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10.漱石と鏡花②
今まで、あまり語られることがなかったが、漱石は『虞美人草』を書くにあたって、泉鏡花を、そして『婦系図』をきわめて意識していたのではないだろうか。あえて言うならば、鏡花なくして『虞美人草』は生まれなかったのではないか。
私がこんな思いに至るきっかけは、『虞美人草』を読んでいて、鏡花の『婦系図』を思い出したことにある。大恩ある先生が出て来て、その娘との結婚を巡って悲劇が起きる。まったく同じ構図である。
二つの小説の構図をもう少し詳しくみてみたい。
『婦系図』は、学者として将来を有望視される早瀬主税が、芸者お蔦と好い仲になる。しかし、主税をここまで育て上げた酒井俊蔵(真砂町の先生)は、密かに自分の娘妙子と結婚させようと思っている。娘の方も主税を好いている。酒井は何とか主税とお蔦の仲を裂こうとする。結局、お蔦を捨てた主税は東京を追われるように、故郷静岡へ。後編では静岡を舞台に、主税の親友河野英吉の一家との絡み。英吉は酒井先生の娘妙子と結婚したいと思っているが、先生が娘を主税と添わせたいと考えていることを知っているので、容易に手を出せない。英吉の父、河野英臣は自分の娘たちをつぎつぎに出世の見込めそうな男たちに嫁がせている。島山菅子(英吉の妹)、その姉道子はしだいに主税に惹かれていく。結末は東京と静岡に分かれる。東京ではお蔦の病死を酒井俊蔵が看取る。静岡では人力車で久能山へ集まった河野一家の前で、主税が大見得を切って、英臣の悪事を暴く。英臣、続いて道子・菅子も自ら命を絶ち、その夜、遺書を残し、妙子に添い寝しながら主税も果てる。鏡花は彼独特な手法で、立身出世主義や利己主義が人間性をゆがめ、悲劇を生み出すとして批判している。
『虞美人草』は、学者として将来を有望視される小野清三が、色香をふりまく甲野藤尾に好意を寄せ、共に結婚したいと考えている。そこへ、小野が京都にいた頃、何かと面倒をみて、今日の小野あるはこの人の御蔭と言うべき井上孤堂先生が、娘小夜子を連れて上京する。娘を小野と結婚させるためである。小野は東京に住むことになった井上父娘の便宜を図るが、心は藤尾にある。一方、藤尾の義兄甲野欽吾の友人宗近一は藤尾に好意を寄せている。甲野も宗近も小野の友人である。小野と藤尾の仲を知っているので、宗近は容易に手を出せない。終盤、井上孤堂が娘を立身出世主義や利己主義の犠牲にすることはできないと、大見得を切る。結末は甲野家。人力車で関係者が集まってくる。小野は藤尾の前で小夜子を選び取り、藤尾は自ら命を絶つ。
この二つの小説を並べてみると、つぎのようになる。
『婦系図』
『虞美人草』
大恩ある先生父娘
酒井俊蔵・妙子
井上孤堂・小夜子
主人公(男性)
早瀬主税(自殺)
小野清三
主人公の性格
立身出世主義批判
立身出世主義
主人公の好きな女性
お蔦
甲野藤尾(自殺)
主人公の友人
河野英吉
甲野欽吾
宗近一
好きな女性
河野⇒妙子
宗近⇒藤尾
友人の姉妹(⇒好き)
菅子⇒主税
宗近糸子⇒甲野
道子⇒主税
立身出世主義の人物
河野英臣
小野清三
大見得を切る人
主税
井上孤堂
何を暴くのか
立身出世主義や利己主義の罪悪
基本的な構図である、先生父娘、主人公(男性)、主人公の好きな女性の関係は同じである。どちらも父娘二人暮らしで、妙子も小夜子もどちらかと言うと線が細く、依存性の強い女性である。主人公は共に学問で身を立てようとしている。お蔦が芸者であるのに対して藤尾は違うが、芸者的な雰囲気はもっている。主人公はこうした雰囲気の女性に惹かれながらも、先生の娘を選ばざるをえない。
基本設定を同じにしながら、漱石は『婦系図』の設定をいくつか逆転させている。主人公の立身出世主義に対する志向は逆であり、主人公の自殺に対しては、好きな女性の方を自殺に追いやった。主人公の友人が好きな女性は、『婦系図』では先生の娘であったが、『虞美人草』では主人公の好きな女性である。どちらも友人は手を出すことができない。友人の姉妹の恋愛感情が絡んでくるが、その図式は異なる。『婦系図』では、先生が明確に立身出世主義を志向していないため、立身出世主義の権化のような河野英臣登場させ、主人公にこれを批判させている。『虞美人草』では、主人公を立身出世主義志向者に設定したため、井上孤堂が批判者になる。どちらもここで大見得を切る。人物が、からくり人形のように突然豹変する。とくに、物静かで、弱々しい孤堂先生の豹変ぶりにはびっくりさせられる。
