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3.漱石好みの女性
御縫さんのこと
『道草』と言えば、健三の妻も含めて、登場人物は皆、あまり好ましく描かれていませんが、一人だけ例外がいます。それが島田の再婚相手である御藤の連れ子、御縫です。
何年振にも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、殆んど親しく口を利いた例がなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈な好い印象のない代りに、少しの不快の記憶に濁されていないその人の面影は、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに尊かった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼からそ唆り得る点に於て。
「その人」、つまり御縫のモデルは、もちろん、塩原昌之助の愛人で後妻となる日根野かつの連れ子れん(1866~1908年)。漱石より一つ上でした。
昌之助が、かつ・れん母子と生活を始めたのは1874年。浅草壽町10番地に引越してからです。暮には、自宅の隣りにあたる壽町11番地・12番地に、戸長である昌之助も関わって第一大学区第五中学区第八番小学(後の戸田小学校)が開設されることになり、その年の春に養父母の不仲から一時実家に引き取られていた漱石も、それに合わせて実家から戻って来て、れんといっしょに学校へ通うようになりました。
この学校は『道草』にも実名で出てきますが、1888年、浅草北富坂町29番地(現、台東区蔵前四丁目)に移転し、翌年、精華小学校と改称され、現在の蔵前小学校へと引き継がれています。
1876年、養父母の離婚が成立したため、漱石は塩原家在籍のまま実家へ引き取られ、れんとの生活も一年余で終止符が打たれました。昌之助たちも下谷区西町十五番地(現、台東区東上野二丁目11番)の借家に引越し、翌年には西町四番地(現、東上野二丁目8~9番)に家を新築し、貸家も建てました。漱石のための貸家も用意されたと言われています。
『道草』では、実家へ戻ってからも、健三は時おり島田の家を訪れていたようで、このような記述もあります。
健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友人は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」と云って彼をひやかした。
実際にも、その頻度はわかりませんが、漱石は昌之助の家を訪れていたのでしょう。『道草』には、昌之助が漱石とれんを結婚させ、跡を継がせようとしたことを示唆する箇所があります。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」「どうなってるか判らないじゃないか、なって見なければ」「でも殊によると、幸福かも知れませんわね。その方が」「そうかも知れない」健三は少し忌々しくなった。細君はそれぎり口を噤んだ。
『道草』の中にも記されていますが、実際の漱石も、れんに対して恋心を抱いたり、結婚相手として考えることはなかったのでしょう。もし漱石が望めば、結婚は実現していたのですから。結局、れんは1885、6年頃に陸軍中尉(あるいは少尉)平岡周造(1860~1909年)と結婚しました。と言っても内縁関係で、正式の結婚は後になってからのようです。
れんは向学心もあり、高等女学校に通ったと言われています。当時の高等女学校と言うと、竹橋に1882年設立された東京女子師範学校附属高等女学校。できて間もないこの学校に通ったとしたならば、卒業してから平岡と結婚したことになります。この学校は1886年、官立東京高等女学校に改組されましたが、結婚後に入学したならば、この改組された学校と言うことになります。当時の女学校は年齢も様ざまで、既婚者も交じっていました。後に三宅雪嶺の妻になる花圃も同じ頃に在籍、卒業しています。
高等女学校と言えば、1888年、東京府高等女学校が設立されています。この学校が下谷区西町の塩原家から三百メートル程の、きわめて近いところ(現在の白鴎高校)に移転したのは1903年で、それまでは築地にあり、竹橋と違って、自宅から徒歩で通学するには遠すぎるように思われます。
やがて、れんは平岡が名古屋の連隊へ転属したため、名古屋へ転じたと言われています。1894年、盂蘭盆会に墓参りのため、帰京したれんに漱石が会ったのではないかという説もあります。
『道草』で御縫さんは脊髄病(おそらく脊椎カリエス)で亡くなったことになっています。三十七歳で亡くなったことになります。実際の、れんは1908年6月2日、四十二歳で亡くなりました。死因はよくわかりません。『それから』は、れんが亡くなった翌年に発表されており、代助が想いを寄せる三千代の結婚相手にあえて平岡と名づけたのは、亡くなったれんへの想いが伏線にあったのではないかと、私は考えています。夫・平岡周造も、れんの後を追うように、『それから』が書かれた年に亡くなっています。
『道草』では、御縫はたくさんの子どもをもうけたことになっています。これがれんに当てはまるならば、昌之助はその中から一人、養子にすれば良かったわけですが、どうも現実は違うようです。れんに女の子があったという説もあります。それなら、昌之助はその子に婿を取って、後を継がせれば良いのであって、そのような形跡が見受けられないところから、それなりの理由があったか、あるいは子どもがあったという説そのものが誤りかもしれません。
漱石の作品に登場する美女
中村是公(のち鉄道院総裁)と二人、江東義塾の寄宿舎に住む漱石。『永日小品』には当時の思い出が描かれています。
その時窓の真下の家の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下していた事もあった。
どのように美しいか描かれていないだけに、想像が一人歩きします。『こころ』の先生の奥さんも、《美くしい奥さんであった》としか記されていません。
