西閑寺とは誓閑寺(浄土宗)のことで、生家の斜め向いから入った路地の突き当たりにある。赤く塗られた門はすでにないが、新宿区内最古といわれる梵鐘は寺の入口左手に現存する。
子どもの頃、耳に残ったお寺の音は、『野分』や『門』に描き込まれている。『野分』の主人公白井道也は市谷薬王寺前町(現、市谷薬王寺町)に住んでいる。江戸時代、袋寺丁とよばれた路地には、入口から左側に薬王寺、浄栄寺、長厳寺、蓮秀寺、右側に長晶寺、妙傳寺があった。このうち、地名に名を残した薬王寺は明治維新頃になくなった。道也の家には、《裏の専念寺で夕の御努めをかあんかあんやっている》音が聞える。専念寺が実際にどこの寺を念頭に置いたものか、寺が多くて特定できない。
『門』の野中宗助の家にも、夕方になると豆腐屋の喇叭に交って、《円明寺の木魚の音が聞えた》。円明寺は「矢来のお釈迦さま」として親しまれている宗柏寺(日蓮宗)がモデルと考えられる。道也も宗助も東京へ戻って来た人物である。その二人の家が寺のすぐ傍に設定され、生活の音として、お寺の音を聞いている。