このページのPDF版はコチラ→
3.下積み時代
西園寺公望が主催する文士招宴の会は1907年に第一回がおこなわれ、鏡花も秋聲も招待された。自分は招待されると思っていた文士でも、招待されなかった人がいる中、二人とも招待されたのであり、鏡花も秋聲も下積みの時代を経て、文壇に確固たる地位を築いたことの証であった。
それから3年。1910年。初めて上京した犀星は、文士として、まったく前途がみえない下積み時代を踏み出したのである。鏡花・秋聲を第一世代とするならば、犀星は第二世代にあたり、漱石について言うなら芥川龍之介に相当する、まさにヤングジェネレーションの世代であった。
犀星と鏡花、秋聲について、もうひとつ大きな違いをあげるとすれば、鏡花、秋聲ともに尾崎紅葉の門下生になり、師紅葉の計らいで収入の場、発表の機会を得ることができたのに対し、犀星は自分の力でこれらを得なければならなかった。出版に際しても、資金繰りから印刷・製本、販売に至るまで、自分が動かなければ何も進まなかったのである。もちろん誰でも望めば紅葉門下になれたわけではないので、二人とも相応しい才能を持ち合わせ、それを認められたということだが、犀星は元からそのような人物を持ち合わせていなかった。その点が鏡花や秋聲と大きく違う点である。それは、最初から大手プロダクションに入ってメジャーデビューした芸能人と、流しや路上ライブから次第に認められてメジャーデビューした芸能人の違いに例えられるかもしれない。
第1節
詩誌「感情」
1915年10月、三度目の東京生活が始まり、明けて1916(大正5)年、犀星と朔太郎は感情詩社を設立し、6月に詩誌「感情」創刊号(32ページ、定価15銭)を発行し、7月、犀星は田端に転居。8月には「感情」第3号が発行された。
10月に発行された「感情」第4号は「現代詩人号」と題して、白秋・朔太郎・暮鳥・犀星の他、三木露風・高村光太郎・日夏耿之介・川路柳虹ら12人の作品を掲載した。これだけの人々から作品を集めることができるほどに、犀星らの人脈が広がりつつあったことを示している。やはり東京へ出て来なければ、このような人脈をつくることができない。
この頃、詩人特集をおこなったのは、「感情」の他に、「文章世界」11月号、1917年に創刊された川路柳虹の曙光詩社発行「伴奏」第五集(1917年11月)のみである。犀星も暮鳥も両誌に作品が掲載されている。朔太郎は「伴奏」のみであるが、トップに紹介される扱いを受けている。
「文章世界」(1906年創刊)を発行する博文館には、1913年に入社した加能作次郎がいて、詩人特集の実務にあたっていた。同じ石川県出身の作次郎は、犀星に対して何かと心配りをおこなった。「感情」は12月には第5号を発行したが、費用全額を朔太郎一人が負担し、父の収入で生活する朔太郎の重荷になっていた。
犀星はこの1916年頃からドストエフスキーに傾倒するようになっていた。これは朔太郎の影響によるものであった。犀星はお金の単位をルーブリとロシア風に書くほどであった。1916年の暮れ、29日に暮鳥が犀星の下宿へやって来て、1917年正月元旦を迎えてもしばらく滞在した。1914年以来のつきあいであるが、犀星が暮鳥に会ったのはこれが初めてだった。『我が愛する詩人の傳記』では、《
大正三、四年頃であろうか、
》としているが、その頃にはまだ田端に住んでいないので、犀星の思い違いであろう。暮鳥は翻訳『ドストエフスキイの書簡』の売込みが上京の大きな目的だったようで、1917年に新潮社から出版されている。犀星、暮鳥、二人はドストエフスキーについても、おおいに語り合ったことであろう。
