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4.文壇に地位を築く
『婦系図』
主税「お蔦、何もいわずにおれと別れてくれ。」
お蔦「切れるの、別れるのって、そんなことは芸者の時にいうものよ、なぜ死ね!といってくれないんです。」
湯島境内での、主税と、お蔦の別れの場面。師紅葉の『金色夜叉』、熱海の海岸散歩する貫一、お宮の二人連れ、別れの場面とともに、有名な場面である。湯島天神へ行っても、とにかく婦系図。私は、その場面を楽しみにしながら『婦系図』を読み進んでいったが、ついに出て来ないまま、主税は静岡へ。出て来るはずはなく、1908年9月、新派で演ぜられた時、挿入されたもので、柳川春葉が脚本を書いた。
話しの内容はさて置き、一つ不思議なことがある。後編の舞台は静岡であるが、静岡の街をまったく知らないと言っていい鏡花が克明に描いている。鏡花はあきらかに静岡に来ているはずである。
鏡花が初めて静岡を訪れたのは、1890年、初めての上京のおりである。静岡中心街の旅館で一泊したと思われるが、その時の記憶をたどったのではないか。しかし、静岡着20時40分、静岡発が翌日10時30分と言う日程では、あれほど細かく描くことはできないだろう。
そこで注目されるのが、1917年に書かれた『雛がたり』である。鏡花は逗子にいる時、静岡を見たくて、『婦系図』執筆中の3月中頃、静岡を訪れたと記している。ところがこの時期にはすでに後編に入って、舞台は静岡に移っているはず。今のようにインターネットでさまざまな情報を得ることができるような時代ではない。どうしても2月に静岡へ来ていなければ、あのように詳しい描写はできないはずである。これはどのように考えれば良いのだろうか。
ここで、いくつかの推論が成り立つ。第一は、『雛がたり』は『婦系図』から10年近く経って書かれた文章であるから、鏡花の思い違いで、ほんとうは2月だった、と言う推論。第二は、これも2月説であるが、鏡花は『雛がたり』という題から、意図的に静岡訪問を3月に設定したが、ほんとうは2月中頃だったという推論。
『雛がたり』は前半において、母親の思い出と雛祭りを重ね合わせている。後半は静岡を訪れ、市内各地を巡ったことが記されている。後に静岡は日本有数の雛人形・雛具の産地になっていくが、当時、鏡花の中に「お雛様と言えば静岡」といった意識はなかったであろう。したがって来静の目的は、あくまでも『婦系図』の取材だったはずだ。鏡花は《
北の国の三月は、まだ雪が消えないから、節句は四月にしたらしい。
》と記している。もちろん、旧暦の三月は新暦の四月にあたるので、もともと雛の節句は今の四月である。けれども雪の降らない地域では新暦の三月に移行し、雪国金沢は四月の方が適切だったのだろう。東京では新暦の三月に雛祭りがおこなわれたことは、漱石の五女が三月三日の前日に生まれたところから、「ひな子」と名づけられたことからも、うかがい知ることができる。
鏡花は安倍川餅の店に入る。おそらく石部屋であろう。そこで座敷に並べられたおびただしい雛、人形の姿にびっくりする。お雛様は三月三日になって飾るものではない。二月半ばになれば、人形が出されていても不思議はない。鏡花は安倍川餅店近くのお屋敷のことも記している。事実、宮﨑家がそこにある。宮崎家は野崎家・尾崎家とともに、「静岡の三崎さん」として知られる大資産家である。鏡花が静岡を訪れていることは確か。こんな一文がある。《
賤機山、浅間を吹降す風の強い、寒い日で。
》これは、やはり静岡の二月の天候である。
『婦系図』はじゅうぶんに取材し、構想を練って書き始めたものではない。さすが鏡花といえども、現地を見ないで静岡を舞台に書くことはできなかったのだろう。おそらく、1907年2月中頃、鏡花は「静岡を見たくて」やって来たのだろう。『婦系図』は1908年2月に前編、6月に後編が単行本として刊行されており、ひょっとしたら、1908年3月にも再取材に訪れ(鏡花は2月に東京へもどっているから、逗子にいる時という記述と矛盾してくる)、『雛がたり』に混ぜて書き込まれた可能性も否定できない。
