館長の部屋
エッセイ

【文豪の東京――芥川龍之介】

第6回『本所両国』連載③
                    
錦糸堀
船橋屋から蔵前橋通りを少し西へ行くと、横十間川に架かる天神橋。ここで二人は円タクに乗るが、一帯は《もう今昔の変化を云々するのにも退屈した》という状態。円タクは精工舎を過ぎた辺りで左折し、現在の四ツ目通りにあたる道を南下し、総武線を越えて右折。右側一帯が本所駅(錦糸町駅)構内。大横川にぶつかるところで左折すると、まもなく龍之介の母校第三中学校(現、両国高校)である。龍之介が通っていた頃は鼠色のペンキを塗った二階建の木造校舎だったが、震災で焼失して、鉄筋コンクリートに変っている。この時、新校舎は未完成で、龍之介が亡くなって4か月ほど経った11月に落成記念をおこなっている。
龍之介は5年間通った第三中学校時代の思い出を綴っている。《僕はそこへ通っているうちに英語や数学を覚えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。こういうのは僕の先生たちや友だちの悪口をいっているのではない。僕等人間といううちには勿論僕のこともはいっているのである》と書き出した龍之介は、友達をいじめて生き埋めにしたこと、剣道部の山田治郎吉先生のことなど書いている。と言う間に、学校の前を通り過ぎ、大横川に架かる江東橋を渡り、本所緑町へ。

緑町、亀沢町
《江東橋を渡った向うもやはりバラックばかりである》。震災の後、この地域はまだ復興途上というか、仮設のままであったことがよくわかる。龍之介は円タクの窓越しに、赤さびをふいたトタン屋根だのペンキ塗りの板目だのを見ながら、明治43年(1910年)の水害のことを思い出していた。この水害は水害常襲地のこのあたりでも未曾有のもので、龍之介の家は床下浸水だったが、緑町2丁目は膝くらい。見舞ったSという友達と、他の友達のところへ見舞いに行く途中、Sが溝に落ち、あっという間に首までつかって、龍之介が笑ってしまったという話しも添えられている。江東橋界隈の人々は第三中学校へ避難したとか。
現在の京葉道路のルートを走る円タクは寿座の前を通り過ぎる。歌舞伎の小劇場で1945年の2月に閉座、3月10日の東京大空襲で焼失した。ライオンズプラザ両国(緑2丁目16-2)の一角に記念の標示がある。少し行くと、二之橋へ通じる二つ目通り(現、清澄通り)。
龍之介は《二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だった》と書いているが、お竹蔵と勘違いしてしまったのか。実際の津軽様は先ほどの寿座が南端、現在の京葉道路から、北は南割下水(現在は北斎通り)まで。明治になって長方形の屋敷地は分譲されたが、「公園」という地名がつけられた。現在、総武線から北が亀沢町2丁目1・2,6~8で、緑町公園(敷地内に、すみだ北斎美術館)と野見宿禰神社があり、南は緑町2丁目16~20、23・24。津軽屋敷の太鼓は本所七不思議のひとつ。龍之介は父が両国橋で若侍に出会い、いっしょに歩いて来たが、自分の家を通り越し、気がついたら津軽様の溝に転げていたという話しを挿入している。津軽様の屋敷の周りには掘割はない。刀がさかさまに溝に立ったというから、今の側溝程度の溝が屋敷を取り巻いていたのであろう。父は狐に化かされたと信じていたという。このようなことが真面目に捉えられるところが、本所であり、七不思議も生まれたのであろう。
《僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った》というから、龍之介たちは現在の緑1丁目交差点で円タクを降り、京葉道路を両国橋にむかって歩いたことになる。菓子屋の寿徳庵は昔のように繁昌しているようだが、質屋は安田銀行に変っている。龍之介は友達だった質屋の「利いちゃん」の話しを挿入しているが、さすが大相撲の両国である。

相生町
二つ目通り、現在の清澄通りを横切ると、いよいよ相生町。元町通り、現在の京葉道路を両国橋にむかって少し行くと、左側に本所警察署がある。《本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に変っている。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦の建物だった》と書いてあるが、当時は本所相生警察署が正式名称で、大震災で署の建物が焼失しただけでなく、人命救助にあたって署長以下34名が殉職している。建物は赤煉瓦からコンクリートに変わり、龍之介の死後、1929年に本所両国警察署に改称された。東京大空襲で今度は6名が殉職し、その年、名称が本所警察署に戻った。長らく本所相生町10番地(現、両国4丁目29-5)にあった本所警察署は2013年、横川4丁目8-9に移転した。
龍之介が子ども時代を過ごした地域だけに、警察署長の息子も、署の隣にある蝙蝠傘屋の木島さん、その他、大勢の友達がいたが、《もう全然僕等とは縁のない暮しをしているだろう》と記して、《僕は四、五年前の簡閲点呼に大紙屋の岡本さんと一緒になった》と続けて、土蔵造りの紙屋を思い出している。簡閲点呼とは、一定期間ごとに在郷軍人の本務を査閲点検し教導する集まりである。
この大紙屋が馬車通りにあったことから、話題は馬車通りへ。馬車通りというのは、堅川の北側に並行して、一之橋から四之橋あたりへむかう、総武線でいうと、両国から錦糸町の区間にほぼ一致する。井筒部屋・大島部屋が面しており、大相撲の両国らしい。
ガタ馬車が通り、雨が降ればぬかるむ。魚善という肴屋、樋口さんという門構えの医者、その近所に住んでいたピストル強盗の清水定吉、このようなことを思い出しながら、《明治時代もあらゆる時代のように何人かの犯罪的天才を造りだした。ピストル強盗も稲妻強盗や五寸釘の虎吉と一しょにこういう天才たちの一人だったであろう》と書いた龍之介は、こうした「大悪僧」を壮士芝居に見て、夜もろくろく眠られなかったと記している。
《僕等はいつか埃の色をした国技館の前へ通りかかった》と、龍之介たちは当時、回向院の東隣にあった国技館までやって来た。元町通り(現、京葉通り)と馬車通りに挟まれた位置にある。震災で焼失したが、翌年には早くも再建し、夏場所を開催している。龍之介はここで、《僕の通っていた江東小学校は丁度ここに建っていたものである。現に残っている大銀杏も江東小学校の運動場の隅に――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた》と、私にとっては意外なことを書いている。現在の両国小学校は相生小学校や江東小学校を引き継いだもので、明治期から現在地に建っている。龍之介の母校として龍之介の文学碑もある。この地が龍之介の通ったところであると、少なくとも私は承知してきた。ところが1898年に入学した当時、江東小学校は回向院の東隣にあり、その後、常設の相撲小屋を建設するため、学校は現在の両国小学校の位置へ移転し、1903年に常設館の建設が始まり、後に国技館と命名された。新旧江東小学校の間に吉良邸があった。なお、「江東(こうとう)小学校」は「高等(こうとう)小学校」と同音で、紛らわしいため、龍之介が卒業した後のことになるが、「江東(えひがし)小学校」と呼称が変えられている。
龍之介はこの取材をする少し前、小学校時代のT先生を訪ねていた。当時の校長は震災で亡くなったが、女生徒に裁縫を教えていた先生も、割下水(南割下水、現在の北斎通り)に近い京極子爵家の溝の中で死んでいたことがわかった。着物は腐れ、体は骨になっていたが、預金帳だけは残っていたので誰か分かったという。ついでながら、旧但馬豊岡藩主の家柄になる京極子爵家は亀沢町2丁目にあり、当主京極高義は震災時、むかいの陸軍被服廠跡地に避難しようとして死去。母・妻・二女・三女・二男・三男も亡くなった。二女孝子は14歳、三男高弘は6歳だった。長女智子、長男高光の二人が残された。この界隈の惨状が知られる。
龍之介は先生から受けた体罰をつぎつぎ書いているが、喜劇もあったとして、大島敏夫という親友がちゃんと机に向ったまま、いつかうんこをしていたのは喜劇中の喜劇としている。このような事件は忘れられないようで、私も小学校3年の時に教室でうんこをしてしまった級友の名前は今でも覚えている。
龍之介は小学校の思い出に続けて、《しかしこの大島敏夫も――花や歌を愛していた江東小学校の秀才も二十前後に故人になっている……》と記している。
龍之介たちは義士の討ち入り以来名高い回向院を見るために、国技館の横を曲って行ったが、《それもここへ来る前にひそかに僕の予期していたようにすっかり昔に変っていた》。