「感情」は発行費と販路に苦労しながら、何とか半年間持ちこたえて1917年を迎え、1月には第6号が発行された。2月、「感情」を発行する感情詩社は前田夕暮の白日社と共同で朔太郎の処女詩集『月に吠える』を出版した。発行人は犀星である。3月の「感情」第8号から竹村俊郎の作品が載るようになる。この年、「感情」は犀星・朔太郎に加えて、山村暮鳥・恩地孝四郎・竹村俊郎・多田不二らの作品が多く掲載されている。9月には多田不二が犀星の下宿の隣りにあたる田端164番地加村方へ引越してきて、「感情」発行の実務を手伝うようになった。「感情」には、13号(9月)に小松柳吉、15号(11月)には今東光、16号(18年1月)には瀬田弥太郎というように、作品発表者に新人が登場するようになるが、一方、東京を離れた地に住む暮鳥は秋頃には「感情」を去ると述べている。
田端
田端は山手線の内側にあるが、滝野川区として東京市に編入されたのは1932年で、それまでは北豊島郡に属していた。しかしながら、田端には鉄道駅があり、交通の便は比較的良かった。犀星も田端から列車で上野駅に出れば、故郷金沢行きの列車に乗ることができた。
明治期における東京と地方を結ぶ鉄道の駅は、ヨーロッパのようにターミナル駅方式で、相互の鉄道が連結されていなかったため、とくに貨物輸送において不便で、新橋~横浜をつなぐ官営鉄道(後の東海道線)と上野~熊谷をつなぐ日本鉄道(後の東北線・高崎線)を連結する品川線(品川~新宿~赤羽)が1885年に開通した。1896年には田端~土浦(後の常磐線)が開通し、これに合わせて田端駅が開業した。田端は東北線と常磐線の分岐駅としての役割を担うことになった。1903年になると、常磐線に接続するため、池袋~田端を結ぶ品川線豊島支線(大塚支線)が開通した(1905年、常磐線は三河島から日暮里へ接続し、田端を経由せず、上野へ直行できるようになった)。
1909年には品川線と豊島支線をまとめて山手線と呼ぶようになり、この年、電化され、烏森(新橋)~品川~新宿~池袋~田端~上野の営業(C字運転)が始まった。1919年には、中野~新宿から中央線を通って万世橋~東京~新橋からC字運転に入る、いわゆる「の字運転」が始められている。山手線が今日のように環状運転を始めたのは1925年である。
第2節
高村光太郎と智恵子
高村光太郎は駒込千駄木林町25番地付近(現在の千駄木5丁目22-8)に住んでいた。ちょうど千駄木林町の中央あたりで、団子坂上と動坂上を結ぶ広い通りに面してアトリエが聳えていた。光太郎がこの千駄木林町に住むようになったのは、1892年、10歳の時であった。上野公園の象徴のような西郷隆盛像の作者としても知られる父光雲が美術学校へ通勤する便を考え、下谷区西町、漱石養父塩原昌之助の家のすぐ近くから一家転住してきたためである。光雲たちは現在の千駄木5丁目20-6に住んだが、光太郎は父と意見が合わず、1912年、近所にアトリエを建て、引っ越したのである。1916年、田端に住むようになった犀星は、毎日のように白山の方まで散歩する道すがら、光太郎のアトリエの前を通ったと言う。光太郎は犀星より六つ年上だった。『我が愛する詩人の傳記』に犀星はつぎのように記している。
いちどでも、このアトリエの中に客として坐りこめば、あんなに厭な気分でこの通りを歩かないで済むだろう。そして高村と友人関係になればかれに持つ嫉みも何もなくなるのであろうと思った。
1913年、上高地まで光太郎を追っかけた長沼智恵子は、翌年12月からアトリエで光太郎と同棲するようになっていた。1914年に撮影されたと言う智恵子の写真を見ると、30歳に達するはずの智恵子は、まだ十代の乙女の印象を受ける童顔である。犀星が初めて光太郎のアトリエを訪れたのは、1917年8月頃。あいにく光太郎は不在で智恵子の冷たい視線に追い返された。それが三回続いた。日本女子大学校出の智恵子は犀星より三つ年上だった。『我が愛する詩人の傳記』に犀星はつぎのように記している。