駅前から中心部。浅間神社から、15代将軍慶喜や16代徳川宗主家達が住んだ西草深界隈、女学校(北陸英和と同じミッションスクールの、現静岡英和)の様子など、とにかく詳しい。そして、結末の久能山東照宮。陰惨な場面を設定する皆既日食。1月14日にあった部分日食にヒントを得たのだろうが、1887年、北陸英和学校を退学した14歳の鏡花が、8月に遭遇した皆既日食の、恐怖に充ちた体験をモチーフにしていると推察される。
1月に『縁結び』を「新小説」に発表した鏡花は、『婦系図』の連載も終わり、5月から6月にかけて、竹風と共訳のハウプトマン『沈鐘』を二幕まで「やまと新聞」に連載した。ドイツ語のできない鏡花は、竹風が訳したものを、より日本語としてふさわしい文に手直ししていったのだろう。竹風はドイツ語が専門であり、酒井は竹風をモデルにしたものと言われている。
西園寺首相の文士招宴
鏡花が『婦系図』を連載した1907年。6月17日から19日まで三日に分けて、西園寺公望首相主催の文士招宴が開かれた。鏡花も秋聲もこれに招かれ、二日目の18日、小杉天外・森鴎外・巖谷小波・後藤宙外・竹越三叉とともに出席した。文壇に確固たる地位を築いた証でもある。この期間、鏡花は逗子に住んでいたから、東京まで出向いてきたのであろう。
西園寺公望私邸は神田駿河台にあり、現在、三井住友海上火災ビルが建っている。『虞美人草』連載中の漱石は、「時鳥厠半ばに出かねたり」の句を書いた葉書を送って、出席を断った。坪内逍遥、二葉亭四迷なども断り組である。
返礼の会は10月18日、芝公園の「紅葉館」で開かれ、鏡花も秋聲も出席している。席上、西園寺の発案で、年に1回くらいこのような会が催されることになり、「雨声会」と名づけられた。紅葉館は芝公園内の紅葉山にあり、1881年、名士の社交クラブとして開館した。東京タワーの建っているところが紅葉山一帯で、芝で生まれた尾崎紅葉は紅葉山に因んで「紅葉」の雅号を用いた。鏡花にしても秋聲にしても、「紅葉館」という名に格別な思いを抱いたのではないだろうか。
文士招宴に招かれた鏡花であるが、1907年後半において目立った作品はみられない。12月、桂川に駒橋水力発電所(山梨県大月市)が完成し、76km離れた早稲田変電所に電力が送られるようになった。日本で初めての特別高圧遠距離送電と変電(変圧)技術によって、東京に大量の電力が供給できるようになり、東京市内の家庭にも急速に電燈が普及するようになっていった。
番町に住む
1908年1月に『雌蝶』(「新小説」)を発表した鏡花は、2月、東京にもどってきた。新しい借家は麹町土手三番町30番地、ちょうど、三年坂を外濠にむかって下りた、左角にあたる。家賃は30円。時の宰相に招かれる作家でも、経済的には窮しており、敷金は笹川臨風に出してもらった。
土手三番町は現在の五番町にあたるが、当時と現在と番号の配置はずいぶん異なっている。
一番町⇒三番町
上二番町⇒一番町
下二番町⇒二番町
三番町⇒九段北4丁目、九段南3丁目、九段南4丁目
土手三番町⇒五番町
四番町⇒九段北3丁目、九段北4丁目
五番町⇒一番町
上六番町⇒三番町
中六番町⇒四番町
下六番町⇒六番町
東京市内では、1903年8月から、路面電車が順次開通しており、鏡花の家から300メートル程の近距離に市ヶ谷見附電停があった。1907年に九段上・九段下間が開通したため、九段上で乗り換えれば、神田神保町へも、銀座へも、直通で行くことができたし、市ヶ谷橋で外濠を渡れば、外濠線を利用して土橋下車で新橋駅はすぐ近くであった。市ヶ谷停車場からは甲武鉄道を利用できた。鏡花がこの地を選んだ理由に交通の利便性があったかどうかわからないが、なかなか魅力的な場所である。