回向院
いよいよ回向院。震災で焼失して、まだバラックである。龍之介は真っ先に鼠小僧の墓へ行った。乞食が3,4人。明暦の大火による焼死者を葬ったのが起源だけに、その後の大火や震災で亡くなった人たちを葬るようになり、人間はもちろん、犬、猫をはじめ、さまざまな生き物を供養する、特色ある寺院になっていった。盗人の墓があるのも、命の平等ということであろうか。龍之介が驚いたのは、膃肭臍の供養塔。これは1926年に国技館有志一同によって建立されたもので、「つい、去年」であるから、龍之介が驚いたのも無理はないが、毛皮などを得るため膃肭臍を捕獲してきた団体が建立したのなら、話はわかりやすいが、国技館有志一同というのは、納得しがたい。そのようなわけで、膃肭臍市作という四股名の明治期の相撲取り(三段目)にちなんだものとも言われている。
盗人の墓を盗むとは何事ぞ。けれども鼠小僧の墓石は欠いて持って行く人が後を絶たなかったようで、墓の前に「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた小さな紙札がはりつけてあることを龍之介は記している。
龍之介は国技館の後ろにある京伝の墓を尋ねて行ったが、《この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちと一しょに度たびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである》と、思い出を綴っているが、同じ『大東京繁昌記』に泉鏡花は、連れが悪乗りして、《河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます》と言い出して、鏡花が《「これ、芥川さんに聞こえるよ」》と真面目にたしなめたと書いている。鏡花の連れは龍之介が書いた新聞記事を読んでいたであろうから、それを思い出して言ったのであろう。鏡花の『深川』連載中に龍之介が自死しており、急遽挿入された文章とみて良いだろう。
墓地は震災に遭い、《墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすざましい火の痕は残っている》。その中で、京伝や京山の墓は変わっていないが、龍之介は《ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった》と書いている。震災や空襲、原爆投下などで残った樹木はしばしば、生命の力強さの象徴として捉えられるが、龍之介は「哀れ」と表現している。
龍之介たちは回向院の表門を出て、左手へ元町通りを進み、まもなく左折して一の橋通りを南下して一之橋へ。途中に坊主軍鶏がバラックのたたずまい。現在も「ぼうず志ゃも」として同じ場所(両国1丁目9-7)に営業している。
一之橋の辺りは大正時代には幾分か広重らしい画趣をもっていたが、今日ではそんな景色は残っていないと龍之介。震災が風情を一変させてしまったのであろう。そこに偶然、「泰ちゃん」の家の前を通りかかった。小学校時代、龍之介も、二、三年前に故人になった清水昌彦君の作文も大抵美文だったが、下駄屋「伊勢甚」の息子木村泰助君の『虹』という作文は生き生きした口語文で、先生はこれを一番にした。ひそかに自分の作文を一番と信じていた龍之介は、しかし『虹』という作文を聞いて敗北を認め、《僕を動かした文章は東西にわたって少なくはない。しかしまず僕を動かしたのはこの「泰ちゃん」の作文である》と記して、《若し「泰ちゃん」も僕のようにペンを執っていたとすれば「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を読んでいたかも知れない》と続けている。
龍之介は店の中に「泰ちゃん」のお母さんらしい人が座っているのを見つけたが、泰助君は生憎どこにも見えなかった。

方丈記
この文章は付録のようだが、龍之介の父(養父の芥川道章)・母(養母のトモ)、伯母(実母の妹にあたる芥川フキ)、妻(旧姓塚本文)に龍之介を加えた会話である。まもなく龍之介、翌年には道章が亡くなるのであるから、じつに貴重な会話である。

僕「きょう本所へ行って来ましたよ。」
父「本所もすっかり変ったな。」
母「うちの近所はどうなっているえ?」
僕「どうなっているって……釣竿屋の石井さんにうちを売ったでしょう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋もあった。……」
伯母「あすこに銭湯もあったでしょう。」
僕「今でも常盤湯という銭湯はありますよ。」
伯母「常盤湯といったかしら?」

かつて住んでいた本所小泉町あたりが震災でどのようになってしまったのか、みんなとても関心があったのだろう。田端はそれほどでもなかったが、本所両国一帯は甚大な被害が発生した地域のひとつである。芥川家は両国橋へ通じる元町通りに面していた。
ところで、銭湯。名前が出て来る「常盤湯」は常盤2丁目3に現存している。江戸時代から続く銭湯である。けれども小名木川に近く、芥川家からは歩いて15分から20分以上かかる。銭湯が多い時代だから、当然、もっと近くにあったはずで、常盤湯ではなかっただろう。龍之介は老舗の銭湯を思い出したが、伯母はそのような名前だったかなあと、首をかしげている様子が伝わってくる。

妻「あたしのいた辺も変ったでしょうね?」
僕「変らないのは石河岸だけだよ。」
妻「あすこにあった、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまったさ。」

文は龍之介の三中時代の友人山本喜誉司の姪であるから、文にとっても本所は懐かしい地域である。と言いたいところだが、ここで突然「石河岸」が登場する。龍之介は『石河岸の妖婆』という作品を書いているが、石河岸は京橋区富島町、亀島川に沿ったところで、霊岸橋が架かっている。本所ではない。

母「お前のまだ小さかった頃には電車も通っていなかったんだからね。」
僕「『榛の木馬場』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変ってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」

両国界隈に路面電車が走るようになったのは、龍之介が小学生の1903~05年頃である。榛の木馬場は榛稲荷神社にあり、亀沢町1丁目24(現、両国4丁目34)。芥川家東300mほどのところ。北斎が出たためか、割下水(南割下水、現、北斎通り)も登場したが、女生徒に裁縫を教えていた先生が震災で、割下水に近い京極子爵家の溝の中で死んでいたことは先に紹介した。

妻「お鶴さんの家はどうなったでしょう?」
僕「お鶴さん?ああ、あの藍問屋の娘さんか。」
妻「ええ、兄さんの好きだった人。」
僕「あの家はどうだったかな。兄さんのためにも見て来るんだったっけ。尤も前に通ったんだけれども。」

