【館長の部屋】 文豪と本郷③
漱石がイギリスから帰国して、千駄木に住むようになった翌年の1904年、つまり『吾輩は猫である』が発表される年、須田町から本郷三丁目、さらに上野広小路へと電車が開通した。この時、交差点はまだ三叉路であった。やがて春日通りが真砂坂(東富坂)にむかって伸び、交差点は今日のように十字路になった。この新しい道路に電車が走り始めたのは、『三四郎』が書かれた2年後の1910年である。春日通りは本郷三丁目交差点を起点にして、西が国道254号線になっている。
本郷三丁目交差点は北側が本郷四丁目になっているため、本郷四丁目交差点とよばれることもあった。『野分』で切通坂を上ってきた白井道也と高柳周作は、《二人は四丁目の角でわかれた》。『三四郎』でも、《その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って》、《神田の商業高等学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗ったところが》、さらに『それから』でも、《四丁目から又電車へ乗って、今度は伝通院前まで来た。》と、四丁目が使われている。ところが1912年に書かれた『彼岸過迄』では、主人公田川敬太郎は小川町の電停で探偵をしている場面で、《其所で本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。》と、本郷三丁目の名称が使われている。
本郷三丁目交差点界隈はちょっとした商店街を形成しており、漱石もよく出かけたとみえて、店などの様子もしばしば描写される。例えば、『三四郎』では、三四郎が夕方野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過ぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、襯衣を買いに大きな唐物屋へ入ったところ、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た場面を、《二人の女は笑いながら側へ来て、一所に襯衣を見てくれた。仕舞に、よし子が「これになさい」と云った。三四郎はそれにした。今度は三四郎が香水の相談を受けた。一向に分らない。ヘリオトープと書いてある罎を持って、好加減に、これはどうですと云うと、美禰子が「それに為ましょう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であった。(略)聞いてみて、妹が兄の下宿へ行くところだという事が解った。三四郎は又奇麗な女と二人連で追分の方へ歩くべき宵となった。日はまだ全く落ちていない。》と描いているが、この唐物屋は本郷通りから菊坂へむかう道が分かれる角にあった三角堂がモデルとみられている。この段階で、野々宮宗八は大久保の家を引き払って、追分にある三四郎の下宿の近くに住んでおり、妹の野々宮よし子は里見美禰子の家に住んでいた。
また、『道草』でも、健三が呉服屋へ寄った場面が、《彼は又本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物を買った。織物に就いて何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好い加減な選択をした。》と描かれている。『それから』の三千代も電車に乗って、伝通院前から本郷へ買物に来ている。
時には店の名前が実名で出てくるものもある。
『吾輩は猫である』では、藤村の羊羹が出てくる。《「いやー珍客だね。僕の様な狎客になると苦沙弥はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍位くるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村の羊羹を無雑作に頬張る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った》。この藤村は本郷三丁目交差点南東角の菓子店「三原堂」の隣り(本郷三丁目34-6)にある和菓子屋。羊羹で有名だった。1626年、加賀藩主江戸出府に従って金沢からやって来たと言われている。1996年頃から閉店した。
『三四郎』では、《三四郎は忽ちさきの二十円の件を思い出した。けれども不思議に可笑しくてならなかった。与次郎はその上銀座の何処とかへ天麩羅を食いに行こうかと云い出した。不思議な男である。云いなり次第になる三四郎もこれは断った。その代り一所に散歩に出た。帰りに岡野へ寄って、与次郎は栗饅頭を沢山買った。これを先生に見舞に持って行くんだと云って、袋を抱えて帰っていった。》と、岡野が出る。これは岡野栄泉堂で、栗饅頭が有名な和菓子屋。当時本郷三丁目11番地にあったようだ。
『三四郎』には、淀見軒や青木堂も出てくる。野々宮宗八に続いて三四郎は昨日ポンチ画をかいた男(佐々木与次郎)に連れられて、本郷三丁目交差点界隈を知るようになる。《昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日ポンチ画をかいた男が来て、おいおいと云いながら、本郷の通りの淀見軒と云う所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒と云う所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ画をかいた男はこの建築の表を指して、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものと始めて悟った。帰り路に青木堂も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである》。この淀見軒は当時本郷四丁目28番地(現、本郷五丁目)にあった。本郷通りに面して、三角堂の4軒北側にあった。水菓子(果物)屋だが、裏で西洋料理屋をしていて、ライスカレーが名物だった。他にビフテキもあった。また、青木堂は本郷通りを挟んで、淀見軒の斜め向かいの方向、当時本郷五丁目3番地(現、本郷五丁目24番)にあった。1階では洋酒・煙草・食料品などを販売し、2階は喫茶店になっていた。
赤門の並びなので、三四郎は青木堂を教わった後、与次郎とともに、赤門を這入って、二人で池の周囲を散歩しているが、後日、三四郎は図書館を出て、一人で青木堂へ入った。その様子は、《這入って見ると客が二組あって、いずれも学生であったが、向うの隅にたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎が不図その横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃を沢山食った人の様である。(略)三四郎は凝とその横顔を眺めていたが、突然手杯にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。》と描かれている。
(つづく)