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3.関東大震災と三人
関東大震災
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、大きな地震が関東一帯を直撃した。関東1府(東京府)6県の死者・行方不明者は13万人を超え、全半壊2万5千戸。各所で火災が発生し、おりからの強風も手伝って燃え広がり、焼失戸数は4万5千戸に達した。世に言う「関東大震災」である。
地震の規模を示すマグニチュードの概念は1935年頃から使われるようになったため、関東大震災のマグニチュードはわからないが、さまざまなデータを分析して、マグニチュード7.9と推定する専門家もいる。また、震度も明確ではないが、神奈川県南部、房総半島南部では震度7に達したとみられている。
震度は地震波の方向や地下構造などによって、地域的にかなりばらつきがあるが、東京市内では、概ね震度5。麹町区の大手町から日比谷にかけて震度6。神田区では神保町などが震度6、三崎町から麹町区の飯田町にかけて震度7。浅草区の北部でも震度6、一部に7の地域もみられる。一方、隅田川を越えた本所区・深川区は概ね震度6で、そこに7の地域が点在している。当時、震度観測がおこなわれていたわけではないので、これらの震度は木造住宅の倒壊率など各種データを分析した推定である。
このように関東大震災は大きな揺れをもたらした地震であるが、今日では震度5程度では多大な被害が発生することはない。今日の基準からみて、震度の割に大きな被害になったのは、住宅の全壊と火災である。神田区・日本橋区・京橋区・浅草区、それに隅田川を越えて、本所区・深川区のほぼ全域に火災が拡がり、火の手は下谷区・本郷区・芝区の一部に伸びていた。麹町区・赤坂区でも火災が発生した。東京市内における死者はおよそ91000人、このうち焼死が76000人余と、8割以上が火災によって生命を奪われたもので、木造建築が広がった大都会における地震の恐ろしさを見せつけられた。
鏡花、秋聲、犀星ともに、すでに東京人として生活していたから、三人ともあの未曾有の揺れを体験し、恐怖の時を過ごさなければならなかった。このように書きたいところであるが、秋聲だけは、金沢でおこなわれる姪(三姉かをりの次女冨)の結婚式に出席するため、8月30日の夜行で東京を発っており、関東大震災を直接体験せずに済んだ。しかしながら、鏡花、犀星には容赦なく襲いかかったのである。
鏡花が体験した関東大震災
50歳台に入っていた鏡花は下六番町(現、六番町)の家で地震にあった。推定震度は5強。幸い家の倒壊は免れたが、隣町の中六番町(現、四番町)から出火し、鏡花夫妻も近隣の人たちと夢中で逃げた。しかし、しばらくして、当面大丈夫そうだということで、みんな様子を見ながら何度も家に戻り、はきものを履いたり、荷物を持ち出したりした。鏡花は小さな観世音の塑像と父が彫った真鍮の迷子札を懐にしまった。女中は台所から葡萄酒を二瓶持ち出し、鏡花夫妻は気つけ薬のつもりで一杯あおり、近所の人たちにも分けた。
ところがその後、火は飛び火し、強い北風にあおられて、上六番町(現、三番町)から一気に南へ燃え広がった。少し離れているとはいえ、いつまた風向きが変わって、類焼しないともかぎらないので、風上にあたる外堀公園へみんなで避難した。やがて里見弴がやって来て、挨拶を交わした後、有島邸へ急いで行った。里見は赤坂の旅館で仕事をしていたが、旅館がつぶれ、幸い二階にいた里見は助かって、窓から屋根伝いに降り、山王神社へ逃げたが、火に追われてさらに逃げてきたという。
結局、鏡花の住む麹町区では、飯田町(現、飯田橋)一帯、上六番町・中六番町・上二番町・下二番町・元園町(現、三番町・四番町・二番町・麹町)一帯が広範囲に焼失した。地図で見てみると、鏡花の自宅は北・東・南の三方向に焼失地域が拡がっており、よく焼けなかったと思わされる。
