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3-2.下積み時代(2)
第4節
祖母と弟を呼び寄せる
紅葉のもとでは、3月、次女弥生子が生まれていた。
初めて一葉に会った翌月。つまり1896年5月、鏡花は大橋乙羽の家を出て、小石川大塚町57番地(現、文京区大塚1丁目5。跡見学園高校・中学校地の春日通り沿い)に家を借り、初めて世帯を構え、祖母きてと弟豊春を東京に呼び寄せた。小石川大塚町57番地は、陸軍弾薬倉庫の敷地に隣接し、現在の大塚1丁目。春日通り大塚1丁目交差点付近の跡見学園敷地内にあたる。小石川戸崎町にある大橋乙羽宅まで、極楽水の前を下って、10分から15分の所である。
7月15日には福井まで鉄道が開通するのに、それを待たずに祖母は上京したのである。自筆年譜には《
祖母を迎ふ。年七十七.東京に住むを喜びて、越前国春日野峠を徒歩して上りたり。
》と記されている。幼くして母を亡くした孫を不憫と思い続けて、陰に日向に支え続けた祖母にとって、まがりなりにも孫鏡花が少しは世間に知られるようになり、世帯をもてるようになったこと、そして一緒に住めるようになったことはどんなに嬉しかったことか。その祖母の喜びが伝わってくる一文である。それでも、喜寿を迎えた身で、住み慣れた金沢を離れるには、相当の決断が必要だったはずである。そして、鉄道はまだ敦賀までしか開通していない。東京まで行けるかどうかという不安もあっただろう。この頃には、乗合馬車や人力車を乗り継いで、あまり歩かなくてもよくなっていたのだろうが、春日野峠は途中から徒歩で行かざるを得なかった。
祖母きてと紅葉がいなければ、いかに天分をもった鏡花も、それを開花させることなく、金沢の地で一生を終えていたことだろう。弟の豊春(斜汀)は18歳くらい、ちょうど鏡花が初めて上京した年齢であった。私は、上京と言う祖母の決断の背景には、鏡花だけでなく、兄の後を追って文学を志す豊春の願いを叶えてやりたいという強い思いもあったのではないだろうかと推察する。豊春が母を失ったのは、3歳になる少し手前であり、継母ができたと言っても、きてにとって、豊春は鏡花と並んで大切な孫であったはずだ。
紅葉は弟子の門出を祝うため、5月のある日、自宅二階二間を通して祝宴を開いた。前日から日本橋通油町の山岸荷葉の実家である加賀屋に泊まり込み、翌朝早く魚河岸に出かけ、虎長で「いきのいい鯛を10枚ほどそろえてくれるよう」頼んだ。虎長は紅葉が神楽坂でなじみの芸妓小ゑんの実家で、たまたま小ゑんも来ていた。おやじの虎岩長兵衛は当時72歳。徳川幕府瓦解からすでに30年近く経っていたが、ちょんまげを結っていた。漱石の『吾輩は猫である』に登場する、静岡に住む迷亭のおじと言うのもちょんまげだったので、そのような人はわずかとは言え、みかけられたのであろう。
日本橋通油町は馬喰町に近く、現在では日本橋大伝馬町に含まれている。魚河岸は日本橋川の北岸に日本橋から江戸橋にかけて続いており、日本橋通油町からは徒歩で15分ほどのところである。江戸時代初めから続いた魚河岸は、関東大震災後、築地に移転した。
娘を贔屓にしてもらっているうえ、紅葉の心意気に感動し、虎長は代金を受け取らなかったと言う。その夜は目の下8寸の立派な鯛が参会者の前の膳に1枚ずつ並べられた。参会者は石橋思案、巖谷小波、小栗風葉、大橋乙羽、武内桂舟、柳川春葉、山岸荷葉。紅葉の隣に鏡花が座った。集まった人たちからお祝いが贈られ、小ゑんも艶やかな姿を見せ、乾杯の後、鏡花は感極まって泣き出し、紅葉に「バカ!巣立ち祝いの日に泣く奴があるか」と怒鳴られたと言う。
