秋聲が9月12日、金沢から帰京しているので、この頃までには鉄道も復旧していたのであろう。震災直後、妻子を赤羽駅から帰郷させることができず、田端の家に戻っていた犀星は、10月になって、妻子を伴い帰郷。平木二六も同行した。いつかまた戻って来るつもりだったのだろう。家主谷脇岩千代との賃貸契約は解除しなかった。
犀星の住んだ田端523番地の借家には芥川の世話で菊池寛が住むようになった。菊地は本郷駒込神明町317番地に住んでいたが、震災のため家主が戻って来ることになり、急に立ち退きを迫られたのである。この年、文藝春秋社を立ち上げ、雑誌「文藝春秋」で順調な滑り出しをしていた矢先の大震災。九月号は全焼、十月号は休刊。そして立ち退き。菊地は田端で二ヵ月過ごし、雑司ヶ谷へ移り、代わって酒井真人が住むようになった。
酒井は作家で、後に映画評論家になった。1898年、金沢に生まれ、東京帝国大学英文科を卒業。川端康成らと第6次「新思潮」刊行。文藝春秋編集同人として菊地と親しい関係にあった。
さて、金沢へ着いた犀星たちは、とりあえず池田町にある妻の実家に数日を過ごし、近くの上本多町川御亭31番地に貸家を見つけて、そこに落ち着くことにした。上本多町は小立野台西側下にあり、現在の本多町1~3丁目。加賀藩家老本多氏の下屋敷があったところ。川御亭は鞍月(倉月)用水に架かる思案橋付近一帯の地名で、現在の本多町1丁目と2丁目の境界付近である。12月には小畠悌一・南花子の婚儀にあたって、犀星夫妻は媒酌人を務めている。
犀星は1年余にわたって、金沢で生活することになるが、さまざまな人が訪ねて来ている。
百田宗治は11月に訪ねて来た。いっしょに花札に興じ、大震災の時、犀星の妻子の行方を求めて、避難先とみられる上野公園をいっしょに捜しまわってくれた人物である。その百田が金沢に犀星を訪ねた。外出から戻った犀星について百田は、《
『君か!』さう言って私の前に突立つたその眼の何処かに、いかにも彼らしい堰き止められた涙のにじんでゐるのを見た。
》と記している(随筆集『路次ぐらし』1934年刊)。
後に犀星の葬儀委員長を務めることになる中野重治も、級友の高柳真三といっしょに、この11月に犀星を訪ねて来た。中野は第四高等学校の学生であったが、文学の虜になって落第を重ねたため21歳であった。高柳の母が犀星の妻とみ子の教師時代の先輩であった関係で、犀星に取り次ぐことができたもので、高柳は後に東北帝国大学の教授になる。
寺町台が突き出して、犀川がぐっと狭くなったところに、橋脚のまったくない、アーチ型の鉄橋が架けられている。犀川大橋である。橋の上から雨宝院も望まれる。その堂々たる姿は、そこをゴーゴーと走る市電とともに、子ども時代の私にとって誇りであった。川幅が狭くなっているため、この辺りで犀川は度々氾濫し、犀川大橋が流されることもあった。
金沢の路面電車(市電)は1919年、金沢駅~橋場町~兼六園下が開通したのを皮切りに、同じ年、武蔵が辻~香林坊、兼六園下~香林坊~犀川大橋、兼六園下~小立野、1920年に犀川大橋~野町、1921年に野町広小路~寺町、1922年には橋場町~小坂神社前が開通していた(小坂神社前~東金沢は1945年開通)。犀星が金沢駅から池田町の妻の実家へ来る時も市電を利用できた。私が子どもの頃、大正年代に製造された電車が走っていたので、その中には、犀星が乗った電車もあったかもしれない。
路線延長され、野町・寺町にむけて市電が通るため、犀川大橋も頑丈につくり替えられていた。ところが、その犀川大橋が1922年の氾濫で流され、これを機に橋脚のない鉄橋に架け替えられることになった。
震災で金沢へ戻った犀星は、12月になって、川岸町12番地の2階建ての貸家に転居した。川岸町は文字通り犀川の「川岸」にあり、犀川大橋のひとつ上流の桜橋の袂にあたる。川岸町から200メートルほど下流の河畔には現在、「あんずよ・・・」の詩が刻まれた室生犀星文学碑が建てられている。
すぐ下流の犀川大橋は架け替え工事の真っ最中であった(1924年完成)。対岸の寺町台に部屋を借りて一人暮らしする養母ハツも、一日おきくらいに訪ねて来て、孫にあたる朝子をあやして帰って行った。初めて東京を訪れ、生まれたばかりの豹太郎に会い、それも束の間で豹太郎を失っているだけに、ハツにしても、朝子を可愛くて仕方がなかったのであろう。犀星もハツに毎月20円与えていたと言う。
