家的なお店です。犀星の著作も購入することができますし、犀星へのリスペクトを随所に感じます。

北野:「あんず文庫」の「あんず」は『杏っ子』から取ったのですね。初めて知りました。馬込図書館と大森駅の中間地点あたりにあって行きやすそうなので、今度、馬込に行ったら立ち寄ってみたいと思います。定休日、要注意ですね。さて、荒井さん。図書館に勤めているから本がたくさん読める、という訳ではないでしょうが、荒井さんはどんな作家、どんな本が好きですか。また、犀星に限定してみると、この作品が好きとか印象に残っているというものはありますか。

荒井:そうですね。仕事中は読むことができないので、積読になりがちですが、面白そうな本と出会うチャンスがあるのが図書館員の良さだと思っています。話題になった作家の本はジャンルによらず幅広く読みます。最近印象に残っているのは直木賞を受賞された今村翔吾さんの『塞王の楯』です。同僚にすすめられて読んでみました。犀星の関連作品では、亀鳴屋さんから出ている『犀星映画日記』を読みました。私も映画を見ることが好きなので、犀星もいろんな映画館に足を運んでさまざまな作品を見ていたことに親近感を覚えました。感想は率直なものが多く、日記なのでプライベートな覚書のようでしたが犀星の日常を垣間見れた気がしてとても楽しめました。

北野:『犀星映画日記』という作品。私は初めて知りました。図書館に勤めていると、このような本を知る機会もあるのですね。そう言えば犀星が好きだった女の子、春子は金沢の映画館「菊水倶楽部」で働いていましたし、犀星は谷中のミヤコシネマ※※はじめ、大森ヒカリ座、大森キネマ、新井キネマなどと言った映画館に、よく観に行ったとか。そのような犀星ですから、二階堂ふみ主演の『蜜のあわれ』を、観て欲しかったです。
もう一つだけ荒井さんにお訊きしたいのですが、荒井さんは金沢へは行かれたことはあるのですか。

荒井:金沢には7年前に友人と観光で行ったことがあります。金沢21世紀美術館や兼六園、ひがし茶屋町など有名な観光地に立ち寄りました。和倉温泉にも立ち寄り、レンタサイクルを借りて町を巡り、静かでゆったりとした時を過ごしました。炙りのどぐろ丼や加賀棒茶などもおいしくいただき、楽しかった旅の思い出が残っています。また金沢に行く機会があれば、金沢三文豪の文学散歩をぜひしてみたいです。

北野:和倉温泉まで足を伸ばされたのですね。和倉温泉は鏡花も気に入っていましたし、荷風と長く親交があった関根歌は加賀屋旅館で女中さんをしていました。金沢も一度では回りきれないほど見どころがいっぱいあります。文学散歩にもうってつけの街です。犀星ゆかりの場所もたくさんあります。室生犀星記念館も見逃せませんね。図書館に勤める荒井さんには石川県立図書館も衝撃的だと思います。
荒井さんには、長時間にわたって、お忙しいところ、ほんとうにありがとうございました。

※「ひりゅうず」。本来「がんもどき」と異なるが、同じものを指すようになった。石川県は関西圏のため、「ひりゅうず」と言う場合が多かった。私は「ひりょうず」と呼んできたが、「がんもどき」より具が多く高級なものを思っていた。
※※ミヤコキネマは現在の山王1丁目43-10にあったと言われている。
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第11回――秋聲が描いた大震災 『フアイヤ・ガン』

『フアイヤ・ガン』は関東大震災が発生して二ヵ月余の1923年11月に「中央公論」に発表された。当然のことながら、今から100年前の作品であるが、今もって色あせていない。むしろますます輝きを増している作品のように、私には思える。そして、笑い話で終わっているこの作品。笑うに笑えない怖さを全編に湛えている。もし、私が今、この作品に別の名前を付けるとしたら、躊躇なく『フェイクニュース』とするであろう。

舞台は何某署。殆どすべての刑事たちが、みんな善良そうな顔をそろえている。そこへ招集がかかる。〇〇大学の××理学博士が署へ怪しげな物を持ち込んだというのである。博士が言うには、どうもこれはドイツの飛行船テツペレン(ツェッペリン)から投げた爆弾のようだという(ただし、署へ持って来た物はアメリカ製であることが博士から語られる)。もしそうであるなら、と博士は、爆発した熱は3000℃に達し、それが300m四方に拡大すると説明する。当時、まだ原爆なるものは存在しないが、まさに「ミニ原爆」並みの威力である。博士が語るには、これが第一次世界大戦の時に、ドイツによってロンドンやパリに投下され、空襲の回数は180回に達したという。博士は、《今度の地震の比じゃありませんよ。仕合せなことにはロンドン市民は地下鉄道と云う安全な逃場をもってゐましたから、まあ其の割には被害は少なかったのですが》と語っているが、第一次世界大戦から100余年経った今、キーウの人たちなどは、身を守るため、地下鉄道の駅や通路に逃げ込んでいる。進歩したのは兵器で、人間は何も進歩していないようだ。『フアイヤ・ガン』はそのようなことも考えさせてくれる。

刑事たちと××博士がおっかなびっくり論じている時、《「何だかをかしいね。」》と背広服の刑事が、カンカンの埃を払いながら言い出す。《「爆弾にしては、少し堅すぎるように思うが、爆発さすべき性質のものなら、あの真鍮の口から三千度の火熱なぞ吹く筈はないんだがな。」》
。まさにフェイクを見破る第一歩である。もちろん、博士はウソをつくために来たわけでなく、危険物と信じ切ってやって来ている。
背広刑事に続いて、ゴム足袋をはきかけていた一人が、《「そうさ、己も何だかをかしいと思うんだがね、学者の言うことだから、間違はなかろう。」》と発言。学者の権威と云うのはすごいものである。が、続いて、《「それにしても怪しいな。いくらアメリカだって、そんな危険物に会社の名をかいたレッテルを貼って売出すのは変だな。》という刑事あり、彼は《単に博士の想像に止まるんじゃないかな。何しろこの際のことだからね。常はいくら頭脳の冷静な人間でも、こうなってみると、たゞの人間だからね。」》と続ける。
ひとたび、このような発言があると、《「ほんとうだね。」》と応ずる者あり、さらに、《「博士だって、そこらの八百屋の親爺だって、何しろ避難民は一体に玄米の握飯を食ってゐるんだからね。博士の権威も何もあったもんじゃない。僕たちにしたところで、皆なと一つの人間だということを、今度くらゐ痛切に感じたことはないからね。」》と、とうとう権威も崩壊してしまう。
囚われから解放されると、《「待てよ。そう言えば己はどこかであれを見たような気がする。》と言い出す者あり、石崎巡査のところにある最新式消火器に似ていると言う。それでは行って見て来ようと、自転車で飛び出す刑事も。「英語は知らんが、博士の説明は可笑しい。」「3000℃の熱も怪しい。」「300m四方の火の海も怪しい。テツペレンだって、そんな爆弾投げないだろう。」
そうこうしているところへ、石崎巡査のところの最新式消火器が到着。見事に一致。博士が「フアイヤ・ガン」を「火の鉄砲」と日本語訳したために、英語の使用説明文がすべて爆弾の使用法として解釈され、結果的に博士は、《「何しろ余程あわてゝゐるね。語学の力だってまるで成ってやしないじゃないか。火の基をねらえと言ったろ、基をねらう筈だ、消火器だもの。」》と刑事に言われてしまう。
このフェイク騒動。博士のこじつけに、《「そうそう、我々ですら釣込まれてしまったからね。」》と、署長の苦笑で幕を閉じるが、フェイクというのは、知的レベルが高いと思われている人や、極めて冷静な態度を求められる人たちまでも、いとも簡単に取り込んでしまう。そして、この騒動の発端が、博士の次の言葉に込められている。すなわち、《「たしかに消火器に違いありません。何しろこの周りに集って、鮮人が今こゝへこれを落して逃げたと言うものがあったものですから、そいつは大変だというので、急いで御報告に及んだようなことで》、そして、博士は自分の言葉を受けて、《いやそれでこの文句がよく判る。説明者の僕自身が、どうも色眼鏡をかけてみてゐたから。」》と続ける。

秋聲に『フアイヤ・ガン』を書かせたのは、関東大震災直後に発生した朝鮮人虐殺事件であろう。色眼鏡から来るフェイク・ニュースによって、多くの朝鮮人、また社会主義者などが虐殺されていった。その怖さと、二度とこのようなことを繰り返してはいけないという思いが、秋聲にはあったのだろう。
文章を冒頭から少し過ぎたところまで戻るが、秋聲は、《刑事たちは、その時ひどく一般から恐怖されてゐる鮮人の行動や、錯誤から来た残虐などについて各自の見聴きしたことを話し合ってゐた。頻繁に警察へ舞いこんで来る報告も報告も、その元を捜索してみると、何の根拠も事実もないことが確かめられるばかりであった。彼等は各自にそんな事実を話しあって賑やかに興じ合ってゐた。》と、書いている。
そしてさらに冒頭の文章に遡っていくと、大自然の暴威の前に一様に慄えあがってゐた時なので、《手近な感情ばかりが働いてゐたから、普通の犯罪が犯罪らしくも見えなかったゞろうし、たとえそれが犯罪であったとしても、群集心理に支配された種類のものであったから、それがちょっと普通一般のことのように思われた。》《人道上許しておけない残虐が、この際仕方のないことの様に思えたり、貴重な人命が自分さえ其の災厄にかゝらなければ、何の値打もないものゝように感ぜられたりした。》と、秋聲は事態の本質をしっかり見抜いている。それはある面、まわりに惑わされず、確固たる自分の視点をもった人間だからこそ、できたことである。

この文章を読んで私はいくつかの出来事を思い出した。
大震災直後の9月3日。船橋の避難民がいる体育館で用務員が掃除をしていると、長さ10cmほどの黒焼きになったものが朝鮮人の席に落ちており、爆弾だと思い、警察に届け出た。届けたのは用務員で、博士ではなかったが、何やら『フアイヤ・ガン』を思い起こさせる。その朝鮮人は警察署に連れて来られたが、一緒について来た自警団によって、警察官の目の前で竹やりなどによって襲われ、ケガをさせられた。
その翌日には、鎌ヶ谷から船橋へ連れて来られた朝鮮人たちが、500人あまりの自警団に襲われ、女性3人を含む53人が殺された。「朝鮮人約2000人が浦安に上陸し、自転車隊を編成して船橋の無線所を襲撃にむかっている」などの情報が広がっており、船橋へ来ると皆殺しにされる危険性があると判断した警察署長が、習志野の収容所に連れて行くよう部下に指示したにも関わらず、警護していた軍が拒否し、押し問答している矢先、暴徒と化した住民の前に、警察官も手のつけようがなかったという。
このように、各地で朝鮮人虐殺がおこなわれ、6000人を超える朝鮮人が犠牲になったが、今もって正確な人数はわからない。そしてこのような虐殺の多くが、善良なる人びとによって引き起こされたのである。
犠牲者は朝鮮人、中国人、社会主義者などにとどまらない。同胞、同じ日本人も犠牲になっていた。9月6日に発生した「福田村事件」(福田・田中村事件)。たまたま香川県から薬売りに来ていた行商の一行15人が、朝鮮人だと「誤認」され、善良なる村人たちによる集団暴行で、妊婦のお腹にいた赤ちゃんも含め、10人が死亡した。まさに「朝鮮人襲来」という流言が「虐殺のスイッチ」になったのである。

善良な市民がどうして殺人集団と化してしまったのか。私はその疑問を解くカギをNHKの番組に見出した※。
「絆のホルモン」とも呼ばれる「オキシトシン」。この働きが強化されることによって、人類は他者への共感や協力性を高め、集団として生き延びてきたが、「オキシトシン」には「守るべき相手」と「そうではない相手」を線引きし、そうでない相手に対して攻撃を促す作用もあるという。つまり、自分や愛すべき家族が危機に立たされると、それを守ろうとする作用が強まる一方、排他性、攻撃性が強まっていくというわけである。
スポーツでも勝つために、味方の中では「人間愛」「絆」が強調され、その分、攻撃力が強まっていく。もし、スポーツからルールがなくなったら、試合のたびに、たくさんの死傷者がでることだろう。戦争や暴動には、もともとルールがないから、悲惨な結果を招きやすい。
大震災によって、自分も愛すべき家族も生命の危険にさらされている。「絆のホルモン」は働きを増し、隣近所の助け合いは多くの美談を生み出した。その一方、排他性、攻撃性は大いに増大し、自分たちにとって危険と認識されるものには、断固立ち向かう。と言っても、もっとも危害を加えるものは地震であるが、これは自然現象であるから、攻撃しようがない。結局はその矛先が同じ人類にむけられ、ちょっとした危険情報が拡散・拡大して、善良な市民の攻撃性を高めていった。私はそのようなことを連想してみるのである。

『フアイヤ・ガン』は国家権力の一翼を担う刑事をフェイクの謎解きをする主体とすること、そして笑い話としてのオチを設けることで、官憲の目をくぐりながら、核心に迫った、秋聲の気迫の一作であると、私は評する。

関東大震災そして朝鮮人虐殺事件など、その生々しさが残る時期に、冷静に事態を分析し、作品化した秋聲。「ただ者ではない」と私は感じるが、博士と刑事たちの、つぎのような会話も私の心を捉える。
――「(略)今度の地震にしたところでそうですよ。今少し科学者の言うことに耳を傾けて、市民が地震の性質を十分理解してゐたら、あんなにまで周章てなくとも、もっと落着いて防火に努めることもできたろうし、また不断から用意して、適当な設備もできた筈ですからね。」博士は興奮した口調で言うのであった。(「周章てなくとも」=あわてなくとも)
「いや、我々も常にいつか一度は大きな地震が来はしないかと、そんな気もしれゐたのですがな、こればかりは何うも完全な防備もできないので、みんなが平気でゐれば、自分たちも其の気になって、うかうかと暮してゐたような訳でしてね。」人の好い署長は弁解でもするように言った。
「誰でもそうなんですよ。」東北弁の若い刑事が笑顔で答えて、「実際いつ来るか判りもしないものに、始終びくびくものでゐたのでは、人間は一日も生きて行かれませんからね。今日の進歩した科学の力で、何とかこれを予知することができたら、大変に助かると思いますね。あれがせめて朝のうちにでも知れたら、被害の程度も余程少なくて済んだでしょうね。」――
地震予知は100年後の現在も実現していない。数時間前の予知もムリである。しかし、被害を少なくするための方策はあるし、実際おこなわれているものもある。つぎの関東大地震が懸念される中、私たちは100年前の秋聲の警鐘に耳を傾けなければならないのではないだろうか。

××理学博士はこんなことを言っている。
――「僕は地震学の方は判りませんがね、従来の経験で、ベリオヂカリーに……例えば六十年に一度とか、三十年目に一度とか来るものだと云う大凡のことだけは判ってゐるのだ。しかし其れ以上は今の科学の力では明確なことは判らんらしい。今度なぞも確かに地球の変動期に際してゐるのだろうが、それが経過すれば、また幾十年のあいだ先づ大きな地震はないものとみて可い訳だね。」――
「地震の周期説」である。100年前、すでにそのような学説が唱えられており、秋聲はそれを把握していたことになる。今も「地震の周期説」は語られているが、これだけ地震の多い日本では、全体でみれば周期などおかまいなく大きな地震が起きている。
関東大震災(大正関東地震)の震源域となった相模トラフは、大陸プレートである北米プレートの下へ、海洋プレートであるフィリピン海プレートが沈み込んでできたものであるが、関東地域では、さらにその下へ海洋プレートである太平洋プレートが沈み込む。二つのプレートが沈み込む場所は世界でもとても珍しいという。とにかく、そのような地域に日本の首都東京はある。
「地震の周期説」なども親しみのある口調で説明した博士は、その後、刑事たちにむかって、「例の物」をこう説明する。《「僕はこの爆弾については、相当研究したこともあるので……勿論元来が独逸で作られたものですが、これはこゝにも書いてあるとおりアメリカ製でね。ウヱルドン会社の製造に係るものです。こいつはフアイヤ・ガンと云うんで……さあ何と訳したらいゝかね、火銃とでもいうかね、つまり火の鉄砲だ。」》

※ヒューマンエイジ 人間の時代第2集 戦争 なぜ殺し合うのか (NHKスペシャル、2023年6月18日放送)

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第10回――秋聲が描いた大震災 『余震の一夜』

『余震の一夜』という題だから、関東大震災の余震の場面から始まるが、けっこう大きな揺れだったのか、本震の時、東京にいなかった秋聲にとっては、ちょっとした震災体験をすることになった。つまり、秋聲の家族だけでなく、隣近所の住人も飛び出して来て、そこで交流があり、そのまま別れるのも寂しいと、秋聲の家で「お茶」をするのである。秋聲の体験談だが、文中に登場する人物の名前は変えられている。
ここではいくつかの視点に絞って、『余震の一夜』をみていきたい。

【余震時の行動】

夜中に余震が起った。家中騒ぎ出し、秋聲も目が覚めた。いつも揺れている様に感じている秋聲はあまり動じなかった。秋聲が起上った時、妻と幼児は床の中。秋聲は幼児を抱いて縁側へ。妻は敏捷に動くには余りに疲れていた。秋聲は板戸を繰り開けた縁側の口に集って来た子どもたちを順々に降りさせ、下駄を捜して庭へ。こぶしの大樹と柘榴の老木の間に集合させる。「大きいね。」と離れから長男、二男が、同じ離れを区切って避難生活を送っているТ氏夫妻、S氏夫妻も集まって来る。実はもう一組、大震災で命からがら避難してきた夫婦がいたが、柘榴の木の下で産気づいて、産後が悪く入院していた。
《「お茶でも飲みましょう。」 そのまま別れるのが寂しかったので、私は皆なをさそって茶の室へ入って来た。老人がお茶をいれた。妻が茶棚のブリキ缶から塩煎餅を取出し、饅頭の菓子器を出して、皆なの前においた》。こうして、談笑が続く。

【大震災に遭わなかった秋聲】

1923年8月30日、秋聲は姪(三姉かをりの次女冨)の結婚式のため帰郷していた。そのため、9月1日に関東大震災が発生した時、秋聲は東京にいなかった。冨の結婚式は予定通り3日におこなわれ、秋聲が鉄道の復旧を待って東京に戻ったのは9月12日だった。
このような結果になったのは秋聲の責任ではない。けれども、多勢の子どもたちといっしょに家を守っていた妻は、《十四日目にのこのこ帰って来た私に、余り好い感じをもたなかった。一生の大難とも言うべき運命の苦痛を偕にしなかったことが彼女の飽足りなさであった》。妻と二人、露宿を共にした鏡花とずいぶん違うことになってしまった。
秋聲はさらに、《彼女の弟達が、悲痛な気持で遠くから救いに来てくれたり、友人や近隣の人達が、女子供のうえに何彼と気を配ってくれるにつけて、生死の巷をさまよわせられたあの大動乱の真中に、中心となるべき主人のゐなかった寂しさが、どのくらゐヒステリー質の彼女の心持を苛立たせたか知れなかった。「そのために私は却って働けたのかも知れませんけれど。」彼女はそう言ってゐたけれど、子供達と一緒に帰りの遅いのにじれじれしてゐたことは私にもよく判った。》と書いて、《事によるともっと酷い余震を経験させたいくらゐに思ってゐるかも知れなかった。》と続けている。

【我が家の心配――改築か引越すか】

秋聲の自宅は本郷台地上にあるため、鏡花同様、比較的揺れは少なく、震度は5弱と推定される。秋聲は、《今度の大地震では、もう其の儘ではいくらも持たないので、早く何うかしなければならない私の家も、地盤のお蔭で床の間の古壁に二筋割目が入ったのと、屋根が傷んだゝけであった。》と、状況を伝えている。
けれども余震なども続く中で、秋聲もこのままここに住み続けるか、思い切って引越すか、どうしたものかと考えるようになる。
家は古い。今回の大地震には何とか耐えたが、いつまでもつかわからない。それに、もともと地震を恐れて平屋を望んだ秋聲であったが、南東の方角に高い三階建ての下宿が、裏の家の境界一杯に建っており、朝日を遮り、風通しも悪くしており、周囲にも二階建てが立て込んで、平屋の秋聲の家だけが《穴窪のようなどん底に埋れてゐた》。
実は秋聲。《鬱陶しいこの古家の改築に見切りをつけて、どこか適当な場所へ移っても可いと思って、遠い郊外に地面を卜しておいた》のだが、妻は郊外に土地を購入したことに不満であり、経済的にも新築転居は難しい。そもそも寂しい田舎道や上り下りの億劫な郊外電車、森や田圃は妻の性に合わない。それに、居なじんだ町を離れ、愛児が永眠についた家を見捨てることもできない。秋聲は《郊外に住むことを思うと、古い町が懐かしくなったり、こゝに落着こうとすると、また心が浮ついた。》と、決断のなさを表すが、《私の生活はあっちこっちへ偏奇し、迷乱しつゝも、いつも私自身の中庸に落着いてゐるのかも知れなかった。》と、まとめられている。
余震の後の「茶飲み話し」では、いろいろおもしろい会話がなされている。
法律家のТ氏は、《保険が取れゝば、お宅なぞはつぶれてくれた方が両得でしたね。》と発言。秋聲の長男は《こんな家を買わなきゃ可かったんだ。》と言い、「この家があったからこうしていられる」と母親から言われても、《あの時一思いに引越してゐれば、こんなにこゝに執着しなくてもよかったじゃないか。》と反論。そこへ中学生の二男が、《何におれたちは、こんなところに居やしない。メキシコへでもブラジルへでも行くからね。こんな貧弱な日本なんか……》と、口を出す。「こんな危険な国でも海外へ移すということもできない。」「徳川の政策さえなかったら、日本ももっともっと海外へ発展していただろう。」「西の方へ首都を遷すのもいいかも。」など、当時の意識の一端を垣間見ることができる。遷都に関しては、日本中どこへ遷しても、地震から逃れられないように私は思う。

【無事だった婆さん】

「茶飲み話し」の話題は井村の婆さんに移る。秋聲の親友竹内が金沢の高校時代、井村の婆さんの家に下宿しており、いろいろ世話にもなり、二人で東京へ出たが、竹内が結婚してから現在に至るまで、何かと厄介な存在になった。
この井村の婆さん。73歳くらいで独居。時どき秋聲のもとも訪れていた。下町の行き詰まった路地の中に二階の一室を借りていたので、地震で助かっても火災に遭っていることは確かで、秋聲も近くの公園の池に浮かんでいる彼女の死体を想像していた。ところがこの婆さん。荷物は全部近所の人達に出させ、「岩崎の避難場」へ逃げ込んだ後、秋聲の家にやって来た。ずいぶん威張って無遠慮だったと、「茶飲み話し」に集った人たちは語る。
その時、秋聲は金沢にいたので直接経験していないが、9月8日には金沢の秋聲の前に姿を現す。彼女は《半夜を大宮で、野天で明かした。そして死物狂いになって、しかし老人の特権を可也我武者羅に主張して、威張りくさって、人を押退け押退けして》、故郷金沢へやって来た。荷物は秋聲の家に預けてきたと言う。
ここで、秋聲は井村の婆さんから貴重な情報を得る。
《「不忍池にも人死があたって?」「不忍池!なあに、そんなことは大噓。蓮が青々してゐますよ。」私はその時彼女の見聞によって、初めて本統に安心することができた》。正確な情報の重要性を感じさせられるが、このテーマは『フアイヤ・ガン』で改めて触れる。
ところで、「岩崎の避難場」とは、三菱財閥の岩崎弥太郎が深川清澄に約30000坪の土地を購入して築造した庭園(清澄庭園)で、大震災の時、ここへ多くの人達が避難して来た。その数、2万人とも言われている。
大地震にともなう火災から逃れるため、多くの人が広い空地や公園に逃げ込んだが、逃げ込んだ場所が生死を分けた。陸軍被服廠の跡地と清澄庭園は、今日、地下鉄で一駅、距離で2kmほどしか離れていない。ともに隅田川の左岸に近接する。『関東大震災で清澄庭園に逃げた2万人が助かった理由……「樹木の防火力」の歴史的事実』※によると、陸軍被服廠の跡地(約4ha)は周囲が鉄骨の板塀と幅1m程の溝。そこへ4万人程の人が避難したが、延焼速度が遅かったため、人びとが家財道具などを運び入れ、これに引火して一面火の海となり、避難民のほとんどが亡くなった。一方、清澄公園(約4.8ha)は煉瓦塀と土塁に取り囲まれ、土塁の上をはじめ各所に常緑樹が植えられ、しかも中央に池があった。どちらも周囲を民家に囲まれていたが、樹木と池の水分によって庭園内の延焼が食い止められ、2万人の生命は守られた。井村の婆さんはたまたま清澄庭園に近いところに住んでいたため命拾いしたのである。もし彼女が陸軍被服廠の跡地に逃げていたなら、おそらく性別も判別しない状態になっていたであろう。

※福嶋司:『関東大震災で清澄庭園に逃げた2万人が助かった理由……「樹木の防火力」の歴史的事実』(2023年5月31日、ネット公開)

【秋聲の地震論】

秋聲は《或地震学者は臆病になった市民が、科学の智識がないために、徒らに余震におびえて戸外へ出て寝てゐたのを非文明だと言って嗤ってゐるが》、大きな揺れの時に粗末な建物の中で安住していられないのは当然で、《その上悠久な地球の生命について、わづか三千年やそこいらの経験しかもたない我々の智識が、果して何程の権威をもつことができようか。》と続けている。秋聲という人は、人間をも非情に大きな時の流れの中に位置づけていく。私は秋聲という人が「シームレス」な人と捉えているが、まさにそのような一面がこの文章に垣間見られる。
そして秋聲は、《勿論我々はそれでも結構生きて行かれるには行かれる。生の不安と恐怖が、生活の歓びの裏づけとさえなってゐるのである。》と記しているが、この「表裏一体」の人生観は漱石とまた共鳴するものである。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第9回――鏡花が描いた大震災 『露宿』④

深夜。二時を過ぎても鶏の聲は聞こえない。《鳴かないのではあるまい。燃え近づく火の、ぱちぱちぱち、ぐわうぐわうどツと鳴る音に紛るゝのであらう。》と、この時、大通りを騎馬のひづめの音。
この後、避難場所における鏡花のまわりの状況が記される。すなわち、――白井さんの家族4人。白井さんはまだ焼けない家を守って、ここには見えない。鏡花夫妻と、濵野さんは公園の囲いの草畝を枕にして、鏡花の家の女中と一つ毛布にくるまり、この隣りに、床屋が子ども弟子づれで、仰向けに倒れている。わずか一坪足らずのところへ、荷物を左右に積んでこの人数。物干し棹にさしかけたゴザからはみ出した人たちは、傘をさして夜露をしのいだ。「露宿」である。

この避難場所に、低い草畝の内側に一張のテント。昼間は赤い旗が立っていた。どこか大商店が避難した、その店員たちが交代で荷物の番をするらしく、暮方に七三の髪に、真っ白でそこに友禅模様の派手な単衣を着た、女優まがいの女店員二三人。そのテントの中で、この真夜中に、笛を吹くような、鳥が唄うような聲が立つ。「泊って行けよ。」「いやよ。」聲を殺して「あれ、おほゝゝゝ。」やがて、キスの音。
こんな時に、「おいおい」であるが、鏡花は、《魔の所業ではない。人間の擧動である。私は此を、難ずるものでも、嘲けるのでもない。況や決して羨むのではない。寧ろ其の勇氣を稱ふるのであつた。》と書いている。
《天幕が消えると、二十二日の月は幽に煙を離れた。》と、避難所から望まれる月と土手の松と火災の煙が描かれ、続いて、白井さんの若い奥さんと幼い男児、彼女の妹の寝ている様子が少し面白げに描かれる。そして、《私は膝をついて總毛立つた。》
《唯今、寢おびれた幼のの、熟と視たものに目を遣ると、狼とも、虎とも、鬼とも、魔とも分らない、凄じい面が、ずらりと並んだ。……》と、ここから、避難所で寝ている人たちの描写が始まるのであるが、完全に鏡花の世界である。現実をじっと見ながら、そこから鏡花の世界、鏡花の描写を展開していく、鏡花文学が関東大震災の描写にもいかんなく発揮される。ここでは一々引用しない。ぜひ原文で味わってもらいたい(「青空文庫」に掲載)。
《續いて、どの獸の面も皆笑つた。》まで読み進むと、「その時であった」と、目は四谷見附の火の見櫓に転じられる。火の見櫓は、《窓に血をはめたやうな兩眼を睜いて、天に冲する、素裸の魔の形に變じた。土手の松の、一樹、一幹。啊呍に肱を張つて突立つた、赤き、黒き、青き鬼に見えた。が、あらず、それも、後に思へば、火を防がんがために粉骨したまふ。焦身早や、煙に包まれたやうに息苦しい。》と、何やら火が迫っているような気配。
鏡花は婦人と婦人の間をぬって大通りへ出る。出るまでのあいだの様子が描写され、やがて、《私は露を吸つて、道に立つた。火の見と松との間を、火の粉が、何の鳥か、鳥とともに飛び散った。が、炎の勢は其の頃から衰へた。火は下六番町を燒かずに消え、人の力は我が町を亡ぼさずに消した》。おそらく、下六番町一帯が焼けていなかったことは帰ってわかったことであろうが、火災のおさまりは感じられたのであろう。
《「少し、しめつたよ。起きて御覽。」婦人たちの、一度に目をさました時、あの不思議な面は、上臈のやうに、翁のやうに、稚兒のやうに、和やかに、やさしく成つて莞璽した》。「めでたし、めでたし」みたいな感である。

『露宿』も、もうすぐ終わる。鏡花は《江戸のなごりも、東京も、その大抵は焦土と成りぬ。茫々たる燒野原に、ながき夜を鳴きすだく蟲は、いかに、蟲は鳴くであらうか。私はそれを、人に聞くのさへ憚らるゝ。》と書く。甚大な被害を目の当たりにして、生き残った鏡花は控え目である。鏡花の住む一画は、三方から猛火に攻められたものの、かろうじて焼失を免れた。鏡花が何かしたわけではない。ただ、運が良かっただけである。
鏡花は最後に、浅草寺に思いを馳せる。《確に聞く。浅草寺の觀世音は八方の火の中に、幾十萬の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたゝるばかり嚴に氣高く燒殘つた。塔の上には鳩が群れ居、群れ遊ぶさうである。尚ほ聞く。花屋敷の火をのがれた象は此の塔の下に生きた。象は寶塔を背にして白い》。不思議である。まわりは猛火の中、浅草公園1区から4区は焼けなかったのである。鏡花ならずとも、神仏の力を信じてしまいそうな奇跡である。鏡花はそこにまた、復興への確かな希望と力をみたのである。
白い象が出たから、普賢菩薩も登場しなければならない。
《普賢も影向ましますか。 若有持是觀世音菩薩名者。 設入大火。火不能燒。
 由是菩薩。威神力故。》と、鏡花は締める。

「鏡花さん。よくがんばりましたね。」と、ねぎらいの言葉をかけたくなる。

            (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第8回――鏡花が描いた大震災 『露宿』③

白井さんと床屋の親方は鏡花の家の二階の雨戸を一枚一枚閉めてゆく。これに勢いをもらって、鏡花も駆け上がり、懐中電灯頼りに、戸袋の棚から観世音の塑像一体懐に収め、机の下を壁土の中を探って、亡父が彫った鏡花の真鍮の迷子札を小さな硯の蓋にはめ込んで大切にしていたのを拾って、袂に入れた。
それから鏡花たちは御所前の広場、現在の迎賓館前(中央線の四ツ谷駅近くのトンネルは「御所トンネル」と呼ばれる)を目指して避難を開始する。時間はない。火は《尾の二筋に裂けた、燃ゆる大蛇の兩岐の尾の如く、一筋は前のまゝ五番町へ向ひ、一筋は、別に麹町の大通を包んで、此の火の手が襲ひ近いたからである》。麹町の大通とは、半蔵門前から伸びる新宿通りである。
避難の途中、鏡花たちは、《「はぐれては不可い。」「荷を棄てても手を取るやうに。」口々に言ひ交して、寂然とした道ながら、往來の慌しい町を、白井さんの家族ともろともに立退いた》。避難の鉄則ではあるが、鏡花がこのような声を上げているとしたら、まことに珍しい、非常時のなせる業であろう。
さすが鏡花は有名人である。このような時でも、「泉さんですか。」「荷物を持って上げましょう。」など、声がかかる。
横町の道の両側は、荷と人。両側二列の人。もっと火に近いところの人たちが先にこの町内へ避難して来たので。……皆、ぼう然として火の手を見ている。赤い額、蒼い頬――《辛うじて煙を拂つた絲のやうな残月と、火と炎の雲と、埃ともやと、》……《朝顔の蕾は露も乾いて萎れつゝ、おしろいの花は、緋は燃え、白きは霧を吐いて咲いて居た。》と、後から書いた文章なので、鏡花は文学的に表現しているが、おそらく避難の途中はそれどころではなかっただろう。
四谷見附を出て、御所前の公園の広場。すでに幾万の人で満ちている。鏡花たちも広場の外側の濠にむかった道端に座り込む。
「お邪魔をいたします。」「いいえ、お互いさま。」「ご無事で。」などの声が飛び交う。このような時、妙にお互い親近感が湧くものである。鏡花もそのような思いをもって、こうした言葉を聞き、心に留めたのだろう。つい隣りにいた14、5人の、ほとんど12、3人が婦人の一家は、浅草から火に追われ、火に追われて、《こゝに息を吐いたさうである》。
ここで鏡花は、《見ると……見渡すと……東南に、芝、品川あたりと思ふあたりから、北に千住淺草と思ふあたりまで、此の大都の三面を弧に包んで、一面の火の天である。中を縫ひつゝ、渦を重ねて、燃上つて居るのは、われらの借家に寄せつゝある炎であった。》と、その怖ろしい光景を描写している。鏡花たちの自宅が炎に包まれるのも、時間のように思われただろう。
と、そんなところへ、《尾籠ながら、》と来る。《私はハタと小用に困つた。辻便所も何もない》。ついに有名な「消毒液」事件の場面である。けれども、今まで一日、小用を我慢していたわけでもあるまいに。余震を恐れて屋外にいても、小用だけは屋内の便所へ駈け込んでいたのだろうか。家の中へ入ることを恐れていた鏡花であったはずなのに。小用でこんな状態だから、大の方はどうしたのか。あまりの恐怖と、ほとんど食べていないところから、大の方は出なかったのだろうか。
とにかく鏡花は妻の機転で、避難場所に近い、四谷の髪結いさんの許を頼って、人を分け、荷を避けつつ、露地を入組んだ裏屋へ、崩れた瓦の上を踏んで行き着くと、戸は開いたが人気なし。避難中で、鏡花の妻が「さあ、こっちへ」と勝手知ったる家、茶の間へ導く。「どうも恐縮です。」と鏡花が返して、二人は顔を見合わせて苦笑。鏡花が小用を済ませて手を洗おうとすると、白濁りでぬらぬらする。妻は、「大丈夫よ――かみゆいさんは、きれい好きで、それは消毒が入っているんですから。」と説明。鏡花、一礼して去る。

《夜が白んで、もう大釜の湯の接待をして居る處がある。》
9月2日。正午ごろ麹町の火は一度消え、皆、帰り支度をする。鏡花の妻も風呂敷包みを提げて駆け戻った。女中も一荷背負おうとする。ところが消えたはずの火が再び燃え拡がり、煙が黒こげに舞い上がる。鏡花は《渦も大い。幅も廣い。尾と頭を以って撃つた炎の大蛇は、黒蛇に變じて剩へ胴中を蜿らして家々を巻きはじめたのである。》と表現する。
一度、家の中に入って、神棚と玄関の三畳間の土を拂った鏡花の妻は、またこの避難場所へ戻ってきた。《私たちばかりではない。――皆もう半ば自棄に成った。》と、鏡花は書く。
夜。濵野英二と鏡花の妻が、缶詰か何かないかと四谷通りへ出向くと、物音一つ聞こえない静まり返った中で、あちらこちらの窓から、どしんどしんと戸外へ荷物を投げている。火はここからの方が押し包まれたように激しく見える。8時というのに、歩く人はほとんど二人のみ。缶詰どころか、ろうそくもマッチもない。通りかかった顔見知りの書店の厚意でゴザ二枚と番傘を借りて帰る。何につけてもほとんど「ふて寝」でもするように、疲れて倒れて寝た。
白井さんの四つになる男の子が、「おうちへ帰ろうよ、帰ろうよ。」と言って、うら若いお母さんとともに、鏡花たちの胸を痛ませ、その母親の末の妹11、2歳が一生懸命に学校用の鞄一つ膝に抱えて、少女のお伽の絵本を開けて、「何です。こんな處で。」と、叱られて、おとなしくたたんで、ほろりとさせたのも宵の間。今はもう死んだように皆眠っている。――「子ども嫌い」と言われる鏡花であるが、この一文から子どもたちに対する思いも見えてくる。とくにここで出て来る少女。もし、「みんみい」が生きていれば、この歳になっていたであろう。鏡花は1919年に7歳で亡くなった「みんみい」のことを思い出していたかもしれない。「みんみい」の死因は伝えられていないようだが、スペイン風邪の可能性もじゅうぶんある時期である。

                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第7回――鏡花が描いた大震災 『露宿』②

濵野英二は英語の教鞭をとる神田三崎町の第五中学校の開校式に臨んでいたが、小使いがひとり梁にひしがれたのとすれ違いに逃げ出したと言う。鏡花は、《あはれ、此こそ今度の震災のために、人の死を聞いたはじめであつた。》と書いている。
神田三崎町は軟弱地盤で、推定震度7。死者が出ても不思議はない。不思議なのは神田三崎町に第五中学校がないことである。神田三崎町にあるのは私立の日本大学中学校や大成中学校。一方、第五中学校は小石川駕籠町にあり、大震災の被害も軽微で、第三中学校の生徒を受け入れたくらいである。死者が出るとは思われない。濱野英二は徳島・鳴門の出身で、鏡花を師と仰ぐ実在の人物である。『露宿』は小説ではないから、事実を変える必要はない。何をどのようにまちがえたかわからないが、何かの拍子に思い違いをしたのであろう。

ここで、逸話としてよく出てくる葡萄酒が登場する。《内の女中の情で。》で始まって、日本酒は台所へ全部流れたが、葡萄酒は安物ではあるが、台所から二罎持ち出すのが命がけで、公道へ出て一杯というわけにもいかないので、土間へ入って、框にうずたかく崩れた壁土の中に、キノコの生えたような瓶から、逃げ腰で、茶わんであおった。鏡花は、《言ふべき場合ではないけれども、まことに天の美祿である。》と、評しているが、鏡花の妻も一口。普段一滴も飲まない、一軒隣の歯科の白井さんも白い仕事着のまま傾け、二杯のんだ隣の辻井さんは、向う鉢巻、肌ぬぎの元気になって、《「さあ、こい、もう一度揺つて見ろ。」と胸を叩いた》。この言葉に女性たちは快く思わなかったが、結果的にこれに勢いづいて、ゴザ・縁台を引きずり引きずり、黒塀に伝って、折れ曲がって、各自の家に取って帰すことができた。

鏡花の家はどうであったか。鏡花は、《襖障子が縦横に入亂れ、雜式家具の狼藉として、化粧の如く、地の震ふたびに立ち跳る、誰も居ない、我が二階家を、狭い町の、正面を熟と見て、塀越のよその立樹を廂に、櫻のわくら葉のぱらぱらと落ちかゝるにさへ、婦は聲を發て、男はひやりと肝を冷して居るのであった。が、もの音、人聲さへ定かには聞取れず、たまに駈る自動車の響も、燃え熾る火の音に紛れつゝ、日も雲も次第々々に黄昏れた。》と記しているが、ここで、地震も、小やみになっているので、風上とは言うものの、火事のことが心配で、鏡花が中六番町の広い通りの市ヶ谷に近い十字街へ出てみると……。
一度やや安心しただけに、口も利けず、驚く鏡花。半町(50m余)先の目の前を、火が燃え盛る様はまっ赤な大川が流れるようで、しかも無風状態だったのが、北向きに変って、一旦、九段上へ焼けぬけたのが、燃え返って、しかも低地から高台へ、逆流してくる。50m余と言うが、実際にはもっと先であるが、今度は大波のような火の塊であるから、ほんとうに間近に見えたことだろう。
鏡花は続けて、《もはや、……少々なりとも荷もつをと、きよときょとと引返した。が、僅かにたのみなのは、火先が僅かばかり、斜にふれて、下、中、上の番町を、南はづれに、東へ……五番町の方へ燃進む事であった。》と、かなり冷静な分析をしている。
実際には、中六番町から出火した火は、三番町(招魂社の南一帯)に飛び火し、そこから、上六番町へ延焼。さらに東へ一番町方面、南へ上二番町から五番町、そして元園町へと燃え広がった。五番町にあるイギリス大使館が焼けなかった。鏡花の記述は実態と合わない部分もあるが、地上から見ている火事は実に錯覚が多いので、やむをえない。
《火の雲をかくした櫻の樹立も、黒塀も暗く成った。舊暦七月二十一日ばかりの宵闇に、覺束ない提灯の灯一つ二つ、婦たちは落人が夜鷹蕎麥の荷に●(𧾷ヘンに居)んだ形で、溝端で、のどに支へる茶漬を流した。誰ひとり晝食を濟まして居なかったのである。》と書いた鏡花は、《火を見るな、火を見るな、で、私たちは、すぐ其の傍の四角に彳んで、突通しに天を浸す炎の波に、人心地もなく醉つて居た。》と、続けているが、時どき、魔の腕のようなまっ黒な煙が、おおいなる拳をかためて、世を打ちひしぐ如くに、むくむくと立ち、そこだけ火が消えかかり、下火になるだろうと思ったのも空頼みで、「ああ、悪いな、あれがいけねえ。……火の中へふすぶった煙の立つのは新しく燃えついたんで、……」と、通りがかりの消防夫が言って通っていく。

どうも、この文章を書いているところだったのだろう。水上瀧太郎がはぎれの良い声をかけて、鏡花の家の前。途中で出会ったという吉井勇もいっしょである。鏡花と妻が駈けだして、ともに顔を見て手を握った。この後、水上は8月31日から鎌倉稲瀬川の別荘にいて、別荘が潰れて家族の一人が下敷きになったが無事であり、吉井は四谷にいて無事で、家の裏の竹藪に蚊帳を釣って難を避けたことが書かれる。

そして、《――前のを續ける。……》と、本論に戻っていく。が、ここで顔を出したのが里見弴である。
弴のいで立ちが描写され、それに盛り場の女中らしいのが一人付いている。弴の話しによると、執筆のため赤坂の某旅館に滞在していたが、旅館は潰れ、不思議に窓の空所へ橋に架かった襖を伝って屋根に出て、それから山王神社の山へ逃げたが、そこも火に追われ、番町へ逃げ帰る途中に、《おなじ難に逢つて燒出されたため、道傍に落ちて居た、此の美人を拾つて來たのださうである。》と、何か落とし物でも拾ったような書き方。赤坂一帯は推定震度6弱から6強。
鏡花の家のむかいの家の二階の障子は紅。私も大火で、わが家に火が迫り来る気配を、向かいの家の板張りに感じたので、この不気味さはよくわかる。黒塀の溝端のござへ、さも疲れたようにほっとくの字に膝をつき、女性たちが出した、ぬるま湯を飲み、美人の方の風情はなまめかしい。やがて、弴はすぐそばの有島邸へ。
鏡花はついでに久保田万太郎の後日談を記している。

渋谷に住む八千代がやって来た。四谷坂町の小山内さん(阪神滞在中)の留守見舞いに行くという。八千代さんは一寸薄化粧か何かして、鬢も乱さず、杖を片手にしゃんと、きちんとしている。

そうこうしているうちに、《「雨戸をおしめに成らんと不可ません。些と火の粉が見えて來ました。あれ、屋根の上を飛びます。……あれがお二階へ入りますと、まつたく危うございますで、ございますよ。」と餘所で……經驗のある、近所の産婆さんが注意をされた。》と、これは現在でも通用する貴重な助言。この後、《實は、炎に飽いて、》から、鏡花調の描写が続き、《中天に聳えた番町小學校の鐵柱の、火柱の如く見えたのさへ、ふと紫にかはつたので、消すに水のない劫火は、月の雫が冷すのであらう。火勢は衰へたやうに思つて、微に慰められて居た處であつたのに――》
五番町から元園町へまわった火が、今度は北へむかって延焼している。番町小学校は鏡花の家より北にあるが、南に燃え盛る炎が映えて、鉄柱が火柱のように見えたのだろう。鏡花は途方にくれた。
なるほど、ちらちらと、流れ星ではない、火の粉である。地震が怖いので屋外にいるのであって、二階へ上がるのは命がけ。鏡花は「意気地なしの臆病の第一人者」。かと言って、家が燃えても良いと言うわけではない。濱野は元園町の下宿へ様子を見に行っていたが、下宿は焼け、濵野のたくさんの書籍も衣類も燃えた。意を決して鏡花と妻が家の中に飛び込もうとするのを見て、「私がしめてあげます。お待ちなさい。」と、白井さんが懐中電灯をキラリと点けて、そう言う。鏡花は頭を下げ、「俺も一番。」と、来合わせた馴染みの床屋の親方も一緒に入る。

                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第6回――鏡花が描いた大震災 『露宿』①

『露宿』は1923年10月に泉鏡太郎の名で発表されたもので、関東大震災で被災した鏡花の体験、見聞が詳しく描かれている。一部に鏡花的な表現はあるものの、事実を伝えるものとして、大震災の貴重な記録を提供してくれる。

鏡花は9月2日の真夜中から、3日の午前3時半頃の状況から書き出している。
――ほとんど5~6分おきに余震がある。とにかく人びとは夜の明けるのを「一時千秋」の思いで待っている。火の手から逃げて来た人、焼け出された人、思い思いに逃げ延びてきた人たちが、四谷見附外や新公園内外に幾千万集まり、ほとんど残らず眠りに落ちた。荷物と荷物を合わせ、ござ、筵を接して。外濠を隔てた空に凄まじい炎の影、それに映し出された人びとは、見える限り、老も若きも体裁などかまわず、ころころと萎えたようにみんな倒れている。何しろ、9月1日午前11時58分に起った大地震の後、誰も一睡もしたものはないからである。――
鏡花の自宅は麹町区の下六番町(現、六番町)にある。火の手に追われて四谷見附から外濠を越えたのだろう。外濠を隔てて麹町区内の空は炎に包まれている。自宅もすでに焼けたのではないかと、鏡花は気が気でなかったと推察される。

この後、鏡花は時を戻して、自宅からの避難の様子を描いている。
――鏡花も、隣り2、3軒の人たちも、みんな裸足で逃げ出して、片側の平屋の屋根から瓦が土煙をあげて崩れる向い側を駆け抜け、いくらかキケンの少なそうな四つ角を曲がった。一方が広い庭を囲んだ黒板塀で、向い側の平屋がつぶれても30~60cm、すき間があるだろう、その黒塀に突っ伏すように取りすがった。
その手がまだ離れないうちに、1町(100m余)ほどしか離れていない中六番町から黒煙が上がり始めたのが、麹町・番町の火事の始まりである。――
この火元、現在の四番町、武蔵野大学附属千代田高等学院(当時、千代田女学校、後の千代田女学園)の北西にあたり、鏡花の自宅から300mほど。火事は近くに見えるから100mほどと思ったのもムリはない。火事はその後、北東と南南西へ延焼していく。

――黒煙があがると同時に、警鐘乱打。このような激震に、四谷見附の高い火の見櫓のてっぺんに、生きている人間がいるとは思われず、鏡花たちは雲の底で、天が「摺り半鐘(すりばん)」を打っていると思って戦慄した。そこに、「水が出ない。水道が留まった」という声が一団となって、足と地とともに震える鏡花たちの耳を貫く。息つぎに水を求めたが、火の注意に水道の如何を試みた誰かが、さっそく警告したのであろう。夢中に、誰とも覚えていない。その間近な火は樹に隠れ、棟に伏って、かえって斜めの空はるかに、一柱の炎が火を巻いて真直ぐに立った。続いて、地軸も砕けるかと思う凄まじい爆音が聞こえた。女性たちが「あっ」と言って地にひれ伏すものも少なくない。その時、横町を縦に見通しの正面の空へさらに黒煙が舞起って、北東の一天が一寸を余さずまっ黒に変わると、たちまち、どどどどどどどという、陰々たる律を帯びた重く凄い、ほとんど形容のできない音が響いて、炎の筋をうねらせた恐ろしい黒雲が、さらに煙の中を波がしらの立つごとく、烈風に駆け回る!……「迦具土(かぐつち)の神」(日本神話に出てくる「火の神」)が鉄の車を駆って大都会を焼き滅ぼす車輪の轟く音かと疑われた。「あれは何の音でしょう。」「さよう、何の音でしょう。」と、近隣の人だけで話してもよく分らず、そこに居合わせた禿げ頭で白い髯の見知らぬ老紳士に訊ねる鏡花の声も震えれば、老紳士の唇の色も、尾花の中に、例えばなめくじの這う如く土気色に変っていた。
五六日経った後、「斜めの空はるかに、一柱の炎が火を巻いて真直ぐに立った」というのは、砲兵工廠が焼けた時で、「地軸も砕けるかと思う凄まじい爆音」は日本橋本町に軒を連ねた薬問屋の薬蔵が破裂した音であることがわかった。――
砲兵工廠は新諏訪町から東へ神田川沿いの延焼と、飛び火によって焼失した。日本橋本町は日本橋北側一帯の地域で、町内や近隣の出火から四方に大きく広がった。現在でも製薬会社が多い地域である。わかってみれば、鏡花たちのいるところから離れていたが、《当時のもの可恐さは、われ等の乗漾う地の底から、火焔を噴くかと疑われたほどである。》と、鏡花は記している。
さらに鏡花は、《が、銀座、日本橋をはじめ、深川、本所、浅草などの、一時に八ヶ所、九ヶ所、十幾ヶ所から火の手の上つたのに較べれば、山の手は扨て何でもないもののやうではあるけれども、が、それは後に言ふ事で、……地震とともに焼出した中六番町の火が……いま言つた、三日の真夜中に及んで、約二十六時間。尚ほ熾に燃えたのであつた。》と続けている。

この後、鏡花は当時を冷静に振り返る。
――その当時、風は荒かったが、真南から吹いたので、いささか身勝手のようではあるが、町内は風上。さしあたり火に襲われる恐れはない。そこで各自が、あの親不知子不知の波を、岩穴へ逃げるように、急いで入っては、さっと出て、お勝手や居室などの火を消して、用心して、それに何よりも気をつけたのは、足袋と履物で、すわ逃げ出すと言う時に、自宅への出入りにも、ガラス、瀬戸物のかけら、折れ釘でケガをしないことであった。――と、鏡花、地震避難の心得を見事に書いている。
そのうち、鏡花はすきをみて、縁台、薄縁などを持ち出し、何が何でも今夜は戸外で明かす覚悟をして、《まだ湯にも水にもありつけないが、吻と息をついた處へ――前日みそか、阿波の徳島から出京した、濱野英二さんが駈けつけた》。

                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第5回――藤村と荷風の被災

これまで取り上げてきた文豪、鏡花・秋聲・犀星・龍之介の自宅、いずれも関東大震災における震度は5弱と推定される。これはいずれも洪積台地である武蔵野台地上に自宅があったからだ。自宅が焼失した人もいない。こうなると、藤村も荷風も同様ではないかと思いたくなるが、その通り、まさに「同様」なのだ。
藤村の自宅は飯倉片町、荷風は市兵衛町、ともに麻布台の台地上にある。二人の家は早足なら5分もあれば行くことができる距離である。藤村の自宅は坂を少し下ったところだが、地質的には台上と同じである。この辺りでも、一部に震度5強と推定されるところもあるが、概ね震度5弱と推定されている。
火災の延焼も、藤村の家は飯倉地区へ入る手前で止まり、荷風の家は市兵衛町へ入ったところで辛うじて止まったため、二人とも自宅の焼失を免れた。やはり、どこに住むかは災害に際して、大きな違い、明暗を生み出す。
港区のデジタル版「港区のあゆみ」も、《麻布区の被害はまったく無いに等しかった》と伝えている。

藤村が大震災発生時の自身の状況について記したものは探してみても見つからない。これに対して荷風は日記(断腸亭日乗)をつけていたので、その様子を知ることができる。
9月1日の日記には、《日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落来るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を弁せず。児女雞犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。予もまた徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。》と、地震発災時のようすが詳しく記されている。続けざまに余震が発生したこととともに、屋根瓦が落ちていないところから、偏奇館あたりの震度を5弱とするのは妥当であると考えられる。続けて荷風は、《昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三人の外客椅子に坐したり。》と書いており、とにかくホテルも食事を提供できる状況であったことがうかがえる。
山形ホテルは現在麻布市兵衛町ホームズ(六本木1丁目7-24)にあった。「山形ホテル跡」の説明板によると、山形ホテルは1920年から1925年まで営業したホテルで、俳優山形勲の父巌が開いた。偏奇館の南100m程のところにあり、間に小さな谷があった。荷風は食事や接客のために頻繁に利用していた。
《食後家に帰りしが振動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。》と言っているうちに腹がすいて来たようで、《ホテルにて夕餉》をなす。混乱した様子などは伝わってこない。そればかりか荷風は、《愛宕山に登り市中の火を観望す。》と、まさに「対岸の火事」状態である。このあたり、中学生の頃、台風見物に出かけて交番に避難した経験をもつ私には批難する資格がない。
《十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。》と、荷風は愛宕山を後に自宅へむかっている。江戸見坂は虎ノ門2丁目のホテルオークラの東側を麻布台へ上る坂。葵橋は霊南坂を下りて、外濠、現在の特許庁前交差点あたりに架かっていた。荷風は続けて、《河原崎長十郎一家来たりて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり》。震度6強を示した溜池あたりで発生した火災が、東へ延焼し、さらに向きを南に変えて、地震被害が少なかった麻布台へ駆け上って来たのである。もう少し延焼していれば、「対岸の火事」と高をくくっていた荷風の家も焼失するところであった。関東大震災が火災によって被害が深刻化した様子がうかがえる。

直接、大地震を経験した鏡花、犀星、龍之介、藤村、荷風、それに金沢へ行っていたために直接経験しなかった秋聲、以上6人の文豪。作品の中で、関東大震災をどのように描いていったか、震災後の復興と爪痕をどのように描いていったか、この後、みていくことにしたい。

                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第4回――犀星と龍之介の被災②

夜が明けて、9月2日。被災した人たちが続々と上野公園に避難しているとのうわさが流れ、犀星は義種、詩人仲間の百田宗治とともに、上野公園を捜しまわり、昼近く、美術協会の建物(現在は上野の森美術館が建っている)に避難していた妻子と再会した。犀星はこうした様子を『杏っ子』に描いているが、後に詳しく記すことにしたい。
龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』に、9月2日の様子を、《東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る》と記している。龍之介は円月堂に頼んで、牛込、芝などの親戚を見舞ってもらっている。《東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず》と、情報が少ないだけに不安が大きくなるのは、今も変わらない。龍之介は8月25日まで鎌倉に滞在しており、駅に見送りに来た親友久米正雄の安否がとくに気にかかったのではないだろうか。当時、久米は鎌倉の長谷に住んでいた。幸い生命に別条なく、後に『鎌倉震災記』を書いている。
夕方近く、帰って来た円月堂から、《牛込は無事、芝、焦土と化せり》《姉の家、弟の家、共に全焼し去れるならん》との報告を受け、龍之介は《彼等の生死だに明らかならざるを》憂いている。姉とは龍之介の実姉新原ヒサ。当時、すでに西川豊(1885~1927)と再婚し、瑠璃子(1916~2007、龍之介長男芥川比呂志と結婚)が生まれていた。弟は実父新原敏三と実母の実妹フユの間に生まれた新原得二(1898~1930)。新原家は芝区新銭座町16番地にあった。
この日、《避難民の田端を経て飛鳥山に向ふもの、陸続として絶えず。田端も亦延焼せんことを惧れ、妻は児等の衣をバスケットに収め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む》。
東京市中から火に追われた人たちが大挙して広域避難地の上野公園に逃げて来た。その中には犀星夫人と、生後間もない朝子がいた。幸い、探しに来た犀星たちと巡り合うことができ、田端の自宅へ戻ったが、多くの避難民に戻るところはない。つぎつぎ押し寄せる避難民に突き出されるように、上野公園から尾根筋を、谷中・道灌山・田端と通過し、中里から先へ飛鳥山をめざしたのであろう。飛鳥山は上野と並ぶ桜の名所であり、東京市民には避難地として適切であるというイメージができていたと思われる。

田端は家屋倒壊も少なく、火災も免れた。田端駅には救護品配給所が置かれ、瀧野川第一小学校(現、田端小学校)も被害者の救護所などとして、重要な役割を果たした。どこからか、西ヶ原の火薬庫に火をつける者がいたとか、井戸の中に毒を投げ入れる者が現れたとかデマが飛び、各地で自警団がつくられた。
『田端文士村』によると、田端でも諸所方々で自警団がつくられたが、東台倶楽部では龍之介の発案で、丸太に梯子を固定させて通せんぼをつくり、通行をチェックした。龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』の「大震雑記、五」の項で、大火の原因は朝鮮人だそうだと言う龍之介に、菊池寛が「嘘だよ、君」と言い、「不逞鮮人はボルシェビキの手先だそうだ」、と言うと、寛が「嘘さ、君、そんなことは」と言ったことを紹介し、「善良なる市民というものはボルシェビキや不逞鮮人の陰謀を信じるもの。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じているらしい顔つきを装はねばならないが、野蛮な菊池は信じもしなければ、信じる真似もしない」として、《尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。》と結んでいる。「善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる」龍之介が、陰謀を信じる者だったのか、信じているらしい顔つきをしている者だったのかわからないが、かなり積極的だったようだ。しかしながら、その内実はのどかなもので、しだいに親睦会のようになり、芥川の話術に引き込まれて、夜警に出るのが楽しみになったという。東台の自警団は二ヵ月余続いた。ポプラ倶楽部のそばにも自警団の詰所がつくられた。
龍之介は、《大地震のやつと静まつた後、屋外に避難した人人は急に人懐かしさを感じ出したらしい》と書き、《向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、――殆ど至る処に見受けられたものである》と続けている。ポプラ倶楽部の芝生に避難して来た人びとも、《背景にポプラアの戦いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも楽しさうに打ち解けてゐた》《大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だった。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる》と記している。龍之介の人間観が表れた一文である。
もちろん、龍之介が住む田端が震度5程度で、被害が少なかったから余震を恐れて避難した人たちになごやかな雰囲気が生まれたのかもしれないが、火災に逃げ惑った鏡花も、潔癖症を乗り越えて生き延びたのは、人懐かしさのなせる業だったのだろう。

震災の混乱から妻子を守ろうと、犀星は妻子を帰郷させる決意をしたが、赤羽駅には避難民が殺到しており、汽車に乗るどころではなく、一旦、田端の家に戻った。秋聲が9月12日、金沢から帰京しているので、この頃までには鉄道も復旧していたのであろう。震災直後、妻子を赤羽駅から帰郷させることができず、田端の家に戻っていた犀星は、10月になって、妻子を伴い帰郷。平木二六も同行した。いつかまた戻って来るつもりだったのだろう。家主谷脇岩千代との賃貸契約は解除しなかった。
犀星の住んだ田端523番地の借家には芥川の世話で菊池寛が住むようになった。菊地は本郷駒込神明町317番地に住んでいたが、震災のため家主が戻って来ることになり、急に立ち退きを迫られたのである。この年、文藝春秋社を立ち上げ、雑誌「文藝春秋」で順調な滑り出しをしていた矢先の大震災。九月号は全焼、十月号は休刊。そして立ち退き。菊地は田端で二ヵ月過ごし、雑司ヶ谷へ移り、代わって酒井真人が住むようになった。酒井は作家で、後に映画評論家になった。1898年、金沢に生まれ、東京帝国大学英文科を卒業。川端康成らと第6次「新思潮」刊行。文藝春秋編集同人として菊地と親しい関係にあった。



【参考文献】

武村雅之:『1923年関東地震による東京都中心部(旧15区内)の詳細震度分布と表層地盤構造』、日本地震工学会論文集、第3巻、第1号、2003年
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
森勲夫:『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』
    橋本確文堂、2010年
近藤富枝:『田端文士村』、中央公論新社、1983年(改版2003年)


                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第3回――犀星と龍之介の被災①

犀星と龍之介はともに田端に住んでおり、自宅で大きな揺れを感じた。田端は武蔵野台地の東端に位置し、東は急崖、西へ緩やかに傾斜している。犀星、龍之介の自宅も鏡花や秋聲同様、台地上にあり、震度は5弱から5強と推定されている。したがって、自宅が大きく損傷したとか、家族が死傷したと言う情報はもたらされていない。
地震発生時の様子を、犀星は『杏っ子』、龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』で、詳しく書いている。

犀星が『杏っ子』を書いたのは大震災から30年以上経過した1957年であり、しかも小説であるから、すべてを事実として捉えることはできないかもしれないが、当時の状況を知る貴重な手がかりであり、引用してみたい。
《その日、平四郎の家に詩人の百田宗治の夫人が、病院にりえ子を見舞いに行くといって立ち寄り、間もなくお昼に近いので昼食をたべてから、平四郎も一緒に行くことになっていた。近くの料理店でお菜のオムレツを注文したが、その出前を待ちあぐんで、甥と女中が、食卓をととのえ、茶の間に坐ったときに、突然、畳ごと持ち上げられる上下動の地震が来て、それが激しい左右動に変ったときに庭の石燈籠が、ひと息にくずれて了った。「オムレツを置いて行きますよ、や、地震だ、地震だ、大地震だ、オムレツを置いて行きますよ。」西洋料理店の出前持の声を聞いて、平四郎は庭に飛び出したが、あらゆる物体からほんの少しずつ発する鳴動が、まとまって、ごうという遠い砲撃のようなものになって聴えた。平四郎は失敗った、避姙をとくのではなかったと、変なことを頭にうかべ、赤ん坊なぞ作るのではなかったと思った。これは大地震だ、なにも彼もお終いの時が来た、》
犀星は平四郎の名を借りて、「失敗った、避姙をとくのではなかった」と書いている。実は、関東大震災は最悪とも言える時期に犀星を襲ったのである。と言うのも、数日前の8月27日、長女朝子が生まれ、母子ともに神田駿河台の浜田病院に入院中だった。豹太郎を亡くし、「今度こそは」の思いの中、襲いかかった大地震である。田端の家は無事だったが、家屋が密集した東京市内はどうなっているのか。『評伝室生犀星』※によると、犀星は小畠義種と自宅から近い駒込神明町でタクシーを拾って団子坂まで来たが、その先は通行禁止で引き返したという。このような大災害の中でもタクシーが走っていたとは驚きである。
なお、『杏っ子』に登場した甥は小畠義種がモデルである。義種は小畠生種の息子、悌一の弟にあたる。当時、19歳。文学に憧れ、伯父犀星(私は犀星の実父生種説をとっているので、犀星の腹違いの弟にあたる)を頼って東京へ出て来ていて、この大震災に遭遇した。

『大正十二年九月一日の大震に際して』によると、龍之介は昼頃、茶の間でパンと牛乳を飲食し、お茶を飲もうとした時、大地震が襲った。龍之介は母と屋外に逃げ、妻の文は二階へ息子の多加志を助けに、伯母は梯子段の下で文と多加志を呼び続けている。ようやくみんな屋外へ出たと思ったら、父と比呂志がいない。屋内に入って比呂志を見つけて抱いて外へ出る。父も庭から出て来た。
とにかく家族全員無事だったわけだが、この間、家が大きく動き、歩行困難。瓦が10枚余落下。大きな揺れが収まると、風が吹き、土の臭いで噎ぶほど。芥川家の被害は、屋根瓦が落ちたのと、石燈籠が倒れたのみ。
9月1日の日記は下島医師の夫人の話で締められている。夫人は《単身大地震の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ふ。為めに出火の患なきを得たり》という活躍で、龍之介は「渋江抽斎の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし」と評している。彼女の行動は確かに素晴らしいが、室内を移動できる程度の揺れであったことが読み取れる。「気象庁震度階級関連解説表」によると、震度5弱では歩行は可能であるが、5強では歩行が困難になり、6弱では立っていることも困難になる。下島家も5弱であったからこそ、夫人は「いほ女」のような振る舞いをできたのである。
下島医師の家は龍之介の家から坂を少し下りたところにある。犀星の『杏っ子』の描写、龍之介の記述を今日の「気象庁震度階級関連解説表」と照らし合わせてみても、田端一帯、概ね震度5弱は妥当であろう。

その日の夕方の情報では、浜田病院は午後3時頃、焼失したと言う。避難先は不明。安否不明。犀星の不安はつのるばかりであっただろう。余震が続く中、犀星は自宅近くのポプラ倶楽部の空き地で一夜を明かした。
『田端文士村』※によると、ポプラ倶楽部は付近の避難民でいっぱいになり、そればかりか、田端の隣りにある渡辺町(現、日暮里9丁目)にいた彫刻家藤井浩祐一家がモデルも含めて十何人、日本画家の木村武山夫妻もやって来たと言う。ポプラ倶楽部は田端に住む美術家たちの交流の場としてつくられたテニスコートのあるクラブハウスで、コートは2面、300坪の敷地の周囲にポプラが植えられていた。犀星の書生をしていた平木二六が前年から番人役として住み込んでいた。犀星が世話したものである。現在、田端保育園が建っている。
一方、『大正十二年九月一日の大震に際して』によると、龍之介の方は病み上がりであったが、円月堂が見舞いに来て、いっしょに近隣の友人知人を見舞いに出かけた。神明町の傾斜地では倒壊家屋数軒。月見橋のほとりに立って東京の空を眺めると、《泥土の色を帯び、焔煙の四方に飛騰する見る》という状況で、帰宅後、蝋燭・米穀・蔬菜・缶詰類を買い集めた。さすが龍之介の機転だが、田端近辺、商店が営業できる状態にあったことを示している。
夜になって、また円月堂と月見橋のほとりに行くと、《東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鉱炉を見るが如し》と、何やら「対岸の火事」のような表現。本所両国に住んでいれば、生命のキケンにさらされているところだったが、田端へ転居しておいて正解だったと言える。ところで、ここで出て来た円月堂という人、そして月見橋。どんな人なのか、どこにある橋なのか、調べてみてもよくわからない。
龍之介はこの後、《田端、日暮里、渡辺町等の人人、路上に椅子を据ゑ畳を敷き、屋外に眠らとするもの少からず》と書いている。龍之介の家から尾根筋に道灌山へ至ると、この辺りから日暮里で開成中学などもある。道灌山西側には、渡辺銀行の頭取が1916年から建設を始めた田園都市があり、渡辺町と名付けられている。渋沢栄一の田園調布より2年早く開発が始まったが、頓挫している。
龍之介は帰宅後、もう大きな揺れは来ないからと、家族を家の中で眠らせている。冷静な判断である。龍之介は《電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり》と続けている。

※船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
※近藤富枝:『田端文士村』、中央公論新社、1983年(改版2003年)

                        (つづく)
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《連載》文豪と関東大震災 第2回――鏡花と秋聲の被災

50歳台に入っていた鏡花は下六番町(現、六番町)の家で地震にあった。このあたりは麹町台地上にあるため、比較的揺れは少なく、震度は5強と推定されている。幸い家の倒壊は免れたが、隣町の中六番町(現、四番町)から出火し、鏡花夫妻も近隣の人たちと夢中で逃げた。しかし、しばらくして、当面大丈夫そうだということで、みんな様子を見ながら何度も家に戻り、はきものを履いたり、荷物を持ち出したりした。鏡花は小さな観世音の塑像と父が彫った真鍮の迷子札を懐にしまった。女中は台所から葡萄酒を二瓶持ち出し、鏡花夫妻は気つけ薬のつもりで一杯あおり、近所の人たちにも分けた。
ところがその後、火は飛び火し、強い北風にあおられて、上六番町(現、三番町)から一気に南へ燃え広がった。少し離れているとはいえ、いつまた風向きが変わって、類焼しないともかぎらないので、風上にあたる外堀公園へみんなで避難した。やがて里見弴がやって来て、挨拶を交わした後、有島邸へ急いで行った。里見は赤坂の旅館で仕事をしていたが、旅館がつぶれ、幸い二階にいた里見は助かって、窓から屋根伝いに降り、山王神社へ逃げたが、火に追われてさらに逃げてきたという。
結局、鏡花の住む麹町区では、飯田町(現、飯田橋)一帯、上六番町・中六番町・上二番町・下二番町・元園町(現、三番町・四番町・二番町・麹町)一帯が広範囲に焼失した。地図で見てみると、鏡花の自宅は北・東・南の三方向に焼失地域が拡がっており、よく焼けなかったと思わされる。
鏡花夫妻は二晩露宿して、3日になってようやく帰宅した。さすがに潔癖症の鏡花も、そんなことも言ってはおられず、何とか避難生活を生き延びた。ただ、便所だけはそうもいかなかったようで、すずが四谷の髪結いの家に頼み込んで、やっと用をたした。手洗鉢の水が白く濁ってぬるぬるするので、あわてて手をひっこめたが、消毒液ということがわかって一安心するという場面もあったという。

8月30日、秋聲は姪(三姉かをりの次女冨)の結婚式のため帰郷していた。9月1日、関東大震災が発生したが、冨の結婚式は予定通り3日におこなわれた。秋聲は鉄道の復旧を待って、12日、東京に戻った。秋聲の自宅は本郷台地上にあるため、鏡花同様、比較的揺れは少なく、震度は5弱と推定され、記録に残るような自宅の損傷もなく、火災も本郷3丁目あたりまで迫ったが、そこで止まったため、焼失を免れ、家族も無事であった。

作家というものは、このような恐怖体験も文章にしてしまう。
鏡花は『露宿』と『十六夜』を「女性」10月号と「東京日日新聞」(10月1日から5日まで連載)に発表した。この後、鏡花は11月、『間引菜』(「週刊朝日」)・『雨ばけ』(「随筆」)を発表した。
金沢にいて、直接大震災を体験しなかった秋聲は、報知新聞の『震災が何を人心にもたらしたか』と言う10月10日付記事に、今度の震災は日本国民の思想が際立って一変するとか、転機を示すことにはならない、少なくとも自分自身はそうであると書いている。秋聲はさらに、自然界が不安定で、何時どういうことがあるか知れないということは子どもの時分から考えていることで、幾度となくかかる災害の悲惨を想像に描いていたと、続けているのである。秋聲の人生観をよく表しているとみる人たちもいるが、もし秋聲が東京で被災していたら、どのような文章を書いたであろうか。
秋聲はこの10月、名古屋へ行き、桐生悠々と再会した。『掻き乱す音』を名古屋新聞に連載するための打ち合わせである。『掻き乱す音』は10月27日から翌年3月31日まで連載された。秋聲は11月に『ファイアガン』(中央公論)、翌年1月に『不安のなかに』(中央公論)・『余震の一夜』(改造)を発表した。いずれも震災に題材を得た作品である。

                        (つづく)
【館長の部屋】 

《連載》文豪と関東大震災 第1回――はじめに

今年は1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災から100年目にあたる。
この「勝手に漱石文学館」で、これまでに取り上げてきた文豪――夏目漱石・泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風の7人のうち、1916年に亡くなった夏目漱石を除き、6人が関東大震災を経験し、作品の中にも描き出している。徳田秋聲だけは震災時、金沢にいたので、直接の揺れを体験していないが、本連載では、関東大震災から100年の節目に、6人の文豪がどのように大震災を乗り切り、大震災を作品の中にどのように描き込んでいったのか、綴っていきたい。

1923年9月1日午前11時58分、大きな地震が関東一帯を直撃した。関東1府(東京府)6県の死者・行方不明者は13万人を超え、全半壊2万5千戸。各所で火災が発生し、おりからの強風も手伝って燃え広がり、焼失戸数は4万5千戸に達した。世に言う「関東大震災」である。
地震の規模を示すマグニチュードの概念は1935年頃から使われるようになったため、関東大震災のマグニチュードはわからないが、さまざまなデータを分析して、マグニチュード7.9と推定する専門家もいる。また、震度も明確ではないが、神奈川県南部、房総半島南部では震度7に達したとみられている。
震度は地震波の方向や地下構造などによって、地域的にかなりばらつきがあるが、東京市内では、概ね震度5。麹町区の大手町から日比谷にかけて震度6。神田区では神保町などが震度6、三崎町から麹町区の飯田町にかけて震度7。浅草区の北部でも震度6、一部に7の地域もみられる。一方、隅田川を越えた本所区・深川区は概ね震度6で、そこに7の地域が点在している。当時、震度観測がおこなわれていたわけではないので、これらの震度は木造住宅の倒壊率など各種データを分析した推定である。
このように関東大震災は大きな揺れをもたらした地震であるが、今日では震度5程度で多大な被害が発生することはない。今日の基準からみて、震度の割に大きな被害になったのは、住宅の全壊と火災である。神田区・日本橋区・京橋区・浅草区、それに隅田川を越えて、本所区・深川区のほぼ全域に火災が拡がり、火の手は下谷区・本郷区・芝区の一部に伸びていた。麹町区・赤坂区でも火災が発生した。東京市内における死者はおよそ91000人、このうち焼死が76000人余と、8割以上が火災によって生命を奪われたもので、木造建築が広がった大都会における地震の恐ろしさを見せつけられた。
この関東大震災の救援に世界各国が立ち上がり、「トモダチ作戦」が展開された。その中でもっとも大きな役割を果たしたのがアメリカであった。けれども、関東大震災によって木造建築の集まった都市が火災に弱いことを知ったアメリカは、その弱点を利用して1945年3月10日、東京大空襲をおこなった※。

※「東京 破壊と創造 関東大震災と東京大空襲」(NHK、「映像の世紀」、2022年8月29日初回放送)
※「100年前の関東大震災が東京の戦時体制を加速させた…東京大空襲に至る防災と防空の歴史」(東京新聞、2023年3月10日)

さて、泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星・芥川龍之介・島崎藤村・永井荷風、以上6人の文豪がどこに住んでいて、どのような被害に遭ったかを書く前に、「勝手に漱石文学館」の名前を冠している以上、漱石に触れないわけにはいかない。
漱石はすでに亡くなっていたが、妻鏡子はじめ夏目一家は早稲田南町の自宅、いわゆる「漱石山房」に住んでいた。この家には、1918年に結婚した長女筆子と夫の松岡譲夫妻も同居していた。筆子の結婚を機に家を買い取ったので、漱石が生活していた頃には借家だった家も、自己所有になり、改修工事がおこなわれて、木曜会の会合に使用されていた客間と漱石の書斎は母屋から切り離されていた。
「漱石山房」は北斜面ではあるが、牛込台上にあたるので、震度は5弱であったと推定される。そのため、地震によって多少の損傷はあったものの、大きな被害は免れ、家族の死傷も伝えられていない。ただ、松岡陽子マックレインが1924年1月1日に生れであることに思いいたせば、筆子は妊娠中でたいへんな思いをしたのではないだろうか。(松岡陽子マックレインと、犀星の娘室生朝子は同じ学年ということになる。)
漱石の本名は夏目金之助であるが、20年程、塩原金之助として生きて来た。したがって、夏目家の大震災とともに、塩原家の大震災にも言及しなければならないだろう。おそらく私以外、誰も言及しないであろうから。
漱石養父塩原昌之助は、漱石が亡くなって3年余り後の1919年9月15日に亡くなった(戒名、眞浄院實嶽昌道居士)ので、関東大震災を経験することはなかった。けれども、昌之助の後妻かつ、それに二番目の養子秋男(昌之助の長兄小出治吉の孫)が、漱石にもなじみの下谷区西町4番地(現在の台東区東上野二丁目8~9番)の家に暮らしていた。秋男は1901年9月21日生まれであるから、大震災の時、22歳になろうという頃であった。
この地域は全域、全焼地域である。塩原家が焼失を免れるはずはない。おそらく火に追われながら、比較的近い上野公園まで逃げたことだろう。その時、昌之助の裃・袴も持ち出したものと思われ、塩原家に現存する。何とか二人とも命拾いしたものの、かつは10月16日に死去(戒名、眞清院昌室妙道大姉)。今で言う「災害関連死」にあたるのではないだろうか。秋男がどの程度の家を再建したか定かではないが、7年程を過ごして、1930年に実家のある静岡へ戻った。

                        (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第8回 日和下駄を履いた猫

吾輩、聖坂の下まで来ているから、赤羽橋へ出て、飯倉町をめざす。こうなれば、吾輩がどこへむかっているか、諸氏には察しがつくかもしれん。『新生』には、《漸く岸本は自分の住居らしい住居に帰国後とかく定まらなかった書斎の置き場所を見つけることが出来た。そこから天文台の建築物は見えないまでも近い。何となく巴里の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓を思い出させる。そこには二階がある。神田川の川口に近い町中で七年も臥たり起きたりした以前の小楼を思い出させる。子供達はめずらしがって、家の周囲にある木の多い小路や、谷底の町の方へ続いた坂道などを走り廻った》。
まあここに、岸本こと藤村先生一家は暮らしたわけだが、『嵐』には《どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。》と書いてある。そりゃそうでしょう。坂の途中にある家に住んだんだから。それでも外出から帰って来ると、《いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。》《植木坂は勾配の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀、そこにある蔦の蔓、すべて身にしみるように思われてきた。》と、「住めば都」である。と言うか、ここは東京であるから、間違いなく「都」である。
吾輩、「路地」のところでつぎのように語った。――路地は『嵐』の最後に、《茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。》という一文があることを紹介して御免被ろう。いずれこの植木坂は、吾輩、訪れなければならない。
この予告通り、吾輩、ただ今、植木坂を訪れているのであるが、藤村先生の家を少し下ったところに植木坂の標柱がある。説明によると、どうもここから西に麻布永坂町へ上る道が植木坂のようである。それではさっきの坂は何だったのか。そう思って、さらに下ると、今度は鼠坂の標柱。「鼠!」?吾輩一瞬驚く。一応、猫族の習性として、吾輩も「鼠」と聞くと顔がほころぶ。もっとも、ある御仁の申すには、吾輩の顔はいつもほころびがあるそうな。まことに失礼な話しである。気を取り直して説明を読むと、「細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれる」とあり、続けて「一名鼬坂で、上は植木坂につながる」と書かれている。
こうなると、ますますわからん。藤村先生の家の前を通る坂は何という名前なのか。藤村先生自身は植木坂と呼んでいる。植木坂の標柱には「外苑東通りからおりる所という説もある」と書かれており、「植木坂」と言うこともできるが、鼠坂とも言われる鼬坂は、本来外苑東通りを入ったところから呼ばれていたとも言われ、そうすれば「鼬坂」が正解となる。どちらにしても、坂の名前は地元における通称であるから、人によって、時代によって、変化することはあっただろう。現実、この地域の道はすべて坂道であると言って良い。
とにもかくにも、藤村先生は生活の中の「坂」を描いた。吾輩、幾人かの文豪先生に世話になり、日和下駄を履いて各所を巡ったが、このように生活の中の「坂」を描いた先生は初めてではないだろうか。これもささやかな「比較文学」である。
藤村先生は、谷間にある坂の街を『分配』で、《不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。》と描いている。
定期預金をつくるため、銀行へ行く「私」たちを『分配』はつぎのように描いている。《自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った》、《「新橋の手前までやってください。」と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた》。
彼らは「銀行のはしご」をして、またこの坂の街に戻って来るが、吾輩は植木坂を後に神田の方へむかって行く。途中、長い榎坂を下って愛宕山の西を通る。すでに吾輩、――まずは、『新生』。愛宕山の上だ。《岸本の下宿のあるところから愛宕山へは近かった。そこへ子供達を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父と一緒に歩き廻ることを楽みにするばかりでなく、君子までも嬉しそうに随いて来た。見上げるような急な男坂の石段でも登って行くと、パノラマのような眺望がそこに展けている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った。》と紹介しているので、「坂」や「石段」が出てくるが素通りする。

昌平橋を渡ると松住町である。ここから中山道を本郷台に上る坂が湯島坂である。この後、引用する文章はすべて『春』の一節であるが、《白々と明放れたころに、岸本は家を出た。明神を左に見て、湯島の坂を下りようとすると、四月らしい朝の空気のなかに下町の町々が見られる。遠く光る霞が彼の眼に映る。映るには映ったが、何となく糊づけにでもして空に貼着けてあるように見えた。》と湯島坂は描写される。これは坂を下る様子である。上りは神田明神を右に見る。吾輩はそのまま明神下を通って、本郷台に沿って湯島天神下に進む。ここから切通坂が上っていく。
この先、本郷台に上る無縁坂は、《岸本はある邸の塀について無縁坂を下りた。不忍池が見える。》と描かれている。ある邸とは財閥の岩崎邸である。ずっと先の団子坂は《団子坂の菊人形で人の出る時節、》と描写される。吾輩は今後の塩梅も考えて切通坂を上る。ただし、すでに「淫祠」のところなどで多くを語ったので、通過である。
《切通坂を上って、猿飴の角から斜に本郷の町々を通り過ぎる。神田川に添うて飯田橋のほうへ傾斜を下りる間は、最も彼が気にいった道路であった。対岸にある樹木、小石川のほうに続く町々の眺めは彼の眼を悦ばせた。九段へは中坂から上る。富士見町、上六番町は、やがて彼を学校のほうへ導いた》。ナビゲーターのような文章である。猿飴は春日局の菩提寺麒祥院へ入る道の、春日通りをはさんで向かい側にあった。猿飴とは、どこを切っても金太郎の代りに猿の顔が出て来る飴である。その飴屋の角を曲がって、まっすぐ行くと、いつしか神田川の堀割にでる。対岸が駿河台である。お茶の水坂を下る辺りが、岸本こと藤村先生の気に入った道なのだ、などと感慨にふけっていると、水道橋。三崎町を横切って、吾輩も冬青木坂と九段坂の間にある中坂を上る。ここに硯友社があった。
吾輩、千鳥ヶ淵に出て、招魂社に沿って市ヶ谷をめざす。途中、富士見町一丁目郵便局の辺りで左折。まもなく右手が上六番町。そのまま五味坂交番のところまでやって来る。鏡花先生の『夜行巡査』の勤務場所である。哀れにも彼の巡査は殉職してしまった。
この辺りを藤村先生、《二月が来た。麹町上二番町より五味坂のほうへつづいている道路にも草の芽を見るようになった。そこは浅い谷間のような地勢で、別荘風の大きな建築物と樹木の多い庭園とに挟まれたような位置にある。》などと描写している。「春」である。女子学院のところで、本来の二番町と六番町との間の道へ戻して西へ進めば、藤村先生懐かしの明治女学校、そして鏡花先生のお宅。藤村先生のお宅はもうすぐである。
                         (完)
【文豪の東京――島崎藤村】

第8回 日和下駄を履いた猫

吾輩、聖坂の下まで来ているから、赤羽橋へ出て、飯倉町をめざす。こうなれば、吾輩がどこへむかっているか、諸氏には察しがつくかもしれん。『新生』には、《漸く岸本は自分の住居らしい住居に帰国後とかく定まらなかった書斎の置き場所を見つけることが出来た。そこから天文台の建築物は見えないまでも近い。何となく巴里の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓を思い出させる。そこには二階がある。神田川の川口に近い町中で七年も臥たり起きたりした以前の小楼を思い出させる。子供達はめずらしがって、家の周囲にある木の多い小路や、谷底の町の方へ続いた坂道などを走り廻った》。
まあここに、岸本こと藤村先生一家は暮らしたわけだが、『嵐』には《どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。》と書いてある。そりゃそうでしょう。坂の途中にある家に住んだんだから。それども外出から帰って来ると、《いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。》《植木坂は勾配の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀、そこにある蔦の蔓、すべて身にしみるように思われてきた。》と、「住めば都」である。と言うか、ここは東京であるから、間違いなく「都」である。
吾輩、「路地」のところでつぎのように語った。――路地は『嵐』の最後に、《茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。》という一文があることを紹介して御免被ろう。いずれこの植木坂は、吾輩、訪れなければならない。
この予告通り、吾輩、ただ今、植木坂を訪れているのであるが、藤村先生の家を少し下ったところに植木坂の標柱がある。説明によると、どうもここから西に麻布永坂町へ上る道が植木坂のようである。それではさっきの坂は何だったのか。そう思って、さらに下ると、今度は鼠坂の標柱。「鼠!」?吾輩一瞬驚く。一応、猫族の習性として、吾輩も「鼠」と聞くと顔がほころぶ。もっとも、ある御仁の申すには、吾輩の顔はいつもほころびがあるそうな。まことに失礼な話しである。気を取り直して説明を読むと、「細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれる」とあり、続けて「一名鼬坂で、上は植木坂につながる」と書かれている。
こうなると、ますますわからん。藤村先生の家の前を通る坂は何という名前なのか。藤村先生自身は植木坂と呼んでいる。植木坂の標柱には「外苑東通りからおりる所という説もある」と書かれており、「植木坂」と言うこともできるが、鼠坂とも言われる鼬坂は、本来外苑東通りを入ったところから呼ばれていたとも言われ、そうすれば「鼬坂」が正解となる。どちらにしても、坂の名前は地元における通称であるから、人によって、時代によって、変化することはあっただろう。現実、この地域の道はすべて坂道であると言って良い。
とにもかくにも、藤村先生は生活の中の「坂」を描いた。吾輩、幾人かの文豪先生に世話になり、日和下駄を履いて各所を巡ったが、このように生活の中の「坂」を描いた先生は初めてではないだろうか。これもささやかな「比較文学」である。
藤村先生は、谷間にある坂の街を『分配』で、《不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。》と描いている。
定期預金をつくるため、銀行へ行く「私」たちを『分配』はつぎのように描いている。《自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った》、《「新橋の手前までやってください。」と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた》。
彼らは「銀行のはしご」をして、またこの坂の街に戻って来るが、吾輩は植木坂を後に神田の方へむかって行く。途中、長い榎坂を下って愛宕山の西を通る。すでに吾輩、――まずは、『新生』。愛宕山の上だ。《岸本の下宿のあるところから愛宕山へは近かった。そこへ子供達を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父と一緒に歩き廻ることを楽みにするばかりでなく、君子までも嬉しそうに随いて来た。見上げるような急な男坂の石段でも登って行くと、パノラマのような眺望がそこに展けている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った。》と紹介しているので、「坂」や「石段」が出てくるが素通りする。

昌平橋を渡ると松住町である。ここから中山道を本郷台に上る坂が湯島坂である。この後、引用する文章はすべて『春』の一節であるが、《白々と明放れたころに、岸本は家を出た。明神を左に見て、湯島の坂を下りようとすると、四月らしい朝の空気のなかに下町の町々が見られる。遠く光る霞が彼の眼に映る。映るには映ったが、何となく糊づけにでもして空に貼着けてあるように見えた。》と湯島坂は描写される。これは坂を下る様子である。上りは神田明神を右に見る。吾輩はそのまま明神下を通って、本郷台に沿って湯島天神下に進む。ここから切通坂が上っていく。
この先、本郷台に上る無縁坂は、《岸本はある邸の塀について無縁坂を下りた。不忍池が見える。》と描かれている。ある邸とは財閥の岩崎邸である。ずっと先の団子坂は《団子坂の菊人形で人の出る時節、》と描写される。吾輩は今後の塩梅も考えて切通坂を上る。ただし、すでに「淫祠」のところなどで多くを語ったので、通過である。
《切通坂を上って、猿飴の角から斜に本郷の町々を通り過ぎる。神田川に添うて飯田橋のほうへ傾斜を下りる間は、最も彼が気にいった道路であった。対岸にある樹木、小石川のほうに続く町々の眺めは彼の眼を悦ばせた。九段へは中坂から上る。富士見町、上六番町は、やがて彼を学校のほうへ導いた》。ナビゲーターのような文章である。猿飴は春日局の菩提寺麒祥院へ入る道の、春日通りをはさんで向かい側にあった。猿飴とは、どこを切っても金太郎の代りに猿の顔が出て来る飴である。その飴屋の角を曲がって、まっすぐ行くと、いつしか神田川の堀割にでる。対岸が駿河台である。お茶の水坂を下る辺りが、岸本こと藤村先生の気に入った道なのだ、などと感慨にふけっていると、水道橋。三崎町を横切って、吾輩も冬青木坂と九段坂の間にある中坂を上る。ここに硯友社があった。
吾輩、千鳥ヶ淵に出て、招魂社に沿って市ヶ谷をめざす。途中、富士見町一丁目郵便局の辺りで左折。まもなく右手が上六番町。そのまま五味坂交番のところまでやって来る。鏡花先生の『夜行巡査』の勤務場所である。哀れにも彼の巡査は殉職してしまった。
この辺りを藤村先生、《二月が来た。麹町上二番町より五味坂のほうへつづいている道路にも草の芽を見るようになった。そこは浅い谷間のような地勢で、別荘風の大きな建築物と樹木の多い庭園とに挟まれたような位置にある。》などと描写している。「春」である。女子学院のところで、本来の二番町と六番町との間の道へ戻して西へ進めば、藤村先生懐かしの明治女学校、そして鏡花先生のお宅。藤村先生のお宅はもうすぐである。
                         (完)
【文豪の東京――島崎藤村】

第7回 日和下駄を履いた猫

いよいよ、「崖」と「坂」である。
吾輩、数日の休養の後、「坂」巡りの旅に出る。「崖」はついでに出て来るなら、それで良し。吾輩、今回は思い切って遠い所から始めることにして、四ツ谷駅から中央線の電車に忍び込み、新宿から山手線で品川へむかう。一応、東京の猫であるから、その辺は心得たものである。

吾輩、品川駅高輪口に立つ。もちろん四つ足である。吾輩、信号が変わったので横断歩道で第一京浜国道を渡って左折。東横イン品川駅高輪口の手前で右折。
何?猫は信号の色がわかるのかって?ごむりごもっとも。確かに吾輩たち猫族は赤色の判別ができん。したがって、いつでも信号は緑みたいなもんだが、そんなことやっていたら、生命がいくつあっても足らん。そもそも、自動車なんぞと言う危ないものをつくり出したのは人間であって、その犠牲に猫族がなるなど、道理に合わん。合わんが生命を守るにはいたしかたない。感覚を磨くしかない。
何?まだあるのかい。おまえさんの時代に東横インなるものがあったのかって。繰り返し言うが、吾輩は時空を超えることができる。なぜならこれは小説だからだ。小説は自由だ。自由だからおもしろい。自由だが、吾輩だって、品川駅をニューヨークに置くような無茶なことはしない。あまりに現実を無視しすぎると、仮構のリアリティが失われてしまう。これでは、嘘っぽくておもしろくない。
などと、吾輩一匹で「小説論」などこね回しているうちに、S字状に曲った上り坂を過ぎ、ほぼ平坦な直線道路に入っている。前方にまた上り坂が見えて来る。右側は崖である。『桜の実の熟する時』で捨吉が品川から高輪へむかった道はこの道で間違いない。《迫った岡はその辺で谷間のような地勢をなして、さらに勾配の急な傾斜のほうへと続いて行っている》。繁子を載せた人力車が捨吉を追い越して行く。《繁子を載せた俥はちょうど勾配の急な坂にかかって、右へ廻り、左へ廻り、崖の間の細い道をわずかばかりずつ動いて上って行った》。当時は舗装もされておらず、この坂を上った車夫はたいへんだっただろう。
坂を上り切ると、高輪台から御殿山にのびる尾根道で、右折して歩き、二本榎通りへ出る。右側、柘榴坂の下に品川駅が見える。そのまま歩いて、高輪警察署前交差点のところを左へ曲り、しばらく行くと明治学院大学である。桜田通りを渡るのはイヤなので、右へ曲って歩道伝いに坂を下り、清正公前交差点。何か窪地へはまりこんだような交差点である。
ここから東へ高輪台を上るのが天神坂で、かつて坂の上に台町教会があった。『桜の実の熟する時』には《谷を下りてまた坂になった町を上ると、向うの突当りのところに会堂の建物が見える。十字架の飾られた尖った屋根にポッと日の映じたのが見える》と描かれている。かなりの急坂で、吾輩、途中で一休みする。
天神坂を上りきると二本榎通りである。左へ曲って二本榎通りを歩むと、右手は崖。やがて、伊皿子交差点。左から魚籃坂が下って来る。直進は一旦上って、やがて聖坂の下りへかかる。右折すると、伊皿子坂。眺望の良い坂を下ると東海道である。
この二本榎通りから聖坂を通る経路は、藤村先生が明治学院への往来にたびたび利用していた。『桜の実の熟する時』にその様子が描かれている。母が上京したというので、学校から田辺の家に向かう捨吉は、土曜日の午後、秋雨あがりの中、寄宿舎を出る。《取りあえず伊皿子坂で馬車に乗って、新橋からは鉄道馬車に乗換えて行った》。夏休みになり、学校の寄宿舎から田辺の家に帰る捨吉。《高輪の通を真直に聖坂へととって、それから遠く下町のほうにある家を指して降りて行く》。夏期学校へ行くため田辺の家から《芝の公園へ出、赤羽橋へかかり、三田の通りを折れまがり、長い聖坂に添うて高輪台町へと登った。》《聖坂の上から学校までは、まだかなりあった。谷の地勢をなした町の坂を下り、古い寺の墓地についてまた岡の間の道を上って行くと、あたりはもう陰鬱な緑につつまれていた。寄宿舎の塔が見えてきた》。
まあ、坂の味わいが伝わってくるような文章ではないが、「坂」が出て来ることだけは確かである。
ここで、吾輩、『春』の一節を紹介しよう。藤村先生が尊敬する北村透谷先生葬儀の様子だ。『春』には青木として登場するが、芝公園辺りの自宅でキリスト教式葬儀をした後、白金の寺まで行く場面である。《一行は赤羽橋を渡って三田の通りに出、三丁目の角から聖坂のほうへ上らずに》、「何?上らずかい?」と突っ込みを入れたくなるが、《右へとって、それから四丁目を折れ曲った》。三丁目だ、四丁目だと、細かく言われても地元民でない限りよくわからんが、要は慶應義塾大学を過ぎて、角で右折したのである。《豊岡町、松坂町の裏通は、やがて白金へ通う樹木の多い道路である。これはやや迂回した道順ではあったが、一番上り下りが少く白金台のほうへ行くことができたからで。》と、漱石先生ばりの解説である。女性は多くが人力車を利用しているから、なるべく傾斜の少ない経路を選ぶ必要がある。藤村先生もこの辺りよく歩いているから、お手の物である。一行は立行寺の前から清正公像のある覚林寺の前に出る。
どっちにしても最後は上らなければならない。《三光町から坂にかかるころ、婦人や子供を乗せた車の列がときどき止った。若い人々が翳す美しい洋傘は、車が動くたびに、路傍の青葉に触れた。これが上りきるまで、待っているのは容易でない、こう思って、後から行った連中は白金のほうへその坂を急ごうとした》。
こんなものに付き合っていたら、吾輩、また明治学院大学の方まで連れ戻されてしまうから、あくまでも紹介だけにとどめるが、人力車夫の苦労がしのばれる一節である。
              (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第6回 日和下駄を履いた猫

『桜の実の熟する時』である。日本橋小伝馬町で乗合馬車を下車した捨吉。《人形町の賑かな通を歩いて行って、やがて彼は久松橋の畔へ出た。町中を流れる黒ずんだ水が見える。空樽を担いで陸から荷舟へ通う人が見える。竈河岸に添うて斜に樽屋の店も見える。何もかも捨吉にとっては親しみの深いものばかりだ。明治座は閉っているころで、軒を並べた芝居茶屋まで夏季らしくひっそりとしていた。そこまで行くと田辺の家は近かった。表の竹がこいの垣が結い換えられ、下町風の入口の門まですっかり新しくなったのがまず捨吉の心を引いた。》と、日本橋界隈の運河、堀割が登場する。
久松橋の畔から西へ入り込む延長200mほどの水路が竃(へっつい)河岸で、かつて竃をつくる家が多かったところから名づけられたとも。この辺りの芳町。一帯、江戸時代の「吉原」遊郭の地。水路は、吉原遊郭の曲輪の一部とも言われている。
《その日は、捨吉は芳町から荒布橋へととって、》《小舟町を通りぬけて捨吉はごちゃごちゃと入組んだ河岸のところへ出た。荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣れた市街の中でもその辺はことに彼が好きで歩いて行く道だ。鎧橋のほうから掘割を流れてくる潮、往来する荷船、河岸に光る土蔵の壁なぞは、いつ眺めて通っても飽きないものであった》。この地域を貫流するのが隅田川に流入する日本橋川。江戸橋が架かる辺り、北へ二本の水路が入り込み、南に楓川が三十間堀、八丁堀へ延びている。東側の北水路には親父橋、西側の方に荒布橋が架かり、この間が小舟町で、日本橋川沿いは末廣河岸。まさに「ごちゃごちゃと入組んだ河岸」である。江戸橋の一つ下流の橋が鎧橋。この辺りでも東京湾の干満の影響を受ける。「鎧」があるなら「兜」も。楓川に架かるのが兜橋。末廣河岸の対岸、この二つの橋の間にあるのが、日本橋兜町の東京証券取引所。藤村先生は江戸・東京の経済活動の中心地を巧みに描き出している。
吾輩、江戸橋にいる。『春』には、青木と市川の《二人は江戸橋まで、いっしょに乗って、そこで袂を分とうとした。橋の下を流れる濁った水、低く舞う鷗、舫ってある船、それから腰を曲めて船板を洗っている男――なにもかも黄昏時の空気と煙とに包まれて見えた。河岸に添うて並ぶ蔵の白壁も青白く沈んだ。なまぐさい魚類の臭気ほどこからともなく匂って来る。もうちらちら燈火がつく。橋の上には鞄を擁えたり荷物を負ったりした人々が、がらがら曳いて通る車の間を避けて、いそがしそうに往ったり来たりした》。人々が生活する場を流れる水は、生活も映している。吾輩たち猫族は人間の近くで暮らしているから、このような情景は好きである。

なお、不忍池と芝公園の蓮池とは、すでに足を運んだので、今回は行かない。路地は『嵐』の最後に、《茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。》という一文があることを紹介して御免被ろう。いずれこの植木坂は、吾輩、訪れなければならない。
              (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第5回 日和下駄を履いた猫

両国橋から新大橋にむかって、柳河岸から浜町河岸へ、大川端を吾輩は歩く。岩合光昭さんでもいたら、「猫歩き」の写真でも撮ってもらいたいものだ。
この辺り、『春』には、《大川端には柳の多くあったころのことで、黄ばんだ霜葉が地に落ちていた。水の中へも落ちた。》と、「樹木」もやっつけて、《いつ来てみても同じような隅田川の眺めは岸本の眼前にある。潮は上げている。帆をかけた船は順を追って樹と樹の間を静かに通り過ぎた。一銭蒸気も往来していたが、そのたびに気紛れな浪がやって来ては、浮いている塵芥を柳の下へ打ちつけた。》《河岸にある柳並木の蔭は、岸本が静思の場所であった。》《彼が旅に出かけようとした時も、帰って来てそこで叔父に逢った時も、今も、隅田川の水は増しもせず減りもせず、同じように冷たく流れている。岸本は柳の下で涙を流した》。
藤村先生、輔子さんのことが忘れられないようだが、これをきっかけに吾輩、三毛子のことを思い出すとたまらなくなるので、思い出すことをしない。
浜町1丁目と2丁目の境目辺りに交番がある。藤村先生、『桜の実の熟する時』に、《岸の交番のならびには甘酒売なぞが赤い荷を卸していた。石に腰掛けて甘酒を飲んでいるお店者もあった。柳の並木が茂りつづいている時分のことで、岸から石垣の下のほうへ長く垂下った細い条が見える。その条を通して流れて行く薄濁りのした隅田川の水が見える。裸体で小舟に乗って漕ぎ廻る子供もある。》と、隅田川水泳場について描いている。藤村先生は永田水泳場で「永田流」で水泳を学び、泳力をつけていったらしい。
文章は続いて、《旧両国の橋の下のほうから渦巻き流れてくる隅田川の水は潮に混って、川の中を温暖く感じさせたり冷たく感じさせたりした。浮いてくる埃塵の塊や、西瓜の皮や、腐った猫の死骸や、板片と同じように、気にかかるこの世の中の些細なことは皆ずんずん流れて行くように思われた》。このような水の中で泳いでほんとうに大丈夫なのか。漱石先生も泳いだのだから、大丈夫と思いたいのだが、それにしても「腐った猫の死骸」なる表現に、吾輩大きな衝撃を受けている。藤村先生は人間だから、ひとつの光景として平然と描いているが、吾輩は猫であるから、他猫事とは思われん。

浜町河岸である。『桜の実の熟する時』で捨吉の兄民助の下宿が設定されている。この辺り、《障子の嵌硝子を通して隅田川の見える二階座敷で、親子は実に何年ぶりかの顔を合わせた。》という記述に続いて、つぎの朝、《本所か深川のほうの工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。》《お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外はすぐ大橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右にして、夏中よく泳ぎに来た水泳場の附近に沙魚釣の連中の集まるのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くというだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室について折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこは釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でもわずかな閑を見つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。捨吉は自分でも好きなその道をとって、田辺の家のほうへお母さんを案内して行った。》と描写される。やはりこの辺り、藤村先生馴染みの場所であり、筆が進む。
新大橋は隅田川が浜町地先で大きく曲がるあたりに架けられていた。そこを過ぎると、まもなく中洲である。《隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄した》「元園町」とよばれる人のモデルは中沢臨川。岸本も誘って中洲で遊んでいたようで、《「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱るように言った。「一体、この男は馬鹿です」「ヨウヨウ」と髪の薄い女性は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番が出ましたね」》などと描かれている。臨川の実家は養命酒で有名な塩澤家。「馬鹿」が口癖だったとか。
ビールで失敗している吾輩である。養命酒だって、「酒」と付く以上「酒」である。臨川に「馬鹿」呼ばわりされて、頭に来たはずみに、養命酒のがぶ飲みでもしようものなら、吾輩、中洲からドボンと大川に落ちて、それこそ本物の「腐った猫の死骸」になってしまう。すでに吾輩、中洲へ行ったことがあるので、今回はご免被る。
                         (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第4回 日和下駄を履いた猫

「水」である。繰り返し申すが、吾輩「水」巡りはイヤである。イヤであっても、これは役目で、すっ飛ばすわけにはいかん。日和下駄の旅に出る前に一つ紹介するならば、今までの諸先生に、ほとんど登場しなかった「品川の海」が、藤村先生の作品には、わずかではあるが登場する。
まずは、『新生』。愛宕山の上だ。《岸本の下宿のあるところから愛宕山へは近かった。そこへ子供達を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父と一緒に歩き廻ることを楽みにするばかりでなく、君子までも嬉しそうに随いて来た。見上げるような急な男坂の石段でも登って行くと、パノラマのような眺望がそこに展けている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った》。
高い所に上れば、そのくらい見えるだろう。意気込んだ割にはさみしい「品川の海」に関する記述であるが、名誉回復のために、『落梅集』の中にある「炉辺」という詩の最終の一節を紹介しよう。《品川の沖によるといふなる海苔の新しきは先ず棚の仏にまゐらせて山家にありて遠く海草の香をかぐとぞいふばかりなる》。けれどもこの一節は、品川の海を描いたというより、海のない信州において、海苔が汐の香りを運んで来る感を描いたものである。これでは名誉挽回などほど遠い。
とうとう「迷宮入」と思いきや、同じく『落梅集』の中にある「藪入」。《朝浅草を立ちいでて》。おいおい、また「海苔かい?」と突っ込みを入れんでもらいたい。
――朝浅草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に帰るなり
――大川端を来て見れば
帯は浅黄の染模様
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か
――柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁り舟の艪の音は
静かに波にひゞくかな
――白帆をわたる風は来て
鬢の井筒の香を払い
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり
――潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿
明治中頃と言って良いだろうか。藪入りで、浅草の奉公先から、深川のわが家へ帰る様子であろうか。詩の主人公は隅田川に沿って深川にむかっているが、吾輩、この詩ひとつ紹介して、「水巡り、お役御免」としてもらいたいところだ。
と、言いたいが、そうはいかんだろう。まあ、吾輩、日和下駄の旅に出る前に、ここで一曲、吾輩の歌を披露しよう。もちろん、歌の題名は『藪入』。作曲は滝廉太郎。
――♪朝浅草を立ちいでて……
どこかで聴いたことがある?
そうそう、《春のうららの隅田川・・・》の歌い出しで有名な『花』。この『花』の作詞は武島羽衣。1897年から東京音楽学校で教えており、ここへ1898年、藤村が入学している。武島と藤村はともに1872年の生まれであり、『花』の発表に藤村も刺激され、隅田川をテーマに詩を創ってみたいと思ったのではないだろうかと、吾輩、推察している。

さて吾輩、九段坂を下りて俎橋へ。『桜の実の熟する時』に《今川小路と九段坂下との間を流れる澱み濁った水も彼の眼についた。》という一文がある。彼とは岸本捨吉。この流れ。神田川から分流し外堀をなして、再び河川として隅田川へ流入する日本橋川である。吾輩、神田の街を抜けて、万世橋で再び神田川に沿って歩く。捨吉は吾輩と反対方向に歩いたと見え、《彼は久松橋の下を流れる掘割について神田川の見えるところに出、あの古着の店の並んだ河岸を小川町へととり、今川小路を折れ曲った町の中へはいって行った。》と書かれている。
そうこう言っているうちに、吾輩、柳原河岸を過ぎて、浅草橋の畔。『新生』には、《電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸がもう一度岸本の眼にあった。》という記述がある。吾輩、浅草橋から柳橋へ。隅田川に架かる両国橋は目の前だ。ここで吾輩、柳橋で神田川を渡り、柳橋花街へ。
ここは藤村先生も住んだことがあるところで、『新生』の「第1巻」は、《神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た》という一文で始まる。河岸から岸本の住む町までの間には、《横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た。》と、「路地」が合わせ技で出て来る。
「河岸」というのは「代地河岸」である。《その河岸へ来る度に、釣船屋米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、》岸本は一人の青年を思い出す。その青年は葉書に「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書き、岸本はそれらしい石の側に立って、《浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、》青年を思い出す。《河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋いである三四艘の小舟も見えた》。岸本がかつて《毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ》。
やがて、河岸の船宿の総領息子と会話した岸本は、少年と別れて、また《細い疎らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。》《「何があったんだろう」と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った》。さすがに藤村先生、6年ばかりこの地に住んだだけあって、描写は具体的である。
じつはこの辺り、時おり死体が漂着するそうで、この日も朝、若い女性の死体が漂着した。これは砂揚場に立っていた男の一人による情報で、すでに検視も終わり、遺体も綺麗に片づけられていた。藤村先生もそんな現場に居合わせた体験があるのだろう。吾輩、そのような現場に居合わせたくないと思いながら、見れば両国橋。渡れば深川である。女の水死体、深川。こんなことが吾輩の頭の中をぐるぐる回っているうちに、吾輩、お菊ちゃんのことを思い出してしまった。お菊ちゃんだって、船頭に助けられなければ、どこかの河岸に漂着していたことだろう。そうなれば、吾輩だって化けの皮を剝がされて、柳橋かどっかで、チントンシャンなんてやっていたことだろう。恐ろしや、恐ろしや。
早くこんなところを立ち去りたいと思えども、洋行帰りの藤村先生は、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。》と『新生』に描いている。吾輩だって「洋行帰りの猫」になりゃ、そんな悠長なこと言ってただろうけど、吾輩、あいにく長靴は苦手である。
立ち去りたい気持ちを抑えながら、吾輩、あるくは大川端の柳河岸。この辺り、『新生』に《川蒸汽の音の聞こえるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。》と書かれているように、若き日の藤村先生のふるさとみたいなところだから、立ち去るわけにはいかん。
                         (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第3回 日和下駄を履いた猫

日和下駄を履いている以上、吾輩、出歩かなければならない。この職務を遂行するが故に、吾輩、猫まんまにありつき、生きながらえているのである。本日は、
「寺」巡りである。吾輩の下調べによると、三か所であるが、一か所は行かずに済ませる。
行かずに済ませる一か所とは谷中である。『春』には、岸本と青木と市川の《連中は相携えて谷中へ向った。天王寺の塔が夕日に映るところを眺め、愛護精舎の前を通り過て、出て飲食する場処を探した。》という記述がある。「夕日」もいっしょにやっつけてしまったが、夕日の映った五重塔も紅蓮の炎に包まれて炎上してしまった。不倫の清算を図った放火心中が原因と言われているが、文化財を焼いて清算を図るのと、小説に描いて清算を図るのと、どちらが良いかは、吾輩、判断がつきかねる。そもそも吾輩、人間において理解し難いことが多い。

まあ、そんなことも言っちゃおれん。新宿までは一本道みたいなものだ。藤村先生、『新生』32回の最後に、《子供達は足の遅い節子を途中で待受けるようにしては復た先へ急いで行った。節子はこうした日の来たことを夢のように思うという風で、叔父と一緒に黙し勝ちに清正公前の停留場まで歩いた》と書き、33回は《新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供達や節子と一緒に大久保の方角を指して歩いた。》と書き始めている。
向かった先は、現実に即して言えば百人町の曹洞宗玉寶山長光寺である。吾輩も一応、出かける前に長光寺のホームページで確認してみたが、「島崎藤村ゆかりのお寺」と題して、つぎのように書かれている。《島崎藤村が小諸から再び東京に出てきて、西大久保に住んだのは明治38年5月1日からでした。長光寺檀家である坂本家の敷地内の借家に居をかまえて本格的な執筆活動に入るためのものでした。上京した藤村は武蔵野の面影の残る、檪木立ちの多いこの地域が気に入っていたようです。一家妻子4人と共に移ったときは、新築のためまだ壁土も乾いていなかったといいます。その借家は通りに向かって玄関があり4間からの平屋で、奥の6畳が藤村の書斎でした。34歳の藤村は日夜文学の鬼となって『破戒』のペンを執り続け、一家の生活の悲惨を省みる暇がありませんでした。大家の坂本家では、藤村の子供が病気がちで、生活も苦しい様子なので、漬物を分けてあげたり、その他いろいろと食べ物の世話をしたようです。間も無く藤村を悲運が見舞います。5月6日に三女の縫を急性髄膜炎で、翌年4月7日に二女孝を急性消化不良で、6月12日に長女緑を結核性脳膜炎で相次いで失いました。その後、浅草に転居してからも妻の冬が脚気で死去。いずれも大家の坂本家の好意によって長光寺に葬られました》。聞くも涙の物語である。吾輩も三毛子を失ったくらいで気落ちしていてはいかんのかもしれんが、吾輩は吾輩である。
『新生』には、《ずっと以前に一年ばかり彼が住んだことのある郊外――その頃はまだ極く達者であった妻の園子に、泉太や繁から言えば姉達にあたる三人の女の児を引連れて、山から移り住んだ頃の思出の多い郊外――その頃の樹木の多かった郊外が全く変った新開の土地になって彼の行先にあった。「この辺の町もすっかり変ったね――》《以前に比べると寺の附近もずっと変っていた。》と、「樹木」も出て来るが、墓参りを終え、《やがて境内の敷石づたいに門の外へ出た頃は、八月の日の光がもう大久保の通りへ強く射して来ていた》。姉や母を失った子どもたちは悲壮にくれることなく、《「父さん、今日はこれッきり?」》と暗に要求する。《その辺には旗の出ている小さな氷店ぐらいしか見当たらなかったが、そんな店も、新開の町も、以前岸本が住んだ頃の大久保には無いものであった》。結局、《「泉ちゃん、氷レモンだぜ。父さんも奢ったねえ」と繁はコップを手にして言った》という結末に。
吾輩も何だか飲みたくなってきた。かくなる上は、歌舞伎町を突っ切って、高野のフルーツパーラーでも入ろうか。そう思ったが、岸本と別れて節子や子どもたちは電車に乗って、先に自宅へ戻るという。吾輩、つぎに行くところが彼らの自宅から近いので、秘かに同行することにした。
清正公前で下りて、吾輩は別れて白金台へむかう。
『春』に、《やがて会葬者一同は白金の瑞祥寺に集った。式が式だから、ただ本堂のわきにある大広間を借りて、そこでしばらく休憩することにしてあった。》《墓地はこの寺の境内で、幽邃な、樹木の多いところにあった。混雑に紛れて、いつの間にか岸本は友だちに逸れてしまった。彼は樹と樹の間を潜り抜けて、墓地の裏手にあたるところへ出た。そこにも人は集っている。古い、大きな石碑はいくつとなく並んで立っている。その苔蒸した墓のわきに腰を掛けて、青木の死を考えているような人もある。》という記述がある。青木と言うのは北村透谷がモデルで、瑞祥寺というのは、実際に透谷の葬儀がおこなわれた瑞聖寺のことである。吾輩、先だって、我慢しきれず排尿してしまった八芳園のすぐ南の寺である。
実はこの寺、荷風先生だって訪れている。元祖『日和下駄』に荷風先生は、この瑞聖寺を訪ねた時、門前の閑地に一人の男が元結の車を繰っていて、この景色と荒れた寺の門とその辺の貧しい人家などと対照して、俳人其角が茅場町薬師堂のほとりの草庵の裏手、蓼の花穂が出た閑地に、文七というものが元結こぐ車の響きを昼も蜩に聞きまじえて云々など、吟じた風流の故事を思い浮かべたと書いている。荷風先生、やはり目のつけどころが違う。この寺、安政の大地震などで大きな被害に遭い、その後の復興はままならなかったとのことで、荷風先生が「荒れた寺の門」と描いていることもうなずけるのだが、透谷の葬儀がおこなわれたのは、荷風先生が訪れる二十年ほど前だから、もっと「荒れた」感があったかもしれん。そんな寺の墓地からキリスト教の賛美歌が聞えてきたというから、驚くべきことである。
などと吾輩、「荒れた」「荒れた」と、この寺のことを言ってきたが、どうも様子がヘンである。荒れたどころか、素敵な建物が建っている。この辺が小説の便利なところで、参拝に来た人にきいてみると、新しく建て替えた庫裡は有名な隈研吾が設計したという。本来、庫裡とは私的な空間であるから、容易に入ることはできないが、吾輩は猫であるから、侵入は簡単である。簡単ではあるが、中がどのようになっているかは個人情報に関わることであるから、公にすることはできん。
吾輩、前回は八芳園から間違って牛込見附へ行ってしまったが、今日はしっかり四谷見附にたどり着き、帰宅したい。
                         (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第2回 日和下駄を履いた猫

「樹木」である。
すでに吾輩、芝公園まで来ておるから、今さら不忍池に取って返すつもりはないが、『春』には、《公園の木の葉は多く枯れ落ちていた。市川と青木の二人は、東照宮の杜について暗い木立の間を通り抜けた。やがて広い道路へ出た。》《二人はごちゃごちゃ並んで生えている古い常盤木の下に立った。高いところからは暗い葉が垂下っている。その木と木の間を通して、不忍の池が見える。枯々とした蓮の葉の残ったさまも見える。下谷から本郷台へかけて、対岸の町々は夕方の明い色の中にあった。》という一文がある。上野公園から不忍池にかけての樹木の様子が描かれている。「水」や「夕陽」も出て来る。秋の夕陽は釣瓶落しと言われるが、輝きは一段と美しい。それにしても、どうして『春』に「秋」が出て来るのかと、吾輩、突っ込みも入れたくなる。などと、よく考えれば、吾輩、さっきも突っ込みを入れていた。癖になっちゃ、いかん。

そんなこんな言っているうちに白金だ。
この地は明治学院もあるし、住んだこともあるし、藤村先生には思い出深いところである。
『新生』には、《新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀とで囲われた平屋造りの家の周囲を走り廻っていた。》と、二本榎西町3番地の住まいの様子が描かれている。しっかり「樹木」が出て来る。
『桜の実の熟する時』では明治学院が登場する。「樹木」は記念樹である。《平坦な運動場の内を歩いて行った。講堂のほうで学校の小使が振り鳴らすベルの音は朝の八時ごろの空気に響き渡りつつあった。運動場の区画は碁盤の目を盛ったような真直な道で他の草地なぞと仕切ってあって、向うの一角に第一期の卒業生の記念樹があればこちらの一角にも二学期の卒業生の記念樹が植えてあるというふうに、ある組織的な意匠から割出されてある。三棟並んだ亜米利加人の教師の住宅、殖民地風の西洋館、それと相対した位置に講堂の建物と周囲の草地とがある》。《向うの校室の側面にある赤煉瓦の煙筒も、それから人間が立つかのように立っている記念樹も暮れてきて、三棟並んだ亜米利加人の教授たちの家族が住む西洋館にはやがてチラチラ燈火の点くころまでも》。《一同は校堂を出て、その横手にある草地の一角に集まった。みなで寄って集ってそこに新しい記念樹を植えた》。記念樹もこれだけ描いてもらえれば、さぞ嬉しいことだろう。
吾輩、記念樹におしっこをかけるような、はしたないことはおこなわない。おこなわないが吾輩、少々尿意をもよおして来た。そう言えば、藤村先生。記念樹のあたりへ出た捨吉さんを、《その足で、捨吉は講堂の前から緩慢な岡に添うて学校の表門のほうへ出、門番の家の側を曲り、桜の樹のかげから学校の敷地について裏手の谷間のほうへ坂道を下りて行った。一面の藪で、樹木の間から朽ちかかった家の屋根なぞが見える。勝手を知った捨吉はさらに深い竹藪について分れた細道を下って行った。竹藪の尽きたところで坂も尽きている。》と、裏手の谷へ誘導していることを思い出した。ここなら大丈夫である。
吾輩、とことこ下りて行ったが、竹藪の尽きたところで坂も尽きたと思ったら、何やら様子がヘンである。と、言っても、吾輩もう我慢の限界である。とりあえず、目立たぬように用を足したが、スマホで調べてみたら(ここであまり五月蠅いことは言わんでもらいたい)、吾輩が踏み入れたのは、どうやら名高い八芳園のようだ。吾輩など来るところではなさそうだが、三毛子と結婚式を挙げるなら、このようなところも良いかなと思うと、急に三毛子のことが思い出され、果たせぬ夢に吾輩、心傷むのであった。

かくなる上は吾輩、静子夫人に癒してもらうに限る。進路を北にとって、吾輩、麹町をめざす。ところが外濠には、赤坂見附、四谷見附など見附が多く、しまいにはどこの見附だかわからなくなってしまう。吾輩、「見附が見附からん」などと馬鹿げたことを言っているうちに、気がつけば、どうやらここは牛込見附であるぞ。
せっかくだから、ここで『春』の一節を紹介しよう。《牛込の見附から富士見町にいって、あの土手の上へ登ると、古い松の樹の間には一筋の細道があって、そのころはそこを歩いてもかまわないことになっていた。そこから樹木の多い市谷の町々が見渡される。堀に添う一帯の平地も見える。土手は低い岡続きのように、ところどころ拡がって平坦になったかと思うと、また隆く盛上るというふうで、道路へ落ちたところはおもしろい小さな傾斜をなしている。日の射すところは草が青々として見える。岸本が麹町の学校へ通ったころは、一時赤城に下宿していて、この土手を往ったり来たりしたのである。土手の尽きたところから、帯坂を上る。静かな蔭の多い坂で、椿の花なぞが落ちている。片側には古い町がある。そこは岸本が気にいった坂で必ず通ることにしていた道路であった》。と、「樹木」とともに「坂」も出て来る。
実は藤村先生、『桜の実の熟する時』でも、《牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うにちょうど好いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見いだされる。その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向こうに見える樹木の多い市ヶ谷の地勢の眺望はいっそうその通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった。》と描いている。ここでも、ちゃんと「樹木」が登場するが、この外濠の松など、漱石先生、荷風先生、鏡花先生なども描いている。
ここで出て来る順路をたどれば、明治女学校へたどり着く。明治女学校まで来れば、懐かしい鏡花先生の家の前を通って、藤村先生の家まで一本道である。
                         (つづく)
【文豪の東京――島崎藤村】

第1回 日和下駄を履いた猫

吾輩、かなりムリのある展開で、とにもかくにも藤村先生の家で飼われることになり、藤村先生の日和下駄をもらうこととなった。荷風先生の日和下駄は、さすが本家だけあって傷むこともなく、吾輩履き続けている。
文夫人は龍之介先生が熱烈なラブレターを送っただけに、実にかわいい感じだったが、静子夫人は美人で知的な感じがする。どことなく日本人離れした顔立ちである。藤村先生、フランスで暮らしたことがあるから、ちょっとそんな雰囲気をもった静子夫人に惚れたのかもしれん。

ところで吾輩、漱石先生のところで飼われたのが最初なだけに、荷風先生と漱石先生の日和下駄を履いて、歩き廻るようになったのは良いが、ついつい調子に乗ってしまい、「文豪猫」などと粋がって、飼い主を渡り歩いてしまった。
荷風先生はテーマを決めて『日和下駄』を書いたが、その荷風先生だって、小説ときたら、「淫祠」と「樹木」が一緒に出て来たり、そこへ「水」が加わったりすることだってある。漱石先生は東京を舞台に、たくさん小説を書いているし、情景を描写するのが好きだったから、吾輩も何とかやっつけることができたが、他の諸先生方、なかなかそうはいかん。東京を舞台に小説を書くことが少ない先生もあれば、たとえ東京を舞台にしても、会話が多かったり、人物描写が多かったり。そこで吾輩、「合わせ技」とか「つまみ食い」とかの術を使わざるを得なくなった。
今や、藤村先生の飼い猫となった吾輩。幸いなことに藤村先生。鏡花先生、秋聲先生、犀星先生、龍之介先生などと違って、情景描写の多いこと、これ漱石先生に次ぐくらいであるが、「淫祠」と「水」がくっついて出て来たり、「合わせ技」を使わざるを得ないことも多い。吾輩、一応、意を決して「淫祠」から廻ることにするが、途中でどうなるやも知れん。その点、ご容赦願いたい。

藤村先生。静子夫人にたどり着くまで、いろいろなことがあったようだが、若い頃に佐藤輔子という人を好きになった。その輔子。藤村先生の教え子と言っても、歳はひとつ上だった。卒業して、許嫁と結婚し、まもなく亡くなった。藤村先生、この輔子さんを、小説の中では安井勝子として登場させているが、『春』の中にこんな一文がある。《秋の学報を手に取るまでは、それが事実とも思われなかった。大川端へ出かけて薬研堀の縁日を見に行った夜なぞはまったく夢のようである。灯と、煙と、草の香のなかに、新婚の人々が私語を聞いた時、思わず岸本は胸を踊らせた。勝子はこの世に生きている、としか彼には考えられなかった》。この気持ち、吾輩にもよくわかる。
吾輩だって、三毛子が亡くなって、かなり長い間、三毛猫を見かけると三毛子かと思い、胸がときめいたり、急に悲しくなったりしたものだ。ただ、藤村先生が救われるのは、輔子さんの死の責任を藤村先生が負わされなかったことである。吾輩なんぞは、三毛子の死の責任を吾輩が誘い出したことにされ、おまけに野良猫扱いされ、ついには三毛子の代りに吾輩が死ねば良かったなどと言われ、吾輩が死んでも、浄土へ行くことはできないとまで言われた。さすがにその時、吾輩も恋猫を失って、失恋の痛手も重なり、引き籠り猫になってしまった。
とは言っても、吾輩、阿弥陀仏はすべての生けるものを救い、分け隔てなく浄土へ連れて行ってくれる、それが阿弥陀仏の本願であると知ったから、失恋の傷と二絃琴の御師匠さんの言葉による傷も少しずつ癒され、罪深い吾輩のようなものでも、何とか今日までやって来ることができた。「南無阿弥陀仏」である。
ここで吾輩、宗教論をやるつもりは、まるでない。話は薬研堀だ。ここは両国橋の南西にあり、この辺り一帯、藤村先生が若い頃からの馴染みの場所である。薬研堀には川崎大師東京別院にあたる不動院がある。縁日も盛大で、立派な「淫祠」である。

前置きはこのくらいにして、吾輩、荷風先生と藤村先生の日和下駄を履いているからには、きちんと「淫祠」から廻らなければならないだろう。いわゆる、足で稼ぐのである。
と言うことで、吾輩、藤村先生の家から、外濠、神田川に沿ってトコトコと聖橋辺りまで来て、湯島に向かった。輔子さんが亡くなった頃、藤村先生は湯島に住んでいた。湯島と言えば湯島天神で、これもたびたび「淫祠」として登場しているが、『春』には、《天神の境内にあるロハ台は、こういう岸本が腰を掛けて考えるに好い場所であった。そこには手拭で頭を包み、胸を露出し、昼寝の夢を貪っている人々がある。岸本も桜の葉の蔭を択んで、清しい風の来る、日の光のチラチラするようなところへよりかかりながら眺めた。》と書いてある。
ロハ台とは、ベンチのことで、漱石先生も日比谷公園のロハ台のことを書いているが、ロハを上下に書くと「只」になって、「タダ」と読む。つまり無料のベンチということだが、ベンチでカネなんか取るのかい?秋聲先生も湯島天神のベンチが気になったようで、前、紹介したように、《漸う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかゝった桜や銀杏の梢ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横わっていた。二人は仄暗い木陰のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦け疲れた二人の顔に心持よく戦いだ。》という記述がある。湯島天神は『婦系図』で有名だが、もともと鏡花先生は『婦系図』の中で湯島天神のことなど書いておらん。それにしても、天神さんと言えば梅だが、藤村先生も秋聲先生も桜は描いても梅の木を描いていない。
藤村先生、この後、《ロハ台を離れて、天神の境内から切通坂のほうへ行こうとすると、石段を下りきった処に、人の背よりは低い石の柱がある。鉄の欄はそこで止っている、そこでも彼は冷い石の柱によりかかりながら、往来の人を眺め佇んだ。そこは本郷台から下谷のほうへ落ちている傾斜の尽きようとする処で、熱い日のあたった坂道が眼前に見られる。重そうな荷車は幾台か彼の前を通る。中には、足に力をいれて、ウンウン言いながら前のほうから豆腐の滓渣を引いて行くのもあれば、その荷車の後へ頭を押しつけて、声もかけずに押上げるものもあった。》と描いている。秋聲先生は、《水のような蒼い夜の色が、段々木立際に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀登って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天刑病らしい躄の乞食が目についたりした。石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸の上へあがった泥亀のように、臆病らしく四下を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠の暗闇の方へいざり寄って行った。》と、石段を登場させている。
石段を下りれば切通坂である。鏡花先生は『湯島の境内』で、《切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな》。湯島天神の別れ。名場面。天神さんは「学業成就」を祈願するもので、恋愛成就の祈願はムリなことは、吾輩、先刻承知である。いや、例え、霊験あらたかであろうが、すでに戒名を貰っている三毛子では、恋が成就は難しかろう。
いよいよ、《切通しを帰るんだわね。おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような》と、お蔦に最後のセリフを言わせ、お蔦は夫婦坂から切通しへ。「夫婦を切通す」!藤村先生はのんびり、坂道を行きかう人々を眺めている。
《切通坂の下まで行くと、町の右角に井戸があって、釣瓶に口をつけながらガブガブ飲んでいる男がある。そんな、汗をダラダラ流した労働者が、かえって彼の目に映った。坂の左側を占領する邸のところには、その外廓をとりまく広い石の溝がある。塵埃除の樹木はそこに冷しい影を落している。その樫や柳の下には、ロハ台で見たとはまったく別の階級の人々が集っている。すくなくもロハ台に腰掛けて考えこんでいるような手合には、「これからどうしよう」といったような顔つきの者が多い。この石の溝へ来て並んでいるものは、「これからどうしよう」くらいの連中ではなかった。》と、どうやら浮浪者のたまり場になっているようだ。
湯島天神と切通坂はセットである。お蔦・主税は切通せても、「淫祠」と「坂」は切通せない。ついでに「樹木」もくっついてくる。坂の上はあの大財閥の岩崎邸である。漱石先生も『野分』で、《石段を三十六おりる。電車がごうっと通る。岩崎の塀が冷刻に聳えている。あの塀に頭をぶつけて壊してやろうかと思う。》と、谷間を通るような切通坂を描いている。すでに吾輩、「それにしてもぶっそうな表現だ。大財閥に嫉妬する気持ちもわからんではないが、岩崎の塀に頭をぶつけりゃ、塀は壊れず、自分の頭が壊れてしまう。吾輩だってそのくらいのことはわかる。」と、突っ込みを入れている。
かく弁じているうちに、切通坂を下りて、早や池之端である。
《月は空にあった。時は夜の十二時に近い。涼しい風の来る不忍の池の畔へ集まった男女も、一人減り、二人減りして、もう人の影が見えない。水に臨む家々でも多く戸を閉めて寝た。弁天の境内から出て来て、蒼白い闇の中を帰って行く人々があった。》と、『春』では、「水」と「淫祠」をいっしょにやっつける。

「月は空にあった。」などと藤村先生。「当たり前だろう。月が空になければ、どこにある。」などと吾輩、ブツブツ言いながら歩いているうちに、芝公園の蓮池の畔まで来てしまった。やけに早いが、これはいたしかたない。ここに、『食堂』に出て来る休茶屋がある。
大震災からしばらく経っても、この辺り、《そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅》といった状況で、一応「樹木」「水」が合わせ技で出て来る。《蓮池はすぐ眼にあった。僅かに二輪だけ花の紅く残った池の中には、青い蓮の実の季節を語り顔なのがあり、葉と葉は茂って、一面に重なり合って、そのいずれもが九月の生気を呼吸していた。》と、どうも池一面に蓮が生息し、水は見えないようで、水の描写はない。まあ、致し方ないだろう。
蓮池は紅蓮白蓮が池を埋め尽くすところから名づけられたが、中の島に弁天社の祠があって、弁天池とも呼ばれる。こんなところ、不忍池ときわめて似ている。
そして、《休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲にべたべたと貼りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらされたようなその格子戸に取りすがって眺めた。「あ、これはお閻魔さまだ」。この考えが、古い都会の残った香でも嗅ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万とか、玉つむぎとか、そんな昔流行った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。》と、「淫祠」もしっかり出て来る。
ここで出て来た「閻魔堂」も、「弁天堂」とともに宝珠院の伽藍を構成している。

この辺りで「淫祠」も勘弁していただき、「樹木」に移らせていただこうか。
                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第43回 関根歌のこと③

和倉温泉の加賀屋というと、日本を代表する旅館のひとつになっている。加賀屋のホームページには「加賀屋の先代女将、小田孝が心を語る❛元気でやってるかい❜」が掲載されている。
「14.女中さん、部屋にこもる。」は次のような書き出しで始まる。《陸軍の保安所だったこともあって、戦争が終ってすぐに、旅館の体裁をしていたのは、うちぐらいでしたので、住友セメントさんや海陸さんなど、七尾の大きな会社でお客様を接待する時、うちをご利用になることになりました。 やむを得ずうちへ来られたわけで、部屋のつくりの悪いこともあって、初めは「こんなところに泊らんならんのか」という風でした。それまでは和倉温泉でも超一流の旅館ばかりをご利用のお客様でしたから、“この機になんとかして、うちのお客様になっていただけたら……”と、必死で応対したものです。 しかし、かんじのいい女中さんがいません。他の旅館さんには、年増のしっとりとしたいい女中さんが揃っていました。》ということで、いい女中さんになって欲しいとの一念で女将の小田孝さん(おだたか、故人)が厳しくやったことが裏目に出て、女中さんたちが部屋にこもって、今で言うストライキ。(住友セメントは終戦当時、磐城セメント。私の叔父三人も勤めていた。海陸は七尾海陸運送で1944年創業。)
《ちょうどその頃、柳子さんという人が、うちへ入りました。東京は新橋で芸者をしていた人で、著名人の愛人だったということでした。》と小田さん。この柳子さんが関根歌である。寿々龍とか鈴龍とか名乗っていた、「龍」と同音の「柳」をあてたのだろうか。著名人とはもちろん荷風である。歌が加賀屋へ勤めるいきさつについて小田さんは、《田鶴浜に親戚があり、東京から疎開してきて、人の紹介でうちへ勤めるようになりました。》と書いている。田鶴浜というのは和倉の隣り町である。
小田孝さんが語る歌は、小田さんよりちょっと上で40歳すぎ。《さすが礼儀作法、しつけがきちんとしていて、帯でもきれいに結んで、それは粋な人でした。ことばも標準語ですし、和倉では目立ってアカ抜けした人で、入ってすぐに女中頭となり、接客の方法について厳しく教えてくれました。とにかく妥協のない厳しい人で、ビシビシ教えこむので、私より柳子さんの方をみんな恐ろしがっていたようです。「どっちが奥さんかわからん」といわれたほどでした》。
小田さんは、《柳子さんは十年ほど勤めて、東京で「末広」という料理屋を開いたと聞きました。》と記し、《柳子さんが教えてくれた接客法は、私の中にも大きな影響を与えてくれましたし、現在の加賀屋の中にも生き続けています。》と続けている。今日の加賀屋を築き上げるうえでも歌の存在はきわめて大きかったと言える。
池袋にあるキャバレー・ハリウッドで荷風の命日にあたる4月30日、毎年「つゆのあとさき忌」がおこなわれ、加賀屋からノドグロが贈られてきていた⑥。歌は加賀屋の恩人であり、歌にとって荷風は恩人であり、キャバレーにとって荷風は恩人である。回り廻って、加賀屋からキャバレー・ハリウッドにノドグロが届けられる。これも荷風の人徳であろうか。(なお、キャバレー・ハリウッドは2018年、閉店した。)
歌が和倉に住んだのは、1946~47年頃から1956~57年頃までであろう。私もよく和倉へ行っていたし、芸者さんや女中さんの情報には接していたから、ひょっとしたら歌のことも耳にしていたかもしれないし、道ですれ違っていたかもしれない。けれども子ども時分であるから、関心もなければ記憶にとどめようとする意思もない。今、思うと、残念である。

荷風は1952年、文化勲章を受賞した。
1955年、荷風のもとに歌から年賀状が届く。荷風も歌に返事を書いた。荷風は市川の菅野に住んでいた。その年の暮、12月20日、歌は荷風のもとを訪れた。会うまでは積もる話しばかりと思っていたが、いざとなると何も話すことができず、身なりにこだわった荷風がみずぼらしい服装をしていることに、歌は驚いたという⑦。荷風への接近は、歌自身が再び東京へ戻ることを考えての行動であっただろう。
1957年までに歌は2回、荷風を訪ねている。おそらくこの頃までに歌は上京したと考えられる。2回目は完成間近の新居の前で別れ、これが永久の別れとなった⑦。
歌は戦後、少なくとも3回、荷風に会っている。その中の何時の事かわからないが、歌は『丁字の花』という一文に、《あの日記に書かれていることは、わたしが知っている限りみんな本当のことだと思いますが、ただひとつ、わたしにとって心外なのは、わたくしを気狂い扱いにしている件りです。産婦人科のお医者様の診断を鵜呑みにされていたことを知って、戦後お目にかかりました時に、その旨お恨み申しましたら、「どんな立派なお医者さんにも誤診はあるよ。それより今元気なのが何よりです」と言って、笑われました。》と書いている⑧。
1959年4月30日、荷風が亡くなり、その年の『婦人公論』7月号に「日陰の女の五年間」と題するインタビュー記事が掲載された⑧。その後、歌は彼岸ともなれば荷風の墓に香華を手向け、亡くなる年まで続けたという。歌は1975年に享年68歳で亡くなった⑦。

わたくしが小学校5年生の時、修学旅行は日帰りで和倉温泉だった。見慣れたところで旅行気分にもなれなかったが、桐丸という船に乗って、七尾湾をしばらく巡った。そして旅館で温泉に入った。いつも和倉温泉に来ても総湯に入るので、旅館の大浴場に入るのは初めてであり、おまけに船に乗るのも初めてだったから、結果的にけっこう旅行気分になれた。先生方は精一杯考えたのだろう。旅館では女中さんたちが浴場で背中を流してくれて、これまた心を込めた大サービス。もう少し長く、歌さんが和倉温泉にいてくれたら、私の背中を流してくれたかもしれないなどと妄想は膨らむが、今なら例え相手が小学生でも物議を醸し出すサービスなのかもしれない。

                     (『関根歌のこと』完)
【文豪の東京3――永井荷風】

第42回 関根歌のこと②

1928年正月、荷風は歌を連れて雑司ケ谷霊園に父の墓参りに出かける。荷風は歌が毎晩のように夕食の総菜を持ってやって来る、芸者をしていたものに似合わず正直で親切と「日乗」に記している。3月になると、三番町の待合蔦の家の亭主が選挙立候補の資金づくりのため、持っていた待合を売りに出したので、荷風はこれを買い、歌にもたせた。かねてから歌は芸者を辞め、待合を営業したいとの希望をもっていた。歌は三番町へ転居し、待合の屋号を「幾代」と改めた。歌は経営面においてもしっかり者で、三人連れの客が文無しであることがわかると、二人を人質にして、一人を金策にやったり、支払いが滞ると弁護士とともに督促に出かけたなど、逸話が残っている。荷風は頻繁に歌のもとを訪れている。(以上、②参照)
荷風と歌の関係も、待合の経営も維持され、1931年を迎えた。6月24日、歌が荷風の前で失神し、中洲病院に担ぎ込まれ、即入院になった。7月6日、荷風は「断腸亭日乗」に《お歌入院して早くも十日後となりしが病勢依然たり、一時はやや快方に赴く事もあるべけれど、待合の商売などはもはや出来まじく、行々は遂に発狂するに至るべしと、大石博士の診断なり、人の運命は淘測り知るべからず、お歌年僅に二十五にて此の如き病に陥りたる前世の因縁なるべし、哀れむべきことなり》と書き込んだ。歌は一カ月ほど入院して、7月27日に退院した。結局、荷風は歌と別れた③。
後に歌は、若い男と一緒に酒を飲んでいて、まだ酒の匂いが残るうちに荷風に会ったため、酒の匂いがしてはいけないと息を止めていて失神したと告白している③。酒の匂いくらい、荷風をうまく言いくるめることはできただろうに、ある面、歌の真面目さを語っているかもしれない。入院騒動であるが、一般的に荷風も大石医師も騙されたとされているが、大石が精神科の専門医でなくても、歌の仮病はわかったであろう。歌が荷風と別れたいと思っていることを察した大石が、荷風の思いを断ち切るため、「歌、将来、発狂」などと荷風に告げたのではないだろうか。
歌は『日陰の女の五年間』(「婦人公論」昭和34年7月号)に、《そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。》《私が気ちがいになってしまったと先生はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです。》と記している。もちろん、荷風としても、店をもってカネのかかる歌との関係を断って、一定の距離を保とうと、都合良い話しの流れに乗ったとも考えられる。まさに腕くらべである。
妾という関係は解消されても、歌は待合の経営を続け、また、しばしば荷風を訪ねている。1932年3月には、幾代の家主から二重払いの家賃分を取り返して来たと現金を持って歌は荷風を訪ねており、荷風はそのカネを病気見舞いとして歌に与えている④。また、11月に、歌は夜具蒲団を仕立てて荷風に届け、荷風は「日乗」に、《お歌が縫ひたる新しき夜具の上に横たはりしが、さまざまの事心に浮び着たりて眠ること能はず。》と書き込んでいる。まことに純情、かわいらしい荷風である。
1938年の暮、麻布谷町の路上で歌に会った荷風は、「おう僕のところに来たのかい」と声をかけ、「いえ、妹が氷川町に住んでいますので」と歌が答えることもあったようで、1939年正月には、歌が荷風を訪ねている。その後も、交流は続き、1943年8月17日の「日乗」に《夜六番町のお歌來る。カマス干物一枚一圓鰺干物一枚一圓ベアス石鹸を貰ふ。九時その歸るを送りて我善坊崖上の暗き道を歩み飯倉電車通りに出づ。十七年前妾宅壺中庵の在りし處なり。》と書き、23日には《夕方六番町なるお歌の家より電話にて汁粉つくりたればと言來りしが出で行く元氣なかりき。》と書いており、1944年1月18日には、《日も暮近き頃電話かゝりて十年前三番町にて幾代と云ふ待合茶屋出させ置きたるお歌たづね來れり。其後再び藝妓になり柳橋に出てゐるとて夜も八時過まで何や彼やはなしは盡きざりき。》《お歌余と別れし後も余が家に尋ね來りし事今日がはじめてにあらず。》《思出せば昭和二年の秋なりけり。一圓本全集にて以外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり。お歌今だに其時の事を忘れざるにや。その心の中は知らざれど老後戦乱の世に遭遇し、独り旧盧に呻吟する時、むかしの人の尋ね来るに逢ふは涙ぐまるるまで嬉しきのもなり》と書き込む。歌との交流は続き、荷風は歌の現状をある程度把握していたことがうかがえる。
1月18日付の「日乗」で気になる記述がある。阿部定である。定は1936年5月18日、愛人の石田吉蔵を殺害し、20日に逮捕、1941年5月17日に出所してきた。荷風は《お歌中洲の茶屋彌生の厄介になりゐたりし阿部さだといふ女と心やすくなり今もって徠往もする由。現在は谷中初音町のアパートに年下の男と同棲せりと云。》と書いている。当時、定は吉井昌子として生きており、一般には知ることのできない状況であり、住家までわかっているということは、歌が定と親交のあったことは確かであろう。けれども、荷風は自分の小説の題材になりそうな阿部定事件には当初から素っ気なく、1月18日の「日乗」にも《どこか足りないところのある女なりと云。》と、歌による阿部定評を記し、それに同調している感がある。
それから1年余。《此次はいつまた相逢うて語らふことを得るや。若し空襲來らば互にその行衞を知らざるに至べし。》などと書いた空襲が現実のものとなった。1945年3月10日、東京大空襲で偏奇館も焼失してしまった。荷風は代々木、東中野、明石、岡山と転々として終戦を迎え、9月に熱海、そして翌1946年1月、従兄の杵屋五叟一家とともに市川の菅野の借家に移り住んだ。
『断腸亭日乗』は荷風研究の一級資料であり、大正・昭和史の研究においても貴重なナマ史料である。東京大空襲に遭いながらもこの日記が生き延びたのは、何よりも荷風の執念であろう。そのくらい荷風はこの「日乗」に思い入れがあったのだろう。荷風は「日乗」を持って逃げたのであろう。荷風は東京を去る時、29巻の「日乗」を五叟に預け、五叟はそれを御殿場の友人宅に預けた。五叟の家もやがて焼失するから、奇跡的に「日乗」は残ることになった⑤。
歌が終戦直後、どのような暮らしをしていたか判然としないが、いずれかの時点で新橋の芸者になり、やがて和倉温泉に転じて来ることになる。

➡①荷風とお歌(東京さまよい記、2014年)、ネット公開。秋庭太郎の文章から引用した旨、記されている。
➡②荷風とお歌(東京さまよい記、2014年)、ネット公開。
➡③永井荷風のひとり暮らし(甘口辛口、2007年)、ネット公開。
➡④荷風お歌清洲橋~東京坂路地散人vol.15(トウキョウ・キュルチュール・アディクシオン、2011年)、ネット公開。
➡⑤荷風と谷崎:新藤兼人の永井荷風論(壺齋散人:日本語と日本文化)、ネット公開。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第41回 関根歌のこと①

関根歌は1907年2月11日、小石川表町11番地で生まれた①。伝通院周辺一帯が小石川表町で、1903年頃、秋聲は伝通院裏手に住み、漱石の『それから』(1909年)では平岡夫妻の住居が西側に設定されている。歌の生家がある11番地は南側で、現況で言えば、春日通りにある伝通院前交差点の南西角にあたる。
歌の芸妓時代、父親は上野桜木町に住み、煙草屋を営むかたわら事務員をしており、母も意気な人柄であったという①。
「断腸亭日乗」によると、歌は15、6歳の頃、芸妓の世界へ入ったようで、麹町三番町9番地にある川岸家抱えの寿々龍として出ていた1927年の8月、荷風と歌は出会った。歌は二十歳で、『つゆのあとさき』の君江の年齢にあたる。歌の15、6歳の頃というのは、ちょうど関東大震災の頃で、関根家として経済的に立ち行かなくなり、歌が家計を助けるため芸妓になったとも考えられる。芸者としての歌は寿々龍、あるいは鈴龍と名乗っていた。
8月31日、荷風は川岸家を訪ねているが、目当ては歌であったと思われる①。
「日乗」には、9月4日、病床にある荷風を歌が見舞ったこと、5日に荷風が歌に会うため川岸家を訪ねたこと、10日には二人で神楽坂を歩いたことが記されている。そして早くも12日、《阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす。》と「日乗」に記される。歌は芸者を辞めたがっており、借金も500円くらいということで、荷風が身請けして、妾として囲うことにしたのである②。
10月12日に歌は、偏奇館に近い西久保八幡町の菓子屋壺屋の裏にある借家に引越す。荷風はこの妾宅に「壺中庵」と名づけた。現在の虎ノ門5丁目9付近で、偏奇館から谷筋を下った辺りで、八幡神社の北側。震災で焼け残ったため、荷風が10月13日の「日乗」に書くように、《壺屋裏の貸家にか今日となりては昔めきたる下町風の小家の名残ともいふべきものなり、震災前までは築地浜町辺には数寄屋好みの隠宅風の裏屋どころどころに残りゐたりしが今は既になし、偶然かくの如き小家を借り得てこゝに廿歳を越したるばかりの女を囲ふ、是また老後の逸興と云ふべし、》と、荷風好みの風情が残る地域であった。現在は「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」によって、一帯の建物はすべて取り壊され、壺中庵があった辺りには低層棟が建設される予定(工事中)。『ひかげの花』の千代・重吉の住家もそうだが、どうも荷風ゆかりの地は再開発のターゲットにされているようだ。
とにかく、若くて知的で、美少女の面影をもった歌を得て、荷風は「我が世の春」を迎えたようで、「日乗」にも《針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帯持の上手なる女なるが如し、》《カツフヱーの女給仕人と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、》(9月17日)と書くほどの気に入りよう。この頃、荷風は女給お久と別れ話でトラブルになっていたので、「女給」に対する心証が余計に悪くなっていたのかもしれない。けれどもそのようなことを抜きにしても、歌に対するこの人物評は、その後の歌に対する加賀屋の女将の評からも、けっして間違っていなかったことがわかる。「若い娘」というだけで惑わされたものではなさそうだ。荷風自身、安定を好む方ではないので、結婚生活はムリであろうが、安定した生活にむいた人ならば、歌は妻として申し分ない女性だったのではないだろうか。

➡①荷風とお歌(東京さまよい記、2014年)、ネット公開。秋庭太郎の文章から引用した旨、記されている。
➡②荷風とお歌(東京さまよい記、2014年)、ネット公開。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第40回 ひかげの花⑦