一葉に宛てて
転居早々、鏡花は5月6日付けで一葉に手紙を送った。宛名は市内本郷区丸山福山町4番地樋口なつ様、差出人は大塚町57番地泉鏡太郎になっている。
鏡花は手紙の最初に、御婦人に書くと言うのでは書きにくいので、男友達に書くつもりで書くと断っている。これは一葉を文学の先輩として、性別関係なくみていたと考えることもできるが、女性として意識すると、緊張して書くことができないので、照れ隠しにこのような一文を冒頭に書いた、一葉と親しくしたい鏡花の恋心のなせる業と言えるかもしれない。そうであるならば、もっと一葉の心を惹くような内容にすれば良いものを、桐生(悠々)に対して腹が立つと言うことを延々と書いている(文面は、『人間泉鏡花』p55・56)。
桐生悠々は、1895年4月に博文館に入社した秋聲と、金沢からの親友で、9月に帝国大学法科大学に入学していた。それから半年余、悠々、鏡花、一葉、そして場合によっては秋聲も絡まって、いったい何があったのか。秋聲も仕事の関係で一葉のもとを訪れることがあった。
鏡花は8月20日付けで、一葉宛に葉書を送った。《
医者がきらひだといふそんなわがまゝな御病気なれど実はお案事申候御容体いかゞにや
》で始まるものの、後は角の長屋の夫婦喧嘩、猫の話と、何を言いたいのかさっぱりわからない文面である(『人間泉鏡花』p57)。この時すでに一葉は山龍堂病院院長樫村清徳によって、絶望の宣告を受けている。
一葉は最後の力をふりしぼって、9月9日、「萩の舎」の歌会に出席した。10月に入って、斎藤緑雨は森鴎外に依頼し、青山胤通医師の往診を依頼したが、危篤と診断され、11月23日亡くなった。11月25日、葬儀は内輪でおこなわれ、鏡花も出向かなかったようである。後、一葉の三周忌の折には、鏡花も築地本願寺にある樋口家代々墓に参っている。
大塚に祖母・弟と世帯をもった鏡花は、「文芸倶楽部」に『一之巻』から順次発表した。翌1897年1月発表した『誓之巻』の臨終の場面に、一葉の病床を見舞った折、ヒントを得たことを描き込んだという。鏡花は心中ひそかに一葉をライバル視していたが、その才能には深く敬服していたようだ。
1895年から1896年にかけて、第二の紅葉・露伴を目指して新進作家が相次いで作品を発表している。鏡花をはじめ、平田禿木・小杉天外・小栗風葉・桐生悠々・徳田秋聲・後藤宙外・大町桂月・塩井雨江・柳川春葉・田山花袋などなど(このうち鏡花・小栗風葉・徳田秋聲・柳川春葉の四人は、「紅葉門下の四天王」とよばれた)。彼等の主な発表舞台は「文芸倶楽部」であった。伊藤整は『日本文壇史』4で、つぎのように記している。
これらの若い多数の作家の中にあって、常に批評家たちに期待感を抱かせ、代表的出版社博文館で特別扱いされ、何人にも才能あることを疑わせなかったのは、樋口一葉と泉鏡花の二人であった。その一人である一葉が死んだことは、文壇的なショックをひきおこしたが、つねに心の片隅で、一葉鏡花のよう花やかな存在になりたいと考えている新進作家たちに、特等席がひとつあいたような感じを与えたことも事実であった。
一葉が亡くなった翌年、紅葉の『金色夜叉』が発表され、また、『一葉全集』が出版された。それから6年。1902年、一葉が亡くなったその家に、当時一高生だった森田草平が住むようになった。それとは知らない森田は馬場孤蝶から知らされて驚き、1903年、孤蝶、生田長江らが森田の家に集まり、一葉会を開いている。孤蝶も一葉を目当てにこの家に通った一人である。
