このページのPDF版はコチラ→
7.漱石は精神病だった?②
異常な行動(一)
漱石はいくつかの時期において、異常な行動を指摘されています。しかし、その状況を考えると、私だって漱石と同じような行動をとるのではないかと思うことが、いくつもあります。
第一が、大学を卒業した1893年頃からの時期。どのような異常行動があったか、そのエピソードは必ずしも多くありませんが、大学の寄宿舎を出てから、友人宅(菅虎雄宅)、法蔵院、そして松山へと、居を転々としていることや、法蔵院における現実とも妄想ともつかない出来事などが指摘されています。私は当時、漱石が「ぷりぷりしていた」という三兄直矩の思い出に注目しています。このような行動を果たして異常とみるかどうか疑問ですが、漱石自身が参禅していることから、《理性と感情の戦争》状態にあって、人生に悩み、「神経」を「衰弱」していたことは推察できます。
漱石は子どもの頃から学業成績も良く、たびたびの学制改変に翻弄されて回り道をしたとしても、高等中学さらに大学へと進学しました。漱石は自身の中に大きな能力があることを感じ取っており、その能力を使って「一番になりたい」「成功したい」と思ってきたことでしょう。言い換えれば、それだけの能力を使わなければ「世間に対して申し訳が立たない」のであって、《私は此世に生れた以上何かしなければならん》(私の個人主義)という「強迫観念」に苛まれていたかもしれません。この「強迫観念」こそが、漱石を悩ませ、平静をかき乱した大きな「魔物」の一つであると、私は考えます。
大学で漱石は、《我らが洋文学の隊長とならん事思ひも寄らぬ事》と気づき始め、《卒業した時には、これでも学士かと思うような馬鹿が出来上がった》と思っており、世間の評価に対しては多少得意であったが、《ただ自分が自分に対すると甚だ気の毒であった》と述べています(『夏目漱石』)。
漱石は26歳。本来なら働いて生計を立て、結婚して一家を構えていなければならない年齢です。社会に出れば何もできない。自分の能力をあきらめるのか、さらに追い求めていくのか。私たちは「文豪夏目漱石」として、将来の漱石を知っているから、当時の漱石を安心してみていることができますが、当の漱石は知ることさえできないのですから、さぞ不安であったことでしょう。追い討ちをかけるように、漱石は結核と診断され、自分の生命すら、この先わからない状態に陥れられ、大塚楠緒子との縁談話も身を引かざるを得なくなっていました。このような追いつめられた状況の中で、イライラして、一見、異常とも思える行動をとることは、私たちにもあることではないでしょうか。むしろそれが健全な姿ではないでしょうか。まして、能力も人一倍どころか、何倍も何十倍もあり、感受性も何倍も何十倍も強い漱石にとって、それはむしろ自然な健全な姿なのではないか、私はそう思うのです。
1893年の漱石は、とりあえず大学院へ進むことによって、研究の道を残し、一方、東京高等師範学校の英語嘱託になって、就職先をも確保。「二股」という最良の選択をしたことになりますが、それだけやらなければならないことは多くなるし、共に中途半端になる危険性ももっていました。
異常な行動(二)
第二に、イギリス留学中。漱石には「発狂」の噂が立ちました。その割に、異常な行動は妄想などが指摘されているものの、今ひとつ具体的でなく、不機嫌、無口になることがあったかもしれませんが、狂暴になることはなかったようです。しかも、噂が立つのは留学も終わりに近づく頃でした。
漱石は、英語の能力において抜群のものをもっていましたが、イギリスや西洋を必ずしも好きではなかったようで、もしイギリス留学を命じられることがなかったら、一生イギリスなどへ来ることはなかっただろうとも述べています。しかも、文部省の留学派遣目的は英語研究で、英文学研究ではありませんでした。しかし不本意な留学であっても、国費で留学することになった漱石は、名誉ではあるが同時に大きな期待を担ってイギリスへむかったことでしょう。まさにオリンピックでメダルの期待がかかった日本代表選手のようです。
行ったからには、何か成果を持ち帰らなければならない。国家的には、英語の能力を身につけ、西洋文化を持ち帰って、それを日本で役立ててくれれば良かったのでしょうが、英語の能力はすでにじゅうぶんあるし、西洋文化は必ずしも好きではない。つまり、持って帰るものがない。国家が求めることならば、自分でなくても良い。漱石は自分が留学するなら、自分にしかできないオリジナルなことをやりたい。けれども、それが何か、わからないまま、漱石はイギリスへ来てしまったのではないでしょうか。