鏡花は4月に『ロマンチックと自然主義』を「新潮」に発表。5月27日には、築地瓢屋で第二回雨声会がおこなわれ、鏡花も秋聲もともに出席した。6月には鏡花文学の愛好者の集い「鏡花会」が結成された。第一回は6月20日、築地の「浜松」という待合で行われた。7~8人の参加者で、中に寺木定芳もいた。この「浜松」の女中お富は紅葉の愛読者で、鏡花と意気投合し、お富が芝「紅葉館」、新橋北地へ移った後までも、鏡花は通い続け、すずの方が身を引こうと考えたくらいであったという。
1909年、鏡花は2月と4月に『尼ヶ紅』を「新小説」、5月に『芸術は予が最良の仕事也』を「文章世界」に、それぞれ発表した。6月16日には濱町の「常盤屋」で開かれた第三回雨声会に鏡花・秋聲共々出席している。この時、鏡花は補充で選ばれた永井荷風と席が隣り合い、初めて親しく言葉を交わし、互に好感をもった。
濱町は当時、日本橋区。両国橋下流の隅田川に面した一帯で、江戸時代から花街が発展し、芝居小屋もみられた。1893年には千歳座跡に明治座が建てられ、1912年には『稽古扇』、1914年には『深沙大王』など、鏡花の作品も上演されている。場所が少し移動したものの、明治座は現在も営業を続けている。
8月末、鏡花は予告なしに早稲田南町の自宅に漱石を訪ねた。市ヶ谷橋を渡り、亀岡八幡宮近くの左内坂を上り、陸軍中央幼年学校の敷地に沿って西進し、市ヶ谷薬王寺前町で右折して、市ヶ谷柳町を過ぎ、弁天堂の前を通って左折すると漱石の自宅があった。およそ二キロの道のりであるから、当時の鏡花であれば、人力車を使わず、徒歩で往復したのではないだろうか。
漱石訪問の用件は、『白鷺』の「朝日新聞」連載と、その原稿料の前借であった。
『白鷺』の小篠は、築地の「浜松」で知り合ったお富がモデルと言われている。
当時の自然主義の潮流に対して、後藤宙外は反自然主義系作家を結集して「文藝革新会」をつくった。これには登張竹風や笹川臨風も参加し、誘われるままに鏡花も入会した。「文藝革新会」は各地で講演会をおこなったが、第三回講演会に鏡花も参加した。11月18日東京を発って、宇治山田・名古屋・桑名などを講演しながら、観光してまわった。臨風、宙外、他4人がいっしょだった。臨風との旅はまさに弥次喜多道中であった。
三田文学と早稲田文学
犀星が初めて上京して来る1910年が始まった。鏡花は1月に『歌行燈』を「新小説」、『国貞ゑがく』を「太陽」に発表した。
土手三番町の家は交通の便は良かったが、坂下であり、目の前は土手で、そのむこうに外濠があり、湿気が多く陰気で、キノコの生育環境として良くても、人間の生活環境としては、けっして良くなかった。5月、鏡花は麹町区下六番町11番地(現、六番町)に転居した。400メートル程移動しただけだが、高台で環境は良かった。外濠線四谷見附電停まで400メートル程で、交通の便も良かった。
鏡花が借りた家は門がなく、玄関は木の格子戸という、麹町辺りでは珍しい「しもたや造り」の二階長屋で、家主は伊勢安という酒屋。鏡花が引越してくる前には長唄の師匠が住んでいたため、粋なつくりになっていた。400メートル程東へ行ったところ、女子文藝学舎隣りには、この年から1915年まで与謝野鉄幹・晶子が住んでいた。秋聲に遅れること4年、鏡花も終生暮らす家にたどりついたことになる。
下六番町にある鏡花の自宅むかいには有島家があり、里見弴はまだそこに住んでいた。後のことになるが、1917年冬、里見弴に連れられて鏡花の家を訪れた中戸川吉二によれば、泉家の格子戸を開けて玄関へ入ると、玄関の真ん中に、お茶屋の外、普通の家では見かけることのない、緑色で「泉」と書いた虫籠のような軒燈が天井からぶらさがっていたと言う。
鏡花が転居してきた1910年。有島家の有島武郎(1878~1923年)・有島生馬(1882~1974年)・里見弴(1888~1983年)に武者小路実篤・志賀直哉などが加わって、白樺が創刊された。白樺派と耽美派といった反自然主義の作家がむかい同士に住んだことになる。
