このページのPDF版はコチラ→
9.漱石は真宗が嫌いだった?①
真宗嫌いの通説
私が生まれ育った金沢は、「真宗王国」と呼ばれています。浄土真宗隆盛の基を築いた蓮如は、金沢では「蓮如さん、蓮如さん」と呼ばれ、蓮如や親鸞の教えなどまったくわからない子どもの私にも、親しい存在になっていました。
私は『漱石と歩く東京』の中で、「漱石と金沢」という一項を設け、そこに《金沢は「真宗王国」と呼ばれる。ところが漱石は「真宗嫌い」であった。金沢で発行される本書に、これはふさわしくないかもしれないので、漱石のために一つ助け舟を出しておきたいと思う》と、漱石が金沢ゆかりの人物たちと親交があり、金沢にも行ってみたいと思っていたことを書きました。
漱石は、禅宗は好きだったが、真宗はあまり好きではなかった。と言うより、どちらかと言えば嫌いであった。これが通説になっています。妻鏡子の『漱石の思い出』には、五女ひな子が亡くなり、葬儀をどうするかという時のことが、つぎのように記されています。
いったい夏目の本家は代々、小石川小日向の本法寺という浄土真宗の名刹の門徒で、そこに先祖からのお墓もあるのですが、夏目があまり真宗を好みません上に、本法寺の檀家になるという気もしないので、どうしたものだろうかと言っていたのですが、この場合、急にうまい分別もなく、兄さんなどもともかくこんどは本法寺に頼んだらよかろうということで、ではこんどのところはというので本法寺にきまりました。
もっとも身近な妻鏡子が言っているのですから、漱石の真宗嫌いは確かなことだと言えるでしょう。
さらに、漱石の真宗嫌いを決定づけるような逸話が残されています。ひな子の葬儀は、急なこともあり、とりあえず本法寺でおこなったものの、漱石自身も修善寺で危篤に陥ったり、いつ葬儀をすることになるかわからない状態にあったので、鏡子も意向を確かめておこうと思ったのでしょう。《あなたが亡くなったらお葬いをどうしましょうか》と訊いたところ、禅宗のお経なら聴いてもいいという答えが返ってきたそうです。今で言う「終活」を、百年も前におこなっていた、いかにも漱石夫妻らしいです。
それから五年程して、実際に漱石の葬儀が青山斎場で、宗演を導師として招いて行われ、遺骨は雑司ヶ谷墓地に埋葬されました。以後の仏事も宗演から茗荷谷にある白隠禅師ゆかりの至道庵徳雲寺を紹介され、本法寺との関係は完全に断たれたのです。
漱石の戒名は、「文献院古道漱石居士」。漱石が真宗として送られたのであれば、「文献院釋○○」と言ったように「釋」の入った法名を与えられたはずですから、漱石は禅宗式に送られたことになります。しかも、院のついた居士であるから、最高級の戒名を与えられて。
浄土真宗の寺と縁を切り、禅宗で「お葬い」されたとなれば、漱石の「禅宗好み、真宗嫌い」は、決定的と言えそうです。
『吾輩は猫である』の最期
ふとしたことから私は、浄土真宗大谷派のお坊さんと親交をもつようになり、これも何かの縁と、浄土の教え、とりわけ浄土真宗開祖親鸞の教えとはどのようなものか、知りたいと思うようになりました。と言っても、「教行信証」では難しいだろうし、蓮如の「御文」でさえも、読みこなしえないかもしれない。私でもわかりそうなものはないだろうか、そう思っている時、たまたま新聞広告に、大谷暢順という本願寺法主が著した『人間は死んでもまた生き続ける』(幻冬舎)という本をみつけて、入門書のつもりで読んでみました。
『人間は死んでもまた生き続ける』において、著者は第一話で、《今から八百年ほど前、親鸞聖人が開かれた浄土真宗は、日本で最大の仏教宗派になりました。(略)その浄土真宗のもっとも大切な教えの一つが、「他力本願」です》と記した上で、これを「他人を当てにすること」、「人任せにして自分は何もしないこと」というふうに誤解している人が少なくないが、「他力本願」の本当の意味は、水泳に例えるならば、《泳ぎ方を知らない人は「自分の力で泳ぐんだ」と考えますから、どうしても体に余計な力が入ってしまいます。「自力」にすがろうとするから、本当は泳げるはずなのに溺れてしまうのです。(略)水にすべてを任せることによって水に浮く。これが「他力」であり、私たちが頼りとする仏、阿弥陀如来の力を指しているのです。》と、続けています。
著者はさらに第二話で、親鸞の言う「他力本願」とはどのようなものであるのか、つぎのように説明しています。