私はある日二段ばかり登ったかれの玄関の扉の前に立ったが、右側に郵便局の窓口のような方一尺のコマドのあるのを知り、そこにある釦を押すと呼鈴が奥の方で鳴るしかけになっていた。私はおそるおそるその呼鈴の釦を押した。(略)だいぶ永く、時間にしたら一分三十秒くらい私はコマドの前に立っていた。放心状態でいたのでコマドの内側にある小幅のカーテンが、無慈悲にさっと怒ったように引かれたので、私は驚いてそこに顔をふりむけた。それと同時にコマド一杯にあるひとつの女の顔が、いままで見た世間の女とはまるで異なった気取りと冷淡と、も一つくっ付けると不意のこの訪問者の風体容貌を瞬間に見破った動かない、バカにしている眼付きに私は出会ったのである。私は金でも借りに行った男の卑屈さで、高村君といってにわかに高村さんといいあらため、今日はお宅においででしょうかとおずおず言った。するとこの女は非常に軽くあごを下の方に引くことによって、来意を諒解したふうを装い、突然、さっと、またカーテンを引いてしまった。彼女はコマドからはなれ、奥の間に行ったらしく、白い少々よごれたカーテンが私の眼の前と内部の光景とをへだてた。
再びカーテンが引かれたが、用意していた私はこんどは驚かなかった。ツメタイ澄んだ大きくない一重瞼の眼のいろが、私の眼をくぐりぬけたとき彼女は含み声の、上唇で圧迫したような語調でいった。
「たかむらはいまるすでございます。」
「は、いつおかえりでしょうか。」
女の眼はまたたきもせずに私を見たまま、答えた。
「わかりません。」
私は頭を下げると、カーテンがさっとハリガネの上を、吊り環をきしらせてまた走った。
再度目に訪ねたとき女は顔だけあらわしたが、(略)カーテンをまたさっと引いた。
三度目に訪ねたのは一ヵ月後のある午前中であったが、ツメタイ眼は夫のほかの者を見るときに限られている、夫には忠実でほかの者にはくそくらえという眼付で、やはり追い払われた。
三度目に帰宅した時、父死すという電報が来ており、その晩帰郷した(『我が愛する詩人の傳記』)。『評伝室生犀星』には、9月20日、犀星は養父真乗危篤の電報を受け、急遽、夜行で帰郷したと記されている。1917年9月23日、真乗は雨宝院隣の住居で亡くなった。73歳であった。十日ほどして東京へ戻った犀星は光太郎のアトリエを訪れた。運良く光太郎は在宅で、4度目にして、ようやく光太郎に会うことができた犀星は書斎でしばらく話して、金沢土産の九谷の大皿を置いて帰った。とにかく犀星は、アトリエの中に客として坐り込むことに成功したのである。しかしながら、犀星の気持ちは晴れなかった。
私は光太郎をまたと訪ねる気がしなくなっていた。詩人が贈物で詩を紹介して貰うことに気がさしていたし、ツメタイ眼をみることがいやだったからだ。(略)高村幸太郎という類のない不思議な人間によって、みがき上げられた生きた彫刻智恵子を見たのは、ただの、この三度の面会だけであった。
と、智恵子に対する記述を結んでいる。犀星の智恵子に対する描写は生々しい。智恵子とはこんな人物であったのだろうと、納得させるものである。確かに強烈な印象を与える人物であったのだろう。けれども、この文章が書かれたのは、犀星が智恵子に会って40年余の時を経過している。その間に得られた智恵子に関する情報、つくりあげられた智恵子のイメージ。犀星の描写の中にも、知らず知らずのうちに脚色された智恵子があるかもしれない。ナマの智恵子に会った犀星の記述であるから、その通りであったかもしれないが、すべてを真実として受け入れことはできないように、私には思える。
犀星来訪が功を奏したのか、光太郎は「感情」にも詩を寄せ、原稿を田端の犀星の下宿まで届けてくれていた。『我が愛する詩人の傳記』に犀星はつぎのように記している。
当時『感情』という三十二頁の詩の雑誌を出していた私は、光太郎にも詩をたのんで書いて貰った。光太郎は駒込のアトリエから田端まで歩いて、私が折あしく不在だった机の上に、その原稿を置いて帰った。光太郎は自分の原稿はたいがい自分で持参して、名もない雑誌をつくる人の家に徒歩でとどけていた。紺の絣の筒袖姿にハカマをはいて、長身に風を切って、かれ自身の詩を演出する勇ましいすがたであった。かれはやはりそこに純情をおぼえ、ひまのある人間がひまを有為につかう心得を知っていた。
