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2.『道草』に登場する人びと
養母の方がよほどひどい
『道草』で印象を悪くされたのは、養父塩原昌之助だけではありません。養母やすは『道草』では、御常の名で登場しますが、どうも養母の方がよほどひどいようです。
御常は島田以上に吝嗇で、非常にウソをつくのがうまく、自分に利益があるとみれば、すぐ涙を流すことができる重宝な女で、嫉妬深い。島田が健三だけでなく、御縫を連れて汁粉屋へ行ったことがわかった時も、御藤が一緒だったか、島田が御縫にどのように接していたか、執拗に問い質し、島田から離縁されて、「死んで祟ってやる」と言うような女でした。島田も御常も健三を可愛がったけれど、その愛情のうちにはヘンな報酬が予期されていて、その傾向はとくに御常に強く、健三は《始終自分の傍らにいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、寧ろ島田の方を好いた》と表現されています。そして、御常の本質を示すエピソードがつぎのように書かれています。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらい程罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲が又偶然訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞めていたところだというような不必要な嘘まで吐ついた。健三は腹を立てた。「あんな嘘を吐いてらあ」
こうなってくると、島田が御常を捨てて御藤のもとへ走ったのも、健三の気質を大きく歪めたのも、すべて御常の責任であるということになってきます。
やすは昌之助と同じ月の、1839年1月、榎戸覚佐衛門の二男現二(小宮『夏目漱石』では、源三)の長女として生れました。榎戸家は「三多摩一の富豪」と言われた国分寺の豪農です。やすは夏目家に奉公するようになりますが、豪農の娘ですから、単なる下働きと言ったものではなかったと考えられます。
やすは漱石の父直克の仲介で昌之助と結婚しました。しかし、二人の間に子どもができなかったため、二十九歳の1868年、漱石を養子に迎え、後に実子として届出ました。
その後、昌之助と不和が生じ、1876年に夏目家に戻ったやすは、やがて再婚しましたが、子どもはなかったようで、きぬを養女として貰いました。きぬは箭田という男と結婚しましたが、日露戦争(1904~05)で戦死。このような経緯は『道草』に記された御常の来歴と整合性があるので、漱石は養母やすの動向をきちんと把握して、『道草』の中にも書き込んだと考えられます。ただし、『道草』の設定時期は1903年で、日露戦争以前であるので、養女に夫を迎えたが戦死し、養女が再婚するまで遺族への扶助料だけで暮してきたと言う流れは実態と合わないことになります。
夫を失ったきぬは、養母やすと雑司ヶ谷に暮していましたが、1906年に東京専門学校(早稲田大学)英文科の秋田雨雀と結婚(入籍は1911年9月19日)。雨雀は二十三歳で、きぬよりずいぶん年下でした。雨雀は青森県の生まれで、1907年、『同性の恋』で作家デビューし、中村屋サロンにも出入りしていたということです。
売り出し中の漱石の、かつての養母やすの養女と結婚したという意識が、当時の雨雀にどの程度あったかわかりませんが、1917年2月25日、鏡子・栄子・純一・伸六とともに松岡譲・久米正雄らが漱石の墓参に訪れた時、雨雀も同行したことが『雨雀日記』に記されています。
現実のやすがどのような人物だったのか、『道草』に書かれたことがどこまで事実なのか、ほとんどわかりません。ただ、やすが漱石のもとへ無心に行かなければならない必然性はなく、長く夏目家と交流を続けていたことからも、必ずしも『道草』に書かれているような人物ではなかったであろうと推察されます。やすが『道草』によってはなはだ迷惑したという話も聞えてきます。
同情をもって描かれた岳父
『道草』には細君の父親(岳父)も登場します。