【性風俗営業を生業とする人びと】

小説を読んでいると、私たちの中の非日常が日常になっていく。そこでおこなわれていることが当たり前に思えてくる。『つゆのあとさき』も『ひかげの花』も、読んでいるうちに、その世界にはまり込んで、何人もの男と付き合うことや、何人もの女と付き合うことが、何の違和感もなく、当たり前のように思えてくる。ひょっとしたら荷風が極端な性描写をせず、淡々と描いているからかもしれないし、そこに描かれている人々が「生きること」に前向きで、頼もしくさえ感じられるからかもしれない。
『つゆのあとさき』の主人公君江はカフェーの女給である。『ひかげの花』の千代は派出婦である。けれども、女給と言っても、客の注文をきいて、注文の品を届け、代金をいただくという接客業務を超えて、性風俗営業の域に入り込んでいる。同様に派出婦も、訪問して家事をおこなう家政婦の域を超えて、性風俗営業の域に入り込んでいく場合がある。つまり、表看板はどうであれ、裏では売春行為がおこなわれている。江戸時代にみられたという「飯盛女」などと同様である。
人間にはどうも古来より性風俗業がつきまとうようで、古代からすでに遊女などもみられる。江戸時代、性風俗営業を統制するため、たとえば江戸なら吉原のみ「公認の遊郭」として、その中における売春行為は認められた。けれども、岡場所とよばれる「非公認の遊郭」が江戸市中にも各所に出現し、人間のもともとから発出することで、取り締まりと黙認を繰り返す中で明治を迎えた。
明治に入って、1873年に公娼取締規則が施行され、一定の条件を満たした者に性病検査などを義務付けたうえ、娼妓として認め、こうした娼妓のみ公娼として売春行為を許可された(1900年には娼妓取締規則施行)。娼妓として認められない女性は私娼として、取り締まりの対象になった。
けれども、私娼はさまざまなかたちで存続し続けた。幕末から明治期にかけては「矢場女」なども登場し、明治期から大正期にかけて「銘酒屋」も登場した。「銘酒屋」はその名の通り、「酒屋」あるいは「酒場」であるが、これは表向きで、実際には私娼をかかえて売春の斡旋をおこなっていた。浅草界隈に多く見られたが、関東大震災後は玉ノ井、亀戸に移転し、一大私娼窟を形成、荷風の好むところとなった。
その後、「昭和モダン」の時期に入ると、女給や派出婦も登場し、前述のように性風俗営業の域へ入り込んでいく者もみられるようになってきた。
全国の娼妓の数は明治から昭和戦前期にかけて5万人前後で推移し、芸妓も昭和戦前期を8万人前後で推移しているが、女給の数は「昭和モダン」に入った1929年におよそ5万人から、1936年には11万人を超えるまでに増加している。東京だけでみても、1929年と1934年を比較すると、娼妓が6360人から7314人、芸妓が10409人から10171人と、それぞれほぼ横ばいであるのに対し、女給は16499人から29741人となって、急増している※。娼妓や芸妓は届け出がなされているので、かなり正確な数値であろうが、女給の数を正確に把握することは困難であっただろうから、実態はもっと多かったのではないだろうか。
こうした背景には公娼である娼妓に対する基準の厳格化であり、また芸妓(芸者)も娼妓と同様に営業には警察の鑑札を必要とした。荷風は『つゆのあとさき』で、君江が芸者にならず、女給の道を選んだのは、《鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合わせの手続をする規定》があったからで、家出をしてきた君江は実家に問い合わされることを怖れていたからである。それとともに、「自由度」である。
寺島※は、カフェーの女給は《簡潔にいえばそれは、いい意味でも悪い意味でも、「自由勝手」であった。》として、《(女給と店主の)関係は、全くの自由契約であって、何時でも一方の意志によって契約を解くことが出来る。今日、始めて女給として初目見得をしても、客主やカフェーの内部が予想に反すれば、明日は他へ移っても、毫も差し支へはない。(略)芸娼妓は前借金にしばられ、公正証書の明文に制肘されて、その意志に反して労働をつゞけねばならないが、女給には概ね前借金がなく、公正証書の登記もないから、その意志によって、何時でも進退を決することが出来る。》という村嶋歸之の文章を引用している。
そして寺島※は、《一般に花柳界に売られる女性は、身内によって前借金をもとに楼主に売られた娘が大半であったとされているが、実はカフェー女給の場合には自身の意思によるものも多かった。(略)このように女給の就業理由は、必ずしも後ろ向きの理由に限定されているわけではなく、且つ自発的な意思によるものも相当数あったのである。》と記している。私娼においても同様に考えられる。君江や千代が一見、「自立した女性」のようにうつるのは、このためであろう。
けれども、女給の給与は高く設定されているわけではない。その分、客にサービスしてチップを得ることによって稼ぐしかない。それがまた店の競争にもなる。行きつくところ、性的サービスが常態化して来る。女給は私娼化し、カフェーの2階などが売春行為の場になったり、客と場を移して行為に及ぶことにもなる。自由度が高まり、その日からでも手軽に稼ぐことができるようになり、間口が広がった分、売春に手を染める女性も増えていったことになる。
寺島※は、《カフェーが「自由意志」を糧に性風俗産業として台頭してきたことは、「意思」による擬似恋愛が、性風俗に於ける強制力を排除したのではなく、それを不可視化したといえるだろう。そして「自由恋愛」という複雑で新たな正当性を携えて、性風俗産業における他者の介入をより困難なものにしていくことになるのである。》と、論考を結んでいる。

※寺澤ゆう:1930年代のカフェーにみる性風俗産業界――動揺の裏側にある女給の労働実態――(立命館大学人文科学研究所紀要103号、2014年)

結局、君江は女給をしながら私娼化していく。千代も派出婦をしながら私娼化していく。その目的の多くは生活のためであり、それなりに稼ぐことも可能であるからだ。千代は思わぬことから、どこかに所属しなくても、身ひとつで稼ぐことができる街娼(和製英語:ストリートガール)の道があることも知る。中島重吉などは千代の稼ぎをあてに「銀流し」のような生活をしている。もちろん、君江の友人で、この道の先輩である京子も、《其筋の検挙がおそろしいので》、もとの芸者になろうと言出しているが、私娼をなかなかやめられない。千代の娘おたみは売春行為で捕まって、ダンサーの許可証を取り上げられ、結局、私娼の道へはまり込んでいきそうである。同業者として生きて来た千代とおたみ母子、ふたりが描く将来の「気質な」仕事は、「連込茶屋」である。
安全な公娼制度の維持と、一定の人権擁護が、結果的に女性を公娼ではなく私娼に向かわせていくという、皮肉な結果を生み出すことになっていったようにも思われる。

『ひかげの花』で荷風は塚山の言葉として、おたみに関してつぎのように書いている。《「あの娘は盗癖があるかと思っていたが幸にそうではないらしい。万引や掏摸になられては厄介だが、あのくらいのところで運命が定まればまずいい方だろう。順当に行ったところで半玉から芸者になるべき運命の下に生れた女だから》。つまり私娼として生きることは、他人様のものを失敬する万引きやスリと違って、けっして人の道に反することではない。けっして恥ずべきことではない。これが荷風の哲学観、人生観ではないだろうか。そして荷風は続けて、《塚山は孤児に等しいおたみの身の上に対して同情はしているが、然し進んで之を訓戒したり教導したりする心はなく、寧ろ冷静な興味を以て其の変化に富んだ生涯を傍観するだけである。塚山は其性情と、又その哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じているので、おたみが正しい職業について、或は貧苦に陥り、或は又成功して虚栄の念に齷齪するよりも、溝川を流れる芥のような、無智放埓な生活を送っている方が、却て其の人には幸福であるかも知れない。道徳的干渉をなすよりも、唯些少の金銭を与えて折々の災難を救ってやるのが最もよく其人を理解した方法であると考えていたのである。》と書いている。

そうさ ぼくらは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

この『世界に一つだけの花』の歌を聴いた時、荷風は「そうだ!ひかげの花だって立派な花なんだ!」、そう叫ぶに違いない。

                        (完)

わたくしはこの後、『濹東綺譚』に行こうか迷っている。「ぬけられます」とは書いてあるものの、はまり込んでぬけられなくなるかもしれない。「行こうか、戻ろうか」。これではまるで思案橋ではないか。「江戸のかたきは長崎で」などと言っている場合ではない。
けれども、そんなことよりも、わたくしは一人の女性に関心が行ってしまった。一時期、荷風が親しく付き合った関根歌である。和倉温泉の加賀屋旅館でも働いたことがあるというから、これは素通りすることができない。そのような次第で、しばらくの間、関根歌にお付き合い願いたい。
【文豪の東京3――永井荷風】

第39回 ひかげの花⑥

千代がおたみを託した女髪結の家は京橋区新栄町にあったので、当然、高潮の被害を受けているはずである。けれども荷風の文章はあいまいで、高潮の前に託したのか後なのか、判然としない。後に預けるとは考えられないので、おたみも女髪結とともに被災したと考えるのが妥当だろう。荷風はなぜ、その描写を省いたのだろうか。
それでは、当の荷風自身は東京湾台風当時、どうだったのか。
荷風は高潮災害が起きる少し前、まだ大久保余丁町に住んでいたが、9月16日から「断腸亭日乗」を書き始めている。9月20日、荷風は木挽町9丁目に本人が「陋屋」(ろうおく、狭くてみすぼらしい家)と記している家を借りる。これは鎧橋病院の大石貞夫医師の往診を受けるため、余丁町より近い方が良いだろうということで借りたもので、「無用庵」などと名づけた。木挽町9丁目は現在の銀座7丁目の東地区で、国立がんセンターの北西隣にあたる。大石貞夫医師は荷風の弟貞二郎(牧師)と中学の同級。鎧橋病院は南茅場町河岸5番地にあり、1915年に開業した。無用庵まで2km余である。
木挽町は高潮で大きな被害が出た地域である。「断腸亭日乗」によると、荷風は9月22日には無用庵で小説『おかめ笹』を執筆。その後、29日まで「日乗」の記載なく、《九月三十日。深夜一時頃より大風雨襲来。無用庵屋根破損し雨漏り甚し。黎明に至りて風雨歇む。築地一帯海嘯に襲はれ被害鮮からずと云。午前中断腸亭に帰りて臥す。》と記し、10月1日、2日の記載は欠如している。荷風は9月30日として、「深夜一時頃」と書いているが、台風通過、高潮発生は10月1日であり、実態と合わない。おそらく大久保余丁町に戻った荷風は、日付も確認せずに「日乗」に書き込んだものと思われる。そのくらい荷風も動転していたのであろう。無用庵は木挽町9丁目にあり、築地と隣り合わせだが、高潮による浸水は軽微だったのだろう。けれども台風の暴風による被害は免れず、10月9日の「日乗」にも《大雨。無用庵雨漏りいよいよ甚しき由留守居の者知らせに来りし故寐道具片づけ断腸亭に送り戻さしむ。唖々子にたのみて三味線食器は一時新福亭へあづけたり。(久米秀治氏細君営業の待合茶屋なり)》と書き込んでいる。10月11日の「日乗」に《この日雨始て晴る。》とあり、かなり長期にわたって秋雨前線が停滞していたことがうかがえる。
その年の12月29日、荷風は「断腸亭日乗」に、《銀座通年の市を見る。新橋堂前の羽子板店をはじめ街上繁華の光景年々歳々異る所なし。》と記している。高潮災害から3カ月程、それを乗り越えて、いつもと変わらぬ年の瀬を迎えているという荷風の安堵感が示されているのだろうか。私としては「高潮はどうなった?」との思いが残る。

この「東京湾台風」の翌年の1918年、夏過ぎ頃から、日本をはじめ世界各地で「スペイン風邪パンデミック」に見舞われる。
荷風も1918年11月に風邪症状になり、流行感冒の折なので用心して床に臥しているが、そのような中で大久保余丁町の家の売却交渉などおこない、12月25日、築地2丁目30番地に購入した家に転居した。築地本願寺のすぐ北東隣で、当時、築地郵便局があった。この間、1年余借りていた「無用庵」を引き払い、旅館に宿泊したりしながら、築地櫻木で遊んだり、女性たちとも親しく交わり、かつ風邪症状などで臥せったりしている。それでも荷風は重篤な状態に陥ることなく、盛んな交流の中で、この新型のインフルエンザ(流行感冒)に感染したり、感染させたりしていたのであろう。
1919年1月1日の「断腸亭日乗」には、《八時頃夕餉をなさむとて櫻木に至る。藝者皆疲労し居眠りするものあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。》という密着ぶり。2日には悪寒がして再び臥せるが、新橋の芸妓八重福は荷風の家に泊まっていくようになり、4日には《八重福との情交日を追ふに従ってますます濃なり。多年孤獨の身邊、俄に春の來れる心地す。》と、スペイン風邪パンデミックの最中に、荷風の八重福に対する思いは急速に高まり、自分の生命はそう長くないだろうから、八重福を落籍し養女にして、介抱などもしてもらおうと思い詰めるまでになる。この辺りは、荷風自身の体調が良くないに加え、多くの死者の報が荷風にも死を意識させたものであろうが、櫻木の老女が八重福の身上を調査し、《思ひもかけぬ喰せ物》であることが判明し、この一件は頓挫した。
5月29日、荷風のもとに下女として20年余り勤めた「しん」が亡くなった。スペイン風邪による死亡の可能性もある。荷風は5月30日の「日乗」に、「しん」のことを詳しく書いている。この中で荷風は、《年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものは此の老婆ならむかなど、》日頃から思っていたと書いており、この頃、荷風が死をかなり意識していたことがうかがえる。
荷風は11月に麻布市兵衛町1丁目6番地の土地を借り、翌1920年5月、そこに新築した「偏奇館」に転居した。この間、たびたび風邪症状を示し、1920年1月には体温40℃、昏睡状態にも陥り、度々大石医師が往診。荷風は遺書も書いている。大石医師は1919年に中洲養生院を引き継ぎ、中洲病院を開業しているので、中洲から築地の荷風宅へ往診したと思われる。中洲病院は中洲12番地にあり、現在の清洲橋畔にすぐ北隣。どうも荷風は、最後の流行でもっとも重篤になったようである。

関東大震災は1923年9月1日に発生した。この「勝手に漱石文学館」でもおりに触れて書いてきたし、今年、関東大震災から100年の節目の年にあたるので、あらためて特集する。ここでは『ひかげの花』に限って、関東大震災に触れていきたい。
千代であるが、派出婦として初めて重吉のもとを訪れた時、重吉が《「震災には無事だったのかね。父さんやお母さんは……。」》と訊ねたのに対し、《「ええ。家は市外の……田舎ですから。」》と千代は答えている。初対面で個人情報をあまり伝えたくないだろうから、当然の受け答えであるが、その後も、千代が震災当時どこに住んでいたのか、特定する手がかりは何も書かれていない。
重吉と種子は震災当時、東中野に住んでいた。現在の中野区一帯は震度5強から6弱と推定され、火災も免れたため、都心のような被害にはならなかった。重吉は仕事で下目黒にいたため無事だったが、種子は買い物で白木屋にいた。日本の百貨店の草分けである白木屋(日本橋)は、一部5階建ての建物が震災で全壊した。種子は逃げる時、足に負傷した。《其の日の暮れ近く人に扶けられてやっと家へ帰って来た。》というが、火災も発生しており、交通機関も止まっている中、日本橋から東中野まで、さぞたいへんであっただろう。小説でなければできない業である。
おたみは震災当時、塚山の妾と一緒に新栄町辺りに住んでいた。妾は日比谷公園に避難した。おそらく火に追われながらの命からがらの避難だっただろう。日比谷公園まではおよそ1.5kmある。11歳のおたみは裁縫の稽古に出ていた。自宅からそれほど遠いところでもないだろう。とにかく逃げまどっているうちに、同じく避難途中の老夫婦と出会い、行動を共にすることになった。老夫婦は日本橋区箱崎町に住んでいたので、彼らの家も焼失したであろう。箱崎町も隅田川沿いにあるから、1917年の高潮でも被害を受けたものと思われる。
結局、塚山の妾も、老夫婦も自宅が焼失してしまったから、妾は渋谷へ転じ、老夫婦はおたみを連れて桐生に避難したので、離れ離れになってしまった。
荷風の住む偏奇館は、震災で大きな被害に遭うことはなかった。

東京は、1910年の東京大水害、1917年の東京湾台風、そして1923年の関東大震災と、6~7年に一度、大災害に見舞われてきたことになる。その間、1918年から1920年にかけて、東京でもスペイン風邪が大流行した。
中洲病院は関東大震災で倒壊し、大石医師は北海道に移ったが、1927年に中洲病院を再建した。この年、荷風の実弟貞二郎は死去した。コンクリート造りで、患者にも配慮した最新設備を有する中洲病院も1932年、出資者破産によって閉院し、大石は土州橋北畔に大石病院を開業した(土州橋病院)。中洲病院はその後、中洲アパートになった。
荷風が大石貞夫医師を主治医としたのは1916年である。1918年12月14日の「断腸亭日乗」に荷風は《久振にて鎧橋病院に往き、大石国手の診察を乞ふ。宿疾大によしといふ。》と書き留め、また中洲病院再建後、ここを訪れた荷風は、『中洲病院を訪ふ』の中で、《わたくしが宿疾の治療を国手に請うてから指を屈すると既に十余年である。》と記している。国手とは名医を指し、「宿疾」とは花柳病とも呼ばれた梅毒である。中洲病院の専門が「産科・婦人科・女子泌尿器科」であるように、大石医師の専門分野はどうみても荷風は対象外である。けれども、荷風は性感染症の危険性が極めて高い生活をしており、秘密裏に検査・治療などおこなうには、実弟の級友である大石医師は好都合の人物であった。荷風は通院することもあったが、多く往診という形態をとっているのも、来院を憚ってという向きもあると考えられる。
その大石貞夫も50歳を少し超えた1935年に死去。1959年に亡くなった荷風より24年早い死だった。

                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第38回 ひかげの花⑤

【二つの大災害――東京湾台風と関東大震災】

『ひかげの花』の13章が、《お千代が娘のおたみを京橋区新栄町の女髪結の許にやったのは大正六年の秋、海嘯の余波が深夜築地から木挽町辺まで押寄せた頃で、其時おたみは五ツになっていた。》という文章で始まることは先に述べた。この「海嘯の余波」というのは「大正6年大津波」とよばれる高潮のことで、大正六年、つまり1917年の9月30日から10月1日にかけて関東地方を直撃した台風によって発生したもので、東京湾沿岸に大きな被害を出したことから、「東京湾台風」と命名されている。
9月24日、フィリピン洋上で発生した台風は、30日に四国沖に進んで、その後、急加速と急発達しながら、静岡県に上陸、一気に関東地方西部を駆け抜けて東北地方へ達した。
東京では最低気圧952ヘクトパスカルまで下がり、最大風速は43m、しかも台風の速度は時速100km。これに加えて東京湾にむかって風が入り込みやすいところを台風が通過。満潮は1日午前5時21分で、さらに大潮の時期。これに加えて大雨で河川が増水している。つまり、大きな高潮が東京湾で発生するすべての条件がそろってしまった。
高潮は二回にわたって押寄せ、高さは3~5m。東京では京橋区、深川区、本所区など東京湾沿岸から隅田川流域で大きな被害が出て、死者・行方不明者も東京府で563人に達し、多くは溺死だった。千葉県、神奈川県でも大きな被害が出たが、とくに浦安町は全町水没、横浜港でも3100隻あまりの船舶が転覆、沖仲士や水上生活者も犠牲になった。全体的な被害は死者・行方不明者1324人、床上浸水194698戸。

『源作日記にみるスペイン風邪』で知られる原崎源作は、「東京湾台風」の様子を日記に書き記している。

☆9月30日日曜日大雨 70度 静岡
一、昨夜も本日も止むときなく降りたり。東風。
一、午前10時教会に行く。

☆10月1日月曜日晴 74度
一、昨夜東風より南風迫り、強風に大雨を交え、今朝に止まる。午前5時 興津重吉殿より電話あり。清見寺別荘 大波のため石垣危険なりとの報知あり。9時30分の汽車にて、循一出張せしところ、意外の破損にて 熊谷氏に貸したる方の石垣は全部破壊せり。新築の方も破損せり。

☆10月2日火曜日晴 朝67度夕72度 静岡
一、靴紐検査の事につき、新通り中村氏来店、染め方などにつき教えを受ける。
一、興津由比地方 激浪のため大破損検分のため、汽車にて由比まで行く。同地方の惨状を見、2時30分発にて興津に来る。清見寺熊谷氏方を訪問、石垣羅壊の状況を見たり。これは重吉及び大工など2、3人にて床下塚石を直し居りしまた石垣の方も、整頓中なりし。興津町にては、清見寺区最も損害多く、ホテル東は清見寺区より怪し、午後5時発臨時列車にて帰宅す。
一、在東京得三、癸作両人へ、右惨状を手紙にて通知す。

☆10月3日水曜日晴 朝69度 静岡
一、2日の東京新聞来たり、今回の暴風雨の強かりし事、近来になき事の様子なり。品川深川辺の浸水せし事想像以上なりとの事なり。
一、各地通信機関 不十分なる故、東西の様子さに分からず。
一、サンフランシスコより電信来る。バスケ注文なり。
一、堀ノ内より勝太郎来たり、3時10分帰宅。
一、癸作、得三両人より手紙来る。無事。

☆10月4日木曜日晴 正午78度夕76度 静岡
一、東京付近千葉県下の被害 新聞紙により分明 益々大なる事相分かり驚くのほかなし。被害の原因は、大雨にて上流より出水多きところへ、海より激浪(津波)来たり、浸水または浚石たるが故なり。死人の多き事は明治年代よりこの方なきとの事。
一、上海ペルシヤ商会より手紙来たり、ロシア小包郵便出す事ができしは、総て荷も引き受ける旨申し来る。よって逓信省へ、輸送力の分量などにつき、書面で届け出し聞き合いたり。

☆10月5日金曜日曇りのち雨 夕75度 静岡
一、今朝曇天、小雨来たりまた晴れたるも、夕方は曇天小雨来る。
一、午後2時発にて、興津石垣作業検分に行きたり。枕石を半分並べたるところなりし。午後4時発にて帰宅。

興津とは現在の静岡市清水区興津地区で、海岸に面して、かつて西園寺公望の別荘などもあり、源作も別荘をもっていた。台風による激しい波浪によって被害を受けたことがわかる。当時はテレビもラジオもなく、新聞は貴重な情報源であり、配送する鉄道網が比較的早く復旧したことも読み取れる。新聞で伝えられる惨状に、源作も衝撃を受けていたようである。
源作の日記によると、雨はすでに29日から降っており、その段階で台風はまだ沖縄の東の海上にあるので、秋雨前線が本州付近にあったことを示しているのではないか。
                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第37回 ひかげの花④

【転々とした住家を追う】

麹町平河町で玉突場を営んでいた種子と知り合った重吉は、二人で赤坂、芝公園、東中野と居を移した。麹町区平河町は現在の千代田区内、新宿通りと青山通りに挟まれた地域にある。当時、1丁目から6丁目まであり、玉突場を特定することはできない。平河町の名は平川神社に由来し、荷風は平川町と表記しているが、この稿では平河町に統一して表記している。
千代は西船堀から東京市中へ出て、高輪を皮切りに転々としたようだが、東中野に住んでいた重吉を識り、二人で牛込矢来町に転じた。牛込矢来町は漱石の作品でもよく出てくるが、神楽坂の西、現在の早稲田通りと大久保通りに挟まれた一帯で、町域が広く、二人の住家は特定できない。ただ、どの辺りであろうと、神楽坂の毘沙門様まで徒歩で10分以内であり、《毎晩手をひきつれて神楽阪の夜店を見歩く。》という記述がある。やがて生活に困窮した二人は飯田町の素人屋に引越す。
飯田町は荷風がしばらく住んだ地域で、鏡花の『婦系図』、お蔦・主税の住家や、漱石の『明暗』の津田夫妻の家などが設定されている。ところがこの飯田町も1丁目から6丁目まであり、重吉・千代の住家を特定することはできない。どうも荷風は町域の広いところを選んで登場人物の住家を設定しているようで、しかも特定の到る描写をおこなっていない。
ところが、重吉・千代が飯田町から引っ越した、冒頭の場面に登場する芝桜川町は「18番地」と番地まで明記している。つまり、今まではどこに住んでいようが、どうでも良いことで、「ここが重要です!」と言わんばかりである。
芝区西久保櫻川町は虎ノ門の南、愛宕山との間にある。一辺300m程の正方形をした町域で、東辺・西辺を通る通りは表通りになっており、町内のほぼ中央を、これら二つの通りを結んでのびる東西方向の道路がある。この中央の通りの南側一帯が2番地で、1917年から1918年まで、藤村一家が暮らした高等下宿風柳館(現在の虎ノ門1丁目25)があった。現在では虎ノ門ヒルズ森タワー
が聳え立ち、環状二号線がくぐっている。
18番地は北辺の通り(現在の烏森通り)に面し、現在の虎ノ門1丁目16-6付近。現在では東側に虎ノ門ヒルズビジネスセンターが聳え立っている。
とにもかくにも、桜川町の変貌には、藤村も荷風もびっくりするであろう。とくに、荷風の嘆きぶりはいかばかりか。
1931年11月30日の芝桜川町18番地一帯は、つぎのような情景がくりひろげられていた。《二人の借りている二階の硝子窓の外はこの家の物干場になっている。その日もやがて正午ちかくであろう。どこからともなく鰯を焼く匂いがして物干の上にはさっきから同じ二階の表座敷を借りている女が寝衣の裾をかかげて頻に物を干している影が磨硝子の面に動いている》。18番地は北側が通りに面している。重吉たちのいる裏座敷の方が南側で日当たりが良く、物干し場が設けられていたと思われる。虎ノ門ヒルズに鰯を焼く匂いが立ちこめたらどうなるだろう。
《階下は小売商店の立続いた芝櫻川町の裏通に面して、間口三間ほど明放ちにした硝子店で、家の半分は板硝子を置いた土間になっている》。重吉は店を出ると、やがて《表の通を電車のある方へと歩いて行った》。表通りというのは桜田通りで、当時は市電が走っていた。
重吉が出かけた郵便局は麻布六本木の坂下にある麻布谷町郵便局である。現在の六本木2丁目2番にあたる。ちょうど首都高の谷町ジャンクションのところ。虎ノ門金刀比羅宮の南から溜池葵町へ入り、榎坂を経て六本木方面にむかう。1kmくらいあるだろう。荷風も少し遠いと思ったのだろう。《そこはこの春櫻川町へ引移るまで一年余り、其近くの横町に間借をしていたことがあったからで》、近くに池の端の待合で出会った男性が住んでいることがわかったので、急遽、現在の貸間へ引っ越したが、《貯金した郵便局も其中に近い処へ替えようと思いながら、これはついに其儘になって居た。》と釈明している。ということは、重吉・千代は飯田町から桜川町へ引っ越したのではなく、その間に麻布谷町辺りに住んでいたことになる。おたみの手紙にも、《わたくしの友達のつゆ子という女が二三年前、母が麻布の谷町にいた時分、雨にふられて一晩その家に泊ったことさえあったのです。》と書かれている。荷風が麻布谷町郵便局を登場させたのは、荷風の最寄郵便局だったからである。
郵便局を出て、重吉は《すぐさま電車の停留場へ引返す》。この停留場は福吉町であろう。福吉町は現在の赤坂2丁目・6丁目。重吉は《こそこそ逃げるように電信柱と街路樹との間を縫って、次の停留場の方へと歩みを運ぶ》。次は溜池である。重吉はそこで玉子に出会う。
翌日、玉子が訪ねて来て、昨日の溜池の貸間は、階下が新聞社へ勤める人であるとわかって、辞めたという。重吉は芳澤旅館へ出かけたまま戻って来ない千代の消息を知るため、玉子と一緒に四谷にいる荒木の婆さんを訪ねる。《本村町の堀端から左へ曲って、小さな住宅ばかり立ちつづく薄暗い横町をあちこちと曲って行く中、重吉も一二度来たことがあるばかりなので、其時目じるしにして置いた郵便箱を見失うと、道をきくべき酒屋も煙草屋もないので、迷い迷って遂に津ノ守阪の中途に出てしまった。》というから、市ヶ谷本村町(四谷区)から四谷坂町へ入り、四谷箪笥町、四谷北伊賀町から津ノ守坂の途中にある交番の辺りへ出たのだろう。現在、新宿歴史博物館がある三栄町辺りをうろうろしたことになる。結局、引き返して、途中で目的の家を見つけた。
やがて、重吉と千代は警察の捜査を恐れて、浅草千束町1丁目にある藤田という荒物屋へむかう。浅草千束町は吉原遊郭の西側から南側にひろがり、1丁目はもっとも西にある。この地は、《松竹座の前を真直に南千住へ出る新開の大通りである。》と書かれているが、この大通りが国際通りである。大震災後につくられた。松竹座の跡地は現在、ROXビルになっている。
二人は当座の住居を浅草柴崎町に定めた。浅草六区の西側にあり、現在の西浅草3丁目。日輪寺、東光院など寺院が多い。《横町の片側は日輪寺のトタンの塀であるが、彼方に輝く燈火を目当に、街の物音の聞える方へ歩いて行くと、じきに松竹座前の大通に出る。》というので、日輪寺のそばであろう。さすが荷風は浅草に詳しく、描写も具体的である。国際通りへ出て200m程で、《田原町の角に新聞売が鈴を鳴しているのを見て、重吉は銅貨をさがし出して、毎夕新聞に国民の夕刊をまけさせた》。

【おたみ――水の思い出】

おたみは塚山に宛てた手紙の中で、《わたくしの一番幸福な思出は二ツとも水の流れているところです。そして懐しいと思う人はお二人ともおなくなりになりました。》と書いている。
懐かしいと思う一人は、《わたくしを育ててくれた船堀のおばアさんです。》と書いて、《おばアさんが死んだのはわたくしが三ツか四ツの時分でしたから、其顔もおぼえていません。然し夜たった一人で真暗なところにいて、一つ処をじいっと見詰めていたり、また眠られない晩など、つかれて、うつらうつらとしている時などには、どうかすると、おばアさんの姿と、川のある田舎の景色がぼんやり見えるような心持のする事が時々あります。》と続けている。
そしてもう一人、《懐かしいといえばそれは震災前新栄町にいらしったおばさん》と、それに塚山であるとして、《わたくしの一生涯で一番幸福だったのはこの前も手紙で申上げましたように、それは新栄町のお家にいた時です。おばさんに手をひかれて明石町の河岸をあるいて蟹を取って遊んだことは一生忘れません。》と続けている。
おばあさんとの思い出に出てくる川は西船堀を流れる中川(現在の旧中川)であり、おばさんとの思い出に出てくる川は隅田川である。
京橋区新栄町は1丁目から5丁目まである。5丁目は明石町に隣接するので、200m余で佃ノ渡しの発着場(現在の佃大橋畔)に達し、ここから川下が明石町の河岸になる。浅草諏訪町4番地に住んだ漱石も、『道草』の中で、《土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。》と描写しているので、隅田河畔では蟹がよく見られたのであろう。
おたみの幸福な時期を水辺に設定したのは、河水に思い入れのある荷風らしい。

                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第36回 ひかげの花③

【千代の実家はなぜ西船堀に設定されたか】

都営地下鉄新宿線。東大島駅を過ぎ、荒川・中川の鉄橋を渡ると船堀という駅がある。このあたり一帯が江戸川区船堀で、1丁目から7丁目まである。ところが渡って来た荒川・中川は人工的につくられた放水路で、千代が生まれた頃にはなかった。東大島駅の下を流れるのが「もともとの中川」(旧中川)で、今でもこの川が江東区と江戸川区の境界になっている。したがって、東大島駅には江東区側改札口と江戸川区側改札口がある。この江戸川区側に下りた一帯が小松川であるが、放水路で分断される前は船堀と一続きになっており、荷風は船堀の西の地区ということで西船堀と表記している。千代は中川に臨む船宿の娘として設定されている。もちろんこの中川は旧中川である。隅田川沿岸の中洲の対岸から東へのびる小名木川を東進すると、東大島駅南300m程のところでこの中川に合流する。江戸時代にはこの合流点の北西角に川の関所である番所が設けられ、中川番所と呼ばれた。西船堀は水運の要衝に位置していた。
千代は1912年の春、都会に憧れ、両親の言うことをきかず、東京市内の知人を頼って家出したと設定されている。『つゆのあとさき』の君江は埼玉県に生れ、やはり東京に憧れて出て来たが、一応、上野駅から汽車で2時間のところに設定されている。ところが千代の住む西船堀は最寄りの総武線平井駅まで、ゆっくり歩いても30分かからないくらいのところ。しかも平井・両国間は現在では所要時間7分。当時はもう少しかかっただろうが、家を出て一時間もすれば、東京市電に乗っている、東京市内には至近の距離である。通勤や遊んで帰るのも不可能ではないと思われる。都会に憧れるという状況が理解しがたい面もあるが、明治末においては、都市近郊と言っても、地域格差そして格差意識は大きかったのだろう。西船堀を含む小松川地区は、「小松菜」で知られる農村地帯であった。小松菜をはじめとする農産物は水運によって、小名木川を通って江戸・東京市中に運ばれた。
西船堀は、都会に憧れる少女の出身地とふさわしいと言えるか、判断付きかねるが、すくなくとも荷風がこだわる江戸情緒、あるいは江戸期を引きずった地域としてはふさわしいであろう。
つぎに放水路である。
1910年、台風などの影響で多くの雨が降り、関東一帯が大水害に見舞われた。東京市中でも隅田川などが氾濫し、下町は浸水によって大きな被害を出した。この東京大水害をきっかけに、芥川龍之介の一家も下町を離れ、高台の田端へ引っ越したが、多くの下町情緒を押し流す結果となり、荷風にとっても大きな痛手であった。一方、大水害を繰り返すことがないよう、荒川・隅田川の水の8割を放水路によって分水しようという計画が、早くも翌年に策定され、荒川放水路建設と言う大事業が始まった。なにしろ川のないところに川をつくる。途中、中川を横断するので、中川も荒川放水路に並行する形でつけかえてしまう。多くの農民が農地を失い、引っ越しを余儀なくされる。解体移築される家、曳家で移動させられる家、寺院13件、神社23件も移転を余儀なくされた。東小松川村にあった善通寺は現在地(江戸川区平井)へ、葛飾四ツ木の木下川薬師(きねがわやくし)は移転先がなかなか決まらなかったが、ようやく南東600mの現在地
(葛飾区東四つ木)へ移転。とにかく、およそ2年間で、1300世帯分の土地、建設用地の96%を買収してしまった。奇しくも、千代が家出同然に東京へ出たのは、用地買収の時期と重なる。放水路建設と言う大きな流れによって、地域も生活も押し流されていこうとする時期であった。
荒川放水路の掘削は大規模で、途中、関東大震災もあって、完成までにおよそ20年。1930年にようやく完成した。
荒川放水路の建設によって、江戸情緒を押し流してしまった大水害は防ぐことができるようになったが、同時に船堀のような放水路が貫通した地域は、それまでの風情も失われ、地域も分断されてしまった。じつに皮肉なことである。失われゆくものに思いを寄せる荷風にとって、この現実はどのように映ったのであろうか。これからしばらくは荷風の『放水路』(1936年)をテクストにしてみたい。
1920年、荷風は深川の高橋から行徳へ通う乗合船に乗って浦安にむかった。小名木川の堀割を出て、中川へ入った。現在の旧中川にあたるが、当時は直接東京湾へ流れ込み、川幅も広くなっていた。《わたくしは東京の附近にこんな人跡の絶えた処があるのかと怪しみながら、乗合いの蜆売に問うてここに始めて放水路の水が中川の旧流を合せ、近く海に入ることを説き聞かされた》。千代のふるさとはこのように、東京至近と言っても、東京を遠く離れた印象を与える地域であった。
こうした印象をもちながら、荷風は1930年の冬、荷風は再びこの地を訪れることになった。
《わたくしは小名木川の堀割が中川らしい河の流れに合するのを知ったが、それと共に、対岸には高い堤防が立っていて、城塞のような石造の水門が築かれ、その扉はいかにも堅固な鉄板を以って造られ、太い鎖の垂れ下っているのを見た。乗合の汽船と、荷船や釣舟は皆この水門をくぐって堤の外に出て行く。わたくしは十余年前に浦安に赴く途上、初めて放水路をわたった時の荒涼たる風景を憶い浮べ、その眺望の全く一変したのに驚いて、再び眼を見張った》。東京市中に住んでいると、まったく気づかず、何の関心も抱かぬうちに、放水路は建設され、そして完成していたのである。自分たちの利益のために犠牲になった人たちを、自分たちは見捨ててきたのではないか。
《堤防には船堀橋という長い橋がかけられている。その長さは永代橋の二倍ぐらいあるように思われる。橋は対岸の堤に達して、ここにまた船堀小橋という橋につづき、更に向の堤に達している》。船堀橋※の中程に立って荷風は眺める。《対岸にも同じような水門があって、その重い扉を支える石造の塔が、折から立籠める夕靄の空にさびしく聳えている。その形と蘆荻の茂りとは、偶然わたくしの眼には仏蘭西の南部を流れるロオン河の急流に、古代の水道の断礎の立っている風景を憶い起させた》。荷風はまた別の箇所で、《放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻と雑草と空との外、何物も見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。》と書いている。都会の喧騒に身を置くことを好むような荷風が、その一方で人間の気配を感じないところを好む。仏蘭西の川が登場する時、それは好意の表れである。ロオン河の風景を思い起こさせる放水路の風景は、荷風の好むところであったのだろう。
大都会に近いにもかかわらず、ひっそりとしており、好ましい風景を提供してくれる船堀、古きものが急速に失われてゆく船堀。1930年という放水路完成の年に現地を訪れた荷風にとって、それから一年後に時期を設定した『ひかげの花』、その主人公の千代のふるさととして、船堀はふさわしい地域だったのではないだろうか。まさに、江戸・東京における「破壊と建設」という荷風のテーマにふさわしい場所だったのではないだろうか。
1932年。世田谷区や江戸川区などが誕生し、東京市は大きく拡大した。『つゆのあとさき』で世田谷、『ひかげの花』で船堀が登場したのは、膨張する東京に対する何らかの思いがあったからではないだろうか。好色の作家荷風は女性に囲まれながら都会の喧騒に身を沈めながら、一方、都市化の波に追われるように、郊外へ、郊外へと逃げ出して行った。幸か不幸か、その逃避行は市川で止まった。荷風が亡くなった1959年から30年。1989年に都営地下鉄新宿線が市川市まで乗り入れ、本八幡駅が開業した。もし、この時、荷風が生きていれば、利根川のむこうへ逃げ出していたかもしれない。
※船堀橋:1923年開通した鉄筋コンクリート橋脚をもつ木桁橋。長さ518m。この船堀大橋に接続して、中川放水路に長さ141mの船堀小橋が架かっている。1970年から71年にかけて、新しい船堀橋が開通している。

                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第35回 ひかげの花②

【重吉と千代の生活】

震災後、土地家屋の周旋業は景気が良く、重吉は千代を連れて歌舞伎座へ行ったり、箱根へ行ったりし、二人は牛込矢来町へ引っ越し、新婚生活を送るようになった。しかし1927年の春、金融恐慌が発生し、市中の銀行がほとんど閉店する事態に。重吉は種子の遺産も使い果たし、形見の宝石なども売り尽くし、ついには勤めていた会社も倒産。二人は飯田町辺りに間借する。重吉は何とか得た筆耕の仕事では大した稼ぎにはならない。千代を女給にして稼がせようと考えるが、自分から言い出し得ない。
やがて千代はかつて派出婦として行っていた小日向水道町に住む男と会い、また来て欲しいとカネを渡される。また近所にいる荒木と言う私娼媒介を生業とする老婆が声をかけて来る。千代は小日向水道町に住む男のもとへ行きながら女給の口を探すが見つからず、私娼媒介の老婆の家に足しげく顔を出すうち、ついに客をとる。稼ぎがあがるようになる。千代は重吉に知られてはならないと思っているが、図らずも事は重吉の思う方向へ進んでいる。
1931年11月30日、重吉は麻布谷町の郵便局に貯金を引出しに行った。千代はいつものように芳澤旅館へ出かけて行った。旅館と言っても、要は私娼窟である。その夜、千代は帰って来なかった。翌日、玉子という千代の知人が訪ねて来る。やがて二人で千代を探しに、まず四谷に引越している私娼媒介の老婆荒木を訪ねるが、荒木は顔が腫れあがっており、歯科医をまわって、結局慶應病院に入院。貸間へ戻ると千代はすでに帰っていて、連絡をしたとのことで、昨日、芳澤旅館の帰り、新橋で客に誘われ一緒に遊んだ後、雑踏に紛れて客を見失い、やっと見つけたら人違いで、相手は千代を街娼と思ったらしく、そのまま千代を連れ回したと言う。その夜、入った仕事を、千代は疲れたので玉子に譲る。
翌朝、千代は慶應病院へ。留守中、重吉のもとに芳澤旅館のお上が検挙されたと連絡が入り、すぐ「家に戻るな」と千代に連絡し、二人は当座の品を持って、かねてから決めていた隠れ場所へ行き、そこから貸間を探す。この間に荒木は死去。
夕刊に根津の松岡が挙げられたことが報じられ、私娼の名も何人か載せられている。芳澤旅館のことは報じていない。
そのようなことがあっても千代は引いてはいない。一昨夜、街娼と間違えられて千代が遊ばれた男と浜町辺りの座敷で会う。杉村と言う好色の老人は銀座の羅紗屋の主人である。男を待っている間、千代が新聞を読んでいると、挙げられた女性の中に、養女に出した千代の娘らしき名前を発見する。千代は杉村に取り入って囲われるとともに、ぶらぶらしている重吉に娘たみの居所を探してもらう。
やがて千代は娘に会い、一緒に暮らすようになる。

【おたみの履歴】

『ひかげの花』の13章は《お千代が娘のおたみを京橋区新栄町の女髪結の許にやったのは大正六年の秋、海嘯の余波が深夜築地から木挽町辺まで押寄せた頃で、其時おたみは五ツになっていた。》という文章で始まる。大正六年というのは1917年である。これらの表現などから、千代の娘たみは1913年生まれと推定される。『つゆのあとさき』の主人公君江より一つ年下になる。
新栄町というのは八丁堀の南、現在の中央区入船・湊一帯である。「海嘯の余波」というのは「高潮」のことで、東京湾沿岸に大きな被害を出したが、この件については後述する。荷風が「築地から木挽町辺まで押寄せた」と書いているところから、新栄町も高潮の被害を受けていると思われるが、荷風は言及していない。
1919年か1920年頃、久しく寡婦であった女髪結に若い入夫ができたが、子ども嫌いで虐待するようになり、女髪結は近所の塚山の妾におたみを託した。この妾はもと柳橋の芸者であったが、塚山と言う人の妾になり、そこへ女髪結が出入りしていた。妾は近所の縁日で女髪結に手を引かれているおたみを見てから、おたみをかわいがり、浅草などへも連れて行った。結局、女髪結は浮気な亭主の後を追って夜逃げ同然に姿を消し、おたみはそのまま塚山の妾のもとで暮らした。
小学校も卒業間近かのある日、クラスでガマ口がなくなり、おたみが疑われた旨、学校から連絡があった。1923年、おたみは11歳。小学校を辞め、裁縫の稽古に通っていたが、そこへ震災が襲い、妾は日比谷公園に避難した後、渋谷に家を借りたが、おたみは裁縫の稽古に出たまま行方不明となってしまった。
1927年を迎えた。妾が丹毒で亡くなり、1928年に塚山が芸者と箱根へ遊びに行った時、旅館の隣室に60歳あまりの老夫婦が泊まっており、連れていた娘がおたみとわかる。おたみは16歳になっていた。
老夫婦はもと箱崎町にいた金貸しで、震災の時、逃げ迷った道すがらおたみを助け、郷里の桐生に避難した後、1924年に東京に戻り、引き取り手が来るのを待ちながら、おたみを養育していた。塚山は妾が亡くなり養育者がいなくなったことを告げ、いくばくかのカネを与えて老夫婦に養育を託した。
半年後、新潟へ向かう汽車の中で塚山は、伊香保温泉へ行くという老人とおたみに会う。妻は箱根後すぐ亡くなったという。おたみは《年を秘している半玉などによく見られるような、早熟な色めいた表情が認められ》、塚山は二人の関係をあれこれ想像してみる。
それから半年、おたみはダンサーになっており、手紙で塚山にカネの無心を言って来た。それから音信不通で二年。新聞でおたみが拘留されたことを知った塚山は、弁護士に頼んで、おたみを釈放する手続きをとらせた。おたみはダンサーの許可証を取り上げられ、五反田の円宿のマスターに仕事を紹介してもらった。
おたみは一緒に捕まった友人のつゆ子によって、母千代と再会する。つゆ子は新宿のホールでおたみと友達になり同じ貸間にいたこともあり、検挙され、釈放された後は銀座4丁目裏のカルメンというバーで働いている。
同業者として再会した母子。おたみは再会の様子と近況、そして謝意をかいた手紙を塚山に書き送る。すでにおたみは自分を生んだ時の母の年齢を超えている。

                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第34回 ひかげの花①

『つゆのあとさき』に続いて取り上げるのは『ひかげの花』。この作品は荷風によると、1934年8月に書き終わったもの。荷風はやはり麻布市兵衛町1丁目6(現在の六本木1丁目6)の「偏奇館」に住んでいた。
『つゆのあとさき』の主人公はカフェーの女給君江。これに流行作家の清岡進や好色の老人松崎、それに川島などの男性が絡む。君江の友人京子などの女性も登場する。
一方、『ひかげの花』の主人公は私娼の千代。そしてもう一人の主人公として千代の内縁の夫にあたる中島重吉。最後の方で、千代の娘おたみと塚山という老人が登場する。
『ひかげの花』は『つゆのあとさき』から3年余経過しているが、設定時期は『つゆのあとさき』が1931年5月から7月であるのに対し、1931年11月から1932年2月までと、後を引き継ぐ形だ。この間に満州事変が発生し、1932年1月には上海事変(第一次)が発生。昭和モダン隆盛の一方で、戦争の時代を迎えようとしていた。
『ひかげの花』は13の章によって構成されている。話は11月30日、芝桜川町の借間における千代と重吉の日常の場面から始まる。その後、重吉の履歴、ついで千代の履歴が語られ、そのままの流れで9章に入って、冒頭の場面に戻って、大晦日にむかっていく。そして、13章でおたみの履歴が語られ、2月16日付の、おたみの塚山に宛てた手紙で話は終わりを告げる。何気ない作品であるが、おたみの手紙を読みながら涙してしまったのは一体なぜだろうか。


【中島重吉の履歴】

中島重吉は1917,18年頃、或る私立大学を卒業。第一次世界大戦の影響で日本の商工界は好況時代で、重吉は難なく或る商会に就職し、雑誌の編集係になった。けれども職務怠慢で一年ほどで解雇され、玉突きや釣りなどやってぶらぶら過ごし、小説なども書いてみていた。
重吉の実家は新潟の旅館で、両親が早く亡くなり、兄が家督を継いでいた。重吉が学生時代、麹町平河町に玉突場を営む種子という未亡人がいて、玉突きに来る学生四五人を引連れて活動写真を見に行ったり、銀座通や浅草公園を歩いたり。重吉も欠かさず誘われる学生の一人だったが、鎌倉へ避暑に出かけた未亡人を追って行った重吉は、そこで関係を結ぶ。二人の同棲生活が始まり、実家が家をたたんで仕送りが途絶えた時も、会社を解雇された時も、未亡人のおかげで困ることはなかった。やがて種子の身上が判明し、重吉は「淫蕩な妾上がりの女に金で買われた男妾同様であること」に気づく。しかし重吉は自分の生活を守るため、それを受け入れ、いつしか1923年。種子45歳、重吉33歳。傍目には仲の良い夫婦にうつる。関東大震災が発生し、重吉は仕事で目黒にいたため無事だったが、種子は白木屋にいて負傷し、続く冬風邪に端を発した腹膜炎で死去。
葬儀が終ったある日、通夜の前日に手不足のため雇い入れた派出婦が目にとまり、ちょっかいを出す。この派出婦が千代であった。

【千代の履歴】

千代は中川沿いの西船堀(現在の江戸川区小松川1丁目)※の船宿の娘。1896年頃の生まれと思われる。1912年の春、都会に憧れ、両親の言うことをきかず、東京市内の知人を頼って家出し、高輪のある屋敷に女中として住み込んだ。その夏、丸の内の芝原へ異様な風をした人々が集って加持祈祷するのを、千代も主家の書生や車夫と夜更けて何度か抜け出して見物に出かけた。ある夜、巡査に咎められ親元に送り返されたが、すでに妊娠しており、翌1913年に女の子を出産。18歳の千代は娘を母親に預け、再び女中として働いたが、3、4年後、ある雑貨商と結婚。母親が亡くなったので娘を引き取った。しかし、夫の両親や兄弟まで上京して同居するようになり、ごたごたが絶えず離婚。娘は近所の人に懇願され、養女に出した。その後、女中奉公した後、派出婦になった。そして、関東大震災の発生した1923年の冬。千代は重吉に出会う。
※当時、まだ荒川放水路はなかったので、中川というのは現在の旧中川。都営地下鉄新宿線東大島駅江戸川区側改札口を出た一帯が西船堀にあたる。総武線最寄り駅は平井。
      
                          (つづく)
【館長の部屋】 田中励儀著『泉鏡花の信州旅行』を読んで②

田中氏は、《鏡花が長野から篠ノ井線・中央線を経由して上諏訪まで赴いた二日目の行程が反映された「魔法罎」には、〈日本三大車窓〉のひとつ「姨捨駅」と、当時日本第二位の長さを誇った「冠着隧道」が描かれる。》と、三を書き出している。
田中氏は、姨捨駅について、明治33年11月開業の、《スイッチバック構造で有名な駅》で、《蒸気機関車の給水施設があった。そのため、停車時間が長かったものと推測される。今回、鏡花は途中下車しなかったが、五分間のプラットフォームからの景色に心衝たれたのだろう、大正六年の秋(推定)、雪岱とふたりで篠ノ井線に乗って再訪し、夕刻に姨捨駅で下車して月を眺めた。》と解説。《五分間停車と聞いてプラットフォームに降り立った作中の旅客は、「実にいゝ景色の処ですな。」「月見堂と云ひますのは。」(二)などと、駅員や駅夫と言葉を交わす。事前に『鉄道旅行案内』から予備知識を得ていて、月見堂の所在を尋ねたのだろうか。》と推察している。
田中氏は、鏡花再訪が『唄立山心中一曲』(1920年)を産み出すことになったとして、その中で汽車が姨捨駅辺りを進む時、《饂飩屋の女房が「あの山裾が、左の方へ入江のやうに拡がって、ほんのり奥に灯が見えるでございませう。善光寺平でございましてね。」(二)と案内する絶景は、篠ノ井線「姨捨駅」が〈日本三大車窓〉のひとつに数えられる根拠となっている。》と記している。この日本三大車窓というのは、田中氏によれば、根室線の狩勝峠、肥薩線の矢岳越、それに姨捨駅で、《明治後期には選定されていたらしい。》と、している。また、田中氏は当時の時刻表から、鏡花たちが乗った汽車は《篠ノ井発午後四時二十三分、姨捨発午後五時六分の四〇二列車を使ったことが確認できる。》としているが、作品からは確かに夕暮れの絶景が読み取れる。
汽車が姨捨駅を発車し、広々とした車窓の絶景は、狭く息苦しい隧道へと一転する。冠着隧道である。明治33年11月に開通し、長さ2656m。冠着山の下を貫いている。田中氏は冠着隧道に関して、《明治三十六年二月に中央線「笹子隧道」が開通するまで、本邦第一の長さを誇っていた。姨捨側からは二十五パーミルの急勾配を登るので、蒸気機関車は激しい煙を出すことになる。その対策として、列車が隧道に入り切ると入口に垂れ幕を下ろして風が吹き抜けるのを防ぐ隧道幕が設置されていた。鏡花が車内にも流れ込む煤煙を作品に取り込んだのも、事実に即している。》と記し、鏡花が作品の中で、東京へ帰る時、笹子隧道(4656m)を必ず通らなければならないことを考えると、むしろ《それを避けるため「一層中仙道を中央線で、名古屋へ大廻りをしようかと思つたくらゐ」(五)》と書いていることを紹介している。田中氏は《大仰さが読者の苦笑を誘う。》としているが、当時の読者には共感する者が多かったのではないだろうか。
蒸気機関車は煙を吐きながら進む。火の粉によって、沿線で火災が発生することもある。トンネルへ入ると、煙が押し込められて車内へどんどん入ってくる。それでも客車は窓を閉めたりして、侵入を抑えることができる。しかし機関車の運転室は構造上開放されており、容赦なく煙が入ってくる。機関士などが窒息して意識喪失することもある。トンネルはまことに地獄である。私もトンネルが近づくと慌てて窓や客室ドアを閉めた記憶がある。北陸線の柳ケ瀬トンネルを通る時など、冠着隧道同様25‰の急勾配を登るので、煙の量が多く、閉め遅れた窓や客室ドアなどから入って来る煙に息苦しかった。実際、このトンネル内で窒息によって機関士などが亡くなったと言う話を聞かされていたので、余計に怖かった。鏡花ならずとも、トンネルは恐ろしく、恐ろし気に描きたくなる。
鏡花は、冠着隧道の建設工事の中で115名の人が命を落としたことを知っていただろうか。トンネルはやはり何かを感じさせる。もし、鏡花が北海道の常紋トンネル(1914年開通)に使われた人柱の話を聞いたなら、きっと何か作品を書き上げたであろう。
田中氏は、《日本三大車窓のひとつ「姨捨駅」から、延長距離本邦第二位「冠着隧道」へ。明るく開かれた光景から、暗く閉じられた空間へ。急激に変化する展開は、徒歩で旅する時代にはありえなかった、鉄道旅行ならではの疾走感であろう。鏡花はその特性を独自の幻想文学に活かしたのである。》という一文で、三を締めくくっている。

🎶スピード スピード 窓の外
畑も とぶ とぶ 家もとぶ

🎶野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ トンネルだ
トンネルだ うれしいな

田中氏の文章を読んで、『汽車ポッポ』の歌を思い出してしまった。確かに鉄道旅行の醍醐味を表した疾走感のある歌である。(なお、この歌詞は戦後のもので、1937年につくられた時は『兵隊さんの汽車』。出征する兵士を見送る内容だった。けっして、うれしい、たのしいものではなかった。)

田中氏は、四を《「魔法罎」後半は、上諏訪の旅宿菊屋が舞台となる。》という文章で書き出している。種々の考察の後、《ところで、「魔法罎」に描かれた汽車の進行には疑問が残る。》として、二つの矛盾点をあげている。
第一の矛盾は、「長野で弁当を買った」という記述から「彼」が乗車したのは、長野発午後0:15、姨捨発午後1:18、塩尻着午後3:43の704列車だったことが確認できるが、姨捨付近の車窓が夕方の景色として描かれていること。
第二の矛盾は、「塩尻、塩尻――中央線は乗換」とのアナウンスがあったにもかかわらず、「彼」が乗った汽車はそのまま上諏訪にむかったこと。田中氏は、中央線は塩尻を境に、中央東線、中央西線に分れており、704列車は中央西線直通名古屋行きである。実際の鏡花は、いったん塩尻で下車、およそ一時間の待ち合わせの後、中央東線418列車に乗換え、上諏訪に午後6:12着いたと考えられると記している。
田中氏は《これは細部に拘って読めば気づく矛盾に過ぎず、もちろん、作品の魅力に関わる問題ではない。夕刻から夜へ、時間展開をなめらかにして読者を導く配慮が施されていると捉えたい。》としているが、私もこのようなことに引っかかるので、興味深く読むことができた。鏡花は信州旅行の見聞を作品の中に描き込んだが、汽車の時刻となると、実態とかけ離れたものとして描いたのだろう。やはり創作であり、小説であるから、当然と言えば当然である。
なお、第二の矛盾についてであるが、篠ノ井線は信越線の篠ノ井駅から分かれ、姨捨、松本を経て塩尻に達する。ここで中央本線と接続して東京へむかう。つまり、長野・松本を出発した列車は東京へは直行できる(つまり、中央本線・篠ノ井線は一体のものとして、長野県と東京を結ぶ路線として建設され、生糸など長野の重要な物産を運搬する役割が期待されていた)。一方、名古屋から伸びてきた中央本線が塩尻で東京から伸びてきた中央本線とつながり、一本の中央本線になった(東京・名古屋間の中央本線は東海道本線のバイパスとしての役割が期待された)。塩尻駅の構造上、中央本線を直通運転し、名古屋・東京の直行列車の運行は可能だった(ただ、現実的に、中央本線を通して走る列車は、100年以上の歴史の中でもほとんどなかった)。言い換えれば、長野・松本から来た列車が名古屋へむかうには、塩尻駅で機関車を付け替え、逆走しなければならない。このような列車があったのかもしれないが、運転室が二方向にある電気機関車と違って、蒸気機関車は一方向のみで、ターンテーブルでむきを換えるか、別の機関車を用意しなければならない。運転手が移動するだけで逆走できる電車とは大違いである。やはり、鏡花たちの乗った列車は塩尻を出て辰野・上諏訪にむかい、名古屋方面へ行く場合は、「中央線お乗り換え」であったと考えられる。
なお、塩尻駅は1982年に現在地へ移転され、名古屋からも松本・長野にむかって直通運転が可能になった。これにともない、中央本線は塩尻駅で二股になり、中央東線、中央西線が明確になった。

鏡花は「魔法罎」を、《其の女は――此に就いて、別に物語があるのである。》と締めくくっている。この「別の物語」が「袙奇譚」であろう。田中氏は五において、「松沢、等々力、新郷の三人が信濃の旅に出て、深夜、上諏訪の旅宿を抜け出て城裏の遊郭に遊んだ翌朝、等々力が金時計を紛失したことに気づき、楼の女将や番頭が冷たくあしらう中、等々力の相方を務めた遊女袙(あこめ)が親切に対応し、無事にみつかる。女将に逆らった袙の身を心配した等々力は、松沢にその後の様子を窺うよう依頼する。」等々、「袙奇譚」のあらすじを記した後、考察を加えているが、最後に、大正期に刊行された花街案内の写真集、黒沢万喜知編『諏訪の華』(大正14・8・20、上諏訪本町飯島書店)を紹介している。
それによると、駒勇・吉丸・君葉ら84名の芸娼妓の肖像が42ページにわたって収められており、《残念ながら袙に類する名は見出せないが》、巻末には料理店や商店の広告とともに、「料芸二業組合芸妓置屋」の一覧が掲載され、高島家・華月・蔦牡丹をはじめ、32軒の置屋名が記され、《賑やかな花街が繁盛していた様子が窺える》。
こうした状況を踏まえて、田中氏はの記述から、《成章に先導されて鏡花と雪岱が後につづく足取りが彷彿とする。旅先での見聞が遊女を主人公とする作品の基盤となった可能性は大きい。》と推察している。

田中氏は同稿を、《「革鞄の怪」「魔法罎」「袙奇譚」、大正二年の信州旅行が生み出した泉鏡花の〈鉄道旅行小説〉は、汽車・駅・トンネル・温泉・旅館・遊郭といった旅での経験に発し、土地を彩る風景や伝承を取り入れた紀行文形式の外枠を持つ。一方、革鞄に挟まれた娘の片袖、背丈格好の小さなふたりの女、細かな泡が変じた大量の生首といった小説の核心は、おそらく鏡花独自の発想だろう。それらは、旅行革鞄、トンネル、温泉といった、旅行用具、鉄道施設、宿泊旅館につながっている。》としたうえで、《さらに、土地に関わる形で和歌・歌舞伎・清元・浮世絵・わらべ唄等々が作品を背後から支えている事実を考えるとき、鏡花の幻想小説における鉄道旅行の大切さが、より強く浮かびあがってくる。》と結んでいる。


★鉄道にも詳しい田中氏ならではの、興味深い論稿。「革鞄の怪」「魔法罎」の二作品は「青空文庫」でも公開されているので、原作を読んで、鏡花の世界に引き込まれてみるのも楽しいでしょう。

                         (完)
【館長の部屋】 田中励儀著『泉鏡花の信州旅行』を読んで①

泉鏡花の研究者として知られる田中励儀氏の書いた『泉鏡花の信州旅行――大正二年の旅から生まれた小説――』(同志社國文学第97号、2022年)を読む機会があった。同稿は「章」という語を使用していないが、五つの章によって構成されている。

田中氏はこの中で、《日本の鉄道開業の翌年、明治六年に生まれた鏡花は、各地に路線網が広がっていく〈鉄道発達の時代〉に生き》、『風流線』や『銀鼎』など、《数々の〈鉄道小説〉を発表した。近代科学技術の精華である鉄道に親しみ、それを幻想文学に結びつけるところに鏡花文学のひとつの特徴がある。》と記している。指摘されてみれば確かに、鏡花の作品のいくつかに鉄道が出て来る。『婦系図』の後篇なども東海道線の汽車の中から始まる。けれども明治の中期以降、旅に出る小説を書けば鉄道が出て来るのは当然である。ただ、その中で「汽車に乗った」程度でなく、鉄道について克明に描いていれば、それは「鉄道小説」であろう。
漱石は、鉄道をテーマに描いているわけではないが、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』など、克明に鉄道を描いた作品を多く発表しており、これらも「鉄道小説」と言って良いだろうが、漱石は近代科学技術の精華である鉄道を使いこなして、各地を活発に動き回り、その中で人間模様を描き出し、あるいは文明批評をおこなう。そこに「幻想」が入り込む余地はなく、同じ「鉄道小説」といっても鏡花と大きく異なる。

鏡花の信州旅行はどのようなものであったかが、一に書かれている。
旅行参加者は、泉鏡花のほか小村雪岱、堀尾成章の計三名。行程は、大正二年、1913年の11月8日、上野から信越線で長野へ行き一泊。翌日は篠ノ井線・中央線を通って上諏訪まで行って一泊。11月10日に中央線で東京(飯田町)へ戻ったと、田中氏は推定している。
そしてこの旅行から、「革鞄の怪」「魔法罎」「袙奇譚」の三つの短編小説が生まれたが、田中氏は、「革鞄の怪」は初日の車中、「魔法罎」は二日目の車中を、「袙奇譚」はその日の旅宿を、それぞれの中心の舞台としていると、指摘している。

二以降、三つの作品について、それぞれ鉄道と絡めながら論考がなされているが、その中で田中氏は、差し出された葉書や作品をもとに、当時の時刻表(『汽車汽船旅行案内』大正元年九月、旅行案内社)を使って、実際に乗車した列車を特定しようとしている。鉄道ファンには興味津々の記述が続くが、田中氏は、鏡花もまた、《この小説を書く時、机辺に時刻表を備えていたことは間違いない。》と記している。
田中氏は、大正2年11月8日長野局消印、堀尾成章の妻貞に宛てた《寄せ書き葉書に鏡花が記した「汽車の中のお嫁さんがホントにさしうつむいた容子がそれはよかった」という偶然の出会いが「革鞄の怪」発想の基盤となった。》として、鏡花たちが乗った列車は、上野発10:10、高崎発13:42、飯塚着13:48、軽井沢発16:05、長野着18:50、直江津行111列車であると特定している。鏡花は作品中で《男は鉄縁の時計を見て、「零時四十三分です。此の汽車は八分に着く」》と書いており、田中氏は、《鏡花は一時間早く誤記していることになる。当時の時刻表の文字は小さく、近視眼の鏡花が読み間違えてもやむをえなかっただろう。》と解している。
ところが私にとって不可解なことがある。
鏡花は「私」の乗った汽車は11:30頃に高崎に着いたと作品中に書いている。現在でも上野・高崎間は2時間くらいかかるから、10:10に上野を出発した汽車が11:30頃に高崎に着くことはありえない。鏡花は最初から、現実の時刻表を無視したのではないだろうか。つまり、作品上の上野発は8:10、そして11:30頃に高崎着。ここで12分ほど停車して、11:42に高崎発。つぎの飯塚駅(現在の北高崎駅)に11:48着。ここでまた一時間のずれが出る。
革鞄の主は上野から乗車している。花嫁は高崎駅で乗って来た。つぎの駅で「私」は花嫁の袖が革鞄に挟まっているのに気づく。汽車は発車する。車内でごたごたあって、革鞄の主が時計を見ると0:43で、48分につぎの駅に着く。高崎・横川間は距離およそ30km、現在、所要時間30分。当時は1時間ほどかかったであろう。11:42に高崎を発てば、1時間後には横川にかなり近づいている。花嫁の下りる駅は横川か、あるいはその手前の松井田あたりに設定されたと考えられる。
汽車の時刻が出て来るのは西村京太郎ばりだが、田中氏が指摘するように、鏡花は当時の時刻表『汽車汽船旅行案内』を見ながら、その時刻を巧みに作品に挿入していったのであろう。そしてこの旅行案内が事件の発端としての役割を担わされている。
                           (つづく)
【館長の部屋】 泉鏡花『白金之絵図』――聖心女学校正門の謎

『白金之絵図』は1916年1月に発表された泉鏡花の小説である。この作品には「聖心女学校」(現在の聖心女子学院)が実名で登場し、お町という少女は「聖心女学校」の生徒として設定されている。そして、「聖心女学校」に正門(表門)と裏門のあることが、作品を構成する重要な要素になっている。鏡花も、本館最寄りの門が裏門で、遠く離れたところに正門があることを不思議に思ったのだろう。
私は聖心女学校正門の謎を解くため、「地理屋」の習性で、現地を歩いて、地形の状態を確認し、聴き取りをしてみたが、よくわからず、当事者にあたる聖心女子学院に問い合わせた。「聖心女学校」は、1909年に緑青色の鳶の舞う避雷針を戴く本館校舎が完成し、1910年に高等女学校、小学校、幼稚園が開校した。赤煉瓦の本館校舎と正門はヤン・レツルの設計により、本館校舎は関東大震災で焼失したが、正門は現存し東京都文化遺産に指定されている。

私が不思議に思ってきたことの一つが、聖心はどうして起伏の激しい地形の場所を選んで校地にしたのかということである。少なくとも校地の中央を谷が通るような地形は避けるであろう。このような疑問に対して、聖心女子学院の大山江理子校長先生は書面に、《聖心は校風として緑豊かな場を立地に選ぶ考え方があり、姉妹校はどこも坂の上にあります。生徒たちは遅刻しそうな場合に苦労することになります。色々なご縁があって、この白金の地を創立の場と選んだようです》と記されている。
大山先生が、《聖心は校風として緑豊かな場を立地に選ぶ考え方があり》、と言うように、修道女会により設立された聖心が求めるものは、修道院を建てるような人里離れたところ、そして仰ぎ見るような場所。まさに聖心が建てられた場所は、東京にあって、そのイメージにふさわしい場所だったのではないだろうか。
《姉妹校はどこも坂の上にあります》と書かれているように、姉妹校の一つ、不二聖心女子学院(静岡県裾野市桃園)は富士山の裾野にあり、学校への登り口から本館まで標高差70m。広大な校地に修道院もある。《生徒たちは遅刻しそうな場合に苦労することになります》という一文に、私は金沢にある県立金沢桜丘高校の「遅刻坂」を思い出してしまった。本名の「児安坂」はどの程度知られているかわからないが、坂を上れば、確かに「児どもたち」は身体が鍛えられ「安らかに」成長できるかもしれない。
このような聖心が求めたイメージからすれば、正門は確かに本館から谷を越えたところ、つまり三光坂を上ったところにつくるのが望ましい。
大山先生は、《正門がなぜ本館から遠いところに作られたかという記録は見当たりませんが、以下のように理由を考えてみることができます。》として、《昭和10年に正門は現在の坂下の位置に移設されましたが、それまでは目黒通りから通じる道に接しておりました。当時の写真を見ますと、正門から森を経た向こうに本館がまっすぐ見えるように配されております。正門から入ると道は下り坂となり、その道の両側には池があったという記録もあります。本館は坂を上がった上にあります。当時の本館の写真を見ますと、明治の建築にあるような玄関に接する立派な車寄せが作られておりますので、馬車や人力車、車等の通行を想定したと思われます。正門から本館までは立派な車道が作られていたものと思われます。目黒通り、あるいは三光坂からの通行を想定したものでしょう。裏門から上がる坂道は大変急ですので、車の通行は想定していなかったのではないかと考えます。また、裏門付近は現在も道が広くはなく、車等の通行に適していたかどうか不明ですし、雷神山公園に向かって旧神応小付近は低い土地となっていますので、高い方を正門としたとも考えられます。》と記されている。
正門は、1935年、現在地に移されるまで、《目黒通りから通じる道に接して》、つまり三光坂を上った、現在の白金4丁目10、白金マンション南、「聖心女子学院」の銘板の入った石柱が建っているあたりにあった。
本館から谷を越えた反対側の丘の上に正門を置くことによって、《正門から森を経た向こうに本館がまっすぐ見えるように配されております。》という理想の構図を得ることができる。建物だけでなく、景観を大切にする永井荷風が知れば、おおいに喜ぶだろう。
正門を抜けて坂道を下ると谷である。聖心本館が建てられる二年前の1907年1月調査の『東京市芝区全図』によると、谷底を南から北にむかって川が流れ、上流部と下流部に池が見られる。

1907年1月調査の『東京市芝区全図』は重要なことを教えてくれる。それは聖心を建設する時、蜀江坂がなかったことである。当時あったのは、雷神社近くを通る雷神坂だけで、興禅寺まで通じていた。迂回する形になるので、傾斜はいくぶん緩やかになるが、道幅は狭かった(雷神坂は分断され、現存しない)。けれども、鏡花がこの地を訪れた時、蜀江坂があり、坂に沿って聖心の煉瓦塀があったことは、《急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。》という文章からもわかる。つまり、聖心の校地を区切る煉瓦塀建設が蜀江坂を生み出したのである。おそらく、蜀江坂上り口にある通用門は建築資材運搬などのため設けられたものであろう。そして、雷神坂と蜀江坂が坂上で出会うところ、つまり興禅寺のところに裏門が設けられた。
大山先生は、《裏門から上がる坂道は大変急ですので、車の通行は想定していなかったのではないかと考えます。また、裏門付近は現在も道が広くはなく、車等の通行に適していたかどうか不明です》と記されている。蜀江坂が急坂であったことは鏡花も描いている。これは、自動車時代に至る以前の、人力車の時代には大きな障害になる。
ここで、島崎藤村の『春』の一節をみてみよう。藤村が尊敬する北村透谷の葬儀(1894年)の様子をもとにしている。芝公園辺りの自宅でキリスト教式葬儀をした後、白金の寺まで行く場面である。赤羽橋から慶應義塾大学を過ぎて、角で右折。《豊岡町、松坂町の裏通は、やがて白金へ通う樹木の多い道路である。これはやや迂回した道順ではあったが、一番上り下りが少く白金台のほうへ行くことができたからで。》と、女性は多くが人力車を利用しているから、なるべく傾斜の少ない経路を選ぶ必要がある。一行は立行寺の前から清正公像のある覚林寺の前に出る。どっちにしても最後は上らなければならない。《三光町から坂にかかるころ、婦人や子供を乗せた車の列がときどき止った。若い人々が翳す美しい洋傘は、車が動くたびに、路傍の青葉に触れた。これが上りきるまで、待っているのは容易でない、こう思って、後から行った連中は白金のほうへその坂を急ごうとした》。現実にむかう瑞聖寺は、聖心の正門側から目黒通りへ出て、地下鉄白金台駅すぐ南である。
白金台へ上るには、谷筋を通る目黒通りのルートが、比較的傾斜が緩やかで、道幅も広く、急な蜀江坂や三光坂、狭い雷神坂にくらべ、人力車のルートとして選びやすかったと考えられる。この点からも、正門の位置は表としてふさわしいものであっただろう。
《当時の本館の写真を見ますと、明治の建築にあるような玄関に接する立派な車寄せが作られておりますので、馬車や人力車、車等の通行を想定したと思われます。》と大山先生は書かれている。一般的に公開された写真から、車寄を見ることはできず、貴重な情報である。西洋建築では当然のこととして作られ、実際どの程度使われたかわからないが、馬車や自動車を利用した場合には使われただろう。ただ、人力車の場合、坂の上り下りは極力避けたいので、正門のところで下りて、300m余の坂道を歩いて本館へ向かったのではないだろうか。正門が坂下につくられなかったことも頷ける。
聖心が創立されて5年程。1913年に現在の目黒通りにあたる道路に東京市電が走り始めた(目黒線)。白金台町の停留所も設けられ、聖心正門まで300m余、高低差も少ない。鏡花が訪れた時、すでに市電は目黒駅まで開通していたから、このルートで聖心の正門にたどり着いたと考えられる。

このように見てくると、一見不自然な正門の位置も、聖心の描く理想の校地、景観と、現実の交通の便、両面から、きわめて合理的な正しい選択であったと言えるだろう。鏡花の世界に引き込まれて、裏門を正門にしなかった精神的要因を探ってしまったが、どうもそうではなかったようだ。信州旅行(1913年)をもとにした『革鞄の怪』や『魔法壜』などのように、現実をしっかり踏まえて異界へ引きずり込んでいく鏡花の手法が『白金之絵図』にも表れている。

                         (完)
【文豪の東京3――永井荷風】

第33回 つゆのあとさき⑥

【外濠情景】

しばらく店に出るのを休んでいるうち、にわかに真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなった君江。村岡から来た手紙を、《ぶらぶら堀端を歩みながら、どこか静な土手際で電燈の光の明い処でもあったらもう一度読み直そうという気もしたのである。然し電車と自動車の往復する堀端は、新見附の土手へ来るまでは手紙を読返す事のできるような処もなかった。》と、外濠沿いの道(外堀通り)の往来の激しさが伝わって来る。
ここで、現在でも見られる「お堀の貸ボート」が登場する。《行手に牛込見附の貸ボートの灯が見え、二三人女学生風の女が見附の柵に腰をかけて涼んでいたので、君江は蔦の葉つなぎの浴衣のさして目にたたぬを好い事に、少し離れた処に佇立んで、束ねた洗髪を風に吹かせながら、街燈の光に手紙を開いて見た》。君江は新見附にいるので、「二三人女学生風の女」というのは、すぐそばにある三輪田高等女学校の生徒かもしれない。藤村の姪島崎駒子も卒業生である。
《あまりいつまでも同じところに立ってもいられないので、君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつも其辺の夜学校から出て来て通り過る女にからかう学生もいないのは、大方日曜日か何かの故であろう》。この「夜学校の学生」。これまたすぐそばにある法政大学の夜間部の学生であろう。
《金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、其の響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂の音に雑って若い女の声が聞える》。真下は現在の中央線、向うは現在の外堀通りである。当時は路面電車(外濠線)が走っていた。
貸ボートはさらに続く。《貸ボートが夜毎に賑かになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川の家へ同居した当時の事を憶い出す。京子と二人で、岸の灯のとどかない水の真中までボートを漕ぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三四年の間、誰にも語ることのできない淫恣な生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横っている飯田橋から市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつも其背景にして進展していた。》と描かれた君江はまだ二十歳である。それにしても、二人は「当たり屋」同然に、相手に難癖つけて客にしていたのであろう。好きな男性を物色するためではない。客を物色していたのである。さて、こんな時、「どうする荷風」。《火取虫が礫のように顔を掠めて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった》。さすがに文豪の表現である。
ここで君江は、かつて京子を妾にしていた川島に出会う。「今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」と言う君江に、《「成程小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、明いところが神楽阪だな。そうすると、あそこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》などと、お互い懐かしそうに話していると、《突然土手の下から汽車の響と共に石炭の烟が向の見えない程舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなく袂に顔を蔽いながら立上った》。中央線は電車であるが、飯田町駅を起点とする貨物輸送は貨車を蒸気機関車が牽引しておこなわれていた。土手上にいれば、まともに蒸気機関車の煙を浴びることになる。荷風もこのような経験があるのだろう。わざわざこのような場面を挿入しなくても話は進行しただろうが、荷風のちょっとしたリアリティであろう。
君江と川島は歩き始める。《公園の小径は一筋しかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程なので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて其のまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方向へ行こうとするのやら、二三度電車が停っても一向に乗ろうとする様子もない》。この後、川島は付いて君江の貸間にむかう。翌朝、目が覚めた君江が手にした川島の置手紙の中には、《あなたが京子に逢って此のはなしをする間には僕はもう此の世の人ではないでしょう。》の一節があった。《君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた》。

『つゆのあとさき』はこうして終わりを迎える。
私は読書が好きで小説を読むことが好きで、その結果として文章を書いているのではない。私は書くことが好きで、文章を書くために作品を読んでいる。したがって、私が題材としている作品は、私にとって「常に初出である」と言って良い。その作品が面白いとか、名作であるとか、その作家を好きだとか、そのようなことはほとんど問題にならず、東京がどれくらい具体的に描写されているか、それが作品を選ぶ重要な決め手になる。作品に対する思い入れもなく、登場人物に対する思い入れもない。題材として選ばれでもしない限り、私は読むことさえしなかった、もっと言えば存在さえ知らなかった作品ばかりと言ってよい。
にもかかわらず、今、私が『つゆのあとさき』を去りがたく思っているのは、いったいなぜだろう。この作品だけではない。私が扱ったすべての作品で去りがたい思いがする。私がただ、読書が好きで、小説を何冊も何冊も読む人間であったなら、登場人物も情景もただ通り過ぎていくばかりだったかもしれない。けれども、ひとつの作品、往きつ戻りつ、何回も読み直し、地図を開いて調べ、さまざまな情報を集めているうちに、一度の通読だけでは得られない発見があり、しだいにその土地に対する愛着が湧き、登場人物に対する愛着が湧いて来る。
まあ、このような作品の読み方も「あり」だろう。「あり」だろうが、君江のような人物にこちらがいくら愛着をもっても、かんたんに切り捨てられそうである。けれども、君江は案外、情の厚い人物かもしれない。作品の中に吸い込まれてしまうと、こんな妄想もまた楽しいものである。

                        (完)

カフェーや女給などに関する研究には、
村田瑞穂:近代日本におけるカフェーの変遷(史窓)
寺澤ゆう:1930年代のカフェーにみる性風俗産業界――動揺の裏側にある女給の労働実態――(立命館大学人文科学研究所紀要103号、2014年)
などがある。
【文豪の東京3――永井荷風】

第32回 つゆのあとさき⑤

【密会を付ける】

清岡進は君江が自分に惚れていると思っていたが、ある日、ドンフワンへ行ってみると、君江は体調を崩して店を休んでいるという。見舞いに君江の家にむかう清岡。《いつも曲る濠端の横町から、突と現われ出た女の姿を見た》。深夜12時前である。《女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感ずかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂回して左内阪を昇り神社の裏門から境内に進入って様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖上のベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤もベンチは三四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺寄せて腰をかけていた》。君江の相手は好色の老人松崎である。
君江と松崎の密会の場は市谷亀ヶ岡八幡神社の境内である。外濠に面した道路は標高13m程であるが、社殿は標高30m程になる。かなり急な直線の石段を上る。脇へ回り込む坂道がある。清岡はすぐ東側の左内坂を上って、長泰寺の手前を左へ入って、本殿の裏手へ。現在の目印はセブンイレブン。その北側を入る。荷風はこのような道をも知っていたのである。
いちゃつく様子は省略し、二人は立ち上がって石段を下りる。清岡は、今度は女坂を迂回して後を付ける。《二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新見附を曲り、一口阪の電車通から、三番町の横町に折れて、軒燈に桐花家とかいた芸者家の門口に立寄った》。
外濠に沿って500m程、飯田橋の方にむかって進み、右へ曲ると新見附である。そのまま真っ直ぐ300m程の坂道が一口坂で、上ると、九段坂上から市ヶ谷見附に伸びる電車道。両側三番町である。二人は電車道を横断し左へ折れて、九段坂上の方向に進み、やがて右へ入ったと思われる。この辺り一帯、つまり現在の九段南三丁目一帯、かつて「芸者横町」と呼ばれていた。京子こと京葉がいる芸者家桐花屋はこの地に設定されたとみられる。君江と松崎は京葉に紹介された待合へむかい、清岡も後を付けて、同じ待合へ入る。荷風は設定にあたって、関根歌にもたせた待合「幾代」(三番町10番地、現在の九段南三丁目5番付近)が念頭にあったと思われる。
翌朝、清岡は一口坂を下り、《四番町の土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた》。清岡は新見附で土手へ上り、向うの高台は牛込台である。
密会を目撃した清岡はこの後、復讐を企てるようになり、やがて君江につぎつぎとキケンなことが起きるようになる。

【怪我をした君江】

西銀座で《蕎麦屋を出てから自動車に乗ったのは瑠璃子、春代、君江の三人であった。瑠璃子が赤阪一ツ木で先に降り、次に春代が四谷左門町で降りると、運転手は予め行先を教えられているので、塩町の電車通から曲って津の守阪を降りかけた》。
赤坂一ツ木町は現在の赤坂4丁目から5丁目一帯。ここから赤坂見附へ出て、外濠に沿って四谷見附。現在の新宿通りを四谷忍町(現在の四谷3丁目)まで来て、左へ入ると四谷左門町である。この後、君江を乗せたタクシーは新宿通りへ戻って、四谷見附の方へむかいながら、途中で左折して津ノ守坂を下った。そこで君江は運転手から「君子さん」と声をかけられ、小石川諏訪町に京子と一緒にいた時の客であることを告げられる。ここで下ろしてくれと言う君江に、車を停めて、下りようとしたところ急発進。《君江はアッと一声。でんぐり返しを打って雨の中に投げ出された。「ざまァ見ろ。淫売め」と冷罵した運転手の声も驟雨の音に打消され、車は忽ち行衛をくらましてしまった》。君江は《投出された場所は津の守阪下から阪町下の巡査派出所へ来る間の真暗な道だと思いの外、まるで方角のわからない屋敷町の塀外であった》。下ろされた辺りが明確ではないが、四谷坂町から市ヶ谷片町の辺り、つまり合羽坂下辺りだろう。君江がその後、市ヶ谷合羽坂を上って、薬王寺前町へむかっていることからもわかる。通りに面して開業している医者に応急手当をしてもらい、自動車を手配してもらって帰宅。一週間ほど臥せっていたが、あのタクシーの事件も、始めから清岡によって仕組まれたものではないかと、思う様になっている。

                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第31回 つゆのあとさき④

【君江が鑑定してもらった易者の店】

《女給の君江は午後三時から其日は銀座通のカツフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた》。『つゆのあとさき』の書き出しである。今まで、漱石をはじめ各文豪の作品、電車はよく出て来たが、乗合自動車(現在の乗合バス)は初めてかもしれない。君江は四谷見附からバスに乗った。新宿発築地行きである。この後、麹町九丁目、半蔵門と停車して、ここで新宿通りを離れて内堀通りへ入り、三宅坂の次が日比谷である。君江はここで下りたが、バスは銀座四丁目を経て築地まで行く。東京の乗合バスは1919年から営業を開始したが、関東大震災で路面電車が打撃を受け、急速に普及していった。
君江は《鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町へ曲り、貸事務所の硝子窓に周易判断金亀堂という金文字を掲げた売卜者をたづねた》。場所的には有楽町駅と新橋駅の間、日本で初めて高架下を店舗として開発したところで、その歴史は1910年にさかのぼるが、荷風が描いた1931年の光景は、ある面、現在も変わっていない。易者はアパートメントの一室を店にしており、《省線電車の往復するのが能く見える》。
君江が《建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流行の衣裳の飜えるのが目に立って見える。》と一帯の様子が描かれ、《君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、をちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっている》。
外濠が埋められ、数寄屋橋が消えたのは1958年である。ガードを抜けると、すぐ左側に朝日新聞社の社屋が建っている。8階以上の高さのどっしりしたビルである。1927年に完成したから、1931年当時はまだ新しい建物であった。1980年に朝日新聞は築地へ移転し、その跡に有楽町センタービル(有楽町マリオン)が建てられている。数寄屋橋を渡れば200m程で銀座4丁目交差点である。まさに東京最大の繁華街になったこの界隈の様子が、よく表れた描写である。

【郊外世田谷――清岡進の父の家】

《府下世田ケ谷町松陰神社の鳥居前で道路が丁字形に分れている。分れた路を一二町ほど行くと、茶畠を前にして勝園寺という扁額をかかげた朱塗の門が立っている。路はその辺から阪になり、遥に豪徳寺裏手の杉林と竹藪とを田と畠との彼方に見渡す眺望。世田ケ谷の町中でもまづこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最幽静な処であろう。寺の門前には茶畠を隔てて西洋風の住宅がセメントの門墻をつらねているが、阪を下ると茅葺屋根の農家が四五軒、いずれも同じような藪垣を結いめぐらしている間に、場所柄から植木屋かとも思われて、摺鉢を伏せた栗の門柱に引違いの戸を建て、新樹の茂りに家の屋根も外からは見えない奥深い一構がある》。この家が清岡進の父熙の隠宅である。
下町の描写が多い荷風にして、山の手郊外の描写は貴重である。「府下世田ケ谷町」は翌1932年に東京市世田谷区になったので、これまた貴重な表現である。当時の世田ケ谷町の人口は73000人程度。すでに市制を施行できる人口を有していたが、人口94万人に達する現在の世田谷区からすれば、まだまだ武蔵野の農村風景を有する地域であった。荷風の文章から、当時の様子が伝わってくる。
清岡熙の家は、どこに設定されたか。ピンポイントで特定することはできないが、荷風の文章からかなり絞り込むことができる。
松陰神社の鳥居の前。南北の道路に、西から来た道がぶつかり、丁字路をつくりだしている。清岡の家はこのぶつかる道路を西にむかって行く。この辺り、現在は若林4丁目。200m程進むと、交差点南西角に世田谷区役所。世田谷4丁目に入る。さらに西へ100m程行くと、右手に朱塗りの門。勝国寺と書いてある。荷風はそれを勝園寺と改めている。この辺りから下り坂になり、100m程で小川(烏山川)を渡る。現在は緑道になっている。小川を越えて150m程で豪徳寺境内の東端にぶつかる。この辺り、地形は緩やかな起伏で、松陰神社前辺りで標高35m程。西へ行くと少し高くなるが、勝国寺前辺りから下り始め、標高35mを切り、小川の辺りで31~32mになる。この後、豪徳寺にむかって上りになり、豪徳寺境内で標高35mを回復する。「遥に豪徳寺裏手の杉林と竹藪とを田と畠との彼方に見渡す眺望」というのは、実に的確で、現地へ行かなければ表現できない。
清岡の家は小川の東側、現在の世田谷3丁目24~26、または世田谷4丁目24~25に設定されたと思われる。荷風がどうしてこのようなところに清岡の家を設定したのか、私にはわからないが、荷風がどのようにして現地へ行ったか、推察してみたい。
荷風の住む「偏奇館」(現在の六本木1丁目6)の最寄電停から、新宿駅へ行く場合も渋谷駅へ行くにも直通の市電がないので、途中乗り換えたであろう。新宿からが小田急線がすでに1927年に開通しているので、豪徳寺駅まで乗って、下車後、1500m余で松陰神社に着く。途中に清岡の家設定地がある。渋谷へ出れば、玉川電気鉄道(玉電)が玉川まで1907年に開通しており、三軒茶屋まで乗って、ここで下高井戸行きに乗り換える。現在の世田谷電車にあたる路線は1925年に開通している。松陰神社前で下りれば、200m余で神社前に達する。荷風はどちらを選んだかわからないが、私なら往路は玉電・世田電、復路は小田急を使って一周してくるだろう。言い換えればこの地域、1930年頃には新宿、渋谷といった都心につながる交通網の結節点に、きわめてアクセスの良い地域になっていたのである。

                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第30回 つゆのあとさき③

【君江の借間が設定された市ヶ谷本村町】

君江が部屋を借りている家は、市ヶ谷本村町にある。困ったことに、この町、四谷区と牛込区にまたがっている。四谷区市ヶ谷本村町は1番地から40番地まであり、牛込区市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があって、広大な敷地を占めており、現在は防衛省になっている。民家は外濠と現在の靖国通りに囲まれた2番地から41番地までの三角形をした、きわめて限られた地区である。
君江が部屋を借りている家の住所は「市ヶ谷本村町〇〇番地亀崎ちか方」と記されており、特定することはできないが、君江が家に帰る場面や外出する場面がいくつか描かれているので、絞り込みは可能かもしれない。

日比谷の四辻から赤電車(終電)に乗った君江、春代、そこへ出会った矢田。おそらく新宿行き(築地―新宿駅、11系統)に乗ったのだろう。三宅坂、半蔵門を経て四谷見附。ここで君江は矢田を振り切るように電車を下りるが、矢田はついて来る。ここで矢田は《「君江さん。もう乗換はないぜ。自動車を呼ぼう。」》と、彼女が外濠線に乗り換えようとしていると判断したようだ。《「いいのよ。すぐ其処ですから。」と君江は人通の絶えた堀端を本村町の方へと歩いて行く》。それでも矢田はぴったり寄り添い、《この近辺はいけないのか。荒木町か、それとも牛込はどうだ。》と、どこかの貸間に連れ込もうとする。
《土手上に道路は次第に低くなって行くので、一歩ごとに夜の空がひろくなったように思われ、市ヶ谷から牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼く霧のようにかすんでいる。そよそよと流れて来る夜深の風には青くさい椎の花と野草の匂が含まれ、松の聳えた堀向の空から突然五位鷺のような鳥の声が聞えた》。匂いまで嗅ぎ分ける荷風はさすが文豪である。《本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。》《「わたしの家はすぐ其処の横町だわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中には屋根の上に仁丹の広告がついているからすぐにわかるわ。わたし此の荷物置いて来るから待っててヨ。」》《高力松の下から五六軒先の横町を曲ると、今までひろびろしていた堀端の眺望から俄に変わる道幅の狭さ》と、しだいに君江の住居が絞られてくる。
四谷見附から外濠に沿って北へ。左側は四谷区四谷塩町1丁目。右側は外濠である。交番を過ぎると左側は四谷区市ヶ谷本村町になり、本村町電停がある。ここから外濠沿いに右へカーブして高力坂が下っていく。坂上に高力松が枝を伸ばしている。東京都の説明板には、《新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の屋敷あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外堀線往復す。」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂の名前を高力坂と名づけたものと思われる。昭和五十八年三月》と記されており、荷風も『日和下駄』で、《しかし大正三年の今日幸に枯死せざるものいくばくぞや。》と書いているように、すでに枯死してしまった松であるが、枯れてなお坂の名前として生き続けている。
高力坂の北側が牛込区市ヶ谷本村町である。入る横町は坂を下った先の2番地と3番地の間の一本しかなく、高力松からは10軒ほどになるかもしれない。横町を入ると、まもなく左へ入る極めて狭い小路があり、200m程伸びている。2番地は三角形の形状をしており、神楽坂警察署八幡前交番が建っていた(牛込警察署八幡前交番として現存)。外濠のむこうに市ヶ谷駅がある。
別の場面で君江の住家は、《この汚らしい屋根の彼方は、士官学校門前の通に立っている二階家の裏側で、汚い洗濯物や古毛布や赤児のおしめが干してある間から、絶えずミシンの音やら印刷機の響が聞える。これと共に士官学校の構内で生徒の練習する号令の声、軍歌の声、喇叭の響のみならず、昼の中は馬場の砂烟が折々風の吹きぐあいで灰のように飛んで来て畳の上のみならず襖をしめた押入の内までじゃりじゃりさせる事がある。》と描写される。今でいう「校害」である。1931年という時点において、軍部が読んだら快く思わないであろう描写をしなければならないところに設定した荷風の意図は、果たして何かあったのか、なかったのか。
とにかくこの表現から、君江の住家は小路の北側、25番地から41番地の間、おそらく30番地あたりではないだろうか。かくて、かなり狭い一画に絞り込むことができた。表通りは現在の靖国通りで、そのむこうが陸軍士官学校、現在の防衛省であるから、きわめて近い距離である。
以上の推察を、清岡が君江と一緒に君江の住家を出る場面が裏づける。《市ヶ谷の堀端へ出る横町は人目に立つので、二人は路地から路地を抜けて士官学校の門前に出て比丘尼阪を上って本村町の堀端を四谷見附の方へ歩いた》。小路を抜けると、士官学校正門前から外濠にむかって上っていく坂道がある。これが比丘尼坂である。現在は坂の途中で西へ下って行く狭い坂道が比丘尼坂と呼ばれている。地図で確認すると、これで住家への経路はすべて出尽くしている。

                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第29回 つゆのあとさき②

【カフェー「ドンフワン」が設定された銀座】

君江が勤めるカフェー「ドンフワン」は、《松屋呉服店から二三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、此の字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカツフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカツフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入るのである。》と設定されている。
これだけ描いてくれれば、目的地へ行けそうである。大きな目印は松屋呉服店(銀座3丁目)。1925年、銀座に開店したデパートである。そこから銀座の通りの東側を京橋方向、つまり北にむかって行く。文房具などの伊東屋、篠原靴店、スズコー婦人子供洋装店、明治製菓売店、松島眼鏡店。実際には松屋から二三軒以上過ぎてしまったが、小説であるから、実態と一致する必要はないだろう。この眼鏡店が、「手前隣の眼鏡屋」らしいが、隣りは大黒屋玩具店である。一軒おいて鞄のアオキがあり、東西の道路を越えて銀座2丁目に入り、角に三共薬局、続いて菊秀金物店。この金物店が「手前隣の眼鏡屋と金物屋」の金物屋であろう。そして隣りはカフェ・キリンである。その先、レストランのオリンピック、カフェ・クロネコ(すでに、バー「赤玉」に変っていたかもしれない)、銀座会館。東西の道路を越えると銀座1丁目に入る※。
※ネットで公開されている「トトやんのすべて」における「戦前(1928)の銀座を復元する」などを参照した。
岡本哲志(都市史学者)は君江の働くカフェー「ドンフワン」が、カフェ・キリン(1923年に現地に開店)に設定されているとしている。《階下は銀座の表通から色硝子の大戸をあけて入る見通しの広い一室で、坪数にしたら三四十坪程》という店の描写もカフェ・キリンを印象づけるものであろう。その設定を念頭にみるならば、荷風は「眼鏡屋と手前隣の金物屋」とするところ、あいまいにするため、「手前隣の眼鏡屋と金物屋」としたのであろう。
今、一つ、「ドンフワン」は《この店の持主池田何某という男》《というのは五十年配の歯の出た貧相な男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカツフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。》とされている。この設定、ブラジル移民の水野龍が、ブラジルコーヒーを提供する喫茶店として、1911年に銀座7丁目に開店したカフェーパウリスタを取り入れたのかもしれない。荷風なども足しげく通った。後に銀座8丁目に移転し、現在も営業しているが、「銀座のブラジルコーヒー」つまり「銀ブラ」の語源になったとも言われている。
ついでながら、荷風が『つゆのあとさき』を書いた前年の1930年、大阪のカフェーで成功した榎本正が銀座2丁目に銀座会館という大規模なカフェーを開店している。「ドンフワン」設定にあたって、このような事情も反映されたかもしれない。

関東大震災後、ちょうど「昭和モダン」の時代、東京第一の盛り場は日本橋から銀座に移動した。1924年に松坂屋、1925年に松屋、1930年に三越が開店し、銀座3丁目から6丁目の間、通りの東側に三つのデパートが建ち並んだ。こうした動きの中で、カフェーやバーなどもつぎつぎにつくられ、1929年に警察の調査で600軒を超えたという。街にはモボ・モガが闊歩した。
《銀座通のカツフェーは此のドンフワンに限らず、いずこも十時過ぎてから店のしめ際になって急に込み合って来るのが常である。絶間なく鳴りひびく蓄音器の音も、どうかすると搔消されるほど騒しい人の声や皿の音に加えて、煙草の烟や塵ほこりに唯さえ頭の痛くなる時分、》などという描写の中にも、急速に普及してきたレコードが大音量でかけられていた様子がうかがえる。
ところで、君江の職業は「女給」である。本来、食堂などで客に飲食物を運ぶ「給仕」が仕事であり、「ウエイトレス」であった。カフェーの女給も同様である。けれども、関東大震災後、つぎつぎにカフェーが出来てくる中で、酒の提供も増え、女給が客の接待をするようになっていった。そして、客を引き付け、店の売り上げも伸ばし、競争に打ち勝つため、客に濃厚な接待をすることに拍車がかけられていった。場所を移して売春をおこない、「私娼」と化す女給もみられるようになっていった。君江も女給としてドンフワンで働きながら、男と床を共にすることが少なくなかった。
君江が芸者にならず、女給の道を選んだのは、《鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合わせの手続をする規定》があったからで、家出をしてきた君江は実家に問い合わされることを怖れていたからである。つまり、女給というのは、芸者と違って、比較的かんたんに風俗営業の道に入るということであった。
君江の友人で、この道の先輩である京子も、私娼を続けながら、《其筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言出》しているが、カフェーの風俗営業化が進むと、当局も放置できず、1933年から規制強化に乗り出している。また、本来、カフェーはコーヒーを飲む喫茶店であるから、風俗営業店と同一視されてはたまらない。1935年、カフェープランタンは「茶房ル・プランタン」と改名しており、女給の接待を伴わないカフェーは「純喫茶」とよばれるようになっていく。
さて、君江のようなカフェーの女給であるが、大学卒初任給の8倍くらい稼ぐと言われた人もあるようだが、実際にはそううまくいくわけがなく、「一日に幾番くらい持てるの。」と松子に訊ねられた君江は、「そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。」と答え、松子は《「それで、綺羅を張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。」》と応じている。
当時の女給の勤務について、ネットの「てくてくレトロ」に掲載された「喫茶よもやま通信」を参照しながら紹介すると……。
早番
10~11時 開店前準備
11~14時 営業時間
14~16時 片付け、休憩
ここで遅番が出勤して来るが、早番の勤務は続く。
16~0時 営業時間(18~19時頃に夕食)
その後、カフェー近くで食事
3時 帰宅して就寝。
荷風は君江が出勤した時の様子を、《朝十一時から店に出ていた女給と、今方来たものとの交代時間で、座る場所もない程混雑している最中。》と描いているので、当日、君江は遅番だったのだろう。君江は松子に《「六十人で、三十人づつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼も男の人がするから、それだけ他よりも楽だわ。」》と語っている。二組というのは早番・遅番のことだろう。別の箇所で、清岡は君江に《「今日十一時だと明日は五時出だね。」》と言っているが実際に遅番は三日に1回程度だったという。また早番でも深夜まで通して働いたことは、清岡に対する辰千代の《「そう仰有るけれどカツフェーは割に堅いところよ。何しろ昼間から夜の十二時まではちゃんとお店にいるんですもの」》という言葉からもうかがえる。けれども、清岡の《「十二時から先のはなしさ。」》という言葉が示すように、女給としての勤務を終えてから、私娼と化す常態も見えて来る。女給60人というのは、カフェーとして大きい部類に属するが、1930年当時、女給50人以上のカフェーは銀座に10軒以上あったという。
表通りの華やかさに対して、荷風は路地の様子をつぎのように描いている。《路地は人ひとりやっと通れる程狭いのに、大きな芥箱が並んでいて、寒中でも青蠅が翼を鳴し、昼中でも鼬のような老鼠が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜の水をはね飛ばす》。すべてを物語るような描写で、悪臭さえ伝わってくる。そこにもう一つの人間模様が感じられる。

                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第28回 つゆのあとさき①

お待たせしました。【文豪の東京3――永井荷風】の連載を再開します。

今回、取り上げるのは『つゆのあとさき』。この作品は荷風によると、1931年3月に書き始め、5月に書き終わったもの。当時、荷風は麻布市兵衛町1丁目6(現在の六本木1丁目6)の「偏奇館」に住んでいた。この地域は藤村の末娘柳子が通った麻布小学校があったところである。
東京が舞台のこの作品。話しは至って単純で、縁談を嫌って、友人の京子を頼って17歳で埼玉県から上京した君江が、カフェーで女給をしながら、寄って来る男性を渡り歩くもの。君江にキケンなことが次々起きるようになり、君江が好色の老人松崎とイチャイチャするのを、愛人である流行作家清岡進が目撃したのが「事の発端」で、清岡が君江に嫌がらせをしていることが次第にわかってくる。物語は、京子の元の旦那川島が、ふらっと君江の前に姿を現し、遺書を残して姿を消すところで終わる。清岡進は36歳という設定で、荷風を模したかと思われるが、荷風はすでに58歳であり、好色の老人松崎の域である。
「つゆのあとさき」と題がついているように、物語は5月に始まり、7月で終わっている。
内容が感動的であるということもなく、物語の流れが衝撃的であるわけではない。ある面、プロの作家なら誰でも書けそうな作品である。けれども「その筋」に身を置いていなければ書けない描写が各所にみられ、やはり荷風でなければ描けない作品であろう。

この作品の設定時期はいつであろうか。主人公君江は子年の5月3日生まれで、二十歳。時期は震災後であることは間違いないが、内容的にほぼ執筆時点の「現在」と言って良いだろう。そうであるなら、1931年から20年前の子年と言えば、1912年である。君江の生年月日を1912年5月3日とすれば、設定時期は満年齢で数えれば1932年の5月から7月。数え年なら1931年5月から7月。私は数え年と考え、後者を設定時期としたいが、ほぼ「現在」と言っても、どちらにしても作品を書き上げた後の時期になるという、珍しい設定である。1912年というのは、7月に明治から大正に変る時期である。つまり、君江は明治生まれ最期の年代であり、それがもう二十歳。「明治は遠くなりにけり」である。こんなところに感動した荷風の設定ではなかろうか。
1931年と言えば、「昭和モダン」の真っただ中である。徳田秋聲の『仮装人物』に描かれた時期より若干後になるが、まぎれもなく「昭和モダン」の全盛である。カフェーも盛況で、女給も忙しく立ち働いている。黒ビールやチキンライスも登場する。しかしながら、『つゆのあとさき』ではまったく感じられないが、この1931年9月には満州事変が始まり、戦争の時代に突入していく。

君江とはどのような人物か。秋聲の『仮装人物』で山田順子を模した葉子は、《葉子のような天性の嬌態をもった女の周囲には、無数の無形の恋愛幻影が想像されもするが――それよりも彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に蔓っているのであった。》と評されている。それに対して君江は、《十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れない程であるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬という感情をもまだ経験した事がないのである。》と、どうやら葉子とはずいぶん違って、「恋愛の卵巣」は存在しないようだ。そのような君江であるから、《一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤を生じたり、又は金を貰ったために束縛を受けたりするよりも、寧相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好いと思っている。十七の暮から二十になる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。》という。ある面、常に「結婚」の二文字を念頭に置きながら男を渡り歩く葉子より、付き合いやすいのかもしれないが、結果的に愛人である清岡進の嫉妬と恨みを買い、嫌がらせを受けることになる。けれども君江はそのような清岡を理解できなかったかもしれない。

本編はあくまでも作品の舞台となった東京各所を、作品の文章と「地理屋」の視点から語っていくものである。そのような企画の意図から、ここでは君江が働くカフェー「ドンフワン」が設定されている銀座、君江の住家が設定されている市ヶ谷本村町、この間を移動する道すがらなどを中心に、見ていくことにしたい。

                         (つづく)
【館長の部屋】

『じょっぱり先生の鉄道旅行』

またまた小池滋著である。本書は「別冊文藝春秋」に連載された11本の著作を1冊にまとめたものである。
筆者の小池は1931年、品鶴線に近い西品川に生まれたが、その南3km余のところに、室生犀星が住んでいた。犀星は小池が生まれた翌年の1932年に、萬福寺そばに終の棲家を建てて、移り住んだ。北へ500m余行けば品鶴線の線路に出る。品鶴線に興味をもつ私は、妙な詮索によって、《実を言うと私は、昭和六年(一九三一年)に、この品鶴線の近くで生まれ》《自宅のお座敷で初めてこの世の空気を吸い、》《貨物列車を引くゆっくりした重い蒸気機関車のあえぎを、胎教として受けていた》《鉄道好きになる条件は揃いすぎていた》小池滋に親しみを感じる。この4月13日に亡くなられたことが残念でならない。

さて、話しは漱石である。漱石が登場するのは、「東京市電夢遊漫歩」の中。この著作は、「東京における市内路面電車の運命」「市電による帝都制覇」「銀座通りに古くさい電車」「東京市電絶景」「電車唱歌」「『彼岸過迄』と小川町」の六つの章で構成されている。どれも気にかかるが、ここは漱石と関わる「『彼岸過迄』と小川町」に目をやらなければならない。
当時、神田小川町の交叉点は三叉路でT字型をしていた。ここは東京市電系統がたくさん集まってくるところで、東西方向、現在の靖国通りに走る系統と、南北方向、現在の日比谷通りに走る系統があり、南から来た電車は交差点で右折か左折しなければならなかった。主人公の敬太郎は本郷に住んでいたので、右折方向の電車はよく知っていた。南方向から来る人物を小川町で待つには、停留所はひとつである。けれども敬太郎は左折する電車があることを知る。これが『彼岸過迄』の大きな仕掛けであり、「鉄道ミステリー」の先駆けとなる。
小池は、《次に神田橋の方からやって来た電車が、小川町で左折して止まるが、これは「巣鴨行」となっている。漱石がこれを連載する直前、正確に言うと、明治四四年一一月二日に、旧中山道(現在の国道一七号線)の、現在でいうと千石一丁目交差点とJR巣鴨駅の中間あたり、当時の東京市と郡部の境(今日の文京区と豊島区の境)まで市電が延びた。さらにそこから山手線巣鴨駅の先まで延びたのは、明治四五年四月三〇日という記録がある。》と解説して、この「停留所」第25回が掲載されたのは、2月初旬であるから、厳密には「巣鴨行」の電車はなかったはずであるとしている。この点について私も『漱石と歩く東京』において指摘している。小説であるから、「巣鴨行」がなくても、あったことにして書いても良いのだが、おそらく漱石自身が「巣鴨行」なる行先表示を見て、衝撃を受けたことが作品を書くエネルギーになっただろうから、現実に「巣鴨行」を表示した電車が走っていたことは間違いない。小池は《市電の方で少し早手まわしに巣鴨行という表示をしていたのかもしれない。》と結論づけている。私も賛成である。どうであれ、その電車に乗って新宿へ連れて行かれることはなく、少なくとも巣鴨の近くまで連れて行ってもらえることは確かである。

小池は、『彼岸過迄』における小川町三叉路の描写が文学的にどのような意味をもつか、《それは専門家である故・前田愛の『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、昭和五七年)の中の「仮象の町」という優れた研究を読んで頂けばよいことで、私はもっぱら市電の詮索だけに没頭》すると宣言しているが、小池は「『彼岸過迄』と小川町」の最後を、《一つだけ間違いなく言えることだが、市内路面電車は都市風景を描く文学作品には、なくてはならぬものだ。同じ漱石の『それから』の最後の部分を思い出してみればよい。あれはどうしても市電でなくてはいけないのだ。市電を失った都市は、文学の上から見ても大きなものを失ったことになる。》と結んでいる。
バスが走る街の風景と、路面電車が走る街の風景。写真を見た時、その印象はまるで違う。後者の方が街に風格を感じる。なぜかわからないがそうだ。小池は《他にも永井荷風など、市電漫歩の伴侶としたい文学者はたくさんいるけれども、それはまた後日のために残しておこう。》と書いている。このように言われると、私も書いてみたくなる。いずれ、「永井荷風と市電」「泉鏡花と市電」などを、この「勝手に漱石文学館」に掲載することになるかもしれない。

                        (完)
【館長の部屋】

『バスの文化史』に紹介された漱石
 
私は鉄道ファンであり、電車や汽車が通るのを見ているだけで楽しい。さらに言えば、レールを見ているだけで楽しい。もっと言えば「廃線」を見ていても楽しい。けれども、バスに対して、そのような感情はわかない。バスは利用するものであって、見て楽しむものではない。したがって、『鉄道の文化史』という書名の本なら、すぐ手に取って読むであろうが、『バスの文化史』という書名には、あまり興味をそそられない。ところが、当『バスの文化史』には、「漱石が乗ったダブル・デッカー」という項がある。これはやはり、読まなければならない。

『バスの文化史』は冒頭、「バス」の起源について触れている。17世紀にフランスで「乗合馬車」が登場し、やがてこれに「オムニバス」という名称がつけられた。(本書には書いてないが、「オムニバス」の語源は「オムニブス」というラテン語で、「すべての人のために」という意味がある。)
やがてオムニバスはイギリスにも登場し、いつしか「バス」と呼ばれるようになった。産業革命の進行期である。自動車なるものが登場し、馬車は自動車に変った。こうして、「オムニバス」は乗合馬車から乗合自動車へと移行していった。

話は漱石であるが、中川は《「バス」という用語は、夏目金之助漱石(1867~1916)が、その作品の中で明治末の時点ですでに使っていた。》と紹介している。漱石は1900年から1902年にかけてイギリスに留学していた。1901年3月30日の日記に、《busニ乗ッタラ「アバタ」ノアル人ガ三人乗ッテ居タ》と記してある。バスはbusと表記されているが、日本語への適切な置き換えをなし得なかったためと、中川は推察している。ところが漱石がロンドンで乗ったバスは自動車のバスではない。いわゆる乗合馬車である。もちろんそれは二階建の馬車、ダブル・デッカーである。中川は、『永日小品』の「霧」の項で、漱石が《四つ角でバスを待ち合わせていると、鼠色の空気が切り抜かれて急に眼の前へ馬の首が出た。それだのにバスの屋根に居た人は、まだ霧を出切らずにいる。此方から霧を冒して、飛乗って下をみると、馬の首はもう薄ぼんやりとしている。バスが行き逢うときは、行き逢った時だけ奇麗だなと思う》と、ダブル・デッカーの二階に乗った時の様子を書いていることを紹介している。まさに「霧の都ロンドン」である。ロンドンにおける自動車のバスは1904年に登場している。漱石がイギリスを去って2年後である。
漱石は『倫敦塔』に《無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用仕様とすると、どこへ連れて行かれるか分らない。此広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何等の便宜を与える事が出来なかった。》と書いているが、ロンドンにおける当時の都市交通網の発達を表す文章でもある。電気鉄道とは地下鉄のことで、漱石は「地下電気」と書いていると中川は指摘している。ところが、漱石がロンドンに住んでいた当時、地下鉄はすでに三路線走っていたが、地上は乗合馬車か鉄道馬車で、路面電車は走っていなかったと、中川。

漱石が東京へ戻って来たのは1903年1月。その年8月、東京の街に路面電車が走り始めた。つまり、馬車鉄道が電車に転換し始めたのである。路線網は急速に拡大し、漱石は小説において、路面電車をおおいに活用することになる。当時、社割があったかどうかわからないが、坊っちゃんは路面電車の会社に技手として就職させられる。なお、日本で初めて市内電車(路面電車)が走り始めたのは京都で、1895年。東京より先に走ったのが気に入らなかったのか、漱石は『虞美人草』の中で、仕返しを試みている。

『バスの文化史』という表題にもかかわらず、「漱石が乗ったダブル・デッカー」という項では、バスに劣らず鉄道の記述が多い。これは、著者の中川浩一が鉄道友の会のメンバーであり、鉄道ファンだからであろうか。


                          (完)
【文豪の東京――芥川龍之介】

第6回 日和下駄を履いた猫

龍之介先生の作品の中に、堀川保吉を主人公にした「保吉もの」とよばれるものがある。『保吉の手帳から』『お時儀』『あばばばば』『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』そして『魚河岸』などがある。吾輩も来年、めでたく生誕120年を迎えるくらいだから、このくらいのことは知っている。
「水」が終ったから、吾輩、つぎは「路地」へ行かねばならぬ。そこで思い出したのが露柴さんの家である。露柴さんの家は《山谷の露路の奥に》あって、彼は《句と書と篆刻とを楽しんでいた》。露柴さんは生粋の江戸っ子で、「河岸の丸清」と言えば、その界隈では知らぬものがいないくらいの家であったが、家業はほとんど他人に任せていた。
吾輩、ここで何とか「路地」を登場させたが、龍之介先生、『魚河岸』にこんなことも書いている。《鏡花の小説は死んではいない。少なくとも東京の魚河岸には、未だあの通りの事件も起るのである。》――鏡花先生には、何も挨拶せずに別れて来たから、思い出すたび無礼を詫びたい気持ちはある。まあ、いずれ吾輩も鏡花先生に再会する機会もあるだろうから、詫びはその時で良いであろう。もっとも、吾輩が「にゃ~」と言ったからとて、鏡花先生、詫びともとらないであろう。ひょっとしたら吾輩のことなど、忘れているかもしれん。しかし、「猫は三年の恩を三日で忘れる」と言われるが、吾輩は世話になった人のことを忘れはしない。
などと、考えていると、どこからか龍之介先生の声が聞える。久米正雄の声も聞こえる。あの家の中だと、ふと見上げると、見覚えがある。懐かしい早稲田南町の漱石山房である。夜も遅くなって、龍之介先生、田端の家に帰る。吾輩も後を追う。その日、というのは1917年8月28日だが、龍之介先生、日記にこのように書いている。《南町で晩飯の御馳走になって、久米と謎々論をやっていたら、たちまち九時になった。帰りに矢来から江戸川の終点へ出ると、明き地にアセチリン瓦斯をともして、催眠術の本を売っている男がある》。
ありがたや。この日記のおかげで、閑地は何とかクリア。

ところで、龍之介先生の家の周りは坂ばかりである。坂ばかりであるが、龍之介先生の作品には坂が出て来ない。などと言っているうちに、龍之介先生は毒をあおって急逝し、吾輩も初めてのこと故、気も動転していると、葬儀には鏡花先生や犀星先生といった、吾輩のかつての飼い主たちも見えられた。
吾輩、「猫は三年の恩を三日で忘れる」などと言われぬよう、このような場ではあるけれど、「にゃ~」と挨拶申し上げるも、犀星先生の動揺ぶりは尋常でなく、吾輩に気づくこともなく、とりあえず龍之介先生の遺品となった日和下駄を鳴らしながら、麹町下六番町の鏡花邸へ。たどり着いたまでは覚えているが、何やらおかしい。気が薄れていく。これは「このまま龍之介先生に連れていかれるのかしら?」と、どうやらほんとうに連れていかれたようだが、やっと一本の蜘蛛の糸にしがみついて脱出に成功。
鏡花先生の家の近くに、藤村先生が家を新築されたというので、さっそく探検。静子夫人がおいしい食事を出してくれたものだから、そのまま居座ることにした。吾輩も、かなりムリのある展開と思いながら、そこは最初から変幻自在の文豪猫である。藤村先生の日和下駄に履き替えて、龍之介先生遺品の日和下駄は、「芥川龍之介記念館」が完成したら、そこに寄付して収納してもらおうと、某所にそっと保管することにする。

                        (芥川龍之介編完)

後日、『【文豪の東京――島崎藤村】日和下駄を履いた猫』を連載。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第5回 日和下駄を履いた猫

龍之介先生、『大川の水』で、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあったとして、《その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている》と続けているが、「伊達様」を抜けると、まもなく左手は富士見の渡しである。龍之介先生、ちょうど道ばたで芋を洗っていた三十前後の男の人に「富士見の渡し」がどこにあったか尋ねていた。けれども男は富士見の渡しのことを知らないようで、龍之介先生、大いにショックを受けていた。
まもなく、右手一帯、江戸の昔、「御竹蔵」という貯木場があったところで、後に「米蔵」が置かれたこともあったが、明治になって「御竹蔵」はなくなり、龍之介先生が中学生の頃に両国停車場や陸軍被服廠に変ってしまった。小学校の頃にはまだ跡地には雑木林や竹藪が残り、「大溝」に囲まれていた。「おおどぶ」というのは、《その名の示す通り少くとも一間半あまりの溝のことで》あり、龍之介先生が《知っていた頃にはもう黒い泥水をどろりと淀ませているばかり》で、《そこへ金魚にやるぼうふらをすくいに行った》けれど、「御維新」以前には《溝より堀に近かったのであろう。》と、龍之介先生は推察している。
大川端を上流へ。やがて本所会館。《水泳を習いに行った「日本遊泳協会」は丁度、この河岸にあった》と、龍之介先生。これを聞いた同行のO君、《「この川でも泳いだりしたものですかね」》とびっくりしているが、荷風先生だって、漱石先生だって、藤村先生だって、この大川で泳いでいる。
吾輩たちは横網の浮き桟橋から川蒸汽に乗る。吾輩、「水恐怖症」になっているから、本当は船に乗るのが怖い。怖いがこれも社命であるから致し方ない。かつては「一銭蒸汽」と呼ばれたが、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。吾輩は無論、タダである。
《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。》《唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった。》と龍之介先生。そこへ久しぶりに見る五大力が上って来る。
五大力は艫が高く、鉢巻をした船頭が一丈余ある櫓を押し、お上さんも負けずに棹を差している。四、五歳の男の子も乗っている。これを見た龍之介先生は、《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない。》と、彼らの幸福を幾分かでも羨みたい気持ちになっている。龍之介先生だって、じゅうぶんに幸せだろうに。人間の気持ちはわからぬものである。吾輩はもちろん、じゅうぶんに幸せである。
いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。龍之介先生によれば、明治時代から変わらぬ船で、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。
船は満員。立っている客もいる。船は静かに動き出す。大川は変わらず濁った水が流れているが、起重機をもたげた浚渫船の先にある対岸は、「首尾の松」や「一番堀」「二番堀」でなく、五大力・高瀬舟・伝馬・荷足・田舟といった大小の和船も流転の力に押し流されて、すでに大川を行き交うのは小蒸汽や達磨船である。ここで龍之介先生、「沅湘日夜東に流れて去る」という中国の詩を思い出す。吾輩はセエン河の流れを思い出す。さすが荷風先生の日和下駄を履いた猫だけのことはある。
川蒸汽は蔵前橋をくぐり、厩橋へ。もちろん蔵前橋はまだ工事中である。川蒸汽がもう一艘。それにお客や芸者を乗せたモオター・ボート。龍之介先生の話しによると、自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えない》状態になってしまったらしい。

ところで、龍之介先生と言えば、有名な作品に『河童』というのがある。そして河童というと、川に住んでいる。《僕は船端に立ったまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重も描いていた河童のことを思い出した》と、龍之介先生。何しろ、維新前後には大根河岸の川にさえ河童が出没したそうで、龍之介先生、《観世新路に住んでいた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗っているうちに大根河岸の川の河童に脇の下をくすぐられた》などと、自分が見てきたように得意そうに話している。「今ではもう河童もいないでしょう。」とO君。龍之介先生、これに対して、「こう泥だの油だの一面に流れているのではね。――しかもこの橋の下あたりには年を取った河童の夫婦が二匹今だに住んでいるかもしれません。」と返している。
河童はいるのかいないのか、残念ながら吾輩、まだ一度も河童なるものを見たことがない。けれども、ひょっとしたら今、河童がこの隅田川から姿を現し、船の吾輩を水の中に引きずり込むやもしれん。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。」――いかん、いかん。『吾輩は猫である』の最終場面を思い出してしまった。
などと言っているうちに、川蒸汽は厩橋をくぐりぬける。薄暗い橋の下だけは浪の色も蒼んでいる。龍之介先生の話しによれば、大川の水も昔は磯臭い匂いがしたが、今日の大川の水は何の匂いもなく、あるとすれば、唯泥臭い匂いだけだとか。
O君。「あの橋は今度出来るコマガタ橋ですね?」と、龍之介先生に話しかける。すかさず先生、「あれは、コマカタ橋です。」と切り返す。そして龍之介先生は嘆くのである。《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水と変らない》。川の水も濁ってはダメだ。「駒形」も濁ってはダメだ。あくまで「コマカタ橋」である。

龍之介先生は『大川の水』の結びに、《自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。》と書くくらい、「大川愛」に満ち溢れている。龍之介先生は見た。大川の水と船と橋と砂洲、水上に生まれ暮らす人びとのあわただしい生活、石炭船の鳶色の三角帆。龍之介先生はまた吐息のような、おぼつかない汽笛の音を聞いた。龍之介先生は、《「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスのにおい》、そして、《もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう》と記している。
大川の水のにおいだけではない。龍之介先生は、《あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じる》と言い、《昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落としたいような、言いがたい慰安と寂寥とを感じ》、《自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もち》がして、《この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛する》、というのである。そして、さらに《大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。》と、もうここまで来ると溺愛状態である。
それだけでは足りない。大川の水が流れ、その水の声は懐かしく、《つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖を洗ってゆく》のである。龍之介先生は江戸浄瑠璃作家河竹黙阿弥描く世話物に思いをはせ、その場面の演出に用いたのが、《実にこの大川のさびしい水の響きであった》と言い、《ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう》と、大川の渡しに言及する。
《この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮かんでいる。》
しかも、《自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする》とまで言ってのけるのであるから、ここまで言われれば大川だって本望であろう。
もう吾輩、何も言うまい。静かに吾妻橋の袂で川蒸汽を下り、静かに消えるのみである。――と言いたいところだが、この後、吾輩も円タクに乗って柳島にむかうのである。

                        (つづく)
【文豪の東京――芥川龍之介】

第4回 日和下駄を履いた猫

「樹木」や「寺院」もちょこちょこ出て来たので、これで勘弁願って、「水」へ行こう。
龍之介先生は、『大川の水』を《自分は、大川端に近い町に生まれた。》という一文で始めている。その後、《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。》と続け、ここに「路地」が出てくる。やがて内藤新宿に移った龍之介先生は、《この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。》と、「樹木」も登場させて書いている。「三年間」とは1910年、11年、12年の「三年間」である。まことに、「大川愛」に満ち溢れた龍之介先生であるが、『都会で――或は千九百十六年の東京――』で、大川こと隅田川を、《夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。――「羊羹のやうに流れてゐる。」》。と、書いている。
詩人S・Mとは誰か。吾輩、何と言っても「文豪猫」であるゆえ、すぐピンと来る。何を隠そう、吾輩の前の飼い主、犀星・室生氏である。龍之介先生も犀星先生も無類の甘党で、とくに龍之介先生は「汁粉」、犀星先生は「羊羹」がお気に入りだった。なお、断っておくが、吾輩は甘味を感じないので、「汁粉」や「羊羹」を送ってくれても、にゃんにも嬉しくない。
「羊羹のやうに流れてゐる。」という表現をきわめて詩的に捉える向きもあるが、黒々とした隅田川が、大好物の羊羹に見えただけであろう。それを犀星先生はただ見たままに表現したのである。金沢の森八の羊羹なども、実に黒々としている。夜の川も黒々と、川が羊羹に見えて一向に不思議はない。ただし、羊羹はこってりとしており、隅田の流れもゆったりと、まさに練羊羹の様に見えたのであろう。龍之介先生が「羊羹のやうに流れてゐる。」という表現を賞賛したのも、親友犀星先生に対する温かい皮肉とみることもできるだろう。とにかく犀星先生、お菓子を入れる専用の箪笥をもっていたくらいお菓子好き。とりわけ無類の羊羹好きで、吾輩が主役の作品の中で登場する「藤村の羊羹」を送ってくれと、友人に頼む有様。

話しはいつの間にか「羊羹」の方へ行ってしまったが、「水羊羹」なるものもあるくらいだから、まあ良かろう。
そこでいよいよ、前、紹介したように、龍之介先生に社命が下って、本所・両国辺りを取材することになり、吾輩も日和下駄を履いて、邪魔にならぬよう、お供した。その折、編集する旨、お断りしたが、話しを両国橋に戻さねばならぬ。
吾輩らは両国橋で隅田川を越えて、両国界隈へやって来た。先に紹介した回向院はすぐである。本来ならこの両国橋から話を始めて北上し、本所から柳島、南下して亀戸天満宮から両国、回向院へと来るのが良いのだが、荷風先生、「水」より先に「淫祠」「寺院」を書いたので、やむを得ず編集することにした。

龍之介先生。『大川の水』を《自分は、大川端に近い町に生まれた》という一文で始め、《家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。》と続けている。合わせ技で「路地」登場。
龍之介先生。昔、両国橋を渡り、《浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めていた》という。その《中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。》と、龍之介先生、ちょっぴりがっかりした様子。ところでこの「百本杭」って、いったい何?龍之介先生によれば、《その名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である。》ということで、別に百本あったわけではない。「多い」という意味だ。吾輩、若干補足するならば、この辺りで隅田川、上流から来ると右へ曲っているため、左岸に川の流れがぶつかって削り取られるため、杭を打って流れの勢いを抑え、浸食を防いだのである。吾輩もたまには博識のあるところを示さねば。
龍之介先生、『大川の水』で、《ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりないさびしさに迫られたことであろう》と書いているが、大川というのは水の量に圧倒される感がある。この「百本杭」で龍之介先生、釣りをする人を眺めに行って、釣り師がいなくて、《その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人うつむけに浪にゆられていた……》ことを思い出している。そう言えば、漱石先生も土左衛門のことを書いていた。
吾輩たちは両国橋の袂を左へ切れ、大川、やっぱり隅田川と言うより大川と言った方がしっくりくるが、上流にむかって歩を進めた。左手が「百本杭」のあった辺りだ。
吾輩たちが今、歩いているところは、江戸の昔、藤堂和泉守のお屋敷があったところで、藤堂氏は伊達家宇和島藩とつながりが深かった関係で、「伊達様」と呼ばれ、和霊神社も建てられていた。この和霊神社、大本は宇和島にあり、和霊騒動の祟りを鎮めるものであった。龍之介先生、幼稚園の頃、「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見物に行ったところ、《女中の背中におぶさったまま、熱心にお神楽を見ているうちに「うんこ」をしてしまったことも》あったらしい。さすが、文豪になるだけあって、「うんこ」の漏らし方も一味違う。一応、ここで「淫祠」にも触れたことにしてもらいたい。これも合わせ技の一環である。
「伊達様」を抜けると、まもなく左手は富士見の渡しである。

                        (つづく)
【文豪の東京――芥川龍之介】

第3回 日和下駄を履いた猫

龍之介先生に社命が下って、本所・両国辺りを取材することになり、吾輩も日和下駄を履いて、邪魔にならぬよう、お供することになった。で、ひとつ困ったことがある。このシリーズ、一応、荷風先生のテクストに従わなければならぬ。ところが取材は淫祠から順に廻るわけではない。そこで吾輩、少々編集してお届けせねばならない。まあ、今までも編集はしていたが、あまり目立つものではなかった。今回はそうはいかない。いかなくなったので、あらかじめご了解いただくものである。そんなわけで、行きつ戻りつすることになる。

吾輩らは橋本の前で円タクを下りた。もちろん、猫はタクシーには乗れん。乗れんが、ここでは乗っていなければ話が進まん。橋本というのは、川魚料理で有名な老舗の料亭で、柳島橋の袂にあるところから名づけられたのであろう。柳島橋というのは横十間川に架かる橋である。この橋本の向かいに、柳島の「妙見様」として知られる法性寺がある。これも立派な淫祠と言えよう。葛飾北斎が信仰していたことでも知られている。荷風先生は本堂正面手前にある「柳島妙見堂の松」、すなわち「影向の松」という大きな松を紹介している。
柳島橋を渡って、吾輩らは横十間川に沿って亀戸天神をめざす。龍之介先生は《掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている》と記している。震災で樹木もやられ、掘割の沿って見られた柳もなくなっていたようだ。
城東花街を抜けて、やっと天神様の裏門にたどり着いた。龍之介先生も花街には殊更興味を示され、すっかり時間を取られてしまったが、花街と天神がぴったり隣接し、「淫祠」と書く理由がよくわかる。
広場で外套を着た男が法律書を売り、背広を着た男が最新化学応用の目薬を売っている。龍之介先生は、《「天神様」の拝殿は仕合せにも昔と変っていない。》と懐かしそうで、《昔に変っていないのは筆塚や石の牛も同じことである。》と続けている。龍之介先生は古い筆を何本も筆塚へ納めたが、一向上達する様子はないと自分を皮肉っているが、ムリなものは天神様でもムリである。天神様と言えば牛がつきものであるが、龍之介先生、《石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したこと》も思い出している。
太鼓橋も掛け茶屋や藤棚も変わっていない。亀戸天神はもちろん梅の名所だが、何と言っても藤の名所として知られ、菊も有名。太鼓橋はこんなに小さかったのかと龍之介先生。定番のお土産である張り子の亀の子も売っているが、新たにカルシウム煎餅も加わったようだ。吾輩、カルシウム煎餅のかけらでも落ちていれば、食べてみようと思ったが、うろうろしているうちに龍之介先生たちの姿が消えた。「これはきっと船橋屋の葛餅を食べに行ったに違いない。」と、花柳病の医院の前を通って行ってみると、案の定、一盆10銭の葛餅を食っている。淫祠にはこうした食べ物もつきものである。とにかく淫祠はあの手この手で人を呼び込む。人が集まれば食う。吾輩は別に葛餅など食いたくはないので、縁台の下へ潜り込んで、二人が食べ終わるのを待つことにする。龍之介先生が学んだ中学校はここから近いが、龍之介先生が中学生の頃、葛餅は一盆3銭だったという会話が聞こえて来た。

回向院にやって来た。回向院というのは浄土宗のれっきとした寺院である。荷風先生、《裏町を行こう。横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通りにはきまって淫祠がある。》と書いており、淫祠というと、街角の小さな祠の印象であるが、荷風先生が元祖『日和下駄』で取り上げている「淫祠」も、日比谷稲荷社、大円寺にある焙烙地蔵、榧寺の飴嘗地蔵、金竜山浅草寺の塩地蔵、源覚寺の蒟蒻閻魔、稲荷鬼王神社、弘福寺の「石の媼様」など多岐にわたり、祠から連想する神社だけでなく、寺院も多く含まれている。日本人は古来、神仏混交をやって来たので、寺院境内にも神などを祀る祠がみられる。荷風先生も《淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである》と書いているが、神社仏閣、だいたいが何らかのご利益をもって人びとを集めているから、淫祠と言えば、「すべて、そうだ」とも言える。亀戸天神だけでなく、浅草の浅草寺も、柳島の「妙見様」として知られる法性寺も、そして今また回向院もすべて仏教寺院であるが、やはり淫祠として扱って良いだろう。吾輩、この一言のために、ずいぶん多くを語った。
実はこの回向院。明暦の大火による焼死者を葬ったのが起源だけに、その後の大火や震災で亡くなった人たちを葬るようになり、人間はもちろん、犬、猫をはじめ、さまざまな生き物を供養する、特色ある寺院になっていった。こうした姿勢、吾輩大いに評価するものである。命の平等ということであろうか。
盗人の墓もある。龍之介先生、《鼠小僧の墓に同情しない訳には行かなかった。》と言って、《鼠小僧治郎太夫の墓は建札も示している通り、震災の火事にもほろびなかった。赤い提灯や蝋燭や教覚速善居士の額も大体昔の通りである。》と健在なようだが、この墓。あちらこちら欠けている。なぜなら鼠小僧の墓石を欠いて持って行くと、ご利益があると言われている。どんなご利益があるか吾輩は知らん。知らんが、ご利益を求めるなら、この墓も立派な淫祠である。とにかく、盗人の墓を盗むとは何事ぞ!「そんな泥棒猫のようなことをする奴は許さん!」――「おっと、口が滑った。猫は泥棒などしない。」――とにかく、泥棒対策に、「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた小さな紙札が墓の前にはりつけてある。
この回向院には、膃肭臍の供養塔というのもあって、龍之介先生を驚かせている。さすがにすべての生き物を供養する回向院らしいと思いきや、人間の供養塔だと言うから、驚くじゃないか。膃肭臍市作という四股名の明治期の三段目の相撲取りを供養したもので、国技館有志一同の名がある。回向院と言えば、江戸の昔から勧進相撲がおこなわれてきたところ。これなら、納得である。
墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった。》と龍之介先生。このような樹木もある。

                        (つづく)
【文豪の東京――芥川龍之介】

第2回 日和下駄を履いた猫

40で、人だかりの真ん中に立ったセリ商人。手に持った一本の帯。帯の模様は雪片。それがくるくる帯の外へも落ち始める。42でメリヤス屋の露店。婆さんが一人行火に当たり、黒猫が一匹、時どき前足を嘗めている。吾輩より毛の色つやは良いように思われるが、行火のせいかもしれん。どっちにしても、吾輩の好みの猫ではない。左に男の子の下半身。黒猫はいつしか頭の上にフサの長いトルコ帽をかぶっている。《「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」「僕は帽子さえ買えないんだよ」》。吾輩、カネさえ持っていれば、トルコ帽のひとつやふたつ買ってやるのだが、猫というものは悲しいもので、飼い猫であっても、お小遣いなど貰ったためしはない。それにしても、吾輩もあのトルコ帽を被れば、男前も上がることだろうに……。
45ではメリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい男の子の上半身。男の子は涙を流し始めるが、気を取り直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩き始める。46は、かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きな顔ぼんやり浮かぶ。男の子の父親らしい。愛情はこもっているが、無限に物悲しく、霧のように消えてしまう。縦に見た往来。あまり人通りない。男の子の後ろから歩いて行く男。マスク顔。何やらスペイン風邪が思い出される。龍之介先生もこのスペイン風邪に二回も罹った経験をもつ。吾輩がマスクをしたら、どんな顔になるか、ちょっと想像したら、急におかしくなって、吹き出しそうになったが、見つかってはまずいと、何とか飲み込んだ。
48になると、斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前に人力車三台。角隠しをつけた花嫁が先頭の人力車に乗り、後に二台続く。49は「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」と書いた長方形の板。これがサンドウィッチ・マンの前後の板に変る。サンドウィッチ・マンは年をとっているが、仲店を歩いていた都会人らしい紳士に似ている。男の子はサンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚もらっていく。50で再び縦に見た往来。松葉杖をついて歩いて行く廃兵一人。いつか駝鳥に変るが、また廃兵に戻る。横町の角にはポストが一つ。51は《「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」》のみ。そのポストは透明になり、無数の手紙が折り重なった円筒の内部を現して見せたかと思うと、もとのポストに戻ってしまう。
53は斜めに見た芸者屋町。お座敷へ出る二人の芸者が通り過ぎ、男の子が歩いて行く。そこへ背の低い声色遣いが一人。どこか男の子に似ていないことはない。54は大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。いつの間にか理髪店の棒に変る。55は理髪店の外部。大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。男の子はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗く。56では頭を刈っている男の横顔が出て来る。
57ではセセッション風に出来上がった病院。男の子が石の階段を登り、すぐ下って来て左へ行った後、病院が静かに近づき、玄関だけになり、看護婦が一人出て来て、何か遠いものを眺めている。膝の上に組んだ看護婦の両手。左の手の婚約指環が急に落ちる。我々は花屋敷の北へ回り込み、浅草花街を抜けてきたから、この病院は浅草寺裏手の浅草寺病院である。1910年の大水害の時、念仏堂に置かれた救護所から出発し、大震災で焼けた後、新しく病院の建物がつくられた。
59で、わずかに空を残したコンクリイトの塀。自然に透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿。塀全体は操り人形の舞台に変り、西洋人の人形がおずおずと。覆面をしているので盗人らしい。室の隅に金庫一つ。金庫をこじあける西洋人の人形。人形の手足についた細い糸が何本かはっきり見える。61で塀は何も現さず、そこを通り過ぎる男の子の影。そのあとから背むしの影。そのうしろに、見えないが吾輩がついて行く。
62に入ると、前から斜めに見おろした往来。落葉が一枚。最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って、「生活、正月号」の初号活字。63は大きい常盤木の下にあるベンチ。木々の向こうに大池。男の子はがっかりしたようにベンチに腰かけ、涙を拭い始める。背むしもベンチに座り、焼き芋を取り出しがつがつ食べる。
64で焼き芋を食う背むしの顔。65で頭を垂れて男の子どこかへ歩いて行く。吾輩も慌てて後を追う。66では斜めに上から見おろしたベンチ。蟇口が一つ残り、誰かの手がそっととり上げる。67ではベンチの上に蟇口を検べる背むし。それがどんどん増え、ベンチの上は背むしばかりで、皆熱心に蟇口を検べている。何か話しながら。
68で写真屋の飾り窓。男女の写真が何枚も額縁にはいって懸かり、その顔が老人に変る。フロック・コオトに勲章をつけた顋鬚のある老人の半身だけ変わらないが、いつの間にか背むしの顔に。
69になると、横から見た観音堂。やっと、淫祠の本丸である。男の子がその下を歩いて行き、観音堂の上には三日月。観音堂の扉はしまっているが、その前で何人か礼拝しており、男の子はちょっと近づき、観音堂を仰ぎ、行ってしまう。71に大きい長方形の手水鉢。憔悴し切った男の子の顔が水に映る。大きい石燈籠の下部。男の子はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。74で、この男。マスクをかけた前の男。しばらく後、男の子の父親に変ってしまう。
75で石燈籠は柱を残したまま、自然に燃え上がり、下火になった後、開き始める菊の花一輪。菊の花は石燈籠の笠より大きい。76で巡査が男の子の肩へ手をかけ、巡査と会話の後、手を引かれたまま、静かに向こうへ歩いて行く。石燈籠に下部にはもう誰もいない。吾輩もしばらく後をつけたが、もし巡査につかまろうものなら、野良猫扱いされ、捕えられて、三味線屋に売られるやもしれずと思い、追うのをやめると、カット78へ入って、冒頭登場した仁王門。大提灯が次第に上り、前のように仲店が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。
結局、男の子は父親に会うことができなかった。その後、男の子はどうなったのか。それは吾輩にもわからん。と、何とか完結を迎えたが、結局、吾輩、どこにも映らなかったように思う。これでは吾輩がいかに名演技を披露していようと、まったく評価も注目もされん。されんでよろしい。吾輩、一応、スタア気取りだけは味わうことができた。それで良いのだ。

                        (つづく)
【文豪の東京――芥川龍之介】

第1回 日和下駄を履いた猫
 
犀星先生の日和下駄を履いて、あちらこちら歩き廻っているうちに、吾輩、とうとう馬込まで来てしまった。犀星先生は動物好きで、吾輩の他にも猫を飼っていた。《猫はけふ夕方になりて漸く水を飲めり、これまで水も飲まざりしなり、吐瀉物の中にみみずの如きものうごめく、元気なけれど生命に別状あらざるべし》などと日記に書くくらい、愛情を注いでいる。馬込では泥棒被害が多いということで、ブルドックの「鐵」を飼い、他に土佐ブルの「ゴリ」、柴犬の「ミチカー」なるものも飼われるようになっていった。みんな吾輩と違って名前がついている。犀星先生、《ブルドックの仔は馬鹿のごとき面相なれど、記憶力深し。精神的には文明の餘沢を持てるが如し》などと、日記に評しているが、不細工などと言われる吾輩にとっても、このような評価は嬉しいものである。犀星先生、コオロギまで飼っていた。
などと、呑気に語っていて、吾輩、はたと気がついた。「吾輩もともと、犀星先生の家にやって来た時から、龍之介先生のもとで飼われる運命」を感じていたはずだ。ところがすでに龍之介先生は死んでいるではないか。これでは、運命もへったくれもない。何とかせねばならぬ。そこで思いついたのが、龍之介先生の次男多加志だ。犀星先生の娘、朝子ちゃんと中里幼稚園から朝子ちゃんの家までいっしょに帰って来るのだが、ある日、吾輩に気づいた多加志君が、どうしても飼いたいと、お父さんの龍之介先生に頼んで、「まあ、猫なら河童より飼いやすいだろう」と、了解が得られて、吾輩、運命のままに龍之介先生の家の飼い猫と、相成った。

「ちょっと、待った!」「やっぱり、来ましたね、ヒゲじい。」「だって、そうじゃないですか。吾輩さんは、犀星先生の馬込の家にも行っていたし、それが急に田端まで戻っちゃって。何か、とお~ても、ヘンじゃありませんか。」「それはそうなんですがね、ヒゲじい。ヒゲじいだって、どこに住んでいるかもわからないのに、突然、姿を現すじゃないですか。」「まあ、それはそうですがね。今回のところは、お互い、痛み分けということで。失礼しました。」

何か横やりが入ったようだが、吾輩だって生き物である。『ダーウィンが来た』とコラボしったって、いっこうに構わん。とくに最近は日本放送協会もさかんにコラボしている。
そんなことより、犀星先生の日和下駄は返して、龍之介先生から新しい日和下駄をもらって。とにかく吾輩、龍之介先生の家で飼われることになったものの、荷風先生の日和下駄も履いているのであるから、「淫祠」から回らなければならない。

「淫祠」と言えば、やっぱり浅草だ。浅草と言えば、漱石先生だって描いたくらいだ。その最後の門弟とも言われる龍之介先生。浅草を描いた作品と言えば、真っ先に思い出すのが『浅草公園――或シナリオ――』である。と、吾輩、偉そうに言ったが、つぎに思い出す作品はない。
この作品、小説ではない。「レーゼ・シナリオ」と言って、「映画として製作、上映されることを意図しない映画の台本」、言い換えれば「映画台本風の小説」である。しかし何やら面白そうである。吾輩もシナリオの中に飛び込んで、ちょっぴりスタア気取りになってみよう。もちろん吾輩。当世流行のタレント猫養成所へは通っていないから、上手い演技はムリである。ムリではあるが、不細工な猫でも人気を博しているから、吾輩だってグッズのひとつくらいつくってもらえるかもしれん。
カット1は浅草仁王門。仁王門に吊った火の灯らない大提灯が次第に上り、雑踏した仲店(仲見世)が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。門の前に飛びかう無数の鳩。まさに映画の1シーン。情景が見えてくる。話は浅草寺のシンボル的存在の仁王門(宝蔵門)から始まる。吾輩、画面に映らないように中へ入る。2は雷門から縦に見た仲店で、正面はるかに仁王門。位置関係がよくわかる。雷門はない。
3で仲店に12、3歳くらいの男の子と、その父親にあたる外套を着た男とが登場。7で男の子は父親を見失い、父親と思った男ふたり、まったくの別人で、11で当てどもなく歩き始める。心配なので、吾輩、男の子の後をついて行く。
12は目金屋の店の飾り窓。人形の首は「お父さんを見付るには目金を買ってかけなさい」と話しかける。14から造花屋の飾り窓。17には「わたしの美しさを御覧なさい。」「だってお前は造花じゃないか?」
18から煙草屋の飾り窓。煙の満ちた飾り窓の煙の中から三つの城。そのひとつの城門には、「この門に入るものは英雄となるべし。」吊り鐘だけ見える鐘楼の内部に続いて、24から射撃屋の店。男の子が撃ったコルクの弾丸が西洋人の女の人形に中って倒れるが、後は中らない。男の子は渋々銀貨を出し、店を出る。吾輩は射撃屋の片隅に伏せて、じっとこの様子を見ていた。
27では薄暗い中に四角いもの。電燈が灯って「公園六区」「夜警詰所」の文字。この場面から、日が暮れ、夜の情景に入ったようだ。暗くなってきたというのに、男の子はまだ父親に会うことができていない。さぞかし心細いだろうと、吾輩、秘かに同情する。28から劇場の裏。ポスタアの剥がれた痕。男の子はそこに佇んでいる。逞しいブルテリアが一匹、男の子の匂いをかぎながら足元を通り過ぎる。一瞬、男の子の後ろに伏せていた吾輩のもとにも、ブル・アンド・テリアが匂いを嗅ごうと近づいて来て、吾輩、心臓が止まるかと思うくらい、びっくり。
劇場の火のともった窓に踊り子が一人現れ、冷淡に下の往来を眺める。《この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない》が、いつか男の子に似た可憐な顔を現してしまう。《踊り子は静かに窓をあけ、小さな花束を下に投げる》。花束はいつか茨の束に変っている。
32では、黒い一枚の掲示板にチョオクで「北の風、晴」と書かれているが、やがて「南の風強かるべし。雨模様」と変わる。33では標札屋の露店。徳川家康、二宮尊徳などと書かれた見本が有り来たりの名前に変り、その向こうに南瓜畠。
34で電燈の影映る池。その向こうに並んだ映画館。男の子の帽子が風に飛ばされ、歩く男の子の表情はほとんど絶望に近い。ここで出て来る池は「大池」である。吾輩、帽子を追っかけたが、結局、見失ってしまった。
35からはカッフェの飾り窓。久々の飾り窓登場であるが、砂糖の塔、生菓子、麦わらのストローを入れた曹達水のコップなど。夫婦らしい中年の男女が硝子戸の中へ。女はマントルを着た子供を抱いている。カッフェが自動的にまわり、コック部屋の裏。煙突一本。労働者二人がカンテラをともして、せっせとシャベルを動かす。子供はにこにこ首を振ったり手を振ったり。そこへ薔薇の花が一つずつ静かに落ちる。38で自動計算器が出て来て、39でカッフェの飾り窓。男の子はおもむろに振り返り、足早に接近してきて、顔ばかりになった時、ちょっと立ち止まって、多少驚きに近い表情。あまりの目まぐるしい展開に、吾輩何やら、少々頭がくらくらしてきた。

                        (つづく)
【館長の部屋】 飯倉片町を歩く

1918年10月。藤村は麻布区飯倉片町33番地に転居した。以後、1937年1月に麹町下六番町の新居に移るまで、この地に居を構えた。坂を下りかけたところにあるというが、坂の名前がいくつか出て来て、家の前の坂が何という名前だったか明確でない。そうなると、俄然行ってみたくなる。
実はこの辺りに私を惹き付けるのは、藤村だけではない。団塊の世代。出現したテレビにくぎ付けになった世代。東京タワーは憧れの東京のシンボルであった。その東京タワーが間近に望まれる地域。小柳徹が主演したテレビドラマ『ホームラン教室』は『ポンポン大将』とともに、私を虜にしたが、『ホームラン教室』の舞台は東京タワーが校庭から見える丘の上小学校。特定の学校をモデルにしていないが、真っ先に思い浮かぶのは麻布小学校である。藤村の家から200m程の飯倉片町交差点北東角に建っている。東京タワーまで500m余である。まさに丘の上小学校のモデルと言っても良さそうな学校である。藤村の末娘も麻布小学校に通っていたが、当時の学校は現在地より300m余北へ行ったところにあった。もちろん、東京タワーなど建っていない時代である。
「狸穴」という地名も私を惹き付ける。子どもの私は、「まみあなのソ連大使館」と繋がって記憶したので、「狸穴」は子どもの頃からしっかり読めたが、いまだにどうして「たぬきあな」でなく「まみあな」と読むのか、よくわからない。ソ連大使館は現在では、ロシア大使館に変っている。
藤村について調べていく副産物として、近くに東京天文台があったこと、その関係で今も「日本経緯度原点」があることがわかった。これは地理屋にとって聖地のような場所である。

飯倉片町交差点から外苑東通りを東へ。真正面に東京タワーが聳えている。今、自分が「東京にいる」ことを実感できる、喜ばしい場所である。やがて、右側へ下る坂がある。『新生』には、西久保櫻川町の風流館から引っ越す様子が、《愛宕下の下宿から天文台の附近に見つけた住居までは、谷底から岡の上へ通うほどの距離しかなかった。岸本は三人の子供と婆やとを引連れて、皆一緒に歩いて新しい家に移った。》(138)、と書かれている。一行は現在の外苑東通りを西へむかってやって来て、左折して、この坂道を下ったことだろう。
藤村の家は坂を少し下ったところ、と言うことで、探していくうちに、植木坂の標柱。説明によると、どうもここから西に麻布永坂町へ上る道が植木坂のようである。これでは通り過ぎたようだと思い、さらに下ると、今度は鼠坂の標柱。ここから先は自動車通行不可である。「細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれる」と説明があり、続けて「一名鼬坂で、上は植木坂につながる」と書かれている。せっかくここまで来たので、さらに下りていくと再び鼠坂の標柱が建っている。目の前に公園があり、そこから戻る形で下の道を歩いて行く。谷間のような道だ。運良く宅急便の配達員が通りかかったので尋ねてみると、「この先、折れ曲って左へ行くと、階段があるので、そこを上ったところ」と教えてくれた。東京は坂が多いので、宅配業者はほんとうに苦労も多いだろう。言われた場所に、「島崎藤村旧宅」と彫った黒い石柱と、その横に説明盤があった。
それにしても、外苑東通りを入って、藤村の家の前を通る坂は何という名前なのか。植木坂の標柱には「外苑東通りからおりる所という説もある」と書かれており、「植木坂」と言うこともできるが、鼠坂とも言われる鼬坂は、本来外苑東通りを入ったところから呼ばれていたとも言われ、そうすれば「鼬坂」が正解となる。どちらにしても、坂の名前は地元における通称であるから、人によって、時代によって、変化することはあっただろう。現実、この地域の道はすべて坂道であると言って良い。

外苑東通りを東へ進むと、まもなくロシア大使館前である。警備が厳しい。ほんとうは写真を撮りたいが、不審者にまちがえられても困るので、素直に通りかかるが、警察官の方がにこやかに挨拶してくれた。ロシア大使館の東へ回り込むと、アフガニスタン大使館。ロシア大使館の裏手には東京アメリカンクラブがあり、この一帯、地政学的には微妙な地域である。アフガニスタン大使館へ入る右側に「日本経緯度原点」がある。標高は26.6m。東京天文台跡にあたるので、表示板のみで建物はない。
この後、狭い坂道を下り、桜田通りを横断して芝公園へ。東京タワーのすぐ脇を通って、弁天池へ。東京タワーが建っているところには紅葉山とよばれ、かつて尾崎紅葉の名の由来にもなった紅葉館が建っていた。鏡花や秋聲も集った。紅葉山を下ると紅葉谷で、滝なども見られた。
少し南へ行くと、藤村の『食堂』に登場する蓮池(弁天池)。『食堂』には《東京まで出て行って見ると、震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。》と書かれた箇所がある。
『食堂』を読んで以来、私はこの弁天池を見てみたいと思って、やっと現地まで来たのだが、第二次世界大戦後に埋め立てられ、今では小さな人工池と化し、「芝公園・歴史の1ページ 紅蓮・白蓮の弁天池」という説明板が当時の様子を伝えるのみである。
赤羽橋交差点を越えて、済生会中央病院前へ。
この辺り一帯、江戸時代には久留米藩有馬家の上屋敷があり、邸内に久留米水天宮の分社が祀られていた。1871年に有馬屋敷とともに移転した後、1872年に日本橋蛎殻町の現在地に移転した。有馬屋敷跡には、工部省製作所がつくられたが、1883年には海軍造兵廠が築地から移転してきた。その造兵廠も呉に統合移転されると、「有馬が原」と呼ばれる状態になっていたが、その一角に、荷風が『日和下駄』を書いた1915年の12月、恩賜財団済生会の本部直営基幹病院として、芝病院(現在の東京都済生会中央病院)が開業した。荷風が「有馬が原」を久米秀治と訪ねたことが、『日和下駄』に、《私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内へ這入って見た》。閑地の草原を横切り、釣り人のいる古池へ。かつて久留米藩二十余万石の城主の館が築かれていた時分には、水の漂っている面積は二、三倍広く、崖の中腹から見事な滝が落ちていて、荷風は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様を朧気ながら描いてみる。そして荷風は、《われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気もなく破壊して兵営や兵器の製造場にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更の如くつくづくと思知るのであった。》と続けている。
一画を右折して、三田高校前の通りに出る。しばらく行くと、綱の手引坂が上っている。三田高校の前を過ぎると、赤羽小学校の門があり、道が奥へ通じ、突き当りに校舎が見える。「有馬が原」の中心で、池があったところである。校舎は綱の手引坂の道を挟んだ向かい側の「南敷地」に新設中で、すでに真新しい校舎が完成していた。やがて、オーストラリア大使館の前を通り、道は日向坂となって古川、二之橋へと下って行く。
荷風は『日和下駄』で日向坂のことを、「麓を流れる新堀川の濁水と、それに架かった小橋と、斜めに坂を蔽う一株の榎との配合が自ずから絵になるような、甚だ面白くできた坂。」と評している。2019年にアイドルグループ「けやき坂46」が「日向坂46」に改名されたため、一躍有名になった。しかし、残念ながら、私が坂を歩いていても、日向坂46のメンバーは現れなかった。とにかく、麻布十番へ出て食事をしよう。
                         (完)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第21回 日和下駄を履いた猫――犀星編⑤

かなり後ろめたい気持ちをもちながら、「坂」にたどりついた。
『或る少女の死まで』は犀星先生が住んでいた谷根千を舞台にしている。谷根千は坂の多い地区で、期待がもてる。
ふじ子と知り合うことになった引っ越し先は、《谷中もやや根津の通りに近い高台の、とある坂の上》にあった。そのようなわけで、《私の家からすこし行くと、根津へ下りる坂があって、桜がふた側に並木をつくっていた。本郷高台のあたりにまだ秋の日の静かな微光が漂うていた。》《私らは坂から根津一帯の谷間の町の見えるところに立って、夕方近い混雑された、物売の呼び声の寂しく起ってくるのに耳をしました。それらの町の家家から漂う煙は、低く這うて殊に凡てを物悲しく沈ませて見せた。》と言った描写がある。坂の上り下りはたいへんでも、「坂」は文学的描写を誘い出す。
『杏っ子』では、杏子の家が、犀星先生が暮らした萬福寺そばに設定されている。馬込というところは坂が多い。杏子の《靴音は石段を下りて往来へ、かつかつと音を立てて坂を下りて行った。平四郎はその後ろすがたを見て、こおろぎ色の女学生も、とうとう十七歳になった。何を考えているのか知ら?》。そして、《表の石段をとんとん馳け上る靴音がし、おかっぱは少しみだれ、頬を真赤にした杏子が帰って来た》。萬福寺近くの自宅石段を下り、坂を下って、左折して、萬福寺前の谷筋をさらに下れば、谷中へ通じる。大森駅へ行く道筋である。

蒲原泰介は不思議な男である。莫大な遺産。彼は父親の遺言に従って、その莫大な遺産を「可愛い奴ら」に使うことにしていた。夜中、角筈の自宅を抜け出した彼は、自動車を呼び停めると、「可愛い奴ら」のために夜通し起きるのである。街巷の裏通りにひっそりと彼を待っている女と二時間を過ごすと、再び夜更けの東京の街々を走り、《いくつもの大通りの先にある大きな坂を登り詰め、突然暗い屋敷町を馳り抜けるかと思うと、螢籠のように脚光の縞状になる京浜国道を、この得体の分らない人物を乗せて自動車は疾駆するのであった。「その坂を左へ、左へ登ったら右へ!」》。こうして彼はつぎの女と二時間を過ごすのである。吾輩、何とか『聖処女』に「坂」なるものを見つけたが、真っ暗で、おまけに自動車に乗っているから、どのような坂かまったくわからん。

気を取り直して、詩の世界に入ってみよう。
『抒情小曲集』の中に収められた『銀製の乞食』は、《坂を下りゆかむとするは銀製の乞食なり》で始まる。
やがて、『坂』と題した詩が二つ続けて登場する。

街かどにかかりしとき
坂の上にらんらんと日は落ちつつあり
円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ
樹は炎となる
つねにつねにカンワズを破り
つねにつねに悪酒に浸れるわが友は
わが熱したる身をかき抱き
ともに夕陽のリズムに聴きとらんとはせり
しんに夕の麵麭をもとめんに
もはや絶えてよしなければ
ただ総身はガラスのごとく透きとほり
らんらんとして落ちむとする日のなかに
喜びいさみつつ踊る
わが友よ
ただ聞け上野寛永寺の鐘のひびきも
いんいんたる炎なり
立ちて為すすべしなければ
ただ踊りつつ涙ぐむ炎なり
おろかなる再生を思慕することはなく
君はブラッシュをもて踊れ
われまづしき詩篇に火を放ち
踊り狂ひて死にゆかむ
さらにみよ
坂の上に転ろびつつ日はしづむ
そのごとく踊りつつ転ろびつつ
坂を上らむとするにあらずや

坂だけでなく、樹木も寺院も、そして夕陽も登場する。坂の上に夕陽があるということは、西にむかって上っている坂ということになる。この詩は1914年、「詩歌」三月号に発表されている。犀星先生はその前年から、本郷弥生町一番地に下宿している。そうなれば、西に上がるのは、団子坂、根津神社裏を通る「根津裏門坂」、根津神社前を通る権現坂、通称S坂といった、根津の谷筋から本郷台へ上がる坂が考えられるが、吾輩、生まれ故郷の太田ケ原を対岸から眺めてみようと、谷中の坂の上に歩みを進めた、ちょうどその時、本郷台に上る坂の上に夕陽が沈み、この光景も「ありかな」と思った。

この坂をのぼらざるべからず
踊りつつ攀らざるべからず
すでに桜はしんじつを感じて
坂のふた側に佇ちつくせども
ひざんなる室ぬちにかへらねばならず
日としてわが霊
しをらしからざりしことはなけれど
ただ坂の上をおそる
いまわが室は寂として
かへらむとするわが前に
鼠を這はしめんとするか
ああわがみじめなる詩篇を携ち
悄として
されど踊りつつ坂をのぼらざるべからず
坂は谷中より根津に通じ
本郷より神田に及ぶ
さんとして
眼くらやむなかに坂はあり

谷中から坂を下って、団子坂・根津裏門坂・S坂で本郷台へ上がり、東京帝国大学の前を通って、御茶ノ水橋を渡って神田駿河台の坂(現、明大通り)を下り、古書店を含め出版社や書店が集まる神田神保町へたどり着く。犀星先生は、こうして自分の詩誌を置いてくれそうな書店を物色したのであろう。未だ無名の赤貧の詩人の心情を坂に託した詩である。吾輩、この時、犀星先生に巡り合っていたら、漱石先生に紹介のひとつもしたであろうに。それが叶わずとも、犀星先生の部屋に出没する鼠の一匹や二匹、退治してやったものを。まあ、吾輩は無名のままだが、犀星先生は有名になり、文豪と呼ばれるまでになったのだから、人間、何より、自分の力で這い上がるのが、もっとも良し!