兄というのは、文の叔父にあたる山本喜誉司のことであろう。
会話は続き、あの時分は蝙蝠も沢山飛んでいたと言う伯母に、今は雀さえ飛んでいない、無常を感じるという龍之介。妻は子供達に亀戸天神の太鼓橋を見せてやりたいと言うが、父は亀戸天神から梅を思い出したのであろう。「臥竜梅はもうなくなっただろうな?」と訊くのに、龍之介は「ええ、あれはもうとうに……さあ、これから驚いたということを十五回だけ書かなければならない。」と答える。妻は「驚いた、驚いたと書いていれば善いのに。」と笑う。
龍之介は「(略)知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。」と言うに、母は『お文様』のようじゃないかと言葉を入れる。真宗の信者でもないのに、「お文」を知っていたことになる。なかなかの教養人に思える。

僕「これですか?これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちょっと偉かった鴨の長明という人の書いた本ですよ。」

こうして『本所両国』の連載は終わる。行く川の流れは大川。河童は何処から来て、何処へ流れていったのか。『方丈記』などあることも知らず、今日も大川の水は流れ行く。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第5回『本所両国』連載②
                    
一銭蒸汽
龍之介たちは少し引き返して、横網の浮き桟橋へ降りて川蒸汽に乗った。おそらく「百本杭」の近くであろう。かつては「一銭蒸汽」と呼ばれたが、すでに五銭になっている。それでも何区乗っても均一料金であることは変わらない。浮き桟橋の屋根も震災で焼失したであろうが、復旧し、明治時代と変わらぬ風情をもっている。
大川は変わらず濁った水が流れているが、起重機をもたげた浚渫船の先にある対岸は、「首尾の松」や「一番堀」「二番堀」でなく、五大力・高瀬舟・伝馬・荷足・田舟といった大小の和船も流転の力に押し流されて、すでに大川を行き交うのは小蒸汽や達磨船である。ここで龍之介は「沅湘日夜東に流れて去る」という中国の詩を思い出す。
龍之介は《この浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。(略)唐桟柄の着物を着た男や銀杏返しに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった》と書く、そこへ久しぶりに見る五大力が上って来る。
五大力は艫が高く、鉢巻をした船頭が一丈余ある櫓を押し、お上さんも負けずに棹を差している。四、五歳の男の子も乗っている。龍之介は《こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない》と書いて、《幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた》と続けている。
いよいよ両国橋をくぐって川蒸汽がやって来て、浮き桟橋に横着けになる。何度も乗った、明治時代から変わらぬ船で、満員。立っている客もいる。船は静かに動き出すが、甲高い声を出して、絵葉書や雑誌を売る商人も昔と変っていない。

乗り継ぎ「一銭蒸汽」
龍之介は小学生の頃、伯母といっしょに川蒸汽に乗った時、伯母が膝に載せている長命寺の桜餅を男女の客から「糞臭い」と言われたことを思い出す。龍之介は《勿論今でも昔のように評判の善いことは確かである》と「糞臭い」を否定しながら、《饀や皮にあった野趣だけはいつか失われてしまった。……》と記している。美味しいものを紹介されると、つい食べたくなる。長命寺は向島にあり、大川に架かる桜橋の少し上流。寺の裏手、大川を臨む位置にあり、隣りは墨堤植桜の碑。創業300年の老舗で、桜餅の桜葉は伊豆松崎産のオオシマザクラ。墨堤通りを越えると言問団子の店がある。こちらは江戸末期創業で三色団子が有名である。
話しは向島まで行ってしまったが、川蒸汽は蔵前橋をくぐり、厩橋へ。もちろん蔵前橋は工事中で未完成であった。川蒸汽がもう一艘。それにお客や芸者を乗せたモオター・ボート。龍之介は自分が小学校の時代、大川に浪を立てるのは「一銭蒸汽」だけだったが、《しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう》と記している。
そして、ここで河童の登場である。《僕は船端に立ったまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重も描いていた河童のことを思い出した》。
龍之介は維新前後には大根河岸の川にさえ河童が出没したとか、河童が実際にいるかのような話しを書きながら、こういう話しを事実とは思っていないと続けている。
川蒸汽は厩橋をくぐりぬける。薄暗い橋の下だけは浪の色も蒼んでいる。昔は磯臭い匂いがしたが、今日の大川の水は何の匂いもなく、あるとすれば、唯泥臭い匂い。連れが「あの橋は今度出来る駒形橋ですね?」と龍之介に尋ねる。駒形橋も蔵前橋と並んで、関東大震災を契機に架けられた橋で、この『本所両国』の連載が終わって一か月ほど経った1927年6月25日に開通した。龍之介の死、一か月前である。
ところで、連れは「駒形橋」を「コマガタばし」と発音したようで、これを聞いた龍之介は、《文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである》と記している。龍之介にとって、「駒形」は「コマカタ」と澄んだ音でなければならなかった。

柳島
川蒸汽を下りて、吾妻橋の袂から円タクに乗って柳島へ。当時、路面電車が走る「電車道」で、現在の浅草通りにあたり、左手に東京スカイツリーがそびえる。龍之介は本所と言ってもこの辺りはあまり来たことがなかったようで、小学生の時、父と葬式に参列した帰り、維新前後の「御朱引外」の面影をとどめた様子を話してもらったと、草原や田んぼ、早桶が自分からごろりところげることなど書いている。そして、《今はどこを見ても、ただ電柱やバラックの押し合いへし合いしているだけである》と。
龍之介らは「橋本」の前で円タクを下りた。ここは北十間川に横十間川がT字に交わるところで、横十間川に柳島橋が架かり、西側袂に法性寺、道をはさんで向かい側に「橋本」がある。川魚料理で有名な老舗の料亭「橋本」(柳島橋の袂にあるところから名付けられたのであろう)は、焼けずに残っていたが、すでに食堂に変っており、龍之介は《すりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった》と書いている。
龍之介は《掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている》と記しているので、柳橋を渡ったようで、この後、掘割、すなわち横十間川に沿って南下し、亀戸天神をめざす。この横十間川は龍之介たちが歩いた当時は、東京市と南葛飾郡の境界で、柳島橋を渡ると南葛飾郡亀戸町。東京市に合併されたのは1932年で、城東区の一部になった(現、江東区)。
法性寺は柳島の「妙見様」として知られ、葛飾北斎が信仰していたことでも有名。龍之介の見た妙見様は、震災で樹木もやられ、掘割の沿って見られた柳もなくなっていたようだ。龍之介は中学時代に蕪村の句(「君行くや柳緑に路長し」)を読んだ時、この柳を思い出したと記している。
ところが《僕等の歩いているのは有田ドラッグや愛聖館の並んだせせこましいなりににぎやかな往来》である。それに続けて龍之介は《近頃私娼の多いとかいうのも恐らくはこの往来の裏あたりであろう》と記している。まさに、亀戸天神裏の「城東花街」で、現在の亀戸3丁目11~25番の一帯である。この花街は1905年に開かれたものであるが、関東大震災で焼け出された浅草あたりの銘酒屋(めいしや)が大挙して流れ込み、私娼街が形成されていた。同様に形成された玉ノ井と並ぶ東京の二大娼婦街。
この辺は永井荷風に任せておけば良いだろうが、龍之介は浅草千束町にまだ私娼の多かった頃の夜の景色を覚えているとして、《それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えているために殆ど荘厳な気のするものだった》が、今、見ている亀戸天神裏の往来は《どちらへ抜けてもボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない》と続けている。
「城東花街」は一大カフェー街に変貌し、私娼も増え、周辺に増加した工場に勤める労働者たちの遊び場として繁盛し、戦後も赤線地帯として、1958年に売春防止法が制定されるまで「大人の遊園地」と化してきた。亀戸天神すぐ裏にあたる亀戸3丁目19~25番辺りが、当時の地図では「遊園地」と表示されている。

