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5.漱石と下女
小説の多くに下女が登場
吾輩が初めて出会った人間は書生でした。それでは、吾輩が珍野家で初めて出会った人間は、いったい誰でしょう。苦沙弥先生でも子ども達でもなく、正解は下女。以来『明暗』に至るまで、漱石の小説の多くに下女が登場します。にもかかわらず、漱石の小説に関して下女をテーマに論述したものは皆無に近いのではないでしょうか。私が知る限りでは『漱石の悲劇』(林田茂雄、白石書店、1982年)くらいです。
当時どの程度の所得階層まで下女(今で言うお手伝いさん)を雇っていたのかわかりませんが、漱石の小説においては、『吾輩は猫である』の苦沙弥(教師)、『道草』の健三(教師)、『門』の宗助(官吏)、『明暗』の由雄(サラリーマン)といった人たちから、職を持たない『それから』の代助、『彼岸過迄』の松本、『こころ』の先生、そして、財産もなければ、定収入もほとんどない『野分』の白井道也でさえ下女を雇っているのです。
『琴のそら音』の靖雄、『それから』の代助、『三四郎』の広田先生や大久保在住時の野々宮といった独身者ならばわからないでもありませんが、苦沙弥・健三・宗助・由雄・松本・先生(『こころ』)・道也・平岡(『それから』)たちは妻帯者で、しかも妻は職に就いていない。にもかかわらず、下女を置いているのです。東京へ出てきた井上孤堂も娘がいるにも関わらず、小野に頼んで下女を雇い入れています。
下女の名前
下女はほんの端役で名前など出ないことが多いのですが、それでも名前の記されている場合があります。お貞さん(『行人』の長野家)、お時さん(『明暗』の津田家)、そして何より多いのが清(きよ)。清と言うと、すぐ『坊ちゃん』を思い出す方も多いでしょう。坊ちゃんは小さい頃から「坊ちゃん、坊ちゃん」と清に可愛がられ、坊ちゃんも清を慕っています。赴任先の四国の中学から舞い戻った坊ちゃんは真っ先に清を訪ね、二人で住むようになり、死後は坊ちゃんの家の墓に入れてもらっているのです。
ところで、『吾輩は猫である』に出てくる下女の名前を「おさん」(第二からは「御三」と表記)だと思っている方もいるのではないでしょうか。「お三」は下女を指す一般名称で、下男を「三助」とよぶことに対応します。つまり漱石は当初から下女に名前をつけるつもりはなかったのでしょう。この下女は埼玉生まれだなどと書きながら、第十に至っても御三と表現されています。ところが第十一に至って、この下女の名前が「清(キヨ)」であることがわかるのです。苦沙弥先生、タマス・ナッシという16世紀の著書を持ち出して、妻の悪口を言う。もう奥方が御帰りの刻限だろうと、迷亭がからかい掛けると、茶の間の方で、《「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。「こいつは大変だ。奥方はちゃんと居るぜ、君」「ウフフフフ」と主人は笑いながら、「構うものか」と云った》。こんなところであえて下女を呼ぶ必然性があったのか理解し難いところですが、さすがに「御三」と呼ぶわけにいかないから、名前で呼んだのでしょう。
『吾輩は猫である』で下女の名として用いられた「清(キヨ)」は、その後も『琴のそら音』の宇野家、『虞美人草』の宗近家、『門』の宗助の家、これらの下女の名としても登場してきます。「キヨ」とは、もちろん漱石の妻(鏡子)の本名です。手近なところで妻の名前をつけたと捉えることもできますが、漱石が鏡子を下女程度にしかみていなかったとも、家事をあまりしない鏡子に対する皮肉とも受取ることができるのです。漱石自身もそれを意識していたのかもしれません。『道草』において、妻につぎのように言わせています。
「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱う積でいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」
『坊ちゃん』だけ見て、坊ちゃんが慕う下女の名を清としていることから、漱石の鏡子に対するラブレターとみる説もありますが、これは正しいとは言えないのではないでしょうか。
嫁ぐ下女
当時、下女が嫁ぐ時、嫁入り道具一式を揃え、若干の持参金を持たせることはしきたりになっていたようです。『明暗』の藤井家では下女がいますが、他に小林の妹お金さんを下女代わりに置いています。娘二人を嫁に出すさえ窮々している藤井家にとって、お金を嫁に出すとなると、《娘とは格が違うからという意味で、出来るだけ倹約した所で、現在の生計向に多少苦しい負担の暗影を投げる事は慥であった》ようです。
『行人』の長野家は金持ちだけあって、下女のお貞さんは厚遇を受けた幸せ者でした。十年間働いたお貞さんが岡田の部下佐野のもとに嫁ぐ時、結婚式は東京大神宮でおこなわれ、その様子はつぎのように描かれています。
愈出る時に、父は一番綺麗な俥を択って、お貞さんを乗せて遣った。十一時に式がある筈の所を少し時間が後れた為め岡田は大神宮の式台へ出て、わざわざ我々を待っていた。(略)その内式が始まった。巫女の一人が、途中から腹痛で引き返したというので介添がその代りを勤めた。自分の隣に坐っていたお重が「大兄さんの時より淋しいのね」と私語いた。その時は簫や太鼓を入れて、巫女の左右に入れ交う姿も蝶のように翩々と華麗に見えた。「御前の嫁に行く時は、あの時位賑かにして遣るよ」と自分はお重に云った。お重は笑っていた。
