館長の部屋
エッセイ
【文豪の東京――芥川龍之介】
『本所両国』連載にあたって
 芥川龍之介が書いた『本所両国』は、墨田区の南半部に江東区の一部を加えた地域を実際に回っているため、内容も豊富で、私が書きたいことも多い。一度に掲載がむずかしいため、連載することにした。龍之介の子どもの頃の本所界隈と関東大震災後の本所界隈が重ねられており、そこへ現在を重ね合わせていくと、地域が重層的に見えてきて、愛着が湧いてくる。そしてまた、龍之介の素顔も見えてくるような気がする。私は『本所両国』を読みながら、新型コロナウイルス感染症の流行が収束の方向へむかってきたら、同じコースをたどってみたいと思うようになった。

第4回『本所両国』連載①
                    
社命を受けて
 《僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った》。これは『本所両国』の書き出しである。関東大震災からの東京の復興を宣伝しようと、「東京日日新聞」が企画した「大東京繁昌記」の記事を書けというのが、芥川龍之介に下された社命である。この社命は、泉鏡花・徳田秋聲をはじめ、十数人の作家にくだっている。
 龍之介はO君と取材に出かけた。二人は両国橋を渡って本所区に入り、隅田川沿いに吾妻橋まで行き、業平、柳島、錦糸町を経て、両国へ戻っている。本所区を一周したことになるが、題名を『本所』とせず、『本所両国』としたことについて、《なぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである》と記している。両国で育った龍之介にとって、「両国」は特別な響きをもっていたのであろう。本所に埋没させるわけにいかなかった。その結果、《ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることに》なってしまった。
 こうして、芥川龍之介の『本所両国』は1927年5月6日から22日まで、「東京日日新聞」に連載されたが、社命によって、龍之介は人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。

大溝(おおどぶ)
 両国橋を渡りながら、龍之介は対岸に立ち並んだ無数のバラックを眺めた時、著しい変わりように愕然として、そこにかつてあった大溝や、大溝で釣りをしていた叔父のことを思い出す。
 現在、両国駅や国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園、横網町公園などがある一帯は、龍之介の中学頃には両国停車場や陸軍被服廠があり、「大溝」と呼ばれる堀に囲まれていた。龍之介が幼少期を過ごした家から百メートルも行けば「大溝」があった。
この一帯、江戸時代には「御竹蔵」という貯木場があったが、後に「米蔵」に変った。大川をはさんで対岸にも大規模な御蔵がある。明治になって「御竹蔵」はなくなったが、龍之介が小学生の頃には雑木林や竹藪が残っていた。
 龍之介が子どもの頃、本所は工業地域ではなかった。日本橋や京橋のように大商店が並んだところはなく、両国から亀沢町に至る元町通りや、二之橋から亀沢町に至る二つ目通りが、わずかに繁華なところであった。
 
両国
 龍之介は両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記している。関東大震災に両国橋が耐えた証でもあるが、彼は小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じているという。
 木造の両国橋は龍之介が小学時代に架けられた鉄橋より下流にあり、彼は橋を渡りながら、「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたことを記している。
 両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。二年前の1925年に治安維持法が成立しているが、まだこのような文章を新聞に掲載しても許される状況にあったのだろうか。
 表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。
 漱石の『こころ』に出て来る、先生とKが食べた両国の軍鶏は「坊主軍鶏」か「かど家」であろう。いずれも江戸時代からの老舗である。