萩寺あたり
「萩寺あたり」という項に入ったにもかかわらず、龍之介は娼婦街を去りがたいのか、《僕は碌でもないことを考えながらふと愛聖館の掲示板を見上げた》と書き出して、《「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらっしゃいます。」》という掲示板の文章を紹介している。ここで龍之介は《産児制限論者は勿論、現世の人々はこういう言葉に微笑しない訳にはゆかないであろう。人口過剰に苦しんでいる僕等は(略)寧ろ全能の主の憎しみの証拠とさえ思われるであろう》と続けたが、本所の場末に小学生の教育をしている旧友が、《少なくともその界隈に住んでいる人々は子供の数の多い家ほど却って暮しも楽》で、それは10か11になるとそれぞれ子供なりに一日の賃金を稼いでくるからで、これに対し龍之介は、《子供自身には仕合せかどうか》、多少の疑問があると記している。
気にかかる「愛聖館」と「有田ドラッグ」であるが、調べても情報が得られない。「愛聖館」はキリスト教の慈善団体の活動拠点だろうか。娼婦たちの救済・支援、あるいは廃娼運動をおこなっていたかもしれない。ただ、掲示板の文言は性交渉を推奨しているとも捉えられる。子どもを産むという行為が「聖なるもの」であるとともに「俗なるものでもある」。江戸時代、有名寺社に隣接して岡場所が形成されたことを思えば、まさに「清濁併せ持つ」。亀戸天神に隣接する城東花街も例外ではない。龍之介はこのようなところに視点をおいて、文章を書いているように思える。古来、神殿には「神殿娼婦」なるものがいたという。「有田ドラッグ」は花街にあって、梅毒の薬「毒滅」(森下仁丹)など「花柳病」と言われた病気の治療薬も販売していたのであろう。「愛聖館」「有田ドラッグ」はまさに花街を象徴するものとして、龍之介には映ったと思われる。
《それから僕等は通りがかりにちょっと萩寺を見物した》。「おいおい」である。龍之介たちは亀戸天神すぐ裏(北側)にある「城東花街」まで来ている。萩寺は柳島橋と城東花街の中間くらいにあり、すでに通り過ぎている。順序をひっくり返してまでも花街を書きたかったのか。
龍眼寺は江戸初期に諸国の萩を集めて、いつしか「萩寺」として有名になった。震災で焼けずにすんだが、龍之介たちが訪れた時は萩も4~5株。落合直文の石碑前の古池の水も渇れ、哀れな状況に。
龍之介は萩寺の門を出ながら、本所猿江にあった芥川家菩提寺(慈眼寺)のことを思い出している。慈眼寺は現在の猿江恩賜公園南端地区にあり、1907年と1910年の水害で大きな被害を受け、1912年に巣鴨にある染井霊園の西側に移転した。龍之介が子どもの頃の思い出として書いている、浦里・時次郎の比翼塚、司馬江漢や小林平四郎の墓も、いっしょに移転した。龍之介はそれを知らなかったようで、《かれ等の墓も寺と一しょに定めし同じ土地に移転しているであろう》と書いている。そして、龍之介がこの文章を書いてそれほど時が経たないうちに、龍之介もまたこの慈眼寺の墓に葬られることになった。田端の芥川家から自転車で気軽に行くことができる距離で、ともに1910年の東京大水害を契機に高台へ移転したわけだが、うまい具合に比較的近い。慈眼寺には谷崎潤一郎の墓(分骨)もある。谷崎は龍之介より6歳上だが、亡くなったのは38年遅い。
龍之介らは萩寺の先にある電柱(?)に「亀戸天神近道」というペンキ塗りの道標を頼りに、その横町を曲り、《待合やカフェの軒を並べた、狭苦しい往来を》歩いていった。ここが亀戸天神裏の「城東花街」で、この頃、待合が80軒ほど、震災後転入してきたカフェが100軒くらいあったようで、龍之介の文章はそのようすを表しているが、どうしてここで愛聖館や有田ドラッグのことを書かなかったのか、疑問が残る。
近いはずが天神様にたどり着くことができず、道端でメリンスの袂を翻しながらゴム毬をついている女の子に、「天神様へはどう行きますか?」と訊いてみたが、「あっち」と答えた後に、「みんな天神様のことばかり訊くのね」。この言葉にかなりガチンと来た龍之介だが、自分も小学生の時、生薬屋へ「半紙ください」と言った思い出を記している。京都の子は「金閣寺はどう行きますか?」とか「清水寺はどう行きますか?」と観光客に訊かれてうんざりしているだろうが、この女の子、サインの一枚ももらっておけば良かったものを。

天神様
《僕等は門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へたどりついた》というから、「城東花街」が亀戸天神にぴったり隣接していることがわかる。龍之介たちは花街を抜けて、北西側にある門から入ったのであろう。広場で外套を着た男が法律書を売り、背広を着た男が最新化学応用の目薬を売っている。
龍之介の小学時代、広場はなかったが、拝殿も筆塚や石の牛は変わっていない。筆塚に何本も筆を納めたけれど、一向に字は上達しないと龍之介。太鼓橋も掛け茶屋や藤棚も変わっていない。亀戸天神はもちろん梅の名所だが、何と言っても藤の名所として知られ、菊も有名。太鼓橋はこんなに小さかったのかと龍之介。定番のお土産である張り子の亀の子も売っているが、新たにカルシウム煎餅も加わったようだ。
亀戸天神へ来たら、船橋屋の葛餅。境内にあったはずの船橋屋がないので、水を撒いている女性に尋ね、花柳病の医院の前を通って、到着。現在も本店が営業している亀戸3丁目2-13である。1盆10銭の葛餅を食べる。龍之介は中学の時、江東梅園へ行った帰りに船橋屋の葛餅は1盆3銭だった。
龍之介は江東梅園や臥竜梅はもう滅びてしまっただろうと記している。江東梅園は東武亀戸線小村井駅南西の小村井香取神社一帯にあった。臥竜梅は福神橋南にある亀戸香取神社の西方一帯にあった梅園で、現在、梅屋敷伏見稲荷神社などに名をとどめている。龍之介は《水田や榛の木のあった亀戸はこういう梅の名所だった為に南画らしい趣を具えていた。今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べている……》と書いているが、大正期にこの辺りは、都市化が進行し、東京の近郊農村から都市の一部に変化していたのである。
【文豪の東京――芥川龍之介】
『本所両国』連載にあたって
 芥川龍之介が書いた『本所両国』は、墨田区の南半部に江東区の一部を加えた地域を実際に回っているため、内容も豊富で、私が書きたいことも多い。一度に掲載がむずかしいため、連載することにした。龍之介の子どもの頃の本所界隈と関東大震災後の本所界隈が重ねられており、そこへ現在を重ね合わせていくと、地域が重層的に見えてきて、愛着が湧いてくる。そしてまた、龍之介の素顔も見えてくるような気がする。私は『本所両国』を読みながら、新型コロナウイルス感染症の流行が収束の方向へむかってきたら、同じコースをたどってみたいと思うようになった。