かつては羽振りの良かった岳父も、健三の外套を借りるくらいに落ちぶれています。それでも、威勢の良いことを言って、借金の保証人になってもらいたいと健三のもとを訪れます。健三は危険だと判断し、かわりに友人から工面して四百円のカネを用意します。健三は我ながらよくやったと思った矢先、今度は岳父が旅先で倒れ、自分も急いで行かなければならないから、旅費の都合をして欲しいと、細君の母親がやって来ます。病状は軽かったけれど、岳父が手がけた鉱山事業はそれきりになってしまいます。おそらく、新潟における油田開発が想定されていたのでしょう。
それからしばらくして、再びやって来た岳父は、関西のある鉄道会社の社長になる話しがあるが、そのために株を買う必要があり、当座百円用立てて欲しい、保険会社の顧問料が月々百円入るようになるから返済は大丈夫、という雰囲気を醸し出して要求してくるのです。健三が要求に応じたかどうかは書かれていません。
『道草』において、岳父が健三のもとに借金に来る場面は、二回だけ。養父母に比べれば、きわめて淡白で、健三も誠実に対応しています。この岳父については、借金に来る場面よりは、なぜ彼がそこまで窮するようになっていったのか、話しも前後しながら、何ヵ所かに記されています。
それによると、在職中の岳父は、西洋館に日本建も一棟付いた屋敷に住み、五人の下女と二人の書生を置き、シルクハットにフロックコートで勇ましく官邸の石門を出て行くような人物でした。健三が帰国した時、岳父はそれほど困っているように見えず、健三が駒込の奥に家を構えた当座も、千円くらい貯蓄しなさい、それを私に預ければじきに倍にしてあげると助言しています。この頃、相場に手を出していたことを暗示しているのでしょう。それから、ほんの半年余りの間に急速に困窮するようになったという設定になっています。
「細君の父」のモデルが、鏡子の父・中根重一であることはあきらかです。重一は『道草』が書かれる十年ほど前に亡くなっており、書きたい放題書くことができそうですが、さすが鏡子への配慮か、また岳父に一目置いていたためか、養父母に対する悪口を並べ立てたような表現は抑えられ、むしろ、きわめて同情的に表現されています。
中根重一は1851年、福山藩士の家に生まれ、選抜されて東京大学の前身「大学東校」に入り、医科でドイツ語を学び、卒業後、1877年に新潟医学所院長の通訳兼助教授として赴任。この年、鏡子が生まれました。1881年に東京へ戻り、中央官僚として働き、1894年から98年まで、第二代貴族院書記官長を務めたエリートです(なお、第四代が民俗学者で有名な柳田國男)。伊藤博文内閣、松方正義内閣の時期で、この間、1895年12月に鏡子が漱石と見合い、翌年、熊本で結婚しました。この頃が、重一の最盛期で、『道草』に書かれた在職中の岳父の姿は、見合い当時の漱石の思い出を基にしたものと考えられます。
重一は書記官長を退いた後も、いくつかの要職に就いていましたが、漱石が留学中の1901年六月二日、第四次伊藤内閣が崩壊し、第一次桂内閣が成立すると、状況が大きく変化し、官職を辞さなければならなくなりました。相場にも手を出し失敗したとも言われています。1903年1月に漱石が帰国。それから三年、1906年に重一は五十五歳で亡くなりました。
『道草』は、健三が帰国してから、ほぼ一年間のできごとが書かれています。漱石にあてはめれば、1903年から翌年1月にかけての時期で、ここへ漱石は、れんの死や、昌之助の来訪、やすのことや、岳父の不振など、時期の異なる出来事を無理やり押し込めて作品を構成しています。したがって、たとえそれが事実をもとにしていたとしても、時期がずれることによって、どうしても矛盾が生じてきます。
岳父が不振に陥ったことも、急速に進行した設定になっていますが、実際には、1901年の伊藤内閣瓦解によって、不振が始まり、1906年にかけて徐々に進行していったと推測されます。けれども内閣瓦解は特定できるため、漱石は『道草』において、さまざまな出来事の時期を明確にしていないのです。
ある大きな都会の市長の候補者として岳父を推す人もあったが、ある伯爵が不適を答えたので、実現しなかったこと。政府の内意でその官職を投げ打って、閑職に甘んじなければならなくなった時、山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好いと勧めがあったが、彼は断わったこと。