光太郎に対して、犀星は感謝の意などまったく示さず、きわめて冷ややかで、ひねくれている。この感情が当時の犀星の感情そのままを表しているのか、『我が愛する詩人の傳記』を書いた時期までもち続けていた感情なのか、私にはわからないが、親の威光で生きている者に対する、凄まじいまでの嫉みを感じる。光太郎とのエピソードは、下積み時代の犀星の感情を知る手掛かりにはなるだろう。けれども、その嫉みをエネルギーに変えて、いじけず、真直ぐに進んだからこそ、犀星は成功を収めたのだと私は思う。
それとともに、私が勝手に光太郎の置かれた状況を察するなら、他人と接触することが極端に苦手な智恵子を思いやり、また智恵子の行為が相手に不愉快な思いをさせることを避けるため、光太郎は自分の方から原稿を届けたのではないだろうか。
『蜜のあわれ』と『我が愛する詩人の傳記』
加賀藩ゆかりの金澤町に隣接する神田山本町。鏡花の母すずが生まれ育った下谷の地域で東京生活の第一歩を踏み出した鏡花は、秋聲や犀星とはまったく違った思いを東京に感じていたのではないだろうか。初めて見る東京は、見知らぬ土地ではなく、もうひとつの故郷として、鏡花には映っていたはずである。
鏡太郎は、紅葉の書斎に通され、深々と頭をさげると、
加賀藩ゆかりの金澤町に隣接する神田山本町。鏡花の母すずが生まれ育った下谷の地域で東京生活の第一歩を踏み出した鏡花は、秋聲や犀星とはまったく違った思いを東京に感じていたのではないだろうか。初めて見る東京は、見知らぬ土地ではなく、もうひとつの故郷として、鏡花には映っていたはずである。
鏡太郎は、紅葉の書斎に通され、深々と頭をさげると、
『我が愛する詩人の傳記』は1958年に「婦人公論」に連載され、翌年『蜜のあわれ』が「新潮」に連載された。犀星は69~70歳。67歳で亡くなった鏡花の年齢をすでに超えていた。下積み時代の犀星に、晩年の犀星が割り込む形になるが、犀星の光太郎、智恵子に対する深い闇のような思いを紹介したい。
犀星は『我が愛する詩人の傳記』の高村光太郎の項でつぎのように記している。
かれが生涯をかけて刻みの刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか、(略)
智恵子が統合失調症のまま死去したのは1936年、光太郎53歳の時であった。戦時中、光太郎は岩手県太田村という山村に疎開した。犀星は、
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪に凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもだえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。(略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。(略)しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。
光太郎が太田村を離れるのは1952年、70歳の時である。そして犀星が、この『我が愛する詩人の傳記』を書いたのは1958年、69歳の時である。その犀星が、かくも具体的に智恵子と光太郎の性愛を描かなければならないのか。犀星は、あたかも自分が直接そこで見ていたかのように、リアルに描写している。けれども直接見ていたわけではない。リアルではあるが、犀星の妄想と言ってよいだろう。70歳近い人間には70歳近い性慾が、まったく衰えもせず犀星の中に息づいていたことになる。そして、翌1959年、70歳の犀星は『蜜のあわれ』を発表する。