鏡花夫妻は二晩露宿して、3日になってようやく帰宅した。さすがに潔癖症の鏡花も、そんなことも言ってはおられず、何とか避難生活を生き延びた。ただ、便所だけはそうもいかなかったようで、すずが四谷の髪結いの家に頼み込んで、やっと用をたした。手洗鉢の水が白く濁ってぬるぬるするので、あわてて手をひっこめたが、消毒液ということがわかって一安心するという場面もあったという。
作家というものは、このような恐怖体験も文章にしてしまう。鏡花は『露宿』と『十六夜』を「女性」10月号と「東京日日新聞」(10月1日から5日まで連載)に発表した。この後、鏡花は11月、『間引菜』(「週刊朝日」)・『雨ばけ』(「随筆」)を発表した。
犀星が体験した関東大震災
犀星にとって、関東大震災は最悪とも言える時期に襲った。と言うのも、数日前の8月27日、長女朝子が生まれていたのである。豹太郎を亡くし、「今度こそは」の思いの中、襲いかかった大地震である。
母子ともに神田駿河台の浜田病院に入院中。田端の家は無事だったが(推定震度5弱)、家屋が密集した東京市内はどうなっているのか。『評伝室生犀星』によると、犀星は小畠義種と自宅から近い駒込神明町でタクシーを拾って団子坂まで来たが、その先は通行禁止で引き返したという。このような大災害の中でもタクシーが走っていたとは驚きである。
なお、ここで登場して来た小畠義種。小畠生種の息子、悌一の弟にあたる。当時、19歳。文学に憧れ、伯父犀星(私は犀星の実父生種説をとっているので、犀星の腹違いの弟にあたる)を頼って東京へ出て来ていて、この大震災に遭遇した。
夕方の情報では、浜田病院は午後3時頃、焼失したと言う。避難先は不明。安否不明。犀星の不安はつのるばかりであっただろう。
浜田病院は1894年、増田知正が設立した東京産婦人科病院が前身で、1901年、浜田玄達が病院長に就任した。浜田は日本の「産婦人科学の父」と呼ばれる人物で、1914年、病院名も浜田病院に改称した。しかし、翌1915年に亡くなり、1919年に副院長の小畑惟清が病院長に就任。以後、2018年に合阪幸三が院長に就任するまで、小畑姓で院長を引き継いで来た。法人名に小畑会、病院名に浜田病院と、小畑・浜田の名を冠している。東京産婦人科病院以来、神田区駿河台袋町13番地にあり、現在に至っている(現住所は千代田区神田駿河台2丁目5)。西隣りに文化学院が設立された1921年。浜田玄達の長女栄子が身ごもって、18歳で自ら生命を断ち、当時のマスコミを大きく騒がせた。
さて、余震が続く中、犀星は自宅近くのポプラ倶楽部の空き地で一夜を明かした。『田端文士村』によると、ポプラ倶楽部は付近の避難民でいっぱいになり、そればかりか、田端の隣りにある渡辺町(現、日暮里9丁目)にいた彫刻家藤井浩祐一家がモデルも含めて十何人、日本画家の木村武山夫妻もやって来たと言う。ポプラ倶楽部は田端に住む美術家たちの交流の場としてつくられたテニスコートのあるクラブハウスで、コートは2面、300坪の敷地の周囲にポプラが植えられていた。犀星の書生をしていた平木二六が前年から番人役として住み込んでいた。犀星が世話したものである。現在、田端保育園が建っている。
夜が明けて、被災した人たちが続々と上野公園に避難しているとのうわさが流れ、犀星は義種、詩人仲間の百田宗治とともに、上野公園を捜しまわり、昼近く、美術協会の建物(現在は上野の森美術館が建っている)に避難していた妻子と再会した。
犀星はこのようすを『杏っ子』でつぎのように描いている。
動物園裏から公園にはいると、小便の臭いと、人いきれと、人の名前を呼ぶ声と、そしてそれらの人間のながれが、縦横無尽に入り乱れ、幟に書いた人の名前、旗に記された家族の尋ね人に、鳥籠を下げた女の子までが交って息苦しく、泥鰌の生簀のようだった。
殆ど全山隈なくさがし終えた時に、突然、一等年のわかい甥が短期美術館の建物の前に出たときに、彼はへんな声でいった。この中がくさいぞ。
