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6.マーメイド
漱石はさまざまな切り口から論ずることのできる作家である。それは漱石の幅の広さと深さを示すものであり、魅力でもある。漱石は権力や金力ではなく、人びとが芸術に価値を置くことによって、一人一人の個性が発展され、また平和が実現すると考えていた。漱石は英文学から漢文、江戸文学に至るまで関心を示し、俳句にも親しんだが、美術においても和漢洋すべてに興味を示し、作品の中にも描き込んでいる。
『三四郎』につぎのような場面がある。
美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。(略)「一寸御覧なさい」と美禰子が小さな声で云う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂がする。画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴が、ぐるりと腰を廻って、向う側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余ったのを手に受けながら、此方を向いている。背景は広い海である。「人魚(マーメイド)」「人魚」頭を擦り付けた二人は同じ事をささやいた。
三四郎が広田先生の引越しで、初めて美禰子に会った日である。若い男女が頭を擦り付けて、例え人魚とは言え、若い女性の裸体を見入る。当時としては極めて斬新な設定であろう。
『人魚(マーメイド)』はジョン・ウィリアム・ウォーターハウス、1900年の作品。漱石がイギリスへ留学した年に描かれたものである。現在はロンドンにある王立芸術院に所蔵されている。『三四郎』に出てくるこの絵をある本でみつけた時、私はその人魚にすっかり魅入られてしまった。おそらく漱石もこの人魚に魅入られた人物の一人であろう。「誘う女」、美禰子もまたそんな女であった。
いつかこの絵を、実物で見てみたい。けれどもまさかそれが実現するとは思ってもみなかった。それだけに『夏目漱石の美術世界』が企画され、東京藝術大学に続いて静岡県立美術館で開催され、『人魚』の絵も展示されると知って、私は何ヶ月もわくわくしながら、出会える日を心待ちにしていた。そして、ついにその日が来た。2013年夏のことである。
『夏目漱石の美術世界』では、漱石と関わりのある作品、それに漱石自身の作品も合わせて百点以上が一堂に展示され、ターナーの『金枝』、ウォーターハウスの『シャロットの女』、伊藤若冲の『梅と鶴』、青木繁の『わだつみのいろこの宮』など、目を引く作品も多く、一つの作品の前で長く立ち止まったり、戻ってみたり、初めて美術館が広く感じられた。漱石の評価が加えられた作品もいくつかみられ、その鋭さに感嘆したが、漱石自身の作品は素人の趣味の域を出るものではなく、かえって微笑ましい感じがした。
私を捉えて離さない人魚。どうしてこの少女は人魚などに生まれてきたのだろうか。美しく、まだあどけなさを残し、それでいて男を誘うような眼差しをして。全身の左側を見せながら、首をややかしげるように顔をこちらにむけている。ほとんど横顔であるが、両方の眼がしっかりと見る者を捉えて離さない。左腕で乳頭部分が隠された乳房は、お椀を伏せたようにこじんまりとまとまっている。頬にほんのり赤みのさす白い肌は、腰のあたりから生臭く光る魚の鱗に変り、『三四郎』に描写があるように、腰周りを一回転して、尾の先がこちらをむいている。左手は長い髪の根元を持ち、右手に櫛を持って髪を梳いている。おそらく海の塩が絡みつき、櫛の通りが悪くなっているであろう。櫛でまだ梳かれていない毛先は、毛が絡み合っている。彼女が座る波打ち際は小石がごろごろし、大きな貝殻に無雑作に置かれた真珠の首飾りは、その一部が貝殻から垂れ下がっている。
漱石は《背景は広い海である》と書いているが、実際には大きな二つの岩でそれがふさがれ、広い海は描かれていない。手前の岩の空洞から、わずかに水平線が見え、二つの岩の間からわずかに見える空は薄っすらと赤みを帯びている。今が朝なのか、夕なのかわからない。この人魚の運命もわからない。むこうに広い海が広がっているにもかかわらず、大海を知らず、ひっそりと岩陰に生きているようにも思える。もし彼女が、人間であったなら、素敵な王子様と出会い、幸せな人生を送っていたであろうに。
それにしてもウォーターハウスはどうして、広々とした海を描かず、大きな二つの岩でそれをふさいでしまったのだろうか。鏡を通してでしか世界をみることの許されない女が、鏡の中に円卓の騎士ランスロットを見つけて、心を揺らす。思わず駆け出す彼女のスカートに織糸が巻き付き、その行動を阻もうとする。前のめりになる彼女の顔が、見る者の心を捉えて離さない。この『シャロットの女』もまた、ウォーターハウスの作品である。『人魚』『シャロットの女』。『夏目漱石の美術世界』において展示された二つの作品に描かれたのは、ほんのわずかな隙間からしか広い世界を見ることのできない女性の、その誘うような眼差しである。それをどう読み解くのか。民主主義が発達したと言われるイギリスにおいてさえ、女性はほんのわずかな隙間からしか社会を見ることが許されない。そんな現状を訴えているのかもしれない。そうだとするならば、誘うような眼差しは、女性の解放を訴える眼差しなのかもしれない。それに引き換え、『三四郎』の美禰子は「奔放」である。そして、美禰子のモデルと言われる平塚雷鳥もまた、「奔放」に生き、女性の解放を目指した人である。
『夏目漱石の美術世界』で、出会えて良かったと思う絵はたくさんあった。これ程までの美術展は初めてである。また見たいと思う。しかし、その中で私を釘付けにし、そしてまた何度も行き来させ、出口からまた逆戻りさせ、ついには再び美術館へ足を運ばせた絵は、この『人魚(マーメイド)』の絵をおいて、他にない。