富士見の渡し
 龍之介たちは両国橋の袂から左折。「百本杭」があった方へむかっている。ここで突然、「伊達様」というのが出てくる。江戸切絵図を見ても、「伊達…」という文字は見当たらない。あるのは「藤堂和泉守」のお屋敷。どうもこれが「伊達様」らしいが、なぜ「藤堂様」でなくて、「伊達様」なのか。
 龍之介が幼稚園の頃、「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見物に行ったことが、「うんこ」をしてしまったというエピソードとともに記されている。和霊神社は伊達家宇和島藩(現、愛媛県)に起きた和霊騒動の祟りを鎮めるため創建されたもので、江戸においても「伊達様」の中にあって不思議はない。宇和郡は秀吉の時代、藤堂高虎(和泉守)が領主になり、宇和島城も高虎の築城による。江戸時代になって、藤堂家は伊勢津藩を加増され、1614年には伊達秀宗が宇和島藩の藩主になっている。藤堂・伊達家のこのようなつながりの中で、藤堂和泉守の江戸における屋敷にも和霊神社が置かれ、「伊達様」と呼ばれたのではないだろうか。
 明治末の地図には、藤堂和泉守屋敷跡にあたる本所横網町1丁目5番地の広い区画がそのまま残っているが、その後、細分化されたのだろう。「伊達様」の広い区画はすでになく、震災の傷跡が残っていたようだ。現在は両国1丁目の一角になっている。
「伊達様」とともに、「富士見の渡し」がないことも、龍之介に衝撃を与えた。しかも三十前後の男に聞いても、そもそも「富士見の渡し」という名前も、存在したことすら知らない。龍之介より少し若い程度だから、龍之介が知っていれば、当然、その男が知っていてもおかしくないはずだが。
龍之介は、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》と書いている。ところが明治末の地図を見ると、「百本杭」辺りから出る富士見の渡しは、柳橋花街の大川端にある代地河岸の北端の瓦町を結んでおり、お竹倉の出入口に架かる御蔵橋から明治病院裏手の掘割に至る渡しは「御蔵の渡し」と呼ばれている。この二つの渡しは接近しており、大正期を通じて、利用状況の変化によって、航路も名称も混在してしまったのではないだろうか。男は「富士見の渡し」は知らなくても、「御蔵の渡し」は知っていたかもしれない。
 龍之介は「富士見の渡し」で、三遊派の「五りん」のお上さんだという親戚へ行ったというところから、今村次郎という講談の速記者の話しに移り、寄席の話しへと。龍之介は日本橋区米沢町(両国橋を渡って、すぐ左折した一帯で、薬研堀町に隣接)にあった立花家にも行ったが、本所小泉町に隣接する本所相生町にあった広瀬は近いこともあって、よく行った。
 子ども時代のことを思い出しているうちに、龍之介は両国駅の引込線をとどめた、三尺に足りない草土手を見つけた。この引込線はお竹倉の南側にある掘割に沿って、御蔵橋まで伸びており、現在は江戸東京博物館や国技館が建っている。
廃線跡というのは、まさに「国亡びて山河あり」の感がする。

お竹倉
 龍之介は震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。
《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。
「お竹倉」の跡地は陸軍被服廠になり、現在は東京都慰霊堂や復興記念館が建っている。「お竹倉」は総武鉄道会社の所有地になっていたが、龍之介は鉄道会社の社長の次男と友達だったため、みだりに立ち入ることを禁じられた「お竹倉」の中へ遊びに行くことができた。そこには維新前と変わらず、雑木林や竹藪がひろがっていた。
龍之介は総武鉄道の工事の始まったのは自分の小学時代と記して、それ以前の「お竹倉」は昼間でさえ、「本所の七不思議」を思い出さざるを得なかったとしている。
「本所の七不思議」とは、「置いてけ堀」「狸囃子(馬鹿ばやし)」「送り提灯」「落葉無き椎の木」「津軽屋敷の太鼓」「片葉の葦」「消えずの行灯(燈無蕎麦)」「送り拍子木」「足洗い屋敷」。以上九つの中から七つ選べば良いという、何とも都合の良い話で、話の内容も諸説あり。おそらく時代とともに、語る人とともに、いろいろ変化したのであろう。龍之介は「置いてけ堀」や「片葉の葦」はどこかにあるものと信じ、「狸囃子(馬鹿ばやし)」を聞いたという。

大川端
《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。
震災前の1922年、安田邸敷地は東京市に寄贈されたが、震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。邸跡には1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。庭園も復旧し、安田庭園として1927年に開園した。
本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、本所会館の隣に建設中の同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。
同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。
龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。
龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
龍之介はさらに、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。ここで出てくる「椎の木松浦」とは、大川端にあった大名松浦家の椎の木で、誰も葉っぱの落ちたのを見たことがなく、「落葉無き椎の木」として、「本所七不思議」のひとつに数えられている。お竹倉と大川の間にあり、本所会館のすぐそば。「横網」はお竹倉を含む一帯で、現在両国国技館が建っているので、「横綱」と間違える人がいる。昭和に入ったばかりの東京でこのような大きな変化を感じたのであるから、龍之介が現在の東京を見たら、何と表現するであろうか。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です。」》
震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第3回 或阿呆の一生