                     (犀星編 完)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第20回 日和下駄を履いた猫――犀星編④

「水」は、金魚娘のおかげで、何とか間がもてたが、「路地」は心細い。
『或る少女の死まで』に出て来るS酒場は、《団子坂からやや根津へ寄ったところの、とりやや、淫売屋の小路の中に、そまつな硝子戸を立てこんだ新しい建物からなり立っていて、》と、路地の中にあるようで、喧嘩に絡んだ大学生は、男の額を撲り返して、素早く下駄を投げつけておいて、《くらい路次から逃げ出した》。
《路地の角に一軒の喫茶店があったが、夜になるとカフェに早変りして六七人の女たちがうじゃうじゃしていた。》は『聖処女』に出て来る。『杏っ子』では、《翌朝、車夫の長井と甥の吉種、それに百田宗治を加えて、てっきり上野公園に避難していると断定して、一行は電車のない道路を歩いて行った。この大震の後の東京は暑く、空地、庭、小路に人々は集まり、外でゆうべは寝たらしく、何処にどうながれるか判らない人のながれが、上野公園を中心にして一方は銀座方面から、またの一方は浅草の下町界隈から、さらに日暮里・田端方面へ続いた人間の大河が、膨れたり打つかったりして続いた。》と、「路地」だけでなく「閑地」も一気にやってしまった。
このような災害の時は、閑地はほんとうに役に立つ。と、ともに、さぞかし新しい閑地がいっぱい出現したことであろう。また、こんな時、路地で感じられる人の温もりも、ありがたいことであろう。まあ、猫族もこんな時はニャ~と鳴きながら人間の足もとなどに絡みついて、温もりを感じながら、人間を癒し、その見返りに餌にありつく、と言いたいが、災害時には難しかろう。せめて、潰れた家の隙間から、鼠の一匹でも出て来てくれれば良いのだが。本来、猫族も鼠族も地震には強いが、関東大震災の時には火災が各地で起こったため、逃げ遅れて焼け死んだ猫族、鼠族の数知れず。
                        (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第19回 日和下駄を履いた猫――犀星編③

「水」に進もう。水と言えば何と言っても『蜜のあわれ』である。全編「水」である。しかも「東京の水」である。さすがの荷風先生も「金魚鉢の水」まで分類はしていない。けれどもこの金魚鉢の金魚。おじさまとお話しもするし、丸ビル七階のパトラー歯科医院まで行ってしまうからすごい。まあ、吾輩だって負けてはいないが、少なくとも吾輩は水の中には住んでおらんし、人間と会話もしない。それが、水の中の金魚が水槽の外の人間と会話したり、歯医者に行くからすごいのだ。もっとすごいのは、名前があることだ。吾輩はついに名無し猫になってしまったが、金魚は赤井赤子という名前をもっている。これは自分からおじさまに提案したもので、やはり何ごとも自分から動かねばならぬという教訓であろう。
などと、蜜のような金魚娘の話しをしていると、吾輩も猫である。金魚鉢に顔を突っ込んで、この金魚娘を食べてしまいたくなる。可愛いからではない。猫の習性である。けれどもそんなことしたら、犀星先生からきついお叱りを受けるであろう。ことによったら、三味線屋に売られるやもしれん。お菊ちゃんのような娘がいなければ、化けの皮を剥がれてしまう。

話しを原点に戻そう。吾輩が生まれたのは本郷台にある太田ケ原と名づけられた、太田道灌の子孫摂津守下屋敷があったところで、太田ケ池や灌木などがある。『或る少女の死まで』には、S酒場で喧嘩に巻き込まれた私が、ケガをして、《太田ケ原から湧く清水が、この酒場からそんなに遠くないことを知っていたので、いたむ頭をかかえながら千駄木町の裏から裏へと小走りに》歩いたという記述がある。この清水というのが、太田ケ原の崖下にできた湧き水で、今は汐見小学校敷地内にある。根津神社の北側300メートルほどのところ。
ある日、私とSの二人で、久しぶりにS酒場へ行った帰り道。《二人はいつの間にか池の端へ出た。もう蓮はやぶれ初めて、水分をふくんだ風はすこし寒さをかんじた。広小路で二人は別れた。二、三歩すぎると、Sは思い出したように、つと走って来て、「今夜は握手して別れよう。ね、いいだろう。」「よかろう。」二人は鍵のように握手した。》などと、不忍池の風情がわずかではあるが描かれている。
犀星先生は東京へ出て来た頃、この辺りに生息しておった。転々として田端へ来た。そして、関東大震災に遭った。それほど被害はなかったものの、朝子ちゃんが生まれてまもなくで、ずいぶん難儀をしたようだ。
そんなこんなを犀星先生、『杏っ子』という小説に著したが、震災後、一家で金沢へ避難しようと、火事場のようにごった返す赤羽までやって来て、《やっと鉄橋のある土手下で、四人が坐れるだけの草場を見出し》、汽車に乗れないとわかって、《「鉄橋を渡りましょうよ。」「その足で赤ん坊を抱いてこの長い鉄橋が渡れるものか。」》と、何やら汽車の鉄橋を渡りそうな雰囲気。赤羽と長い鉄橋と言えば、荒川の鉄橋だ。《川波はゆったりとながれていた。平四郎はふしぎに川というものも、この大震災の一員である気がしていたのに、全然、別の知らん顔をして下へ下へとながれているのに、不平を感じた。》と、川に感情をぶつけている。荷風先生でもこんなことはなかった。まあ、限界状況に追い込まれれば、人間、こんな気分にもなるだろう。
やがて犀星先生一家、馬込に引越した。どんなところかと言うと、《大森でも谷中という溝川のへりにあるこの家は、地盤がもとは沼だったのか、庭の奥の方はぶくぶくしていて、沼みずの泡が踏むと吐き出されそうであった》という、読んだだけで住みたくなくなる場所。それでも一応、「水」であるから、避けて通ることはできない。そう言えば、《「溝川のみじんこ・みみずもさがして歩くよ。きみはあれが好きだから。」》などと、おじさまは金魚娘の餌を、この溝川で調達しているようだ。金魚娘、「あ、嬉しい。おじさまは、いつも、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった、また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん、好きにならないように気をつけていながら、ほんのちょっとの間に好きになるんだもの」と。こんな時、おじさまは鼻の下を長くするのだそうだ。さすがに吾輩、こんな芸当はできん。できんが、もしできたなら、三毛子の前では鼻の下を長くするのであろう。そうなれば、鼻の下を長くした吾輩の顔を描いて、漱石先生のところに年賀状を送る人があるやもしれん。
この溝川、よほど犀星先生気に入ったか、『聖処女』にも、《この場末の湿った低い地盤にほそぼしと流れ澱む幅も相当ある溝割は、片側の人家の前をくねりくねって、大通りの新井宿の大下水に落ちこんでいた。》と描かれており、続けて、《片側は高台の屋敷町の崖や雑木林になり、十一月終りの乾びた木や枝に絡む枯蔓がかさかさ鳴っていた。》と、「崖」と「樹木」を一気にやっつけている。
ところで、犀星先生。庭づくりができる郊外も好きだったが、大都会のど真ん中銀座も好きだった。『杏っ子』には《土橋をわたる時に、夕映えの川波がうつくしく、往来の若い男達のズボンは、どの人も折目がきちんとし、杏子は爽かにそれを見過した。橋を渡りきると、おなじ川べりを一人の男が此方向きになり、少しうつむきかげんに歩いてきた。》と、汐留川の様子がわずかに出て来る。土橋は新橋駅日比谷口を出ると、すぐ。杏子は銀座へむかう。

                        (つづく)
【館長の部屋】

『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』に紹介された漱石

『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』とは、何と漱石ファンの歓心を誘うタイトルであろうか。「日本文学の中の鉄道をめぐる8つの謎」という副題がつけられ、田山花袋、永井荷風、佐藤春夫、芥川龍之介、宮沢賢治、山本有三と言った作家の作品も紹介されているが、やはり漱石を前面に出した方が「よく売れるであろう」という出版社の親心だろうか。
この本の著者小池滋は有名な「鉄道先生」である。もちろん本業は漱石と同じ英文学者だが、漱石同様、副業の方が面白くなったようで、《もっと正統的な文学研究や教育活動に使うべきだとは、重々わかっている。》が、《それなのに、わかっちゃいるけどやめられない》。そこでついつい、《ある作品を読んで面白かったと満足すると、その作品を目を皿のようにして読み返し、作者が書いてくれなかったこと、ちらとだけ書いて止めてしまったことなどをほじくり返して、もう一度別の、あるいは裏の物語をでっち上げたくなる》。これが《わたしのくせなのだ。》と、小池は言う。私も鉄道ファンであるが、どうも鉄道ファンというのは、レールからはずれることが好きなようだ。

坊っちゃんは「街鉄」(東京市街鉄道)の技手になった。理科系の学校を出て数学の教師だったから、転職先として理工系の仕事を選ぶのは納得できるが、なぜ「街鉄」なのか、《漱石先生は何も教えてくれない》し、《一般読者もあまり気にしていないらしい》。しかし、小池の「くせ」でそこのところが気にかかる。気にかかるから調べてみたくなる。調べてみたら知らせたくなる。その結果、本に書いて出版したくなる、というわけだ。

本書はとくに番号がついているわけではないが八つの章から成り立っており、その第一が書名にもなった『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』である。この章は前置きと、六つの項目で構成されているが、本論の大きなテーマである坊ちゃんが市電の技術者になった理由に絞ってみていきたい。
坊っちゃんは旧制中学校の教師をやっていた。四国辺の学校はもう嫌だから東京へ戻りたいというのなら、東京に教職を得る努力をしただろう。実際、漱石は東京に教職の口を求めて画策した。けれども坊ちゃんは問題を起し、辞表を叩きつけて飛び出して来たのであり、坊っちゃん自身も、二度と教師なんかになるものかと思っていただろうから、転職先に教職を選ぶはずがない。「だが」と小池は言う。《退職金を貰ったわけではないから長いこと無職では暮らせない》。『坊っちゃん』を読んでも退職金のことまで書いてない。書いてないが、登場人物を一人の人間として見る限り、ここのところは重要である。作家はすべてを書くわけにいかないから、省略や編集をおこなわざるを得ない。けれどもそのように省かれたところに関心をもって見ると、登場人物も身近になり、一人の生きた人間になる。私も、「どうやってそこまで行ったのだろうか」と気になって、何日も調べまわすことがよくある。それが小説を読む楽しみでもある。結局、すぐに就職するとなれば、《民間会社の技術者というのは賢明な選択である。》と小池は記している。
それでは、どうして選択した職業が「市電」の技術者だったのか。
東京で最初の市電営業は1903年で、東京電車鉄道(東鉄)が新橋―品川の運行を開始した。一か月遅れて「街鉄」、翌年には東京電気鉄道(外濠線)がそれぞれ営業を開始した。
『坊っちゃん』が書かれたのは1906年である。「市電」の会社は出来立てで、伸びしろのある、未来のある職場である。路線はどんどん拡張されていき、人手も大いに必要だっただろう。坊っちゃんのような人物でも、採用される可能性はきわめて大である。小池も《漱石は鉄道には興味ないかもしれない、あるいは嫌いだったかもしれないが、鉄道に全く無関心だったとも言えないだろう。東京市の文明開化の先端を行く市内電車については、おそらくかなり関心は持っていたと考えることができる。物理学校出の天才の就職先として、テクノロジーの先端産業を思いついたのも当然ではなかろうか。》と書いている。
それとともに小池は、《もう一つ、漱石が当時東京市電に関心を寄せずにいられなかった事情があった》として、市電の運賃値上げに対する市民の反対運動をあげている。
この反対運動の顛末について小池は、最初から街鉄は全線三銭の均一運賃を採用し、東鉄も外濠線も当局の強制で三銭均一にさせられ、けれどもこの運賃設定では採算がとれないことが判明し、1905年に各社代表が集まって五銭均一を申請。この値上げに市民が反発し、1906年3月には電車焼き討ち事件まで発生したと説明している。つまり、《当時市民の話題はこの事件でもち切りであった。だから、「坊っちゃん」の再就職先をどこにしようかと考えた時に、東京市電の三会社のことが頭に浮かんだ》と小池は推理する。
それでは、市電三会社の中で、選んだ会社がどうして「街鉄」だったのか。他の二社も受けたが不採用で、街鉄だけ合格したという推理も面白そうだが、そこまでイメージを膨らませる必要もないだろう。小池の推理は、《このように市民に親しまれた市電三社の中で、おそらく漱石先生が、いちばん多く利用したのは街鉄であったろう。》と、直球勝負である。当時、東鉄の路線は下町、外濠線は外濠の周りに限られ、街鉄のみ山の手から下町まで網羅する路線をもっていた。
坊っちゃんが就職した街鉄も、1906年、他の二社と合併して東京鉄道会社になり、1911年には東京市電気局になった。坊ちゃんが街鉄の職員だった期間はきわめて短い。そして、民間会社に就職したはずの坊っちゃんも、いつしか東京市の公務員になってしまったのである。小池は《あのような気性の人間が、はたして市役所のような大きな組織の中で、うまくやって行けたのかどうか、これも心配になるのだが、そこまでお節介を焼いていたらきりがない》と宣言している。
なお、小池は市電会社における坊っちゃんの「技手(ぎて)」という職務内容を、《油にまみれて現場で修理などをする職工や運転手よりは上で、そういう現場労働者に命令したり、監督したりする役》で、《大学出の学士なら幹部の技師になれただろうが、専門学校卒業なので中間の技手で我慢せねばならなかったと思われる。》と書いている。まあ、坊ちゃんのことだから、見るにみかねて、現場へ飛び込んで行って、油にまみれて修理する姿が見られたかもしれない。

小池は『坊っちゃん』以外の作品についても、『彼岸過迄』『それから』など市電が重要な役割を担っているものがあるとして、《市電について注目なさって、その面から検討を加えることをおすすめしたい。》と文章を締めくくっている。当「勝手に漱石文学館」では、鉄道ファンの地理屋として、市電をはじめ実に多くの鉄道が登場する。ぜひ、探して楽しまれることを「おすすめしたい」。

なお、小池滋先生はこの4月13日、逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。

                          (完)

『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』
著者:小池滋
発行所:早川書房
発行年:2001年
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第18回 日和下駄を履いた猫――犀星編②

じつは「樹木」というのも厄介である。『或る少女の死まで』に「私」と少女ふじ子が上野動物園に行った場面が出て来る。《秋がくるとすぐに黄葉がちになった公園の桜の並木の、よく掃かれた道路を歩いて》と、わずかに樹木の描写がある。『杏っ子』には、犀星先生が住んだ大森付近のようすが、《この大森の奥には、いまも低い土地に百姓家があって、昔から日光を囲うて暖かにくらしていたが、そのまわりに欅、楓、柿などの老樹が聳え、畠地には小松菜、白菜が萌黄と緑とを見せ、散歩するのに野趣があった。》と、これまた、わずかに樹木が出て来る。
あれほど庭に凝った犀星先生が「樹木」をほとんど描いていないのは不思議であるが、寺に育ち、寺のすぐそばに終の棲家をもったわりに、「寺院」もほとんど描いていない。『青き魚を釣る人』から、『春の寺』という詩を紹介しよう。この寺は犀星先生の終の棲家に隣接する萬福寺を詠んだものである。貴重な寺院に関する作品である。

うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹にすずめ交り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。

詩には何のコメントもしない方が、風情である。

                        (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第17回 日和下駄を履いた猫――犀星編①
 
吾輩、今まで東京市に暮らしておったが、初めて東京府〇〇郡なるところに住むことになった。と言っても、東京市と何ら変わるところはない。何しろ、田端には芥川龍之介先生も住んでおられる。吾輩、ひょっとしたら龍之介先生のところで飼われる運命にあるかもしれん。しかし、今のところわからん。そもそも運命なるものがあるかもわからん。
とにかく吾輩、犀星先生の家で飼われることになったものの、荷風先生の日和下駄も履いているのであるから、「淫祠」から回らなければならない。

ところが犀星先生、淫祠には興味がなかったか、作品の中にほとんど登場しない。それでも浅草に惹かれたのは、「御多分に漏れず」である。と、言いたいところであるが、上京者の犀星先生にとって、浅草は淫祠というより、都会の象徴であったようだ。
『洋灯はくらいか明るいか』には、初めて東京へやって来て、友人によって、その日のうちに浅草に連れて来られた時のことが、《田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。》《江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた。》《今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であった。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧(こんどう)が、好ましかった。東京の第一夜をこんなところに送ったのも相応しければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。》と書かれている。観音様はまったく出て来ないが、淫祠の雰囲気がよく表れている。田辺という友人と、犀星先生のやり取りを聞いていると、漱石先生の『三四郎』を思い出す。
犀星先生、よほど浅草が気に入ったとみえて、『上野ステエション』という詩には《浅草のあかりもみえる橋の上》、『みやこへ』には《こひしや東京浅草夜のあかり》という一節がある。
どうも、淫祠はこんな程度で、吾輩ここで「合わせ技」を使って、淫祠、樹木、寺院を一気にやっつけよう。『抒情小曲集』覚書に暗黒時代という一節である。《小曲集第三部は主として東京に於て作らる。本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠にて「蝉頃」の啼く蝉のしいいといへるを聞きて、いくそたび蹉跌と悪酒と放蕩との夏を迎えしことぞ。銀製の乞食、坂、それらは皆予の前面を圧する暗黒時代に作なり。幾月も昼間外出せずして終夜なる巷にゆき、悪酒にひたりぬ。その悔新しくてなほ深くふけりてゆきぬ。今も尚思ひ見て予の額を汗するものはこれなり。或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき、上野の夜明けの鐘をききては帰りぬ。合掌のあとさきはじつに病気ともたたかひし時代なりしなり》。上野の夜明けの鐘というのは、寛永寺の時の鐘である。人間というものは、古来、時間というものを気にするようである。「三時に有楽町で逢いましょう」とか、その時間に現れなければ人間関係はガタガタと崩れていく。猫なんざ~、時を超越して生きておるから、気楽なもんだ。
                        (つづく)
【館長の部屋】
                           
『風景の発見』に紹介された漱石

内田芳明著『風景の発見』は、「風景を人はどのように意識してきたか」に始まり、「近代日本における洋画の生誕と風景の発見」「近代日本の文学と登山における風景の発見」「近代文学における個我の苦悩と洋画受容」と進み、志賀重昴や内村鑑三の風景論、さらにダーウィンやフンボルトへと話しが及んでいく。
内田は、「風景」という言葉は日常的に多用され、似たような言葉に「景色」「情景」「光景」「景観」などあるが、戦争や災害などに「光景」という言葉を使用することはあっても、「風景」という言葉を使用することはないとして、《風景概念のこのような使用のされ方の中には、その本質の一つの要素として、この平和的なるもの、静かなるもの、生活的なるもののたたずまい、一瞬とどまって休息しているたたずまい、すなわち「姿・形」(ゲシュタルト)という、意味がふくまれているようなのです。》と記している。
私は地理学を専攻してきたが、学者ではないので、「地理屋」と称しているが、地理においては「景観」という言葉をよく使用する。けれどもそれは自然が織り成すもので、人間は含まれず、また景観を見る側の人間の感情は考慮されない。これに対し、「風景」は自然だけの場合もあれば、そこに人間が関わる場合もあれば、人間と人間がつくり出したもので構成される場合もあり、しかも見る側の人間が、「感情」というフィルターを通して見ていることである。したがって、人間が描く絵画は「風景画」であって、「景観画」というものは存在しないことになる。

ところで、本書において漱石は、「近代文学における個我の苦悩と洋画受容」という大きな章の中にある、「寄生的市民層における個我の苦悩と絵画への逃避――夏目漱石の場合」と題する項で登場する。
近代日本において、それまでの日本の歴史の中で見ることのできなかった、一切の人間中心の主観的で身勝手な自然観から解放され、自然において風景を見る、しかも生ける他者としての風景を見るという自然観が、洋画家たちの風景画の生誕の中に現れたと同じように、文学者たちや登山家たちの間でも自然における風景の発見、新しい自然風景感情の覚醒が現れてきた、と内田は指摘し、国木田独歩、徳富蘆花、あるいは山岳登山における小島烏水や田部重治などの名前をあげている。
こうした事象を受けて内田は、《かくして明治の中期から後期にかけて、この産業資本確立期においては、西洋近代のような産業社会の主体的担い手としての市民層ではなく、社会経済体制に寄生的でしかありえなかったそのような日本的疑似市民層を基盤に、市民的イデオロギーの代表的担い手の一つである文学が、絵画(洋画)や思想や宗教や社会科学や自然科学や地理学などの日本における誕生や運動と連動しつつ、にわかに活気を帯びて急速に、その広汎な運動を展開し始めることになったのでした。》と記し、《とは言いましてもそれらの文化運動の展開の過程は、時期的にも短く――明治中期から大正時代にかけてのことです。――そして活動の社会的空間も狭く、そして天皇制的・軍事的・帝国主義的軌道の上を走り始めた産業社会の中の、わずかに残された間隙に苦渋に満ちた文芸の花を咲かせたにすぐなかったのです。》と続けている。
このような位置づけをおこなった上で内田は、文学の領域に目を向ける。
早くは1885年の坪内逍遥の『小説神髄』、続いて二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』、さらに森鴎外の『舞姫』『審美論』、その前後から、北村透谷、高山樗牛、樋口一葉、泉鏡花、正岡子規、島崎藤村など。
内田はこの中で、鴎外が文展の洋画部の審査委員になっていたこと、藤村がラスキンを読み、三宅克己と交流があり、『若菜集』に中村不折が初めて挿絵をつけたことなど、文学と絵画の連動をこの時代の流れの象徴として指摘している。
ここまで来ると、鏡花が出版本の表紙装幀などを通じ画家と接近していったことも理解できるし、漱石が作品の中で、時には舞台装置として、時には美術評論の対象として、多くの画家や作品を登場させたことも頷ける。

そして、いよいよ漱石の登場。
内田はまず、『坊っちゃん』『草枕』が風景論的な関連で注目すべき作品であるとし、この二つの作品にターナーがしばしば登場すると指摘する。そして内田は、《漱石はロンドン留学中、美術館、例えばテイト・ギャラリーなどしげく見にいっていたので、イギリス風景画に開眼していたにちがいありません。》と記している。
けれども、これに続いて内田は、小宮豊隆も指摘しているように、《漱石は、絵画や自然描写に言及するところが多くても、そしてそこには、美的世界への関心や理解の深さがあっても、ワーズワスやスコットにみられるような、主客の転換を伴った自然の生情、自然風景への覚醒という出来事――つまり風景の救済論的地平――は生起してはいなかったのです。人情世界の苦悩こそそれ以後の漱石の小説の主題であり続けるのであり、その苦悶の突破の方向は、社会的の方でも自然風景の発見や覚醒の方でもなかった、ということです。》と、重要な指摘をしている。
つまり、これが漱石文学の特徴であり、魅力であり、漱石自身の苦悶の突破の方向は、社会運動や自然風景の方向ではなく、あるとするならば、それは小説を書くという行為そのものであっただろうと、私は推察する。
内田がつぎに取り上げたのは『三四郎』である。
内田は『三四郎』という作品が、後進日本資本主義社会の随伴現象として生み出され、《そうした浮遊する都市的小市民インテリ層の生活が、まだ若い、静かで、平和で、楽しい、自由な生活の雰囲気として描かれている》と指摘し、けれどもこのような文芸の平和で豊穣な生活というものは、《漱石にとっても、つかのまのことでした。》と、記している。
文学と絵画との関連ということにおいて内田は、芳賀徹が『三四郎』を「絵画小説」と呼ぶくらい絵画、画家が登場し、「深見さんの遺画」というのは浅井忠の遺作展のことで、漱石は1900年10月、パリで浅井に会っており、浅井もまた1902年6月末にロンドンの漱石を訪ね、数日下宿に滞在したことを紹介している。
漱石と浅井がこのような関係になったのは子規の仲立ちによるもので、浅井と子規は同じ上根岸に住み、深く交流しており、子規は浅井の弟子中村不折を紹介されている。不折の影響で子規は日本画・南画から洋画に転じ、漱石も水彩画を描くようになり、内田は、《子規の俳句における写生主義的方法意識の形成にも洋画家との交流が影響していたことは、ここでも想起してよいことだと思います。》、と記し、《明治中期における洋画家たちと文学者たちとの豊かな交友・相互影響、共同の絵画世界の覚醒の動向の一つをそれは現してもいる》、と続けている。

『三四郎』に続いて『それから』『門』、その後、『行人』『こころ』へと。そこに描かれる主人公たちから、まだ若い、静かで、平和で、楽しい、自由な生活の雰囲気を感じ取ることはもはやできない。けれどもこれは、《反社会的・非社会的で自分一人にとじこもるこの暗さや寂しさは、当時漱石が胃の大病でしばしば打ちのめされていた、という個人的事情からくるものではありません。社会体制からはみ出されたプチ・ブルジョア社会層の生活意識から生じたものです。》と、内田は指摘して、『それから』で、代助が「贅沢な世界」に立てこもっている理由を親友平岡に説明する場面を引用し、漱石が代助の口をして語らしめているところの20世紀初めの社会批判は、《90年近くたった20世紀末の現代の深刻な日本社会の状況そのままであることに驚かざるをえない》と、記している。――内田がこの文章を書いてすでに20年以上経過しているが、「深刻な日本社会の状況」は何ら変わっていないか、むしろより深刻になっている。これはいったい、どうしたことであろうか。
内田は漱石の文章を引用した後、《後進的日本資本主義の軍事的・帝国主義的進展が、「悉く暗黒」の社会を作り出していて、この「精神的、徳義的、身体的」に「困憊」し「敗退」した社会の中では、個人の活動の自由と希望が遮断されているがゆえに、世間に背を向けて、一人閉じこもる生活しか道がない、ということが鮮やかに描かれているわけなのです。》《要するにこの社会体制は人間性にとって破壊的な暴力と化してしまっていることを、もうすでに明治の40年代の漱石は鋭く直観し認識していた、ということです。》と記し、認識したとしても、《この社会的なるものの矛盾や非情や悪と対決し苦悩する文学には決してならなかったのです。そこからの遊離・遁走・忘却の方向に向う社会背反者の文学となるほかなかったのです。》と続けている。おそらくこの「社会的なるものの矛盾や非情や悪と対決し苦悩する文学」が「プロレタリア文学」と呼ばれるものであろう。

内田は東京商科大学を卒業し、横浜国立大学経済学部教授で停年を迎えている。その著作は多岐にわたるが、基本は経済学者・社会学者である。それ故、「風景論」にしても、漱石にしても、近代日本の経済・社会の中にしっかり位置づけて論じられている。
漱石を扱った項である「寄生的市民層における個我の苦悩と絵画への逃避――夏目漱石の場合」は、260ページ余の中で、わずかに6ページである。けれども、その中で、漱石の作品を大きく三期に分け、漱石が社会活動的にしだいに追い詰められていく様子をみごとに描き出している。漱石が現実の社会にしっかり目を向けた「社会派作家」であっただけに、経済学・社会学の視点はきわめて重要であり、文学者と経済学・社会学者との共同作業によって、漱石文学はより総合的に捉えることができるようになるのではないか、私はそう思う。

内田の文章は、私に多くの示唆を与え、また、頭の中を整理するうえでも大いに役立った。けれども、つぎの一点において、私見を加えたい。
内田は、「社会的なるものの矛盾や非情や悪と対決し苦悩する」ことからの《解脱は初期の漱石では絵画世界への逃避でしたが、晩年にはただ一つ東洋的無への、いま一度の、そして最後的の逃亡でしかなかったのでした。絵画世界にも小説世界にも活路がないとすれば、作家としての漱石自身は、「則天去私」という「無」の解脱に向うほかなかった、ということになります。》と、この項を結んでいる。
けれども漱石は、若い頃から、この人間社会つまり「この世」で生きることが苦痛であり、そこから逃れるには死ぬしかないと思い詰めながら、死ぬ道を選ぶことを望まず、「この世」において苦悩から逃れる方法を探し求めていた。その結果、漱石がたどり着いたのは、「この世」に生きる限り苦悩を取り除くことはできない。「ありのまま」を受け入れるしかない(則天去私)、ということだった。もともと、「この世」が人間の世である限り、そして人間が有限の生命しか持ち合わせていないということにおいて、苦悩が消え去ることは絶対にあり得ない。あり得ないことを「ありえる」ことにしようとするから、苦悩がますます膨らんでくる。
漱石は『吾輩は猫である』の最期に、「吾輩」という姿をとって「ありのまま」受け入れる宣言をおこない、『一夜』において、どのような人生を送ろうが、最期は誰も平等に「すべて忘れてしまう」という真実を語り、それではそのような「つかの間の人生」どのように過ごすか、自分は「文芸」の道に進むのだと決意する。つまり、漱石は小説家として歩み始めた時、理屈の上では「解脱」の境地に達していたのである。
先に、内田の、《漱石は、絵画や自然描写に言及するところが多くても、そしてそこには、美的世界への関心や理解の深さがあっても、ワーズワスやスコットにみられるような、主客の転換を伴った自然の生情、自然風景への覚醒という出来事――つまり風景の救済論的地平――は生起してはいなかったのです。人情世界の苦悩こそそれ以後の漱石の小説の主題であり続けるのであり、その苦悶の突破の方向は、社会的の方でも自然風景の発見や覚醒の方でもなかった、ということです。》という指摘を紹介したが、この視点をなぞれば、漱石はいかに「社会に対する洞察力が優れ、社会の矛盾に言及するところが多くても、マルクスやエンゲルスのように、その矛盾を解決することに苦悩する道を選ばず、矛盾のまま受け入れ、それを描くことに自分の安らぎを見出していった。
その延長線上に考えれば、漱石がもっと長生きしたとしても、「社会運動」の活動家になることも、「プロレタリア文学」作家になることもなかったであろう。
漱石は、おそらく自分の寿命がそう長くないと感じたのだろう。『こころ』において、自分自身の立ち位置を総括しながら遺書を書いた。そして、『道草』において、自分の一生を振り返り、人生そのものが生命の流れの中では「道草」のようなものだと、自分に言い聞かせた。これで終わるはずだったが、漱石は生きていた。「あれっ?」と思ったかもしれない。それなら、ここでリセットして、もう少し何か書いてみようか。そう思って、『明暗』を書き始め、かなり書き進んだところで、漱石の寿命は尽きた。『明暗』は未完に終わったが、もともと完成した人生などない。「人生なんて未完で終わる」。漱石が身をもって示した遺言かもしれない。
                         (未完?)
『風景の発見』
著者:内田芳明
発行所:朝日新聞社(朝日選書675)
発行年:2001年
【館長の部屋】 泉鏡花『白金之絵図』を歩く④

再び蜀江坂を、聖心女子学院の煉瓦塀に沿って上り、通用門の前を過ぎ、100m余。聖心の塀に沿って左折して50mほど行くと、今度は右折する。つまり、道は聖心の敷地のままに鍵の手に折れ曲がっている。この右折するところの左手に聖心女子学院の裏門がある。裏門を入ると、すぐ本館であり、ここにかつて緑青色の鳶をもつ避雷針が立つ、ヤン・レツル設計による赤煉瓦の本館校舎が建っていた。
与五郎は、お町の家があったのは、急な坂を上ったところであることを覚えていた。赤煉瓦塀と、緑青色の鳶をもつ避雷針を覚えていた。門があることを覚えていた。三光坂を上って来た与五郎に、「探し当てた門は表門で、目当てのものでなかった」と告げられた茶店の婆さんは、《それは裏門でございますよ。》と答えている。お町の家が設定されたのはこの辺り。白金6丁目14の一画であろう。標高30mを超え、この地域でもっとも高く、蜀江台と呼ばれた地区である。
それにしても、聖心女子学院の門は、どうして本館すぐそばが裏門と名づけられ、本館から離れ、谷のむこうに正門(表門)があるのだろうか。鏡花もこれをとても不思議に思って、作品の中に活用したのであろう。
さて、『白金之絵図』で、お町は白狐の化身のように登場する。《提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅の色を染めた錦木の風情である。一方は灰汁のような卵塔場、他は漆のごとき崖である。》という記述もある。「順に数の重なった朱塗の鳥居」というのは、どうみてもお稲荷さんである。今回、何よりも確認したいのは、このお稲荷さんである。興禅寺の縁起について、新編武蔵風土記は、《稲荷社、庫裡の後背にあり 小祠》と記している。「卵塔場」も気にかかる。
何はともあれ、すぐそばの興禅寺(臨済宗妙心寺派、1674年創建、白金6丁目14―5)を訪ねる。興禅寺では寺族の方から、お稲荷さんの位置を教えてもらい、墓地に歴代住職の墓である、ネギ坊主のような頭をもった無縫塔をいくつも確認した。まさに卵塔場である。
興禅寺の北側に沿って、白金6丁目14と13の境界をなす道があり、そのすぐ北に13と12の境界をなす道が西北西に伸びている。教えられた通り、13と12の境界をなす道を行くと、本道が左へ折れるのに対し、そこを突き破る格好で真っすぐ道が伸び、少し行って右へ折れ、見えなくなる。するとそこに、待っていたかのように男性が立っており、問うとすぐお稲荷さんの祠を教えてくれた。右へ折れ、すぐ右側に、それほど大きくはないが、確かにお稲荷さんの祠がある。さっそくお参りする。道はそのまま門を抜けて民家に突き当たる。男性は、「かつてここに稲荷神社があったが焼けてしまった。ここに石の鳥居が建っていて、その跡が出て来た。いつの頃か、今の祠がつくられ、興禅寺が修復などおこなっている。」など、話してくれた。
鏡花は三光坂、雷神坂という実名を出しているが、聖心の西側に沿う蜀江坂の名前を作品の中に書いていない。なぜかわからない。その蜀江坂を上って来て、聖心の裏門辺りで、道は鍵の手に折れ曲がっている。いったいなぜか。1915年、つまり鏡花が『白金之絵図』を書いた年に発行された「東京南部」2万分の1地形図が、すべてを解き明かしてくれる。「白金の絵図」もそうだが、まさに「地図」は教えてくれる。
道は鍵の手に折れ曲がっているのは、聖心の敷地の責任ではない。1915年発行の「東京南部」2万分の1地形図によると、蜀江坂から来て、左折した左側は聖心、そして右側には興禅寺が建っていた。現在の白金6丁目14-7~13の一区画にあたり、その西側一帯へ墓地が伸びていた。さらに左折して背後に西へ伸びる道があり、神社に続いていた。キリスト教の学校と寺院と神社、この三者がこの蜀江台(富士見の台)の高台に集っているわけで、これこそ鏡花を魅了し、作品を書かせる力になったのであろう。
聖心があえて、この本館そばの門を「裏門」とし、離れた三光坂側に正門(表門)を設けたのも、隣接する寺社との折り合いがあったのかもしれないし、その辺の事情を鏡花がつかんでいたのかもしれない。この地に住み、《――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」》と、最期に能楽師に言わせるお町を、実名上げて聖心女学校の生徒に設定したのも、故無き事ではないだろう。
興禅寺の本堂は戦災で焼失し、位置を少し西に移動して、現在地(白金6丁目14―5)に建っている。1915年の地形図と現地を照合して、謎は解けた。興禅寺の北側に沿って、白金6丁目14と13の境界をなす道は当時存在せず、興禅寺の墓地(卵塔場)が、13と12の境界をなす道、つまり稲荷神社の参道辺りまで広がっていた。現在は民家が建って見られないが、そのむこうには崖がある。こうなると、《提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅の色を染めた錦木の風情である。一方は灰汁のような卵塔場、他は漆のごとき崖である。》という、お稲荷さんと禅寺という、一見不自然な光景も納得できる。
興禅寺の寺族の方に、お稲荷さんにまつわる話を、いろいろうかがうことができた。――
ここの稲荷は、この興禅寺より大きかったようで、北里の道(蜀江坂)から夜店が立ったと言われている。
ここの稲荷は、勧請稲荷ではなく、白狐稲荷で、この辺りの土地の守り神様にあたり、地元のパワースポットみたいなもの。この辺りでは、「犬を飼うな」、と言われている。――
私が質問する前に「犬を飼うな」の話しが出た。鏡花は、《富士見の台なる、茶枳尼天の広前で、いまお町が立った背後に、此の一廓、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也。地主。と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家の背後に当る、が、その間に寺院のその墓地がある。突切れば近いが、避けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳の前を抜ける事になる》。鏡花はきちんと書いている。「茶枳尼天」は「仏教のお稲荷さん」とも言われる。寺院と縁が深く、神仏分離以前は、境内地も明確な区分はない。寺族の方は、「この辺りでは、犬だけでなく、他の動物もあまり飼わない」と話し、寺で飼った犬にまつわる不思議な話を聞かせてくれたが、そこに登場したのは白狐である。結末は必ずしも悪い話しではないようだ。
寺族の方は、現在の祠について、――
この辺り、戦争で興禅寺も稲荷も焼けてしまったが、ある時、徳川ゆかりの方が「夢枕に、稲荷を建て直すように言われた」と訪ねて来られ、だいたいこの辺りと思われる現在地に小祠を建てた。傷むので、時どき興禅寺の方で修復している。――

この後、聖心女子学院の南、東京大学医科学研究所の敷地に沿って、与五郎とは逆に西から東へ歩く。道は一旦下って、再び上がり、三光坂に続く道に出た。右折すると目黒通りへ出るが、左折して三光坂へむかう。この辺りに茶店があったことになる。まもなく「聖心女子学院」の石柱。そこを左折すると下り坂で、下の方に正門が見える。ヤン・レツルの設計によるもので、本館は焼失したが、正門は現存している。正門のむこうは樹木の高台になっており、ここが谷底であることがわかる。この聖心敷地内の谷筋は北にむかって下っている。
石柱まで引き返し、三光坂が下り始めるところまで行き、向きを換えて、石柱の前をもう一度過ぎ、目黒通りへむかった。比較的上り下りの少ない道である。目黒通りへ出ると、地下鉄「白金台駅」は近い。

作品の舞台を歩いてみると、作品が見えるようになってくる。理解が深まる。足も丈夫になる。文学散歩は楽しい。

                         (完)
【館長の部屋】 泉鏡花『白金之絵図』を歩く③

『白金之絵図』に描かれた地域はどのようなところなのか。歩いてみたい。与五郎同様、目印は聖心女子学院。
新緑にむかう季節、私は地下鉄白金高輪駅で降りて、地上に出た。少し行くと、立行寺(白金2丁目2-6)の前。南側の台地の下をバス通りが東西に伸びる。北側の低地地域が白金1・3・5丁目で、南側の台地地域が白金2・4・6丁目と、奇数・偶数でうまく分けられていて、とてもわかりやすい。西にむかって進む空は、北半分は快晴の青空、南半分は背高く立ち上がった黒雲で、《片側は空も曇って、今にも一村雨来そうに見える》、まさに『白金之絵図』の書き出しのような天気。鏡花の心憎いまでの演出を感じる。
氷川神社の前を過ぎ、三光坂下の交差点まで来て、右折。すでに前方に突き当りが見える。道は鍵の手に折れ、すぐ真っ直ぐに麻布田島町、古川へとむかう。この鍵の手部分、現在の白金3丁目11-10に、かつて吉祥院があった。与五郎が担ぎ込まれた接骨医は吉祥院の前というから、現在、耳鼻咽喉科の望月医院(白金3丁目10-18)が建っている辺りだろう。少し行って左側、現在の白金3丁目11-5に鷺の森稲荷があった。
三光坂下交差点まで戻り、バス通りを再び西へ。やがて左手に白金の丘学園。この学校は港区立神応小学校・三光小学校・朝日中学校が合併した小中一貫校。行く手に北里研究所の高層ビル(プラチナタワー)が聳え立つ。そのビルの手前から左へ折れると、まっすぐ先に聖心の煉瓦塀が見えてくる。ここから斜め右に進む道もある。
とりあえず直進すると、煉瓦塀が続く辺りから上りになる。鏡花が描いた赤い煉瓦塀である。当時はつくられて数年だったから、さぞ赤さが際立っていたことだろう。この坂が蜀江坂で、とりあえず通用門のところまで行ってバス通りまで引き返し、今度は斜め右に入って行く。名前からしても鏡花の作品にふさわしい雷神山へ行くためである。旧神応小学校前を過ぎ、白金6丁目10-1の角で左折すると、上り坂になって、やがて「明治坂」の表示。もともとこの辺りには、「雷神の坂」「雷神坂」などと呼ばれる坂があったが、途切れたり、経路が変更になったりするうち、その一部が大正時代になって、「明治坂」と呼ばれるようになった。
雷神山は現在、児童遊園になっている。地図で確認した時、バス通りからすぐのところにあった。けれども雷神山というからには「高い」という印象から、坂をどんどん上り詰めてしまった。けれども雷神山は見当たらない。本来、「地理屋」というのは、他人に道を尋ねることを好まない。プライドが許さない。許さないが、地元の人たちとの会話の機会にもなるし、思わぬ情報を得られることもあるので、「情報収集は調査の第一歩」などと自分を納得させて、わからない時には道を尋ねることにしている。与五郎だって、道を尋ねたから、お町のような素敵な女性に出会うことができたではないか……。
明治坂上の家の前にたたずむ女性に尋ねる。「この坂を下りて。」「えっ、下の方ですか。」「そう、この辺は起伏が複雑で、ここから見ると雷神山は下だけど、古川の方から見ると、高いところに見えるの。」
なるほど、そういうことかと、的確な表現に納得し、明治坂を下り、教えられた通り、旧神応小学校前まで戻って、向い側の狭い道を抜けると、確かにそこは雷神山児童遊園。園内には大木があり、薄暗い感じだが、ブランコや滑り台など遊具がある。戦後、氷川神社に合祀されたが、かつてここに雷神社があり、今、「雷神誕生の碑」が建てられている。つまりこの遊園はかつての境内で、東にむかって少し曲りながら参道が伸びている。ここで空は黒雲、ポツポツと雨が降り出す。まことに鏡花らしい演出である。いや、ほんとうに降っているからすごい。北側は急斜面で、階段になって、その先にバス通りが明るく見える。地図の通り、確かにバス通りからすぐのところにあった。「山」だから「高い」ところという思い込みは恐ろしいものである。
かつての参道を通って、突き当り。左折するとすぐバス通り。右折すると旧神応小学校前の道。これで感覚がつかめたが、雷神山児童遊園の入口は、地元の人でなければわからないような、確認しにくいところにあった。
                         (つづく)
【館長の部屋】 泉鏡花『白金之絵図』を歩く②

13章に入ると場面は変わり、《三光町の裏小路、ごまごました中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団を干した薪屋の露地》。共同栓に集った女性たちに魚勘の小僧赤八が与五郎のことを話している。《こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚れやあがってね。》《其奴が、よぼよぼの爺でね。》《色情狂で、おまけに狐憑と来ていら。毎日のように、差配の家の前をうろついて附纏うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大な旦那が襟首を持って引摺出した。お嬢さんが縋りついて留めてたがね。》《お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。》《その前もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語を言わあ。》という状況になっている与五郎。
そこへ与五郎。《「あれ!何をする。」と言う間も無かった。……おしめも褌も一所に掛けた、路地の物干棹を引ぱずすと、途端の与五郎の裾を狙って、青小僧、蹈出す足と支く足の真中へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打っ》て、駄菓子屋の前の縁台にどっと落ちる。女、子どもが駆け寄る。そこへ《鷺の森の稲荷の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞を乱して駆寄る。「怪我は。」「吉祥院前の接骨医へ早く……」》。娘はお町である。
この場面の舞台であるが、白金三光町であることは間違いないが、白金三光町というのは、現在の港区白金1~6丁目、白金台4・5丁目、高輪1丁目にまたがる広大な町内である。けれども、「麻布田島町へ続く」の一文と、鷺の森稲荷と吉祥院から、地域はかなり限定される。
麻布田島町は古川の南岸に沿って伸びる小さな町。古川の南にあるにもかかわらず、芝区に属さず、麻布区である。四ノ橋もこの町内にある。四ノ橋から三光町内を真っ直ぐ南へむかう道は氷川神社の前に出る。その一本西側にある道は、そのまま三光坂へ通じている。そして、鷺の森稲荷も吉祥院もこの道筋にあった。「三光町の裏小路」とは、この道筋を指すと考えられる。

14章、15章は稲荷神社の夜の場面。《お町は片手に、盆の上に白い切を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛で、その中から目の釣った、尖った真蒼な顔の見えるのは、青石の御前立、この狐が昼も凄い。見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜ると、一体、聖心女学校の生徒で、昼は袴を穿く深い裾も――風情は萩の花で、鳥居もとに彼方、此方、露ながら明く映って、友染を捌くのが、内端な中に媚かしい。狐の顔が明先にスッと来て近くと、その背後へ、真黒な格子が出て、下の石段に踞った法然あたまは与五郎である。》と、お町は、聖心女学校の生徒か、はたまた狐の化身か。
《「またしてもお見舞……令嬢、早や、それでは痛入る。――老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば、――と貴女がお心付け下された。暗夜に燈火、大智識のお言葉じゃ。》と、老人一人でありがたがっているが、お町は老人の身を案じ、母も老人を案じていると言う。お町は、《「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老が遊ばす、お狂言の罠にかかるために、私の身体を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」》と、何やらすごい言葉。さらに、《「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半に莟む、この一輪の赤い花、露を傷んで萎れたのである。人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布にひしと寄添ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗いた……》。と、そこに何か落ちた。折本らしい。老人が懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに絡んで落ちたようだ。《……町は基督教の学校へ行くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同じに願掛をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」》
やがて、《「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈に、空を飛んで、梢を伝う姿が消える、と谺か、非ずや、雷神坂の途半ばのあたりに、暗を裂く声、》《社の裏を連立って、眉目俊秀な青年二人、姿も対に、暗中から出たのであった。「では、やっぱりお狂言の?……」「いや、能楽の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」「老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。」と、斉しく深くした帽子を脱いで、お町に礼をして、見た顔の、蝋燭の灯に二人の瞼が露に濡れていた。》と、能楽師が現われての一発逆転である。能楽師は最後にこう言う。《――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」》
                         (つづく)
【館長の部屋】 泉鏡花『白金之絵図』を歩く①

『白金之絵図』は1916年1月に発表された泉鏡花の小説である。小説であるから当然創作であり、仮構の話しである。けれども「聖心女学校」が実名で登場し、同校とその周辺の描写も現地をしっかりと把握して書かれている。このような作品は、「地理屋」の私の関心をとりわけかき立てる。
「聖心」と聞けば、広尾にある「聖心女子大学」を思い浮かべるが、「聖心女学校」は同じ設立母体による「聖心女子学院」のことで、白金4丁目にあり、現在、初等科、中等科、高等科をもっている。1909年に校舎が完成し、1910年に高等女学校、小学校、幼稚園が開校した。赤煉瓦の本館校舎と正門はヤン・レツルの設計により、本館校舎は関東大震災で焼失したが、正門は現存し東京都文化遺産に指定されている。鏡花が『白金之絵図』を執筆していた1915年、それは高等女学校最初の卒業式がおこなわれた年である。鏡花が漱石と面会したのは1909年。そして終の棲家である麹町下六番町に転居したのは1910である。

『白金之絵図』の主人公は萩原与五郎という鷺流の狂言師。67歳。
今年の8月下旬、かれこれ八ツ下り午後4時頃。与五郎は9月上旬に上野辺りの舞台でおこなわれる興行の肝入りをしてくれる人の家へ、打ち合わせに行く積りであったが、探し歩くうち道に迷ってしまい、一人の娘に道を尋ねたところ、娘は白金の地図を出して来て、親切に教えてくれた。その地図は《寺、社に丹を塗り、番地に数の字を記いた》もの。『白金之絵図』という題名はこの地図に因んでいる。与五郎、《その……解りました時の嬉しさ》。ということで、その娘会いたさに与五郎は再び白金を訪れた。
ところがそれは礼を言うためではない。
与五郎が語るには、9月上旬の興行で、与五郎は同志うちでも一生に指折るほどしかやらぬ役に挑戦。近頃、能は隆盛なれど狂言は衰退の一途。鷺流の名にかけても成功させねばならぬと意気込んでのぞんだが、《舞台の当日、流儀の晴業、一世の面目、近頃衰えた当流にただ一人、(古沼の星)と呼ばれて、白昼にも頭が光る、と人も言い、我も許した、この野雪与五郎。装束澄いて床几を離れ、揚幕を切って!……出る!月の荒野に渺々として化法師の狐ひとつ、風を吹かして通ると思せ。いかなこと土間も桟敷も正面も、ワイワイがやがやと云う……縁日同然。》と大失態。《何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑われるべきものではない。凄う、寂しゅう、可恐ろしげはされないもでも、不気味でなければなりませぬ。何と!》と与五郎。
すっかり気落ちして、女房にも先立たれたことだし、生き甲斐もなくなり、死のうと思ったが、来月はじめに舞台があるので、そこに最期を賭けようと思い直す。そこで思い出したのが道を教えてくれた娘のこと。与五郎は《唯今の心地を申さば、炎天に頭を曝し、可恐い雲を一方の空に視て、果てしもない、この野原を、足を焦し、手を焼いて、徘徊い歩行くと同然でござる。時に道を教えて下された、ああ、尊さ、嬉さ、おん可懐さを存ずるにつけて……》《令嬢の、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から、抜出しましたもののように思われてなりませぬ。さように思えば、ここに、絵地図をお展き下されて、貴女と二人立って見ましたは、およそ天ケ下の芸道の、秘密の巻もの、奥許しの折紙を、お授け下されたおもい致す!姫、神とも存する、令嬢。分別の尽き、工夫に詰って、情なくも教を頂く師には先立たれましたる老耄。他に縋ろうようがない。ただ、偏に、令嬢様を思詰めて、とぼとぼと夢見たように参りました。》《何とぞ、貴女の、御身からいたいて、人に囃され、小児たちに笑われませぬ、白蔵王の法衣のこなし、古狐の尾の真実の化方を御教えに預りたい……》と娘に頼み込む。
鏡花は「道を尋ねる」を、もとより一般的な「道を尋ねる」と、芸道の「道を尋ねる」を重ね合わせたのであろう。けれども、なにしろ娘は能も狂言も素人である。与五郎もそれを承知で、《さりとて痩せたれども与五郎、科や、振は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある。胸にある……近々とお姿を見、影を去って、跪いて工夫がしたい!折入ってお願いは、相叶うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日、二七日、お差置きを願いたい》。それが無理なら、門や溝石の上でも良いと与五郎。
要は、十代の娘を67歳の老人が間近で、1、2週間じっくり観察しようというのである。歌舞伎の女形でもその役作りに、女性をじっと観察し、そこから学ぶということが重要とされる。けれども与五郎が演じるのは若い娘の役ではない。狐である。娘の父親は叫ぶ。《馬鹿、狂人だ。此奴あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工に頼まれたら、大切な娘の衣服を脱いで、いやさ、素裸体にして見せねばならんわ。色情狂の、爺の癖に。》

『白金之絵図』は「章」という表現はないが、1から15までの章に分かれている。そして、娘の父親が叫ぶのは12章の終わりである。ここで話を1に戻して、与五郎がどのようにして娘の家を探したか、みてみよう。
与五郎は下谷に住んでいる。電車に乗って白金にやって来た。途中で乗り換えただろうが、天現寺橋(広尾)経由恵比寿行きに乗って、四ノ橋で下り、南へむかった。吉祥院の前を通り、西光寺を過ぎれば三光坂に差しかかる。
三光坂を上ったところで与五郎は、《えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈で。》と通りがかりの人に尋ねるが、「知らん。」とつっけんどんに言われ、その光景を気の毒に思った人が、《ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。》と助け船。《「や、女子の学校?」「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心ですが。」》と、与五郎の誤りを訂正する。鏡花も初めて「聖心女学校」の名を聞いた時、「聖人女学校」と聞えた経験があるのかもしれない。
聖心女学校の門を過ぎたところに茶店がある。このあたりの風景は、《片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、》《あの、火薬庫を前途にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。》と描写されている。前方、南の方角、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)、そのむこうには海軍の白金火薬庫(現在の国立科学博物館附属自然教育園)がある。いずれも広大な敷地をもつ。関東ローム層の赤土が印象的である。道は斜めに折れ、日吉坂の上に出る。目黒へ通じる電車が通る道(現在の目黒通り)である。
与五郎は茶店の婆さんに、《ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。》と尋ねる。婆さん、《これは、余所のお邸様の持地でございまして、》と答える。しばしの会話の後、婆さんから、どこへ行くかと訊かれた与五郎。《大な学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。》《それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸れの可恐い処でありましたよ。》と答える。婆さんは《それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。》と言って、向う側へ行くには《森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。》と説明して、学校に用事があるなら表門で用が足りると助言する。《いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。》と、与五郎。
この辺り、起伏が激しく、目黒の通りへ出るにはそれほど上り下りがないが、三光坂側から蜀江坂側へ聖心女学校を回り込むには、一旦下って、伝染病研究所の北側を再び上がらなければならない。鏡花の言う「煙硝庫の黒塀」は海軍火薬庫の境界につくられた塀であろうが、それでは少し遠すぎて実態に合わない。けれども鏡花は火薬庫のことをかなり気にしており、情景描写の道具として使ったと思われる。小説であるから、すべて実態通りでなくても良い。そしてこのあたりから、「烏瓜の提灯」が登場し、さらに《可い加減な、前例にも禁厭にも、烏瓜の提灯だなんぞと云って、狐が点すようじゃないかね。》《何、狐が点すか。面白い。》と、「狐」が登場して来る。次なる展開への布石である。

与五郎は《うら枯を摘んだ籠をただ一人で手に提げつつ、曠野の路を辿るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘に搦めて支いて、青い鳶を目的に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。》と、ぐるりと回り込んで、蜀江坂側へたどり着いたようで、《火薬庫の暗い森を背中から話すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……》。と描写される。
ところが鏡花は取材の際、蜀江坂側を下から上って来たようで、前の記述より先に、《雷神山の急昇りな坂を上って、一畝り、町裏の路地の隅、およそ礫川の工廠ぐらいは空地を取って、周囲はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓の蒼空に、老人がいわゆる緑青色の鳶の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓のその煉瓦と、角邸の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。さて、その青鳶も樹に留った体に、四階造の窓硝子の上から順々、日射に晃々と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。この突当りの片側が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑を抱く。この荒地の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ楽書したも同然な道である。》と、火薬庫の塀にさかのぼって来る。「地図の上へ楽書したも同然な道」という文章は、この辺りの道の状況をよく表現している。
じつはこの辺り、蜀江台と呼ばれる、この地域の中でも高いところで、標高30mを越える。そこで、《坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺が雲から覗く。眼界闊然として目黒に豁け、大崎に伸び、伊皿子かけて一渡り麻布を望む。烏は鷗が浮いたよう、遠近の森は晴れた島、目近き雷神の一本の大栂の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金の草は深けれども、君が住居と思えばよしや、玉の台は富士である。》という表現がなされる。
ここまで来て与五郎は《相違ない、これじゃ。》と確信したのか、蜀江坂を下りかけて、また戻って来て、娘の家を探し始める。ところがあちらこちら覗きまわっているのを怪しまれ、この辺りの差配という人物に声をかけられる。与五郎、人を探している、娘を探していると告げ、この差配の家に娘が一人いることがわかる。そこへ、《おお、父上、こんな処に。》と、娘が登場。名を「お町」という。まさしくそれは与五郎の探していた娘。
こうして与五郎は、お町に頼み込み、12章を終わる。
                         (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第16回 日和下駄を履いた猫――秋聲編⑤
 
果敢ないものだ。吾輩、今日で秋聲先生の家を出ることにした。秋聲先生が筆を折ってしまったからだ。秋聲先生はとても面倒見の良い方だ。少々、面倒見が良すぎて、あれこれ噂も立てられるが、当の本人はそれも飯のタネにしてしまう。面倒見が良いから、それに甘えて吾輩も居続けることができないわけではない。では、あるが、吾輩としては、いつまでも秋聲先生の家の飼い猫であるわけにはいかん。
そうと決めたら吾輩、秋聲先生の日和下駄を玄関に置き、久しぶりに前足の肉球に地面の感触を得て、長泉寺の方へ歩けば、《見晴らしのいいバルコニーなどがあって、三階の方の部屋は軟か物などを着ている女中の所管と決まっていた。暑中休暇の来るまで笹村は落着き悪い二階の四畳半に閉じ籠っていたが、去年の夏いた牛込の宿よりは居心がよかった。(略)笹村は台所の上になっている暑い自分の部屋を出て、バルコニーの方へ出ると、雨に晒された椅子に腰かけて、暗いなかで莨を喫していた。》などと言った『黴』の一節を思い出す。菊坂をだらだら上って、左折して一気に台地を上った「下宿屋菊富士楼」がこの地にあった。
菊坂を下り切って、本郷台に刻まれた谷筋を追分にむかって上って行く。坂の左手が西片町、右手が森川町。この二つの町を結んで1880年に架けられた清水橋、川が見られないので、「から橋」とも呼ばれるのだが、その手前、右手へ入った辺りに、かつて秋聲先生一家が住んでいた。『黴』には、《家は人通りの少い崖と崖との中腹のような地面にあった》と描写されている。
まあ、吾輩も野良猫の仲間入りをしたのであるが、一応、「文豪猫」の誇りだけは捨てるわけにはいかん。最後に「坂」と「崖」を登場させて、任務遂行だけは、しなければならぬ。
などと言っているうちに、追分を過ぎ、懐かしい千駄木も過ぎ、動坂から田端へとやって来た。何やら赤札がいっぱい貼り付けられたあたりを通りかかったと思うが、腹はすくわ、肉球はうずくわで、ただニャーニャー泣いていた事だけは記憶しているが、そのうち何だかスーと持ち上げられフワフワ感じが有ったばかり。見れば吾輩、女の子に持ち上げられている。女の子と言えば、漱石先生の家にも、秋聲先生の家にも女の子が棲息していた。女の子であれば書生と違って吾輩を喰うようなことはしまい。とにかく吾輩、女の子に抱かれて家へ。
そこで何やら吾輩を巡って交渉がおこなわれているようで、やがて吾輩は猫マンマを頂いて、この家に飼われることになった。もちろん、日和下駄も支給された。この日和下駄。忘れた時に困らぬようにか、「犀星」と大きく焼き印が押されている。「これは、あの犀星先生?と、すると、さっきの女の子は朝子ちゃんなのか……。」

                     (秋聲編 完)

「日和下駄を履いた猫」シリーズ。秋聲編の結末でおわかりのように、この後は犀星編を連載する予定です。
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第15回 日和下駄を履いた猫――秋聲編④
 
浅井に見受けされて最初におかれた下谷の家は、《賑かな広小路の通から、少し裏へ入った或路次のなかの小さな平家で、つい其向前には男の知合の家があった。》と、『爛』を引っ張って、何とか「路地」に持って来た。この路地に関しては、《日が暮れてからは、風が一戦ぎもしなかった。お増は腕車から降りて、蒸暑い路次のなかへ入ると、急に浅井が来ていはせぬかと云う期待に、胸が波うった。暫く居なじんだ路次は、いつに変らず静かで安易であった。》という描写もある。そして、暑い夏、お増は麹町へ移されるのだが、その家は《迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画》にあり、究極の「路地の集合体」。今、上智大学や聖イグナチオ教会が建っている。

『のらもの』は「路地」に始まり「路地」に終わる。
銀座の「月魄」というカフェで働こうと思ってやって来た晴代。《狭い路次にある裏の入口に立ってみると、そこに細い二段の階段があり、階段の側にむせるような石炭や油の嗅気の漂ったコック場のドアがあり、此方側の、だらしなく取散らかった畳敷の女給溜りには、早出らしい女給の姿もみえて、その一人が立って来て、じろじろ晴代の風体を見ながら、二階の事務室へ案内してくれた。》と、何やら野良猫でもうろつきそうな銀座の路地裏である。いやいや、今ではカラスの縄張りで、猫など近づくことはできない。もちろん、吾輩はれっきとした飼い猫であるから、銀座の路地裏などうろつくことはないのだが、たまにはトリコロールの窓辺にでも寝そべって、冷めたコーヒーの一杯も飲んだりもする。何しろ、吾輩、「猫舌」である。とにもかくにも、秋聲先生は「昭和モダン」の真っただ中であった。
四年の間、所帯を持った木山と別れようかと思っていると、晴代の父親は性急にも引っ越しの算段を取ってやって来た。引っ越し準備をしていると木山が戻って来て、中の様子をうかがった。《「碌さん!」父は追っかけるように声かけたが、もう路次のうちには見えなかった。》《出しなに路次口で、懇意にしていたお巡りさんの細君に出逢ってしまった。「奥さん本所の阿母さんが御病気だそうで。余程お悪いんですか。」細君がきいた。「えゝ、それ程でもないんですけれど……。」晴代は言葉を濁して、泣きたいような気持で路次を出た》。
路地というのも、面白いものだ。

《翌日の晩方、銀子は芳町の春よしという其の芸者屋へ行って見た。》と、銀子の名が出てくるから、これは『縮図』である。芳町などと聞けば、路地の予感がするが、案の定、《春よしは人形町通を梅園横丁へ入ったところで、ちょうど大門通へぬける路地のなかにあった。》と、出て来る。秋聲先生、ご丁寧に芳町の歴史を《幕府の末期までこの辺に伝馬町の大牢と共に芳原があったので、芳町といい大門通というのも、それに因んだものと言われていたが、》などと書いている。芳町界隈、今も路地の味わいがある。
もともとこの辺り、葭がいっぱい生える「葭原」であったが、いつしか「芳原」、さらに縁起の良い「吉原」に変えられた。現在の吉原は本来「新吉原」で、本家の吉原だって、もとは立派な遊郭でまわりを堀に囲まれ、唯一、北の方にある大門だけが出入口であった。この大門から南へのびる中央の通りが大門通りである。実際には北枕を嫌って、北北西から南南東を結んでいる。人間というものは、「北枕」が良いだの、悪いだの、やけにこだわっているが、吾輩など「寝たとこ勝負」である。どっち向きであろうが、安らかなものだ。
銀子は晴子の名でお座敷に出るのであるが、やがて……。
厳しい統制で、この辺り、夜の十時を過ぎると三味線や歌もばったりやんで、前に出ていた春日灯籠や門灯もスイッチが切られ、《艶かしい花柳情緒などは薬にしたくもない。》というご時世で、《広い道路の前は、二千坪ばかりの空地で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、可也大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。》と、思いもかけず「閑地」が出て来た。
秋聲先生、この閑地の顛末も書いている。即ち、《この空地にあった工場が、印刷術と機械の進歩につれて、新に外国から買入れた機械を据えつけるのに、この町中では、既に工場法が許されなくなったので、新たに新市街に模範的な設備を用意して移転を開始し、土地を開放したところで、永い間の悩みも解消され、半分は分譲し、半分は遊園地の設計をすることにして、余り安くない値で買い取ったのであった。》と、どうやら印刷工場が移転してできた閑地で、この地の見番が買い取ったようだ。そしてこの閑地ができたおかげで、《狭苦しい銀子の家も、二階の見晴しがよくなり、雨のふる春の日などは緑の髪に似た柳が煙り、残りの浅黄桜が、行く春の哀愁を唆るのであった。》が、《日々に地が均され、瓦礫が掘出され、隅の方に国旗の棹が建てられ、樹木の蔭も深くなって来た。ここで幾度か出征兵士の壮行会が催され、英魂が迎えられ、焼夷弾の処置が練習され、防火の訓練が行われた。》と、戦時色が強まると、閑地の使われ方もずいぶんと変化するものである。
吾輩も猫である以上、鼠と戦わざるを得ない。そのために日頃からの訓練も大切である。作戦も巡らす。敵も敵である。どちらから出て来るか、わからん時もある。そんな時には、東郷大将のごとく悩んだものである、などと妙なことを思い出してしまった。『縮図』は未完で終わる。
(つづく)
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第14回 日和下駄を履いた猫――秋聲編③
                    
「水」である。「川」である。東京で「川」と言えば、何と言っても「大川」つまり隅田川である。そういえば、『仮装人物』に登場する小夜子は中洲に住んでいるはずだ。今頃、秋聲先生は、いや庸三は大川の水を眺めながら、小夜子とイチャイチャしているのではないだろうか、と……。
中洲では、大川に沿って割烹・料亭などが建ち並んでいる。その一画に小夜子の待合もある。《薄濁った大川の水が、すぐ目の前にあった。対岸にある倉庫や石置場のようなものが雨に煙って、右手に見える不気味な大きな橋の袂に、幾棟かの灰色の建築の一つから、灰色の煙が憂鬱に這い靡いていた。》《ある晩もまた庸三は小夜子の家で遊んでいた。彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋あたりの夜景を眺めていた。》と、川だから、やはり対岸も気になるところである。清洲橋とは、対岸の清澄と中洲を結ぶところから名付けられた。
秋聲先生は、震災後の中洲とその周辺について、《世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思いっ切り大規模の清洲橋も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座のあった時分の下町情緒も影を潜め、水上交通が頻繁になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。》と、書いている。
ここで登場する真砂座だが、吾輩が「主人公」の、まあ「猫」なのに主「人」公と言うのもヘンだが、『吾輩は猫である』が初めて上演された芝居小屋である。吾輩が世に知られるようになって、二年ほど経った時だった。何せ吾輩、招き猫だってやるから、大入り満員、大盛況であったが、時の流れには勝てず、今では「真砂座跡」の碑を残すのみ。「南無阿弥陀仏」。
「南無阿弥陀仏」と言えば、『あらくれ』のお島。七歳の時に養父母のところへ貰われて来たのだが、年を経て、養家で好きでもない男と結婚させられそうで、王子にある実家へ逃げ帰ったりもする。養母のおとらは、《「あの時お前の阿父さんは、お前の遺場に困って、阿母さんへの面あてに川へでも棄ててしまおうと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ不具になっていたかも知れないよ。」》と、お島に言って聞かす。さらに養父も、《「あの時王子の阿父さんは、家へ帰って来ると、お島は隅田川へ流してしまったと云って、阿母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ。」》と。
どうも、お島の実母はとんでもない人だったのか、養父母がお島欲しさに実父に頼み込み、母親の嫌がるのを「隅田川に流した」と言って、無理やり引き裂いて、連れて来たのか、とにかく隅田川もとんだところで使われたものだ。お島がほんとうに流されていれば「南無阿弥陀仏」だが、そのかわり『あらくれ』もお流れだった。漱石先生も養家と実家を行ったり来たりしているし、本人の知らぬところで結婚相手があれこれ挙がっていたようだ。漱石先生、大川端にも住んだけど、隅田の川に流されず、「めでたし、めでたし」である。流されていようものなら、吾輩の運命は如何に?

気を取り直して『縮図』には、《その頃日比谷や池之端、隅田川にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台などで人を集め、大川の舟遊びも盛っていた。》と、一挙に二つ出てくる。そして、17歳か18歳頃の銀子について描いた中に、父親も妹たちも体調が悪く、《銀子の稼ぎではやっぱり追つかず、大川の水に、秋風が白く吹きわたる頃になると、銀子も一家に乗しかかって来る生活の重圧が、ひしひし感じられ、自分の取った方向に、前とかわらぬ困難が立塞がっていることを、一層はっきり知らされた。》と、大川がちらりと顔をのぞかせる。
そう言えば、『縮図』には、《そこは今の江東橋、その頃の柳原で、日露戦争の好景気で、田舎から出て来て方々転々した果に、一家はそこに落着き、小僧と職人四五人をつかって、靴屋をしていたのだったが、銀子が尋常を出る時分には、既に寂れていた。》と書かれた箇所があり、銀子が子どもの頃、柳原に住んでいたことがわかる。
本所停車場、今の錦糸町駅南側一帯で、荷風先生の作品にも登場する避病院や、龍之介先生が通った府立第三中学校などもある。南北に大横川や横十間川、東西に竪川など、川と言う名がついているが、運河が通っている。本所停車場の北には錦糸堀があった。秋聲先生、珍しくこの辺りを細かく描いているぞ。まあ、荷風先生と趣はちと、違うが……。こんな具合だ。
《ちょうど千葉街道に通じたところで水の流れがあり、上潮の時は青い水が漫々と差して来た。伝馬や筏、水上警察の舟などが絶えず往来していた。伝馬は米、砂糖、肥料、小倉石油などを積んで、両国からと江戸川からと入って来るのだった。舟にモータアもなく陸にトラックといったものも未だなかった。》と、何やら地理の教科書風。続いて、《銀子はそこで七八つになり、昼前は筏に乗ったり、攩網で鮒を掬ったり、石垣の隙に手を入れて小蟹を捕ったりしていた。木材と木材の間には道路工事の銀沙の丘があり、川から舟で揚げるのだが、彼女は朝飯前に其處で陥穴を作り、有合せの板をわたして砂を振かけ、子供をおびき寄せたりしていたが、髪を引詰のお煙草盆に結い、涕汁を垂らしながら、竹馬にも乗って歩いた。午後になると、おいてき堀といわれる錦糸堀の原っぱへと出かけて行く。そこには金子の牧場があり、牛の乳を搾っていたが、銀子は能くそこで蒲公英や菫を摘んだものだが、ブリキの乳搾りから竊と乳を偸んで呑み、空の時は牛の乳から直かに口呑みに呑んだりもした。彼女はよく川へ陥り、寒さに顫えながら這いあがると、桟橋から川岸の材木納屋へ忍びこんで、砂弄りをしながら着物の乾くのを待つのだった》。
子どもの頃の漱石先生と、何となく馬が合いそうだが、そんな育ち方の銀子なので、芸者屋の雰囲気と折り合いがつかなかったようだ。まあ、荷風先生なら、そんな銀子でも一端の辰巳芸者に仕上げただろうけど。
芸者と言えば、『爛』のお増だって、浅井に莨の火を押し付けるくらいだから、静々としているばかりじゃない。そりゃ、いくら浅井に見受けされたって、賑やかな上野広小路の通りから少し裏へ入った、ある路地の中の小さな平屋で、《上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞こえる台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でなら》ない狭い家に押し込められれば、自由の身になったと言ったって、籠の鳥同然。イライラもするだろよ。
この、お増が与えられた下谷の家。忍川の流れ込む堀や湿地が広がるところ。前、紹介したように、漱石先生も『道草』で、この地域一帯を、《裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などは始終浅い池のようになっていた》と描写している。
まあ、こんなところで「水」の方は、お役御免にしていただこうか。

                       (つづく)
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第13回 日和下駄を履いた猫――秋聲編②

前、漱石先生のところでも述べたが、鏡花先生だって「淫祠だ」「樹木だ」とテーマを決めて小説を書いているわけではないから、見つからんこともある。見つかっても極々わずかなこともある。吾輩の浅学によって見逃すこともある。ご容赦願いたい。――吾輩、すでにこのようなことを書いて「身の安全第一」を図った。これは秋聲先生においても、さらにその後においても変ることはない。
「樹木」であるが、吾輩、『黴』に森川町と西片を結ぶ「から橋」近くの家を描いた、《腐りかけた門のあたりは、二、三本繁った桐の枝葉が暗かったが、門内には鋪石など布かって、建物は往来からはかなり奥の方にあった。三方にある廃れた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸が破れていたり、根太板が凹んでいたりした。けれど庭木の多い前庭に臨んだ部屋は、一区画離れたような建て方で、落着きがよかった。》や、神楽坂の下宿紅葉館を描いた《棟が幾個にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人が一人いるぎりであった。(略)そして立ち木の影の多い向きの窓際に机を据えた。》という一節を見つけるばかりで、さっさと退散したい。
それでは、「寺院は?」と思いきや、《この新開町の入口の寺の迹だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃を被って立っていた。》と、これは伝通院の焼跡。同じく『黴』の一節に、《つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこを見に行った。「何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。」「僕も子供の時分は寺が厭だった」》と、「寺」という言葉が二回も出て来たが、これは仏教の寺ではなく、ニコライ堂というキリスト教の教会。
西新井大師だって、総持寺というお寺だから仲間に入れても良いのだが、すでに淫祠で訪れてしまったから、ここでは省略せざるを得ない。期待を込めて「水」の項へ。
                        (つづく)
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第12回 日和下駄を履いた猫――秋聲編①

鏡花先生の舎弟が、秋聲先生が建てたフジハウスに入居したというので、ちょっくら見に行った。見に行ったが鏡花先生からいただいた日和下駄の鼻緒が、こともあろうか両方共切れ、ずいぶんすり減ってもいたので、秋聲先生が気をきかせて、吾輩に新しい日和下駄をくれたので、ついでに居座ることにした。もともと吾輩、本郷の生まれであるから、実家へ帰ったようなものである。所詮、猫なんてものは、ふらっと現れて、ふらっと消えてしまうから、おすずさんも鏡花先生も、吾輩の姿が見えなくなったからと言って、それほど心配することもあるまい。吾輩、鏡花先生のおかげで、ますます変幻自在、合わせ技なるものも覚えたから、行く末、楽しみである。
行く末、楽しみではあるが、実は今までと同じような趣でやっていけるかどうか、吾輩、甚だ心もとない。すでに鏡花先生のところでそれを感じ、「合わせ技」なるものも使って何とか乗り切ったが、秋聲先生の日和下駄を借りての吾輩、「つまみ食い」の術を使わねばならんかもしれん。
とは言っても、荷風先生の日和下駄も履き続けている吾輩、やはり「淫祠」から回らねば……。

《お島は作との縁談の、まだ持ちあがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお稲荷さまへ出かけたものであった。》と『あらくれ』にある。お島は天性目性が良くないので、「お前は目がわるいんだから能くお詣りをしておいで」と養母から言われ、多分のお賽銭を蟇口に入れてもらって、大師にむかって歩き始める。養母と青柳が残る料理屋は大師から一里ほど手前にある。《人家を離れると直きに田圃道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或る雑木林の片陰などには、汚い天刑病者が、そこにも此處にも頭を土に摺りつけていた。》《曲りくねった野道を、人の影について辿って行くと、旋て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往来している人や俥の群に交って歩いていったが、本所や浅草邊の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内儀さんも偶には目についた。》と、どうやらこれからむかうお大師さんは、川崎大師ではなく、西新井大師のようである。吾輩も西新井大師は初めてであるから、どのようなところであるか、ちと楽しみである。
《大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎や起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶつ切り飴を鬻いでいたりした。栄螺や蛤なども目についた。山門の上には馬鹿囃の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太白飴の店などを眺めながら本堂の方へあがって行ったが、何處も彼處も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。》と、秋聲先生、なかなか詳しい淫祠界隈の描写である。それがまだまだ続く。
《そこを出てから、お島は野廣い境内を、其方こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田舎廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙を潰すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田舎爺の加持のお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋燭のあがった多くの大師の像のある處の前に彳んでみたりした。木立のなかには、海軍服を着た痩猿の綱渡などが、多くの人を集めていた。》と、西新井大師で有名な山門だけでなく、加持水の井戸なども登場する。
《休み茶屋で、ラムネに渇いた咽喉や熱る体を癒しつゝ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のこゝ彼處に、千住あたりの工場の煙が重く棚引いていた。》と、まあ、吾輩も西新井大師の雰囲気を満喫し、からりんころりんと本郷へ帰る道すがら、切通坂から夫婦坂へ折れて湯島天神。その境内の木陰に、飢えた放浪者のような二つの人影。何とお島と、連れの小野田。東京を出て、地方で落ちぶれ、再起を期して東京へ戻って来たのである。しかし一日、職を捜しても見つからず、疲れた足を癒すためやって来たのが湯島天神。
《漸う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかゝった桜や銀杏の梢ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横わっていた。二人は仄暗い木陰のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦け疲れた二人の顔に心持よく戦いだ。》と、湯島天神に男女がいるものの、どうも「別れろ切れろ」の話しにはならないようだ。そのうち、《水のような蒼い夜の色が、段々木立際に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀登って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天刑病らしい躄の乞食が目についたりした。石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸の上へあがった泥亀のように、臆病らしく四下を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠の暗闇の方へいざり寄って行った》。秋聲先生が描く湯島天神である。

『あらくれ』には、《「お母さんは巣鴨の刺ぬき地蔵へ行った。御護符でも買って来るんだろう」》と出てくるが、行ったわけでもないので、吾輩は行かん。ついでに、『黴』には、《家には近所の蒟蒻閻魔の縁日から買って来た忍が檐に釣られ、子供の悦ぶ金魚鉢などが置かれてあった。》という記述がある。蒟蒻閻魔の具体的な描写はないし、すでに何度も訪れた淫祠であるので、行くのはやめる。

                        (つづく)
【館長の部屋】 『一夜』論

漱石の作品は、1904年に書き始められた『吾輩は猫である』から、1906年の『坊っちゃん』・『草枕』へと続いていく。けれどもこの間に『倫敦塔』から『趣味の遺伝』まで、小品がいくつも書かれている。このうち、東京を舞台にした作品に興味をもつ私は、『琴のそら音』・『趣味の遺伝』の二編のみに関心を示してきた。
ところが私が『草枕』を論じてみたいと思い立ち、繰り返し細かく読んでいくうちに、『草枕』が書かれた時期が『吾輩は猫である』の最終部分と連続することや、漱石の西洋芸術などに対する幅広い知識と理解に気づき、合わせて私が読み飛ばしてきた『倫敦塔』を始めとする小品の重要性に気づくことになった。
もともと漱石は英文学が専門であり、英語教師でもあった。けれども漱石の関心は文芸論に移っていき、さらに創造的な文芸論へと進んでいった。つまり、他者の文学や芸術を論ずる学問研究としての文芸論ではなく、文芸論を小説の中に創造的に表現していくのである。それは『吾輩は猫である』に始まり、賞賛を得て、『草枕』へと引き継がれて行った。こうして漱石は幸運にも、本来やりたかったことを見出し、自分のもっている能力を遺憾なく発揮していくのだが、この間の習作のような作品が、『倫敦塔』から『趣味の遺伝』までの小品である。

『吾輩は猫である』にしても、『草枕』にしても、何と言ってもその魅力は漱石が展開する文芸論である。それとともに、もうひとつ私が注目するのは、「人生」の捉え方、あるいは「死生観」である。
『吾輩は猫である』の最終部分において漱石は、ビールを飲んで酔っ払い、大きな甕に落ちた吾輩をつぎのように描いている。――いかにもがいても甕からあがることはできない。遂にもぐる為に甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分かりにくくなってくる。こんな呵責に逢うのは甕から上へあがりたいからで、あがりたいのは山々でも上がれないのは知れ切っている。無理を通そうとするから苦しい。自ら求めて苦しんで、自ら拷問に罹っているのは馬鹿気ている。そう思った吾輩は、《「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎり御免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。苦しいのだか難有いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。只楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。》と、すべてを弥陀の手に委ねて往生していく。
この世はまさに「憂世」。「厭な世の中(厭世)」である。私たちの人生なんて、所詮、大きな甕のようなもので、そこへ落ちた吾輩がいくらもがいても、甕から上がれないのと同じように、生きているうちに平静を得ることなど、望んでもできないことである。この世を去って、初めてすべての煩わしさから解放され、平静を得ることができる。平静を得たいと思えば、死ぬしかなく、《吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。》とあるように、漱石は死ななければ太平を得ることはできないと考えている。
これに対して『草枕』は、まず、《世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った》。つまり、人間として生まれたことを肯定的に捉えることができるようになった。25歳になると、《明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った》というように、「人の世」の本質、「人生」の本質をしっかりつかみとった。ここに至って、人の世に生きる覚悟ができる。明るいことばかり求めても、暗いことがそれにくっついており、生きたいと思っても、生きることに死がくっついている。紙の表だけ欲しいから、裏はいらないと言っても、表裏は一体のものであって、切り離すことができない。「人の世」も「憂世」と「浮世」は表裏一体で、それを「あるがままに」受け入れるしかないのである。そして、30歳になると、《喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持たぬ。片付けようとすれば世が立たぬ》と、悟りの境地はさらに深化していく。
年齢が必ずしも意味をもつわけではないが、漱石は子規と交友をもち、真宗の教えなどに触れることによって、実際には39歳までに、このような境地に達していったと考えられる。

このような、『吾輩は猫である』から『草枕』への流れの中で紡ぎ出された、いくつかの習作の中で、私が今、もっとも注目するのが、『一夜』である。
『一夜』の登場人物は三人。「髭ある男」と美しい「女」、それに「髭なき男」。
八畳の座敷に三人が出会って、一夜を過ごす。語るセリフは舞台仕立てである。やがて、《「寝ましょか」》という言葉とともに、《夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床に入る》。
漱石は《彼等の一夜を描いたのは彼等の生涯を描いたのである。》と書き、《三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ?人生を書いたので小説をかいたのではないから仕方がない。》と書いている。つまり三人の登場人物と、そこで交わされる会話は、人間の一生そのものを象徴している。まさに人生とは「一夜」のように短く、夢のように果敢ないものである。漱石は書く。《百年は一年の如く、一年は一刻の如し。一刻を知れば正に人生を知る》。
そして、眠りについた彼らは、30分の後、《美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹を攀じ上った事も、蓮の葉に下りた蜘蛛の事も忘れた。彼等は漸く太平に入る》。要は死んだのである。なぜ死んだのか。漱石が《なぜ三人とも一時に寝た?三人とも一時に眠くなったからである。》と結んでいるように、「死」に理由などない。生き物は、生き物であるが故に、必ず死ぬのである。いかなる感情をはさむ余地もない真実である。
そして、漱石はもうひとつの「死の真実」を我々に突きつける。《美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。》という文章から始まって、「忘れた」という文言が8回繰り返される。人は死ねばすべてを忘れる。脳が機能しなくなるから、記憶はすべて消される。「脳裏に焼き付けて」おいても、脳が機能しないから、脳裏に焼き付けておいても無駄である。王様は王様であったことを忘れ、独裁者は独裁者であったことを忘れる。乞食は乞食であったことを忘れ、迫害を受けた者は迫害されたことも、迫害した人のことも忘れる。漱石は漱石であったことも、小説家であったことも忘れている。
自分がどのような人間に生れようが、どのような人生であろうが、最期はすべて同じである。これほど平等なことがあるだろうか。そして、これが「人生」である。まさに『一夜』は「人生を書いたので小説をかいたのではない」。人生にどんなドラマがあろうと、小説になるような人生であろうと、最期はそれを忘れてしまう。それが「人生」である。そのことを漱石は『一夜』において書いたのであるから、まぎれもなく『一夜』は「小説」ではなく、「人生」そのものを書いたのである。
おそらく、誰もが知っていて、誰もが口にしないこの「真実」を、漱石は『一夜』において描き出した。けれども漱石が『こころ』において、「黙っていてはいけない」というメッセージを、おいしい果肉で隠してしまったように、文芸論の装飾のうちに、真実を巧みに隠してしまった。漱石は多くの人の知的好奇心を掻き立てる。けれども、漱石が真に伝えるただ一点を見過ごしてはいないだろうか。

                         (完)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第11回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑪

《円に桔梗の紋を染めた、厳めしい馬乗提灯が、暗夜にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々と映って、ほんのりと明い顔は、お町である》。ここから増々鏡花先生の世界、そして淫祠の世界である。
《提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅の色を染めた錦木の風情である。一方は灰汁のような卵塔場、他は漆のごとき崖である。》と、何やらお稲荷さんの風情だが、ここはお寺なのか、卵塔場が出る。禅僧の墓か、無縫塔とも言う。ついでに崖も出る。《富士見の台なる、茶枳尼天の広前で、いまお町が立った背後に、此の一廓、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也。地主。と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家の背後に当る、が、その間に寺院のその墓地がある。突切れば近いが、避けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳の前を抜ける事になる》。
吾輩も一応、東京生まれの猫である。それでも白金の地は疎い。鏡花先生の文章に引かれるまま、吾輩、あちこちしているうちに、訳が分からなくなってきた。お町の家は雷神坂を上ったところにある。聖心女学校の西の方。雷神坂は大正になってから、明治坂と呼ばれるようになった。今ではズタズタになり、明治坂がすべて雷神坂というわけではないが、確かに坂を上った高台だから、富士が見えても不思議はない。鏡花先生も「富士見台」とか「富士見町」とか言っていない。「富士見の台」と表現している。この辺りで寺と言えば興禅寺。南から裏手にかけて広い墓地がある。臨済宗であるから、卵塔場があっても不思議はない。
問題はお稲荷さんである。富士見と言えば、麻布区の富士見町を思い出す。この辺り富士が良く見え、白金御殿なるものもつくられた。綱吉の頃だ。富士見御殿とも麻布御殿とも言われた。今では広尾の稲荷神社に合祀されたようだが、確かに富士見稲荷はあった。けれどもどう見ても、聖心女学校の方ではない。古川を挟んで北の対岸である。果たして、興禅寺の辺りにお稲荷さんはあったのか。
と、吾輩うろうろするうちに、ふと顔を上げると、そこに神の恵みか仏の恵みか、お稲荷さん!興禅寺の裏手である。茶枳尼天は「仏教のお稲荷さん」と言われるくらいだから、お寺にあって当然。と言って、鳥居はどうした。そこで吾輩、鏡花先生の日和下駄を履いているから、ご近所の人に話しを聞くことくらいは朝飯前、いや飯を食わなきゃインタビューなどできん。とにかく、鳥居の柱の一部が見つかったことがあるとわかった。ついでにこの方、江戸時代の絵図も見せてくれたぞ。興禅寺は光禅寺と書いてあるが、その右横の方に「イナリ」とあり、雷神坂から入る参道もある。何やら雷神社の位置のようにも思われるが、同居でもしていたのか。白金氷川神社にも稲荷社があるくらいだから、稲荷と雷神社が同居していても不思議はない。雷神社は神応さん報恩寺が所轄しており、明治の廃仏毀釈でお寺から切り離され、戦後、白金氷川神社に移されている。その頃、お稲荷さんの祠も移動されたのかもしれん。面白そうだが、吾輩これ以上、突っ込むのはやめよう。後は地元の郷土史家にでも任せるのが勝手である。
さて、《お町は片手に、盆の上に白い切を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛で、その中から目の釣った、尖った真蒼な顔の見えるのは、青石の御前立、この狐が昼も凄い。見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜ると、一体、聖心女学校の生徒で、昼は袴を穿く深い裾も――風情は萩の花で、鳥居もとに彼方、此方、露ながら明く映って、友染を捌くのが、内端な中に媚かしい。狐の顔が明先にスッと来て近くと、その背後へ、真黒な格子が出て、下の石段に踞った法然あたまは与五郎である。》と、真っ暗い中、稲荷明神の社に老人を訪ねたお町さんは、聖心女学校の生徒か、はたまた狐の化身か。
《「またしてもお見舞……令嬢、早や、それでは痛入る。――老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば、――と貴女がお心付け下された。暗夜に燈火、大智識のお言葉じゃ。》と、老人一人でありがたがっているようだが、お町さんは老人の身を案じ、母も老人を案じていると言う。そして、吾輩、暗闇にじっと聞き耳を立てていると、《「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老が遊ばす、お狂言の罠にかかるために、私の身体を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」》と、何やらお町さんのすごい言葉。お町さんが豆腐なら、やはり絹豆腐であろう。油でいためれば油揚げが出来上がる。これならお稲荷さんは大好きそうだ。油揚げになっても良いというくらいなお町さんだから、お狐さまではなさそうだ。
などと思っていると、お町さんが泣いている。《「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半に莟む、この一輪の赤い花、露を傷んで萎れたのである。人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布にひしと寄添ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗いた……》。それにしても吾輩、ここまで老人に付き合おうとするお町さんの気持ちがよくわからない。前世に二人の間、何か因縁でもあったのか。そんなことより、吾輩、鏡花先生の家を飛び出して、お町さんに飼ってもらおうかし……。
と、そこに何か落ちた。折本らしい。老人が懐炉を取って頂く時、お町さんが襟を開くのに絡んで落ちたようだ。《……町は基督教の学校へ行くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同じに願掛をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」》
鏡花先生も耶蘇の学校に通って、ずいぶん世話にもなったから、基督教にはそれなりに親しみはある。同時に旅僧にも稲荷にも夜叉にも、さまざまな神や仏に親しみを感じている。白金にすっくと聳える緑青色の鳶が飾られた尖塔をもつ基督教の女学校、その西に禅寺、さらに稲荷明神の社。鏡花先生、何とかこの光景をものにしたいと感じとったのであろう。
《「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈に、空を飛んで、梢を伝う姿が消える、と谺か、非ずや、雷神坂の途半ばのあたりに、暗を裂く声、》《社の裏を連立って、眉目俊秀な青年二人、姿も対に、暗中から出たのであった。「では、やっぱりお狂言の?……」「いや、能楽の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」「老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。」と、斉しく深くした帽子を脱いで、お町に礼をして、見た顔の、蝋燭の灯に二人の瞼が露に濡れていた。》と、能楽師が現われての一発逆転である。能楽師は最後にこう言う。《――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」》
鏡花先生の母君の実家は能楽に関わる家である。先生の伯父は宝生流の能楽師である。因縁めいた話になるが、宝生の能に、バチカンでも上演された『復活のキリスト』というのがある。狂言にも『十字架』というのがある。緑青色の鳶を目印に数多集えば、ゆめゆめ戦など起こりますまい。

淫祠も寺も、樹木も路地も、坂も崖も、閑地も夕陽も、富士山さえも、合わせ技でやっつけて、白金後に、鏡花先生のお宅へ一飛び!

                     (鏡花編 完)

この後、秋聲編を連載予定。
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第10回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑩

まだ、しばし、老人うろうろして、やっとお目当ての家を探し出す。家主が老人と話していると、そこへ家主の娘お町さん。《「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍の老耄です。令嬢、お見忘れは道理じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます。この邸町、御宅の処で、迷いに迷いました、路を尋ねて、お優しく御懇に、貴女にお導きを頂いた老耄でござるわよ。」と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど莞爾々々する。「の、令嬢。」「ああ、存じております。」鶴は裾まで、素足の白さ、水のような青い端緒》。
この老人、その時の礼に来たでなく、お町に所作を学びたい、一週間でも二週間でもこの家に留まるという。《「本気か、これ、おい。」》と、家主は怒鳴る。いよいよ鏡花先生らしい展開になってきた。
何日かして。《三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団を干した薪屋の露地で、》と、路地が登場。田島町は麻布区ではあるが、古川の南岸沿いの町である。雷神山を下りれば二分程のところ。この辺り、荷風先生も歩いていたような。
魚勘の小僧赤八が道草ついでに、二三人共同栓に集ったおかみさん達に話しかける。「こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚れやあがってね。」「ああ、あの別嬪さんの。」「そうよ、でね、其奴が、よぼよぼの爺でね。」《「色情狂で、おまけに狐憑と来ていら。毎日のように、差配の家の前をうろついて附纏うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大な旦那が襟首を持って引摺出した。お嬢さんが縋りついて留めてたがね。》と、完全にストーカー状態。とうとう、《琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被らず、洋傘を支いて、据腰に与五郎老人、うかうかと通りかかる。「あれ!何をする。」と言う間も無かった。……おしめも褌も一所に掛けた、路地の物干棹を引ぱずすと、途端の与五郎の裾を狙って、青小僧、蹈出す足と支く足の真中へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりがえしを打った時、「や、」と倒れながら、》必死の抵抗をしたものの、ついに《駄菓子屋の小店の前なる、縁台に摚と落つ》。いかにも路地の風情も伝わるが、と、そこへ《鷺の森の稲荷の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞を乱して駆寄る》。それがお町さん。《「怪我は。」「吉祥院前の接骨医へ早く……」》。鷺の森の稲荷だ、吉祥院だと言われても訳がわからんが、そこは鏡花先生。地元のことはしっかり把握済。
白金氷川神社の西に隣接する専心寺の前、三光坂を下ると、左角に西光寺。そのまま真っ直ぐ古川に向かって進むと、突き当りに吉祥院。ここで道がわずかに鍵の手になり、さらに古川に向かって真っ直ぐ進むと、まもなく鷺の森稲荷がある。そのまま行くと、古川の四の橋のすぐ上流に出る。接骨医があったところには現在、耳鼻咽喉科の望月医院が建っている。同じように医療機関があるから、これも何かの因縁だろう。

 (つづく)
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第9回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑨

鏡花先生、閑地にはあまり興味がなかったようだ。関東大震災後の深川を歩いて、まだ閑地も残っていただろうに、素通りである。「坂」ならありそうである。何しろ、神楽坂に住んでいた。八田巡査の巡回地域も坂が多い。けれども、『神楽坂七不思議』にも『夜行巡査』にも、坂の描写らしきものは出てこない。
かくなる上は、吾輩、合わせ技でやっつけるしかない。と、我が意、手に取ったる『白金之絵図』。
《片側は空も曇って、今にも一村雨来そうに見える、日中も薄暗い森続きに、畝り畝り遥々と黒い柵を繞らした火薬庫の裏通、寂しい処をとぼとぼと一人通る》。この火薬庫は白金台町にある海軍火薬庫。現在では、東京都庭園美術館やら何やらになっておる。吾輩もちょっぴり西洋猫になった気分になれる、好きな所じゃ。とぼとぼ一人通るは67歳の老人、狂言師萩原与五郎。
《雲から投出したような遣放しの空地に、西へ廻った日の赤々と射す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視めて、》と、閑地と夕陽を一緒にやっつける。
《「いや、見失ってはならぬぞ、あの緑青色した鳶が目当じゃ。」で、白足袋に穿込んだ日和下駄、コトコトと歩行き出す。》などと、日和下駄まで飛び出す始末。《緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である》。白金台町の北に接して白金三光町がある。広い白金三光町の真中には聖心女子学院。1909年にこの地に建てられた。赤煉瓦三階建ての本館校舎の真中に高い塔が聳え、その先に緑青色した鳶を配した避雷針が伸びている。鏡花先生、基督教の女学校が好きだ。《ここに廻って来る途中、三光坂を上った処で、こう云って路を尋ねた……「卒爾ながら、ちとものを、ちとものを。」》と何人かに尋ねた後、《「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」「や、女子の学校?」「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心ですが。」「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや老人粗忽千万。」》と、老人すこぶる謙虚であるが、ちゃんと坂も出て来た。
《その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋でも振ら下げて売ったろう。葭簀張ながら二坪ばかり囲を取った茶店が一張。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。》と、またまた空地が出る、樹木も出る。太陽だって出ている。この辺り、関東ローム層だから、土だって赤い。道だって当然赤くなる。
この後、この辺りの森の様子が描かれる。やがて婆さんが、どこから来たかと尋ね、「下谷」と答える。《「いささかこの辺へ用事があっての。当年たった一度、極暑の砌参ったばかり、一向に覚束ない。その筋通りがかりに見ました、大きな学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。」》《「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸れの可恐い処でありましたよ。」「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれができませんので、これから、ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」》と、まあ、引き続き空地だ、坂だ、樹木だと、ごちゃまぜに出てくる。煉瓦塀も正門も、いまだに残っているから、検証するには便利だ。
婆さんとの会話は続き、やがて老人その場を離れたようにみえたが、《「これ、これ、いやさ、これ。」「はあ、お呼びなされたは私の事で。」と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻の老人。一方青煉瓦の、それは女学校。片側波を打った亜鉛塀に、ボヘミヤの数珠のごとく、烏瓜を引掛けた、件の繻子張を凭せながら、畳んで懐中に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。また妙な処で御装束。雷神山の急昇りな坂を上って、一畝り、町裏の路地の隅、およそ礫川の工廠ぐらいは空地を取って、周囲はまだも広かろう。》と、とうとう、坂や空地ばかりか路地まで出てくる。それにしても小石川の砲兵工廠並みの広さというから、聖心女子学院、すごいものである。雷神山は雷神社があったところで、北側からグンと上っており、今では石段を上って児童遊園になっている。
《町も世界も離れたような、一廓の蒼空に、老人がいわゆる緑青色の鳶の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓のその煉瓦と、角邸の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。さて、その青鳶も樹に留った体に、四階造の窓硝子の上から順々、日射に晃々と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。この突当りの片側が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑を抱く。この荒地の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ楽書したも同然な道である。》《この老人はうら枯を摘んだ籠をただ一人で手に提げつつ、曠野の路を辿るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘に搦めて支いて、青い鳶を目的に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった》。この爺さん、荷風先生ではないだろうかと、突っ込みの一つも入れたくなるが、それにしても鏡花先生の筆にかかると、東京市中の郊外も、まことに不思議、幽玄の世界に思えてくる。
と、見るや、《坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺が雲から覗く。眼界闊然として目黒に豁け、大崎に伸び、伊皿子かけて一渡り麻布を望む。烏は鷗が浮いたよう、遠近の森は晴れた島、目近き雷神の一本の大栂の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金の草は深けれども、君が住居と思えばよしや、玉の台は富士である。》と来る。起伏に富むこの辺り、聖心女学院は高台にあり、雷神社あたりからの眺望も良い。

     (つづく)
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第8回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑧

神楽坂の紅葉邸は路地の奥にある。鏡花先生が住んでいた神楽坂のお宅に通じる路地には「鏡花横丁」なる名前がついている。鏡花先生、路地が好きなようだが、好きと作品に描くとは別問題で、吾輩、悪戦苦闘。それでも、日本橋を歩いたおかげで、《日本橋のそれにや習える、源氏の著者にや擬えたる、近き頃音羽青柳の横町を、式部小路となむいえりける。》などという『式部小路』の序文を思い出した。やれやれ、音羽町というから、護国寺の前まで行かねばならぬ。
《ト向うが勲三等ぐらいな立派な冠木門。左がその黒塀で、右がその生垣。ずっと続いて護国寺の通りへ、折廻した大構の地続で。こっち側は、その生垣と向い合った、しもた家で、その隣がまたしもたや、中に池の坊活花の教授、とある看板のかかった内が、五六段石段を上って高い。そこの竹垣を隔てて、角家がト〇の中に(の)を大く(あり)と細筆で書いたのを通へ向けて、掛けてある荒物店。斜かけに、湯屋の白木の格子戸が見える。椿、柳、梅、桜、花の師匠が背戸と、冠木門の庭とは、草も樹も、花ものを、枝も茎にたわわに咲かせて、これを派手に、わざと低い生垣にし、――まばらな竹垣にしたほどあって、春夏秋の眺めが深く、落葉も、笹の葉の乱れもない、綺麗に掃いたような小路である。》云々と、この式部小路の路地の描写にうっとりしておると、《喧嘩だ。喧嘩だ!》
《赤大名のずたずた袷が、廂合を先へ出ると、あとから前のめりに泳ぎ出した、白の仕事着の胸倉を掴んだまま、小路の中で、「ええ、」と小突いて、入交って、向の生垣に押つけたが、蒼ざめた奴の顔が、赫と燃えて見えたのは、咽喉を絞められたものである。女房はハッと思った。「蚯蚓野郎、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。」「う、」と唸って、足をばたばたと埩く状を、苦笑いで、睨めつけながら、手繰って手元へドン、と引くと、凧かと見えて面くらう、自分よりは上背も幅もあるのを、糸目を取って絞った形。今度は更に小路の中途に突立たせた。》と、喧嘩の場面はまだまだ続き、《車夫の姿が真直に横手に立った。母衣がはらりとうしろへ畳まる。一目見ると、無法ものの手はぐッたりと下に垂れて、忘れたように、掴んだ奴の咽喉を離した。身を翻すと矢を射るよう、白い姿が、車の横を突切って、一呼吸に飛んで逃げた。》《刻苦精励、およそ数千言を費して、愛吉を女房の前に描き出した奴は、ここに現実した火の玉小僧の姿を立たせて、ただひめのりの看板に、あッけなく消えてしまったのである。女房は三たびハッと思った。》《はらりとひらめく、八ツ口、裳、こぼれず、落ちず、香を留めて、小路を衝と駆け寄る姿。かくてこそ音羽なる青柳町のこの枝道を、式部小路とは名づけたれ。冠木門の内にも、生垣の内にも、師匠が背戸にも、春は紫の簾をかけて、由縁の色は濃かながら、近きあたりの藤坂に対して、これを藤横町ともいわなかったに。「愛吉、」と垣の際。上の椿を濡れて出て、雨の晴間を柳に鳴く、鶯のような声をかけると、いきなり背後から飛びついて、両手を肩へ》。
喧嘩が始まった時にゃ、吾輩もどうしようかと思ったが、何とか収まったようで、鏡花先生お得意の展開に。日本橋から京橋にかけて、東海道筋に並行して続いていた式部小路は、明治にはすでになくなっていた。鏡花先生、それをひょんな所に復活させてしまった。
音羽も青柳も桜木も、皆、大奥老女の名前である。すべて老女たちの拝領地。鏡花先生、すべて心得て、描いているようである。
音羽から江戸川へ出て、川沿いにとんぼりとんぼり行くと、やがて飯田橋。そのまま外濠を渡れば、そこは飯田町。鏡花先生、いや早瀬主税、ここにお蔦さんを囲っていたはずだが。前、登場した本郷の薬師の縁日で、大恩ある酒井先生に行き合った主税。ついて来いと言われ、向かったのが何と飯田町の我が家。お蔦のいることを知られてはまずいと、やきもきする主税。家に着いて、お蔦が《いざ、露れた場合には…と主税は冷汗になって、胸が躍る。生憎例のやうに話しもしないで、づかづか酒井が歩行いたので、兎角う云ふ間もなかった、早や我家の路地が》。あんまりびっくりしたので、路地の記述はない。
主税は訳の分からん言い訳をして、酒井先生、嘘とわかりつつ、主税の家に行くことをやめ、電車で柳橋。《やがて、貸切と書いた紙の白い、其の門の柱の暗い、敷石の發と明い、静粛としながら幽なやうに、三味線の音が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎へられつつ、地の濡れた、軒に艶ある、其横町の中程へ行くと、一條朧な露路がある。藝妓家二軒の廂合で、透かすと、奥に薄墨で描いたやうな、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳むと、向ひ合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜へた態で、すらすらと靡いて居る。》と、鏡花先生、やはり花街の路地は扱い慣れている。

     (つづく)
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第7回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑦

荷風先生、「水」の「第四」に「本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草など、繁華な町に通ずる純然たる運河」と書いている。確かに深川は運河が多く、地図を見れば、まるでベネチアの趣である。
そう言えば『深川淺景』でこんな場面があった。現在、大島川西支川と名付けられた水路の永代通りから首都高九号線の間、西に深川小松町と深川松賀町、東に深川松村町があった。《松村に小松を圍つて、松賀町で淨瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、》と、鏡花先生、すべて「松」がつく面白さに、地名で言葉遊びしている頃、この辺りの様子が変わったと連れが言うと、鏡花先生も変わったと応じながら、「この道は行留りぢやあないのかね」と言うと、冗談言うなと連れ。「洲崎に土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな抜け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや」と来たから、これには鏡花先生も思わず「えらいよ!」と感嘆。確かに、運河を通れば洲崎から東京湾に出て、全国各地、いや世界各地へ続いているから、行き止まりどころではない。まさに発想の転換。荷風先生だって、漱石先生だって、そこまで気がつくまい。

深川のつぎは日本橋。日本橋界隈にも花街がある。鏡花先生描く『日本橋』には日本橋川が登場する。
《近間に大な建築の並んだ道は、崖の下行く山道である。峰を仰ぐものは多いけれど、谷を覗くものは沢山ない。夜はことさら往来が少い》と、鏡花先生が描けば、大都会のど真ん中にある日本橋川も、『高野聖』か『夜叉が池』の風情である。主人公の葛木晋三が覗く日本橋川。《その夜は、ちょうど植木店の執持薬師様と袖を連ねた、ここの縁結びの地蔵様、実は延命地蔵尊の縁日で、西河岸で見初て植木店で出来る、と云って、宵は花簪、蝶々髷、やがて、島田、銀杏返し、怪しからぬ円髷まじり、次第に髱の出た、襟脚の可いのが揃つて、派手に美しく賑うのである。それも日本橋寄から仲通りへ掛けた殷賑で、西河岸橋を境にしてこなたの川筋は、同じ広重の名所でも、朝晴の富士と宵の雨ほど彩色が変って寂しい》。一石橋の下流、次の西河岸橋から日本橋にかけては賑わっているが、一石橋辺りは静かで、カラーとモノクロの違い。《夜は、間遠いので評判な、外濠電車のキリキリ軋んで通るのさえ、池の水に映って消える長廊下の雪洞の行方に擬う》と、一石橋を渡る外濠線の電車。
葛木は一石橋からお雛様に供えた栄螺と蛤を日本橋川へ流す。それを巡査に怪しまれ、日本橋芸者のお孝に救われる。外濠は飯田橋付近で神田川と一体化するが、小石川で神田川と分れ、日本橋川と同一になる。一ツ橋、常盤橋など多くの橋をくぐって、分岐して日本橋川に入ったところに一石橋が架かっている。下流に西河岸橋、日本橋と続く。外濠には呉服橋、鍜治橋、数寄屋橋と架かっていく。《ああ、七年の昔を今に、君が口紅流れしあたり。風も、貝寄せに、おくれ毛をはらはらと水が戦ぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍜治橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す。橋の名所の橋の上。九百九十九の電燈の、大路小路に残ったのが、星を散らして玉を飾って、その横笛を鏤むる。清葉は欄干に上々しい》。一石橋からは、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・日本橋・江戸橋・銭瓶橋・道三橋が見え、一石橋を加え「八つ見橋」と呼ばれてきた。鏡花先生、それを念頭にこの文を書いたのであるが、鏡花先生の手にかかると艶やかになる。
     (つづく)
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第6回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑥

《「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋はもう越した、不動様の前あたりだよ、直に八幡様だ」》と客のひとりが言い、《昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい》。
鏡花先生、「第二:隅田川・中川・六郷川など天然の河流」と「第四:本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草など、繁華な町に通ずる純然たる運河」の二つを、いっぺんにやっつけてしまった。さすがである。
洲崎遊郭へむかう客は、日本橋川・神田川辺りで船に乗り、隅田川、いわゆる大川を越えてやって来たと思われる。そして、深川に入って、この川は何という名前かとたずねる客に、「名はねえよ」と船頭は答える。名がないのは吾輩と同じだが、この運河、現在はで「大横川」という名前がついているから、癪に障るじゃないか。
癪に障るが、日和下駄を履いている我が身。気づかれぬように船に忍び込んで、洲崎まで付き合わなければならん。
そうこうしているうちに、鏡花先生が石見橋と間違えた石島橋。《砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く》。この辺り、石島橋と蓬莱橋の間、門前河岸とよばれる。まさに不動様や八幡様の門前である。蓬莱橋の《橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸に溢れるよう。左手は洲の岬の蘆原まで一望渺たる広場、船大工の小屋が飛々、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる》。
やがて汐見橋が左手に見えてきて、船は弓なりに曲がる。《寝息も聞えぬ小家あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯と靡き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い》。
この石碑が「波除碑」、つまりは「津波警告の碑」である。「津波」とは言っても、実際は高潮である。江戸時代の1791年9月3日から4日にかけて来襲した台風の影響で、4日午前10時頃、おりから満潮を迎えていた洲崎・木場一帯に高潮が押し寄せ、多くの住民が犠牲になった。
そこで幕府は洲崎弁天社から西の一帯、東西約500メートル、南北約54メートルを買い上げて「空地」とし、ここから海側に居住することを禁止。1794年、東北地点の洲崎弁天社と西北地点の平久橋付近に「波除碑」を建立した。鏡花先生はたいしたもんだ。この「波除碑」全文を書き写した。
――此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はこりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。――
こんな「閑地」は荷風先生も漱石先生も描かなかった。後々、「閑地」になった時、深川の奥まで来るのも大儀な故、吾輩、ここにおいて一応触れさせてもらった。したがって、「閑地」に入っても、触れんつもりでいるが、それはわからん。忘れてしまって、のこのこやって来るやもしれん。
大横川、と言っても、実際は純然たる運河である。ここで北から流れて来る平久川と合流して、鍵の手に曲がって、再び東へ。《「や!」響くは凄じい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり》。神川橋は平久川にかかる平久橋あたり。この辺りが江戸時代の海岸線で、この先、海にむかって明治期に埋め立てられたが、鏡花先生が『葛飾砂子』を描いた頃は、まだ入江のように海が入り込み、潮の干満を調節する水門が設けられていた。満潮後の引き潮で、海にむかって水の流れが速くなっていたのではないだろうか。
船は《やがて平野橋、一本二本蘆の中に交ったのが次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についているのは川蒸汽で縦に七艘ばかり。》《程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳へ乗りかえ、棹を引いて横づけにする、水は船底を嘗めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり》。弁天橋は大横川から南へ分れる川に架かる橋で、東北地点の「波除碑」がある洲崎弁天社に近いところから名付けられた。ここで大横川は北へ直角に曲がって、木場の中へ入って行く。現在、弁天橋のすぐ南に水門が設けられている。
弁天橋で船を降り、北側の洲崎川に沿って200メートルほど歩き、洲崎橋を渡ると洲崎遊郭。三方を川、南を海と、水で囲まれた四角形の埋め立て地に、1888年、根津遊郭を移転するかたちでつくられたもので、洲崎橋を渡ると仲の町通り(大門通り)と呼ばれる中央の広い道路。区画の形状は吉原を模している。さて、吾輩も船を降りた一行に付いて遊郭の中へ入って行きたい。吾輩も蒲団の中に潜り込むのはいたって好きである。好きではあるが、ここではどうも、吾輩が潜り込めそうな蒲団など、なさそうだ。それに、帰りにとぼとぼ歩くことを考えれば、船にそのまま残って引き返すが勝手である。

ところが、帰りにとんでもないことが起きた。《蓬莱橋は早や見える》辺りで、吾輩がひそかに乗っている船の船頭七兵衛が若い女の水死体を引き上げた。『夜行巡査』じゃ、半蔵濠に二人の水死体が出来上がってしまったが、今度は若い女の水死体。どうも鏡花先生、水と言えば水死体をつくらなければ収まらないようだ。七兵衛は蓬莱橋辺りの岸の松の木に船をつないで、近くの佃町にあるわが家へ水死体を担ぎ込む。一人暮らしである。吾輩も気になったので付いて行って、物陰で一夜を明かした。
つぎの日、若い女の水死体が《「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く》。化けて出たのではない。生き返ったのである。七兵衛は《ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ》、と答えているのが吾輩にも聞こえて来る。佃町は、大横川に架かる蓬莱橋を渡って100メートル、牡丹二丁目交差点までの両側50メートルくらいという小さな町。広場と言うのは住吉神社。もともと、深川佃町は佃島の漁師が網を干した場所で、住吉神社は佃島の住吉神社の分社。富岡八幡の「八幡さま」と「住吉さま」は対面する形になっている。そして、この佃町には江戸時代、岡場所があった。「淫祠あるところ岡場所あり」である。吾輩には「佃煮」があれば十分だ。
まあ、若い女も生き返ったようだし、吾輩、七兵衛の家の勝手の戸辺りから《ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄み切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と》、「第一:品川の海湾」と同列の描写に見送られ、永代橋をめざす!
ところが、後で分ったことだが、あの時、生き返った若い女の水死体が、吾輩を「不細工な猫」と呼んだ、待乳屋のお菊ちゃんだったって言うから驚くじゃないか。何でも贔屓にしていた歌舞伎役者の尾上橘之助が亡くなって、その後を追って蓬莱橋から身を投げたとか。まあ、吾輩、前、述べたように、ふとしたことから、待乳屋へ迷い込んで、危うく皮を剝がれそうになった時、助けてくれたのがお菊ちゃん。最初はわからなかったが、小僧さんがいろいろ話していることを聞いているうちに、何やらだんだんに結びついて来て、「八幡様」だか「住吉様」だか、「お不動様」だか分からないが、これも何かのお引き合わせと、鏡花先生とお付き合いしていると、こんなことになって、何の不思議も感じなくなってしまうから、猫というものは不思議なものである。

     (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第5回 日和下駄を履いた猫――鏡花編⑤

前、申したように、吾輩、甕の中の水に落ちたことがあるから、ちと水は怖い。怖いが、そこから逃げたら吾輩のメンツが立たん。
荷風先生は「東京の水」を論ずるにあたって、これを七つに類型化している。
第一:品川の海湾
第二:隅田川・中川・六郷川など天然の河流。
第三:小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川など細流。
第四:本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草など、繁華な町に通ずる純然たる運河。
第五:芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川など、名前だけ美しい溝渠。
第六:江戸城を取巻く、幾重にもなった濠。
第七:不忍池、角筈十二社の如き池。付け加えて井戸。
この一つひとつに鏡花先生の作品を探し求めていくことは、どうもムリそうである。怖いことから逃げたら吾輩のメンツは立たんが、ムリなことはやらん方が良い。十把一絡げでやるのが無難であると、吾輩心得る。

吾輩はただぶらぶらと歩く、というより、うろつくのが趣味に合っているが、文豪ともなると、ただ歩くだけではない。若き日の鏡花先生も、『夜行巡査』を書くにあたって、取材に出かけた。もちろん、大恩ある紅葉先生に暇をもらってである。その時、鏡花先生、作品の舞台を牛が淵にとろうと思っていた。牛が淵は皇居北の丸公園の東側の堀。銭を積んだ牛車が九段坂から堀に落ちて牛が死んだことから、名づけられたという。葛飾北斎描く「くだんうしがふち」を見ると、かなり恐ろし気である。淵というのは、河川を堰き止めてつくられた溜池で、飲料水確保が目的であった。九段坂を上ると、堰の上面になり、上流部が千鳥ヶ淵。堰を通って田安門を過ぎれば日本武道館がある。荷風先生の分類から言えば、「第六:江戸城を取巻く、幾重にもなった濠」の一部である。
ところが鏡花先生。作品に登場させたのは、内堀の中でも最も高いところにある半蔵濠。すぐそばに英国公使館がある。古風なように見えても、英語の得意な鏡花先生だから、何かそっちの方に魅力を感じたのだろう。
英国公使館の周囲を巡回する八田巡査。半蔵門近くの堀端まで来た時、婚礼帰りの老人と姪のお香が登場する。老人は姪のお香を酔っぱらって足元がふらつく伯父に、お香が《「伯父さんおあぶのうございますよ」》と注意をする。これは何やらイヤな展開である。そもそも吾輩が甕の中に落っこちたのも、元はと言えば、吾輩、酔っぱらったからである。
ところがどうも、展開は単純に酔っぱらって濠に落ちる話しではなさそうだ。《「おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」恐ろしき声をもて老人が語れるその最後の言を聞くと斉しく、お香はもはや忍びかねけん。力を極めて老人が押さえたる肩を振り放し、ばたばたと駆けだして、あわやと見る間に堀端の土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる!と老人は狼狽えて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜を辷りて、水にざんぶと落ち込みたり》。
お香と八田巡査は恋仲である。恋仲ではあるが、老人は好きで添うことができなかったお香の母親に生き写しのお香を、自分のものにしておきたい。たとえ、八田が好青年であろうと、結婚させる訳にはいかん。世をはかなんだお香は、半蔵濠に身を投げようとするが、止めようとした老人が、酔っぱらった勢いで、お濠へざぶん。荷風先生も漱石先生も、こんな水の描き方はなかったぞ。
話しはこれで終わらない。二人の恋仲を裂こうとする老人が濠に落ちて、邪魔者が消えたはず、なのに、八田巡査はお香の伯父を助けるため、お香が《「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」》と止めるのもきかず、半蔵濠へどぶん。八田巡査は泳げない。老人は死んだが、恋人も死んだ。まあ、吾輩、人間の気持ちというか、鏡花先生の気持ちはよくわからないところがあるが、このどんでん返しと、「身代わり」が、後の鏡花先生の一つの路線になる。
まあ、吾輩も堀端を通る時には、用心じゃ、用心じゃ。

     (つづく)
【館長の部屋】 軍都金沢と鏡花

今から150年前、金沢に鏡花が生まれた1873年。徴兵令が施行されたその年、金沢に歩兵第七聯隊が設けられた。大政奉還によって幕藩体制が崩壊して、わずか6年しか経っていなかった。加賀藩主の居城金沢城は、国民皆兵の制によって維持される日本軍の一拠点に生まれ変わった。鏡花は『豫備兵』で、《金沢の兵営は旧藩主前田侯の居城》と書いている。
1888年、鎮台が廃止さて師団編成になり、名古屋にできた第三師団のもと、金沢には歩兵第六旅団と歩兵第七聯隊の本部が置かれた(第六旅団は名古屋にある歩兵第十九聯隊も指揮下に置いていた)。
『豫備兵』が発表されたのは、1894年10月であるが、舞台は7月から8月末である。7月25日、日清戦争が勃発し、8月4日、第七聯隊に動員命令が下されていた。鏡花はこの年1月に父が亡くなって金沢へ戻り、前途を悲観する中、紅葉や祖母に励まされ、『豫備兵』や『義血侠血』など作品を書き、9月に上京した。1894年と言えば、第四高等学校が正式に発足した年でもある(第四高等中学校としては1887年に発足)。
『豫備兵』で鏡花は、《近い所が、此旅団の兵士さんだ、御覧なさい、此まあ恐ろしい土用の炎熱に、四五貫もあらうといふ背嚢を担いで、鉄砲を持つてさ、おまけに戎装が冬服だ、聞いてさへ酷からうぢやないか。》《日がな一日演習だ、行軍だと立働て、夜も綽々寝られるぢやないとさ。真箇その苦労といふものは、尋常大抵の事ぢやありやしないよ。》と書いている。身近に見た兵隊さんに対する素朴な感情を表したと言えばそれまでだが、「厭戦気分を煽るもの」と捉えられる恐れがある。しかも書いたのは「徴兵適齢期」の21歳の若者である。「なにがし」の署名ではあるものの、文壇に地位などまったく確立していない、と言うより、まったく居場所すらない若者の作品を、紅葉はよくも読売新聞に載せさせたものである。
日清戦争当時、金沢にはまだ鉄道が敷かれておらず、敦賀や直江津まで行かなければ、鉄道を利用することができなかった。そのような状況の中で、日本は清を相手に戦っていたのである。
8月4日、第三師団長桂太郎から打電あり、第七聯隊は直ちに出兵準備。《金沢の市街は此日午後より暴に騒然として不穏の色を表》し、《其夜十時を過ぐるまで金沢市中は実に活修羅の巷なりき。人々安き心も無く、今にも敵や襲ふかと、壮者は狂し、婦女は戦き、父老は危み且憂ひぬ。》という状況に陥った。
8月29日、午前6時30分、金沢城南門を出発した軍隊は、炎天下、「半冬半夏の服装」で「背嚢」を負い、小銃を肩に、外套を担い、銃剣を帯び、弾薬を携えて行軍した。初日は小松までであるが、この日一日で三人が日射病で亡くなった。今流の言い方からすれば、「熱中症」で亡くなったと言った方が良いのだろう。『豫備兵』では、主人公の野川清澄少尉が手取川に着いた時、《朽木の如く横様に卒倒》し、《「之を棄てて戦闘力を失ふことは、軍人たるものの義務が容さぬ。此の儘死なして下さい。本望だ!」》と、手当を断り死んでいく。敦賀まで160キロの行軍。9月1日に敦賀に到着したが、日射病で1259人が倒れ、少なくとも五人が亡くなった。残暑の中、毎日平均40キロ歩いたことになる。
鏡花は『夜行巡査』でも、職務に忠実な巡査を描いている。『豫備兵』の主人公も軍人としての職務、意地を貫こうとしている。このような視点と、「厭戦気分を煽る」ような描写が共存しているところに、鏡花の特徴があると言えるかもしれない。
1898年、さらに軍編成の改変がおこなわれ、金沢には第九師団が置かれることになった。そしてこの年、金沢まで鉄道が開通した。師団が置かれる金沢には、どうしても鉄道が開通していなければならなかった。
軍都として、また第四高等学校のある街として、金沢は加賀百万石の城下町の勢いを取り戻し、中核的な役割を担う都市として発展した。城下町金沢は城の周りに町屋が発達している。金沢城址に本拠をもつ師団は、金沢の街の人びとにとって、「学生さん」と共に身近な存在であった。後日、【金沢ブログ】に連載される「『盆栽の松』に描かれた金沢」にも、そのような金沢の姿が登場する。
第二次世界大戦が終わり、日本は軍隊をもたない国になった。金沢城址は金沢大学のキャンパスになり(現在は金沢城公園)、第九師団兵器倉庫は幾多の変遷を経て、石川県立歴史博物館の建物として活用され、第九師団司令部庁舎は国立工芸館の建物として活用され、ともに「観光都市金沢」を構成する重要な役割を果たしている。
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第4回 日和下駄を履いた猫――鏡花編④

鏡花先生も「寺」が好きそうだ。好きそうだが、吾輩が日和下駄を履いて歩き廻るのは東京市中だけである。漱石先生は東京を舞台にたくさんの作品を書いているが、鏡花先生は東京を舞台に書いた作品が多いとは言えない。中には、どこが舞台だかよくわからん作品もある。
鏡花先生は紅葉先生に認められて玄関番になった。紅葉先生は神楽坂の横寺町に住んでいたから、鏡花先生もこの横寺町で文豪への第一歩を踏み出したことになる。すぐ隣りに大信寺というお寺がある。とにかく神楽坂は神社も多いが、お寺も多い。これだけお寺に囲まれたら、ちっとは「寺」でも描いたら良いに、『神楽坂七不思議』で第一に、「しゝ寺のもゝんぢい」を書いたものの、獅子寺こと保善寺にある大弓場の管理をしている「もゝんぢい」が主役で、寺のことは何も書いてない。出だしからこんな調子じゃ、実に心もとない。
『夜行巡査』、『婦系図』、『葛飾砂子』よ、さようなら。やって来ました『日本橋』、あら、よいよい♪なんてやっている場合じゃない。『日本橋』では主人公の葛木晋三が失踪した姉を探しに僧形となって旅に出るが、正式の僧でもなく、寺もない。『深川淺景』に寺は出てくるが、すでに「淫祠」の時に訪れているので、あえて、再び訪れることもなかろう。
荷風先生も、漱石先生も、東京の寺はけっこう描いていた。鏡花先生に関しては、浅学の吾輩、この程度しか書けん。書けんでよろしい。これが「比較文学」だ。文学者が見向きもしないところにこだわりを持ってみると、何かまた面白いものが見えて来るではないか。などと、屁理屈をこねて、さっさと「寺」から退散だ。
     (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第3回 日和下駄を履いた猫――鏡花編③

《いまは東に岩崎公園の森のほかに、樹の影もないが、西は兩寺の下寺つゞきに、凡そ墓ばかりの野である。》と、鏡花先生、霊巌寺近くにある岩崎公園の樹木を取り上げている。吾輩も何とかつぎのテーマへ結びつけようと必死である。荷風先生は、自分の気の向くままテーマを決めて歩いているかもしれないが、吾輩としてはいささか困る。とは言っても、荷風先生の日和下駄も借りて歩いているのであるから、文句も言えん。
前、漱石先生のところでも述べたが、鏡花先生だって「淫祠だ」「樹木だ」とテーマを決めて小説を書いているわけではないから、見つからんこともある。見つかっても極々わずかなこともある。吾輩の浅学によって見逃すこともある。ご容赦願いたい。
「樹木」と言うのは植物だ。植物と言えば植物園だ。東京で植物園と言えば小石川植物園だ。鏡花先生と小石川植物園と言えば『外科室』だ。『外科室』と言えば、麻酔も使わず手術をするという、猫でも鳥肌が立つような小説だ。さすが猫の皮だって生きたまま剥ぐことはしない。
九年前、医学生の高峰が、小石川植物園を散策す。《五月五日躑躅の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞りて、咲き揃いたる藤を見つ。》と、高峰は一人の婦人を認める。《予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭に、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらと見たる。》
やっとのことで植物園までたどり着いたものの、鏡花先生の樹木描写はこれだけだ。

お濠端の土手に生えている樹木は荷風先生も漱石先生も描いている。鏡花先生だって、土手三番町に住んでいたことがあるから、きっと描いているだろう。土手三番町は現在五番町である。と、やって来ました五番町。と思ったら、そこにあるのは英国公使館。どうやらここは昔の五番町のようだが、鏡花先生、『夜行巡査』で一番町と書いている。現在、英国大使館は確かに一番町にある。ああ、ややこしい。
ややこしい話しをしながらも、『夜行巡査』に話しを持ってくる吾輩もずいぶん苦労である。八田巡査は最初に、破れた股引きをはいた車夫をとがめてから、《麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く》と、南へむかっている。《たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、(略)路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等》と、まことに鏡花先生らしい筆の運びである。
半蔵門から三宅坂の方を見やれば、《見渡すお堀端の往来は、三宅坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立ちと相連なる煉瓦屋にて東京のその局部を限れる》と、表現されている。真夜中にそんな景色が見えるものかと思うが、その辺は鏡花先生の作品、驚くことはない。三宅坂を下り、桜田濠がカギの手に曲がる辺り一帯が霞が関で、明治政府はここに中央官庁を集中させる計画を立て、建設を進めていた。大審院と司法省、二つの建物が完成したのは1895年。鏡花先生が半蔵門辺りから眺めたのはその前年で、ほぼ完成した司法省の煉瓦屋を見て、日本の首都東京の光景を刻み込み、作品の中に取り入れていったのではないだろうか。しかしながら、一大煉瓦建築群が出現するはずだったこの計画も、紆余曲折を経て、完成したのは二つの建物だけだった。
まあ、未完成のふりをして、吾輩、「樹木」からさっさと退散することとしよう。

     (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第2回 日和下駄を履いた猫――鏡花編②

八丁堀で腹ごしらえして、食後の運動を兼ねてぶらぶら歩いているうちに、吾輩、いつしか日本橋に来ていた。「ここまで来たら、素通りするわけにもいくまい」と、日本橋川に沿って、一石橋を目指して進むと、西河岸橋を過ぎて間もなく左側に地蔵寺が見えてくる。ここには延命地蔵様がお祀りされており、縁日も有名で、れっきとした淫祠である。
鏡花先生、『日本橋』で、《その夜は、ちょうど植木店の執持薬師様と袖を連ねた、ここの縁結びの地蔵様、実は延命地蔵尊の縁日で、西河岸で見初て植木店で出来る、と云って、宵は花簪、蝶々髷、やがて、島田、銀杏返し、怪しからぬ円髷まじり、次第に髱の出た、襟脚の可いのが揃つて、派手に美しく賑うのである。それも日本橋寄から仲通りへ掛けた殷賑で、西河岸橋を境にしてこなたの川筋は、同じ広重の名所でも、朝晴の富士と宵の雨ほど彩色が変って寂しい。》と、描いている。日本橋花街も近いから、鏡花先生の筆も進もうというもの。こうなりゃ、路地を抜ければすぐ永代通り。このまま、隅田川を越えて、深川まで足を伸ばそうか。吾輩の日和下駄。すこぶる快適なるぞ。

永代橋を渡りゃ、深川だ。
「お菊ちゃん、いるかい?」
「ああ、お不動さんの縁日に出かけて、あいにく留守だよ。あの娘も縁日が好きでね。何、お前、名前は何て言ったかな。ずいぶん、久しぶりだな。まあ、相も変わらず不細工で、何よりだ。」
不細工とは一言も二言も余分だ。吾輩の顔のことは、どうにもならん。すべて、漱石先生の責任だ。責任だが、それが幸いすることもある。顛末はこうだ!待乳屋は三味線屋である。なぜ、そんなところと吾輩が顔なじみかって?本来、三味線屋なんぞ、怖くって猫族は敬遠する。ところが吾輩、ふとしたことから、待乳屋へ迷い込んでしまって、危うく皮を剝がれそうになった時、ここの菊枝お嬢さんが、「こんな不細工な猫の皮なんか使ったら、どんな腕の良い職人が造ったって、いい音の出る三味線なんかつくれない」と言って、みんなも「そりゃ、そうだ」となって、無事、釈放。菊枝お嬢さんがいなけりゃ、今頃、化けの皮になっていたところ。まあ、お嬢さんも十六の歳に船頭に助けられて、生命の大切さはひしひしと感じたことだろうよ。とにもかくにも、久しぶりの待乳屋のご主人も元気なようで何よりだ。娘のお菊さんが行方不明になった時にゃ、そりゃあ心配したこったろうよ。
待乳屋は富岡八幡宮の門前にある。その境内をかすって、ちょっと行けば成田山深川不動尊。ここの縁日は、1日、15日、28日。露店も出て賑やかだ。「人情深川ご利益通り」などと命名されているくらいだから、バリバリの淫祠である。この人込みじゃ、お嬢さんを見つけることは難しそうだ。
そう言えば、鏡花先生、『深川淺景』に、《電車通りへ突つ立つて、こんなお話しをしたんぢあ、あはれも、不氣味も通り越して、お不動樣の縁日にカンカンカンカンカン――と小屋掛で鉦をたゝくのも同然ですがね。》という文章を書いていた。ここは心行寺というお寺で、お不動さんからも近い。ちょっと立ち寄るついでに、閻魔堂でも寄ってみるか。
鏡花先生は《黒龜橋。――こゝは阪地で自慢する(……四ツ橋を四つわたりけり)の趣があるのであるが、講釋と芝居で、いづれも御存じの閻魔堂橋から、娑婆へ引返すのが三途に迷つた事になつて――面白い……いや、面白くない。が、無事であつた。》と書いて、《常光院の閻王は、震災後、本山長谷寺からの入座だと承はつた》と、常光院の閻魔堂に話しを移していく。常光院とは法乗院のことで、心行寺の隣りにある。現在の閻魔大王像は1989年に完成したコンピュータ制御。賽銭入れは19の願いに分かれており、ひとつの願いに100円のお賽銭を上げたとして、欲を出して全部の願い事を頼むとすれば、1900円必要になる。考えたものである。とは言っても、閻魔様もそれぞれに応じて説法してくれる。ただカネを取るだけではない。全部入れると、19回、説法を聴くことができる。淫祠にもコンピュータ化の波は押し寄せている。

吾輩、とぼとぼと仙台堀を越えて霊巌寺へ。ここには白河藩主で老中として活躍した松平定信の墓があり、この地が「白河」と呼ばれる由来になった。境内の南東一角は深川区役所があって、現在、深川江戸資料館になっている。
この霊巌寺にも地蔵菩薩坐像がある。漱石先生も登った大宗寺の地蔵と同様に「江戸六地蔵」の一つに数えられている。鏡花先生、『深川淺景』で、《その夥多しい石塔を、》から《また趺坐なされた。》まで、かなり詳しく記している。そして、鏡花先生さらに続けて、《その尾花、嫁菜、水引草、雁來紅をそのまゝ、一結びして、處々にその木の葉を屋根に葺いた店小屋に、翁も、媼も、ふと見れば若い娘も、あちこちに線香を賣つてゐた。狐の豆府屋、狸の酒屋、獺の鰯賣も、薄日にその中を通つたのである。……思へばそれも可懷しい……》と締めくくるが、やはり何となく淫祠の雰囲気が……。

                        (つづく)
【文豪の東京――鏡花・秋聲・犀星】

第1回 日和下駄を履いた猫――鏡花編①

錬兵場で夕陽に焼き尽くされたように気が遠くなって、気がつけば吾輩何やら見覚えのないところにいる。のそのそと歩き廻っていると、あっちにもこっちにもウサギがいる。よく見るとホンモノではない。そこは文豪猫の吾輩、とっさに察しがついた。ここは鏡花先生の家ではないか。鏡花先生のウサギ好きは有名だが、猫好きかどうかわからない。だいたいが、干支に猫のないのが悪い。トリ年の代りに猫年があれば、鏡花先生だって、猫好きになっただろうに。そんなこんなではあるものの、吾輩、とにかくおすずさんから食べ物など頂いて、鏡花先生の家猫として、生息しているようである。
とは言っても、吾輩は猫である。あちらこちら歩き廻る。一応、話の流れから言って、日和下駄を履かねばならぬ。吾輩が日和下駄を履くとなれば、二足必要だ。な~に、気にすることはない。荷風先生と吾輩の飼い主である鏡花先生から一足ずつ借りれば良い。「何?おまえはどうやって鏡花先生の家にやって来たって……」。そんなこと気にしていたら、鏡花先生の小説など読めん。このことは漱石先生だって認めていること。そもそも変幻自在な鏡花先生の小説が、100年以上まかり通っているじゃないか。今年は、鏡花先生がめでたく150歳を迎えられた記念すべき年。さあ、読者諸君!吾輩と一緒に日和下駄を履いて、東京市中、歩き廻ろうではないか。
荷風先生の『日和下駄』に従えば、最初は「淫祠」である。何やら期待がもてそうであるが……。

鏡花先生の代表作の一つ『婦系図』。冒頭、早瀬主税の女房お蔦が神楽坂の縁日へ行って、桜草を買ったついでに酸漿(ほうずき)を買ってきた話が出てくる。これは神楽坂にある善国寺の縁日だ。鏡花先生もよく出かけ、漱石先生の坊っちゃんだって出かけている。お寺と言っても縁日で賑わうのは毘沙門さまであるから、りっぱな「淫祠」だ。ただ惜しいことに鏡花先生、毘沙門さんの縁日の様子を描いておらん。これじゃ話しにならんので、神楽坂を下りて、外濠に沿ってとぼとぼと、いつしか水道橋からムニャムニャと本郷台に上って、本郷三丁目の交差点までやって来た。
この交差点角から、ちょこっと入ったところに建っているのが本郷薬師堂。『婦系図』には、こうある。《月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るやうに成つても相かはらず賑かな。書肆文求堂を最う些と富坂寄の大道へ出した露店の、如何はしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の除れた、けばの立った、端摺の甚い、三世相を開けて、燻ぼつたカンテラの燈で見て居る男は、是は、早瀬主税である》。主税はここで真砂町の先生に会う。
この本郷薬師堂は江戸時代に流行った奇病の平癒を願って建てられたと言われ、真光寺の境内にあったが、寺が戦災で焼けて、世田谷へ移転したため、御堂だけ残ってしまった。毎月、8日、12日、22日が縁日で、神楽坂の毘沙門さん同様に、夜市がおこなわれ、露店が出てたいそう賑わったそうな。
『婦系図』と言えば、湯島天神。本郷のお薬師さんから、そう遠くない。と、やって来ました、湯島天神。これだけ大きくなると、街角の淫祠といった印象から離れてしまうが、「学業成就」などを祈願するのだから、れっきとした淫祠である。ただ、神さまだって、みんなの合格祈願を全部聞いていたら、定員オーバーしてしまうから、合格を祈願しても合格できるとは限らない。だから、あくまでも「学業成就」を祈願するものであると、天神様は言われている。
まあ、吾輩などは、とくに何も祈願することがないから気楽なものである。吾輩はすでに甕に落ちた時、「弥陀」にすべてを委ねて身体の力を抜いておるから、このような平安が得られる、と言いたいところだが、そこは「生き物」である。生きておる間は欲望もある。吾輩だって、三毛子との恋を成就させたい思いは強い。ではあるが、湯島天神では恋愛成就の祈願はムリそうだ。ムリなどころか、ここは別れの場面ではないか。
《切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな》。湯島天神の別れ。名場面。いよいよ、《切通しを帰るんだわね。おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような》と、お蔦に最後のセリフを言わせ、お蔦は夫婦坂から切通しへ。「夫婦を切通す」!
これじゃ、成就した恋も壊されてしまいそうだ。とんだところで、三毛子を思い出してしまったようである。気を取り直して湯島天神を見渡せば、何と、ここには、鏡花先生の筆塚なるものも存在するから、すごい!鏡花先生がこのように湯島天神からもてはやされるのも、柳川春葉先生の力が大きい。なんせ、『婦系図』には、湯島天神など出てこない。春葉先生が新富座の公演のため、脚色した時、
第三幕に原作にはない「湯島天神境内」を挿入。これが至って好評で、結局、鏡花先生も明治座公演のために『湯島の境内』と題して別れの場面を描いた。
来る時はいっしょでも、別れた後、二人は別行動で、お蔦は夫婦坂から切通坂へ出る。夫婦を切通し引き裂いてしまう。さすが春葉先生、天神裏の二つの坂を使って、うまいこと考えついたものである。とりあえずはお蔦は八丁堀へむかう。夜、女ひとりで行かせるには、あまりにも心配ではないか。ここはひとつ、吾輩がついて行くとするか。八丁堀へ行けば、魚屋め組も住んでいることだし、美味い魚の一匹も失敬できるであろう。