浄土真宗にかぎっては、修行が一切ありません。修行というのは自力に頼る行いである、とみなしているからです。(略)法然上人は、「南無阿弥陀仏」ととなえたら救われる、と説かれました。念仏を仏にさしあげるのだ、と。それに対して親鸞聖人は、念仏の功徳(よい果報をもたらすような善行)によって極楽浄土に生まれるのであれば、それは自力による修行ともいえるのではないか……と考えられました。そして、いや、そうではなく、すべては阿弥陀さまから頂戴するのだ、信心ですら阿弥陀さまより授かるのだ、と徹底して阿弥陀さまの救いの力に頼るという信心の道を説かれたのです。これが一切の自力を捨てるという、「絶対他力」の教えです。(略)浄土真宗では、「信後念仏」といって、まず信仰があって、そのあとに念仏があります。信心を持つことで極楽往生が決まり、決まったあとで、その喜びを口に出して「南無阿弥陀仏」ととなえる。私たちの「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀さま、救ってください」ではなくて、「阿弥陀さま、救ってくださって、ありがとうございます」という感謝の言葉なのです。
このあたりまで来て、私は漱石の作家としてのデビュー作『吾輩は猫である』の、最期の場面を思い出しました。
ビールを飲んで酔っ払い、大きな甕に落ちた吾輩。いかにもがいても甕からあがることはできない。遂にもぐる為に甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分かりにくくなってくる。こんな呵責に逢うのは甕から上へあがりたいからで、あがりたいのは山々でも上がれないのは知れ切っている。無理を通そうとするから苦しい。自ら求めて苦しんで、自ら拷問に罹っているのは馬鹿気ている。そう思った吾輩は、
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎり御免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。次第に楽になってくる。苦しいのだか難有いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。只楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。
大谷暢順の記した水泳の例えそのまま。最期には、「阿弥陀さま、救ってくださって、ありがとうございます」と感謝の言葉を口にして終るのです。
1905年、吾輩は、いや、38歳の漱石はただ者ではない。親鸞の教え、「他力本願」の真髄をみごとに会得しているではないか。漱石は浄土真宗にかなり精通しているのではないか。漱石は、「真宗嫌い」などではないのではないか。
そんなふうに考えると、苦沙弥先生も単に「くしゃみ」とふざけて名付けたのではなく、仏教的な意味合いが感ぜられます。沙弥とは、「出家修行者で、比丘になる以前の少年」「剃髪して僧形でありながら、妻帯して世俗で生活している者」のことを指しており、いずれも僧侶にはなりきれていない。「苦沙弥」は、「僧侶を目指しつつ、いまだなることができず苦しんでいる者」とでも、言うことになるのでしょうか。漱石は「僧籍」に通じているとも言われ、漱石は仏教に強い関心を抱き、大きな影響を受けていたと考えられるのです。
どのようにして漱石は真宗の真髄を会得したか
『吾輩は猫である』は、当時すでに漱石が真宗の真髄をつかんでいたことを示しています。そうであるならば、漱石がどのようにして浄土の教え、親鸞の教えに精通していったのだろうかという疑問が湧いてきます。
その疑問に答えてくれる一冊。水川隆夫の『漱石と仏教~則天去私への道』(平凡社)。この本は、《これまでほとんど注目されてこなかった漱石と浄土教、特に浄土真宗との関係を、おおむね彼の生涯に沿って検討》したものです。水川はその中で、漱石は《決して通説のように「浄土真宗嫌い」ではなかった》と記しています。
漱石と浄土真宗の関わりは、実家夏目家の菩提寺が浄土真宗(大谷派)の本法寺であったことに始まります。水川は《浄土真宗の儀礼によって故人の通夜・葬儀・中陰・年忌法要や日常のおつとめなどが自宅や本法寺などで行われたことは、漱石の浄土真宗に対する関心の素地を無意識のうちに培ったと思われる》と述べています。