 冒頭の久米正雄に宛てた文章は明らかに死を意識している。1927年6月20日。自死一か月前である。芥川龍之介という阿呆の一生を聞いてくれと言った感じである。
 『或阿呆の一生』は51の節で構成されているが、その中から、「東京」という視点に絞って拾い上げてみたい。

 3の家。本所小泉町の母の実家、つまり養父母の家であろう。伯母というのはフキのこと。この家、《地盤の緩い為に妙に傾いた二階だつた》。この地域の海抜は0~1メートル程度で、河川が運んできた土砂が60~70メートル堆積している、「沖積層」と呼ばれる中でも、きわめて軟弱な地盤である。洪水、高潮、地震などによって大きな被害を受けやすい地域である。龍之介が残してくれたこの記述。地理屋には極めて興味深い。
 4は東京という題がつけられているが、龍之介にとって東京はイコール隅田川(大川)である。彼は小蒸汽の窓から向島の桜を眺めていた。
この後、東京に関する直接的な描写はまったくみられず、48で青酸加里が登場し、49で《彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後》、《彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じ》、《彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった》。そしてとうとう51の敗北において、《彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は0.8のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた》と、終末の予行演習を感じさせていくのである。それでも彼はなお、一か月を生きた。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第2回 浅草公園――或シナリオ――

