かつては羽振りの良かった岳父も、健三の外套を借りるくらいに落ちぶれています。それでも、威勢の良いことを言って、借金の保証人になってもらいたいと健三のもとを訪れます。健三は危険だと判断し、かわりに友人から工面して四百円のカネを用意します。健三は我ながらよくやったと思った矢先、今度は岳父が旅先で倒れ、自分も急いで行かなければならないから、旅費の都合をして欲しいと、細君の母親がやって来ます。病状は軽かったけれど、岳父が手がけた鉱山事業はそれきりになってしまいます。おそらく、新潟における油田開発が想定されていたのでしょう。
それからしばらくして、再びやって来た岳父は、関西のある鉄道会社の社長になる話しがあるが、そのために株を買う必要があり、当座百円用立てて欲しい、保険会社の顧問料が月々百円入るようになるから返済は大丈夫、という雰囲気を醸し出して要求してくるのです。健三が要求に応じたかどうかは書かれていません。
『道草』において、岳父が健三のもとに借金に来る場面は、二回だけ。養父母に比べれば、きわめて淡白で、健三も誠実に対応しています。この岳父については、借金に来る場面よりは、なぜ彼がそこまで窮するようになっていったのか、話しも前後しながら、何ヵ所かに記されています。
それによると、在職中の岳父は、西洋館に日本建も一棟付いた屋敷に住み、五人の下女と二人の書生を置き、シルクハットにフロックコートで勇ましく官邸の石門を出て行くような人物でした。健三が帰国した時、岳父はそれほど困っているように見えず、健三が駒込の奥に家を構えた当座も、千円くらい貯蓄しなさい、それを私に預ければじきに倍にしてあげると助言しています。この頃、相場に手を出していたことを暗示しているのでしょう。それから、ほんの半年余りの間に急速に困窮するようになったという設定になっています。
「細君の父」のモデルが、鏡子の父・中根重一であることはあきらかです。重一は『道草』が書かれる十年ほど前に亡くなっており、書きたい放題書くことができそうですが、さすが鏡子への配慮か、また岳父に一目置いていたためか、養父母に対する悪口を並べ立てたような表現は抑えられ、むしろ、きわめて同情的に表現されています。
中根重一は1851年、福山藩士の家に生まれ、選抜されて東京大学の前身「大学東校」に入り、医科でドイツ語を学び、卒業後、1877年に新潟医学所院長の通訳兼助教授として赴任。この年、鏡子が生まれました。1881年に東京へ戻り、中央官僚として働き、1894年から98年まで、第二代貴族院書記官長を務めたエリートです(なお、第四代が民俗学者で有名な柳田國男)。伊藤博文内閣、松方正義内閣の時期で、この間、1895年12月に鏡子が漱石と見合い、翌年、熊本で結婚しました。この頃が、重一の最盛期で、『道草』に書かれた在職中の岳父の姿は、見合い当時の漱石の思い出を基にしたものと考えられます。
重一は書記官長を退いた後も、いくつかの要職に就いていましたが、漱石が留学中の1901年六月二日、第四次伊藤内閣が崩壊し、第一次桂内閣が成立すると、状況が大きく変化し、官職を辞さなければならなくなりました。相場にも手を出し失敗したとも言われています。1903年1月に漱石が帰国。それから三年、1906年に重一は五十五歳で亡くなりました。
『道草』は、健三が帰国してから、ほぼ一年間のできごとが書かれています。漱石にあてはめれば、1903年から翌年1月にかけての時期で、ここへ漱石は、れんの死や、昌之助の来訪、やすのことや、岳父の不振など、時期の異なる出来事を無理やり押し込めて作品を構成しています。したがって、たとえそれが事実をもとにしていたとしても、時期がずれることによって、どうしても矛盾が生じてきます。
岳父が不振に陥ったことも、急速に進行した設定になっていますが、実際には、1901年の伊藤内閣瓦解によって、不振が始まり、1906年にかけて徐々に進行していったと推測されます。けれども内閣瓦解は特定できるため、漱石は『道草』において、さまざまな出来事の時期を明確にしていないのです。
ある大きな都会の市長の候補者として岳父を推す人もあったが、ある伯爵が不適を答えたので、実現しなかったこと。政府の内意でその官職を投げ打って、閑職に甘んじなければならなくなった時、山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好いと勧めがあったが、彼は断わったこと。
そして、余程後になって、健三は細君からこんな話を聞かされます。――岳父は在職中の関係から、ある会の事務一切を任せられたが、官途に縁がなくなってから不如意に不如意が続き、ついに委託された余剰金二万円に手をつけた。とうとうそのカネがなくなってしまい、月づき入ってくる百円程の利子も入らなくなって、使い込みを知られないよう、月づきの百円をどこかから調達して、体面を保つことに窮していた。
岳父が百円にこだわる理由が見えてきますが、これが現実であれば、重一は横領、背任といった行為をおこなっていたことになります。作話であれば、岳父に対してずいぶんひどい仕打ちではないでしょうか。漱石は『道草』を通じて、岳父の悪口は書いていません。カネの使い込みに関しても、不徳義漢として岳父を憎む気は更に起らなかったと書いています。けれども書いてあることは、どこまでが事実で、どこからが作話なのか定かではない。不正の真偽も確認できません。悪いレッテルだけ貼られる危険性があるわけです。いったいなぜ漱石はこんなことを書いたのでしょうか。