帝国大学学生との親交
吉田賢龍は1870年生まれ。鏡花より3歳、秋聲より1歳年上である。1894年に第三高等中学校を卒業し、帝国大学文科大学哲学科に入学した。同郷の吉田と鏡花がどのように知り合ったのか定かではないが、1895年頃には帝国大学寄宿舎の吉田のもとを訪れるようになっていた。隣室には、姉崎嘲風・畔柳芥舟・高山樗牛らがおり、樗牛が弥生町の下宿へ移った後、笹川臨風が入って来た。寄宿舎には他に、柳田国男や、漱石の『三四郎』広田先生のモデルとされる岩元禎などもいた。
ここで気になるのが、寄宿舎はどこにあったかと言うこと。上野景福『帝大寄宿舎の火災と森有禮の横死』(英学史研究第20号)では、明治19年(1886年)の帝国大学配置図を掲載しているが、それによると、鉄門(同稿では竜岡門と記しているが、当時この竜岡門は存在しなかった)から入って、正面の医科大学・理科大学を越えて北側に寄宿舎があった。現在の東大病院研究棟から学生ホールにかけての区域にあたる。当時、その東側には教師館があった。
同稿によると、1889年1月25日午後11時過ぎ、寄宿舎のランプ置場から出火し、医科大学寄宿舎が全焼、法科大学寄宿舎が半焼。学生1名焼死、7名が負傷した。教師館には内科学の権威ベルツ博士も住んでいた。寄宿舎には菅虎雄や小屋(大塚)保治など、漱石と関わりをもつ人たちもいて、何とか無事であった。漱石自身もその後1893年7月、自宅を出て寄宿舎で生活するようになり、1894年10月頃、菅虎雄の自宅に居候した後、法蔵院に移っている。鏡花が寄宿舎を訪れるようになるのは、その翌年である。
鏡花は賢龍のもとを何度も訪ねるうち、隣室のメンバーとも親しくなっていった。そのひとりが笹川臨風であった。臨風は1870年、神田末広町の生まれで、1894年、帝国大学に入学し、国史を専攻していた。後に『帝国文学』の編集にも従事している。神田末広町と言うのは、神田明神下にあり、金澤町の北隣り。鏡花が上京第一歩を印した神田山本町とは御成道(現、中央通り)をはさんで、目と鼻の先である。このような因縁が作用したかしなかったかわからないが、鏡花は臨風と気が合い、十返舎一九の東海道中膝栗毛をいつも枕辺から離さないほど愛読していた鏡花は、臨風を弥次さん(弥次郎兵衛)と呼び、臨風も鏡花を喜多さん(喜多八)と呼ぶようになっていった。鏡花はたびたび寄宿舎を訪れていたが、鏡花が大塚に転居してから、臨風も鏡花のもとを訪れている。
1895年、姉崎嘲風は笹川臨風や高山樗牛とともに帝国文学会を立ち上げ、『帝国文学』を創刊した。文学を志す帝国大学生にとって、いち早く学業をあきらめ、紅葉に弟子入りして、文壇デビューしていった鏡花は大いに刺激的であっただろうし、鏡花にとっては、帝国大学学生と対等に付き合うことができる、一種の満足感があったかもしれない。不思議なことに、犀星も東京帝国大学出身者との付き合いが多い。東大は加賀の殿さんの屋敷跡にできたのであるから、金沢の者には何の遠慮もいるもんか。
芥舟は一高教授、臨風も明治大学教授、そして嘲風は1904年、東京帝国大学教授。賢龍は後に広島高等師範学校校長、広島文理科大学初代学長になっている。漱石と同時期に海外留学を命じられた樗牛は、壮行会で喀血、留学を断念し、漱石留学中の1902年に亡くなった。考えてみれば、ものすごいメンバーが一つ屋根の下にいたことになる。
⇒「勝手に漱石文学館」の「漱石こぼれ話」の中に、鏡花と漱石の関わりを書いた項がある(9.漱石と鏡花①10.漱石と鏡花②
