神経衰弱にともなう漱石の異常な行動をたどってきても、それまで暴力的な行動の側面は表れてきません。それが、留学からの帰国後、一気に暴力的になっていったのには、大きく三つの要因があると、私は考えます。
一つ目は、今までにない多忙と強迫観念に見舞われたこと。もちろん、漱石くらいの才能があれば、あまり力を入れなくても、社会的に評価を受ける授業や研究はできたでしょうが、「ねばならない」と言う気持ちが強すぎ、自己目標のきわめて高い漱石は、妥協を許さない。授業でも研究でも成果を上げなければならないし、妻子のために稼がなければならない。すべてをやらなければならないし、すべてをやろうとする。これでは、多忙と強迫観念から心身ともに疲労し、異常な行動が起ってきたとしても不思議ではありません。
漱石の「ねばならない」は、漱石の生活信条にも大きく反映しています。漱石の笑顔の写真は一枚しか存在していません(雑誌『ニコニコ』口絵、1915年)。かたくなに「男は笑ってはいけない」という、誰から教えられたかもわからない掟に縛られていたのでしょう。「教師はこうあらねばならない」「夫はこうあらねばならない」。それを貫こうとしたから、生徒を引きつけ、漱石を慕って集まったし、生涯妻と決めた鏡子と添い遂げ、浮気の噂はまったくない。漱石は湯河原における療養に、妻の申し出にもかかわらず、看護婦の同行さえ断わっています。
家族の生活保障にも徹しています。帰国後、漱石は一家を支えるため、三つの学校で合わせて週30時間の授業を担当しています。年俸は、一高(週20時間)700円、帝大(週6時間)800円、それに明治大学(週4時間程度)360円で、計1860円(丹羽健夫:『教育を読む』)。そのような漱石は、朝日新聞入社にあたって、給料をはじめ細かな点に至るまで契約を取り交わしています。給料は月額200円、それに盆暮れの賞与がつく。解雇しないことも確約させています。それは、自分の能力を正当に評価させるためであり、自分の「趣味」を邪魔されないためでもありましたが、何より一家の主として、家族の生活に責任をもつためでもあったと考えられます。『野分』で漱石は、《道也には妻がある。妻と名がつく以上は養うべき義務は附随してくる。自からみいらとなるのを甘んじても妻を干乾にする訳には行かぬ。》と書いています。1907年、朝日新聞入社直前の作です。
二つ目は、教え子藤村操の投身自殺です。良い教師たらんとする漱石にとって、衝撃的な事件であり、その後、教え子の安倍能成の結婚相手として、藤村の妹恭子を紹介したり※、藤村の自殺に衝撃を受け、大きく挫折した岩波茂雄を援助したりしたのも、漱石なりの責任の取り方と考えられます。藤村操を模倣した後追い自殺も漱石を悩ませたと考えられ、乃木大将を模倣した後追い自殺に対しても痛烈な警鐘を鳴らしています。
三つ目は、暴力的になることができる空間としての家庭を得たこと。多くの場合“ドメスティックバイオレンス”は、家庭などのプライベート空間で起きるため、なかなかわかりにくい面があります。漱石の場合もそうです。漱石が公衆の面前で暴力をふるったという話は聞えて来ません。暴力で生徒に怪我を負わせたという話も聞いたことがありません。弟子たちも漱石に対して気を使った、おどおどした態度を取っているとは思われず、ずいぶん無礼なことを言っています。1914年、鈴木禎次の父の葬儀に際して、鏡子が馬車に乗り、漱石が人力に乗るという事態が発生した時も、後で家にいる鏡子を電話に呼び出し、怒っていますが、公衆の面前で鏡子を怒るということはしなかったのです。
イギリスから帰国し、故郷東京で妻子と家庭を築くようになった漱石は、ある面、生まれて初めてプライベート空間を得たのではないでしょうか。流浪の旅が終った安堵感もあったでしょう。漱石は妻子には気を許し、安心して自分のもっとも醜い面をさらけ出し、あれほど「頭の良い」人間が、もっとも「頭の悪い」者へと変身していくことができたのではないでしょうか。以後、程度の差はあっても、漱石の家庭内暴力は終生続いたとみられます。
漱石の家庭内暴力の素地は、幼少期から形成されたと考えられます。ただ、私は養子に出されたことや、家庭環境が転々としたことを不幸と捉え、それが漱石の人格形成に大きな影響を与え、ゆがみを生じさせたというような説には、疑問をもっています。確かに養父母の離婚や実父母の出現というのは、漱石の人格形成に一定の役割を果たしたでしょうが、虐待の事実は確認できません。
私が注目するのは、『道草』に描かれた幼い時分の健三の姿です。それをそのまま漱石の姿とするならば、養父母から一人っ子としてかわいがられ、望む玩具は何でも自由になる漱石は、強情でわがままで、親を馬鹿にして育っています。そして、《自分の好きなものが手に入らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所へ坐り込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中から彼の髪の毛を力に任せて挘り取った》と言うように、感情に伴う行動を抑制できない一面がみられます。このような行動は育て方とともに、漱石の生まれながらにもった気質にも起因すると考えられます。結果的に《養父母の寵を欲しいままに専有し得る狭い世界の中に起きたり寐たりする事より外に何も知らない彼には、凡ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼は云えば通るとばかり考えるようになった》のです。(『夏目漱石』41)
『道草』は48歳の漱石が自己分析したものであり、子どもの心を超えているのは当然です。小説として誇張もあれば、フィクションもある。すべてを信じきるわけにいきませんが、漱石が再びプライベート空間を得た時、「先祖がえり」するように、「駄々っ子」の昔に戻ってしまったのではないでしょうか。
今まで、神経衰弱に陥る度に、頭の中で悶々としていたエネルギーが、一挙に暴力的に外にむかって発散されるようになった。つまり、漱石は今まで抑制していたものを、安心して吐き出すことができる場所を得たのです。漱石の暴力は、幼少期に受けた虐待から来るものでなく、むしろ大切に育てられ、その結果、高慢でわがままに育ってしまったところに、漱石の生来の気質が加わって、起きるようになったと私は考えています。
民主主義を好み、妻子を愛する漱石が、それとは裏腹に家族に対して暴君として振舞う。しかし、たとえどうであれ、家族にとっては、とんでもない迷惑であり、耐え難いものであったことでしょう。