第4回『本所両国』連載①
                    
社命を受けて
 《僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った》。これは『本所両国』の書き出しである。関東大震災からの東京の復興を宣伝しようと、「東京日日新聞」が企画した「大東京繁昌記」の記事を書けというのが、芥川龍之介に下された社命である。この社命は、泉鏡花・徳田秋聲をはじめ、十数人の作家にくだっている。
 龍之介はO君と取材に出かけた。二人は両国橋を渡って本所区に入り、隅田川沿いに吾妻橋まで行き、業平、柳島、錦糸町を経て、両国へ戻っている。本所区を一周したことになるが、題名を『本所』とせず、『本所両国』としたことについて、《なぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである》と記している。両国で育った龍之介にとって、「両国」は特別な響きをもっていたのであろう。本所に埋没させるわけにいかなかった。その結果、《ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることに》なってしまった。
 こうして、芥川龍之介の『本所両国』は1927年5月6日から22日まで、「東京日日新聞」に連載されたが、社命によって、龍之介は人生の最期に「ふるさと」を巡る機会を得たことになる。

大溝(おおどぶ)
 両国橋を渡りながら、龍之介は対岸に立ち並んだ無数のバラックを眺めた時、著しい変わりように愕然として、そこにかつてあった大溝や、大溝で釣りをしていた叔父のことを思い出す。
 現在、両国駅や国技館、江戸東京博物館、旧安田庭園、横網町公園などがある一帯は、龍之介の中学頃には両国停車場や陸軍被服廠があり、「大溝」と呼ばれる堀に囲まれていた。龍之介が幼少期を過ごした家から百メートルも行けば「大溝」があった。
この一帯、江戸時代には「御竹蔵」という貯木場があったが、後に「米蔵」に変った。大川をはさんで対岸にも大規模な御蔵がある。明治になって「御竹蔵」はなくなったが、龍之介が小学生の頃には雑木林や竹藪が残っていた。
 龍之介が子どもの頃、本所は工業地域ではなかった。日本橋や京橋のように大商店が並んだところはなく、両国から亀沢町に至る元町通りや、二之橋から亀沢町に至る二つ目通りが、わずかに繁華なところであった。
 
両国
 龍之介は両国橋の鉄橋は震災前と変わらず、ただ鉄の欄干の一部がみすぼらしい木造に変ったと記している。関東大震災に両国橋が耐えた証でもあるが、彼は小学時代にはまだ残っていた狭い木造の両国橋に愛惜を感じているという。
 木造の両国橋は龍之介が小学時代に架けられた鉄橋より下流にあり、彼は橋を渡りながら、「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたことを記している。
 両国橋の袂に着くと、大山巌の書による表忠碑が変わらず建っている。龍之介は両国広小路の絵草紙屋で石版刷の戦争の絵を時々買ったことを思い出し、日露戦争で知人が鉄条網にかかって戦死したことを思い出し、今では誰でも知っている鉄条網という言葉は、当時は新しい言葉であったと記して、《僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった》と続けている。二年前の1925年に治安維持法が成立しているが、まだこのような文章を新聞に掲載しても許される状況にあったのだろうか。
 表忠碑のうしろに両国劇場という芝居小屋ができることになっていたが、薄汚いトタン葺きのバラックの外に何もないと書かれた後、《井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集まっていたらしい》と、突然、グルメ紹介に変る。
 漱石の『こころ』に出て来る、先生とKが食べた両国の軍鶏は「坊主軍鶏」か「かど家」であろう。いずれも江戸時代からの老舗である。

富士見の渡し
 龍之介たちは両国橋の袂から左折。「百本杭」があった方へむかっている。ここで突然、「伊達様」というのが出てくる。江戸切絵図を見ても、「伊達…」という文字は見当たらない。あるのは「藤堂和泉守」のお屋敷。どうもこれが「伊達様」らしいが、なぜ「藤堂様」でなくて、「伊達様」なのか。
 龍之介が幼稚園の頃、「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見物に行ったことが、「うんこ」をしてしまったというエピソードとともに記されている。和霊神社は伊達家宇和島藩(現、愛媛県)に起きた和霊騒動の祟りを鎮めるため創建されたもので、江戸においても「伊達様」の中にあって不思議はない。宇和郡は秀吉の時代、藤堂高虎(和泉守)が領主になり、宇和島城も高虎の築城による。江戸時代になって、藤堂家は伊勢津藩を加増され、1614年には伊達秀宗が宇和島藩の藩主になっている。藤堂・伊達家のこのようなつながりの中で、藤堂和泉守の江戸における屋敷にも和霊神社が置かれ、「伊達様」と呼ばれたのではないだろうか。
 明治末の地図には、藤堂和泉守屋敷跡にあたる本所横網町1丁目5番地の広い区画がそのまま残っているが、その後、細分化されたのだろう。「伊達様」の広い区画はすでになく、震災の傷跡が残っていたようだ。現在は両国1丁目の一角になっている。
「伊達様」とともに、「富士見の渡し」がないことも、龍之介に衝撃を与えた。しかも三十前後の男に聞いても、そもそも「富士見の渡し」という名前も、存在したことすら知らない。龍之介より少し若い程度だから、龍之介が知っていれば、当然、その男が知っていてもおかしくないはずだが。
龍之介は、《「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。》と書いている。ところが明治末の地図を見ると、「百本杭」辺りから出る富士見の渡しは、柳橋花街の大川端にある代地河岸の北端の瓦町を結んでおり、お竹倉の出入口に架かる御蔵橋から明治病院裏手の掘割に至る渡しは「御蔵の渡し」と呼ばれている。この二つの渡しは接近しており、大正期を通じて、利用状況の変化によって、航路も名称も混在してしまったのではないだろうか。男は「富士見の渡し」は知らなくても、「御蔵の渡し」は知っていたかもしれない。
 龍之介は「富士見の渡し」で、三遊派の「五りん」のお上さんだという親戚へ行ったというところから、今村次郎という講談の速記者の話しに移り、寄席の話しへと。龍之介は日本橋区米沢町(両国橋を渡って、すぐ左折した一帯で、薬研堀町に隣接)にあった立花家にも行ったが、本所小泉町に隣接する本所相生町にあった広瀬は近いこともあって、よく行った。
 子ども時代のことを思い出しているうちに、龍之介は両国駅の引込線をとどめた、三尺に足りない草土手を見つけた。この引込線はお竹倉の南側にある掘割に沿って、御蔵橋まで伸びており、現在は江戸東京博物館や国技館が建っている。
廃線跡というのは、まさに「国亡びて山河あり」の感がする。