11月に一葉が亡くなった翌年、1897年、鏡花24歳、秋聲26歳、そして『金色夜叉』を発表した紅葉でさえ、まだ30歳であった。彼らがつくり出していく文壇は、ほとんどが明治に生を受けた「若者文化」であったと言うことができる。この年、帝国大学は、京都帝国大学開設にともない、東京帝国大学と改称された。
後藤宙外が「新著月刊」を起し、鏡花はその巻頭に『化鳥』を寄せた。これは鏡花が初めて書いた口語体小説である。この後、5月に『さヽ蟹』(「国民之友」)、6月に『風流蝶花形』(「文芸倶楽部」)、7月に『清心庵』(「新著月刊」)、8月に評論『醜婦を呵す』をそれぞれ発表。12月に発表した『髭題目』(「文芸倶楽部」)は高山樗牛の絶賛を受けた。
1898年、鏡花は1月から4月にかけて、『玄武朱雀』『辰巳巷談』『蛇くひ』『笈摺草紙』を相次いで発表した。この年4月1日。待望の鉄道が金沢まで開通したが、鏡花も秋聲も当分の間、帰郷していない。
第5節
すずに出会う
1899年になって、1月10日前後、硯友社の新年宴会が神楽町三丁目の料亭「常盤」で開かれた。紅葉はもちろん、鏡花・小栗風葉・柳川春葉・後藤宙外らが集まった。何人かの芸妓がついたが、鏡花はその中の桃太郎と言葉を交わすうち、本名が伊藤すずということを知った。亡母と同じ名、しかも母が嫁いだと同じ18歳。鏡花は因縁を感じつつ、しだいに惹かれていった。
すずは1881年9月28日、岡崎で生まれたが、物心のついた頃には、祖母・母と吉原の引手茶屋「つたの屋」にいた。母と死別したすずは16歳になった1897年、吉原仲之町から転じて、神楽町三丁目2番地にある石井カネが営む芸妓置屋「蔦永楽」の抱芸妓になった(『婦系図』では、蔦吉、お蔦の名前が登場する)。年期を決められた抱芸妓であるから、自由な生活は許されなかったであろう。
神楽坂下から神楽坂に入って、ほどなく右に伸びるのが「かぐら横丁」。神楽坂郵便局(当時)を過ぎ、右に津久戸小学校へ通じる道が「仲通り」。さらに坂を上って右手に入るのが「本多横丁」。そして、善国寺前から右手に伸びるのが「兵庫横丁」。神楽坂の花街は行元寺の境内地に形成されたのを皮切りに、漱石が兄たちに連れて行かれた頃には、仲通りと本多横丁を結んで、神楽坂に並行する路地、「芸者新道」がつくられ、日清戦争(1894~95)頃には、「兵庫横丁」、軽子坂に並行する「かくれんぼ横丁」がつくられ、神楽坂花街は急速に拡大を続けていた。つまり、紅葉や鏡花が住んでいた頃の神楽坂は明治の隆盛期のただ中であった。その後、1907年に行元寺が区画整理で西五反田に移転すると、寺内とよばれる旧境内地に花街が拡大した。「蔦永楽」は「芸者新道」に面していた。
秋になって、紅葉が毘沙門さまの夜店に出かけていると、鏡花と桃太郎が親しげにしているのを見かけた。紅葉はただちに「喜美川」という待合へ出向き、桃太郎の姉分にあたる小ゑんを呼び出し問い質した。小ゑんは紅葉の愛人であったと言われている。小ゑんの計らいで、翌日桃太郎が紅葉に会って自分の思いを打ち明けたが、時期はまだ早いと思った紅葉は鏡花を呼びつけて叱り飛ばし、自分が許すまで桃太郎に会わないことを約束させた(『人間泉鏡花』)。
鏡花が牛込南榎町22番地に引越したのはこの頃であった。南榎町は宗柏寺の西にある滝の坂を上ったところにあり、22番地は東、矢来町に隣接し、紅葉宅から数百メートルの位置であった。鏡花が大塚からこの地に引っ越したのはなぜか。すずに会うためには神楽坂に近くて良いように思われるが、紅葉の家に近すぎる気がする。