12月後半、一高生の堀辰雄が犀星のもとを訪れた。堀辰雄に関する年譜には、「冬の初め肋膜炎のため休学」したことは記されているが、金沢行きのことは記されていない。しかしながら、『評伝室生犀星』では、《
持参する土産に関する12月9日消印の堀辰雄宛葉書と、翌年12月30日消印の辰雄宛葉書、「堀辰、昨冬金沢にあり雪譜を弄す。今冬君居らず、しかも雪なし」とあることが訪問を証明している。
》と、堀辰雄が金沢の犀星のもとを訪れたことを事実として捉えている。
1924年を迎え、雪のまだ消えない頃、中野重治が同じ四高の窪川鶴次郎を連れて、犀星を訪ねて来た。1903年、静岡県に生まれた窪川は、開業医の養子であったが、詩歌に魅せられて医師になる意欲を失っていた。まもなく窪川は四高を退学し、上京。二年後に田島いね子(後、佐多稲子)と結婚する。
5月15日、芥川がやって来た。犀星は兼六園内の茶屋三芳庵別棟に宿を用意し、接待に努めている。16日には寺町にある老舗鍔甚(つば甚)で鮎を食べ、17日には北間楼で句会を催している。会には、北声会の先輩である桂井未翁・太田南圃、小畠悌一(貞一)も同席している。18日には同じ顔触れで野田山を散歩している。この他、千日町に隣接する西の廓「のとや」で若い芸妓しゃっぽを同席させて一席設けている。
芥川にとっては、夢のようなひと時であっただろう。一、二日のつもりが延びて、19日の夜行で芥川は大阪にむかった。金沢駅には犀星だけでなく、未翁・南圃、悌一(貞一)、義種、それに朝日新聞記者、三芳庵女中らが見送りに来た。悌一、義種とも小畠生種の息子である。ここにも、犀星が実家と疎遠な間柄でなかったこと、むしろ緊密な関係であったことをうかがい知ることができる。
7月22日、夏休みを利用して、堀辰雄が再び金沢を訪れ、8月3日まで滞在し、犀星と犀川で泳ぐこともあったと言う。7月下旬、軽井沢のつるや旅館にやって来た芥川に誘われた犀星は、8月2日の夜行で金沢を発ち、一日遅れて辰雄も金沢から軽井沢にやって来た。こうして三人がつるや旅館に宿泊し、辰雄は犀星・芥川二人の師と食事を共にした。芥川は同宿の松村みね子(本名、片山広子)母娘と食事をすることもあり、しだいに14歳年上のみね子に惹かれていった。辰雄も芥川の想いを感じ取っていたようである。
8月13日夕方、犀星は芥川・みね子母娘・つるや主人と自動車で碓氷峠に上り、翌日の夜行で金沢に戻った。9月、犀星の詩や随筆を集めた『高麗の花』が新潮社から出版された。
犀星一家が金沢生活を始めて1年経過した。和服の着流しで街中を歩くことにも違和感なく、川魚料理専門の鮴屋を贔屓にし、古い軸物や陶器など骨董品の入札にも精を出し、ある面、金沢生活を満喫していたが、出版社との連絡は不便で、暮鳥が亡くなったのも知らないくらい、文人の情報も入りにくい。震災後の東京も少しは落ち着きを取り戻したようで、犀星は上京を決意。1925年1月、単身上京した。
犀星が震災まで過ごしていた田端523番地の借家は、家賃50円ほど。敷地およそ60坪。8畳、6畳、納戸3畳、玄関2畳。これでは狭いので犀星は庭に6畳の離れを建てた(暮笛庵)。60坪あるのに家が狭いと言うことは庭が広いと言うことで、犀星にとってこれが魅力だったようだ。庭木や庭石を入れて庭づくりに励んでいた。そのような家であったから、犀星はどうしてもここへ戻りたかった。
『田端文士村』によると、1924年10月、平木二六がこのような犀星の意向を下島勲に伝え、それがすぐ芥川に伝わって、現住人の酒井に家を明けさせる件について、芥川と下島が引き受けることになったと言う。平木は震災の年の12月末に金沢から田端へ戻り、ポプラ倶楽部に住むようになっていた。ところが温和な酒井を無理に追い立てることができないなど、種々の事情で戻ることができず、単身上京した犀星はとりあえず田端613番地(現在の田端4丁目19)に住家を得、2月に田端608番地(現在の田端3丁目25)に移り住んで家族を迎えた。そして、4月になって、念願の田端523番地に戻った。