お竹倉
 龍之介は震災で亡くなったり、かろうじて助かった親戚知人のことを思い出している。そして、自分もこの本所に住んでいれば、同じ非業の最期を遂げていたかもしれないと、高い褐色の本所会館を眺めながら、連れのO君と話し合っている。
《「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」「兎に角東京中でも被服廠跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である》。元町というのは、回向院とその西側、両国橋にかけての町である。
「お竹倉」の跡地は陸軍被服廠になり、現在は東京都慰霊堂や復興記念館が建っている。「お竹倉」は総武鉄道会社の所有地になっていたが、龍之介は鉄道会社の社長の次男と友達だったため、みだりに立ち入ることを禁じられた「お竹倉」の中へ遊びに行くことができた。そこには維新前と変わらず、雑木林や竹藪がひろがっていた。
龍之介は総武鉄道の工事の始まったのは自分の小学時代と記して、それ以前の「お竹倉」は昼間でさえ、「本所の七不思議」を思い出さざるを得なかったとしている。
「本所の七不思議」とは、「置いてけ堀」「狸囃子(馬鹿ばやし)」「送り提灯」「落葉無き椎の木」「津軽屋敷の太鼓」「片葉の葦」「消えずの行灯(燈無蕎麦)」「送り拍子木」「足洗い屋敷」。以上九つの中から七つ選べば良いという、何とも都合の良い話で、話の内容も諸説あり。おそらく時代とともに、語る人とともに、いろいろ変化したのであろう。龍之介は「置いてけ堀」や「片葉の葦」はどこかにあるものと信じ、「狸囃子(馬鹿ばやし)」を聞いたという。

大川端
《本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗岩を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた》。
震災前の1922年、安田邸敷地は東京市に寄贈されたが、震災で安田邸は壊滅的な打撃を受けた。邸跡には1926年、鉄筋コンクリート造4階建ての本所会館(本所公会堂)が建てられた。ドームをもった劇場建築物である。龍之介は明治のルネサンス式に対して、大正のセセッション式を浮き立たせている。庭園も復旧し、安田庭園として1927年に開園した。
本所会館は1941年に両国公会堂と改称され、戦災で焼け残り、その後も使用されたが、老朽化が進み、2015年に解体され、2018年、刀剣博物館が開館した。
龍之介は震災からの復興工事をいくつか描いているが、本所会館の隣に建設中の同愛記念病院についても、《高い鉄の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった》と記している。
同愛記念病院は関東大震災に際し、当時のウッズ駐日アメリカ大使の本国への報告にもとづき、クーリッジ大統領が動き、アメリカ赤十字社が中心となって救援金品を募集し、集まった義捐金の一部を使って、日本政府が震災中心地域に救援事業を行う病院建設を決し、死者3万人以上出し、最も悲惨をきわめた陸軍被服廠に隣接する現在地に建設されることになり、1929年6月15日から診療を開始。無料・低額診療を基本方針として、名誉会長を駐日アメリカ大使が務めた。
龍之介は完成を見ることなく亡くなったが、友人の犀星は1942年4月、胃潰瘍で20日ほど、同愛記念病院に入院した。
龍之介は子どもの頃、大川で泳いだこと、柳の木は一本もなくなってしまったが、名前も知らない一本の木が焼けずに残っており、その根元で子供を連れた婆さんが曇天の大川を眺めながら、二人で稲荷ずしを食べて話し合っていることなども記し、子どもの頃と違って本所が工業地になり、半裸体でシャベルを動かす工夫に、本所全体がこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じ、《今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない》と、本所という地域の移り変わりに思い致している。
龍之介はさらに、《「椎の木松浦」のあった昔は暫く問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったという外はない》と書いて、《如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう》と続けている。ここで出てくる「椎の木松浦」とは、大川端にあった大名松浦家の椎の木で、誰も葉っぱの落ちたのを見たことがなく、「落葉無き椎の木」として、「本所七不思議」のひとつに数えられている。お竹倉と大川の間にあり、本所会館のすぐそば。「横網」はお竹倉を含む一帯で、現在両国国技館が建っているので、「横綱」と間違える人がいる。昭和に入ったばかりの東京でこのような大きな変化を感じたのであるから、龍之介が現在の東京を見たら、何と表現するであろうか。
同愛記念病院の工事現場の向かいにも、工事現場らしい板囲いがある。泥濁りした大川の上へ長々と鉄橋がのびている。龍之介はここに橋が架けられることは知らなかった。《震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代わりに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……》と、表現した龍之介は「これは何という橋ですか?」と麦わら帽をかむった労働者の一人に尋ねる。《ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。「これですか?これは蔵前橋です。」》
震災をきっかけに大川に新しく架けられた橋のひとつ、蔵前橋はこの年(1927年)11月に完成した。この時、すでに龍之介はこの世にいなかった。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第3回 或阿呆の一生

 冒頭の久米正雄に宛てた文章は明らかに死を意識している。1927年6月20日。自死一か月前である。芥川龍之介という阿呆の一生を聞いてくれと言った感じである。
 『或阿呆の一生』は51の節で構成されているが、その中から、「東京」という視点に絞って拾い上げてみたい。

 3の家。本所小泉町の母の実家、つまり養父母の家であろう。伯母というのはフキのこと。この家、《地盤の緩い為に妙に傾いた二階だつた》。この地域の海抜は0~1メートル程度で、河川が運んできた土砂が60~70メートル堆積している、「沖積層」と呼ばれる中でも、きわめて軟弱な地盤である。洪水、高潮、地震などによって大きな被害を受けやすい地域である。龍之介が残してくれたこの記述。地理屋には極めて興味深い。
 4は東京という題がつけられているが、龍之介にとって東京はイコール隅田川(大川)である。彼は小蒸汽の窓から向島の桜を眺めていた。
この後、東京に関する直接的な描写はまったくみられず、48で青酸加里が登場し、49で《彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後》、《彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じ》、《彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった》。そしてとうとう51の敗北において、《彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は0.8のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた》と、終末の予行演習を感じさせていくのである。それでも彼はなお、一か月を生きた。
【文豪の東京――芥川龍之介】

