『吾輩は猫である』は、当時すでに漱石が真宗の真髄をつかんでいたことを示しています。そうであるならば、漱石がどのようにして浄土の教え、親鸞の教えに精通していったのだろうかという疑問が湧いてきます。
その疑問に答えてくれる一冊。水川隆夫の『漱石と仏教~則天去私への道』(平凡社)。この本は、《これまでほとんど注目されてこなかった漱石と浄土教、特に浄土真宗との関係を、おおむね彼の生涯に沿って検討》したものです。水川はその中で、漱石は《決して通説のように「浄土真宗嫌い」ではなかった》と記しています。
漱石と浄土真宗の関わりは、実家夏目家の菩提寺が浄土真宗(大谷派)の本法寺であったことに始まります。水川は《浄土真宗の儀礼によって故人の通夜・葬儀・中陰・年忌法要や日常のおつとめなどが自宅や本法寺などで行われたことは、漱石の浄土真宗に対する関心の素地を無意識のうちに培ったと思われる》と述べています。
けれども、実家での体験が漱石を真宗にむかわせたとは言い難く、漱石が意識的に親鸞や浄土真宗へ関心をもつようになっていったのは、第一高等中学校本科時代(1888~90)で、正岡子規との出会いが大きなきっかけとなるのです。当時、知的好奇心をもつ若者たちにとって、宗教を学び論ずることは、一種の「標準」で、交友関係を保つ上でも避けて通れない環境のようなものだったと考えられます。漱石のまわりにも、禅宗に関心を示し、参禅に励む米山保三郎、真宗に関心を示す正岡子規といった友人たちがいました。
水川は第一高等中学校本科時代において、漱石が長兄の葬儀や浄土真宗について英文を書いていることや、1890年、ジェイムズ・マードックから課せられた英文レポート、『十六世紀における日本とイギリス』に浄土真宗の動向に触れていることを紹介して、漱石が浄土真宗にも一定の知識をもっていたのではないかと述べています。
漱石と子規の真宗に対する関心を支えたのが清沢満之の存在です。水川は「浄土真宗の近代化運動と漱石――精神主義・新仏教・無我愛」と題する一項を設け、清沢満之に触れ、二人の間で「親鸞上人」と言えば、満之を指していたと記しています。
清沢満之(1863~1903)は尾張藩士徳永永則の子として生まれ、1878年得度して、東本願寺育英教校、帝国大学文科大学哲学科に学び、大学院で宗教哲学を専攻。『哲学会雑誌』の創刊(1887)、編集に関わりました。1888年、京都府尋常中学校校長に就任、その年、清沢やす子と結婚して西方寺(愛知県)に入った満之は、1892年、『宗教哲学骸骨』を出版。1894年に結核を発症。1896年に宗門改革を唱えて除名処分を受けましたが、1898年、処分が解かれ、1900年、多田鼎、暁烏敏らと精神主義運動を始め、同人が集まる自宅は浩々洞と名づけられました。
東京帝国大学文科大学さらに大学院に学んだ漱石は、1895年に松山中学、1896年には熊本の第五高等学校に赴任。1900年、イギリス留学にむかいました。1901年、多田鼎が編集し、満之が「精神主義」を掲げた『精神界』創刊号が発刊され、1902年、結核で病床にある子規が、《余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きてゐる事であった。》(『病牀六尺』六月二日)と書いていることが、浩々洞の中でも話題になり、同じ病を抱える満之は子規に手紙を書いています。
子規はその年の9月19日に亡くなり、イギリスの漱石のもとにも訃報が届けられましたが、翌1903年、漱石が帰国して半年ほど経った6月6日、清沢満之もこの世を去りました。
この間、漱石の関心は禅宗にもむけられていました。1894年には菅虎雄の紹介で鎌倉の円覚寺に参禅、1898年には熊本で参禅し、いずれも失敗しています。水川は、《この時期の漱石は、主として禅書の学習と禅を題材とした俳句の創作などに励み、それによって一時的に得られる心の平安に慰めを見出していたが、浄土教についての関心もその底流として涸れずに続いていたといえよう》と、記しています。
その底流にあった浄土に教えは、漱石が留学から帰国した後、再び姿を現してきます。多忙と追いつめられた気持ち、それに教え子藤村操の投身自殺が加わって、家庭内暴力が激しくなってくる時期です。
帰国後から、『猫』の最期に至る間の、漱石と浄土の教えとの関係について、水川は以下の二点を指摘しています。
第一は、1904年の寺田寅彦宛葉書における『水底の感』という新体詩です。これは、漱石が一高で教えていた藤村操が華厳の滝で投身自殺した事件(1903年5月)を題材に、藤村の恋人が後追い自殺したという虚構の作で、水底の死後の世界を空想したもので、《今西順吉は、この詩を、漱石の描いた極楽浄土のイメージだとしている》と記しています。漱石は、『水底の感』の中で、《うれし水底。清き吾等に、謗り遠く憂透らず。》と書いています。
第二に、1904年、『ホトトギス』に載った高浜虚子との両吟による俳体詩『尼』、漱石単独の俳体詩『冬夜』などの中に、宮澤正順が《浄土教的な思想があることを指摘している》ことを紹介しています。『尼』には、《月に花に弥陀を念じて知らざりき》の一節、『冬夜』の最後の聯には、《寝まらんと夜着の中首入れて南無阿弥陀仏襲はれず夢も無し》の一節があります。
『吾輩は猫である』の最期の部分は、満之の死から三年後に書かれたものですが、漱石が浄土の教えを受け止め、関心を持ち続けた結果、『猫』の最期の部分を描くことができた。私はそのように考えます。
『吾輩は猫である』で作家デビューした漱石。その後も浄土真宗に対する興味関心は失われることなく、『行人』を書いていた1913年に出版された『真宗聖典』(浩々洞編)という1084ページに及ぶ本を、かなり《ひもといたのではないか》と、水川は推定しています。