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2.漱石と阿智村
2016年秋、私は長野県飯田市に近い阿智村を訪れました。ここには満蒙開拓団を描いた映画『望郷の鐘』で有名になった、山本慈昭が住職を務めた長岳寺があり、境内には望郷の鐘があります。村内には満蒙開拓平和記念館が建てられており、まもなく天皇皇后両陛下が来館されると言うことで、村内の道路整備など迎え入れの準備が進められていました。
私は漱石の弟子のひとり、森田草平がこの阿智村長岳寺で生涯を終えたことを知り、何か不思議な縁を感じ、『漱石と阿智村』という題で書いてみようと思いたちました。もちろん、漱石が阿智村を訪れたことは一度もありません。森田草平がこの地に疎開し、そして亡くなった。それがこの題をつけた動機です。
漱石・森田草平そして阿智村
森田草平(本名は米松)は1881(明治14)年、現在の岐阜市鷺山に生まれました。小説好きで学業優秀だった草平は、1895年、日清戦争による興奮の中、高等小学校を卒業すると、海軍軍人をめざして、単身上京し、攻玉社に入学。しかし、校風が合わず、退学して日本中学校に編入し、1899年に卒業しました。帰郷した草平と、同い年の従妹つねは恋に落ち、金沢の第四高等学校に入学した草平を、つねが追って来て同棲。しかし、怒ったつねの父親が担任に訴えたため、退学を命じられ、名古屋で半年過ごした後、再び上京して、第一高等学校を受験して合格。生田長江らの友人を得るとともに、与謝野鉄幹・晶子夫妻とも知り合い、本格的に文筆活動を始めました。
1903年、第一高等学校を卒業し、つねとの間に長男亮一が誕生、そして9月に東京帝国大学に入学しました。その年の暮、転居した丸山福山町の家は、かつて樋口一葉に恋心を抱いたという馬場孤蝶によって、一葉終焉の家とわかり、孤蝶、与謝野夫妻などが集まって、一葉祭が開かれました。
1904年から翌1905年にかけて、草平は家主伊藤ハルの娘岩田さくと親しくなり、いわゆる「不倫関係」に。その1905年の11月初め、草平は千駄木町の漱石の自宅(猫の家)を訪れ、門下生のひとりに加わりました。草平は『病巣』という作品に対する漱石の批評に感銘を受け、漱石への敬愛の念が強まったと言われています。
1906年7月、東京帝国大学を卒業した草平は、とりあえず郷里の岐阜に帰ったものの、漱石の『草枕』に感銘を受け、妻子を残して、あの一葉終焉の家に戻りました。しかし、職はなく、翻訳の仕事などで食いつなぎながら、1907年4月、漱石らの紹介で天台宗中学林の英語教師となりました。5月頃には、岐阜に住んでいる妻つねとの間に長女が誕生。一葉の本名にあやかって夏子と名づけられました。
ところが、与謝野鉄幹が6月に開設した閨秀文学会の講師を引き受けた草平は、聴講生としてやって来た、5歳年下の奥村明(平塚らいてう)と、しだいに親しくなっていきました。しかしながら、妻子ある男性と厳格な家庭の子女の恋愛が実を結ぶわけもなく、1908年3月、二人は塩原(栃木県)に死に場所を求めて駆け落ち。幸か不幸か、捜索中の警察官に発見され、心中は未遂に終わりました。漱石は草平を自宅に引き取った後、神楽坂付近に下宿させ、心中未遂事件を題材にした小説を書くように勧めました。このようにして書かれた『煤烟』は、朝日新聞に連載され、評判になりました。
漱石の推薦で朝日新聞の文芸欄を担当するようになった草平は、同じく朝日新聞で働く石川啄木とも親しくなり、そのような縁から、啄木も漱石に会う機会を得、やがては草平を通じて、漱石や鏡子(漱石妻)から借金をするようになっていきました。
1916(大正5)年12月9日、漱石が49歳で亡くなり、草平は「自分は永遠の弟子である。一生師匠にはなれない人間だといふような気が頻りにしている」と、心情を述べています。1919年、次男長良が誕生。1920年、漱石門下生のひとり、野上豊一郎(妻は作家の野上弥生子)の紹介で法政大学教授に就任しました。しかし、大学の内紛から野上と対立し、1934年、野上らを大学から追放したものの、自らも翌年、大学を去ることになってしまいました。