けれども、実家での体験が漱石を真宗にむかわせたとは言い難く、漱石が意識的に親鸞や浄土真宗へ関心をもつようになっていったのは、第一高等中学校本科時代(1888~90)で、正岡子規との出会いが大きなきっかけとなるのです。当時、知的好奇心をもつ若者たちにとって、宗教を学び論ずることは、一種の「標準」で、交友関係を保つ上でも避けて通れない環境のようなものだったと考えられます。漱石のまわりにも、禅宗に関心を示し、参禅に励む米山保三郎、真宗に関心を示す正岡子規といった友人たちがいました。
水川は第一高等中学校本科時代において、漱石が長兄の葬儀や浄土真宗について英文を書いていることや、1890年、ジェイムズ・マードックから課せられた英文レポート、『十六世紀における日本とイギリス』に浄土真宗の動向に触れていることを紹介して、漱石が浄土真宗にも一定の知識をもっていたのではないかと述べています。
漱石と子規の真宗に対する関心を支えたのが清沢満之の存在です。水川は「浄土真宗の近代化運動と漱石――精神主義・新仏教・無我愛」と題する一項を設け、清沢満之に触れ、二人の間で「親鸞上人」と言えば、満之を指していたと記しています。
清沢満之(1863~1903)は尾張藩士徳永永則の子として生まれ、1878年得度して、東本願寺育英教校、帝国大学文科大学哲学科に学び、大学院で宗教哲学を専攻。『哲学会雑誌』の創刊(1887)、編集に関わりました。1888年、京都府尋常中学校校長に就任、その年、清沢やす子と結婚して西方寺(愛知県)に入った満之は、1892年、『宗教哲学骸骨』を出版。1894年に結核を発症。1896年に宗門改革を唱えて除名処分を受けましたが、1898年、処分が解かれ、1900年、多田鼎、暁烏敏らと精神主義運動を始め、同人が集まる自宅は浩々洞と名づけられました。
東京帝国大学文科大学さらに大学院に学んだ漱石は、1895年に松山中学、1896年には熊本の第五高等学校に赴任。1900年、イギリス留学にむかいました。1901年、多田鼎が編集し、満之が「精神主義」を掲げた『精神界』創刊号が発刊され、1902年、結核で病床にある子規が、《余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きてゐる事であった。》(『病牀六尺』六月二日)と書いていることが、浩々洞の中でも話題になり、同じ病を抱える満之は子規に手紙を書いています。
子規はその年の9月19日に亡くなり、イギリスの漱石のもとにも訃報が届けられましたが、翌1903年、漱石が帰国して半年ほど経った6月6日、清沢満之もこの世を去りました。
この間、漱石の関心は禅宗にもむけられていました。1894年には菅虎雄の紹介で鎌倉の円覚寺に参禅、1898年には熊本で参禅し、いずれも失敗しています。水川は、《この時期の漱石は、主として禅書の学習と禅を題材とした俳句の創作などに励み、それによって一時的に得られる心の平安に慰めを見出していたが、浄土教についての関心もその底流として涸れずに続いていたといえよう》と、記しています。
その底流にあった浄土に教えは、漱石が留学から帰国した後、再び姿を現してきます。多忙と追いつめられた気持ち、それに教え子藤村操の投身自殺が加わって、家庭内暴力が激しくなってくる時期です。
帰国後から、『猫』の最期に至る間の、漱石と浄土の教えとの関係について、水川は以下の二点を指摘しています。
第一は、1904年の寺田寅彦宛葉書における『水底の感』という新体詩です。これは、漱石が一高で教えていた藤村操が華厳の滝で投身自殺した事件(1903年5月)を題材に、藤村の恋人が後追い自殺したという虚構の作で、水底の死後の世界を空想したもので、《今西順吉は、この詩を、漱石の描いた極楽浄土のイメージだとしている》と記しています。漱石は、『水底の感』の中で、《うれし水底。清き吾等に、謗り遠く憂透らず。》と書いています。
第二に、1904年、『ホトトギス』に載った高浜虚子との両吟による俳体詩『尼』、漱石単独の俳体詩『冬夜』などの中に、宮澤正順が《浄土教的な思想があることを指摘している》ことを紹介しています。『尼』には、《月に花に弥陀を念じて知らざりき》の一節、『冬夜』の最後の聯には、《寝まらんと夜着の中首入れて南無阿弥陀仏襲はれず夢も無し》の一節があります。
『吾輩は猫である』の最期の部分は、満之の死から三年後に書かれたものですが、漱石が浄土の教えを受け止め、関心を持ち続けた結果、『猫』の最期の部分を描くことができた。私はそのように考えます。