                        (つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第12回 日和下駄を履いた猫⑫

牛込区より始めて、小石川区、本郷区、下谷区へと坂を求めて歩いた。浅草区、日本橋区、京橋区などには、自然的な坂はないと言ってよい。麹町区へ来ると、『行人』という小説に出て来る長野家は行人坂の近くに設定された。が、行人坂はまったく出て来ない。そんなわけで、四谷区へ這入り込んでみよう。
『道草』では、《四ツ谷の津の守坂の横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所》に健三の異母姉御夏夫妻の家が設定されているが、坂の描写はない。「四ツ谷」というくらい四谷は谷が多く、したがって坂も多い。何しろ「四谷坂町」などという名前の町さえある。漱石先生、『琴のそら音』では余の婚約者宇野露子の家を四谷坂町に設定している。にも関わらず、坂の描写がまったくない。などと言っているうちに、内藤新宿に入り、大宗寺から《何度かその高い石段を上ったり下ったり》して、《坂を下り尽すと又坂があって》、正受院に達する。門を抜けるとそこは瓶割坂で、『道草』に《丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地の左側に》と書かれた後、池の方に入って行く。吾輩はすでに行ったことがあるので、池へ行くことはしない。
「坂」は、なんともあっけない幕切れである。これで「おしまいか」と観念を決めたところが、荷風先生、最終項「夕陽」を設け、「富士眺望」という副題も付している。荷風先生も何やら去り難い思いがあったんだろうね。「坂」のついでに「夕陽」が出た。これは偶然ではない。東京市中で、西に開けた坂からは、夕陽が美しい。そして、富士がよく見える。時には富士山に夕陽が沈むことだってある。
ところが漱石先生、坂から夕陽を見たり、富士を眺めたことがないのか、とにかく吾輩の記憶に強烈な一撃を与えたのが、『それから』の一場面である。主人公代助は青山1丁目から塩町行きの電車に乗った。何で代助がそんな電車に乗ったのか。理由は簡単である。漱石先生が乗ってみたかったから。
《錬兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍しい夕陽が、真赤になって広い原一面を照らしていた。それが向うを行く車の輪に中って、輪が回る度に鋼鉄の如く光った。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かった。日は血の様に毒々しく照った》。

(完)
【文豪の東京――夏目漱石】

第11回 日和下駄を履いた猫⑪

本郷台の西の端にも崖が見られる。ここの崖が崩れて、森田草平君の家が潰れた。あの一葉先生も住んでいたことがある家だ。この西側から本郷台へ上る坂の一つに菊坂がある。『こころ』では先生が《万世橋を渡って、明神の坂を上って、本郷台へ来て、それから又菊坂を下りて、仕舞に小石川の谷へ下り》たと書かれている。また、ある時には、《夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、又向うの岡へ上るべく小石川の谷へ下りた》と書かれたところもある。漱石先生、上りと下り、坂を一度に二つ書いてしまった。実に合理的だ!とか、何のことはない。ただ本郷台を通過したに過ぎん。
東側から本郷台に上る有名な坂に切通坂がある。湯島天神の裏手にあたる。『野分』には、高柳周作が湯島天神から切通坂へ下りる夫婦坂の《石段を三十六おりる。電車がごうっと通る。岩崎の塀が冷刻に聳えている。あの塀に頭をぶつけて壊してやろうかと思う。》と、谷間を通るような切通坂を描いている。それにしてもぶっそうな表現だ。大財閥に嫉妬する気持ちもわからんではないが、岩崎の塀に頭をぶつけりゃ、塀は壊れず、自分の頭が壊れてしまう。吾輩だってそのくらいのことはわかる。
『道草』には、健三の養父島田と思いがけなく出会った場面が、《その人は根津権現裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて》と描かれている。これは根津裏門坂だが、坂の描写はない。
それに対して団子坂は、『道草』に《団子坂にある唐木の指物師の所へ行って、紫檀の懸額を一枚作らせ》とか、『野分』に、ミルクホールで《向うの机を占領している学生が二人、西洋菓子を食いながら、団子坂の菊人形の収入に付て大いに論じている》といった文章もみられるが、『三四郎』では、《坂の上から見ると、坂は曲っている。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮っている。その後には又高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思われる。その落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く》と、団子坂の様子をかなり詳しく描いている。当時、団子坂の菊人形は大いに賑わいをみせていた。菊で造った猫があったかどうか、吾輩は知らん。
根津裏門坂も団子坂も本郷台を東から上る坂であるが、動坂も同様だ。動坂は
坂上に目赤不動があったところから、「不動坂」と名付けられたものが、縮まって「動坂」になったもので、『彼岸過迄』に、かんたんに《あの梅の鉢は動坂の植木屋で買ったので、》と登場している。
上野の山から東へ下りる坂のひとつに芋坂がある。『吾輩は猫である』に、《「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」》と出て来る。柔らかいと言っているが、名前も「羽二重団子」。こりゃ、確かに柔らかそうだ。けれども、「花より団子」ならぬ「坂より団子」の多々良君たちに付いて行く必要もない。《吾輩は又少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、》と、つれない態度をとる。だいたいが猫は団子など食わん。「何?私は食べたい?」――そんな読者諸氏もあろう。心配無用。今もって芋坂を下りた東日暮里で営業しておる。先ほど、吾輩は団子など食わんと言ったが、羽二重団子の方は抜け目ない。2月22日、「猫の日」特別企画なるものを打ち出して、限定商品を売り出している。当日は、さぞかし店も大繁盛して、猫の手も借りたい大忙しであっただろう。そんなこととは関係なく、《主人は芋坂の団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引き籠っている》。――おっと、やっぱり来ましたか。「おまえは一緒に行きもしないに、どうして団子を喰ったことがわかる?」――もっともなところ。吾輩、帰って来た主人が「団子を喰って来た。うまかった。おまえも喰ってみろ」と、奥さんに言っているのを盗み聴きしてしまった。いえいえ、あんなに大きな声で言われりゃ、聴きたくなくても聞こえてくる。

(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第10回 日和下駄を履いた猫⑩

「崖」だ~、「坂」だ~と言って、荷風先生も「崖」を描けば「坂」が出る、「坂」を描けば「崖」が出るで、これは仕様がない。ここでは、「坂」を描いて、出てきたついでに「崖」を描く。こんな塩梅で行かせてもらいたい。

漱石先生、喜久井坂とも夏目坂とも呼ばれる坂の下の方で生まれたくらいだから、とくに「坂」なんざー、たくさんありそうだ。さっそく、《宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。》と、『硝子戸の中』に出てくる。宅というのは漱石山房である。小川は加二川。坂の名前はわからない。吾輩同様、ないのかもしれん。堂々たる名前をもつ喜久井坂、あるいは夏目坂の記述はない。
牛込天神町、矢来あたりの坂も、漱石先生は描いている。『彼岸過迄』では矢来に松本の家が設定されている。《松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐に撮まれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、其所へ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配の付いた真中だけがいびつに膨れているのを発見した。》と、何とも不思議な坂の描写がある。江戸川橋の方から来ると、やがて坂道になって、現在の早稲田通りに出る。左へ曲ると神楽坂へむかう道は上り坂になっていて、右へ曲ると早稲田へむかう道は下り坂になっている。真っ直ぐ行くと、かつて矢来交番があったところから急な上りになって、台地上の矢来に着く。今でもこの牛込天神町交差点はいびつな格好をして、交差点の中で妙に凹凸がある。自動車走行要注意である。猫の飛び出しにも注意!
この交差点。『門』にも、《その内二人は坂の上へ出た。坂井は其所を右へ曲る、宗助は其所を下へ下りなければならなかった。》と出てくる。下へというのは今の道で言えば早稲田の方へむかっている。坂井の家は矢来にあるので、急坂を上り始めたところで右へ折れて上って行く。そうすると宗助の家の崖上に出る。その位置関係を漱石先生、《座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上って、又半町程逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。》と描いている。崖の高さは6mくらいあるだろうか。この崖を泥棒が滑り下りて、宗助の家の庭に大便をした。そうすると、捕まらないという泥棒仲間の風習があったそうな。たびたび泥棒に入られた漱石先生らしい表現である。泥棒はわざわざ大便に紙をかけてから逃げたというから、恐れ入る。吾輩の仲間たちもよく「泥棒猫」などと呼ばれる。けれども吾輩たちは大便などしない。よしんば、したとしても、丁寧に土をかぶせて、自然に還るように配慮している。それにしても吾輩、矢来から牛込東榎町にむかって、崖をころがり落ちるようなことはしたくない。
神楽坂は町の名前になっている。漱石先生も神楽坂を何度も登場させているが、坂そのものをほとんど描写してこなかった。それでも『それから』では、主人公の代助を神楽坂の藁店を上ったところ、つまり地蔵坂を上ったところに設定したので、わずかに描写がある。それも、《その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。》という地震の場面。あとは坂を上るのがたいへんだと言っているばかり。代助は《神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした》。三千代は《藁店を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障って、息が苦しくなって困った。》と、こんな具合だ。

牛込台を下りて江戸川を渡れば、むこうは小日向台、小石川台である。
『明暗』には、主人公津田の叔父藤井の家を後にした津田と小林が大日坂の上にさしかかる。《二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横たわっていた。秋の夜の燈火が所々に点々と少量の暖かみを滴らした。》と、向うの牛込台を描写している。そう言えば、荷風先生も、《金剛寺坂荒木坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤坂番町辺を見渡すによい。》と書いている。
津田の妻お延の叔父岡本も小日向台に住んでいる。こっちは服部坂だ。《叔父の宅へ行くには是非とも上らなければならない細長い坂へ掛かった。》《「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度振り返って見たお延の胸に、又尊敬と軽侮とを搗き交ぜたその人に対する何時もの感じが起った》。坂の途中の人間模様が描かれている。こんなところ、漱石先生らしいが、お延が岡本に家から帰る場面も、岡本がお延を坂を下った先の電車の停留所まで送ると言う。《二人は遂に連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。「叔父さんの病気には運動が一番可いんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」肥っていて呼息が短いので、坂を上るとき可笑い程苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った》。猫だって糖尿病に罹るから、吾輩だって気をつけなければならん。猫はよく眠るから、せめて起きている時には、せっせと運動しなければなるまい。とか、言っているうちに服部坂を下りで、ここには荷風先生も通った黒田小学校があった。
茗荷谷へ入って行く。右側に小石川台から下る切支丹坂がある。『琴のそら音』には、《坂の上へ来た時、ふと先達てここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽だと笑った事を思い出す。》《昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。》と、まさにこの坂、坂と言うより崖を滑り下りるの趣がある。こんなところ、真夜中に下れば、そりゃ怖いさ。《坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりから又向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。》と、今度は向う側の小日向台へ上る幽霊坂が描かれている。これまた怖い名前じゃ。
金剛寺坂は荷風先生が生まれた家にも近い、小石川台を上る坂である。『それから』では、小石川台にある伝通院近くに住む平岡の家に行くため、主人公の代助が金剛寺坂を上っている。《彼は固より平岡を訪ねる気であった。から何時もの様に川辺を伝わないで、すぐ橋を渡って、金剛寺坂を上った。》《金剛寺坂でも誰にも逢わなかった。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道を塞いでいた。》と、まあ実に簡便な書き方だけれど、この坂を使った心理描写は、さすがに坂の多いふるさとをもった漱石先生ならではと、吾輩一人、いや一匹、秘かに納得しておる。
『こころ』の先生も、《私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。》と、小石川台へ通じる名もなき坂を上っている。今では一部階段になっている。もちろん自動車なんざ~通れない。富坂は電車を通すために、緩やかな坂につくりかえられたが、《砲兵工廠の裏手の土塀について東へ下りました。その時分はまだ道路の改正が出来ない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。》と、思い出が刻まれている。

(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第9回 日和下駄を履いた猫⑨

「閑地」と書いて「あきち」と読む。荷風先生、どうして「空地」と書かなかったのか。吾輩にはわからないが、漱石先生は「空地」と書いている。
『こころ』の富坂あたりの描写を読んでみよう。《電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向の崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃は又ずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私は不図ここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。それで直ぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました》。ほら、ちゃんと「空地」と書いている。それにしても、漱石先生、よほど気に入ったのか、じつに清々しく描いている。吾輩もこんなところで、日が一日、ぼんやりと日向ぼっこでもしたくなる。この富坂に電車が開通したのは1910年。それ以前の風景が「先生」の思い出として、「私」に語られている。「先生」はこのあたりに下宿を見つけ、やがてそこのお嬢様と結婚する。
そう言えば、吾輩が漱石先生を有名にしてやった作品にも「空地」が出て来たような……。「あった、あった」。《吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だ》。富坂の原っぱで日向ぼっこする夢想をしておったら、急に思い出した。《この垣の外は五六間の空地であって、その尽くる所に檜が蓊然と五六本併んでいる》。そう言えば、この向うに「君子」と呼ばれる「悪ガキ」どもが通う学校があった。《例の空地に垣がないので落雲館の君子は車屋の黒の如く、のそのそと桐畠に這入り込んできて、話をする、弁当を食う、笹の上に寐転ぶ――色々の事をやってものだ。》と漱石先生書いている。うん、確かに黒と言う猫がいた。黒には名前があるが、吾輩には名前がない。これは漱石先生に飼われた宿命で仕方がない。そもそも第一人称で語られれば名前なんかいらん。「坊っちゃん」だって名前がない。むしろ、そのことを誇るべきではないか。などと、「空地」からすっかり外れてしまった。
元に戻そうとしたが、「空しい」努力だった。もう「空地」は出て来ない。せいぜい伝通院の焼跡くらいで、それも具体的な描写はない。さっさと「崖」に行かねばならぬ。きっと「崖」も少ないだろう。この際、「崖」と「坂」をまとめてやってしまおう。「坂」をやっていれば、「崖」もたまには出てくるだろう。富坂では崖が出ていたことだし。
(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第8回 日和下駄を履いた猫⑧

いよいよ「路地」。「路地」に猫はよく似合う。吾輩も好きだが、だからと言って、漱石先生が好きかどうかはわからない。少なくとも、『こころ』の先生は、《露次を抜けたり、横丁を曲ったり》、富坂辺りをぐるぐる歩き廻っている。
漱石先生、『門』の主人公野中宗助と、『明暗』の主人公津田由雄の自宅を路地に設定した。
宗助の家は牛込天神町近くの牛込東榎町。かつて御先手組の住家になっていたところ。《魚勝と云う肴屋の前を通り越して、その五六軒先の露次とも横丁とも付かない所》《行き当たりが高い崖で、その左右に四五軒同じ構の貸家が並んでいる》と、行先案内のメモのような文章が綴られている。
由雄の家は飯田町三丁目付近。やはり突き当りに崖がある。妻のお延の足は《又小路の角で留まった》。また車夫が届け物をする場面では、《大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなく又名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した》と、これも道案内。どちらもあまり路地の趣が伝わってこない。どうもこう言うところ、漱石先生淡泊、良く言えば実用的。
広田先生の西片町の家だって、路地にあると言って良いのだが。三四郎は《学校へ行く積りで西片町十番地へ這入って、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。》と、まあ、住所が書いてありゃ、行きやすい。これなら吾輩だって行くことができる。そのように実用的な漱石先生。同じく『三四郎』で、野々宮よし子と三四郎が野々宮宗八の下宿を訪ねる場面。宗八の下宿は本郷追分の近く。やはり路地に設定されている。《二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中に家が沢山ある。暗い路を戸毎の軒燈が照らしている。その軒燈の一つの前に留った。野々宮はこの奥にいる》。これなどは上出来の方であろう。
『彼岸過迄』の須永市蔵の家は、神田小川町の《もとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った極めて分りの悪い所》にあった。『野分』の白井道也の家は、市谷薬王寺町、《三十三所と彫ってある石標を右に見て、紺屋の横町を半丁程西へ這入る》とあった。

前の如く、住家が路地に設定されたが、神楽坂では行願寺境内跡にできた花街だ。『硝子戸の中』には、《私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒燈の多いのを知っていた。》と描かれている。荷風先生なら花街へ入っていったであろうが、漱石先生は軒燈の《数を勘定してみる程の道楽気も起らなかった》と来るから、まことに品行方正というか、味気ないというか。この神楽坂の路地には吾輩のような猫が良く似合う。待合から聞こえてくる三味の音に、足取りもついつい……、おっと、三味の音などと悠長なことを言ってはいられない。吾輩の仲間たちの悲鳴の声ではないか。
日本橋の白木屋の裏手は、木原店という寄席があって、路地の連なる一帯「木原店」と呼ばれている。三四郎は与次郎に誘われて日本橋の木原店へ。《大通から細い横町へ曲って、平の家と云う看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を呑んだ》。『こころ』の先生も下宿の奥さんに連れられて木原店へ。《木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家も狭いものでした。》と、繁華な街の路地の様子が何となく伝わってくる。
このような描写があるものの、漱石先生の路地は、きわめて淡泊、道案内的。その中で吾輩が強いて「路地の描写」として「秀逸」と思うものは、つぎの二作。
まず、一つ目は、『硝子戸の中』で美学者大塚保治の妻、楠緒とばったり行き逢った本郷日陰町の様子。《人通りの少ないこの小路は、凡ての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っ懸る汚いものは殆どなかった。》と表現されている。楠緒さんに出会ったんだから、そりゃ路地だって綺麗に見えるだろう。
二つ目は、漱石先生が痔の手術を受けた神田錦町の佐藤診療所を念頭において、
『明暗』で描いた、由雄が痔の手術を受けた小林という病院に至る路地。《質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭の居そうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は湾曲した小路の中程にある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った》。これこそ、荷風先生も喜びそうな路地の風景ではなかろうか。

まあ、こんな感じであっけなく路地も過ぎ、この分だと「閑地(あきち)」も、さらりと過ぎてしまいそうである。

(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第7回 日和下駄を履いた猫⑦

漱石先生の作品には下町、とりわけ浅草、日本橋、さらには深川を舞台にしたものがほとんどないため、繁華な町に通ずる純然たる運河というのは出て来ない。出て来ないものは扱いようがない。そこで、江戸城を取巻く、幾重にもなった濠に進もう。
とは言うものの、漱石先生、お濠の描写も至って少ない。『明暗』に、四ツ谷・市ヶ谷間の外濠を描いたと思われるものが、《堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、そこからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった》。『それから』に、市ヶ谷・飯田橋間の外濠を描いたと思われる、《代助は堀端へ出た。この間まで向うの土手にむら躑躅が、団々と紅白の模様を青い中に印していたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草が生い茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処までもつづいている。》《この松を見ながら、草臥る所まで堀端を伝って行く気になった。》《堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。》というのを、見つける程度である。それもほとんど土手の様子で、お濠の水は「黒い水」を表現される、たった一か所。

この分だと、「池」も水までは描写されていないかもしれない。
「池」と言えば、漱石先生に深い関わりがある「三四郎池」。
初めて野々宮宗八に会った三四郎は、池までやって来た。《三四郎が凝として池の面を見詰めていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、その又底に青い空が見える。》と、漱石先生にしては上出来の池の描写。運動会の場面では、三四郎が飽きて会場を抜け出し、築山まで来る。三四郎、頂上の大きな石に腰掛けて、高い崖の下にある池を眺める。よし子と美禰子も来る。《女は立っている。秋の日は鏡の様に濁った池の上に落ちた》。簡単だが、池の水の描写がある。
不忍池は1907年におこなわれた東京勧業博覧会の第二会場になった。夜のイルミネーションの様子が『虞美人草』に描かれている。美しいイルミネーションにみんな見とれている。そこへ《「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼は悉く水と橋とに娶った。》と、吾輩はこれだけでも漱石先生に拍手を送りたい。
不忍池の畔を「池之端」と呼ぶ。『野分』、『三四郎』、『それから』、『こころ』、『道草』、それから『吾輩は猫である』にも池之端が出てくる。にもかかわらず、不忍池の描写は一切ない。
漱石先生が幼少の時期を過ごした新宿。太宗寺、正受院を抜けて靖国通りまで出て、新宿方面へ少し行くと瓶割坂が下って行くが、やがてまた上りに転ずる。つまりこの辺りが谷底で、北へ少し入ると、漱石先生が『道草』に書いた池があった。漱石先生は健三の思い出として、この地に掛茶屋のようなものがあって、《葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅が多かった。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影の様に赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。或日彼は誰も宅にいない時を見計って、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼は水の底に引っ張り込まなければ己まないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。そうして翌日静かに水面に浮いている一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった》。まあ、これは漱石先生の思い出でもあろう。自分のしたことが、ひとつの生命を奪ってしまった、その自分に対して大いなる怖れを抱いたと推察される。いかにも漱石先生らしいが、まさかこのような体験が、水を描写させなかったわけでもあるまい。漱石先生だって、『水底の感』という詩を書いている。このような詩である。
 水の底、
 水の底。
 住まば水の底。
 深き契り、
 深く沈めて、
 永く住まん、
 君と我。
 黒髪の、
 長き乱れ。
 藻屑もつれて、
 ゆるく漾ふ。
 夢ならぬ夢の命か。
 暗からぬ暗きあたり。
 うれし水底。
 清き吾等に、
 譏り遠く憂透らず。
 有耶無耶の心ゆらぎて、
 愛の影ほの見ゆ。
漱石先生。『草枕』ではたびたび池を登場させている。漱石先生、けっして水の描写を避けていたわけではあるまい。

以上をつなげたような文章を漱石先生、書いている。『硝子戸の中』である。先生のお姉さま方が、猿若町へ芝居見物に出かける様子である。夏目家を出て、神楽坂から外濠にある揚場へ。揚場というのは荷揚げ場であり、当然、船着き場である。ここから屋形船に乗る。間もなく江戸川、神田川。砲兵工廠の南側を通って、やがて柳橋。そこから《大川へ出た船は、流れを遡って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けた》と、いうので、まあ、今戸の橋をくぐって、山谷堀まで入ったのであろう。有明楼は今戸橋の袂、待乳山聖天堂のすぐ下にあった。ここでお姉さま方は船を下り、猿若町の芝居茶屋まで歩いて行く。山谷堀をまっすぐ行けば吉原遊郭である。
荷風先生は井戸を付け加えているが、漱石先生は何か書いているであろうか。

(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第6回 日和下駄を履いた猫⑥

今度は「水」がテーマか。吾輩、甕の中の水に落ちたことがあるから、ちと水は怖い。もう二度と、「濡れネズミ」ならぬ「濡れ猫」にはなりたくない。
荷風先生は「東京の水」を論ずるにあたって、これを七つに類型化している。
第一:品川の海湾
第二:隅田川・中川・六郷川など天然の河流。
第三:小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川など細流。
第四:本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草など、繁華な町に通ずる純然たる運河。
第五:芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川など、名前だけ美しい溝渠。
第六:江戸城を取巻く、幾重にもなった濠。
第七:不忍池、角筈十二社の如き池。付け加えて井戸。

漱石先生の『こころ』では、鎌倉の海の場面がある。房総の海岸を旅したことも出てくる。けれども、品川の海どころか、東京全般見渡して、海の描写は見当たらない。もっともこれは吾輩が見落としているからかもしれないが。そんなわけで、海はあきらめて、天然の河流へ話題を移そう。
江戸、東京と言えば、やはり大川と呼ばれる隅田川だ。と言うより、中川も六郷川も漱石先生の眼中にはない。
大川!隅田川!龍之介先生も「大川愛」にあふれているし、荷風先生だって、『隅田川』という題の小説を書いている。漱石先生は、と言うと、この隅田川のすぐそばに住んだことがある。住所は浅草諏訪町4番地。養父が勤める扱所の棟続き。その思い出を『道草』の中で、《土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。》と描写している。6~7歳の少年頃のことを、漱石先生、よく覚えていたものだ。
吾輩が登場する小説でも、吾妻橋の《欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまって只動いている様に見えます。花川戸の方から人力車が一台馳けて来て橋の上を通りました。その提灯の火を見送っていると、段々小さくなって札幌ビールの処で消えました。》と、暗いのでよくわからないけれど、何となく隅田川が描かれている。
ところがどうもこの後がはかばかしくない。『硝子戸の中』には、親友のOと大川の水泳場に通ったことが書いてある。『永日小品』では親友の中村是公と予備門へ通う途中、大川に架かる両国橋の上で話したことが書かれている。『こころ』で、先生と親友のKが両国から小石川まで歩いている。当然、両国橋を渡ったはずだ。『門』では主人公の叔父の一人息子が月島にある工場まで出勤している。ここまで書きながら、隅田川の描写はまったくない。結局のところ、漱石先生には「大川愛」がないのであろうか。山の手に生れた荷風先生が隅田川に惹かれたのに、漱石先生はやはり「山の手」の作家だったのだろうか。

荷風先生は「細流」と「溝渠」を分けている。どのような基準か、吾輩にはわからない。
江戸川沿いの電車は、大曲まで1906年、江戸川橋まで1911年に開通した。『門』・『彼岸過迄』・『明暗』で電車に関する記述はあるものの、江戸川の描写はない。『それから』では、江戸川が、主人公代助の平岡三千代に対する揺れる心を演出している。代助の家は牛込台の神楽坂にある。平岡夫妻の家は小石川台の伝通院の近くにある。その間に江戸川が流れている。
漱石先生が『それから』を書いた頃は、上流から江戸川橋・掃部橋・古川橋・石切橋・前田橋・中之橋・白鳥橋・隆慶橋・舩河原橋が架かっていて、川沿いは桜の名所だった。二回目に代助が三千代を訪ねた場面では、《五軒町から江戸川の縁を伝って、河を向うへ越した時》と、あっさりしているが、三千代にあまり接近してはいけないと思い始めた頃の場面では、《散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方から向うへ渡り、向うから又此方へ渡り返して、長い堤を縫う様に歩いた。がその桜はとくに散てしまって、今は緑陰の時節になった。代助は時々橋の真中に立って、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、真直に通っている、水の光を眺め尽して見る。それからその光の細くなった先の方に、高く聳える目白台の森を見上てみる。けれども橋を向うへ渡って、小石川の坂を上る事はやめにして帰るようになった。》と、まあ、これが江戸川辺りの様子をもっとも詳しく描写したものだろう。
その後になると、《江戸川まで来ると、河の水がもう暗くなっていた。彼は固より平岡を訪ねる気であった。から何時もの様に川辺を伝わないで、すぐ橋を渡って、金剛寺坂を上った。》と、暗いから、川の水が良く見えないのは仕方ない。そしてついに、別れ!《平岡の家まで附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲るまで見送っていた。それから緩くり歩を回らしながら、腹の中で、「万事終る」と宣告した。》この橋。中之橋。石切橋と隆慶橋の中間にあるところから名づけられ、付近は「恋ケ崎」と呼ばれた。漱石先生、粋な設定をしたじゃないか。
「万事終る」と宣告したわりに後を引く。代助の気持ちだけは切迫している。《代助は眩しそうに、電気燈の少ない横町へ曲った。江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。黒い桜の葉が少し動いた。橋の上に立って、欄干から下を見下していたものが二人あった。金剛寺坂でも誰にも逢わなかった》。その先、どうなったか、吾輩にもわからん。ただ、代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。
今、中之橋の目の前にはトッパンの高いビルが建っている。桜は1910年の大水害をきっかけに治水工事がおこなわれ、切られてしまった。江戸川の上には首都高が覆いかぶさるように通っている。何という変わりようであろうか。これが人間と言うものであろうか。吾輩、時どき、猫に生れて良かったと思うことがある。そう言えば、何やら有名な劇団のミュージカルに『人間になりたがった猫』というのが、あるそうな。猫の名は吾輩と違って、ちゃんとある。ライオネル。ステファヌス博士に口ごたえして、罰として二日間、人間にされたとか。まあ、罰でもなきゃ、人間にはならんわな。ところがこのライオネル。ほんとうは人間になりたかったというから、驚くじゃないか。後はどうなったか?ネタバレしたんじゃ、申し訳ない。
漱石先生の「細流」は江戸川だけ。「溝渠」となると、代表は藍染川だろう。
藍染川は田端の西の方から流れて来て、不忍池へ流れ込む。三四郎と美禰子の「いい場面」はこの川で繰り広げられる。漱石先生、こんな風に描いている。《谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左りへ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何遍この小川の向側を歩いて、何遍此方側を歩いたか善く覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である》。この石橋は合染橋。びわ橋とも言う。さすが『三四郎』の主人公が小川三四郎だけに、「小川」が繰り返し出る。この藍染川で、三四郎は美禰子から「迷える子」、ストレイシープと言われる。どうやら三四郎は失恋したようだが、もともと美禰子に惚れていたのかどうか。今じゃ、藍染川も暗渠になってしまったから、闇の中だ。
『こころ』では、先生が学生時代、虱がたかった胴着を友人が《散歩に出た序に、根津の大きな泥溝の中へ棄てて》しまっている。藍染川もここでは泥溝と表現されている。
この藍染川の水。不忍池に入って、やがて流れ出て来るのが忍川。立花飛騨守の上屋敷を囲む堀に流れ込む。この辺りに、荷風先生も住んだことがあるし、漱石先生も住んでいた。『道草』には、《其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚ならしい一廓を‐‐様の御屋敷という名で覚えていた。堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。》と、堀の様子が描かれている。そのような光景に、甘く爽やかな一筋の風が吹き込む。《健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した》。この御縫さんこと、日根野れん。結婚して平岡れん。養父昌之助は漱石先生とれんを結婚させようと考えていた。れんの方が一つ年上だ。まあ、それがうまくいかず、おれんさんは平岡と結婚。1908年に42歳で亡くなった。漱石先生がその翌年、『それから』で、三千代を平岡のもとに嫁がせているのも、何かの思いだろうね。御縫さんと三千代。容貌もよく似ている。
この忍川が流れ込む堀のひとつに三味線堀というのがある。吾輩、何ともこの堀の名前が不気味で、近寄りたくない。漱石先生が三味線堀を登場させなかったのは、何よりの幸いである。吾輩も皮を剥がれて、チントンシャン。風流だ、粋だなんぞと、喜んじゃいられない。
この他、漱石山房近くの弁天裏を流れる小川も、『硝子戸の中』に、わずかに登場する。古川では『それから』に金杉橋が出る。川の描写はまったくなく、橋の袂の鰻屋に入っている。「溝渠」に関しては、こんなところだろう。

(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第5回 日和下駄を履いた猫⑤

水道端から安藤坂を上れば、伝通院。漱石先生は書く。
『琴のそら音』には、《伝通院辺の何とかと云う坊主》。『趣味の遺伝』には、《伝通院の裏を抜けて表町の坂を下りながら路々考えた》。『それから』には、《四丁目から又電車へ乗って、今度は伝通院前まで来た》。『こころ』では、《散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました》。ところで漱石先生、伝通院の中はどうなってたの?本堂は立派だった?徳川瓦解によって衰退したと言っても、徳川の世の繁栄の名残くらい、あったでしょう。荷風先生だって、「パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院がある。」と言ったくらいだから。それでも漱石先生答えず、『それから』に、こんな文章を残している。《約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院の焼跡の前へ出た》。
『それから』が書かれたのは1909年。その前の年に伝通院本堂は焼失した。荷風先生が欧米から帰国して、久しぶりに伝通院を訪れた、その晩だった。結局、漱石先生が描写した伝通院は焼跡だけである。
伝通院の山門のところで左へ折れて、寺の西側へ廻ると法蔵院がある。吾輩もこの寺のことを、《主人が昔し去る御寺に下宿していた時、襖一と重を隔てて尼が五、六人いた。》と、紹介している。僧と言っても女性。若い男性の隣りでは、いささか心配な向きもあるが、まあ、何かあったとは聞こえてこない。聞こえてくるのは、この寺の和尚。内職に占いなどやっていたそうで、これがけっこう当たったという。
道が複雑で、省略するが、法蔵院から少し行くと宗慶寺がある。この寺の前にあったのが「極楽水」。漱石先生、『琴のそら音』で、《極楽水はいやに陰気な所である》。《こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない》と、薄気味悪く描いている。こんな風に描かれると、吾輩だって夜中に、あまり通りたくない。
ここを下りると、播磨坂の下で、植物園の方にむかって行くと新福寺がある。この寺も漱石先生が若い時、下宿していたところで『吾輩は猫である』に出てくる。「時の鐘」をつく寺としても有名で、『琴のそら音』に、これまた薄気味悪く描かれている。千川通りを行けば、蒟蒻閻魔の源覚寺がある。すでに紹介したので、植物園の脇を通って、白山下へ出てみよう。ここから狭い坂道を本郷台へ上れば、中山道へ出て、大圓寺はすぐだ。
この大圓寺。八百屋お七ゆかりの寺で、焙烙地蔵も祀られている。『趣味の遺伝』に出てくる寂光院は、大圓寺を念頭に描いたものと、吾輩はにらんでいる。この寺から大観音で有名な光源寺は近い。かつて、浅草観音と並んで賑わったと言われている。大観音も浅草観音もすでに紹介したので、思い切って足をのばして、築地の本願寺へ行ってみよう。

築地本願寺は『行人』で、長野二郎の親友三沢が想いを抱く女性の葬儀がおこなわれたところである。《薄暗い本堂で長い読経があった後、彼も列席者の一人として、一抹の香を白い位牌の前に焚いた》。まことにしめやかな表現である。当時の本堂は関東大震災で崩壊し、同じく大きな被害を受けた魚市場や青物市場の移転先が築地に決められ、この辺り、大きく変化した。本堂にむかって並んでいた「地中子院」と呼ばれる、たくさんの小さな寺の多くが杉並に移転させられ、場外市場がつくられた。本堂も今の形につくりかえられたが、有名人の葬儀もけっこうおこなわれていると聞く。
ここまで来れば、芝の増上寺も寄ってみたいが、漱石先生、芝公園のことは描いても、増上寺にはまったく触れていない。仕方がないので、新宿御苑まで一っ跳び。

新宿通りは、かつての甲州街道。地下鉄の新宿御苑前駅を上ると、新宿通りで、北へ入ると、すぐ太宗寺がある。ここにお地蔵さんがある。漱石先生、『道草』で、《路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。》と書いて、さらに健三の名を借りて、《彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。》などと、腕白ぶりを披露している。
この太宗寺のお地蔵さんは、江戸六地蔵のひとつ。江戸から伸びる街道の、江戸の入口のようなところにつくられていた。東海道は品川寺、中山道が巣鴨の真性寺、奥州街道が浅草の東禅寺、水戸街道が白河の霊巌寺、千葉街道が深川富岡の永代寺、そして甲州街道が太宗寺のお地蔵さんである。漱石先生、由緒あるお地蔵さんに攀じ上ってはみたものの、《笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た》と言う。まあ、吾輩なら錫杖を伝って、かんたんに笠の上に移ることができる。漱石先生、どんなにいろいろなことができると言ったって、猫にはかなわないことだってある。吾輩も低い鼻を少しは高くできるというものだ。
太宗寺のすぐ北に正受院がある。漱石先生、『道草』に、《唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽われていた。》と書かれているが、この「赤い門の家」が奪衣婆像のある正受院と思われる。
とにかくこの辺り、漱石先生が幼い頃、塩原の父さん、母さんと暮らしていたから、かすかではあっても、記憶に残っているところだ。
正受院の前は靖国通り。市ヶ谷の方に進むと曙橋。ここから牛込台へ上って行くのが合羽坂である。右手が市谷本村町、左手が市谷仲之町。まっすぐ進んで、市谷薬王寺町まで来ると、漱石先生の小説が待っている。『野分』には、主人公道也先生の家にも《裏の専念寺で夕の御努めをかあんかあんやっている。》と出てくる。この辺りには、町名の由来になった薬王寺は、すでに明治の初め頃に姿を消したが、浄栄寺、長源寺など、いくつかのお寺があった。
ここから、とぼとぼ歩けば牛込柳町。神楽坂の善国寺は「淫祠」で出て来たので省略して、原町から喜久井町へ歩めば、東京市中、ぐるりと一回りして、漱石先生の生家の前へと戻って来る。お寺巡りもなかなか「しんどい」ものである。吾輩、肉球のおかげで、何とか廻り切ることができた。と、言いたいところだが、吾輩、日和下駄を履いていること、忘れておった。
(つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第4回 日和下駄を履いた猫④

「寺」ともなると、漱石先生もたくさん書いていて、吾輩もどこから訪ね歩けば良いか、いささか迷うが、まずは漱石先生の生家の近くから。
誓閑寺。漱石先生は『硝子戸の中』に、赤く塗られた門の後ろは深い竹藪になっていて、中の様子が通りからは全く見えないが、《その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。》と、書いている。誓閑寺というのは、夏目坂を挟んで、生家の向かい側を入った所にあり、赤く塗られた門はすでになくなっているが、新宿区内最古と言われる梵鐘は、寺の入口左手に残っている。漱石先生、「誓閑寺」をどうして「西閑寺」と書いたのか、それは吾輩にはわからない。隣に「西方寺」というお寺があったので、ごっちゃになったってところじゃないかな。漱石先生だってそのくらいのこたぁ、あるさ。
寺の裏手は「戸山が原」。荷風先生が「俗中の俗」と表現した陸軍の用地だ。徳川の世には尾張徳川家の下屋敷で、大名庭園もつくられていた。吾輩には、寺の裏手の方が気になるが、今じゃ早稲田大学なんかもできて、気軽な散歩も難しくなってしまった。

漱石山房の前を通り過ぎて、弁天町から早稲田通りへ入って、神楽坂の方にむかって少し歩くと、宗柏寺だ。この近くに『門』の宗助の家があるので、木魚の音が聞えて来たり、境内の杉が焦げたように赭黒くなっただの、描かれている。寺の裏手は牛込台で、崖はコンクリートで固められている。このコンクリート壁の上を歩きながら、宗柏寺の墓地を見下ろすのは、なかなかスリルがあって壮観である。
ここから、江戸川橋へ出て、音羽の道をまっすぐ進むと、突き当りが護国寺だ。漱石先生の『夢十夜』には、《運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。》と、護国寺の名前が出て来る。「おいおい、江戸時代に建てられた護国寺に、どうして鎌倉時代の運慶が出て来るんだい?」と、突っ込みを入れたいところだが、もともと夢だから仕方がない。漱石先生だって、《鎌倉時代とも思われる。ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。》と、けっして寝ぼけてはいない。
今日のところは護国寺へ行くのはやめて、江戸川橋のところで右へ折れて、水道端の道を進めば、本法寺。こっちは、裏手の小日向台へ墓地が駆け上がっている。漱石先生の実家の菩提寺だから、『坊っちゃん』には、《死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんの御寺へ埋めて下さい。》と出て来る。《だから清の墓は小日向の養源寺にある。》と、名前は変えられているが、漱石先生の頭にあったのは本法寺に間違いない。原稿も、初め「小石川」と書いたのを、わざわざ消して「小日向」と書き直している。ところが名前を借りられた千駄木の養源寺。漱石先生の大親友米山保三郎の墓がある。それだけなら良かったが、保三郎の祖母の名前が「清」と言うから、やっかいだ。漱石先生も「清」のことは知っており、坊っちゃんに登場する清のモデルと言う人もあるくらいだ。養源寺でも、《小説「坊ちゃん」に登場するきよの墓(米山家)》と案内の標識を建てて、読者の便宜を図っている。
『彼岸過迄』でも、須永に彼の母親が、矢来の叔父のところへ行ったら、ついでにその帰り《小日向へ廻って御寺参りを為て来て御呉って》言っているし、矢来の叔父の娘宵子が亡くなった場面でも、通夜にやって来たのは、この小日向の寺の坊さんだ。実際に漱石先生の娘ひな子の葬式は、本法寺の坊さんが仕切っている。
漱石先生。浄土真宗にはまことに詳しい。詳しいどころか、真髄をつかんでいた。そうなると、現実に見えてくるものは、必ずしも好ましく見えてこない。これは漱石先生を間近に見て来た吾輩の証言からもわかる。《彼の一家は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛るのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔厚き厨子があって、その厨子の中にはいつでも真鍮の燈明皿がぶら下って、その燈明皿には昼でもぼんやりした灯がついていた事を記憶している。》と、まあ、こんな風だ。
(つづく)

【文豪の東京――夏目漱石】

第3回 日和下駄を履いた猫③

目に青葉山時鳥初鰹。最も美しい時節。東京は市内も近郊も日々開けていくが、幸いにも社寺、私人邸宅、崖地、路のほとりにまだたくさん樹木が残っていると荷風先生。《庭を作るに樹と水の必要なるはいうまでもない。都会の美観を作るにもまたこの二つを除くわけには行かない。》と続けて、東京市中のたくさんの樹木を紹介しているのだが……。漱石先生はどうなのか。
その前に。どうもこうやって見て来ると、漱石先生、分が悪い。けれども荷風先生は「淫祠」だ、「樹」だと、テーマを決めて歩きまわっているのだから、数の多くなるのは当然。漱石先生のは小説だから、「淫祠」だって「樹」だって、そう矢鱈と出て来るはずがない。
漱石先生だって、「樹」の多い所に場面設定すれば、自ずから「樹」も描かれる。
荷風先生もよく取り上げた外濠の土手の松。『明暗』には、《堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、そこからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。》と描かれている。『行人』にも、《土手の上の松が雨を含んで蒼黒く空に映った》。『それから』なんかは、土手の松が好ましく描かれている。《代助は堀端へ出た。この間まで向うの土手にむら躑躅が、団々と紅白の模様を青い中に印していたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草が生い茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処までもつづいている。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乗って、宅へ行って、嫂を調戯って、誠太郎と遊ぼうと思ったが、急に厭になって、この松を見ながら、草臥る所まで堀端を伝って行く気になった。》と、こんな感じだ。
『吾輩は猫である』は、もっとすごい。《神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。よく人が首を縊ると云うがこんな時に不図誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、何時の間にか例の松の真下に来ているのさ」「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。「鴻の台には鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん》。まさに荷風先生並みの解説ぶりである。
外濠の土手と言えば松だが、『行人』には他の木だって出て来る。《見附外の柳は烟のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉か黴が着物にくっ付いて何時までも落ちないように感ぜられた》。

続いて樹木の多いのは、東京大学から上野の山。
東京帝国大学が舞台と言えば『三四郎』。漱石先生、弥生門から這入って、《むっとする程堪らない路だったが、構内へ這入るとさすがに樹の多いだけに気分が晴々した。》と書いているくらい樹木が多い。《正門を這入ると、取突の大通りの左右に植えてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向うの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門の際に立った三四郎から見ると、坂の向うにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。三四郎はこの奥行きのある景色を愉快に感じた。銀杏の並木が此方側で尽きる右手には法文科大学がある》。漱石先生も樹木を入れながら、景観としてしっかり描写している。上野の森まで一括している。まさに絵になる。東大から上野の森がよく眺められたことは、《廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくの間は、正気を回復する為に、上野の森を眺めていた。》という『三四郎』の文章にも、よく描かれている。
東大の様子は今もあまり変わらないから、『三四郎』片手に構内を歩くことだってできる。もちろん、吾輩は『三四郎』など、なくてもよろしい。
吾輩が好きなところは三四郎池だ。いつか、池の魚を捕まえてやりたいと、時おり訪れて池の様子をうかがっているものの、やつらも吾輩がいるとわかると、なかなか岸の方にやって来ない。吾輩も苦い経験があるから、池に落ちたことを考えると、身がすくんでしまう。漱石先生はそんな吾輩の気持ちなどお構いなく、《中に小さな島がある。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交し合って、箱庭の趣がある。島を越して向側の突き当りが鬱蒼とどす黒く光っている。女は丘の上からその暗い木陰を指した。》《三四郎が凝として池の面を見詰めていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、その又底に青い空が見える》。水があるといろいろなものに変化が出て、描写にも深みや趣が出てくることは、荷風先生も主張したいところであろう。
漱石先生、東大から上野の森まで描写してしまったが、確かに本郷の高台からは上野の森まで一望で、『彼岸過迄』には、《其所の窓を潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸した。》という描写もある。
もちろん、漱石先生。上野の森のこともきちんと書いている。『虞美人草』の、《甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圏を画いた。》というのは、あっさりした文章だけれど、『それから』の《菅沼の家は谷中の清水町で、庭のない代りに、縁側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆た鉄の様に、頗る異しい色をしていた。その一本は殆ど枯れ掛かって、上の方には丸裸の骨ばかり残った所に、夕方になると烏が沢山集まって鳴いていた。》という描写など、様子をよく捉えているし、『こころ』では冬の上野の森を、《ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが脊中へ噛り付いたような心持がしました。》と書いている。上野と言えば、桜。多々良君は《あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい。》と、吾輩の飼い主に直接言わず、奥さんに助言している。

まあ、大きくはこんなところで、後はポツリポツリと樹木が出る。
吾輩が住んでいたので「猫の家」と呼ばれる千駄木の家。ここにも樹木が出る。《吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だ。》《この垣の外は五六間の空地であって、その尽くる所に檜が蒼然と五六本併んでいる。椽側から拝見すると、向うは茂った森で、》《北側には桐の木が七八本行列している》。まあ、吾輩にとっても落雲館の君子さえいなければ、過ごしやすいところだった。
本郷を少し奥へ行った駒込曙町には平塚雷鳥先生が住んでいて、漱石先生も『三四郎』で原口先生の家を設定した。ここでは「松」が印象的だ。《曙町へ曲ると大きな松がある。この松を目標に来いと教わった。松の下へ来ると、家が違っている。向うを見ると又松がある。その先にも松がある。松が沢山ある。三四郎は好い所だと思った。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣に奇麗な門がある》。何と、「松」が七回も出て来た。荷風先生のみならず、漱石先生も松をけっこう気に入っていたのではないだろうか。
『趣味の遺伝』でも松が出る。寂光院という架空の寺院で、大円寺がモデルと思われる。曰く、《松を左右に見て半町程行くとつき当たりが本堂で、その右に庫裏がある。》《本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏がある》。
この他、『彼岸過迄』には、穴八幡や諏訪の森が出て来る。『門』では宗柏寺境内の焦げた様に赭黒くなった杉のことが出て来る。大曲で電車を下りた宗助は、宗柏寺に近い自宅に帰る。その様子は《樹の多い方角に向いて足早に歩を移した。》と表現されている。『道草』には正受院の様子が、《坂を下り尽すと又坂があって、小高い行手に杉の木立が蒼黒く見えた》。こうして見れば、漱石先生もけっこう樹木には関心をもっていたことがわかる。
吾輩も何とか「樹木」を乗り切って、しばらく木陰で休みたい気分だ。
                    (つづく)
【文豪の東京――夏目漱石】

第2回 日和下駄を履いた猫②

荷風先生、《裏町を行こう。横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通りにはきまって淫祠がある。》と書いている。「淫祠」と言うと、何となく裏通りにひょっこり見つけたお稲荷さんや延命地蔵尊を思い浮かべる。けれども荷風先生が取り上げている「淫祠」も、必ずしも裏通りにあるものばかりではない。要は、ご利益を求めて、あるいはお礼のために、お参りに訪れるところとさせていただきたい。
そうと決まれば、浅草観音ほど賑わっている「淫祠」は東京市中、他にはない。漱石先生も浅草観音だけは好きだったようで、「淫祠」の雰囲気を伝えている。
『彼岸過迄』では、敬太郎が《小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁栄を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、色々云って聞かせる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。》《大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎っていたのである》。途中、かなり省略したのでこの程度だけど、全部紹介するとけっこう長い。まあ、漱石先生にかかると、浅草もだいぶん難しい表現になるが、よく書いたもんだ。
『それから』には、《この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。》という文章もある。『明暗』では、お延が仲見世で従妹の継子に玩具を買っている。
何しろ、浅草観音には吾輩も登場するから、すごいじゃないか。吾輩、《主人は痘痕面である。》と語る。続いて、《主人は折々細君に向って痘痕をせぬうちは玉の様な男子であったと云っている。浅草の観音様で西洋人が振り反って見た位奇麗だったなどと自慢する事さえある》。ここで吾輩、《成程そうかも知れない。ただ誰も保證人の居ないのが残念である。》と、すかさず突っ込みを入れる。吾輩だって、子どもの頃の主人を見たことはない。

東京大神宮。これだって立派な「淫祠」だ。何しろ、江戸の昔、多くの人々がお参りに出かけた伊勢神宮の東京出張所みたいなもの。漱石先生、ここを結婚式場に選んだ。と言っても自分の結婚式ではない。『行人』の長野家下女お貞さんと、佐野の結婚式。この東京大神宮というのは、民間の人が神前結婚式を挙げる先駆けをつくった神社で、実は主人公長野二郎の兄一郎も、この東京大神宮で結婚式を挙げている。吾輩だって、三毛子とこの大神宮で結婚式を挙げることができたら、どんなにか良かっただろう。
東京大神宮だって抜け目はない。《大正元年に発表された夏目漱石の有名な小説「行人」にも、日比谷大神宮(現在の東京大神宮)における結婚式の様子が克明に描かれております。》と、ホームページにしっかり書いている。あっ、その頃の東京大神宮は帝国ホテルのすぐ北にあったから、日比谷大神宮とも呼ばれていた。関東大震災で焼けて、1928年に現在の千代田区富士見町に移転した。長野家は行人坂近くにあったから、今の東京大神宮の方が近くて、人力車で行くのも楽だっただろうね。下女のお貞さんを一番立派な人力車に乗せてやってったと言うから、漱石先生も粋な計らいをしたもんだ。自分の家の下女にも、このくらい心配りをしていれば、もっと居心地が良かっただろうに。現実は小説のようには、いかないようだ。
今でも、「婚活」で人気のパワースポット。ここでご縁をいただいて、東京大神宮で挙式してくれれば、神社としても万々歳だろうけど、神仏にすがる人間の姿は、今も昔も変わらない。荷風先生、そんな人間を愛おしく思っていたんだろうね。我が漱石先生はどうだったんだろう。

結婚と言えば、思い出した。とん子お嬢さんが、ある時、雪江さんの前で、「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたい」って言い出したことがあった。でも、とん子お嬢さん、「水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」って言うもんだから、すん子お嬢さんが、「御ねえ様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きましょう。ね?いや?いやなら好いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」と、強気な発言。これにつられて「坊ばまで行くの」と、坊ばお嬢様まで招魂社へお嫁に行くと言い出して、面白いこと、面白いこと。
今の東京大神宮は招魂社から近いので、ついつながりで話したけど、漱石先生、金田夫人の鼻を、《鼻だけは無闇に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けた様に見える。三坪程の小庭へ招魂社の石燈籠を移した時の如く、独りで幅を利かしているが、何となく落ち付かない。》と、招魂社を持ち出して、こんな風に表現している。まあ、これじゃ、三人のお嬢様も、招魂社へお嫁に行けそうもにゃさそうだ。
                       (つづく)

※この後に、橘陽司さんとの対談が掲載されています。
【館長の部屋】 対談――橘陽司さんにきく

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」を掲載しています。今回は神楽坂にある文悠書店を営む橘陽司さんの登場です。

北野:いよいよ今年は泉鏡花生誕150年。神楽坂は鏡花にとって、文豪への第一歩を踏み出した、まさに第二のふるさとのようなところですが、神楽坂では、鏡花に関して、何か特別なイベントなどは企画されているのでしょうか。

橘:以前には「おかみさん会」主催の講演会が行われたと聞いていますが、
今年は未定のようです。

北野:神楽坂と言うと、子どもの頃、神楽坂はん子という芸者さんのかっこうした歌手がいて、それで何となく神楽坂という名前が頭の中に入って来て、東京へ行ったら、一度行ってみたいと思っていたところです。子どもですから、別に芸者さんにあこがれたというわけでもないでしょうが、妙に頭に残って……。橘さんから見て、神楽坂とはどんなところですか。

橘:神楽坂は生まれ育ったふるさとで、小学生時代は三味線の音が響く石畳の通学路を毎日通っていました。そんな花街の面影を残す神楽坂も停滞期がしばらく続きましたが、その沈滞ムードを一掃するきっかけが平成19年神楽坂を舞台とするテレビドラマ(ロケ)でした。当時人気絶頂だった嵐・二宮君が主演とあって、一気に来街者が増え観光スポットとしての人気に火が付いた感じです。
「嵐の聖地」、○○の名店などとメディアへの露出が増え、こんなかたちで商店街の救世主が現れるとは思ってもいなかったです。
神楽坂は交通の便が良好で日常の買い物にも不自由しない。なおかつ和の趣とフランス的おしゃれ感が絶妙にマッチした味わい深い街。東京のプチパリと呼ばれる私の自慢の故郷です。

北野:神楽坂へ来たら、こんなところを見て欲しい、こんなところに行って欲しい、と言うところを教えてください。もちろん、文悠書店にも寄ってもらいたいでしょうが。

橘:そうですね、名所・旧跡を巡る定番コースも良いですが、神楽坂とフランスの結びつきを検証する街歩きもおすすめです。
コロナ以前の神楽坂には本場フランスの地方都市に負けないくらい多くのフレンチレストランがあったと言われています。歩いて散策できる街の規模感が路地や石畳を好むフランス人の美学とマッチするそうで、なるほどと思わず納得です。飯田橋「外濠」の風景からパリ・セーヌ川に思いを馳せるのはさすがに無理な気もしますが(笑)
神楽坂リピーターの方はぜひテーマをきめた街歩きで新たな発見にチャレンジしてみてください。「料亭ランチ」「特製スイーツ」「文豪たちの足跡」「行列のできる逸品の店」等々
コロナ禍でお店の入れ替わりがあり、今までにない個性豊かな店に出会えるチャンスです。探索エリアを「裏神楽坂」「奥神楽坂」とひろげて誰にも教えたくない?お気に入りのスポットを見つけてください。

北野:文悠書店さんは、いつから神楽坂でお店を出しているのですか。

橘:文悠書店は先代である父が昭和21年新潟県長岡で創業、昭和31年に上京し現在地で開店しました。二代目となる私は平成4年から代表を務めています。

北野:尾崎紅葉はじめ、その門下生。漱石や藤村や、神楽坂に関わりのある作家・芸術家たくさんいますが、そのような神楽坂で本屋さんをやっていくうえで、とくにこのような方向性でやっている、このようなことにこだわっている、ということはありますか。神楽坂に関連する本も、かなり置かれているように思うのですが。

橘:はい。まさに当店の「売り物」は「神楽坂」なのです。
神楽坂の情報・歴史・文化に関する本や雑誌、ガイドブックは特に力を入れて大量に在庫するようにしています。
もう一つの柱が「児童書」です。街中の書店が激減している今だからこそ、本を通して子供たちの豊かな心を育むことが地域書店である文悠の使命と考えています。絵本の読み聞かせは子供に限らず大人にも感動と気づきを与えることをご存じでしょうか。これまで積み上げてきた様々な経験を活かしてさらなる展開を模索中です。神楽坂にお越しの際は情報拠点である文悠書店にぜひお立ち寄りください。

北野:お店の守りネコ、双子の「ぶん」と「ゆう」。『吾輩は猫である』の名前のないネコの、「実は親戚」とか言うことは、ありますか。

橘:ネコは神楽坂のシンボル的存在ですね。当店の「ぶん」「ゆう」は系図をたどるともしかしたら…?

北野:本屋さんだからと言って、たくさん本を読める、読む時間があると言うわけではないでしょうが、橘さんは、どんな作家、あるいは作品がお好きですか。

橘:生まれた時から本に囲まれ恵まれた?環境でしたが、子供の頃から愛読していたのはもっぱら推理小説です。「ホームズ」「江戸川乱歩」にはじまり松本清張、西村京太郎等々かなり偏った選書ですね。
大人になってからは仕事関連のビジネス書が不可欠になりました。たまに見る(読む)絵本はとっても新鮮ですよ!たとえば
「だんろのまえで」「あかり」「おこだでませんように」
先入観なしで読んでみてはいかがですか。

北野:橘さんには、お忙しいところ、ほんとうにありがとうございました。また、文悠書店さんには、長年にわたり、『漱石と歩く東京』の販売をいただき、さらに、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』も快く引き受けてくださり、かさねてお礼申し上げます。本日はありがとうございました。

【文豪の東京――夏目漱石】

第1回 日和下駄を履いた猫①

吾輩が日和下駄を履くとなれば、二足必要だ。な~に、気にすることはない。荷風先生と吾輩の飼い主である漱石先生から一足ずつ借りれば良い。「何?おまえは甕の中に落ちて死んだんじゃないかって……」。所詮、小説の世界だし、そんなこと気にする必要もない。そもそも、猫が人間の言葉をしゃべって、100年以上まかり通っているじゃないか。
荷風先生は『日和下駄』という作品で、「淫祠」から始めて「夕陽」まで、テーマごとに東京の街歩きを書いている。これを漱石先生の作品に当てはめてみていこうというのが、『日和下駄を履いた猫』の趣旨である。かつて西洋には「長靴を履いた猫」というのがいたが、それとは趣を異にする。

荷風先生は『日和下駄』の第二を、《裏町を行こう。横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通りにはきまって淫祠がある。》と書き出している。何やら、「猫が歩くところ淫祠あり」と言われているようだ。それにしても、「祠」と書かずに、「淫祠」と書くあたりが、いかにも荷風先生らしい淫らさが伝わってくる。

荷風先生は、《淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである》と書いて、東京市中各地の淫祠の類を紹介しているが、漱石先生の作品に「淫祠」は登場するのだろうか。
漱石先生と「淫祠」と言うと、真っ先に思い浮かぶのが穴八幡だ。穴八幡と言うと赤ん坊の虫封じで有名な神社。けれども、漱石先生が急に怒ったり、暴れたり、手のつけようがなくなるのに困り果てた鏡子さんが、この虫封じをもらって来た。漱石先生が小説を書いて、それを自分でポストに入れに行く隙をねらって、虫封じのクギを打つ。五寸釘を毎日毎日、トントンやって。とうとうある日、それが見つかって、漱石先生、怒ったの何のって……。五寸釘が刺さった虫封じをむしり取って、足で蹴とばして、足でつぶして、外へ持って行って、ゴミ箱にポイ。まあ、五寸釘打たれてりゃ、誰だって怒るだろうけど、そんな漱石先生だったから、穴八幡もあっさりしたもので、『彼岸過迄』に《前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた。》と書いてあるだけ。

神楽坂の善国寺だって、「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸の昔から信仰を集めてきたところだから、「淫祠」と言っても良いだろうけど、『坊っちゃん』に《神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて》、ぽちゃりと落としたとか、『それから』で《秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。》と、まあ、その程度。縁日を登場させただけでも、漱石先生としては上出来かもしれない。

荷風先生は、小石川富坂の源覚寺にある閻魔様には蒟蒻をあげる、と書いている。老婆が閻魔王に祈願して眼病が治ったお礼に蒟蒻を供えたとかで、蒟蒻閻魔と言われている。漱石先生だって、眼病で井上眼科へ通ったくらいだから、蒟蒻閻魔様に願掛けしたって良さそうなもの。それが、『こころ』では、《十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました》。これでは「郵便局の前を通りました」、とかわらない。
『吾輩は猫である』という、無名の吾輩を有名にしてくれた作品では、《「本当にむやみに怒る方ね。あれでよく学校が勤まるのね」「なに学校じゃ大人しいんですって」「じゃ猶悪いわ。まるで蒟蒻閻魔ね」「なぜ?」「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔の様じゃありませんか」》。これなんか、良い方。閻魔像の表情は伝わってくる。それに、漱石先生。むやみに怒ることは自覚していたみたいだ。それにしても、人間っていうものは、よく蒟蒻みたいなもの、食べる気になるもんだ。

大観音は団子坂へむかう道の北側にある。団子坂は菊人形で賑わったが、大観音も浅草の観音様と同じような賑わいをみせた。ところがこの東京市中でも有名な「淫祠」も、漱石先生にかかると、『こころ』では《彼は果して大観音の傍らの汚ない寺の中に閉じ籠っていました》、『硝子戸の中』に《大観音の傍に間借をして自炊していた頃には、》と、これまた目印に使われただけ。どっこい、『三四郎』には、《大観音の前に乞食が居る》。確かに人が集まるとなれば、それをあてにする人もいるだろう。「淫祠」のご利益みたいなものである。乞食は《額を地に擦り付けて、大きな声をのべつに出して、哀願を逞しゅうしている。時々顔を上げると、額の所だけが砂で白くなっている》。漱石先生、しっかり乞食の描写もおこなっている。《誰も顧みるものがない。五人も平気で行過ぎた》。まあ、これが吾輩の飼い主か。吾輩は顧みられて餌を与えられた分、幸せと喜ばなければならないだろう。
大観音は吾輩が生まれたところからも近いので、何となく懐かしい感じがする。

上野山は比叡山を模したと言われ、東の比叡山、東叡山と呼ばれる。比叡山があれば琵琶湖がなくっちゃいけないというので、不忍池がつくられて、ついでに竹生島もつくろうというので、中之島がつくられ、弁天堂が築かれた。東岸から橋が架けられ、江戸の人たちもけっこうお参りに行った、申し分ない「淫祠」である。1907年に東京勧業博覧会が開かれて、西岸から弁天堂のある中之島に観月橋と言う橋が架けられた。新しもの好きの漱石先生。『虞美人草』に書いた、書いた。博覧会の様子。燦たるイルミネーション。人々は観月橋にも押し寄せる。《驚ろかんとあせる群集は弁天の祠を抜けて圧して来る》。群集はイルミネーションを観に来たのであって、弁天堂にお参りに来たのではない。
元祖『日和下駄』に、《当世人の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類のもので、清夜に月光を賞し、春風に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。》と書いた荷風先生。東京勧業博覧会の様子を知ったら、さぞ大ショックであろう。日本にいなかったのが幸いだ。それにしても、細い観月橋に集まって来た群集。《来る人も行く人も只揉まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸に見出して、安々と踵を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後から前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ》。これは群集事故一歩手前の状態だ。吾輩などこんなところに立ち入ったら、夜明けには無残な姿で発見され、そのまま不忍池に蹴落とされていただろう。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。
                          (つづく)
第27回 『日和下駄』で歩く東京㉑

『日和下駄』は最終項「夕陽」。「富士眺望」という題が付されている。
荷風は、目黒の夕日ケ岡、大久保の西向天神の地名をあげ、ともに夕日の美しさを見るために、人の知るところとなったが、これは江戸時代のことで、今日わざわざこのような辺鄙な岡に行くことはないだろうとしつつも、《私は日頃頻に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と夕陽との関係甚だ浅からざる事を知った。》と加えている。
荷風は、①立派な二重橋の眺望も城壁の上にある松の木立を越えて、西の空一帯に夕日の燃立つ時、もっとも偉大な壮観を呈する。②夕焼けの空は堀割に臨む白い土蔵の壁に反射し、あるいは夕風を孕んで進む荷船の帆を染めて、ここにもまた意外な美観をつくる。と、夕陽のつくりだす美しさを紹介しながら、夕日と東京の美的関係を論ずるには、四谷・麹町・青山・白金の大通りのように西向きになっている一本筋の長い街路についてみるのが一番便宜であると続けている。「おいおい、荷風君。君は車を運転しないから、そんな呑気なことを言っているけれど……」。恐怖の西日道路。私は京都の街は好きだけれど、東西にまっすぐ伸びた京都の通りは、夕方に西へ向かって進みたくない。あまりのまぶしさにまったく前が見えなくなる。夕陽が美的と言ってはいられない。
そのようなことはお構いなしに荷風は書き続ける。つまり、隅田川沿岸などは夕陽の美を待たなくても別の趣があるが、麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通り(甲州街道、現在の新宿通り)、芝白金から目黒行人坂に至る街路(現、目黒通り)などは、だだっ広いだけで雪にも月にも何の風情も増しはしないが、こうした無味殺風景な山の手の大通りを、幾分かでも美しいと思わせるのは、《全く夕陽の関係あるがためのみである》。確かに、歩いている分には美しいのかもしれない。自動車の普及によって、美しい風景を一つ失っているとすれば、これはちょっと考えなければならないかもしれない。
つぎに荷風は、甲州街道・青梅街道・大山街道・中仙道など江戸時代の街道を持ち出して、電車が開通して街路の面目が一新されても、駅路の臭味が去らず、《殊に広い一本道のはずれに淋しい冬の落日を望み、西北の寒風に吹付けられながら歩いて行くと、何ともなく遠い行先の急がれるような心持がして、電車自転車のベルの音をば駅路の鈴に見立てたくなるのも満更無理ではあるまい。》と書いている。どう考えても「無理がある」ように思われるが、私自身、久しぶりに金沢の街を歩く時、近代化された金沢の街に、「城下町の雰囲気を残そうとしている」努力を、時には無理やりにでも感じようとするので、荷風の心情は理解できる。
荷風は「夕陽」の最後に、東京における夕陽の美は若葉の五月、六月と、晩秋の十月と十一月の間が第一として、山の手は庭に垣根に到る処、新樹の緑滴るその木立の間から夕陽の空が紅に染め出される美しさは、下町の川沿いには見られない景色であると述べている。そして荷風は、山の手において木立が深く鬱蒼とした場所と言えば、神社仏閣の境内であり、
〇雑司ケ谷の鬼子母神
〇高田の馬場の雑木林
〇目黒の不動
〇角筈の十二社
などを例としてあげている。こうしたところは、空を蔽う若葉の間から夕陽を見るのが良いが、同時に晩秋の黄葉を賞するのに適している。そして、《夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。》と結んでいる。

荷風の筆はここで終わらず、《ここに夕陽の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。》と、話題を富士へつなげていく。
なぜ、夕陽に富士が出て来たのか。理由はかんたんである。江戸・東京から見て、富士山が西にあるからだ。私も東京スカイツリーから、富士に沈む夕陽を見て感動したことがある。東側の街にはスカイツリーの影が長く、くっきりと映っていた。こちらも感動的だった。
荷風は《夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連る箱根大山秩父の山脈までを望み得る。》として、青山一帯、九段坂上の富士見町通、神田駿河台、牛込寺町辺りも、例としてあげている。
ここで荷風は《関西の都会からは見たくても富士は見えない。》と、当たり前のことを書いて、《江戸児は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇となした。》と続けている。これは水道に対する評価でもある。
荷風は《西に富士ケ根東に筑波の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。》と書いた後、北斎の『富嶽三十六景』を取り出し、《その中江戸市中より富士を望み得る処の景色凡そ十数個所を択んだ。》として、具体的に名をあげている。
〇佃島
〇深川万年橋
〇本所堅川
〇本所五ツ目羅漢寺――現在の江東区大島3丁目にあった。今日、羅漢像は目黒に移されている。
〇千住
〇目黒
〇青山竜巌寺
〇青山穏田水車――穏田は現在の原宿辺り。水車は渋谷川に架けられていた。
〇神田駿河台
〇日本橋橋上
〇駿河町越後屋店頭――現在の日本橋三越。
〇浅草本願寺――かつての東本願寺東京別院にあたり、朝鮮通信使の宿舎としても利用された。現在は大谷派から離れて、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺になっている。
〇品川御殿山
〇小石川の雪中
荷風は《これらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。》として、江戸時代においても、深川の万年橋とか本所堅川辺りから富士山を望むことができたのだろうかと疑問を呈しながら、それでもこれらの古い版画は今でも東京と富士山との絵画的関係を尋ねる者にとって、絶好の案内になっているとしている。

クリスマスシーズンともなれば、木々に電飾がほどこされ、人々がそれを見ながらそぞろ歩く。そのような光景を見たかの様に荷風は、《当世人の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類のもので、清夜に月光を賞し、春風に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。》と書く。そして、つらつら思うに、ミラノはアルプの山影があってさらに美しく、ナポリはヴェズウブ火山の烟があって、一際旅する者の心に記憶される。《東京の東京らしきは富士を望み得る所にある》。
ところが荷風の文章はさらにつぎのように続いている。《われらは徒に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつある時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を希うて止まない。》この部分が荷風の最も言いたかったことであるように、私は思う。
資本主義経済が発達し、国家主義の風潮が高まりつつある明治末期から大正初めにおける論調として、素朴にして、重みのある言葉ではないだろうか。現代にも通ずるさまざまなことを考えさせてくれた、荷風の『日和下駄』であった。
荷風は、《君は今鶴にや乗らん富士の雪》という句で、『日和下駄』を締めくくっている。
                       (中締め)

『日和下駄』で歩く東京は、一応これで終了するが、荷風の「都市論」などについて書いてみたい気持ちがある。そこでまた、突然連載を再開する可能性があるので、「完」とせずに「中締め」としておきたい。

【お知らせ】
なお、第1回から通して読む場合には、「ブログ」に入って、カテゴリー「文豪の東京――永井荷風」を選択するのが便利です。

第26回 『日和下駄』で歩く東京⑳

もちろん、坂には谷筋を行くものもあるから、眺望の良い坂ばかりではない。荷風も《全く眺望なきものも強ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。》と書いて、いくつか例をあげている。
〇暗闇坂(四谷愛住町):車が上らないほど急で曲った坂。片側は全長寺の墓地の樹木が鬱蒼として日光を遮り、雑草が生い茂る、何となくものすごい坂。――甲州街道から北へ渾雲寺横丁を入って、四谷台から市ヶ谷へ下りる急崖のところにある。江戸時代には直線的に下りる坂だったものを、後に車の通行に便利なように曲げて、崖を這うようにしたとみられる。現在の新宿通り、四谷三丁目・四丁目の中間あたりから靖国通りへむかう。全長寺は現存する。
〇日向坂(麻布二之橋向):麓を流れる新堀川の濁水と、それに架かった小橋と、斜めに坂を蔽う一株の榎との配合が自ずから絵になるような、甚だ面白くできた坂。――「閑地」で登場した芝赤羽根の海軍造兵廠跡の南側を通る道を西にむかい、高輪台の北端部を西に下る坂。坂下には二之橋が架かり、そのむこうに麻布台が望まれる。新堀川とは古川(赤羽川)。現在は左手にイタリア大使館、オーストラリア大使館を見て進んだ先。2019年にアイドルグループ「けやき坂46」が「日向坂46」に改名されたため、今日では荷風が紹介する坂の中ではもっとも有名かもしれない。「暗闇坂46」と命名されなくて良かったが、「暗闇」と「日向」をセットで紹介した荷風もなかなかである。
〇本郷本妙寺向側の坂:麓を流れる下水と小橋。――具体的にどこの坂を指しているのかよくわからない。本妙寺前の道を菊坂に下る坂もあるが、それなら「向側」の表現はしないだろう。菊坂まで来て、そのまま反対側の本郷真砂町へ上る坂ではないだろうか(坂を上ると、当時の真砂小学校、現在では本郷小学校の前に出る)。この坂なら、坂を下りたところに、菊坂の谷筋を流れ下る小川がある。一つ下流側の坂が「炭団坂」で、この坂なら荷風も名称をしっかり書いたであろう。本郷台はこの辺り、菊坂の谷が西にむかって削られており、谷筋の両側にいくつかの坂道が見られる。
〇赤坂喰違より麹町清水谷へ下る急坂:下弦の月、鎌の如く、樹頭に懸る冬の夜、広大なこの辺の屋敷から犬の遠吠え聞こえる折など、市中とも思えないさびしさ。――赤坂見附と四谷見附の間にあるのが赤坂喰違。外濠は赤坂見附側が弁慶濠、四谷見附側が真田濠(現在は埋め立てられ、上智大学の真田堀グランドになっている)。清水谷へ下る急坂とは紀尾井坂のことだろう。坂の上、赤坂喰違のところで、1874年、岩倉具視が襲われて負傷し、1878年には坂下の清水谷で大久保利通が暗殺されている。紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家などの屋敷跡は、ほとんど分譲されず、広大な屋敷地として残っていたし、二つの襲撃事件を思い出すにつけ、市中とも思えぬさびしさというのはうなずける。荷風が生まれたのは大久保暗殺の翌年である。
〇上二番町辺りの樹木谷へ下りる坂:赤坂喰違より麹町清水谷へ下る急坂に同じ。――現在の麹町4丁目辺りから東北東にのびる谷筋は、善国寺谷あるいは地獄谷とか樹木谷と呼ばれる。上二番町とは現在の一番町で、女子学院などがある。坂はいくつもあるので特定が難しい。
荷風はさらに、坂は土地の傾斜に添って立つ家屋・塀・樹木などの見通しによって、大いに眼界を美しくするとして、二つの坂を例として挙げている。
〇本郷暗闇坂:旧加州侯の練塀が続く。――加州侯とは加賀藩前田家のこと。現在の東京大学(本郷キャンパス)は、江戸時代に加賀藩上屋敷だった。暗闇坂は言問通りから東大に沿って、弥生門前、竹久夢二美術館前を通って、本郷台を池之端へ下りている。距離が長い分、比較的緩やかな坂である。
〇麻布一本松の坂:長伝寺の練塀と赤門が見える。――麻布一本松町(現在の麻布十番2丁目から元麻布1丁目)にある坂。パティオ十番から西に麻布台を上る坂にあたる。左側に長伝寺があり、坂上には一本松がある。

「坂」の項も終わりに近づきながら、坂の名前が続々と登場する。
神社の裏手にある坂。坂になった土地の傾斜は境内の鳥居や銀杏の大木、拝殿の屋根、玉垣など、ある時は人家の屋根の上、路地の突き当りなど、思いもかけぬ物の間から、いろいろ変化させて見せる。
〇神田明神裏手の妻恋坂。――神田明神の少し北に妻恋神社がある。神田明神下を少し北へ進んで、神田同朋町の北端、現在の外神田6丁目から西へ本郷台を上る坂が妻恋坂。坂上に妻恋神社がある。標高差およそ15m。坂下から5筋目の小路を北へ一気に本郷台に上る急坂は、爪を立てて上らなければならないので、「立爪坂」と名付けられ、現在は階段部分が設けられている。
〇湯島天神裏花園町の坂。――湯島には花園町が似合いそうだが、花園町という町名はない。湯島梅園町はあるが、湯島天神の前である。湯島天神裏手の坂は切通坂。この坂は有名だから、荷風も「湯島天神裏切通坂」と書くだろう。湯島天神の東側は崖で、急坂はいくつかある。さて、荷風はどの坂を念頭に置いたのだろうか。
〇白金清正公ほとりの坂。――明治学院の東側を北にむかって下る坂であろう。坂下に加藤清正公がある覚林寺がある。この辺りは藤村に関してしばしば登場している。現在は桜田通りになっているが、どうも坂の名前はついていないようだ。
〇牛込築土明神裏手の坂。――牛込築土明神は牛込台の東北端にある。小高い丘のようになったところに神社があり、東側から階段で上る。西側が裏手にあたり、狭い道路が通っている。牛込台を北へ下る坂は「芥坂(ゴミ坂)」、南へ下る坂は「御殿坂」と呼ばれているようで、荷風はこれらの坂を念頭に書いたのだろう。
〇赤城明神裏門から小石川改代町へ下りる急坂。――赤城神社は南側に正門がある。裏門は西側で階段を下りると赤城坂に出る。赤城坂は牛込台を北へ下る坂で、標高差20mほどになる。
荷風はこのような静かな坂の中途にこじんまりした貸家を見付けると、用もないのに立止って貼り紙を見るとして、その理由を書いている。
「坂」はまだ終わらない。荷風は《東京の坂の中にはまた坂と坂とが谷をなす窪地を間にして向合に突立っている処がある。》として、《鮫ケ橋の如き、即ちその前後には寺町と須賀町の坂が向合いになっている。》《小石川茗荷谷にも両方の高地が坂になっている。》《小石川柳町には一方に本郷より下る坂があり、一方には小石川より下る坂があって、互いに対峙している。》と、谷筋にむかう坂の例をあげ、《こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然温泉場の街が出来たのかと思わせるような処さえある。》と、大げさとも思える表現をしている。
荷風の「坂愛」はさらに続く。
〇念仏坂:市ヶ谷谷町から仲之町へ上る間道にある石段の坂。――牛込台に住吉町から河田町にかけて北西に切れ込む谷筋の東側斜面にある坂。安養寺の向かい側にあたる。標高差10mほど。現在も石段になっている。
〇雁木坂:麻布飯倉のほとりにある、同じような石段の坂。――麻布台1丁目、飯倉交差点の北にある。麻布台を西から東へ下る坂で、現在も石段になっている。
これらの坂は《どうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危くコツコツと角の摩滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心窃に念じているのである。》と、荷風は「坂」の項をようやく締めくくっている。荷風は懸念しているが、東京には予想外に階段の坂が残っているように、私には思われる。
(つづく)
第25回 『日和下駄』で歩く東京⑲

記事の訂正

現在連載中の《『日和下駄』で歩く東京》を読まれた研究者の方から、連載「第21回」の記事の内容に一部誤りがあると、ご指摘をいただいた。このような情報提供はとてもありがたく、私自身の知識を広げるとともに、私が発信した誤った情報を修正するためにも重要である。記事を下記のように訂正する。

【すでに発信した文章】
《しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。》と荷風は、それた話と何とかつなげて、「閑地」の話しを立て直す。
ここからしばらく、何万坪という広い閑地になっている芝赤羽根の海軍造兵廠跡の話題が続く。要約すると、(略)
この後、荷風がこの閑地を久米正雄と訪ねたことが、長々と書かれている。閑地に入る場所がなかなか見つからず、《私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内へ這入って見た》。
【指摘を受けて訂正する箇所】
(誤)久米正雄 ➡ (正)久米秀治

【研究者からの指摘内容】
「第21回」の「閑地」を扱われた章にて、例の旧有馬藩邸を訪ねる件ですが、同道の「久米君」なる人物について、「久米正雄」と記しておられましたが、これは「久米秀治」のことのようです。(略)例の角川『日本近代文学体系』(29巻永井荷風)のお世話になりました。坂上博一氏による注釈は簡単ながら信頼できるので、「頭注」の文言をそのまま記しておきます。
久米君 久米秀治のこと。1887―1925。東京の生まれ。慶應義塾大学文科卒業後帝国劇場に勤務、後有楽座主任となる。「三田文学」「文明」「花月」などの編集に協力、寄稿も多かった。

連載のつづき

なんとか「第十 坂」にたどりついた。荷風も《前回記する処の崖といささか重複する嫌いがある》としているように、「崖」のところでも、切支丹坂など登場している。けれども「崖」と「坂」の根本的な違いは、「崖」は自然にできた(もちろん人工的につくりだしたものもある)が、「坂」はあくまでも通路である。
荷風は《坂は即ち平地に生じた波瀾である。》と定義するが、どうも平坦地よりも、坂を上った高台が好きなようで、ニューヨークでもリヨンでも高台、そしてパリではモンマルトルの高台を愛している。荷風の高台好きはどうも眺望と関係しているようで、東京も世界屈指の大都会だが、《この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥に市中を眺望する時、誰が目にも容易く感じ得らるる処である。》
このように書いた荷風は、《この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、》と続け、九段坂、三田聖坂、あるいは霞ヶ関を昇降する時には《覚えずその眺望の大なるに歩みを留めるではないか》、《東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。》と、坂と眺望を結び合う。言われてみれば、私も兼六園脇の尻垂坂を上りながら、だんだんに眺望が開け、卯辰山との間に黒い瓦屋根が続く街並みを見る時、城下町金沢を感じ、ふるさとを感じてきた。
荷風は古来その眺望の最も名高きものとして、赤坂霊南坂上から芝西久保へ下る江戸見坂を挙げている。その眺望は愛宕山を前にして日本橋・京橋から丸の内を一望する、まさに「江戸見」坂である。ついで、芝伊皿子坂台上の汐見坂を挙げ、古来江戸名所は名ばかりではないと、荷風は力説する。
この後、荷風は《今市中の坂にして眺望の佳なるものを》挙げている。
〇昌平坂:駿河台岩崎邸門前の坂と同じく万世橋を眼下に神田川を望むのに良い。――昌平坂は湯島聖堂の前、神田川北岸にある。現在は外堀通り。これと相対して、神田川南岸にあるのが駿河台岩崎邸門前の坂。淡路坂のことであろう。三菱財閥岩崎邸跡には現在、御茶ノ水ソラシティが建っている。本郷通りを挟んで西側には、漱石も通った井上眼科がある。井上眼科の西隣には瀬川小児科があった。秋聲の『黴』には主人公の息子が入院し、外濠線の電車を眺めている場面が描かれている。現在は瀬川ビルになり、瀬川小児神経学クリニックが入っている。井上病院の南隣にはニコライ堂がある。瀬川小児科とも近いので、『黴』にも登場する。
〇皀角坂:牛込・麹町の高台、ならびに富士山を望むことができる。――神田川南岸に沿って駿河台の西端にある坂。確かに見晴らせる範囲は広い。
〇二合半坂:外濠を越えて、江戸川の流れを隔てて、小石川牛天神の森を眺めることができる。――麹町台地の北端を北に下る。漱石の息子たちも通った暁星学園がある。目線を北にむけたその先に富坂があるあたりの小石川台。台上に牛天神北野神社があり、現在も天神の森の名残が、申し訳程度に見られる。
〇安藤坂:二合半坂と相対する眺望がある。――牛天神のすぐ西にある。確かに二合半坂と相対する眺望が得られるという位置関係である。坂の途中に樋口一葉も通った歌塾「萩の舎」があった。
〇金剛寺坂・荒木坂・服部坂・大日坂など:安藤坂と同様、小石川から牛込赤城番町あたりを見渡すのに良い。これらの坂の眺望で最も絵画的なのは、紺色になる秋の夕靄の中から人家の灯がちらつく頃、または高台の樹木が一斉に新緑を装った初夏の晴天の日。――これらの坂は、安藤坂も含め、荷風のふるさとの坂であり、漱石のふるさと牛込台と相対する。漱石も『それから』・『明暗』でこれらの坂を登場させている。『明暗』では大日坂の上からの眺望が、《広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横たわっていた。秋の夜の燈火が所々に点々と少量の暖かみを滴らした。》と描写されている。『明暗』が書かれたのは1916年。設定時期は1914年であるから、『日和下駄』と同時期である。
〇神楽坂・浄瑠璃坂・左内坂・逢坂など:明月がこうこうとした夜に、こうした坂に佇んで、お濠の土手の続く限り、老松の婆娑たる影が静かな水に映ずるさまを眺めると、誰しも東京中にこのような絶景があるのかと、驚かざるを得ないであろう。――牛込台が外濠に臨むところ、北から順に神楽坂、逢坂、浄瑠璃坂、左内坂がある。現在の中央線の駅で言えば、神楽坂が飯田橋、左内坂が市ヶ谷駅へ下って来る。飯田橋から市ヶ谷そして四ツ谷にかけて、麹町側の土手には松林が続いている。『明暗』では、《堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、そこからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。》と描写されている。
                         (つづく)
第24回 『日和下駄』で歩く東京⑱

続いて荷風は《私の生れた小石川には崖が沢山あった。》と、ふるさとの崖に目をやる。荷風が第一に思い出すのは、茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖。「崖」の項に入って気になっていたのは「仰ぎ見る」という表現の多いこと。確かに崖は覗き込むこともあるが、怖いだけで趣も、崖の壮大さもわからない。やはり崖は仰ぎ見るものだ。
茗荷谷は谷筋だから、両側が崖である。その崖を《その名さえ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向い合って名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町の裏へと攀登っている》。「切支丹坂」は茗台中学校横を抜けた先にある小石川台の急崖を行く坂である。漱石は『琴のそら音』で、「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札を紹介している。この坂に「切支丹坂」と名付けられたのは、谷の反対側、小日向台に切支丹屋敷があったからだ。荷風が「名前を忘れた小日向台へ上る坂」は、「幽霊坂」。『琴のそら音』の主人公の家は小日向台町に設定されているので、切支丹坂を下ると、幽霊坂を上る。《坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりから又向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。この辺は所謂山の手の赤土で、》と漱石は書いている。この坂は1883年から96年の間につくられた道である。荷風が生まれたのは1879年で、「幽霊坂」は荷風が子どもの頃にできたものだが、荷風が坂の名前を忘れたというより、その頃はまだ名前がついていなかったのかもしれない。――なお、『東都小石川絵図』には、小日向台へ上る坂に「キリシタンサカ」の表記があるように見える。けれども、シンサカ(新坂)との道路のつながりなど見ると、漱石や荷風が言う小石川台の崖にある坂の方が適切であるように思われる。(「松本崇男:切支丹坂考/坂学会」は詳細に検証した、おおいに参考になる論考である。)
話しは「坂」ではなく、「崖」だったはず。
荷風は今では左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣になり、竹藪も樹木も伐払われ、以前の薄暗い物凄さを失ったと書き、《私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨か何かのために突然真四角な大きな横穴が現われ、何処まで深くつづいているのか行先がわからぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。》という話しを紹介している。
荷風は茗荷谷を小日向水道町の方へ出る。崖下にはいくつも寺が並んでいる。夏目家菩提所本法寺もそのひとつ。墓地が崖を駆け上がっている。この辺り、荷風が喜んで散歩するところで、音羽へ曲ろうとする角に《大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂にちらばらと喬木が立っている。崖の草枯れ黄み、この喬木の木枯した梢に烏が群をなして棲る時なぞは、宛然文人画を見る趣がある。》と描写している。さすがに文豪だ。
大塚弾薬庫は現在、お茶の水女子大学などになっている。音羽へ曲ろうとする辺りは、現在の江戸川橋付近。ここから小日向台と関口台(目白台)の間の谷筋を護国寺にむかって音羽町が伸びている。通常、丁目は江戸城に近い方が1丁目になるが、ここだけは護国寺の方から1丁目が始まる。聳える崖は小日向台の西端で、場所によって20m近い高さの崖がある。鳩山会館は音羽通りからこの崖を上った小日向台上にある。鳩山家がこの地に住み始めたのは1891年であるから、荷風が崖を眺めていた頃にはすでに住んでいたことになる。洋館が造られたのは1924年。1996年に修復された。
荷風は音羽へ曲ろうとする角に立って、《これと対して牛込の方を眺めると赤城の高地があり、》と、目を神田川の向うに対する牛込台に移し、さらに《正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。》と、目白台へ移っていく。神田川沿いの台地は高さ10数mの崖を形成している。この地に山縣有朋が邸宅と庭園を構え、「椿山荘」と命名したのが1878年。荷風が生まれる一年前である。台地に刻まれた谷筋を利用しながら、変化に富んだ庭園を演出している。
荷風は《目白の眺望は既に蜀山人の東豊山十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。》として、蜀山人の記を紹介している。

ここで話題は巌谷四六に移る。
「巌谷」と来ると、私の手元にも巌谷大四著『人間泉鏡花』がある。巌谷小波は藤村のところでも度々登場したし、私も高輪の巌谷小波先生住居跡を訪ねたことがある。これは話題が広がりそうである。と、巌谷四六についてネット上で調べたがよくわからない。荷風も気を利かせて「小波先生令弟」と書いてくれている。小波の弟は春生。小波も本名は季雄であるから、春生が四六(四緑)であって不思議はない。春生が木曜会に関わっていたことは、藤井公明が『あるロマンチスト(小島文八)の生涯』(高松短期大学研究紀要第6号、1976、高松短期大学)に、《文八が一期おくれて外国語学校に復学した時、同級生に、小波の弟巌谷春生がいた。春生の紹介で、文八は巌谷門下の木曜会に仲間入りした。有明と親しくなったのは、その後であろう。》と記していることからも明らかである。
木曜会というのは、漱石門下の木曜会ではない。1896年につくられた巌谷小波による木曜会である。荷風は『日和下駄』完結の前年(1914年)の暮、木曜会忘年会席上で、四六と会い、《四六君は麹町平川町から永田町の裏通へと上る処に以前は実に幽邃な崖があったと話された。》と記している。この崖は現在の衆議院・参議院議員会館裏手にあるもので、日比谷高校や山王日枝神社との間に南へむかって刻まれた谷筋の東側部分に形成されている。崖の高さは10数mにも及ぶ。荷風も1890年頃、父の仕事の関係で、この永田町に住んでおり、同じく巌谷一六も明治政府に職を得ていた関係で、子どもである小波も四六も永田町に住んでいた。
永井家が住んでいた官舎も、庭先が急な崖になっており、物凄い竹藪で、夏の夕なお、この竹藪から何十匹となくヒキガエルがはい出して来て、気味悪かったと荷風は思い出している。荷風はさらに、《この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて独逸公使館の立っている高台の背後がやはり樹木の茂った崖になっていた。》と続けている。永井家の人たちが住んでいた官舎は現在の永田町1丁目11番の一画で、独逸公使館があったところには現在、国立国会図書館が建っている。国立国会図書館西側の道が荷風の言う「一筋の細い裏通」に相当する。崖が形成されているところは、先ほどの議員会館裏手を走る谷筋の谷頭(浸食が始まるところ)に当たり、高さは数m程度であろう。今日では地形が改変され、谷筋がわかりにくくなっている。麹町台もこの付近、標高29mに達する地点がある。
ヒキガエルについては、漱石は『門』で清水谷から弁慶橋にむけて夫婦が群れをなして移動する様を紹介している。これはメスがオスを背中に乗せ、大挙して産卵場所へむかうもので、2019年8月18日にNHKの「ダーウィンが来た!」では港区立赤羽小学校プールを産卵場所にするヒキガエルの様子を紹介している。奇しくもこの赤羽小学校。江戸時代は久留米藩有馬家上屋敷。「有馬が原」として、この『日和下駄』でも「閑地」の中で取り上げられている。「有馬が原」の時代から脈々として受けつがれてきたヒキガエルたちが、NHKの番組に登場したことになる。『門』に登場するヒキガエルと、『日和下駄』に登場するヒキガエルは500mくらいしか離れていない。
どうやら、巌谷から人脈に派生するつもりが、ヒキガエルになってしまった。ついでと言っては失礼だが、小波の四男大四は、荷風と四六が話した翌年、つまり『日和下駄』が完結する1915年に生まれている。小波45歳。

「崖」の最後は、芝二本榎にある高野山の裏手あるいは伊皿子台から海を見るあたり一帯の崖。高輪台の東端にあたる崖である。第一京浜からは西側に連なって見える崖である。高野山とは真言宗高野山東京別院。ついでに近くにある上行寺に話しが及ぶ。ここには其角の墓がある。荷風は《本堂の立っている崖の上から擂鉢の底のようなこの上行寺の墓地全体を覗き見る有様をば、其角の墓諸共に忘れがたく思っている》。
この地域は藤村のところで度々登場した。東京別院の前は二本榎の通り(旧東海道)で、高輪警察署前交差点はすぐ。南東角に高輪警察署。そして対面する北西角の一帯にかつて上行寺があった。明治学院の東側を南北に通る桜田通りと、二本榎通りの間は高輪台を北に向かって刻む谷筋の始まりで、西に正満寺、東の高輪台にある松光寺・黄梅院・円真寺で囲まれた窪地には墓地が広がっている。上行寺は1962年に伊勢原に移転し、現在は高輪ザ・レジデンスが建っている。
荷風は《白金の古刹瑞聖寺の裏手も私には幾度か杖を曳くに足るべき頗る幽邃なる崖をなしている。》と、この界隈の寺院をもう一つ挙げている。瑞聖寺もすでに紹介したことがあるが、裏手の崖は寺の西側にある。
最後の最後に、《麻布赤坂にも芝同様崖が沢山ある。》と書いた荷風は、《山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快瀟洒なる船と橋と河岸の眺を専有する下町を羨むの余り、この崖と坂との佶屈なる風景を以て、大に山の手の誇とするのである。》と、「ふるさと山の手再発見」。そして、『隅田川両岸一覧』に川筋の風景のみ描き出した北斎も、さらに山の手に足を伸ばしていれば、《『山復山』三巻を描いたではないか。》と「崖」の項を締めくくっている。江戸町人の居住地は主に下町であったから、江戸情緒はどうしても下町に息づいている。そのため荷風も「下町志向」で歩んで来たのであろう。改めて街歩きを『日和下駄』にまとめてみれば、「山の手」も捨てたものではない。その魅力を感じたのであろう。

        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第23回 『日和下駄』で歩く東京⑰

「第九」は「崖」。地理屋は崖にも興味をもつが、文学者が崖に興味をもつとは、よほど趣味が合う。武蔵野台地の先端部に街が発達した東京は、台地の侵食部が多く、したがって崖も多い。前回の「閑地」で登場した四谷の谷筋においても、『君の名は。』のポスターに描かれた須賀神社そばの階段など、崖につくられたもの。この地域、「四谷怪談」と「四谷階段」の街と言う人もいる。東京では崖を上り下りする階段を各所で目にする。「この先、車行き止まり」の看板もみかける。樋口一葉や森田草平が住んだ家は1910年の東京大水害の時、崖崩れによって壊れ、漱石の『門』の主人公は崖の下に住んでいた。この崖を滑り下りて、泥棒が侵入した。金沢も台地の先端部に街が発達し、崖は多い。
話しを荷風の『日和下駄』に戻そう。
荷風は《崖は閑地や路地と同じようにわが日和下駄の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。》として、なぜそうなるのか説明している。
〇崖には野笹・芒に交じって薊・藪枯しを始め、ありとあらゆる雑草の繁茂した間から、場所によると清水が湧いたり、下水が谷川のように潺々と音して流れたりしている処がある。
〇崖は、落掛るように斜めに生えた樹木の幹と枝と殊に根の形などに絵画的興趣を覚えさせることが多い。
〇もし、崖に樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切り立った赤土の夕日を浴びる時など、宛然堡塁を望むが如き悲壮の観を示す。
荷風にとって、崖は樹木や雑草が生えているから興趣があるのであって、裸地ではダメなようだ。けれども概ね崖にはいつしか草木が生えるもので、裸地は崩壊によるか、人工的な掘削によってできた、新しい崖である。実に無残な感じがする。荷風は「赤土」と書いているが、武蔵野台地も関東ローム層が広く見られるので、土の色は全般的に「赤っぽい」。夕日に照らされればなおさらであろう。もちろん、「黄色っぽい」土も多くみられる。
荷風はここで、《昔から市内の崖には別にこれという名前のついた処は一つもなかったようである。》と指摘する。「言われてみれば」である。もちろん、「ハケ」「ノゲ」と言った「崖」由来の地名はみられる。崖の多い地域を指すもので、「八景坂」「上野毛」などこれに当るが、崖そのものに与えられた名称ではない。
荷風は上野から道灌山・飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中でもっとも偉大、神田川を限るお茶の水の絶壁は小赤壁の名があるくらい、崖の中で最も絵画的な実例、と記し、さらに市内のいくつかの崖を紹介している。
〇小石川春日町から柳町指ケ谷町へかけての低地から本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生い茂った崖が現れていた。
〇根津の低地から弥生ケ岡と千駄木の高地を仰げば、ここもまた絶壁。絶壁の頂に添って、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路。荷風は《東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。》としたうえで、その理由を説明している。即ち、片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはしないかと危ぶまれる。足下を覗くと、崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。けれども向こうは一面に遮るものがない大空が限りもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行方をも見極められる。左手には上野谷中に連なる森が黒く見られ、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され、其処から起きる雑然たる巷の物音が距離のために柔げられて、荷風は《かの平和なる物のひびきは街より来る……》というヴァルレエヌの詩を思い出す。――スリルも満点、眺望も満点。これではアルプスなど行かなくても、東京の街中でアルプスのスリルと眺望を満喫できる。「東京アルプス」とでも名付けておこうか。
上野から道灌山・飛鳥山にかけての崖は武蔵野台地の東端部にあたる。この崖下に沿うように山手線・京浜東北線が走っている。崖の高さは概ね20m未満であるが、街中で見ると、連続する巨大な壁に見える。
お茶の水。ここは台地を掘削して神田川を通したため、両側は絶壁。高さは10数mだが、これも街中で見ると、大峡谷のようである。
小石川春日町から柳町指ケ谷町へかけての低地というのは、小石川の低地で、谷筋には現在、白山通りが通っている。見ているのは本郷台の西端部。ここも高さ10数mの崖。先ほど紹介した樋口一葉や森田草平が住んだ家は、この崖下にあった。崖上には漱石の西片の家があった。1910年の東京大水害の時、すでに夏目家は早稲田の方に転居していた。修善寺で重篤になっていた漱石に代って、鏡子夫人が負傷した森田草平を見舞っている。
根津の低地も谷筋を現在、不忍通りが通っている。弥生ケ岡と千駄木の高地を仰げば、本郷台の東端の崖が見える。やはり高さ10数mの崖。根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路とは、森鴎外の散歩道としても有名な「薮下通り」。本郷台の崖に取り付いて、根津神社から団子坂にかけて緩やかに上っていく。鴎外が住んだ団子坂上の家は「観潮楼」と名づけられたくらい、東京湾まで一望できる見晴らしの良いところだった。
このような説明の必要もなく、荷風は《当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。》と、話題を鴎外にもって行く。
荷風は度々観潮楼を訪れたようだが、いずれも夜で、海を見ることはなかったが、上野の鐘が印象に残ったようだ。荷風が観潮楼の一室で鴎外を待っていると、鐘の声。荷風は《振返って音のする方を眺めた。千駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里の夜景を見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。》と書いている。文豪にかかると、こうも奥深い文章になるものか。
上野寛永寺の鐘は、いわゆる「時の鐘」。江戸時代から時を告げて来た。「谷根千」に住む人たちには馴染み深いものであろう。犀星も『抒情小曲集』覚書に暗黒時代という一節で、《小曲集第三部は主として東京に於て作らる。本郷の谷間なる根津の湿潤したる旅籠にて「蝉頃」の啼く蝉のしいいといへるを聞きて、いくそたび蹉跌と悪酒と放蕩との夏を迎えしことぞ。銀製の乞食、坂、それらは皆予の前面を圧する暗黒時代に作なり。幾月も昼間外出せずして終夜なる巷にゆき、悪酒にひたりぬ。その悔新しくてなほ深くふけりてゆきぬ。今も尚思ひ見て予の額を汗するものはこれなり。或る時は白山神社の松にかなかなの啼くをきき、上野の夜明けの鐘をききては帰りぬ。合掌のあとさきはじつに病気ともたたかひし時代なりしなり。》と、鐘の思い出を記している。
観潮楼を辞した荷風は、夜9時過ぎ、例の薮下通りを下って、根津権現の方から不忍池の後ろへ廻る。すると《ここにも聳え立つ東照宮の裏手一面の崖に、木の間の星を数えながら》歩き、上野広小路から電車に乗っている。暗くなってからあまり通りたくない道である。根津の谷筋に電車が走れる道路がつくられ、電車が通るようになったのは1917年である。『日和下駄』が書かれたのは1915年であるから、鴎外との話しはそれ以前であり、電車はまだ開通していなかった。東照宮は上野山から西へ少し突き出したところに建っているので、不忍池あたりからよく見えたであろう。 
                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第22回 『日和下駄』で歩く東京⑯

続いて、荷風は四谷鮫ケ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を境に荒草蔞々たる火避地があるとして、四谷通の髪結床の帰り道、あるいは買い物ついでに、法蔵寺横町、西念寺横町など寺の多い横町へ曲って、車の通れない急な坂を鮫ケ橋谷町へ下り、貧家の間を貫く一本道を足の行くまま火避地へ出て、ここで若葉と雑草と夕栄えとを眺めると書いている。
ここで再び、この地域の地形について説明しておくと、新宿通りの津之守坂入口交差点付近から南に谷筋が延び、200m余下ったところで、標高は32mから20mに低下する。さらに300mほど行くと、信濃町から東へ下ってくる谷筋が合流する。この谷筋をやって来た甲武鉄道、現在の中央線は、谷を横切り、東側の台地をくぐる四谷のトンネルにむかう。線路を越えた辺りからが荷風の言う火避地で、宮内省用地になっていたのではないだろうか。谷筋はそのまま赤坂離宮、現在の赤坂御用地に入り、幾多の池をつくりながら、東へ、外濠へむかっている。
荷風も、《法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町》と書いている通り、とにかくこの地域一帯、寺院が多い。漱石の旧養家塩原家の、かつての菩提所である宗福寺(曹洞宗、現、新宿区須賀町10-2)もここにある。
荷風がこの谷筋で注目したのは貧民窟である。荷風は《四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。》と評し、四谷の方の坂から見ると、《貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃している。》と描いた後、さらに初夏や冬の貧民窟の様子を描写している。
荷風はこのような暗鬱な一隅を過ぎ、線路の土手を越えると、広々とした火避地の向うに《赤坂御所の土塀が乾の御門というのを中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀登っている。》と書いて、あたりの様子を描写している。御所の方から落ちて来る水が滝となり、《夜になったらきっと蛍が飛ぶにちがいない。》と、この夕ばかりは夏の黄昏が長く続くのをうらんでいる。
荷風が立っているところ。現在では。四谷から谷を下って来て、中央線をくぐり、やがて赤坂御用地北側に沿って走る都道414号線に出た、南元町交差点辺り。正面に御用地に入る鮫が橋門がある。都道を500mほど西へ上って行くと、権田原交差点に出る。
荷風は赤坂御所より貧民窟に興味があるようだ。一時、代々木の原で万国博覧会が開かれるという話しがあり、電車の窓から西洋人が貧民窟を見下ろしたのでは国家の恥辱になるということで、取り壊しの噂が流れた。結局、万博はカネがなくて実現せず、貧民窟も取り壊されずに済んだ。荷風はこのような話しを紹介し、万博に来た西洋人に見られても、それほどきまり悪がる必要はないだろう。《当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除を急ぐが至当であろう。》と評している。きっと、漱石も荷風に賛意を送るだろう。
この貧民窟の地域も、1945年3月10日の東京大空襲ですべて焼失してしまった。宗福寺も焼失し、塩原家の過去帳も失われた。塩原昌之助の養子秋男は、1948年4月、宗福寺で新たな過去帳をいただき、復元に努め、後に墓も実家小出家がある静岡に移した。アニメ映画『君の名は。』で、一躍聖地になった須賀神社は宗福寺の北西300mほどのところにある。ポスターに描かれた石段が、この地域の崖の高さを物語っている。須賀神社の本殿など一部は大空襲による焼失を免れた。

《現在私の知っている東京の閑地は大抵以上のようなものである。》と、「閑地」も終わりに近づく。
ここで、《わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署後の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡に観音ができあたりは日々町になって行く。遠からず芸者家が許可されるとかいう噂さえある。》と、荷風の自宅そばの閑地に話しが及ぶ。永井家がどうしてこのような地域に住家を構えたかわからないが、当時、東京の監獄(刑務所)が集まっている地域だった。
「市谷監獄」は1875年に小伝馬町から移転したもので、1879年には高橋お伝がここで処刑されている。1910年に豊多摩監獄(後の中野刑務所)として豊多摩郡野方村に移転したので、『日和下駄』を書いた頃は、更地になり、住宅が建ち始めていたのだろう。今日の市谷台町である。観音像(青峰観音、初代観音像は高村光雲作)は、再建を経ながら現在も地域住民に守られている。
この「市谷監獄」の西に隣接して「東京監獄」があった。これは1903年に鍛冶橋から移転してきたもので、1922年に市谷刑務所と改称。1937年に西巣鴨へ移転、東京拘置所と改称された。「東京監獄」も死刑が執行された。刑務所が移転後、土地は分譲されたが、都立総合芸術高校も跡地に建っている。金沢でも刑務所跡地が大学になっているから、別に驚くべきことでもない。死刑場のあったところは、現在の富久町児童公園・余丁町児童遊園一帯。公園の一隅に市谷刑務所刑死者慰霊塔が建っている。1911年。大逆事件で死刑判決を受けた12名の死刑が執行されたのも、ここである。つまり、荷風の家から目と鼻の先で、幸徳秋水、管野スガなどが絞首台に命を絶たれたのである。
荷風は続いて芝浦の埋立地も閑地とみて良いとして、若干の説明を加え、さらに、東京市の土木工事は市の風景を毀損することに勉めているが、《幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き毛氈を延べ、月の光あってその上に露の球の刺繍をする。われら薄幸の詩人は田園においてよりも黄塵の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。》と、「閑地」を結んでいる。何か新しい視点を与えられる文章である。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第21回 『日和下駄』で歩く東京⑮

《しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。》と荷風は、それた話と何とかつなげて、「閑地」の話しを立て直す。
ここからしばらく、何万坪という広い閑地になっている芝赤羽根の海軍造兵廠跡の話題が続く。要約すると、
〇かつては有馬侯の屋敷があった。
〇現在、蛎殻町にある水天宮は元、この邸内にあった。
〇一立斎広重(初代歌川広重、安藤広重)の『東都名勝』の赤羽根の図に、柳の生い茂った淋しい赤羽根川堤に沿う大名屋敷の長屋が遠く立続いている、その屋根の上から水天宮への寄進の幟が幾筋も閃いている様子が描かれている。
〇図中にある海鼠壁の長屋と朱塗りの御守殿門とは去年(1914年)の春頃までは半ば崩れかかったまま面影を留めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に跡方もなくなった。
この後、荷風がこの閑地を久米正雄と訪ねたことが、長々と書かれている。閑地に入る場所がなかなか見つからず、《私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口を見付けて、用事あり気に其処から構内へ這入って見た》。閑地の草原を横切り、釣り人のいる古池へ。かつて久留米藩二十余万石の城主の館が築かれていた時分には、水の漂っている面積は二、三倍広く、崖の中腹から見事な滝が落ちていて、荷風は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様を朧気ながら描いてみる。そして荷風は書く。《われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気もなく破壊して兵営や兵器の製造場にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更の如くつくづくと思知るのであった》。
芝赤羽根の海軍造兵廠跡というのは、現在の地下鉄大江戸線赤羽橋駅南、港区三田一丁目にあった。江戸時代には久留米藩有馬家の上屋敷があり、邸内に久留米水天宮の分社が祀られていた。1871年に有馬屋敷とともに移転した後、1872年に日本橋蛎殻町の現在地に移転した。有馬屋敷跡には、工部省製作所がつくられたが、1883年には海軍造兵廠が築地から移転してきた。その造兵廠も呉に統合移転されると、「有馬が原」と呼ばれる状態になっていたが、その一角に、荷風が『日和下駄』を書いた1915年の12月、恩賜財団済生会の本部直営基幹病院として、芝病院(現在の東京都済生会中央病院)が開業した。この建設工事のおかげで、荷風と久米は「有馬が原」に入ることができたと言える。
旧有馬屋敷の中央部には1926年に赤羽小学校がつくられた。同校が発行する「赤羽だより」(令和3年6月号)には、開校95周年記念特集:赤羽小学校の歴史その③「日和下駄」(ひよりげた)の記事があり、荷風も書いた「猫塚」の紹介と写真も掲載されている。

荷風は《雑草が好きだ。》《閑地に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝の縁に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である》。これだけ書いてもらえれば、「雑草」もさぞかし嬉しいだろう。けれども、「雑草」と言ってもみんな名前が付けられているのだから、すごいものである。そして私はそのほとんどの名前を知らない。
荷風はおもしろいことを書いている。雑草は和歌にも詠われず、俵屋宗達や尾形光琳の絵にも描かれなかったが、江戸平民の文学である俳諧や狂歌に至って、《雑草が文学の上に取扱われるようになった。》と。そして荷風は各所に新設される公園の樹木を見るよりも、《通りがかりに閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚える。》と記している。
ここで今度は戸川秋骨が登場する。荷風は秋骨が書いた『そのままの記』の戸山ケ原の一章を長々と引用し、《秋骨君が言う処大にわが意を得たものである。》と評す。荷風は秋骨のどんなところに「我が意」を得たのか。
戸山の原は東京近郊に珍しい広開した地で、武蔵野の趣を残し、人々が自由に出入りする自然の一大公園であり、最も健全な遊園地である。けれどもこの戸山の原は陸軍の用地であり、使用されるのは一部で、ほとんどが不用の地であるが如く、市民・村民の蹂躙に任されている。実に《俗中の俗なる》陸軍の賜物である。騎馬の兵士が大久保柏木の小路を、隊をなして馳せまわるのは甚だ五月蠅い、癪にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、平民にとって甚だ不快だが、その不快を与える大機関が、昔の武蔵野を自分たちのために保存してくれている。《思えば世の中は不思議に相贖うものである。一利一害、今さらながら広報の説が殊に深く感ぜられる》。
荷風はこのようなことは、代々木青山の練兵場や高田の馬場などにも当てはまる「俗中の俗たる陸軍の賜物」としている。大正のはじめ頃はまだ、軍隊に対してこのような皮肉を言うことが許されていたのであろうか。
広大な戸山の陸軍用地は、漱石生家のすぐ西にある誓閑寺の裏手から広がっていく。江戸時代は尾張徳川家の下屋敷で、大名庭園もつくられていた。今日では、学習院女子大学や早稲田大学用地、都営アパート用地などに転用され、戸山公園など公園用地も広がっている。公園内に残る箱根山は大名庭園中の箱根宿を模したもの。
戸川秋骨は明治学院で藤村や馬場孤蝶らと同級。明治女学校でも教えたことがある。藤村の子どもたちも通った鞆絵小学校出身。
荷風は慶應義塾へ通う電車の道すがらの様子も記している。信濃町権田原、青山の大通り、青山墓地などの地名が挙げられるが、この辺り、沿道の大きな建物はことごとく陸軍に属するもので、電車の乗客も通行人も兵卒でなければ士官という有様だと荷風は言う。
                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第20回 『日和下駄』で歩く東京⑭

路地で迷子にならず、何とか「閑地(あきち)」にたどり着いた。ところが、たまげた。これが実に長い。しかも荷風は冒頭、《市中の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最う一つある。それは閑地である》。これはたいへん。まともに付き合ったら、連載二回、三回では終わりそうにない。
私は子どもの頃、路地に住んでいたので、路地の思い出は多く、路地の味わい、路地の良さはよくわかる。ところが閑地は?荷風も閑地に関しては、《市中繁華なる街路の間に夕顔昼顔露草車前草なぞいう雑草の花を見る閑地である。》と限定している。そして、閑地は地面師でない限り、どこにできるか、あらかじめ知ることはできないので、その場を通りかかって始めてこれを見るだけだけれど、強いて捜さなくても市中いたるところにあるとして、さらに、久しく草が生えていた閑地で普請が始まったと思えば、隣の家が取払われて閑地になり、火事で焼けて閑地が出来。山河や溝、路地の類まで、もちろん時とともに変化するが、一年、二年の単位で変化するものではない。その点、固定的である。それに対し、閑地というのはきわめて流動的なものであることを、私は荷風から気づかされた。
文章は続き、閑地は一雨降ればすぐ雑草が芽を吹き花を咲かせ、蝶々、トンボ、きりぎりすが飛んだり跳ねたりする野原になり、外囲いがあってもないも同然で、通り抜ける人たちの下駄の歯に小径は縦横に踏み開かれ、昼は子どもの遊び場、《夜は男女が密会の場所》となり、夏の夜に地元の若い者が素人相撲を催すのも閑地があるからだと、いかにも荷風らしい視点で閑地を論ず。
この後、荷風はいくつかの閑地を取り上げ、一つひとつ語っていく。
〇市中繁華な町の、倉と倉との間や荷船の込み合う堀割近くにある閑地:今も昔と変わりなく、折々紺屋の干場または元結の糸繰場などになっている処がある。荷風はそれらの光景に北斎の画題を思い起す。芝白金の黄檗宗の寺である瑞聖寺門前の閑地に一人の男が元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその辺の貧しい人家などと対照して、俳人其角が茅場町薬師堂のほとりの草庵の裏手、蓼の花穂が出た閑地に、文七というものが元結こぐ車の響きを昼も蜩に聞きまじえて云々など、吟じた風流の故事を荷風は思い浮かべたと記している。――瑞聖寺は明治学院大学の西、地下鉄白金台駅すぐにある。創建350年ほど経つ。伊藤博文の両親の墓がある。寺のホームページによると、安政の大地震などで大きな被害に遭い、その後の復興はままならなかったとのことで、荷風が「荒れた寺の門」と描いていることもうなずける。茅場町薬師堂とは鎧島山智泉院で、「茅場町のお薬師さま」として知られている。鎧橋南西100mほどのところにあり、現在は茅場町1丁目。境内地に其角が住んでいた。
〇神田三崎町の調練場跡。:荷風が中学に通っている頃くらいまでは、殺人や首くくりの噂で、夕暮れからは誰一人通るものがいない恐ろしい処だった。――幕末につくられた講武所が明治になって陸軍の練兵場(調練場)になった。1890年に三菱に払い下げられ、三崎町が開発されたが、練兵場の機能が麻布などに転じ、三崎町が開発されるまでの間、恐ろしい閑地になっていたのであろう。結局、三崎町はもう一つの「一丁倫敦」になることなく、劇場が人びとを集める街になっていった。
〇小石川富坂の片側:砲兵工廠の火避地。樹木の茂った間の凹地に溝が小川のように美しく流れていた。――現在、中央大学のキャンパスになっている辺りを指していると思われる。
〇佐竹ケ原(下谷)・薩摩原(芝):旧諸侯の屋敷跡は町になっても「原」の名が残る。――秋田藩(久保田藩)佐竹氏の上屋敷は、徳川幕府瓦解直後の1869年に火災で焼失。「佐竹ケ原」と呼ばれる状態に。1884年頃から住宅や商店などが建ち始め、町が形成されていった。三田にあった薩摩藩上屋敷は1867年に焼き討ちに遭って焼失。跡地が「薩摩ツ原」と呼ばれた。1877年に三田育種場がつくられた。現在NEC本社が建っているところも屋敷地の一部。ともに火災焼失によって生じた閑地。徳川瓦解によって、多くの大名屋敷が草ぼうぼうの閑地になったが、広大な敷地を有した大名屋敷は、やがて首都東京において格好の建設用地を提供することになった。荷風はこうした光景を、さらに江戸城(皇居)周辺に見出している。
〇銀座通りに鉄道馬車が通っている頃、数寄屋橋から虎ノ門に至る外濠にはまだ石垣が保存されていたが、日比谷公園はまだ見通しきれないほどの閑地だった。大名小路の跡の丸の内の三菱ケ原も大方赤煉瓦の会社になったが、まだ処々に閑地がある。《私は鍛冶橋を渡って丸の内へ這入る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故というにこの閑地には》繫茂した雑草の間に池のような広い水たまりが幾か所もあって、夕陽の色や青空の雲の影が美しく漂うからであり、《私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那辺にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで幾度も見た事があるような気がする。》――あえて、場所的解説は必要ないだろう。外国を見て来た荷風ならではの閑地紹介である。

東京府庁の前を通って、赤煉瓦街を抜け、日比谷堀へやって来た荷風は、日比谷公園の北側を桜田見附へ。この桜田見附の外にも久しく兵営の跡が閑地のまま残されている。さらに桜田堀に沿って三宅坂の参謀本部下の堀端を通りながら眺めると、《閑地のやや小高くなっている処に、雑草や野蔦に蔽われたまま崩れた石垣の残っているのが見える》。このような光景に荷風は大名屋敷の立っていた昔を思い起こすが、霞が関の坂に面した一方に、いまだに一棟か二棟ほど荒れたまま立っている平家の煉瓦造りを望むと、老中・奉行などの代りに参議や開拓使などという官名がおこなわれた明治初年の時代に対して、《今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである》。260余年の蓄積された幕藩体制が崩壊し、試行錯誤しながら明治政府が歩んでいった。何百年変わらなかったものが、短期間に生まれては消え、消えては生まれる。水泡の如く閑地は生まれ、閑地は消える。その果敢なさが荷風の感情を揺さぶったのであろう。古き江戸より、身近な明治の方がかえって懐かしく思えてくる。現代においても荷風の思いは共感できる。
荷風はここで小林清親に着目する。小林は明治十年頃、「東京名所の図」として、新しい東京の風景を写生した水彩画をそのまま木版刷りにした。その中に、外桜田遠景と題する絵が、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。荷風は《当時都下の平民が新に皇城の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気を帯びた新画風と古めかしい木版摺の技術と相俟って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。》と記して、さらに木下杢太郎が『芸術』第二号で小林の風景版画の研究を発表していることに言及している。
小林の風景画に触れた荷風は、『日和下駄』の散歩において、江戸の遺蹟とともに、明治初年の東京を尋ねることにも勉めていると宣言し、小林が描いた新しい東京も、わずか二、三十年とは経たないうちに、さらに新しい東京なるものが発達するに従って、跡形もなく消滅して行きつつあると指摘する。大正の荷風にとって、「明治初年は遠くなりにけり」である。
荷風はこのような事例をいくつかあげている。
〇明治六年に筋違見附を取り壊して、その石材を使って造った眼鏡橋は、それと同じような形の浅草橋とともに、皆鉄橋に架け替えられた。
〇大川端の元柳橋は柳とともに跡方なく取払われた。
〇百本杭はとまらない石垣に改められた。
小林翁の東京名所絵当時の光景をわずかにとどめるものは、
〇虎ノ門の旧工学寮の煉瓦造。
〇九段坂上の燈明台。
〇日本銀行前の常盤橋。他、数か所。
官衙の建築物では、
〇桜田外の参謀本部。
〇神田橋内の印刷局。
〇江戸橋際の駅逓局。など数か所。
私が書く『金沢ブログ』も、今の金沢から見れば、まさに「昭和は遠くなりにけり」の感がある。

《閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。》と荷風。何とか立て直そうとするのだが……。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第19回 『日和下駄』で歩く東京⑬

やっと「第七 路地」に入る。荷風の大好きな場所であり、これは容易に抜け出すことができないかもしれない。と、思ったら、意外に文章量の少ない。これは、せめてもの安心材料である。
《擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の物哀にして情味の深きに似ている。》と路地を評した荷風は、式亭三馬の『浮世床』の挿絵に歌川豊国が路地口のさまを描いた図があると紹介し、《歌川豊国はその時代(享和二年)のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『時勢粧』の中に路地の有様を写している。》と続けている。享和二年は1802年で、1804年から文化、続いて1818年から文政、教科書にも登場する「化政文化」の時代に入る。荷風が江戸文化に強い関心を寄せていたことがうかがえる。
荷風は路地をつぎのように表現している。
〇その時期の浮世絵に見る如く、今も昔と変わりなく細民が棲息するところ。
〇日の当った表通りからは見ることのできない種々の生活が潜みかくれているところ。
〇侘住居の果敢なさもある。
〇隠棲の平和もある。
〇失敗と挫折と窮迫との最終の報酬である怠惰と無責任との楽境もある。
〇好いた同士の新世帯もあれば、命がけの密通の冒険もある。
〇路地は細く短いと言っても、趣味と変化に富むことは、あたかも長編小説のようである。
このような路地に対して、《今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板痩せ衰えた並樹さては処嫌わず無遠慮に立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。》として、そのような東京を「中途半端」と評し、表通りを歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情が《一層私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。》と、路地への思いを語る。それから100余年を経た東京。果たして「中途半端さ」は、なくなったであろうか。あるいは、東京の街として、ひとつの調和をもって、整ってきたであろうか。

荷風の視点は再び路地へ。荷風といっしょに路地めぐり。
〇日本橋際の木原店:軒並み飲食店の行燈が出て、食傷新道の名がつく。――白木屋の裏手にあり、木原店という寄席があったところから名づけられた。漱石も『三四郎』で寄席としての木原店を登場させ、『こころ』では先生が下宿の奥さんに連れられて、木原店の横丁で食事をごちそうになっている。
〇吾妻橋手前の東橋亭という寄席の角から入った花川戸の路地:芸人や芝居者また遊芸の師匠などが多い。何となく猿若町の新道の昔もこのようだっただろうと推量される。――現在の雷門通りを吾妻橋にさしかかる少し手前、左側に東橋亭があった。義太夫寄席として知られた。
〇八丁堀北島町の路地:いつも夜店でにぎわう。片側に講釈の定席、片側に娘義太夫の定席が向かい合っている。堂摺連の手拍子は毎夜張扇の響きに打ち交じる。――北島町は現在の日本橋茅場町2・3丁目。南に隣接するのが八丁堀1丁目。堂摺連は「どうする、どうする」と掛け声をかけるところから名づけられたと言われる娘義太夫の熱烈なファンで、追っかけ。とくに竹本綾之助は絶大な人気を博し、「会えるアイドル」の先駆け的存在で、堂摺連の一人と結婚、引退した。
〇両国の広小路に沿って石を敷いた小路:小間物屋・袋屋・煎餅屋など種々の小売店がにぎわう。まさしく屋根のない勧工場の廊下。――両国広小路は江戸期には見世物小屋や茶屋ができてにぎわったところ。現在の東日本橋2丁目。「屋根のない勧工場の廊下」に屋根をつけたのが現在のアーケード街であろうか。
〇横山町辺のとある路地:立派に石を敷き詰めた両側ともに、長門筒・袋物・筆など製造している問屋ばかり続く。路地一帯が倉庫のように思われる。――横山町は元禄頃からの問屋街で、「横山町へ行けば何でも揃う」と言われた。現在の日本橋横山町。
〇芸者屋の許可された町の路地:新橋・柳橋の路地より、新富座裏の一角を、そのあたりの堀割の夜景、芝居小屋の背面を見る様子が最も趣がある。――新富座は新富町6丁目(現、新富2丁目)にあった芝居小屋。すぐそばに築地川があり、築地橋が架かっている。1872年に開館し、1923年の関東大震災で被害を受け閉館した。現在は京橋税務署が建っている。
このような路地の中で、《最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは葭町の芸者家町であろう。》と荷風は記し、《わが拙作小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。》と語っている。そういえば、神楽坂も路地が多い。
この後、しばし路地に関する文章が続き、《路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明には描き出されていない。》と来る。《どこから這入って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず行止りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。》と記した荷風は、路地には中橋とか狩野新道とか江戸時代から伝承してきた古い名称のあるものも少なくないが、その土地に住み古したものの間にのみ通用する名前で、東京市の市政が認めて公の町名になっているものは恐らく一つもないだろう、とした上で、《路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。》と、いかにも荷風らしい「路地論」を展開している。
そして、そのような路地自体が荷風にとって小説の舞台であり、芝居の舞台となるのであろう。荷風は、《凡てこの世界のあくまで下世話なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞいう道具立と一致している。この点よりして路地はまた渾然たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。》と、路地の項を結んでいる。

中橋:江戸時代前期、日本橋と京橋の間にある堀割に架けられていた橋。現在の日本橋3丁目、八重洲交差点の位置にあたる。橋はなくなったが、中橋広小路町などの地名として残った。
狩野新道:現、京橋1丁目。北側に狩野永徳の住居があったことから名づけられたという。


                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第18回 『日和下駄』で歩く東京⑫

荷風が横道へ逸れたため、溝川から逸れてしまったが、《溝川は元より下水に過ぎない。》という一文で、本道へ戻ろう。
荷風は芝の宇田川をこの例に挙げている。荷風は《溜池の屋敷の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れて》《愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故宇田川橋にては少しの川のやうに見ゆれども水上はかくの如し。》(『紫の一本』)という文章を引用して宇田川を説明しているが、「これって、桜川じゃない?」と私は思う。江戸時代の『今井谷六本木赤坂絵図』にも、溜池に沿っての流れを、《下水 下流愛宕下ニテ桜川ト云》と記されている。実際には何本にも分流しているので、その一本が桜川とよばれたのであろう。
桜川は将監橋のところで古川に流入するが、上流の赤羽橋付近で流入する下水もある。これが荷風のいう宇田川に相当するのであろうか。要するに、溝川の源流は下水であり、それが落合って川をなすものも少なくなく、流れは段々広くなって、天然の河や海に落込む辺りまでくると、伝馬船を通わせるくらいの広さになる、というのである。古川は赤羽川とも言われる区間がある。漱石の『それから』で代助と兄が橋の袂にある鰻屋に入った金杉橋は、古川の河口に近い橋である。橋の下流には現在も屋形船を見ることができる。
荷風は《王子の音無川も三河島の野を潤したその末は山谷堀となって同じく船を泛べる。》と付加えている。こちらの方は古川河口と違って、埋立てられてしまったので、船を見ることはできなくなってしまった。
溝川の項を読みながら、私は荷風がこのような都市下水に関心を寄せたこと自体に感動をおぼえる。今やこのような下水は地上から姿を消し、地下へ潜ってしまったが、網の目のように張り巡らされた地下下水が都市住民の生活を下支えしているのだから、見えないものにも目をむける姿勢は、やはり必要であろう。
この後、《下水と溝川はその上に架かった汚い木橋や、崩れた寺の塀、枯れかかった生垣、または貧しい人家の様と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。》と、いかにも荷風らしい視点を感じさせる文章を続けて、
小石川柳町の小流、
本郷の本妙寺坂下の溝川、
団子坂下から根津に通ずる藍染川、
を例に、《かかる溝川流る裏町は大雨の降る折といえば必ず雨潦の氾濫に災害を被る処である。》と指摘する。小石川柳町の小流は以前も触れたが千川(氷川、礫川、小石川大下水)である。本妙寺坂下の溝川は菊坂の谷筋を流れる。樋口一葉もこの溝川沿いに住んでいた。
荷風はさらに、溝川が貧民窟に調和する光景の中、もっとも悲惨な一例として、麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋を挙げている。荷風は《ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟んで互にその傾いた廂を向い合せている。春秋時候の変り目に降りつづく大雨の度ごとに、芝と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳までを浸してしまう。》と記している。
古川は北に麻布台、南に白金台・高輪台に挟まれて、東へ流れ、古川橋のところで直角に曲がって北へ流れる。濁流は曲がり切れないから、一気に溢れ出る。その先は高輪台の先端が慶應大学を乗せて、北から西へ曲がり込むので、溢れた水はブロックされて、回り込みながら逆流し、古川橋の一つ下流にある三之橋付近で本流とぶつかり合う。しかも古川は一之橋まで行くと、麻布台に阻まれて、再び直角に曲がり、東へ流れて行く。つまり古川の水は一之橋辺りでも押し戻されることになる。いちおう私も水害の研究をやってきたので、悪条件の重なった地域であると認識できる。荷風は現実の水害の惨状を見て、認識したのであろう。(荷風が指摘した地域。治水対策が進んだわけではないので、港区のハザードマップを見ると、今日でも大きな浸水被害が出る地域になっている)。
私は大学の時、「都市の内水災害」を調べていて、担当教官に「どうして浸水するようなところに、みんな住むんですか?」と訊いたことがある。「そりゃ、君、カネだよ」。要はおカネのある人は高いところに住み、おカネのない人は低いところに住む。水は高いところから低いところへと流れると。
荷風が東京都知事になっていたら、下水道整備や治水対策がおおいに進んでいたのかと思うが、荷風の真骨頂はこの先である。雨が晴れると水に濡れた家具や夜具蒲団をはじめ、何とも知れぬ汚らしいボロの数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝し出され、《真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚を捕まえようと急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。》と、そこに住む人たちのたくましさに惹かれ、《かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋から眺める大雨の後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。》と結んでいる。テレビドラマではアップされて一点しか観えないものが、舞台ではすべてが観える。全体像を光景、景観として捉えていく荷風の視点が、ここでも表れている。荷風の文章を読みながら、私はふと、日本でも洪水の川で流木を手に入れようとして流されて行った人たちが、けっして少数ではなかったことを思い出していた。
江戸城の濠を取り上げた後、荷風は池に話題を転じ、鏡ケ池・姥ケ池・浅草寺境内弁天山の池・赤坂溜池ことごとく消え、市中に残された池は不忍池のみと。
鏡ケ池は現在の台東区清川と橋場の境界辺りにあった。出山寺と、すでに移転してしまった総泉寺の間、現在の橋場交番前交差点一帯。かつてこの辺りは「浅茅ケ原」と呼ばれるさびしいところで、寛文年間のある朝、草刈りに来た人が池畔の松の木の枝に掛けてあった小袖を見つけ、池に身を投げた少女の遺体を発見した。その少女は吉原(新吉原)の遊女「采女」、17歳。心優しい美少女に心奪われた若い僧侶は采女を慕って、戒律を破って廓通い。結果、見世先で自害。采女も鏡ケ池に身を投げた。土地の人はこれを憐れんで、池の畔に「采女塚」を建てた。明治になって池は埋められ、塚は出山寺に移された。
鏡ケ池(鏡が池)と言うと、漱石の『草枕』にも登場する。虚無僧に恋をした志保田の美しい嬢様が、この池に身を投げる。もともと采女伝説は奈良の猿沢池に身を投げた遊女の話しを引き摺っている。漱石も浅茅ケ原の采女伝説を引き摺っても不思議はない。さて、博識の漱石はどうだったのか。
防災上から言えば、池があった地域は、すでに池が消えてしまっていても、地盤が軟弱な場合がある。地震の際、被害が大きくなる危険性もある。清川・橋場一帯も液状化の可能性が高い地域に分類されている。
姥ケ池は浅草寺の東、二天門を出てまもなくの台東区民会館東側、花川戸公園の位置にあった。現在も公園内に小さな池が残されており、碑もある。この池にも、娘が連れて来る旅人を殺し続けた老婆が、過って娘を殺してしまい、悔いて池に身を投げたという伝説がある。
荷風のおかげで、東京に残る伝説にも触れることができた。また、東京の味わいが増えた。その分、東京が愛おしくなってくる。

「第六、水」も、あとわずか。《都会の水に関して最後に渡船の事を一言したい。》と荷風。
荷風は、元禄9年に永代橋が架けられて、「大渡し」と呼ばれた大川口の渡し場は、『江戸鹿子』『江戸爵』などの古書にその跡を残すばかりになり、御厩河岸の渡しや鎧の渡しなども、明治初年の架橋によってなくなったけれども、『日和下駄』を書いている1915年時点において、両国橋の川上にある富士見の渡し、川下にある安宅の渡し、向島には竹屋の渡し、橋場には橋場の渡し、堅川や小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場が幾箇所もあり、月島の埋立工事が出来るとともに、築地の海岸から新たに曳船の渡しが出来た、と紹介し、《今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。》と書いている。そして、荷風自身、1915年という年を入れることの意義を書いているが、まさに貴重な資料を荷風は残したことになる。
荷風は橋梁ができていけば、いずれ渡船は廃絶されていくであろうとし、《向島の三囲や白髯に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない》が、《両国橋の有無にかかわらずその上下に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希うのである。》と気持ちを表したうえ、渡船の魅力をいくつか記している。
① 竹屋の渡しの如く、河水に洗出された木目の美しい木造りの船、樫の艪、竹の棹を以てする絵の如き渡船はない。
② 橋を渡る時、欄干の左右からひろびろとした水の流れを見る事を喜ぶものは、水上に浮び鷗と共にゆるやかな波に揺られつつ向う岸に達する渡船の愉快を容易に了解することができるであろう。
③ 橋梁があれば、自由に車で通ることができるのに、ことさら岸に立って渡船を待つ心は、表通りに立派なアスファルトの道路があるのに、好んで横町や路地の間道を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。
④ 渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包みなぞ背負ってテクテクと市中を歩いている者どもには、大なる休息を与え、自分のような閑散なる遊歩者に向かっては、近代の生活に味わうことができない官覚の慰安を覚えさせる。
さらに荷風は、《木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董の一つである。》として、《古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物である。》と自らの考えを述べるとともに、都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当するため常に改築が必要であるが、しかし、《われわれは人の家を訪うた時、座敷の床の間にその家伝来の書画を見れば何となく奥床しく自ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる他の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を保たしめねばならぬ。》と続け、この点において、《渡船の如きは独りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずるべきものではあるまい。》と結んでいる。
実に重要な指摘である。都市の深みというか、風格というか、このようにして生まれるのだ。金沢では渡船というわけにいかないが、時を刻んだ建築物は多い。それを巧みに今日に活かしながら保存しているように、私には思える。そして、それが金沢の街の深みを生み出し、「加賀百万石の城下町」に実際の風格をつくりだしている。荷風も少しは満足してくれるだろうか。

                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第17回 『日和下駄』で歩く東京⑪

「運河」に話題が移って、運河の眺望は隅田川の両岸よりも一体にまとまった感興を起させると、荷風は第一声。深川の小名木川はもちろんだが、他にも一例を挙げれば、中洲と箱崎町の出端との間に深く突入っている掘割を、箱崎町の永久橋、または菖蒲河岸の女橋から眺めやると、水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなして、薄暮風収まる時、競って炊烟を棚曳かせるさまは、まさに江南沢国の趣をなしていると、想いは中国まで飛んでしまう。
当時、隅田川沿岸にある中洲や箱崎町は堀割で隔てられて島状を呈し、浜町川が流入する辺りは堀割の十字路になっていた。中洲をつなぐ橋は男橋と女橋の二つ。箱崎町をつなぐ橋は土州橋、永久橋など六つ。女橋と浜町川の川口橋が交差点の横断陸橋のように架かっていた。中洲と箱崎町をつなぐ橋や隅田川に架かる橋はなかった。荷風はすべて溝渠運河の眺望の最も変化に富み、かつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように、あちらこちらから幾筋の細い流れが、やや広い堀割を中心にして一か所に落ち合って来る処であると評している。
今日では堀割がすべて埋められて陸地が一体化し、隅田川には清洲橋、隅田川大橋が架けられている。荷風が描いた眺望は完全にかき消されている。
荷風は中洲や箱崎町に続いて、深川の扇橋の如く、長い堀割が互いに交叉して十字形をなす処を挙げている。これは東西に伸びる小名木川と、南北に伸びる大横川が交差する地点で、交差点の北側に猿江橋、西側に新高橋、南側に扇橋が架かっていた。現在も堀割は残っているが、橋は交差点から離れたところに移動し、東側に新扇橋が架けられている。
荷風はさらに例を挙げる。本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水が分かれあるいは合する処。橋は橋に接し、流れは流れと相激し、ややともすれば船は船に突き当たろうとしていると、眺望は描かれる。本所柳原の新辻橋があるところは、東西の堅川と南北の大横川が交差し、北側に北辻橋、南側に南辻橋、東側に新辻橋が架かっていた。北東方向に芥川龍之介の母校第三中学校(現、両国高校)。現在は橋の位置が移動し、西側に菊花橋が架けられ、北辻橋は大横川一部埋め立てによって消滅した。
京橋八丁堀の白魚橋があるところは、楓川、京橋川、三十間堀の合流点。楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、三ツ橋と呼ばれた。先ほどから気になっているのだが、堀割の十字路には三つしか橋が架けられず、必ず一か所空いている。荷風がこの文章を書いた時、すでに三十間堀の白魚河岸一帯が埋め立てられて真福寺橋はなくなり、橋は二つになっていたが、1964年東京オリンピックにむけての高速道路建設で京橋川も消えたため、白魚橋もなくなってしまった。現在は首都高下に弾正橋のみ残っている。
霊岸島は隅田川沿い、箱崎町の下流部に位置し、中洲・箱崎町の西側の堀割は日本橋川を横切って、そのまま亀島川になる。霊岸橋は亀島川に架けられた橋で、現在の永代通りにあたる道路には、当時すでに路面電車が走っていた。
そのような風景の中で、荷風は日本橋を背にして江戸橋の上から菱形をした広い水の片側に荒布橋・思案橋、片側に鎧橋を見る眺望を、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑踏と合わせて、東京市内の堀割の中で最も偉大なる壮観を呈する処と評し、歳暮の夜景の如き橋上を往来する車の灯は、沿岸の燈火と相乱れて徹宵水の上に揺き動くありさまは銀座街頭の燈火より遥かに美麗であると、絶賛である。こうやってみると、荷風もただ江戸情緒のみを追い求めているのではないことが見えて来る。
この荷風が絶賛した場所。日本橋川が西から来て南へ曲がるところで、北から二つの並行する堀割(西堀留川・東堀留川)が合流し、南へ楓川が分岐する。荒布橋・思案橋・鎧橋・兜橋・江戸橋で囲まれた日本橋川の水域は菱形になっている。西側の水路に架かるのが荒布橋、東側が思案橋、日本橋川に江戸橋と鎧橋、楓川に兜橋。鎧橋と兜橋の間の地区には株式取引所(現、東京証券取引所)がある。まさに日本経済の中心地とも言える。
藤村も『桜の実の熟する時』で、吉村家を出て学校へむかう捨吉の描写で、この界隈をつぎのように描いている。《その日は、捨吉は芳町から荒布橋へととって、》《小舟町を通りぬけて捨吉はごちゃごちゃと入組んだ河岸のところへ出た。荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣れた市街の中でもその辺はことに彼が好きで歩いて行く道だ。鎧橋のほうから掘割を流れてくる潮、往来する荷船、河岸に光る土蔵の壁なぞは、いつ眺めて通っても飽きないものであった》。
藤村も荷風もこの光景は好きだったようだ。
今、荷風が生きていれば、「ブラタモリ」に対抗して、「ブラカフウ」なる番組ができれば、荷風と一緒に運河地帯を巡り、さぞ楽しい番組になるだろう。

荷風はつぎに溝川(下水)に焦点を当て、《東京の溝川には折々可笑しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。》と、笑いを誘う。例えば、
芝愛宕山下の青松寺の前を流れる桜川。――青松寺は鏡花の葬儀がおこなわれたところ。桜川は愛宕山下から虎ノ門方向に流れ、藤村が過ごした西久保櫻川町の名はこの川に由来する。
今日では全く埋尽くされた神田鍛冶町の逢初川。――南行して神田駅でJRをくぐった中央通りが、まもなく神田金物通りと交差する今川橋交差点にさしかかって、そこから両側一帯が当時の鍛冶町である。現在の神田金物通りに該当する
辺りを流れていたのが逢初川で藍染川とも書く。1885年頃に埋められたという。
橋場総泉寺の裏手から真崎へ出る思川。――橋場は浅草区の北東端の地域で、隅田川に橋場ノ渡しがあった。現在の白髭橋の位置にあたる。この橋場ノ渡しから北の隅田川畔が真崎。現在は南千住の地域。浅草区と北豊島郡の境界、現在、明治通りになっている台東区と荒川区の境界を流れていたのが思川。上流は音無川。吉原大火は橋場の手前で止まったので、総泉寺は焼けなかったが、関東大震災で焼失。1928年に板橋区内に移転した。総泉寺は青松寺・泉岳寺と並ぶ曹洞宗江戸三ケ寺の一つ。
小石川金剛寺下の人参川。――荷風のふるさと。金剛寺の前をまっすぐ南へ、神田川に流入していた。現在ではトッパンビルがそびえ立っている。源流は湧水がみられる清水谷。地下鉄の茗荷谷駅付近。人参川は茗荷谷を流れて(人参に茗荷では味噌汁の具になりそうだが)、水道端へ出て、金剛寺の方向へむかった。茗荷谷は大規模に埋め立てられ、地下鉄の車両基地がつくられたので、さて人参川はどうなってしまったか。
川の後に――で解説をつけてみたが、これらの溝川も江戸時代には寺院の門前や大名屋敷の塀外など、幾分か人目につく場所を流れていたことから、土地の人にはその名の示す如き特殊の感情を与えたのだろうが、今日の東京になって、下水を呼んで川となすことすら大袈裟であると荷風。ついでに、谷・山・島・森の付く地名もやり玉にあげている。
少し低いところには千仭の幽谷を見るような地名:地獄谷(麹町)・千日谷(四谷鮫ケ橋)・我善坊ケ谷(麻布)。
小高いところ:愛宕山・道灌山・待乳山。
島なきところ:柳島・三河島・向島。
森なきところ:烏森・鷺の森。
地獄谷とは箱根のような火山地帯を思わせるが、この名前が江戸城内にあたる麹町にある。半蔵門から伸びる甲州街道、現在の新宿通りの北側地域には、台地を刻む谷が二つあって、最後に合流して千鳥ヶ淵へ入り込む。このうち麹町6丁目から一番町に伸びる南側の谷が地獄谷。恐ろしいので樹木谷など別名もいくつかある。知ってか知らでか、鏡花の『夜行巡査』の巡回地域の半分は地獄谷である。
千日谷は怖そうな名前ではないが、壮大な感じがする。甲州街道(現、新宿通り)沿いの四谷傳馬町二丁目・三丁目の境界辺り(現、津之守坂入口交差点付近)から南へ下って行く谷筋。旧鮫河橋谷町一帯で、寺院が多い。谷筋は赤坂御用地を通って弁慶堀へ達している。
我善坊ケ谷は修行僧を連想させる。飯倉から六本木へむかう現在の外苑東通りは麻布台の尾根筋を通っている。南側は麻布十番一帯の古川の谷が広がり、鼬坂で下り始めた辺りに藤村一家が住んでいた。北側には市兵衛町との間に東へ下る谷筋があり、これが我善坊ケ谷。御先手組が居住し、荷風がこの文章を書いていた頃においても、我善坊町という町名が付けられていた。現在では人家が見当たらない。藤村の娘柳子は、当時の市兵衛町(現在の六本木1丁目、泉ガーデンのあるところ)にあった麻布小学校に通っていたが、谷頭部を通るので、それほど高低差のある通学路ではなかっただろう。それにしても、御先手組などに属する身分の低い幕臣は、各所において、谷筋や崖下など、住環境の悪いところに住まわされていたようである。
後はそれほど説明を要しないだろうが、山に関しては、愛宕山が標高25.7m、道灌山は20.9m、待乳山は9.7m。道灌山は武蔵野台地の東端、上野山に通ずる尾根筋にあり、台地の一部で少し高いところと考えた方が良い。上野山も同様。標高を見ると、「山」と言うには笑ってしまうが、愛宕山と待乳山は低いながらも、残丘の形態で「山」と認めて良いのだろう。このようなことを書いていると、日本一低い山はどこだろうと考えてしまった。仙台市宮城野区蒲生にある日和山が標高3mで、今のところ日本一とか。それに比べれば、待乳山も立派な山に思えてくる。
島であるが、柳島・三河島・向島も低地にあり、かつては河川が乱流していたであろうから、中洲になっていた地域と考えられる。全国各地に土地が周囲より少し高くなったところに「〇〇島」の名前が見つけられる。「島」と「洲(州)」が同じように使用されるのは「本州」「九州」が例になる。
現在の新橋駅は、かつて烏森の名称が使われていた。この辺り、江戸湾の海岸線で松林が多く見られ、「枯州の森」「空州の森」と呼ばれていたが、烏も多く生息していたようだ。けれども江戸時代においても、町屋などになり、すでに森は消えていた。
鷺の森は現在の中野区鷺宮。地名の由来になった鷺宮は鷺宮八幡神社のこと。この一帯には森や田んぼがあり、鷺がたくさん棲んでいたという。中野区文化財課によると、江戸時代の文化・文政期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「昔は木立が生い茂って、鷺が生息していたため、地元の人は鷺森、鷺ノ宮と呼んでいた」とする趣旨の記述があるという。荷風が『日和下駄』を書いた頃、この一帯に鷺がどのくらい生息していたかわからないが、当時はまだ農地が広がり、何より妙正寺川が流れていたから、水辺の好きな鷺が飛来してもおかしくない。鷺宮八幡神社は西武新宿線鷺ノ宮駅すぐ南にある。森と言えないまでも神社の境内には、まだ樹木が見られるので、かつては「鎮守の森」程度に森があっただろう。森はあるし、一般的に地名としては鷺ノ宮が知られているので、荷風が言うように、東京へ出て来た地方の人が間違えることもなかろう、と私は思う。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第16回 『日和下駄』で歩く東京⑩

荷風は、《荷船の帆柱と工場の煙筒の叢り立った大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦ばす事が出来るかも知れぬ。》として、木下杢太郎や北原白秋の名をあげ、彼らのある時期の詩編には《築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが》少なくなかったと、記している。つまり、この光景は詩になりうるもので、石川島の工場を後ろにして、幾艘となく帆柱を連ねて停泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船を見ればおのずと特種の詩情が湧いて来ると、荷風は言うのである。
荷風は産業革命の影響を受けて変わりゆく情景を、すべて否定的に捉えたのではないことが、私には伝わってくる。荷風は、付け加えて、《永代橋を渡る時活動するこの河口の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。》と書き、今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想させるものは何もないとしながら、《私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口の風景に一致している。》と続けている。
ここで登場したドオデエは、アルフォンス・ドーテ(1840~1897年)というフランスの小説家。田山花袋も1923年、『アルフォンス・ドオデエ』と題する一文を書いている。セエン河とはセーヌ川のことで、「セエン」の方がフランス語の発音に近い。どうも、荷風にとっての美醜は、古いものに美を感じたり、澄んだものに美を感じたり、均整のとれたものに美を感じたりするのではなく、人間生活の営みを写しとったところに美を感じるようである。それが一般的に汚れた場所で、汚れた人間の生活の場であっても、荷風は美を感じ、それを文章や、あるいは絵画として切り取って残しておきたい。それがその後も一貫する荷風ではないだろうか。
私は「地理屋」であるので、関心は文学的方向ではなく、永代橋に行ってしまう。永代橋は江戸時代から存在した、当時としては隅田川の最下流つまり河口部に架けられた橋で、江戸の中心街と深川を結んでいる。荷風がここで登場させた鉄橋の永代橋は現在のものではない。1897年に日本で最初の鉄橋として架けられたもので、やがて路面電車も通るようになった。橋底などに木材が使用されていたため関東大震災で炎上し、1926年に新しい永代橋が完成、今日に至っている。「大東京繁昌記下町編」取材のため、1927年に鏡花が円タクに乗って渡ったのは、現存する永代橋である。
荷風はここで、永代橋辺りの思い出を語る。15、6歳の頃、永代橋の川下に旧幕府の軍艦が一艘、商船学校(後の東京商船大学。現在の東京海洋大学)の練習船として立ち腐れのまま繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋の船宿から小舟を借りて漕ぎまわり、川中に停泊している帆前船を見物して、こわい顔をした船長から椰子の実をたくさんもらって来た。その時、船長がこの小さな帆前船で遠く南洋まで航海するという話しを聞き、ロビンソンの冒険談を読むようで、自分たちも勇猛な航海者になりたいと思った。
このような話しのついでに荷風はさらに、同じ頃、築地の河岸の船宿からボートを借りて、千住の方まで上って、帰りに佃島の手前まで来たところで、大きな高瀬舟に衝突し、けが人はなかったもののボートが壊れ、弁償を怖れた一同は、船宿へ船を着けると、破損を気づかれないうちに、急いで荷物を引っ掴んで、一目散に銀座の大通りまで逃げた思い出を書いている。そして、今日の築地の河岸を散歩しても、その船宿の場所がはっきりとはわからないとして、《わずか二十年前なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外はない。》と書いているが、船宿がはっきりわかれば、堂々と前など通ることはできなかったであろう。 
思い出を語った荷風は、吾妻橋・両国橋などの眺望は今日あまりにも不整頓で、感興を集中できず、例えば、
浅野セメント会社の工場と新大橋の向うに残る火の見櫓、
浅草蔵前の電燈会社と駒形堂、
国技館と回向院、
橋場の瓦斯タンクと真崎稲荷の老樹、
のような、工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、私を錯乱させるとして、《大川筋一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。》と、言い切っている。つまり、永代橋から隅田川河口にかけての光景は、工業的近世と江戸名所が混在しても、調和していると、荷風は感じているのであろう。そして荷風は、どうも混在による不調和が気になるようで、《過去と現在、即ち頽廃と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工業地に変形し江戸名所の名残も容易くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。》と述べ、大川筋でも千住から両国に至るまでは今日においては、まだまだ工業の侵略が緩慢に過ぎており、本所小梅から押上辺に至る辺りも同じであるとしている。本所小梅から押上辺は、『隅田川』において、荷風が長吉の伯父蘿月の自宅を設定したところである。荷風はこうした工業の侵略が緩慢な地域を、「新しい工業町」として眺めようとする時、《今となってはかえって柳島の妙見堂と料理屋の橋本とが目ざわりである。》と結んでいる。今日、スカイツリーがそびえ立つ本所小梅から押上辺。そっくり全部「ソラマチ」になった方が良いということだろうか。
ところで、この回の冒頭で、隅田川に関連して、木下杢太郎や北原白秋の名前が挙がっている。と、なれば、どうしても一言、「パンの会」に触れておかなければならないだろう。「パンの会」は木下杢太郎や北原白秋ら詩人と、石井柏亭・倉田白羊ら画家が、東京をパリ、隅田川をセーヌ川に見立てて、月に数回、隅田川河畔の西洋料理店などに集まり、交流を図ったもの。1908年12月に始まり、1913年頃まで続いたが、飲んで気焔をあげる場としての性格が強かったと言われている。荷風は会が発足した1908年の7月にフランスから帰国しており、時おり会に出席している。荷風はまさに、もっとも新鮮なパリとセーヌ川を持ち込むことができる人物であっただろう。
一方、島崎藤村は隅田川河口の人工島である新佃島に、1905年開業した割烹旅館「海水館」に、1907年から翌1908年にかけて宿をとり、『春』などを執筆している。藤村がパリにむかうのは1913年である。セーヌ川を見て来た荷風と、これからセーヌ川を見ることになる藤村が、1908年に隅田川河口地域を共有しているのは、単なる偶然であろうか。私はセーヌ川を見ていないので、セーヌ川と隅田川とに共通点を見出すことはできないが、少なくとも隅田川河口地域の情景は、東京をふるさととしない私に、ふるさとを感じさせてくれる。たぶんに、佃島を舞台にしたテレビドラマ『ポンポン大将』の影響が大きいと思うのだが。
今回は感想程度の、自分に対する問題提起であるが、いずれ「パンの会」共々、隅田川河口地域について論じてみたいものである。