5年間にわたるアメリカ・フランス生活から帰国して2年を経た荷風は、2月に森鴎外らの推挙で慶應義塾大学文学科の教授に就任していた。5月に荷風は、自然主義文学中心の早稲田文学に対し、三田文学を創刊。主として反自然主義のいわゆる耽美派とよばれる作家の作品を掲載していった。前年の雨声会で鏡花と親しくなった荷風は、大先輩の鏡花の作品もぜひ載せたいと思ったのであろう。こうして10月、『三味線堀』が三田文学に発表された。
鏡花は《
頁数の少き雑誌に、一稿百枚は、永井荷風氏の厚情による。
》と自筆年譜に記している。38歳、大ベテランの鏡花が、31歳の荷風にこれほど恩義を感じなければならないくらい、当時の鏡花は発表の機会が少なくなっていたのだろう。
5月に念願の上京を果たした犀星は、知人の下宿などを転々としながら、少しずつ人脈をつくっていったが、発表の機会もほとんどなく、収入も乏しく、不安定な生活を送っていた。
1911年、鏡花は1月に『朱日記』を「三田文学」、『酸漿』を「萬朝報」に発表したのをはじめ、4月・11月を除く毎月、作品を雑誌や新聞に発表している。とくに6月には3作品発表された。3月には『三味線堀』が宮戸座で初演され、10月には『銀鈴集』が隆文館から出版された。
1912年、元号が明治から大正に変わる年である。鏡花は8月・12月を除いて、毎月作品を発表し、その数は12編である。この年も2月に『稽古扇』が明治座初演、5月に『南地心中』が新富座で初演されている。『南地心中』は1月に「新小説」に掲載されたものであるが、『稽古扇』の方は、初演の2月に前半が「中央新聞」に掲載され、3月も続いた。後半は9月になって「文藝畫報」に掲載されている。
1913年、鏡花は8月から10月にかけて『二挺鼓』を「京城日報」に連載したのをはじめ、11作品を発表している。その中には、『夜叉ヶ池』(1月、演藝倶樂部)・『銀杏の下』(4月、臺灣愛國婦人)・『海神別荘』(12月、中央公論)という三つの戯曲が含まれており、今日でも上演される。12月には戯曲『戀女房』を「鳳鳴社」から出版した。
1914年、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争がヨーロッパで始まった年であるが、鏡花が発表した作品は6編である。その中には9月に千章館から出版された『日本橋』、10月、「新小説」に発表された戯曲『湯島の境内』(『婦系図』の補遺)が含まれている。4月には『深沙大王』が明治座で初演されている。『日本橋』の装丁は小村雪岱がおこなったが、以来、鏡花の作品集には雪岱の装丁になるものが多い。
1915年、鏡花が発表した作品は、『櫻心中』(「新小説」、1月)、『櫻貝』(「淑女畫報」、1月)、『新つや物語』(「文藝倶樂部」、4月)、『夕顔』(「三田文学」、5月)、『蒔繪もの』(「新小説」、7月)、『懸香』(「新小説」、9月)である。5月から12月まで、『星の歌舞伎』を「女の世界」に連載した。舞台の方では、前年発表された『日本橋』が3月に本郷座で初演され、出版では『鏡花選集』(春陽堂、6月)、『遊里集』(春陽堂、10月)が刊行されている。
1916年、鏡花は作品を八つ雑誌に発表。『鏡花双紙』『愛染集』『由縁文庫』三冊の作品集を出版。7月には1913年に発表された『夜叉が池』が本郷座で初演された。この年から水上瀧太郎との親交が始まった。
7月11日、秋聲の長女瑞子が疫痢のため12歳で亡くなった。鏡花も、初夏のはじめからあしき病が流行したため、恐れをなして、三ヵ月程、家から一歩も出ず、10月にイギリスから帰国した水上瀧太郎が久保田万太郎といっしょに来訪したのをきっかけに、11月下旬、ようやく外出し、大根河岸で一杯飲んでいる(自筆年譜)。
12月9日、夏目漱石が亡くなった。1917年1月に「新小説臨時號」(文豪夏目漱石)が発刊され、鏡花は『夏目さん』、秋聲は『書斎の人』の追悼文を寄稿した。