 これは小説なのか、何なのか。『浅草公園』を見渡して、気になるのは1から78までの数字。それぞれ短文で綴られているが、全体が78にカットされている感じ。文学者の石割透『解説』によると、これは「レーゼ・シナリオ」と言って、「映画として製作、上映されることを意図しない映画の台本」、言い換えれば「映画台本風の小説」で、そう言われれば納得である。昭和モダンの真っただ中、映画隆盛の時期である。龍之介も映画人気にあやかって、新たなる挑戦をおこなったのであろう。四か月後に自死するとは、とても思われない。
 カット1は浅草仁王門。仁王門に吊った火の灯らない大提灯が次第に上り、雑踏した仲店(仲見世)が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。門の前に飛びかう無数の鳩。まさに映画の1シーン。情景が見えてくる。話は浅草寺のシンボル的存在の仁王門(宝蔵門)から始まる。
 2は雷門から縦に見た仲店で、正面はるかに仁王門。位置関係がよくわかる。雷門と言えば、今日では浅草の象徴。外国人にも人気のスポットである。雷門は幕末の1866年に焼失し、現在の雷門が1960年に再建されるまで、時おり仮設されたが、恒常的な門は存在しなかった。龍之介が描いた時も門のない状態だった。
 3で仲店に一二、三歳くらいの男の子と、その父親にあたる外套を着た男とが登場。7で少年は父親を見失い、父親と思った男ふたり、まったくの別人で、11で当てどもなく歩き始める。12は目金屋の店の飾り窓。人形の首は「お父さんを見付るには目金を買ってかけなさい」と話しかける。14から造花屋の飾り窓。17には「わたしの美しさを御覧なさい。」「だってお前は造花じゃないか?」
 18から煙草屋の飾り窓。煙の満ちた飾り窓の煙の中から三つの城。そのひとつの城門には、「この門に入るものは英雄となるべし。」吊り鐘だけ見える鐘楼の内部に続いて、24から射撃屋の店。少年が撃ったコルクの弾丸が西洋人の女の人形に中って倒れるが、後は中らない。少年は渋々銀貨を出し、店を出る。
 27では薄暗い中に四角いもの。電燈が灯って「公園六区」「夜警詰所」の文字。この場面から、日が暮れ、夜の情景に入ったようだ。暗くなってきたというのに、少年はまだ父親に会うことができていない。言葉で表現されていないが、少年はさぞ心細いことであろう。28から劇場の裏。ポスタアの剥がれた痕。少年はそこに佇んでいる。逞しいブルテリアが一匹、少年の匂いをかぎながら足元を通り過ぎる。劇場の火のともった窓に踊り子が一人現れ、冷淡に下の往来を眺める。《この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない》が、いつか少年に似た可憐な顔を現してしまう。《踊り子は静かに窓をあけ、小さな花束を下に投げる》。花束はいつか茨の束に変っている。
 32では、黒い一枚の掲示板にチョオクで「北の風、晴」と書かれているが、やがて「南の風強かるべし。雨模様」と変わる。33では標札屋の露店。徳川家康、二宮尊徳などと書かれた見本がありきたりの名前に変り、その向こうに南瓜畠。
 34で電燈の影映る池。その向こうに並んだ映画館。少年の帽子が風に飛ばされ、歩く少年の表情はほとんど絶望に近い。ここで出て来る池の名は「大池」であろう。35からはカッフェの飾り窓。久々の飾り窓登場であるが、砂糖の塔、生菓子、麦わらのパイプ(ストローのことだろう)を入れた曹達水のコップなど。夫婦らしい中年の男女が硝子戸の中へ。女はマントルを着た子供を抱いている。カッフェが自動的にまわり、コック部屋の裏。煙突一本。労働者二人がカンテラをともして、せっせとシャベルを動かす。子供はにこにこ首を振ったり手を振ったり。そこへ薔薇の花が一つずつ静かに落ちる。38で自動計算器が出て来て、39でカッフェの飾り窓。少年はおもむろに振り返り、足早に接近してきて、顔ばかりになった時、ちょっと立ち止まって、多少驚きに近い表情。
 40で、人だかりの真ん中に立ったセリ商人。手に持った一本の帯。帯の模様は雪片。それがくるくる帯の外へも落ち始める。42でメリヤス屋の露店。婆さんが一人行火に当たり、黒猫が一匹、時どき前足を嘗めている。左に少年の下半身。黒猫はいつしか頭の上にフサの長いトルコ帽をかぶっている。《「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」「僕は帽子さえ買えないんだよ」》。45ではメリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。少年は涙を流し始めるが、気を取り直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩き始める。
 46は、かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きな顔ぼんやり浮かぶ。少年の父親らしい。愛情はこもっているが、無限に物悲しく、霧のように消えてしまう。縦に見た往来。あまり人通りない。少年の後ろから歩いて行く男。マスク顔。48になると、斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前に人力車三台。角隠しをつけた花嫁が先頭の人力車に乗り、後に二台続く。
 49は「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」と書いた長方形の板。これがサンドウィッチ・マンの前後の板に変る。サンドウィッチ・マンは年をとっているが、仲店を歩いていた都会人らしい紳士に似ている。少年はサンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚もらっていく。50で再び縦に見た往来。松葉杖をついて歩いて行く廃兵一人。いつか駝鳥に変るが、また廃兵に戻る。横町の角にはポストが一つ。51は《「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」》のみ。そのポストは透明になり、無数の手紙が折り重なった円筒の内部を現して見せたかと思うと、もとのポストに戻ってしまう。
