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4.吾輩は豚である
吾輩は豚である。名前はまだ無い。
豚に名前をつける人間など、まずいないから、おそらく一生涯、吾輩には名前など無いであろう。名前など無くとも別に困りはしない。名前など所詮、他人と識別するためのものであり、こうして一人称で語られている限り、名前などいらないのである。吾輩はあくまでも吾輩であって、吾輩を名前と思って貰っても一向に構わない。ところで豚が語るものかと思うかもしれないが、そんな疑問は漱石先生にぶつけてくれればよい。猫が語って、豚が語らぬ道理はない。ただ、漱石先生の猫は甚だ文才もあり、猫故、人間の身近において、人間の生活をじっくり観察することもできたし、屋根から屋根、生垣の穴から草むらへと、自由に徘徊して見聞を広げることもできた。その結果、ただただ膨大な語りができあがり、漱石先生も一躍、時の人となった。勿論猫も、である。吾輩など漱石先生の猫に比べれば甚だ文才も無く、豚故、人間の膝にのって、じっくり人間を観察することもできない。ましてや、屋根から屋根へと、自由に徘徊することもできない。豚もおだてりゃ木に登るというが、さすがに屋根へ登るは難しく、よしんば登ったとしても、屋根もろとも崩れ落ちるのみ。時折、吾輩の仲間に、自由を求めて遁走するものもいるが、電車にぶつかっても、頓死と言われ、挙句の果ては「トンだ迷惑」など。まったく同情もされない。一つ屋根の下に一生を送る、じつに見聞の狭いもの。したがって、吾輩の語りは短い短い、ショートショートストーリーである。漱石先生の猫は有名になったが、吾輩は無名のままである。もっとも、吾輩には名前が無いのであるから、有名になるはずが無い。それでは無名の猫が何故有名になったのか。そんなことは今更突っ込んでも、どうしようも無い。
遁走、頓死、トンだ迷惑のついでに、もう一つトンを加えるならば、吾輩はどこで生まれたか頓と見当がつかぬ、ということは無く、どこの豚舎で生まれたか非常に明確である。つまり、主人の豚舎で生まれたのである。この点が漱石先生の猫と決定的に違う点である。これは大いに誇っても良いことと吾輩は心得ている。
どうして猫の次は豚なのか。猫に小判、豚に真珠と、昔から猫と豚とは切っても切れない密接な仲なのである。もっともこの言葉、猫も豚も愚かしいものと決め付けた、人間の驕り高ぶりの言葉である。しかしながら、漱石先生の猫から百年を超えて、21世紀をむかえているにもかかわらず、人間はあいも変わらず戦争をしているのであるから、どちらが愚かしいか。猫にしても豚にしても、戦争などしたことがない。鉄砲だって握ることはできないし、核兵器を開発する能力など、持ってはいるが、脳味噌の奥深く仕舞い込んで、封印してある。
吾輩は父親を知らないが、母親は知っている。といっても、母親の乳房に吸い付いて乳を飲んでいた、おぼろげな記憶が残っているだけである。吾輩と同じに生まれた兄弟は十頭ほどいる。それがブーブー、押し合いへし合い乳房に吸い付いていたのである。生後三日くらいで自分の乳房が決まったようで、吾輩は比較的乳の出が良い乳房にありついたらしい。その時の乳の匂い、兄弟の肌の温もりが、今でも体感として残っているから不思議である。もっとも、今では誰が兄弟なのか、まったくわからない。それはどうでも良いことで、吾輩たちは誰であろうと、みんな平穏無事、仲の良いものである。ところで、吾輩たちに乳を与えた母親は、一月ほどで吾輩たちと引き離され、また新たなる雄豚と交えたそうだ。何でも、母親にとって、吾輩たちは二回目の出産だったそうだ。
漱石先生の猫と違って、吾輩たちは豚舎の中で生活している。吾輩のいる豚舎は、真ん中の通路を挟んで、左右六つの豚房に分かれている。吾輩の豚房には、吾輩の他、九頭の仲間がいる。まあ他の豚房も似たり寄ったりの数であろう。その辺の数については主人にきかなければわからない。吾輩たちは日がな一日、この豚房の中である。暇と言えば暇だが、もともとのんびり屋であるし、齷齪(あくせく)働くのは好きではないから、まんざら嫌な生活でもない。主人たちが来れば、ちょっと寄っていって頭を撫でてもらったり、時に瞑想したり、鼻で土をほじくっていれば、けっこう気も紛れる。吾輩たちの鼻はセンサーがわりの触毛がはえていて、なかなか便利なものである。においを嗅いで食べ物を探したりできるが、ここでは一日二回、箱の中にきちんと食べ物が入れられるから、探す必要は無い。