神田区を焼き尽くした火災は、湯島・外神田から不忍池・上野公園辺りまで拡がっており、おそらく、火に追われるように広い御成道を神田の方から逃げて来たのであろう。上野公園は罹災民集団の一大集結地(いわゆる広域避難場所)になっていた。犀星はその時の様子を妻から聞いたのであろう。その様子を、『杏っ子』で、平四郎の妻りえ子と生後四日目の杏子が、丸山看護婦といっしょに浜田病院から上野公園へ避難する様子として描かれている。
『我が愛する詩人の傳記』によると、後に百田宗治の還暦の祝いがおこなわれ、体調を壊した犀星に代わり、娘の朝子が出席した。犀星といっしょに捜した朝子が会に出席してくれたことを、百田はとても喜び、二次会まで誘ったと言う。その後、肺がんにかかって、房総海岸の岩井町に療養していた百田の見舞いに、再び父の代理として朝子が訪れている。
田端は家屋倒壊も少なく、火災も免れた。田端駅には救護品配給所が置かれ、瀧野川第一小学校(現、田端小学校)も被害者の救護所などとして、重要な役割を果たした。どこからか、西ヶ原の火薬庫に火をつける者がいたとか、井戸の中に毒を投げ入れる者が現れたとかデマが飛び、各地で自警団がつくられた。
田端の自宅で関東大震災に遭った芥川龍之介は、『大正十二年九月一日の大震に際して』の「大震雑記、五」の項で次のようなことを書いている。大火の原因は朝鮮人だそうだと言う芥川に、「嘘だよ、君」と菊池寛。不逞鮮人はボルシェビキの手先だそうだ、と言うと、「嘘さ、君、そんなことは」。芥川は「善良なる市民というものはボルシェビキや不逞鮮人の陰謀を信じるもの。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じているらしい顔つきを装はねばならないが、野蛮な菊池は信じもしなければ、信じる真似もしない」として、
尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。
と結んでいる。
『田端文士村』によると、田端でも諸所方々で自警団がつくられたが、東台倶楽部では芥川の発案で、丸太に梯子を固定させて通せんぼをつくり、通行をチェックした。「善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる」芥川は、陰謀を信じる者だったのか、信じているらしい顔つきをしている者だったのかわからないが、かなり積極的だったようだ。しかしながら、その内実はのどかなもので、しだいに親睦会のようになり、芥川の話術に引き込まれて、夜警に出るのが楽しみになったという。東台の自警団は二ヵ月余続いた。ポプラ倶楽部のそばにも自警団の詰所がつくられた。
震災の混乱から妻子を守ろうと、犀星は妻子を帰郷させる決意をしたが、赤羽駅には避難民が殺到しており、汽車に乗るどころではなく、一旦、田端の家に戻った。
哀れなのは19歳の堀辰雄であった。7日になってようやく犀星のもとにやって来た辰雄の話しによると、火の勢いに追われて父母とともに隅田川に飛び込んだが、母はそのまま行方不明。自宅も焼け、父といっしょに南葛飾四ツ木村(現、葛飾区四つ木)に避難していると言う。辰雄の本が出版されることを待ち望み、製本所に挨拶までしていた母は、息子の出版を見ることもなく亡くなったのである。犀星は金沢へ帰るにあたって、芥川に辰雄の指導を託し、金沢から度々激励の手紙や葉書を送っている。
秋聲は金沢にいて、直接大震災を体験しなかった。本郷にある自宅も無事であった(推定震度5弱)。秋聲は、今度の震災は日本国民の思想が際立って一変するとか、転機を示すことにはならない、少なくとも自分自身はそうであると、報知新聞の『震災が何を人心にもたらしたか』と言う、10月10日付記事に書いている。秋聲はさらに、自然界が不安定で、何時どういうことがあるか知れないということは子どもの時分から考えていることで、幾度となくかかる災害の悲惨を想像に描いていたと、続けているのである。秋聲の人生観をよく表しているとみる人たちもいるが、もし秋聲が東京で被災していたら、どのような文章を書いたであろうか。
