精神科医で作家の加賀乙彦は、『夏目漱石』(群像日本の作家Ⅰ、小学館)の中で、《私が自説を発表したとき、さる高名な漱石研究家から、大漱石を狂人あつかいするとは何ごとかと、激しい批難の手紙が来た》としながら、《つい最近(1990年4月)、NHKの教育テレビで、私は『夏目漱石』という三十分四回の番組に出演し、そのなかで、漱石の精神変調について話した。すると、長男の夏目純一氏から電話があり「父の異常をずばりと言ってくれて嬉しかった」と伝えられた。弟子たちと鏡子夫人や子供たちとの間に、病気をめぐった確執があった点もはっきりと証言しておられた》と記しています。
長女筆子の娘にあたる松岡陽子マックレインも、『漱石夫妻愛のかたち』(朝日新書)で母の話として、家族は《病気が起こる前は顔が真っ赤に火照ったのですぐ分った》が、そのような「お父様の病気」の時には、《みなできるだけ音を立てないように務めた》と記し、《「お父様の病気」が起きた時の漱石自身も母たち家族も、まことに気の毒だったと心から同情する》と続けています。
漱石が精神病者であるとするならば、いったいどのような診断がくだされているのでしょうか。
加賀は「うつ病」と「精神分裂病(1991年出版当時)」(統合失調症)の二説の診断がある、と記し、自身はうつ病説をとっています。
加賀の後輩にあたり、同じ東京大学医学部卒業で、同様に松沢病院で働いた経歴がある精神科医の岩波明は、『文豪はみんな、うつ』(幻冬舎新書)という本で、漱石をはじめとする、明治から昭和初期にかけて活躍した文豪とよばれる十人の作家をとりあげ、漱石・有島武雄・芥川龍之介・太宰治がうつ病、宮沢賢治が躁うつ病、島田清次郎・中原中也が統合失調症、谷崎潤一郎が不安神経症(パニック障害)であったとしています。統合失調症とされた島田清次郎は私と同郷の石川県出身であり、中原中也は私が出た幼稚園の先輩にあたります。岩波は漱石を「うつ病」の中でも、とくに「妄想を伴う精神病性うつ病(妄想性うつ病)」と診断しています。
加賀も岩波も漱石について、うつ病と診断しているわけですが、漱石にくだされた精神病の病名は、「うつ病」だけではありません。「混合精神病」「精神分裂病(統合失調症)圏の病気」「病状は分裂病だが、周期的なところは躁うつ病」「非定型の躁うつ病」……と、じつに多種多様。いったいどれが正しいのか、あるいは全部正しくないのか判然としません。そもそも、誰も漱石を直接診察していないのです。
ところが、精神科医としてひとりだけ漱石を診察した人がいます。呉秀三(1865~1932年)と言う、クレペリンに師事して学んだ、日本の精神医学の父と呼ばれる人物です。東京帝国大学医科大学精神科教授の呉は、1901年に府立巣鴨病院院長を兼任するようになり、病院改革に着手し始めていました(巣鴨病院・松沢病院は1940年代まで、東大医学部教授が院長を兼任することになっていました)。
1903年、イギリスから帰国した漱石は、熊本に戻るつもりがなく、第五高等学校退職願に添付する診断書について、《診断書に神経衰弱と書いて欲しい。ロンドンで会ったことのある呉秀三に頼んで欲しい(1903年3月9日付書簡)》と、菅虎雄に依頼しています。当時、高校教師であっても、官吏であるからには、「一身上の都合」で公職を辞することができなかったのです。学生時代からの知人で、留学中に会ったことがあり、精神科医をしている呉は適任だったのでしょう。この診断書を書くにあたって、呉が実際に漱石を診察したかどうか、定かではありません。
ところが、その年、漱石が望んだわけではないのに、ほんとうに呉の診察を受ける機会が訪れてしまいました。7月頃、漱石のあまりにひどい暴力に危機感を感じた鏡子が子どもを連れて実家へ帰った時。当時、妊娠中の鏡子は尼子四郎医師の診察を受けていましたが、鏡子の依頼を受けて尼子は呉に話を持ちかけ、漱石もそれに応じて診察を受けたのです。
呉がくだした病名は、《追跡狂という精神病の一種》。呉は鏡子に、漱石が妻子をどなりつけたり、暴力を振るうのはそのためで、《ああいう病気は一生なおり切るということがないものだ。なおったと思うのは実は一時沈静しているばかりで、後でまたきまって出て来る》と、病気について説明したと言います。鏡子は《病気なら病気ときまって見れば、その覚悟で安心して行ける》と語ったという話も残されています。
それにしても、「追跡狂という精神病の一種」という病気はどんなものなのか。そもそも精神病の病名として確立したものではないので、呉がどのように判断したか、よくわかりません。ただ、「追跡狂」という言葉から、「つねに何かに追いかけられている」「見られている」といった強迫観念、追跡妄想を想起させます。この症状は統合失調症にもみられると言われています。鏡子は『漱石の思い出』で、当時を振り返って、《このころは何かに追跡でもされてる気持ちなのかそれとも脅かされるのか、妙にあたまが興奮状態になっていて、夜中によくねむれないらしいのです》と記しています。
とにかくあれほど「頭の良い」人が、突然「頭の悪い人」に豹変する。鏡子はまさに子どもにでもするように、千駄木にいる時には妻恋稲荷(湯島)へ出向いて、「虫封じ」の祈祷を受けたり、お札をもらったりしており、早稲田へ引越してからは、虫封じの祈祷で有名な穴八幡宮に出向き、虫封じのお札に釘を打ち込んで、漱石の「あたまが悪い」のを治そうとしたとか。
漱石は自分自身を「神経衰弱」と捉えていたようです。五高の退職願に自身の診断書の病名を「神経衰弱」と書いてくれるよう依頼しており、学習院における講演(1914年)でも精神的変調を「神経衰弱」として回想しています。
ウィキペディアによると、神経衰弱は1880年にアメリカの医師ベアードが命名した精神疾患の一種で、症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的には、めまい、睡眠障害、いらいら感、消化不良などの症状が表れてくる。当時のアメリカでは都市化や工業化が進行し、労働者の間でこのような症状が多発したことから、研究も進み、病名もつけられた、と説明されています。
その後、近代化社会がもたらす文明の病・過労の病として病名が輸入され、日本でも有名になりました。いわゆる「現代病」ですから、新しいもの好きの漱石が、自身を「神経衰弱」と見なしているのも、うなづけます。漱石の症状から、「神経衰弱」と言う診立ては、かなり当たっているように思われます。
なお、「神経衰弱」という言葉は今でも一般的に使用されますが、精神疾患の病名としては使用されず、「神経症」と呼ばれることが多いそうです。