鏡花は時々薙城館の秋聲のもとへ遊びに行き、『湯島詣』の構想を練ったと言う。11月には、書き下ろしの『湯島詣』が「春陽堂」から刊行された。
1900年にはいって、鏡花は1月に『名媛記』を「活文壇」、2月に『高野聖』を「新小説」、6月に『旅僧』を「明星」に発表、8月から9月にかけて『三枚続』を「大阪毎日新聞」に連載、11月には『葛飾砂子』を「新小説」に発表した。この間、3月には紅葉の三女三千代が生まれている。
逗子へ
20世紀を迎えた。1901年、鏡花は1月に『斧の舞』を「明星」に発表。4月に『註文帳』、11月に『袖屏風』をそれぞれ「新小説」に発表した。その間、5月、紅葉の次男夏彦が生まれ、8月には、鏡花が自らの作品を持って木挽町の鏑木清方を訪れている。後、清方も牛込矢来町に居を構え、鏡花とは刎頚の友となった。
この年、鏡花も秋聲ともに多くの世話になった「博文館」の大橋佐平・大橋乙羽が相次いで亡くなった。とくに乙羽は秋聲より一つ上の31歳であった。伊藤博文の名を掲げた博文館であるが、結局、創設者父子は博文より先に亡くなったことになる。
秋聲が体調を崩した1902年であるが、鏡花の方も年始めから赤痢に罹り、築地の田村病院(明石町31番地)に入院した。この病院は現在の聖路加国際病院北、地下鉄有楽町線新富町駅と佃大橋の中間地点にあり、都営明石町アパートが建っている。後に犀星と親しくなる芥川龍之介は1892年、聖路加病院の西南、入船町8丁目1番地に生まれたが、鏡花が田村病院に入院していた頃には、10歳の龍之介は一九、紅葉、そして鏡花などの作品を、貸本屋や図書館へ行って読み漁っていたと言う。龍之介は両国橋駅(現、両国駅)と回向院にはさまれた地区にある本所小泉町に住んでいた。
赤痢に罹ったとは言え、1月に『女仙前記』(「新小説」)、3月に『波がしら』(「文芸界」)、5月に『きぬぎぬ川』(「新小説」)を発表した鏡花は、7月、赤痢によって弱った胃腸の回復と避暑を兼ねて、逗子田越の延命寺近く、桜山576番地(現在の桜山5丁目)に、新築の貸家を借りて住むようになった。神田にいる従姉たち4、5人が先に行って家を探したものである。
母すずの実家中田家は金沢へ転じたと言っても、もともと神田・下谷界隈の出であり、すずの兄松本金太郎、姉(妹)の中田きんなど東京に住むようになっており、あまり研究されていないが、鏡花はその子どもたち(つまり従姉たち)との交流があったのではないだろうか。
逗子の家には祖母、弟もやって来ての自炊生活であった。ここへすずも1週に二日ほど台所を手伝いに来た。8月始めのある日、早稲田大学学生で鏡花の弟子と自称する寺木定芳が、やはり鏡花ファンの学生と神田の商店の娘服部てる子を連れて、鏡花のもとを訪れた(『人間泉鏡花』p70)。それから二三日して紅葉がやって来て、庭先の物干しに干してある腰巻を見つけ、服部てる子のものだと答えたが、紅葉はすずが来ていることを感づいたという。鏡花は9月、東京に戻った。
すずの落籍
1903年になった。1月、鏡花は酒豪の柳川春葉と関西を旅行した。3月3日、紅葉が東大病院に入院し、胃癌と判明した。10日程で退院し、その後、医師をしている妻の弟の家で静養した。この月、鏡花は南榎町から神楽町2丁目21番地に転居した。すずと同棲を始めるためであった。神楽坂を上り始め、仲通りへ曲がるとは反対方向の路地に曲がって少し行ったところで、現在の東京理科大学の裏手にあたり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の碑が立ち、「新宿区指定史跡」として説明板も設置されている。