震災後の鏡花
鏡花は、震災の翌年1924年、小品集『七宝の柱』(新潮社)、『愛府』(新潮社)、『番町夜講』(改造社)を出版。『二三羽――十二三羽』(女性)・『眉かくしの霊』(苦楽)を発表した。芥川との交流も続いていた。
4月に鏡花は、すずといっしょに修善寺の新井旅館に宿泊した。そこで偶然、中戸川吉二と出くわした。中戸川は病後の妻の静養と、身体があまり丈夫でない子どものため、沼津の近辺に借家を探しに来ていて、適当な家が見つからず、温泉に入るため新井旅館に宿泊して三日目であった。鏡花は女性を連れての「お忍び」であると誤解したと言う。中戸川は1917年冬、里見弴に連れられて鏡花の家を訪ねたことがある。
夏、鏡花はすずといっしょに大阪に旅した。特急の白切符(一等車、現在のグリーン車)である。旅行好きの鏡花も白切符は初めてであった。白切符はプラトン社から贈られたものである。この年1月、大阪のプラトン社から雑誌「苦楽」が創刊され、鏡花は5月号に『眉かくしの霊』を掲載した。原稿を持ってプラトン社東京支社のある丸ノ内ビルディングを訪れた鏡花は、近じか大阪の方へ旅行すると言う話しをした。その結果の白切符だった。
大阪では水上瀧太郎が出迎え、小山内薫、プラトン社で「苦楽」の編集をおこなう川口松太郎、谷崎潤一郎に会い、京都に来ていた小村雪岱も大阪に呼んでいる。
1925年7月、春陽堂から『鏡花全集』(全15巻)が刊行され始めた。編集委員は芥川、小山内薫、久保田万太郎、里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎の6名。これに先立ち、5月に春陽堂発行の雑誌『新小説』臨時増刊号「天才泉鏡花」が出版されたが、そこには犀星も寄稿している。
1926年春、改造社の山本実彦社長は『現代日本文学全集』を1冊1円(円本)で販売し、出版不況の打開策にしようとしていた。尾崎紅葉の巻に関して紅葉夫人に相談していた山本は、子育てで出版にあまり関心のない紅葉夫人にしびれを切らし、秋聲に相談したところ、鏡花に話すべきとの助言があり、二人で鏡花宅を訪れた。
話しの中で紅葉が若死にだったと言う話題になり、秋聲が「あの年で胃ガンになるなんてのも、甘いものを食いすぎたせいだよ」云々と言ったものだから、鏡花は胴丸火鉢をとび越えて、秋聲の身体を押し倒したかと思うと、いきなり頭を何発もなぐりつけた。山本がようやく二人を引き離し、秋聲を二階から引きずるように下ろし、外に待たせた車に乗せたという。
この年、鏡花は金沢に旅している。
震災後の秋聲
8月30日、秋聲は姪(三姉かをりの次女冨)の結婚式のため帰郷していた。9月1日、関東大震災が発生したが、冨の結婚式は予定通り3日におこなわれた。秋聲は鉄道の復旧を待って、12日、東京に戻った。自宅も家族も無事であった。
10月、秋聲は名古屋へ行き、桐生悠々と再会した。『掻き乱す音』を名古屋新聞に連載するための打ち合わせである。『掻き乱す音』は10月27日から翌年3月31日まで連載された。秋聲は11月に『ファイアガン』(中央公論)、翌年1月に『不安のなかに』(中央公論)・『余震の一夜』(改造)を発表した。いずれも震災に題材を得た作品である。
1924年3月29日から『叛逆』が国民新聞に連載されるようになった(8月18日まで)。この3月、山田順子が小説家をめざして上京。原稿を携えて、当時、雑誌「婦人之友」の懸賞小説の選者をしていた秋聲のもとにやって来た。秋聲は瓜ざね顔の浮世絵風の順子に惹かれたが、作品は未熟で、順子は落胆して帰郷した。
松本徹著『徳田秋聲』によると、順子は1901年、秋田県由利郡本荘町(現、由利本荘市)に廻船問屋を営んでいた山田古雪の長女として生まれ、県立秋田高等女学校(現、秋田北高校)を卒業し、1920年、東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚、小樽に住んでいた。