光太郎にけっして好感をもたなかった犀星であるが、密かに羨望の眼差しで光太郎を見ていたのかもしれない。あの聳え立つアトリエを見上げるように。光太郎が智恵子という女性を「飼育」したように、自分も何か飼育してみたい。結局、犀星が飼育したのは金魚であった。光太郎や智恵子を思い出しながら、犀星の中に抑えがたい感情というか、性の欲望が湧き上がってきたのであろう。『蜜のあわれ』には、つぎのような会話がある。
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、(略)」(略)
「じゃ、おじさまはわかい人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」
『蜜のあわれ』は、光太郎と智恵子がいなければ、生まれなかった作品と言えるかもしれない。
第3節
犀星の結婚
養父真乗の死去によって、9月27日、室生家の家督を犀星が相続し、その日、かねてから文通していた浅川とみ子(本名トメ)と犀川のほとりで会い、結婚の約束をしたという。連続失恋の痛手を抱えて上京してから、ほぼ2年ぶりの帰郷で、犀星は終生の伴侶に巡り合ったのである。
とみ子は1895年7月10日生まれで、実父は宮城小三郎。姉に続いて母の実家浅川家の養女となり、金城女学校に学んで教員資格を取り、小学校教員として七尾で三年勤務した後、1914年に金沢へ転勤していた。浅川家は竪町に隣接する池田町四番丁22番地にあった。文学に関心をもち、犀星と文通を続けていた。
11月にはドストエフスキーの故国ロシアで「十月革命」が成功した。
紅葉門下で、ある面、紅葉の庇護のもとに作家活動を出発させた鏡花・秋聲と違って、犀星は独力で発表場所、収入場所をつくりだしていかなければならなかった。それだけに経営手腕というものも犀星には求められた。
犀星待望の第一詩集『愛の詩集』は、1918年1月1日刊行された。感情詩社から出版されたということは、事実上自費出版である。養父の遺産が役立てられたという。『愛の詩集』は掲載詩51編のうち、前年の1917年に発表されたものが29編を占めており、一括して本郷三丁目の文武堂書店で販売され、400冊が1ヶ月足らずで売り切れた。定価1円20銭であるから、販売額は480円。印刷費用260円を差し引くと220円の収益になる。犀星は納本の段階で180円の小切手を文武堂書店から得ている。
1月13日夜、犀星は日本橋の鴻の巣で開かれた日夏耽之介の『転身の頌』出版記念会で、芥川龍之介と初めて会った。
第一詩集を出版し、しかも好評で、将来に何となく希望の光が見えてきた2月、犀星は帰郷し、裏千日町31番地の小畠家で、生種夫妻の媒酌によって、浅川とみ子と結婚の式を挙げた。犀星の養母ハツは婚儀に出席しなかったと言われている。
犀星出生の話題以来、ほとんど顔を出すこともなかった小畠家が、ここで突然登場するのは、じつに不自然なことである。犀星は尋常小学校入学の翌年にあたる1896年、室生真乗の養嗣子となり、正式に室生姓を名乗るようになっていた。1917年、養父の真乗が亡くなり、義兄の真道はすでに赤井姓を継いでおり、犀星はまさに室生の跡取りの立場になったのである。婚儀は当然、室生家でおこなわれるべきである。にもかかわらず、犀星の婚儀は、自分を捨てたはずの小畠家でおこなわれた。
プロポーズから婚儀までの5カ月間にいったい、何があったのか。どのような経緯でこのようなことになったのか。『評伝室生犀星』には、
永年互いに没交渉で過ぎてきたにもかかわらず、齢五十五歳に達した生種が二十八歳の犀星を初めて異母弟として認めたことを意味する。生種は晩年の父吉種とはことさらに疎遠に過ごした。しかし、この段階で媒酌の労をいとわなかったのは、生母のことも含め亡父の後を継いだ、小畠家の家長としての負い目を意識しての好意であったろう。