第2回 浅草公園――或シナリオ――

 これは小説なのか、何なのか。『浅草公園』を見渡して、気になるのは1から78までの数字。それぞれ短文で綴られているが、全体が78にカットされている感じ。文学者の石割透『解説』によると、これは「レーゼ・シナリオ」と言って、「映画として製作、上映されることを意図しない映画の台本」、言い換えれば「映画台本風の小説」で、そう言われれば納得である。昭和モダンの真っただ中、映画隆盛の時期である。龍之介も映画人気にあやかって、新たなる挑戦をおこなったのであろう。四か月後に自死するとは、とても思われない。
 カット1は浅草仁王門。仁王門に吊った火の灯らない大提灯が次第に上り、雑踏した仲店(仲見世)が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。門の前に飛びかう無数の鳩。まさに映画の1シーン。情景が見えてくる。話は浅草寺のシンボル的存在の仁王門(宝蔵門)から始まる。
 2は雷門から縦に見た仲店で、正面はるかに仁王門。位置関係がよくわかる。雷門と言えば、今日では浅草の象徴。外国人にも人気のスポットである。雷門は幕末の1866年に焼失し、現在の雷門が1960年に再建されるまで、時おり仮設されたが、恒常的な門は存在しなかった。龍之介が描いた時も門のない状態だった。
 3で仲店に一二、三歳くらいの男の子と、その父親にあたる外套を着た男とが登場。7で少年は父親を見失い、父親と思った男ふたり、まったくの別人で、11で当てどもなく歩き始める。12は目金屋の店の飾り窓。人形の首は「お父さんを見付るには目金を買ってかけなさい」と話しかける。14から造花屋の飾り窓。17には「わたしの美しさを御覧なさい。」「だってお前は造花じゃないか?」
 18から煙草屋の飾り窓。煙の満ちた飾り窓の煙の中から三つの城。そのひとつの城門には、「この門に入るものは英雄となるべし。」吊り鐘だけ見える鐘楼の内部に続いて、24から射撃屋の店。少年が撃ったコルクの弾丸が西洋人の女の人形に中って倒れるが、後は中らない。少年は渋々銀貨を出し、店を出る。
 27では薄暗い中に四角いもの。電燈が灯って「公園六区」「夜警詰所」の文字。この場面から、日が暮れ、夜の情景に入ったようだ。暗くなってきたというのに、少年はまだ父親に会うことができていない。言葉で表現されていないが、少年はさぞ心細いことであろう。28から劇場の裏。ポスタアの剥がれた痕。少年はそこに佇んでいる。逞しいブルテリアが一匹、少年の匂いをかぎながら足元を通り過ぎる。劇場の火のともった窓に踊り子が一人現れ、冷淡に下の往来を眺める。《この姿は勿論逆光線のために顔などははっきりとわからない》が、いつか少年に似た可憐な顔を現してしまう。《踊り子は静かに窓をあけ、小さな花束を下に投げる》。花束はいつか茨の束に変っている。
 32では、黒い一枚の掲示板にチョオクで「北の風、晴」と書かれているが、やがて「南の風強かるべし。雨模様」と変わる。33では標札屋の露店。徳川家康、二宮尊徳などと書かれた見本がありきたりの名前に変り、その向こうに南瓜畠。
 34で電燈の影映る池。その向こうに並んだ映画館。少年の帽子が風に飛ばされ、歩く少年の表情はほとんど絶望に近い。ここで出て来る池の名は「大池」であろう。35からはカッフェの飾り窓。久々の飾り窓登場であるが、砂糖の塔、生菓子、麦わらのパイプ(ストローのことだろう)を入れた曹達水のコップなど。夫婦らしい中年の男女が硝子戸の中へ。女はマントルを着た子供を抱いている。カッフェが自動的にまわり、コック部屋の裏。煙突一本。労働者二人がカンテラをともして、せっせとシャベルを動かす。子供はにこにこ首を振ったり手を振ったり。そこへ薔薇の花が一つずつ静かに落ちる。38で自動計算器が出て来て、39でカッフェの飾り窓。少年はおもむろに振り返り、足早に接近してきて、顔ばかりになった時、ちょっと立ち止まって、多少驚きに近い表情。
 40で、人だかりの真ん中に立ったセリ商人。手に持った一本の帯。帯の模様は雪片。それがくるくる帯の外へも落ち始める。42でメリヤス屋の露店。婆さんが一人行火に当たり、黒猫が一匹、時どき前足を嘗めている。左に少年の下半身。黒猫はいつしか頭の上にフサの長いトルコ帽をかぶっている。《「坊ちゃん、スウェエタアを一つお買いなさい。」「僕は帽子さえ買えないんだよ」》。45ではメリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。少年は涙を流し始めるが、気を取り直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩き始める。
 46は、かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きな顔ぼんやり浮かぶ。少年の父親らしい。愛情はこもっているが、無限に物悲しく、霧のように消えてしまう。縦に見た往来。あまり人通りない。少年の後ろから歩いて行く男。マスク顔。48になると、斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前に人力車三台。角隠しをつけた花嫁が先頭の人力車に乗り、後に二台続く。
 49は「XYZ会社特製品、迷い子、文芸的映画」と書いた長方形の板。これがサンドウィッチ・マンの前後の板に変る。サンドウィッチ・マンは年をとっているが、仲店を歩いていた都会人らしい紳士に似ている。少年はサンドウィッチ・マンの配っている広告を一枚もらっていく。50で再び縦に見た往来。松葉杖をついて歩いて行く廃兵一人。いつか駝鳥に変るが、また廃兵に戻る。横町の角にはポストが一つ。51は《「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」》のみ。そのポストは透明になり、無数の手紙が折り重なった円筒の内部を現して見せたかと思うと、もとのポストに戻ってしまう。
 53は斜めに見た芸者屋町。お座敷へ出る二人の芸者が通り過ぎ、少年が歩いて行く。そこへ背の低い声色遣いが一人。どこか少年に似ていないことはない。54は大きい針金の環のまわりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。いつの間にか理髪店の棒に変る。55は理髪店の外部。大きい窓硝子の向うには男女が何人も動いている。少年はそこへ通りかかり、ちょっと内部を覗く。56では頭を刈っている男の横顔が出て来る。
 57ではセセッション風に出来上がった病院。少年が石の階段を登り、すぐ下って来て左へ行った後、病院が静かに近づき、玄関だけになり、看護婦が一人出て来て、何か遠いものを眺めている。膝の上に組んだ看護婦の両手。左の手の婚約指環が急に落ちる。
 59で、わずかに空を残したコンクリイトの塀。自然に透明になり、鉄格子の中に群った何匹かの猿。塀全体は操り人形の舞台に変り、西洋人の人形がおずおずと。覆面をしているので盗人らしい。室の隅に金庫一つ。金庫をこじあける西洋人の人形。人形の手足についた細い糸が何本かはっきり見える。61で塀は何も現さず、そこを通り過ぎる少年の影。そのあとから背むしの影。
 62に入ると、前から斜めに見おろした往来。落葉が一枚。最後に雑誌の広告らしい紙も一枚翻って、「生活、正月号」の初号活字。63は大きい常盤木の下にあるベンチ。木々の向こうに大池。少年はがっかりしたようにベンチに腰かけ、涙を拭い始める。背むしもベンチに座り、焼き芋を取り出しがつがつ食べる。64で焼き芋を食う背むしの顔。65で頭を垂れて少年どこかへ歩いて行く。66では斜めに上から見おろしたベンチ。蟇口が一つ残り、誰かの手がそっととり上げる。67ではベンチの上に蟇口を検べる背むし。それがどんどん増え、ベンチの上は背むしばかりで、皆熱心に蟇口を検べている。何か話しながら。
 68で写真屋の飾り窓。男女の写真が何枚も額縁にはいって懸かり、その顔が老人に変る。フロック・コオトに勲章をつけた顋鬚のある老人の半身だけ変わらないが、いつの間にか背むしの顔に。
 69になると、横から見た観音堂。少年がその下を歩いて行き、観音堂の上には三日月。観音堂の扉はしまっているが、その前で何人か礼拝しており、少年はちょっと近づき、観音堂を仰ぎ、行ってしまう。71に大きい長方形の手水鉢。憔悴し切った少年の顔が水に映る。大きい石燈籠の下部。少年はそこに腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けている。74で、この男。マスクをかけた前の男。しばらく後、少年の父親に変ってしまう。75で石燈籠は柱を残したまま、自然に燃え上がり、下火になった後、開き始める菊の花一輪。菊の花は石燈籠の笠より大きい。76で巡査が少年の肩へ手をかけ、巡査と会話の後、手を引かれたまま、静かに向こうへ歩いて行く。石燈籠に下部にはもう誰もいない。
 78で、冒頭登場した仁王門。大提灯が次第に上り、前のように仲店が見渡せるようになる。大提灯の下部は画面から消えない。
 『浅草公園』は終了である。結局、父親とはぐれてしまった少年は父親に会うことができなかった。
 少年はどのようなコースでさまよったのだろうか。仁王門と雷門の間に続く仲店で父親とはぐれ、いろいろな飾り窓を見ながら、六区の映画街。凌雲閣(十二階)は関東大震災で崩壊したので、ここではまったく出てこない。大池周辺をうろうろしながら、花屋敷の北へ回り込み、浅草花街。登場する病院は浅草寺裏手にある浅草寺病院であろう。1910年の大水害の救護所が出発点。その後、観音堂にやって来て、燈籠や手水鉢は堂前の境内にあるものだろう。少年はこの後、巡査に連れられて、二天門を抜け、浅草馬道町6丁目にある派出所(現在、台東区民会館があるところ)へむかったものと思われる。
 『浅草公園』は昼から夕暮れ、そして夜へと、移り変り、少年はどんどん不安になっていく。『トロッコ』(1922年)を連想させるが、線路上を引き返せば良い『トロッコ』の良平少年にくらべれば悲惨である。良平は父母の許に帰ることができた。けれども浅草公園の少年はその後、どうなったかわからない。しかも、良平は現実に存在するものを見てきたが、浅草公園の少年が見るものは幻影であり、あっという間に変化してしまう。
 『浅草公園』でもう一点気になるのが、「暗」である。ある部分にスポットライトが当てられ、その先に「暗」がある。《この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり》(6)、《人形の後ろにも暗のあるばかり》(25)、《ポストの後ろには暗のあるばかり》(52)、《棒の後ろにも暗のあるばかり》(54)。四か所ではあるが、この繰り返しが妙に印象に残る。
 明るく光の当たる表舞台の明るさに反比例するかのように深い闇を抱え、必死に何かを探し求め、さまよい、ついにみつからない。そしてそのまま逝ってしまった龍之介を象徴しているような作品である。『トロッコ』から五年。龍之介の中に「暗」は増々大きくなっていたのだろうか。
東京に対する強いこだわりは、私を漱石に誘い、『漱石と歩く東京』という本を書かせることになり、ついに私は『勝手に漱石文学館』まで設立してしまった。ところがこれで収まりがつくはずもなく、私の故郷金沢が育んだ鏡花・秋聲・犀星といった「金沢の三文豪」へと拡がっていった。『勝手に漱石文学館』には「別館」ができ、『三人の東京――鏡花・秋聲・犀星』も出版された。そうなれば、もっと拡げて行きたいではないか。つぎのテーマは「文豪の東京」。その第一歩が、漱石の最後の門弟とも言われ、犀星とも親しかった芥川龍之介。