5月。随筆社の催しで、秋聲は田山花袋、近松秋江、宇野浩二らと玉川に遊んだ。8月になって、ほぼ一年ぶりに秋聲は金沢へ。病に臥せる次兄を見舞うためであった。帰京してひと月余、妻はまの母小沢さちが脳溢血のため、秋聲の自宅で亡くなった。72歳であった。
この年、秋聲は『叛乱』に続いて、『蘇生』を東京日日新聞に連載(12月13日から翌年6月16日まで)、『車掌夫婦の死』(中央公論)、『花が咲く』(改造)、『風呂桶』(改造)などの作品を発表している。秋聲はレコードをよく聴くようになっていた。
順子は12月、増川と離婚し、三人の子どもとも別れて、再び上京して来た。今度は『流るるままに』と言う作品を持って。秋聲は聚芳閣の足立欣一を紹介した。順子は足立と関係をもつことと引き換えに、出版を手に入れた。まさに「枕営業」である。すでに、1925年に入り、『流るるままに』は出版にむけて歩むことになったが、装幀を担当した人物が竹久夢二!依頼したのは秋聲であった。夢二は当時、松沢村松原(現、世田谷区松原)に新築した、アトリエを兼ねた少年山荘に住んでいた。夢二にはお兼(お葉)と言う長年付き合っている女性がいた。彼女との間には子どもも生まれている(夭折)。
4月4日、お兼は心身の不調を癒すため、金沢近郊の深谷温泉にやって来た。どうしてこの地を選んだかよくわからないが、知らないうちに秋聲の故郷へやって来ていたことになる。深谷温泉は湯の温度が低く、私には寒い思いをしながら湯舟につかっていた思い出がある。湯から上がると、身体がホカホカしてきた。
12日、『流るるままに』が出版され、秋聲も序に文章を書いている。24日、夢二ともう一度やり直そうと、お兼が深谷温泉から戻って来た。しかし、その時、夢二は順子と同棲し、結婚まで約束していた。偶然ではあるが、お兼も順子も由利本荘の出身、同郷であった。お兼20歳、順子23歳、夢二40歳であった。順子は夢二とお兼の関係が切れていないとみるや、再び足立の元に走った。この間、順子は郷里の県会議員村田光烈とも交渉を続けてきていたという。こうして書いて来ると、まさに男女が流るるままに行動しているように感じられる。
この1925年、秋聲の新聞連載は『乱れ髪』(万朝報、10月21日から翌年3月18日)のみ。他に雑誌への掲載が『挿話』(中央公論)など7編など。
年末、秋聲は仕事をするため、年末から丸ノ内ホテルに宿泊して、1926年、大正15年を迎えた。一旦、自宅へ帰って、雑煮を食べて新年を祝い、午後にはホテルへ戻って、同宿の正宗白鳥夫妻と帝国劇場で歌舞伎を見て、ベッドに入った。翌朝、はまが脳溢血で倒れたと子どもから電話があった。自宅へ着くと、妻はまだ生命があり、医者は心配ないと言って帰ったが、その直後、容体は急変し、一時間ほどで息絶えた。23歳の長男から、9歳の末娘百子まで、6人の子が残された。
順子は郷里の秋田ではまの死を知り上京。家事と子どもの世話を申し出て、近くに宿をとり、徳田家に通って来た。初七日前であった。そして、四十九日を前に秋聲と順子は関係をもった。二月末、順子が宿泊している宿屋の一室。秋聲56歳、順子26歳。まさに親子の差があった。順子が書いた『秋聲と女弟子』(「中央公論・文芸特集」、1951年1月)によると、秋聲は病気で臥せっている彼女の蒲団を足元からめくると、突然襲いかかり、顔を彼女の腹部に押し付けて来た。そして、「今のことは、ここ切りで忘れておくれ、そして許してお呉れ」と言いつつ、同じ宿に部屋をとり、泊まり込んでしまった。川崎長太郎によると、秋聲が二、三日外泊して姿を見せないので、長男の一穂が近くの宿屋へ行き、順子の部屋を開けると、昼間から二人は同衾しており、息子を見て秋聲は声を上げて泣き出したと言う。一穂によると、秋聲は順子の部屋に座っており、家に戻るよう頼むと、「俺はこれでロマンティックなところもあるんだ」と、目に涙をためていたと言う。