と、記されている。
なるほどと納得してしまいそうだが、待てよ。永年没交渉の生種がどのようにして、犀星が結婚することを知ったのか。また、犀星がわだかまりのある実家で婚儀をおこなうことに、なぜ了承を与えたのか。疑問が湧く。
この疑問に対する回答は、『犀星と悌一』の項に譲りたい。
ただ、『弄獅子』に《
自分は母の家に泊まりながら母に結婚の話はしなかった。
》と書かれているが、この作品は養母をまさに莫連女として描いており、主人公をいじけた人間に仕上げた責任を養母に課している。この流れに沿えば、「母に話しはしない」という帰結になるのは当然である。しかし、これは真実の裏返しであろうと推察される。
2月18日、犀星は一人東京に戻り、同じ沢田家の8畳と4畳半に廊下がついた別棟に引越し、新婚生活に備えた。数日後、姉の豊といっしょに、愛犬を連れてとみ子がやって来た。4月には、『新らしい詩とその作り方』を文武堂書店から刊行し、原稿料を得ている。7月、放浪時代から面識のあった佐藤春夫が谷崎潤一郎の紹介を得て、短編『李大白』を「中央公論」に発表した。佐藤は8月、11月にも作品を発表し、芥川と佐藤の存在は犀星に小説家への転身を促す大きなきっかけとなった。
9月には『抒情小曲集』が感情詩社から自費出版され、文武堂書店で一括販売された。定価は1円20銭で、発行部数600部。発行費用のうち100円は、妻とみ子の着物を質に入れて用立てたと言われている。11月、第一次世界大戦が終った。
小説家の道
1919年1月、尾山篤二郎が書いた『毛皮の誘惑』が「短歌雑誌」(東雲堂)新年号付録小説に発表された。犀星は、この作品は自分を風刺したものであるとして激怒した。旧友であり、また確執を抱えた犀星と篤二郎の関係はきわめて悪化し、生涯和解することはなかった。
犀星も芥川もともに前年2月に結婚している。結婚後、鎌倉に転じていた芥川は1919年4月、大阪毎日新聞社社員になったのを機に田端へ戻っていた。その後、犀星は時おり芥川宅で開かれる句会に顔を出すようになり、親しくなっていった。
5月1日、萩原朔太郎が結婚した。相手は上田稲子19歳。本郷の前田邸内で生まれた旧加賀藩士族の家柄である。前年出版した二冊の詩集が好評であったため、犀星は5月5日、文武堂書店の勧めもあって、同書店を発行所に、『第二愛の詩集』を出版することができた。
6月1日、犀星は『第二愛の詩集』を持って、田端駅近くに住む芥川の家を訪れた。おそらく出版記念会出席の依頼であったのだろう。その出版記念会は10日、本郷の燕楽軒で開かれ、白秋、朔太郎をはじめ30人余が出席した。詩人としての一定の地位を確保し、人間関係も広がったことを示している。芥川は十日会と重なって出席できなかったが、二次会には出席している。芥川は十日会で秀しげ子を知り、一時その魅力に取り付かれたと言う。
詩人として成功の道を歩み始めた犀星は、4月下旬から小説を書き始め、5月下旬、第一作『幼年時代』が書き上げられた。犀星が小説を書こうと思ったのは、佐藤春夫や芥川に加えて、同郷で「文章世界」編集主任加能作次郎が『世の中へ』を読売新聞に連載(1918年)し反響を呼んだことが大きな刺激となっていた。もちろん、もっと大きな理由は、小説を書けば食っていけそうだが、詩では食っていけないという現実であり、また、犀星は詩だけでは表現し得ない内面を抱えていたということである。
さらに同郷の島田清次郎(1899~1930)の出現は犀星にとって大きな刺激となった。1919年、『地上』を携えた清次郎は生田長江に近づいて、その強力な推薦を得て、6月、新潮社から『地上』を出版し、空前のベストセラーとなる。若干二十歳である。それにしても、尾山篤二郎、加能作次郎、島田清次郎と、つぎつぎに石川県出身者が登場してきたものである。
