犀星が初めて上京して来る1910年が始まった。鏡花は1月に『歌行燈』を「新小説」、『国貞ゑがく』を「太陽」に発表した。
土手三番町の家は交通の便は良かったが、坂下であり、目の前は土手で、そのむこうに外濠があり、湿気が多く陰気で、キノコの生育環境として良くても、人間の生活環境としては、けっして良くなかった。5月、鏡花は麹町区下六番町11番地(現、六番町)に転居した。400メートル程移動しただけだが、高台で環境は良かった。外濠線四谷見附電停まで400メートル程で、交通の便も良かった。
鏡花が借りた家は門がなく、玄関は木の格子戸という、麹町辺りでは珍しい「しもたや造り」の二階長屋で、家主は伊勢安という酒屋。鏡花が引越してくる前には長唄の師匠が住んでいたため、粋なつくりになっていた。400メートル程東へ行ったところ、女子文藝学舎隣りには、この年から1915年まで与謝野鉄幹・晶子が住んでいた。秋聲に遅れること4年、鏡花も終生暮らす家にたどりついたことになる。
下六番町にある鏡花の自宅むかいには有島家があり、里見弴はまだそこに住んでいた。後のことになるが、1917年冬、里見弴に連れられて鏡花の家を訪れた中戸川吉二によれば、泉家の格子戸を開けて玄関へ入ると、玄関の真ん中に、お茶屋の外、普通の家では見かけることのない、緑色で「泉」と書いた虫籠のような軒燈が天井からぶらさがっていたと言う。
鏡花が転居してきた1910年。有島家の有島武郎(1878~1923年)・有島生馬(1882~1974年)・里見弴(1888~1983年)に武者小路実篤・志賀直哉などが加わって、白樺が創刊された。白樺派と耽美派といった反自然主義の作家がむかい同士に住んだことになる。
5年間にわたるアメリカ・フランス生活から帰国して2年を経た荷風は、2月に森鴎外らの推挙で慶應義塾大学文学科の教授に就任していた。5月に荷風は、自然主義文学中心の早稲田文学に対し、三田文学を創刊。主として反自然主義のいわゆる耽美派とよばれる作家の作品を掲載していった。前年の雨声会で鏡花と親しくなった荷風は、大先輩の鏡花の作品もぜひ載せたいと思ったのであろう。こうして10月、『三味線堀』が三田文学に発表された。
鏡花は《
頁数の少き雑誌に、一稿百枚は、永井荷風氏の厚情による。
》と自筆年譜に記している。38歳、大ベテランの鏡花が、31歳の荷風にこれほど恩義を感じなければならないくらい、当時の鏡花は発表の機会が少なくなっていたのだろう。
5月に念願の上京を果たした犀星は、知人の下宿などを転々としながら、少しずつ人脈をつくっていったが、発表の機会もほとんどなく、収入も乏しく、不安定な生活を送っていた。
1911年、鏡花は1月に『朱日記』を「三田文学」、『酸漿』を「萬朝報」に発表したのをはじめ、4月・11月を除く毎月、作品を雑誌や新聞に発表している。とくに6月には3作品発表された。3月には『三味線堀』が宮戸座で初演され、10月には『銀鈴集』が隆文館から出版された。
1912年、元号が明治から大正に変わる年である。鏡花は8月・12月を除いて、毎月作品を発表し、その数は12編である。この年も2月に『稽古扇』が明治座初演、5月に『南地心中』が新富座で初演されている。『南地心中』は1月に「新小説」に掲載されたものであるが、『稽古扇』の方は、初演の2月に前半が「中央新聞」に掲載され、3月も続いた。後半は9月になって「文藝畫報」に掲載されている。
1913年、鏡花は8月から10月にかけて『二挺鼓』を「京城日報」に連載したのをはじめ、11作品を発表している。その中には、『夜叉ヶ池』(1月、演藝倶樂部)・『銀杏の下』(4月、臺灣愛國婦人)・『海神別荘』(12月、中央公論)という三つの戯曲が含まれており、今日でも上演される。12月には戯曲『戀女房』を「鳳鳴社」から出版した。
1914年、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争がヨーロッパで始まった年であるが、鏡花が発表した作品は6編である。その中には9月に千章館から出版された『日本橋』、10月、「新小説」に発表された戯曲『湯島の境内』(『婦系図』の補遺)が含まれている。4月には『深沙大王』が明治座で初演されている。『日本橋』の装丁は小村雪岱がおこなったが、以来、鏡花の作品集には雪岱の装丁になるものが多い。
1915年、鏡花が発表した作品は、『櫻心中』(「新小説」、1月)、『櫻貝』(「淑女畫報」、1月)、『新つや物語』(「文藝倶樂部」、4月)、『夕顔』(「三田文学」、5月)、『蒔繪もの』(「新小説」、7月)、『懸香』(「新小説」、9月)である。5月から12月まで、『星の歌舞伎』を「女の世界」に連載した。舞台の方では、前年発表された『日本橋』が3月に本郷座で初演され、出版では『鏡花選集』(春陽堂、6月)、『遊里集』(春陽堂、10月)が刊行されている。
1916年、鏡花は作品を八つ雑誌に発表。『鏡花双紙』『愛染集』『由縁文庫』三冊の作品集を出版。7月には1913年に発表された『夜叉が池』が本郷座で初演された。この年から水上瀧太郎との親交が始まった。
7月11日、秋聲の長女瑞子が疫痢のため12歳で亡くなった。鏡花も、初夏のはじめからあしき病が流行したため、恐れをなして、三ヵ月程、家から一歩も出ず、10月にイギリスから帰国した水上瀧太郎が久保田万太郎といっしょに来訪したのをきっかけに、11月下旬、ようやく外出し、大根河岸で一杯飲んでいる(自筆年譜)。
12月9日、夏目漱石が亡くなった。1917年1月に「新小説臨時號」(文豪夏目漱石)が発刊され、鏡花は『夏目さん』、秋聲は『書斎の人』の追悼文を寄稿した。