1919年1月、尾山篤二郎が書いた『毛皮の誘惑』が「短歌雑誌」(東雲堂)新年号付録小説に発表された。犀星は、この作品は自分を風刺したものであるとして激怒した。旧友であり、また確執を抱えた犀星と篤二郎の関係はきわめて悪化し、生涯和解することはなかった。
犀星も芥川もともに前年2月に結婚している。結婚後、鎌倉に転じていた芥川は1919年4月、大阪毎日新聞社社員になったのを機に田端へ戻っていた。その後、犀星は時おり芥川宅で開かれる句会に顔を出すようになり、親しくなっていった。
5月1日、萩原朔太郎が結婚した。相手は上田稲子19歳。本郷の前田邸内で生まれた旧加賀藩士族の家柄である。前年出版した二冊の詩集が好評であったため、犀星は5月5日、文武堂書店の勧めもあって、同書店を発行所に、『第二愛の詩集』を出版することができた。
6月1日、犀星は『第二愛の詩集』を持って、田端駅近くに住む芥川の家を訪れた。おそらく出版記念会出席の依頼であったのだろう。その出版記念会は10日、本郷の燕楽軒で開かれ、白秋、朔太郎をはじめ30人余が出席した。詩人としての一定の地位を確保し、人間関係も広がったことを示している。芥川は十日会と重なって出席できなかったが、二次会には出席している。芥川は十日会で秀しげ子を知り、一時その魅力に取り付かれたと言う。
詩人として成功の道を歩み始めた犀星は、4月下旬から小説を書き始め、5月下旬、第一作『幼年時代』が書き上げられた。犀星が小説を書こうと思ったのは、佐藤春夫や芥川に加えて、同郷で「文章世界」編集主任加能作次郎が『世の中へ』を読売新聞に連載(1918年)し反響を呼んだことが大きな刺激となっていた。もちろん、もっと大きな理由は、小説を書けば食っていけそうだが、詩では食っていけないという現実であり、また、犀星は詩だけでは表現し得ない内面を抱えていたということである。
さらに同郷の島田清次郎(1899~1930)の出現は犀星にとって大きな刺激となった。1919年、『地上』を携えた清次郎は生田長江に近づいて、その強力な推薦を得て、6月、新潮社から『地上』を出版し、空前のベストセラーとなる。若干二十歳である。それにしても、尾山篤二郎、加能作次郎、島田清次郎と、つぎつぎに石川県出身者が登場してきたものである。
犀星も6月、意を決して『幼年時代』を「中央公論」の編集主幹滝田樗陰に送った。当時、「中央公論」は発行部数10万部を超え、樗陰は「大正文壇最大の演出家」と言われ、多くの新人を発掘していた。月末になっても連絡がなくあきらめかけていたところへ、8月号掲載の校正原稿が届けられた。こうして『幼年時代』が世に出て、発売後94円の原稿料が届けられた。さらに、それから三日後、樗陰自身が犀星を訪れ、10月号・11月号に原稿を掲載するよう予約を取っていった。犀星は『性に眼覚める頃』『或る少女の死まで』を書いて、思いもかけず小説家への道が開けていった。
原稿予約が得られて、収入の増加が確実になった犀星は、その秋、田端571番地の借家に転居した。現在の田端6丁目。田端高台通りから、鉄道にむかって北東へ入ったところで、芥川の家には近くなった。平屋の二軒長屋で、入口が真ん中にあって、玄関の2畳が続き、左手に縁側付きの6畳、右手に4畳半と台所があり、南に10坪ほどの庭がついていた。
一方、1916年以来、大切に育ててきた詩誌「感情」は、11月の32号をもって終刊となった。(なお、翌年2月、「感情」終刊後特別に発行された『感情同人詩集』に犀星は『高台』と題して、秋に移り住んだ借家の様子を綴っている。)
犀星にとって1920年は小説家として飛躍の年になった。2月に『結婚者の手記』を中央公論に発表したのを皮切りに、『蒼白き巣窟』(「雄弁」、3月)、『美しき氷河』(「中央公論」、4月)、『愛猫抄』(「解放」、5月)、『香炉を盗む』(「中央公論」、9月)など、雑誌発表作品がじつに34編。さらに、初めて新聞連載小説の依頼もあり、報知新聞に『海の僧院』(3月中旬から34回)を発表した。初めての小説集として、1月5日、『性に眼覚める頃』が新潮社から出版され、続いて3月には早々と『結婚者の手記』が、11月には『蒼白き巣窟』が、それぞれ新潮社から出版された。8月に詩集『寂しき都会』(聚英閣)が出版されているとはいうものの、犀星はあっという間に小説家に転身してしまった。そしてこの年の夏から犀星は軽井沢へ避暑に赴くようになる。
売れっ子作家となった犀星のもとに、1921年新年号への小説執筆依頼は、「中央公論」はじめ10誌を数えた。これを犀星は全部こなした。以後、数年の間に短編を中心に、発表した小説は200編を超える。濫作!まさに、1900年頃の秋聲の状況に陥っていた。書いてもカネにならない状況から、書けばカネになる状況へと変化していたが、書かなければカネは入って来なかったから、生活のためにも、犀星はひたすら書かなければならなかった。それは、文壇に確固たる地位を築いた鏡花や秋聲も同様で、書いてもカネにならない時がいつ訪れるかわからない、不安定な状態であった。
3月、犀星は田端523番地の借家に転居した。現在の田端5丁目で、滝野川第一小学校(現、田端小学校)の西側にあたる。敷地60坪程、書斎8畳、茶の間6畳、納戸3畳、玄関2畳で、門構えの家、家賃が月50円であった。犀星は庭いじりが好きで、暮笛庵という6畳の離れを建てた。隣りの家には東京府立第三中学校校長広瀬雄が住んでいた。1874年、金沢生まれの広瀬は英語の教師。芥川が府立三中在学当時の学級担任で、芥川の勧めで田端に住むようになっていた。後に広瀬は犀星に堀辰雄を紹介する。転居して間もなく、山羊を飼っている平木二六という少年が詩の作品を持って訪れ、二六は以後、書生として犀星の家に通って来た。5月6日、待望の子どもが生まれ、豹太郎と名づけられた。
1922年1月に詩集『星より来れる者』(大鐙閣)、3月に『室生犀星詩選』(アルス)を出版した犀星は5月、養母赤井ハツを初めて東京へ招いた。なさぬ仲とは言うものの、形としてはハツの孫にあたる豹太郎を見せたいという思いも強かったのだろう。
その豹太郎は風邪から肺炎を併発し、6月24日、あっという間に亡くなってしまった。とみ子の乳の出も思わしくなく、生まれつきもあって、虚弱な体質であった。葬儀は正岡子規の墓もある田端の大龍寺(真言宗)でおこなわれた。大龍寺は田端4丁目、滝野川第七小学校(2019年4月から、田端中学校)に隣接している。
悲しみの中にある6月から7月にかけて、すでに準備がされていた詩集『田舎の花』(新潮社)、長編『走馬燈』(新潮社)が相次いで出版されたが、結婚し、子を得て、やっと念願の家庭を手に入れた犀星は、豹太郎の死によって一気にそれを失い、すべてが手につかなくなっていた。それでも少しずつ回復して詩を書き始めた犀星は、12月には『忘春詩集』を京文社から出版した。