東京の空の下
1917年、鏡花、秋聲ともに四十半ばを迎え、作家としてはベテランの域にはいっていた。鏡花は1895年に帰郷して以降、金沢へ帰っていない。秋聲も1915年、帰郷して母に会い、翌年、母の葬儀に出るため金沢へ帰った程度で、1905年以降、金沢は遠い存在になっていた。まさに、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」になっていたのである。
田端の下宿で1917年を迎えた犀星は、28歳。文章で食べていくことはなかなか困難でも、一つの方向性はみえてきていた。犀星はまだ、鏡花にも秋聲にも会ったことがなかったが、とにかく三人は同じ東京の空の下に暮らしていた。
この年、鏡花は『雛がたり』(「新小説」、3月)、戯曲『天守物語』(「新小説」、9月)をはじめ、8作品を雑誌や新聞に発表し、書き下ろしの『幻の絵馬』を春陽堂から出版。この他、3冊の本が出版されている。
1918年、鏡花はこの年亡くなった柳川春葉を追想した『中庸の人』を「新演藝」に寄稿。3月には『煙管を持たしても短刀位に』と題する里見弴の文章評を「文章倶樂部」に寄せている。7月には単行本のための書き下ろし『鴛鴦帳』が至善堂から出版されているが、自筆年譜によると、前年春に出版社から原稿料を前借したにもかかわらず、執筆がなかなか進まず、酒に身をゆだねているのをみた水上瀧太郎が、自分が貸したカネを返せと言ってきたので、厚誼と意気を感じで、筆が進んだという。この年は久しぶりに新聞連載小説を書いている(『芍藥』を7月7日から12月7日まで、「やまと新聞」)。また、「赤い鳥」が創刊され、7月の創刊號に『あの紫は』、10月には『蓑着て通る』の童謡を寄稿している。
1919年、鏡花は1月から「婦人畫報」に『由縁の女』の連載を始めた(1921年2月まで)他、5月20日から7月1日まで「大阪朝日新聞」に『柳の横町』を連載した。また、3月・4月に『紫障子』、9月に『手習』をそれぞれ「新小説」に発表し、同じ9月、『縁日商品』を「夜の東京」に発表した。単行本としては、1月に『友染集』、10月に『雨談集』がそれぞれ春陽堂から出版された。
1920年、鏡花は8作品を雑誌に発表、10月には『銀燭集』を春陽堂から出版した。この年6月、鏡花は『葛飾砂子』映画化の件で谷崎潤一郎と会い、またこの頃、芥川龍之介と知り合った。
1921年、1月から鏡花は珍しく二つの作品を雑誌連載するようになった。『毘首羯摩』(「國粹」、10月まで)と『彩色人情本』(「新演藝」、翌年2月まで)である。この他、9作品を雑誌に発表し、『蜻蛉集』(2月、國文堂)・『ゆかりのをんな櫛笥集』(8月、春陽堂)を出版した。
1922年、鏡花は『黒髪』を「良婦之友」(1月から6月)、『身延の鶯』を「東京日日新聞」(1月12日から3月22日)、『番茶話』を「時事新報」(5月23日から31日)、『龍膽と撫子』を「女性」(8月から翌年1月)、『入子話』を「東京朝日新聞」(10月7日から12日)にそれぞれ連載。他に4編を雑誌などに発表した。この年出版した本は『新柳集』(春陽堂)1冊である。この頃から、鏡花は芥川と親しくなっていった。
雑誌発表の中には「新小説鷗外森林太郎號」も含まれ、鏡花は『みなわ集の事など』、秋聲は『外国文学の移植者』を寄せている。
1923年1月から8月までの間、鏡花は雑誌や新聞などに6編の作品を発表。『龍膽と撫子』続編を「女性」(2月から9月)、『朝湯』を「大阪朝日新聞」(5月26日から7月14日まで)に、それぞれ連載した。単行本の出版は『龍蜂集』(春陽堂)1冊である。
9月1日、関東大震災が発生した。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
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