漱石の作品に登場する美女は、おおむね漱石が美しいと感じる好みの女性であったと考えられます。どうやら色白で、二重瞼の女性に美を感じたようです。
漱石が身を引いて譲ったと言われる、美学者大塚保治の妻楠緒子は色白でした。日陰町で出会った人力車の上の楠緒子を、《私の眼にはその白い顔が大変美しく映った》と記しています(『硝子戸の中』)。
『趣味の遺伝』に登場する寂光院の女も色白で、《眼の大きな頬の緊った領の長い女である》。そして、余がこの年になるまで見た夥しい女の中で、《この時程美しいと思った事はない》女でした。
『彼岸過迄』の敬太郎が神田小川町で探偵中、尾行している男の連れは、容貌は始めから大したものではなかったが、《その代り色が白くて、晴々しい心持のする眸を有っていた》。それとともに、唇が薄い割に口が大きく、《美くしい歯を露き出しに表わして、潤沢の饒かな黒い大きな眼を、上下の睫の触れ合う程、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた》と描かれています。『三四郎』の野々宮よし子も、《大きな潤いのある眼である》と、漱石は目にも強い関心を示しています。
漱石の一番上の姉は皮膚こそ浅黒かったが、人並より大きい二重瞼の眼をもっていました(『硝子戸の中』)。神楽坂の芸者屋東屋にいた咲松(御作)も二重瞼(『硝子戸の中』)、『それから』の三千代も、《美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼を持っている》。代助は、《三千代の顔を頭の中に浮べようとすると、顔の輪郭が、まだ出来上らないうちに、この黒い、湿んだ様に暈された眼が、ぽっと出て来る》。二重瞼はまだまだ続き、『虞美人草』の藤尾は、《肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴している》と、記されています。
『三四郎』に出てくる「池の女」こと里見美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたのは、《眼付と歯並である》。野々宮よし子を見舞いに来た美禰子はつぎのように描かれています。《二重瞼の切長の落付いた恰好である。目立って黒い眉毛の下に活きている。同時に奇麗な歯があらわれた》。そして、物語も終わりに近づいた頃、《その時白い歯が又光った》。とにかく、よほど気に入ったのか、描写はきわめて細かく、つぎのようにも表現されています。
今日は白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠す程に無趣味ではなかった。濃かな肉が、程よく色づいて、強い日光に負げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いている。てらてら照る顔ではない。肉は頬と云わずきちりと締っている。骨の上に余ったものが沢山ない位である。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かい様に思われる。奥行の長い感じを起させる顔である。
美禰子のモデルは平塚らいてうと言われています。「煤烟」事件に際して漱石がらいてうに接したことはほとんどないようですが、作中の表現と、らいてうの写真を見比べてみて、なるほどと思います。
『明暗』の津田由雄の妻延子(お延)は、色の白い女で、その所為で形の好い彼女の眉が一際引立って見えたが、《惜い事に彼女の眼は細過ぎた。御負に愛嬌のない一重瞼であった》。色白の点は好いにしても、どうもお延は漱石のお気に召さない女性であったようです。一重瞼に対する侮辱とも受取れます。けれどもこのお気に召さない女性が妖しく誘うのです。
けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常に能く働らいた。或時は専横と云ってもいい位に表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽き付けられる事があった。(略)すると彼女はすぐ美くしく歯を出して微笑した。同時に眼の表情が迹方もなく消えた。
本心好きではないけれど、どこか惹かれるところがある。漱石はこうして由雄のお延に対する思いを設定したのでしょう。
『道草』の御縫は、
又すらりとした恰好の好い女で、顔は面長の色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛の多い切長のその眼のように思われた。彼等の結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜った記憶を有っていた。(略)御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢を撫でつけていた。
と描かれています。れんの写真が残っていれば、美人かどうかわかるのですが、『道草』に描かれた御縫をそのまま当てはめることができるなら、れんは頭が良く、色白で、二重瞼かどうかわからないが、眼の表情も漱石好みであったと想像されます。鏡子にしてみれば、どうしてその人と結婚しなかったのか、《「どうせ私は始めっから御気に入らないんだから......」》と、言いたくもなるでしょう。そんな漱石が《歯並が悪くて歯がきたない、それを当人は強いて隠そうともせず平気でいるところが、大変気に入った》結果、鏡子と結婚したのだから、人生の皮肉と言えるかもしれません。しかし、新婚時代に熊本で撮影したという鏡子の写真を見る限り、けっこう漱石好みにも見えます。
1891年7月17日、井上眼科で見かけた「銀杏返しにたけながをかけた」少女は、もちろんれんではありません。すでに彼女は結婚していたし、所在もわかっているから、会おうとすれば会うことはできたわけです。人生の通りすがりのひとコマと言って良いでしょう。
『それから』の三千代は、漱石が関わった二人の女性、れんと楠緒子の影を背負っている。私はそんなふうに思います。そして、因縁めいたことに、『それから』をはさんで前後の年に、れんと楠緒子が相次いで亡くなっているのです。