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8.漱石は精神病だった?③
森田理論から捉え直す
このようにみてくると、漱石は時には荒れ狂いながらも、49年の人生を「活き活きと生きた」感じがします。漱石を精神医学、病理的な側面から捉えれば、明らかに精神病者でしょう。しかし、それで漱石と言う人間を理解できるのか。私は、漱石の「神経衰弱」は過剰に脳を使いすぎた結果としての脳神経疲労であり、いわゆる「過労」であり、小宮豊隆のように「脳の性能」の側面から捉えることが適しているように思われます。そしてそれは漱石が活動的に生きた証しでもあるわけですから、異常な行動も健全な反応として捉える、「異常」と「正常」を二元的に区分するのではなく、表裏一体のものとして捉える森田理論が有効であると、私は考えます。
森田理論は精神科医の森田正馬が生み出したもので、「神経衰弱(神経衰弱症)」と呼ばれる、治療困難な病気の一つとみられていた神経症を、まったく違った視点から捉え直して治療法を確立したものです。彼が編み出した治療法は「森田療法」と呼ばれています。
正馬は「神経症」を神経の衰弱でも、精神の異常でもなく、健康な人なら誰にでも起こりうる心理的現象にすぎないと主張しています(主著『神経質の本態と療法――精神生活の開眼』、1927年刊)。
正馬は、神経衰弱(神経症)の中に、強力性のあるもの、つまり「生の欲望が強いために、心身の不調に過敏になる」ものがあることに注目し、これを仮性神経衰弱(森田神経症)と名づけています。正馬自身、このタイプの神経症に悩まされ続けてきたようです。
漱石がこのタイプに該当するかどうか、即断できませんが、漱石は『野分』において、「神経症」がさまざまな病気を生み出していくようすを、みごとに表現しています。中野と女が話しています。あの男とは高柳周作、中野の親友です。
「あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、却って皮肉を云うのです。何だか近来は益変になる様です」「御気の毒ね。どうなすったんでしょう」「どうしたって、好んで一人坊っちになって、世の中をみんな敵の様に思うんだから、手の付け様がないです」(略)「ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう」「どうしてですかね。遺伝かもしれません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう。」
漱石自身をみつめた言葉なのか、「神経症」を的確に捉えているように思えます。そして、私はもう一つ驚かされます。漱石は森田療法で言う「恐怖突入」を見事に表現しているのです。『それから』の最後の場面。父からも兄からも縁を切られた代助は、「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と言い残して家を出ます。
飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車の中で、「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞えるように云った。
こうして代助は電車の中で世の中すべてのものが真赤になってしまうのです。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。まさにこれが、正馬の言う「恐怖突入」です。大学における試験を前に父親から最後通告された正馬が、試験に立ち向かっていった、その姿です。今まで親の脛をかじって、社会にも出ず、職業にも就かず生きて来た代助が、初めて起こした行動。究極において、生に対する強い欲望が引き出されてくるのです。
漱石と森田正馬
漱石は森田理論を学んでいたのか。もちろんそのようなことはありません。森田理論の確立は漱石の死後ですから。しかしながら、正馬が経験の中で、独自の理論をつくり上げていったように、漱石も経験の中で、森田理論に通ずる考えをつかみとっていったのでしょう。
このような漱石と正馬ですが、二人は不思議なところでつながりがあるのです。
森田正馬は1874年、高知県に生まれました。子どもの頃から恐怖感、不安感が強く、発作を起こしたり、さまざまな病気を引き起こしたりしてきました。こうした一連の症状をパニック発作とよんでいる人もいます。勉強にも集中できず、5年で卒業する中学校を7年かかり、その後も不安定な状況を続け、熊本にある第五高等学校に入学したのが、21歳になった1895年のことでした。
第五高等学校と聞くと、漱石との出会いが期待されます。実際、翌年、漱石が五高に赴任し、正馬も漱石の英語授業を受けることになります。しかしながら、正馬は寺田寅彦のように漱石の人脈に入ることはありませんでした。
正馬はパニック発作こそ起きなかったが、頭痛、腰痛、肩こりなどに悩まされ、受診、転地療法なども効果がありませんでした。それでも正馬は、1898年、第五高等学校を卒業し、東京帝国大学医科大学に入学。皮肉なことに、この年から漱石の神経衰弱が始まります。
医科に入った正馬は再びパニック発作を起こすようになり、寄宿舎を出て、郷里から呼び寄せた母親と暮らすようになりました。翌1899年には箱根に転地療養しましたが効果なく、父は学費を断つと言う。逃げ場を失い、不安感をいっぱい抱えながら、自分のもっている力を出して、それでダメなら仕方がないと、ありのままの自分で臨んだ試験で、意外にも良い結果を得、以後、パニック発作を起こすことはなくなったと言います。25歳の時です。「恐怖突入」と「あるがまま」、この二つが神経症の治療に有効であるということを自ら体験した正馬は、やがて、森田療法という神経症に対する独特な治療法を生み出していきました。
正馬が東京帝国大学に学んでいると言うことは、漱石との二回目の出会いを期待させます。
五高、東大と言うルートは正馬や漱石だけではありません。小泉八雲も1891年11月から1894年まで五高で教えています。その時、正馬はまだ入学していません。しかし、八雲は1896年から1903年まで東京帝国大学文科で教えていたので、科は違うが、正馬は影響を受ける機会はあっただろうと思われます。八雲は1904年『怪談』を出版。この年、亡くなっています。東大における八雲の後任が漱石です。正馬は文科大学の講義にも出ていたので、何らかのかたちで知る機会もあったかもしれません。
1902年、東京帝国大学医科大学を卒業した正馬は、精神科助手として府立巣鴨病院に入局します。院長は東京帝国大学医科大学教授で、精神科医として唯一、漱石を診察したことのある呉秀三。ここで、漱石と正馬、三回目の接点ができます。漱石が呉の診察を受けたのは1903年7月頃ですから、出会っていても不思議ではありません。『吾輩は猫である』にも巣鴨病院は登場しています。
八雲の影響を受けたかどうかわかりませんが、正馬は、1902年、郷里高知県の犬神憑きの調査研究をおこない、大学院では精神療法を選び、文科大学で心理学や催眠術の講義を受けています。当時、催眠術が流行していたようで、『吾輩は猫である』(1904~05)にも描かれています。
正馬は1905年、『治癒せる強迫観念狂の一例』という論文を発表していますが、その年に漱石が発表した『琴のそら音』で、余の親友津田真方は幽霊の研究をしており、迷信などにも関心がある。当時、正馬は迷信・妄想などの研究にも力を入れており、私には津田のモデルが正馬のように思われてなりません。漱石は、『琴のそら音』で、犬の遠吠えに関して、500字余りの記述をしています。
漱石と正馬の間には、第五高等学校、東京帝国大学、呉秀三と、いくつもの接点が存在します。もし二人の間に交流があれば、当然お互いの文章や、周辺の人々による記録が残っているはずで、研究もなされたでしょう。しかし、そのようなものは私が知る限り皆無ですから、交流というものはなかったと思わざるを得ないのです。と言いつつ、私は漱石が何らかのかたちで、正馬の影響を受けたのではないかと思わざるを得ないのです。
【参考文献】
森田正馬:『神経質の本態と療法――精神生活の開眼』、1927年刊
(解説:河合博、1960年初版、白揚社)