『吾輩は猫である』で作家デビューした漱石。その後も浄土真宗に対する興味関心は失われることなく、『行人』を書いていた1913年に出版された『真宗聖典』(浩々洞編)という1084ページに及ぶ本を、かなり《ひもといたのではないか》と、水川は推定しています。
「インデペンデントの人」親鸞
漱石は、親鸞、蓮如、清沢満之らを通して、また子規との交友を通して、真宗、浄土の教えを身につけていきました。そのような漱石が浄土真宗開祖親鸞をどのように捉えていたのか。『行人』の連載が終って一カ月ほど経過した1913年12月12日、第一高等学校でおこなった、後に『模倣と独立』と名づけられる講演で、漱石は親鸞について語っています。
講演は漱石の母校の思い出が延々と続き、それが文展の話しになり、その中から、《人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります》と、しだいに本題に近づき、《イミテーションという代りにインデペンデントという事が重きを為さなければならぬ》とズバリ。ここまでで、講演時間の半分が費やされています。何気ない話しをしながら、しだいに「漱石ワールド」に引き込む、彼の講演手法です。
漱石は、最後にイミテーションとインデペンデント、《要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う》と述べつつ、西洋のイミテーションに傾いている現状を指摘しています。
そして漱石は、「インデペンデントの人」の例として、親鸞、イブセンの二人をあげるのです。それでは、漱石はなぜ親鸞を「インデペンデントの人」と言うのか。漱石は、《坊さんというものは肉食妻帯をしない主義であります。それを真宗の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢のある思想を持たなければ、あれほどの大革命は出来ない》と述べ、親鸞が単に女房を持ちたいとか、肉を食べたいという気持ちだけでは、そこまではできないのであって、《その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。》《其所にその人の自信なり、確乎たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである》と続けています。
この講演から、漱石がどうして親鸞に惹かれるようになったのか、うかがい知ることができます。漱石は何よりも親鸞が「インデペンデントの人」であること、そしてそれがきわめて深い思想に裏づけられていること、しかも迫害を恐れないこと。そのような親鸞を、漱石はけっして過去の人としてではなく、当時の世相を反映して、「現代を生きる人」として捉えていたのではないでしょうか。
漱石は今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、《知識なり感情なり経験なりを豊富にされる土台は、インデペンデントな人が出て来なければ出来ない事である》と述べていますが、漱石は大逆事件で、1911年1月に処刑された幸徳秋水を親鸞に重ね合わせていたのかもしれません。
もちろんこれは推測です。けれども、それなりの根拠はあります。当時の仏教界における改革の動きは、まず清沢満之らの流れを汲む「精神主義運動」、つぎに「新仏教運動」。新仏教運動は仏教の立場から社会問題についても積極的に発言し、キリスト教や平民社の社会主義者にも接近していました。東京朝日新聞社では先輩にあたる杉村楚人冠(真宗本願寺派)もその一人で、漱石も幸徳秋水などの情報を楚人冠から得ていました。加えて、河上肇も一時傾倒した「無我愛運動」は真宗大谷派の伊藤証信・安藤現慶らが起こしたもので、1911年から、安藤は漱石の木曜会にも出席するようになっています。
漱石はこのような仏教界の改革の動きに、いずれも何らかの関わりをもっています。さらに、大逆事件はけっして社会主義者だけが捕まったものではなく、事件の被告人26人のうち、内山愚童(曹洞宗、死刑)・髙木顕明(真宗大谷派、死刑のち無期懲役)・峰尾節堂(臨済宗妙心寺派、死刑のち無期懲役)の三名の僧侶が含まれています。肉食妻帯とは異なるものの、「インデペンデントの人」として、社会の変革を訴え、迫害された人たちに、漱石は思いを寄せていたのではないでしょうか。