漱石はその他にも、河野(こうの)に対して、甲野(こうの)を登場させたり、終盤で人々が人力車で集まって来たり、大見得が切られたり、『婦系図』を意識したと思われる設定がいくつもある。舞台が後編になって、東京から静岡に移る『婦系図』に対しては、京都から始めて、後半では完全に東京に絞り込んでいる。
それでは、主人公が東京を飛び出す場面はどうなるのだろう。『婦系図』でみられるこの設定は、『虞美人草』においては設定されず、『坑夫』に引き継がれた。『坑夫』では、主人公がどうして東京を去ることになったか、具体的には書かれていないが、二人の女性を巡る三角関係から、逃げるように東京を後にしたことが推測される。これは『婦系図』で主税が東京から静岡へ逃げ帰る動機と同じである。
漱石は当初から、『虞美人草』の続編として『坑夫』を考えていたわけではないが、『虞美人草』に続く作品には、『婦系図』の後編としての役割が担わされる必然性があったことになる。こうして『婦系図』は、漱石において、前編の『虞美人草』、後編の『坑夫』で構成されることになった。
などと書いて来て、『虞美人草』が『婦系図』より先に書かれていたら、この推論は根底から崩れてしまう。『虞美人草』と『婦系図』は、いつ書かれたのか。
じつは、この二つの小説は同じ年に発表された。『婦系図』は1907年1月1日から「やまと新聞」に連載が始まり、4月に完結した。漱石は5月3日、「朝日新聞入社」を発表。6月から朝日新聞に『虞美人草』の連載を始めたのである。漱石は『婦系図』のすべてを見届けて、『虞美人草』を書くことができたのである。
教師を辞め、晴れて職業作家になった漱石は、「小説を書く」と意気込んでいた。『金色夜叉』くらいのものは書けると思った漱石である。漱石自身が「天才」と言い放った鏡花の作品も、その程度のものだったら自分にも書ける。いや、書かなければならない。『虞美人草』を書くにあたって、漱石はそうとう鏡花を意識していたのではないだろうか。
そんな思いもあっただろう。漱石は、あえて『婦系図』と基本設定を同じくして、鏡花の文体に負けじと全編「美文調」で書き切った。こんな最中であるから、西園寺公望主催の文士招待会など出席しているどころではなかっただろう。鏡花は喜んで出席したが、漱石にとっては、まさに「厠半ば」であった。
漱石は相当に鏡花を意識したようである。『虞美人草』の中には、《世界は色の世界である。いたずらに空華と云い鏡花と云う。》という一文があり、また《いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬る様なものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。》と、あえて本郷座を持ち出している。連載中の7月、鏡花の『風流線』が本郷座で初演されている。
こうして、『婦系図』と鏡花を意識することによって、きわめて強調された文体で綴られた、漱石の作品の中ではもっとも「小説らしい小説」である『虞美人草』が生まれたと私は推察している。
『虞美人草』『坑夫』ともに小説ということをきわめて意識したことは、作品の中に「小説」という言葉が出てくることからも明らかである。《小説は自然を彫啄する。自然その物は小説にはならぬ。》《小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活程気の毒なものはない》。そして、『坑夫』はつぎの一文で終る。《自分が坑夫に就ての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る》。
これが、小説であることは作者も読者も知っている。つまりこれは事実でなく「虚構」である。それが「小説」であると。漱石は鏡花を意識しながらも、同時に台頭して来る自然主義の流れに、批判的な姿勢も示したのではないか。ここに漱石と鏡花、二人の出会いの接点があるようにも思える。
今日でも、漱石と鏡花、二人の作品はよく読まれている。いや、鏡花の場合、よく演じられていると言うべきであろうが。
館長の一句
紅葉して
鏡花と遊ぶ
神楽坂