はまが亡くなった1926年。順子は上野駅から郷里の秋田にむかった。4月30日である。この時、順子は見送りに来た秋聲の娘二人も連れて行ってしまったという。順子は5月1日、本荘に到着。6月25日には秋聲も本荘にやって来た。そして、順子が痔の手術を終えると、月末には帰京した。秋聲は順子の願いに応えて、7月9日、再び本荘を訪れた。
順子は増川と別れる時、三人の子ども達を増川の家に置いてきたが、秋聲と交際するうち、娘二人を連れて来て、姉娘を永井荷風のかつての夫人で、日本舞踊の藤間静枝の門に入れ、そこで彼女の年下の愛人、劇作家の勝本清一郎を知り、後に親しくなる。順子は暮れに痔の手術を受け、執刀した八代豊雄と親しくなり、関係をもち、1927年には、逗子海岸に転居し、慶応大学生井本威夫と結婚。かと思うと、再び秋聲家に舞い戻り、結婚の噂も立つ。その年の大晦日、秋聲は順子とその娘を追い出し、一応関係に終止符を打ったが、順子は1928年、勝本清一郎といっしょに田端へ転居している。そこは、犀星が関東大震災の時に住んでいた、そして帰京後、しばらくしてまた住み始めた田端523の家のすぐ近くであった(この年、犀星は田端を後に、大森馬込へ転居している。それにしても、順子という人。男女の関係がどうなっているかも、まったくわからない状況である。
ところがこれに驚いてはいられない。秋聲も秋聲で、『神経衰弱』(1926年3月)から『日は照らせども』(1928年4月)までの二年一カ月の間に、順子に当たる人物が登場する、いわゆる「順子もの」と呼ばれる短編を29編発表した。この間に秋聲が発表した作品は、長編3編、短編37編であるから、「順子もの」が4分の3を占めている。
「順子もの」で秋聲は赤裸々に二人の関係を描き出した。確かに、順子は離婚しており、秋聲も妻を亡くしており、形式的には不倫関係と言えないかもしれないが、世間の目は不倫にむけられる、冷たくも好奇心に満ちた目であった。子ども達は傷ついた。娘は学校へ行くのを嫌がり、息子もどのようなつもりで書くのかと厳しく問い詰めた。そして、とうとう順子までも自分たちのことは書かないで欲しいと、秋聲に誓約書を書かせた。それにも関わらず、秋聲は書き続けた。自分には財産もなく、本屋には借金だらけで、子どもも多く、書いて稼がなければならない、と言うのが秋聲の言い訳であった。竹久夢二もそうであるが、若くて美しい娘と付き合う喜びは、いつしか作品をつくり出すための付き合いに変ってしまった感がある。
震災後の犀星
秋聲が9月12日、金沢から帰京しているので、この頃までには鉄道も復旧していたのであろう。震災直後、妻子を赤羽駅から帰郷させることができず、田端の家に戻っていた犀星は、10月になって、妻子を伴い帰郷。平木二六も同行した。いつかまた戻って来るつもりだったのだろう。家主谷脇岩千代との賃貸契約は解除しなかった。
犀星の住んだ田端523番地の借家には芥川の世話で菊池寛が住むようになった。菊地は本郷駒込神明町317番地に住んでいたが、震災のため家主が戻って来ることになり、急に立ち退きを迫られたのである。この年、文藝春秋社を立ち上げ、雑誌「文藝春秋」で順調な滑り出しをしていた矢先の大震災。九月号は全焼、十月号は休刊。そして立ち退き。菊地は田端で二ヵ月過ごし、雑司ヶ谷へ移り、代わって酒井真人が住むようになった。
酒井は作家で、後に映画評論家になった。1898年、金沢に生まれ、東京帝国大学英文科を卒業。川端康成らと第6次「新思潮」刊行。文藝春秋編集同人として菊地と親しい関係にあった。
さて、金沢へ着いた犀星たちは、とりあえず池田町にある妻の実家に数日を過ごし、近くの上本多町川御亭31番地に貸家を見つけて、そこに落ち着くことにした。上本多町は小立野台西側下にあり、現在の本多町1~3丁目。加賀藩家老本多氏の下屋敷があったところ。川御亭は鞍月(倉月)用水に架かる思案橋付近一帯の地名で、現在の本多町1丁目と2丁目の境界付近である。12月には小畠悌一・南花子の婚儀にあたって、犀星夫妻は媒酌人を務めている。