犀星も6月、意を決して『幼年時代』を「中央公論」の編集主幹滝田樗陰に送った。当時、「中央公論」は発行部数10万部を超え、樗陰は「大正文壇最大の演出家」と言われ、多くの新人を発掘していた。月末になっても連絡がなくあきらめかけていたところへ、8月号掲載の校正原稿が届けられた。こうして『幼年時代』が世に出て、発売後94円の原稿料が届けられた。さらに、それから三日後、樗陰自身が犀星を訪れ、10月号・11月号に原稿を掲載するよう予約を取っていった。犀星は『性に眼覚める頃』『或る少女の死まで』を書いて、思いもかけず小説家への道が開けていった。
原稿予約が得られて、収入の増加が確実になった犀星は、その秋、田端571番地の借家に転居した。現在の田端6丁目。田端高台通りから、鉄道にむかって北東へ入ったところで、芥川の家には近くなった。平屋の二軒長屋で、入口が真ん中にあって、玄関の2畳が続き、左手に縁側付きの6畳、右手に4畳半と台所があり、南に10坪ほどの庭がついていた。
一方、1916年以来、大切に育ててきた詩誌「感情」は、11月の32号をもって終刊となった。(なお、翌年2月、「感情」終刊後特別に発行された『感情同人詩集』に犀星は『高台』と題して、秋に移り住んだ借家の様子を綴っている。)
犀星にとって1920年は小説家として飛躍の年になった。2月に『結婚者の手記』を中央公論に発表したのを皮切りに、『蒼白き巣窟』(「雄弁」、3月)、『美しき氷河』(「中央公論」、4月)、『愛猫抄』(「解放」、5月)、『香炉を盗む』(「中央公論」、9月)など、雑誌発表作品がじつに34編。さらに、初めて新聞連載小説の依頼もあり、報知新聞に『海の僧院』(3月中旬から34回)を発表した。初めての小説集として、1月5日、『性に眼覚める頃』が新潮社から出版され、続いて3月には早々と『結婚者の手記』が、11月には『蒼白き巣窟』が、それぞれ新潮社から出版された。8月に詩集『寂しき都会』(聚英閣)が出版されているとはいうものの、犀星はあっという間に小説家に転身してしまった。そしてこの年の夏から犀星は軽井沢へ避暑に赴くようになる。
売れっ子作家となった犀星のもとに、1921年新年号への小説執筆依頼は、「中央公論」はじめ10誌を数えた。これを犀星は全部こなした。以後、数年の間に短編を中心に、発表した小説は200編を超える。濫作!まさに、1900年頃の秋聲の状況に陥っていた。書いてもカネにならない状況から、書けばカネになる状況へと変化していたが、書かなければカネは入って来なかったから、生活のためにも、犀星はひたすら書かなければならなかった。それは、文壇に確固たる地位を築いた鏡花や秋聲も同様で、書いてもカネにならない時がいつ訪れるかわからない、不安定な状態であった。
3月、犀星は田端523番地の借家に転居した。現在の田端5丁目で、滝野川第一小学校(現、田端小学校)の西側にあたる。敷地60坪程、書斎8畳、茶の間6畳、納戸3畳、玄関2畳で、門構えの家、家賃が月50円であった。犀星は庭いじりが好きで、暮笛庵という6畳の離れを建てた。隣りの家には東京府立第三中学校校長広瀬雄が住んでいた。1874年、金沢生まれの広瀬は英語の教師。芥川が府立三中在学当時の学級担任で、芥川の勧めで田端に住むようになっていた。後に広瀬は犀星に堀辰雄を紹介する。転居して間もなく、山羊を飼っている平木二六という少年が詩の作品を持って訪れ、二六は以後、書生として犀星の家に通って来た。5月6日、待望の子どもが生まれ、豹太郎と名づけられた。
1922年1月に詩集『星より来れる者』(大鐙閣)、3月に『室生犀星詩選』(アルス)を出版した犀星は5月、養母赤井ハツを初めて東京へ招いた。なさぬ仲とは言うものの、形としてはハツの孫にあたる豹太郎を見せたいという思いも強かったのだろう。