家を借りるのと、すずの落籍には吉田賢龍の物心両面の援助があった。当時、吉田は私立真宗東京中学の校長をしていた(在任期間、1900~1904年)。ただ、すずにはまだ借金が残り、同棲後も芸妓として出ていたという説もある(『人間泉鏡花』)。寺木定芳は教師がカネを出した程度で落籍できるものではないとみている。
4月14日、不審を抱いた紅葉は、風葉を伴って鏡花宅を訪れたが、鏡花は事実を語らず、治まらない紅葉は夜間、鏡花と斜汀を呼び出して、叱り飛ばし、すずと別れる約束をさせた。16日夜、鏡花の家に行った紅葉は、明日家を去るというすずに小遣いとして10円を渡した。すずは一旦、泉家を離れた。知る限り記録はないが、行き場のないすずであるから、おそらく芸妓置屋の「蔦永楽」に戻ったのであろう。
すずと出会って3年余、紅葉に対して2回も別れると約束しながら交際を続けた鏡花。同じ神楽坂にいて、日頃から二人の動向が入って来ないはずはない。紅葉がすずとの交際や結婚に反対する場面しか伝えられていないが、紅葉はどのように考え、鏡花にどのように接していたのだろうか。
『婦系図』はあくまでも小説であり、紅葉・鏡花・すずを描いたものではない。第一、真砂町の先生には自分の娘を主税と結婚させたいという明確な目的があった。紅葉にはそのような目的を持ちようもなかった。寺木定芳は、紅葉も小ゑんという芸者を贔屓にしていたが、花柳界の女性を妻として娶ることには反対であったと述べている(村松定孝『あぢさゐ供養頌――わが泉鏡花――』)。つまり、鏡花がその一線を越えて、結婚を望んだところに、紅葉がすずとの交際に反対した大きな理由があったというのだ。いずれ、教育があり、温かな両親の間に生まれて、家庭の教育を受けた者を、妻として鏡花にあてがうつもりでいたのだろう。ともに早く母を亡くした紅葉と鏡花であるから、紅葉の鏡花に対する思いは一段と強いものであっただろう。寺木はまた、《
紅葉先生がわたしたちの仲を割くように、しむけたのは、小ゑん姐さんだと、番町では、夫婦とも思い込んでおりましたからね
》と語ったとも言う(『あぢさゐ供養頌――わが泉鏡花――』)。
それにしても、南榎町の家にしても、逗子や神楽坂の家にしても、鏡花一人住んでいたわけではない。祖母や弟がいっしょであった。この二人はすずにどのような思いを抱いていたのだろうか。
5月になって、鏡花は『薬草取』を「二六新報」に発表した。紅葉は前年の1902年10月、読売新聞社を退社し、二六新報社に入社していた。
第6節
紅葉の死とその後
胃癌の紅葉は夏を前に余命3ヵ月と宣告された。白石孝『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ』には、丸善に関する記述で紅葉が登場する。
明治三十五年、胃癌におかされ余命三ヵ月と宣告された尾崎紅葉が、やせおとろえた体でこの店を訪れ、二ヵ月先でなければ入らない洋書の百科事典を注文していったときの言葉を、なにかで読んだのを思い出した。「ほしいと思うものは、頭のはっきりしているうちに自分のものにしたい。一日でも長く見ていないと執念が残る。字引に執念が残ってお化けが出るなんぞは男がすたらあー」と。
それから三ヵ月後、丸善から届いた事典をみて世を去っていった紅葉である。不朽の名作『金色夜叉』の続扁の筆を置いて間もなくのことであった。
(『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ』p29)