隅田川が中心に論じられているが、ここまでで「河川の部」が終り、「運河」に話題が移る。
【館長の部屋】 武内哲志さんにきく――第2回

「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」の掲載を企画し、第1回目となる前回は、「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会長、武内哲志さんにお話しをうかがいました。今回も引き続き、武内哲志さんの登場です。

北野:前回はありがとうございました。とても好評で、おおぜいの方に対談の記事を読んでいただきました。今年も早いもので師走を迎え、12月9日の漱石忌も過ぎてしまいました。「松山坊っちゃん会」では毎年、どのように漱石忌を過ごしておられるのですか。
武内:坊っちゃん会の冬の例会は、毎年漱石忌のころを予定しているので、子規漱石に縁のある正宗寺の和尚さんに会場に来ていただき、お経をあげてもらい法要を行うことにしています。それは「松山坊っちゃん会」が漱石を大切にしていることのあらわれです。その後予定の講演会などを実施しています。今年は
愛媛大学で開催した「俳人漱石と松山」のシンポジウムに参加させていただきました。

北野:今日はとくに、「松山の漱石」「松山の坊っちゃん」ということで、いろいろお話しをうかがいたいと思います。
まず、どうして漱石が東京における勤めを辞めて、松山中学に赴任することを選択したか、ということです。当時の教員を目指す者にとって、中学に就職できることは幸運だったと思うのですが、漱石は嘱託と言っても東京高等師範で教えていたわけで、高校や大学で教えるならともかく、東京を離れて、地方の中学校に赴任することは、いかに親友正岡子規のふるさとと言っても、かなりの決断だったと思います。
私は漱石をかなり「外向き」に捉える傾向があるので、水川隆夫先生などが指摘するように、高等師範の「国家主義的、権威主義的、形式主義的な教育」に窮屈さを感じたから、という説に惹かれるのですが。武内さんはどのように捉えられていますか。もちろん、本当のところは漱石にきかないとわからないことですが。
武内:まず東京高等師範で講師をしていた漱石が、田舎の中学の先生になることを「都落ち」とか、「左遷」というような評価を一般的にしますが、私にはかなり違和感を覚えます。
当時、松山中学の教頭であった横地石太郎も東大卒ですし、漱石と同じ学歴の玉虫一郎一も、漱石の後任の英語の教師として松山中学に来ています。東京大学を卒業しても地方の中学校や高等学校の教員をするという人は結構居たと思います。教育制度が十分整備していなかった明治の初期には東大を出ても、大学が一つしかなかったので、東京では望ましいポストがなく、すぐに大学教授にはなれなかったのではないでしょうか。実際に漱石の友人などでも地方で中学や高等学校の教員をしている人が多くいます。太田達人などは大阪府、秋田県、樺太庁でも中学校の校長を歴任しました。当時中学や高等学校は全国区で採用していて、今の国立大学教員と人数的にも学力的にもそれほど変わらなかったのではないでしょうか。
漱石はそのころ精神的に不調で、家庭や大学でのしがらみの多い、閉鎖的な東京を離れたかったのではないかと思います。松山が子規の故郷であること、かつて一度来たことがあったこと、また、友人の菅虎雄と同郷の浅田知定が愛媛県参事官をしていて、菅虎雄を通じて勧められたのも一つの大きな要因でしょう。
また、漱石が大学の恩師、神田乃武に書いているように「洋行費貯蓄」のために松山に来たというのが一番端的な理由ではないでしょうか。お雇い外国人の代わりに月給80円というのは大きな魅力ではなかったかと思います。
しかし、のんびりして住みやすいと思っていた松山が東京の生活とそれほど変わらないくらいに俗であり不愉快なことが多かったのも理解できます。松山は、漱石のように将来に大きな目的を持った、志のある人間が長くとどまる所ではなかったのでしょう。さらに住田校長を排斥しようとする生徒の活動などで嫌気がさし、結局人間が作る世界はどこも同じであるということを理解して熊本へ移ったのではないでしょうか。熊本五高には一足先に友人の菅虎雄が赴任していました。松山の中学生は学力が低く幼稚なのに比べて、熊本高等学校の生徒はさらに選ばれて入学していること、年齢的にも少し大人で、礼儀正しいので好感が持てたのではないでしょうか。
あと漱石に関して松山赴任の理由に、それぞれの研究者が4人または5人の女性をあげています。これは漱石に関心のある人なら誰でも知っている話ですが、論評すると長くなるのでやめておきます。結論的には私にはどの説もそれぞれ矛盾点や疑問点があり、どれも信憑性に欠けるように思います。研究者たちは限られた漱石の作品や資料から、それぞれに自分の想像力で「漱石の物語」を紡ぎだしているように思います。

北野:漱石も小説家であり、読者を小説に引き付けるために、男女の絡みを描くということは、ある面、常套手段と言えるかもしれませんが、その絡みを「松山逃避行」として描くのは納得できないというか、私はとても違和感をもっていたのですが、武内さんも「女性」を絡める説に矛盾や疑問を感じておられるとのこと。武内さんが話される「松山行き」。「目からウロコ」と言うか、とても説得力があって、「なるほど、なるほど」と、うかがっておりました。
さて、私がどうしても武内さんにうかがってみたい、もう一点ですが。漱石が松山中学に赴任したのは、1895年4月。日清戦争が終結する月です。それから熊本に赴任するまでの一年を松山で過ごしたわけですが、坊っちゃんは東京物理学校を1905年7月に卒業し、8月下旬に「四国辺」のある中学校に赴任したと考えられます。この間、漱石は一度も松山を訪れていないので、『坊っちゃん』に描かれた松山は、10年前の漱石が見聞した松山ということになるのですが、松山に住んでいる身として、まあ、明治時代のことではあるのですが、『坊っちゃん』を読んでいて、何か違和感はありますか。
武内:坊っちゃんを読むとき、松山の地理を思い浮かべて読みますが、自分が想定している場所とは方角や距離が一致しません。舞台が松山であると決定的に言えるのは「な、もし」「なもし」などの方言で、高浜虛子が原稿に手を入れただけに微妙な言い回しまで正確に書いています。最近読んだ「ミチクサ先生」の「ぞなもし」の使い方は当地の人間が見たら明らかに変です。誰か監修者はいなかったのかと残念でした。漱石は話し言葉を大切にした作家です。東京にいても松山出身者が身近にいたので、わからなければ聴くことは出来たと思います。それでも自分の体験した記憶を10年間保持できるのは異常なくらいの天才であると感じます。

北野:方言の話しなど、やはり松山の人間でないと気づかないことですね。それにしても、「漱石は話し言葉を大切にした作家」ということ。これも私にとって、衝撃的な指摘でした。
ところで、私は鉄道ファンで、松山は鉄道網が早くから発達していて、それが現在も息づいていて、とても魅力的なのですが、漱石は『坊っちゃん』で、船を下りて市街まで汽車で所要時間5分、運賃3銭と設定しています。ところが実際に漱石は三津浜から松山まで、所要時間28分、運賃3銭5厘かけてやって来ました。このような実態と合わない設定は、他にもみられるでしょうか。
武内:三津浜と松山中心部だけでなく、道後と松山中心部などの鉄道が走ったところも距離や時間は違います。小説のテクニックとして、舞台を架空の場所にするために微妙に地名や説明を意図的に変えているのかなと感じます。実態と合わないという点では方角や距離や、地名などほとんど違っていますが、全体的な描写ではやはり松山的な雰囲気はよく出ています。これは小説だから、違っていても誤りというような指摘は出来ないようです。

北野:『坊っちゃん』の舞台や、漱石・子規ゆかりの場所として、松山へ来たら、ぜひ訪れて欲しいという、お薦めの場所を教えてください。
武内:そうですね。松山には旧高浜港の少し沖にターナー島が見えます。坊っちゃんが赤シャツや野だいこと船に乗って釣りをした第五章の場面はよく書けています。当時高浜の小高いところに「延齢館」という見晴らしのよい料亭があって、子規や漱石もそこによく遊びに出掛けています。「坊っちゃん」の中でも瀬戸内海の風景や松山の良さがよく書けている所です。竿を使わない船釣りの方法などは、経験がなくては書けないことです。また、その近くに漱石が松山に来たとき、熊本へ去るとき、船で出入りした三津の港があり、町中にレトロな雰囲気が残っています。三津の渡しや梅津寺などを含めてこのあたりを散策するのはおすすめです。

北野:坊っちゃんは東京物理学校の卒業ですが、東京物理学校の卒業生にも中等教育検定試験の受験資格が与えられたのは、1909年5月です。つまり、坊っちゃんは無免許で教えていたことになります。まあ、漱石は自分自身、教える資格があったので、坊っちゃんの免許のことは、あまり気にしなかったのかもしれませんが。
武内:そこまで漱石が考えて書いていたかどうかは分かりませんが、全国の中学校教員の需要数よりは、正式資格を持った教員の方が遙かに不足していたと思います。Wikipediaによると『旧制中等教育学校(中学校、高等女学校、師範学校)の教員資格は、本来高等師範学校卒業者に与えられるものとして制度設計されていたが、中等教育機関の拡充に伴う中等学校教員の必要数の拡大に対し、高等師範卒業者がごく少数のままであったため、この教員養成機関卒業者以外に教員検定による免許授与が行われた。教員検定は、文検による試験検定の他、無試験検定制度もあり、「指定学校」として帝国大学・高等学校・実業専門学校などの官立高等教育機関卒業者や、「許可学校」として文部大臣の許可を得た公私立学校卒業者に、中等教員免許が与えられていた。
「許可学校」に対する無試験検定は、明治32年の「公私立学校、外国大学卒業生ノ教員検定ニ関スル規定」(文部省令第25号)により導入されたが、許可学校(哲学館(現東洋大学)、國學院(現國學院大學)、東京専門学校(現早稲田大学)、東京物理学校(現東京理科大学)等)も当初は限られていたため、明治期を通じて、文検合格者が中等教員の中心を占めていた。
1904年(明治37年)の調査では、中学校教員のうち有資格者は61%であったが、有資格者中文検合格者が50%、無試験検定合格者50%(高等師範卒業者16%、帝国大学卒業者12%、その他22%)であった。』
とあるように東京大学を卒業した漱石は「指定学校」を、東京物理学校を卒業した坊っちゃんは「許可学校」を卒業したので無試験合格者であったのだろうと思います。

北野:詳しく教えてくださり、ありがとうございます。1904年の調査で、中学校教員のうち有資格者は61%ということは、残りの39%は無資格で教えていたことになります。かんたんに言うと、3分の1は無資格だったことになります。こんな状態なら、漱石が坊っちゃんの教員免許の有無について、気を遣う必要はなかったかもしれませんね。
武内:最後に一言蛇足ですが、世間的尺度と、漱石の松山へ来た人生の選択に於ける尺度とを考えた場合、『坂の上の雲』でよく知られた、松山出身の陸軍大将秋山好古が退役後松山の私立中学校の北豫中学の校長をしたことを、極めて格違いの転職のように書かれていることも同様に気になります。私には軍人として戦場で多くの部下を殺さなくてはならなかった職業軍人(大将)よりも、田舎でのんびり地方の青少年を教育する中学校長の方がどれほど幸福感として勝っていたか想像出来ます。人生晩年の選択としてよかったと思います。森鷗外の「石見の人、森林太郎として死す。」という考え方に通じるものがあるのではないでしょうか。

北野:初めて知ることも多く、ワクワクしながら、お話しをうかがっておりました。松山に住む人だからこそ語れることも、たくさん聞かせていただきました。
お話しの中で、とくに私の印象に残った言葉は、武内さんが、「閉鎖的な東京」と言われたことです。私のふるさとは金沢で、「金沢は閉鎖的」と言った言葉は、子どもの頃からよく聞いてきましたが、「東京が閉鎖的」とは思ってもみませんでした。けれども、実際は「人間が住むところすべて、閉鎖的。狭い人間関係の中で生きている」。武内さんが言われるように、「結局人間が作る世界はどこも同じ」。東京も、松山も、そして熊本も。あるいは、どこへ行っても。私、これ、『草枕』のテーマじゃないの?って。
『坊っちゃん』は松山、『草枕』は熊本と、作品の舞台は違いますが、『坊っちゃん』も『草枕』も、同じ1906年に書かれています。おそらく、『坊っちゃん』は春休み、『草枕』は夏休み頃に書かれた。つまり、時間の流れから言って、『坊っちゃん』と『草枕』は連続性があるわけで、東京から旅に出た漱石は、松山も熊本も同じように、向こう三軒両隣、ちらちらと見え隠れする人間の世界であることに気がついたのでしょう。那古井だって、「桃源郷」どころか、日露戦争の臭いがプンプンと漂っています。
話しは『草枕』まで行ってしまいましたが、武内さんの味わいのあるお話し、
お忙しい中、ありがとうございました。

【文豪の東京3――永井荷風】

第15回 『日和下駄』で歩く東京⑨

日和下駄ひっかけて、ふらっと散歩に出たつもりが、やっとまだ半分である。下手をすると、一年間の連載になってしまうかもしれない。このように長引いてしまったのは、荷風の持論に付き合ってしまったからである。けれども「地理屋」の私には迂回して通り過ぎることが、どうしてもできないのである。
「東京大好き人間」の私は、東京駅が大好きだ。東京駅、それも丸の内口に立って、行幸通りを眺めた時、「ああ、日本の首都東京へ来た」と、すがすがしい興奮をおぼえる。まっすぐに皇居まで伸びた道。両側のビル。まさにその景観が好きなのだ。もし、東京駅を出て、正面に「駅前銀座商店街」が広がっていたら、どうだろう。もちろん私は東京の私鉄駅を下り、「駅前銀座商店街」を歩く時、よそ者であることを忘れて、ふるさとへ帰って来た安らぎをおぼえる人間である。そして、私はまた、隅田川も、ふるさとの川のように思える人間である。
そろそろ、「第六」に入るとしよう。「第六」は「水 附渡船」。隅田川も登場する。

「第六」では、いきなり、フランス人エミル・マンユの『都市美論』が出て来る。マンユは都市に対する水の美を論ずる一章をおいて、広く世界各国の都市とその河流、江湾の審美的関係からさらに進んで、運河、沼沢、噴水、橋梁など細節にわたって説き、なお足りないところを補おうとして、水流に映ずる市街燈火の美を論じていると、荷風は紹介する。
これを受けて荷風は、試みに東京の市街と水との審美的関係を考えると、水は江戸時代から継続して今日でも東京の美観を保つ最も重要な要素となっており、陸路運輸の便を欠いた江戸時代には、天然の河流である隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、言うまでもなく江戸の生命線であったが、それとともに都会の住民に春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の詩歌絵画をつくらせた。けれども今日、東京市内の水流は単なる運輸のためのみになり、伝来の審美的価値を失ってしまったとして、《市中の水流は、最早やわれわれには昔の人が船宿の桟橋から猪牙船に乗って山谷に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった》。今日の隅田川は、パリにおけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、ニューヨークのホドソン(ハドソン川)、ロンドンのテエムズ(テムズ川)に対する如く、偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流は品川の入海と共に、さして美しくもなく、大きくもなく、さほど繁華でもなく、まことにどっちつかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない、と自らの考えを披露し、それでも東京市中の散歩において、《今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。》と続けている。
荷風にこのように言われると、ひとつひとつの景色が、何かきわめて愛おしいもののように、私には思われてくる。
荷風は「東京の水」を論ずるにあたって、これを七つに類型化している。これから学術論文でも書こうという雰囲気である。七つはつぎの通り。
第一:品川の海湾
第二:隅田川・中川・六郷川など天然の河流。
第三:小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川など細流。
第四:本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草など、繁華な町に通ずる純然たる運河。
第五:芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川など、名前だけ美しい溝渠。
第六:江戸城を取巻く、幾重にもなった濠。
第七:不忍池、角筈十二社の如き池。
さらに、荷風は井戸について言及し、三宅坂傍の桜ケ井、清水谷の柳の井、湯島天神の御福の井などを挙げ、《古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。》と記している。
これだけ東京の地名を挙げられると、その一つひとつについて、ここに書かなければならないとの思いにかられる。と言っても、あえて解説する必要のないものが多いが、いくつかについて書いておきたい。
第一の品川の海湾は、東海道線から東は海だった時代を想像しなければならない。海には第一から第六までの台場が存在した。
第二の河川の中に荒川が入っていないことを、不思議に思う人もいるだろう。もともと荒川の本流は隅田川になっていた。現在、隅田川と江戸川の間にある川幅の広い荒川は、正式には荒川放水路で、1910年の東京大水害以降、治水対策の一環として、赤羽の岩淵から中川河口にかけて掘削してつくったものである。途中から中川に並行して流れる。大工事で、1930年に完成した。そのような訳で、荷風が日和下駄を履いていた頃、現在の荒川(放水路)はなかったのである。六郷川は一般的には多摩川と言った方がわかりやすいだろう。
第三の「小石川の江戸川」も「神田の神田川」も、共に「神田川」であるが、荷風は日本橋川へ分岐する小石川橋付近から上流を江戸川と呼び、駿河台を掘削してつくられ、柳橋で隅田川に流入する下流部を神田川と呼んだようだ。現在、神田川が一般化したのは、千葉県境を流れる江戸川との混同を避けたものであろう。王子の音無川は石神井川のことで、王子飛鳥山北あたりで音無川と呼ばれ、台地から低地へ下るところで谷が形成され、音無渓谷と呼ばれ、すぐ北に王子神社がある。現在では渓谷部に、飛鳥山とJR王子駅をくぐる放水路が建設されている。
第四はとくに説明を要しないだろう。
第五の芝の桜川。清水谷・赤坂見附あたりから、溜池、虎ノ門、新橋・汐留に至る川で、江戸城の外濠の一部としての役割も持っていた。櫻田町や、藤村で出て来る西久保櫻川町など、この川の名前に由来する。1907年当時、虎ノ門と新橋間はほとんど埋め立てられ、溝のようになってしまったが、赤坂見附と虎ノ門の間には河川が見られた。今では外堀通りになって、表面の流れは見られない。根津の藍染川は漱石の『三四郎』などに登場するが、小川と表現されており、『こころ』には泥溝と表現されている。荷風にとっても小さな川、小さな用水程度にしか見えなかったのだろう。1921年から暗渠工事がおこなわれ、藍染川は地表から姿を消したが、今日道路になった旧流路は、蛇行部分が「へび道」として名残をとどめている。麻布の古川は、上流部は渋谷川。広尾を通って、麻布十番から東流し、竹芝あたりで東京湾に注ぐ。天現寺あたりから首都高速道路が上を通るようになったので、荷風が見た古川とまた趣が異なっているだろう。下谷の忍川は不忍池南東角から流れ出る小川で、御成道(現、中央通り)は道幅が広いため、川が道路を横断する間に、三つの橋が架けられていた。1890年、内国勧業博覧会の混雑を予想して暗渠化され、三橋は廃止された。三味線堀に達した忍川は、鳥越川になって隅田川に注ぐ。ほとんど溝のような流路だが、幼き日をこの地域で過ごした荷風には、懐かしい光景かもしれない。
第六も説明を要しないだろうが、江戸城を取巻く濠には河川になっているものや、貯水池になっているものもある。
第七の不忍池も説明を要しないだろうが、角筈十二社とは、東京都庁の西側、新宿中央公園の北西一画にあるのが熊野神社を指している。新宿一帯は角筈(つのはず)の地名で知られるが、十二社は熊野権現に祀られる十二神を招いたため、「十二相」(じゅうにそう)と呼ばれ、「十二社」も「じゅうにそう」と読む。熊野神社から南南西に少し行ったあたりから、南北に伸びた大小二つの溜池があり、これが「十二社の池」である。風光明媚で江戸時代から人びとが訪れ、花街も形成された。荷風はボートや屋形船の浮かぶ大池を見ることができただろうが、埋め立てによって、1968年、完全に姿を消した。ただし、凹地はそのまま残っているようで、一度歩いてみたい地域だ。
井戸についても言及するならば、「三宅坂傍の桜ケ井」は三宅坂にのぞむ彦根藩井伊家の上屋敷の表門前にあった。「桜の井」とも言われ、通行人の喉を潤したという。屋敷跡には1972年、憲政記念館が建てられ、井戸も2016年に憲政会館敷地内に移設された。「清水谷の柳の井」は、紀州和歌山藩徳川家の屋敷内にあった。井戸があったところは、現在の清水谷公園にあたる。
「湯島天神の御福の井」は「柳の井」とも言われ、湯島天神境内には存在しない。男坂を下りたところの柳井堂心城院(通称、湯島聖天)境内にある。心城院は湯島天神の別当寺にあたり、寺のホームページによると、《「柳の井」は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり降りかかる厄難を拂ってくれると伝えられています。この霊水の美髪・厄除けのご利益を求め、日々参拝者が訪れています。》とあり、《また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受けました。(指定 文京区防災井戸)》と言うから、確かにこの井戸はご利益がある。文京区内にも100か所程度の防災協定井戸があると思われるが、災害時に水道が使えなくなった時、井戸は貴重な給水スポットであり、《古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。》などとならないよう、今後も全国的に整備していくことが重要である。
柳井堂心城院のホームページはさらに、泉鏡花は《『湯島詣』の中で、湯島天神下の一画を「かくれ里」と呼んで詳細に書いており、その中に「心城院の門も閉まって…」と夜の情景を記しています。また『婦系図』には、湯島天神でのお蔦と主税の別れの際、お蔦が天神男坂を下り、弁天様(当山)におみくじを引きに行く場面があります。》と紹介している。鏡花にとって、この地域は母すずのふるさとであり、思い入れも強かったことだろう。
荷風は東京の水を七つに区分した後、品川の海を変えていく大工事の様子を記し、《かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢り立った大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦ばす事が出来るかも知れぬ。》と続けている。
                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第14回 『日和下駄』で歩く東京⑧

やっと「第五 寺」に入った。荷風は《江戸切絵図を開き見れば江戸中には東西南北到る処に夥しく寺院神社の散在していた事がわかる。》として、江戸の都会から諸侯の館邸と武家屋敷と神社仏閣を除いたら殆どないくらいだろうと指摘している。荷風は言及していないが、その残ったわずかな土地に江戸の町人が住んでいたわけだから、さぞかしひしめき合う状態だっただろう。荷風は明治初年に神仏の区別をはっきりさせて以来、特に近年、市区改正のため取払いになった仏寺が少なくないにも関わらず、寺院は今なお市中何処という限りもなく、《坂の上崖の下、川のほとり橋の際、到る処にその門と堂の屋根を聳して》おり、一か所大きな寺がある辺りは塔中とか寺中と呼ばれて小さい寺が幾軒も続いていると記しているが、確かに私なども東京の「街歩き」「文学散歩」をしていて、寺の多さには驚かされる。もちろんこれは金沢の街を歩いていても感じることだから、日本の都市は寺院が多いものなのかもしれない。寺が続いているところでは、「果たして、お檀家さんはいっぱいいるのだろうか」「お寺はやっていけるのだろうか」と他人事ながら心配になるが、それより寺院は明治以来、さらには江戸以来、居場所を変えていないことが多いので、過去と現在の位置を照合する時、目印としてありがたい存在である。
荷風は、寺町といわれた処は下谷・浅草・牛込・四谷・芝をはじめ各区にわたって見出すことができ、《私は目的なく散歩する中おのずからこの寺の多い町の方へとのみ日和下駄を曳摺って行く。》と書いて、東京市中の寺三昧に移って行く。

まず荷風は、上野寛永寺の楼閣は早く兵火に罹り、芝増上寺の本堂も再三の災いに遭っており、谷中天王寺はわずかに傾いた五重塔に往時の名残を留めるのみで、本所羅漢寺の螺堂の既に頽廃し、五百羅漢のみ大半が目黒の一寺院に移されていることを例に挙げて、東京の寺院に、歴史また美術の上から興味を惹くものがほとんどないことを指摘している。私は、京都・奈良・鎌倉においても、寺院は戦火などで創建当時と趣を変えて再建されているものも少なくないと思うのだが、歴史の浅い江戸では、再建されても重厚感が出て来ない、あるいは保存に対する関心も、古都には及ばないのかもしれない。そのような中で、荷風が歴史また美術の上で興味をもつのは、浅草の観音堂、音羽の護国寺山門、その他二、三に過ぎないと述べている。
谷中天王寺の五重塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとして知られている。1644年に建立されたが、1772年に焼失。1791年に再建された。荷風は天王寺という大きな寺院が、1868年の彰義隊の兵火によって、本坊と五重塔を残して焼失してしまったことを念頭に置いている。荷風が見た五重塔は再建後百余年を経過したものである。その程度の年月でどうして傾いてしまったのか不思議であるが、天王寺の衰退を嘆いているかのようである。そのような天王寺にわずかに往時をしのばせた五重塔も、1957年に放火心中によって焼失してしまった。荷風は存命中(1959年死去)であり、どのように受け取ったであろうか。
本所羅漢寺は1695年に本所五ツ目(現、江東区大島3丁目)に創建されたが、1874年に境内は共同墓地となり、五百羅漢も放置され、明治初年に460体ほどあった仏像も、1908年の目黒移転時には370体ほどになっていた。荷風の文章はこの辺のことを念頭に書かれている。移転先の五百羅漢寺は目黒区下目黒3丁目にあり、寺のホームページにその歴史を読むと、一度訪れてみたくなる。
荷風は《東京市中に散在したつまらない寺》と、東京の寺院をこき下ろしたような書き方をしながらも、《また別種の興味がある。》として、《これは単独に寺の建築やその歴史から感ずる興味ではなく、いわば小説の叙景もしくは芝居の道具立を見るような興味に似ている。》と、本所深川辺の例を挙げている。つまり、《本所深川辺の堀割を散歩する折夕汐の水が低い岸から往来まで溢れかかって、荷船や肥料船の笘が貧家の屋根よりもかえって高く見える間からふと彼方に巍然として聳ゆる寺院の屋根を望み見る時、しばしば黙阿弥劇中の背景を想い起すのである。》《かくの如き溝泥臭い堀割と腐った木の橋と肥料船や芥船や棟割長屋なぞから成立つ陰惨な光景中に寺院の屋根を望み木魚と鐘とを聞く情趣は、本所と深川のみならず浅草下谷辺においてもまた変る処がない》。
このように荷風から指摘されると、「そう言えば」と、漱石の作品にも思い当たるところがある。
『野分』では主人公道也の家が市谷薬王寺町に設定されており、《裏の専念寺で夕の御努めをかあんかあんやっている。》という記述があり、また『門』では、主人公宗助の家は円明寺の傍に建っているが、《円明寺の木魚の音が聞えた。》《円明寺の杉が焦げた様に赭黒くなった》。といった描写がある。円明寺のモデルは牛込榎町にある宗柏寺と考えられる。小説ではないが、『硝子戸の中』では生家近くの誓閑寺(作品中では西閑寺)の鉦の音が、漱石の耳に残っていると記されている。漱石も描く地域は違っても、やはり寺院を小説の情景の一部に取り込んでいるのだ。
話題を荷風に戻すが、荷風は今の社会問題から全く隔離して単独な絵画的詩興から、このような貧しい町の光景を見るなら、東京の貧民窟はロンドンやニューヨークで見る西洋的貧民窟に比較して、同じ悲惨な中にも何処となく《いうべからざる静寂の気が潜んでいる。》と評し、深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤煙と絶え間のない振動とによって、《やや西洋的なる余裕なき悲惨なる光景を呈し来ったが》、他の場所の貧しい町を窺うに、《場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。》と記している。このような視点には異論をもつ人もいるだろうが、荷風の視点を明確に示しているように、私は思う。
荷風はこの後も、持論を展開している。その引用は省略するが、荷風がこの文章を書いた今から100余年前と、現在の日本人を比較して、本質的にほとんど変わっていないように私には思われる。日本人を理解し、日本人に寄り添おうとする時、荷風の指摘は現代においても、その生命力をけっして失っていないのではないだろうか。そして、荷風の視点はある面、漱石と対極をなすものであり、同時に、荷風と漱石は「江戸専制時代」を引きずるという意味において、互いに共感できる面をもっている。――そのようなことを私は考えてみた。

坂の途中で生まれた荷風は下町も好きだが、山の手も好きなようだ。
荷風は《山の手の坂道はしばしばその麓に聳え立つ寺院の屋根樹木と相俟って一幅の好画図をつくることがある。私は寺の屋根を眺めるほど愉快なことはない。》と書き出して、しばし寺院の屋根について語り、新時代の建築は周囲の風景樹木等と不調和であると、色彩論に話しは移り、《試に寺院の屋根と廂と廻廊を見よ。日本寺院の建築は山に河に村に都に、いかなる処においても、必ずその周囲の風景と樹木と、また空の色とに調和して、ここに特色ある日本固有の風景美を組織している。日本の風景と寺院の建築とは両々相俟って全く引き離すことが出来ないほどに混和している。》と、一つの結論に至った上、日本各地については旅行者に任せ、《我が東京市中のものについてこれを観よう。》と、これに続けて例を挙げて論じている。
不忍池に浮かぶ弁天堂と、その前の石橋は、上野の山を蔽う杉と松、または池一面に咲く蓮の花に最も良く調和している。浅草観音堂とその境内に立つ銀杏の老樹、上野の清水堂と春の桜、秋の紅葉。これらも日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。
このような例を挙げながら、荷風が言いたかったことは、その次にあるようだ。建築は人工のもので風土気候の如何に関わらず建てることができるが、天然の植物は人間の意のままにはいかない。《私は日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少し深厚なる愛情を持っていたなら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損せずに済んだであろうと思っている。》と書いて、電線を引くのに不便だからと言って、遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、昔からの名所の眺望や由緒ある老樹にも、むやみやたらに赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、《実に根柢より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙といわねばならぬ。》と口調を強め、《この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。》と、荷風はとどめを刺している。私はこの一文に、漱石が『三四郎』で、広田先生に「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」、そして三四郎が「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護したのに対し、「亡びるね」と言わせた一文に匹敵するくらいの衝撃を受けた。
荷風のこのような考え方は、今日「景観保存」という形で活かされている。もちろんそれは、目先の開発、目先の「もうけ」の前に、じゅうぶんに機能しているとは言えないが、百年余前に発信された荷風の考えは、きわめて先駆的であると言えるだろう。
景観がよく保たれた街は、旅行者として訪れても、心落着き、ふるさとに来たように包まれた気分になる。私にとって、京都も、全域とは言わないが、そのように感じる街である。また、訪れたくなる。金沢も、私にとってふるさとだから当然であるが、景観がよく保たれ、街全体が箱庭のような、心落着く街である。少なくとも私の思い出の中にある金沢はそうだ。そして、その街が観光客を惹き付けていく。これからもそのような金沢であって欲しい。
荷風は日本橋の大通りを歩いて、三井三越を始め競って立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、《東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な市中からも日本晴の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚にもつかぬ事を考え出す。》と書いて、《私は外濠の土手に残った松の木をば雪の朝月の夕、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として悦ぶにつけて、近頃四谷見附内に新築された大きな赤い耶蘇の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。》と続けている。
荷風から指摘を受けた「耶蘇の学校」は、当時の麹町区紀尾井町に1913年、設立された上智大学である。荷風が「赤い」と表現したように、赤い煉瓦造の校舎で、三階建て、一部が四階建て。上智も含めて、今日、外濠沿いに高層建築の校舎をもつ大学が出現している。はたして荷風は大学の建物を、キャンパスを見た時、いったいどのように評するであろうか。
とにかく荷風は《日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、一度市内に残された寺院神社を訪えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い境内も私の心には無限の慰藉を与えずにはいない。》と、気を取り直して、市中の寺院や神社を訪ね歩いて、もっとも幽邃の感を与えられるのは、本堂よりも路傍に立つ惣門を潜って、彼方の樹木と本堂鐘楼等の屋根を背景に、その前に聳える中門または山門を、長い敷石道の此方から遠く静かに眺め渡す時であるとして、いくつか例を挙げている。
浅草観音堂では、仁王門を仲店の敷石道から望み見るが如き光景。
麻布広尾橋の袂から一本道のはずれに祥雲寺の門を見る如き。――広尾橋のあったところは、現在の外苑西通り広尾橋交差点。西の方へ麻布商店街を進むと、突き当りに山門がある。山門前から右折すると、正面に聖心女子大学南門が見えて来る。
芝大門の辺から道の両側に塔頭の寺々の甍を連ねるその端に当って、遥かに朱塗りの楼門を望むが如き光景。――第一京浜の大門交差点から西へ、道路は増上寺へ伸びている。その途中に大門がある。大門を潜ると、その先に朱塗りの三解脱門が見えて来る。この区間、芝公園六号から十一号にかけて、1907年の地図で14カ寺を確認できる。六号には東京勧工会社があった。
荷風はこの後、《かくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た巴里の凱旋門その他の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、唯何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において歌川豊春らの描いた浮絵の遠景木版画にはどうかすると真によくこの日本的感情を示したものがある。》と続けているが、立体感のない風景を私なりに考えてみると、ごつごつして光線を跳ね返す石造に対して、日本では光線を吸い込む木造であること、湿度が高いこと、そのこととも関わって、くっきりした影ができにくいことが考えられるのではないだろうか。
景観を重視する荷風は、《寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、》西洋管弦楽の序曲の如きものであり、《この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである》。だから、寺院神社の建築を美術として研究しようとするものは、単独にその建築を観る前に、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かなければいけない、と述べた後、西洋の寺院は大抵単独に路傍に屹立しているのみだが、日本の寺院は小さな寺といえども皆、門を控えていると指摘している。
さらに荷風は、増上寺の楼門を立派に見せるためには、門前の広い松原が必要であり、麹町の日枝神社の山門が幽邃なのは、周囲の杉木立だけでなく、前に控えた高い石段の有無も考えなければならないと記して、《日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木との寔に複雑なる綜合美術である。されば境内の老樹にしてもしその一株を枯死せしむれば、全体より見て容易に修繕しがたき破損を来さしめた訳である》。そして、現下の開発を憂いながら、《京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街全体をもその境内に同じきものとして取扱わねばならぬと思っている。》と、現代に立派に通ずる持論を展開している。
荷風は勢い余って、《日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業より見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみ齷齪して世界に二つとない自国の宝の値踏をする暇さえないとは、あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた話である》と書いたものの、《世の中はどうでも勝手に棕櫚箒。私は自分勝手に唯一人日和下駄を曳きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。》と、さっさと去って行ってしまった。荷風のこの文章。今日から見れば、かなりな問題発言も含んでいるが、教えられる部分も多いように、私には思われる。
                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第13回 『日和下駄』で歩く東京⑦

長々と書いてきたのに、やっと「第三」が終ったばかり。「第十一」まであるのだから先は長い。『日和下駄』は小説ではない。「街歩き」である。しかもあちらこちらと歩き廻り、行ってないところも紹介されている。私の性格上、必然、書くことが多くなってしまうのは仕方ないのだが、ここは心を鬼にして、思い切って省略も必要だろう。
そう決意した矢先に、「第四 地図」は、《蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする。これは何も今時出版する石版摺の東京地図を嫌って殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたりに比較対照する事ができるからである。》と、何とも嬉しい文章から始まる。「そうそう、これですよ。街歩きの楽しさは。さすが、荷風さん。よくわかっておられる」。私が『漱石と歩く東京』以来、追っかけてきていることである。漱石にしても、鏡花・秋聲・犀星や芥川・藤村・荷風にしても、作品が書かれた時代から、すでに大雑把に言って百年経っている。彼らの江戸時代は私にとって明治末から大正期である。私は『古地図・現代図で歩く明治・大正東京散歩「東京市十五区番地界入地図(明治40年)』(人文社)を愛用している。東京の街歩きや、こうして文章を書く時には欠かせない。つねに現代と比較対照する。そして、例えば、『漱石と歩く東京』においても、漱石の小説を片手に、作品当時と今を引合せる。そうすると、今見ている情景に深みが出て来る。何の変哲もない街角、路地裏に小説の中の人物が息づいている。その情景が愛おしく思われてくる。有名な観光地へ行かなくても、絶景を観なくても、街歩きは楽しい。
困ったことにと言うか、嬉しいことにと言うか、荷風と意気投合して、荷風をますます好きになってしまう私がいる。
荷風は「江戸の昔と東京の今とを」比較対照する例として牛込弁天町辺を挙げ、馬鹿馬鹿しい無益な興味と断っているが、《牛込弁天町辺は道路取りひろげのため近頃全く面目を異にしたが、その裏通なる小流に今なおその名を残す根来橋という名前なぞから、これを江戸切図に引合せて、私は歩きながらこの辺に根来組同心の屋敷のあった事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである。》と書いている。まさに、「ある、ある」だ。
さて、ここで例に挙げられた牛込弁天町。漱石の生家がある喜久井町、漱石山房のある早稲田南町の東に隣接する町である。つまり漱石のお膝元。牛込弁天町から牛込原町1丁目にかけて、江戸時代に根来組同心の屋敷があり、根来町と呼ばれていた。漱石も『硝子戸の中』で、《今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来の方まで延びていた。》と書いている。この辺りは、馬場下を起点に、喜久井坂(夏目坂)を上るように、根来町にむかって東へ都市化が進んだことを示している。根来組は伊賀・甲賀・二十五騎組と並ぶ鉄砲百人組。新宿の百人町も伊賀組・二十五騎組の屋敷があったところから名づけられている。
さらに漱石は『硝子戸の中』に、《宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。》と書いている。これが弁天堂の裏を流れる小川で、牛込柳町の方から流れて来て、漱石山房のすぐ東を通り、早稲田田圃へ入り、神田川に注ぎ込む「加二川」である。根来橋がどこにあったかはっきりしないが、根来組の屋敷地に小川を渡る道路が二・三本確認できるので、そのどれかに根来橋があったと思われる。
この地域も江戸時代から比べると、荷風の時代はかなり変容していたようだが、現在は荷風もびっくりの変わりようである。根来組の東に南北に七つの寺が並んでいて、「七軒寺町」と呼ばれていた通りは拡幅され、外苑東通りになり、「加二川」は暗渠になってしまった。ただ暗渠の上は道路として通行できるので、地図上で当時の小川の流路をかなり確認できる。「七軒寺」のうち、多聞院・浄輪寺は残っているが、千手院・久成寺・鳳林寺・仏正寺・法輪寺はすでにみられない。
ところで荷風は、《一ツ昔の地図の便利な事は雪月花の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように色摺にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで凡幾町植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。》と評価したうえで、《凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の如何をも更に想像する事が出来ない。》と続けている。「荷風さんはそうかもしれないけど」と、国土地理院発行の5万分の1地形図や2万5000分の1地形図を片手に、各地を歩きまわった「地理屋」には聞き捨てならぬ言葉である。眺めているだけで、地形が浮び上がり、興味が湧いて来る。かつて河川が流れていたところもわかることがある。そもそも、事前に、あるいは現地に行って、自分で確認しながら、地図に描き込んでいくのであるから、単純で自己主張しない方が良い。私は多色刷りの地形図より、黒一色の方が好きだ。作業しやすい。要するに、用途の違いであって、素材を売る八百屋・魚屋と、調理したものを提供する料理店の違いである。私には店先の大根やごぼうの先に、調理された料理が目に浮かび、興奮をおぼえる。
もちろん私には、《不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥に直感的また印象的の方法に出たものと見ねばならぬ。》と言う荷風の主張もよくわかる。そして、《現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。》という荷風の文章は単に「地図」にとどまらず、「社会論」であり、現代に通ずるものであると私は考える。
荷風は東京の風景においても、《現今の東京は全く散歩に堪えざる都会ではないか。》と言い、《銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに疑し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも》、ある人には有益かもしれないが、現代日本の西洋式偽文明を無味拙劣なるものと感じられる人には、《東京なる都会の興味は勢尚古的退歩的たらざるを得ない。》と記している。この辺りが、荷風の取り立てて言いたいことであろう。
そのような荷風も、《江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自らその時代にあるが如き心持となる。》と述べ、《江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。》とつけ加えている。つまり、現今の味気ない風景にも、その背後に歴史を見るならば、俄然、味気ないものではなくなってくるのである。私も荷風の文章を読みながら、荷風の時代にあるが如き心持となる。これが「文学散歩」さらには「歴史散歩」の醍醐味であろう。
荷風の文章は散歩の道すがら、興味のあるものに突っかかって道草する如く、あまり体系的ではない。したがって私の文章も右往左往することになるが、荷風は東京絵図に関して、《私は小石川なる父の家の門札に、第四大区第何小区何町何番地と所書のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。》《私は柳北の随筆、芳幾の錦絵、清親の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の渾沌たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。》と書き、さらに《市中を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば》、主だった大名屋敷は大抵海陸軍の御用地になっているとして、下谷の佐竹屋敷は調練場、市ヶ谷・戸塚村の尾州侯藩邸や小石川の水戸邸も陸軍の所轄になり、《名高き庭苑も追々に踏み荒らされて行く》。鉄砲洲の白河公の下屋敷浴恩園は小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一つに数えられたが、《今は海軍省の軍人ががやがや寄集って酒を呑む倶楽部のようなものになってしまった。》《江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西革命史を読むが如き感に打たれるであろう。》と続けている。荷風の軍隊に対する物言いが印象的である。
【文豪の東京3――永井荷風】

第12回 『日和下駄』で歩く東京⑥

《柳は桜と共に春来ればこきまぜて都の錦を織成すもの故、》と銀杏、松に続くは柳である。ところが荷風は《桜には上野の秋色桜、平川天神の鬱金の桜、麻布笄町長谷寺の右衛門桜、青山梅窓院の拾桜、また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の金王桜、柏木の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺の並木の桜の如く、来歴あるものを捜むれば数多あろうが、柳に至ってはこれといって名前のあるものは殆どないのである。》と、柳には素っ気ない。
それでも荷風は《水の流れに柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない。》と書いて、まず《柳原の土手には神田川の流に臨んで、筋違の見附から浅草見附に至るまで毿々として柳が生茂っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋に変ってしまった。》と、柳原の土手の柳を紹介している。筋違見附は神田川に架かる昌平橋と万世橋の中間にあり、そこから下流部の左岸(北側)が佐久間河岸、右岸(南側)が柳原河岸。浅草見附があった浅草橋まで続いている。江戸時代に柳原河岸に土手が築かれ、柳が植えられた。土手は江戸城防衛と水防の目的をもってつくられたと考えられるが、荷風は、土手は1871(明治4)年4月に取り壊し、長屋が建てられたのは1879(明治12)・1880(明治13)年頃と書いている。土手のあったところは柳原通りになっている。柳原や柳橋など確かに「柳」に因む地名が見られる。
けれども、「柳」のつく地名があれば、必ず「柳」があるわけでなく、荷風は《柳橋に柳なきは既に柳北先生『柳橋新誌』に》あると書いている。ところがこれで終わる荷風ではない。続けて、両国橋よりやや川下の溝に小橋があって、「元柳橋」という名で、その橋の袂に柳があったと紹介している。この光景は『柳橋新誌』や東京名所絵にも描かれていると荷風。実は、この「元柳橋」こそ、元祖「柳橋」で、橋の北詰に柳の木があったところから名づけられた。やはり「柳橋に柳があった」のだ。広重の絵でみると、日本橋を思わせるような太鼓橋風である。溝というのは薬研堀。米沢町3丁目と矢ノ倉町の境界にあった。一方、神田川最下流部に架かる橋は江戸時代の1698年に架橋され、「川口出口の橋」と呼ばれてきたが、柳橋花街にあるため、いつしか「柳橋」になり、元祖の方は「元柳橋」と呼ばれるようになった。
《かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸の様子も変り小流も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい》と書く荷風であるが、1903年に薬研堀が埋め立てられ、「元柳橋」もなくなってしまった。しかし、明治末期においても、隅田川の両国橋西詰付近は「新柳河岸」、その下流が「元柳河岸」と呼ばれていた。
荷風がもうひとつ紹介するのは半蔵門から外桜田の堀、あるいは日比谷馬場先和田倉御門外にかけての堀端の柳。広重の東都名勝などには描かれていないので、明治になって植えられたものであろうと、荷風は推察している。そして荷風は、水を隔てて対岸に古城の石垣や老松が望まれるのに、こちらの岸に柳があると眺望を遮り、視界を狭くするので良くないと述べ、ましてこのようなところに西洋風の楓を植えるなどは、「もっての外だ」と批判している。そう言えば、半蔵濠の西側にある「英国大使館」辺りにも柳が植えられていたようで、鏡花の『夜行巡査』に描かれている(当時は英国公使館)。
荷風の批判は収まらない。《東京市は頻に西洋都市の外観を倣わんと欲して近頃この種の楓または橡の類を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは赤坂紀の国坂の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀に対して異国種の楓の並木は何たる突飛ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。》と書き続けている。赤坂離宮(現在の赤坂御用地)、ちょうど迎賓館の東側を外濠に沿うのが紀の国坂(紀伊国坂)。荷風がやり玉に挙げたのはユリノキであろう。現在もユリノキの並木は存在している。明治記念館側にはトチノキの並木がつくられたが、これも荷風の批判対象になった。
けれども荷風は並木そのものを否定しているのではない。《並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通の柳の木かげに夏の夜の露店賑う有様は、煽風器なくとも天然の涼風自在に吹通う星の下なる一大勧工場にひとしいではないか。》と、肯定的。どうやら「銀座の柳」は荷風基準に合格のようである。
その他、荷風は青山練兵場のナンジャモンジャの木、本郷西片町阿部侯爵邸の椎、本郷弓町の大樟、芝三田蜂須賀侯爵邸の椎などあるが、《煩しければ一々述べず。》と打ち切っている。正直なところ、私もほっとしている。
なお、阿部侯爵邸の椎について地元「西片町会」のホームページによると、《誠之舎を出て北方向の四辻(西方1-10)の角に、4本に枝分かれした「マテバ椎の木」がある。明治24年(1891)に新築された阿部侯爵邸の表門は現在の公園西端の向かい辺りにあった。その表門と大玄関との間の車寄せ付近には大きなマテバ椎の木がこんもりと繁っていたが、そのひこばえ(切り株から出た若い芽)が現在のものである。》と書かれている。公園というのは西片公園。福山坂(新坂)を上って来て、最初の十字路がこの文章に出て来る「四辻」。西片町は江戸幕府老中阿部候(福山藩主)の中屋敷があったところで、明治になって阿部侯爵邸に引き継がれたが、多くは分譲された。東大に近いことから学者が住み、「学者町」とも言われた。現在の西方1-12―8には漱石が住み、『虞美人草』などを執筆している。作品の登場人物の何人かの住居は西片町に設定されている。
本郷弓町の大樟は、荷風時代の本郷弓町1丁目8番地、現在の本郷1丁目28―32に現存している。春日通りの真砂坂上交差点から南へ少し入った弓町本郷幼稚園の斜め向かい。ビルの谷間に、ビル(パークハウス楠郷臺)を背中に生い茂っている。本郷文京区観光協会のホームページによると、「本郷弓町のクス」「楠亭の大クス」「弓町の大クス」などと親しまれ、樹齢推定600年、地上約1.5mの位置で、幹のまわりが約8.5m。司馬遼太郎の『街道を行く』にも登場する。
芝三田蜂須賀侯爵邸は現在の三田2丁目にあった。すでにオーストラリア大使館になっており、椎の木は現存しない。

                          (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第11回 『日和下駄』で歩く東京⑤

銀杏が終って、荷風は《銀杏に比すれば松は更によく神社仏閣と調和して、あくまで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士はその邸宅に花ある木を植えず、常盤木の中にても殊に松を尊び愛した故に、元武家の屋敷のあった処には今もなお緑の色かえぬ松の姿がそぞろ昔を思わせる処が少くない。》と、話題を松に移し、東京市中各所の松を紹介する。
市ヶ谷堀端の高力松。――外堀通りを市ヶ谷から四谷へ向かう時、上って行く坂が高力坂。東京都の説明板には、《新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の屋敷あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外堀線往復す。」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂の名前を高力坂と名づけたものと思われる。昭和五十八年三月》と記されており、荷風も《しかし大正三年の今日幸に枯死せざるものいくばくぞや。》と書いているように、すでに枯死してしまった松であるが、枯れてなお坂の名前として生き続けていることになる。
高田老松町の鶴亀松。――文京区が設置した「旧町名案内(昭和41年までの町名)」の説明によると、旧高田老松町(現在の目白台1~3丁目)は、《明治五年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ》、熊本藩細川氏の下屋敷など武家地を合併して、《町名を高田老松町とした。旧高田老松町76番地の細川邸の門前にむかし2株の老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松といい、右手の松はやや低く平なのを亀の松と呼んだ。町名は、この縁起のよい老松からとったといわれる。鶴の方は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。》と記されている。「鶴は千年、亀は万年」と言われるが、鶴より長生きの亀の松は、荷風が『日和下駄』を書いた時には、現存していたことになる。高田老松町76番地は町の南端にあたり、現在ではすぐ東に新江戸川公園がある。
高力松と鶴亀松という地名にも影響を与えた松を挙げた荷風は、さらに、広重の絵本『江戸土産』に紹介された小名木川の五本松、八景坂の鎧掛松、麻布の一本松、寺島村蓮華寺の末広松、青山竜巌寺の笠松、亀井戸普門院の御腰掛松、柳島妙見堂の松、根岸の御行の松、隅田川の首尾の松、の名を挙げている。
小名木川の五本松。――江東区深川江戸資料館の資料館ノート第39号(2002年発行)には、小名木川沿いにはたくさんの大名屋敷があったが、《このような小名木川沿いの大名屋敷のひとつに、綾部藩19500石(安政3年時点)九鬼式部少輔の下屋敷がありました。現在の猿江2丁目の小名木川沿い、四つ目通りに架かる小名木橋から少し東に寄ったあたりです。この屋敷から川に、大きな松が枝を張り出し、枝振りの良い姿を水に映していて有名でした。字名を五本松といったという記録もあり、『江戸名所図会』など江戸時代後期の地誌には必ず見えています。》《「五本松」という名ですが、描かれているのは1本です。『名所図会』では、昔は5株あったものが枯れて1本になったとしています。安藤広重や小林清親など多くの画家が「小名木川五本松」を描いていますが、どの絵も1本です。》そして、《小名木川五本松は、明治40年(1907)に枯れてしまい、同42年、切り倒されました。枯死の原因は、工場の煤煙や洪水などであったといわれています。》と書かれている。4本は江戸時代にすでになくなっていたわけだが、何とか残った1本の枯死の原因。荷風が『日和下駄』にことさらに例をいくつも挙げた背景には、工業化、都市化によって失われていく名木に対する思いがあったのではないだろうか。
八景坂の鎧掛松。――大森駅西口の前を池上通りが通っている。この通りは北、つまり東京都心にむかって上っていて、この坂を八景坂という。大田区ホームページによると、《その昔、この坂上からの眺めは素晴しく、近くは大森の海岸、遠くは房総まで一望のもとに見渡すことができたといい、そこから八景坂と呼ばれるようになったといわれます。》《また、かつての坂上には、平安時代後期の武将、源義家(1039年~1106年)が東征のおり鎧をかけたと伝わる鎧掛松があり、安藤広重の浮世絵にも描かれました。八景坂鎧掛松は有名でしたが、明治時代に枯れてしまったといわれています。》と書かれている。義家は八幡太郎義家とも呼ばれ、東征は後三年合戦(1083~87年)を指している。東海道線は大森地域の台地(山王台)の東端に沿って走っているが、鉄道敷設に際して台地を掘削しており、鉄道に並行する池上通りは緩やかな坂道に変身したが、その分、台地は急崖になり、大森駅西口すぐにある天祖神社へ直行する石段などは急過ぎて怖い。大森駅東口辺りは標高数m、西口は10m余、天祖神社は20mを超える。鎧掛松は天祖神社境内にあったと言われ、旧道はこの高さまで上ったことになる。かつての八景坂は急坂で、見晴らしは良いが、鎧も外して休憩したくなったであろう。大森駅界隈は室生犀星の生活圏であり、作品などにも登場する。
麻布の一本松。――麻布十番。あの「赤い靴」の女の子きみちゃんの像があるパティオ十番から西へ、大黒坂を上ると、ちょっと広めになった交差点にあるのが一本松。すぐそばに長傳寺がある。この交差点、変則的な四叉路になっていて、東へ「大黒坂」、北へ「くらやみ坂」、北西へ「たぬき坂」、南西へ「一本松坂」が、いずれも下っている。善福寺の北北西方向にあたる、麻布台でも高い部分。松はすでに何代目かになっているが、麻布七不思議の一つで、いくつかの言い伝えが残されている。
寺島村蓮華寺の末広松。――蓮華寺は真言宗の寺で、現在の墨田区東向島にあり、「蓮花寺」と表記されるようになっている。川崎大師、西新井大師と並ぶ「江戸三大師」の一つ。境内には珍しい木や花が植えられ、池のそばに末広松があった。
青山竜巌寺の笠松。――竜厳寺は渋谷区神宮前2丁目にある臨済宗の寺。神宮球場の西にあたる地域にあり、国學院高校とその西にある竜巌寺の間には勢揃坂が北にむかって下っている。寺の裏手を外苑西通りが通っている。かつて、庭に「笠松」あるいは「円座の松」とよばれる、低く平らに刈り込まれた松が円形に拡がり、円卓の様に見えた。残念ながら現在では見ることができない。
亀井戸普門院の御腰掛松。――普門院は亀戸天神の東側、江東区亀戸3丁目にある真言宗の寺で、伊藤左千夫の墓がある。「御腰掛松」は本堂の前にあり、徳川三代将軍家光が鷹狩の際に立ち寄って腰を掛けたところから名づけられたと言う。
柳島妙見堂の松。――柳島にある妙見堂は、「文豪の東京」などでも度々登場する。北十間川と横十間川がТ字に交わる南西角にあるのが日蓮宗法性寺(現、墨田区業平5丁目)で、妙見堂が有名なため、「柳島の妙見さん」として親しまれている。妙見堂は本堂の西側にある。ネットに公開されている「山田君の世界」には、《元町に在り、妙見山玄和院法性寺と号す 其堂前に影向の松と名くるあり 星降の松 千年松とも呼ぶ 元和の頃 将軍家此地に至らせ給ふ時 鏡の松の名を賜ふ 俗謡白蛇の出るは柳島と云ひしは此松也》《毛塚の碑 其外名高き碑あれども 震災の為 昔日の観なし》との文章と、「昔日」の写真が掲載されている。そのうちの1枚は妙見堂の前を南にむかって撮影したもので、前方に泉染物工場の二本の煙突も写っている。横十間川や大横川に沿って、明治後期にはすでに多くの工場が建ち並んでいた。もう1枚は本堂を正面から撮影したもので、手前に大きな松がそびえ立っており、これが荷風の言う「柳島妙見堂の松」、すなわち「影向の松」であろう。
根岸の御行の松。――真言宗西蔵院(台東区根岸3丁目)の不動堂(御行の松不動尊)に隣接して存在する松。荷風が『日和下駄』を書いた時には初代が現存し、ウィキペディアによると、1925年、天然記念物に指定された時、高さ約13.6m、目通り4.9m。ところが1928年に枯死。樹齢約350年。1956年に二代目を植えたが、すぐ枯れ、1976年に三代目が植えられた。けれどもこの松は盆栽状だったため、2018年、隣に四代目が植えられた。西蔵院公式ホームページによると、四代目お行の松植樹法要・式典に関して、《初代お行の松は、「江戸名所図会」や歌川広重の錦絵にもえがかれ、江戸名所の一つとして広く世に知られた存在でございました。この度、新たなる四代目お行の松の植樹を祝いまして記念法要・式典を厳修いたしました。又、第三日暮里小学校の校歌にもお行の松が歌われており、百周年行事として、お行の松を本松とした弟松を植樹し、同じく植樹記念法要を厳修いたしました。》と書かれている。初代の松は1930年に伐採されたが、切りとった一部を残し、屋根をつけて保存している。西蔵院は鶯谷駅北東300m程のところにある。
隅田川の首尾の松。――首尾の松(しゅびのまつ)は浅草御蔵の四番堀と五番堀の間に、隅田川の川面に枝を突き出して生育していた松。柳橋と吉原を行き交う猪牙舟が通りかかった。名前の由来は諸説ある。徳川三代家光の頃にはすでにあったと言われ、幕府の米蔵である淺草御蔵は1620年に開設されているので、八つある堀の中間を示す目印として、開設当初に植えられたのだろう。「TAITOおでかけナビ」によると、安永年間(1772~1780年)に風災で倒れ、その後も枯れたり焼失し、1962年に浅草南部商工観光協会などが、本来の位置から100mほど上流へ行った蔵前橋西詰下流部に、7代目に当たるとみられる松を植えて復活させ、あわせて碑も建立した。
荷風の数行の文章は、すっかり膨らんでしまった。ついつい調べたくなって、苦労したが、おかげで東京の銀杏や松について、何か「物知り」になった気分がする。荷風に感謝しなければならないだろう。
いくつも「〇〇松」を紹介した後、荷風は青山竜巌寺を訪ねた様子を、《私は大久保の侘住居より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事がある。寺は青山練兵場を横切って兵営の裏手なる千駄ヶ谷の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家に、松は愚か庭らしい閑地さえ見当らなかった。》と書いている。当時、この地域は豊多摩郡千駄ヶ谷町に属していたが(東京市に編入されたのは1932年)、東京市に隣接し、宅地化が進み、寺も境内地を分譲したのであろう。したがって、竜巌寺はかつてもっと広い境内地をもっていたことになる。荷風はついでに近くの仙寿院へ。竜巌寺から北へ200m程。現在は外苑西通りに仙寿院交差点があり、その西側。江戸時代に創建された日蓮宗の寺。荷風は日暮里の花見寺に比較される名園があることを知って訪れたが、庭は跡形もなく、本堂横手の墓地もわずかに残すばかり。《古びた惣門を潜って登る石段の両側に茶の木の美しく刈込まれたるに辛くも昔を忍ぶのみ。》と記している。
荷風は「松」の締めに、《今日上野博物館の構内に残っている松は寛永寺の旭の松または稚児の松とも称せられるものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の健なるあり。》と書いている。前述のように首尾の松は1962年に復活するが、1915年当時はなくなっていたことがわかる。御行の松は十年後に天然記念物に指定されるくらい、立派なものであったことがうかがえる。また、荷風は麻布本村町曹渓寺にある絶江の松、二本榎高野山の独鈷の松を紹介し、《その形古き絵に比べ見て同じようなればいずれも昔のままのものであろう。》と推察している。
曹渓寺は臨済宗の寺で、現在の南麻布2丁目にあり、善福寺の南500m程のところにあたる。二本榎高野山は高輪にある高野山東京別院で、島崎藤村に関連してすでに登場している。荷風が見た絶江の松も独鈷の松も、すでに見ることはできない。

(つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第10回 『日和下駄』で歩く東京④

目に青葉山時鳥初鰹。最も美しい時節。東京は市内も近郊も日々開けていくが、幸いにも社寺、私人邸宅、崖地、路のほとりにまだたくさん樹木が残っていると荷風。
しばしウンチクを語った後、荷風は《東京に住む人、試に初めて袷を着たその日の朝といわず、昼といわず、また夕暮といわず、外出の折の道すがら、九段の坂上、神田の明神、湯島の天神、または芝の愛宕山なぞ、隋処の高台に登って市中を見渡したまえ。》と書いている。「何とかと煙は高いところへ上りたがる」と言われるが、まさに「地理屋」は地域研究の第一歩は「地域を俯瞰すること」と、まずは高いところへ上る。荷風から言われると、何か嬉しくなる。九段坂上・神田明神・湯島天神、愛宕山いずれも武蔵野台地の先端部。見晴らしが良い。低地との間は崖に近い状態で、神田明神も湯島天神も愛宕山も階段で上る。九段坂もかなりの急坂で、市電が上れないため迂回路をつくってあった。
見渡す東京市中は《模倣の西洋造と電線と銅像とのためにいかほど醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。》と荷風。《もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に埃つものと断言する。山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。》と続けて、パリには寺院宮殿劇場等の建築があれば、樹や水がなくても良いが、東京においては、芝山内の霊廟も樹木がなければ、その美と威儀とを保つことができないと述べている。東京の街づくりに大いに役立つ指摘である。
《庭を作るに樹と水の必要なるはいうまでもない。都会の美観を作るにもまたこの二つを除くわけには行かない。》と記した荷風は、幸いにも東京の地には昔から夥しく樹木があったとして、例を紹介する。それが一つや二つではない。いかに荷風があちらこちら歩き廻っているか、関心をもっているかがうかがえる。

まずは芝田村町に残る徳川氏入国以前からあると言われる公孫樹。――芝田村町は現在の西新橋2丁目から4丁目。公孫樹は9番地にあり、「史蹟理由※」には一ノ関藩田村右京大夫の上屋敷跡、幕臣川勝の邸内にあり、世の人々は「田村屋敷の化け銀杏」と呼んでいる。田村邸は浅野匠頭長矩が自尽したところ、とある。
※北原糸子:東京府における明治天皇聖蹟指定と解除の歴史(国立歴史民俗博物館研究報告第121集、2005年3月)に掲載された「東京都に於ける史蹟並天然記念物候補一覧(1911年内務省地方局;1915年東京府)」の史蹟理由、より。
小石川久竪町にある光円寺の大銀杏。数百年の老樹。――小石川久竪町は現在の小石川4丁目。共同印刷のすぐ南側。小石川台にある。樹齢千年とも言われたが戦災で焼失。光円寺のホームページによると、《今根から若芽が出ており、あたかも古木を支えるが如くになって》いるとのこと。
麻布善福寺にある親鸞上人手植えの銀杏。数百年の老樹。――善福寺は麻布山本町(現在の元麻布1丁目)にあり、1859年、この寺にアメリカ公使館が置かれた。麻布網代町はすぐ近く。麻布台の先端、傾斜地にある。境内の逆さ銀杏は樹齢750年余と言われている(善福寺ホームページ)。
浅草観音堂ほとりに名高い銀杏の樹が二株ある。――荷風がこの作品を書いた後のことになるが、関東大震災や東京大空襲の大火災に身を焦がしながらも、何とか持ちこたえている。
小石川植物園内の大銀杏は維新後危うく伐り倒そうとした斧の跡が残っている。――荷風が取り上げた銀杏かどうかわからないが、園内には「精子発見」の銀杏もある。
荷風はこの他、小石川水道端の第六天の祠の側の銀杏、柳原通りの汚い古着屋の屋根の上の銀杏、神田小川町の通りにある煙草屋の屋根を貫いて電信柱よりも高く聳えていた大きな銀杏、なども紹介し、《麹町の番町辺牛込御徒町辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の其処此処に銀杏の大樹の立っているのを見る。》として、《銀杏は黄葉の頃神社仏閣の粉壁朱欄と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を作す。》と記し、さらに、浅草観音堂の銀杏は東都の公孫樹の中で冠たるもので、明和のむかし、この樹下に楊枝店柳屋があり、その美女お藤の姿は今に鈴木春信らの錦絵に残されていると続けている。
荷風が描くごとく、銀杏は東京の町中各所に見られる樹木なのだろう。そのためかイチョウは、1966年に東京都の「木」として選定されている。荷風死後7年。荷風が生きていれば、もちろん「イチョウ」に一票を投じたであろう。なお、東京都のシンボルマークはイチョウの葉に似ているが、TokyoのTをデザイン化したもので、イチョウの葉ではないとのこと。
                        (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第9回 『日和下駄』で歩く東京③

『日和下駄』は第二に入る。《裏町を行こう。横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通りにはきまって淫祠がある。》このように書き出した荷風は、本所深川の堀割の橋際、麻布芝あたりの極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、寺の多い裏町の角などによく見かけられ、銅像以上に審美的価値があるとして、現代の教育がどんなに日本人を新しく狡猾にしようとしても、いまだに一部の愚昧な民の心を奪うことができないと記している。
荷風は続けて、《淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである》と書いて、東京市中各地の淫祠の類を紹介していくのであるが、まずは概論的に《聖天様には油揚のお饅頭をあげ、大黒様には二股大根、お稲荷様には油揚を献げるのは誰も皆知っている処である》と述べて、各論に入る。
芝日蔭町に鯖をあげるお稲荷様がある。――芝日蔭町は現在の新橋駅のあるところ。日比谷稲荷社と言うが、一般には「鯖稲荷」と呼ばれる。
駒込には炮烙をあげる炮烙地蔵がある。――頭痛を祈って治ればお礼に炮烙を地蔵の頭に載せる。駒込の大円寺にある焙烙地蔵のことで、放火の罪で処刑された八百屋お七を供養するため、1719年に建立されたという。大円寺は漱石の作品にも描かれたとみられる。
御厩河岸の榧寺には虫歯に効験がある飴嘗地蔵がある。――実際は百日咳の平癒を祈願してお供えした飴を舐めると咳が治ったというもの。虫歯に飴では逆効果と思ったが、やはり咳止め飴が正しいようだ。御厩河岸と言っても、隅田川から200m近く離れており、町名としては浅草黒舩町。現在の地下鉄蔵前駅すぐのところに榧寺がある。正式名称は正覚寺。浅草黒舩町は漱石の『道草』にも登場する。
金竜山境内に塩をあげる塩地蔵。――金竜山浅草寺境内、本堂の北西方にある銭塚地蔵堂。銭塚地蔵と「カンカン地蔵」に塩を供えるところから「塩なめ地蔵」とも言われる。
小石川富坂の源覚寺にある閻魔様には蒟蒻をあげる。――俗に蒟蒻閻魔と言われ、漱石や秋聲の作品にも登場する。
大久保百人町の鬼王様は湿疹が平癒したお礼に豆腐をあげる。――豆腐を奉納した後、「豆腐断ち」をして、授与された「撫で守り」で患部を撫でると治ると言われている。正式名称は稲荷鬼王神社。現在の歌舞伎町2丁目にある。
向島の弘福寺にある「石の媼様」には子供の百日咳の平癒を祈って煎豆を供える。――弘福寺は黄檗宗の寺で向島の長命寺に隣接している。風外和尚が自ら彫ったという父母像が境内に安置されており、風邪除け(風外➡風邪の外)のご利益があるとされ、「咳の爺婆尊(じじばばそん)」と呼ばれている。口内に病気がある時は爺に、咳の出る時は婆に祈願し、治った時には煎り豆と番茶を供えて供養する。
紹介した後、荷風は、《無邪気でそしてまたいかにも下賤ばったこれら愚民の習慣は、馬鹿囃子にひょっとこの踊または判じ物見たような奉納の絵馬の拙い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。》と書いている。荷風の後に――で、私が調べた解説をつけてみたが、近代的大都会東京に、よくもたくさんあるものだが、これは極めて一部である。
荷風の文章を読んで、私は改めて考えてみた。私がふるさとでもない東京で、ふるさとにいるような温かみを感じるのはいったいなぜだろう。それはまさに「下賤ばった愚民の習慣」が「いつも限りなく私の心を慰める」からではないだろうか。浅草の喧騒に安らぎを感じたり、鬼子母神にちょっと脅えながらも安らいだり、街角の延命地蔵に手を合わせてみたり。寅さんが葛飾柴又帝釈天前だからこそ、戻って来るふるさとであるように。私も柴又の駅を下りたところから、帰郷した気分にさせられる。ひょっとしたら、荷風の文学は「淫祠」の文学ではないか。浅草六区も玉ノ井もすべて「淫祠」であり、荷風は愚民の習慣の中に心の慰めを得ていったのではないだろうか。遠かった荷風が、何かまた一歩近づいたように私には思えて来る。

(つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第8回 『日和下駄』で歩く東京②

《この頃私が日和下駄をカラカラ鳴して再び市中の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を拒まない。しかし私の趣味の中には自らまた近世ヂレッタンチズムの影響も混っていよう》。荷風はこのように書いて、1905年パリのアンドレエ・アレエという新聞記者の言動を紹介し、《私は唯西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を断って置けばよいのである。》と続けている。
この後、しばし西洋文学も交えながら文章が続き、《されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探りこれが保存を主張しようという訳でもない。》と書きつつ、《元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺って行く中、電車道の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。》と続けるのであるが、ここまで要は日和下駄を履いて当てもなく家を出たような文章で、とりとめもないが、私は文京区の街裏にポンプ井戸を見つけた時のことを思い出していた。「街歩き」の魅力と言うか、何かとても荷風に共感できるのである。
そして荷風は《私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。》と書いて、その例として、《砲兵工廠の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔の方へと曲って行く横町なぞ》を挙げている。
この溝川は千川。小石川台と本郷台に挟まれた谷筋へ出て、南下するが、東京砲兵工廠にぶつかって、水は行き場を失って東へ道路の両脇を流れ、工廠の東側でやっと抜け道を見つけて、水道橋近くで外濠(神田川)へ流入する。とにかく富坂を下った辺りは水はけが悪い。それを見事に描いているのが、漱石の『こころ』。《その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです》。この後、さらに描写は続きます。この富坂一帯。砲兵工廠の煙突から煤煙も飛んでくる。住環境としてはあまり良い地域ではなく、柳町には貧民窟も広がっていた。
荷風はこの地域を、《両側の家並は低く道は勝手次第に迂っていて》、《仕立屋芋屋駄菓子屋挑灯屋なぞ昔ながらの職業にその日の暮しを立てている家ばかりである》が、新開の町に比べ、《貧しい裏町に昔ながらの貧しい渡世をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない》と評し、いかにも荷風らしく、《同時にこういう家の一人娘は今頃周旋屋の餌になってどこぞで芸者でもしてはせぬかと、そんな事に思到ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。》と続けている。「ほんとうかい?」と荷風に突っ込みを入れたくもなるが、ここは文章に込められた思いを受け止めておきたい。
小石川富坂町は坂の南一角に小さく西富坂町があるが、大半は小石川台上の上富坂町、急傾斜地の中富坂町、低地へ入って下富坂町。上富坂町は標高20mを超え、下富坂町は標高6mほど。中富坂町は傾斜地にへばり付くように家が建ち、道路の一部が階段になっているところもある。この中富坂町3番地(現、小石川2-4-12)に1918年9月、菊池寛が住むようになり、1920年2月には近くの中富坂町17番地(現、小石川2―4-3)に引っ越し、1922年秋、小石川林町に転じた。
千川は現在、暗渠になっているが、蒟蒻閻魔(源覚寺)の前を流れている。蒟蒻閻魔は漱石の作品はじめ、秋聲がこの地域に住んでいたこともあって、作品にも登場する。東京砲兵工廠は漱石、秋聲はもちろん、鏡花の『婦系図』などにも登場する。
富坂に続いて登場するのは麻布網代町辺りに裏町。荷風は活動写真や国技館や寄席なぞのビラが崖地の上から吹いて来る夏の風に飜っている氷屋の店先の前を通りかかる。すると、表から一目に見通せる奥の間で、十五六になる娘が清元をさらっているのが見える。荷風はいつものようにそっと歩みを止める。荷風は不健全な江戸の音曲というものが、今も命脈を保っていることを訝しく思うとともに、その哀調がどうしてこのように自分の心を刺すのか、不思議に感じる。荷風は何げなく裏町を通りかかって小娘の弾く三味線に感動するようでは、到底世界の新しい思想を迎えることはできないが、この江戸の音曲を電気燈の下で演奏させる世俗一般の風潮にもついていけない、と記しながら、あれこれ論を続け、《私は後から勢よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後れてよろよろと歩み行く処に、わが一家の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。》と結んでいる。
私は清元も常磐津、新内、義太夫、一中節もまったく区別がつかない。この辺りは荷風に任せて、私の興味は麻布網代町である。渋谷川に架かる一ノ橋の南西一帯で、現在の麻布十番2丁目から3丁目。標高6mくらいだが、西は麻布台で標高は20mをはるかに超える。崖地の上から吹いて来る夏の風という表現がよくわかる。
麻布十番と言えば、1989年、パティオ十番に建てられた「赤い靴の女の子」きみちゃんの像。この辺り一帯がかつての麻布網代町。実在の岩崎きみちゃんは、荷風が『日和下駄』を書く4年前の1911年、近くの鳥居坂教会孤女院で9歳の短い生涯を閉じた。野口雨情が「赤い靴はいてた女の子」で始まる『赤い靴』を作詞したのは1922年。荷風ならきみちゃんにどのような思いを寄せたであろうか。

(つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第7回 『日和下駄』で歩く東京①

『日和下駄 一名 東京散策記』という題からして、「東京の街歩き」を趣味とする私は避けて通れないという思いにさせられる。
『日和下駄』は、1914年夏のはじめ頃からおよそ一年余り「三田文学」に連載されたもので、1915年に単行本として出版された。荷風はその「序」において、《かく起稿の年月を明にしたるは此書板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして既に破壊せられて跡方もなきところ尠からざらん事を思へばなり。》と記している。さすがに一年で大きく変化するとも思われないが、『日和下駄』はその後も出版され、読み継がれており、荷風が起稿年月を明記したことによって、描かれた情景がいつ頃の東京か明確になり、研究者の立場からは、貴重な資料になる。荷風はこのように変化する「はかなき今」を切り取り、後世に残したい、そのような思いももっていたのだろう。
荷風がここまで「変化」を意識したのは、実際に大きな、しかも急速な「変化」を感じとっていたからであろう。明治後期の日本は産業革命の進行によって、とくに東京の江東地区などは工業化、都市化が進行し、地域は急速に変貌し、江戸時代からの情景が失われていった。そこへ1910年の東京大水害、翌年の吉原大火災はあっという間に地域を変貌させてしまった。このような実体験から荷風は「自分が描いた東京が、いつまた失われてしまうかもしれない。いつの時点の東京なのか、明記しておかなければならない」と感じたのだろう。実際、この後、東京は関東大震災、さらに東京大空襲によって大きく変貌させられ、戦後の高度経済成長はいっそう東京を変貌させていった。
荷風は「序」の中で、先ほどの文章に続けて、《見ずや木造の今戸橋は蚤くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草の花を見ず。》と書いている。『すみだ川』で長吉がお糸を待った今戸橋は、当時は木造で、山谷堀に二本の橋脚があった。それが東京大水害で被災し、鉄製のつり橋に架け替えられた。けれども『日和下駄』が書かれて以降、今戸橋はさらに変化する。関東大震災で被災した今戸橋は1926年、アーチ構造で欄干などもついた堅牢な橋に架け替えられた。そして高度経済成長期を経て想像もしなかった事態が発生する。山谷堀は1975年までに、すべて埋められて姿を消した。川がなくなれば橋もいらなくなる。今戸橋はなくなり、1987年、欄干などを用いた記念碑がつくられ、「今戸橋跡」の説明板も立てられた。
ついでながら、江戸川については、明治の中頃、石切橋から隆慶橋の間の土手に地元の人たちが桜の木を植え、東京における桜の名所の仲間入りを果たした。けれども東京大水害をきっかけとした治水工事によって、桜の木は切られ、護岸はコンクリートで固められ、堀割と化してしまった。その江戸川の上に今、首都高速道路5号池袋線の高架が覆いかぶさるように通っている姿を見たら、荷風はどのような思いを抱くであろうか。荷風の生家から数百mのところの変貌である。

人並はずれて丈が高い荷風は、いつも日和下駄を履いて蝙蝠傘を持って歩く。
《市中の散歩は子供の時から好きであった。》という荷風は、まず13、14歳頃の思い出から始める。1890年頃のことである。麹町区永田町の官舎に住んでいた荷風少年。神田錦町にある私立の英語学校へ通う。まだ電車がない時代である。半蔵御門を入って、吹上御苑の裏手の代官町を通り、竹橋を渡って平川口の御城門をむこうに見ながら文部省に沿って一ツ橋に出る。荷風は省略しているが、永田町の官舎から桜田濠へ出て、三宅坂を上って、半蔵門に達したと思われる。北の丸との間を抜ける代官町の通りには、当時、近衛師団の施設が建ち並んでおり、現在は東京国立近代美術館や国立公文書館などが建っている。北詰橋門のむこうには中央気象台があった。竹橋を渡って右折すると、左側が文部省、右側の濠のむこうに平川門が見える。まもなく左折すると一ツ橋を渡る。現在では首都高速道路が上を通っている。ここから神田区に入り、神田錦町はすぐである。
私はこの連載の第1回で、《荷風の通学には遠くなってしまったが、11月から神田錦町2丁目の東京英語専修学校へ通うようになった。官舎から内濠に出て、それに沿って九段坂上にさしかかり、坂を下って一ツ橋まで。神田区役所、神田警察署がある一角で、2番地には英吉利法律学校(現、中央大学)があった。》と書いたが、どうも経路は違ったようだ。私は半蔵門を入った皇居の中など、通ることができないと考えていたが、一般に通行できる道があったのだ。
荷風は代官町の通りについて、興味深い記述をしている。《宮内省裏門の筋向なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎があった。その頃その木蔭なる土手下の路傍に井戸があって夏冬ともに甘酒大福餅稲荷鮨飴湯なんぞ売るものがめいめい荷を卸して往来の人の休むのを待っていた。車力や馬方が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった》。注目はその後、《竹橋の方から這入って来ると御城内代官町の通は歩くものにはそれほど気がつかないが車を曳くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この辺がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次に麹町四谷の方へと高くなっているのである》。
さすがに坂の街で生まれた荷風である。竹橋を渡ったあたりで標高は10mほど、そこから東京国立近代美術館前を300mくらい行った乾門北側の交差点付近で標高20m。勾配は1000分の30を超えている。江戸城・皇居は武蔵野台地の先端部から低地部分にかけてつくられているため、内部に段差をもっているのである。外濠に相当する川に架けられた一ツ橋付近で標高4mほど、半蔵門付近で標高21mほど。台地の下と上である。
荷風は学校の帰り、桜田門の方を回ったり、九段の方へ出たり、いろいろ遠回りして、《目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった》。つまり私が想定した道も通ったのだが、いずれも遠回りだったようで、皇居を抜ける道が最短経路だった。急ぐ登校時には、やはり「この道」に限ったのだろう。
一年ほど経って飽きた頃に荷風は生家の方に戻った。荷風は《その夏始めて両国の水練場へ通いだしたので、今度は繁華の下町と大川筋との光景に一方ならぬ興を催すこととなった。》と書いている。もし水練場へ行かなければ、文豪永井荷風は誕生していなかったのか。そんなこともないだろうが、東京に生まれ、あるいは育った文豪たちに、水練場はさまざまに影響を与え、描かれている。

この後、荷風は《今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。》と書いて、《およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味おうとしたら》、エジプトやイタリアに行かなくても、《現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思をさせる処はあるまい。》と続けている。
「行く川の流れは常に変化していく」、まさしく「無常」であるわけだが、日本の首都として急速に変貌する東京は「行く川の流れ」も急速であり、それだけに「無常」も半端ではない。寂しさとは無縁のように、喧騒に溢れ、好奇心をそそられる魅惑の街「東京」。けれどもそんな東京に「寂しさ」を感じる荷風。おそらく荷風は失われていく江戸の風情に寂しさをおぼえたのだろうが、これに続く《今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る時には必貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒のない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれるのである。》という一文に、荷風らしさを私は感じる。荷風は、何気ない日常の東京さえも愛おしくてたまらないのだろう。そして、その愛おしさが荷風をして、東京という街を舞台に作品を紡ぎ出させているように、私には思われる。
荷風は宝晋斎其角の『類柑子』を引用し、《其角は江戸名所の中唯ひとつ無疵の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。》と書いて、《江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。》と続けている。
京都に対して江戸は常に「下り」である。どうも、江戸・東京で京都に優ることができるのは富士山くらいであろうか。けれどもそれは比較の話しであって、江戸・東京というものに焦点を当てれば、《太平の世の武士町人は物見遊山を好んだ。》そして、《江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の天明以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質でなければならぬ》。
江戸・東京を論じているうちに、まんまと荷風の手中へ連れ込まれた感がするが、やはりこの江戸の文化が荷風文学の原点なのだろう。そしてそれは荷風ひとりにとどまらず、紅葉も鏡花も漱石も、およそ明治の文豪たちの文学の原点なのかもしれない。「化政文化」は日本文化の中で、初めての江戸の文化、つまり京都を離れた文化であると言われる。文化の中心が江戸・東京へ移り、花開いていったのが明治の文学なのかもしれない。荷風の文章から、何かこんなことも考えてみた。
                      (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第6回 すみだ川⑤

『すみだ川』はいよいよ最終章の十に入る。
《気候が夏の末から秋に移って行く時と同じよう、春の末から夏の始めにかけては、折々大雨が降りつヾく》と、気象予報士のような文章を書いた後、荷風は《千束町から吉原田圃は珍しくもなく例年の通りに水が出た。本所も同じように所々に出水したそうで、蘿月はお豊の住む今戸の近辺はどうであったかと、二三日過ぎてから、所用の帰りの夕方に見舞に来て見ると、出水の方は無事であった代りに、それよりも、もっと意外な災難にびっくりしてしまった》と続けている。
災難!蘿月がお豊の家に着くと、長吉がまさに本所の避病院へかつぎこまれようとするところで、母親のお豊が付き添うため蘿月は留守番を頼まれた。何でも、夕方から夜にかけて、薄着のまま千束町近辺の出水の様子を見に出かけ、風邪を引き、腸チフスを発症したという。家の中はすでに区役所の職員が来て、消毒した後だった。
千束町から吉原田圃一帯は長吉が通った待乳山小学校に近い馴染みの土地である。山谷堀に架かる地方橋付近で標高2mほどであるから、大雨で隅田川が満水になると、山谷堀の水は逆流して、まわりへあふれ出す。本格的な河川改修、水害対策は、荷風がこの『すみだ川』を書いた翌年にあたる1910年8月に起きた東京大水害の後で、それまではほとんど何の対策もされてこなかった。東京大水害では、『すみだ川』に描かれた地域は全部床上浸水。水が二階に届くところもあった。つまり、蘿月の家も、お豊・長吉の家も床上浸水の大きな被害を受けたことになる。山谷堀に沿う日本堤は高くなっているので浸水せず、多くの避難民が押し寄せた。待乳山も同様だっただろう。東京大水害が起きた頃、修善寺の漱石は生命の危機にあった。樋口一葉が住んでいたことがある家に居住していた森田草平は、崖崩れで家がつぶされケガを負った。鏡子が見舞っている。
避病院とは伝染病患者の隔離治療をおこなう施設で、東京には本所の他、駒込・大久保にあった。『すみだ川』の設定時期には東京府本所病院になっていたはずだが、一般的に「避病院」と呼ばれていたようだ。ただし、江戸っ子は「ひ」が「し」になってしまうため、「ひびょういん」が「しびょういん」つまり「死病院」になってしまうため、名称は早くに「東京府〇〇病院」になったという。本所病院は本所松代町3丁目(現、江東橋4丁目)にあり、1961年に墨田病院と統合して、東京都立墨東病院と改称され、本所病院があった江東橋4丁目に現存している。
腸チフスに罹った長吉が生命をとりとめたのかどうか、それは書かれていない。ただ、伯父の蘿月は《どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公がついているんだぞと心に叫んだ》のである。

ここで、『すみだ川』の連載は終わるはずだった。ところが「すみだ川②」で登場した研究者から興味深い教示をいくつかいただいたので、もう少し書くことにした。

研究者は、小山書店版『すみだ川』(1935)の「はしがき」に、荷風が《小説すみだ川に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五六年の時代である。》と記していることと、「第五版すみだ川之序」に《この一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によつて其の抒情詩的本能を外発すべき象徴を捜めた理想的内面の芸術とも云ひ得やう。》などと記されていることを紹介している。また別の個所で研究者は、磯田光一が《荷風が帰朝した明治四十一年には、大きな歴史の流れのうちでも、“隅田川”は次第に人々の心をとらえつつあった。荷風が異国にあってセーヌのうしろに隅田の流れを感じとっていたころ、日本では隅田のうしろにセーヌをみようとする文学運動が、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇らによって準備されていたからである。それが同年十二月十二日に発会した“パンの会”にほかならない。》(『永井荷風』講談社文芸文庫)と書いていることを紹介している。
藤村の作品は本人の年譜を合わせれば、設定時期が明確になるものが多いが、荷風の『すみだ川』は長吉に荷風少年の面影を見ることはできるものの、荷風に一致するわけでなく、設定時期が今一つはっきりしなかった。研究者の教示によって設定時期が「明治35・6年(1902~3年)」と、かなりはっきり見えてきたが、長吉は自宅最寄りの浅草(雷門)まで電車を利用しているので、設定時期は1904年2月以降でなければならない。けれどもその辺はあまりこだわる必要はなく、荷風が渡米する(1903年)前に記憶に留めた隅田川を思い描きながら、帰国後、すでに市電網が形成された東京において『すみだ川』を書いたと、私は理解する。そして、急速に都市化・工業化が進む明治末の東京において、江戸情緒がつぎつぎと失われていく。隅田川も本所も、帰国してみれば渡米前と大きく変化している。荷風は作品の中に江戸情緒をもった隅田川・本所を残したいと考え、しかし同時に変貌していく姿も『すみだ川』の中に描き込んでいった。
セーヌ川。藤村もまたセーヌ川に隅田川を見、隅田川にセーヌ川を見たひとりであろう。「パンの会」は皮肉なことに、荷風が帰国した1908年に発会し、荷風も出席したことがあるが、藤村が渡仏した1913年に幕を閉じている。私は川ではないが、高校の時、『ザ・サウンドオブミュージック』というミュージカル映画を観て、アルプスの山並みに魅せられ、やがてふるさと金沢の背後にある連山に「アルプス」を見るようになった。そして、実際にアルプスを見た時、そこにふるさとの連山を見ていた。

さらに研究者は、荷風が『すみだ川』の後編を書こうとしていたという情報を届けてくれた。構想によると、長吉は病が癒えたが、お糸との間は結局うまくいかなくなり、それぞれ別の道を歩むことになる。ところが『すみだ川』執筆からすでに8~9年経過し、今戸橋あたりもすっかり風景が変わってしまい、昔の面影を留めていない。それならいっそのこと、この一帯から「江戸の名残」をすっかり奪い尽くした形で書いていきたい。荷風はこのように考えたという。
もちろん、この地域一帯から「江戸の名残」をすっかり奪い尽くしたのは、「明治四十三年の大水と翌年の大火事」。
「大水」は、先ほど紹介した1910年8月に起きた東京大水害。荷風がこの『すみだ川』を書いた翌年に発生している。そして、何より荷風にとって衝撃的だったのは、1911年4月9日に発生した「吉原大火災」だっただろう。吉原遊郭の江戸町2丁目「美華登楼」から出火。吉原遊郭を焼き尽くし、火はとくに東北東へ元吉町、山谷町、浅草町、玉姫町、橋場町にかけて燃え広がり、6573戸が全焼。まさに江戸の風情も焼失してしまった。長吉とお糸が待乳山小学校へ通い、学校帰りなどに歩き回った地域である。
山室軍平を中心とした救世軍は、1900年頃から廃娼運動を開始しているが、吉原大火災を契機に同年7月、協力者の輪を広げ、「廓清会」(発起人:江原素六)を組織して、廃娼運動を活発化させた。『源作日記にみるスペイン風邪』で登場した原崎源作は、「廓清会」を支える重要人物の一人であり、資金面での援助も惜しまなかった。

                       (完)

この後、『日和下駄』連載開始まで、しばらくお時間をいただきます。それまで「ブログ」の方をお楽しみください。
【文豪の東京3――永井荷風】

第5回 すみだ川④

【今度はお豊・長吉の家から、蘿月の家へ】

八は《お豊は今戸橋まで歩いて来て、時節は今正に爛漫たる春の四月である事を始めて知った。手一ツの女世帯に追われている身は空が青く晴れて日が窓に射込み、斜向の「宮戸川」と云ふ鰻屋の門口の柳が緑色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり、いつも両側の汚れた瓦屋根に四方の眺望を遮られた地面の低い場末の横町から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川は、一年に二三度と数へるほどしか外出する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につヾく桜の花、種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺から起こる人人の叫び声、鉄砲の響。渡船から上下りする花見の混雑。》《お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐るる如く踵を返して、金龍山下の日蔭になった瓦町を急いだ、そして通りがかりの成るべく汚い車、成るべく意気地のなさそうな車夫を見付けて恐る恐る、「車屋さん、小梅まで安くやって下さいな。」と云った》。
望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第したばかりか、学校へ行きたくない、学問はいやだ、「役者になりたい」と言い出した。お豊は兄蘿月に説得を依頼しようと思い立ち、小梅にいる兄の家にむかう。長吉とお糸が待ち合わせたのも今戸橋であり、今また今戸橋。そしてそこから目に写る隅田川。荷風の思い入れがうかがえる。今戸橋畔から出る待乳の渡しの先は、桜の名所向島。現在、この渡しがあった少し上流に桜橋が架けられている。待乳山聖天のある金龍山の隅田川畔と南側が浅草金龍山下瓦町である。鰻屋の宮戸川は「陽炎の辻」(佐伯泰英原作)にも登場する。この辺りの隅田川は宮戸川とも呼ばれ、ウナギがよく捕れた。屋号の「宮戸川」は、これに由来する。
着飾った若い男女の花見客を載せた人力が勢いよく走る間を、お豊を載せた人力はよたよたと吾妻橋を渡る。渡り終えると200m近く行って、左折して中ノ郷瓦町に入ると、折れ折れしながら業平橋へ。後に路面電車を敷設するため、業平橋へ直通する道路(現在の浅草通り)がつくられた。
《この辺はもう春と云っても汚い鱗葺の屋根の上に唯だ明く日があたっていると云うばかりで、沈滞した掘割の水が麗な青空の色を其のまま映している曳舟通り》。荷風は業平橋付近をこのように描写している。お豊を載せた人力は業平橋を渡ると、すぐ左折して水門橋で曳舟川を渡り、小梅瓦町に入り、川沿いの曳舟通りを少し行くと蘿月の家がある。今では業平橋が架かる大横川は埋められて、親水公園になり、曳舟川も埋められて曳舟川通りとなっている。そして何より小梅瓦町へ入って、右手一帯は「ソラマチ」。東京スカイツリーがそびえている。荷風の描写と似ても似つかぬ街並みに変貌している。
話し終えてお豊は人力で。春の夕陽は赤々と向うに傾いて、花見帰りの混雑をいっそう引き立てる。お豊は神仏にすがりたい思いで、人力を雷門前に止めさせ、仲見世を通って観音堂へ。

【蘿月と長吉が歩いたコース】

午前、長吉がやって来た。蘿月はいっしょに茶漬けを済ますと、長吉を連れて家を出て、《小梅の住居から押上の掘割を柳島の方へと連れだって話しながら歩いた。掘割は丁度真昼の引汐で真黒な汚ない泥土の底を見せている上に、四月の暖い日光に照付けられて、溝泥の臭気を盛に発散して居る。何処からともなく煤烟の煤が飛んで来て、何処という事なしに製造場の機械の音が聞える。道端の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外に女房共がせっせと内職して居る薄暗い家内のさまが、通りながらにすっかりと見透かされる。そう云う小家の曲り角の汚れた板目には売薬と易占の広告に交って至る処女工募集の貼紙が目についた》。工業化が進みつつある本所、貧しい労働者の街が広がる下町のようすが、丁寧に的確に描かれており、ここでも「文豪の筆」に脱帽。北十間川は当時、業平橋・現在の京成橋間はなかったので、「押上の掘割」とは現在の京成橋から柳島橋にかけての北十間川を指している。
《然し間もなくこの陰鬱な往来は迂曲りながらに少しく爪先上りになって行くかと思うと、片側に赤く塗った妙見寺の塀と、それに対して心持よく洗いざらした料理屋橋本の板塀のために突然面目を一変させた。貧しい本所に一区が此処に尽きて板橋のかゝった川向うには野草に蔽われた土手を越して、亀井戸村の畠と木立とが美しい田園の春景色をひろげて見せた》。
北十間川に沿って東進すると、当時の本所区と南葛飾郡の境を流れる横十間川、そこに架かる柳島橋。右手に「柳島の妙見さん」で知られる法性寺。葛飾北斎が信仰していた寺としても有名。道路の向こう側、柳島橋の畔にあったのが川魚料理で有名な老舗料亭「橋本」で、「橋本」の前で円タクを下りた芥川龍之介は、橋本は焼けずに残っていたが、すでに食堂に変っており、《すりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった》と『本所両国』に書いている。脇を流れる北十間川に架かる十間橋からは、川面に映る「さかさ東京スカイツリー」が見られる。
蘿月は急ぐ長吉を引き留めて、妙見さんの門前の葦簀を張った休茶屋で茶を飲む。掘割は汚い水底を見せ、其処此処に工場の煙突から煙が立ち上る。けれども遠くの畠の方から吹いてくる風は爽やかで、寺の門の屋根には雀と燕が絶え間なく囀っているし、《天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃いて》おり、《市街からは遠い春の午後の長閑さは充分に心持よく味われた》。「天神様」とは南葛飾郡亀戸村にある亀戸天神社で、500mほど離れている。
柳島橋の上で別れる時、蘿月はもう一度、「後一年辛抱して学校を卒業するよう」念を押して、俳諧の運座が開かれる亀戸の龍眼寺書院にむかった。龍眼寺は天神社にむかって200mほど行ったところにある。

伯父の蘿月と別れた長吉は《何処も同じような貧しい本所の街から街をばてくてく歩いた。近道を取って一直線に今戸の家へ帰ろうと思うのでもない。何処へか廻り道して遊んで帰ろうと考えるのでもない。長吉は全く絶望してしまった》。
伯父なら自分のことを理解し、応援してくれると思っていたからだ。
《何処まで歩いて行っても道は狭くて土が黒く湿っていて、大方は路地のように行き止りかと危まれるほど曲っている》という一文から始まって、貧しい本所の描写が続く。隅田区民に申し訳ないようで、「何もここまで書かなくても」と思ってしまうが、後の荷風を知れば、案外このような風景に親しみをもって描いていたのかもしれない。
《長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町と書いた町の名を読んだ。そして直様、此の頃に愛読した為永春水の「梅暦」を思出した。あゝ、薄命なあの恋人達はこんな気味のわるい湿地の街に住んでいたのか。見れば物語の挿絵に似た竹垣の家もある》。
柳島橋で伯父と別れた長吉は、とにかく帰る方向を目指して西進したのだろう。あちらこちら折れ折れしながら、柳島、押上町、中ノ郷業平町。業平橋を渡って中ノ郷八軒町、中ノ郷元町を通ったようで、気が付けば中ノ郷竹町に入っていた。吾妻橋東詰の南一帯が中ノ郷竹町で、隅田川辺は青物河岸と呼ばれる。結局、何のことはない、家の方向へ歩いていたのである。長吉が歩いたこのコースの平均海抜は1m。確かに湿っぽい土地である。ここで出て来る「梅暦」は正しくは「春色梅児誉美」。天保年間の人気作品。

               (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第4回 すみだ川③

【学校をさぼって長吉が葭町まで行ったコース】

三は《月の出が毎夜おそくなるにつれて其の光は段段冴えて来た。河風の湿ツぽさが次第に強く感じられて来て浴衣の肌がいやに薄寒くなった。》という一文で始まる。「ああ、やっぱり小説だ」「文豪の書いた小説だ」と感じる。長吉は《初めて秋というものは成程いやなものだ。実に淋しくって堪らないものだと身にしみじみ感じた》。学校は昨日から始まったが、長吉は気が進まない。
長吉の通う学校は神田。今戸から浅草寺の境内を抜け、浅草橋まで出て、柳原通りを西進して神田へむかったと思われる。すべて徒歩である。
約束の日、お糸は帰って来たが、あっという間にすべてが芸者になっており、長吉は《幼馴染の恋人お糸はこの世にはもう生きていないのだ》と思う。朝七時前に家を出たもの気の進まない長吉は、浅草寺本堂横手のベンチに腰を下ろしたが、お参りに現れた若い芸者を見て、急にお糸のことを思い出し、もう居ても立ってもいられない。その芸者の後を追ったが見失い、《長吉は夢中で雷門の方へどんどん歩いた》。
ついに長吉は《学校の事も何も彼も忘れて、駒形から蔵前、蔵前から浅草橋……其れから葭町の方へどんどん歩いた。然し電車の通っている馬喰町の大通りまで来て、長吉は何の横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生まれたものだけに道をきくのが厭である。恋人の住む町と思えば、其の名を徒に路傍の他人に漏すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐ろしくてたまらない》。
長吉は左へ左へと折れ、蔵造の問屋らしい商家の続いた同じような掘割の岸に二度出て、《遥か向うに明治座の屋根を見てやがて稍広い往来へ出た時、その遠い道のはづれに河蒸気船の音が聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚った》。すでに竃河岸は埋められているので、掘割は浜町川であろう。おそらく蠣濱橋辺りだろう。ここから藤村が若い日を過ごした吉村家のある日本橋浜町2丁目11番地の道をまっすぐ。隅田川に出る。
とにかくやっと、お糸が身を置く松葉屋を見つけ、お糸が出て来るのを待つが、人目につくだけで、朝早くから出て来るはずもないだろう。
長吉は浜町の横町を大川端の方へ歩く。《川端には、水練場の板小屋が取払はれて、柳の木陰に人が釣をしている》。《川向は日の光の強い為に立続く人家も瓦屋根をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛に煤煙を吐く製造場の烟筒よりも遥に低く、動かずに層をなして浮んでいる》。江東深川界隈の工場地帯の様子も描かれている。
両国橋と新大橋との間を一回りした長吉は、浅草の方へ帰ろうとするが、もしやの思いに葭町へ取って返し、おそるおそる松葉屋の前を通ってみた。出て来て欲しいような、出て来て欲しくないような、このような気持ち、身に覚えがある。長吉は《恋人の住む家の前を通ったと云うそれだけの事が、殆んど破天荒の冒険を敢てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを》遂に後悔しなかった。

【再び浅草】

長吉は卒業を迎える年の正月、風邪からインフルエンザに進み、正月いっぱい寝込んで、やっと外出できるようになって浅草公園へ。
《歩いて行く中いつか浅草公園の裏手に出た》。そこの細い通りの片側には深い溝があって、それを越した鉄柵の向こうにところどころ冬枯れして立つ大木の下に、五区の楊弓店の汚らしい裏手が続いて見える。屋根の低い片側町の人家はちょうど後ろから深い溝の方へと押し詰められたような気がするので、それほど混雑していない往来がいつも妙に忙しく見え、うろうろ徘徊している人相の悪い車夫が一寸身なりの小綺麗な通行人の後ろに煩わしく付きまとって乗車を勧めている。《長吉はいつも巡査が立番している左手の石橋から淡島さまの方までずっと見透される四辻まで歩いて来て、通りがかりの人々が立止って眺めるまゝに、自分も何という事なく、曲り角に出してある宮戸座の絵看板を仰いだ》。
長吉はいつものように、今戸の自宅から待乳山聖天の下を通り、猿若町を抜けて、浅草公園の裏手に出た。しばらく西へ進むと左手に溝があり、そのむこうが浅草公園五区で、楊弓店など遊興施設がある。溝に沿って100m余進むと四辻で、まっすぐ行くと、まもなく交番がある。左折するとすぐ溝に架かる石橋、その道の奥に淡島神社が見える。右折すると50mほどで宮戸座。この道、現在は言問通りの一部になり、楊弓店などがあったところは浅草寺病院。1910年の大水害に際し、浅草寺がその救済のために設立した救護所が原点。芥川龍之介の『浅草公園』にも登場する。
荷風は宮戸座の絵看板について詳しく描き、やがて長吉は宮戸座へ吸い込まれて行く。
宮戸座を出た長吉は、小売店の暖簾や旗などが激しく翻る千束町の通りを抜け、山谷堀へ。おそらく宮戸座を出て右手へ。100mほど行って左折。さらに200m余進んで右折し、現在の千束通りにあたる道を500mほど行って、山谷堀へ出たのだろう。やがて、《山谷堀から今戸橋の向に開ける隅田川の景色を見ると》、長吉はどうしてもしばらく立ち止まらずにいられなかった。この後しばらく隅田川の描写が続き、《今戸橋を渡りかけた時、掌でぴしゃりと横面を張撲るような河風》。それでも長吉は翌日も宮戸座へ。

                        (つづく)
【館長の部屋】
                          
連載 高輪を歩く②

高輪警察署前交差点。南北方向に通る道が二本榎通り(旧東海道)、西へ100m程で桜田通り(明治学院前交差点)、東へ行くと東禅寺の北を通り、坂を下って第一京浜国道に出る。
交差点の南東角に高輪警察署があり、その南に高野山東京別院、そして高輪教会。現在の高輪教会は1907年に後述する旧地から移転してきたもので、現存する礼拝堂は1933年にライト(旧帝国ホテル設計者)の門下生が設計した日本で最初のライト式建築の会堂で「東京たてもの百選」に選ばれている(2004年)。北東角には高輪消防署二本榎出張所(旧高輪消防署)。鉄筋コンクリート3階建てで、こちらも1933年に建てられたもの。特に3階の円形講堂は第一次世界大戦後の「ドイツ表現主義」による設計で、8本の梁が中心に集まり、10個の窓部アーチと一体となって、その上に望楼が建設された。消防署があるのは標高25m地点で、そこへつくられたので、望楼からは灯台のごとく四方良く望むことができただろう。これだけでも目立つのに、1984年、望楼の上にシンボルタワーが設けられ、まさに高輪台のシンボルとなり、「東京都選定歴史的建造物」に選定されている(2010年)。警察署と消防署がある交差点というと、何となく堅苦しく感じられるが、落ち着きと安らぎを感じさせる不思議な交差点である。
この後、二本榎通りを少し北へ行って右折。50mほどで高輪台小学校(1935年開校)の前。そのむかいに清林寺というお寺があり、そのそばの旧二本榎町3番地(現、高輪2丁目6)に梶井基次郎(1901~32年)が父母兄弟と暮らした家があった。基次郎は1910年1月から翌年5月まで、この家から兄謙一と共に頌栄小学校に通った。梶井家の借りた家は頌栄学校を創設した岡見家の持ち家だった。青林寺のむこうに高輪消防署二本榎出張所の建物とシンボルタワーがそびえて見える。
明治学院前交差点。桜田通りを跨ぐ横断陸橋から望む明治学院大学のキャンパスは、南側にある正門を入って、まもなく北にむかって一段高くなっている。この辺りが庭園になっていたのだろう。桜田通りは明治学院の建物に沿うように北進し、100mあまり行ったところから下り坂になっている。横断陸橋を下りて桜田通りを北に進む。下り坂へかかる頃、桜田通りを越えて東側に正満寺があり、奥の方へ一旦下がって、そのむこうに高輪台があり、5mを超える崖をつくり出している。300mほどで坂を下りきり、清正公前交差点。何か窪地へはまりこんだような交差点である。
桜田通りを横断して、東へ高輪台を上る天神坂。坂の上は二本榎通りとT字路をつくっており、突き当りが東海大学高輪校舎、そしてテニスコート。ここに台町教会(高輪教会)があった。『桜の実の熟する時』には《谷を下りてまた坂になった町を上ると、向うの突当りのところに会堂の建物が見える。十字架の飾られた尖った屋根にポッと日の映じたのが見える》と描かれているが、まさに今、私が通って来た経路である。天神坂は坂下の標高が15mくらい。坂上のT字路が標高26mであるから、250mほど進む間に10m余、上っている。勾配は1000分の40を超え、私が途中で休憩をとったくらいの急坂である(もちろんこれは坂の性にばかりするわけにいかないが)。急坂を上って、見えて来た教会の尖塔。私もふと小説の世界に入り込んでしまう。
天神坂から二本榎通りに出て右折。100mほど行くと、右側奥に広岳院(現、高輪1丁目24-6)。この近くに木村熊二の家があり、藤村も寄宿舎に入る前、木村宅から明治学院へ通ったことがある。
引き返して二本榎通りを北進。天神坂上を過ぎて少し行くと、道は下り始める。しばらく行くと、右手は崖。高輪中学校・高等学校横の狭い道は階段で下りている。やがて、右手に交番。左手は高輪皇族邸(旧高松宮邸、2020~22年、仙洞仮御所)。100m程で伊皿子交差点。左から魚籃坂が下って来る。直進は一旦上って、やがて聖坂の下りへかかる。右折すると、伊皿子坂。眺望の良い坂を下ると東海道。高輪ゲートウェイ駅や泉岳寺駅のすぐ北にあたる。
二本榎通りから聖坂を通る経路は、藤村が明治学院への往来にたびたび利用していた。『桜の実の熟する時』にその様子が描かれている。
母が上京したというので、学校から田辺の家に向かう捨吉は、土曜日の午後、秋雨あがりの中、寄宿舎を出る。《取りあえず伊皿子坂で馬車に乗って、新橋からは鉄道馬車に乗換えて行った》。夏休みになり、学校の寄宿舎から田辺の家に帰る捨吉。《明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものもないころであった。学校から田辺の家まではおよそ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身にとって何でもなかった。(略)高輪の通を真直に聖坂へととって、それから遠く下町のほうにある家を指して降りて行く》。夏期学校へ行くため田辺の家から《学校まで捨吉は何にも乗らずに歩いた。人形町の水天宮前から鎧橋を渡り、繁華な町中の道を日影町へととって芝の公園へ出、赤羽橋へかかり、三田の通りを折れまがり、長い聖坂に添うて高輪台町へと登った。》《聖坂の上から学校までは、まだかなりあった。谷の地勢をなした町の坂を下り、古い寺の墓地についてまた岡の間の道を上って行くと、あたりはもう陰鬱な緑につつまれていた。寄宿舎の塔が見えてきた》。
通学する若き日の藤村を思い浮かべながら、伊皿子坂を下りて泉岳寺駅へ。「高輪を歩く」は終了となるが、品川駅からの徒歩。若い頃には何でもなかったはずが、けっこう身体に、とりわけ足にこたえる。
                          (完)
【館長の部屋】
                           
連載 高輪を歩く①

コロナ禍で中断していた「東京の街歩き」。久々の再開である。さて、「どこを歩こうか」と迷うことなく、高輪に決まった。文豪はやはり文豪であり、作品などほとんど読んだことがなかった島崎藤村も、関われば親しみも湧き、ゆかりの地を巡ってみたくなる。とりわけ高輪は藤村が住み、おおいに影響を受けた明治学院や高輪教会もある。それに何と言っても、起伏の多い台地が広がっているのが魅力である。私はすでに、高輪も舞台となっている『新生』や『桜の実の熟する時』で、こうした起伏を描いている。地形図や航空写真で確認しているが、結局のところ実際に歩いてみないと、描いたことが合っているのか、間違っているのか、判断がつかない。
さて、私は品川駅高輪口に立った。目の前に柘榴坂が高輪台へ上っている。広い道路で、交通量も多く、路線バスも走っている。『桜の実の熟する時』では捨吉が品川から高輪へしだいに近づいて行く様子が描かれている。けれども当時、柘榴坂は途切れており、捨吉が通ったのは別の道である。
高輪口前を通る国道15号線(第一京浜国道)を向うへ渡り、左折して東横イン品川駅高輪口の手前で右折。この辺りで標高6m余。ここから上り坂で、S字状に曲り切ったところから、ほぼ平坦な直線道路になる。この辺り標高10m程で、右側のマンションなどの建物は背後が崖。その上にも建物が見え、標高20mに達するので、10mを超える崖である。高輪4丁目19番に入って少し行くと、上り坂になる。実は今歩いている道路、上りの一方通行であるが、前方の坂は下って来る方からの一方通行で、三叉路のところで、こちらは左折、むこうからは右折して、高輪4丁目19番と20番の間の道へ進まなければならない。私は歩行者なので良いが、車だったら回って、もとの国道15号線に戻されてしまう。
それこそ、話しは脇道へ逸れてしまったが、『桜の実の熟する時』で捨吉が品川から高輪へむかった道はこの道で間違いない。《迫った岡はその辺で谷間のような地勢をなして、さらに勾配の急な傾斜のほうへと続いて行っている》。繁子を載せた人力車が捨吉を追い越して行く。《繁子を載せた俥はちょうど勾配の急な坂にかかって、右へ廻り、左へ廻り、崖の間の細い道をわずかばかりずつ動いて上って行った》。当時は舗装もされておらず、この坂を上った車夫はたいへんだっただろう。
《岡の上へ捨吉が出たころはもう繁子の俥は見えなかった》。坂を上りきると尾根筋で、標高は20mを超える。じつはこの尾根筋、江戸時代以前の東海道(旧東海道)である。左折すると御殿山に至り、そこから東側へ下ると現在の第一京浜国道、つまり江戸時代の東海道に出る。江戸時代には品川駅辺りも全部海。品川宿を出て日本橋にむかうと、道はすべて海岸線を通る。
捨吉は坂を上りきって旧東海道へ出ると右折。まもなく左手が奥平邸のあったところ、現在の高輪4丁目6番・7番・2番・3番・1番の区域に入り込み、やがて現在の柘榴坂上地点に出る。旧東海道は柘榴坂へ出て、すぐ左折し、少し行って坂上で右折し、今日の二本榎通りのルートへ入る。
私は坂を上りきって、左折も右折もせず、直進した。この辺り一帯、町内会の名称は「高輪4丁目」ではなく、「高輪南町会」となっている。100mも行かないうちに、もう一つの尾根道に出会った。左折すると300m足らずで御殿山小学校。直進は「ここから先車両の通り抜けはできません」の標識。50m程行くと崖になっており、階段が下っている。下は五反田で、藤村の時代はここが東京市と荏原郡の境界にあたる。階段を下りれば、清泉女子大学はすぐである。
私は右折して柘榴坂上に通じる道を100m近く進んだ。旧奥平邸の西側部分にあたる。ここで巌谷小波(1870~1933)が1907年から住んだ家の跡へ行くため左折。まもなく道はそのまま右へ折れて、左側一帯が高輪4丁目1番。150m程行っただろうか、「高輪4丁目1-18」に巌谷小波旧居を示す石柱を見つけた。
今回、私の注目点の一つは、《浅い谷を隔てて向うの岡の上に浅見先生の新築した家が見えた》という一文である。これは旧奥平邸辺りから描いている。私は巌谷小波の家があった辺りを推定したが、どう見ても谷らしきものがない。そのかわり、巌谷小波旧居の裏は崖である。ところがその向こうがまた高くなって、島津山と呼ばれる。これは明治になって先端に島津家本邸がつくられたからで、現在は清泉女子大学が建っている。この間の谷は北から南へ開いている。浅見先生の新築した家は、どうも島津山にあったと考える方が良さそうだ。私が藤村の『桜の実の熟する時』の項で書いたことは、訂正しなければならないだろう。
巌谷小波旧居の前を少し行くと、道はそのまま右折して、まもなく柘榴坂上に通じる道へ戻る。左折して30m程で柘榴坂上。ここで旧東海道に出たことになり、二本榎通りが尾根筋を伸びている。坂下に品川駅が見える。何十分か前、あそこからこの坂を写真に収めていたのだ。
右側にグランドプリンスホテル新高輪を見ながら二本榎通りを少し行くと、信号のある三叉路で、左へ行くと清泉女子大学に通じる。直進すると、しばらくして左側に高輪病院。その先の信号機のある三叉路を左折して100mほど行くと桜田通り(国道1号線)に出る。向う側に都営地下鉄浅草線高輪台駅の出入り口が見え、角に高輪台交番がある。その交番の前を小路へ入ると、すぐ頌栄女子学院の正門。1884年に開校し、1888年には木村熊二が校長に就任している。その関係で、藤村も息子たちを頌栄小学校に通わせ、梶井基次郎なども通っていた。藤村は『桜の実の熟する時』で、《学窓をさして捨吉は高輪の通りを帰って行った。繁子が監督している小さな寄宿舎のあるあたり、亜米利加の婦人の住む西洋風の建物を町の角に見て、広い平坦な道を歩いて行くと、幾匹かの牛を引いて通る男なぞに逢う。まだ新しい制服を着て、学校の徽章の着いた夏帽子を冠った下級の学生が連れだって帰って行くのにも逢う》。当時の二本榎通りの風景とともに、「繁子が監督している……」は頌栄学校のことと見られている。建物が少ないから二本榎通りからも頌栄学校が望まれたのだろう。
頌栄女子学院中学校・高等学校は変則的な校地に沿うように、1号館・本館・2号館・3号館が建っている。裏手にあたる2号館を過ぎ、3号館まで来ると、右手にグローリアホール・グリーンヒルホールがある。道の行く手に警備員室が建っており、その横から狭い道を下るとグラウンドやコート・体育館などがある校地になっており、途中が標高20m地点。頌栄学校の立地するところは高輪台から伸びる島津山の付け根辺りで、西側に谷筋があり、そこへ高低差10m程下ってグラウンドなどがあることになる。
頌栄学校のまわりを一周して桜田通りへ出て、高輪台交番の前を通り、100m程行って、歩道橋を過ぎたところで左折。まもなく右手が白金台2丁目9番。
1913年3月。妻籠宿本陣島崎家15代当主広助の一家と、藤村の一家は明治学院のすぐ南隣、芝区二本榎西町3番地に引っ越した。二本榎西町は1番地から3番地までしかないので、各番地の範囲が広く、番地だけで場所をピンポイントに特定することはできないが、「明治学院歴史資料館」の資料(ネット公開)は、桜田通りに面した白金台偕成ビル(白金台2丁目10-5)の裏手、白金台2丁目9番にあたると記している。場所を特定できないが、この一角に藤村たちが住んでいた。そして『新生』では、《新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀とで囲われた平屋造りの家の周囲を走り廻っていた》(37)と描かれている。
この辺り、高輪台と白金台を結ぶ尾根筋にあたり、頌栄学校西側の谷筋は南にむかって下っているが、ここは北へむかって明治学院の西側を下って行く谷筋の始まりで、白金台2丁目9番は、東の10番から来た窪みが9番で北へ向きを変え、8番の方へ下っている。南側の12番は少し高く、ここが尾根筋になる。
このような地形の記述。多くの読者にとって、何ら興味のわかないことであろうし、直接作品理解につながるものではない。けれども「地理屋」にはこのような微地形がたまらなく気になり、こだわってみたくなる。ひょっとしたら、タモリさんならこの心情、わかってくれるかもしれない。と、タモリさんを思い浮かべると、「ブラタモリ」が連想される。そう言えば、現在タモリさんと共演している野口葵衣アナウンサーは先ほど紹介した頌栄女子学院中学校・高等学校の卒業生。起伏の中で思春期を過ごした彼女なら、タモリさん同様、起伏と坂の魅力を理解してくれるだろう。

                      (つづく)
【文豪の東京2――島崎藤村】

特別編 藤村の子どもたちが通った学校

連載していた【文豪の東京2――島崎藤村】を読まれた研究者の方から、子どもたちが通っていた学校について、貴重な情報をいただいた。このような情報提供はとてもありがたく、私自身の知識を広げるとともに、私が発信した誤った情報を修正するためにも重要である。

(1)芝区西久保櫻川町2番地にある高等下宿風柳館に転居してからの、子どもたちの学校について
【すでに発信した文章】 帰国から1年近く経った1917年6月。藤村は仕事場を芝区西久保櫻川町2番地にある高等下宿風柳館に移した。愛宕山の北、現在の虎ノ門1丁目25。新橋駅までは徒歩でも10分ほどのところ。銀座なども近い。私は藤村がこの風流館を選んだ理由の一つとして、学校をあげた。『新生』には、《泉太は最早この下宿から小学校の一番上の組に通うほどの少年であった》(100)と書かれているが、実際の藤村の子どもたち、長男楠雄、次男鶏二、さらに1918年3月に引き取った柳子が通った鞆絵小学校(ともえ、1870年開校)は、西久保巴町(現、虎ノ門3丁目)にあり、風流館から300m足らずのところである。
――このように私は、藤村の子ども3人がいずれも鞆絵小学校に通ったとしたが、実は確証がなく、「注」として、《柳子については間違いないだろう。けれども、上の男の子二人は頌栄小学校に通っており、鞆絵小学校に転校したのか、頌栄小学校に通い続けたのか、資料がないため確信がもてない。漱石の息子たちも暁星学校へ電車で通学しており、藤村の子どもたちも電車に乗って頌栄に通っていたとしても不思議はない。風流館から東へ500mほどで田村町の電停があり、目黒駅前行に乗って清正公前で下車。明治学院に沿って歩き、1kmほどで学校に着く》と付け加えた。

(2)麻布区飯倉片町33番地に転居してからの、子どもたちの学校について
【すでに発信した文章】 1918年10月。藤村は麻布区飯倉片町33番地に転居した。現在の麻布台3丁目。東京タワーの西500mの位置にあたる。『新生』には、《愛宕下の下宿から天文台の附近に見つけた住居までは、谷底から岡の上へ通うほどの距離しかなかった。岸本は三人の子供と婆やとを引連れて、皆一緒に歩いて新しい家に移った》(138)と記されている。
――このような記述をした上で、私は、「注」に《子どもたちは転校したと思われる。最寄りの麻布小学校は藤村旧居から200mほどの飯倉片町交差点北東角にあるが、当時は市兵衛町(現在の六本木1丁目、泉ガーデンのあるところ)にあり、500mほど。頌栄小学校に通っていたとすれば、一ノ橋から同じ電車に乗れば良い》と記した。 

このような記述に対して、研究者からつぎのような貴重な情報をいただいた。
【長男楠雄】 島崎楠雄が「むかしばなし」(『父藤村の思い出と書簡』所収、信毎書籍出版センター、2002)に、《桜川町に移った翌年に私は鞆絵小学校から、芝白金の明治学院中等部へ通学するようになった。妹の柳子も常陸の方から引き取られて、父の元に帰ってきた》と記しているとの教示があった。あわせて研究者から、藤村が明治学院宮地氏に宛てて、「楠雄が1919年3月9日付けで小学校卒業予定なので、貴学入学お願いしたい」という趣旨の書簡を送っているとの情報提供があった。
【次男鶏二】 島崎蓊助が『父藤村と私たち』(海口書店、1947。のち『藤村私記』所収、河出書房、1967)に、《兄は「風流館」から芝巴小学校へ通った》と鶏二について記しているとの教示があった。
以上から、楠雄・鶏二は共に頌栄小学校から鞆絵小学校へ転校したことが確認できた。
四女の柳子について研究者は、『嵐』に《兄達の学校も近かつたから、海老茶色の小娘らしい袴に学校用の鞄で、末子をもその宿屋から通はせた》との一文があり、『嵐』は小説ではあるが、「末子」のモデルは「柳子」なので、鞆絵小学校に通っていたことが窺えるとの教示があった。
また、同じく『嵐』に《太郎は既に中学の制服を着る年頃であつたから、すこし遠くても電車で私の母校の方へ通はせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通はせた》という一節があることから、飯倉片町の住居から、楠雄は明治学院中等部へ、鶏二と柳子が鞆絵小学校へ通っていたことが窺えるといえると指摘している。
さらに研究者は、藤村の「ふと見つけた静けさ」(『飯倉だより』所収、1922)に《ある日、私は麻布の永坂に出た。麻布小学校には自分の女の児が通つて居るので》という一文を指摘し、柳子が麻布小学校に通っていたことを裏付けている。
私の推測だが、鶏二が小学校を卒業し、柳子一人が鞆絵小学校に通うようになるのを機に、麻布小学校に転校したのではないだろうか。

以上をまとめてみたい。
楠雄は1905年10月に生まれ、1912年4月に小学校入学(すぐ近くに篠塚小学校があったはずだが、育英小学校などへ通わせたかもしれない)。1913年3月に二本榎西町に転居したのにともない、4月から頌栄小学校に通い始め、1917年6月の風流館転居を機に頌栄小学校から鞆絵小学校に転校した。楠雄本人は翌1918年3月に小学校を卒業し、4月に明治学院中等部に進学したと、学齢通りに卒業・進学したように「むかしばなし」に書いているが、実際には何らかの事情で、小学校卒業が一年遅れ、1919年3月に卒業、4月に明治学院中等部へ進学したとみられる。すでに飯倉片町に転居しており、楠雄は市電を使って明治学院へ通学した。したがって、楠雄が桜川町から市電で明治学院へ通学することはなかった。
楠雄がどのような経緯で小学校卒業が遅れたのか、私はその事情を把握していないが、『新生』における、《泉太は最早この下宿から小学校の一番上の組に通うほどの少年であった》という表現や、『嵐』における《太郎は既に中学の制服を着る年頃であつたから、すこし遠くても電車で私の母校の方へ通はせ》という微妙な表現も、この辺の経緯を裏付けるものであろう。つまり、「本来なら小学校の最上級生のはずなんだけど、実際は5年生だった」「小学校を卒業して、やっと中学生で電車通学が心配されるかもしれないが、本来なら小学校を卒業して中学校の制服を着て通学している年齢なんだから、大丈夫」と言った意味合いが、作品の文章表現に込められているように思われる。楠雄が明治学院を中退した時の学年が諸説あるのも、このような背景があるのではないだろうか。
鶏二は1907年9月生まれ。二本榎西町転居時は学齢に達しておらず、翌1914年4月に頌栄小学校へ入学。4年生の時に頌栄小学校から鞆絵小学校へ転校、1920年3月に卒業した。1910年8月生まれの柳子は、1917年4月、預けられていた茨城県で小学校に入学し、翌1918年3月に父のもとに戻ったのを機に、4月から鞆絵小学校へ通った。1920年3月に鶏二が鞆絵小学校を卒業してしまったので、4月、4年生になった柳子は麻布小学校へ転校した。

研究者からは、その後の子どもたちについても情報を提供された。
楠雄は1922年、明治学院中等部を退学して、馬籠へ帰農した。鶏二は鞆絵小学校卒業後、明治学院中等部には進学せず、小石川下富坂町(現在の小石川1丁目※)の川端画学校へ通い、1926年に馬籠に転じ、半画半農の生活を送った。1921年3月、預けられていた家から藤村の元に戻った三男蓊助は、明治学院中等部に入学したが、文学や絵画に魅せられ、1922年9月に明治学院を中退し、鶏二共々川端画学校へ通うようになった。柳子は1923年3月、麻布小学校を卒業し、4月、高等小学校に入学した。『日本近代文学大系14 島崎藤村集Ⅱ』における和田勤吾の注釈によると、高等小学校1年を経て、1924年から実践女学校※※へ編入した。

※研究者から川端画学校の住所について、「小石川春日町」(蓊助の回想録)、「下富坂町」(一般的な紹介)があるとの教示をいただいた。こうなると、がぜん「地理屋」は調べたくなる。じつは、旧地名に小石川下富坂町も小石川春日町もある。しかも接している。調べてみると、「現在の小石川」としているものもある。何とか番地までわかれば、と思って調べていくうちに、三重県立美術館のホームページに藤島武二年譜をみつけた。そこには「小石川区富坂町19」と記されている。やっと番地にたどりついたが、「富坂町」は「上富坂町」「中富坂町」「下富坂町」「西富坂町」に分かれていて、「富坂町」は存在しない。そこで、三重県立美術館に問い合わせたが、結論的には「下富坂町」であろうということになった。文京区役所の春日通りをはさんで北側、小石川1丁目1番の地域が、旧下富坂町19番地になる。

※※研究者から柳子の進学先「実践女学校」について、『日本近代文学大系14 島崎藤村集Ⅱ』における和田勤吾の執筆において、注)では「実践女学校」、「年譜」では「実践高女実科」と異なっているとの教示をいただいた。実践女学校は学内編成を度々変更しているので、大きく「実践女学校」と書くのが無難だっただろう。ただし、1911年に実践女学校中等部が高等女学校と実科高等女学校の二部になっており、「実践高女実科」とは「実科高等女学校」を指しているものと思われる。柳子が入学した年、実科高等女学校の新校舎(木造平屋建て12教室)が完成した。学校は渋谷にあった(現在の実践女子大学渋谷キャンパス)。飯倉片町の自宅から歩いても3km程だが、自宅から500m程歩いて六本木へ出れば、渋谷行きの市電を利用することができた。

なお、藤村の子どもたちの就学に関して、さまざまな見解があり、その根拠となる資料においても、記述に食い違いがみられる。そのような点においても、研究者からは懇切な指摘や資料紹介があった。
【対談】 武内哲志さんにきく

新企画!
「勝手に漱石文学館」では掲載記事の幅を広げるため、「対談記事」の掲載を企画しました。第1回目は「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」の会長、武内哲志さんです。

北野:このたびは、「松山坊っちゃん会(漱石研究会)」結成60周年、おめでとうございます。
武内:有り難うございます。人間で言えば還暦にあたり、大きな節目としてこれまでを振り返り、新たな一歩を踏み出すときだと思います。
北野:「松山坊っちゃん会」というのは、漱石の研究会ですが、武内さんが漱石や漱石の作品に興味をもたれたのは、どのようなきっかけですか。
武内:大人が読む本を読み始めた中学生くらいまでさかのぼって考えてみますと、漱石に親しむ以前にたまたま手元にあった子規の俳論「獺祭書屋俳話」歌論「歌よみに与ふる書」随筆「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病床一尺」を読み興味を持ちました。同じ頃、子規と親しかった漱石の作品も読み始め、まず「坊っちゃん」を読み、続いて「吾輩は猫である」を寝る前に布団の中で少しずつ読み、面白いので読み通しました。高校の授業で「こころ」「現代日本の開化」「私の個人主義」をよみ、強く印象に残って文庫本を買って通読しました。それから「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」などにも手を伸ばすようになりました。40歳過ぎたころ松山中学の伝統を受けつぐ松山東高に転勤して、先輩教員で前会長の頼本先生に誘われ、東高が会場になっている坊っちゃん会の会員になり、会のお世話をするようになりました。よく読んでなかった「明暗」や「行人」「彼岸過迄」なども一気に読み始めました。読書会で読んだ「硝子戸の中」「道草」などは漱石の伝記的理解に大変役に立ちました。

北野:漱石の作品、「どれが好き」とか、言うことは難しい、「全部好き」という答えが返ってきそうですが、あえて言うなら、好きな作品、とくに感銘を受けた作品は何ですか。
武内:漱石の作品は「坊っちゃん」「吾輩は猫である」以外には「好き」という言葉が私には当てはまらないように思います。後期の作品は暗い作品が多く、持ち前のユーモアがあまり生かされていません。作品も非常に緻密な仕掛けがあって一読しただけでは作品の意図が読み取れないことが多いようです。したがって、何度も読み返すとだんだんと分かってきて、はじめておもしろさが伝わってくるように思います。それだけ漱石作品を読むのはエネルギーがいるように思います。単純に自分に「感銘を与えた」といえる作品は高校生で読んだ「こころ」で、人間のエゴイズムをこれほど精緻に分析して文章化していることに対して、ぞっとして「鳥肌が立つ」ような体感を伴う感動を味わったことを覚えています。他に好きなのは漱石の「書簡」です。

北野:たぶん、武内さんは松山生まれだろうと思うのですが、「坊っちゃん」で松山ってあまり良く書かれていないですね。読んでて「カチン」と来ることもあると思うんですが、それなのに、松山では「坊っちゃん」「坊っちゃん」。どうしてなんでしょう。かえって、観光資源にもなっていて、松山の人のたくましさも感じますが。
武内:「カチン」と来ることはあまりありませんでした。私の生まれたのは、現在は松山市に合併していますが、周辺の郡部で、松山に対しては必ずしも一体感を持っていませんでした。しかし近くの町が舞台になっているからそれだけ身近で面白く感じました。東京から来た新米教師坊っちゃんを冷やかす中学生たちの立場で読むからでしょうか、田舎育ちの人間はベランメー口調で都会風を吹かす人間には違和感を持ち、そのような教師を牽制するために次々といたずらをする生徒たちに共感する面がありました。坊っちゃんが松山を去るとき、青春ドラマのように生徒たちが港まで見送りに来る場面はなく、坊っちゃんと生徒たちとは最後まで親しくならず、折り合わなかったところもさすがと感心します。坊っちゃんも田舎の生徒たちに愛情を持ち、親しみを感じるほどよくできた人間ではありませんでしたからやむを得ないと思います。坊っちゃんが赴任したのはたった一か月あまりですからね。教員らしい教員になるにはもっと忍耐強く、地道な努力が必要でしょう。
「なもし」を使う登場人物はこの生徒たちと、萩野のばあさんですが、萩野のばあさんも濃い松山的なキャラを持っていると思います。清に代わってあれこれお節介を焼き、坊っちゃんに現実的な世間知を教えようとしています。しかし決して悪人ではありません。もう一人、赤シャツの陰謀の被害者うらなり君も地元の出身ですが坊っちゃんからは「君子」と呼ばれています。
『坊っちゃん』の中で「悪人」として制裁されたのは赤シャツと野太鼓でこの二人は松山の人ではありません。『坊っちゃん』はたまたま漱石の赴任した松山という町を舞台にした創作だと思います。松山の人はそれをうまく利用してテーマパーク化し松山を「坊っちゃんワールド」にしたのだと思います。今もそのような試みは各地で見られます。

北野:武内さんが頼本冨夫さんから会長を引き継がれて9年。例会の企画運営、会報の発行など、多忙をきわめてこられたことと思いますが、とくに心がけられたことなどありますか。
武内:定年後の10年は極めて多忙ではありましたが、坊っちゃん会運営のためばかりに忙しかったのではありません。他の仕事もしながら坊っちゃん会のお世話をするということで、その兼ね合いを考えてすることが大変でした。
特に平成27年は「漱石松山赴任120年」、平成28年が「漱石『坊っちゃん』110年・漱石没後100年」、続いて平成29年は「漱石・子規生誕150周年」にあたり、記念年が3年続いて、全国的にも、地元の愛媛新聞でも大々的に取り上げられ、話題が漱石に集中した感がありましたので、いろいろな関連行事に振り回されて落ち着いて読書に取り組めなかった事は大変と言えば大変でした。しかし、そのような状況の中でいろいろな漱石関係の本が続々と刊行されたり、中央の著名な漱石研究者の方にお目にかかれたり、その講演を聴くことができたり、新聞が特集記事を掲載したり、自分にとっても非常に大きなメリットがあり幸運であったと思います。松山坊っちゃん会(漱石研究会)の存在も脚光を浴び、坊っちゃん会が活躍できる機会が多く与えられ、大きな収穫を得たのではないかと思います。現在漱石ブームが去った後のコロナ禍の状況は大変厳しいものがありますが、お祭り騒ぎではない真摯な漱石作品とのつきあいができるのではないかと思います。最近のニュースで、松山市民に長年親しまれた老舗バー「露口」の閉店が惜しまれましたが、松山にとって老舗「坊っちゃん会」の存在がいかに大切であるということを少しでも分かってもらうような活動を継続していきたいと思います。

北野:今回発行された会報35号には、今から60年前の「坊っちゃん会」設立当時のようすについて、名誉会長の頼本冨夫さんや理事の田鶴谷茂雄さんが書かれていて、とても興味深く読ませてもらいました。副会長の和田隆一さんが書かれた『道草』の中の『坊っちゃん』……清とお常の距離、も、この二人をくらべようという発想すら私はもっていなかったので、新鮮でした。健三が執筆したのは『坊っちゃん』というのも、初めての発想。『吾輩は猫である』の原稿料も初めて知りました。武内さんの「漱石と菅虎雄」もよく調べられていて、読みごたえあるものでした。最後の――菅虎雄や狩野享吉は小さな常識でははかれない非常に器の大きい魅力的な人物である。その人柄や生き方には心引かれてやまない。――という一文が、とても心に残りました。コロナ禍で例会の開催なども厳しく、60周年の記念行事も飲食を伴うことがおこなえず、今回発行された会報35号と、次回の会報36号を記念行事に替えた記念号とすること。次回の会報も楽しみにしております。そして、会の結成70周年にむけての歩みも期待しています。どこの会も高齢化にともなって運営が厳しくなってきています。若い人たちへ漱石をどのような形でバトンタッチしていくか、また、経験などもおきかせください。本日はありがとうございました。

【文豪の東京3――永井荷風】

第3回 すみだ川②

なお、『すみだ川』は荷風が渡米中の1903年10月、「文藝界」に発表されている※。しかし、1909年に発表された『すみだ川』では、待乳山近くに住む主人公の長吉が本郷からの帰宅に電車を使っている。東京に路面電車が走り始めたのは1903年であり、本郷(4丁目)や浅草(雷門)へ電車が通じたのは1904年である。つまり、1903年には書くことのできない内容が含まれている。荷風は米仏から帰国後、少年期から青年期にかけての放蕩時代を描いた『すみだ川』に加筆・修正を加えながら、新しい『すみだ川』を書き上げていったのではないだろうか。
※現代日本文學全集16『永井荷風集』(1956年、筑摩書房)年譜

前回、「すみだ川①」に上記の文章を掲載したところ、研究者の方からご教示をいただいた。
それによると、1903年10月に「文藝界」に発表された『すみだ川』と、1909年12月に発表された本稿で取り上げた『すみだ川』は同名ながらまったく別の小説。
研究者は前作の『すみだ川』を荷風の習作的短篇群の最後に位置する作品で、情景描写も社会的背景も描き込まれることのない、まさに文字通り〈夢物語〉めいた挿話風の短篇小説にはすぎないものの、一種の歌枕「すみだ川」を背景とした江戸情緒が纏綿とする佳品ではあるでしょう、と指摘している。そして、荷風はこの習作期の『すみだ川』を、その後、単行本に収めることなく、ようやく中央公論版『荷風全集』(1948~53)に収録したことをつけ加えている。
このように公開した記事に対して、すぐに反応があり、修正することができるのは、ネット文学館ならではのこと。こうした指摘や教示、ほんとうにありがたい。

『すみだ川』の原文引用にあたっては、原文の雰囲気をそこねてしまうかもしれないが、現在、一般的に使用されている漢字、かな使いに変換した。したがって、「戀」は「恋」、「やうに」は「ように」、「云つた」は「云った」「ゐる」は「いる」などと表記してある。繰り返しは「まゝ」などはそのまま表記したが、ここに表現できない繰り返しについては、「ところどころ」などと表記した。

【蘿月の家から、お豊・長吉の家へ】

蘿月の家は本所区小梅瓦町に設定されている。後の荷風をみれば妥当な設定地域であるが、この時すでに荷風の思いは浅草から本所・向島にかけての地域に飛んでいたのであろうか。
本所区小梅瓦町は隅田川につながる北十間川が大横川と交差するあたりの北側で、現在の墨田区向島1丁目23番から33番一帯と、押上2丁目、東武鉄道本社と業平橋駅がある地域一帯。当時、北十間川はここで行き止まり、そのまま曲って大横川になっていた。北十間川と大横川が結合する部分から伸びる水路が曳舟川で、水門によって区切られていた。現在は埋められて曳舟川通りになっている。一方、現在は東へ伸びている北十間川は、2013年まで京成電鉄本社があった京成橋あたりまで、当時埋め立てられていた(京成本社は現在市川市にある)。小梅瓦町の地名は、当時なかった小梅橋に名残をとどめている。
《掘割づたいに曳舟通から直ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂回した小径が三囲稲荷の横手を巡って土手へと通じている》。曳舟川沿いの道が当時曳舟通りと呼ばれていたのであろう。すぐ左へ曲がっているので、小梅瓦町40番地付近に蘿月の家が設定されたと思われる。現在はすぐ近くに屏風博物館がある。現在は整然と区画されたこの地域も、当時は《小径に沿うては田圃を埋立てた空地に、新しい貸長屋がまだ空家のまゝに立並んだ処もある。広々した構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつゞいている処もある。それ等の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった》という、都市化が始まったばかりの都市近郊農村の景観をもっていた。
確かに当時のこのあたりの道、道を訊ねられても説明の仕様がない状態で、おそらく荷風は何度も歩いたことがあるのだろう。三囲(みめぐり)稲荷神社は現存するので、作品に描かれた地域は今でも「このあたり」と確認することはできる。三囲神社の東側を通る道路は、向島5丁目にある向島花街へむかうので見番通りと呼ばれている。北上すると向島花街、桜餅で有名な長命寺、それに江戸末期創業で三色団子が有名な言問団子を売るお店もある。
蘿月は隅田川の土手に上る。河風に桜の病葉がはらはら散る。蘿月はまだ閉店していない休茶屋を見つけて冷酒を一杯注文。正面に待乳山。隅田川には夕風をはらんだ帆かけ船がしきりに動いて行く。水の面が黄昏れるにつれて、鷗の羽の色が際立って白く見える。蘿月は冷酒をグイと飲み干すと竹屋の渡しに乗る。言問橋が架けられたのを機に、1928年、渡しは廃止された。
向こう岸に着いた蘿月は急に思い出して近所の菓子屋を探して土産を買い、今戸橋を渡ってまっすぐ歩く。二三軒、今戸焼を売る店がある以外、《何処の場末にもよくあるような低い人家つゞきの横町である。人家の軒下や路地口には話しながら涼んでいる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立って白く見えながら、あたりは一体にひっそりしていて何処かで犬の吠える声と赤兒のなく声が聞こえる。天の川の澄渡った空に繁った木立を聳かしている今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豐と勘亭流で書いた妹の家の灯を認めた》。やはり、荷風。私などこのような描写は書けない。
竹屋の渡しは待乳の渡しともいう。船を下りると正面に待乳山聖天。ちょっとした山(標高9.7m)になっている。右折するとすぐ今戸橋。下は山谷堀で、隅田川から吉原の方に伸びており、船で吉原へ行く人たちはこの山谷堀を通る。「今戸橋わたる人よりくぐる人」という句がある。漱石の姉たちが猿若町へ芝居見物に行く時、この今戸の有明楼のそばに船を着けたことが『硝子戸の中』に書かれている。西へ300mも行けば猿若町である。今戸焼は狸が有名で、『吾輩は猫である』に繰り返し出て来る。今戸橋を渡って上流へむかうと、100mほどで左手に今戸八幡がある。蘿月の妹お豊の家は浅草今戸町に設定されている。

【お豊・長吉の家の周辺および浅草】

二へ入ると、一しきり夕方の隅田川の情景が描写され、その後、まもなく芸者になるお糸と長吉の絡み。二人の暮らしている地域が描かれている。
今夜暗くなって人の顔がよく見えない時分になったら、今戸橋の上でお糸と会うことにしていた長吉は、まだ日の落ちないうちに今戸橋に。
《一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた》。慶養寺は今戸橋脇、浅草今戸町71番地にある禅寺。
人通りが途絶え、長吉は隅田川に目をやる。川面はさっきより明るくなり、長命寺辺りの堤の上の木立から満月が昇る。今戸橋対岸の少し上流付近に、桜餅で有名な長命寺がある。
長命寺が出て来たので、私は芥川龍之介の『本所両国』を思い出した。この中で、龍之介は小学生の頃、伯母といっしょに川蒸汽に乗った時、伯母が膝に載せている長命寺の桜餅を男女の客から「糞臭い」と言われたことを思い出したと書いている。龍之介は《勿論今でも昔のように評判の善いことは確かである》と「糞臭い」を否定しながら、《饀や皮にあった野趣だけはいつか失われてしまった。……》と記している。美味しいものを紹介されると、つい食べたくなる。長命寺辺りの隅田川土手は桜の名所で、現在、桜橋と名付けられた橋が隅田川に架けられている。そのようなところから桜餅が名物になったのだろうが、300年の歴史をもつ。現在の桜餅の桜葉は伊豆松崎産のオオシマザクラ。
とにかく、長吉がお糸を待っている間、荷風は隅田川の情景や、道行く人たちの描写に余念がない。やはり小説家、後に文豪とよばれるだけのことはある。このようなことを、これから私は何回も書くかもしれないが、その時どきに実感して、書かずにはいられなくなる。
ところで、どうして今夜、長吉はお糸とこの今戸橋で落ち合うことにしたのか。それは、お糸が葭町の芸者屋まで相談に行くので、その道中をいっしょに行こうとお糸が持ち掛けたのである。芸者になればそう会うことはできない。二人は二歳違いの幼馴染。《最初地方町の小学校へ行く頃は毎日のように喧嘩して遊んだ。やがては皆なから近所の板塀や土蔵の壁に相々傘をかゝれて囃された》。私も小学校の頃、相々傘を書かれた記憶がある。誰かがいたずらで書いたものだが、確かに好きな女の子の名前が書かれているのは、まんざら嫌でもない、というか何か気恥ずかしい。
地方町の小学校というのは、待乳山小学校で、幾多の変遷を経て、1891年に山谷堀に沿って伸びる地方今戸町に移転。2001年に田中小学校と合併して東浅草小学校に名称を変更した。校地の所在は待乳山小学校時代と同じである。今戸橋から1km足らずの道のりである。
長吉とお糸は、よく二人でいるので、好き合っていると思われたのだろうが、その見立てはけっして間違っていなかった。《学校の帰り道には毎日のように待乳山の境内で待合わせて、人の知らない山谷の裏町から吉原田圃を歩いた……》。このコースなら、わざわざ待乳山まで来なくても、学校からそのまま行けば良さそうだが、下校時にふらふらするのは禁じられていたのかもしれない。一回りしてくると3kmくらいあるだろうか。二人は歩きながらいったい何を話していたのだろうか。蘿月も二人を連れて浅草の奥山へ見世物を見に行ったことがある。
小走りにお糸がやって来て、二人は《待乳山の麓を聖天町の方へ出ようと細い路地をぬけた》。何年も前からお糸が芸者になることは長吉もわかっていた。けれどもいよいよその時となると、長吉は居たたまれない。けれどもお糸の方は芸者になることを喜んでいるようで、そこがまた長吉を悲しくさせる。《この悲みはお糸が土産物を買う為め仁王門を過ぎて仲店へ出た時更に又堪へがたいものとなった》。
聖天町は幹線道路に沿った町で、二人は今戸橋から待乳山の南を通って聖天町に入り、猿若町を抜けて浅草寺の境内へ。南へ折れて仁王門(宝蔵門)をくぐって仲見世へやって来た。この後、南下して駒形堂の前に出て、現在の江戸通りを浅草橋までやって来た。ここから日本橋区になり、横山町の通りを行って緑橋を渡り、大伝馬町に入って、左折。500mほど行くと葭町花街。現在の人形町交差点一帯の日本橋人形町1~3丁目。《いよいよ御神燈のつゞいた葭町の路地口へ来た時、長吉はもう此れ以上果敢いとか悲しいとか思う元気さえなくなって、唯だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込んでいるのを不思議そうに覗込むばかりであった》。お糸が行く松葉屋は四つ目のガス燈。

                       (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第2回 すみだ川①  5回連載

永井荷風の作品も例によって、取り上げるのは東京を舞台にした作品である。けれども荷風の作品に縁がなかったというより、関わりをもとうとしなかった私は、どの作品が東京を舞台にしたものかまったくわからない。そんな時、『すみだ川』という作品は題名からして東京が舞台とわかり、とてもありがたい。しかも、発表されたのが1909(明治42)年12月で、荷風の比較的初期にあたる作品である。漱石の作品とも時期的に一致する。荷風の最初に取り上げる作品として、『すみだ川』はピッタリである。

1903年、渡米した荷風は1907年に大西洋を越えてフランスに渡り、翌1908年に帰国。『あめりか物語』を刊行した。明けて1909年3月に『ふらんす物語』を刊行しようとしたが、直前に発売禁止になった。けれども荷風は作品をつぎつぎ発表し続けており、『すみだ川』もそのひとつである。そして12月には漱石の計らいによって、『冷笑』が東京朝日新聞に連載され、翌1910年2月28日まで続いた。
なお、『すみだ川』は荷風が渡米中の1903年10月、「文藝界」に発表されている※。しかし、1909年に発表された『すみだ川』では、待乳山近くに住む主人公の長吉が本郷からの帰宅に電車を使っている。東京に路面電車が走り始めたのは1903年であり、本郷(4丁目)や浅草(雷門)へ電車が通じたのは1904年である。つまり、1903年には書くことのできない内容が含まれている。荷風は米仏から帰国後、少年期から青年期にかけての放蕩時代を描いた『すみだ川』に加筆・修正を加えながら、新しい『すみだ川』を書き上げていったのではないだろうか。
※現代日本文學全集16『永井荷風集』(1956年、筑摩書房)年譜