『細川ガラシャ夫人』など、歴史小説を執筆する草平は、1938年以来、東京帝大史料編纂所に通い続けていましたが、1945(昭和20)年6月、編纂所の長野県下伊那郡疎開にともなって、阿智村に隣接する山本村(現、飯田市)惣教寺に疎開。阿智郷から満蒙開拓団が送り出された頃です。当時、小学生だったKさんによると、山本村における草平は、味噌醤油をせがんだり、電灯の線を伸ばしてもらったり(草平は極度の近眼で、度の強いメガネをかけ、明るくなければ読み書きに不自由していた)、タバコもずいぶん吸ったということです。
草平はその後、阿智村にある長岳寺の離れに居を移しました。1947年、満州からシベリアに送られていた長岳寺住職山本慈昭が帰国。明確な記録はありませんが、草平は慈昭住職にも何かと世話になったと思われます。
安倍能成・小宮豊隆・鈴木三重吉とともに、漱石門下生「四天王」に数えられる草平ですが、度重なる不倫騒動、人間関係のトラブルと、破天荒な人生を送り、その終焉に近づく1948年、何か考えるところがあったのでしょう。日本共産党に入党して話題になりました。その翌年12月14日、長岳寺の離れで、肝臓肥大黄疸によって、69年の生涯を閉じました。おそらく、慈昭住職の読経によって送られたことでしょう。長岳寺境内の「望郷の鐘」の傍らには、「森田草平終焉の地」の碑が建てられています。
漱石にかわいがられた(?)森田草平
草平は門下生の中で、もっとも漱石に迷惑をかけたと自覚しており、それだけに漱石にもっともかわいがられたという思いも強いようです。草平は『夏目漱石』(1942年)で、つぎのように記しています。
先生は夕方晩く丸山福山町の私の下宿している家の玄関に立たれた。そして、「これから飯を喰いに行くが、君も一緒に行かんか」と誘われた。私は二言と云わず応諾した。先生はその頃本郷にたった一軒あった洋食屋の真砂亭に私を連れて行かれた。
その後、二人は切通しから池の端を一周し帰宅しますが、その間、森田は一身上の事情を漱石に話し、漱石はそれを終始無言で聞いていたと言います。
一葉の父は一時、漱石の父の部下として働いたこともあり、二人の結婚話も噂として流れています。おそらく二人が会ったことはないでしょうが、文学の上で、漱石は一葉には一目置いていたようです。後に、お札の肖像になる二人ですが、草平を通して、漱石は一葉終焉の家の玄関先に立つことになったのです。
草平は『煤烟』の中で、一葉の名を登場させています。
四日目の日暮は、夏子は最う此世には居なかった。夏子といふ名は、此子の為に神戸が選んだので、名に因んだ一葉女史が臨終の間であったといふ同じ部屋で、一歳に足らぬ小さい皃は、掌に載せられた霰が消えてでも行く様に、ほつりと息を引取った。
夏子という名は一葉の通称(本名は奈津)から付けたもので、妻つねは夏子を連れて上京しており、そのわずらわしさがらいてう(雷鳥)との不倫のきっかけになり、それがやがて『煤烟』という作品を生み出していくことになっていきました。それにしても、実名で登場させた我が娘を、作品上でどうしてこのように描いたのか、草平の心理には、はかりかねるものがあります。
漱石が伊豆修善寺で、胃潰瘍の大吐血によって危篤になった1910年8月、東京は未曾有の大水害に見舞われ、草平の住む「一葉終焉の家」も終焉を迎えます。漱石は、『思い出す事など』に、つぎのように記しています。
妻が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞の積で柳町の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、此処らだがと思いながら、表から奥を覗いて見ると、かねて見覚のある家がくしゃりと潰れていたそうである。「家の人達は無事ですか、何処へ行きましたかと聞いたら、薪屋の御上さんが、昨晩の十二時頃に崖が崩れましたが、幸いに何方も御怪我は御座いません。一先ず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来てみると、まだ水の引き切らない床下のぴたぴたに濡れた貸家に畳建具も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。(略)晩の御飯を拵える事も出来ないだろうと思って、御寿司を誂えて御夕飯の代りに上げました。
草平に一葉終焉の家を告げた馬場孤蝶(1869~1940年)は、1915年に、「女子参政権、軍縮、言論・思想の自由」を掲げて衆議院議員選挙に立候補(東京市選挙区)。漱石・草平・生田長江・平塚らいてう・堺利彦らが応援しましたが落選しました(京都では与謝野鉄幹が立候補して落選)。