そんな漱石が、ロンドンへ来て半年余が過ぎた1901年5月、ドイツから帰国途中の池田菊苗に出会い、《池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚ろいた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊のような文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた》(処女作追懐談)、というように刺激を受け、文学論を書くことに生きる道を見出したのです。
こうしてイギリスでやるべきことを見出した漱石は、書物を買い、読み、ノートをつくり、精力的に研究に取り組みます。オリジナルであるということは、模倣するものが何もないということで、やっとそれをつかんで、軌道に乗り始めた頃には、留学期間はどんどん短くなっている。やることはいっぱいある。何も進んでいないあせりがある。ちょうど、夏休みが終わりに近づいているのに、宿題はまだまだたくさん残っている状態です。あの時のイライラ感、憂鬱な気分、親のちょっとした言葉にも強い調子で反応した経験をもつのは、私だけではないでしょう。帰国の時期は決まっている。帰れば仕事に忙殺されることは明らかです。「もう少し夏休みがあれば」と思った私同様、漱石も「このままイギリスに滞在したい」と思っています。
帰国の期日と、「成果」に追いつめられながら、食費も切り詰めて、ひたすら研究に打ち込んでいれば、多忙と強迫観念から、神経衰弱に陥り、「おかしく」って当り前ではないでしょうか。つまり、漱石が異常な行動を起こしたとしても、それは私たちがじゅうぶん理解できることなのです。小宮の指摘は、この点においても、適切であると言えるのではないでしょうか。そして、もう一つ注目すべきは、漱石は二年間のイギリス留学を全うし、最後まで正常な判断能力を有していたということです。
異常な行動(三)
第三に、帰国後の漱石。
小宮豊隆は『夏目漱石』で、帰国当時の漱石の思いについて、つぎのように記しています。《漱石は、東京に住んで時間と労力とを余り費やす必要のない高等学校の語学の教師を勤めて、ロンドンから持ち越しの『文学論』を大成したいと希望していた》。けれども、《留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五、六寸の高さに達したり。余はこのノートを唯一の財産として帰朝》にも関わらず、《帰朝するや否や余は突然講師として東京大学にて英文学を講ずべき依嘱を受けたり。余は固よりかかる目的を以て洋行せるにあらず、またかかる目的を以て帰朝せるにあらず。大学にて英文学を担任教授するほどの学力あるにあらざる上、余の目的はかねての『文学論』を大成するにありしを以て、教授のために自己の宿志を害せらるるを好まず。依って一応はこれを辞せんと思ひしが、留学中書信にて東京奉職の希望を洩らしたる友人(大塚保治氏)の取計にて、殆んど余の帰朝前に定まりたるが如き有様なるを以て、遂に浅学を顧みず、依托を引き受くる事となれり》(夏目漱石『文学論』序)。
このようにして、一高だけでなく、東大の講義も引き受けざるを得なくなってしまった漱石は、十年計画の『文学論』を書き上げるため、『文学論』ノートをまとめていく作業とともに、その一部を3学期(4~6月)の大学講義用にまとめる作業、シェークスピアの下調べ、一高の語学の下調べと、案の定、多忙をきわめることになりました。しかし精力を注いだ大学の講義は、難解なうえに、人気の高かったラフカデオ・ハーンの後を受けたもので、評判は良くありませんでした。さらに、留学時代と違って家に帰れば、幼い二人の子どもと帰国直後に身ごもった鏡子がいる。どうみても、研究や執筆に適した環境ではありません。
そのような漱石に追い打ちをかけるような出来事が起きます。漱石が教壇に立ち始めて1カ月余。5月22日、一高の生徒であった藤村操が華厳の瀧から投身自殺を図ったのです。傍らの木に彫られた遺書「巖頭之感」には、「不可解」の一語もみられる。自殺動機の真相はわかりませんが、漱石は藤村の英語の授業を担当しており、自殺直前の授業で、「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っているのです。どういうわけか、小宮は『夏目漱石』において、この事件を書いていないのですが、この頃から、漱石の神経衰弱と、家庭内暴力が激しくなっていったようです。