荷風は生涯「放蕩」し続けた人物と言うことができるかもしれないが、その「放蕩」の原点とも言うべき時期を描いたのが『すみだ川』である。
おもな登場人物は、60歳近くの俳諧師松風庵蘿月(らげつ)、その妹で常磐津の師匠をしている「お豊」。その一人息子の長吉18歳。長吉は中学に通っており、体育が苦手。長吉の幼馴染お糸16歳。なかなかの美人で、長吉はお糸に恋心を抱いている。長吉の昔馴染みで俳優になった吉(芸名は玉水三郎)。蘿月の恋女房で元花魁(吉原)お滝。お豊は長吉に期待し、将来は高等学校さらに大学へと進学させ、堅実な職業に就かせたいと考えている。お豊はそのために毎日の仕事に励んでいた。
8月半ば過ぎ、小梅瓦町に住む蘿月は久しぶりに待乳山近くに住む妹のお豊のもとを訪ねる。お糸がもうじき葭町の芸者になるという。やがて長吉が中学から帰ってくる。
残暑の夕。長吉はお糸と待ち合わせて宮戸座へ。
月の出が遅くなり、夏休みも終わり、昨日から学校が始まっている。けれども長吉は学校へ行く気がせず、街中をぶらぶらして、お糸がいる葭町にも。機械体操や寄宿舎のことなど考えると高等学校へ行く気はない。
12月になって、お糸が来る。お糸は「煙草も吸う」と言う。
年が明けて、長吉は風邪を引き、七草過ぎにインフルエンザとわかり、正月いっぱい伏せていた。
立春になり、長吉は観劇するが、芝居と違っていっしょに死んでくれる人のいない長吉。二度も同じ芝居を観に行った長吉であるが、役者をしているという昔馴染みの吉に出会い、惹かれていく。長吉は落第し、もう学校へ行かないと言い出す。困ったお豊は兄に相談。それを受けて蘿月は長吉を呼び出し、せめて中学だけは出るように諭す。自分の理解者と思っていた伯父の言葉に落胆した長吉。春から夏にかけての頃。出水した地域を歩き廻って腸チフスに罹り、避病院に隔離されてしまう。長吉のもとへ駆けつけるお豊に頼まれて、お豊の家で留守番していた蘿月は長吉の手紙を見てしまい、自分が長吉の味方になってやらなかったことを悔いる。
この作品を描く荷風は、自分にこの蘿月のような理解者がいてくれたら、「どんなに良かっただろうか」という思いを、結末に込めたのではないだろうか。

この作品を荷風にあてはめれば、第一高等学校の受験に失敗した1897年。荷風18歳。この年の正月に荷風はインフルエンザに罹り、経過が思わしくなく、中学卒業の3月末まで臥せっている※。
※現代日本文學全集16『永井荷風集』(1956年、筑摩書房)年譜
高等師範附属中学校に在籍する荷風は1894年末、頸部リンパ節結核(瘰癧)で帝国大学第二病院(神田区和泉町、現在の三井記念病院があるところ)に入院、手術。翌1895年には療養のため足柄病院(小田原)に入院。その後、逗子の永井家別荘十七松荘で静養。9月に高等師範学校附属学校尋常中学校の第四学年として復学した。
1894年の病気をきっかけに荷風は読書三昧の生活になり、文学や芸事に関心が向き、1896年には荒木竹翁に尺八、岩渓裳川に漢詩作法を学び、1897年には吉原(新吉原)へも出入りするようになったという。日清戦争が終わり、日露戦争へむかう時期である。国家主義、軍国主義の風潮が強まり、「男子たるもの、軍人になって立身出世すること」が望まれる時代、まことに「軟弱」。「とんでもない奴だ」と教官の寺内寿一(後の元帥)から殴打される出来事も起きているが、荷風はおそらくいろいろな教官から殴られたことだろう。
荷風が高等師範学校の附属中学校に在籍したのは、1891年4月から1897年3月まで。この間、1893年10月から1895年3月まで中学校と同じ校地にある高等師範学校で英語を教えたのが漱石である。高等師範を辞した漱石は4月、松山中学校に赴任する。東京生まれの漱石が、なぜ高等師範から地方の中学教師に転身したのか、さまざまに憶測されているが、国家主義、軍国主義の風潮を嫌う漱石にとって、馴染めない校風だったのではないだろうか。荷風は漱石にとって中学の教え子にあたる年齢である。さて、中学・高校の教官として、漱石は生徒を殴打することがあったのだろうか。
1909年、『すみだ川』発表の後、荷風の『冷笑』は漱石の紹介によって、12月から翌年2月まで東京朝日新聞に連載された。

高等師範附属中学校から漱石まで話が飛んでしまい、やっと『すみだ川』に話を戻してきた。『すみだ川』は確かに18歳頃の荷風を描いている。けれども、島崎藤村と違って、あくまでも創作として描かれ、さまざまな設定が現実の荷風とまったく違う。
設定時期。藤村なら現実に合わせて、1896年から1897年にかけての時期に設定するであろう。けれども荷風は少なくとも1904年以降に設定している。主人公長吉を荷風自身とみなしても、母子家庭、風流な伯父の存在、そして住んでいる地域も山の手の麹町区ではなく、下町の浅草区・本所区。ことごとく現実の荷風と異なっている。お糸も、頸部リンパ節結核(瘰癧)で帝国大学第二病院に入院していた時、荷風が恋心を抱いたという蓮の面影を浮かべたかもしれないが、モデルと言えるほどではなさそうだ。
以上のような違いを念頭に置きながら、『すみだ川』に描かれた東京を、
① 蘿月の家から、お豊・長吉の家へ。
② お豊・長吉の家の周辺および浅草。
③ 学校をさぼって長吉が葭町まで行ったコース。
④ 蘿月と長吉が歩いたコース。
以上四つのテーマを中心に見ていくことにしたい。

                       (つづく)
【館長の部屋】鉄道開業150年特集④

《其の翌日、神戸行きの急行列車が、函根の隧道を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子は別であるが、一人外国の客と、流暢に独逸語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客があった》。泉鏡花の『婦系図』後篇は、神戸行きの急行列車の車内から始まる。当時はまだ御殿場経由である。ドイツ語の主は静岡へむかう早瀬主税。この様子をじっと見ている一人の貴婦人。四つばかりの男の子を連れている。やがてこの貴婦人、主税の友人河野英吉の妹で静岡に住んでいると分かる。
貴婦人は娘の眼病を診てもらうのを口実に東京へ出ての帰り。《まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗いた。此の富士山だって、東京の人がまるつ切知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木のような心地で心細くって成らない處》、夫が旅行に出かけたのを良いことに、娘の眼病治療を口実に上京したと言う。東京に対する貴婦人の、いや鏡花の気持ちはよくわかる。そして鏡花は上京したから名高くなった。金沢にいたら、埋木になっていたであろう。この鏡花の思い、同感である。
さて、イギリス留学後、熊本に行かず東京に留まったことによって名高くなった漱石。「紅葉くらいの作品なら自分にも書ける。」そのように言ったという漱石も、樋口一葉のような作品は書けそうにないと思っていたようだし、鏡花にも一目置いていた。鏡花が『婦系図』を書き、対抗心を燃やしたのか、同じ年、教師を辞め、朝日新聞社社員となった漱石は全編美文調で『虞美人草』を書き切った。そして漱石は『婦系図』が東京から下りの列車を描いたのに対して、東京への上りの列車を描いた。
甲野と宗近、井上孤堂父娘がお互いに知らず、京都から同じ汽車に乗り合わせている。東京の博覧会見物に出かける人々で、駅も車内も込み合っている。給仕(ボーイ)が時時室内を抜ける。《急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない》と宗近が言う。夜が明ける。《おい富士が見える》と、宗近が言う。汽車は沼津で息を入れ、宗近は顔を洗う。孤堂は駅弁を買う。宗近、甲野は食堂車へ。ハムエッグを食べ、コーヒーを飲む。明治40年、1907年である。

秋聲に関しては、『爛』の主人公お増が鉄道を使って東京へ帰る場面をみてみよう。
盆過ぎに会社から休暇を貰った浅井は、お増、静子とひと月近く各地を旅した。白樺など出て来るところから、旅行地には信州も入っていたのであろう。お増は旅によって、《爛れきった霊が蘇ったような気がした》が《濁った東京の空気に還された瞬間、生活の疲労が》のしかかる。田舎の景色にお増は、《「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう」》と言っている。ところが、《汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙に黝んだ夏木立の下陰へ来たころ》には、《長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった》、《「静ちゃん。もう東京よ。」お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。日暮里へ来ると、灯影が人家にちらちら見えだした》と、矛盾するような表現が入り込んでくる。
当時、東北線(高崎線)は現在の京浜東北線のルートを通っていた。赤羽を過ぎ、台地の崖下に沿うように、王子、田端、日暮里を通って、上野に到着する。東京へ戻って来る秋聲は、王子・日暮里という駅名に、東京へ近づくことを感じたのだろう。私にとっては、赤羽という駅名が「いよいよ東京」という感情を抱かせる。王子は1875年に製紙工場(王子製紙)がつくられて以降、薬品、肥料、火薬などの工場が建ち、工業地域が形成されていた。《煤煙に黝んだ夏木立》という表現は当時の情景をよく言い表している。日暮里まで来ると、東京市街地へ入るため、家々が線路近くまで迫る。上野駅に着き、市電に乗って、途中乗り換え、赤坂の自宅に着き、《「何といったって、自分の家が一番いいのね」》と、秋聲はお増に語らせている。けれども、この自宅は東京になければならないのだろう。
別の場面でお増は、《三週間というのを、やっと二週間そこそこで切り揚げて来たお増は、嶮しい海岸の断崖をがたがた走る軽便鉄道や、出水の跡の心淋しい水田、松原などを通る電車汽車の鈍いのにじれじれしながら、手繰りつけるように家へ着いたのであった》。「出水の跡」という表現は、1910年8月の関東一帯を襲った大水害を想起させる。漱石が修善寺の菊屋旅館に宿泊し、危篤状態に陥った(「修善寺の大患」)、あの八月である。お増が行った伊豆の温泉場は熱海である。当時の東海道線は国府津から御殿場経由。国府津から分れて、電車が小田原まで、その先、熱海まで軽便鉄道が通じていた。

つづく犀星は、「詩人犀星」に敬意を表し、鉄道に関する詩を二つ紹介しよう。
「上野ステエション」は他の詩と何か違う。冒頭の《トップトップと汽車は出てゆく》。トップトップという表現が、何とも軽やかでユーモラスである。続いて、《汽車はつくつく》《あかり点くころ》と、「つく」という音を同音異語で繰り返している。私はこうした表現が、また東京に暮らすことになった犀星の喜ばしい気持ちの表れと捉える。
犀星は上野ステエションと言っても、駅のホームに立っているのではない。《ふみきりの橋のうへ》にいるのである。踏切と言うのは鉄道と平面交差で、橋があるはずがない。これは跨線橋の上であり、詩の題に駅名をつけたのだから、駅構内に限られる。そうなれば犀星の立っている跨線橋はただひとつ。
当時、上野公園の中にある東京帝室博物館(現、東京国立博物館)の前から両大師堂のある輪王寺の前を通る道は、上野山から切通し(屏風坂)で下り、踏切で線路を越え車坂へ。しかし、駅構内で遮断されることも多く、踏切の上に跨線橋が設置されていた。
1925年、山手線を環状運転するため高架にする際、切通しを廃止して、上野山から直接跨線橋で車坂へむかう方式に変更され、現在の両大師橋に至っている。
上野駅は雪国の終着駅である。雪国出身の人間にとって、汽車に積もった雪はふるさとを思い出させるのにじゅうぶんである。東京に暮らすことに喜びつつ、この光景についついふるさとを思い出してしまう犀星。けれども、そのふるさとの匂いとともに、《浅草のあかりもみえる橋の上》と、大都会東京の喧騒もまた犀星を誘いかけるのである。浅草六区は直線で一キロほどしか離れていない。見晴らしの良い跨線橋の上から、浅草のあかりが間近に見え、その中に凌雲閣(十二階)が浮かび上がっていたはずである。犀星は跨線橋の上から浅草の方を眺めながら、三年以上前の興奮を思い出していた。「みやこへ」も、《こひしや東京浅草夜のあかり》で始まっている。犀星にとって浅草は東京の象徴のようになっていたのであろう。「上野ステエション」という短い詩は、跨線橋から故郷と東京を同時に眺めながら、揺れ動く犀星の気持ちと、将来を端的に表現しているように、私には思われる。
私が初めて憧れの東京へやって来た小学校二年生の時、東京での第一歩を踏み出したのは上野駅だった。上野駅というのは、東京へやって来たと言う、ものすごく高ぶった気持ちと不安、ふるさとへ帰ると言う、みじめな気持ちと安堵感が交錯するところである。そして、ふるさとの生活を「ケ」とすると、東京での生活は「ハレ」である。上野駅は「ハレ」と「ケ」が交錯するところでもある。
鏡花も秋聲も犀星も、東京での第一歩は新橋駅である。そのような三人にとって、上野駅が東京と故郷を結ぶ特別な場所になったのは、1913年4月1日の北陸線全線開通。北陸線・信越線を経由して金沢と東京を往来することができるようになったからである。
「急行列車」という詩は、《汽車は急行なり/首も千断(ちぎ)るるの急行なり。/森は走り/家は走り/午後の光は走り/山は平らたくなり/河は鳴り/海は鳴り/海気みなぎり/月出づ。/世界は湧きかえり/世界は戦いのさなかなり。/林と林ともつれ逢い/青田の上に娘は流る。/電線は流れ/われはきちがいになり、/村村の灯はちらちら流れ/星はながれ/われは田舎へ流る、/こいしくなり/はるばるおんまえさまを求め。》と言うものである。
後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が始まったのは1914年7月28日。詩が創られたのは、まさに《世界は戦いのさなか》であった。この詩は確かに過激な言葉づかいがみられ、狂気も感じられる。けれども、反戦歌でも革命歌でもない。いちずに恋人に会いたい恋の詩である。作者も無名に近い詩人。
それが弾圧の対象になった。『創造』の発売禁止。どうやら、『創造』に犀星が発表した詩「急行列車」が原因らしかった。1914年9月。犀星帰郷中のできごとである。

芥川龍之介や藤村、荷風も汽車に乗っている場面を描いているであろうが、とりあえずこの連載を終えることにしたい。

                       (完)

【館長の部屋】鉄道開業150年特集③

「勝手に漱石文学館」でこれまでに取り上げてきた文豪は、夏目漱石、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星、芥川龍之介、島崎藤村、永井荷風の七人。この中で、東京以外で生まれ、上京してきたのは鏡花・秋聲・犀星の金沢三文豪と藤村である。
藤村の上京はもっとも早く、1881年、9歳の時。上野・熊谷間に鉄道が走り始めたのは1883年であるから、藤村は中山道を東京まで、ほとんど歩き通したのであろう。当時は乗合馬車も走っていなかった。

金沢三文豪の中でもっとも早く上京したのは鏡花である。1890年。米原で東海道線に接続する北陸線は敦賀までしか開通しておらず、鏡花は自筆年譜に《陸路越前を経て、敦賀より汽車にて上京》と書いている。巖谷大四は『人間泉鏡花』で、《途中、敦賀に一泊、翌朝そこから汽車に乗り、静岡に一泊、三十日の午後四時に新橋駅に着いた》と書いているが、金沢・敦賀間は150kmほどあり、一日で移動することはムリである。『泉鏡花群像日本の作家』(小学館)に収められた、小林輝冶『鏡花の原風景行――金沢・松任・辰口・春日野』には《敦賀までは人力車である。途中丸岡と敦賀で一泊、あとは汽車であった。新橋へは、四日目にして漸く着いている。》と書かれている。こちらの方が実態に近いように思われるが、丸岡一泊としても、一日に70km余り移動しなければならない。いくら人力車でも、所詮人間が引いて走るのである。乗り継いでもやはり無理だろう。それに、費用もかさむ。すべて徒歩なら五日間ほどかかるが、部分的に人力車を使用しながら、敦賀をめざしたのだろう。

秋聲は1892年に初めて上京した。私は『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』に秋聲も鏡花と同じように上京したのだろうと書いた。ところが同書を購入された方から、――「よく調べられてるな」と思って読んでいますが、15ページで秋聲が鏡花と「ほぼ同じ方法で上京したであろう」という点については違うように思いました。秋聲と悠々の1回目の上京は、「直江津までは徒歩と人力車。直江津で初めて汽車に乗り、終点長野まで。長野からは歩いて、苦労して碓氷峠を越えて高崎に着き、高崎からまた汽車で上野まで」と、秋聲の「思い出るまま」「光を追うて」に書かれています。秋聲ファンなのでご指摘させていただきました。――との指摘をいただいた(2021年12月10日の「21世紀の木曜会」に紹介)。こうなると、もっと調べてみたくなる性分で、いろいろ調べた結果を私はつぎのような文章にして公開した。

正直言って、私は『思い出るまま』(1934年)・『光を追うて』(1938年)を読んだことがなく、そこに上京の様子が書かれていることを知らず、鏡花が上京したルートと「ほぼ同じ方法で上京した」と書いてしまいました。もともと長野を経由するルートは、北陸道・北國街道・中山道と、加賀藩主の参勤交代のルートで、江戸・東京へ行く常識。後に鏡花もこのルートを使っています。けれども信越線が全線開通していない時代において、敦賀・東海道線経由の上京の方が選択しやすいはず、秋聲について調べる術もなく、鏡花と同じ方法と書いてしまった。これは完全な思い込み。
1892(明治25)年3月末、『光を追うて』によると、秋聲(作中、向山等)・桐生・小島の三人は朝、金沢を出発し、森本・津幡を過ぎ、倶利伽羅峠を越えて、石動で昼食。水橋まで来ると、《春らしい午後の光線の明るさに浮きあがり》、このあたりまで来ると、足も段々重くなり、丘や松原を越えて蒸汽船の汽笛が聞こえ、《「おーい、船にすれば可かつたぢやないか。」先きに立つた桐生が振かへつた》が、やはり歩いて、宿屋のある町まで来ると、行き当りばったりに宿をとった。こうして三人の第一日目は終わります。
翌日は、車(人力車だろうか)に3時間ほど乗った後、歩いて市振までやって来て宿泊。次の日は、親不知の難所の手前まで車で行って、難所を通るが、《御巡幸のをり岩を削つて道を拓いたので、親不知子不知といふほどのこともなかつた》。どこで宿泊したか書いていないが、翌日午後、直江津から汽車に乗って、晩に長野に着き、ここで駅前の扇屋という旅館に一泊しています。
金沢を出発して、3泊4日で長野に到着したことになりますが、ここまでの行程を検証してみましょう。
朝、金沢を出発した三人は、石動で昼食をとっています。距離は約28km(当時と現在では道路事情やルートも違い、起点終点もあいまいで、おおよその目安です。以下も同様)。若いし、歩き始めですから、平均時速6kmで4~5時間。納得できます。ところが午後は射水川・神通川によって形成された平野(大きくは富山平野)を歩き通し、富山市街の北東にある水橋を過ぎ、名前は書いていませんが、おそらく滑川で宿泊したのでしょう(これもあくまで推測ですが)。石動から滑川は約60km。これはどう考えてもムリ。
一般的に江戸時代の徒歩による旅は1日30km。金沢・滑川間およそ90kmは途中に2泊が妥当。若さで頑張ったとしても、途中、小杉あたりで1泊していたはずです。秋聲は宿泊地として、この後の宿泊地「市振」の名は書いていますが、最初の宿泊地は書いていません。事実を変更して書いたため、曖昧にせざるを得なかったと推測されます。また、汽船の話しが出てくるので、当時すでに、伏木・直江津を結ぶ定期船が運航されていたことがわかります。鏡花は決意をもって再上京した際、この航路を使っています。
滑川から人力車で3時間。乗っている方は歩くより楽なだけで、早く着くわけではありません。おそらく約10数km先の黒部まで人力車に乗ったのでしょう。ここから徒歩で泊(とまり)を過ぎ、県境を越えて市振へ。約20km。この日は市振で宿泊しているので、一日の移動距離30数kmは妥当なところです。
つぎの日は親不知の難所を越えて、糸魚川までは約20km。手前まで人力車を利用し、いざ難所。と言っても、1878年の天皇行幸の後、海抜約100mの断崖を開削して国道がつくられたので、思ったほど怖くなかったようです。この国道、1882(明治15)年から工事が進められ、翌年開通しています。糸魚川から直江津まで50km以上あるので、途中で1泊したようで、翌日午前中歩いて直江津まで来て、三人は午後の汽車に乗って長野へむかっています。鉄道は直江津から関山まで1886年、さらに長野まで1888年に開通しています。
さて、長野駅前の扇屋。秋聲たちが宿泊した翌年に出版された『長野土産』には、《末広町両側には藤屋支店・扇屋支店・山屋支店・綿屋支店・中島屋支店などがある。各店女五、六人が手を揚げ腰をかがめて、声をあげて客を招く。互いに競って客を引き、宿泊客をおのおのの本店に案内する》と書かれています(小林玲子の善光寺表参道日記――2006年2月21日より)。この扇屋支店というのが、三人が泊まった旅館であると推察されます。
長野駅前の扇屋に泊まった翌日。《しかし其処からが又御難で、ちやうど隧道の工事中にある碓井峠を、徒歩で昇り降りするのも容易ではなかった。等達は到るところで荒くれた土工たちの凄い顔に出逢つて、通を避けて通つた。山の腰を繞つて転つてゐる馬車の喇叭の音も耳についたが、近づいて乗る気にもなれなかった。夜になつて上野へついて、三人は漸く東京の土を踏んだ》と秋聲は『光を追うて』に書いています。
長野を朝、出発して、その日の夜に東京に着いています。歩いたらこのようなことはできません。すでに、長野まで開通した同じ年(1888年)12月1日、長野・軽井沢間の鉄道が開通しており、長野から3時間ほどで軽井沢まで行くことができるようになっていました。当時の運賃は60銭。あくまで、ひとつの目安として、米15kgくらい買うことができる金額でした。
軽井沢から横川まで碓氷峠越えの難所。まだ鉄道は工事中で、開通は三人が通過した1年余り後の1893年4月。工事真っ盛りの様子が、秋聲の文章から伝わってきます。この時、三人が通った道には、離れたり合流したりしながら、軽井沢・横川を結ぶ馬車鉄道が運行されていました。この碓氷馬車鉄道は1886年に開通し、約19kmを2時間30分ほどで結んでいました。その様子は『光を追うて』にも記されています。運賃は40銭という「大金」(今で言うと、4~5000円くらいでしょうか)であり、下り道が多いからと、歩いたのでしょう。
じつのところ、この馬車鉄道、急勾配、急カーブの連続ですから、とくに下りの怖いこと。鉄製の車輪を木製のブレーキで速度抑制するというもので、ブレーキが壊れるキケン大。馬車に乗るのを怖がって、駕籠で下った人もいるとか。森鴎外は『みちの記』で、《つくりつけの木の腰掛はフランケット二枚敷きても膚を破らむとす。》《山路になりてよりは2頭の馬あえぎあえぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息寵もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪へがたし》(1890年8月17日)と記しています。
高崎まで1884年に開通した鉄道は、翌年には横川まで延伸されており、秋聲たちは汽車に乗って一気に東京・上野へ。『光を追うて』の文章も一足飛びです。
『光を追うて』によれば、金沢・東京間、4泊5日の上京の旅。実際には5泊6日、あるいは6泊7日の旅だったと思われます。翌年、碓氷峠越えの鉄道が開通し、上野・直江津間の直通運転が可能になりました。やっと結ばれた鉄路が、北陸新幹線開通にともない、横川・軽井沢間が廃線になり、1893年以前の状態に戻ってしまったことに、私は何かむなしさをおぼえます。
秋聲たちが歩くことを余儀なくされた金沢・直江津間、およそ200km。鉄道が全線開通したのは1913年。じつに10年余り後のことでした。
北陸新幹線に乗れば、金沢から2時間30分で、東京駅に到着するご時世。朝、金沢を発って、東京で尾崎紅葉に会って、入門を断られ、夕方には失意のうちに金沢へ帰って来る。妙な空想をしてしまいました。江戸時代、加賀藩主の参勤交代は金沢・江戸間、およそ13日かかったそうです。それが秋聲の頃になり、行程の半分ほどに鉄道が開通し、6日くらいに短縮され、今や日帰りが可能な時代になりました。
それにしても、一人の作家の上京をめぐって、けっこう書くことがあるものです。
『光を追うて』は1938年、秋聲が書いた自伝小説です。初めて上京してから、すでに45年余り経過しており、当然記憶違いもあるでしょうし、小説としての編集や演出もあるでしょう。それを「地理屋」の視点から検証していくのが、私の小説の読み方であり、至福の時です。ほんとうに楽しいひと時でした。
※『光を追うて』の文章は、「徳田秋聲全集第18巻」(八木書店、2000年)に掲載されたものから引用しました。

1898年4月1日、待望の鉄道が金沢まで開通し、室生犀星は1910年、金沢から汽車に乗り、途中乗り継いで新橋に到着。初めての上京に全線鉄道を利用したのは文豪4人の中で犀星のみ。藤村上京から29年を経過していた。

                         (つづく)
【館長の部屋】鉄道開業150年特集②

前回は「雪嶺文学」47号(2012年)から、連載「夏目気分」の中の「漱石と旅」の一部を紹介した。今回は48号(2012年)から、その一部を紹介したい。

『二百十日』は物見遊山の阿蘇の旅である。『虞美人草』には友人同士の京都の旅が描かれている。就学・就職や結婚で地方へむかう人もあれば、帰郷する人もある。期待や不安のうちに上京する人もあれば、疲れ果てて故郷東京へ帰る人もいる。漱石はそんな旅の場面を、事細かに書き、あるいは一言で書いている。旅は非日常の旅ばかりでなく、日常の旅もある。
漱石自身の旅は、物見遊山とはいっても、友人同士(とりわけ中村是公)との旅や、友人に会いに行く旅が多く、妻鏡子との旅もある。赴任や所用による旅や、講演旅行、参禅や湯治もある。イギリス留学という大旅行もあれば、中村是公招待による満州・韓国旅行もある。漱石はそうした旅の経験を、いくつも作品の中に活かしてきた。『坊ちゃん』・『草枕』・『二百十日』が、松山や熊本における体験を活かして書かれていることはよく知られているが、『虞美人草』・『三四郎』では、一九〇七年の京都・大阪旅行、『行人』では一九一一年の関西講演旅行の体験を活かし、『明暗』では一九一六年の湯河原湯治を活かして作品を書いている。
泉鏡花の『婦系図』後篇は、神戸行きの急行列車の車内から始まる。静岡へむかう早瀬主税が乗っている。同じ年、教師を辞め、朝日新聞社社員となった漱石が書いた『虞美人草』には、東京(新橋)へむかう東海道線車内の様子が描かれている。甲野と宗近、井上孤堂父娘がお互いに知らず、京都から同じ汽車に乗り合わせている。東京の博覧会見物に出かける人々で、駅も車内も込み合っている。給仕(ボーイ)が時時室内を抜ける。《急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗った様な気がしない》と宗近が言う。夜が明ける。《おい富士が見える》と、宗近が言う。汽車は沼津で息を入れ、宗近は顔を洗う。孤堂は駅弁を買う。宗近、甲野は食堂車へ。ハムエッグを食べ、コーヒーを飲む。そう言えば、『婦系図』の車内も食堂車が舞台であった。明治四〇年、一九〇七年である。
漱石は『三四郎』『行人』でも、東海道線の車内を描いているが、いずれも『虞美人草』と同じ上りの汽車である。三四郎上京は一九〇八年頃と推定される。三四郎は《九州から山陽線に移って》いる。山陽鉄道は一九〇一年に神戸から下関(一九〇二年に馬関から改称)まで全線開通し、一九〇六年の国有化によって、山陽線と呼ばれるようになった。とくに乗り換えた記述がないが、当時山陽線の列車の東海道線直行運転は大阪・京都までなので、三四郎は下関から京都行きの急行に乗車したとみられる。夜行で下関を発って、翌日午後に京都に到着し、名古屋行きに乗り換えたのだろう。車内灯に洋燈(ランプ)が使用されていることからも、山陽線直行でないことがわかる。この名古屋行きの車内描写から『三四郎』が始まる。三四郎が気になる九州色の《女とは京都からの相乗である》。京都を過ぎてから夕方が近づいている。二一時三〇分の予定が、四〇分程遅れて名古屋に到着。見知らぬ女と宿屋の一つ部屋に泊まり、翌朝、名古屋駅まで来て女と別れ、新橋行き急行に乗った。ここで三四郎は後に広田先生と分る男といっしょになる。男は三四郎に話しかけ、豊橋で水蜜桃を買って三四郎にも振る舞い、浜松で二人とも弁当を買い、富士山が近づくとこんなことを言った。《「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。(略)あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。(略)」》《「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。》《「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った》。
『行人』(一九一二~一三年)では、二郎と母、兄夫婦が和歌山に旅した帰り、大阪から寝台列車に乗って東京へむかう様子が描かれている。幸い、一室四人の寝台(一等寝台であろう)が取れて、上段に二郎と兄、下段に嫂と母がそれぞれ寝た。駅夫の呼ぶ名古屋々々々の声に二郎は目を醒まされ、雨に気づいて窓を閉めた。時計は真夜中の一二時過ぎであった。《富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら》、兄はよく寝ていた。やがて食堂が開いて、乗客の多数が朝飯を済ました頃、《自分達は室内の掃除に取り懸ろうとする給仕を後にして食堂へ這入った。食堂はまだ大分込んでいた。出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿が漸く入口に現われた》。
東海道線の旅を描写した三作品に共通するのは、いずれも富士山が出てくることである。若い頃、二回登ったことがある富士山を描かなければ、東海道線の旅も味気ないものになってしまうと感じたのだろう。権力の嫌いな漱石も、日本一高い富士の山は、自然であるがゆえに許せたのかもしれない。
三作品にはまた、急行、給仕、食堂車、一等寝台が登場する。これらはいずれも山陽鉄道が日本で初めて取り入れた――長距離急行(一八九四年)、給仕の添乗(一八九八年)、食堂車(一八九九年)、一等寝台(一九〇〇年、二等は一九〇三年)――もので、鉄道国有化後、それらは東海道線など長距離幹線鉄道に広がった。「現代作家」漱石にとって、比較的目新しい事象として、どうしても作品に書き込んでおきたかったのだろう。
ここで私の関心を捉えたのが車内灯である。三四郎の時代になっても東海道線のそれは洋燈であるのに対し、山陽線では、一〇年も前の一八九八年、山陽鉄道の時代から、全国に先駆けて電気燈を使用している。漱石は官営鉄道として建設された東海道線に対する皮肉を込めて、《駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯の点いた洋燈を挿し込んで行く》と書いたのかもしれない。それにしても、電化されていない路線で、どうやって電気燈を点したのだろうかと疑問が湧く。調べてみると、山陽鉄道では、蓄電車を連結し、兵庫・姫路・岡山・糸崎(現、三原)・広島・三田尻(現、防府)・下関に自家用発電所を設けて充電していたようである。子どもの頃、蒸気機関車が牽引する客車に、確かに電気燈が点いていた。何の疑問ももたなかったが、よく考えてみれば、不思議なことだったのだ。当時はすでに各車両に蓄電池が取り付けられるようになっていた。その後、エアコンなど大容量の電力が必要になると、自家発電装置が付いた電源車が登場し、寝台列車に連結された時代もあった。蓄電車と発想は同じである。

                         (つづく)
【館長の部屋】

鉄道開業150年特集①

《夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥のひびきすらしなかった。「父さん、汽車の音がする」と下町育ちの子供達は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層四辺をひっそりとさせた》。島崎藤村は『新生』にこのような一文を書いている。主人公たちは高輪、明治学院の近くに住んでいる設定である。品川の海岸線を走る東海道線から、1km足らず。蒸気機関車の走る音は空気をも揺さぶる。
日本で初めての鉄道が営業運転を開始したのは1872年10月14日。新橋を出発した一番列車は品川の海岸線を走って横浜にむかった。それは藤村が生まれた年である。日本の鉄道も藤村も、今年「生誕150年」を迎えた。

この「勝手に漱石文学館」でこれまでに取り上げてきた文豪は、夏目漱石、泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星、芥川龍之介、島崎藤村、永井荷風の七人。その中で、作品にもっとも鉄道を登場させてきたのは、私の印象であるが、やはり漱石であろう。
漱石はイギリス留学の思い出の記である『倫敦塔』に、《御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な》自分にとって、《広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も》何等の便宜をも与えるものではなかったと書いているが、現実的に鉄道は漱石にずいぶん便宜を与えたようで、作品にもしばしば登場することになる。
『三四郎』、『虞美人草』、『行人』などでは車内や車窓からの風景などが描写されている。『坊っちゃん』や『明暗』では軽便鉄道も登場する。『草枕』でも鉄道の迫力ある描写がされている。『こころ』でも鉄道は登場する。『それから』や『彼岸過迄』では路面電車が大きな役割を果たし、『野分』では電車の中への忘れ物さえ描かれている。『吾輩は猫である』の猫は鉄道に乗車できないが、話の中で電車会社の株が出て来るし、『坊っちゃん』では主人公が電車会社に就職する。当時、東京の玄関口だった新橋駅の光景は、『趣味の遺伝』、『坊っちゃん』、『虞美人草』、『それから』、『門』、『行人』などで描かれ、『彼岸過迄』や『こころ』でも出て来る。
何より漱石は旅好きであった。ここで、今から10年ほど前に私が「雪嶺文学」に書いた連載「夏目気分」の中から、「漱石と旅」の一部を紹介したい。原文が縦書きのため、漢数字になっていて、横書きでは読みにくいかもしれないが、ご容赦願いたい。

坊ちゃんは四国辺の中学へ赴任するまで、同級生と一所に鎌倉へ遠足した以外、東京から出たことがなかった。漱石が初めて東京を離れたのは、年譜によれば一八八七年、中村是公らと登った富士山である。漱石二十歳であった。ずいぶん遅いようにも思われるが、今のように自在にどこへでも行ける交通事情ではない。「では富士山まで、いったいどうやって行ったのだろうか?」ここでも、私の性分は頭をもたげる。
一般的な富士講の経路を使えば、高尾山に寄りながら甲州街道を進み、吉田口から富士山に登り、帰りは須走口を下りて、足柄峠から関本を経て、大山に寄りながら、大山道を東京へ戻る。ほぼ十日の行程である。漱石たちがどの経路を通って富士登山したかわからないが、この年の七月一一日、東海道線が国府津まで開通しており、これを機に夏休み、富士でも登ってみようということになったのではないかと、私は推察している。国府津から関本(現、南足柄市)・足柄峠を通って、須走口か御殿場口から登り、同経路で引き返したと考えられる。これでも六日くらいかかる旅であった。
一八八九年、第一高等中学校本科一年を終えた漱石は、三兄直矩と興津(現、静岡市清水区)を訪れた。この年二月一日、東海道線は静岡まで開通している(神戸までの全線開通は七月一日)。一八九〇年夏、漱石は箱根で二十日程過ごす。国府津から小田原を経由して湯本まで馬車鉄道が開業したのは一八八八年である。そして漱石は一八九一年、再び富士山に登った。東海道線の御殿場駅で下車、御殿場口(一八八三年開設)から登山したと考えられる。東京から三~四日の行程である。一八九二年には正岡子規と京都・堺を旅し、その後、次兄妻の実家があった岡山から、金毘羅宮を経由して松山に行き、高浜虚子と初めて会った。その後、子規と帰京した。前年、山陽鉄道の神戸・岡山間が全線開通していた。ここまでみてくると気がつくように、鉄道の発達にともない、漱石の旅の範囲は広がっていったことになる。
漱石の生涯における旅は、学生時代に行った房総、日光、伊香保温泉、松島、鎌倉などから、中村是公と出かけた塩原・日光・軽井沢・上林温泉・渋・湯河原など。松山、熊本に赴任し、その際、阿蘇登山も含めて、九州各地を旅している。イギリス留学ではパリにも立寄っている。中村是公の招待で満州・朝鮮も旅しており、講演では、信州から高田(新潟県)、関西をまわっている。当時の日本人としては、恵まれた「旅人生」であったと言えるだろう。そして、そのような旅の体験が作品の中でも随所で活かされている。
 一八八九年、興津から戻った漱石は、友人たちと房総半島の旅に出た。船で保田に着き、海水浴などを楽しんだり、鋸山に登り、日本寺を参拝したりした後、富浦・那古から小湊へ行き、鯛ノ浦・誕生寺を訪れ、銚子まで行って帰京している。汽車に乗ることなどまったくできない旅だった。漱石はこの二三日間に及ぶ旅の思い出を『木屑録』に表わし、正岡子規のもとに送っている。この経験は、『こころ』(一九一四年発表)の先生とKが房総を旅する場面で活かされている。コースもまったく同じである。とにかく、歩きに歩き、そして泳いでいる。先生は一八九七年頃に大学を卒業した。房総の旅はその前年夏と考えられる。総武鉄道が銚子まで開通するのは一八九七年であるから、先生たちは利用できなかったが、すでに市川・佐倉間が一八九四年七月、本所・市川間が一二月に開通しており、先生とKは佐倉から本所まで汽車に乗ったと考えられる。この部分が漱石自身の旅と大きく異なる点である。二人は本所駅で汽車を降り、歩いて《両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。Kはその勢で小石川まで歩いて帰ろうと云うのです。体力から云えばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました》。『彼岸過迄』の田川敬太郎と親友須永市蔵は両国駅から汽車に乗って、鴻の台(国府台、こうのだい、現在のJR総武線市川駅)へむかっている。本所から両国橋(現、両国)まで開通したのは一九〇四年である。漱石は自分の体験、先生の学生時代、そして作品を書いている「現在」における鉄道の状況をきちんと把握している。こんなところにも、漱石の秀でた地理感覚をみることができる。
坊ちゃんが赴任したのは《四国辺のある中学校》としか書かれていない。それが松山で、漱石が愛媛県尋常中学校(松山中学、現松山東高校)に赴任した体験が素地になっていることは疑う余地もない。ところが、『坊ちゃん』を読む時、漱石の実体験と作品の間に、十年の隔たりがあることを案外忘れがちである。
漱石が松山に赴任したのは、日清戦争に勝利し、下関条約が締結された一八九五年四月である。前年、広島まで鉄道が開通しており、漱石は広島の宇品港から船で三津浜に着いた。三津浜から松山市街へは一八八八年に四国で初めて開通した伊予鉄道に乗っている。当時、所要時間二八分、運賃三銭五厘であった。八月二二日、道後温泉と松山中心街の一番町を結ぶ道後鉄道が開通した。この鉄道は途中の上一万から分岐して三津口へも伸びていた。後に「坊ちゃん列車」と呼ばれるこの軽便も漱石が松山に赴任した時には、まだ走っていなかった。一〇月一九日、正岡子規は三津浜から広島へむけて出発。広島から奈良を回って上京した子規は二度と松山へ戻ることはなかった。一二月二七日、見合いのため上京した漱石は、翌年三月まで松山中学に勤め、熊本の五高に転勤した。
その後、一度も松山の土を踏むことなく、一九〇六年春、漱石は一気に『坊ちゃん』を書き上げた。設定時期は日露戦争期の一九〇五年である。それは、祝勝会の場面が出てくることも明らかである。もちろん、漱石の実体験に合わせて日清戦争期と考えられないこともないが、そうだとすれば夏までには帰京してしまった坊ちゃんは、八月に開通した道後鉄道に乗ることはできない。また、坊ちゃんは帰京後、《ある人の周旋で街鉄の技手になっ》ている。街鉄(東京市街鉄道会社)が開業したのは、一九〇三年である。
漱石は十年前の記憶をたどりながら、「現在」を描いた。したがって作品の中に、すでに「過去」の松山が「現在」として描かれたかもしれないし、だからこそ漱石は松山とは書かずに「四国辺」としている。あくまでも架空の都市である。漱石が『坊ちゃん』に仕組んだ興味深いことがいくつかある。
船を下りた坊ちゃんは汽車で市街まで来ている。所要時間五分、運賃三銭は実態とずいぶん違う。「ここは松山ではないのだ」と言わんばかりである。にもかかわらず、船が接岸できず、艀を使っている様子はきちんと描かれている。河口港の三津浜は船の大型化にともなって接岸できなくなり、艀を使うようになっていた(『坊ちゃん』が書かれた一九〇六年、大型船が接岸できる高浜港が開港した)。道後温泉も住田という地名に変えられている。
ところが漱石は古町(こまち)を実名で登場させている。古町停車場の光景と思われる場面の描写は、かなり細かく長い。坊ちゃんは例のごとく温泉へ行くために停車場へ。二、三分前に発車して、しばらく待つことに。《やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む。》住田まで上等が五銭で下等が三銭である。城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分。温泉へ入った坊ちゃんが今度は古町の停車場で下りる。《学校まではこれから四丁だ》。古町は城をはさんで道後温泉と反対側、つまり西側にあり、JR松山駅に近い。漱石が勤めた松山中学は城の東側にある。上一万・一番町間にある勝山町が最寄駅になる。漱石は実在の町名を書くことによって、逆に「この学校は松山中学」でないことを表わそうとしたのではないだろうか。
一八九六年、漱石は松山から、熊本の第五高等学校に転じた。三津浜から虚子と共に出発し、宮島に一泊に、広島で虚子と別れた(小宮豊隆)。漱石は広島から船で馬関(現、下関)・門司へ渡り、そこから汽車で熊本へむかったと考えられる(熊本までは一八九一年に鉄道が開通)。途中、博多と久留米に一泊している。六月には中根重一が娘鏡子を連れて熊本へやって来た。鉄道はまだ馬関まで開通していないから、広島から馬関・門司までは船を利用したとみられる。九日、結婚式がおこなわれた。九月には、鏡子を連れて、博多、大宰府など、1週間程旅行している。一八九七年には同僚山川信次郎と福岡・佐賀、小天温泉など、さらに一八九九年には宇佐八幡・耶馬溪・日田・吉井などを旅し、阿蘇にも登っている。
 神戸と九州を結ぶ鉄道は、一八九八年、徳山まで開通を機に、徳山と馬関・門司を結ぶ連絡船が運行され、暫定的に一本につながった。神戸・馬関間の鉄道が全線開通し、関門連絡船が運行されるようになったのは一九〇一年である。この時、すでに漱石はイギリスにいた。
坊ちゃんは松山からの帰路、神戸まで船を利用している。大阪商船の大阪・宿毛線に乗船したと考えられる。

                         (つづく)
【文豪の東京3――永井荷風】

第1回 東京生まれの荷風

私はこの「文豪の東京」を書くにあたって、文豪を東京生まれの「東京っ子」と、東京以外で生まれた「上京者」に分け、交互に取り上げていきたいと考えている。
最初に取り上げた芥川龍之介は東京生まれ。続いて登場した島崎藤村(本名、島崎春樹)は馬籠で生まれ、9歳の時に上京した。東京育ちと言って良い藤村であるが、「上京者」の仲間に入れた。順番から行くと、今度は「東京っ子」。今まで取り上げた文豪たちの間で、何となく見え隠れして気になる存在だった永井荷風を取り上げたい。
繰り返し書いてきたが、私は書くことが好きで、読むことが必ずしも好きではない。多くの小説家は読むことが好きで、小説を読み漁ってきた。文学に関する文章を書く人も、とにかく読むことが好きで、小説などもたくさん読んでいる。けれども私は「書くために読む」のであって、永井荷風の作品もこれから読むことになる。読みながらメモを取り、調べ、文章を書いていく。ずいぶんヘンな読み方であるが、一人くらいこんなのが居ても良いだろう。まだ遠い永井荷風の存在が、この連載を書き終える頃には、すっかり身近になって、荷風を求めて、浅草や玉ノ井あたりをうろつき回るようになるかもしれない。そして不思議と、さらに東京が好きになり、路地の奥深くまで懐かしく思えるようになっていくだろう。

永井荷風は1879年、東京市小石川区金富町45番地で生まれた。今年生誕150年を迎えた島崎藤村より7歳ほど年下にあたる。
金剛寺の東側を水道端から小石川台に上る金剛寺坂を上り始めて、右へ入る一筋目を行って100m余、左折してまもなく左側が金富町45番地(現、春日2丁目20-25)である。右側は小石川大門町。現在の金剛寺坂は上り始めてすぐ、地下鉄丸ノ内の上を通る。越えてすぐに右へ入る一筋目の道がある。金剛寺は丸ノ内線建設(この区間は1954年に開通)にともない中野区上高田に移転した。
漱石の『それから』で、代助は三千代に会うために金剛寺坂を上っている。代助の三千代に対する思いを表現する坂として、けっこう重要であるが、その様子は、《金剛寺坂でも誰にも逢わなかった。岩崎家の高い石垣が左右から坂道を塞いでいた》と簡便に描かれている。

1883年、荷風は下谷竹町4番地にある母の実家鷲津家に預けられ、祖母美代(1890年に51歳で死去)に育てられた。下谷竹町は御徒町駅の東、現在の台東2~4丁目一帯。久保田(秋田)藩主佐竹氏の屋敷があったところで、西門の扉に竹を用いていたことが「竹町」の由来と言われている。4番地は南の二長町との境界をなす道と、竹町を北へまっすぐのびる道がつくりだす三叉路の北西角。現在の台東2丁目23番。すぐ近くに金毘羅神社があった。
この地域は全般的に低湿で、秋聲の『爛』において、浅井に見受けされたお増が与えられた下谷の家は、賑やかな上野広小路の通りから少し裏へ入った、徒町二丁目あるいは竹町辺りに設定され、ある路地の中の小さな平屋で、《上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞こえる台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった》と描かれている。
漱石が養父塩原昌之助たちと一時期を過ごした西町は、下谷竹町の北隣。『道草』には、《其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚ならしい一廓を‐‐様の御屋敷という名で覚えていた。堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋が何処までも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。この御屋敷と反対の側には小さな平家が疎らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交っていたその町並は無論不揃であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居を拵えたのである》(8)と書かれているが、「‐‐様の御屋敷」というのが「佐竹様の御屋敷」である。島田の家の辺りも、《裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などは始終浅い池のようになっていた》(8)と描写されている。谷田川から不忍池を経て、この辺りへ水が流れ込み、佐竹氏の屋敷も堀をつくって対応していた。
『道草』には、《健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友人は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」と云って彼をひやかした》(22)という記述もある。現実の漱石にあてはめれば1882年から83年頃。ちょうど、幼い荷風が鷲津家に預けられた頃である。
1884年、荷風は東京女子師範学校附属幼稚園に入園した。湯島聖堂の西、御茶ノ水橋北袂。鷲津家から片道2.5kmくらいある。現在なら、家から御徒町駅まで行って、電車で秋葉原、総武線に乗り換えて御茶ノ水駅下車。御茶ノ水橋を越えればすぐ。電車乗車距離は1.9km。さて、荷風は一人で歩いたのか、それとも祖母などが付いて来たのか。私も幼稚園の時、1km以上、一人で歩いて通園したけれど、さすがに3km近いとなると……。まさか、人力車ということはないだろうな。

荷風は1886年に実家へ戻り、黒田小学校へ通い始めた。後に黒田小学校に入学する中勘助が神田で生まれたのはその前年である。黒田小学校は荷風の家を出て、金剛寺坂を下って右折。水道端の道を服部坂下まで行ったところにあり、およそ1kmの道のり。途中、夏目家の菩提寺である本法寺の前を通る。
1889年、黒田小学校尋常科を卒業した荷風は、竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。荷風の家から坂を上って左折。数百メートル行ったところにあり、現在、東京学芸大学附属竹早中学校などが建っている。
1890年。荷風の父が文部大臣芳川顕正の秘書官になったため、一家は麹町区永田町1丁目21番地、三べ坂上の文部省官舎に転居。赤坂見附と三宅坂の中間あたり。三べ坂は永田町2丁目を華族女学校の前を通って南へ、日枝神社下へ向かって下る坂。岡部・安部・渡辺の三つの「べ」のつく大名屋敷があったところから名づけられた。永田町1丁目21番地は、三べ坂を上って、華族女学校の前から東北東へのびる「駒井小路」を200mほど行ったところにあった。この小路はもともと平河町や隼町に通じていたが、現在の青山通りに相当する道路を、路面電車が通れるように拡幅する際、行き止まりになってしまった。
荷風の通学には遠くなってしまったが、11月から神田錦町2丁目の東京英語専修学校へ通うようになった。官舎から内濠に出て、それに沿って九段坂上にさしかかり、坂を下って一ツ橋まで。神田区役所、神田警察署がある一角で、2番地には英吉利法律学校(現、中央大学)があった。
翌1891年6月。一家は再び金富町の自宅へ戻り、9月になると荷風は高等師範学校附属学校尋常中学校に通い始めた。この学校は、神田一ツ橋通町にあり、現在の一ツ橋2丁目。小学館がある一角。自宅から安藤坂へ出て、坂を下り、小石川区役所の前を通り、砲兵工廠の敷地に沿って外濠まで進み、小石川橋で外濠を渡り、当時、堀留橋まで日本橋川は埋め立てられて存在しなかったので、いつしか神田区側に入り、やがて俎橋畔を過ぎ、日本橋川に沿って300mほど。左折して少し行くと学校に到着する。高等師範学校と附属小学校・中学校がある。道路の反対側は高等商業学校。
1893年になると、金富町の自宅は売却され、一家は麹町区飯田町の借家に転居。いつもお世話になっている「東京紅團」の「永井荷風の幼少年期を歩く‐2-」には、秋庭太郎著『考証永井荷風』(岩波現代文庫版)からの引用として、
《麹町区飯田町三丁目黐ノ木坂下に家を借りて移転した》とあるが、同じ著者の『永井荷風傳』には《飯田町二丁目二番地の高臺、二階建の借家へ移り》と、二通り出て来て、荷風本人に確認することもできず、《どちらが正しいのでしょうか!!》と、困った様子。
飯田町三丁目の借家は番地が書いてないものの、2番地とすれば、確かに冬青木坂(黐ノ木坂、もちのき坂)の坂下。飯田町二丁目2番地とすれば冬青木坂の坂上。もし後者とすれば、尾崎紅葉らの硯友社(1885~1903)に隣接することになり、現在は和洋九段中学校・高等学校が建っている。私も原資料がない限りどちらとも言い難いが、両説真逆であるところがおもしろい。どちらにしても俎橋は近く、10分もあれば、学校に着いただろう。台地上の暁星学校に通っていた漱石の息子たち。市電に乗って通学していたとみられ、飯田町三丁目の電停で下車し、そのまま冬青木坂を上って、坂上の学校へたどり着いたと思われる。冬青木坂と九段坂の間には中坂がある。
なお、漱石の『明暗』に登場する主人公津田由雄の自宅設定地は、飯田橋三丁目8番地あたり。かつて北辰社の牧場があった。
1894年。すでに日清戦争が始まっていたが、永井一家は麹町区一番町42番地の借家に転居。靖国神社今村宮司の持ち家だったという。一番町は現在では三番町に改称され、6番の一角で二松学舎大学九段キャンパスの西側、警察共済ビルの北側にあたる。九段坂を下って俎橋まで10分ほど、さらに5分ほどで学校へ着いたと思われる。
ところが荷風は、年末に頸部リンパ節結核(瘰癧)で帝国大学第二病院(神田区和泉町、現在の三井記念病院があるところ)に入院、手術。翌1895年には療養のため足柄病院(小田原)に入院。その後、逗子の永井家別荘十七松荘で静養。9月に高等師範学校附属学校尋常中学校の第四学年として復学。1897年3月に卒業した。
永井一家は1902年、牛込区大久保余丁町79番地に転居した。抜弁天へ通じる道を300mほど西に行ったところに坪内逍遥が住んでいた(1889~1920)。この道の南地域一帯は警視庁用地で、翌年には東京監獄が開設された。大久保余丁町は東京市のはずれ。市ヶ谷門まで2kmほどあった。
荷風は病気にならなければ、人間並みの一生涯を送ることができたかもしれないと書いているが、この頃から読書、文学にはまり、学業、進学に身が入らず、違った道での師を求め、遊びにも目覚めていった。結局、人間並みの一生涯を送ることはできなかったかもしれないが、その生涯の足跡によって「文豪」とよばれるようになった。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

『分配』を最後に、島崎藤村の連載を終了しようと思っていたが、人間、不思議なもので、島崎藤村について書いているうちに、離れがたくなってしまった。そこで追加して、『食堂』について書くことにした。なぜ『食堂』?理由はつけることができる。来年、2023年は関東大震災が起こって100年の節目の年を迎える。

第17回 『食堂』に描かれた東京

『食堂』(1926年発表)の設定時期は関東大震災が起こって一年経過した1924年9月。
主人公お三輪は63~4歳。浦和生まれの両親が東京へ出て来て、京橋の目貫に小竹という店を出した。店には香・扇子・筆墨・陶器・紙・画帳・書籍・宝石など、すべて「支那」産の品物が取り揃えてあった。一人娘のお三輪は婿養子をとり、一人息子の新七が生まれた。両親が始めた店は使用人を何人も雇うくらいに繁昌し、婿養子が亡くなってからも、お三輪が商売を切り盛りし、息子の新七へと受け継がれ、お三輪は「小竹の隠居」と呼ばれる身分になった。
まあまあ順調に日々は過ぎたが、突然襲った大地震。三代かかって築き上げた一家の繁昌は、あっという間に崩れ去った。

―― お三輪は女中を相手に、その台所で働いていた。そこへ地震だ。やがて火だ。当時を想うと、新七をはじめ、店の奉公人でも、近所の人達でも、自分等の町の界隈が焼けようなぞと思うものは一人もなかったのである。あの時ほどお三輪も自分の弱いことを知ったためしはなかった。新七でも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。彼女はお富達と手をつなぎ合せ、一旦日比谷公園まで逃れようとしたが、火を見ると足も前へ進まなかった。眼は眩み、年老いたからだは震えた。そしてあの暗い樹のかげで一夜を明そうとした頃は、小竹の店も焼け落ちてしまった。芝公園の方にある休茶屋が、ともかくも一時この人達の避難する場所にあてられた。その休茶屋には、以前お三輪のところに七年も奉公したことのあるお力が内儀さんとしていて、漸くのことでそこまで辿り着いた旧主人を迎えてくれた。 ――

小竹の店は京橋界隈にあった。建物が倒壊することはなかったが、各地で火の手が上がり、お三輪たちは避難することにしたのだろう。火の手の反対方向で、広い空き地があるのは皇居側。外濠に架かる最寄りの鍛冶橋は、1914年に東京で初めてのコンクリートアーチ橋に架け替えられていたので、落橋を免れ、鍛冶橋から日比谷公園へと避難したとみられる。ここで夜を明かしたのだろうか。南へ1kmほど移動して芝公園までたどり着いた。
『関東大震災報告書(第1編)』(1923年)によると、焼失割合は、小竹の店がある京橋区が85.9%、北隣の日本橋区は100%、それに対し、麹町区は22.2%、芝区23.8%である。これでは小竹の店が焼け落ちるのは当然であるし、お三輪たちの選んだ避難地域は正解だった。芝公園内の休茶屋も焼けなかった。
お三輪たちが避難した休茶屋は、《公園の蓮池を前に》と記した箇所があるので、芝公園1号、増上寺や東照宮裏手にあたる蓮池のほとりにある。蓮池の中央には弁天堂がある。

この避難が縁で、新七はお力夫妻が震災後立ち上げた食堂を手伝うため、そこに残り、お三輪と新七の妻、それにお三輪からは孫にあたる幼子二人が、浦和に引越して避難生活を始めた。震災で身内をことごとく亡くし、一人ぼっちになった子守娘もいっしょだった。たくさんいた店の奉公人は、それぞれ暇を取って、皆ちりぢりばらばらになってしまった。
避難当時を思い出して、お三輪はつぎのように語っている。

―― 「平常なら一時間足らずで行かれるところなんでしょう、それを六時間も七時間もかかって……途中で渡れるか渡れないか知れないような橋を渡って……浦和へ着いた頃は、もう真暗サ。あの時は新七が宿屋を探してくれてね。その宿屋でお結飯を造ってくれたとお思い……子供がそのお結飯を見たら、手につかんで離さないじゃないか。みんな泣いちまいましたよ……」 ――

それから一年。お三輪が上京し、お力夫妻や新七が営む芝公園内の食堂を訪れるというのが、この作品の中心である。
食堂が休日の新七にともなわれて浦和から汽車に乗るお三輪。

―― 震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。
東京まで出て行って見ると、震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。 ――

震災後一年の東京が、このように描かれている。お三輪と新七は上野駅前から市電に乗り、金杉橋で下車し、天現寺橋行きに乗り換え、赤羽橋で下車したと思われる。
お三輪は一度、小竹の焼け跡に立ったことがあり、何とか再興したいと思ったが、自分にはどうすることもできず、一人息子の新七に賭けるしかなかった。けれども蓮池畔の食堂は、震災後のやり方としては異色の「本格的な料亭の味」をめざして、これがけっこう受けて大繁盛。《「そんなら、お前さんはもう未練はないのかい――あの小竹の古い店の暖簾に」》と言うお三輪に、新七は《「まだお母さんはそんな夢を見てるんですか」》。新七は小竹の店に未練なく、この食堂の運営を自分の仕事と定めている。お三輪の上京の目的は、新七の気持ちの確認と、新七が果たして食堂に将来を懸けて大丈夫か、自分の目で確認したいということであった。そして、その結論は出た。
新七は大震災に遭っても前を向いている。けれどもお三輪には向くべき前がない。そうなってみると、お三輪は震災前の東京に一層の懐かしさをおぼえる。

―― 休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲にべたべたと貼りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらされたようなその格子戸に取りすがって眺めた。
「あ、これはお閻魔さまだ」
この考えが、古い都会の残った香でも嗅ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万とか、玉つむぎとか、そんな昔流行った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節問屋、蒲鉾屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖なぞをかついだ肴屋がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところでなければ、ほんとうの日本橋のような気もしなかったのである。そして、そういう娘時代の記憶の残った東京がまだ変らずにあるようにも思われた。あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられもしなかった。 ――

ちょっと長い引用になってしまったが、少年期を京橋区・日本橋区に過ごした藤村にとって、震災で変わり果てた地域を見ながら、それ以前の姿を懐かしく思い出しながら、この文章を書いていたのではないだろうか。
とくに日本橋魚河岸は震災で壊滅的な打撃を受け、もともと出ていた移転の話しは一挙に進んだ。最終的な築地移転は1935年になるが、それまで芝浦で仮営業した後、海軍大学校などがある海軍省所有地(築地4丁目)の一角を借り受け、臨時の東京市設魚市場を開設した。勝鬨の渡しを利用して隅田川を越えれば月島である。新七たちが魚を仕入れに行ったのも、この臨時の魚市場であるが、築地と書かずに、「月島の方」としたのは、東京のはずれの印象を与えようとしたからではないだろうか。
蓮池から4km足らずの道のり。直通の系統がないうえに朝も早いので、市場の往復は徒歩であろう。《朝早く魚河岸の方へ買出しに行った広瀬さんも金太郎もまだ戻って見えなかったが、新鮮な魚類を載せた車だけは威勢よく先に帰って来て、丁度お三輪が新七と一緒に出掛けようとするところへ着いた》。
お三輪は新七と一緒に芝公園の中を抜けて赤羽橋電停まで来た。お力もついてきた。

――「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」
それを聞くと、お力は精気の溢れた顔を伏せて、眼のふちが紅くなるほど泣いた。 ――

『食堂』は短編であり、とくに山場があるわけでもない。けれども関東大震災が人びとに与えた影響をよく描き出している。そして、この大災害後の人生を、前を向いて乗り越えていこうとする人と、もう前を向くほど前が長くないと捉える人、その二つの人生がよく描かれている。これは、阪神淡路大震災や東日本大震災においても同様なんだろうなと思いながら、『食堂』を読み終えた。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

2022年は島崎藤村や山室軍平生誕150年である。その通りではあるが、私は『ジパング倶楽部』9月号で、大事な150年を気づかされた。「鉄道開業150年」。鉄道ファンの私としたことが・・・。1872年10月14日、新橋と横浜の間に、日本で初めて鉄道の営業運転が開始された。漱石はじめ、鏡花・秋聲・犀星、藤村などの作品に鉄道は、しばしば登場する。

第16回 『分配』に描かれた東京

島崎藤村の作品、これまで『桜の実の熟する時』と『新生』の二つを取り上げた。これによって、藤村の人生、明治学院入学から飯倉片町に落ち着くまでをなぞることができる。今回はそれを引き継ぐ形で、『分配』(1927年)を取り上げたい。もちろん、私が作品を見る視点は「東京」である。
『分配』の設定時期は当年の1927年。藤村は関東大震災(1923年)から4年ほど経った東京を描いている。藤村がモデルの「私」の子ども4人は、太郎・次郎・三郎・末子と、今までに比べて、とてもわかりやすくなっている。太郎は「私」の郷里の方で農家をやっている。次郎も「私」の郷里の方へ行ったが、画家をめざしている。三郎は郊外に友人と家を借り、自炊生活を始めようとしている。末子は家から学校に通っている。次郎は徴兵適齢で本籍地のある東京へ出て来て検査(徴兵検査)を受けたが、同い年の一郎(この作品では名前が書かれていないが、『新生』などに一郎として登場する。次兄の長男重樹がモデル)は腎臓炎で急死。次郎が葬儀に参列している。

『分配』という題。何を「分配」するのか、ひょっとしたら遺産相続の「分配」かと思ったら、藤村の印税の「分配」だ。
1923年の関東大震災によって、東京の出版社や本屋も大きな被害を受け、庶民一般も本を買うどころではない苦難に落とし入れられた。そのような中で、改造社は1926年、1冊1円の「現代日本文学全集」の刊行に踏み切った。1冊1円。当時の大学出の初任給が50円~60円という時代に1円というのは、収入の2%に当たり、けっして安いものではないが、当時の本はもっと高かったので、割安感があり、「円タク」に倣って「円本」と呼ばれ、大いに売れ、震災後の出版業界立て直しのきっかけになった。著名な作家たちの生活と仕事を支えたことは言うまでもない。
藤村もそのような恩恵を受けた一人である。「明治大正文学全集」の1冊として配本される「島崎藤村」の予約数をもとにした印税(12%)のうち、社預かり分3%を除いても、2万円ほどのカネを一括して手に入れることになった。現在の金額に当てはめることは難しいが、大学出の初任給50円を20万円とするならば、8000万円ほどになる。『分配』はこれを4人の子どもたちに公平に一人5000円ずつ「分配」する話である。4人の子どもに対する藤村の分け隔てない思いが伝わってくる一方、生活に窮する身からすれば、「格差社会」を見せつけられる思いもする。
藤村も震災後の状況に、『分配』を書くことに多少なりとも気が引けたのだろう。つぎのように書いている。

―― 不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。――

あえて私がこの箇所を引用したのは、「今」を感じさせるからである。
「私」のところへも、物乞いに来る者が現れ、《年も若く見たところも丈夫そうな若者が、私ごとき病弱な、しかも年とったもののところへ救いを求めて来るような、その社会の矛盾に苦しんだ》。と言いつつ、恵んでやる「私」。《私たちの家の婆やは、そういう時の私の態度を見ると、いつでも憤慨した。毎月働いても十八円の給金にしかならないと言いたげなこの婆やは、見ず知らずの若者が私のところから持って行く一円、二円の金を見のがさなかった》。
婆やが憤慨するのももっともだが、それに追い打ちをかけるように、《そういう私たちの家では、明日の米もないような日がこれまでなかったというまでで、そう余裕のある生活を送って来たわけではない》と「私」は言う。《子供らが大きくなればなるほど金がかかって来て、まだ太郎の家のほうは毎月三十円ずつ助けているし、太郎の家で使っている婆さんも給金も私のほうから払っているし、三郎が郊外に自炊生活を始めてからは、そちらのほうにも毎月六十円はかかった。次郎や末子というものも控えていた。私も骨が折れる。でも、私は子供らと一緒に働くことを楽しみにして、どんなに離れて暮らしていても、その考えだけは一日も私の念頭を去らなかった》。
「親バカ!子どもを自立させなさい!」「そんなことしていたら、余裕ないのは当たり前でしょう」。このような声が聞こえてきそうだ。『分配』はあくまでも小説である。けれどもここに書かれたことを現実と捉えるなら、藤村は小説家をめざす中での困窮時代、三人の子どもを相次いで死なせ、その背負った重荷を四人の子どもたちに還すことで償いたいと思ってきたことだろう。するのが当たり前、義務とさえ思っていたかもしれない。加えて、こま子との一件。少なからず子どもたちを傷つけたであろう。ここでも藤村は子どもたちに償わなければならない。明らかにしなくても良い個人情報を明らかにして小説を書き、子どもたちからも離れて小説を書き、まさに子どもたちを犠牲にして小説を書き、小説家としてそれなりの地位と収入を得るようになった。これを「前向き」に表現するならば、子どもたちとの「共同作業」によって、作家島崎藤村が出来上がった。その収入を皆で分け合うのは当然のことではないか。
かくして、4人の子どもは、一人5000円ずつ手に入れることになった。為替で送金した太郎の分を除いて、5000円の定期預金が三人各名義でつくられた。太郎にも《この金を預けたら毎年三百円ほどの余裕ができましょう》と手紙にしたため、同様にするようほのめかしている。
大正から昭和初期にかけて、郵便貯金の利率は年4.8%である。5000円預ければ毎年240円の利子が入る。大学出の初任給で言えば5か月分ほど、婆やの1年分の給金より多い。太郎には利子が年に300円ほど入ると書いているので、「私」は郵便貯金より利率の良い金融機関に預けたのだろう。
『分配』の内容はきわめて現実的である。こうなってくると、ここまで具体的に書いて「税務署」の方は大丈夫なのかと、他人事ながら心配になってくるが、当時、贈与税はなかった。翌1928年、藤村が加藤静子と結婚することを合わせて考えれば、この臨時収入を子どもたちに分けることによって、援助にひとつの区切りをつけたいと考えたのかもしれない。利子だけでも、子どもたちへの少なからぬ援助となる。それにしても、この低金利の当世。2000万円預けて、一年でいったいどのくらいの利子が入るだろうか。

飯倉片町については、『新生』にも書いた。麻布台の南端に位置する飯倉片町。南の古川の谷筋へえぐれた地形を下る鼬坂。その入り口に近いところに藤村たちの家がある。
定期預金をつくるため、銀行へ行く「私」。《自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った》、《「新橋の手前までやってください。」と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた》。
この後、現在の経路で表現すると、桜田通りから外堀通りを通って新橋へ。《私たちを載せた車は、震災の当時に焼け残った岡の地勢を降りて、まだバラック建ての家屋の多い、ごちゃごちゃとした広い町のほうへ、一息に走って行った》。関東大震災で麻布台の方は火災を免れたところが多いが、下町は軒並み焼けている。《大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の》銀行でおカネを引き出すと、《私たちの乗る車はさらに日本橋手前の方角を取って、繁華な町の中を走って行った》。こうして、今度は地方銀行の支店へ。ここもバラック風の建物である。この後、《私は京橋へんまで車を引き返させて》銀行へ入り、さらに自宅近くの銀行へ。
「銀行のはしご」をした「私」。

――それにしても、筆執るものとしての私たちに関係の深い出版界が、あの世界の大戦以来順調な道をたどって来ているとは、私には思えなかった。(略)私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。

「小説は創作」。この観点からすれば、藤村の小説は「ほんとうに小説なのか」と思うこともあるが、自分には絶対に書けない優れた文学作品であり、やはり「文豪」なのだ。それにしても、当時、スキャンダルにまみれた秋聲そして藤村。その作品から伝わってくる「子どもたち」への優しい眼差し、優しい思いはいったい何なのだろうか。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第15回 山室軍平生誕150年記念②

1918年秋、源作は九州熊本茶業大会出席を兼ねて、中国・九州地方を旅している。まず、岡山に内村鑑三が来ているということで、《一、午後2時より県会議食堂にて、内村、中田、両君の講演(聖書土産)を聴聞せり、午後5時半の汽車にて九州へ向かう。一、この日大いに誉することを得たり、神に感謝す》(1918年10月13日)、続いて《一、本日下関に下車、門司を経て博多駅に着。同地救世軍小隊を道満中校を訪問、それより同氏の案内にて千代松原より西公園止まり案内せらる。又静岡小隊の児島中尉の実家を訪問、中尉の近状と信仰を??働きとを母子と妹子に話す。一、夕めしを?にて道満中学校と柳川中尉と会食す》(1918年10月14日)。
この後、主目的の熊本、足を鹿児島まで伸ばし、いよいよ《小生は茶臼原で?延岡に行く積もりにて、朝6時半発で出て市中を回り神武天皇神社へ参拝、同所より?行?便?乗車?に行き、同地駅長川上氏(信者)に面会、茶臼原の様子を聞く。人力車を頼んで貰い、茶臼原に岡山孤児院開墾地事務所を訪問、未亡人面会せしところ大いに喜ばし、開墾地小学校孤児家庭(10軒)を訪問、故石井氏の墓地に行き参拝をなす》(1918年10月24日)。クリスチャンの石井十次(1865~1914年)は「児童福祉の父」と言われ、岡山孤児院を創設。岡山出身の山室軍平も身を寄せ、石井と活動を共にしたことがある。石井は郷里の宮崎県・茶臼原(ちゃうすばる、現在の木城町・西都市)へ移住するため、1894年、院児25人が現地で開墾を始めている。茶臼原を訪れた源作は十次の後妻辰子と会っている。山室に大きな影響を与え、社会事業の方向性を同じくする石井十次の足跡を、九州に来た折、見ておきたいと思ったのだろう。
じつはこの時、すでにスペイン風邪が猛威を振るい始め、全国的に大騒ぎになり始めていた。源作は当時の様子を日記に書き記しているが、当「勝手に漱石文学館」に『源作日記にみるスペイン風邪』を掲載している(2020年7月21日、NHK総合テレビ「おはよう日本」にて放映)。スペイン風邪パンデミックは日本においても推定40万人の死者を出して、1920年頃から収束にむかった。

スペイン風邪パンデミックは収束したが、1922年になって、源作のもとに悲しい知らせが届いた。《一、山室軍平氏次女 友子 久しく病気なりしが、本日死去せし旨 電信にて通知あり》(1922年10月12日)。
そして、1930年になると、《一、内村鑑三先生久しく病気のところ 本日遂に死去せらしたる?も電信にて通知あり。誠に?会の事なれども、神の御命令とあればいたしかたなし。左の返電をなす。御尊火 御逝去 誠会 御同情に堪えず 御悔やみ上げる》(1930年3月28日)、《東京内村鑑三先生葬儀参列のため、午前6時12分発にて上京、村松方に?柏木 内村氏方に行く。葬儀に参列告別をなし1時半同地を辞し、午後3時発汽車にて帰着す》(1930年3月30日)※。
内村と言えば、1919年12月、源作の妻とき子が東京に内村を訪ねた。源作の日記には、《一、トキ子 内村先生に面会、慰められたり。重荷を下ろしたる心持ちす云々と喜び申し来る。明5日頃帰宅の予定と申し来る》(1918年12月4日)、《一、トキ子横浜より電報来る。「アスカエル」とせい子失望せり。明日早々時間電報にて知らせるよう ハガキを出す》(1918年12月5日)、《一、トキ子 午後9時55分にて、横浜より帰宅》(1918年12月6日)、《一、トキ子今度東京に行き、内村先生を訪問せし中 いただき来たりし、メキシコ出人の使用するチョコレートに左の覚え書を記さる。メキシコ出人使用の生チョコレート 同国南部エスキントラ在住教友より送り来る》(1918年12月7日)。
内村鑑三に会って帰る日が遅れた母を待ちわび、鑑三からもらったメキシコ産の生チョコレートに気を取り直した(?)末っ子せい子も、嫁ぐ日が来た。1931年、せい子が結婚。日記には結婚式に関する記述が、《一、せい子結婚式打ち合わせのため、救世軍本営に山室氏を訪問す。午後4時学士会館に行き、すべての準備は村松武夫に依頼す。午後5時半式を始む。山室氏の説教あり、式を挙ぐ。式後平沢安次郎氏(重胤父)より挨拶あり。引き続き食事に移る。山室氏媒酌人としての挨拶あり。親戚として福井氏の挨拶ありて散会後、個人的話ありて8時30分散会す》(1931年10月20日)。翌日、《一、午前トキ両人にて、山室氏と深沢両家へ、昨日の結婚式の礼伝える。一、救世軍本営に行く。柴田氏の案内にて同病院を拝観、それより西新井町の(バタ)商店の様子を参観する事を得て、大いに参考となる》(1931年10月21日)。ブース記念病院は1912年に亡くなったウイリアム・ブースを記念して、1916年に創設され、1926年には二代大将ブラムウェル・ブースも訪れている。
機恵子を失った軍平は、1937年、今度は後妻の悦子を失った。源作は日記に《一、東京山室氏夫人久しくご病気の処、今朝6時死去せられたる趣き、夕刊新聞に在り。○○と此の事を知らずに、本日見舞状を出す》(1937年2月17日)と記したが、さらに1939年になると、長男武甫も妻に先立たれた。《一、東京山室氏長男武甫氏妻、〇子死亡報あり。悔み状を出す》(1939年7月13日)、《一、東京山室武甫氏より遺族方の写真を送り呉れたるに付き、其の礼状を出す》(1939年8月18日)と記している。後に武甫は阿部光子と再婚する。

1923年9月1日、関東大震災が起こった。源作は上京が可能になると、内村鑑三や山室軍平を訪ねている。《一、今朝村松方を出て、柏木なる内村先生を訪問、面会を得、種々の話を聞く。一時間ばかりにて帰る。一、市ヶ谷救世軍士官学校 仮本営に山室氏を訪問す》(1923年11月8日)、《一、内村鑑三氏へ過日約束せし寄付金、百50円を送金す。内訳 百円今井館改築費の内、50円北海道伝道金》(1923年11月15日)。今井館は柏木の内村邸内にある集会施設。現在の中央線東中野駅は、かつて柏木停車場という名称だった。
1924年にも《一、東京本所梅成町 救世軍難民救済所に 大友大尉を訪問す》(1924年2月11日)など記されている。
そして、1927年。《一、救世軍会館新築見積、普請請負金弐千7百円、図面を揃へ、東京本営矢吹大佐宛送る。一、救世軍連隊長張田氏と大野小隊長来訪、新築の件に付相談す》(1927年7月16日)と日記にあるように、関東大震災で被災した会館建て直しの計画が具体化している。それから一週間後の7月24日、芥川龍之介が自死。
秋に入り、《一、救世軍会館請負の内金5百円、盲亜学校当座より引出し、末川氏に渡す》(1927年10月1日)、《一、救世軍感謝祭、献金をなす。一、救世軍会館、九分九厘出来上がり、明日昼に開くこととなる》(1927年10月18日)、《一、救世軍会館落成に付、請負者末川米治殿へ、弐千7百円の内3百円と5百円の内金を差引、残金千9百円を支払う。此の金は盲亜学校より、千4百74円36銭○○、其の内千4百70円と外に430円は会社より○借をなし、千9百円となし、支払う。一、午後7時より会館に小隊長外兵士集まり、電○其他相談をなす》(1927年10月16日)。
源作が2700円を負担することによって、神田の救世軍会館は新築された。当時、小学校教員の初任給が50円だったという情報もあり、これをもとにすれば、今日の1000万円を超える金額である。
この年、静岡の救世軍小隊会館も新築。《一、救世軍司令官山室少将来岡、救世軍小隊会館新築落成せしに付、其開館式挙行のため来られたり。一、山室、矢吹、保田三氏、○宅し、宿泊せらる。一、午後2時半開館式、午後7時30分、山室少将の講演あり、290余名会集せり》(1927年10月28日)、《一、山室、保田両君は午前6時59分発にて帰京せらる。停車場まで見送りをなす。一、矢吹氏は会館新築○を市役所に届出の手続きをなし、帰京せらる》(1927年10月29日)。さらに、1936年には《一、救世軍小隊、移転改築〇中へ、百円寄付をなす》(1936年4月20日)。
わが国の廃娼運動において、明治以降、クリスチャンの果たした役割は大きい。1911年、吉原遊郭(新吉原)の火災に際して多くの犠牲が出たことから、遊郭再建反対運動が盛り上がったが、結局、遊郭は継続された。これに対して、廃娼を目的に設立されたのが「廓清会」(かくせいかい)である。源作も軍平の影響もあって、廃娼運動に関心をもち、運動を支えていった。関東大震災があった年の日記には、《一、公娼廃止請願書に記名す。一、午後7時より公娼廃止演説会 メソジスト教会にあり。大阪より林歌子同問題につき、余すところなく沸かし、皆感動を与えたり。聴衆約5百名くらいなりし》(1923年12月5日)とあり、広岡浅子・矢島楫子・本多貞子と並ぶ林歌子が静岡を訪れ、講演したことが記されている。廓清会の機関誌として、1911年から44年まで発行されたのが「廓清」(かくせい)。その発行を資金面でも支えたのが源作である。
支援を惜しまない源作は、《一、山室軍平氏より労働観という小冊一部郵送を受く。令状を出す》(1927年11月2日)の後、《一、山室氏の「基督教の労働観」の印刷物を、松江四方氏、山口県秋吉本間氏、岐阜米山氏、東京田中○夫氏等へ数冊宛送る》(1927年12月10日)というように、増し刷りして普及に努めたり、出版費用の負担などもおこなっている。《一、救世軍、ときの声の禁酒号を各地へ送る》(1928年2月10日)などの記載もみられる。
源作は山室や内村に、お茶もたびたび送っている。時には、《一、救世軍山室氏より、北支石家荘へ救世軍茶ヤを出す事になり、茶を寄付して貰いたしと、照会あり。茶と茶業連合会にて20貫目寄贈する事になり、右の旨通知せり》(1937年11月10日)というように、寄付の依頼まで受けている。

「物心両面」という言葉がある。まさに源作の支援は資金提供だけではない。1926年3月22日、東京放送局(JOAK)でラジオ放送が始まり、続いて大阪放送局(JOBK)、名古屋放送局(JOCK)が放送開始。6月26日に英米の旅から帰国した山室軍平は、大阪と名古屋の放送に出演した。東京へ出た源作の息子たちがラジオ製造に乗り出していたこともあって、源作たちは苦心して大阪や名古屋の放送を受信し、山室の話しを聴いた。日記には、《一、大阪放送山室氏の講演、黄金律という題でキリストの教え、人にせられんと思うことを人にもせよという趣旨を、労使問題に当てはめ講演せらる(スーパー機にアンテナを取り付けた)》(1926年7月27日)、《一、午後6時半より山室氏講演、名古屋放送にて家族一同にて聴取す。父なる神という題にて》(1926年8月2日)。――静岡放送局開局は1931年3月21日。静岡におけるラジオ受信は容易になった。
10月に入って、二代大将ブラムウェル・ブースが来日。《一、ブース大将東京より名古屋行くを沼津に出迎えのため午前9時23分発にてときを連れ沼津に行く、少し時間あるに付千本浜公園に行く、伊豆半島を望む景色他に比すへき事例なしと云うも過言にあらず愉快なりし。一、午後12時34分特急列車にてブース大将、山室少将其の他の方々着、沼津地方より多勢出迎え5分間計り○感を演せられたり、12時40分発車す、汽車中山室、矢吹、植前、諸氏に面会す、1時30分静岡駅に着、同35分名古屋に向け出発す》(1926年10月26日)、《一、下女鈴木小まん午前4時40分汽車にて今回来日せられたるブース大将名古屋に於いて集会を開く、其参列のため名古屋に行く》(1926年10月27日)。ブースに会った感動が伝わってくるが、下女(漱石の作品にも下女はたびたび登場する。「きよ」と名づけられた下女が多い。下女という表現は現在では望ましいものではないが、当時の呼称を踏襲)の小まんを話しを聴くため、わざわざ名古屋まで派遣していることが注目される。このようなところに源作の思いが表れている。
1936年には軍平の娘民子を静岡に迎えた。日記には、《一、救世軍本営付き山室民子女史、英和学校清水小隊にて講演のため、来岡。本日午後来宅、今晩宿泊せらる》(1936年7月4日)、《一、山室民子、午前8時半より英和女学校にて講演をなす。同10時5分発にて帰京せらる。停車場まで見送る》(1936年7月5日)、と記されている。

追記)※
原崎源作は内村鑑三と時おり書簡を交わしていた。その中の何通かを資料として長男の内村祐之(1897~1980年)に送ったことが、1931年2月21日の日記に《一、故内村先生 手紙5通、北海道札幌 内村祐之氏へ郵送す》と書かれている。内村祐之は精神科医。1927年から北海道帝国大学教授を務めている(~1936年)。
源作はアメリカとの交流の機会が多かったため、野球に対する関心も強く、社内に野球チームも結成され、会社の運動場で練習や試合がおこなわれた。他流試合にも出かけた。1918年9月16日の日記には、《一、米国シアトル 旭野球団 横浜より来たり、静岡同協会主催にて中学校グランドにて試合あり。対6の?で旭の勝ちとなる》との記載がある。じつは、鑑三の長男祐之は大の野球好きで、1919年、第一高等学校の左腕投手として、早慶をねじ伏せる活躍をみせ、1962年にはプロ野球のコミッショナーに就任している。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第14回 山室軍平生誕150年記念①

前回紹介したように、『桜の実の熟する時』にはつぎのような一文がある。
《例の牛込見付から市ヶ谷のほうへ土手の上の長い小径を通って麹町の学校まで歩いて行ってみると、寄宿舎から講堂のほうへ通う廊下のところで、ノオト・ブックを手にした二三の生徒の行過ぎるのが眼についた。その一人は勝子と同姓だった》。
こうなってくると、捨吉の心はときめく。《どこか容貌にも似通ったところがあった。勝子には見られない紅い林檎のような頬から受ける感じは粗野に近いほどのものであったが、それだけ地方から出てきた生地のままの特色を多分にもっていた。その生徒と勝子は縁つづきでもあるのか、それとも地方によくある同姓の家族からでもできているのか、と捨吉は想像した。勝子に縁故のあることは、どんなことでも捨吉の注意を引かずにはいなかった》(11)。
安井勝子のモデルは佐藤輔子(1871~95年)。林檎のほっぺの少女も佐藤姓である。その名は佐藤機恵子(1874~1916年)。輔子が明治女学校を選んだのは、同じ岩手県花巻出身の国会議員佐藤昌蔵(1835~1915年)の娘が在学していたからであるが、機恵子もまた、輔子が明治女学校に在学していたことが入学の決め手になった。生徒の個人情報に触れる機会がある藤村は、輔子への思いから、花巻の三「佐藤」に関心が強く、「みんな親戚だろうか」「花巻には多い姓なのだろうか」と思いめぐらしていたのだろう。
林檎のほっぺの少女はやがて救世軍山室軍平と結婚し、日本における救世軍のリーダーの一人、社会事業家として活躍する山室機恵子になっていった。キリスト教を棄教したと言っても、長い間、明治学院とも関係を持ち続けてきた藤村。私は藤村がキリスト教に不信を抱いて棄教したのではなく、「教師として生徒を好きになる」という神の教えに背いたことに対して、「神に顔向けできない」という思いからの棄教だったのではないかと考える。かつて自分が勤めた明治女学校において、恋心を抱いた佐藤輔子と同じ佐藤姓で、クリスチャンとして立派に生きた機恵子が亡くなったことに、藤村は大きな衝撃を受け、『桜の実の熟する時』に痕跡を残そうとしたのではないだろうか。

1916(大正5)年7月11日、原崎源作は日記につぎのように書いている。

一、救世軍山室大佐夫人、産後具合悪く危篤の趣き 根岸氏より伝え聞く。心配に堪えず。もはやこの上は、神の命を待つのほかなし。神の御心のままになし給え アーメン。
申命記 第34章を読む。

続いて、翌7月12日の日記には、

一、山室夫人今朝死去の報に接し、まことにお気の毒、同情に堪えず。神は静かに山室氏及び同家族を恵み給う御心にて、夫人の死を見ていたりたる事と確信いたし、神よ山室一家族を恵み、多くの子供を御恵みありて、被しなどを慰められん事を祈り上げ候
アーメン。
ヨシュア記 第1章を読む。

原崎源作(1858~1946年)は明治から昭和戦前にかけて、静岡県の茶業をけん引してきた「マルチ人間」。内村鑑三、山室軍平と親交をもち、「地の塩、世の光」として信仰を社会に役立てようとしてきた。源作は内村鑑三と同様、特定の教会に所属せず、メソジスト系教会とも救世軍とも関係を保ち、家庭礼拝を重視した。また、山室軍平と救世軍の社会事業に共感し、自らも視覚障碍者の教育に奔走し、経営する富士製茶会社の社員の教養を高め、福利厚生に努めるなど、行動するクリスチャンであった。大酒飲みが悔い改めることによってクリスチャンになった源作は、救世軍の「断酒」に特に共感していた。
源作は明治中頃から亡くなるまで、ほぼ50年にわたって日記をつけてきた。その半数以上が空襲で焼失したが、1916年から1939年までの日記のうち1920年・1933年・1934年の三か年を除いて現存する。

源作の日記に、救世軍は度々登場する。
《救世軍 早天祈祷会 安西5丁目、河原午前5時半》(1916年1月11日)。《一、午後7時 救世軍小隊に兵士親睦会あり、出席。総員23名、盛会なりし》(1918年2月11日)。《一、午後2時半本郷救世軍小隊に行く。山室、松葉氏に面会、山室氏の塩の説教を聴聞す。かたわら波多野氏を訪問せんと他の婦人に面会し泊まる》(1918年2月17日)。このように静岡市内だけでなく、東京をはじめ各地の救世軍の集まりに顔を出し(波多野傳四郎はメソジスト教会牧師)、《一、午後7時メソジスト教会 クリスマス祭にて出席す。一、救世軍小隊にてもクリスマス執行、7時半出席》(1916年12月25日)というようにクリスマス礼拝にも。
救世軍関係者の来訪も《一、救世軍 根岸氏来訪す》(1916年1月10日)、《一、救世軍伊藤将校 宿泊の事を引き受く。午後10時半小隊より来宅す》(1919年8月1日)のように多く記され、《一、名古屋救世軍小隊 根岸速次君の末子(静岡生まれ男子にて3歳)去る16日より病気のところ、29日終日死去の報に接す。お気の毒同情に堪えず、悔やみ状を出す》(1919年7月31日)のように家族の動静も。
内村鑑三や山室軍平も静岡に用事がある時や、東海道の上り下りに源作を訪ね、宿泊している。その様子は例えばつぎのように記されている。《一、午後3時28分にて、山室軍平氏来着。直ちに自宅に来たりん。名古屋?市民も来たり、夕めしを3人で同食す。午後6時半よりメソジスト教会にて、県庁社界課の主催にて、「社界事業家について」という題にて一時間半講演せらる。それより又救世軍小隊にて、講演あり。10時閉会。名古屋中隊長も来られ、一泊せらる》(1921年9月16日)、《一、山室氏中学校にて午前8時より9時10分迄 学生のために講演せらる。9時40分発にて帰京せらる。停車場迄 見送る》(1921年9月17日)。
このように書いていくと、膨大になる。ここではとくに、源作と山室軍平の私的な関係、山室や救世軍の支援者としての源作に焦点を当てて、日記を紹介していきたい。

島崎藤村から派生して山室機恵子。軍平と機恵子との間には四男四女の子どもがあった。
民子(1900~1981年)
武甫(1902~1980年)
襄次(1904~?年)
友子(1906~1922年)
周平(1909~?年)
光子(1911~1999年)
善子(1913~?年)
使徒(1916~1917年)

機恵子が亡くなり、伝記が出版された。《一、山室夫人伝記(25)東京より来る、諸方に送れり》(1916年9月22日)、《一、山室キエ子伝記を諸方に送りし礼状 数通来る》(1916年9月25日)。さらに記念館がつくられ、《一、東京救世軍 山室氏より故山室機恵子記念館 新築費の中へ寄付金をなしたるところ、その礼状と領収書送り来る》(1916年12月29日)。この後も度々触れられるが、源作は出版物の普及、資金提供の面などで、山室と救世軍の大きな支援者であった。
1917年、源作は山室を訪ねた。《一、救世軍本営に山室氏を訪問、明日を約し辞し?屋小隊に逢坂氏を訪問す》(1917年2月16日)、《一、救世軍本営に山室氏訪問、同屋にてキエ子墓地及び山室宅に子供を訪い、午後6時麻布六本木にて波多野氏に出向、山室氏と別れ、波多野氏と牛肉屋にて夕めしを同食せり》(1917年2月17日)、《一、救世軍山田中校来訪、昨夜に中野療養所に止、同所を参観す。松田院長の案内にて諸方を見、又昼めしの馳走になる。1時半同所を辞し、帰途山田氏と大久保にて別れ、内村氏を訪問し一時間話をなし、電車にて救世軍本営小隊に止まり、山室氏の説教を聴聞し、午後5時同所を出る。一、駒込教会で波多野氏を訪問せしを、不在にて妻君に面会す》(1917年2月18日)。とにかく東京へ出てきたら、あっちにもこっちにも顔を出したいところはたくさんある。内村鑑三にも会い、山室軍平にも会い、メソジスト教会波多野傳四郎牧師のもとも訪ねる。けれども、一番の思いは機恵子、そして母を亡くした子どもたちへの慰めであっただろう。
4月になって山室軍平は渡英した。欧州大戦(1914~18年)の最中である。《一、渡英中の山室軍平氏より、本日5月20日ノルウェー首都クリスチーナ(オスロの旧称)よりハガキ来る。丁度百日目に届く。同氏は目下米国御在との事》(1917年9月2日)、《一、山室軍平氏 英国より帰途米国を経て、かの地にて伝道をなし、各所にて歓迎せられたりと木下より申し来る。同氏は来る20日頃入港のサイベリア号にて、帰国せらると》(1917年9月9日)、《一、救世軍大佐 山室軍平氏、英国より米国を経て、今朝9時サイベリア号にて帰朝せらる》(1917年9月18日)、《一、山室軍平君 帰朝の喜び状を出す》(1917年9月19日)、《一、山室軍平氏末子使徒君、本月2日永眠の事をトキの新聞紙上にて承知、遅ればせながら、悔やみ状を出す》(1917年9月21日)、《一、救世軍デ・クルート大佐、山室大佐、大阪行き。12時41分通過につき、停車場に迎え両君に面会す》(1917年9月24日)。ノルウェーから100日かかってハガキが届いたというが、第一次世界大戦中によく届いたものである。シベリア鉄道を経由したのかもしれないが、1917年と言えば、ロシア革命が劇的に進行している時期である。それにしても、機恵子の生命と引き換えに生まれたような使徒君が、一年ほどで、しかも父親が不在の中で亡くなってしまった。源作は日記に家族・親戚・知人などの病気や死亡について、かなり多く記しているが、特に幼子の死に関しては格別の情を表している。
藤村も三人の子を失い、産後の妻も失っている。1917年の秋、藤村は帰国から一年余。風流館に移り『桜の実の熟する時』の執筆にも取り組んでいた。
出産も含め、女性が亡くなる例は多かった。源作も妻を亡くしており、明治女学校出身の輔子も機恵子も藤村より先に亡くなったし、妻冬子も同様である。石井十次も妻を亡くし、すぐに再婚している。藤村はすぐに再婚しなかったために姪との間に関係ができ、『桜の実の熟する時』執筆中にも復活していた。山室軍平は比較的早く再婚に至った。子育てと救世軍の活動にどうしても伴侶は必要だった。源作は日記につぎのように記している。
《一、山室軍平氏より(志を言う)という再婚の件で、印刷物にて送り来たり、即読す》(1917年10月24日)、《一、山室軍平氏 本日結婚につき出席のため、上京す》(1917年11月1日)。軍平は水野悦子(1884~1937年)と再婚した。悦子との間には五女徳子(1918年生まれ)、五男潔(1921年生まれ)が誕生している。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第13回 『桜の実の熟する時』に描かれた東京③

《麹町に住む吉本さんの家を指して、捨吉は田辺の留守宅のほうから歩いて行った》(9)。吉本とは藤村を明治女学校に招いた巌本善治のことであろう。木村熊二とともに明治女学校の設立に尽力し、1887年に教頭に就任している。
《彼は久松橋の下を流れる掘割について神田川の見えるところに出、あの古着の店の並んだ河岸を小川町へととり、今川小路を折れ曲った町の中へはいって行った。京橋日本橋から芝の一区域へかけては眼をつぶっても歩かれるほど町々を暗記じていた彼にも、もう神田へはいるとたまにしか歩いてみない東京があった》。どうやら、藤村に道案内してもらえば、迷うことはなさそうだ。
捨吉は浜町川に沿って北西に、小川橋、鞍掛橋、神田区に入って橋本橋と過ぎ、柳原橋のところで神田川へ出た。神田川沿いに柳原河岸を和泉橋、万世橋、須田町から淡路町、そして小川町へ。この場面の設定時期は1891年9月下旬である。この年の3月には神田駿河台にニコライ堂が完成していた。捨吉は裏神保町から今川小路へ。まだ路面電車が走る前で、東西を貫く道路(現在の靖国通りの前身)がつくられていないので、道も折れ曲っている。《今川小路と九段坂下との間を流れる澱み濁った水も彼の眼についた》。この流れ。神田川から分流し外堀をなして、再び河川として隅田川へ流入する日本橋川である。この先、吉本宅への道順は書かれていないが、麹町区に入って九段の坂を上り、番町へむかったと思われる。
10月19日。前年上京していた泉鏡花は憧れの尾崎紅葉に面会し、入門を許され、翌日から神楽坂の紅葉宅での生活が始まった。
翌年3月。徳田秋聲が初めて上京。4月に入って、いっしょに上京した桐生悠々と共に紅葉宅を訪問。玄関番をしていた鏡花は、紅葉不在を告げた。その4月。岸本捨吉こと島崎藤村は明治女学校に就職し、紅葉の住む神楽坂に下宿。牛込区赤城元町34番地で、赤城神社の東側で、北へむかって下って行く地形。
《捨吉は田辺の留守宅から牛込のほうに見つけた下宿に移った。麹町の学校へ通うには、恩人の家からではすこし遠過ぎたので》。《牛込の下宿は坂になった閑静な町の中途にあって、吉本さんと親しい交りのあるというある市会議員の細君の手で経営せられていた》(11)。
藤村は明治女学校までの通勤経路を記している。《牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うにちょうど好いほどの距離にあった。崩壊された見付の跡らしい古い石垣に添うて、濠の土手の上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見いだされる。その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹蔭が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向こうに見える樹木の多い市ヶ谷の地勢の眺望はいっそうその通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった》(11)。神楽坂を下って、現在の神楽坂下、飯田橋駅のところから外濠を越え、牛込見付。1894年の甲武鉄道新宿・牛込間開業をめざして、工事が始まろうとしている。外濠に沿って土手を新見付、市ヶ谷見付へと。牛込台が一望である。このあたり、私はやはり外濠に沿って桜咲く頃が一番好きである。
市ヶ谷見付から帯坂(切通坂)を上って、右折して100m少し行き、左折して中六番町(現、四番町)と下六番町(現、六番町)の境界を歩むこと約200m。二筋目右角が明治女学校。現在の日本テレビ通りと番町文人通りの交差点北西角(文人通りの案内板が立っているところ)。
《麹町のほうまで歩いて、ある静かな町の角へ出ると、古い屋敷跡を改築したような建築物がある。その建築物の往来に接した部分は幾棟かに仕切られて、雑貨を鬻ぐ店がそこにある。角には酒屋もある。店と店の間に挟まれて硝子戸の嵌った雑誌社がある。吉本さんの雑誌はそこで発行されている。こうした町つづきの外郭の建築物は内部に隠れたものをとりまきながら、あだかも全体の設計としての一部を形造っているように見える。二つある門の一つを潜って内側の昇降口のところへ行くと、女の小使が来て捨吉に上草履を勧めてくれる》。
後に藤村が親しく交わる有島生馬。有島一家が明治女学校すぐ西の一角に、広大な旧旗本屋敷を買い取って住むようになったのは1896年。藤村が勤めていた当時、有島邸はまだなかった。明治女学校は1896年に焼失した。

この明治女学校で藤村は佐藤輔子(1871~95年)に恋をする。『桜の実の熟する時』の記述にしたがえば、「安井お勝さん――あの人も好い生徒だそうですね」と「勝子」の名を聞いただけで思わず捨吉は紅くなり、下宿に帰っても、自分の部屋を歩きながら、勝子の名を呼んでみる。
そして、とうとう、《例の牛込見付から市ヶ谷のほうへ土手の上の長い小径を通って麹町の学校まで歩いて行ってみると、寄宿舎から講堂のほうへ通う廊下のところで、ノオト・ブックを手にした二三の生徒の行過ぎるのが眼についた。その一人は勝子と同姓だった》。こうなってくると、すべて良く見えてくるのか、《どこか容貌にも似通ったところがあった。勝子には見られない紅い林檎のような頬から受ける感じは粗野に近いほどのものであったが、それだけ地方から出てきた生地のままの特色を多分にもっていた。その生徒と勝子は縁つづきでもあるのか、それとも地方によくある同姓の家族からでもできているのか、と捨吉は想像した。勝子に縁故のあることは、どんなことでも捨吉の注意を引かずにはいなかった》(11)という状態に。
捨吉と言うか、藤村と言うか、気持ちはよくわかる。今も昔も恋心というものは変わらないもののようだ。
ところで、ここで出てきた「勝子と同姓」の女性。現実には佐藤輔子と同じ岩手県花巻出身の佐藤機恵子(1874~1916年)。父庄五郎の勧めで、1891年に上京し、花巻出身の国会議員佐藤昌蔵(1835~1915年)の娘が在学していた明治女学校に入学した(佐藤昌蔵の娘も佐藤姓であるから、モデルとも考えられるが、父について各地転じているので、ここで言う「地方出」の雰囲気はもっていなかっただろう)。機恵子は輔子より三つ年下で、1893年に普通科、95年に高等文科を卒業している。1899年、救世軍の山室軍平(1872~1940年)と結婚。廃娼運動などに尽力し、激務の中、1916年7月12日に亡くなった。藤村がフランスから帰国した月である。
藤村が『桜の実の熟する時』の最終章11を執筆していたのは、1917年と考えられる。藤村は何らかの形で、明治女学校卒業生である機恵子を作品の中に残したいと思ったのではないだろうか。機恵子の夫、軍平は藤村と同い年であり、藤村の気持ちが輔子ではなく機恵子にむいていれば、結婚もありえただろう。人生の伴侶、不思議なものである。


【お知らせ】
藤村の作品としてはこの後『分配』を取り上げますが、次回からは少し脇道へ。今年は藤村生誕150年であるとともに、山室軍平生誕150年でもあるので、佐藤(山室)機恵子をきっかけに、「山室軍平生誕150年」の特集を2回ないし3回にわたって特集します。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第12回 『桜の実の熟する時』に描かれた東京②

『桜の実の熟する時』に田辺として登場する吉村家は、藤村の父正樹が亡くなった翌年にあたる1887年、日本橋浜町3丁目1番地に引越した。寄宿する島崎藤村は9月から明治学院へ通い始めた。当時の日本橋浜町3丁目1番地は現在の日本橋箱崎町30~44番全域にあたるため、番地だけで吉村家があった場所を特定することはできない。その後、吉村家は日本橋浜町2丁目11番地に引越した。現在も日本橋浜町2丁目で、関東大震災後、浜町公園がつくられている。
11番地は浜町公園前の通り付近から北側、浜町川から隅田川まで帯状に延びる一帯。浜町川は1972年までには埋め立てられ緑道になっているが、浜町川には蠣濱橋が架かり、そのひとつ上流の久松橋の前には明治座があった(明治座は関東大震災で焼失後、100mほど東に移転し、現在地に1928年に再建された)。明治座は1873年に喜昇座として設立後、久松座、千鳥座と改称を繰り返し、1890年に焼失。その後、再建され、1893年に明治座と改称した。蠣濱橋と久松橋の間の浜町河岸周辺には、江戸時代、芝居小屋や遊郭が多かった。
1890年、3学年を終えて夏休みになり、吉村の家に帰る藤村。『桜の実の熟する時』は当時の日本橋浜町界隈を克明に描いている(2)。日本橋小伝馬町で乗合馬車を下車した捨吉。《人形町の賑かな通を歩いて行って、やがて彼は久松橋の畔へ出た。町中を流れる黒ずんだ水が見える。空樽を担いで陸から荷舟へ通う人が見える。竈河岸に添うて斜に樽屋の店も見える。何もかも捨吉にとっては親しみの深いものばかりだ。明治座は閉っているころで、軒を並べた芝居茶屋まで夏季らしくひっそりとしていた。そこまで行くと田辺の家は近かった。表の竹がこいの垣が結い換えられ、下町風の入口の門まですっかり新しくなったのがまず捨吉の心を引いた》。
日本橋小伝馬町の停留所は、現在の地下鉄日比谷線小伝馬町がある小伝馬町交差点付近。ここから人形町の通りを現在の人形町交差点まで来て左折。300mほどで小川橋。橋を渡って右折して浜町川沿いに、まもなく久松橋。この辺りから蠣濱橋にかけての浜町川両岸が浜町河岸。江戸時代から芝居小屋が多かった。藤村は一般的にわかりやすいと思って明治座の名称を使っているが、1890年当時はまだ千鳥座で、焼失した後だった。久松橋の畔から西へ入り込む水路は竃(へっつい)河岸と呼ばれ、かつて竃をつくる家が多かったところから名づけられたとも。延長200mほどの水路は、吉原遊郭の曲輪の一部とも言われる。この竃河岸、1888年に廃止され埋め立てられたことになっている。けれども藤村が設定した1890年に、水路はまだ残っている。おそらく順次埋め立てられ、1905年には完全に埋め立てられたと考えられる。1907年の地図から竃河岸は完全に消えている。いずれにしても、藤村によって、この界隈の貴重な情景が残されたことになる。久松橋から近いということで、吉村家は現在の明治座付近にあったのではないだろうか。
吉村家の位置を推定するもう一つの手がかりは、兄の下宿から経路である。『桜の実の熟する時』で、民助兄(長兄秀雄がモデル)の下宿に母が来ているということで、訪れた捨吉。《障子の嵌硝子を通して隅田川の見える二階座敷で、親子は実に何年ぶりかの顔を合わせた》(5)。次の朝(6)。《本所か深川のほうの工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた》。《お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外はすぐ大橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右にして、夏中よく泳ぎに来た水泳場の附近に沙魚釣の連中の集まるのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くというだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室について折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこは釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でもわずかな閑を見つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。捨吉は自分でも好きなその道をとって、田辺の家のほうへお母さんを案内して行った》。
当時、新大橋は隅田川が浜町地先で大きく曲がるあたり、現在の下水道局浜町ポンプ所付近から、対岸の芭蕉記念館(現、江東区常盤1丁目6-3)付近に架けられていた。当時、深川西元町で、南下して萬年橋で小名木川を越え、やがて清住町へ入ると深川セメント(浅野セメント)の工場がある。この地域は工場が多い。捨吉たちは隅田川を右に見ているので、上流へむかって浜町河岸を歩いている。この辺りの隅田川、両国橋にかけて江戸時代から水泳場(水練場)になっており、今流に言えば、スイミングスクールがいくつもみられた。現在新大橋が架けられている地点を過ぎ、浜町公園裏を通り、左折して区営浜町運動場へ入った辺りから旧日本橋浜町2丁目11番地が浜町川まで続く。直通する道は2本。田辺の小父さんこと吉村忠道はこの道を通って隅田川へ釣りに出かけたのであろう。
吉村家を推定するもう一つの記述がある。《暑い日あたりの中を捨吉は走るようにして歩いて行った。水泳場のほうへ通い慣れた道をとり、二町ばかり行って大川端の交番のところへ出ると、そこから兄の下宿も見える。河岸に面した二階の白い障子も見える。ちょっと声をかけて行くつもりで訪ねると兄は留守で、奥の下座敷のほうに女の若い笑声なぞも聞こえていた》。当時、大川端の交番は11番地の北端が隅田川に出たところ、現在の浜町公園北端部付近にあった。つまり、ここからおよそ200m入ったところに吉村家があったことになる。この記述からも現在の明治座付近が浮び上がる。
藤村は隅田川水泳場についても、つぎのように記している。
《岸の交番のならびには甘酒売なぞが赤い荷を卸していた。石に腰掛けて甘酒を飲んでいるお店者もあった。柳の並木が茂りつづいている時分のことで、岸から石垣の下のほうへ長く垂下った細い条が見える。その条を通して流れて行く薄濁りのした隅田川の水が見える。裸体で小舟に乗って漕ぎ廻る子供もある》。捨吉は隅田川を泳ぎ越すくらいはできる。河蒸気が残して行く高い波がやって来る。しかし、都会を流れ下る隅田川はけっして風情のあるものではないようだ。《旧両国の橋の下のほうから渦巻き流れてくる隅田川の水は潮に混って、川の中を温暖く感じさせたり冷たく感じさせたりした。浮いてくる埃塵の塊や、西瓜の皮や、腐った猫の死骸や、板片と同じように、気にかかるこの世の中の些細なことは皆ずんずん流れて行くように思われた》(4)。このような水の中で泳いでほんとうに大丈夫なのか。漱石も泳いだのだから、大丈夫と思いたい。藤村は永田水泳場(永田流)で水泳を学び、泳力をつけていった。

ところで、『桜の実の熟する時』を読んで気づくのは、学校のある高輪と田辺の家がある日本橋との往来の経路や交通手段が、いたるところで極めて克明に書かれていることである。年代によって交通手段も違い、徒歩から市電への変遷が実によくわかる。私が抱いていた疑問に完璧に答えるものである。だいたい、このような経路、多くの読者にとって、どうでも良いことであり、多くの文芸評論家も読み過ごしてきたことだろう。そもそも、途中でどこかへ寄ったり、何か出来事が起こるならともかく、高輪・日本橋間の移動経路など省略しても作品理解に何ら支障がないのである。高輪の地形を克明に描いたことと合わせて、これはもう、藤村自身が「地理屋」の視点をもっていた表れではないかと、思わざるを得ない。急に親しみが湧き、私は嬉しくなる。
◆夏休みになり、学校の寄宿舎から田辺の家に帰る捨吉。(2)
《明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものもないころであった。学校から田辺の家まではおよそ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身にとって何でもなかった。よく捨吉は岡つづきの地勢に添うて古い寺や墓地のたくさんにある三光町よりの谷間を迂回することもあり、あるいは高輪の通を真直に聖坂へととって、それから遠く下町のほうにある家を指して降りて行く》。
その日はどうだったかと言うと、伊皿子坂(いさらござか)の下で乗合馬車に乗車。新橋で乗換えて日本橋小伝馬町で乗合馬車を下車。日本橋小伝馬町から人形町の賑やかな通りを歩き、久松橋の畔へ出ると、田辺の家は近い。
いつも同じ道ではおもしろくないので、その日の気分や状況などによって、さまざまな経路を選んだようである。「岡つづきの地勢に添うて古い寺や墓地のたくさんにある三光町よりの谷間を迂回する」経路は、寄宿舎を出て、今里町の通りを下り、覚林寺(清正公)の前に出て、西照寺の前を北へ進むと三光町。現在の白金2丁目、3丁目。立行寺の交番のところで右折して、寺々を見ながら三田の慶應義塾をめざす。「高輪の通を真直に聖坂へととって」歩く経路は、覚林寺のところで右折して天神坂を上り、教会の前で左折して二本榎通りを直進すると、そのまま聖坂を下る。慶應義塾のすぐ南に出る。聖坂の途中、高輪御用地(現、高松宮邸)前を過ぎ、左から魚籃坂が上ってくるところ(現、伊皿子交差点)で右折すると伊皿子坂。眺望の良い坂を下ると東海道。高輪ゲートウェイ駅や泉岳寺駅のすぐ北にあたる。ここで品川・新橋を結ぶ乗合馬車に乗ることが出来る。
◆夏期学校へ行くため田辺の家から学校へ向かう。(3)
《学校まで捨吉は何にも乗らずに歩いた。人形町の水天宮前から鎧橋を渡り、繁華な町中の道を日影町へととって芝の公園へ出、赤羽橋へかかり、三田の通りを折れまがり、長い聖坂に添うて高輪台町へと登った。》《聖坂の上から学校までは、まだかなりあった。谷の地勢をなした町の坂を下り、古い寺の墓地についてまた岡の間の道を上って行くと、あたりはもう陰鬱な緑につつまれていた。寄宿舎の塔が見えてきた》。
捨吉は田辺の家を出て蠣濱橋まで来ると、浜町川に沿って、ひとつ下流の中ノ橋を渡り、水天宮の前から鎧橋を渡り、この後は京橋・銀座の繁華な街を裏道、近道など使いながら、新橋まで来て、芝口から日影町(日陰町)へ。現在の新橋駅汐留口駅前一帯。愛宕下町を通って芝公園へ入り、南端を抜けて古川に架かる赤羽橋を渡って500mあまり南下すると、右手に慶應義塾。ここから少し折れて聖坂にさしかかる。坂下は海抜およそ5m、坂上は25m。坂を上り始めて、すぐ右手に普連土女学校(現在の普連土学園中学校・高等学校)がある。藤村が明治学院に入学した1887年に創立された。後に、室生犀星の長女朝子が入学した。捨吉は浅見先生の教会があるところまで来て、右折して天神坂を下り、覚林寺のところから今里町の道を上って行く。
◆母が上京したというので、学校から田辺の家に向かう。(5)
土曜日の午後、秋雨あがりの中、寄宿舎を出る。《取りあえず伊皿子坂で馬車に乗って、新橋からは鉄道馬車に乗換えて行った》。新橋から日本橋、浅草を結ぶ鉄道馬車(馬車鉄道)は1882年に開業している。おカネはかかっても、早く母に会いたいという気持ちが伝わって来る。
◆母と別れて田辺の家をあとに、学校へ向かう。(7)
《お母さんに別れを告げて、捨吉は田辺の家を出た。学校の寄宿舎を指して通い慣れた道を帰って行く彼の心は、やがていっしょに生長って行った年の若い人たちの中を帰って行く心であった。明治座の横手について軒を並べた芝居茶屋の前を見て通ると、俳優への贈物かとみゆる紅白の花の飾り台なぞが置かれ、二階には幕も引き廻され、見物の送迎にいそがしそうな茶屋の若い者が華やかな提灯の下を出たりはいったりしていた。田辺の小父さんばかりでなく、河岸の樽屋までも関係するという新狂言の興行がまたはじまっていた。久松橋にさしかかった。若い娘たちの延びてきたにはさらに驚かれる》。《捨吉は人形町への曲り角まで歩いた》。江戸時代から芝居小屋が多かった浜町河岸の様子が伝わってくる。明治座は当時千鳥座で、焼失していた。
捨吉は竃河岸に沿うように人形町の通りまで出て、さらに現在の人形町交差点にあたるところから左折し、芳町へ。この辺一帯、江戸時代の「葭原(吉原)(葭原)」遊郭の地。《その日は、捨吉は芳町から荒布橋へととって、》《小舟町を通りぬけて捨吉はごちゃごちゃと入組んだ河岸のところへ出た。荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣れた市街の中でもその辺はことに彼が好きで歩いて行く道だ。鎧橋のほうから掘割を流れてくる潮、往来する荷船、河岸に光る土蔵の壁なぞは、いつ眺めて通っても飽きないものであった》。この地域を貫流するのが隅田川に流入する日本橋川。江戸橋が架かる辺り、北へ二本の水路が入り込み、南に楓川が三十間堀、八丁堀へ延びている。東側の北水路には親父橋、西側の方に荒布橋が架かり、この間が小舟町で、日本橋川沿いは末廣河岸。まさに「ごちゃごちゃと入組んだ河岸」である。江戸橋の一つ下流の橋が鎧橋。この辺りでも東京湾の干満の影響を受ける。「鎧」があるなら「兜」も。楓川に架かるのが兜橋。末廣河岸の対岸、この二つの橋の間にあるのが、日本橋兜町の東京証券取引所。藤村は江戸・東京の経済活動の中心地を巧みに描き出している。
江戸橋から西へ数百mで日本橋。《いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通う日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町のほうへ廻って、そこで品川通いのがた馬車を待つかした》。
ところが捨吉は、《その日は何も乗らずに学校まで歩くことにして、日本橋の通りへかからずに、長い本材木町の平坦な道を真直にとって行った》。江戸橋をまっすぐ南へ。楓川に沿って京橋川まで本材木町が続く。1丁目、2丁目は日本橋区、3丁目は京橋区で確かに長い。捨吉は白魚橋のところから京橋へむかい、銀座通りへ入って行く。《京橋から銀座の通りへかけて、あの辺は捨吉が昔よく遊び廻った場処だ。十年の月日はまだ銀座の通りにある円柱と円窓とを按排した古風な煉瓦造の二階建の家屋を変えなかった》。この後へ銀座通りの描写、さらには思い出話が続く。《こうした月日のことを想い起しながら、捨吉は遠く学校の寄宿舎のほうへ帰って行った。芝の山内を抜けて赤羽橋へ出、三田の通りの角から聖坂を上らずに、あれから三光町へととって、お寺や古い墓地の多い谷間の道を歩いた。清正公の前まで行くと、そこにはもう同じ学校の制帽を冠って歩いている連中に逢った》。
捨吉は新橋まで来て、すでに紹介した芝口から日影町(日陰町)、愛宕下町、芝公園、赤羽橋を渡って三田の慶應義塾に至る経路を歩く。ここから三光町経由に変わり、寺々を見ながら立行寺の交番のところで左折し、三光町を通って西照寺の前から覚林寺(清正公)。今里町の通りを寄宿舎めざす。
藤村。じつにさまざまな経路を描いてくれた。今なら吉村の家から都営地下鉄浅草線人形町駅まで徒歩5分。そこから高輪台駅まで一本で約16分。下車して明治学院まで徒歩5分。計30分ほどで着く。距離はおよそ8km。徒歩が基本の時代。若者の足なら1時間半もあれば、着いただろう。子どもの頃から、東京の中心街で生活した藤村。「木曽路の作家」と言うより「東京の作家」と言う感が強くする。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第11回 『桜の実の熟する時』に描かれた東京①

『新生』(1918~19)に続いて取り上げるのは、『桜の実の熟する時』(1914~1918)である。この作品も『新生』同様、岸本捨吉の名を借りた藤村の自伝的小説で、作品の設定時期、書かれた時期ともに『新生』に先立つもので、『新生』を扱う前に『桜の実の熟する時』を取り上げるべきであった。この逆転は、「姪との禁断の恋」などというイメージに惹かれて、ひたすら『新生』に向い、『桜の実の熟する時』の存在すら眼中になかった素人の浅はかさのなせる業である。

『桜の実の熟する時』は、岸本捨吉が品川から高輪の学校(明治学院がモデル)へむかう場面から始まる。もうすぐ夏休み。2に入ると夏休みで、寄宿舎を後に田辺(吉村がモデル)の家に帰る捨吉。3になると捨吉は夏期学校に参加するため再び高輪へ。4になると、捨吉は田辺の家に戻り、夏休みの続きを過す。5は夏休みが明け、4年に進級。5の終わりから6にかけて、捨吉の母が上京して来るということで、大川端の民助兄(長兄秀雄がモデル)の下宿へ。
前半は高輪の学校時代と言うことで、捨吉の学校の友人として、菅(戸川秋骨がモデル)、足立(馬場孤蝶がモデル)がしばしば登場する。8になると、捨吉は16歳の秋から20歳の夏までを送った学窓を離れ、田辺の家に戻るが、田辺の小父が横浜に店を出すということで、そのまま手伝いに横浜へ。
けれどもこの仕事を一生のものにしたいと思わない捨吉は9に入って動き出す。10になると、捨吉は吉本(巌本善治がモデル)を通じて青木(北村透谷がモデル)を知る。そしてついに捨吉は麹町の学校(明治女学校がモデル)に教職を得る。11では捨吉が牛込の下宿から通っていることが記される。やがて捨吉は安井勝子(佐藤輔子がモデル)という名前を聞いただけで顔が紅くなることに気づく。結局、教師が生徒を愛する罪悪感にさいなまれた捨吉は、教職を去り、12で芭蕉よろしく流離の旅に出る。途中、捨吉は興津清見寺の五百羅漢に勝子の面影を宿す一体をみつけた。捨吉は京に向かう。
こうして『桜の実の熟する時』は終わる。勝子の件はあまりにもあっさりしている。勝子の手を握ったとか、抱きしめたとか、そのような絡みはいっさい描かれていない。実際、藤村と輔子の間にそのようなことはなかったのだろう。思いだけ募って自ら果てた純情さだけが伝わってくる。これは事実なのか、それとも藤村による演出なのか。

『桜の実の熟する時』は、藤村の明治学院時代から明治女学校を辞めて旅に出るまでを題材にしているので、東京の中でよく描かれるのは、
明治学院とその周辺
寄宿する吉村家のある日本橋界隈
明治女学校とその周辺
以上、三つの地域である。それとともに、藤村は明治学院と吉村家の間の移動、明治女学校への通勤コースについても、かなり詳しく描いている。

明治学院とその周辺

明治学院のある高輪・白金地域は、藤村一家が二本榎西町に住んでいたので、すでに『新生』において取り上げた。けれども、『桜の実の熟する時』では学校や寄宿舎、浅見先生(木村熊二がモデル)の家、教会などが主であり、時期的にも違いがあるので、再度取り上げることにしたい。

『桜の実の熟する時』では捨吉が品川から高輪へしだいに近づいて行く様子が描かれている(1)。品川停車場手前から高輪へ通う抜け道を上って行く。《迫った岡はその辺で谷間のような地勢をなして、さらに勾配の急な傾斜のほうへと続いて行っている》。繁子を載せた人力車が捨吉を追い越して行く。繁子は捨吉の心をときめかせた五つ年長の女性である。《繁子を載せた俥はちょうど勾配の急な坂にかかって、右へ廻り、左へ廻り、崖の間の細い道をわずかばかりずつ動いて上って行った》。車夫はたいへんである。海岸線に近い品川停車場から、台地上は海抜25mくらいになる。《岡の上へ捨吉が出たころはもう繁子の俥は見えなかった》。その道は一方、御殿山へ続き、一方は奥平の古い屋敷を迂回して高輪の通りへ続いているが、広い邸内は自由に通り抜けでき、捨吉は通り抜けを選ぶ。
品川から高輪台へ上る場合、鍵の手に折れ曲がった柘榴坂を通るのが一般的だった。この坂の北側は松平薩摩守下屋敷、南側が有馬家下屋敷。幾多の変遷を経て、現在では北側に新高輪ホテル、南側に品川プリンスホテル。『桜の実の熟する時』設定時期には、江戸時代からの柘榴坂は消滅し、捨吉は「高輪へ通う抜け道」を通っているので、有馬家下屋敷の南側の崖下に添うように西行する道であろう。最後、かなり急に台地へ上る。上ったところで左折すると御殿山へ通じる。右折して北行すると、右側が有馬家下屋敷、左側が奥平家下屋敷(豊前中津藩)。すでに大名屋敷は明治政府に接収され、用途や土地の所有者も変遷していく。奥平邸も一時、高輪御所として使用されたことがある。柘榴坂は後に復活し、直線化した。新坂とも呼ばれる。
《浅い谷を隔てて向うの岡の上に浅見先生の新築した家が見えた》。浅見先生の家(つまり、木村熊二の自宅)は奥平邸の西側。巌谷小波(1870~1933)が1907年から住んだ家は、現在の住所で「高輪4丁目1-18」になっているので、同じ地区であろう。当時、高輪南町の一部だった。藤村はかなり細かな地形まで描いている。《彼は浅い谷の手前から繁茂した樹木の間を通して、向うに玻璃戸のはまっている先生の清潔な書斎を、客間を、廊下を、隠れて見えない奥さんの部屋まで、それを記憶でありありと見ることができた。》《彼は先生の家の周囲を歩くというだけで満足して、やがて金目垣に囲われた平屋造りの建物の側面と勝手口の障子を眺めて通った》。
この後、《学窓をさして捨吉は高輪の通りを帰って行った。繁子が監督している小さな寄宿舎のあるあたり、亜米利加の婦人の住む西洋風の建物を町の角に見て、広い平坦な道を歩いて行くと、幾匹かの牛を引いて通る男なぞに逢う。まだ新しい制服を着て、学校の徽章の着いた夏帽子を冠った下級の学生が連れだって帰って行くのにも逢う》。《学窓に近づけば近づくほど捨吉はいろいろな知った顔に逢った。みんなが馴染みのパン屋から出て来る下級生なぞがある》。
東京市のはずれ、農村色の濃い地域の様子が表れている。「繁子が監督している」と出て来るのは、現在の頌栄女子学院(1884年創立。1888年には木村熊二が校長に就任している)を念頭においてのことだろう。当時、桜田通りがないので、「高輪の通り」というのは二本榎通りであろう。高輪台の幹線道路で、台地上を通るので概ね平坦である。当時はかなり広く感じられたのだろう。
この地域、泉岳寺や東禅寺を中心に、その周辺、寺院が多い。《界隈の寺院では勤行の鐘が鳴りはじめた。それを聞くと夕飯の時刻が近づいたことを思わせる。捨吉は学校の広い敷地について、亜米利加風な講堂の裏手のところへ出た。樹木の多い小高い崖に臨んで百日紅の枝なぞ垂下っている》。
南からやって来た捨吉は、二本榎通りから三叉路を左折。現在では十字路になり、南東角に高輪警察署が建っているところで、200mほど行って現在の明治学院前交差点。捨吉はここで右折したと思われる。学校の東側に沿う道は現在の桜田通りにあたるが、当時は荷車がすれ違えるかどうかの道幅。まもなく左折して校地へ入った。起伏に富んだ一帯は庭園になっており、その向こう、前方に講堂も入っているサンダム館が建っている。坂を通って右折。北へむかって歩く。まもなく、右手に神学部校舎兼図書館、続いて宣教師館、左手に広々とした運動場。サンダム館が後方左に遠ざかり、寄宿舎のヘボン館が前方左に近づいて来る。
『桜の実の熟する時』で描写される学校の様子は、当時の明治学院をかなり正確に反映している。1886年に創立が決定された明治学院。当時は森と湿地と麦畑が広がる白金の現在地に、広大な土地を得て開校したのが1887年。藤村は一期生だった。校舎のサンダム館と寄宿舎のヘボン館が建てられ、1889年に宣教師館(インブリー館)、1890年には神学部校舎兼図書館が建設され、この間、校地の南西部に3棟のアメリカ人教師住宅が相次いで造られた。
このような情景はつぎのように描かれている。学校へ戻って来た捨吉。食堂で夕食を済ませ、寄宿舎へ。《窓のところへ行ってみると、食事を済ました人々が思い思いの方角をさして広い運動場を過ぎつつある。》《向うの講堂の前から敷地つづきの庭へかけて三棟並んだ西洋館はいずれも捨吉が教を受ける亜米利加人の教授たちの住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いている先生方の奥さんも見える。夕方の配達を済ました牛乳の空罐を提げながら庭を帰って行く同級生もあった》。
以上、当時の校地の様子をまとめると、南北に長い長方形の校地。北部にヘボン館。東部に宣教師館(インブリー館)、その南に神学部校舎兼図書館。この二つの建物の間を抜けると正門があり、北へ緩やかに下る今里町の通りへ出る。南東部は起伏に富んで庭園がつくられ、運動場をはさんでヘボン館と相対する位置にサンダム館、さらに西へ行って、南西部にバラ館・ライシャワー館・ランディス館と呼ばれる3棟の宣教師館(教員住宅)が建っている。西側は崖地で、林や竹林が見られる。
学校の情景はその後、3、7、8でも描かれている。
夏期学校のようすを描いた3では、捨吉と菅は連れだって寄宿舎を出て、《平坦な運動場の内を歩いて行った。講堂のほうで学校の小使が振り鳴らすベルの音は朝の八時ごろの空気に響き渡りつつあった。運動場の区画は碁盤の目を盛ったような真直な道で他の草地なぞと仕切ってあって、向うの一角に第一期の卒業生の記念樹があればこちらの一角にも二学期の卒業生の記念樹が植えてあるというふうに、ある組織的な意匠から割出されてある。三棟並んだ亜米利加人の教師の住宅、殖民地風の西洋館、それと相対した位置に講堂の建物と周囲の草地とがある》。捨吉は入口の石段を上って階上の講堂、チャペルへ。捨吉が入ったのはサンダム館。木造三階建で教室などとともに、二階には400人程度収容できる講堂がある。
4年生になってある日。捨吉と足立は築地へ帰ろうとする菅と寄宿舎の窓から外を眺める。完成間もない神学部校舎兼図書館(現記念館)は、《赤い着物を着せた子供の手を引きながら新築した図書館の建物の側を歩いて行く亜米利加人の教授の夫人も見える。》《向うの校室の側面にある赤煉瓦の煙筒も、それから人間が立つかのように立っている記念樹も暮れてきて、三棟並んだ亜米利加人の教授たちの家族が住む西洋館にはやがてチラチラ燈火の点くころまでも》。《捨吉にはもう一つ足の向く窓がある。新しく構内にできた赤煉瓦の建物は、一部は神学部の教室で、一部は学校の図書館になっていた。まだペンキの香のする階段を上って行って二階の部屋へ出ると、そこにたくさん並べた書架がある》と描写されている。
そして、7の最後は卒業。《一同は校堂を出て、その横手にある草地の一角に集まった。みなで寄って集ってそこに新しい記念樹を植えた》。8で捨吉は《半分夢中で洗礼を受けた高輪の通りにある教会堂からも、はじめて繁子や玉子に逢った浅見先生の旧宅からも、その他種々さまざまの失敗と後悔と羞かしい思いとを残した四年の間の記憶の土地からも離れて行った》。
1911年9月21日、早朝、ヘボン館から出火、全焼。その日、アメリカでヘボンが96歳の生涯を閉じた。ヘボン館はコンクリート造りの半地下の上に木造三階建。28室あり、各室3~4人が寄宿している。犠牲者は出なかったのか。犠牲者が出れば、記録に残るだろうから、おそらく全員無事だったのだろう。じつは、東京帝国大学寄宿舎が火災で焼失し、犠牲者が出たのは1889年。当時、藤村自身ヘボン館に寄宿していたので、他人事とは思えなかったかもしれない。なにしろヘボン館は燃えやすい木造で、しかも避難しにくい三階建。ヘボンはそのような危険性を予見して、四カ所に非常梯子を設置。生徒たちは遊び半分にこの梯子を日頃から使っていたという。藤村も過ごした寄宿舎が焼失した時、藤村は柳橋に住んでいた。妻を失って一年を経過していた。
1914年、今度はサンダム館が焼失した。藤村はフランスにいたが、子どもたちや兄一家は二本榎西町、明治学院の少し南に住んでいた。

それにしても、『桜の実の熟する時』の書き出し。何か久しぶりに学校へ戻って来た感じである。秋聲の作品ならこの後、過去へと一気に戻っていくところだが、藤村の現在の積み重ね。過去へ戻っていくことはない。捨吉はそのまま食堂で夕食を済ませ、寄宿舎へ戻って行く。けれども、藤村にはそれなりの背景があった。設定時期は藤村が明治学院3年生の1890年。間もなく夏休み。明ければ4年生になる。この3年生の終わり頃、藤村は誰とも話しをしないようになり、寄宿舎も出てしまった。授業には出るが、途中で消えたり、どこで寝泊まりしているか、親友でさえわからない状態に。結局、近くの覚林寺(清正公)の隣りにあった西照寺を「隠れ家」にしていたと言う(西照寺は1911年、杉並区東高円寺へ移転)。
『桜の実の熟する時』冒頭の場面の翌日は日曜日。《静かな日曜の朝が来た。寄宿舎に集った普通学部の青年で教会に籍におくものは、それぞれ仕度して、各自の附属する会堂へと急いで行く》。《浅見先生が牧師として働いている会堂は学校の近くにあった。そこに捨吉も教会員としての籍がおいてあった》。《谷を下りてまた坂になった町を上ると、向うの突当りのところに会堂の建物が見える。十字架の飾られた尖った屋根にポッと日の映じたのが見える》。
品川・芝の海岸線から東海道筋が通る部分を残して、西側は武蔵野台地の先端部にあたる高輪台・白金台。台地上は海抜25m程度で、比較的平坦。尾根筋は南へ延びて御殿山へ通じている。この台地が侵食され、いくつもの谷筋がある。東へ海岸線にむかって伸びるもの、白金台2丁目から南へ伸びるもの、明治学院の東側と西側には北へ下る谷筋があり、やがて合流して古川の谷筋へむかう。そのため、明治学院の校地は台地が北へ突き出した岬のようである。藤村は奥平邸附近の小さな谷筋も含め、起伏をかなり正確に描写している。
寄宿舎を出た捨吉は今里の道を下り、覚林寺のところまで来て右折、天神坂を200mほど上ると浅見先生の教会が建っている。浅見先生こと木村熊二が牧師を務める台町(高輪台町)教会はここにあった。現在は東海大学短期大学部のテニスコート。藤村は共立学校で木村に出会い、明治学院に教えに来ていた木村と再び出会った。1888年6月、明治学院在学中の藤村は高輪にある台町教会で木村熊二牧師から洗礼を受け、クリスチャンになった。当時、木村は教会の近く、二本榎通りを数10m南へ行った右奥にある広岳院(現、高輪1丁目24-6)近くにあり、藤村も寄宿舎に入る前、木村宅から明治学院へ通ったことがある。
台町教会は1882年、泉岳寺の裏手にあたる高輪台町に設立された教会で、戸田忠厚が初代牧師。二代目が木村熊二である。明治学院から徒歩5分程度のところ。教会は1907年に近くの二本榎町に移転、名称を高輪教会と変えて今日に至っている。すぐそばに高輪警察署や高野山東京別院がある。
浅見先生が牧師を務める教会の礼拝に出席した捨吉は、その日の午後、卒業生の植えた記念樹のあたりへ出た。《その足で、捨吉は講堂の前から緩慢な岡に添うて学校の表門のほうへ出、門番の家の側を曲り、桜の樹のかげから学校の敷地について裏手の谷間のほうへ坂道を下りて行った。一面の藪で、樹木の間から朽ちかかった家の屋根なぞが見える。勝手を知った捨吉はさらに深い竹藪について分れた細道を下って行った。竹藪の尽きたところで坂も尽きている》。捨吉は時には御殿山の裏手の方、遠く目黒の方までひとりで行ったことがあるという。正門(表門)は1890年頃つくられた。

注)明治学院の建物等に関しては、明治学院歴史資料館の資料(ネット公開)を参照した。また校地における建物の配置等に関しては、岡村淑美『1900年前後明治学院普通学部教育事情の一考察――訓令12号ショックを超えて――』に掲載された「図1」を参照した。

追記)
高輪・白金時代の島崎藤村について調べていると、岡見清致(1855~1935年)の名がよく出て来る。岡見家は江戸常駐の中津藩士の家柄。清致は1862年に父の岡見清通から家督を継ぎ、明治維新後も品川・芝などに広く土地を持ち、貸地・貸家業を営んだ。清致の叔父にあたる岡見清煕(1819~62年)は同じ中津藩士福沢諭吉をとりたて、岡見辰五郎は自宅内に教会を設けるなど、岡見一族は武士の世が終わろうとする幕末から明治にかけての時代を先駆的に生きて行った。岡見一族は中津藩主奥平家とのつながりも強く、清煕は奥平家から妻らくを迎えており、清致の後妻春(1878年生まれ)は旧藩主奥平昌邁伯爵(1855~84年)の長女(先妻は田中不二麿子爵の妹で1865年生まれの静子。不二麿は藤村の『夜明け前』にも登場する)。
クリスチャンとなった岡見清致は1884年に頌栄学校を開校し、岡見清煕に恩義を感じる福沢諭吉も出席し演説した。1888年には木村熊二を校長に迎えた。1907年に巌谷小波が高輪南町に転居してきたが、巌谷は頌栄小学校へ出掛けてアンデルセンなどのおとぎ話の講話をおこなった。1910年1月から翌年5月まで、梶井基次郎(1901~32年)と兄謙一もこの頌栄小学校に通っており、巌谷のお話しを聞いたことだろう。
梶井基次郎が父母兄弟と二本榎町3番地(現、高輪2丁目6)に引越して来たのは1909年12月。清林寺のすぐそばで、高輪台町教会南300m。現在、高輪台小学校(1935年開校)が建っている、すぐ南向いにあたる。梶井家の借りた家は岡見家の持ち家で、そのようなつながりから、謙一・基次郎兄弟は頌栄小学校へ通うことになった。高輪南町にある奥平邸の西側地域に、木村熊二や巌谷小波が住んだのも、岡見の所有地だったからだろう。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第10回 『新生』に描かれた東京④

《「どうだね、父さんはお前達を寄宿舎へ連れて行こうと思うが。義雄伯父さんのところからは近いうちに祖母さんを返してよこしてくれと言って来てるし、どうしてもこの家は止さなけりゃ成らない。他には母さんが有るからああしてみんな家から学校へ通っているんだけれどお前達には母さんが無いだろう。そこで父さんは寄宿舎を思いついた。父さんとお前達と一緒にその寄宿舎へ入るんだぜ。どうだね、父さんと一緒に行くかね》(84)。帰国から1年近く経った1917年6月。藤村は仕事場を芝区西久保櫻川町2番地にある高等下宿風柳館に移した。愛宕山の北、現在の虎ノ門1丁目25。新橋駅までは徒歩でも10分ほどのところ。北隣の芝琴平町には金刀比羅宮がある。
《古い寺院にでも見るような青苔の生えた庭の奥まったところにある離座敷に行って着いた人達は、早く届いた荷物と一緒に岸本を待っていた。岸本は東と北との開けた古風な平屋造りの建物の中に新しい栖所を見つけた。二間あって、一方を自分の書斎に、一方を子供部屋に宛てることが出来た。》《「なあんだ――寄宿舎かと思ったら、宿屋だ」 この繁の言葉がそこに集っている一同を笑わせた》(85)。《二間続いた離座敷には、同じ部屋の内に書斎もあれば、客間もあれば、茶の間もあった》(94)。
離れを借りることによって、気兼ねなく親子三人そこで生活しながら、宿屋か賄い付きの下宿のように、食事から掃除洗濯まるごと面倒をみてもらう。これなら家の管理も女中を雇う心配もいらず、じつに良い思いつき。もちろん、藤村くらいの収入がなければできないことである。
この風流館の様子は、《離座敷から母屋の方へ通う廊下つづきには庭の見透しの好いところがあった。しばらく子供達はその涼しい風の来るところに集まって遊んでいたが、やがて三人とも揃って愛宕山の方へ出掛けて行った。庭にある大きな青桐の方から聞こえて来る蝉の鳴声は、遽に子供の部屋をひっそりとさせた》(90)。三人というのは、岸本の子ども二人に、節子の弟一郎を指している。
藤村がこの風流館を選んだのは、いくつかの利点があったからだろう。その一つが学校であろう。《泉太は最早この下宿から小学校の一番上の組に通うほどの少年であった》(100)。現実に長男楠雄、次男鶏二、さらに1918年3月に引き取った柳子が通う鞆絵小学校(ともえ、1870年開校)は、西久保巴町(現、虎ノ門3丁目)にあり、風流館から300m足らずのところ。藤村の親友戸川秋骨の母校でもある。鞆絵小学校は他の四校と統合され、御成門小学校が設立されたため、1991年廃校になった。
鞆絵小学校は愛宕山先端部の北西地点にある。風流館から愛宕山先端部北地点にある愛宕町郵便局前を通れば、200m足らずで愛宕神社の石段下に着く。《岸本の下宿のあるところから愛宕山へは近かった。そこへ子供達を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父と一緒に歩き廻ることを楽みにするばかりでなく、君子までも嬉しそうに随いて来た。見上げるような急な男坂の石段でも登って行くと、パノラマのような眺望がそこに展けている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った》(125)。君子のモデルは末っ子の柳子である。

注)私は藤村の子ども3人がいずれも鞆絵小学校に通ったとしている。柳子については間違いないだろう。けれども、上の男の子二人は頌栄小学校に通っており、鞆絵小学校に転校したのか、頌栄小学校に通い続けたのか、資料がないため確信がもてない。漱石の息子たちも暁星学校へ電車で通学しており、藤村の子どもたちも電車に乗って頌栄に通っていたとしても不思議はない。風流館から東へ500mほどで田村町の電停があり、目黒駅前行に乗って清正公前で下車。明治学院に沿って歩き、1kmほどで学校に着く。

1918年10月。藤村は麻布区飯倉片町33番地に転居した。現在の麻布台3丁目。東京タワーの西500mの位置にあたる。
《愛宕下の下宿から天文台の附近に見つけた住居までは、谷底から岡の上へ通うほどの距離しかなかった。岸本は三人の子供と婆やとを引連れて、皆一緒に歩いて新しい家に移った》(138)。
風流館のある西久保櫻川町は海抜6mくらい。ここから鞆絵小学校の前を通り、愛宕山と六本木の台地の間、つまり神谷町を南下。現在の桜田通りにあたる。しだいに上りになって、飯倉町へ。この辺り、海抜25mを超えている。桜田通りはそのまままっすぐ赤羽橋にむかうが、飯倉町の通りは西へ六本木をめざす(現在の外苑東通り)。飯倉交差点のすぐ東に東京タワーがそびえ立つ。風流館からここまでおよそ1km。さらに六本木にむかって数百m。左へ折れて鼬坂を下りかけたところが引っ越し先である。海抜はおよそ25m。
この地域は武蔵野台地の端にあたり、北側の台地と南側の古川の低地の境界には崖が見られる。その一部にえぐられたような谷が形成され、狸穴とよばれ、鼬坂はこの谷筋を台地の上下結んでいる。狸穴の東側にあたる飯倉町3丁目、台地先端部に当時東京天文台があり、日本経緯度原点になっている。西側の永坂町、台地上には香蘭女学校があった。狸穴の台地上には現在、ロシア大使館が建っている。
《漸く岸本は自分の住居らしい住居に帰国後とかく定まらなかった書斎の置き場所を見つけることが出来た。そこから天文台の建築物は見えないまでも近い。何となく巴里の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓を思い出させる。そこには二階がある。神田川の川口に近い町中で七年も臥たり起きたりした以前の小楼を思い出させる。子供達はめずらしがって、家の周囲にある木の多い小路や、谷底の町の方へ続いた坂道などを走り廻った》(138)。坂を下りれば一ノ橋、麻布十番である。

注)子どもたちは転校したと思われる。最寄りの麻布小学校は藤村旧居から200mほどの飯倉片町交差点北東角にあるが、当時は市兵衛町(現在の六本木1丁目、泉ガーデンのあるところ)にあり、500mほど。頌栄小学校に通っていたとすれば、一ノ橋から同じ電車に乗れば良い。

《午過の日は新しい住居の二階の部屋に満ちた。東北に開けた窓の外には、細かくてしかも勁い樫の樹の枝が隣家の庭の方から延びて来ていて、もうそろそろ冬支度をするかのような常盤樹らしい若葉が深い色に輝いた。幾度となく岸本はその窓へ行った。樫の樹の梢の上の方に開けた十一月らしい空気を望んだ》《岸本はその足で梯子段を下りた。子供の部屋と食堂の間を通って縁側から庭へ下りた。そこには草花を植えるぐらいの僅かな空地があった。節子の残して置いて行った秋海棠の根が塀の側に埋めてあった》(140)。

『新生』の連載が始まったのが1918年5月。飯倉片町へ引っ越したのが第一部の連載が終わる10月。翌1919年4月から10月まで第2部を連載。この連載は子どもたちにも少なからず影響を与えたのではないだろうか。
以上で『新生』について、終わりたいと思うが、じつは終われない。この1918年、夏を過ぎる辺りから、日本でもスペイン風邪の大流行が始まり、学校は休校が相次ぎ、運動会・修学旅行も見合わせが続出していた。電車の運転本数は減り、炭鉱も休業。東京府では、10月28日から毎日平均200人以上亡くなり、全国各地で火葬場が満杯になり、処理できない状態になっていった。まさにスペイン風邪パンデミックのまっただ中の転居であった。時の原敬首相も9月に発症。芥川龍之介は11月2日、「僕は今スペイン風※でねてゐます。」(※風邪)「熱があつて咳が出て甚苦しい。」とつづっている。龍之介は一週間ほどで回復したが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなった(二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺して話題になった)。
スペイン風邪パンデミックは1919年も続き、20年になると収束にむかっていった。日本だけで、推定40万人が亡くなった。
「新型コロナウイルスパンデミック」は文学において、どのように書き残されていくのであろうか。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
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第9回 『新生』に描かれた東京③

中野の友人からの手紙が中心の「序の章」を終わり、「第1巻」は《神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸へ出た》という一文で始まる。「河岸」というのは「代地河岸」である。大久保を後にした藤村は1906年10月、妻と一歳になった長男楠雄を連れて浅草区新片町1に転居した。現在の台東区柳橋1丁目10番と推定され、まさに柳橋花街の真っただ中。隅田川はすぐである。しかも、藤村が明治学院に通う頃、寄寓した吉村家は日本橋浜町界隈にあり、長兄秀雄の下宿も大川端にあった。このような懐かしい地域から柳橋はすぐ近くであり、再出発の地としては相応しいはずだった。河岸から岸本の住む町までの間には、《横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た》(4)。
鏡花は1907年、『婦系図』で早瀬主税が真砂町の先生に連れられて、柳橋の柏家(柏屋)へむかう場面を、《淺草橋を渡果てると、富貴竈が巨人の如く、仁丹が城の如く、相對して角を仕切つた、横町へ、斜めに入つて》と描いている。その時、藤村は柳橋に住んでいた。しかし不思議なことに、藤村は『新生』の中に花街としての柳橋をまったく描いていない。そもそも情景描写と言えば、《硝子戸を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった》(8)、《岸本は硝子戸に近く行った。往来の方へ向いた二階の欄のところから狭い町を眺めた。白い障子のはまった幾つかの窓が向い側の町家の階上にも階下にもあった。その窓々には、岸本の家で部屋の壁を塗りかえてさえ、「お嫁さんでもお迎えに成るんですか」と噂するような近所の人達が住んでいた》(16)と、東京の下町なら珍しくもない光景が描かれている程度。14回には隅田川の花火大会に親せきなども集まった様子が描かれているが、生前の園子を回顧する色彩が強い。
唯一、「花街の描写だ!」と勢い込むと、人力車は《橋を渡り、電車路を横ぎった。》《川蒸汽の音の聞こえるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった》(17)と、柳橋を出て、隅田川沿いに南へむかっている。《隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄した》とあるので、中洲へ行った可能性が強い。岸本を誘ったのは「元園町」とよばれる人で、中沢臨川がモデル。実家は養命酒で有名な塩澤家。「馬鹿」が口癖で、《「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱るように言った。「一体、この男は馬鹿です」「ヨウヨウ」と髪の薄い女性は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番が出ましたね」》(20)と記されている。岸本は徒歩で自宅へ帰った。
岸本一家は36回で高輪の方へ越していく。

《新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀とで囲われた平屋造りの家の周囲を走り廻っていた》(37)。現実には、1913年3月。妻籠宿本陣島崎家15代当主広助の一家と、藤村の一家は明治学院のすぐ南隣、芝区二本榎西町3番地に引っ越した。
二本榎西町は1番地から3番地までしかないので、各番地の範囲が広く、番地だけで場所をピンポイントに特定することはできないが、「明治学院歴史資料館」の資料(ネット公開)によると、桜田通りに面した白金台偕成ビル(白金台2丁目10-5)の裏手、白金台2丁目9にあたる。高輪の台地のはずれにあたり、少し西へ行くと崖が下っている。明学の生徒時代、藤村はこの辺り歩き回っているので、地勢には詳しい。
ところで、これからフランスへ旅立つ藤村が、残される子どもたちを、《両国の附近から場末も場末も荏原郡に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移した》のは何故か。それについて38回で、《高輪は彼が青年時代の記憶のある場所であること、足立や菅などの学友と一緒の四年の月日を送ったのもそこの岡の上にある旧い学窓であった》こととともに、《その学窓の附近に極く平民的な大地主の家族が住み》《そのめずらしく大きな家族によって、私立の女学校と、幼稚園と、特色のある小学校が経営されている》《その小学校がいかにも家族的で、自分の子供を託して行くには最も好ましく》考えたからだと記している。
この学校というのが頌栄小学校。1884年に開校している。今日の頌栄女子学院の出発点になる。創立者は熱心なクリスチャンの岡見清致。「極く平民的な大地主」というのは岡見一族で、品川・芝方面に広く土地をもつ大地主。貸地貸家業も営んでいた。1888年には木村熊二が岡見清致に懇願され、頌栄女学校の校長に就任している。
頌栄女学校は1886年以来、現在地(白金台2丁目26-5)にある。藤村たちが住んだ家から100mほど。当時、桜田通りがなかったので、少し回り道になるが、それでも300mほど。藤村が家族を放り出してフランスへ逃避行したのではないことがうかがい知れる。
とにかく夜も賑やかな柳橋からの転居である。《夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥のひびきすらしなかった。「父さん、汽車の音がする」と下町育ちの子供達は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層四辺をひっそりとさせた》(37)。蒸気機関車の走る音は空気をも揺さぶる。品川の海岸線を走る東海道線から、1km足らずだが、今では桜田通りの騒音にかき消されてしまう。
岸本は高輪に十日ばかり暮らし、その間、かつての学校の方へも足を運んでいる。22年の歳月の流れが感じられる。ところがここで不可解な記述がある。《チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。》《しばらく彼は新しい講堂の周囲を歩き廻った》(39)。設定時期は1913年。この時すでに懐かしい寄宿舎であるヘボン館は焼失している(1911年)。けれども、教室とともに講堂(チャペル兼用)があったサンダム館は現存していた。
明治学院は創立当初から礼拝堂(チャペル)がなく、講堂が礼拝堂としても使用されていた※。やっと1905年に礼拝堂が完成したものの、相次ぐ地震で使用できなくなり、1909年から再びサンダム館の講堂が礼拝堂として使用され、1911年に普通学部新校舎として再建されたものの、講堂はサンダム館に残った。つまり、1913年当時、講堂のある懐かしいサンダム館は残っており、新しい講堂というのは建てられていない。
ところがそのサンダム館が焼失した。1914年、藤村がフランス留学している間である。校舎と講堂(兼礼拝堂)を失った明治学院は、多くの協力を得て、1916年3月に新サンダム館と新礼拝堂を完成させた。藤村がフランスから帰国したのは1916年7月であり、生まれ変わった学院の建物に感動し、1918年、『新生』の中に書き込んだのではないだろうか。私は藤村の作品をそれほど読んでいるわけではないが、このような脚色はあまりおこなわれていないように思われる。
※明治学院の礼拝堂に関して、中島耕二『明治学院礼拝堂のできるまで』(2016)を参照した。