7月末頃、一時小康を得たものの、状況は好転せず、1903(明治36)年10月30日午後11時15分、帰らぬ人となった。巨星といえども、36歳であった。その時のようすを鏡花は『紅葉先生逝去前十五分間』に記しているが、紅葉の言葉はあまりにも立派であり、どこまでが真実で、どこからが脚色なのか、判然としないところがある。臨終の場には小ゑんの姿もあったと言われている。
葬儀は11月2日、青山斎場でおこなわれ、硯友社を代表して石橋思案、「秋声会」を代表して角田竹冷、門弟を代表して鏡花が弔辞を述べた。紅葉の家族、妻と一男三女が残された。妻32歳、子どもたち9歳、7歳、3歳、2歳であった。当時は、著作権が確立していなかったので、作品を書いて、それが売れているうちは良くても、それが断たれれば、収入の途も断たれてしまう。まもなく家族は経済的にも窮乏するようになっていったという。
鏡花は、10月から翌年3月まで『風流線』を「国民新聞」に連載し、11月には『白羽箭』(「文芸倶楽部」)、12月には『紅葉先生逝去前十五分間』(「新小説」)、『紅葉先生弔詞』(「文芸倶楽部」)をそれぞれ発表した。
紅葉が亡くなってしばらくして、鏡花はすずを神楽坂の家に入れ、事実上結婚生活を開始した。ただし、紅葉の手前、正式に入籍することはせず、すずは鏡花をつねに「兄さん」と呼んだ。入籍は鏡花が亡くなる数年前になってからである。
日露戦争
1904年、2月から日露戦争が始まった。鏡花は3月に『紅雪録』、4月に『続紅雪録』をともに「新小説」に発表。東京で日露戦争にともなう市民大祝勝会の提灯行列がおこなわれた5月、『続風流線』の「国民新聞」連載が開始された。10月には戯曲『深沙大王』が「文芸倶楽部」に発表されている。こうしてみてくると、戦時中の不自由など感じられないが、神楽坂にある鏡花の家の二階も兵士の宿舎として、明け渡しを余儀なくされたという。
1905年1月は漱石の『吾輩は猫である』が初めて「ホトトギス」に発表された月である(以後、好評を得て、継続して発表された)。同じ月、鏡花は『わか紫』と『おもて二階』を「新小説」に発表、4月には「文芸倶楽部」に『銀短冊』を発表した。年齢は上でも、作家としては明らかに後輩である漱石は、談話筆記『批評家の立場』(「新潮」1905年5月)で『銀短冊』をつぎのように批評している。
鏡花君の『銀短冊』は草双紙時代の思想と明治時代の思想とを綴ぎはぎしたやうだ。夢幻ならば夢幻で面白い。明治の空気を呼吸したものなら、また其空気を写したので面白い。唯綴ぎはぎものでは纏つた興趣が起らない。然し確かに天才だ。一句々々の妙はいふべからざるものがある。古沼の飽くまで錆にふりたるものだと見たものが、鯰の群で蠢動めいてゐるなどは余程の奇想だ。若しこの人が解脱したなら、恐らく天下一品だろう。
(『人間泉鏡花』p106)
『吾輩は猫である』にはつぎのような一文がある。寒月が《
なんぼ越後の国だって冬、蛇が居やしますまい
》と言ったのに対して苦沙弥先生は《
鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか
》と答えている。この鏡花の小説というのが、『銀短冊』である。
鏡花が漱石に会うのは1908年であるが、鏡花が吉田賢龍を通じて知り合った帝大生の笹川臨風や畔柳芥舟は、漱石とも親交をもっていたし、漱石が多少なりとも文学を志すようになってからは、鏡花の師紅葉を意識するようになっていたと考えられる。森田草平は紅葉の『紫』(1894年発表)が漱石の『坊ちゃん』に影響を与えたのではないかと指摘し、鏡子の『漱石の思い出』には、1897年に発表された尾崎紅葉の『金色夜叉』を読んで、「今にみていろ、俺だってこのくらいのものは書ける」と言ったと記されている。その漱石が鏡花を「天才」と評したのである。