当時、東京大神宮は日比谷大神宮ともよばれ、有楽町三丁目(現、有楽町一丁目)、帝国ホテルの前を北へはいったところにありました。現在でいうと、帝国ホテルインペリアルタワーの前を宝塚劇場と日比谷シャンテの間の道路が本殿に通じる参道で、日比谷シャンテ北西にある空間が本殿跡にあたります。1923年の関東大震災で社殿が消失した後、1928年、現在地(千代田区富士見二丁目4-1)に移転しています。東京大神宮のホームページにも、《大正元年に発表された夏目漱石の有名な小説「行人」にも、日比谷大神宮(現在の東京大神宮)における結婚式の様子が克明に描かれております。》と、記されています。
今では結婚式の定番の一つになっている神前結婚式も、歴史はそれほど古くなく、1900年に後の大正天皇(当時皇太子)の結婚式が皇居賢所(神前)でおこなわれたのが始まり。それを記念して東京大神宮が民間の結婚式を神前でおこなう神前結婚式の様式を創始したのです。当時、家庭で挙式することが一般的だったので、神前結婚式は画期的でした。こうして神前結婚式は東京大神宮で始まり、やがて全国へ普及していきました。『行人』が書かれたのは1912年から1913年にかけてで、すでに最先端というわけではありませんが、主人公二郎の兄、長野一郎の娘芳江が小学生くらいと思われるので、東京大神宮でおこなわれた一郎の結婚式は、神前結婚式としては先がけの頃であったと言えます。長野家が新しいものを取り入れることに熱心であった、その一端がうかがえます。
下女と信用
下女というのは一つ屋根の下に住むだけに、信用のおける人物でなければなりません。学生時代に一戸を構えようとした『こころ』の先生は、《婆さんが又正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし》と述べており、実際『明暗』の津田家では、《夫婦以外に下女しか居ない彼らの家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸して置いて、何方かが鍵だけ持って出る必要があった》と記されています。それだけに信用のおける人の紹介というのが大きな役割を果たしていたようです。『琴のそら音』の靖雄の下女は婚約者宇野露子の家から紹介された婆さんで、『虞美人草』に登場する井上孤堂の家の下女は浅井の紹介で小野が入れた婆さんで、小野は年を取っていて心配していたが、《その代わり人間は慥だそうです》と述べています。
作品を書くにあたって、ここまで下女に心配りしているのは、漱石自身、下女にはずいぶん敏感だったからではないでしょうか。1914年の『漱石日記』(家庭日記)には、下女に関する記述が多く出てきます。この年、下女が泥棒の嫌疑をかけられ、次の下女は無断で朝勝手の戸を明け放ったまま逃亡、次の下女は美人だったが一日でやめてしまう。その後、新井屋の周旋で来た下女と山形出身の下女は言葉遣いができていない。漱石は《私はこの二人も前の妄りに入れ代った下女もみんな偽であると思う。偽者であると思うとみんな足で蹴飛してやりたくなる。(略)私は彼らを人間とは思わない。けだものだとして取扱うつもりでいる。人間としての資格がないからである》と記し、こうした下女を平気で使っているのは、妻が自分に苦痛を与えるためだとしているのです。軽蔑と被害妄想。この日記文が学習院における講演と同じ年に書かれたものですから、ほんとうに同一人物が書いたのかと、にわかに信じがたい文章です。
電話の要領を得ない、こそこそ話す、ぞんざいな言葉遣い、馬鹿丁寧な言葉遣い、台所の揚板のきしみ、口中に風を入れてひーひー鳴らす等々、とにかく何かにつけ下女の行動が気に触る。そしてこんなこともあったと言います。《この前にチビの下女がいた。至って品性のよくないこせこせした下女であったが、それが大層妻の気に入っていた。私はとうとうそれを出してしまった》。漱石はさらに記しています。《彼らの一人も決して普通の家の下女としては通用せぬものである。代えれば必ず妙な奴をよこす。桂庵から来ると黙って帰って行くのがある。たまたま好さそうなのが来ると一日で帰る。妻のいうところによると碌な家庭でないから碌な女がいつかないのだそうだ》。妻鏡子も負けてはいません。
絶筆
漱石の下女に対する態度は、そのまま妻に対する態度であると言えるかもしれません。つねに妻を馬鹿にし、行動がいちいち気に触り、あれこれ指図する。鏡子もしだいに心得て漱石をあしらうようになってくる。そこで妻が下女を使って自分に苦痛を与えようとしているという被害妄想も生じてきます。それでいて下女のように追い出してしまうわけにいかないのが妻です。ここに漱石夫妻のぎくしゃくした関係の元凶をみることができるのではないでしょうか。近代文学に大きな足跡を残した漱石も、その内面にはきわめて前近代的な人間観、女性観をもっていたと言うことができます。
「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。(略)清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。――未完――
『明暗』という小説はここで絶筆しています。吾輩が珍野家で初めて下女清に出会って以来、ずっと下女の名前として使われてきた清は、『明暗』に至って初めて、清子として、恋人の名前に使用されたのです。
最後に鏡子を恋人として作品に描き込み、鏡子に会いながら漱石は逝ってしまいました。