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9.漱石と鏡花①
金沢生まれの私にとって、泉鏡花はとても近しい感じがする。そんな私であるから、鏡花が漱石と何らかの接点をもっていて欲しいと思う。ところが、その接点は案外かんたんに見つかってしまう。
第一の接点は、東京帝国大学である。
1895年頃、鏡花は東京帝大の寄宿舎に同郷の吉田賢龍を訪ねた。隣室には笹川臨風・姉崎嘲風・畔柳芥舟が住んでいた。臨風は高山樗牛が弥生町の下宿へ移った後、入って来たのである。鏡花は賢龍のもとを何度も訪ねるうち、隣室のメンバーとも親しくなっていった。とくに臨風とは、いつしか“弥次さん喜多さん”と呼び合うほどの仲になった。臨風は1870年、神田末広町の生まれで、帝国大学では国史を専攻していた。
東京帝大へ入る夢は果たせなかった鏡花だが、こうした仲間と巡り合うことができたのは、紅葉弟子入りを許されたことと並んで、幸運であったと言えるだろう。この時すでに漱石は寄宿舎を出て、菅の家、法蔵院を経て、松山へ赴任していた。
1895年、姉崎嘲風は笹川臨風や高山樗牛とともに帝国文学会を立ち上げ、『帝国文学』を創刊した。樗牛は漱石と同時期に海外留学を命じられたが、壮行会で喀血、留学を断念し、漱石留学中の1902年に亡くなった。1903年、漱石は帰国したが、その後、『帝国文学』と関わりをもつようになっていく。
嘲風は1904年、帝大教授になっている。畔柳芥舟は一高教授である。つまり、嘲風、芥舟は漱石の同僚にあたる。漱石は臨風とも長く親交を結んでいる。このようにして、鏡花が訪れ親しくなった人々は、イギリス帰国後の漱石とも接点をもつようになっていったのである。
第二の接点は、尾崎紅葉である。
漱石が学生時代から意識していたのは、鏡花ではなく、その師である尾崎紅葉。紅葉は漱石と同い年(実際には1年近く紅葉の方が遅く生まれている)で、漱石より二年早く1888年に帝国大学に入学した。すでに予備門時代から文才を現していた。多少なりとも文学を志すようになってから、漱石は紅葉を意識するようになっていたと考えられる。
森田草平は紅葉の『紫』(1894年発表)が漱石の『坊ちゃん』に影響を与えたのではないかと指摘し、鏡子の『漱石の思い出』には、1897年に発表された尾崎紅葉の『金色夜叉』を読んで、「今にみていろ、俺だってこのくらいのものは書ける」と言ったと記されている。当時、漱石は熊本に住んでいたが、漱石は同じ1897年に刊行された『一葉全集』の方に感動していた。
鏡花は紅葉の一番弟子である。1903年1月、イギリスから帰国した漱石は矢来町に住んだから、紅葉の家に近かった。紅葉は3月、大学病院に入院して、胃癌と診断され、10月死去した。「このくらいのものは書ける」と言った漱石は、紅葉が亡くなると、そのバトンを引き継ぐように、1904年から作家活動を開始した。
そのような漱石は、紅葉の延長線上として、鏡花に注目をしていたのであろう。
1905年、すでに『吾輩は猫である』が『ホトトギス』に連載され始めていた漱石は、鏡花の『銀短冊』に対する批評をしていた(談話筆記『批評家の立場』、『新潮』1905年5月)。漱石はつぎのように評している。
鏡花君の『銀短冊』は草双紙時代の思想と明治時代の思想とを綴ぎはぎしたやうだ。夢幻ならば夢幻で面白い。明治の空気を呼吸したものなら、また其空気を写したので面白い。唯綴ぎはぎものでは纏つた興趣が起らない。然し確かに天才だ。一句々々の妙はいふべからざるものがある。古沼の飽くまで錆にふりたるものだと見たものが、鯰の群で蠢動めいてゐるなどは余程の奇想だ。若しこの人が解脱したなら、恐らく天下一品だろう。
(巖谷大四『人間泉鏡花』p106、東京書籍、1979年)
『吾輩は猫である』にはつぎのような一文がある。寒月が《なんぼ越後の国だって冬、蛇が居やしますまい》と言ったのに対して苦沙弥先生は《鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか》と答えている。この鏡花の小説というのが、『銀短冊』である。
鏡花は漱石より6歳くらい年下であったが、作家としてのデビューは漱石より10年程早い。漱石にとっては大先輩であった。しかしながら、一高・東大で教え、やがて朝日新聞社に入社し、一応安定した収入を得ている漱石と違って、鏡花は流行作家と言っても、当時の多くの小説家同様、収入は多くなく不安定であった。1908年、鏡花が土手三番町に家を借りる折には、敷金を臨風に出してもらっているほどである。
1908年、『婦系図』が新富座で公演されるなど、鏡花の作品は人気を博していたが、自然主義の潮流が強まる中、原稿の注文も減少していた。1909年、漱石は『それから』執筆終了後、満州・朝鮮を旅行するため、つぎの連載小説を依頼しなければならなかった。そこで思い浮かんだのが鏡花である。こうして、10月から12月まで鏡花の『白鷺』が朝日新聞に連載された。
8月末、鏡花は予告なしに漱石を訪れた。その様子は『新小説』臨時号(1917年、漱石追悼)に『夏目さん』として掲載されている。作家としては大先輩の鏡花が、突然で取り次いでもらえるだろうか、びくびくしながらの訪問だった。鏡花の用件は連載の機会を与えてくれた漱石へのお礼ではなく、連載小説原稿料の前借である。旅行を間近に控えて慌しい漱石は、快く面会し、前借の件も快諾した。初対面でいきなり借金の話しというのも、いかにも鏡花らしいが、こうした率直な態度に対して、漱石は快く応える人である。鏡子がまったく歯並びを気にしないところを気に入った漱石である。漱石は飾らない人間を好きだった。おそらく弟子たちが甘えられたのも、そうした漱石だったからだろう。『夏目さん』で、鏡花は漱石の印象をつぎのように述べている。
大分お忙しさうだったのに、ゆつくり談話が出来ましてね。ゆつくりと云つたつて、江戸児だから長いこと、饒舌るには及びません、半分いへば分かつてくれる、てきぱきしたもので。それに、顔を見ると、此方に体裁も、つくろひも、かけひきも、其のかけひきも人にさせやしますまい。そこが偉い、親みのうちに、おのづから、品があつて、遠慮はないまでも、礼は失はせない。そしてね、相対すると、まるで暑さを忘れましたつけ、涼しい、潔い方でした。(略)私は不断から、夏目さんの、あの夏目金之助と云ふ、字と、字の形と、姿と、音と音の響とが、だいすきだったんです、夏目さん、金之助さん。失礼だが、金さん。何うしても岡惚れをさせられるぢやありませんか。
さすが漱石をして「天才」と言わせた人物だけのことはある。目の前に漱石が生き生きといるようである。相対する二人の出会いは一度きりだったかもしれないが、鏡花は漱石に好印象をもち、また漱石も率直で歯切れが良く、どこか可愛げのある鏡花に好印象を抱いたことだろう。
漱石は鏡花と同郷で、紅葉門下から自然主義に走った徳田秋声にも、朝日新聞連載の機会を設けている。『黴』(1911年8月1日~11月3日)、『奔流』(1915年9月16日~1916年1月14日)の2作品である。