ところで、吾輩は雄なのか。もちろん吾輩というくらいだから雄である。漱石先生の猫だって雄だった。雌猫にも恋をした。吾輩だって恋の一つや二つくらいしたいものであるが、隣へ雌豚が寄って来ても、心ときめかないのである。これは良くない。自然ではない。雄が雌に恋をしないのはおかしい。吾輩はひょっとして異性に心ときめかない同性愛者なのか。あるいは雄と思って、じつに吾輩は雌だったのか。同性愛者ならそれでも良い。しかし、雄にもときめきを感じないのは何故。ほんとうは雌だったら、やはり雄にときめきを感じるはずではないか。吾輩は真剣に悩んだ。おそらく吾輩のこれまでの生涯の中で、こんなに悩んだのはこれ一件だけであろう。ある時、主人が何気に言っている話しにその疑問は解決した。といって、悩みが解消したわけでは無い。何でも、吾輩が乳離れする少し前、吾輩は雄としての勢を完全に抜かれてしまったのである。勢がなければ、性もない。ありゃ、よいよい。何にも良くは無い。吾輩は雌豚と交わることもなければ、吾輩の子どもをみることもないのである。解決の無い悩みは、出口の無いトンネルである。
人間の世界では、豚の出てくる話しはたくさんある。そんな中でももっとも有名なのが「三匹の子豚」である。自然界の豚は母豚と一緒に暮らしている。そして成長すると、子どもたちは一戸一戸、自分の家を持つ。「三匹の子豚」の話しは下の通りである。ある日、母さん豚が子豚たちに言った。これから自分たちの家を建てなさい。一番お兄さんの豚は煉瓦で家をつくった。一番チビ豚は、どうして煉瓦で家を建てるのか、たいへんではないか。一番お兄さんの豚は答えた。狼がやって来た時、こうしておけば大丈夫だと。二番目の兄さん豚は木で家を建てた。また、一番チビ豚がきいた。どうして木で家を建てるのか、たいへんではないか。それに狼がやって来たら、フーフーのフーで吹き飛ばされてしまう。二番目の兄さん豚は答えた。確かに昔の木造住宅は吹き飛んだかもしれない。しかし、これは風に強い建て方だ。一番チビ豚は藁で家をつくった。一番後から造り始めたのに、一番初めに完成した。二匹の兄さん豚は笑った。おまえ、そんな建て方だと、狼がやって来て、フーフーのフーで一吹きだぞ。おまえは狼にガブリ!食われてしまうぞ。一番チビ豚は言った。大丈夫、大丈夫。だいたい狼なんて滅多に来ない。家が建ったら突然狼が来るのもおかしな話しだし、それに狼というのは結構馬鹿だ。赤頭巾を食べるなら、森で出会った時に食えばいいのに、わざわざおばあさんの家まで出かけて行って、それから食うんだから。赤頭巾の狼だって、七匹の子山羊の狼だって、消化能力はたいしたこと無い。食われたって、腹を蹴飛ばして出てくることなんてわけは無い。まあ、兎にも角にも、三匹の子豚の家は完成した。狼はやって来ない。ある日、大きな地震がやって来た。一番チビ豚の家は藁でできているので、真っ先につぶれた。それから煉瓦の家、最後に木の家がつぶれた。地震がおさまって、一番チビ豚が藁の下から這い出て来た。藁は軽いので、下敷きになっても怪我一つしなかった。しかし、二番目の兄さん豚も、一番お兄さんの豚も、とうとう家の下から這い出てくることはなかった。これは吾輩たちにとっても、じつに教訓的な話しである。
吾輩の主人はじつに優しい。それは吾輩に対してだけでなく、吾輩の仲間に対しても、である。何が優しいかと言って、何といっても食べ物をくれること。毎日毎日、きちんと決まった時間に食べ物を持ってきてくれる。一日二回である。もとより吾輩たちはよく食べる。生まれてきたから食べるのか、食べるために生まれてきたのか、と言われれば、きっと食べるために生まれてきたのだろう。とにかく食べるのが大好きである。よく食べる割にあまり運動しないから、よく太る。運動もしないで食ってばかりいると、「豚になる」と人間は言うそうだが、吾輩たちはすでに豚になっているのだから、気にすることは無い。
主人は吾輩たちの健康面も気遣ってくれている。一日二回と決めた食事も、そうである。食べる量も決められている。これは体重による定めがある。何でも人間たちは吾輩たちの健康を気遣って、飼養標準というものをつくって、いつ頃、どんな食べ物を、どのくらい食べさせたらよいか、決めてあるという。吾輩の主人もまた、この飼養標準というのを使っている。吾輩の体重は100キロに近いから、一日の食べ物の量は3.2キロである。体重5キロの子豚は一日400グラム、30キロになると1.5キロである。体重5キロで400グラムなら、吾輩などはその20倍近く体重があるのだから、8キロくらいの食べ物をもらってもよさそうなものだが、そこは健康面を考えての吾輩への配慮と心得ている。吾輩たちは毎日、ブーブーと不平不満を言っているように聞こえるかもしれないが、いたって物分りの良いものである。