犀星は1年余にわたって、金沢で生活することになるが、さまざまな人が訪ねて来ている。
百田宗治は11月に訪ねて来た。いっしょに花札に興じ、大震災の時、犀星の妻子の行方を求めて、避難先とみられる上野公園をいっしょに捜しまわってくれた人物である。その百田が金沢に犀星を訪ねた。外出から戻った犀星について百田は、《
『君か!』さう言って私の前に突立つたその眼の何処かに、いかにも彼らしい堰き止められた涙のにじんでゐるのを見た。
》と記している(随筆集『路次ぐらし』1934年刊)。
後に犀星の葬儀委員長を務めることになる中野重治も、級友の高柳真三といっしょに、この11月に犀星を訪ねて来た。中野は第四高等学校の学生であったが、文学の虜になって落第を重ねたため21歳であった。高柳の母が犀星の妻とみ子の教師時代の先輩であった関係で、犀星に取り次ぐことができたもので、高柳は後に東北帝国大学の教授になる。
寺町台が突き出して、犀川がぐっと狭くなったところに、橋脚のまったくない、アーチ型の鉄橋が架けられている。犀川大橋である。橋の上から雨宝院も望まれる。その堂々たる姿は、そこをゴーゴーと走る市電とともに、子ども時代の私にとって誇りであった。川幅が狭くなっているため、この辺りで犀川は度々氾濫し、犀川大橋が流されることもあった。
金沢の路面電車(市電)は1919年、金沢駅~橋場町~兼六園下が開通したのを皮切りに、同じ年、武蔵が辻~香林坊、兼六園下~香林坊~犀川大橋、兼六園下~小立野、1920年に犀川大橋~野町、1921年に野町広小路~寺町、1922年には橋場町~小坂神社前が開通していた(小坂神社前~東金沢は1945年開通)。犀星が金沢駅から池田町の妻の実家へ来る時も市電を利用できた。私が子どもの頃、大正年代に製造された電車が走っていたので、その中には、犀星が乗った電車もあったかもしれない。
路線延長され、野町・寺町にむけて市電が通るため、犀川大橋も頑丈につくり替えられていた。ところが、その犀川大橋が1922年の氾濫で流され、これを機に橋脚のない鉄橋に架け替えられることになった。
震災で金沢へ戻った犀星は、12月になって、川岸町12番地の2階建ての貸家に転居した。川岸町は文字通り犀川の「川岸」にあり、犀川大橋のひとつ上流の桜橋の袂にあたる。川岸町から200メートルほど下流の河畔には現在、「あんずよ・・・」の詩が刻まれた室生犀星文学碑が建てられている。
すぐ下流の犀川大橋は架け替え工事の真っ最中であった(1924年完成)。対岸の寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツも、一日おきくらいに訪ねて来て、孫にあたる朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
12月後半、一高生の堀辰雄が犀星のもとを訪れた。堀辰雄に関する年譜には、「冬の初め肋膜炎のため休学」したことは記されているが、金沢行きのことは記されていない。しかしながら、『評伝室生犀星』では、《
持参する土産に関する12月9日消印の堀辰雄宛葉書と、翌年12月30日消印の辰雄宛葉書、「堀辰、昨冬金沢にあり雪譜を弄す。今冬君居らず、しかも雪なし」とあることが訪問を証明している。
》と、堀辰雄が金沢の犀星のもとを訪れたことを事実として捉えている。
1924年を迎え、雪のまだ消えない頃、中野重治が同じ四高の窪川鶴次郎を連れて、犀星を訪ねて来た。1903年、静岡県に生まれた窪川は、開業医の養子であったが、詩歌に魅せられて医師になる意欲を失っていた。まもなく窪川は四高を退学し、上京。二年後に田島いね子(後、佐多稲子)と結婚する。
