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3.寺の近くで育った漱石
私が漱石を巡る「東京の旅」を始めた時、最初に訪ねる場所として選んだのが太宗寺(浄土宗)である。漱石が攀じ上ったという唐金の仏様(銅造地蔵菩薩坐像)を見たかった。写真を見ると、何となくほのぼのとしたユーモアのあるお姿で、いたずら坊主の漱石が攀じ上っている様を想像しただけで、私の興味はかき立てられた。『道草』の一節には、唐金の仏様の様子が詳しく描かれている。
表二階の細い格子の間から覗く健三は、そのまま養父母と伊豆橋に暮らす漱石である。伊豆橋は現在の地下鉄「新宿御苑前」駅1番出入口付近にあり、甲州街道(新宿通り)に面していた。当時はさえぎるビルもなかったので、唐金の仏様もよく見えたことだろう。位置や向きは何度も変更されたようだが、現在は門から寺の境内へはいってすぐ右手に、西をむいて坐っている。『道草』には、つぎのような一節もある。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽われていた。この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。
文中の「四角な家」は伊豆橋であり、「赤い門の家」とは太宗寺北にある正受院(浄土宗)と推定されている。坂は瓶割坂で、現在は広い靖国通りになっている。漱石が養父母と最初の生活を始めたのは、正受院の東隣りであったが、漱石の物心つく前であったため家の記述はない。漱石が子どもの頃には、『道草』にあるように、このルートは通り抜けることができた。今でも塀さえなければ、通り抜けられることを、私も地図と現地で確認した。私には妙な習性がある。
漱石の生家も寺に近かった。『硝子戸の中』には、
その豆腐屋について曲ると半町程先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
西閑寺とは誓閑寺(浄土宗)のことで、生家の斜め向いから入った路地の突き当たりにある。赤く塗られた門はすでにないが、新宿区内最古といわれる梵鐘は寺の入口左手に現存する。
子どもの頃、耳に残ったお寺の音は、『野分』や『門』に描き込まれている。『野分』の主人公白井道也は市谷薬王寺前町(現、市谷薬王寺町)に住んでいる。江戸時代、袋寺丁とよばれた路地には、入口から左側に薬王寺、浄栄寺、長厳寺、蓮秀寺、右側に長晶寺、妙傳寺があった。このうち、地名に名を残した薬王寺は明治維新頃になくなった。道也の家には、《裏の専念寺で夕の御努めをかあんかあんやっている》音が聞える。専念寺が実際にどこの寺を念頭に置いたものか、寺が多くて特定できない。
『門』の野中宗助の家にも、夕方になると豆腐屋の喇叭に交って、《円明寺の木魚の音が聞えた》。円明寺は「矢来のお釈迦さま」として親しまれている宗柏寺(日蓮宗)がモデルと考えられる。道也も宗助も東京へ戻って来た人物である。その二人の家が寺のすぐ傍に設定され、生活の音として、お寺の音を聞いている。