そして、余程後になって、健三は細君からこんな話を聞かされます。――岳父は在職中の関係から、ある会の事務一切を任せられたが、官途に縁がなくなってから不如意に不如意が続き、ついに委託された余剰金二万円に手をつけた。とうとうそのカネがなくなってしまい、月づき入ってくる百円程の利子も入らなくなって、使い込みを知られないよう、月づきの百円をどこかから調達して、体面を保つことに窮していた。
岳父が百円にこだわる理由が見えてきますが、これが現実であれば、重一は横領、背任といった行為をおこなっていたことになります。作話であれば、岳父に対してずいぶんひどい仕打ちではないでしょうか。漱石は『道草』を通じて、岳父の悪口は書いていません。カネの使い込みに関しても、不徳義漢として岳父を憎む気は更に起らなかったと書いています。けれども書いてあることは、どこまでが事実で、どこからが作話なのか定かではない。不正の真偽も確認できません。悪いレッテルだけ貼られる危険性があるわけです。いったいなぜ漱石はこんなことを書いたのでしょうか。
『道草』で何を描きたかったのか
『道草』の主人公健三はあきらかに漱石自身です。したがってそこに登場する妻・養父母・岳父・兄姉など、すべて実在の人物を思い浮かべることができる。「これは小説ですよ。創作ですよ」と、いくら弁解したとしても、『道草』に書かれたことは「事実」、あるいは「多くのことが事実」と受け止められるのは、むしろ当然です。しかも、あまり良いことが書かれていないのだから、モデルにされた人びとにとっては、はなはだ迷惑なことで、百年後の今日に至るまでイメージダウンしたままです。
少なくとも漱石の人生を周りから支えてくれた人びとに対して、この仕打ちはあまりにもひどいのではないか。漱石だって翌年死ぬなどと思ってもいなかっただろうから、最後に書きたい放題書いて、復讐してやろうと思っていたわけでもないでしょう。後に文豪と呼ばれるくらいの人物ですから、やはり小説を書くにあたって何か描きたいこと、訴えたいことがあった、そう捉えたいところです。
1915年。漱石はすでに四十八歳を迎え、鏡子と連れ添って二十年になろうとしています。五度胃潰瘍に倒れ、何となく人生の終焉を感じていたかもしれません。『こころ』で、自分自身が生きてきた明治という時代を問い直した漱石は、今度は『道草』において、生れ、育ち、今日に至るまでの自分自身を振り返りながら、人生とはいったい何か、人生そのものを問い直そうとしたのではないでしょうか。自分自身をモデルに主人公を設定すれば、必然、身近な人びとが登場人物のモデルに設定されてきます。
ところで、漱石が人生を振り返るというならば、なぜ1915年という現時点ではなく、留学から帰った1903年という時点を選んだのか。これも疑問の残るところです。この年、漱石は母校に職を得ながら、仕事と生活に追われ、心身のバランスを崩し、家庭内暴力の狂乱状態に陥り、妻・鏡子が子どもたちを連れて実家へ避難した時期です。稼がなければならない、良い授業をしなければならない、研究をしなければならない、良い夫、良い父親でなければならない。そうした追いつめられた状況の中で、おそらく漱石にとって、内面的にもっとも苦しい時期だったのだと私は思います。
この時期を漱石は『道草』二で、つぎのように描いています。
彼は家へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際から云うと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。(略)
彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。
自分の気持ちとは裏腹に、家計に窮し、家庭も崩壊寸前。「自分」とはいったい何者なのか。何をするために生れてきたのか。自分がほんとうにやりたいこと、能力を発揮できることはいったい何なのか。留学帰りのエリートであるはずの自分が、真剣に悩み、考え、出口のないブラックボックスに押し込められ、そこから抜け出そうと暴れまくった時期。漱石にとって人生最大の危機を迎えた、この1903年という時期は、テーマを描くにはもっともふさわしい時期だったのではないでしょうか。
漱石は『道草』によって、人生を二つの側面から描こうとしたように、私には思えます。
第一に、漱石は人生を煩わすものとして、自分自身の性質、人間関係、仕事などを挙げながら、とくにカネの占める大きさを描こうとしています。確かに私たちはカネがなければ生きていくことさえできませんが、カネを得るために人生を使い、カネをめぐって不正や殺人、戦争だって起ってくる。養父母も岳父もカネのために健三に寄って来て煩わすのです。カネがいかに人生の煩いになっているか。
