1899年になって、1月10日前後、硯友社の新年宴会が神楽町三丁目の料亭「常盤」で開かれた。紅葉はもちろん、鏡花・小栗風葉・柳川春葉・後藤宙外らが集まった。何人かの芸妓がついたが、鏡花はその中の桃太郎と言葉を交わすうち、本名が伊藤すずということを知った。亡母と同じ名、しかも母が嫁いだと同じ18歳。鏡花は因縁を感じつつ、しだいに惹かれていった。
すずは1881年9月28日、岡崎で生まれたが、物心のついた頃には、祖母・母と吉原の引手茶屋「つたの屋」にいた。母と死別したすずは16歳になった1897年、吉原仲之町から転じて、神楽町三丁目2番地にある石井カネが営む芸妓置屋「蔦永楽」の抱芸妓になった(『婦系図』では、蔦吉、お蔦の名前が登場する)。年期を決められた抱芸妓であるから、自由な生活は許されなかったであろう。
神楽坂下から神楽坂に入って、ほどなく右に伸びるのが「かぐら横丁」。神楽坂郵便局(当時)を過ぎ、右に津久戸小学校へ通じる道が「仲通り」。さらに坂を上って右手に入るのが「本多横丁」。そして、善国寺前から右手に伸びるのが「兵庫横丁」。神楽坂の花街は行元寺の境内地に形成されたのを皮切りに、漱石が兄たちに連れて行かれた頃には、仲通りと本多横丁を結んで、神楽坂に並行する路地、「芸者新道」がつくられ、日清戦争(1894~95)頃には、「兵庫横丁」、軽子坂に並行する「かくれんぼ横丁」がつくられ、神楽坂花街は急速に拡大を続けていた。つまり、紅葉や鏡花が住んでいた頃の神楽坂は明治の隆盛期のただ中であった。その後、1907年に行元寺が区画整理で西五反田に移転すると、寺内とよばれる旧境内地に花街が拡大した。「蔦永楽」は「芸者新道」に面していた。
秋になって、紅葉が毘沙門さまの夜店に出かけていると、鏡花と桃太郎が親しげにしているのを見かけた。紅葉はただちに「喜美川」という待合へ出向き、桃太郎の姉分にあたる小ゑんを呼び出し問い質した。小ゑんは紅葉の愛人であったと言われている。小ゑんの計らいで、翌日桃太郎が紅葉に会って自分の思いを打ち明けたが、時期はまだ早いと思った紅葉は鏡花を呼びつけて叱り飛ばし、自分が許すまで桃太郎に会わないことを約束させた(『人間泉鏡花』)。
鏡花が牛込南榎町22番地に引越したのはこの頃であった。南榎町は宗柏寺の西にある滝の坂を上ったところにあり、22番地は東、矢来町に隣接し、紅葉宅から数百メートルの位置であった。鏡花が大塚からこの地に引っ越したのはなぜか。すずに会うためには神楽坂に近くて良いように思われるが、紅葉の家に近すぎる気がする。
鏡花は時々薙城館の秋聲のもとへ遊びに行き、『湯島詣』の構想を練ったと言う。11月には、書き下ろしの『湯島詣』が「春陽堂」から刊行された。
1900年にはいって、鏡花は1月に『名媛記』を「活文壇」、2月に『高野聖』を「新小説」、6月に『旅僧』を「明星」に発表、8月から9月にかけて『三枚続』を「大阪毎日新聞」に連載、11月には『葛飾砂子』を「新小説」に発表した。この間、3月には紅葉の三女三千代が生まれている。