岸本が帰国し、高輪へ戻ってくるのは、「第2巻」の17回である。
《夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場を望んだ。彼は自分の旅の間に完成されたという東京駅をも見たいとは思い、ひょっとするとそこに自分を出迎えていてくれる人もあろうかと気遣ったが、しかし品川まで行けば留守宅は近かった。旅の荷物も品川で受取ることにしてあった。彼は東京駅まで乗らずに、その停車場で降りた》。東京駅開業は1914年。それまで東京の表玄関は新橋停車場だった。二本榎西町にある藤村の留守宅は品川駅から1kmほどである。東京駅に降りるより賢明な選択である。
30回で岸本は《高輪の家を出て、岡に添うた坂道を電車の乗場まで歩いた》。東京市電は品川と浅草(雷門)を一系統で結んでおり、途中、柳橋最寄りの浅草橋も経由する。《電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸がもう一度岸本の眼にあった》。柳橋から高輪への転居は不便な土地への移動のようにみえて、意外な便利さをもっていた。岸本は七年住み慣れた町を回り、《柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た》。隅田川への思いは芥川龍之介の「専売特許」ではなさそうだ。
隅田川を後に、帰宅する岸本。《家をさして品川行の電車で帰って行く度に、岸本はよく新橋を通過ぎて、あの旧停車場から旅に上った三年前のことを思出した。その日の帰路にも彼は電車の窓から汐留駅と改まった倉庫の見える方を注意して、市街の誇りと光輝とを他の新しいものに譲ったような隠退した石造の建築物を望んで行った》(31)。東京駅開業にともなう新橋の変化が伝わって来る。
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第8回 『新生』に描かれた東京②

これまで『新生』の概略をみてきた。これから『新生』の中で東京がどのように描かれているか、居住地を中心に、作品に登場するゆかりの地や移動の状況をみていきたい。
藤村が小諸から東京へ戻って以来、藤村一家として住んだところは、大久保・柳橋・高輪・愛宕下・飯倉片町、以上が『新生』で描かれる範囲で、その後、番町へ転居、さらに大磯へと移り住み、この大磯で生涯を閉じた。

『新生』が柳橋に住んでいる時期から始まるので、大久保における生活や風景は直接的には描写されていない。けれども、岸本が子どもたちや姪の節子を連れて、大久保へ墓参りに行く場面があり、大久保が回想されている。
第2部32回は《八月に入って泉太や繁の母親の忌日が来た。学校も暑中休暇になった二人の子供は久し振で父と一緒に外出することを楽みにして、その前の晩から墓参りに行く話で持切った》という文章で始まる。岸本に子ども二人、それに甥の一郎、姪の節子が同行する。節子は岸本がフランスから帰国して一緒に外出するのは初めてだった。
こうなると、私の習性で大久保までどのようにして行ったのか、知りたくなる。そのような人間がいることを察したのか、藤村は32回の最後に、《子供達は足の遅い節子を途中で待受けるようにしては復た先へ急いで行った。節子はこうした日の来たことを夢のように思うという風で、叔父と一緒に黙し勝ちに清正公前の停留場まで歩いた》と書き、33回は《新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供達や節子と一緒に大久保の方角を指して歩いた》と書き始めている。
岸本たちは当時、二本榎西町に住んでいる。この日は品川へ出ないで、明治学院の前をまっすぐ北上し、陸軍墓地の脇を通って清正公像のある覚林寺のそばから、電車道に出た。清正公前停留場は現在の「清正公前」交差点、つまり桜田通りから目黒通りが分岐するところにあたる。
五反田駅前と清正公前の間に電車が開通したのは1927年。したがって『新生』の設定時期にはまだ電車は走っていない。岸本たちが乗ったのは目黒駅前発。後に都電5系統になる路線。当時と経路が変わらなければ、古川橋・赤羽橋と過ぎ、日比谷公園で降りて、新宿行きに乗り換え。半蔵門・四谷見附と過ぎて新宿駅前に到着した。
《ずっと以前に一年ばかり彼が住んだことのある郊外――その頃はまだ極く達者であった妻の園子に、泉太や繁から言えば姉達にあたる三人の女の児を引連れて、山から移り住んだ頃の思出の多い郊外――その頃の樹木の多かった郊外が全く変った新開の土地になって彼の行先にあった。「この辺の町もすっかり変ったね――》《以前に比べると寺の附近もずっと変っていた。》(33回)
藤村たちが大久保に住んでいたのは1905年から6年である。『新生』において岸本たちが大久保を訪れた設定は1916年夏(12月には漱石が亡くなる)。この間、1912年に大久保は行政的に村から町に変わった。
大久保の都市化は新宿と一体的に考えられる。新宿駅開業は1885年(品川線)開通にともなう。1889年に郊外と新宿を結ぶ甲武線、1907年には東京市電が都心から新宿に延び、1913年には郊外と新宿を結ぶ京王線が開通した。
当時の東京市を越えて、西部へ拡がった人びとが、仕事や買い物や娯楽に東京市内にやって来る、その結節点として新宿は発展していった。1920年、内藤新宿町は四谷区に併合されたが、豊多摩郡に残った淀橋町は人口40453人、大久保町は27949人を数えた。実際に新宿が大きく発展するのは関東大震災(1923年)以後であるが、藤村たちが住んでいた時代には通っていなかった市電が走るようになり、新宿駅周辺の発達がしだいに大久保の方にも影響を与え始めていた。
岸本たちが墓参りに行く寺は、現実に即して言えば曹洞宗玉寶山長光寺である。
新宿駅前で市電を降りた岸本たちは山手線に沿って北上し、現在の西武新宿駅前を通り過ぎ、職安通りへ出て右折。ほどなく左手に長光寺がある。さらに300mほど進んで、明治通りとの交差点(東新宿交差点)少し手前右側、現在の歌舞伎町2丁目4-11に島崎藤村がこの地に住んだ記念碑が立っている。職安通りにあたる道は当時、農村地帯を突っ切る街道であった。
長光寺のホームページは「島崎藤村ゆかりのお寺」と題して、《島崎藤村が小諸から再び東京に出てきて、西大久保に住んだのは明治38年5月1日からでした。長光寺檀家である坂本家の敷地内の借家に居をかまえて本格的な執筆活動に入るためのものでした。上京した藤村は武蔵野の面影の残る、檪木立ちの多いこの地域が気に入っていたようです。一家妻子4人と共に移ったときは、新築のためまだ壁土も乾いていなかったといいます。その借家は通りに向かって玄関があり4間からの平屋で、奥の6畳が藤村の書斎でした。34歳の藤村は日夜文学の鬼となって『破戒』のペンを執り続け、一家の生活の悲惨を省みる暇がありませんでした。大家の坂本家では、藤村の子供が病気がちで、生活も苦しい様子なので、漬物を分けてあげたり、その他いろいろと食べ物の世話をしたようです。間も無く藤村を悲運が見舞います。5月6日に三女の縫を急性髄膜炎で、翌年4月7日に二女孝を急性消化不良で、6月12日に長女緑を結核性脳膜炎で相次いで失いました。その後、浅草に転居してからも妻の冬が脚気で死去。いずれも大家の坂本家の好意によって長光寺に葬られました。》
岸本たちは墓参りを終え、《やがて境内の敷石づたいに門の外へ出た頃は、八月の日の光がもう大久保の通りへ強く射して来ていた》。姉や母を失った子どもたちは悲壮にくれることなく、《「父さん、今日はこれッきり?」》と暗に要求する。《その辺には旗の出ている小さな氷店ぐらいしか見当たらなかったが、そんな店も、新開の町も、以前岸本が住んだ頃の大久保には無いものであった》。結局、《「泉ちゃん、氷レモンだぜ。父さんも奢ったねえ」と繁はコップを手にして言った》という結末に。
帰り、岸本は節子や子どもたちと別行動の予定であった。けれども節子のことが心配で、岸本は《往きと同じ新開の町を新宿の近くまでも送って行った》。
【文豪の東京2――島崎藤村】
                         
島崎藤村生誕150年記念

第7回 『新生』に描かれた東京①

「文豪の東京」において、芥川龍之介に続いて取り上げた文豪は島崎藤村。これまでの連載で、藤村が上京し、東京のどこで暮らしてきたのか、概略を紹介し、さらに、詩人として出発した藤村が、「東京」を詩の中でどのように描いてきたか紹介してきた。これからは藤村が小説の中で「東京」をどのように描いたか、みていくことにしたい。
藤村の小説で代表作と言えば、『破戒』(1906)とか『夜明け前』(1929~32)。けれども、私の興味にしたがって、「東京」を舞台ということで探していくと、『桜の実の熟する時』(1914~1918)・『新生』(1918~19)・『ある女の生涯』(1921)・『食堂』(1926)・『嵐』(1926)・『分配』(1927)などの作品に行き着く。
私が「東京」にこだわるのは、もちろん「東京」に憧れ、それゆえ「東京」が好きだからである。私は今まで、漱石をきっかけに、泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星、芥川龍之介と、5人の「文豪」について書いてきたが、そこで選ばれた作品は、いずれも「東京」を舞台にしたものであった。その作品が好きであるとか、世間的な評価が高いからではない。
もうひとつ。私は作品を「地理屋」の視点で読んでいる。一応、「地理」で飯を食ってきたし、「地理」は大好きである。この「東京」と「地理」という二つの「好き」を組み合わせれば、楽しく作品を読み、調べ、文章を書くことができる。そして、「地理屋」の視点から「東京」を眺めるなら、多少なりとも自分らしい、目新しい文章を提供できるのではないか。
何しろ対象とする作家は、「文豪」と呼ばれる人ばかりであるから、研究する学者も多く、論文も多い。市井の愛好家も多いから、多くの文章が書かれている。これは私が文章を書く時、とても役に立つことであるが、言い換えれば私が改めて文章を書く必要などないことを示している。それでも、あえて「書こう」というのであるから、従来と何か違った視点をもたなければならない。それが私の場合、「地理屋」の視点であり、「東京」である。

『新生』は1918(大正7)年5月1日から10月5日までと、1919(大正8)年4月27日から10月23日まで二回にわけて東京朝日新聞に連載された。『新生』はすでに百年以上前に書かれた作品ということになる。
『新生』はあくまで小説であるが、内容はきわめて実話に近く、登場人物は名前が変えられているが、そのモデルが誰であるか、明らかである。おもな登場人物とモデルはつぎの通り。
岸本捨吉(モデル:島崎藤村)
 妻:園子(モデル:冬子)
 長女:富子(みどり)、次女:菊子(孝子)、三女:幹子(縫子)
 長男:泉太(楠雄)、次男:繁(鶏二)、三男:名前記載なし(蓊助)
 四女:君子(柳子)
岸本義雄(モデル:島崎広助)――二兄
妻:嘉代(モデル:あさ)
 長女:輝子(久子)、その夫:中根(田中文一郎)
次女:節子(こま子)、その子:親夫(ちかお)(?)
 長男:一郎(重樹)、次男:次郎(正二郎)
岸本民助(モデル:島崎秀雄)――長兄
妻:記載なし(モデル:松江)
長女:愛子(いさ子)、その夫:記載なし(西丸哲三)
鈴木家(モデル:高瀬家)――長姉の嫁ぎ先
 長姉:記載なし(園子)、夫:記載なし(薫)、子:太一(慎夫(ちかお))
田辺家(モデル:吉村家)――恩人の家
 父:恩人(忠道)、子:弘(樹)
その他の主な登場人物とモデル
 勝子(佐藤輔子)
 中野の友人(蒲原有明)
 元園町(中沢臨川※)※実家は養命酒で有名な塩澤家。「馬鹿」が口癖。
 番町の友人(有島生馬)

何しろ藤村自身の姪との近親相姦を告白する作品である。第一回目(前篇)の連載中から多くの人に衝撃を与えた。福永勝也※によれば、藤村と親しい田山花袋などは第1部の連載13回で節子が岸本に妊娠を告げる場面を読んで、藤村が自殺をするのではないかと心配し、東京朝日新聞でも前篇が終了した段階で、後篇を連載するかどうか意見が分かれ、話題になれば読者も増えるという打算も働いて、連載が決まったという。
※ 福永勝也:島崎藤村のパリ逃避行と『新生』をめぐって(京都先端科学大学人間文化研究37巻p1~53、2016)
『新生』は概ね現実に沿って進行している。自分の体験をもとにしながらも、現実の時系列に脚色を加えて作品を書いている秋聲と大きく異なる。
書き出しにあたる「序の章」は、中野の方に住んでいる友人の手紙が中心で、五日間の連載の後「第一部(前篇)」(連載130回)に入る。
時は1912年夏。主人公の岸本捨吉の妻園子が亡くなって2年。すでに姪の輝子が嫁いでおり、姪の節子が残って、家事・育児を担っている。久子が田中文一郎と結婚したのは6月。7月30日に天皇が崩御し、元号が大正に改まるから、この夏は明治から大正へ移り変わる時期であった。連載1回から12回までが1912年で、13回から1913(大正2)年。13回の冒頭は、
――ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。
「私の様子は、叔父さんには最早よくお解りでしょう」
新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。――
花袋が衝撃を受けた場面である。こま子は8月に出産しているので、1912年の秋、藤村との関係によって妊娠したことになる。じつは、こま子の手記によると、久子が結婚で藤村の家を去る1か月前の5月頃には、二人の間で肉体関係が生まれていた(※福永前掲書)。
1913年3月。藤村一家は柳橋から芝区二本榎西町に転居するが、その場面は36回から登場する。そして、4月、藤村はフランスにむけて出発して行くが、その様子は41回から描かれていく。52回にはマルセイユ、53回でついにパリに到着する。8月にこま子は藤村との子を出産し、62回に《旅に来て五月目に、岸本は新たに父になったことを国の方からの便りによって知った》と記される。
72回になると、《巴里の最も楽しい時が来た》と、1914年の春が告げられる。けれども7月の下旬、90回には《岸本はアウストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、丁度その自分の仕事に取掛っている時であった。一日は一日より何となく町々の様子がおだやかでなくなって来た》《「戦争は避けられないかも知れませんよ」と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動って見せた》という状況になり、8月、ついに後に第一次世界大戦と呼ばれる大きな戦争が始まった。
第一部(前篇)は連載130回で終了し、中断の後、第二部(後篇)は《三年近い月日が異郷の旅の間に過ぎた》の一文で始まる。《帰国の日も近づいて来た。降誕祭の前には既に来る筈であったその日も半年ほど延びて、旅で迎える三度目のあの祭と、翌年の正月とをも、岸本は巴里の下宿の方で送った》と、時は1916(大正5)年になっている。藤村は45歳。
9回はパリ出発。10回はロンドン。そして14回で神戸に着き、17回になると、《夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場を望んだ》。藤村の帰国は7月である。
32回から8月に入り、33回は《新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供等や節子と一緒に大久保の方角を指して歩いた》と、墓参りの様子。そして、ついに40回には《二度結ばれるように成った節子との関係は彼自身の腑甲斐なさを思わせた》、続いて42回には《「叔父と姪とは到底結婚の出来ないものかねえ」》《「いっそお前を貰っちまう訳には行かないものかなあ。どうせ俺は誰かを貰わなけりゃ成らない」》という言葉が岸本の口から飛び出す。
49回に至ると11月。51回で岸本の兄義雄一家が谷中の方に引っ越し、65回は《師走ももうあと三日しかないほど押塞った日》になっており、節子は《二十五というさかりの歳を迎えようと》している。『新生』に描かれるはずはないが、12月9日には漱石が亡くなっている。
73回は1917年も3月に入ったことを告げている。愛子(島崎秀雄の娘いさ子がモデル)が大阪へ発つ。85回には高輪の二本榎西町から愛宕下への引っ越しの様子が描かれている。藤村たちが愛宕下の芝区西久保桜川町に転居したのは6月である。
104回は《翌年の三月が来た》と、1918年3月に入っている。藤村は47歳。110回。節子の母嘉代が亡くなった。モデルの島崎あさが亡くなったのは4月5日。46歳。そして4月27日から『新生』の連載が始まる。おそらくそのことから、こま子の父、藤村の兄にあたる広助は藤村を義絶したのであろう。その義絶の場面を描いた119回は翌年の秋、掲載された。
121回になると、節子はもはや愛宕下へ来ることはなくなっている。131回はすでに10月。台湾にいる兄民助が来ることが告げられ、138回で岸本捨吉一家は愛宕下から天文台付近の家に引っ越す。藤村一家が帝国天文台近くの麻布区飯倉片町へ引っ越したのは10月である。
こま子の台湾行きは7月とされているが、『新生』によると、台湾行きが決まったものの、台湾の伯父がなかなか来ることができず、10月になってやっと来訪、11月1日、東京駅を発ち、台湾にむかっている。こうして『新生』第2部は連載140回をもって終了。それから2か月と経たない1919(大正8)年12月、こま子は伯父とともに東京に戻って来た。

『新生』を読み終わって、私は爽やかな気持ちになれたわけではない。そうかと言って、「藤村というのは淫らな人間だ」という思いを強くしたわけでもない。ただ、私は藤村という人は不幸な出会いをした人間だとの思いを強くした。
佐藤輔子に許嫁がいなければ、藤村は輔子と結婚することができたかもしれない。輔子に対する藤村の思いは一方的なものではなく、輔子もまた藤村に想いを抱いていたからである。教師と生徒の関係といっても、二人とも二十歳を過ぎ、しかも輔子の方が一歳年長であった。二人が結婚できなかったのは、何より輔子に許嫁があったからである。
こま子。藤村の妻冬子が亡くなり、家事と子育てに困った藤村を援助するため、姪の久子、続いてこま子も住み込みで手伝うようになる。藤村がどうして久子に手を出さなかったのかわからないが、久子が嫁ぐ一か月前には、すでにこま子と肉体関係をもつようになった。こま子も容姿と言い、知的好奇心と言い、藤村の好みだっただろうし、こま子も当時すでに有名になっていた作家の傍で生活し、影響を受けることは、喜ばしいことであっただろう。その尊敬する叔父が肉体関係を迫ってきた時、意に反してでも受け入れざるを得なかったであろうが、その後の二人の関係は、『新生』に書かれたことのすべてを信じることはできないが、藤村の一方的な想いと、叔父として絶対優位の立場を利用しての強引な性行為というより、相思相愛の関係の、自然な流れの中で受け止められる性交渉のように思われる。藤村は彼女のもっている能力を引出し、発表の機会をつくるとともに、後に加藤静子が担ったような仕事上のパートナー、秘書役として考えていたのではないか。一時の抑えがたい情欲から女性を我が物にして、さっさと捨ててしまうようなものではなかった。こま子は18歳。鏡子が漱石と結婚した年齢と同じであり、結婚相手と見定められて、不自然ではない年齢であった。もし、冬子が亡くなった後、冬子の妹というものがあって、未婚で婚約者もいなかったとして、その女性が藤村のもとに手伝いにやって来て、いつしか肉体関係ができ、子どもが生まれたとしても、自然の流れとして何らの問題も起きなかっただろう。当時、女性が出産などで若くして亡くなる例は多く、再婚相手に妹が選ばれる例は稀ではなかった。実母でなくても叔母であり、異母弟妹と言っても血縁関係が強く、親戚が増えることもない。たまたま叔父と姪という法律で結婚が禁止された間柄であったことが、二人にとって不幸であった。『新生』によれば、結婚はできなくても、二人でともに暮らす道を模索したようだが、結婚できない確率が100%の二人が同棲していくことは、生まれてくる子どもの処遇も含めて、厳しいものがあった。
その後、年齢の差が大きい加藤静子と、比較的穏やかな夫婦生活を営んだことを考えれば、もし、藤村が佐藤輔子や島崎こま子と結婚していたとしても、生涯添い遂げたであろうし、冬子とも死別しなければ、さまざまな問題を抱えながら、生涯添い遂げたであろう。そうすれば、こま子との問題も発生してこなかった。藤村が冬子という妻をもちながら、他の女性を好きになり、肉体関係をもつようになったという話は聞こえてこない。あるいは、夫のある女性を好きになり、肉体関係をもつようになったという話も聞こえてこない。私は藤村から「不倫」のにおいを感じない。だから私は、淡々と『新生』を読むことができるのかもしれない。
もし、『新生』が叔父と姪の「禁断の恋」をテーマにした、まったくの創作であったなら、二人の赤裸々な愛し方を描写し、揺れ動く心理状態を克明に描写した、感情を揺さぶられる名作になっていただろう。書き手は真実「第三者」でいられるからである(と言っても、漱石が描けば、――二人がマルになったりサンカクになったりしているうちに、ある日、節子は岸本に妊娠を告げた。――の一文で終わっていたかもしれないが)。
しかしながら、『新生』は実体験をもとにしており、しかもほとんどリアルタイムであるから、書き手である藤村は「当事者」である。どちらの立場にも組せず、中立的に書くことは不可能である。書き手に都合の悪いことは、書き手の権限によって削除することができる。脚色もできる。
藤村が、書かれる相手、こま子はもとより、兄たちや親族たちに配慮したため、悪く書かれた人物はひとりもおらず、赤裸々な描写も抑えられている。もちろん有能な作家であるから、描写は細やかで、丁寧に書かれている。文学作品として価値が低いわけではない。けれども、まさに事実が淡々と書かれ、小説としての盛り上がりにも欠け、叔父と姪の「禁断の恋という秘密」を興味本位で覗き見るという興奮以外に、その先を読みたくさせるものは何もない。――ここまで書いて私は立ち止まる。「小説」にしか出てこないようなことを現実のものにしてしまったのだから、これはやはり「小説」として読めるのだ。「小説」として読めば良いのだと。そうすればこれは完成度の高い「小説」ではないかと。
それにしても、隠しておけば隠しておくことができたにも関わらず、どうして藤村は、「叔父と姪の近親相姦」という事実を、『新生』を通して白日のもとに曝け出してしまったのだろうか。私は、二人の切れない関係を断ち切る最後の手段として、小説に書いて、社会的批判を受け、強制的に断ち切っていく道を、藤村は選択したのではないかと推察している。
【文豪の東京2――島崎藤村】

藤村の詩に描かれた東京

「文豪の東京」というテーマが示すように、この連載は「東京」にこだわっている。芥川龍之介に続いて取り上げた文豪は島崎藤村であるが、ここまで、藤村が上京し、東京のどこで暮らしてきたのか、概略を紹介してきた。この後、東京を舞台にした小説として、『新生』を取り上げていきたい。けれども、その前に藤村は詩人として出発したのであるから、詩を抜きにするわけにはいかない。
ということで、私は『藤村詩集』(新潮文庫)を手に取っている。この中には、『若菜集』(1897年刊)・『夏草』(1898年刊)・『落梅集』(1901年刊)の三つの詩集が集められている。藤村はたくさんの詩を創っているだろうが、その主要なものがこれらの詩集に集められていると言って良いだろう。
「東京」「東京」と呪文のように唱えながら、詩を読み進んで行っても「東京」が出て来ない。『若菜集』『夏草』と過ぎて、『落梅集』も手ごたえなく、あきらめかけた頃、やっと見つけた「品川」。「炉辺」という詩の最終の一節に《品川の沖によるといふなる海苔の新しきは先ず棚の仏にまゐらせて山家にありて遠く海草の香をかぐとぞいふばかりなる》。品川の沖というのは、大森の沖と言っても良いだろう。いわゆる「大森海苔」である。けれどもこの一節は、大森を描いたというより、海のない信州において、海苔が汐の香りを運んで来る感を描いたものである。
とうとう、残るは「藪入」と「鼠をあはれむ」の二詩のみ。結局、東京の情景を描いた詩はないのかと、「藪入」を読み始めると、《朝浅草を立ちいでて》。ようやくお目当ての東京の地名が出て来た。とは言っても、「大森海苔」を引きずって、「浅草海苔」が思い出される。また、汐の香りになってしまうのか。

――朝浅草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷しわれは今
こひしき家に帰るなり――

これは大丈夫。「鼠をあはれむ」には東京の地名は出て来ないので、まさしくこの詩が『藤村詩集』に収められた唯一の「東京の情景」を描いた詩である。
藪入りで、浅草の奉公先から、深川のわが家へ帰る様子であろうか。詩の主人公は隅田川に沿って深川にむかっているが、

――大川端を来て見れば
帯は浅黄の染模様
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か――

奉公先からしばし解き放たれた浮き立つような嬉しさが伝わってくる。
藪入りは商家などの奉公人が、盆と正月の年二回、実家へ帰る風習である。浅草は商家が多く、藪入りともなれば、一日という限られた時間の中で、少しでも長く実家にいることができるよう、急ぎ足の奉公人がたくさん見られたのだろう。
それにしても、小諸に住んでいる藤村、しかも藪入りで実家へ帰るという経験などないはずの藤村が、なぜ、わざわざ東京の藪入りの光景を詩にしたのであろうか。

――柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁り舟の艪の音は
静かに波にひゞくかな
 
白帆をわたる風は来て
鬢の井筒の香を払い
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり――

明治中頃と言って良いだろうか。当時の隅田川(大川)の情景が目に浮かぶ。と同時に、私は滝廉太郎作曲の『花』を思い出した。『花』が発表されたのは、『落梅集』刊行の一年前の1900年である。《春のうららの隅田川・・・》の歌い出しで有名な歌詞。作詞したのは武島羽衣。1897年から東京音楽学校で教えており、ここへ1898年、藤村が入学している。武島と藤村はともに1872年の生まれであり、『花』の発表に藤村も刺激され、隅田川をテーマに詩を創ってみたいと思ったのではないだろうか。そう思って、「藪入」を『花』のメロディーで歌ってみたら、素直に歌うことができた。
詩は続く。

――潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿――

隅田川の水は東京湾へ流れ込んで、海水と混じる。品川の沖辺り。自分も同じ川下へむかっている。そして、なつかしい深川の実家に到着。「宿」とは、ここでは実家を指している。
ここまでで、「上」が終って、詩は「下」に入る。

「下」は実家から奉公先へ帰る場面。あっという間に夕方になって、いとまごいをして見返ると、「蚊遣に薄き母の影」。歩みは重い。「西日悲しき土壁の まばら朽ちたる裏住居」「南の廂傾きて」など綴られて、

――夕日さながら画のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川――

こうして、奉公先に近づき、

――茶舟を下す舟人の
声遠近に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲――

茶舟というのは、物売り舟や荷物などを運ぶ小舟のことである。陸上で言えば、物売りの車や荷車にあたるだろう。きわめて日常的な光景である。そのような隅田川の川岸から、もう一度、実家のある深川の空を眺めて、詩は終わっている。
藤村にしては珍しく、東京の情景を詠んだ詩である。さて、「大川愛」に満ちた芥川なら、どのような詩を創っただろうか。
【文豪の東京2――島崎藤村】

第5回 東京へ戻る

1910年、1月から読売新聞で『家』の連載が始まり、漱石が危篤に陥った「修善寺の大患」が起きた8月、柳子が生まれた。柳は柳橋に因んだのだろう。ところが産後の出血のため妻フユが亡くなってしまい、さっそく育児に困ることになった。藤村は三男の蓊助を姉高瀬その(園子)に託し、生まれたばかりの柳子を、長兄秀雄と妻松江の娘、藤村にとっては姪にあたる西丸いさ子の紹介で、茨城県大津(現、北茨城市)の漁師鈴木家に預けた。
柳橋の家には、藤村と長男楠雄、二男鶏二が残った。そのため、漱石の作品で言う「下女」を雇うとともに、次兄広助の長女ひさ(久子)が家事・育児を手伝うためやって来た。そして、翌1911年春には、三輪田高等女学校を卒業したばかりの広助の二女こま子も藤村のもとにやって来た。こま子は1893年にソウルで生まれたため、「こま(高麗)」子と名づけられた。木曽から出て来て、三輪田高等女学校3年に編入で学んでいた。
1912年6月。ひさが藤村の世話で、外交官田中文一郎と結婚し、こま子が残った。間もなく天皇が崩御し、元号が大正に改まった。何時しか藤村はこま子と肉体関係をもつようになり、秋の終り頃、こま子は藤村の子を身ごもった。21歳の年の差があるものの、藤村は妻を亡くしており、こま子は未婚であるから、それだけからみれば「不倫」と呼べるものではない。天武天皇は姪(持統天皇)と結婚し、草壁皇子を設けている。とは言っても、1898年に定められた日本の民法で、姪との結婚は禁じられている。
1913年1月。事態が明るみに出て、こま子は実家に戻った。当時、妻籠宿本陣島崎家15代当主広助の家は明治学院のすぐ南隣、芝区二本榎西町3番地にあった。現在の白金台2丁目・高輪3丁目。二本榎西町は1番地から3番地までしかないので、各番地の範囲が広く、番地だけで場所をピンポイントに特定することはできないが、3番地は現在白金台2丁目に含まれる。
藤村は子ども達を次兄宅に残して、4月、フランスにむけて出発し、5月、パリに到着した。下宿を紹介したのは生馬である。8月、こま子は男の子を出産し、すぐ他所へ出されたが、この年、広助夫妻にも二男正二郎が生まれている。こま子にとって弟にあたる正二郎は、後に妻籠宿本陣島崎家16代当主となる。
それから1年。1914年8月、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が始まり、しだいに戦況が悪化。1915年6月頃には帰国を決意したが、帰国費用の調達がうまくいかず、1916年4月、ようやくパリを発ち、ロンドン、喜望峰を経由して、7月に帰国。芝の広助の家に戻った。家には、広助夫妻の他、藤村の長男楠雄、二男鶏二、広助夫妻の二男正二郎、それに二女こま子も一緒に暮らしていた。
けれども広助一家の経済状態は良くなかったようで、藤村は一家を根津宮永町に移すとともに、作品を書くだけでなく、早稲田・慶應で教えたり、イベントを開くなど、さまざまな方法で金策を図った。本郷区根津宮永町は現在の文京区根津1丁目・2丁目の言問通りから南東側。
藤村が帰国した年の12月、漱石が亡くなった。年が明けて、帰国から1年近く経った1917年6月。藤村は仕事場を芝区西久保桜川町2番地にある高等下宿風柳館に移した。愛宕山の北、現在の虎ノ門1丁目。新橋駅までは徒歩でも10分ほどのところ。北隣の芝琴平町には金刀比羅宮があり、漱石の『野分』の主人公白井道也が東京へ戻って来た時、最初に住んだところとして設定されている。藤村が借りたのは奥の二間である。
こま子は根津宮永町に住んでいたが、手伝いと称してたびたび藤村のもとを訪れるようになっていた。そして、いつしか肉体関係も復活していったと言うが、克明に記録するはずもなく、何時、どこで、真相はわからない。

芥川龍之介や室生犀星が結婚した1918年。3月、藤村は柳子を引き取った。4月、広助の妻あさが46歳で亡くなった。東京朝日新聞に『新生』の連載が始まったのは5月1日である。読者は小説として読んだとしても、多少なりとも藤村を知った人間であれば、岸本と節子が誰であるかわかる。隠しておきたいことが公開されてしまったわけだから、広助としても弟藤村を許せるはずもなく、7月、こま子は台湾に住む伯父秀雄のもとに預けられた。
10月。藤村は麻布区飯倉片町33番地に転居した。現在の麻布台3丁目。東京タワーの西500mの位置にあたる。この地域は武蔵野台地の端にあるため、台地に刻まれた谷が多く見られ、谷道は坂になっている。藤村の家は鼬坂を下りかけたところにあったが、谷は北から南へ開け、全体的に狸穴という地名で、東側の台地上には、現在、ロシア大使館が建っている。当時、隣接する飯倉町3丁目には帝国天文台があった。ここに日本経緯度原点がある。西側の台地上には香蘭女学校があった。
このように書くと、何ごともなかったようにみえるが、じつは、この年、夏を過ぎる辺りから、日本でもスペイン風邪の大流行が始まり、学校は休校が相次ぎ、運動会・修学旅行も見合わせが続出していた。電車の運転本数は減り、炭鉱も休業。東京府では、10月28日から毎日平均200人以上亡くなり、全国各地で火葬場が満杯になり、処理できない状態になっていった。まさにスペイン風邪パンデミックのまっただ中の転居であった。芥川龍之介も発症。11月2日には「僕は今スペイン風※でねてゐます。」(※風邪)「熱があつて咳が出て甚苦しい。」とつづられている。龍之介は一週間ほどで回復したが、劇作家の島村抱月は10月29日に発症し、11月5日に亡くなった(二カ月後、愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺して話題になった)。
スペイン風邪パンデミックは1919年も続き、20年になると収束にむかっていった。日本だけで、推定40万人が亡くなった。
藤村は1921年を蓊助引き取ったが、翌22年には長男楠雄を馬籠に送り、1926年には鶏二を馬籠に送った。一方、藤村は1921年に加藤静子と出会った。当時、静子は25歳くらい、藤村は50歳になろうとしていた。津田英学塾に学んだ静子は京橋の浦島病院(産婦人科)の医師浦島堅吉の娘で、母は加藤みき。藤村と出会った当時、みきはすでに川越に住んでいた。静子は4人兄妹だが、いずれも神田猿楽町3-2(小栗坂の近く)が出生地で加藤姓を名乗っている。
初めて私が静子の写真を見た時、「藤村は、この人とフランスで知り合ったのだろうか」「フランス人と日本人のハーフなのか」と思ったくらい、静子は西洋風の顔立ちである。藤村にとって、有能な仕事のパートナーであり、恋愛感情を抱かせる女性であっただろう。藤村は、長い交際を経て、1928年に正式に結婚した。
この間、1923年9月1日、関東大震災が発生した。藤村が住む飯倉片町は、推定震度6弱で、全壊家屋はなく、火災の影響もなかった。昭和に入って、1929年。鶏二がフランス、蓊助がドイツと、相次いで留学し、1931年には楠雄、1935年には柳子が結婚した。すでに藤村は還暦を過ぎていた。
1936年、藤村は国際ペンクラブに出席するため、妻静子を伴って、アルゼンチンのブエノスアイレスへむかった。有島生馬も一緒だった。帰途、アメリカ、フランス、スペインなどをまわって、翌年1月に帰国した藤村は、麹町下六番町の新居に入った。鏡花の自宅から300m足らず、四ツ谷駅のすぐ近く。鏡花が亡くなったのは1939年であるから、当時まだ健在であった。
鏡花宅の向いは有島武夫・有島生馬・里見弴の有島邸。藤村が新居を建てるにあたって、この地を選んだのは、生馬の存在が大きかったであろう。そして、有島邸からすぐのところに、1909年に閉校した懐かしの明治女学校(羽仁もと子1891~92在籍、藤村は1892~93在職)があった。藤村邸をはじめ、鏡花邸、有島邸、明治女学校などが建ち並んでいた通りは、今日「番町文人通り」と呼ばれている。文学に興味があれば、街歩きを楽しむことができる地域である。
1939年、後に第二次世界大戦と呼ばれる戦争が始まり、1940年12月、「戦局に備え65歳以上は東京を去る準備をせよ」、ということもあって、藤村は1941年2月、天明愛吉に紹介されて、神奈川県大磯町東小磯88―9に家を借り、夫婦で移り住んだ。12月には真珠湾攻撃が起こり、日米の戦闘が本格化、太平洋戦争へと発展していったが、日本の戦況が思わしくなくなる1943年、8月22日、藤村は大磯の借家で亡くなった。
【文豪の東京2――島崎藤村】

第4回 東京へ戻る

詩人島崎藤村は1897年8月、『若菜集』を出版して以来、98年6月に『一葉舟』、12月に『夏草』を出版し、一定の評価を受けるようになっていた。けれども、詩人で生計を立てることができる状況ではない。藤村は木村熊二に招かれて、1899年4月、小諸義塾の教師として赴任した。小諸は馬籠と違って、東京から列車一本で行くことができた。
小諸義塾は地元の代議士早川権弥が木村熊二を招いて、1893年に開校された。木村は1885年に明治女学校を設立し、藤村に洗礼を授けた牧師としても知られている。私塾として出発した小諸義塾は、藤村が赴任した年、中学校(旧制)として認可されている。
小諸義塾に赴任した年、藤村は秦フユと結婚した。フユは1878年、函館の大きな網問屋秦慶治の三女として生まれ、その後、明治女学校に学び、1896年に卒業している。佐藤輔子(1871年生まれ)より七つ、星良(相馬黒光、1876年生まれ)より二つ年下である。フユが卒業する前年、すでに輔子は亡くなっており、翌年、黒光が卒業している。在学中に藤村が在職していた時期もあるが、特別な出会いはなく、父親がフユの結婚相手の紹介を明治女学校校長巌本善治に依頼していたところ、藤村を紹介されたという。やがて、長女緑、二女孝子、三女縫子が生まれた。
小諸において藤村は、1902年8月、『落梅集』を出版した。その中の「千曲川旅情の歌」には、有名な「小諸なる古城のほとり」も含まれている。1904年には、以上四つの詩集を合わせた『藤村詩集』が出版された。一方、藤村は1900年から『千曲川のスケッチ』と称して散文を書き始め、さらに小説へと幅を広げていった。小諸のある佐久地方を舞台にした『旧主人』や『藁草履』が書かれたのは1902年。詩と違ってずいぶん生々しい内容で、『旧主人』(「明星」に発表)は発売禁止処分を受けた。
1903年には藤村に傾倒する画家の有島生馬が小諸まで会いにやって来た。生馬は藤村より10歳若く、交流は生涯にわたって続き、藤村の葬儀委員長も務めている。
余談だが、私も小さい頃、巡回で絵を教えに来た生馬と会っている。東京から有名な画家が何人も来るということで、とても興奮しており、私の手を取って指導してくれた女の先生の記憶は鮮明でも、生馬の印象はあまりない。それでも、絵のすばらしさに圧倒されたことは覚えている。そんなわけで、私は中学になって初めて知った有島武郎より先に、生馬の名を知っていた。
生馬のような「藤村ファン」もでき、詩人・小説家としての地位が築かれ、文壇で知られる存在になって来たと言っても、文壇で活躍しようと思えば、やはり小諸では不便である。しかも、学校経営の行き詰まりから給与も下がっていく。ついに藤村は上京を決意し、1905年4月、小諸義塾を辞め、家族を連れ、書きかけの『破戒』の原稿を持って、東京に戻った。まだ、日露戦争の最中。漱石は『吾輩は猫である』を書き続けていた。

藤村、33歳。明治学院時代の友人で画家の三宅克巳に紹介され、一家が住んだのは豊多摩郡大久保村西大久保405。現在の新宿区歌舞伎町2丁目にあたり、明治通りと職安通りが交差する新宿七丁目交差点(東新宿)の南西一角。その当時は東京近郊の雰囲気が残る地域で、現在の職安通りのルートに田舎道が通り、道に沿って農家が並んで路村を形成し、周囲に畑が広がっていた。それでも、1903年に登場した路面電車が、年末には新宿まで開通していた。坊っちゃんが就職したのも東京市街鉄道(街鉄)である。上京した藤村が東京近郊に住んだのは、市街地に比べ家賃が安かったからだろう。
上京した翌年にあたる1906年。自費出版した『破戒』は好評で、すぐ売り切れた。けれども、定職をもたず、東京での生活は苦しく、前年5月に三女縫子が亡くなり、1906年になって、二女孝子、長女緑が相次いで亡くなった。栄養失調が大きく影響したと言われている。藤村は10月、三人の娘を失った大久保村の家を後に、妻と一歳になった長男楠雄を連れて浅草区新片町1に転居した。現在の台東区柳橋1丁目で、まさに柳橋花街の真っただ中。隅田川はすぐである。
柳橋花街と言えば、鏡花の『婦系図』。お蔦(蔦吉)は柳橋の芸者として設定されている。主税の大恩ある酒井俊蔵が、主税を引っ張って柏家に乗り込む場面。《淺草橋を渡果てると、富貴竈が巨人の如く、仁丹が城の如く、相對して角を仕切つた、横町へ、斜めに入つて》柳橋の花街を歩き、柏家(柏屋)に到着した。『婦系図』が発表された1907年。藤村一家はまさに柏家が設定された柳橋花街に住んでいた。
薪炭・ガス両用の炊飯専用竈である富貴竈を製造販売する阿部彦四郎商店は浅草区茅町1丁目2番地、浅草橋を渡って、川沿いの道のつぎの道、浅草下平右衛門町の真ん中を隅田川へむかう道の角にあった。アイスクリーム製造機や葡萄酒冷器なども販売する商店で、重厚な立派な建物だったのだろう。相対する仁丹は4番地にあたると思われる。「大礼服マーク」が入った突き出し看板が取り付けられた薬店が角にあったと推定される。森下南陽堂(現、森下仁丹)は1900年、梅毒新剤「毒滅」を発売、目立つ突き出し看板を全国の薬店に取付、宣伝に努めていた(「森下仁丹」ホームページ参照)。梅毒は花柳病とも言われており、花柳の街柳橋の入口に仁丹の看板を掲げた薬店があっても不思議はない。
逗子に住む鏡花が『婦系図』を発表した1907年。9月に、藤村・フユ夫妻の二男として鶏二が生まれた。けれども、藤村は『春』の執筆に集中するため、同じ月、佃島の海水館に一人移り住んだ。『春』は漱石の『坑夫』の後を受けて、1908年4月から朝日新聞で連載が始まった。12月には蓊助が生まれた。
海水館は1905年創業の割烹旅館で、京橋区新佃島東町2丁目(現、中央区佃島3丁目11)にあり、晴海運河に面している。藤村や小山内薫の他、多くの文士・画家・俳優が泊まり込みで作品を書いたり、憩いや交流のひと時を過ごした。関東大震災で焼失し、形態を変えて再建された。
徳川家康が大坂の佃村の漁民を呼び集め居住させた佃島は一辺100m×150mほどの長方形をした小島で、後に北側の石川島、東側の新佃島と一体化して、今日の佃1丁目~3丁目が形成された。
佃島というと、佃煮を思い浮かべる人が多いだろうが、私にとって佃島は1960年から64年にかけて放送されたNHKのテレビドラマ『ポンポン大将』。佃島が舞台で、隅田川を行くポンポン船のむこうに見える東京タワー。私にとって、ふるさとの風景のように懐かしい。佃の渡しは1964年、佃大橋開通にともない廃止された。東京タワーと言えば、ほぼ同じ頃、放送された『ホームラン教室』。丘の上の小学校からは東京タワーが見える。二つのドラマに出演する小柳徹は格好良く、「東京の子」に対する憧れをかきたてた。芸能界を順調に歩み、私もその活躍を頼もしく思っていた1969年。小柳徹の交通事故による突然の死は、私に大きな衝撃を与えた。
【来館者10万人突破記念】

五木寛之と私と金沢

『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』の執筆から販売までの作業の中で、私は金沢のことを思い出す機会が多くなり、金沢に対する懐かしさがよみがえってきた。私は書店でふと目にとまった『五木寛之の金沢さんぽ』(講談社文庫、2019年)を、躊躇なく購入した。
五木寛之という人は金沢の生まれではない。けれども五木は金沢を「もう一つの故郷」と言い、数年過ごした金沢を離れた後も、足しげく金沢に通っている。そんな五木に私はとても親しみを感じる。一度も会ったことはないが、五木寛之という名前を聞くと、肌のぬくもりを感じるのである。それはおそらく、わずかの期間であったとしても、私のすぐ近くに五木が実際に住んでいたからだろう。

1953(昭和28)年、大学生の五木寛之は、内灘闘争支援のため、初めて金沢にやって来た。宿泊した旅館は小立野にあった。どこの旅館かわからないが、小立野には金沢大学医学部付属病院や国立病院があり、治療や見舞いのためにやって来た人たちが宿泊するため、いくつか旅館があった。当時、私が通っていた石引町小学校は、市内電車の「小立野・大学病院前」終点のすぐ近く。

つぎに五木は1965(昭和40)年8月、ソ連・北欧の旅から帰国すると、金沢に移住した。なぜ金沢なのかについて、五木は『五木寛之の金沢さんぽ』で、東京はあまりにも物分かりが良過ぎて、もっと頑固な、もっと古い日本の街に住みたい、《それは金沢しかなかった》、《私は東京と正反対の街に住みたかったのだ》と書いている。そうであるならば、私は「金沢と正反対の街」に住みたいと思って、東京に憧れたことになるだろう。もちろん、五木にとって、結婚相手の岡玲子の実家が金沢にあったことも大きいと思うが、五木は《個人的な事情もあったが、それはたいした問題ではなかった》と記している。
五木より二歳年下の岡玲子とは、早稲田大学時代に知り合ったという。玲子は版画家としても有名であるが、早大の後、医大に入り、精神科医になった。結婚した1965年当時、玲子は福井の精神科病院に勤務しており、《毎週末に列車に乗って金沢へ帰ってきた》。
金沢へ来て、五木が住んだところは《刑務所の真裏のアパートの二階》《東山荘という安アパート》《風呂もなく、電話もない》。《当時はそのアパートのむかい側に、金沢刑務所の長大な煉瓦の塀がそびえていた》。当時、私は高校三年生で、刑務所の煉瓦塀に沿って歩いて、ちょっと横道に入ったところ、金沢少年鑑別所の塀の真裏に住んでいた。この時、まぎれもなく、五木は私と同じ町内に住んでいたのだ。私はすでに文学に興味をもち、詩や短編小説を書いていた。もしその時、私が五木の存在を知っていたら、遊びに行っただろうが、五木はまだ無名だったのである。
東山荘というアパートは、刑務所の真裏にある鶴舞坂の下り口にあった。鶴舞坂は坂の上から医王山や戸室山がよく見え、子どもの頃、遊びに行くため何度となく上り下りしたお気に入りの坂である。どうしてもこの坂をポイントに小説を書きたいと思ってきた私は、舞台の多くを小立野に設定し、自らの運命に適応しながら、たくましく、しなやかに生きる少女を主人公に『鶴舞坂』という題名で小説を書いた。幸いこの作品が金沢の作家井上雪の目にとまって、雪嶺文学の同人に加えてもらうことになった。
金沢刑務所の正門は確かに立派で、刑務所が移転して、跡地が金沢美術工芸大学になった時、学校の正門として刑務所の正門をそのまま使えば良かったのではないかと、五木は書いている。私はその正門をくぐって、何度も刑務所の中に入った。と言っても、強制的に入れられたのではない。受刑者たちがつくった木工製品など展示即売会。床屋にも何度か行った。
私は1966年4月、大学進学のため金沢を離れた。五木は1967年、直木賞を受賞し、一気に全国区の有名人になった。
そのような五木は東山荘から、《小立野の病院の敷地の一角》に引越した。夫婦が共に暮らすことができるよう、玲子が福井の精神科病院から、親族が関わる病院に転勤したのである。こうして、「刑務所裏のイツキさん」から「病院横のイツキさん」になった五木は、つぎのようなエピソードを紹介している。《或る日の午後、外から帰ってくると、無人のはずの座敷にだれか坐っている。失礼ですが、と、たずねてみると、開放病棟の患者さんだった。ぜんぜんわるびれずにニコニコ笑っている。その後も、座敷わらしのように彼は自由にやってきて坐っていたものだ》。
この精神科の病院は、東山荘から数百m、小立野台地を奥へ行ったところにあり、だらだらと田上へ下る坂の下り口辺りにあった(現在、この病院は田上本町へ移転している)。石引町小学校は私が三年生になった時、﨑浦小学校との合併を前提に、先行して現在の小立野小学校校地に移転した。鉄筋コンクリート三階建ての新校舎である。教室から医王山・戸室山の見えるのが嬉しかった。病院はバスで1停留所のところにあり、途中に当時としては珍しいテレビのある家があって、屋根のアンテナが目立っていた。とにかく一帯は私の遊び場で、病院の前もよく通ったが、後にこの病院の横に五木夫妻が住むことになる。
五木は小立野に実家がある女性を配偶者に選んだためか、金沢において住んだところはすべて小立野である。五木は小立野について、《天徳院だの、如来寺だのといった寺があったり、金沢大学の医学部や、赤煉瓦の塀が威容をほこる刑務所などもあって、なかなかおもしろい一画でした》と書いている。小立野に過ごした人間にとって嬉しい言葉である。
なお、岡玲子の父岡良一は医師で、戦後長い間、石川1区から選出され衆議院議員(日本社会党公認)を務めた。同じ小立野の住人ということで、子どもの私にもなじみのある人物だった。衆議院議員選挙で落選して5年ほど経過した1972年、岡良一は金沢市長選に立候補して当選、6年ほど市長を務めた。市長になった年、金沢美術工芸大学が赤煉瓦の塀が威容を誇った刑務所の跡地に移転した。もし、この時、五木が東山荘に住んでいたら、「美大裏のイツキさん」と呼ばれたことだろう。在任中に泉鏡花文学賞を創設し、五木と金沢の結びつきはますます強められた。
私は岡良一に直接話しを聞く機会があったわけではないが、彼の考え方が、五木と岡玲子を結びつけ、また五木が金沢と出会うきっかけになったのではないかと推察している。

『五木寛之の金沢さんぽ』には、主計町や「くらがり坂」「あかり坂」などがよく出てくる。鏡花についての記述も多く、「ふりむけば鏡花」という章も設けられている。その中で五木は、鏡花という作家は、鴎外や漱石など同時代の作家たちに非常に高く評価され、また志賀直哉は少年時代に鏡花文学を非常に愛好していたと記し、《鏡花はカルチャーとして自分の文芸の世界を作り上げた作家と言うよりは、むしろ、サブカルチャーの世界との近親性、血縁関係を持ちつつ、その作品は今の時代まで受け継がれてきたと言ってもいいと思います》と述べている。
五木は、中原中也の「サーカス」という詩も紹介している。
―― ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん ――
中也は五歳か六歳の頃、父親とともに金沢に住み、北陸学院の幼稚園に通った。つまり、中也は私の幼稚園の先輩にあたる。北陸学院は、鏡花も学んだ北陸英和学校を源流にもっている。北陸英和は小立野に移転し、尖塔のある校舎を建てた。尖塔の校舎のことや中也のことは、鏡花と絡めて『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』(雪嶺叢書)に書いた。

『五木寛之の金沢さんぽ』を読んでいると、懐かしく思い出されることがいくつもある。
五木は、金沢に初めて来て泊まった旅館の宿帳に「士族、平民」という文字が印刷されていて、《金沢という街に対して本気で腹を立ててしまった》と書いている。「そうだ、そうだ」と私も思い出したことがある。子どもの頃、確か、如来寺というお寺の近くだったと思うが、「士族 ○○」と書いた表札を掲げた家があった。私は金沢に生まれたので、腹を立てることはなかったが、このような表札が残る伝統的な城下町を故郷にもったことに、ちょっぴり誇りを感じながら、金沢は「発展しない都市なのだ」、と思った。
市電。五木は《青いバッタのような車体もおもしろかったが、車掌さんのなかに、愉快な人がいて楽しかった》と書いている。車体番号が二桁・三桁の電車は緑色で、大正時代製造のものもあった。二桁の電車は明治時代の電車として描かれる形をしていた。四桁、2000系からはボギー車で、クリーム色とエンジ色のツートンカラーに塗られていた。愉快な車掌とは、あの人だろうと想像がつく。
小立野から市街へ出る時、兼六園を迂回するコースとして、尻垂坂、広坂があるが、《ぼくにかぎらず、道を急ぐ金沢の住民は、だれもそのふたつの坂を降りてゆこうとはしません。下校する女学生も、買物を急ぐ主婦も、みなストレートに兼六園の中を通りぬけるのです》と五木は書いている。私も石浦神社横から小立野に引越して、しばらく本多町にある幼稚園まで歩いて通ったので、必ず兼六園の中を通った。その後も、市電に乗れば尻垂坂、自転車の時は広坂、そして徒歩の時は兼六園を抜けた。兼六園有料化は、市民にとって生活道路を奪われたようなものである。
小立野の家から、香林坊・片町といった繁華街へ出た五木。しばしば書店巡りをしている。《北国書林、宇都宮書店、福音館》という書店の名前は私にとっても懐かしい。私もよく書店巡りをした。「福音館」は出版社として全国区になったが、キリスト教にもとづく書店として、真宗の強い金沢で産声をあげたことは驚きである。「北国書林」は私の中では専門書の多い書店として印象がある。現在、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を扱ってもらっているから書くわけではないが、もっとも足を運んだのは「宇都宮書店」だろう。当時は片町にあった。
「郭公」や「蜂の巣」といった喫茶店の名前も懐かしい。とくに「郭公」は高校時代、よく行った。落ちついた雰囲気で、友人たちと話しは大いに盛り上がった。青春の心地良い思い出のひとつである。けれども、後に知ったことによると、高校では喫茶店に入ることを良しとしていなかったようだ。

1970(昭和45)年1月、五木は横浜へ転居した。私は3月に大学を卒業したが、金沢に戻ることはなかった。後年、私は五木寛之が金沢に、それもすぐ近くに住んでいたことを知り、身近に感じるようになったが、五木がたびたび「蓮如さん」の名前を書き、あるいは語っており、子どもの頃から「蓮如さん」という言葉を聞いて育ってきた私は、五木もまた「金沢人」であると、いっそうの親しみを感じるのである。
五木は清沢満之の北陸三弟子の筆頭といわれた暁烏敏について書いている。清沢とともに『歎異抄』を世に広めた人物である。清沢満之は漱石に大きな影響を与えた浄土真宗の僧侶・宗教家である。やはり、この文章の最後は漱石で締めておきたい。漱石の親友米山保三郎が金沢出身であったことに加え、大谷繞石が住んでいたので、漱石は金沢に一度行ってみたいと常々思っていたが、実現しないままこの世を去ってしまった。


連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第6回:戦争の影

ここまで、全体的な話しの後、各論として、「那美という女性」、「水死美人」、「那古井は桃源郷か」という三つのテーマでお話ししてきましたが、「戦争の影」というテーマで、【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】を締めたいと思います。
「桃源郷」について語った後に「戦争」の話しは不似合いかもしれませんが、そもそも「桃源郷」に住んだのは、秦の戦乱を避けて来た人たちですから、初めから「戦争」つながりです。しかも、先ほど紹介したように、漱石は『草枕』の第8章で、《この夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る》と書いています。
漱石は、けっして内向きの、内向的な作家ではありません。外向きの、きわめて外向的な作家で、その時どきの現実世界をしっかり見据えた「社会派」の作家です。漱石は日露戦争最中に『吾輩は猫である』で作家デビューし、第一次世界大戦最中に『明暗』を書き終わらないうちに亡くなりました。干支が一回りする程度の小説家としての人生は、戦争に始まり、戦争に終わったのです。否応なしに戦争と向き合わなければならない時代を生きたのです。
『吾輩は猫である』は日露戦争中に書かれたので、吾輩も日本の猫だから日本贔屓で、東郷大将やバルチック艦隊、招魂社なども出てきますが、迷亭が母から届いた手紙に触れる場面で、漱石は迷亭に《そのあとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ》と言わせています。
さらに、『趣味の遺伝』は《天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人の睦まじき様を目撃する度に、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す》という一文で終わっています。
こうした作品に対して『草枕』は日露戦争が終わった翌年に書かれていますが、時代設定は日露戦争中です。この『草枕』の大きなテーマは「非人情」です。『吾輩は猫である』や『趣味の遺伝』で漱石がみせた「戦争」に対する態度は、「忠君愛国」の世の風潮を、まったく意に介さない、「同調圧力」とは無縁な感じです。なぜ、そのような態度を漱石がとったのか、とることができたのか。「非人情」の観点から書かれた、つぎの一文が糸口になりそうです。『草枕』第1章の真ん中あたりです。《恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。従ってどこに詩があるのか自身には解しかねる。これがわかる為めには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ》。
最終の第13章。吉田の停車場へむかう舟の中。
戦場へ行くのは久一。その久一に対する那美、隠居の言動が描かれています。
那美は久一に「軍さは好きか嫌いか」訊き、「御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」と言い、さらに汽車に乗る前にもう一度、「死んで御出で」と念を押すように言っています。
隠居は「いくら苦しくっても、国家の為めだから」と言いつつ、「目出度凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家の為めではない」と言って涙を流すのです。
那美の久一に対する態度は、「忠君愛国」的ではあるけれど、きわめて第三者的、他人事。そのような態度が気になったのか、那美の兄が《「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」》と話しを向けます。自分の事として捉えさせようとしたのでしょう。これに対して那美は、《「わたしが?わたしが軍人?わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます》と反論。
このような言動に対して、漱石は一々評価することをせず、余の言葉を借りて、場面全体を「非人情」をテーマにまとめあげていきます。久一は何も云わず、横を向いて、岸の方を見ています。
――《岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋いで、一人の男がしきりに垂綸を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足を引いて、その前を通った時、この男は不図顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人の間には何等の電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の鮒も宿る余地がない。一行の舟は静かに太公望の前を通り越す。日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何等の説明をも求めなかったのは幸である。顧り見ると、安心して浮標を見詰めている。大方日露戦争が済むまで見詰める気だろう》。――
「非人情」を装いながら、戦地へ赴く人の思いをズバリ描いている感じがします。「非人情」に徹したからこそ、かえって見えて来た本質がある。「非人情」であっても、けっして「不人情」ではない漱石が見えてくるようです。
久一さんは戦死したのか、無事、戻って来たのか、それはわかりません。日本は日露戦争に勝ち、サハリン南部を手に入れ、朝鮮支配の足掛かりを得ました。けれども、この戦争、庶民の立場から見れば、いったい何だったのか。日露戦争が終わって数年。1908年に書かれた『三四郎』では、汽車の中の爺さんの話として、《自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んでしまった。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云うものはなかった。みんな戦争の御蔭だ》。そして、広田先生の言葉として、《「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。》《三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った》。漱石はこのように書いています。
漱石の「平和主義」が実現すれば、全人類が「桃源郷」に住むことができるようになるでしょう。けれども、山を越えて「桃源郷」へむかう道は難儀で、一緒に世間の舟に乗って、世の流れに流されて行くことは、安々としています。

このお話しを終わるにあたって、もう一度。「『草枕』とは何ぞや」。
私は、極めて大雑把に、『草枕』とは「漱石の勧工場」、現代流に言えば、「漱石のデパート」であるとまとめたい。品揃え豊富。多種多様な品質の良い品が揃っています。「戦争」とか「平和」とかいうテーマも、漱石の多種多様な関心の一つであって、すべてではありません。漱石は「社会派」の作家であっても、「活動家」ではありません。漱石が「活動家」になっていれば、社会の変革に多少なりとも貢献できたかもしれませんが、組織の煩いの中に、かえって本質が見えなくなっていたかもしれません。
「非人情」に生きる。『草枕』を書くことによって、漱石は自分の立ち位置をしっかり確立させたように思えます。とは言っても、何も仰々しく成果を求めなくても、読者は『草枕』を楽しく読めれば良い。わからないところは飛ばせば良い。漱石は博識で、ユーモアがあり、会話も巧み。漱石は小説を書くと言う「非人情」の時間を楽しんでいるのですから、読者もまた、不安や嫌なことが多い、「人情」渦巻く「現実世界」にあって、しばし、小説を読みながら「非人情」の時間を楽しめば良いのではないでしょうか。
長時間にわたって、ご清聴、ありがとうございました。

★関連する文章を「21世紀の木曜会」に掲載しています。
連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第5回:那古井は桃源郷か

桃源郷は世俗を離れた仙郷、理想郷であって、平和な別天地。陶淵明の『桃花源記』に描かれています。
余が世俗を離れて、しばらくの間、「非人情」の旅に出るというのが『草枕』の設定ですから、余がむかう那古井は「桃源郷」として見立てられているはずです。第4章には、《山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁程の平地となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行って又隆然と起き上がって、周囲六里の摩耶島となる。これが那古井の地勢である》と描かれていて、山へむかうのと反対に海の方へむかってはいるものの、表現的には「桃源郷」を予感させます。
「桃源郷」に住んでいた人たちは、秦の戦乱を避けて隠れ住んで以来、数百年にわたって戦乱を知らず、平和のうちに過ごしてきました。ところが、『草枕』では、すでに那古井へむかう茶店において戦争の話題が出てきます。そして那古井において、戦争のにおいは次第に色濃くなり、ついに那美の従弟にあたる久一が出征する場面に至ります。「桃源郷」どころではありません。すでに漱石。第1章で、《海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いは中々取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ》と、冒頭から「桃源郷」を否定しています。
そもそも、向う三軒両隣りにちらちらする唯の人でつくられた「人の世」、「人情」の世界。「人の世」から引っ越す国はないのですから、「人の世」に「桃源郷」などあるはずがないのです。ないのは承知で、しばらくの間、「非人情」を気取ってみようというのが『草枕』。こんなところが、漱石のユーモア、遊び心です。

この那古井のモデルが熊本県の小天温泉であることは、よく知られています。
熊本市内、現在の上熊本駅近くから延びる県道1号線のルートで、金峰山を北に回り込み、23km程で小天温泉に着きます。東の山側から次第に西にむかって下りて行く。最後、岡のような山が途切れると、干拓地があり、有明海の向うに雲仙岳が聳えています。『草枕』で言う摩耶島とは、島原半島そして雲仙岳を指しています。「桃源郷」ではありませんが、小天温泉のこの風景は確かに絶景です。
1897年末から正月を過ごすため、友人と小天温泉にやって来た漱石は、地元の名士・前田案山子が来客をもてなすため建てた温泉付き別邸に宿泊しました。その別邸がある位置は、志保田の宿として、《温泉場は岡の麓を出来るだけ崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構であるから、前面は二階でも、後ろは平屋になる》と的確に描写されています。9年後に『草枕』を描くから、しっかり見ておこうと思ったわけでもないのに、別邸のことを、よく記憶していたものだと感心します。

ところで、「地理屋」としては、気になることがあります。
余は東京を出発し、漱石も降り立った池田停車場、現在の上熊本駅に到着し、先ほど紹介したルートで、歩いて那古井へやって来ました。これは小天温泉へむかう一般的なルートです。それが、久一を吉田停車場、現実には池田停車場に送る場面では、川舟が使用されています。確かに歩くより、舟の方が楽です。しかも一艘の舟に何人も乗ることができます。しかし、「待てよ」です。
那古井として出て来る小天温泉から、熊本市内へ舟で行こうとすると、干拓地の間を流れる唐人川を下って、有明海に出て、河内の沿岸を進み、坪井川に入り、遡って、熊本市街地に入り、熊本城近くで下船し、徒歩で池田停車場へむかうことになります。坪井川は城下町熊本にとって重要な舟運交通路でしたから、川舟で遡ることは納得できます。けれども、たとえ波静かな内海である有明海と言っても、川舟で行くことができたのか、ぜひこの辺は、地元の方に訊いてみたいのですが、私は、この部分、漱石の創作ではないかと考えています。
つまり、徒歩で山越えをしてやって来て、舟で川を下って行く。漱石はそこに何か意味をもたせたのではないか。そのために現実に合わない設定をしたのではないだろうか。『草枕』は小説であり、仮構の世界を描いたものですから、現実と合わないからと言って、漱石が責められる筋合いのものではありません。
第1章を見てみましょう。志保田のお嬢様の嫁入りについて、茶店の婆さんと馬子の源兵衛が話している場面です。源兵衛が《「そうさ、船ではなかった。馬であった。矢張り此所で休んで行ったな、御叔母さん」》と言っています。馬で行ったことはすでに語られているのですから、あえて「船ではなかった」と言う必要はありません。これはあくまでも読者向けであって、那古井から城下へ行くルートは「山越え」と「船」と二つあることを印象づけたかったのだと思います。あえてこのようなことをしたのは、小天温泉と熊本市街地を船で結ぶルートのないことを、漱石がわかっていたからではないでしょうか。
そして、最終の第13章。川を下って城下へむかう舟の上。那美が《「あの山の向うを、あなたは越して入らしった」》と、夢の様な春の山を指します。ここで、那古井から城下へ行くルートは「山越え」と「船」と二つあることを、読者にもう一度印象づけるのです。
このような仕掛けをしたと言うことは、やはり漱石が「徒歩による山越え」と「舟による川下り」とに意味をもたせようとしたからでしょう。
それでは、どのような意味をもたせようとしたのか。
第8章。隠居つまり那美の父親の部屋で、隠居、観海寺の和尚、出征する久一、それに余が集まった場面。和尚が隠居に、久一を吉田の停車場まで送ってやるように促し、隠居も了承したが、久一は「送ってくれなくてもいい」と断る。それに対し和尚が、《「なあに、送って貰うがいい。川船で行けば訳はない。なあ隠居さん」》と同意を求め、《「はい、山越では難儀だが、廻り道でも船なら……」》と隠居が応じています。
漱石はこの第8章で、つぎのように書いています。《この夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る》。余が難儀して山を越え、やって来た那古井は「桃源郷」どころか、現実世界そのものでした。
そのような中で、「非人情」を貫き通そうとした余は、結局、久一たちと一緒に川舟に乗せられ、ますます「人情」の世界へと流されて行く。停車場へ着いた時の場面は、《愈現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う》と表現されています。
意に添わない結婚のため、難儀して山を越えた那美。世の流れに安々と流されて出征して行く久一。この対比から、漱石は何を訴えたかったのでしょうか。

『明暗』は漱石が途中で亡くなったので、「未完」と言うことになり、水村美苗は『続明暗』を書いています。けれども、『三四郎』だって『坊っちゃん』だって、続編を書こうと思えば、書くことはできます。三四郎は大学を卒業して、どこに就職したのか。坊っちゃんは街鉄の技師として、その後どのように暮したのか、誰と結婚したのか。『草枕』だって、吉田の停車場に久一を見送った、隠居、那美、そして余は、どのようにして那古井へ戻ったのか。隠居がいるので、また舟で戻ったと思われますが、そこまで書いてしまうと、「山越え」と「川舟」の対比は興ざめしてしまいます。「人情」で『草枕』を読むと、そんなところまで気を使うはめになってしまいます。「非人情」に読むから、小説が「完結」した後まで心配しなくても良いのです。

連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第4回:水死美人

各論の二番目は、「水死美人」。水に生命を落とした美人です。なぜこのようなものを取り上げるのかと言えば、「水死美人」は『草枕』において、重要な役割を果たしている、影の主役だからです。
ネットの「猫じゃらし文芸部」に『草枕』を扱った文章があり、その中に登場人物がまとめられています。そこで興味深いのは、「水死したシテ」として、長良の乙女、オフェリヤ、鏡が池の嬢様、という三人の「水死美人」が挙げられていることです。『草枕』が能に見立てられているところから、シテとして位置づけたとみられます。シテというのは、能における主役で、現実の男性の主役であるワキに対して、女性やこの世の者ではない役柄で、多くは能面を付けます。余は「顔が浮かばない」と言って、いろいろな顔を想像していますが、さまざまに能面を付け変えて、「ああでもない」「こうでもない」と言っている感じです。
三人の「水死美人」がシテになったということは、『草枕』の主役は余でも那美でもないことになります。少なくとも、「水死美人」は、『草枕』の底流にある重要なテーマであると言うことができるでしょう。
この「水死」は、『草枕』へ来て突然始まったものではありません。漱石はすでに、『吾輩は猫である』で吾輩を水死させています。前にもお話ししたように、『吾輩は猫である』の最後の部分と『草枕』は、連続して書かれています。このことに注目した神戸大学の芦津かおり先生は、――漱石の『ハムレット』受容:『吾輩は猫である』の「溺死」を手がかりに――で、《これほどまでに執拗に漱石が、『草枕』で水に浮かぶオフィーリア的女性の安らぎ・安楽にこだわることを念頭におけば、その直前の作である『猫』の結末に描かれる水死の安らぎには、すでにオフィーリアの死のイメージが重ねられていると考えるのが順当であろう》と書いています。
さらに芦津先生は、吾輩が甕の中に落ちて水死するという設定は、イギリスの詩人トマス・グレイの『お気に入りの猫の死に寄せるオード』という詩を拝借したものであると指摘していますが、「八度水中から浮かび上がる」くらい長時間に渡ってもがき苦しんだ猫に対して、吾輩はしばらくしてもがくことをやめてしまう。《グレイのオードにはまったく存在しない、この「楽」な水死の着想を漱石はどこから得たのであろうか?》と疑問を投げかけています。
この疑問に対する回答は簡単です。『猫』の最後の一節。《吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死なゝければ得られぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。有難い有難い》。ここで、「南無阿弥陀仏」という念仏が出て来てわかるように、漱石の着想は浄土の教えにあります。生あるものには必ず死がある、そのありのままを受け入れ、最期は、すべての力を抜き、「生きたい」という煩悩も捨て去って、阿弥陀仏にすべてを委ねる。この瞬間に太平が得られるのです。
漱石は持って生まれた高性能の頭脳によって、おそらく子どもの頃から、他の人の何倍も刺激が増幅され、漱石を悩ましてきました。それが夢にまで現れるのですから、いたたまれなかったことでしょう。この世において平穏を得たいと思って模索するも得られず、子規と一緒に模索する中で、清沢満之や親鸞、さらに御文などを通して得られた浄土の教えに、平穏を得る糸口を見出しました。結論から言えば、平穏、太平は死ななければ得られないけれど、それならば死ぬまで悩みや苦しみや不安などと、とことん付き合って生きていこう。何があっても生きていこうと覚悟を決めるのです。
漱石は「死に対する憧れ」はあったとしても、「死にたい」とは思っていません。『草枕』第6章に、《四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人は固より、傍に見て居る親しい人も殺すが慈悲と諦らめられるかも知れない。》《然しすやすやと寐入る児に死ぬべき何の科があろう》、《南無阿弥陀仏と回向をする声が出る位なら、其声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる》、と書いてあるように、人の世を生き抜くことに重きがおかれています。
吾輩は最期まで生き抜こうともがいた末、最期の最期に、すべてを阿弥陀様の手に委ねて力を抜いた、安らかになったのです。
とは言っても、吾輩は猫であり、どちらかというと不細工。喜多床へ行って顔を当たってもらったって、そう変わりゃしません。「水死美人」になりようもありません。『草枕』における「水死美人」の着想は、あくまでもミレーが描いた「オフェリヤ」にあるでしょう。ミレーがどのような思いで、水に生命を落とした美女「オフェリヤ」を描いたか分かりませんが、漱石はその絵を、自分の中にある浄土の教えというフィルターを通して鑑賞したため、煩悩を解脱し、安らかな姿になった「オフェリヤ」から、ひと時の安らぎを感じたのではないでしょうか。西洋画を仏教的に観ると、新たな視点が加わります。

ミレーの絵の中のオフェリヤは川の流れ、つまり水に顔を出して浮いています。このオフェリヤの絵と浄土の教えをキーワードに、イギリス留学から帰国した後の漱石をたどってみましょう。
私は真宗の僧侶でもなければ、仏教学者でもありません。したがって、浄土の教えと言っても詳しいわけではありませんが、水の中に安らぎがあるという発想はないと思います。あくまで漱石の発想で、そのきっかけがミレーのオフェリヤで、そこに浄土の教えが加わり、水の中に浄土の世界が展開したのでしょう。
1903年1月、イギリス留学を終えて東京へ戻った漱石は、熊本へ行かず、4月から東大、一高で教え始めます。そして5月。漱石が教えていた藤村操が日光の華厳の滝から身を投げて亡くなります。16歳。その少し前に漱石は藤村を注意しているので、ずいぶん気にしていたそうです。『草枕』の中にも、この藤村の死が出てきます。結果的に水死とは言っても、じゅうぶんに生き切っていない若者の死を、必ずしも受け入れられず、漱石は安らかな気分にはなれなかったのでしょう。
まさにこの後、漱石の疾風怒濤の時期が始まるわけですが、藤村の死から9か月経った、1904年2月、漱石は寺田寅彦への葉書に、藤村操女子の名で『水底の感』と題した詩を書いています。この詩は、藤村操の恋人が後を追って自殺したという想定で、水底の死後の世界を描いたものです。水川隆夫先生は『漱石と仏教――則天去私への道』という本の中で、この『水底の感』という詩を掲載し、《今西順吉は、この詩を、漱石の描いた極楽浄土のイメージだとしている》と書いています。自分の中で成仏しきれなかった藤村を、無理やりにでも成仏させてしまった感じですが、ミレーのオフェリヤの絵に安らぎを感じ、その水の中に極楽浄土を描いた、それが『水底の感』という詩です。

 水の底、
 水の底。
 住まば水の底。
 深き契り、
 深く沈めて、
 永く住まん、
 君と我。
 黒髪の、
 長き乱れ。
 藻屑もつれて、
 ゆるく漾ふ。
 夢ならぬ夢の命か。
 暗からぬ暗きあたり。
 うれし水底。
 清き吾等に、
 譏り遠く憂透らず。
 有耶無耶の心ゆらぎて、
 愛の影ほの見ゆ。

じつは漱石、この詩を秘かに『草枕』の第7章で紹介しています。《スヰンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがって居る感じを書いてあったと思う》という一文です。イギリスの詩人スヰンバーンが極楽往生など知るはずがないですから、漱石も「居る感じ」と表現しています。このスヰンバーンの詩、「漱石全集」の注釈には、《但しこれは女に棄てられた男が海底に沈むところがうたってある》と書いてあります。スヰンバーンは漱石がイギリス留学時代に活躍していた詩人で、漱石もその詩を原文で読んでいます。藤村は失恋から身を投げたわけではありませんが、スヰンバーンの男を藤村に見立て、女を後追いさせたのが『水底の感』という詩です。
先ほどのスヰンバーンの詩を紹介した一文を、『水底の感』に置き換えて、『草枕』の続きを読んでいくと、とても理解しやすくなります。
《余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を選んだものかと今迄不審に思って居たが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮かんだ儘、或は水に沈んだ儘、或は沈んだり浮かんだりした儘、只其儘の姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない》。少しとばしますが、《ミレーのオフェリヤは成功かもしれないが、彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余である》。ミレーの描いたオフェリヤを観て、水の中に浄土を描き、『水底の感』という詩を生み出したのは、あくまでも漱石です。その安らかな水の中で吾輩を安らかにし、余が安らかにならんために、『草枕』に水に浮くオフェリヤを登場させた。
こんな風に格好良くまとめようとすると、漱石は邪魔をしてくるのです。
《余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いている。世の中もこんな気になれば楽なもんだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、温泉のなかで、温泉と同化してしまう。流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったより有難い》。――温泉の湯舟に足を伸ばして、ゆったりと湯につかっていると、その姿は水から顔を出して浮いているオフェリヤに似ているように思われてくる。と言っても、漱石だって余だって、「水死美人」というわけにはいきません。そこでできたのが『土座衛門の賛』。
  ――雨が降ったら濡れるだろ。
    霜が下りたら冷たかろ。
    土のしたでは暗かろう。
    浮かば波の上、
    沈まば波の底、
    春の水なら苦はなかろ。――
この歌に合わせて、酔っぱらった吾輩が猫踊りをしそうですが、『草枕』では、どこかで弾く三味線の音が聞こえてきます。
古今東西、和漢洋、すべてごちゃ混ぜにして漱石が出来上がる。漱石を読むのは面白い。束の間の人の世を、束の間でも面白く、楽しくしてくれる。「水死美人」は「非人情」に読むから美しい。「非人情」に観るから美しい。家族だと思ったら、観ていることはできません。

『こころ』の先生も水死した。「私」と初めて出会った鎌倉の海で、入水自殺したのではないかと、推測されています。自ら刀を刺し、血を流して果てた乃木将軍と真逆に、血を見せないやり方で先生は死にました。遺体はいまだに見つかっていません。
連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第3回:那美という女性

『草枕』の主人公は疑いもなく余です。余は「非人情」の旅に出たわけですが、もともと画家ですから、その旅の途中で出会った那美という女性を描いてみたくなってしまいます。那美という女性は、始めから余の絵のモデルとして設定された人物です。『草枕』には多くの興味あることが書かれていて、知的好奇心を掻き立てますが、話しの流れからみれば、余の頭の中で、那美の絵が少しずつできていって、最後に完成するという仕組みです。那美を語ることは、ある面、『草枕』のすべてを語ることにつながるかもしれません。各論部分に入った最初は、この那美について、五つの視点からお話ししたいと思います。

第一の視点、「第三者から見た那美」です。
余に初めて那美の情報を伝えたのは、那古井へ向かう途中に立ち寄った茶店の婆さんと、そこへやって来た馬子の源兵衛です。もちろん、まだ那美という名は出てきません。
二人によってもたらされた情報をまとめると、――
那美は5年前、桜の花がほろほろ散る頃、源兵衛の牽く馬に乗って、振袖に高島田で山を越えて、城下で随一の物持ちへ嫁いで行った。相手は器量の良さを気に入ったものだが、那美にしてみれば、京都に修業に出ていた時、好きになった男性との結婚が叶わず、嫌々嫁いで行く身。結局、結婚生活はうまくいかなくなり、今度の戦争で夫の勤めている銀行がつぶれたのをきっかけに、離婚し実家へ戻った。もともと内気で優しい方だったが、この頃は大分、気が荒くなっている。二人の男が祟ったのは、淵川へ身を投げて亡くなった長良の乙女の身の上によく似ている。――おおよそ、このようになります。
つぎに、志保田の宿の小女。小女郎とか下女とか書かれることもありますが、今流に言えば旅館の女性従業員。余は那美に関心をもったため、かなり執拗に質問しています。そこで、――
那美はこの宿の若奥様で、父親もここに住んでおり、母親は去年亡くなった。那美は毎日針仕事をしている他、三味線をやり、お寺の大徹という和尚のところにも行く。――おおよそ、このようなことがわかり、余が今いる部屋は普段那美が使っている部屋であることも知らされます。
続いて、江戸っ子という床屋の主人。余が志保田の宿に泊まっていることを告げ、「奇麗な御嬢さんが居るじゃないか」と言うと、「あぶねえね」と主人。その話をまとめると、――
那美は出戻りで、本来なら出て来るようなことでもないが、銀行が潰れて贅沢ができないと言って出て来た。本家の兄とは仲が悪い。顔は良いが「き印」。村の者はみんな「気狂い」と言っている。その証拠に、観海寺の泰安という下級の僧侶が那美に惚れて手紙を送ったら、那美が寺へやって来て、本堂でお経を上げている泰安の首っ玉へかじりついて、「一所に寐よう」と言ったことがある。恥をかかされた泰安はその晩、こっそり姿を隠して死んでしまった。村中、大笑い。
――このような女だから、余にも「気をつけろ」と、床屋の主人。
ところが、床屋の主人の話しは今一不確か。「色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。――おや待てよ。口説たんだったけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。すると――こうっと――何だか、行きさつが少し変だぜ。うん、そうか、矢っ張りそうか。するてえと奴さん、驚ろいちまってからに…」という状態で、泰安が死んだと言っておきながら、余が「死んだ?」と問い直すと、「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」と、憶測でモノを言っていることがバレてきます。なお、ここで「レコ」というのは、「コレ」をひっくり返したもので、「話しの種」を「ネタ」というのと同じ発想です。
そこへ、観海寺の小坊主了念が登場。「泰安さんは死にはせんがな」「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修行三昧じゃ。今に智識になられよう。結構な事よ」と語り、床屋の主人が「あの狂印は矢っ張り和尚さんの所へ行くかい」と訊くと、「狂印と云う女は聞いた事がない」「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」と、真逆の情報がもたらされます。
志保田の隠居の所へやって来た観海寺の和尚は、那美について、なかなか足が強いと述べた後で、姿見橋の所で会って、どこへ行って来たと訊くと、芹摘みに行った帰りで、「和尚さん少しやろうか」と言って、和尚の袂へ泥だらけの芹を押し込んできたというエピソードを語る。和尚自身の体験であり、那美の父親にむかって言っていることで、この出来事は事実とみて良いでしょう。父親は恐縮している様子です。
那美に関して、もうひとつ。観海寺へむかう途中の鏡ケ池の畔で、余が馬子の源兵衛に会った場面。馬子が昔、志保田のお嬢様が梵論字、つまり虚無僧に惚れて、結婚が叶わず、この池に身を投げたと話し、「これはここ限りの話だが」「あの志保田の家には、代々気狂が出来ます」「全く祟りで御座んす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃します」「御座んせんかな。然しあの御袋様が矢張り少し変でな」と続けています。
このように見て来ると、第三者の中でも、馬子の源兵衛や床屋の主人は那美を「気狂い」と捉えている、おそらく多くの村人も同様でしょう。それに対して、和尚も了念も「気狂い」と捉えていません。
つまり、石段を登ったところにあるお寺の人びとと、「世間」の人びととでは、那美という同じ人物に対する評価がまったく違います。この違いを漱石は、「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう」と言う床屋の主人の言葉で表現しています。
余はまさにその狭間で両方の評価を聞かされるわけですが、漱石はどちらか一方に軍配を上げる素振りはみせません。床屋の主人と了念はまったく反対のことを言っているようにみえますが、泰安が那美に惚れて、そのことがきっかけで観海寺を出て行ったこと、それから、和尚が語った芹の話しも事実のようです。

第二の視点です。
余は実際に接するようになって、那美をどのように捉えるようになったのでしょうか。
余が直接那美に会った初回は、志保田の宿に一泊した翌朝の風呂場。余が湯から出ると、いきなり声をかけられ、背中から丹前をかけられる場面です。
その後、一対一の会話の場面が三回。第一回目は風呂場の一件があった後、那美がお菓子を持って来た場面。第二回目は、余が書物を読んでいた時。余はすでに、床屋の主人、志保田の隠居や観海寺の大徹和尚、久一などにも会っています。第三回目は那美が元夫にカネを渡した後の場面です。
最終の第13章。出征する久一を駅まで送る場面では、余と那美の会話だけでなく、隠居、那美の兄、久一の会話が入り交じっています。
この他、一対一は、那美が振袖姿で現れる場面、余が入っている風呂場へ那美が素裸でやって来る場面に描かれていますが、会話はありません。

第一回目の場面で、那美本人の口から、次のような情報が得られます。那美は田舎言葉を使っていません。――那美は渡り者で、東京にも京都にもいた。父、つまり隠居は骨董が大好きで、他人に見せるのが大好きで、褒めてやれば嬉しがる。茶店の婆さんはもと志保田の奉公人で、長良の乙女の歌は那美が婆さんに教えた。――
こうした情報以外に、所作や話しの内容、対応などから、那美という女性の一端が垣間見られます。
那美は余が部屋で寝転がっている所へ入って来て、「寝てなさい。寝ていても話しはできる」と気作に言い、「退屈だろうとお茶を入れに来た」と、お茶とお菓子を持って来ます。那美は気づかいのできる女性であることがわかります。
ところが、余が青磁の菓子皿を羊羹に対して遜色ないと褒めると、ふふんと笑って口元に侮どりの波が微かに揺れる。余が「こう云う静かな所が却って気楽でしょう」と言うと、「世の中、気の持ちよう一つでどうでもなる。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引っ越しちゃ何もならない」と漱石が乗り移ったように切り返し、余が「蚤も蚊もいない国へ行ったら良い」と言うと、「そんな国があったら、ここへ出しなさい」と詰め寄り、余が写生帖に絵を描いて、「ここへ入りなさい。蚤も蚊もいない」と言うと、「窮屈な世界。そんな所が好きなら、まるで蟹」と切り返す。思わず余は大笑いで、「女のくせに」と反感をもつどころか、すっかり会話を楽しんでいる様子です。
話題は長良の乙女に移って、余が長良の乙女の歌を「憐れ」と評すると、那美は「憐れでしょうか。私ならあんな歌は」詠みませんと言い、「第一、淵川へ身を投げるなんて」つまらない。私なら両方とも男妾にすると言う。そして、那美は余の「成程それじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」という言葉を受けて、「蟹の様な思いをしなくっても、生きていられるでしょう」と応じています。ここで、先ほど鳴きそこなった鶯が「ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうー」と鳴き、那美は「あれが本当の歌です」と余に教えます。
那美を長良の乙女と重ね合わせて、「感傷的な女性」というイメージをつくり上げているとすれば、それは見事に崩されていく。那美はきわめてドライで、「憐れ」を感じさせない女性です。先入観で人間をみることの危険性を知らされる思いです。長良の乙女は「人情」の世界に生きていても、那美は「非人情」の世界に生きている。なるほど、どこかへ引っ越さなくても大丈夫そうです。

第二回目の場面では、那美について新しい情報は書かれていませんが、「小説」「非人情」などについて語られ、『草枕』の山場と言えそうです。
余が本を読んでいると、那美が入って来て、「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」と語りかけ、「何が書いてあるか自分でもよくわからない、開いた所をいい加減に読んでいる」という余に、「それで面白いんですか」。「小説なんか、そうして読む方が面白いです」と言う余に、「余っ程変って入らっしゃる」。余は「初めから読むと仕舞まで読まなければならない」と言って、「あなたは小説が好きですか」と切り返す。那美はあいまいな返事で、小説なんて読んでも読まなくても良いという態度。それじゃ、「いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか」と開き直ると、「あなたと私とは違います」と、反論してくる。余は「若いうちは小説もずいぶん読んだんでしょう」と持ち掛けると、「今でも若い積りですよ」。「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と言えば、「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか」と切り返すだけでなく、「そんなに年をとっても、矢っ張り、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」「ええ、面白いんです。死ぬまで面白いんです」「それだから画工なんぞになれるんですね」と。
さらに那美は、余が読んでいる本を読んでくれと言う。「英語で書かれているから」と言うと、「日本語に訳して読め」「いいじゃありませんか、非人情で」と迫る。途中で、「ドージとは何です」「女が云うんですか、男が云うんですか」「女は?」など質問してくる。時には、「読みにくければ、御略しなさい」「動詞なんぞ入るものですか、それで沢山です」。
これはもう落語の台本。子どもの頃から聞いて来た江戸落語が漱石の中にしっかり根付いている感じです。こうした会話の面白さが、『草枕』の、さらには漱石の小説の魅力になっています。読者は、あれこれ詮索せずに、会話の面白さを楽しめば良いのです。漱石の小説には、高等下宿、高等遊民、ついに高等淫売まで登場しますが、余と那美の会話などは「高等落語」と呼ぶことができそうです。
第三回目の場面でも、「何をそんな所でして入らっしゃる」「詩を作って寐ていました」「うそを仰しゃい。今のを御覧でしょう」と、那美は余の行動をお見通しで、「少々拝見しました」と言う余に、「沢山御覧なさればいいのに」と言い返す。
余が今会っていた男はどこへ行くのか訊ねたのに対し、那美は「満洲へ行くそうです」「御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分かりません」と答えています。この場面でも、「高等落語」が続いています。

第三の視点です。
以上、第三者から見た那美と、余が直に接した那美と、両方について述べてきたわけですが、果たして、那美とはどのような女性なのでしょう。
那美は、床屋の主人、馬子の源兵衛をはじめ、村の人たちから「気狂い」と見られています。けれども、余と那美が対話する二つの場面から、那美の異常性は見えてきません。とは言っても、漱石が那美を「気狂い」と噂される人物に設定したのですから、何かあるはずです。
ところが『草枕』を読み返してみて、私が、那美の異常な行動としてあげることができるのは、和尚の袂へ泥だらけの芹を押し込んだこと、男性が入っている風呂場へいきなりやって来たこと、夜中に振袖姿を見せたこと程度です。
また、余が青磁の菓子皿を褒めた場面で、《女はふふふと笑った。口元に侮どりの波が微かに揺れた》、蚤も蚊も居ない国に触れた場面で、《女は詰め寄せる》、「竹影払階塵不動」と口のうちで静かに読み了って、《「何ですって」と、わざと大きな声で聞いた》などの描写から、相手の内心を読み取る能力の高さや、急に態度が荒っぽくなる不安定さが気になります。
漱石自身、那美を「気狂い」とも、違うとも結論づけていません。実は漱石にとって、そのようなことはどうでも良くて、このような那美という女性を「非人情」を切り口に、どう描くかが重要なのです。
漱石は第12章で、《あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日も居たたまれん。義理とか人情とかと云う、尋常の道具立を背景にして、普通の小説家の様な観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだろう》と書いています。この部分では余を飛び越えて、漱石が直接顔を出しています。これはまずいと思ったのか、漱石はすぐさま《余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。能、芝居、若しくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりも猶うつくしい》と建て直します。
那美という女性に惚れて、結婚したいと思うなら、那美が「気狂い」であるか、ないかは重要かもしれません。けれども、『草枕』という小説には「非人情」というルールがあるのですから、ただ、ありのままの那美の行動を見ていけば良いのです。「果たして、那美とはどのような女性なのでしょう」というような問いそのものが、『草枕』ではルール違反になります。どうも、普通に『草枕』を読んでいくと、相当たくさんのイエローカードをもらって、退場を余儀なくされそうです。

第四の視点です。
この話しの冒頭に申し上げたように、『草枕』という小説は、話しの流れからみれば、余の頭の中で、那美の絵が少しずつできていって、最後に完成するというものです。つまり、『草枕』は有名な《山路を登りながら、こう考えた》で始まりますが、《余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである》という一文で終わるのです。第四の視点は、余の頭の中で、那美の絵がどのように出来上がっていったかです。
余が那美の絵を描きたくなってしまったきっかけは、第2章。茶店の婆さんと馬子の源兵衛が、後に那美とわかる那古井の嬢さまの嫁入りの様子を語る場面です。
茶店の婆さんが「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、折角の島田に斑が出来ました」と語るのを聞いていた余は、《この景色は画にもなる。詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して》、一句出来たものの、絵の方は、《不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった》というのです。観光地などによくある、顔だけ空いていて、そこへ観光客がやって来て、つぎつぎに顔をあてがって写真を撮る。あの装置を思い浮かべれば理解しやすいと思いますが、《しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった》のですが、どうもしっくりしなくて、取り消してしまいます。
オフェリヤというのは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場するハムレットの婚約者で、失意のうちに川の水に果てた悲劇の女性です。
茶店の婆さんの顔は、宝生の舞台の高砂に出て来る婆さんとそっくりで、美しく、じつにしっくりいったのですが、花嫁の顔は浮かばないまま、話しは、第10章、鏡が池の場面まで飛びます。
余は、鏡が池に落ちる真っ赤な椿の花を眺めながら、《こんな所へ美しい女の浮いている所をかいたら、どうだろうと》、ふと想像してみます。これは、川の水に浮んだオフェリヤの姿を描いたミレーの絵、いわゆる「水死美人」からの連想です。この絵はすでに第2章で出て来ているのですが、その時はオフェリヤの顔だけ浮かんで、さすがに西洋人の顔では高島田の下にはめても、しっくりいかなかったでしょう。
それが今度は、オフェリヤの顔ではなく、水に浮かんでいる姿の方が出て来たのですが、川ではなく池、色とりどりの花ではなく真っ赤な椿というように、設定はミレーの絵とは異なっています。そのため、余はあれこれ顔を当てはめた結果、那美の顔が一番似合うようだという結論に達します。
達したものの、那美の顔では何か物足りない。何が足りないのだろうかと、余は考えます。「嫉妬」を加えれば「不安の感が多過ぎる」。「憎悪」は「烈し過ぎる」。「怒り」は「調和を破る」。「恨み」では「只の恨みでは俗」になる。多くある情緒を考えた挙句、「憐れ」を忘れていたことに気がついた余は、那美の表情に「憐れ」の念が少しも表れない、そこが物足りなさの原因であると結論づけます。もともと、長良の乙女に対しても「憐れ」を感じない人ですから、他人を「憐れ」に思う感情を持ち合わせていないのかもしれません。けれども、ひょっとして持ち合わせているけれど、表す機会がないだけかもしれません。
《ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。然し――何時それが見られるか解らない》と多少の期待はもっているものの、《あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない》と、余は那美の顔を評価しています。
最終の第13章へ入ると、余は那美の顔に対する評価を、本人に直接ぶつけます。ずいぶん、相手を傷つける行動です。
那美が久一を送る舟の中で、「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と頼みます。余は写生帖にさらさらと描く。「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象の出る様に、丁寧にかいて下さい」と言う那美に、余は「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」と答えます。それではどうすれば良いかという那美に、「只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」。「持って生れた顔だから仕方ない」と言う那美に、「持って生れた顔は色々になるものです」。「それじゃ、あなたの顔を色々にして見せて頂戴」「これ程毎日色々になってれば沢山だ」と、ここでも掛け合いです。
絵に関する高尚な話しも、結局、ドタバタ喜劇になってしまう。これが『草枕』です。
最後に、那美の表情に「憐れ」が浮かんで、一つ目の花嫁の絵も、二つ目の「水死美人」の絵も、余の頭の中で完成するのです。満洲へ向かう元夫の姿を見つけて、どうして那美が「憐れ」の表情を出したのか、それを考えることは『草枕』を読む上で、ルール違反になります。ただ、那美の表情は芝居ではなく、自然に出たものだと言うことです。

第五の視点です。
これは、必ずしも那美だけに関することではないので、付け足しのようなものかもしれません。
山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズには、毎回寅さんのマドンナ役が登場しますが、漱石の小説にも、『趣味の遺伝』の寂光院の女、『坊っちゃん』のマドンナ、『三四郎』の美禰子、『それから』の三千代など、マドンナ役が登場します。『草枕』の那美もそのような女性のひとりです。那美がいなかったら、『草枕』は面白くないでしょうし、そもそも漱石自身が書く気にならなかったはずです。
漱石だって人間ですから、いくら「非人情」だ何だと言っても、好ましい女性を登場させたり、男と女のきわどい場面の描写や、さらには女性の裸体も描いてみたいでしょう。
『三四郎』には、広田先生が持っている本の中に、裸体のマーメイドの絵の写真が載った本を美禰子が見つけて、三四郎を呼び、さらには与次郎もやって来て、若い三人がワイワイしながら見ている場面があります。女性の裸体を見る場面に女性が入っているところに、明治とは思えない漱石の斬新さがあります。このマーメイドの絵はウォーターハウスというイギリスの画家が描いたものです。ウォーターハウスには「シャーロットの女」という代表作があり、「オフェリヤ」を描いたミレーとともに、漱石がイギリスに留学していた頃にも、一世を風靡していた画家です。
おそらく漱石も彼らの絵を実際に観たのでしょう。「オフェリヤ」も、裸体のマーメイドも不思議な魅力があって、観る人を虜にしてしまいます。漱石もこれらの絵がぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまって、どうしても作品の中に登場させたかったのでしょう。じつは私も裸体のマーメイドの絵の実物を観る機会があって、あまりじっと見つめているわけにもいかず、何度も戻って鑑賞。マーメイドは横向きなのに、眼はしっかり私を捉えて放さないのです。あまりにも忘れ難く、後日、もう一度、美術館を訪れ、別れを惜しみつつ、たっぷり鑑賞してきました。所詮、絵画ですから、私も「非人情」にやり過ごすことができますが、「人情」をはさむならば、どうして人魚になってしまったのか、人間の男性を好きになるのかなど訊いてみたくなるでしょう。心の平穏がかき乱されそうです。
話しを『三四郎』に戻します。三人にとって、「あの偉大なる暗闇の広田先生がこんなものを持っていた」、そんな感じで女性の裸体画を観ていたのでしょう。何やら「漱石先生も同じですよ」と、漱石自身言いたそうな一場面です。
とは言っても、もとより漱石は教師ですから、『吾輩は猫である』に出てくるように、吉原へ見学に行っただけでも、姪から追及される立場。漱石の描写はかなり抑制的です。
『三四郎』では汽車の中で出会った見ず知らずの女性が、旅館の一つ部屋に泊まり、女性は三四郎がいることを承知で、風呂へも入ってきます。『行人』では主人公が兄嫁と、これまた旅館の同じ部屋で一夜を過ごします。きっと漱石も、わくわくしながら筆を走らせていたことでしょう。
けれども、『三四郎』でも『行人』でも、お膳立てはできても、何事もなく夜が明け、『三四郎』では、美禰子とのチャンスにも、三四郎は「迷える羊」と言われてしまいます。
『草枕』も同様です。那美の裸体は湯けむりにかすみ、余と那美の最接近もつぎのようになります。地震の場面です。体勢を崩した那美が、《からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近付く。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。「非人情ですよ」と女は忽ち坐住居を正しながら屹と云う。「無論」と言下に余は答えた》と描写されています。余は30歳。那美はバツイチと言っても二十代です。「非人情」で済むはずはないのですが。
ミレーの絵も、ウォーターハウスの絵も、写真かと思われるくらい、写実的で細かいところまで、省略なく描かれています。裸体のマーメイドの絵も、あの鱗の部分はなまめいて、生臭い臭いが漂ってきそうです。長い髪も、とかすのに苦労するくらい、潮風でパサついている様子が伝わってきます。
漱石を魅了したくらいですから、漱石もこのような西洋画をけっしてイヤではなかったでしょうが、あまりにも現実的で余裕がない。余白があったり、ぼかされたりしている東洋の絵画の方が、余裕があって心持ちが良い。男と女のきわどい場面や、女性の裸体も、「西洋的」に、赤裸々に描写するより、「東洋的」に、抑制的に、「非人情」に徹する方が、趣があって良い。それが「漱石流」と言ったところでしょう。
連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第2回:『草枕』のキーワード「非人情」

私は外来語をもとにした「カタカナ語」をあまり使いたくありません。適切な日本語がある場合には、その言葉を使うように努めています。けれども適切な日本語が見つからない時は仕方ありません。「キーワード」という言葉も、日本語でどのように置き換えたら良いのか。所詮、言葉は変遷するもので、その時どきに通用すれば良いのですから、ここでも「キーワード」という言葉を使わせてもらいます。
「非人情」は、まさに、『草枕』におけるキーワードです。読み過ごせば何ということでもないでしょうが、一度引っかかるとけっこう厄介な言葉です。
すでにお話ししたように、漱石が言う「非人情」とは、人間の感情、つまり「人情」から「感情」を抜き去った状態です。人間の感情がなくなってしまう訳ですから、「人情」がなくなって「非人情」になるわけです。
もちろん、漱石は人間ですから、感情がある。喜怒哀楽はけっこう激しい方でしょう。そして、そのことが漱石の平穏を脅かし、不安定にさせていく。これは現実世界ではやむを得ないことですから、せめて芸術においては「非人情」でやっていきたいというのが、漱石の考え方です。

漱石はこの「非人情」を正面に据えて、『草枕』という小説を書こうとしました。そのため、漱石は主人公の余を「非人情」の旅に出します。むかった先は那古井という温泉場。「非人情」の旅ですから、目的地も「非人情」の地である「桃源郷」でなければなりません。漱石はその旅の途中で見る自然の風景も「非人情」に捉え、描写することに努めました。
全部を紹介することはできませんが、いくつか例をあげたいと思います。
第1章。ただし、漱石は第何章という表現はしないで、ただ数字だけで表していますが、第1章では、《立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せた様な峯が聳えている。》という一文から始まって、《雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。》という辺りまで。
第5章。《生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。》という一文から、《太平の象を具したる春の日に尤も調和せる一彩色である。》という辺りまで。
第11章。《山里の朧に乗じてそぞろ歩く。》から延々と、《どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。》辺りまで。
――などなど。
漱石は、西洋の絵画も詩も、事細かに描き、すべてがあからさまにされる。「非人情」とはかけ離れたものと捉えています。それは、西洋の詩は、《どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を辯じて居る》という一文にも表れています。
そして漱石は《うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある》として、漢詩を紹介し、《垣の向ふに隣りの娘が覗いてる譯でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つた心持ちになれる》と続けています。東洋の絵画は、すべてを描いていない。空白の部分が多かったり、雲とか霞などでぼかされたり、隠されている場合もあります。「美しい」とか「恐ろしい」とか、そのような感情はすべて捨て去って、ただ「ありのまま」を表現している。漱石は東洋の絵画や詩は「非人情」であり、だから、美しく、心もなごむと言うのです。こうした捉え方に異論を唱える人はいるでしょうが、漱石はそのように捉えているのです。もちろん、漱石もすべてがそうだとは言っていません。
漱石は自然だけでなく、女性の裸体描写についても、西洋と東洋を比較しています。
第7章で、余が風呂に入っていると、女性が入って来る場面です。《突然風呂場の戸がさらりと開いた》から、やがて《輪郭は少しく浮き上がる》《薄紅の暖かに見える奥に、漾はす黒髪を雲とながして、あらん限りの脊丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、禮儀の、作法の、風紀のと云う感じは悉く、わが脳裏を去って、只ひたすらに、うつくしい畫題を見出し得たとのみ思った》というように、漱石はあくまでも、東洋的に、「非人情」に描こうとしています。
漱石は続けて、古代ギリシャの彫刻はいざ知らず、当世のフランスの画家の裸体画はあまりにも露骨な肉の美を、極端にまで描いており、それが嫌であると、余にいろいろと語らせています。漱石が『草枕』で描く女性の裸体は立ち上がる湯けむりの中にある。ぼんやりかすんで、あからさまではないのです。女性の裸体も東洋的に描けば、「こんなふうになるよ」と言ったところでしょう。「東洋の文化」は「湯けむり文化」と言えるかもしれません。湿気の少ない西洋、ヨーロッパと、湿気の多い東洋、アジア。なにやら「風土論」のようです。実際には、すべてを東西二つに分けて論ずることはできませんが、漱石はイギリス・フランスなど西ヨーロッパ文化圏と、中国・日本など東アジア文化圏との対比を試みていたようです。
漱石は、今は詩を作る人も読む人も、みんな西洋かぶれしているから、桃源に遡るものもいない、と余に語らせています。絵画においても同様です。それなのに、漱石は余を西洋画の画家として設定したのですが、西洋画の画家として行き詰まり、東洋の絵画や詩に救いを求め、桃源を遡る。余は、そんな役どころでしょう。ヘルマンヘッセなども、西洋の文明に疑問を感じ、東洋に救済の手がかりを求めました。漱石は西洋の科学から芸術に至るまで、幅広く知識を得、正面から捉えたからこそ、その矛盾や問題点のしっかり捉えることができたのだと思います。

では、「非人情」に徹することが『草枕』の本態であり、漱石「らしさ」であるかというと、そうではありません。もともと「非人情」の自然を描く時、「非人情」にやり過ごすことはできるかもしれませんが、人間を描く以上、すべて「非人情」と言うわけにもいきません。
つぎの一文に漱石の本音が現れています。余も《勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寐た男でもなかろう。矢張り余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿する程非人情が募ってはおらん》。
また、冒頭の第1章が終わろうとする頃、《糠の様に見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋毎に風に捲かれる様までが目に入る。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。》中略《非人情がちと強過ぎた様だ》、という表現が出てきます。書いている漱石はまるで濡れませんが、書かれている余は雨が降ってくれば、当然ずぶ濡れにならなければなりません。
これらは「非人情」をテーマにしたからこそ出て来た表現ですが、こう言ったところが、漱石の皮肉であり、ユーモアではないでしょうか。
要は「人情」と「非人情」は表裏一体、切り離すことができないもの。表裏一体となれば、後は塩梅の問題です。漱石はその塩梅のヒントを能に見出しました。余は能にも「人情」があるとしたうえで、《あれは情三分芸七分で見せるわざだ》として、《しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこまでは漕ぎ付けたものだ》と、言い換えれば『草枕』は「人情三分」「非人情七分」、こんなところでどうでしょうか、というわけです。
このような方向性が定まったところで、《余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りこなして見よう。尤も画中の人物と違って、彼等はおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる》と、ついつい「余」のぬいぐるみを着ていた、小説を書く漱石が顔を出してしまう。これは、漱石の大失態ではないか!

ここまでは、作者あるいは演じる人、つまり「演者」の立場から論じたものですが、漱石は読者あるいは観客の立場からも論じています。
余はつぎのように語ります。《恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。これがわかる為めには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利益は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である》。
そして、さらに余は小説の中の人物が動いても構わない、と述べた後、《画中の人間が動くと見れば差し支えない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものでない》。平面から飛び出して立方的に動くと思えば、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったり面倒なことになる。《面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから》、画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちら騒ぎまくるのを見るのと同じになる。
漱石の時代にはテレビがありませんでした。テレビを観る私たちには、画中を動く人間という表現は容易に理解できます。テレビの中の人間が実際に殴りかかってこないから、私たちは第三者の立場で安心して観ることができる。そして、それがテレビのような世界でなく、目の前に現実があったとしても、猿山の猿のように、間に堀があって、猿が飛び越えてこちらへ来ないから、安心して猿の行動を観察することができるのです。余は言います。《間三尺も隔てておれば落ち付いて見られる。あぶな気なしに見られる》。

『草枕』を読む私たちにとって、余は作品中の役者です。けれども作品中の余は「非人情」の旅に出て、その旅先で出会う人びとを観客の立場で、第三者の立場で観ていこうとするわけです。なぜなら余は、漱石から、これからの芝居、思う存分動いても良いが、常に人間関係において「間三尺」隔てて接するように命じられているからです。そうすれば《利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼等の動作を芸術の方面から観察する事が出来》、《余念もなく美か美でないかと》鑑識することができるというのです。
余は、仮構の現実の中で、第三者を装おうとします。余は登場する人物を、遭遇する出来事を、第三者として、何か小説を読むように、何か芝居を観るように捉えていかなければなりません。すべてが詩であり、画であるように見立てていくのです。と言っても、旅先で起きる出来事は仮構の中では現実です。すべて他人事、第三者的というわけにいきません。その辺の矛盾が現れた場面が第9章にあります。
那美との会話が盛り上がって来て、余は「何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い」と、思わせぶりな発言をします。けれども、那美にその気になられたのでは困るので、すぐさま、「然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです」と釘をさします。一時の付き合いだから、那美と過ごす時間が面白く、楽しい。言い換えれば、結婚して四六時中いっしょにいたら、面白くも楽しくもない。余の心の内を読み取った那美は「不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」と直接切り返してきます。これに対して余は「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです」。と反論するのですが、お互いが好きになるということに、第三者的立場はありません。演じている役者と観ている観客という立場なら、「非人情」でやり過ごすことができるでしょうが、舞台を降りた役者と客席を離れた観客が、ひそかに抱き合って、第三者というわけにはいきません。惚れるけれども結婚はしない、恋人なら良いけど結婚はしないという余の態度は、明らかに男の身勝手、相手の人格を傷つける行為で、「不実」。「人情」でも悪い方の「人情」で、こういうのが「不人情」。これは、漱石が「非人情」の使用法を誤ったのではなく、「非人情」という言葉に縛られた余をあざ笑っている。言い換えれば漱石自身をあざ笑っている。自分で掘った落とし穴へ自分が落ちたようなもので、こんなことを楽しんでいるのも、また漱石の魅力ではないでしょうか。

漱石は「非人情」の小説を書こうと思ったけれど、人間を描くと、「非人情」な態度は「不人情」になってしまうことがある。現実世界では「非人情」を貫き通して生きることはできない。それが『草枕』の結論。漱石がもっとも言いたかったこと、と言うか、気づいたことではないでしょうか。
漱石の作品は知的好奇心を掻き立てます。あれこれ詮索したくなります。漱石はここから何を言いたかったのか、言外の言葉を読み解こうとしがちです。けれども、要は「非人情」の世界を、しばし楽しめば良いのですから、気楽に読めば良い。難しいところは飛ばして読めば良いのです。――これが、漱石が書いた小説の読み方、『草枕』の読み方。『草枕』と正面から向き合って、悪戦苦闘した結果、私がたどり着いた結論です。難しい顔をして『草枕』を読んでいると、漱石が皮肉な薄ら笑いをして、こっちを見詰めているかもしれません。

『草枕』を読みながら、そこに描かれた「仮構世界」に入り込んでいる私も、「現実世界」の中で読書しています。『草枕』に「仮構世界」を描き込んでいる漱石もまた、「現実世界」の中で執筆しています。1906年。漱石は現職の大学の先生で、千駄木の自宅には、妻鏡子がいる、筆子・恒子・栄子・愛子の四人の娘がいる。女中もいる。猫もいる。生後八か月程の愛子はギャアギャア泣いていたことでしょう。後の三人も、まだ動き回りたい年頃です。新学期の講義の準備もしなければならなりません。もちろん、来客もあります。漱石は「現実世界」「人情」の世界の真っただ中にあって、南側が庭に面した書斎で、夏休みのひと時、『草枕』をかきながら、「仮構世界」「非人情」の世界に没頭しているのです。本人ではないのでわかりませんが、おそらくその時、漱石の脳はしばしの休息を得ていただろうと、私は想像しています。

以上で、『草枕』の総論部分を終りにしたいと思います。
締めくくりに、「『草枕』とは何ぞや」を語るなら、私は、極めて大雑把に、『草枕』とは「漱石の勧工場」、現代流に言えば、「漱石のデパート」であるとまとめたい。品揃え豊富。多種多様な品質の良い品が揃っており、見ているだけで、つまり読んでいるだけで、楽しくなってくる。気軽に見て回れば良い。全部見なくても良い。興味のある売り場をつまみ食いしても良い。漱石自身、『草枕』の中で余に、《小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです》と語らせているではありませんか。
漱石というと、何か難しそうな顔をして、難しそうなことを言っているように思われますが、漱石は博識で、ユーモアがあり、会話も巧み。漱石は小説を書くと言う「非人情」の時間を楽しんでいるのですから、読者もまた、不安や嫌なことが多い、「人情」渦巻く「現実世界」にあって、しばし、小説を読みながら「非人情」の時間を楽しめば良いのです。

この後、各論部分として、思いつくままにテーマを設けて、お話ししていきたいと思います。ただし、漱石自身が芸術の中でも、とくに絵画と詩に強い関心を寄せ、『草枕』の中で、余を画家として設定し、詩人としての側面ももたせ、「漱石の芸術論」を展開したため、全編にたくさんの画家、詩人などの名前が登場します。その一つひとつに論評を加えていたら身がもちません。ここはひとつ、「非人情」に切り捨てて、やり過ごしていきたいと思います。
連載【『草枕』を読み返す――私の『草枕』論】 

第1回:『草枕』の特色

これから「『草枕』を読み返す――私の『草枕』論」と題してお話しするわけですが、私は文学者ではありません。所詮、一漱石愛好家の話しですから、「『草枕』論」と言っても、それほど大げさなものじゃありません。参考になるようなことが、あるかどうかもわかりませんが、自分なりに『草枕』と、しっかり向き合ってお話ししていきたいと思っています。

『草枕』について、あえてここで説明する必要もないでしょうが、書かれた時期という点から言うと、1906年、漱石が『坊っちゃん』に続いて発表したのが『草枕』。漱石39歳の時です。まだ本業は教職であり、『坊っちゃん』は春休み中の3月17日から24日までの1週間、『草枕』は夏休み中の7月26日から8月9日までの2週間を使って書き上げられました。構想を温め、長期休暇に入るのを待ちかねたように、趣味の小説書きに没頭していったのであろうと推察されます。
漱石は、1904年から1905年にかけての日露戦争のさなかに、小説家になろうという明確な意思もなく『吾輩は猫である』を書き始め、これが存外にも好評で、その後、いくつかの小品を発表して、『坊っちゃん』『草枕』へとつながっていきました。

『草枕』という小説は、漱石の作品の中でも特別な存在であると言えるでしょう。それはどういうことか、この後もう少し詳しくお話ししますが、『草枕』がどのような特色を持つかと言うと、
第一に、「芸術」というものを、漱石なりにしっかり位置づけた小説であること。
第二に、漱石自身の人生の中に、「小説を書く」ということをしっかり位置づけた小説であること。
第三に、漱石自身がどのような小説を書きたいか、書いて行くのか、ということをしっかり位置づけた小説であること。
漱石がこのようなことをあえておこなったため、
第四に、語りの部分がきわめて多い小説であるという特色を加えることができます。
このような『草枕』を書き切ることによって、ひとつの方向性が見えてきて、気持ちの上でも整理がついたのか、『草枕』『二百十日』に続いて書いた『野分』で、主人公に「もう教師はやらない」と宣言させています。小説家としてやっていくことができる。そのような目途が立ったのでしょう。それが現実となって、翌1907年、朝日新聞社から誘われると、漱石は、さっさと教職を辞し、朝日新聞社社員として、実質的に職業作家の道を歩み始めました。誘いがなくても、漱石は教職を辞め、何らかの形で文筆活動に専念する道を決意していたのかもしれません。
職業作家として、第一作『虞美人草』を書き上げた漱石は、その後、『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』など、小説を次々と世に送り出し、『明暗』を書いている途中で、人生を終えてしまいました。
『草枕』を書いて、わずか10年で人生を終えてしまったわけですが、これではもう、このお話しも終わってしまいますから、もう一度、話しを『草枕』に戻しますが、漱石は「人生」について、しっかり『草枕』の中に書き込んでいます。

『草枕』は《山路を登りながら、こう考えた》という有名な一文から始まります。続いて、私たちが「人生」を送る「人の世」は兎角に住みにくい。しかしながら、「人の世」を作ったのは、神でも鬼でもなく、向う三軒両隣りにちらちらする唯の人で、それが嫌だと言っても越す国はない。《あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう》。漱石はこのように書いています。
漱石は「世捨て人」ではありません。「人の世」で生きることを肯定的に捉えているのです。冒頭の流れからすると、前後してしまうのですが、このように捉えるようになった過程を、余の語りを借りて次のように説明しています。
まず、《世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った》。つまり、人間として生まれたことを肯定的に捉えることができるようになった。25歳になると、《明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度影がさすと悟った》というように、「人の世」の本質、「人生」の本質をしっかりつかみとった。ここに至って、人の世に生きる覚悟ができたと、私は理解します。明るいことばかり求めても、暗いことがそれにくっついており、生きたいと思っても、生きることに死がくっついている。紙の表だけ欲しいから、裏はいらないと言っても、表裏は一体のものであって、切り離すことができない。「人の世」も「憂い」にみちた「憂世」と、「浮き浮き」楽しい「浮世」は表裏一体で、楽しい「浮世」だけ求めても、憂いの「憂世」がくっついてくる。それを「あるがままに」受け入れるしかないのです。そして、30歳になると、《喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持たぬ。片付けようとすれば世が立たぬ》と、悟りの境地はさらに深化していきます。
設定上、余は30歳ですが、実際の漱石は少なくとも『草枕』を書いていた39歳までには、このような悟りの境地に達していたことになります。

人間にとって、この世での生活は、悩み、苦しみ、悲しみの連続であり、嫌なことが多い「憂い」の「憂世」である。けれども、死ぬまで、この「憂い」の「憂世」をおいて外に生きていく所はないのであるから、《住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい》。このようにして、『草枕』の中で、漱石の「芸術」に対する意義づけがしっかりおこなわれていきます。
金持ちになるとか、高い地位の人になるとか、軍人として手柄を立てるとか、そのようなことで「世の中のためになる」のではなく、自分は「芸術の士」として、「世の中のためになる」のだ。当時の社会からすれば、まさに「真逆」のことに漱石は生きる道を見出したのです。

「芸術」というものを、自分なりにしっかり位置づけた漱石は、『草枕』において、余を画家として設定していますが、詩人としても才能を発揮しています。しかし、『草枕』を書いている漱石は、小説を書いているのです。
漱石は、あえて小説を書かなくても、小説家にならなくても、帝国大学教授として一定の名誉と収入を維持し、多くの優れた学術論文を発表し、学会でも名声を博し、文学博士の称号を手にすることもでき、「この世」的な成功者になることはできたはずです。と言うより、すでに『吾輩は猫である』を書いた時には、「成功者」になっていたのです。
漱石は絵画にも詩にも興味をもち、知識も豊富だったからこそ、『草枕』を書くことができたのですが、その漱石がどうして小説を選んだのでしょうか。
漱石は並外れた性能の頭脳をもち、おそらく凡人の何倍、何十倍にも増幅されて、嫌なことが襲いかかり、漱石を苦しめ、イライラさせたことでしょう。つまり、「憂い」の「憂世」が凡人よりはるかに増幅され、漱石はそのような人生に耐えられなかったのだと思います。いっそのこと、早く「死んで太平を得たい」と思っても、死ぬこともできず、漱石は若い頃から「平穏」を求め続けてきたことでしょう。禅宗に救いを求めたものの上手くいかず、子規と交友をもつことによって何かと触れることになった真宗の教えを手がかりに、漱石は先ほど述べたような境地に到達していきました。
「平穏」を求めて、どうもがいても、「憂い」の「憂世」の中で生きて行かなければならない。そうと決まったら、住みにくき「憂い」の「憂世」において、束の間でも「平穏」を得るには、芸術!それは絵画でも良い、詩でも良い、詩の一形態である俳句でも良い。けれども漱石は『吾輩は猫である』を書くことによって、「これなら自分をすべて表現できる」という感触を得たのでしょう。『吾輩は猫である』は結局、小説の分野に入れられ、漱石は小説を書くことによって、束の間の「平穏」を得ることになったのです。おそらく、小説を書いている時、漱石の脳はもっとも「休息」していたのではないでしょうか。
漱石が小説を書くようになったのは、有名になるためでも、高収入を得るためでもありません。あくまでも、自身が「平穏」を得るため。読者の受けよりも、「自分のため」に書くのですから、自分の書きたいもの、書いていて「息抜き」できるものを書く。これが漱石の書く小説です。『草枕』はそのことを宣言した作品であり、試作品に自ら論評や解説を加えた作品と言えるのではないでしょうか。
おかげで、百年後を生きる私たちも、漱石の小説を読んでいるうちは、「憂い」の「憂世」を忘れて、束の間の「休息」を得ることができるようになりました。
漱石は「人の世」を長閑にし、「人の心」を豊かにするが故に「文豪」と呼ばれ、評価される。そのように言うことができるかもしれません。

それでは、漱石は「どのような小説を書く」と、『草枕』の中で宣言したのでしょうか。
漱石が「人の世」を「住みにくく」思うのは、一つひとつの物事に対して沸き起こる、喜怒哀楽といった感情に煩わされるから。漱石はそれが強かったかもしれませんが、ひとり漱石だけではありません。私も含めて、人間概ね、そんなもんです。この人間の感情、つまり「人情」というのは、自然に沸き起こるものであるから、いたしかたない。「嫌だ」と言えば、人間を辞めるしかない。それができないとすれば、せめて束の間でも自身の平穏を得たいと思えば、《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて》、芸術の世界に身を置くしかありません。「人の世」から「人情」を引き抜けば、そこは「非人情」の世界で、芸術は「非人情」でなければならない。これが漱石の理屈です。
ところが、一般的に、小説でも芝居でも、「人の世」を描くのですから、「人情」は免れません。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたり。読む方も、観る方も、それに同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたり。利欲が交らないだけ、かえって情緒が余計に活動してしまう。それを狙って、書く人や演じる人があり、読む人や観る人がいる。それはそれで良いかもしれないが、漱石にとって、人生の喜怒哀楽と同じ刺激を小説や芝居で繰り返されるのは、耐えられないことであり、自分には、西洋の詩や、『不如帰』『金色夜叉』の類の小説は書けない。と言うより、書きたくない、と漱石は言うのです。
漱石が幸田露伴や尾崎紅葉といった同年代の作家を意識したのは、単なるライバル意識からではなく、《只一人絵の具と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれが為めである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ》という思いからで、「人情」の現実からしばし離れて、「非人情」の世界で息抜きすることが大きな目的であった。そう言えるのではないでしょうか。

漱石は『草枕』の中で、自分は「非人情」の小説を書く、と宣言しました。漱石の小説ひとつひとつがどれだけ「非人情」に徹することができたか、詮索することをここではしませんが、少なくとも『草枕』では貫かなければなりません。漱石は主人公の余を、小説家ではなく、詩にも精通した画家として設定したので、漱石の代弁人である余に、《然し苦しみのないのは何故だろう。只この景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。》中略《只この景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう》と言わせています。つまり、「人情」をまったく排した「非人情」の世界において、初めて苦しみは去り、平穏を得ることができる。これが美であり芸術であるというのです。
この漱石の自論を、余を通じて全編にわたって語らせたため、『草枕』では、きわめて語りの部分が多くなってしまいました。正確に数えたわけではありませんが、おそらく全編の8割から9割、語りで占められているのではないでしょうか。続く『二百十日』が全編の8割から9割、会話によって占められているのと対照的です。つまり熊本を舞台にした連作『草枕』と『二百十日』は、足して二で割れば、バランスの良い作品になる。漱石は意図的にこのような手法を取ったのであろうと、私は推察します。連作と言えば、漱石は『虞美人草』と『坑夫』でも、鏡花の『婦系図』を意識した連作をおこなっています。
小説というのは、情景描写や心理描写さらには解説と言った語りの部分と、会話の部分によって構成される場合がほとんどで、漱石の作品も多くはそうです。この点からも、『草枕』は漱石の小説の中でも特異な存在である、と言えるでしょう。
【文豪の東京2――島崎藤村】

第3回 上京した藤村③

翌1894年4月、藤村は明治女学校に復職した。藤田美実『「明治女学校」に関する覚え書――明治期ロマン主義とキリスト教』は、復職した藤村について、《既に昔日の情熱はなく、生徒から「石炭がら」と呼ばれたことは「黙移」の記す如くである》と記している。藤村はなぜ明治女学校に復職したのか。輔子が高等科を卒業し、すでに学校を去っていると思ったのだろうか。ところが、輔子は卒業したものの、結婚までの間、学校に残って、普通科で指導にあたっていたのである。
5月に入って、藤村を二つの事件が襲った。
ひとつ目は北村透谷と斉藤冬子をめぐるもの。
『黙移』を書いた相馬黒光は、もともとフェリスに学んでいたが、文学に憧れて明治女学校に転校してきた。その理由について、藤田美実は前掲書に《先生はいずれも二十歳代、「厳粛に人生を凝視する」といった人達で、教える者と教えられる者がぴったりして、その間から何かを学ぼうとした、と良は書いている》(良と言うのは黒光りの本名。旧姓星良)。そして、その例が北村透谷と斉藤冬子だった。冬子は良の尊敬する先輩だったが、《透谷は教室に入ると冬子に向い合い、すべてを忘れて冬子と一問一答をする。他の生徒はこれを囲んで二人の問答から学ぶという有様だった。明治女学校はいわば男女共学の人生の道場であり、それが明治女学校の魅力であったかも知れない。しかし冬子は結核で倒れ、死ぬなら郷里でというので仙台へ帰った》。
透谷には1887年に恋愛結婚した妻があり、娘もいた。けれども、普連土学園で教えた富井まつ子が1893年8月に18歳で病死し、透谷は12月に自殺未遂。そしてその余韻の中、今度は「意中の人」冬子が、死を待つ身となった。透谷は芝公園の自宅の庭で縊死。5月16日である。その死を知らされることなく、冬子は1か月後に亡くなった。透谷の手紙を胸に抱きしめていたという。
透谷と冬子の死。その時、輔子も明治女学校にいたので、大きな衝撃を受けたことだろう。
ふたつ目は、長兄秀雄をめぐるもの。
秀雄が水道鉄管に絡む私文書偽造で収監されたのである。次兄は朝鮮に行っており、三兄友弥は京橋にある木綿問屋での奉公がうまくいかず、長兄の家に寄寓しており、藤村も三ノ輪町の長兄宅に転居し、そこから明治女学校に通った。距離にして7km余。当時は歩くしか方法がない。
このような中で、7月に日清戦争が始まったが、藤村は8月、樋口一葉に会う機会を得た。一葉は藤村と同い年。当時、本郷丸山町に転居し、「奇跡の14か月」へ向かおうとする時期であった。この家には後に森田草平が住むようになり、草平は馬場孤蝶から一葉終焉の家であることを知らされ、『煤煙』の中に書いている。孤蝶は藤村と明治学院からの友人。漱石も鏡子も草平を訪ねて、この家の前に立ったことがある。
輔子は夏ごろには東京を去り、札幌農学校の講師で婚約者・鹿討(鹿内、ししうち)豊太郎と結婚した。
1895年4月に日清戦争は終わり、7月、島崎一家は本郷区湯島新花町24番地に転居した。現在の文京区湯島2丁目13番の一角。この辺り一帯、かつて「大根畠」「御花畑」と呼ばれていた。明治女学校までは4kmほど。
輔子と結婚し、「しあわせ者」と思われそうな鹿討だが、輔子は悪阻に心臓衰弱が重なり、8月13日に25年の生涯を閉じた。輔子と冬子。泰明小学校卒業の藤村・透谷が心通わせた、輝くばかりの才女たちは、若くしてあっけなくこの世を去ってしまった。
妻を失った鹿討は大きな衝撃を受けた。津田仙(津田梅子の父)は何とか鹿討を助けてやりたいと、自分の娘まり子(梅子の妹)を嫁がせた。鹿討も巌本善治も津田仙の学農社に学んだ農学者であった。
藤村も大きな衝撃を受け、明治女学校を辞した。
9月には馬籠宿の大火で島崎家の旧宅も焼失した。
1896年8月、島崎家は本郷区森川町1番地宮裏319号に移転した。漱石の『三四郎』にも出てくる、映世神社の裏手にあたる。映世神社の前からは東京大学の正門付近が見通せる。島崎一家を残して9月、藤村は仙台の東北学院教師として赴任した。10月に母縫が亡くなったので一旦東京へ戻ったが、1年間教師を務め、この間、詩作にも励んだ。
1897年に東京へ戻った藤村は翌1898年、東京音楽学校選科に入学。そして1年。1899年4月。小諸義塾に赴任。6年を過ごすことになる。
【文豪の東京2――島崎藤村】

第2回 上京した藤村②

1888年6月、明治学院在学中の藤村は高輪にある台町教会で木村熊二牧師から洗礼を受け、クリスチャンになった。藤村は共立学校で木村に出会い、明治学院に教えに来ていた木村と再び出会った。
台町教会は1882年、泉岳寺の裏手にあたる高輪台町に設立された教会で、戸田忠厚が初代牧師。二代目が木村熊二である。明治学院から徒歩5分程度のところ。教会は1907年に近くの二本榎町に移転、名称を高輪教会と変えて今日に至っている。すぐそばに高輪警察署や高野山東京別院がある。
明治学院で藤村は戸川明三(秋骨)、馬場勝弥(孤蝶)らと同級になった。
鏡花が初めて上京した1890年、藤村は第一高等中学の受験に失敗したようで、翌年6月に明治学院を卒業した。再度、第一高等中学に挑戦したか不明であるが、進学の記録がないところから、再度失敗したか、諦めたのであろう。藤村は吉村忠道が横浜伊勢佐木町に開いた雑貨屋マカラズ屋を手伝うことになった。
1892年、藤村は巌本善治が主宰する「女学雑誌」に習作を発表し始めた。この雑誌には秋骨、孤蝶なども寄稿しており、文学グループとして人間関係が形成されていた。巌本は明治女学校の教頭を務め、この年、校長に就任している。
評論『厭世詩家と女性』を読んで感銘を受けた藤村は、その著者である北村透谷と親交を持つようになる。透谷もクリスチャンで、藤村より四つほど年長。普連土学園で教え、すでに妻帯していた。藤村は同じ小学校出身ということで、より親近感をおぼえたことであろう。透谷は「すきや」とも読むことができ、泰明小学校のすぐ近くにある「数寄屋橋」から取ったと言われている。現在、学校前に「北村透谷・島崎藤村記念碑」の案内板が建っている。
10月、藤村は明治女学校の教師として新たな第一歩を踏み出した。この年、秋聲が初めて上京した。
明治女学校は1885年、木村熊二が九段下牛ケ淵に開校したもので、翌年、九段坂上の麹町区飯田町三丁目、現在、暁星学園があるところに新校舎を建設し、移転した。移転間際に熊二の妻で、学校運営でも良きパートナーであった鎧子がコレラで急逝した。明治女学校は、さらに1890年、麹町区下六番町6番地(現、六番町)に移転。日本テレビの交差点を隔てて斜め向かいにあたる。
熊二とともに明治女学校の設立に尽力した巌本善治は、1887年に教頭に就任。藤村が赴任した1892年には、校長に就任していた。

すでに藤村は、長年世話になった吉村家を出て、神田区中猿楽町9番地(現、西神田2丁目)に下宿しており、明治女学校に就職した時には、牛込区赤城元町34番地(赤城神社の東側)の下宿に移っていた。まさに神楽坂。紅葉が住み、鏡花も駆け出しで悪戦苦闘していた時代、藤村もまた神楽坂に住んでいたのである。
藤村は下宿から神楽坂を下り、牛込見附(現、飯田橋駅付近)から右折し、外濠の土手沿いに市ヶ谷見附(現、市ヶ谷駅付近)まで来て、ここで帯坂を上って、右折。200mほど行って左折すると、右側が下六番町、左側が中六番町(現、四番町)。二、三分で明治女学校に着く。後に、同じ下六番町、200mほど行ったところに鏡花が住み、さらに300mほど行ったところに、1937年、藤村自身も移り住むことになる。鏡花は1939年に亡くなるので、二人の文豪がこの地に共に過ごしたのは二年程である。明治女学校跡地前には「番町文人通り」の案内板が設置されている。
明治女学校に赴任した藤村について、藤田美実は『「明治女学校」に関する覚え書――明治期ロマン主義とキリスト教』で、《静かな、しかし熱のこもった講義で生徒の人気を得たが、その生徒の一人佐藤輔子と激しい恋におちいった》と記している。輔子は花巻の生まれで、当時実家は盛岡にあった。
今日の中村屋(新宿)の創立者相馬黒光は『黙移』の中で、輔子について、《お輔さんは花巻の生まれで、雪国の人らしくほんとうに色が白く、頬がさくら色して、ぱっちりとしたうるおいのある眼が当時の世間の好みとしてはやや大きすぎるくらい、その眼がひとしお印象を深くしました。背もすらりとして、心だてもその通り、富も理解もある家庭にのびのびとして育った人の素直なやさしい性格》と書いている。藤村ならずとも、恋愛感情を抱いてしまいそうな女性である。「教師と生徒の禁断の恋」「ふしだらな教師」と思われるかもしれないが、藤村も輔子も同い年の二十歳。ごく自然の恋である。もし輔子に婚約者がいなければ、恋は成就し、やがて結婚へとつながっていたかもしれない。
藤田美実は前掲書で、《藤村は恋の苦しみに耐えかねて二十六年一月教師の職を辞し、二月一日さながら托鉢僧のように漂泊の旅に出た。近江の石山寺から京の寺々、須磨の農家にしばし足をとどめ、四国に渡り、あるいは吉野山に登り、京都に暫く落ちつく。半年の放浪の末、七月下旬帰京したが、なお悶々の日がつづき、死を考えたこともある。そういう彼を助けたのは星野天知であり、彼を励ましたのは透谷であった》と続けている。
藤村は教職を辞すだけでなく、教会の籍も脱し、棄教。西日本の漂泊の旅を終えて、鎌倉円覚寺帰源院にも滞在。その後、透谷の紹介で東北の一関で酒造業「熊文」を営む熊谷文之助の長男太三郎に家庭教師として英語を教えるため、一関に行くことになった。透谷がキリスト教伝道のため東北を旅している時、紹介を依頼されたものである。
けれども一関は輔子の父昌蔵が郡長を務めたことのある地で、輔子も一関小学校高等科に通っていた。そのことを藤村がどこまで知っていたのか、知っていて来たのか、それを今、確認することはできない。
結局、藤村は10月、半月ほど過ごした一関を去り、東京に帰ると、とりあえず長兄秀雄の下宿に投宿した後、吉村家に戻った。12月に秀雄一家が上京し、下谷区三ノ輪町89番地(現在の地下鉄日比谷線三ノ輪駅そば、梅林寺西側)に住むようになった。
『<崇高>と<帝国>の明治――夏目漱石論の射程』を読んで

森本隆子著『<崇高>と<帝国>の明治――夏目漱石論の射程』(ひつじ書房、2013)※ を読む機会があった。第一章で、いきなり、志賀重昴の『日本風景論』(1894)が取り上げられている。「風景」とか「景観」という言葉は「地理屋」を喜ばせる。
わくわくしながら少し読み進んでいくと、富士山と妙義山の絵。私の思いは、あっという間に子どもの頃に飛んでしまった。
私が初めて妙義山を見たのは小学校2年の時。絵画の全国コンクールで入賞し、相川昭二画伯に連れられて、初めて憧れの東京へ行った帰りである。鉄道好きの私はアプト式区間に興奮していた。その時、「あれが妙義山」と教えられた。私はとっさに、「道理で、みょうぎな山だ」と言って、周囲を笑わせた。受けを狙ったわけではないのだが。
富士山の方は高校2年の時。東京からの帰り、夢にしか見たことがない富士山を「ナマ」で見ることができるとあって興奮していた。けれども車窓は進行方向左側。富士山が見えない。諦めかけて、由比の海岸線。ふと車窓から見上げるように目をやると、そこに富士。東海道線下りで唯一左側車窓から富士を見ることができるスポットである。「高い!」と実感した。
興味深いことは、森本先生が『日本風景論』について、日本の国土の全域をあたかも地質学的に通覧したかのような趣をもちながら、《構造上、おのずと<火山>を頂点とする山岳風景論へ収斂される仕掛けとなっている》と記し、重昴が「名山」の基準として、「美妙」と「変化多々にして不規則(奇)」であることの二種類のスタンダードを提示し、「美妙」の代表として富士山、「奇」の代表として妙義山をあげている、と指摘していることである。富士山と妙義山の絵が掲載されていたのも頷ける。結局、私は「奇」の山を「美妙」の山より、9年早く見たことになる。
ついでながら、私はその後、二度、富士山に登ることになった。一度は登ってみる山だとは思うが、二度と登る山ではない。それが二度、登ってしまった。富士山はやはり眺める山で、登る山ではない。富士に登って一つだけ良かったことは、「空気」のありがたさを知ったことである。漱石も学生時代、1887年と1891年、友人たちと二度、富士山に登っている。

漱石の小説に、「妙義山」はその名前すら出てこない(ひょっとしたら私が見落としているかもしれないが)。一方、「富士山」の方は、話しの流れの中で何か所か出て来るが、とくに富士山を眺めている描写は、『虞美人草』『三四郎』『行人』の三作品に登場する。いずれも東京へむかう汽車の中である。
『虞美人草』では、宗近が「おい富士が見える」と言い、甲野が「さっきから見えている」と応じる。そして、腹が減ったという宗近に、「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ…」と甲野。これに宗近が「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」と応じる。どうも、宗近は富士山が見えることにわくわくしているようだが、甲野は「それがどうした…」という感じである。この同じ汽車に井上孤堂と娘小夜子も乗っていた。汽車が沼津に着き、駅弁を買う。「今日はいい御天気ですよ」という小夜子に、孤堂は「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗に見えたね」と応じている。
『行人』では、二郎たちが夜行寝台。《富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寐ていた》。

この二作品に対して、『三四郎』では広田先生の言葉を通して、漱石の「富士山」、「自然」、「崇高」などに対する考えが語られている。
まず、上京する三四郎が汽車の中で広田先生に出会い、会話する場面。富士山が近づいてきて、《あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない》。
続いて、東京で学生生活を始めた三四郎が、与次郎と親しくなり、やがて広田先生と再会する場面。「東京はどうです」「広いばかりで汚ない所でしょう」などと訊かれて、「ええ……」ばかり答える三四郎に広田先生は、《「富士山に比較する様なものは何にもないでしょう」 三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓から始めて眺めた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時の間にか取り落していたのを耻ずかしく思った。すると、「君、不二山を翻訳してみた事がありますか」と意外な質問を放たれた。「翻訳とは……」「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」 三四郎は翻訳の意味を了した。「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」 三四郎はまだあとが有るかと思って、黙って聞いていた。ところが広田さんはそれで已めてしまった。》
以上紹介した前段と後段、ふたつの場面で、「富士山」「自然」をテーマに語られている。おそらく前段から後段へと進化しているはずであるが、漱石は広田先生の言葉を通して、何を語りたかったのだろうか。
前段の場面に入る直前。広田先生は「どうも西洋人は美くしいですね」と言っている。その流れで、富士山は「日本一」と出て来る。日本一「美しい」ということだろうが、それは「自然」だから、「自然」がつくり出したものだから。それでは、「西洋人」はいったい何なのか。漱石はいわゆる「西洋かぶれ」ではない。その漱石が代弁者である広田先生に「西洋人は美しい」と言わせているのは、どういうことか。
おそらく漱石は、欧米には産業革命や民主化など一定の歴史の蓄積と、富の蓄積の上に「一等国」になったのであり、そのこと自体が「自然」であり、「美しい」と思える(もちろん、その「帝国主義」「植民地主義」の歴史は、けっして「美しい」と言えるものではないのだが)。それに対して、日本は背伸びして、国民は疲弊し、「一等国」になったとしても、何が「美しい」のか。単に欧米の「模倣」ではないか。国家主義を突き進む「大日本帝国」に対する痛烈な批判である。
歯並びの悪さを隠そうともしない鏡子に惚れたという漱石。その「自然」の歯並びが「美しい」のであって、もし鏡子が歯列矯正して「美しい」歯並びになったとしても、漱石はそれをけっして「美しい」と思わないであろう。
漱石の「自然」という言葉は、科学的な意味合いでの「自然」ではなく、むしろ「ありのまま」と置き換えることができるものであると、私は思う。そして、漱石の美意識において、「ありのまま」がもっとも「美しい」のである。
後段の場面で、広田先生は「君、不二山を翻訳してみた事がありますか」と、三四郎に問いかける。「富士山」ではない。「不二山」である。読めばわかるが、会話は「ふじさん」である。それは承知の漱石であろうが、あえて「不二山」としたのは、「Mt.FUJI」という訳を期待していないということであろう。
この場面における「自然」は、「ありのまま」という言葉に置き換えることができない、科学的な意味合いでの「自然」であると、私は思う。広田先生は、「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」と言っている。「富士山」という「自然」について言えば、「富士は崇高」「富士は偉大」「富士は雄壮」。つまり、科学的な意味合いでの「自然」に向き合った人間が、勝手に評価し、意義づけているのである。
漱石は『英國詩人の天地山川に對する觀念』(『哲學雑誌』、1893)において、「天然(自然)」と「人間」との関係を、
第一 天無意、人無意。
第二 天無意、人有意。
第三 天有意、人無意。
第四 天有意、人有意。
の4パターンに分け、天に意志はないから、第三、第四は存在しない。第一は
「人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」という状態であるから、もともと人間の関心事の対象外である。こうして、第二だけが残される。科学的な意味合いでの「自然」に向き合った人間が、それを様々に翻訳し、「言の葉」に編んでいく。そこに文学が生まれる。

ここまで来ると、どうしても『英國詩人の天地山川に對する觀念』に触れないわけにはいかなくなってくる。『三四郎』から15年遡ることになる。
ところが困ったことに『英國詩人の天地山川に對する觀念』は、理詰めであるだけでなく、文体からして、私には難し過ぎる。漱石の小説は表現もきわめて平易で、現在の小説を読む感覚で抵抗なく読めるのだが。おそらく漱石自身も論文というものの不自由さを感じたのだろう。漱石が文学者ではなく、小説家として歩むことになった一因かもしれない。
『英國詩人の天地山川に對する觀念』は、イギリスにおける詩の分野における自然主義(naturalism)に関する論考である。
漱石は、「ナチュラリズム(自然主義)」という言葉は、「ネーチュアー」つまり翻訳して「自然」「天然」あるいは「天地山川」に由来し、人工によらず、「ありのまま」に世界に存在する物か、その状況を指すが、「ネーチュアー」という言葉も広汎に使用されるので、「ナチュラリズム」の範囲も余程曖昧である、としながら、これは文学上の一現象であるから、文学そのものよりも広くなることはないとしている。
そこで、文学上における出来事をごく広く見積もれば、「人間界」のことか、「非人間界」のことであり、「非人間界」にあって人間の注意を惹くものは、「日月」「星辰」「山河草木」で、文学上もっとも重要な材料を給するものは、「人間」と「山川界」である。したがって、文学において「ネーチュアー(自然)」は、「人間の自然」と「山川の自然」とに限られる。
「自然」の範囲が確定したので、「自然主義」という語の意味も確定する。すなわち、「人間の天性に従うもの」と「山川の自然に帰するもの」とに区分され、「虚礼虚飾を棄て天賦の本性に従う」のも自然主義だが、「功利功名の念をなげうって隠者のように一生を送る」のも自然主義である。
このように「自然主義」の定義づけをおこなった漱石は、ポープ・ゴールドスミス・クーパー・トムソン・バーンズ・ウォーヅウォースなどイギリスの詩人について論究している。
要するに、いかに「自然」と言っても、「人間」が主体であるから、常に「人間」が「自然」を翻訳していくことになる。「自然主義文学」も「自然」の翻訳によって生まれたものである。そして、「人間」もまた生物として「自然」の一部である。「人間」も自分の中の「自然」、つまり「あるがまま」に生きてゆく姿を描いてゆくことも、これまた「自然主義文学」なのだろう。私は『英國詩人の天地山川に對する觀念』を読みながら、自分なりの結論を得た。

私は地理学を専攻してきた。地理学の関心事は大きく「自然」と「人間」である。こうして地理学は大きく、「自然地理学」と「人文地理学」に区分される。純粋に「自然」を突き詰めていくと、それはもう「物理学」「化学」「生物学」の領域へ行ってしまう。せいぜい地理学の範疇にとどまることができるとするなら、生物分布や土壌分布など、空間概念が入り込む場合である。したがって、「自然地理学」が扱う「自然」は、あくまでも「人間」との関りにおいてである。地形も地質も直接に「人間」と関わらなければ、何の関心も示されず、研究対象にならないのである。「災害」などは、まさに「自然地理学」の出番と言える。
文学も科学も所詮、人間が主体であるから、「自然」は常に「人間」によって翻訳されていくことになるのだろう。


※森本隆子著『<崇高>と<帝国>の明治――夏目漱石論の射程』(ひつじ書房、2013)は、2013年当時までに発表した論文等を一冊にまとめたもので、三部に分かれているが、全体を通した13の章で構成されている。
本書のタイトルについて、当初、第一部の表題とする予定だったが、全体のタイトルの方が良いとのアドバイスを受けて変更したと、「あとがき」に記されている。実際、第一部では「崇高」をキーワードに明治の文学が語られ、第二部において、「帝国」がキーワードとなる。「夏目漱石論の射程」という副題が示すように、明治の文学と言っても、漱石が中心になるが、志賀重昴・島崎藤村・伊藤左千夫・国木田独歩などについても詳しく語られている。第二部には「異性愛と植民地――もう一つの漱石」という表題がつけられ、漱石の『行人』『門』『満韓ところどころ』(「どころ」は「く」を伸ばして濁点をつけた表記)をテキストにしながら漱石が語られる。
第三部は「近代資本主義の末裔たち――村上春樹とその前後」と題し、村上春樹を中心に、よしもとばなな・江國香織・小川洋子・川上弘美などについても、詳しく触れられている。
連載【文豪の東京2――島崎藤村】

第1回 上京した藤村①

「文豪の東京」。芥川龍之介に続いて登場するのは島崎藤村(本名、島崎春樹)。龍之介は、1892年(明治25年)3月1日、東京に生れたが、藤村はそれより20年遡った1872年3月25日(明治5年2月17日)、馬籠(現、岐阜県中津川市馬籠、当時は筑摩県、のち長野県山口村)に、父正樹、母ぬいの四男、末っ子として生れた。1872年12月に太陰暦から太陽暦に切り替えられたので、それ以前に生れた人はやっかいである。漱石もそのひとりであるが、秋聲も1872年2月1日に生れで、(明治4年12月23日)と付け加えられる。秋聲は明治4年にこだわったので、2021年に「生誕150年」を迎えたが、藤村はまさに今年が「生誕150年」にあたる(ついでながら、龍之介は「生誕130年」)。
私はこの「文豪の東京」を書くにあたって、文豪を東京生まれの「東京っ子」と、東京以外で生まれた「上京者」に分け、交互に取り上げていきたいと考えている。藤村は馬籠で生まれたので、「上京者」として扱ったが、1881年9月、9歳で上京しているので、文学を志して青年期になって上京した鏡花や秋聲、犀星などと、趣を異にしている。藤村は龍之介のように生粋の「東京っ子」ではないが、「東京育ち」の文豪である。
藤村は三兄の友弥と共に、長兄秀雄に付き添われ上京。長姉「その」の嫁ぎ先、高瀬薫の家に寄寓。藤村は意図せずして、上京することになった。高瀬宅は京橋区鎗屋町にあり、銀座四丁目角、朝野(ちょうや)新聞社屋――時計塔のある服部時計店(銀座和光)の建っているところ――の裏手にあたる。藤村は、まさに木曽の山中から東京のど真ん中に連れて来られたのである。
藤村は数寄屋橋と山下門の間にある泰明小学校(京橋区元数寄屋町1丁目)に通った。家から歩いて数分。二階建ての赤煉瓦校舎で、学校の前には外濠があった。
藤村が一家転住でもないのに、なぜ上京したのか。新潮日本文学アルバム4「島崎藤村」(1984年、新潮社)には、《藤村は明治十四年、数え年十歳のとき、長兄秀雄にともなわれて東京に出ている。遊学のための上京である。ようやく奇行のめだちはじめた父親の傍を離れさせるため、という配慮もあったらしいが、実はそれ以上に、島崎家の衰運を回復する期待と願いがこめられていたにちがいない。周囲の人びとは政治家や実業家として身を立てることを希望し、藤村自身も世俗の立身を夢みていて、のちに一高受験に固執することになる》と書かれている。
一種のエリート教育を目指した感がある。確かに高瀬薫は教育者であり、しかも高瀬家は木曽福島宿の名家(現在、「高瀬家」は博物館として公開されている)。藤村が上京した翌1882年、高瀬は帰郷し、やがて木曽福島の隣にある上松町(大相撲力士御嶽海の出身地)の学校長になっている。藤村は姉夫婦の家から、高瀬薫の母方の親戚にあたる力丸元長の家に移された。この力丸元長。岩村藩(岐阜県恵那市)の藩士だった人物で、宮中に仕え、やがて実践女学校を設立した平尾セキ(後の下田歌子)に和歌を教えた人物であろう。三兄友弥が歌好きで、佐々木信綱の許に入ったのも、力丸の影響があったかもしれない。
翌1883年、藤村は高瀬の同郷、士族の吉村忠道宅(京橋区銀座4丁目4番地)に引き取られた。現在、ミキモト銀座本店や木村屋総本店が建っている辺り。小学校に近いことは変わりなかった。新潮日本文学アルバム4「島崎藤村」には、《実業家吉村忠道にも、ゆくゆくは関係する針問屋を継がせようとのもくろみがあったという》と記され、《藤村はそうした人間たちの期待を裏ぎり、失望させながら、文学者に変貌していったのである》と続けられている。
藤村は1884年、泰明小学校を卒業。海軍省官吏石井其吉に英語を学ぶようになるが、二年ほど学歴は不明で、1886年、吉村忠道の伯父武居用拙に「詩経」「左伝」、英学者島田奚疑に英語を学ぶ、と記録された後、三田英学校(のちの錦城中学)に入学する。
三田英学校は当時、芝区愛宕町3丁目(現、港区新橋5丁目)にあった。寄寓する吉村宅から、歩いて15分くらいのところである。しかし、9月には共立学校(のちの開成中学)に転校する。共立学校は当時、神田淡路町2丁目3番地にあり、現在の地下鉄千代田線新御茶ノ水駅東側すぐ、淡路公園あたり。歩いて30分ほどかかっただろう。この共立学校で藤村は木村熊二の教えを受けた。
父正樹が亡くなった翌年にあたる1887年。吉村宅は日本橋浜町3丁目1番地に引越した(その後、日本橋浜町2丁目11番地に引越し)。藤村にとって、共立学校に通うには近くなったが、9月に芝区白金今里町にある明治学院に入学。日本橋浜町から、水天宮の前を通り、鎧橋から日本橋へ出て、京橋・新橋、さらに芝大門から田町、西へ入って白金へ。今なら、都営地下鉄浅草線人形町駅から高輪台駅まで一本で約16分、そこから徒歩5分。当時、日本橋・新橋間(約2.5km)には馬車鉄道が走っていたが、おそらく利用しなかったであろう。学校までの道のりは9km以上。若者の足でも1時間半はかかったと推測される。そのようなこと、どうでも良いと思われるかもしれないが、「地理屋」にとっては関心事。本人にとっても、徒歩往復3時間は英語の授業よりたいへんだったかもしれない。