その豹太郎は風邪から肺炎を併発し、6月24日、あっという間に亡くなってしまった。とみ子の乳の出も思わしくなく、生まれつきもあって、虚弱な体質であった。葬儀は正岡子規の墓もある田端の大龍寺(真言宗)でおこなわれた。大龍寺は田端4丁目、滝野川第七小学校(2019年4月から、田端中学校)に隣接している。
悲しみの中にある6月から7月にかけて、すでに準備がされていた詩集『田舎の花』(新潮社)、長編『走馬燈』(新潮社)が相次いで出版されたが、結婚し、子を得て、やっと念願の家庭を手に入れた犀星は、豹太郎の死によって一気にそれを失い、すべてが手につかなくなっていた。それでも少しずつ回復して詩を書き始めた犀星は、12月には『忘春詩集』を京文社から出版した。
花札
『我が愛する詩人の傳記』によると、1921年から22年にかけて、犀星は花札に夢中になっていた。それは毎晩、時には昼間もおこなわれた。花札の常連は百田宗治夫妻、百田の前夫人しをり、村井清貞、平木二六、萩原朔太郎、犀星の妻などであったが、時に芥川龍之介、下島勲(医師)、佐藤惣之助なども加わった。芥川が花札に興じている姿を一度見たかった気がする。
大正十年から十一年にかけて、私は花札を引くことに夢中になっていた。不思議なこの遊びは毎晩続き、昼間も引いていた。その連中に百田宗治夫妻も交じり、しをりという前夫人を連れ、百田は夕方、巣鴨から田端に通うて来た。百田の花は手固い打手であり、私も手固く打った。私の妻、村井清貞、平木二六、萩原朔太郎、たまには芥川龍之介、下島勲も見え、遠くから佐藤惣之助というふうに、客があれば花を引いた。
百田夫妻は巣鴨からやって来た。歩いて来たかもしれないが、巣鴨から田端は、間に駒込が入って、山手線電車で二駅であり、犀星の家は田端駅から500メートルほど。やはり電車で来たとみて良いだろう。
なぜ、この時期、犀星が花札にのめりこんで行ったのは、いったいなぜなのか。犀星自身は、『我が愛する詩人の傳記』で、
濫作を重ねた私の頭はただれた疲れがあったが、疲れは花札の繚乱たるひらめきを見ると、すぐ恢復するかと思われたが、事実はその反対で一層ふかく疲労したけれど、これを停めるわけに行かなかった。
と、記しているが、同時に、
やはり小説を書いて世に出たということが、妙にぴかぴかした花札を切ることで愉快にならせたのかも知れぬ。
とも記している。一見矛盾したようにみえて、その両面が花札にのめり込んだ要因であろう。その花札も2年で終わりを告げた。長男豹太郎の死が、花札を続ける意欲さえ失わせていったのではないだろうか。
1923年1月、犀星は小説集『万華鏡』を京文社から出版した。2月には『後の日の童子』を「女性」に、5月には『嘆き』を「中央公論」に発表。この間、4月には詩集『青き魚を釣る人』をアルスから出版している。小説家に転身したといっても、詩人をやめたわけではなかった。
5月のある日、隣りの広瀬雄校長の奥さんの紹介で、一高学生の堀辰雄が母親とともにやって来た。当時19歳の辰雄は三中で広瀬校長の教え子であり、犀星らの詩に魅了され、指導を乞いたいと願っていた。7月末、犀星は軽井沢へ避暑に出かけ、つるや旅館に10日程滞在した。これほど長く滞在したのは4年目にして初めてである。辰雄の年譜には、8月に初めて軽井沢へ行き、犀星を訪ねたと記されている(一方、『評伝室生犀星』によると、この時、犀星は辰雄を伴って軽井沢を訪れたとされ、辰雄がひとりで初めて軽井沢に犀星を訪ね、つるや旅館に滞在したのは、翌1924年で、1泊3円くらいであったとされている)。
8月、犀星に長女が誕生し、朝子と命名された。
そして9月1日、関東大震災が発生した。
【参考文献】
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
⇒「勝手に漱石文学館」の「漱石こぼれ話」の中に、田端当時の犀星について記述した項がある(25.田端点描)。
© 2017-2021 Voluntary Soseki Literature Museum