森田草平(本名は米松)は1881(明治14)年、現在の岐阜市鷺山に生まれました。小説好きで学業優秀だった草平は、1895年、日清戦争による興奮の中、高等小学校を卒業すると、海軍軍人をめざして、単身上京し、攻玉社に入学。しかし、校風が合わず、退学して日本中学校に編入し、1899年に卒業しました。帰郷した草平と、同い年の従妹つねは恋に落ち、金沢の第四高等学校に入学した草平を、つねが追って来て同棲。しかし、怒ったつねの父親が担任に訴えたため、退学を命じられ、名古屋で半年過ごした後、再び上京して、第一高等学校を受験して合格。生田長江らの友人を得るとともに、与謝野鉄幹・晶子夫妻とも知り合い、本格的に文筆活動を始めました。
1903年、第一高等学校を卒業し、つねとの間に長男亮一が誕生、そして9月に東京帝国大学に入学しました。その年の暮、転居した丸山福山町の家は、かつて樋口一葉に恋心を抱いたという馬場孤蝶によって、一葉終焉の家とわかり、孤蝶、与謝野夫妻などが集まって、一葉祭が開かれました。
1904年から翌1905年にかけて、草平は家主伊藤ハルの娘岩田さくと親しくなり、いわゆる「不倫関係」に。その1905年の11月初め、草平は千駄木町の漱石の自宅(猫の家)を訪れ、門下生のひとりに加わりました。草平は『病巣』という作品に対する漱石の批評に感銘を受け、漱石への敬愛の念が強まったと言われています。
1906年7月、東京帝国大学を卒業した草平は、とりあえず郷里の岐阜に帰ったものの、漱石の『草枕』に感銘を受け、妻子を残して、あの一葉終焉の家に戻りました。しかし、職はなく、翻訳の仕事などで食いつなぎながら、1907年4月、漱石らの紹介で天台宗中学林の英語教師となりました。5月頃には、岐阜に住んでいる妻つねとの間に長女が誕生。一葉の本名にあやかって夏子と名づけられました。
ところが、与謝野鉄幹が6月に開設した閨秀文学会の講師を引き受けた草平は、聴講生としてやって来た、5歳年下の奥村明(平塚らいてう)と、しだいに親しくなっていきました。しかしながら、妻子ある男性と厳格な家庭の子女の恋愛が実を結ぶわけもなく、1908年3月、二人は塩原(栃木県)に死に場所を求めて駆け落ち。幸か不幸か、捜索中の警察官に発見され、心中は未遂に終わりました。漱石は草平を自宅に引き取った後、神楽坂付近に下宿させ、心中未遂事件を題材にした小説を書くように勧めました。このようにして書かれた『煤烟』は、朝日新聞に連載され、評判になりました。
漱石の推薦で朝日新聞の文芸欄を担当するようになった草平は、同じく朝日新聞で働く石川啄木とも親しくなり、そのような縁から、啄木も漱石に会う機会を得、やがては草平を通じて、漱石や鏡子(漱石妻)から借金をするようになっていきました。
1916(大正5)年12月9日、漱石が49歳で亡くなり、草平は「自分は永遠の弟子である。一生師匠にはなれない人間だといふような気が頻りにしている」と、心情を述べています。1919年、次男長良が誕生。1920年、漱石門下生のひとり、野上豊一郎(妻は作家の野上弥生子)の紹介で法政大学教授に就任しました。しかし、大学の内紛から野上と対立し、1934年、野上らを大学から追放したものの、自らも翌年、大学を去ることになってしまいました。
『細川ガラシャ夫人』など、歴史小説を執筆する草平は、1938年以来、東京帝大史料編纂所に通い続けていましたが、1945(昭和20)年6月、編纂所の長野県下伊那郡疎開にともなって、阿智村に隣接する山本村(現、飯田市)惣教寺に疎開。阿智郷から満蒙開拓団が送り出された頃です。当時、小学生だったKさんによると、山本村における草平は、味噌醤油をせがんだり、電灯の線を伸ばしてもらったり(草平は極度の近眼で、度の強いメガネをかけ、明るくなければ読み書きに不自由していた)、タバコもずいぶん吸ったということです。
草平はその後、阿智村にある長岳寺の離れに居を移しました。1947年、満州からシベリアに送られていた長岳寺住職山本慈昭が帰国。明確な記録はありませんが、草平は慈昭住職にも何かと世話になったと思われます。
安倍能成・小宮豊隆・鈴木三重吉とともに、漱石門下生「四天王」に数えられる草平ですが、度重なる不倫騒動、人間関係のトラブルと、破天荒な人生を送り、その終焉に近づく1948年、何か考えるところがあったのでしょう。日本共産党に入党して話題になりました。その翌年12月14日、長岳寺の離れで、肝臓肥大黄疸によって、69年の生涯を閉じました。おそらく、慈昭住職の読経によって送られたことでしょう。長岳寺境内の「望郷の鐘」の傍らには、「森田草平終焉の地」の碑が建てられています。