 53は斜めに見た芸者屋町。お座敷へ出る二人の芸者が通り過ぎ、少年が歩いて行く。そこへ背の低い声色遣いが一人。どこか少年に似ていないことはない。54は大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。いつの間にか理髪店の棒に変る。55は理髪店の外部。大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。少年はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗く。56では頭を刈っている男の横顔が出て来る。
 57ではセセッション風に出来上がった病院。少年が石の階段を登り、すぐ下って来て左へ行った後、病院が静かに近づき、玄関だけになり、看護婦が一人出て来て、何か遠いものを眺めている。膝の上に組んだ看護婦の両手。左の手の婚約指環が急に落ちる。
 59で、わずかに空を残したコンクリイトの塀。自然に透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿。塀全体は操り人形の舞台に変り、西洋人の人形がおずおずと。覆面をしているので盗人らしい。室の隅に金庫一つ。金庫をこじあける西洋人の人形。人形の手足についた細い糸が何本かはっきり見える。61で塀は何も現さず、そこを通り過ぎる少年の影。そのあとから背むしの影。
 62に入ると、前から斜めに見おろした往来。落葉が一枚。最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って、「生活、正月号」の初号活字。63は大きい常盤木の下にあるベンチ。木々の向こうに大池。少年はがっかりしたようにベンチに腰かけ、涙を拭い始める。背むしもベンチに座り、焼き芋を取り出しがつがつ食べる。64で焼き芋を食う背むしの顔。65で頭を垂れて少年どこかへ歩いて行く。66では斜めに上から見おろしたベンチ。蟇口が一つ残り、誰かの手がそっととり上げる。67ではベンチの上に蟇口を検べる背むし。それがどんどん増え、ベンチの上は背むしばかりで、皆熱心に蟇口を検べている。何か話しながら。
 68で写真屋の飾り窓。男女の写真が何枚も額縁にはいって懸かり、その顔が老人に変る。フロック・コオトに勲章をつけた顋鬚のある老人の半身だけ変わらないが、いつの間にか背むしの顔に。
 69になると、横から見た観音堂。少年がその下を歩いて行き、観音堂の上には三日月。観音堂の扉はしまっているが、その前で何人か礼拝しており、少年はちょっと近づき、観音堂を仰ぎ、行ってしまう。71に大きい長方形の手水鉢。憔悴し切った少年の顔が水に映る。大きい石燈籠の下部。少年はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。74で、この男。マスクをかけた前の男。しばらく後、少年の父親に変ってしまう。75で石燈籠は柱を残したまま、自然に燃え上がり、下火になった後、開き始める菊の花一輪。菊の花は石燈籠の笠より大きい。76で巡査が少年の肩へ手をかけ、巡査と会話の後、手を引かれたまま、静かに向こうへ歩いて行く。石燈籠に下部にはもう誰もいない。
 78で、冒頭登場した仁王門。大提灯が次第に上り、前のように仲店が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。
 『浅草公園』は終了である。結局、父親とはぐれてしまった少年は父親に会うことができなかった。
 少年はどのようなコースでさまよったのだろうか。仁王門と雷門の間に続く仲店で父親とはぐれ、いろいろな飾り窓を見ながら、六区の映画街。凌雲閣(十二階)は関東大震災で崩壊したので、ここではまったく出てこない。大池周辺をうろうろしながら、花屋敷の北へ回り込み、浅草花街。登場する病院は浅草寺裏手にある浅草寺病院であろう。1910年の大水害の救護所が出発点。その後、観音堂にやって来て、燈籠や手水鉢は堂前の境内にあるものだろう。少年はこの後、巡査に連れられて、二天門を抜け、浅草馬道町6丁目にある派出所(現在、台東区民会館があるところ)へむかったものと思われる。
 『浅草公園』は昼から夕暮れ、そして夜へと、移り変り、少年はどんどん不安になっていく。『トロッコ』(1922年)を連想させるが、線路上を引き返せば良い『トロッコ』の良平少年にくらべれば悲惨である。良平は父母の許に帰ることができた。けれども浅草公園の少年はその後、どうなったかわからない。しかも、良平は現実に存在するものを見てきたが、浅草公園の少年が見るものは幻影であり、あっという間に変化してしまう。
 『浅草公園』でもう一点気になるのが、「暗」である。ある部分にスポットライトが当てられ、その先に「暗」がある。《この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり》(6)、《人形の後ろにも暗のあるばかり》(25)、《ポストの後ろには暗のあるばかり》(52)、《棒の後ろにも暗のあるばかり》(54)。四か所ではあるが、この繰り返しが妙に印象に残る。
 明るく光の当たる表舞台の明るさに反比例するかのように深い闇を抱え、必死に何かを探し求め、さまよい、ついにみつからない。そしてそのまま逝ってしまった龍之介を象徴しているような作品である。『トロッコ』から五年。龍之介の中に「暗」は増々大きくなっていたのだろうか。
東京に対する強いこだわりは、私を漱石に誘い、『漱石と歩く東京』という本を書かせることになり、ついに私は『勝手に漱石文学館』まで設立してしまった。ところがこれで収まりがつくはずもなく、私の故郷金沢が育んだ鏡花・秋聲・犀星といった「金沢の三文豪」へと拡がっていった。『勝手に漱石文学館』には「別館」ができ、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』も出版された。そうなれば、もっと拡げて行きたいではないか。つぎのテーマは「文豪の東京」。その第一歩が、漱石の最後の門弟とも言われ、犀星とも親しかった芥川龍之介。