「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」
少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も殆んど何にも買わないと云って可よかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中ばかりであった。中にも細君の父は一番非道そうに思われた。
『道草』に描かれた人びとは、少なくとも当時において貧困層ではありません。程度の差はあっても中流の人たちです。その人たちが生活に窮している。購買力が低下している。経済成長の一方、軍事予算が膨張していく。『道草』は資本主義社会が発展し、矛盾もはっきり見えてきた当時の問題を浮き彫りにしていると言うことができるのではないでしょうか。そして、右の一文は、百年以上前の状況とは思えない、今日的な一文でもあると、私は思うのです。
第二に、自身が荒れ狂った時期を設定しながら、漱石は『道草』において、妻が実家へ帰った動機を、産前の妻のヒステリーにしてしまい、自分の狂乱をまったく描いていない。まさに責任転嫁そのものになっていることです。これはいったいどうしたことでしょうか。
「自分」はいったい何をするためにこの世に生れてきたのか、それをまったく分らなくさせてしまうものは、周りで起こる日々のさまざまな心労であり、それに振り廻されて、「自分」の能力を活かす機会を失い、能力すら見つけることなく一生を終ってしまう。そして、その責任は自分自身へ向わず、身近な人間に転嫁され、事実はどんどん誇張され、漱石一人、「僕、悪くない」の状態になっているのです。
自分が意図しないうちに、つぎつぎにもたらされる心労を、容赦なくもたらす人物として、養父母や兄姉、岳父や妻を利用したとするならば、被害妄想もはなはだしいと言わなければなりません。
しかしながら、その責任が、じつは自分自身にあることを、『道草』九十七の書き出しで明確に示しています。
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭の何処かでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声が猶彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返して已めなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声は忽ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引ひっ懸かかっているのだろう」
「己の所為じゃない。己の所為じゃない」
健三は逃げるようにずんずん歩いた。
結局、「自分」は何をするために生れてきたのか考え、それを追求しようとしても、周りからもたらされるさまざまな心労に翻弄されて、人生とは「何か」を、わかることなく終ってしまう。人生の途中で、どうでも良いようなことに引っ掛って、時間を費やしてしまう。まさに人生は「道草」(途中で他のことをして手間どること)の連続である。そして、道草したことが「自分の責任ではない」と言っても、結局は逃れることができない、自分の人生には、自分自身が責任をもたなければならないのだと。――このことが、漱石のもっとも言いたかったこと。『道草』のテーマであり、また『道草』と言う題名をつけた意図もここにあると、私は思います。
それとともに、私は『道草』が描かれた当時の、漱石の人生観、死生観から、連続する「いのち」の旅のひとコマとしての「人生」そのものが「道草」であり、煩いを切り離した人生などあり得ない。「人生即道草」、「道草即人生」。人生とはそんなもの、煩いの連続する人生を肯定し、受け入れていく漱石の姿がそこにはあるように思えます。
漱石の意図は私にもまだよくわかりません。けれども、今までの常識を覆して、もう一度、『道草』を読み直してみる必要があるのではないでしょうか。そして私には、『道草』に登場するさまざまな人物に関心をよせるあまり、漱石研究自体も「道草」を食わされてきたように思われるのです。