※【文豪の東京2――島崎藤村】は今後随時連載。途中で、他のテーマも入り込み、第2回がいつになるやら、連載終了がいつになるやら、まったくわかりませんが、気長にお付き合いください。

【連載「文豪の愛した温泉」②】

「60代からの日本の旅、鉄道の旅 ジパング倶楽部」2月号は「文豪の愛した温泉」。修善寺温泉に続いて漱石が登場するのは道後温泉。もちろん、主人公は正岡子規。子規が漱石と訪れた公衆浴場「道後温泉本館」は、《国の重要文化財で、漱石の『坊っちゃん』の舞台です。保存修理工事中のため、「霊の湯」のみ入浴可》と紹介されている。また、「道後温泉ふなや」は、《漱石や子規、高浜虚子、種田山頭火など、多くの文人墨客が訪れた宿。敷地内には漱石や山頭火の句碑もあり、》《文学ファン向けの客室「俳句ラウンジスイート」もあります》と言うからすごい。
漱石は旧制松山中学をあとに、熊本にある旧制第五高等学校に赴任。熊本県玉名市にある小天(おあま)温泉は、漱石が桃源郷と称賛し、小説『草枕』の舞台となったと紹介されている。漱石は1897年の末、正月を過ごすため、熊本市街から近い小天温泉へ。地元の名士・前田案山子が来客をもてなすため建てたという「前田家別邸」に逗留。現在、「前田家別邸」では、漱石が宿泊した部屋や浴場を公開。漱石に関する展示室もある。とにかく、小天温泉は『草枕』と結びつき、「文豪の愛した温泉」には、《作中で、小天温泉は「那古井の温泉場」、前田家別邸は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」として登場。漱石が実際に辿り、『草枕』に登場する石畳の道や茶屋跡がある旧道は現在、「草枕の道」として整備されています》と記されている。
修善寺から道後、そして小天へと、漱石といっしょに、いで湯を求めて「ジパング倶楽部」で鉄道の旅をするのも、また良かろう。早く笑顔で旅できる日に訪れて欲しい。
「60代からの日本の旅、鉄道の旅 ジパング倶楽部」2月号には、「冬の北陸・美食三昧」という特集も組まれている。
福井県は「越前おろしそば」。石川県は「加能ガニ」。富山県は「ひみ寒ぶり」。すべて食べてみたいものばかり。子どもの頃は、ふつうに寒ぶりを食べていたので、高級食材と思っていなかったが、そのおいしさは今も忘れられない。
締めは、やはり食べ物になってしまったが、ここで館長の一句
――純米に寒鰤ありて今日の宿
過ぎてしまいましたが、3月1日は芥川龍之介の誕生日でした。
今年、「生誕130年」にあたります。

【連載「文豪の愛した温泉」①】

「60代からの日本の旅、鉄道の旅 ジパング倶楽部」。
ところが、新型コロナウイルス感染症の大流行によって、旅行をする機会もなくなり、「ジパング倶楽部」に入っている意味があるのかと思う日々。そんな中で、毎月送られてくる「ジパング倶楽部」の冊子に、旅情をかきたてながら、何とか退会を思いとどまり。そうとなれば、この「館長の部屋」を書くにあたって、何か役に立てたいものである。
ちょうど良い。2月号は「文豪の愛した温泉」。何と、漱石は、修善寺温泉、道後温泉、小天温泉の三つに顔を出しているではないか。さすがである。もし、旅好きな漱石が現代に生きていれば、きっと「ジパング倶楽部」に入会するであろう。そう言いたいところだが、男性は65歳から入会可能な「ジパング俱楽部」では、若すぎてムリ。漱石はせめて「40歳から入会できるようにして欲しい」と声を上げることだろう。50歳を待たずに亡くなった漱石は、あまりにも早い死であった。その中で、私には何百年かかってもできそうにないことを、漱石はやりとげた。すごいと思う。

「文豪の愛した温泉」。まずは静岡県伊豆市にある修善寺温泉。冒頭、《伊豆最古の湯といわれ、807(大同2)年、弘法大師の開湯と伝わる修善寺温泉。長い歴史にふさわしく、夏目漱石、泉鏡花など多くの文人墨客が訪れ作品に残してきました。なかでも、1911年に発表された岡本綺堂の戯曲『修善寺物語』は、明治座で二世市川左團次により初演。大変な評判を呼び新歌舞伎の代表作となった名作です》。漱石、鏡花は後に回して、今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が頭に浮ぶ。
『修善寺物語』は、将軍源頼家の依頼で修禅寺の面作師・夜叉王がつくる面に、死相が何度も現れるところから始まる。綺堂はこの脚本に現れたことは全部嘘で、夜叉王など創作であると記している。綺堂は「養気館新井」(現、新井旅館)に投宿し、主人から聞いた修禅寺の寺宝「頼家の仮面」を見て、着想を得たという。明治座では翌1912年、鏡花の『稽古扇』が上演されている。「夜叉」というと鏡花の戯曲『夜叉ケ池』。1913年に発表されている。
何とかここで、話しを鏡花までもってきたが、新井旅館は「文豪の愛した温泉」に、《1872年開業。岡本綺堂、尾崎紅葉、横山大観、二世市川左團次など多くの文人・画人に愛されました》と紹介されている。もちろん、鏡花もお気に入りの旅館であった。
巌谷大四『人間泉鏡花』によると、1924(大正13)年4月。中戸川吉二は新井旅館で偶然鏡花夫妻に出会った。中津川は病後の妻と身体のあまり丈夫でない子どものために、田舎住まいをしようと、沼津近辺の借家を探していたが、適当な家がなく、温泉が恋しくなって修善寺へやって来たのである。新井旅館宿泊三日目。玄関のところで偶然鏡花夫妻と顔を合わせ。ところが中戸川がひとりだったため、鏡花は女を連れ込んだと勘違い。中戸川は気分を害したが、やがてその誤解も解け、一緒に食事をしたり、芝居小屋へ行ったり。散歩のお供に行った時には、鏡花夫妻の仲のむつまじさに、さんざんあてられ、その様子は《ステッキと手提袋とをお互いにふりふり、町はづれの草原へ出れば、まるで、十二三の少女と十五六の少年とが植物園へでもはいつたやうな騒ぎになる。草を摘む、蛇を恐がる、馳け出す、追ひかける、食ひつく、抓ねる、までは人前だからしないが、第三者の目には、心をピンと張つてどうよく解釈しようとも、じやれ合つておいで遊ばしてゐるとより外みえない》と紹介されている。私が修善寺を訪れることがあったなら、この光景を思い浮かべるだろうが、とんだ「草迷宮」である。この他にも、年譜には、1928年に肺炎を病んだ鏡花が、5月には快復して、修善寺を訪れたことが記されている。
新井旅館のホームページには、訪れた多くの文人・墨客の名が。文人でも綺堂・鏡花の他、尾崎紅葉はここで『金色夜叉』を執筆。芥川龍之介は『温泉だより』『新曲修善寺』。幸田露伴・島崎藤村・田山花袋・川端康成・井伏鱒二等々。子規や虚子も訪れている。にも関わらず、漱石の名前がない。
漱石は「菊屋旅館」(湯回廊菊屋)である。漱石は1910年夏、胃潰瘍の療養を兼ねて菊屋旅館に宿泊した。初日の部屋は、「梅の間」(漱石の間)として現在も使用されている。館内には「菊屋と夏目漱石」のコーナーもある。漱石が大量吐血して危篤状態に陥った、いわゆる「修善寺の大患」の部屋は、修善寺虹の郷の日本庭園に移築され、「夏目漱石記念館」として公開されている。
さてさて、修善寺を訪れた折には、新井旅館に泊まろうか、菊屋にしようか、迷うところだが、掲載された「一泊二食」の金額を見れば、迷う必要はなさそうだ。二つの旅館を横目で見ながら、修善寺の街を巡るのも良さそうである。
                          (つづく)
《母は雪を盾に一寸のばしに引き止めようとしてゐたが、たとひ其が百万石の城下の町であつたにしろ、等には呪はしくもある生れ故郷であった。人にも土地にも愛着はなかつた。それに試すものは早く試して見たくもあつた。太田が気遣つて、小田原マントに蝙蝠傘をさして、びしやびしやする雪のなかをやつて来て、店先きで、「君やつぱり立つかい。」と尋ねて、「しつかり遣つてくれたまへ。色々の人に逢つてみるのも可からう。時々様子を知らせてくれ給へ。」と贐の言葉を置いて、桐生君にも宜しくと言つて帰つて行つた。悠々は他に一人、連れがあつた。宿のをばさんの懇意にしてゐる小島といふ家の子息で、越前堀にある叔母の家をたよつて行くので、道伴にしてくれといふのだつた》。これは秋聲の自伝的小説『光を追うて』の一節である。
「人にも土地にも愛着はなかつた」と言いつつ、金沢は捨てがたい故郷である。けれどもこの故郷を捨てなければ、そして上京しなければ未来は開けない。金沢がどんなに素晴らしくても、所詮地方都市であり、中央ではない。この思いは鏡花にも犀星にも共通する。そして、私が『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を書いたのも、その思いに共感するからである。ただ、私には上京するという勇気がなかった。そこが大きく違う点である。
上京!それでも金沢は故郷として素晴らしいところである。その故郷を発って上京するには、「人にも土地にも愛着はなかつた」と言い切って、故郷を捨てる決断が必要である。私はそれを「故郷を断つ」、「断郷」と呼んでいる。犀星の有名な詩「ふるさとは遠きにありて・・・」は、まさに「断郷」の詩である。

金沢を発った向山等(秋聲)・桐生・小島の三人は直江津まで徒歩である。旅は道連れ。一人では心細い。桐生というのは桐生政次。後に桐生悠々と名乗る。
桐生は1873年生まれ。鏡花と同じ年の生れであるが、秋聲が進級で遅れたため、同じ学年になり、親しくなっていった。
秋聲は小説家になる夢を捨てきれず、進学はあきらめたが、桐生はやがて東京帝国大学法科大学に入学し、卒業後は職を転々としながら、新聞社に職を得るようになっていった。
桐生悠々は「抵抗の新聞人」として知られている(と言っても、今ではあまり知られていないが)。「信濃毎日新聞」で二度、主筆を務め、乃木大将の殉死や軍部批判などの記事も書き、退社に追い込まれたり、それでも自分が「書きたいことは書く」という姿勢を貫いた。東京朝日新聞にいたこともあり、「朝日文芸欄」などとの関りで、漱石と顔を会わす機会もあったかもしれない。
鏡花が1939年、秋聲が1943年に亡くなっている。悠々はその間の1941年に亡くなった。悠々没後50年に多磨霊園に建てられた句碑には「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」が刻まれている。嵐の夜に蟋蟀が一匹鳴いたところで、かき消されてしまうだろうが、それでも鳴き続けるところに、ジャーナリストの本懐がある。何かそのようなことを思わせる一句である。
1924年。桐生悠々は衆議院議員選挙に出馬した。結果は落選であった。秋聲が衆議院議員選挙に出馬したいと思ったのも、このような悠々の影響があったからだろう。ひょっとしたら自分が当選して、悠々の仇を取るつもりであったかもしれないが、結果、出馬には至らなかった。
一昨年亡くなった、直木賞作家の井出孫六(1931~2020)は『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波現代文庫)を書いている。
昨年、桐生悠々は「没後80年」を迎えた。
《お知らせ》
「芥川龍之介生誕130年 室生犀星没後60年 記念展」が2月5日(土)から田端文士村記念館で開催されます。期間は5月8日(日)まで。入場無料。詳しくは、田端文士村記念館のホームページで確認してください。
『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』と【文豪の東京――芥川龍之介】を読んでから行かれると、より興味深く見学・鑑賞できるのではないかと、勝手な想像をしています。

漱石養父塩原昌之助
その昌之助のもう一人の養子塩原秋男
そして、昌之助の裃・袴発見の記事は、
【文豪の東京――芥川龍之介】第12回の後に掲載されています。
合わせてお読みください。

【文豪の東京――芥川龍之介】
                   

第15回 田端に暮らす⑨
――田端人


『田端人』は大震災から二年後の1925年に書かれた。芥川龍之介(1892~1927)が田端に住んでいた証のような小品である。描かれた人物は下島勲・香取秀真・小杉未醒・鹿島龍蔵・室生犀星・久保田万太郎・北原大輔の7人。このうち久保田万太郎・北原大輔の二人は「田端文士村記念館」ホームページ「文士芸術家一覧」に載せられていない。

下島勲(1870頃~1947)
医者で龍之介一家が常に御厄介になる。空谷山人と号し、乞食俳人井月の句集を編む。親子ほどの年の差だが、トルストイでも何でも読み、論戦に勇であるのは敬服すべしで、書画を愛する心は下島に負うところが多い。龍之介はこのように紹介して、《先生は時々夢の中に化けものなどに追ひかけられても、逃げたことは一度もなきよし。先生の胆、恐らくは駝鳥の卵よりも大ならん乎》と加えている。

香取秀真(1874~1954)
通称「お隣の先生」。鋳金家で根岸派の歌よみ。龍之介は香取から形の美しさを学んだが、学ぶところはたくさんあり、何ごとも盗めるだけ盗んで置くつもりなので、「お隣の先生」には長生きしてもらいたいと書いている。その香取は龍之介の願い通り、その後30年を生き、1954年に81歳で亡くなった。ところが当の龍之介は二年後の1927年、35歳で自ら逝ってしまった。香取からたくさん盗もうという気概はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

小杉未醒(1881~1964)
本職の油画・南画以外に詩や歌を作る、《呆れはてたる器用人》。和漢の武芸に興味をもち、テニスや野球をやったりする豪傑肌だが、《荒木又右衛門や何かのやうに精悍一点張りの野蛮人》ではない。龍之介は何か災難に出合い、誰かに同情してもらいたい時には、まず未醒老人(と言っても、当時まだ40歳代前半である)に綿々と愚痴を述べるつもりだと言う。ただ《実際述べたことは幸ひにもまだ一度もなし》。「誰かに同情してもらいたい時」などというのは、いかにも龍之介らしい。甘え上手である。

鹿島龍蔵(1880~1954)
《これも親子ほど年の違う実業家なり》と、ここまでの四人が龍之介にとって年長者である。鹿島は少年の頃、西洋にいたため、三味線や御神燈を見ても遊蕩を想わないが、ランプ・シエエドなどを見れば、たちまち遊蕩を想う。書・篆刻・謡・長唄・常磐津・歌沢・狂言・テニス・氷辷りなど通じないものはないが、龍之介はそのような多芸さをもって鹿島を尊敬するのではなく、「人となり」をもって尊敬するのだと書いている。
龍之介が尊敬する鹿島の「人となり」とは、《熟して敗れざる底の東京人》であること。今日ではもう見なくなったが、将来はさらに稀なものとなるであろうと龍之介は述べている。龍之介自身は《東京と田舎とを兼ねたる文明的混血児》であるが、東京人である鹿島さんには《聖賢相親しむの情――或は狐狸相親しむの情を懐抱せざる》を得ないというのである。龍之介もれっきとした「東京人」であると思うのだが、どこで「田舎」が混じってきたのであろうか。
その鹿島がまたヨーロッパ旅行に出かけるというので、龍之介はこの紙面を借りて、《あんまりランプ・シエエドなどに感心してはいけません》と、餞の言葉を書いている。

室生犀星(1889~1962)
ここから三人は龍之介より若干年上であるが、同世代ということで、それまでの四人に比べると遠慮のない書き方になっている。犀星などは、《これは何度も書いたことあれば、今更言を加へずともよし》で始まり、《只僕を僕とも思はずして》、「好い加減に猿股をはきかえなさい」「そのステッキはよしなさい」とか、《入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらん乎》と続く。二人の人柄、距離感がよく表れており、私には微笑ましく、また羨ましく思われる。世話焼きの小言に降参するどころか、龍之介には《室生の苦手なる議論を吹つかける妙計あり》と、犀星に関する短い文章を終わっている。

久保田万太郎(1889~1963)
久保田も犀星と似たようなものだが、犀星には「室生」と呼び捨てにするが、久保田には呼び捨てにできず、いまだに「久保田君」。酒飲みだが海鼠腸もからすみも烏賊の黒作りも食べない。龍之介は《酒客たらざる僕よりも味覚の進歩せざるは気の毒なり》と結んでいる。

北原大輔(1889~1951)
《これは僕よりも二三歳の年長者なれども、如何にも小面の憎い人物なり。幸いにも僕と同業ならず。若し僕と同業ならん乎、僕はこの人の模倣ばかりするか、或はこの人を殺したくなるべし》と、ここまで書けるのは、龍之介が北原に親近感をもっていたということか。
龍之介の紹介によると、北原は画家で、底抜けの酒客ではあるが、酔っても座を崩すことなく、わずかに平生よりも手軽に正体を表すようになるだけ。このような時の北原の眼は俊爽の色がある。
龍之介はまた、《北原君は僕より盗むもの》がないけれど、自分は北原から盗むものがあるので、《畢竟得をするのは僕なるが如し》と書いている。とにかく、犀星や久保田に比べれば字数が多い。

下島先生、香取先生と書いた龍之介は、その後の人びとに対しては「これも」「これは」で文章を書き出している。小杉先生、鹿島先生とは書きにくかったのだろうが、「これも」と表現し、先生に準じた扱いと言える。犀星と北原には「これは」で先生に準じた扱いはいたしません、と言いたげである。そのような中で、久保田には「これも」を使い、龍之介が呼び捨てにできなかった久保田は、犀星などと何か違う雰囲気をもっていたのであろう。龍之介が実際にどのような思いで、「も」と「は」を使い分けたかわからないが、龍之介の文章には、ささいな表現に思いがこぼれ出てくることがある。

以上をもって、【文豪の東京――芥川龍之介】の連載は終了です。
【文豪の東京】は、しばらく時間をいただいて、また新たな文豪を選んで、連載を再開していきます。

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関東大震災に関連して、
11.『杏っ子』に描かれた関東大震災
12.震災後の深川――『深川淺景』 
などがあります。

「館長の部屋」の記事は、「ブログ」にも掲載されています。カテゴリ別、月別に読むこともでき、検索も可能です。


漱石養父塩原昌之助
その昌之助のもう一人の養子塩原秋男
そして、昌之助の裃・袴発見の記事は、
【文豪の東京――芥川龍之介】第12回の後に掲載されています。
合わせてお読みください。

【文豪の東京――芥川龍之介】
                   

第14回 田端に暮らす⑧
――田端で体験した関東大震災⑥


「六」の「震災の文芸に与ふる影響」は直接田端を扱ったものではない。ただ、大震災を目の当たりにした直後の龍之介が、それをどう感じ、どう捉えたか、その後のことを知っている私たちからみると、検証として意義がありそうだ。阪神淡路大震災・東日本大震災を知っている私たちは、龍之介の文章をどう捉えるであろうか。
龍之介は《大地震の災害は戦争か何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない》と書き出している。「すぎない」という表現は反感を買いそうであるが、地震が起きたところに人間が住んでいて、初めて災害になるのだから、冷静に捉えれば龍之介の表現は間違ったものではない。
龍之介はそれだけに《我我作家に与へる影響はさほど根深くないであらう。作家の人生観を一変することなどはないであらう》と続けているが、東日本大震災が作家にも与えた大きな影響を考えると、龍之介の指摘は正しいのかと思わされる。当時と今と違うのか、龍之介の予測が違うのか、東日本大震災も作家に大きな影響を与えたようで、実は与えていなかったのか。
ただ龍之介はこのように書いている。《災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた》。ひょっとしたら、東日本大震災でも、私たちは大きく動揺したけれど、根深いところまで行っていないのかもしれない。そのあたりはもっと深く分析しなければ、結論付けることはできないが、私は龍之介のつぎの指摘は「当たり!」ではないかと思う。《我我ははげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない》。
人間の心理をつかみ取るような龍之介の指摘。つぎの一文からもうかがい知れる。《大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。》
龍之介は大震災によって、このような二つの傾向が現れるであろうと予測し、これらは相反するように思われるが、《前の傾向は多数へ訴へる小説をうむことになりさうだし、後の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい》と書いている。この指摘を大正末から昭和初期の文学で検証してみるのも、おもしろそうである。
一方、龍之介はそれどころではない。「七」は「古書の焼失を惜しむ」で、龍之介は《今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ》と書き出している。
龍之介の情報によると、表慶館(現、東京国立博物館)に陳列されていた陶器類はほとんど破損した。古書では黒川家の蔵書、安田家の蔵書、大学の図書館の蔵書も焼けた。古美術商の村幸・浅倉屋・吉吉なども焼けた。
とにかく取り返しのつかない損失だが、それを大地震の責任だけにできない、とくに《大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである》と、龍之介は手厳しい。そして龍之介はその落ち度を具体的に指摘している。大学というのは、もちろん東京帝国大学である。その図書館は漱石も愛用し、『三四郎』の中にも出てくる。大学批判は漱石も手厳しいが、龍之介もその後を継いだ感がある。
① 図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところに接近しているのが良くない。
② 休日などには図書館に小使いくらいしかいないのも良くない。
③ 書庫そのものの構造のゾンザイなのも良くない。
④ 古書の復刻をしてこなかったのも良くない。
防災上、参考になる指摘ばかりだが、要は学者に、(龍之介はそれ以上書いていないが、おそらく国家全体において)、文化軽視の傾向が強くみられることが最大の原因であると言いたげである。これは現代への警鐘と受け止めることもできる。
龍之介は《大野洒竹の一生の苦心に成つた洒竹文庫の焼け失せた丈けでも残念で堪らぬ》と記し、さらに「八九間雨柳」という士朗の編んだ俳書は二冊しかなかったが、そのうちの一冊がなくなり、《それも今は一冊になつてしまつた訣だ》、と結んでいる。

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関東大震災に関連して、
11.『杏っ子』に描かれた関東大震災
12.震災後の深川――『深川淺景』 
などがあります。
漱石養父塩原昌之助
その昌之助のもう一人の養子塩原秋男
そして、昌之助の裃・袴発見の記事は、
【文豪の東京――芥川龍之介】第12回の後に掲載されています。
合わせてお読みください。



【文豪の東京――芥川龍之介】
                   


第13回 田端に暮らす⑦
――田端で体験した関東大震災⑤


「五」は「廃都東京」。加藤武雄に宛てた手紙である。小説家で文芸評論もおこなう加藤武雄(1888~1956)と思われる。加藤は「新潮社」からの出版物に載せるつもりだったのか、龍之介に「東京を弔う」という題で書くよう、原稿を依頼した。龍之介も加藤からの依頼では断るわけにもいかず、一旦引き受けたものの、書く気がせず、《この手紙で御免を蒙りたい》と断りの手紙を出した。その手紙が「五」は「廃都東京」の文章であるが、どうして立派に「東京を弔う」内容になっている。
龍之介は応仁の乱か何かに遇った人の歌、「汝も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」を引用して、結論的に《僕の東京を弔う気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?》と書いている。つまり、「東京を弔う」という文章は「落つる涙は」の一語で終わってしまうので、依頼された原稿という形で書くことなどできない、だから断りたい。
ところがこの一文に至るまで、龍之介は丸の内の焼け跡を歩いた時、「落つる涙は」の思いがしたが、だからと言って、このようになる前の東京に愛惜を持っていたわけでなく、江戸の昔を恋しく思っているわけでもない。そう断りを入れて、龍之介の「東京観」を記している。東京生まれの龍之介の「東京観」。私にはとても興味深い。
龍之介は書く。《僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖えない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処か折り合へない感じを与へられてゐました》。龍之介が愛する東京は「一昔前の東京」であって、急激に変わってしまった東京が焦土と化しても、惜しむ気持ちもなかったのでしょう。龍之介の中の東京は大震災前に、すでに消えてしまっていたのですから。
とは言っても、焦土と化した故郷東京を目の当たりにして、龍之介の感情も動かされたようで、《俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから》と書き、「一昔前」とはすっかり変ってしまった東京も捨てがたい思いがして、結局、何かよくわからないけれど、「落つる涙は」と云う気がしたことだけは確かであると述べている。平静を装いつつ、龍之介もやはり大震災で変わり果ててしまった東京に、大きな衝撃を受けているのだろうか。
手紙の最後に龍之介は、《僕はこの手紙を書いて了ふと》と書いて、《僕の家に充満した焼け出されの親戚故旧と玄米の夕飯を食ふのです。それから提燈に蝋燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです》と続けている。大きな被害を受けなかった芥川家は親戚の人たちなどの避難先になっていたのだろう。急に現実に戻って、「弔う」より「生きること」が先、という龍之介の思いが伝わって来る。
変わり果てた故郷東京。龍之介に「落つる涙」はあっても、感慨に浸っている余裕はなかったのかもしれない。

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漱石養父塩原昌之助
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【文豪の東京――芥川龍之介】
                   
第12回 田端に暮らす⑥
――田端で体験した関東大震災④


なぜだか「四」は「東京人」という題がつけられている。とにかく、自分は東京に生れ、育ち、住んでいるので、愛郷心など感じないと言い、《東京東京と有難さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者に限つたことである。――さう僕は確信してゐた》と続けている。
するとそこへ突然、大彦の野口君が現れる。二代目大彦・野口真造の兄で、江戸染繍の大家として知られる野口功造(1888~1964)である。大地震の翌日、龍之介のもとを訪れ、一本のサイダアを中に二人は話し合っている。東京の大火の煙は田端の空さえ濁らせている。
龍之介は野口に、罹災民は続々東京を去っていると話した。《「そりやあなた、お国者はみんな帰つてしまふでせう。――」野口君は言下にかう云つた。「その代りに江戸つ児だけは残りますよ。」僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。(略)兎に角その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい》。最後まで読むと、「東京人」という題も納得である。
何があろうと、どっしりと東京に根を下ろした「東京人」。まさに東京を愛するからであろう。やはり東京が故郷であり、東京を愛している。震災によって、それに気づかされた龍之介。こそこそと故郷へ逃げ帰る「地方人」とは違うのだ。
そう言えば、犀星は故郷金沢へ「逃げ帰ってしまった」なあ。(もちろん、犀星としては逃げ帰ったつもりは、まったくなかったであろうが……。)

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【新春特別企画】
あけましておめでとうございます。
今年も「勝手に漱石文学館」をよろしくお願いいたします。
新年を祝して、特別企画をお届けします。

塩原昌之助の裃・袴を発見!
もう一人の養子――塩原秋男

塩原家では、「おじいさんは漱石と義理の兄弟になるんだよ」と、孫たちにも伝えられているそうです。「おじいさん」とは塩原秋男。1901(明治34)年9月21日、小出治吉(二代)・ろく夫妻の二男として、静岡に生れました。

かつて漱石の養父であった塩原昌之助は、何とか塩原家の跡継ぎを得たいと、1909年3月、早稲田南町に漱石を訪ねました。頼みの綱であった義理の娘れん(平岡)が前年6月に亡くなり、一方、漱石には12月、二男伸六が生まれていました。すでに昌之助は「古来稀」な古希に達しており、いつどうなるかわからない。昌之助は、有名になった漱石の復縁を望んだでしょうが、もちろんムリな話しで、それならば、せめて伸六を養子に。けれども、漱石も養子に出された自分自身の生い立ちを考えれば、伸六を手放すわけにはいかない。しかも伸六は身体面でも心配を抱えていました。おそらく昌之助は何度も漱石のもとを訪ねたのでしょうが、不調に終わり、その間に、れんの夫だった平岡周造も亡くなってしまいました。
もちろん昌之助はあきらめません。
浮かび上がったのは、静岡に住んでいる甥の小出治吉(二代)の二男秋男です。もともと、初代治吉は昌之助の兄であり、塩原家から武家の小出家に養子として入った身。その孫が小出家から戻って、塩原家の跡を継ぐことに、血統の上からも何ら不自然はありません。
こうして、小出秋男は1915年3月20日、養子として塩原家に入り、下谷区西町4番地(現在の台東区東上野二丁目8~9番)に昌之助・かつを養父母として暮らすことになりました。昌之助が名主として塩原家を継いだ15歳(14歳)と同じ年齢でした。おりしも、『道草』新聞連載が始まる二ヵ月半前のことです。もし昌之助が依然として養子を迎えることができていなければ、『道草』は違った趣になっていたかもしれません。

昌之助の二歳上の兄、治吉(初代)は、幕臣の小出家に養子に行ったため、徳川幕府崩壊にともない、慶喜あるいは家達に従って、駿府に移り住むことになりました。住んだところは駿府城の北側、東草深。西草深には勝海舟が住み、徳川16代当主家達が住み、やがて15代将軍だった徳川慶喜も住むようになりました。いずれも、後に東京へ戻りましたが、小出家はそのまま駿府(明治になって、静岡と改名)に留まり、現在に至っています。
ところで、小出治吉(初代)とは、どんな人物だったのでしょうか。『吾輩は猫である』には、つぎのように書かれています。

迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物でねぇ――やはりその十九世紀から連綿と今日まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかり仰ゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それが只生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被る程寒さを感じた事はないと威張ってるんです。(略)六十七になって寐られなくなるなあ当り前でさあ。(略)それで外出する時には、きっと鉄扇を持って出るんですがね」(略)「此年の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。一寸驚いたから、郵便で問い返したところ老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会があるからそれまでに間に合う様に、至急調達しろと云う命令なんです。ところが可笑いのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋と間違えたんだあね」

フロックコートはジャケットの部分が長く、モーニングコートに取って代わられる前の礼服の主流。ベスト・スラックスと合わせて三つ揃えになっています。迷亭の伯父さんは、これに山高帽子を被るという正装で、祝捷会へ出席したようです。やがて、伯父から山高帽子が送られて来て、少々大きいので、帽子屋で縮めてもらってくれという。話しはまだ続きますが、別の箇所では、迷亭が上京して来た伯父と竹葉亭へ鰻を食べに行く話も出てきます。
この人物は迷亭の「静岡の伯父」。治吉は昌之助の兄ですから、義理の仲とは言うものの、漱石からすれば伯父にあたります。『猫』の中にも、年齢がきちんと記されていることから、少なくとも漱石は治吉の存在を知っており、会ったこともあるのではないかと思われます。もちろん、『猫』は小説ですから、現実の治吉がどんな人物であったかわかりませんが、徳川の御代を背負って生きているような「伯父」を、迷亭の伯父として登場させたのではないかと推測されます。

さて秋男に話しを戻しましょう。
1916年12月9日。昌之助の最初の養子である漱石が死去。昌之助が当初、漱石とれんを結婚させて跡を継がせようとしていた、その二人とも昌之助より先に亡くなったことになります。
その昌之助は1919年9月15日に亡くなり(戒名、眞浄院實嶽昌道居士)、秋男が塩原の家督を相続しました。養母かつと二人暮しになった秋男ですが、1923(大正12)年9月1日、後に関東大震災と呼ばれる大地震に遭遇。塩原家を含め一帯は全焼。おそらく火に追われながら、比較的近い上野公園まで逃げたことでしょう。何とか二人とも命拾いしたものの、かつは10月16日に死去(戒名、眞清院昌室妙道大姉)。今で言う「災害関連死」にあたるのではないでしょうか。
昌之助・かつ夫妻がどのような人物だったのか、秋男が東京でどのような生活をしていたのか、塩原家で語り継がれることはほとんどなかったようで、不明のままですが、秋男は1930(昭和5)年2月17日に静岡へ戻り、実家(静岡市東草深町1丁目24番地)の隣地22番地に住み、2月19日、鈴木たけ、と結婚。秋男・たけ夫妻は1934年、静岡駅南東1キロほどの八幡本町に転居しました。

秋男とはどのような人物であったのか。話しを聞くために塩原家を訪ねました。応対してくれたのは、秋男の孫にあたる現在の当主知(さとし)さん、それにお母様。
「おじいさんは60いくつで亡くなって、自分がまだ幼稚園の頃で、あまり話しを聞く機会もなかったので」と知さん。お母様の話しによると、「おじいさんは土曜日に旅行から帰って来て、翌日、心不全で亡くなった。母の日だったので、5月12日というのをはっきり覚えている。67歳だった」。秋男が亡くなったのは1968年5月12日(日曜日)。戒名は大澄院覚明秋心居士。
二人の話しを総合すると、静岡へ戻った秋男は、市役所や静岡銀行に勤め、八幡本町で空襲に遭いました。三菱に勤めたこともあったとか。とにかく酒好きで、夕方、風呂に入ってから、三つ揃いのスーツに着替え、ロンジンの懐中時計をして、「七ブラ」に出かけていくのが日課。銀座を歩けば「銀ブラ」。静岡では県庁からまっすぐ伸びる七間町に映画館が建ち並び、そぞろ歩きは「七ブラ」。秋男は映画ではなく、飲みに行ったようです。毎月、伊豆の温泉へ出かけて行き、旅館ともおなじみさんに。お母様は「おじいさんは、よく手紙を書いていた」とも話してくれました。
こうして話しを聞いてくると、私の頭の中には小出治吉(初代)・塩原昌之助兄弟の姿が浮かんできます。血筋なのでしょうか。
一方、おばあさんにあたる秋男の妻たけ。「おじいさんは漱石と義理の兄弟になるんだよ」と、孫たちに伝えていたのは、このおばあさんです。遠州森町三倉の生まれで、小学校の先生をしていました。戦後、公民館など人の集まるところへ出かけていって、洋品を販売し、やがて洋品店を開くまでになりました。働き者で人情に厚く、塩原家を支え、1996(平成8)年10月15日に亡くなりました。92歳でした(戒名、竹仙慶昌大姉)。秋男・たけ夫妻には、幼くして亡くなった二人の女の子を含め、七人の子どもがいました。

話しが進んでいくうちに、お母様は思いついたように、「おじいさんの家は武士だったと言っていた。今も桐の箱に入って、裃・袴が残っていますよ」と教えてくれました。「ひょっとして、治吉(初代)の裃・袴か」と思ったのですが、小出家のものが塩原家にあるとは考えられない。けれども、秋男が実家である小出家が武家であったことを、はっきり認識していたことは確認できました。
小出家。秋男の実母「ろく」は、秋男がまだ東京にいる1922年1月2日に他界。実父治吉(二代)が亡くなったのは1940年1月25日。この二人の子どもは長男春男と、二男秋男のみ。その一人を塩原の養子に出したのですから、治吉(二代)にとっても、出自である塩原家の存続というのは、重要なことであったのでしょう。そして、小出春男は1944年12月5日、戦死。年齢からみて、指揮を執る幹部クラスの軍人だったと思われます。
いよいよ実際に、裃・袴を見せてもらうことに。
一部に虫食いがあるものの、比較的保存状態が良い。色は灰色に、薄く空色と緑色を混ぜたような色で、時代劇でおなじみのもの。色あせ、生地が薄くなった部分もあり、使用していたことは明らか。塩原の家紋がついており、小出家からもらい受けたものでないことがわかります。秋男がつくるとも考えられず、これは昌之助のものに間違いない。ということは、漱石の『道草』に出てくる扱所で着用していたか、とにかく幕末から明治にかけて、昌之助と関りの深い裃・袴であることは確か。幼少の漱石も見たことがあるかもしれません。
この裃・袴。本来なら関東大震災で焼失しているはず。秋男は昌之助の大切な遺品として、また塩原家の宝として、避難の際に持ち出したのでしょう。やがて静岡へ持って来られた裃・袴。今度は空襲で焼かれるはずでした。けれども秋男は田舎の方が安全であると判断し、妻の実家の方に疎開させたのです。こうして、静岡の家は空襲で焼失したものの、裃・袴は無事でした。ところが、先方はもらったものと思っていて、返さない。結局、秋男はおカネを払って、買い戻す形で裃・袴を手に入れたのです。
ここまでするのは、秋男の中に塩原家を継いだ使命感、そして養父昌之助に対する思いがあったからでしょう。昌之助の裃・袴であることは確実です。
そのような秋男にとって衝撃だったのは、塩原家菩提所の宗福寺(曹洞宗、新宿区須賀町10-2)が空襲で焼けてしまったことでした。「系図が焼けてしまった」と、とても悔しがっていたそうです。宗福寺があるのは旧町名でいうと四谷南寺町。まさに塩原家の故郷のような地域です。代々の過去帳がなくなってしまった。秋男は1948年4月、宗福寺を訪れ、30世住職(現在は32世)から法号を授与され、新たな過去帳をいただき、復元に努めます。
いくつか覚書していたものがあったのでしょう。そのたびに書いていったためか、新しい過去帳は順不同で、江戸時代の隣に大正・昭和などが並んでいることもあります。
もっとも古いものは、1807(文化4)年、即應妙参信女。傅次郎好栄が1821年、妻が1831年に亡くなっています。昌之助が1839年の生れ、初代昌之助が1848年に亡くなっていますから、傅次郎は昌之助の祖父にあたると考えられます。
菩提寺も焼失、過去帳もなくなり、秋男は墓も静岡に移す決断をします。もともと秋男は静岡の生れであり、兄春男の戦死によって、実家小出家に対しても叔父としての責任が出てきます。小出家が徳川瓦解にともない静岡に本拠を移したように、塩原家もまた本拠地を完全に静岡へ移すことになったのです。市営の霊園に墓地を求め、宗福寺にあった先祖の遺骨ごと移転。驚くほど多くの遺骨があったそうです。静岡の霊園にある塩原家の墓誌には、まず昌之助、続いて妻かつの名が刻まれています。

漱石の養父塩原昌之助は、『道草』のおかげで、世間からずいぶん悪い印象をもたれてしまいました。けれどもほんとうにそうなのか。このように問い直すのが私の癖で、昌之助の実像に少しでも近づきたいと、いろいろ調べていって、とうとう裃・袴までたどり着きました。
漱石は古今東西の文化に精通した、類まれな人物。その一翼を担うのが江戸文化です。漱石はそれを寄席で学びました。昌之助は日本橋瀬戸物町にあった伊勢本という寄席に、子ども時分の漱石をしばしば連れて行きました。もし、昌之助がいなかったら、漱石は寄席を通じて子規に出会うこともなく、「漱石文学」も生まれなかったかもしれないのです。そう考えれば、文豪夏目漱石の「生みの親」と言っても良いのが昌之助です。死後百年余。昌之助は再評価されて良い、少なくとも世間の悪い印象は払しょくされなければならないと、私は思っています。
⇒関連:「連載 漱石気分」の「1.気の毒な塩原昌之助」「2.『道草』に登場する人びと」

昌之助同様、養子の作品によって世間から今も悪い印象を持たれ続けているのが赤井ハツ。犀星の養母です。『弄獅子』によって、獏連女のイメージが定着してしまいました。けれどもほんとうにそうなのか。このように問い直す私の癖は犀星の養母にもむけられました。『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』では、犀星の実父母と養母ハツについて、定説をくつがえす記述をおこなっています。ぜひ『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』をお読みください。

『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』は、この文学館の「北野豊の本」から、または下記のメールから直接注文することができます。直接ご注文いただいた方には、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』とともに、「塩原家関連系図」「昌之助の裃・袴などの写真」がついた小冊子『もう一人の養子――塩原秋男』を添えて、お送りいたします。
メール speed1336days@hotmail.com

【文豪の東京――芥川龍之介】

第11回 田端に暮らす⑤
――田端で体験した関東大震災③


《地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず》という文章で「三、大震に際せる感想」は始まる。龍之介は求めに応じ、いくつかの雑誌に書いたのだろうが、この「三、大震に際せる感想」では、《この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり》と、「天譴」論を展開している。
天譴(てんけん)とは「天罰」と同義語である。龍之介は自身を省みて脚にキズのない者などないだろうから、「天罰」と言われればそれまでだが、《されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし》と述べ、《否、天の蒼生に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず》と続けている。
龍之介は理解して書いているだろうが、私の頭の中は混乱してしまう。とくに《されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば》という一文。龍之介が妻子を殺した事実はないし、彼というには誰のことかよくわからない。

渋沢栄一は2021年、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で主人公として描かれ、2024年度から一万円札の顔になる。その渋沢栄一の「天譴論」は、9月9日、東京商業会議所で開かれた実業家の集まりで語られたもので、「今回の大震火災は日に未曾有の大惨害にして、之天譴に非ずや」「我が国の文化は長足の進歩を成したるも、政治、経済社交の方面に亘り、果して天意に背くことなかりしや否や」というくだりが、それにあたる。渋沢は常づね「私利を追わず公益を図る」ことを重視していたと言われ、9月10日の報知新聞には「経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか(略)この天譴を肝に銘じて東京の再造に着手せなければならぬ」との言葉が報じられている。
地震は自然のものとしても、これほどまでに大きな被害が出たのは、我々が「もうけ優先」で開発を進めて来た結果ではないか。これはまさに人間に対する天罰(現在では「人災」という言葉がよく使われる)。だから復興にあたっては、全体が益になることを考え、誰かがもうけるために事業をゆがめてはいけない、これが渋沢の主張であろう。
龍之介はこの考えに賛同しているようだが、私利私欲で世の中をゆがめたのは一部の金持ち、権力者であって、そのような力のない一般庶民まで罰を受けるのは、どう考えてみても不公平であると、納得いかないようである。
そこで龍之介は、つぎに《自然は人間に冷淡なり》と書き出して、《大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。》《自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり》と書いている。この文脈からは自然の公平性が見えてきて、先の文脈と矛盾するように思える。つまり、大震災を天の「罰」と捉えれば、罪もない人間までも被害を被るのは不公平であるが、「自然」と捉えれば、自然は分け隔てなく、人間に襲いかかる。きわめて公平に。それゆえ、きわめて容赦なく、冷淡に。要は「自然は人間に冷淡である」、このことを忘れてはならない、肝に銘ずべきであると主張しているように、私には捉えられる。この指摘は自然災害を考えるうえで、きわめて重要である。

この後、龍之介は《大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食ひしやも知るべからず》と書いて、《人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず》と、人間も中に自然をもっているのだから、人間もまた冷淡であって当然と、龍之介は言いたげである。確かに、江戸時代、天明の大飢饉(1782~88)では、人肉を食べた話しが、杉田玄白の『後見草』に記されている。
龍之介はここへ来て、重ねて《自然は人間に冷淡なり》と書き、《人間たる尊厳を抛棄すべからず》と説く。それはどういうことかと言うと、人肉を食べなければ生きていけないなら、食べても良いが、それで腹が満ち足りたら、躊躇せず自分の父母妻子を始め、隣人を愛しなさい。そしてその後、なお余力があったら、《風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし》。人間なのだから。その人間観は、人間を冷淡にし、非「人間」にしていく国家主義に抗して、芸術の重要性、必要性を説いた漱石の人間観と共通しているように、私には思われる。

龍之介は自身を省みて脚にキズのない者などないだろうし、自分などは両脚キズだらけだから、両脚切断しなければならないだろうが、この大地震を天譴と思わないし、不公平とも思わない。ただ、姉弟の家が焼かれ、数人の知友が亡くなったことに対して、《己み難き遺憾を感ずるのみ》。渋沢の「天譴論」に捉われることなく、極めて冷静。龍之介は続けて、みんな嘆いても良いけれど、絶望するな、《絶望は死と暗黒とへの門なり》。このように書いた龍之介は、4年後、自ら死の扉を開けた。きわめて矛盾するように思われるが、私には龍之介の自死は絶望から来たものではない、最期まで龍之介は「活き活きと生きていた」、生命の輝きをもっていた、そう思う。

龍之介は渋沢を相当意識していたようだ。「俺の方が才力がある」、そのように言いたげである。カンニングを見つけられた中学生のように、「天譴」など信じないで、面皮を厚くせよ。みんな!冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立しようではないか。《否定的精神の奴隷となること勿れ》。何ものにも捉われず、自由で自立した一個の人間であれ!それはまさに漱石がめざした「個人主義」を具現したものであり、民主主義の基盤でもある。漱石と龍之介、この共通した基盤の上に、お互いに惹かれ合うものを感じたのではないだろうか。
難解な面をもちながら、「三、大震に際せる感想」は文明史的にも、重要な意義をもつ小品。私はそのような印象をもった。そして、もし漱石が生きて、この大震災を体験したならば、漱石はどのような「大震に際せる感想」を書いたであろうか。
この「勝手に漱石文学館」も、皆さまのおかげで、来館者9万人を突破しました。開館当時、予想もしなかった人数です。ほんとうにありがとうございました。

【文豪の東京――芥川龍之介】
                   
第10回 田端に暮らす④
――田端で体験した関東大震災②


続いて「二、大震日録」に入っても、大震災前の1923年8月25日から話しが始まる。平野屋別荘で一游亭(小穴隆一)と過ごした芥川龍之介は、鎌倉駅で久米正雄らの見送りを受け、午後1時頃、新橋駅着。そこからタクシーで聖路加病院へむかった。聖路加病院は1901年にかつて築地居留地だった明石町に設立され、龍之介は《聖路加病院は病室の設備、看護師の服装等、清楚甚だ愛すべきものあり》と書いているが、隣接地は新原家のあったところであり、龍之介の生誕地である。この後、大震災で病院は崩壊。再建したものの、1925年の火災で多くが焼失した。
龍之介らが聖路加病院を訪れたのは、遠藤古原草(遠藤清平衛、1893~1929、俳人・蒔絵師)が入院していたからで、俳人仲間の風間直衛(山本直衛、1897~?)と落ち合った。その後、龍之介はタクシーで一游亭を送り、午後3時頃、田端の自宅に戻った。
8月29日になって、暑いのでもう一度鎌倉へ行こうかと思っているうち、夕方近くになって悪寒がして、38.6℃の熱。こんな時、頼りになるのが懇意にしている、近くに住む下島勲医師。さっそく往診してもらうと、流行性感冒の診断。家族も風邪気味。龍之介が結婚した1918年、新型インフルエンザ(スペイン風邪)が猛威を振るい、龍之介も感染。翌年にも再感染し、実父の新原敏三はこのスペイン風邪で命を落としている。流感というと、いやな思いがよみがえるが、31日には軽快し、森鴎外の『渋江抽斎』を読んでいる。この作品には「殆ど全く」という言葉が用いられ、かつて『芋粥』を書いた時、久米に「殆ど全く」という表現を笑われたことを思い出して、《一笑を禁ずるに能はず》と記している。
そしていよいよ、運命の9月1日。
龍之介が昼頃、茶の間でパンと牛乳を飲食し、お茶を飲もうとした時、大地震。龍之介は母と屋外に逃げ、妻の文は二階へ息子の多加志を助けに、伯母は梯子段の下で文と多加志を呼び続けている。ようやくみんな屋外へ出たと思ったら、父と比呂志がいない。屋内に入って比呂志を見つけて抱いて外へ出る。父も庭から出て来た。
とにかく家族全員無事だったわけだが、この間、家が大きく動き、歩行困難。瓦が10枚余落下。大きな揺れが収まると、風が吹き、土の臭いで噎ぶほど。芥川家の被害は、屋根瓦が落ちたのと、石燈籠が倒れたのみ。当時、震度の測定がされていないが、専門家は当時の状況から田端の震度を5弱と推定している。龍之介の記述を今日の「気象庁震度階級関連解説表」と照らし合わせてみても、震度5弱は妥当である。犀星の『杏っ子』の描写からもそれがうかがえる。
やがて円月堂が見舞いに来て、龍之介は病み上がりの身体をおして、いっしょに近隣の友人知人を見舞いに行く。神明町の傾斜地では倒壊家屋数軒。月見橋のほとりに立って東京の空を眺めると、《泥土の色を帯び、焔煙の四方に飛騰する見る》という状況で、帰宅後、蝋燭・米穀・蔬菜・缶詰類を買い集めた。さすが龍之介の機転だが、田端近辺、商店が営業できる状態にあったことを示している。
夜になって、また円月堂と月見橋のほとりに行くと、《東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鉱炉を見るが如し》と、何やら「対岸の火事」のような表現。本所両国に住んでいれば、生命のキケンにさらされているところだったが、田端へ転居しておいて正解だったと言える。ところで、ここで出て来た円月堂という人、そして月見橋。どんな人なのか、どこにある橋なのか、調べてみてもよくわからない。
龍之介はこの後、《田端、日暮里、渡辺町等の人人、路上に椅子を据ゑ畳を敷き、屋外に眠らとするもの少からず》と書いている。龍之介の家から尾根筋に道灌山へ至ると、この辺りから日暮里で開成中学などもある。道灌山西側には、渡辺銀行の頭取が1916年から建設を始めた田園都市があり、渡辺町と名付けられている。渋沢栄一の田園調布より2年早く開発が始まったが、頓挫している。
龍之介は帰宅後、もう大きな揺れは来ないからと、家族を家の中で眠らせている。冷静な判断である。龍之介は《電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり》と続けている。
9月1日の日記は下島医師の夫人の話で締められている。夫人は《単身大地震の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ふ。為めに出火の患なきを得たり》という活躍で、龍之介は「渋江抽斎の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし」と評している。彼女の行動は確かに素晴らしいが、室内を移動できる程度の揺れであったことが読み取れる。「気象庁震度階級関連解説表」によると、震度5弱では歩行は可能であるが、5強では歩行が困難になり、6弱では立っていることも困難になる。下島家も5弱であったからこそ、夫人は「いほ女」のような振る舞いをできたのである。
9月2日になっても、《東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る》という状況。龍之介は円月堂に頼んで、牛込、芝などの親戚を見舞ってもらっている。《東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず》と、情報が少ないだけに不安が大きくなるのは、今も変わらない。龍之介は8月25日まで鎌倉に滞在しており、駅に見送りに来た親友久米正雄の安否がとくに気にかかったのではないだろうか。当時、久米は鎌倉の長谷に住んでいた。幸い生命に別条なく、後に『鎌倉震災記』を書いている。横須賀では修学旅行に来ていた静岡高等女学校生徒・教職員が休憩中に地震で崩壊した土砂に巻き込まれ、一名を除いて全員死亡するという惨劇も発生していた。この学校に二年後の1925年、入学したのが作詞家の江間章子(1913~2005)である。
夕方近く、帰って来た円月堂から、《牛込は無事、芝、焦土と化せり》《姉の家、弟の家、共に全焼し去れるならん》との報告を受け、龍之介は《彼等の生死だに明らかならざるを》憂いている。姉とは龍之介の実姉新原ヒサ。当時、すでに西川豊(1885~1927)と再婚し、瑠璃子(1916~2007、龍之介長男芥川比呂志と結婚)が生まれていた。弟は実父新原敏三と実母の実妹フユの間に生まれた新原得二(1898~1930)。新原家は芝区新銭座町16番地にあった。
この日、《避難民の田端を経て飛鳥山に向ふもの、陸続として絶えず。田端も亦延焼せんことを惧れ、妻は児等の衣をバスケットに収め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む》。東京市中から火に追われた人たちが大挙して広域避難地の上野公園に逃げて来た。その中には犀星夫人と、生後間もない朝子がいた。幸い、探しに来た犀星たちと巡り合うことができ、田端の自宅へ戻ったが、多くの避難民に戻るところはない。つぎつぎ押し寄せる避難民に突き出されるように、上野公園から尾根筋を、谷中・道灌山・田端と通過し、中里から先へ飛鳥山をめざしたのであろう。飛鳥山は上野と並ぶ桜の名所であり、東京市民には避難地として適切であるというイメージができていたと思われる。
飛鳥山には渋沢栄一の邸宅があった。渋沢は大地震が発生した時、日本橋兜町の渋沢事務所にいた。建物の損壊は大きく、何とか隣の第一銀行に避難し、昼食を食べ、上野公園を経て、尾根筋に飛鳥山の自宅にたどり着いた。上野公園までの避難経路は結局、すべて猛火に包まれ、渋沢事務所も全焼してしまった。渋沢はすでに83歳を迎えており、よく無事に帰宅できたものである。
渋沢が1918年から、田園都市をめざして一大事業として始めた田園調布。分譲が8月から始まったばかりであった。大震災をきっかけに、郊外で被害も少なかった田園調布は人気の住宅地になっていった。
延焼のキケンはないものの、龍之介の体内は発熱。39℃に達し、頭が重くて立っていられない状態に。不穏な情報に夜警が出ることになり、龍之介は出ることのできる状態でなく、円月堂が《脇差を横たへ、木刀を提げたる状》で夜警に出て行った。
【秋聲の初めての上京ルートについて調べてみました】

ここでまた、芥川龍之介に関する連載中に割り込みです。

「21世紀の木曜会」に紹介したように(2021年12月10日)、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』を購入された方から、つぎのようなご指摘をいただきました。

――「よく調べられてるな」と思って読んでいますが、15ページで秋聲が鏡花と「ほぼ同じ方法で上京したであろう」という点については違うように思いました。秋聲と悠々の1回目の上京は、「直江津までは徒歩と人力車。直江津で初めて汽車に乗り、終点長野まで。長野からは歩いて、苦労して碓氷峠を越えて高崎に着き、高崎からまた汽車で上野まで」と、秋聲の「思い出るまま」「光を追うて」に書かれています。秋聲ファンなのでご指摘させていただきました。違っていましたら失礼いたしました。

正直言って、私は『思い出るまま』(1934年)・『光を追うて』(1938年)を読んだことがなく、そこに上京の様子が書かれていることを知らず、鏡花が上京したルートと「ほぼ同じ方法で上京した」と書いてしまいました。もともと長野を経由するルートは、北陸道・北國街道・中山道と、加賀藩主の参勤交代のルートで、江戸・東京へ行く常識。後に鏡花もこのルートを使っています。けれども信越線が全線開通していない時代において、敦賀・東海道線経由の上京の方が選択しやすいはず、秋聲について調べる術もなく、鏡花と同じ方法と書いてしまった。これは完全な思い込み。
こうなると、もっと調べてみたくなる性分で、今日はそのお披露目です。

1892(明治25)年3月末、『光を追うて』によると、秋聲(作中、向山等)・桐生・小島の三人は朝、金沢を出発し、森本・津幡を過ぎ、倶利伽羅峠を越えて、石動で昼食。水橋まで来ると、《春らしい午後の光線の明るさに浮きあがり》、このあたりまで来ると、足も段々重くなり、丘や松原を越えて蒸汽船の汽笛が聞こえ、《「おーい、船にすれば可かつたぢやないか。」先きに立つた桐生が振かへつた》が、やはり歩いて、宿屋のある町まで来ると、行き当りばったりに宿をとった。こうして三人の第一日目は終わります。
翌日は、車(人力車だろうか)に3時間ほど乗った後、歩いて市振までやって来て宿泊。次の日は、親不知の難所の手前まで車で行って、難所を通るが、《御巡幸のをり岩を削つて道を拓いたので、親不知子不知といふほどのこともなかつた》。どこで宿泊したか書いていないが、翌日午後、直江津から汽車に乗って、晩に長野に着き、ここで駅前の扇屋という旅館に一泊しています。
金沢を出発して、3泊4日で長野に到着したことになりますが、ここまでの行程を検証してみましょう。
朝、金沢を出発した三人は、石動で昼食をとっています。距離は約28km(当時と現在では道路事情やルートも違い、起点終点もあいまいで、おおよその目安です。以下も同様)。若いし、歩き始めですから、平均時速6kmで4~5時間。納得できます。ところが午後は射水川・神通川によって形成された平野(大きくは富山平野)を歩き通し、富山市街の北東にある水橋を過ぎ、名前は書いていませんが、おそらく滑川で宿泊したのでしょう(これもあくまで推測ですが)。石動から滑川は約60km。これはどう考えてもムリ。
一般的に江戸時代の徒歩による旅は1日30km。金沢・滑川間およそ90kmは途中に2泊が妥当。若さで頑張ったとしても、途中、小杉あたりで1泊していたはずです。秋聲は宿泊地として、この後の宿泊地「市振」の名は書いていますが、最初の宿泊地は書いていません。事実を変更して書いたため、曖昧にせざるを得なかったと推測されます。また、汽船の話しが出てくるので、当時すでに、伏木・直江津を結ぶ定期船が運航されていたことがわかります。鏡花は決意をもって再上京した際、この航路を使っています。
滑川から人力車で3時間。乗っている方は歩くより楽なだけで、早く着くわけではありません。おそらく約10数km先の黒部まで人力車に乗ったのでしょう。ここから徒歩で泊(とまり)を過ぎ、県境を越えて市振へ。約20km。この日は市振で宿泊しているので、一日の移動距離30数kmは妥当なところです。
つぎの日は親不知の難所を越えて、糸魚川までは約20km。手前まで人力車を利用し、いざ難所。と言っても、1878年の天皇行幸の後、海抜約100mの断崖を開削して国道がつくられたので、思ったほど怖くなかったようです。この国道、1882(明治15)年から工事が進められ、翌年開通しています。糸魚川から直江津まで50km以上あるので、途中で1泊したようで、翌日午前中歩いて直江津まで来て、三人は午後の汽車に乗って長野へむかっています。鉄道は直江津から関山まで1886年、さらに長野まで1888年に開通しています。
さて、長野駅前の扇屋。秋聲たちが宿泊した翌年に出版された『長野土産』には、《末広町両側には藤屋支店・扇屋支店・山屋支店・綿屋支店・中島屋支店などがある。各店女五、六人が手を揚げ腰をかがめて、声をあげて客を招く。互いに競って客を引き、宿泊客をおのおのの本店に案内する》と書かれています(小林玲子の善光寺表参道日記――2006年2月21日より)。この扇屋支店というのが、三人が泊まった旅館であると推察されます。

長野駅前の扇屋に泊まった翌日。《しかし其処からが又御難で、ちやうど隧道の工事中にある碓井峠を、徒歩で昇り降りするのも容易ではなかった。等達は到るところで荒くれた土工たちの凄い顔に出逢つて、通を避けて通つた。山の腰を繞つて転つてゐる馬車の喇叭の音も耳についたが、近づいて乗る気にもなれなかった。夜になつて上野へついて、三人は漸く東京の土を踏んだ》と秋聲は『光を追うて』に書いています。
長野を朝、出発して、その日の夜に東京に着いています。歩いたらこのようなことはできません。すでに、長野まで開通した同じ年(1888年)12月1日、長野・軽井沢間の鉄道が開通しており、長野から3時間ほどで軽井沢まで行くことができるようになっていました。当時の運賃は60銭。あくまで、ひとつの目安として、米15kgくらい買うことができる金額でした。
軽井沢から横川まで碓氷峠越えの難所。まだ鉄道は工事中で、開通は三人が通過した1年余り後の1893年4月。工事真っ盛りの様子が、秋聲の文章から伝わってきます。この時、三人が通った道には、離れたり合流したりしながら、軽井沢・横川を結ぶ馬車鉄道が運行されていました。この碓氷馬車鉄道は1886年に開通し、約19kmを2時間30分ほどで結んでいました。その様子は『光を追うて』にも記されています。運賃は40銭という「大金」(今で言うと、4~5000円くらいでしょうか)であり、下り道が多いからと、歩いたのでしょう。
じつのところ、この馬車鉄道、急勾配、急カーブの連続ですから、とくに下りの怖いこと。鉄製の車輪を木製のブレーキで速度抑制するというもので、ブレーキが壊れるキケン大。馬車に乗るのを怖がって、駕籠で下った人もいるとか。森鴎外は『みちの記』で、《つくりつけの木の腰掛はフランケット二枚敷きても膚を破らむとす。》《山路になりてよりは2頭の馬あえぎあえぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息寵もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪へがたし》(1890年8月17日)と記しています。
高崎まで1884年に開通した鉄道は、翌年には横川まで延伸されており、秋聲たちは汽車に乗って一気に東京・上野へ。『光を追うて』の文章も一足飛びです。

『光を追うて』によれば、金沢・東京間、4泊5日の上京の旅。実際には5泊6日、あるいは6泊7日の旅だったと思われます。翌年、碓氷峠越えの鉄道が開通し、上野・直江津間の直通運転が可能になりました。やっと結ばれた鉄路が、北陸新幹線開通にともない、横川・軽井沢間が廃線になり、1893年以前の状態に戻ってしまったことに、私は何かむなしさをおぼえます。
秋聲たちが歩くことを余儀なくされた金沢・直江津間、およそ200km。鉄道が全線開通したのは1913年。じつに10年余り後のことでした。
北陸新幹線に乗れば、金沢から2時間30分で、東京駅に到着するご時世。朝、金沢を発って、東京で尾崎紅葉に会って、入門を断られ、夕方には失意のうちに金沢へ帰って来る。妙な空想をしてしまいました。江戸時代、加賀藩主の参勤交代は金沢・江戸間、およそ13日かかったそうです。それが秋聲の頃になり、行程の半分ほどに鉄道が開通し、6日くらいに短縮され、今や日帰りが可能な時代になりました。

それにしても、一人の作家の上京をめぐって、けっこう書くことがあるものです。
『光を追うて』は1938年、秋聲が書いた自伝小説です。初めて上京してから、すでに45年余り経過しており、当然記憶違いもあるでしょうし、小説としての編集や演出もあるでしょう。それを「地理屋」の視点から検証していくのが、私の小説の読み方であり、至福の時です。ほんとうに楽しいひと時でした。問題提起をしてくださった、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』の読者の方に、あらためて感謝です。


※『光を追うて』の文章は、「徳田秋聲全集第18巻」(八木書店、2000年)に掲載されたものから引用しました。


12月9日、今年も漱石忌を迎えました。芥川龍之介が直接漱石と交流をもった期間はきわめて短いものですが、お互いにとって貴重なひと時だったことでしょう。今回から関東大震災の話しになりますが、漱石が生きていたら、どのような文章を残したでしょうか。

【文豪の東京――芥川龍之介】
                  
第9回 田端に暮らす③
――田端で体験した関東大震災①

1923年9月1日と言えば、関東大震災の起った日である。その体験をもとに龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』という随筆を書いている。構成は「一、大震雑記」「二、大震日録」「三、大震に際せる感想」「四、東京人」「五、廃都東京」「六、震災の文芸に与ふる影響」「七、古書の焼失を惜しむ」の七章。この随筆、興味深いのは9月1日以前の記述から始まること。
「一、大震雑記」は、《大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別荘の客となった》で始まる。平野屋別荘とは京都の料亭「平野屋」の経営によるもので、鎌倉駅西口からすぐ。当時、料亭は経営不振から貸間として利用されるようになっていた(現在はホテルニューカマクラ、鎌倉市御成町13-2、龍之介の写真も飾られている)。
平野屋別荘で、龍之介が借りた棟の隣り棟にいたのが岡本かの子。偶然である。一家で来ていたかの子たちは、この平野屋別荘で関東大震災に遭い、10日ほどバラック住まいした後、避難所となった御用邸(現在、御成小学校の校地)に移った。
ところで、ここで登場した一游亭。小穴隆一(おあなりゅういち、1894~1966年)である。1919年、瀧井孝作(1894~1984年)に連れられて田端の芥川家を訪れた小穴は龍之介の無二の親友になった。1922年、龍之介をモデルにした「白衣」を二科会に出品して話題になった。小穴は龍之介のデスマスクも描いており、慈眼寺にある墓石に刻まれた「芥川龍之介墓」も小穴の筆によるものである。
平野屋別荘では八月というのに、藤棚に藤の花が咲き、裏庭に八重の山吹も花をつけ、小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競っている。《どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。「あの時は義理にも反対したかつたけど、実際君の予言は中つたね。」久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ》。
もちろん、異常気象と地震発生は関係ないと言って良いので、龍之介の予言はたまたま当たっただけで、龍之介も自分の予言を信じていなかったのは正解である。気象と地震が多少接点をもつとしたら、9月1日に台風が九州から日本海に進んで、関東一円に風が強まっており、火災を拡げる一因になったことがあげられる。関東大震災における死者の多くが火災によるもので、強風が吹いていなければ、これほどの死者は出なかったかもしれない。
「一、大震雑記」は、一から六まである。二では《「浜町河岸の舟の中に居ります。桜川三孝。」これは吉原の焼け跡にあつた無数の貼り紙の一つである》という一文から始まる。災害の後、このように居場所を知らせることは、現在でもおこなわれる。桜川さんには知り合いに水上生活者がいて、そこに身を寄せたのだろう。ごく自然であるのだが、龍之介は《真面目に書いた文句かも知れない》が「哀れにも風流」と評し、《秋風の舟を家と頼んだ幇間の姿を髣髴した》と記している。この貼り紙が吉原にあったからこそ、龍之介の想像はここまで拡がったのであろうが、じつは桜川三孝は江戸時代からの幇間(男芸者、太鼓持ち)の名であり、龍之介はそのことを知っていたのである。大震災の頃、吉原に桜川三孝の名を継ぐ者がいたのか、粋に気取ってみたのか、それはわからない。龍之介は《兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脱の気を示した幇間のゐたことは確かである》と続けている。
 それにしても、龍之介は震災直後、吉原(新吉原)を訪れたことは確かである。なぜわざわざ吉原へ。吉原では遊女が逃げないように囲われ、まさに廓になっているため、地震とその後発生した火災から逃げ出すことができず、弁天池につぎつぎ飛び込み、亡くなった遊女500人のうち、弁天池で命を落とした遊女490人と言われている。このような数字を当時龍之介が知らされたとは考えられないが、震災にともなう火災で遊女たちは逃げることができたのか、気になるところだったのだろう。吉原の惨状を目の当たりにしたからこそ、桜川三孝という幇間の名がことさら際立ったと思われる。
 《大地震のやつと静まつた後、屋外に避難した人人は急に人懐かしさを感じ出したらしい》という一文から三が始まる。災害を経験した人は共感できるのではないだろうか。龍之介は《向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、――殆ど至る処に見受けられたものである》と続けている。
 この後、龍之介はポプラ倶楽部の芝生に避難して来た人びとを描き、《背景にポプラアの戦いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも楽しさうに打ち解けてゐた》《大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だった。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる》と記している。龍之介の人間観が表れた一文である。
 もちろん、龍之介が住む田端が震度5程度で、被害が少なかったから余震を恐れて避難した人たちになごやかな雰囲気が生まれたのかもしれないが、火災に逃げ惑った鏡花も、潔癖症を乗り越えて生き延びたのは、人懐かしさのなせる業だったのだろう。
 ところで、田端のポプラ倶楽部へ避難した人びとの中に、犀星がいたことも忘れてはならない。人びとの温かみを感じながらも、まだ神田駿河台の浜田病院にいる生まれて間もない長女朝子と、妻とみ子のことが案じられて、生きた心地がしなかったであろう。(詳しくは、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』の「11.『杏っ子』に描かれた関東大震災」参照)。
 《僕も今度は御多分に洩れず、焼死した死骸を沢山見た》。四の書き出しである。そして、いくつかの死骸描写がある。その中で、手をゆかたの胸の上に組み合わせ、静かに宿命を迎えた死骸。苦しみ悶えた死骸ではない。龍之介はその死骸に哀れを感じたが、妻の文は《「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」》。まことに冷静な判断であるが、そして実際それが正しいのだろうが、《僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである》と、妻に一本取られた龍之介の悔しさがにじむ。
 この後、五に入ると、有名な自警団の話しである。
 《僕は善良な市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた》。当時、さまざまな噂、デマが飛び交い、それが虐殺にまで発展するのだが、自警団もそのような噂、デマを信じ、自衛しようとする行為であった。龍之介は積極的に自警団に加わり、リーダー的役割を果たすのだが、菊池は流布される情報を信じない。「嘘だよ、君」と龍之介を一喝する。龍之介は、《野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池のために惜まざるを得ない》、そして《尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである》。
 龍之介は当時流布されていた情報を、どこまで信じていたのか、信じていないのに信じているふりをしていたのか、私にはわからない。
 近藤富枝は『田端文士村』(中公文庫)で、《さて自警団は田端の諸所方々でそれぞれに作られた。東台倶楽部では、芥川の発案で、通路に丸太に梯子を固定させて通せんぼを作った。》《ところが自警団はおよそ二ヵ月余りも続けたのであるから、だんだん親睦会のようなぐあいになって、龍之介は籐椅子をもち出してそこに寝そべり、香取正彦や堆朱克彦(現二十一代目堆朱楊成)などが、龍之介の話術にひきこまれて、夜警に出るのが楽しみになったくらいである。「こんな雨の降った晩は、夜討があるから気をつけろ」と龍之介がおどしたり、得意のお化けの話をして面白がらせた》と書いている。龍之介の素顔が見えてくるような文章である。
 続いて六に入ると、龍之介は丸の内の焼け跡。大地震の後、二回目である。馬場先の濠。ここで龍之介は水の上に頭ばかり出した少年が歌う「懐しのケンタツキイ」を聴く。龍之介は《芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである》。大震災直後であるだけに、この「芸術論」は重みがある。少なくとも私にはそのように響いてくる。
【文豪の東京――芥川龍之介】
                   
第8回 田端に暮らす②
     ――田端日記②

1917年8月29日、夏休みも残りわずかである。芥川龍之介はこの日の日記を《朝から午少し前まで、仕事をしたら、へとへとになったから、飯を食って、水風呂へはいって、漫然と四角な字ばかり並んだ古本をあけて読んでいると、赤木桁平が、帷子の上に縞絽の羽織か何かひっかけてやって来た》と始めている。日の暮れ方、二人で湯にはいって、自笑軒へ。いくら懇意にしているからと言って、自笑軒で夕食!
酒を一杯やり、赤木に大倉喜八郎がつくったという小唄の話しをして、《かえりに、女中が妙な行燈に火を入れて、門まで送って来たら、その行燈に白い蛾が何匹もとんで来た》。龍之介はこれをはなはだ《うつくしかった》と表現している。感じ方は人それぞれだから、反論しようもない。
天然自笑軒は宮崎直次郎が田端に始めた会席料理の店で、若槻礼次郎や渋沢栄一も訪れている。芥川家が田端に居を構えたのも龍之介養父芥川道章と宮崎が一中節の相弟子だったからである。龍之介の結婚披露宴や田端の文化人のあつまり「道閑会(道歓会)」もこの天然自笑軒でおこなわれた。
大倉喜八郎は実業家で大倉商業学校(現、東京経済大学)の創始者として知られる。趣味が広く、一中節もそのひとつであった。
龍之介は赤木といっしょに桜木町の赤木に家に。当時、上野・東京駅間に鉄道は開通していないから、動坂下から市電で上野まで出て、乗り換えて新橋駅まで行ったか、田端から国鉄電車で池袋・新宿を経由して品川駅まで行って、乗り換えて桜木町へむかったと思われる。当時、すでに東京駅はあったが、市電の系統が少なく、停留所も近くにないため不便だった。新橋の方がよほど便利であった。
赤木桁平(池崎忠孝、赤木は旧姓)は龍之介より一歳上で、やはり漱石の門下生。漱石の伝記を書いた最初の人と言われている。赤木桁平という筆名は漱石がつけた。龍之介は《奥さんが三つ指で挨拶に出て来られたのには、少からず恐縮した》と書いているが、養家(池崎家)の長女にあたるこの女性との結婚は、当時まだ養父母に認められておらず、同棲中の状態だった。子どもができたため翌年二人は入籍した。
横浜にある赤木の家からの帰りに《池の端から電車へ乗ったら》とあるので、広小路か上野公園で市電を乗り換え、動坂下へむかったと思われる。この時、《左の奥歯が少し痛み出した。舌をやってみると、ぐらぐら動くやつが一本ある。どうも赤木の雄弁に少し祟られたらしい》という状態になり、8月30日の日記は、《朝起きたら、歯の痛みが昨夜よりひどくなった》。
龍之介はとにかく、本郷の歯医者に行った。そして、いきなり奥歯を一本抜かれた。前掲の『大正六年(下半期)の芥川』によると、《八月の初旬芥川は親不知で発熱、そのためもあって以後は二つの小説(九月号発表の「二つの手紙」と「或日の大石内蔵助」)の執筆に追われ、「この暑いのにウンウン言って書いています」(八月四日菅忠雄宛)という状態》で、締め切りを少し延ばしてもらって何とか切り抜け、《二十日頃には塚本文の家族が田端に芥川を訪問。また海軍機関学校の物理教官、佐野慶造、佐野花子夫妻に「愈々休みがなくなるので大いに心細くなってゐます」と書き送ったのは、夏休みの終りに近い二十九日であった》というから、その日からぶり返した歯痛は、龍之介の心をますます暗く、落ち込ませたことであろう。ただでさえ、夏休みの終りというのは憂鬱なものであるのに。龍之介はこの時、まだ職業作家ではなく、あくまでも一教師であった。教職の合間に作品を書く生活であった。9月1日、横須賀にある海軍機関学校の入校式に龍之介はフロックとシルクハットで臨んだ。
歯医者の帰りに龍之介は本郷区役所前の古道具屋で青磁の香炉を見つけたが、亭主の態度が気に食わず、買うのをやめた。本郷区役所は春日通りの北側、麟祥院のすぐそば、現在の本富士警察署の道をはさんだ隣りにあたる。古道具屋は区役所の向い側、春木町三丁目、今日の本郷三丁目41あたりにあったと思われる。
そのまま切通坂を歩いて下り、上野広小路へ出た。ここで煙草と桃を買った龍之介は帰宅。動坂下まで市電に乗ったのか、上野駅から国電に乗ったのか記されていないが、とにかく帰宅後、昼食代りにアイスクリームと桃を食べ、二階へ上がって寝たが、気分が良くない。検温すると38℃ほど熱があり、氷枕と氷嚢で冷やす。
午後2時頃、藤岡蔵六が遊びに来て、横になったまま対応。藤岡蔵六(1891~1949年)は愛媛県の生まれで、県立宇和島中学校から第一高等学校へ進学した。一高では恒藤(井川)恭と同級で、龍之介とも親しくなり、新宿にあった龍之介の家に遊びに行ったこともあった。東京帝国大学(哲学科)卒業後は研究室で副手を勤め、ドイツのフライブルグ大学に留学した後、旧制甲南高校(現、甲南大学、神戸)に赴任した。20年間の病床生活を経て、1949年に亡くなった。
蔵六が帰って、夕食に粥を食べたがうまくない。体中だるく、本を読んでもあくびが出る。そのうちうとうとして眼が覚めると、蚊帳が吊ってある。開けておいた窓から月がさしている。電燈は消してある。龍之介は蚊帳ごしに明るい空を見た。《そうしたらこの三年ばかり逢った事のない人の事が頭に浮んだ。どこか遠い所でおそらくは幸福にくらしている人の事である。僕は起きて、戸をしめて電燈をつけて、眠くなるまで枕もとの本を読んだ》。こうして、日記は終わる。
龍之介の歯痛と発熱が気になるが、9月1日には海軍機関学校の入校式に臨んでいるから、その程度には回復したのであろう。とにかく、龍之介にとって、かなり祟られた夏休みであった。
【文豪の東京――芥川龍之介】
                   
第7回 田端に暮らす①
     ――田端日記①

 芥川龍之介が田端に住んだのは、1914年10月末から1927年7月24日まで。24日未明、龍之介は田端の自宅で自死した。この間、龍之介は海軍機関学校で教えるため、1916年12月(漱石が亡くなった月)から鎌倉や横須賀に住み、1919年に海軍機関学校を辞し、正式に大阪毎日新聞社社員になったのを機に、4月、田端の自宅に戻った。龍之介が田端に住んだのは正味10年程である。
龍之介の小説で東京を舞台にしたものはほとんど見当たらないし、田端が描かれることもない。したがって、ここで取り上げる、『田端日記』(1917年)、『大正十二年九月の大震に際して』(1923年)、『田端人』(1925年)の三つの文章は、いずれも小説ではない。しかも『田端日記』は8月27日から30日までの日記で、田端の自宅で書かれたから、「田端」日記という題がつけられているが、田端に関する記述は少ない。そのかわり、龍之介はあちらこちらへ出向いているので、興味ある記述は多い。

1917年。5月に龍之介は第一短篇小説集『羅生門』を刊行し、6月27日、日本橋のレストラン鴻の巣で出版記念会を催している。『田端日記』として発表されている日記は、8月27日から30日までのもので、海軍機関学校は夏休みで、龍之介は田端の自宅で過ごしていた。9月14日には鎌倉の下宿を引き払って、横須賀の汐入に転居している。
8月27日の日記は、《朝床の中でぐずついていたら、六時になった》から始まる。意外と早起き。書く気が起こらず、小説を読み、煙草を吸っているうちに昼になって飯を食い、さらに書く気が薄れて、小説を読んでいるうちに昼寝。目覚めると階下に大野さんが来ていて、いろいろ話し、《大野さんが帰ったあとで湯にはいって、飯を食って、それから十時頃まで、調べ物をした》と、龍之介にもこんな日があったのだと知ると、何かホッとする。
8月28日は涼しいので、8時頃に家を出て、動坂下まで歩いて、そこから一か月前に開通した東京市電に乗っている。《動坂から電車に乗って、上野で乗換えて、序に琳琅閣へよって、古本をひやかして、やっと本郷の久米の所へ行った》。琳琅閣(りんろうかく)は1875年創業の古書店で、現在は東大の南縁、春日通りに面している。しかし、当時はまだ前田邸の敷地になっていたはずで、いつ頃どこから現在地に移転したか、琳琅閣店主に尋ねてみたが、「以前、池之端にあったことはわかっているが、いつ頃、現在のところへ移転してきたのか、資料がすべて焼失しているためわからない」とのこと。前田邸の駒場移転は関東大震災以後であり、龍之介が訪れた琳琅閣は池之端であろう。上野広小路で電車を降りた龍之介は本郷へむかう電車に乗り換える前に、すぐ近くの池之端にある琳琅閣へ寄ってみたと考えられる。
久米正雄のところへ行ったが、南町へ行って留守だという。仕方がないので、本郷通りで古本屋を根気よく一軒一軒まわって、横文字の本を二三冊買って、南町へ行くつもりで市電に乗ったものの、気が変わって、須田町で乗り換えて丸善へ。
南町というのは、〇〇南町というふうに東京にはいくつもあるが、ここでは漱石山房のある早稲田南町である。主の夏目漱石はすでに前年他界したが、鏡子夫人や子どもたちが住んでいる。久米のお目当てはもちろん、漱石長女筆子である。
久米と筆子の件は後に書くことにして、鉄道ファンの私には腑に落ちないことがある。龍之介が早稲田南町へ行こうと思えば、本郷三丁目から富坂・大曲を経由して江戸川橋まで直通系統があったはず。江戸川橋から漱石山房まで約1km。漱石の『明暗』に工事のようすが描かれているように、早稲田延伸はこの『田端日記』が書かれた翌年の1918年に完成している。また、白山方面から本郷三丁目を通る市電は、須田町で乗り換えなくても、そのまま日本橋、新橋へと行くので、日本橋にある丸善へ行きたくなったら、そのまま乗っていれば良い。
丸善に一時間ばかりいた龍之介は、久しぶりに日吉町へ行くことに。中央通りを京橋、銀座と過ぎ、新橋にさしかかる手前を右折、土橋との間に架かる難波橋あたりが日吉町。現在は銀座八丁目の一部。ここで入学試験を終えたばかりの坊主頭の清、夏帯を買ったと見せに来る八重子が登場する。どうやら龍之介の従弟妹にあたるようだ。芥川家か新原家、どちらの系統か私にはわからない。
龍之介は清と五目ならべをして一勝四敗。帰ろうとすると、今夜はみんなで金春館へ行くから、いっしょに行こうと言う。金春館というから、能・狂言の類を演ずるところかと思えば、1913年開業の銀座初の洋画専門館。日吉町の隣町にあたる加賀町にあった。金春の名は「金春新道(こんぱるじんみち)」から付けたもので、このあたりが新橋花街発祥の地であることを示している。
龍之介は《八重子も是非一しょに行けと云う、これは僕が新橋の芸者なるものを見た事がないから、その序に見せてやろうと云う厚意なのだそうである。僕は八重子に、「お前と一しょに行くと、御夫婦だと思われるからいやだよ。」と云って外へ出た》と書いて、《そうしたら、うしろで「いやだあ。」と云う声と、猪口の糸底ほどの唇を、反らせて見せるらしいけはいがした》と続けている。従妹っていいな……。ついでながら「いとこ」同士の夫婦は仲睦ましく、「鴨の味」がするそうな。
龍之介は最寄りの土橋電停から外濠線に乗ったものと思われる。車内でさっき買った本を読んでいると、面白くなって乗り換えの飯田橋を乗り越して、牛込見附を過ぎ、次の新見附まで行ってしまった。ここで歩いて引き返せば良いものを、龍之介は外濠線を戻るかたちで万世橋まで行き、《七時すぎにやっと満足に南町へ行った》。万世橋は江戸川橋行きの市電は通らないから、小川町まで500m以上歩いて、やっと市電に乗った。どうせこの距離を歩くのなら、新見附から飯田橋まで歩けば良かったものを。乗り過ごした自分に腹が立ったのか、意地を張ったばかりに、とんだ回り道をしてしまった。けれどもこんなところに、小説からは見えてこない龍之介が見えてきて、じつに楽しい。とにかく龍之介は夏目家で晩飯をごちそうになっている。
龍之介が訪れた時、久米正雄はまだ夏目家に入り浸っていた。ここで『田端日記』から離れてしまうが、久米と筆子の話題を挿入したい。
久米正雄(1891~1952)は長野県上田で生まれ、福島県を経て、第一高等学校入学を機に上京した。東京帝国大学文学部在籍中に成瀬正一・松岡譲らと『新思想』(第3次)創刊、1915年に岡田(林原)耕三に手引きされて、龍之介とともに漱石山房を訪れた。この時、龍之介も初めての訪問だった。以後、久米も龍之介も木曜会の常連となった。久米、龍之介、松岡、菊池寛らは翌1916年、『新思想』(第4次)を創刊した。
安積(福島県)の開拓で中條家と家どうし親しくしていた関係で、久米が大学入学する際、中條(宮本)百合子の父精一郎が保証人になっていた。文学を志す百合子と久米は互いに好意をもつようになっていたが、やがて恋破れた。しかし久米は漱石山房に出入りするうち、今度は漱石長女筆子に好意をもつようになった。ところが筆子は松岡に好意を寄せている。親友の久米と松岡がお嬢さんである筆子を奪い合う。ここへお嬢さんの母親である鏡子が絡む。まさに『こころ』の筋書きのような事件が巻き起こる。『こころ』を書いた当時、まさか自分の死後まもなく、自分の娘に同じような事件が起ころうとは、百年先まで見通したような漱石も、見通すことができなかったようだ。
『大正六年(下半期)の芥川』で石割透(駒澤大学名誉教授)は、《九月四日には塚本文に、「何時までも素直に」或は「お互いに利巧ぶらずえらがらず静に幸福にくらして行きませう」と例の調子で書き、また、この頃一部に噂のあった漱石の令嬢との結婚話につき、五日には塚本文に真相を告げ「文ちゃん以外の人と幸福に暮す事が出来ようなぞとは、元より夢にも思つてはゐません」と書き送った。この件については、この月の「新潮」の、「噂の噂」が「久米正雄君は夏目漱石氏の令嬢と結婚するさうである。お目出度い事だといはざるを得ない」と書く通り、鏡子夫人が筆子の相手として久米を選び、二人の間は着々と当時進行していたわけだが、林原耕三の『漱石山房の人々』(昭46、講談社)によれば、そうした折に漱石の旧門下生に反対の声がおこり、その代表者の二、三が芥川の如き人物なら申分なしと答えたことの「尾鰭がついて芥川や文氏に誤り伝へられた」という》と書いている。
龍之介のラブレターは常にまことにラブレターらしく、読んでいる方の顔が赤くなってしまう。漱石亡き後、鏡子はまだ40歳手前であり、支えとなる男性が欲しかったのだろう。筆子は久米とも親しくしていたが、松岡の方が自分の性格に合っていた。ところが鏡子は陽気で闊達な久米の方が自分の性格とも合っており、筆子の結婚相手として久米を選んだ。会社で言えば社長令嬢と誰が結婚するかということで、次期社長の有力候補になるわけで、久米ではうまくいかないと思う人や、久米に対して嫉妬心をもつ人や、筆子の気持ちを思う人や、さまざま入り乱れ、久米は女狂いとか性的不能者とか、さまざまな誹謗中傷が夏目家にも寄せられた。龍之介との結婚説も久米との結婚を阻止する動きのひとつだったのだろう。もし、龍之介が文を捨て、筆子と結婚していたら、その後の文学界はどのように展開していただろうか。龍之介は松岡が筆子と結婚したことに憤り、松岡を非難している。久米・松岡・龍之介、親友といえども恋を巡る争いは容赦ないものであろうか。
このような恋を巡る争いの対象とされた筆子。筆子と松岡の娘松岡陽子マックレインは『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書)の中で、《父が母と結婚した当初は、他の弟子たちの嫉妬のせいか、あまり平和な結婚の出だしではなかったようだ。ある弟子から、もう少し待っていれば自分が結婚してやったのにと、母は言われたとかで、後年になっても憤慨していた。また、他の弟子からは、芥川龍之介にならやってもいいと、自分の娘でもないのに勝手なことを言われたと、これもまた憤慨していた》と書いている。松岡陽子マックレインは、さらに《芥川がそれを知っていたかどうかはさだかではないが、耳にしたとしたら、いい迷惑だっただろう》と、続けているが、龍之介はしっかり知っていたのである。しかも、《芥川は母にまったく興味がなかったようだ》。漱石の娘4人のうち、《三女の栄子ならまあいい、芥川本人が言っていたと母から聞いたことがある》と、筆子の娘としては、ちょっとショックな言葉も、《栄子叔母はたしかに美人で、前述したように、フランス語に堪能で、生け花もピアノも教える能力があった人だってから、芥川の言葉にも納得できる》と、結んでいる。龍之介は「文ちゃん」一途で、栄子に関心がむかうことはなかったであろうし、栄子が龍之介をどう思っていたかもわからない。けれどもその時、「文ちゃん」という存在がなく、栄子が多少なりとも龍之介に好意をもっていれば、栄子は生涯独身で過ごすことはなかったであろうが、夫の自死という衝撃を味わうことになったであろう。人間の一生とは、わからないものである。
久米と「なぞなぞ論」をやっているうち、夜の9時になり、龍之介は漱石山房を後にする。久米と帰ったと書いてないので、夏目家に泊まっていったのか、遅くに帰ったのか、それはわからないが、夏目家に中で家族同様の扱いになっていた状況がうかがえる。
龍之介が江戸川橋まで来ると、空き地でアセチレンガスをともして、催眠術の本を売っている男がいる。遅い時間だが人びとが集まっている。龍之介も前の方へ出て聞いていたが、「あなたを一つかけて上げましょう」と言われて退散する。
江戸川橋からどのように自宅へ帰ったのか、龍之介は書いていないが、本郷三丁目を経由して上野広小路まで市電を利用し、その後、上野駅から国鉄電車で田端駅まで行ったか、市電を乗り換えて動坂下まで行ったと考えられる。
自宅に帰ると成瀬正一から手紙が来ていて、ニューヨークは暑いからカナダへ行くと書いてある。
【ここで一息】

「文豪の東京――芥川龍之介」を連載してきましたが、ここでちょっと一息。小泉八雲と大谷繞石の話しを。なお、龍之介に関して、「館長のつぶやき」で秘書がつぶやいていますので、ぜひお立ち寄りください。


穏やかな松江の風景に、冬の季節風が吹くと、宍道湖は荒々しい姿を見せます。ヤマタノオロチの鱗が逆立ったようで恐ろしい。松江と言えば、不昧公(松江藩7代藩主松平治郷)好みの銘菓が思い出されますが、それとともにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。松江城の北、堀に面した武家屋敷群の一角に、小泉八雲記念館があります。
 小泉八雲は1890(明治23)年8月下旬、島根県尋常中学校赴任のため松江にやって来ました。当時、ハーンのつづりHearnから「ヘルン先生」とよばれました。翌91年に熊本の第五高等学校へ転任したため、松江に住んだのは443日。それでも八雲は松江を代表する人物になっています。漱石が第五高等学校に赴任した時、すでに八雲はいませんでしたが、尋常中学校教師から五高に赴任した経緯は同じ。そして、1903(明治36)年、東京帝国大学で辞職した八雲の後を受けて講義を担当したのが漱石です。
 このように小泉八雲は漱石に関連して、当「勝手に漱石文学館」においても、ゆかりのある人物ですが、松江と言えば、当館にうってつけの人物がいます。その名は大谷繞石(ぎょうせき、本名は正信)。
 繞石は1875(明治8)年、松江市末次本町(松江大橋北、老舗旅館皆美館がある市内中心街)に生れ、1887年、島根県尋常中学校に入学。そして90年、あのヘルン先生が赴任して来ます。繞石はヘルン先生のもっとも信任厚い生徒として、熊本へ赴任するヘルン先生に対し、生徒を代表して送辞を述べました。
 1892年、第三高等学校(京都)に進学した繞石は、そこで高浜虚子、河東碧梧桐と出会い、学制改革によって、1894年、第二高等学校(仙台)へ転校。虚子や碧梧桐もいっしょでした。この時、第四高等学校(金沢)へ転校したのが竹村秋竹。ここに登場する人物、いずれも俳句の世界で活躍し、繞石を除けば愛媛・松山の出身で正岡子規の友人たち。
1896年9月、東京帝国大学英文学科に入学した繞石は、奇しくも赴任してきた八雲(ヘルン先生)と再会。さっそく自宅(仮寓)を訪問、その翌日に子規庵句会に参加して、初めて子規に会いました。もちろん、子規は漱石の親友であり、虚子は子規亡き後、漱石と親交を続け、漱石を作家としての道へ誘っていきます。金沢へ行った秋竹は1907年、俳句の会である「北声会」を設立。後に繞石がこの会に関わることになります。繞石も同年、松江に俳句の会「碧雲会」を設立することに尽力しました。秋竹はこの年、東京帝国大学入学のため、金沢を離れて上京。下宿(藤屋旅館――後に鏡花や竹久夢二らが宿泊)の養女中川富(富女)が結婚を目指して秋竹の後を追って上京します。富女は秋竹の手ほどきを受けて俳句の才能を開花させ、「加賀の千代女」の再来と言われました。秋竹といっしょに、病床の子規を訪ねた富女。子規が会った最後の若い未婚女性と言われます。
1899年に東京帝国大学を卒業した繞石は、下宿の大河内家長女きく、と結婚。私立中学郁文館(後に、この学校の裏に漱石が住み、『吾輩は猫である』にも登場する)、哲学館大学、兵庫県洲本中学などで教えました。
1901年、京都にあった真宗大学(現、大谷大学)が東京巣鴨に移転し、漱石や子規が師と仰いだ清沢満之が学監に就任。翌年、子規が亡くなり、それから程なく、繞石は真宗大学教授として赴任しました。1903年に八雲が大学を辞め、後任にイギリス留学帰りの漱石が着任。1904年、八雲が亡くなった後、繞石は遺族と交流を再開。翌1905年、繞石は漱石と会い、以後、交流は続いていきます。
秋竹が去った金沢では、翌1898年に第四高等学校に赴任してきた藤井乙男(紫影)が「北声会」を引っ張っていきました。紫影は東京帝国大学在学中に子規と交わり、俳句に傾倒するようになった人です。裁判所で働き始めた犀星が、上司の赤倉錦風など俳句をたしなむ人たちの影響を受けて、句作に目覚めたのが1904年頃。やがて、犀星は「北声会」とつながりをもち、紫影からも指導を受けるようになりました。
その紫影が1908年、第八高等学校へ転任。幸いなことに、その後任が繞石で、秋竹が設立した「北声会」を引き継ぐにはふさわしい人物でした。犀星は引き続き四高の先生から俳句の指導を受けることができました。ところがその繞石。翌1909年にイギリス留学へ。明治天皇拝謁の折りには漱石から燕尾服を拝借しました。紫影・繞石と言った指導者のいない金沢に見切りをつけるかのように、犀星は1910年、ついに東京をめざします。
イギリス留学から帰国後、五高に戻らなかった漱石と違って、繞石は1912年、四高に戻って来ました。東京出身の漱石と違って、同じ日本海側出身の繞石に金沢での生活はそれほど抵抗がなかったのかもしれません。東京出身の妻きくに、金沢生活はたいへんだったかもしれませんが。
1911年6月、長野の講演旅行の折り、漱石は「修善寺の大患」で世話になった森成医師が開業する高田(新潟県)を訪ね、講演しています。翌年、繞石が金沢生活を再開し、さらにその翌年(1913年)北陸線が全線開通。その北陸・信越ルートを使って、1915年、繞石は妻といっしょに上京し、7月19日、夫妻で漱石山房を訪ねました。漱石が『道草』を執筆・連載していた頃です。漱石は繞石の住む金沢を一度訪ねたいと思います。鏡花や秋聲の故郷であることも金沢への関心を高めたことでしょう。12月、芥川龍之介たちが漱石山房を訪れ、木曜会の常連になっていきます。
結局、漱石の金沢行きは実現せず、1916年12月9日、漱石死去。日野雅之『大谷繞石の俳句観――西洋からの示唆』には、《繞石が金沢から送った金沢名産「つぐみの粕漬」が死亡の要因》と書いてあります。この死因説は主治医の長與又郎の剖検所見によるもの(漱石がつぐみの粕漬を食べたのは11月16日)。一方、鏡子夫人は11月21日、精養軒(築地)でおこなわれた辰野隆結婚披露宴で砂糖のついた南京豆(漱石の好物)を食べ過ぎたことが原因としています。どちらにしても、原因とされた当事者たちは何とも責任を感じてしまうでしょう。漱石はとにかく食べることが大好きで、それが胃潰瘍の一因になり、また、悪化させる一因になりました。漱石は贈り物の中でも、とりわけ食べ物を贈られると喜んだようで、贈る側にとっては善意だったわけです。つぐみの粕漬も精養軒の南京豆も、胃潰瘍を悪化させる構成要素のひとつだったかもしれませんが、こういった物を食べなくても、すでに漱石の胃は末期症状を示していたと思われます。繞石のためにも、このような文章を書いておきたい気がします。
1924(大正13)年3月。繞石は新設間もない広島高等学校教授として赴任。金沢を離れることになりました。送別会には、関東大震災(1923年)をきっかけに金沢に避難していた犀星も出席。金沢駅の見送りにも姿を見せました。芥川龍之介が金沢の犀星のもとを訪れたのは5月。結局、漱石山房でも金沢でも、繞石と龍之介は接点がズレてしまったようです。
繞石の家と犀星の家は近く、ともに犀川河畔川岸町にありました。金沢では関東大震災の前年(1922年)8月に、当時としては観測史上最大の200mmを越える雨が降り、犀川・浅野川が氾濫。広範に浸水被害(浸水家屋約4000戸)が発生し、橋も浅野川の天神橋を除いて11橋すべて流失しました。犀川大橋が今日の形態に架け替えられるきっかけとなった水害です。川岸町は名前の通りで、浸水被害も大きく、繞石妻きくはどこかへ引っ越したい、できれば金沢を離れたいと思っていたようです。
広島へ転じた繞石。故郷松江には近くなりました。1916年から小泉八雲全集出版のための翻訳を開始し、これがライフワークとなりました。1932年、広島高等学校を辞し、1933(昭和8)年11月17日、胃がんで亡くなりました。58歳。教職にありながら、俳人、英文学者として活躍し、八雲の著作の多くを翻訳した人生でした。
繞石の生家に近い松江市東茶町に2012年、「大谷繞石句碑」が完成。1917年、金沢において故郷松江を偲んで詠んだ「湖をちこち何を漁る火天の川」(うみをちこちなにをいさるひあまのがわ)という句が刻まれています。
私も一句載せたいところですが、繞石に優るはずもなく、差し控えたいと思います。

【文豪の東京――芥川龍之介】

第6回『本所両国』連載③
                    
錦糸堀
船橋屋から蔵前橋通りを少し西へ行くと、横十間川に架かる天神橋。ここで二人は円タクに乗るが、一帯は《もう今昔の変化を云々するのにも退屈した》という状態。円タクは精工舎を過ぎた辺りで左折し、現在の四ツ目通りにあたる道を南下し、総武線を越えて右折。右側一帯が本所駅(錦糸町駅)構内。大横川にぶつかるところで左折すると、まもなく龍之介の母校第三中学校(現、両国高校)である。龍之介が通っていた頃は鼠色のペンキを塗った二階建の木造校舎だったが、震災で焼失して、鉄筋コンクリートに変っている。この時、新校舎は未完成で、龍之介が亡くなって4か月ほど経った11月に落成記念をおこなっている。
龍之介は5年間通った第三中学校時代の思い出を綴っている。《僕はそこへ通っているうちに英語や数学を覚えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。こういうのは僕の先生たちや友だちの悪口をいっているのではない。僕等人間といううちには勿論僕のこともはいっているのである》と書き出した龍之介は、友達をいじめて生き埋めにしたこと、剣道部の山田治郎吉先生のことなど書いている。と言う間に、学校の前を通り過ぎ、大横川に架かる江東橋を渡り、本所緑町へ。

緑町、亀沢町
《江東橋を渡った向うもやはりバラックばかりである》。震災の後、この地域はまだ復興途上というか、仮設のままであったことがよくわかる。龍之介は円タクの窓越しに、赤さびをふいたトタン屋根だのペンキ塗りの板目だのを見ながら、明治43年(1910年)の水害のことを思い出していた。この水害は水害常襲地のこのあたりでも未曾有のもので、龍之介の家は床下浸水だったが、緑町2丁目は膝くらい。見舞ったSという友達と、他の友達のところへ見舞いに行く途中、Sが溝に落ち、あっという間に首までつかって、龍之介が笑ってしまったという話しも添えられている。江東橋界隈の人々は第三中学校へ避難したとか。
現在の京葉道路のルートを走る円タクは寿座の前を通り過ぎる。歌舞伎の小劇場で1945年の2月に閉座、3月10日の東京大空襲で焼失した。ライオンズプラザ両国(緑2丁目16-2)の一角に記念の標示がある。少し行くと、二之橋へ通じる二つ目通り(現、清澄通り)。
龍之介は《二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だった》と書いているが、お竹蔵と勘違いしてしまったのか。実際の津軽様は先ほどの寿座が南端、現在の京葉道路から、北は南割下水(現在は北斎通り)まで。明治になって長方形の屋敷地は分譲されたが、「公園」という地名がつけられた。現在、総武線から北が亀沢町2丁目1・2,6~8で、緑町公園(敷地内に、すみだ北斎美術館)と野見宿禰神社があり、南は緑町2丁目16~20、23・24。津軽屋敷の太鼓は本所七不思議のひとつ。龍之介は父が両国橋で若侍に出会い、いっしょに歩いて来たが、自分の家を通り越し、気がついたら津軽様の溝に転げていたという話しを挿入している。津軽様の屋敷の周りには掘割はない。刀がさかさまに溝に立ったというから、今の側溝程度の溝が屋敷を取り巻いていたのであろう。父は狐に化かされたと信じていたという。このようなことが真面目に捉えられるところが、本所であり、七不思議も生まれたのであろう。
《僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った》というから、龍之介たちは現在の緑1丁目交差点で円タクを降り、京葉道路を両国橋にむかって歩いたことになる。菓子屋の寿徳庵は昔のように繁昌しているようだが、質屋は安田銀行に変っている。龍之介は友達だった質屋の「利いちゃん」の話しを挿入しているが、さすが大相撲の両国である。

相生町
二つ目通り、現在の清澄通りを横切ると、いよいよ相生町。元町通り、現在の京葉道路を両国橋にむかって少し行くと、左側に本所警察署がある。《本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に変っている。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦の建物だった》と書いてあるが、当時は本所相生警察署が正式名称で、大震災で署の建物が焼失しただけでなく、人命救助にあたって署長以下34名が殉職している。建物は赤煉瓦からコンクリートに変わり、龍之介の死後、1929年に本所両国警察署に改称された。東京大空襲で今度は6名が殉職し、その年、名称が本所警察署に戻った。長らく本所相生町10番地(現、両国4丁目29-5)にあった本所警察署は2013年、横川4丁目8-9に移転した。
龍之介が子ども時代を過ごした地域だけに、警察署長の息子も、署の隣にある蝙蝠傘屋の木島さん、その他、大勢の友達がいたが、《もう全然僕等とは縁のない暮しをしているだろう》と記して、《僕は四、五年前の簡閲点呼に大紙屋の岡本さんと一緒になった》と続けて、土蔵造りの紙屋を思い出している。簡閲点呼とは、一定期間ごとに在郷軍人の本務を査閲点検し教導する集まりである。
この大紙屋が馬車通りにあったことから、話題は馬車通りへ。馬車通りというのは、堅川の北側に並行して、一之橋から四之橋あたりへむかう、総武線でいうと、両国から錦糸町の区間にほぼ一致する。井筒部屋・大島部屋が面しており、大相撲の両国らしい。
ガタ馬車が通り、雨が降ればぬかるむ。魚善という肴屋、樋口さんという門構えの医者、その近所に住んでいたピストル強盗の清水定吉、このようなことを思い出しながら、《明治時代もあらゆる時代のように何人かの犯罪的天才を造りだした。ピストル強盗も稲妻強盗や五寸釘の虎吉と一しょにこういう天才たちの一人だったであろう》と書いた龍之介は、こうした「大悪僧」を壮士芝居に見て、夜もろくろく眠られなかったと記している。
《僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかった》と、龍之介たちは当時、回向院の東隣にあった国技館までやって来た。元町通り(現、京葉通り)と馬車通りに挟まれた位置にある。震災で焼失したが、翌年には早くも再建し、夏場所を開催している。龍之介はここで、《僕の通っていた江東小学校は丁度ここに建っていたものである。現に残っている大銀杏も江東小学校の運動場の隅に――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた》と、私にとっては意外なことを書いている。現在の両国小学校は相生小学校や江東小学校を引き継いだもので、明治期から現在地に建っている。龍之介の母校として龍之介の文学碑もある。この地が龍之介の通ったところであると、少なくとも私は承知してきた。ところが1898年に入学した当時、江東小学校は回向院の東隣にあり、その後、常設の相撲小屋を建設するため、学校は現在の両国小学校の位置へ移転し、1903年に常設館の建設が始まり、後に国技館と命名された。新旧江東小学校の間に吉良邸があった。なお、「江東(こうとう)小学校」は「高等(こうとう)小学校」と同音で、紛らわしいため、龍之介が卒業した後のことになるが、「江東(えひがし)小学校」と呼称が変えられている。
龍之介はこの取材をする少し前、小学校時代のT先生を訪ねていた。当時の校長は震災で亡くなったが、女生徒に裁縫を教えていた先生も、割下水(南割下水、現在の北斎通り)に近い京極子爵家の溝の中で死んでいたことがわかった。着物は腐れ、体は骨になっていたが、預金帳だけは残っていたので誰か分かったという。ついでながら、旧但馬豊岡藩主の家柄になる京極子爵家は亀沢町2丁目にあり、当主京極高義は震災時、むかいの陸軍被服廠跡地に避難しようとして死去。母・妻・二女・三女・二男・三男も亡くなった。二女孝子は14歳、三男高弘は6歳だった。長女智子、長男高光の二人が残された。この界隈の惨状が知られる。
龍之介は先生から受けた体罰をつぎつぎ書いているが、喜劇もあったとして、大島敏夫という親友がちゃんと机に向ったまま、いつかうんこをしていたのは喜劇中の喜劇としている。このような事件は忘れられないようで、私も小学校3年の時に教室でうんこをしてしまった級友の名前は今でも覚えている。
龍之介は小学校の思い出に続けて、《しかしこの大島敏夫も――花や歌を愛していた江東小学校の秀才も二十前後に故人になっている……》と記している。
龍之介たちは義士の討ち入り以来名高い回向院を見るために、国技館の横を曲って行ったが、《それもここへ来る前にひそかに僕の予期していたようにすっかり昔に変っていた》。

回向院
いよいよ回向院。震災で焼失して、まだバラックである。龍之介は真っ先に鼠小僧の墓へ行った。乞食が3,4人。明暦の大火による焼死者を葬ったのが起源だけに、その後の大火や震災で亡くなった人たちを葬るようになり、人間はもちろん、犬、猫をはじめ、さまざまな生き物を供養する、特色ある寺院になっていった。盗人の墓があるのも、命の平等ということであろうか。龍之介が驚いたのは、膃肭臍の供養塔。これは1926年に国技館有志一同によって建立されたもので、「つい、去年」であるから、龍之介が驚いたのも無理はないが、毛皮などを得るため膃肭臍を捕獲してきた団体が建立したのなら、話はわかりやすいが、国技館有志一同というのは、納得しがたい。そのようなわけで、膃肭臍市作という四股名の明治期の相撲取り(三段目)にちなんだものとも言われている。
盗人の墓を盗むとは何事ぞ。けれども鼠小僧の墓石は欠いて持って行く人が後を絶たなかったようで、墓の前に「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた小さな紙札がはりつけてあることを龍之介は記している。
龍之介は国技館の後ろにある京伝の墓を尋ねて行ったが、《この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちと一しょに度たびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである》と、思い出を綴っているが、同じ『大東京繁昌記』に泉鏡花は、連れが悪乗りして、《河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます》と言い出して、鏡花が《「これ、芥川さんに聞こえるよ」》と真面目にたしなめたと書いている。鏡花の連れは龍之介が書いた新聞記事を読んでいたであろうから、それを思い出して言ったのであろう。鏡花の『深川』連載中に龍之介が自死しており、急遽挿入された文章とみて良いだろう。
墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられるが、龍之介は「哀れ」と表現している。
龍之介たちは回向院の表門を出て、左手へ元町通りを進み、まもなく左折して一の橋通りを南下して一之橋へ。途中に坊主軍鶏がバラックのたたずまい。現在も「ぼうず志ゃも」として同じ場所(両国1丁目9-7)に営業している。
一之橋の辺りは大正時代には幾分か広重らしい画趣をもっていたが、今日ではそんな景色は残っていないと龍之介。震災が風情を一変させてしまったのであろう。そこに偶然、「泰ちゃん」の家の前を通りかかった。小学校時代、龍之介も、二、三年前に故人になった清水昌彦君の作文も大抵美文だったが、下駄屋「伊勢甚」の息子木村泰助君の『虹』という作文は生き生きした口語文で、先生はこれを一番にした。ひそかに自分の作文を一番と信じていた龍之介は、しかし『虹』という作文を聞いて敗北を認め、《僕を動かした文章は東西にわたって少なくはない。しかしまず僕を動かしたのはこの「泰ちゃん」の作文である》と記して、《若し「泰ちゃん」も僕のようにペンを執っていたとすれば「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を読んでいたかも知れない》と続けている。
龍之介は店の中に「泰ちゃん」のお母さんらしい人が座っているのを見つけたが、泰助君は生憎どこにも見えなかった。

方丈記
この文章は付録のようだが、龍之介の父(養父の芥川道章)・母(養母のトモ)、伯母(実母の妹にあたる芥川フキ)、妻(旧姓塚本文)に龍之介を加えた会話である。まもなく龍之介、翌年には道章が亡くなるのであるから、じつに貴重な会話である。

僕「きょう本所へ行って来ましたよ。」
父「本所もすっかり変ったな。」
母「うちの近所はどうなっているえ?」
僕「どうなっているって……釣竿屋の石井さんにうちを売ったでしょう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋もあった。……」
伯母「あすこに銭湯もあったでしょう。」
僕「今でも常盤湯という銭湯はありますよ。」
伯母「常盤湯といったかしら?」

かつて住んでいた本所小泉町あたりが震災でどのようになってしまったのか、みんなとても関心があったのだろう。田端はそれほどでもなかったが、本所両国一帯は甚大な被害が発生した地域のひとつである。芥川家は両国橋へ通じる元町通りに面していた。
ところで、銭湯。名前が出て来る「常盤湯」は常盤2丁目3に現存している。江戸時代から続く銭湯である。けれども小名木川に近く、芥川家からは歩いて15分から20分以上かかる。銭湯が多い時代だから、当然、もっと近くにあったはずで、常盤湯ではなかっただろう。龍之介は老舗の銭湯を思い出したが、伯母はそのような名前だったかなあと、首をかしげている様子が伝わってくる。

妻「あたしのいた辺も変ったでしょうね?」
僕「変らないのは石河岸だけだよ。」
妻「あすこにあった、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまったさ。」

文は龍之介の三中時代の友人山本喜誉司の姪であるから、文にとっても本所は懐かしい地域である。と言いたいところだが、ここで突然「石河岸」が登場する。龍之介は『石河岸の妖婆』という作品を書いているが、石河岸は京橋区富島町、亀島川に沿ったところで、霊岸橋が架かっている。本所ではない。

母「お前のまだ小さかった頃には電車も通っていなかったんだからね。」
僕「『榛の木馬場』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変ってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」

両国界隈に路面電車が走るようになったのは、龍之介が小学生の1903~05年頃である。榛の木馬場は榛稲荷神社にあり、亀沢町1丁目24(現、両国4丁目34)。芥川家東300mほどのところ。北斎が出たためか、割下水(南割下水、現、北斎通り)も登場したが、女生徒に裁縫を教えていた先生が震災で、割下水に近い京極子爵家の溝の中で死んでいたことは先に紹介した。

妻「お鶴さんの家はどうなったでしょう?」
僕「お鶴さん?ああ、あの藍問屋の娘さんか。」
妻「ええ、兄さんの好きだった人。」
僕「あの家はどうだったかな。兄さんのためにも見て来るんだったっけ。尤も前に通ったんだけれども。」

兄というのは、文の叔父にあたる山本喜誉司のことであろう。
会話は続き、あの時分は蝙蝠も沢山飛んでいたと言う伯母に、今は雀さえ飛んでいない、無常を感じるという龍之介。妻は子供達に亀戸天神の太鼓橋を見せてやりたいと言うが、父は亀戸天神から梅を思い出したのであろう。「臥竜梅はもうなくなっただろうな?」と訊くのに、龍之介は「ええ、あれはもうとうに……さあ、これから驚いたということを十五回だけ書かなければならない。」と答える。妻は「驚いた、驚いたと書いていれば善いのに。」と笑う。
龍之介は「(略)知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。」と言うに、母は『お文様』のようじゃないかと言葉を入れる。真宗の信者でもないのに、「お文」を知っていたことになる。なかなかの教養人に思える。

僕「これですか?これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちょっと偉かった鴨の長明という人の書いた本ですよ。」

こうして『本所両国』の連載は終わる。行く川の流れは大川。河童は何処から来て、何処へ流れていったのか。『方丈記』などあることも知らず、今日も大川の水は流れ行く。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第5回『本所両国』連載②
                    
一銭蒸汽
龍之介たちは少し引き返して、横網の浮き桟橋へ降りて川蒸汽に乗った。おそらく「百本杭」の近くであろう。かつては「一銭蒸汽」と呼ばれたが、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。浮き桟橋の屋根も震災で焼失したであろうが、復旧し、明治時代と変わらぬ風情をもっている。
大川は変わらず濁った水が流れているが、起重機をもたげた浚渫船の先にある対岸は、「首尾の松」や「一番堀」「二番堀」でなく、五大力・高瀬舟・伝馬・荷足・田舟といった大小の和船も流転の力に押し流されて、すでに大川を行き交うのは小蒸汽や達磨船である。ここで龍之介は「沅湘日夜東に流れて去る」という中国の詩を思い出す。
龍之介は《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。(略)唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった》と書く、そこへ久しぶりに見る五大力が上って来る。
五大力は艫が高く、鉢巻をした船頭が一丈余ある櫓を押し、お上さんも負けずに棹を差している。四、五歳の男の子も乗っている。龍之介は《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない》と書いて、《幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた》と続けている。
いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。何度も乗った、明治時代から変わらぬ船で、満員。立っている客もいる。船は静かに動き出すが、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。

乗り継ぎ「一銭蒸汽」
龍之介は小学生の頃、伯母といっしょに川蒸汽に乗った時、伯母が膝に載せている長命寺の桜餅を男女の客から「糞臭い」と言われたことを思い出す。龍之介は《勿論今でも昔のように評判の善いことは確かである》と「糞臭い」を否定しながら、《饀や皮にあった野趣だけはいつか失われてしまった。……》と記している。美味しいものを紹介されると、つい食べたくなる。長命寺は向島にあり、大川に架かる桜橋の少し上流。寺の裏手、大川を臨む位置にあり、隣りは墨堤植桜の碑。創業300年の老舗で、桜餅の桜葉は伊豆松崎産のオオシマザクラ。墨堤通りを越えると言問団子の店がある。こちらは江戸末期創業で三色団子が有名である。
話しは向島まで行ってしまったが、川蒸汽は蔵前橋をくぐり、厩橋へ。もちろん蔵前橋は工事中で未完成であった。川蒸汽がもう一艘。それにお客や芸者を乗せたモオター・ボート。龍之介は自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう》と記している。
そして、ここで河童の登場である。《僕は船端に立ったまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重も描いていた河童のことを思い出した》。
龍之介は維新前後には大根河岸の川にさえ河童が出没したとか、河童が実際にいるかのような話しを書きながら、こういう話しを事実とは思っていないと続けている。
川蒸汽は厩橋をくぐりぬける。薄暗い橋の下だけは浪の色も蒼んでいる。昔は磯臭い匂いがしたが、今日の大川の水は何の匂いもなく、あるとすれば、唯泥臭い匂い。連れが「あの橋は今度出来る駒形橋ですね?」と龍之介に尋ねる。駒形橋も蔵前橋と並んで、関東大震災を契機に架けられた橋で、この『本所両国』の連載が終わって一か月ほど経った1927年6月25日に開通した。龍之介の死、一か月前である。
ところで、連れは「駒形橋」を「コマガタばし」と発音したようで、これを聞いた龍之介は、《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである》と記している。龍之介にとって、「駒形」は「コマカタ」と澄んだ音でなければならなかった。

柳島
川蒸汽を下りて、吾妻橋の袂から円タクに乗って柳島へ。当時、路面電車が走る「電車道」で、現在の浅草通りにあたり、左手に東京スカイツリーがそびえる。龍之介は本所と言ってもこの辺りはあまり来たことがなかったようで、小学生の時、父と葬式に参列した帰り、維新前後の「御朱引外」の面影をとどめた様子を話してもらったと、草原や田んぼ、早桶が自分からごろりところげることなど書いている。そして、《今はどこを見ても、ただ電柱やバラックの押し合いへし合いしているだけである》と。
龍之介らは「橋本」の前で円タクを下りた。ここは北十間川に横十間川がT字に交わるところで、横十間川に柳島橋が架かり、西側袂に法性寺、道をはさんで向かい側に「橋本」がある。川魚料理で有名な老舗の料亭「橋本」(柳島橋の袂にあるところから名付けられたのであろう)は、焼けずに残っていたが、すでに食堂に変っており、龍之介は《すりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった》と書いている。
龍之介は《掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている》と記しているので、柳橋を渡ったようで、この後、掘割、すなわち横十間川に沿って南下し、亀戸天神をめざす。この横十間川は龍之介たちが歩いた当時は、東京市と南葛飾郡の境界で、柳島橋を渡ると南葛飾郡亀戸町。東京市に合併されたのは1932年で、城東区の一部になった(現、江東区)。
法性寺は柳島の「妙見様」として知られ、葛飾北斎が信仰していたことでも有名。龍之介の見た妙見様は、震災で樹木もやられ、掘割の沿って見られた柳もなくなっていたようだ。龍之介は中学時代に蕪村の句(「君行くや柳緑に路長し」)を読んだ時、この柳を思い出したと記している。
ところが《僕等の歩いているのは有田ドラッグや愛聖館の並んだせせこましいなりににぎやかな往来》である。それに続けて龍之介は《近頃私娼の多いとかいうのも恐らくはこの往来の裏あたりであろう》と記している。まさに、亀戸天神裏の「城東花街」で、現在の亀戸3丁目11~25番の一帯である。この花街は1905年に開かれたものであるが、関東大震災で焼け出された浅草あたりの銘酒屋(めいしや)が大挙して流れ込み、私娼街が形成されていた。同様に形成された玉ノ井と並ぶ東京の二大娼婦街。
この辺は永井荷風に任せておけば良いだろうが、龍之介は浅草千束町にまだ私娼の多かった頃の夜の景色を覚えているとして、《それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えているために殆ど荘厳な気のするものだった》が、今、見ている亀戸天神裏の往来は《どちらへ抜けてもボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない》と続けている。
「城東花街」は一大カフェー街に変貌し、私娼も増え、周辺に増加した工場に勤める労働者たちの遊び場として繁盛し、戦後も赤線地帯として、1958年に売春防止法が制定されるまで「大人の遊園地」と化してきた。亀戸天神すぐ裏にあたる亀戸3丁目19~25番辺りが、当時の地図では「遊園地」と表示されている。

萩寺あたり
「萩寺あたり」という項に入ったにもかかわらず、龍之介は娼婦街を去りがたいのか、《僕は碌でもないことを考えながらふと愛聖館の掲示板を見上げた》と書き出して、《「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらっしゃいます。」》という掲示板の文章を紹介している。ここで龍之介は《産児制限論者は勿論、現世の人々はこういう言葉に微笑しない訳にはゆかないであろう。人口過剰に苦しんでいる僕等は(略)寧ろ全能の主の憎しみの証拠とさえ思われるであろう》と続けたが、本所の場末に小学生の教育をしている旧友が、《少なくともその界隈に住んでいる人々は子供の数の多い家ほど却って暮しも楽》で、それは10か11になるとそれぞれ子供なりに一日の賃金を稼いでくるからで、これに対し龍之介は、《子供自身には仕合せかどうか》、多少の疑問があると記している。
気にかかる「愛聖館」と「有田ドラッグ」であるが、調べても情報が得られない。「愛聖館」はキリスト教の慈善団体の活動拠点だろうか。娼婦たちの救済・支援、あるいは廃娼運動をおこなっていたかもしれない。ただ、掲示板の文言は性交渉を推奨しているとも捉えられる。子どもを産むという行為が「聖なるもの」であるとともに「俗なるものでもある」。江戸時代、有名寺社に隣接して岡場所が形成されたことを思えば、まさに「清濁併せ持つ」。亀戸天神に隣接する城東花街も例外ではない。龍之介はこのようなところに視点をおいて、文章を書いているように思える。古来、神殿には「神殿娼婦」なるものがいたという。「有田ドラッグ」は花街にあって、梅毒の薬「毒滅」(森下仁丹)など「花柳病」と言われた病気の治療薬も販売していたのであろう。「愛聖館」「有田ドラッグ」はまさに花街を象徴するものとして、龍之介には映ったと思われる。
《それから僕等は通りがかりにちょっと萩寺を見物した》。「おいおい」である。龍之介たちは亀戸天神すぐ裏(北側)にある「城東花街」まで来ている。萩寺は柳島橋と城東花街の中間くらいにあり、すでに通り過ぎている。順序をひっくり返してまでも花街を書きたかったのか。
龍眼寺は江戸初期に諸国の萩を集めて、いつしか「萩寺」として有名になった。震災で焼けずにすんだが、龍之介たちが訪れた時は萩も4~5株。落合直文の石碑前の古池の水も渇れ、哀れな状況に。
龍之介は萩寺の門を出ながら、本所猿江にあった芥川家菩提寺(慈眼寺)のことを思い出している。慈眼寺は現在の猿江恩賜公園南端地区にあり、1907年と1910年の水害で大きな被害を受け、1912年に巣鴨にある染井霊園の西側に移転した。龍之介が子どもの頃の思い出として書いている、浦里・時次郎の比翼塚、司馬江漢や小林平四郎の墓も、いっしょに移転した。龍之介はそれを知らなかったようで、《かれ等の墓も寺と一しょに定めし同じ土地に移転しているであろう》と書いている。そして、龍之介がこの文章を書いてそれほど時が経たないうちに、龍之介もまたこの慈眼寺の墓に葬られることになった。田端の芥川家から自転車で気軽に行くことができる距離で、ともに1910年の東京大水害を契機に高台へ移転したわけだが、うまい具合に比較的近い。慈眼寺には谷崎潤一郎の墓(分骨)もある。谷崎は龍之介より6歳上だが、亡くなったのは38年遅い。
龍之介らは萩寺の先にある電柱(?)に「亀戸天神近道」というペンキ塗りの道標を頼りに、その横町を曲り、《待合やカフェの軒を並べた、狭苦しい往来を》歩いていった。ここが亀戸天神裏の「城東花街」で、この頃、待合が80軒ほど、震災後転入してきたカフェが100軒くらいあったようで、龍之介の文章はそのようすを表しているが、どうしてここで愛聖館や有田ドラッグのことを書かなかったのか、疑問が残る。
近いはずが天神様にたどり着くことができず、道端でメリンスの袂を翻しながらゴム毬をついている女の子に、「天神様へはどう行きますか?」と訊いてみたが、「あっち」と答えた後に、「みんな天神様のことばかり訊くのね」。この言葉にかなりガチンと来た龍之介だが、自分も小学生の時、生薬屋へ「半紙ください」と言った思い出を記している。京都の子は「金閣寺はどう行きますか?」とか「清水寺はどう行きますか?」と観光客に訊かれてうんざりしているだろうが、この女の子、サインの一枚ももらっておけば良かったものを。

天神様
《僕等は門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へたどりついた》というから、「城東花街」が亀戸天神にぴったり隣接していることがわかる。龍之介たちは花街を抜けて、北西側にある門から入ったのであろう。広場で外套を着た男が法律書を売り、背広を着た男が最新化学応用の目薬を売っている。
龍之介の小学時代、広場はなかったが、拝殿も筆塚や石の牛は変わっていない。筆塚に何本も筆を納めたけれど、一向に字は上達しないと龍之介。太鼓橋も掛け茶屋や藤棚も変わっていない。亀戸天神はもちろん梅の名所だが、何と言っても藤の名所として知られ、菊も有名。太鼓橋はこんなに小さかったのかと龍之介。定番のお土産である張り子の亀の子も売っているが、新たにカルシウム煎餅も加わったようだ。
亀戸天神へ来たら、船橋屋の葛餅。境内にあったはずの船橋屋がないので、水を撒いている女性に尋ね、花柳病の医院の前を通って、到着。現在も本店が営業している亀戸3丁目2-13である。1盆10銭の葛餅を食べる。龍之介は中学の時、江東梅園へ行った帰りに船橋屋の葛餅は1盆3銭だった。
龍之介は江東梅園や臥竜梅はもう滅びてしまっただろうと記している。江東梅園は東武亀戸線小村井駅南西の小村井香取神社一帯にあった。臥竜梅は福神橋南にある亀戸香取神社の西方一帯にあった梅園で、現在、梅屋敷伏見稲荷神社などに名をとどめている。龍之介は《水田や榛の木のあった亀戸はこういう梅の名所だった為に南画らしい趣を具えていた。今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べている……》と書いているが、大正期にこの辺りは、都市化が進行し、東京の近郊農村から都市の一部に変化していたのである。
【文豪の東京――芥川龍之介】
『本所両国』連載にあたって
 芥川龍之介が書いた『本所両国』は、墨田区の南半部に江東区の一部を加えた地域を実際に回っているため、内容も豊富で、私が書きたいことも多い。一度に掲載がむずかしいため、連載することにした。龍之介の子どもの頃の本所界隈と関東大震災後の本所界隈が重ねられており、そこへ現在を重ね合わせていくと、地域が重層的に見えてきて、愛着が湧いてくる。そしてまた、龍之介の素顔も見えてくるような気がする。私は『本所両国』を読みながら、新型コロナウイルス感染症の流行が収束の方向へむかってきたら、同じコースをたどってみたいと思うようになった。

第4回『本所両国』連載①
                    
社命を受けて
 《僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った》。これは『本所両国』の書き出しである。関東大震災からの東京の復興を宣伝しようと、「東京日日新聞」が企画した「大東京繁昌記」の記事を書けというのが、芥川龍之介に下された社命である。この社命は、泉鏡花・徳田秋聲をはじめ、十数人の作家にくだっている。
 龍之介はO君と取材に出かけた。二人は両国橋を渡って本所区に入り、隅田川沿いに吾妻橋まで行き、業平、柳島、錦糸町を経て、両国へ戻っている。本所区を一周したことになるが、題名を『本所』とせず、『本所両国』としたことについて、《なぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである》と記している。両国で育った龍之介にとって、「両国」は特別な響きをもっていたのであろう。本所に埋没させるわけにいかなかった。その結果、《ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることに》なってしまった。
 こうして、芥川龍之介の『本所両国』は1927年5月6日から22日まで、「東京日日新聞」に連載されたが、社命によって、龍之介は人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。

大溝(おおどぶ)
 両国橋を渡りながら、龍之介は対岸に立ち並んだ無数のバラックを眺めた時、著しい変わりように愕然として、そこにかつてあった大溝や、大溝で釣りをしていた叔父のことを思い出す。
 現在、両国駅や国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園、横網町公園などがある一帯は、龍之介の中学頃には両国停車場や陸軍被服廠があり、「大溝」と呼ばれる堀に囲まれていた。龍之介が幼少期を過ごした家から百メートルも行けば「大溝」があった。
この一帯、江戸時代には「御竹蔵」という貯木場があったが、後に「米蔵」に変った。大川をはさんで対岸にも大規模な御蔵がある。明治になって「御竹蔵」はなくなったが、龍之介が小学生の頃には雑木林や竹藪が残っていた。
 龍之介が子どもの頃、本所は工業地域ではなかった。日本橋や京橋のように大商店が並んだところはなく、両国から亀沢町に至る元町通りや、二之橋から亀沢町に至る二つ目通りが、わずかに繁華なところであった。
 
両国
 龍之介は両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記している。関東大震災に両国橋が耐えた証でもあるが、彼は小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じているという。
 木造の両国橋は龍之介が小学時代に架けられた鉄橋より下流にあり、彼は橋を渡りながら、「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたことを記している。
 両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。二年前の1925年に治安維持法が成立しているが、まだこのような文章を新聞に掲載しても許される状況にあったのだろうか。
 表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。
 漱石の『こころ』に出て来る、先生とKが食べた両国の軍鶏は「坊主軍鶏」か「かど家」であろう。いずれも江戸時代からの老舗である。

富士見の渡し
 龍之介たちは両国橋の袂から左折。「百本杭」があった方へむかっている。ここで突然、「伊達様」というのが出てくる。江戸切絵図を見ても、「伊達…」という文字は見当たらない。あるのは「藤堂和泉守」のお屋敷。どうもこれが「伊達様」らしいが、なぜ「藤堂様」でなくて、「伊達様」なのか。
 龍之介が幼稚園の頃、「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見物に行ったことが、「うんこ」をしてしまったというエピソードとともに記されている。和霊神社は伊達家宇和島藩(現、愛媛県)に起きた和霊騒動の祟りを鎮めるため創建されたもので、江戸においても「伊達様」の中にあって不思議はない。宇和郡は秀吉の時代、藤堂高虎(和泉守)が領主になり、宇和島城も高虎の築城による。江戸時代になって、藤堂家は伊勢津藩を加増され、1614年には伊達秀宗が宇和島藩の藩主になっている。藤堂・伊達家のこのようなつながりの中で、藤堂和泉守の江戸における屋敷にも和霊神社が置かれ、「伊達様」と呼ばれたのではないだろうか。
 明治末の地図には、藤堂和泉守屋敷跡にあたる本所横網町1丁目5番地の広い区画がそのまま残っているが、その後、細分化されたのだろう。「伊達様」の広い区画はすでになく、震災の傷跡が残っていたようだ。現在は両国1丁目の一角になっている。
「伊達様」とともに、「富士見の渡し」がないことも、龍之介に衝撃を与えた。しかも三十前後の男に聞いても、そもそも「富士見の渡し」という名前も、存在したことすら知らない。龍之介より少し若い程度だから、龍之介が知っていれば、当然、その男が知っていてもおかしくないはずだが。
龍之介は、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》と書いている。ところが明治末の地図を見ると、「百本杭」辺りから出る富士見の渡しは、柳橋花街の大川端にある代地河岸の北端の瓦町を結んでおり、お竹倉の出入口に架かる御蔵橋から明治病院裏手の掘割に至る渡しは「御蔵の渡し」と呼ばれている。この二つの渡しは接近しており、大正期を通じて、利用状況の変化によって、航路も名称も混在してしまったのではないだろうか。男は「富士見の渡し」は知らなくても、「御蔵の渡し」は知っていたかもしれない。
 龍之介は「富士見の渡し」で、三遊派の「五りん」のお上さんだという親戚へ行ったというところから、今村次郎という講談の速記者の話しに移り、寄席の話しへと。龍之介は日本橋区米沢町(両国橋を渡って、すぐ左折した一帯で、薬研堀町に隣接)にあった立花家にも行ったが、本所小泉町に隣接する本所相生町にあった広瀬は近いこともあって、よく行った。
 子ども時代のことを思い出しているうちに、龍之介は両国駅の引込線をとどめた、三尺に足りない草土手を見つけた。この引込線はお竹倉の南側にある掘割に沿って、御蔵橋まで伸びており、現在は江戸東京博物館や国技館が建っている。
廃線跡というのは、まさに「国亡びて山河あり」の感がする。

お竹倉
 龍之介は震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。
《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。
「お竹倉」の跡地は陸軍被服廠になり、現在は東京都慰霊堂や復興記念館が建っている。「お竹倉」は総武鉄道会社の所有地になっていたが、龍之介は鉄道会社の社長の次男と友達だったため、みだりに立ち入ることを禁じられた「お竹倉」の中へ遊びに行くことができた。そこには維新前と変わらず、雑木林や竹藪がひろがっていた。
龍之介は総武鉄道の工事の始まったのは自分の小学時代と記して、それ以前の「お竹倉」は昼間でさえ、「本所の七不思議」を思い出さざるを得なかったとしている。
「本所の七不思議」とは、「置いてけ堀」「狸囃子(馬鹿ばやし)」「送り提灯」「落葉無き椎の木」「津軽屋敷の太鼓」「片葉の葦」「消えずの行灯(燈無蕎麦)」「送り拍子木」「足洗い屋敷」。以上九つの中から七つ選べば良いという、何とも都合の良い話で、話の内容も諸説あり。おそらく時代とともに、語る人とともに、いろいろ変化したのであろう。龍之介は「置いてけ堀」や「片葉の葦」はどこかにあるものと信じ、「狸囃子(馬鹿ばやし)」を聞いたという。

大川端
《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。
震災前の1922年、安田邸敷地は東京市に寄贈されたが、震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。邸跡には1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。庭園も復旧し、安田庭園として1927年に開園した。
本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、本所会館の隣に建設中の同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。
同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。
龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。
龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
龍之介はさらに、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。ここで出てくる「椎の木松浦」とは、大川端にあった大名松浦家の椎の木で、誰も葉っぱの落ちたのを見たことがなく、「落葉無き椎の木」として、「本所七不思議」のひとつに数えられている。お竹倉と大川の間にあり、本所会館のすぐそば。「横網」はお竹倉を含む一帯で、現在両国国技館が建っているので、「横綱」と間違える人がいる。昭和に入ったばかりの東京でこのような大きな変化を感じたのであるから、龍之介が現在の東京を見たら、何と表現するであろうか。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です。」》
震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第3回 或阿呆の一生

 冒頭の久米正雄に宛てた文章は明らかに死を意識している。1927年6月20日。自死一か月前である。芥川龍之介という阿呆の一生を聞いてくれと言った感じである。
 『或阿呆の一生』は51の節で構成されているが、その中から、「東京」という視点に絞って拾い上げてみたい。

 3の家。本所小泉町の母の実家、つまり養父母の家であろう。伯母というのはフキのこと。この家、《地盤の緩い為に妙に傾いた二階だつた》。この地域の海抜は0~1メートル程度で、河川が運んできた土砂が60~70メートル堆積している、「沖積層」と呼ばれる中でも、きわめて軟弱な地盤である。洪水、高潮、地震などによって大きな被害を受けやすい地域である。龍之介が残してくれたこの記述。地理屋には極めて興味深い。
 4は東京という題がつけられているが、龍之介にとって東京はイコール隅田川(大川)である。彼は小蒸汽の窓から向島の桜を眺めていた。
この後、東京に関する直接的な描写はまったくみられず、48で青酸加里が登場し、49で《彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後》、《彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じ》、《彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった》。そしてとうとう51の敗北において、《彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は0.8のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた》と、終末の予行演習を感じさせていくのである。それでも彼はなお、一か月を生きた。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第2回 浅草公園――或シナリオ――

 これは小説なのか、何なのか。『浅草公園』を見渡して、気になるのは1から78までの数字。それぞれ短文で綴られているが、全体が78にカットされている感じ。文学者の石割透『解説』によると、これは「レーゼ・シナリオ」と言って、「映画として製作、上映されることを意図しない映画の台本」、言い換えれば「映画台本風の小説」で、そう言われれば納得である。昭和モダンの真っただ中、映画隆盛の時期である。龍之介も映画人気にあやかって、新たなる挑戦をおこなったのであろう。四か月後に自死するとは、とても思われない。
 カット1は浅草仁王門。仁王門に吊った火の灯らない大提灯が次第に上り、雑踏した仲店(仲見世)が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。門の前に飛びかう無数の鳩。まさに映画の1シーン。情景が見えてくる。話は浅草寺のシンボル的存在の仁王門(宝蔵門)から始まる。
 2は雷門から縦に見た仲店で、正面はるかに仁王門。位置関係がよくわかる。雷門と言えば、今日では浅草の象徴。外国人にも人気のスポットである。雷門は幕末の1866年に焼失し、現在の雷門が1960年に再建されるまで、時おり仮設されたが、恒常的な門は存在しなかった。龍之介が描いた時も門のない状態だった。
 3で仲店に一二、三歳くらいの男の子と、その父親にあたる外套を着た男とが登場。7で少年は父親を見失い、父親と思った男ふたり、まったくの別人で、11で当てどもなく歩き始める。12は目金屋の店の飾り窓。人形の首は「お父さんを見付るには目金を買ってかけなさい」と話しかける。14から造花屋の飾り窓。17には「わたしの美しさを御覧なさい。」「だってお前は造花じゃないか?」
 18から煙草屋の飾り窓。煙の満ちた飾り窓の煙の中から三つの城。そのひとつの城門には、「この門に入るものは英雄となるべし。」吊り鐘だけ見える鐘楼の内部に続いて、24から射撃屋の店。少年が撃ったコルクの弾丸が西洋人の女の人形に中って倒れるが、後は中らない。少年は渋々銀貨を出し、店を出る。
 27では薄暗い中に四角いもの。電燈が灯って「公園六区」「夜警詰所」の文字。この場面から、日が暮れ、夜の情景に入ったようだ。暗くなってきたというのに、少年はまだ父親に会うことができていない。言葉で表現されていないが、少年はさぞ心細いことであろう。28から劇場の裏。ポスタアの剥がれた痕。少年はそこに佇んでいる。逞しいブルテリアが一匹、少年の匂いをかぎながら足元を通り過ぎる。劇場の火のともった窓に踊り子が一人現れ、冷淡に下の往来を眺める。《この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない》が、いつか少年に似た可憐な顔を現してしまう。《踊り子は静かに窓をあけ、小さな花束を下に投げる》。花束はいつか茨の束に変っている。
 32では、黒い一枚の掲示板にチョオクで「北の風、晴」と書かれているが、やがて「南の風強かるべし。雨模様」と変わる。33では標札屋の露店。徳川家康、二宮尊徳などと書かれた見本がありきたりの名前に変り、その向こうに南瓜畠。
 34で電燈の影映る池。その向こうに並んだ映画館。少年の帽子が風に飛ばされ、歩く少年の表情はほとんど絶望に近い。ここで出て来る池の名は「大池」であろう。35からはカッフェの飾り窓。久々の飾り窓登場であるが、砂糖の塔、生菓子、麦わらのパイプ(ストローのことだろう)を入れた曹達水のコップなど。夫婦らしい中年の男女が硝子戸の中へ。女はマントルを着た子供を抱いている。カッフェが自動的にまわり、コック部屋の裏。煙突一本。労働者二人がカンテラをともして、せっせとシャベルを動かす。子供はにこにこ首を振ったり手を振ったり。そこへ薔薇の花が一つずつ静かに落ちる。38で自動計算器が出て来て、39でカッフェの飾り窓。少年はおもむろに振り返り、足早に接近してきて、顔ばかりになった時、ちょっと立ち止まって、多少驚きに近い表情。
 40で、人だかりの真ん中に立ったセリ商人。手に持った一本の帯。帯の模様は雪片。それがくるくる帯の外へも落ち始める。42でメリヤス屋の露店。婆さんが一人行火に当たり、黒猫が一匹、時どき前足を嘗めている。左に少年の下半身。黒猫はいつしか頭の上にフサの長いトルコ帽をかぶっている。《「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」「僕は帽子さえ買えないんだよ」》。45ではメリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。少年は涙を流し始めるが、気を取り直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩き始める。
 46は、かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きな顔ぼんやり浮かぶ。少年の父親らしい。愛情はこもっているが、無限に物悲しく、霧のように消えてしまう。縦に見た往来。あまり人通りない。少年の後ろから歩いて行く男。マスク顔。48になると、斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前に人力車三台。角隠しをつけた花嫁が先頭の人力車に乗り、後に二台続く。
 49は「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」と書いた長方形の板。これがサンドウィッチ・マンの前後の板に変る。サンドウィッチ・マンは年をとっているが、仲店を歩いていた都会人らしい紳士に似ている。少年はサンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚もらっていく。50で再び縦に見た往来。松葉杖をついて歩いて行く廃兵一人。いつか駝鳥に変るが、また廃兵に戻る。横町の角にはポストが一つ。51は《「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」》のみ。そのポストは透明になり、無数の手紙が折り重なった円筒の内部を現して見せたかと思うと、もとのポストに戻ってしまう。
 53は斜めに見た芸者屋町。お座敷へ出る二人の芸者が通り過ぎ、少年が歩いて行く。そこへ背の低い声色遣いが一人。どこか少年に似ていないことはない。54は大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。いつの間にか理髪店の棒に変る。55は理髪店の外部。大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。少年はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗く。56では頭を刈っている男の横顔が出て来る。
 57ではセセッション風に出来上がった病院。少年が石の階段を登り、すぐ下って来て左へ行った後、病院が静かに近づき、玄関だけになり、看護婦が一人出て来て、何か遠いものを眺めている。膝の上に組んだ看護婦の両手。左の手の婚約指環が急に落ちる。
 59で、わずかに空を残したコンクリイトの塀。自然に透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿。塀全体は操り人形の舞台に変り、西洋人の人形がおずおずと。覆面をしているので盗人らしい。室の隅に金庫一つ。金庫をこじあける西洋人の人形。人形の手足についた細い糸が何本かはっきり見える。61で塀は何も現さず、そこを通り過ぎる少年の影。そのあとから背むしの影。
 62に入ると、前から斜めに見おろした往来。落葉が一枚。最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って、「生活、正月号」の初号活字。63は大きい常盤木の下にあるベンチ。木々の向こうに大池。少年はがっかりしたようにベンチに腰かけ、涙を拭い始める。背むしもベンチに座り、焼き芋を取り出しがつがつ食べる。64で焼き芋を食う背むしの顔。65で頭を垂れて少年どこかへ歩いて行く。66では斜めに上から見おろしたベンチ。蟇口が一つ残り、誰かの手がそっととり上げる。67ではベンチの上に蟇口を検べる背むし。それがどんどん増え、ベンチの上は背むしばかりで、皆熱心に蟇口を検べている。何か話しながら。
 68で写真屋の飾り窓。男女の写真が何枚も額縁にはいって懸かり、その顔が老人に変る。フロック・コオトに勲章をつけた顋鬚のある老人の半身だけ変わらないが、いつの間にか背むしの顔に。
 69になると、横から見た観音堂。少年がその下を歩いて行き、観音堂の上には三日月。観音堂の扉はしまっているが、その前で何人か礼拝しており、少年はちょっと近づき、観音堂を仰ぎ、行ってしまう。71に大きい長方形の手水鉢。憔悴し切った少年の顔が水に映る。大きい石燈籠の下部。少年はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。74で、この男。マスクをかけた前の男。しばらく後、少年の父親に変ってしまう。75で石燈籠は柱を残したまま、自然に燃え上がり、下火になった後、開き始める菊の花一輪。菊の花は石燈籠の笠より大きい。76で巡査が少年の肩へ手をかけ、巡査と会話の後、手を引かれたまま、静かに向こうへ歩いて行く。石燈籠に下部にはもう誰もいない。
 78で、冒頭登場した仁王門。大提灯が次第に上り、前のように仲店が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。
 『浅草公園』は終了である。結局、父親とはぐれてしまった少年は父親に会うことができなかった。
 少年はどのようなコースでさまよったのだろうか。仁王門と雷門の間に続く仲店で父親とはぐれ、いろいろな飾り窓を見ながら、六区の映画街。凌雲閣(十二階)は関東大震災で崩壊したので、ここではまったく出てこない。大池周辺をうろうろしながら、花屋敷の北へ回り込み、浅草花街。登場する病院は浅草寺裏手にある浅草寺病院であろう。1910年の大水害の救護所が出発点。その後、観音堂にやって来て、燈籠や手水鉢は堂前の境内にあるものだろう。少年はこの後、巡査に連れられて、二天門を抜け、浅草馬道町6丁目にある派出所(現在、台東区民会館があるところ)へむかったものと思われる。
 『浅草公園』は昼から夕暮れ、そして夜へと、移り変り、少年はどんどん不安になっていく。『トロッコ』(1922年)を連想させるが、線路上を引き返せば良い『トロッコ』の良平少年にくらべれば悲惨である。良平は父母の許に帰ることができた。けれども浅草公園の少年はその後、どうなったかわからない。しかも、良平は現実に存在するものを見てきたが、浅草公園の少年が見るものは幻影であり、あっという間に変化してしまう。
 『浅草公園』でもう一点気になるのが、「暗」である。ある部分にスポットライトが当てられ、その先に「暗」がある。《この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり》(6)、《人形の後ろにも暗のあるばかり》(25)、《ポストの後ろには暗のあるばかり》(52)、《棒の後ろにも暗のあるばかり》(54)。四か所ではあるが、この繰り返しが妙に印象に残る。
 明るく光の当たる表舞台の明るさに反比例するかのように深い闇を抱え、必死に何かを探し求め、さまよい、ついにみつからない。そしてそのまま逝ってしまった龍之介を象徴しているような作品である。『トロッコ』から五年。龍之介の中に「暗」は増々大きくなっていたのだろうか。
東京に対する強いこだわりは、私を漱石に誘い、『漱石と歩く東京』という本を書かせることになり、ついに私は『勝手に漱石文学館』まで設立してしまった。ところがこれで収まりがつくはずもなく、私の故郷金沢が育んだ鏡花・秋聲・犀星といった「金沢の三文豪」へと拡がっていった。『勝手に漱石文学館』には「別館」ができ、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』も出版された。そうなれば、もっと拡げて行きたいではないか。つぎのテーマは「文豪の東京」。その第一歩が、漱石の最後の門弟とも言われ、犀星とも親しかった芥川龍之介。

【文豪の東京――芥川龍之介】

第1回 東京に生れて

龍之介が書いた小説の代表作といえば、『羅生門』『鼻』『芋粥』『蜘蛛の糸』『杜子春』『トロッコ』『河童』など多数あげられるが、東京を舞台にした小説は見当たらない。けれども龍之介が東京に関する文章を書いていないかといえば、そうではない。すでに「館長のつぶやき」などで紹介した『大川の水』『漱石山房の秋』などもそうだが、今回は『東京に生まれて』を取り上げてみたい。

『東京に生まれて』はいつ書かれたのだろうか。手がかりは、《例へばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあつた京橋も、このごろでは、西洋風の橋に変つてゐる》という一文。1922(大正11)年、京橋は架け替えられ、擬宝珠のついた欄干柱は日比谷公園の雲形池近くに移された。江戸時代から町方で擬宝珠のつけられた橋は、日本橋・京橋・新橋の三つだけで、それだけに格式が高く、擬宝珠のない橋は「橋としての誇り」をもぎ取られた感があっただろう。龍之介が敏感に反応し、文章にとどめてくれたので、『東京に生まれて』は1922年あるいは1923年に書かれたことになる。
『東京に生まれて』は、「変化の激しい都会」「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」「郊外の感じ」から構成されている。
まず、龍之介は《僕に東京の印象を話せといふのは無理である》として、印象を得るためには、印象するものと、されるものの間に、ある新鮮さがなければならないが、《僕は東京に生れ、東京に育ち、東京に住んでゐる。だから、東京に対する神経は麻痺し切ってゐるといつてもいゝ》と記している。東京人と上京者には東京に対する印象、思いは異なるであろう。そしてどのように違うのかということが本論のテーマのひとつであるから、彼の文章はその回答を示していると言って良い。
東京に対して神経の麻痺した龍之介は、それでも時には新鮮さを感じ、印象となって話すことができるものもあるという。それは、《東京は変化の激しい都会である》から。東京に住んでいても、久しぶりに訪れるとすっかり変わっていて、その変化が印象に残る。
その変化によって、広重の情趣が感じられる江戸・東京の風情が失われ、欧米化、西洋化された街が拡大していく。京橋の擬宝珠がなくなり、西洋風の橋に変わったことも、龍之介にとっては衝撃であっただろう。彼は「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」において、失われゆく風情に思いを馳せている。
《大体にいへば、今の東京はあまり住み心地のいゝところ》ではなく、例えば、大川の百本杭も、中洲界隈の蘆原もなくなり、この頃出来てきたアメリカ式大建築は見にくく、電車、カフエー、並木、自動車も感心しない。けれどもそんな不愉快な町中にも、一寸した硝子窓の光とか、建物の軒蛇腹の影とかに美しい感じを見出すこともあると龍之介は書いている。そして、非常に稀ではあるが、今も昔の錦絵にあるような景色がまったくなくなったわけではなく、夏の暮れ方、本所の一の橋そばの共同便所を出た時、ぽつぽつ降り出した雨に、一の橋と堅川の色とは、そっくり広重だったと続けている。
一の橋は回向院の南、堅川の最下流部に架かる橋で、ここから千歳ノ渡しが大川の対岸浜町を結んでいる。
ついでに龍之介は郊外が嫌いだとして、その理由に、妙に宿場じみ、新開地じみ、いわゆる武蔵野が見えたり、安直なセンチメンタリズムをあげている。自分も東京の郊外田端に住んでいるが、だからあんまり愉快でないと言う。四宿は江戸の玄関口にあたるから、すべて郊外。宿場じみているのは当然。郊外は都市化が進めば当然新開地になる。武蔵野が見えるに至って、どうやら彼は新宿を念頭に置いているようだ。故郷を追われるように内藤新宿にやって来て、急速に繁華街として隆盛する新宿の姿を見て、何か大きな違和感、自分にはなじめないものを感じたのかもしれない。
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