【文豪の東京――芥川龍之介】

第1回 東京に生れて

龍之介が書いた小説の代表作といえば、『羅生門』『鼻』『芋粥』『蜘蛛の糸』『杜子春』『トロッコ』『河童』など多数あげられるが、東京を舞台にした小説は見当たらない。けれども龍之介が東京に関する文章を書いていないかといえば、そうではない。すでに「館長のつぶやき」などで紹介した『大川の水』『漱石山房の秋』などもそうだが、今回は『東京に生まれて』を取り上げてみたい。

『東京に生まれて』はいつ書かれたのだろうか。手がかりは、《例へばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあつた京橋も、このごろでは、西洋風の橋に変つてゐる》という一文。1922(大正11)年、京橋は架け替えられ、擬宝珠のついた欄干柱は日比谷公園の雲形池近くに移された。江戸時代から町方で擬宝珠のつけられた橋は、日本橋・京橋・新橋の三つだけで、それだけに格式が高く、擬宝珠のない橋は「橋としての誇り」をもぎ取られた感があっただろう。龍之介が敏感に反応し、文章にとどめてくれたので、『東京に生まれて』は1922年あるいは1923年に書かれたことになる。
『東京に生まれて』は、「変化の激しい都会」「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」「郊外の感じ」から構成されている。
まず、龍之介は《僕に東京の印象を話せといふのは無理である》として、印象を得るためには、印象するものと、されるものの間に、ある新鮮さがなければならないが、《僕は東京に生れ、東京に育ち、東京に住んでゐる。だから、東京に対する神経は麻痺し切ってゐるといつてもいゝ》と記している。東京人と上京者には東京に対する印象、思いは異なるであろう。そしてどのように違うのかということが本論のテーマのひとつであるから、彼の文章はその回答を示していると言って良い。
東京に対して神経の麻痺した龍之介は、それでも時には新鮮さを感じ、印象となって話すことができるものもあるという。それは、《東京は変化の激しい都会である》から。東京に住んでいても、久しぶりに訪れるとすっかり変わっていて、その変化が印象に残る。
その変化によって、広重の情趣が感じられる江戸・東京の風情が失われ、欧米化、西洋化された街が拡大していく。京橋の擬宝珠がなくなり、西洋風の橋に変わったことも、龍之介にとっては衝撃であっただろう。彼は「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」において、失われゆく風情に思いを馳せている。
《大体にいへば、今の東京はあまり住み心地のいゝところ》ではなく、例えば、大川の百本杭も、中洲界隈の蘆原もなくなり、この頃出来てきたアメリカ式大建築は見にくく、電車、カフエー、並木、自動車も感心しない。けれどもそんな不愉快な町中にも、一寸した硝子窓の光とか、建物の軒蛇腹の影とかに美しい感じを見出すこともあると龍之介は書いている。そして、非常に稀ではあるが、今も昔の錦絵にあるような景色がまったくなくなったわけではなく、夏の暮れ方、本所の一の橋そばの共同便所を出た時、ぽつぽつ降り出した雨に、一の橋と堅川の色とは、そっくり広重だったと続けている。
一の橋は回向院の南、堅川の最下流部に架かる橋で、ここから千歳ノ渡しが大川の対岸浜町を結んでいる。
ついでに龍之介は郊外が嫌いだとして、その理由に、妙に宿場じみ、新開地じみ、いわゆる武蔵野が見えたり、安直なセンチメンタリズムをあげている。自分も東京の郊外田端に住んでいるが、だからあんまり愉快でないと言う。四宿は江戸の玄関口にあたるから、すべて郊外。宿場じみているのは当然。郊外は都市化が進めば当然新開地になる。武蔵野が見えるに至って、どうやら彼は新宿を念頭に置いているようだ。故郷を追われるように内藤新宿にやって来て、急速に繁華街として隆盛する新宿の姿を見て、何か大きな違和感、自分にはなじめないものを感じたのかもしれない。
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