吾輩たちはもともと雑食性である。人間の食べ残したもの、これを残飯というそうだが、吾輩たちにとっては、けっして残飯などではない。れっきとしたご馳走である。薩摩芋などの茎や葉も立派なご馳走である。勿論、芋の方は人間が食う。大豆やトウモロコシから油を搾り取った残り粕も、ご馳走である。人間の残したものは、すなわち吾輩たちのご馳走である。要は「人間あるところ豚あり」、言い換えれば「豚あるところ人間あり」で、吾輩たちと人間は共存共栄なのである。
豚というと糞尿まみれという印象が人間にはあるようだが、吾輩たち豚はいたってきれい好きである。どうも糞尿まみれの誤解は、下のような理由によるものと考えられる。吾輩たち豚は発汗作用が退化している。そのため身体を濡らしたがる。したがって泥水の上に寝転がるのが好きである。その辺に糞尿がたまっていようものなら、泥水と同じ。ちょっとその上で。まあ、時にはちょっと失敬して口の中へ。そんなことはあるのだが、吾輩たちは本来きれい好きなのである。主人はそのこともよく知っているので、寝る場所とトイレをきちんと分けてくれている。吾輩たちもきちんとトイレで糞尿をするのである。とはいっても、あまり広くない豚房の中、寝る場所の隣はトイレである。そこで主人は毎日、吾輩たちのトイレを掃除してくれる。ふつう主人というのは何もしないで、威張っているものだが、吾輩たちの主人はじつに尽くしてくれるのである。これではどちらが主人かわからない。
そういえば、こんな話しも聞いた。吾輩たちは分娩豚房で生まれたが、母豚は豚房の壁に寄りかかって寝る習性があるので、子豚を圧死させてしまうことがあるらしい。主人は分娩柵をつくって、母豚が立ったままの姿勢でいられるようにして、吾輩たちの生命を守ってくれた。母豚のお乳がたくさん出るように気を遣ってくれたり、乳を飲む時に母豚に押しつぶされないよう工夫してくれたり、寒さに弱い吾輩たちを、赤外線ランプで温めてくれたり、吾輩たちをびっくりさせないように注意を払ってくれたり、そうそう吾輩たちは好奇心旺盛な割には、意外と臆病で、まあとにかく聞けば聞くほど主人には頭の下がる思いがする。寒さに弱いと言ったが、吾輩たちは自慢でもない、暑さにも弱い。要は寒がりの暑がりである。主人は夏になると、豚舎の窓を開けて風通し良くし、陽の当たる窓にはよしずを張ったり、時には扇風機も回してくれる。至れり尽くせりである。
漱石先生の猫はこの世に生を受けて二年余を生きながらえた。吾輩は体重こそ100キロ近くになったが、まだ五ヵ月を少し過ぎたばかりである。吾輩もせめて猫じゃのように、二年は生きたいものである。漱石先生の猫は事故死であるから、本来はもっと生きながらえたであろうが、吾輩、欲は言わん。もっとも、この狭い豚房であと一年と半余り、仲間たちと肌触れ合いながら生きながらえて、いったい何になるのかと思わないわけでもない。猫じゃはそこへいくと良い。自由に見聞を広め、主人の生活を垣間見ることもできる。せめてあの親切な主人の傍で、一日で良いから生活を共にしてみたい。せめてこの豚舎の周りだけでも自由に散策してみたい。普段、不平不満などあまり抱かぬ吾輩も、こう思うと、ちょっぴり猫じゃを羨ましく思う。
そんなある日、主人が吾輩の背中をトントンと叩いて、べつに豚でなくとも叩く時はトントンであるが、吾輩の顔を見てにっこり微笑んだ。そして、俺について来いという仕草である。吾輩は何事かと思いながら主人の後についた。外だ!吾輩はトラックの荷台にあがった。高い!何という見晴らしの良さ。身も心も清々する。仲間たちもつぎつぎと荷台にやって来る。もともと好奇心旺盛な集まりである。みんなこの初めての体験に興奮気味で、ブーブーキョロキョロしている。突然トラックが動き出して、吾輩たちはよろけそうになった。豚舎がずんずん遠くなり、やがて見えなくなった。木々の間を抜け、畑の横を通り、時折、車とすれ違う。車の窓から吾輩たちにむかって手を振る人間もいる。吾輩も手を振って応えたいが、あいにくそのような習性がない。せいぜい、鼻先をひくひくさせて応える程度である。だんだん車の量が増えてきた。横に並んで走る車もある。だいたいの車は屋根しか見えない。吾輩は何かとても偉くなったような気がした。それとともに、これからいよいよ自由な生活が始まろうとしているのだと、心弾む思いがした。大きな車が横へ来た。バスというものだ。中から人間が吾輩たちを指差して、何やら言っている。ガラス越しだからもちろん聞こえない。
そのうち、吾輩たちを乗せたトラックは左へ大きく曲がって、狭い道を走り始めた。
「何?この肉、消費期限過ぎてる!」
「ゴミ箱、捨てちゃいな!」
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