小宮の『夏目漱石』における、鏡子の『漱石の思い出』の引用によると、漱石は《六月の梅雨期頃からぐんぐん頭が悪くなって、七月に入っては益々悪くなる一方》で、《夜中に何が癪に障るのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何といわず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らしております。どうにも手がつけられません》という状態で、女中は追い出すし、鏡子にはしきりに里へ帰れと言うし、《以前はあんなに無茶苦茶に怒る人じゃなかったのだが、あんまり勉強でもし過ぎて、どっか身体なり頭なりに異状のあるのではあるまいか》と思って、鏡子は自分の主治医になっている尼子四郎に相談。なんとか理由をつけて尼子が漱石を診察し、どうもただの「神経衰弱」ではなく、精神病の一種じゃないか、呉博士に診てもらってはと言うことで、鏡子も子どもに危害が及ぶかもしれないと考え、《万事の謀は尼子さんに御願い》して、七月に入って子どもを連れて実家へ帰っていきました。
暴力的になったのは
神経衰弱にともなう漱石の異常な行動をたどってきても、それまで暴力的な行動の側面は表れてきません。それが、留学からの帰国後、一気に暴力的になっていったのには、大きく三つの要因があると、私は考えます。
一つ目は、今までにない多忙と強迫観念に見舞われたこと。もちろん、漱石くらいの才能があれば、あまり力を入れなくても、社会的に評価を受ける授業や研究はできたでしょうが、「ねばならない」と言う気持ちが強すぎ、自己目標のきわめて高い漱石は、妥協を許さない。授業でも研究でも成果を上げなければならないし、妻子のために稼がなければならない。すべてをやらなければならないし、すべてをやろうとする。これでは、多忙と強迫観念から心身ともに疲労し、異常な行動が起ってきたとしても不思議ではありません。
漱石の「ねばならない」は、漱石の生活信条にも大きく反映しています。漱石の笑顔の写真は一枚しか存在していません(雑誌『ニコニコ』口絵、1915年)。かたくなに「男は笑ってはいけない」という、誰から教えられたかもわからない掟に縛られていたのでしょう。「教師はこうあらねばならない」「夫はこうあらねばならない」。それを貫こうとしたから、生徒を引きつけ、漱石を慕って集まったし、生涯妻と決めた鏡子と添い遂げ、浮気の噂はまったくない。漱石は湯河原における療養に、妻の申し出にもかかわらず、看護婦の同行さえ断わっています。
家族の生活保障にも徹しています。帰国後、漱石は一家を支えるため、三つの学校で合わせて週30時間の授業を担当しています。年俸は、一高(週20時間)700円、帝大(週6時間)800円、それに明治大学(週4時間程度)360円で、計1860円(丹羽健夫:『教育を読む』)。そのような漱石は、朝日新聞入社にあたって、給料をはじめ細かな点に至るまで契約を取り交わしています。給料は月額200円、それに盆暮れの賞与がつく。解雇しないことも確約させています。それは、自分の能力を正当に評価させるためであり、自分の「趣味」を邪魔されないためでもありましたが、何より一家の主として、家族の生活に責任をもつためでもあったと考えられます。『野分』で漱石は、《道也には妻がある。妻と名がつく以上は養うべき義務は附随してくる。自からみいらとなるのを甘んじても妻を干乾にする訳には行かぬ。》と書いています。1907年、朝日新聞入社直前の作です。
二つ目は、教え子藤村操の投身自殺です。良い教師たらんとする漱石にとって、衝撃的な事件であり、その後、教え子の安倍能成の結婚相手として、藤村の妹恭子を紹介したり※、藤村の自殺に衝撃を受け、大きく挫折した岩波茂雄を援助したりしたのも、漱石なりの責任の取り方と考えられます。藤村操を模倣した後追い自殺も漱石を悩ませたと考えられ、乃木大将を模倣した後追い自殺に対しても痛烈な警鐘を鳴らしています。
※藤村操の妹恭子と安倍能成の結婚については、『日めくり漱石』12月22日参照⇒夏目漱石、自殺した教え子の妹の結婚披露宴に出席する。【日めくり漱石/12月22日】