【文豪の東京――芥川龍之介】

第1回 東京に生れて

龍之介が書いた小説の代表作といえば、『羅生門』『鼻』『芋粥』『蜘蛛の糸』『杜子春』『トロッコ』『河童』など多数あげられるが、東京を舞台にした小説は見当たらない。けれども龍之介が東京に関する文章を書いていないかといえば、そうではない。すでに「館長のつぶやき」などで紹介した『大川の水』『漱石山房の秋』などもそうだが、今回は『東京に生まれて』を取り上げてみたい。

『東京に生まれて』はいつ書かれたのだろうか。手がかりは、《例へばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあつた京橋も、このごろでは、西洋風の橋に変つてゐる》という一文。1922(大正11)年、京橋は架け替えられ、擬宝珠のついた欄干柱は日比谷公園の雲形池近くに移された。江戸時代から町方で擬宝珠のつけられた橋は、日本橋・京橋・新橋の三つだけで、それだけに格式が高く、擬宝珠のない橋は「橋としての誇り」をもぎ取られた感があっただろう。龍之介が敏感に反応し、文章にとどめてくれたので、『東京に生まれて』は1922年あるいは1923年に書かれたことになる。
『東京に生まれて』は、「変化の激しい都会」「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」「郊外の感じ」から構成されている。
まず、龍之介は《僕に東京の印象を話せといふのは無理である》として、印象を得るためには、印象するものと、されるものの間に、ある新鮮さがなければならないが、《僕は東京に生れ、東京に育ち、東京に住んでゐる。だから、東京に対する神経は麻痺し切ってゐるといつてもいゝ》と記している。東京人と上京者には東京に対する印象、思いは異なるであろう。そしてどのように違うのかということが本論のテーマのひとつであるから、彼の文章はその回答を示していると言って良い。
東京に対して神経の麻痺した龍之介は、それでも時には新鮮さを感じ、印象となって話すことができるものもあるという。それは、《東京は変化の激しい都会である》から。東京に住んでいても、久しぶりに訪れるとすっかり変わっていて、その変化が印象に残る。
その変化によって、広重の情趣が感じられる江戸・東京の風情が失われ、欧米化、西洋化された街が拡大していく。京橋の擬宝珠がなくなり、西洋風の橋に変わったことも、龍之介にとっては衝撃であっただろう。彼は「住み心地のよくないところ」「広重の情趣」において、失われゆく風情に思いを馳せている。
《大体にいへば、今の東京はあまり住み心地のいゝところ》ではなく、例えば、大川の百本杭も、中洲界隈の蘆原もなくなり、この頃出来てきたアメリカ式大建築は見にくく、電車、カフエー、並木、自動車も感心しない。けれどもそんな不愉快な町中にも、一寸した硝子窓の光とか、建物の軒蛇腹の影とかに美しい感じを見出すこともあると龍之介は書いている。そして、非常に稀ではあるが、今も昔の錦絵にあるような景色がまったくなくなったわけではなく、夏の暮れ方、本所の一の橋そばの共同便所を出た時、ぽつぽつ降り出した雨に、一の橋と堅川の色とは、そっくり広重だったと続けている。
一の橋は回向院の南、堅川の最下流部に架かる橋で、ここから千歳ノ渡しが大川の対岸浜町を結んでいる。
ついでに龍之介は郊外が嫌いだとして、その理由に、妙に宿場じみ、新開地じみ、いわゆる武蔵野が見えたり、安直なセンチメンタリズムをあげている。自分も東京の郊外田端に住んでいるが、だからあんまり愉快でないと言う。四宿は江戸の玄関口にあたるから、すべて郊外。宿場じみているのは当然。郊外は都市化が進めば当然新開地になる。武蔵野が見えるに至って、どうやら彼は新宿を念頭に置いているようだ。故郷を追われるように内藤新宿にやって来て、急速に繁華街として隆盛する新宿の姿を見て、何か大きな違和感、自分にはなじめないものを感じたのかもしれない。
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