5月15日、芥川がやって来た。犀星は兼六園内の茶屋三芳庵別棟に宿を用意し、接待に努めている。16日には寺町にある老舗鍔甚(つば甚)で鮎を食べ、17日には北間楼で句会を催している。会には、北声会の先輩である桂井未翁・太田南圃、小畠悌一(貞一)も同席している。18日には同じ顔触れで野田山を散歩している。この他、千日町に隣接する西の廓「のとや」で若い芸妓しゃっぽを同席させて一席設けている。
芥川にとっては、夢のようなひと時であっただろう。一、二日のつもりが延びて、19日の夜行で芥川は大阪にむかった。金沢駅には犀星だけでなく、未翁・南圃、悌一(貞一)、義種、それに朝日新聞記者、三芳庵女中らが見送りに来た。悌一、義種とも小畠生種の息子である。ここにも、犀星が実家と疎遠な間柄でなかったこと、むしろ緊密な関係であったことをうかがい知ることができる。
7月22日、夏休みを利用して、堀辰雄が再び金沢を訪れ、8月3日まで滞在し、犀星と犀川で泳ぐこともあったと言う。7月下旬、軽井沢のつるや旅館にやって来た芥川に誘われた犀星は、8月2日の夜行で金沢を発ち、一日遅れて辰雄も金沢から軽井沢にやって来た。こうして三人がつるや旅館に宿泊し、辰雄は犀星・芥川二人の師と食事を共にした。芥川は同宿の松村みね子(本名、片山広子)母娘と食事をすることもあり、しだいに14歳年上のみね子に惹かれていった。辰雄も芥川の想いを感じ取っていたようである。
8月13日夕方、犀星は芥川・みね子母娘・つるや主人と自動車で碓氷峠に上り、翌日の夜行で金沢に戻った。9月、犀星の詩や随筆を集めた『高麗の花』が新潮社から出版された。
犀星一家が金沢生活を始めて1年経過した。和服の着流しで街中を歩くことにも違和感なく、川魚料理専門の鮴屋を贔屓にし、古い軸物や陶器など骨董品の入札にも精を出し、ある面、金沢生活を満喫していたが、出版社との連絡は不便で、暮鳥が亡くなったのも知らないくらい、文人の情報も入りにくい。震災後の東京も少しは落ち着きを取り戻したようで、犀星は上京を決意。1925年1月、単身上京した。
犀星が震災まで過ごしていた田端523番地の借家は、家賃50円ほど。敷地およそ60坪。8畳、6畳、納戸3畳、玄関2畳。これでは狭いので犀星は庭に6畳の離れを建てた(暮笛庵)。60坪あるのに家が狭いと言うことは庭が広いと言うことで、犀星にとってこれが魅力だったようだ。庭木や庭石を入れて庭づくりに励んでいた。そのような家であったから、犀星はどうしてもここへ戻りたかった。
『田端文士村』によると、1924年10月、平木二六がこのような犀星の意向を下島勲に伝え、それがすぐ芥川に伝わって、現住人の酒井に家を明けさせる件について、芥川と下島が引き受けることになったと言う。平木は震災の年の12月末に金沢から田端へ戻り、ポプラ倶楽部に住むようになっていた。ところが温和な酒井を無理に追い立てることができないなど、種々の事情で戻ることができず、単身上京した犀星はとりあえず田端613番地(現在の田端4丁目19)に住家を得、2月に田端608番地(現在の田端3丁目25)に移り住んで家族を迎えた。そして、4月になって、念願の田端523番地に戻った。
【参考文献】
武村雅之:『1923年関東地震による東京都中心部(旧15区内)の詳細震度分布と表層地盤構造』、日本地震工学会論文集、第3巻、第1号、2003年
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
松本徹:『徳田秋聲』、笠間書院、1988年
船登芳雄:『評伝室生犀星』、三弥井書店、1997年
室生犀星:『我が愛する詩人の傳記』、中央公論社、1959年
森勲夫:『詩魔に憑かれて――犀星の甥・小畠貞一の生涯と作品――』、橋本確文堂、2010年
近藤富枝:『田端文士村』、中央公論新社、1983年(改版2003年)
⇒「勝手に漱石文学館」の「漱石こぼれ話」の中に、田端当時の犀星について記述した項がある(25.田端点描)。
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