三つ目は、暴力的になることができる空間としての家庭を得たこと。多くの場合“ドメスティックバイオレンス”は、家庭などのプライベート空間で起きるため、なかなかわかりにくい面があります。漱石の場合もそうです。漱石が公衆の面前で暴力をふるったという話は聞えて来ません。暴力で生徒に怪我を負わせたという話も聞いたことがありません。弟子たちも漱石に対して気を使った、おどおどした態度を取っているとは思われず、ずいぶん無礼なことを言っています。1914年、鈴木禎次の父の葬儀に際して、鏡子が馬車に乗り、漱石が人力に乗るという事態が発生した時も、後で家にいる鏡子を電話に呼び出し、怒っていますが、公衆の面前で鏡子を怒るということはしなかったのです。
イギリスから帰国し、故郷東京で妻子と家庭を築くようになった漱石は、ある面、生まれて初めてプライベート空間を得たのではないでしょうか。流浪の旅が終った安堵感もあったでしょう。漱石は妻子には気を許し、安心して自分のもっとも醜い面をさらけ出し、あれほど「頭の良い」人間が、もっとも「頭の悪い」者へと変身していくことができたのではないでしょうか。以後、程度の差はあっても、漱石の家庭内暴力は終生続いたとみられます。
漱石の家庭内暴力の素地は、幼少期から形成されたと考えられます。ただ、私は養子に出されたことや、家庭環境が転々としたことを不幸と捉え、それが漱石の人格形成に大きな影響を与え、ゆがみを生じさせたというような説には、疑問をもっています。確かに養父母の離婚や実父母の出現というのは、漱石の人格形成に一定の役割を果たしたでしょうが、虐待の事実は確認できません。
私が注目するのは、『道草』に描かれた幼い時分の健三の姿です。それをそのまま漱石の姿とするならば、養父母から一人っ子としてかわいがられ、望む玩具は何でも自由になる漱石は、強情でわがままで、親を馬鹿にして育っています。そして、《自分の好きなものが手に入らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所へ坐り込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中から彼の髪の毛を力に任せて挘り取った》と言うように、感情に伴う行動を抑制できない一面がみられます。このような行動は育て方とともに、漱石の生まれながらにもった気質にも起因すると考えられます。結果的に《養父母の寵を欲しいままに専有し得る狭い世界の中に起きたり寐たりする事より外に何も知らない彼には、凡ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼は云えば通るとばかり考えるようになった》のです。(『夏目漱石』41)
『道草』は48歳の漱石が自己分析したものであり、子どもの心を超えているのは当然です。小説として誇張もあれば、フィクションもある。すべてを信じきるわけにいきませんが、漱石が再びプライベート空間を得た時、「先祖がえり」するように、「駄々っ子」の昔に戻ってしまったのではないでしょうか。
今まで、神経衰弱に陥る度に、頭の中で悶々としていたエネルギーが、一挙に暴力的に外にむかって発散されるようになった。つまり、漱石は今まで抑制していたものを、安心して吐き出すことができる場所を得たのです。漱石の暴力は、幼少期に受けた虐待から来るものでなく、むしろ大切に育てられ、その結果、高慢でわがままに育ってしまったところに、漱石の生来の気質が加わって、起きるようになったと私は考えています。
民主主義を好み、妻子を愛する漱石が、それとは裏腹に家族に対して暴君として振舞う。しかし、たとえどうであれ、家族にとっては、とんでもない迷惑であり、耐え難いものであったことでしょう。
作家になった漱石
呉の診断後、鏡子は漱石の兄の仲介なども受けながら、9月に漱石のもとに戻りました。10月末、三女栄子が生まれ、11月頃から漱石の状態は再び悪化し、鏡子には実家へ帰れと言ったり、子どもをひどい目にあわせたり、《朝学校へ出るにしても、洋服を着せようとすれば、彼方へ行っていろと頭からどなりつけるので前の晩のうちにカラーからネクタイまで揃えておいて、それを朝になるとそっと部屋へ置いておくと、ひとりで黙って着て出かけ》たり、夜中に不意に外へ飛び出したり、《かと思うと真夜中に書斎でドタン、バタン、ガラガラとえらい騒ぎが持ち》上がり、じっとこらえて、漱石が出勤してから書斎に入ると、《ランプの火屋は粉微塵にわれている、火鉢の灰は畳一面に降っている、鉄瓶の蓋は取って投げたものと見えてとんでもないところにごろついている、二目と見られた部屋の模様じゃありません。留守の間に大掃除をしておくと、帰って来てまたけろりとしてそこに入って》いたり、産後の鏡子は休まる暇もなかったであろうと思います。