6月に『瓔珞品』(「新小説」)・『女客』前半(「中央公論」)を発表した鏡花は、10月になると『胡蝶之曲』(「新小説」)、さらに11月、『女客』後半を「中央公論」に発表した。秋聲は11月に『濁らぬ水』(「文芸倶楽部」)、12月に『正直もの』(「新声」)を発表した。この間、9月にはポーツマス条約が結ばれ、日露戦争が終った。
祖母の死
1906年2月、鏡花を支え続けてくれた祖母きてが87歳で亡くなった。紅葉亡き後、門下生の結束も弱まり、硯友社の勢力もたちまち一掃され、一方で自然主義が台頭し、鏡花は文壇からも孤立するようになっていた。それにここ1、2年の日露戦争の影響が加わって本もあまり売れない。そんな中で起きた祖母の死であった。老衰による大往生であったが、鏡花の衝撃はあまりにも大きかった。食べ物も受け付けないくらいの心因性の胃腸障害に陥り、ついに7月、静養のため逗子田越に移り住むことにした。1902年に過ごした馴染みの土地である。
今度借りた家は亀井954番地(現在の逗子5丁目)にあり、裏手を田越川が流れていた。現在は駐車場になっている。鏡花は、しばらくしたら東京へ戻るつもりでいたかもしれないが、結局1909年まで三年にわたって逗子に住むことになった。後に、斜汀の娘、つまり鏡花の姪にあたる泉名月(なつき)も逗子に住んだ。名月は鏡花亡き後、すずの養女になっている。それにしても鏡花はなぜ、逗子を選んだのであろうか。
さて、逗子へ来て少し落ち着きを取り戻した鏡花は、11月に『春昼』、12月に『春昼後刻』をともに「新小説」に発表し、また『愛火』を「春陽堂」から出版した。
暮れの12月25日、登張竹風が逗子の鏡花のもとを訪れた。竹風は鏡花と同じ年で、広島出身。帝国大学独文科を卒業し、山口高校で教えた後、1899年に東京高等師範学校に転任、翌年、「帝国文学」の編集委員に選ばれた。1901年、「帝国文学」の大会に紅葉はじめ、鏡花・風葉・春葉が招待され、そこで竹風と鏡花は初めて出会い、やがて家族ぐるみの親しいつきあいをするようになっていった。
1906年、ニーチェの超人思想を説いたことから、高等師範を依願免官になり、弟が主筆を務める「やまと新聞」に入社した。竹風が鏡花を訪ねたのは、「やまと新聞」に1月1日から連載する小説の依頼であった。開始まで1週間もない依頼で、さすがに鏡花も引き受けかねたが、竹風からスリの話を聞いて、1時間余り考えたすえ、その話をもとにした構想がまとまり、引き受けたという(『人間泉鏡花』)。
1907年、1月1日から『婦系図』の連載が始まった。連載は4月6日まで続くが、出版された『婦系図』は前後編計118節から構成されており、連載回数より多い。おそらく出版にあたって、かなり追加されたものと思われる。
【参考文献】
巖谷大四:『人間泉鏡花』(東書選書)、東京書籍、1979年
上野景福:『帝大寄宿舎の火災と森有禮の横死』(英学史研究第20号)
村松定孝:『あぢさゐ供養頌――わが泉鏡花――』、新潮社、1988年
白石孝:『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ』、慶應義塾大学出版会、2009年
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