家庭において異常な行動がみられた漱石ですが、交友関係においては、正岡子規の後を継いだ高浜虚子ら『ホトトギス』の同人が漱石のもとを訪れるようになり、漱石は憂さ晴らしに、わずかばかりであるが俳句を創り始めています。不評だった大学の講義も、新学年の9月から始まった講義は評判も良く、とくにシェークスピアの講座は大教室がいつも満員となるほどでした。
1904年になっても、漱石の「神経衰弱」はおさまらなかったようですが、目先の違ったことをやれば、「気晴らし」になって、思い詰めた気持ちも少しは緩和されるであろうと、虚子は、時おり漱石のもとを訪れ、鏡子の依頼を受けて、文章錬成会(山会)に誘うようになりました。そこへ漱石は『吾輩は猫である』の第一章にあたる部分の原稿をもって現れたのです。
その後、『倫敦塔』『カーライル博物館』『琴のそら音』『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』『野分』と、つぎつぎに作品を発表。これと並行して、一高、東大で教え、さらに明治大学も加わり、講義を積み重ねてつくりあげてきた『文学論』も1907年には出版しています。子どもも四人に増え、学生や卒業生も頻繁に自宅を訪れるようになっていました。
小説を書くことは、きわめて創造的なことであり、自分だけのオリジナルであり、漱石は小説を書くことで、文学への関心と創造とを結びつけ、エネルギーの傾け先をみつけることになった。こうして、ブラックボックスの中で先の見えない状況から、一筋の光明が見え、漱石に安心を与えたと思われますが、漱石はますます多忙になっていたのです。
そのような中で、1907年に入って、池辺三山から朝日新聞入社の誘いが飛び込んできたのです。教職と作家と、どちらを捨てるかという選択において、漱石は迷うことがありませんでした。朝日新聞入社の辞で、漱石はつぎのように記しています。
漱石は大学では講師として年俸八百円を頂戴していた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底暮せない。仕方がないから他に二三軒の学校を駆あるいて、漸く其日を送って居た。いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。酔興に述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。夫丈けではない。教える為め、又は修養の為め書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱に陥ったのである。
新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるなと云ってもやめて仕舞う。休めた(やめた)翌日から急に脊中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入って来た。
加賀は、作家になった漱石から一旦「神経衰弱」が影を潜めたとしていますが、家族の前では「お父様の病気」は継続していたようです。
1910年、「修善寺の大患」で漱石は、かろうじて一命を取り留めたものの、1911年には、胃潰瘍再発で入院、痔疾手術、五女ひな子の急死と続き、この間に大逆事件も起きていました。1912年には明治天皇崩御。『行人』の連載を始めたものの、1913年には胃潰瘍で連載を中断。まさに心身ともに疲弊しきった状態にありました。
研究や授業の合間に、そこから解放されて、楽しみながら一気に作品を書いていく初期の時代と違って、職業作家として有名になり、作品を書かなければならない状況になった漱石は、病気も重なって、しだいに小説を書くことができなくなってしまった。楽しみが楽しみでなくなり、小説の筆が進まず、大きな悩みをかかえるようになっていたのではないでしょうか。加賀は漱石の「神経衰弱」が、1913年に再発したと述べています。それは、明治が終った翌年、大正2年のことです。それを乗り越えようとする漱石は、世の中の変革と言う、もっと大きな創造的なものを見出し始めたのかもしれません。けれども、結局それはじゅうぶんな方向性を見出せないまま、漱石は亡くなったのです。
【参考文献】
小宮豊隆:『夏目漱石』(岩波文庫)
© 2017-2021 Voluntary Soseki Literature Museum