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10.漱石は真宗が嫌いだった?②
仏教を伴走者として
一見、合理主義者で、宗教に救いを求めるなど考えられないような漱石が、仏教を伴走者として人生を歩んだのは、内面に抑えがたい不安感、いらだちを抱えていたからでしょう。その内面を小宮豊隆は『夏目漱石』で、つぎのように表現しています。「漱石は精神病だった?」と重複しますが、再度引用します。
漱石は、道理に戻る一切のものを、機微に看破する、鋭敏な感覚を持っていた。同時に漱石の想像力は豊富であり、漱石の頭脳は迅速に活動した。誰にも気がつかないほどの小さな汚染でも、漱石の眼には大きなものとして映り、のみならずその中にあらゆる悪の芽を含むものとして、忽ちのうちに顕著な花が咲き出る。想像力を持たず、神経も遅鈍で、反省することを知らない人間が、自分にはそんなことをした覚えはないと言い張っている間に、漱石は、そのために傷つけられ、そのために悩み、そのために狂って、停止することを知らない状態に置かれることも、十分可能なのである。(略)とうとうほんとの精神病者にされてしまった。
漱石はしばしば日記などに不満をぶちまけ、他人を馬鹿にしたようなことを書いています。漱石からすれば、「みんなはどうして、このようなこともわからないのであろうか」と、イライラし、癇癪を起こし、人間と言うものに絶望さえしていたかもしれません。世間一般の人びとの常識は、漱石にとってはまさに非常識。そんな漱石でしたから、周囲の人びとの何倍、何十倍の感度で、この世における出来事を捉え、反応し、つねに平静ではいられなかったのだろうと推察されます。つまり、神経を使いすぎて疲労し、神経衰弱に陥る確率も何倍、何十倍大きかったと言えます。それでも漱石は他人との付き合いを嫌がることはなかったので、神経衰弱に陥る確率は、さらに大きかったのではないでしょうか。
そもそも、人間はなぜ悩み、苦しむのか。漱石は、1890年8月9日付の子規宛手紙に、《是も心といふ正体の知れぬ奴が五尺の身に蟄居する故と思へば悪らしく皮肉の間に潜むや骨髄の中に隠るゝやと色々詮索すれども今に手掛りしれず只煩悩の焔熾にして甘露の法雨待てども来らず欲海の波険にして何日彼岸に達すべしとも思はれず》とあるように、「心」という正体の知れないものが人間の中にあるからだ、記しています。
漱石はこの「心」というのがどこに潜んでいるのか、色々詮索しても手がかりがないとしていますが、もちろん「心」は人間の脳の働きそのものです。性能の良い頭脳をもった人間は、その業としてつねに悩み苦しまなければならない宿命を負わされた。漱石がまさにそのひとりだったのです。
漱石はイライラし、落ち着かない「心」を抱えて、その反作用として、「心」の平静を禅宗や真宗に求めていったのではないでしょうか。水川は、漱石が正岡子規に宛てた書簡(1890年8月9日付)を引用して、《平静な動揺しない心をもたらしてくれるものとして、「禅坊」や「御文様」が出てくるように、禅や浄土真宗による解脱や救済に関心をもっていたことである。その後、漱石は、生涯を通じてこの平静な心を求めつづけることになる》と記しています。
漱石と禅宗
漱石は生涯、禅宗と関わりを持ち続け、交流のあった円覚寺の禅僧釈宗演を導師に葬儀が営まれ、禅宗の戒名を与えられ、この世から見送られました。漱石は晩年「則天去私」(天に則って私を去る)を口にするようになっていました。これは漱石の造語とされています。このように四字熟語で表現されると、なんとなく禅の教えの雰囲気が漂います。『草枕』において、画家である余が山路を登りながら、《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい》と考えたのは、禅問答のようでもあります。
水川隆夫は漱石の禅宗との出会いは太田達人にあると記しています(『漱石と仏教』p179)。1883年、成立学舎に入学した漱石は同級の太田達人と親しくなりましたが、太田は散歩中に突然「あツ悟った」と叫ぶくらい、禅に傾倒していたそうです。1886年に親しくなった米山保三郎、1890年に親しくなった菅虎雄も禅に傾倒しており、いずれも鎌倉にある円覚寺(臨済宗)の今北洪川のもとに参禅しています。
漱石のまわりに、たまたまそのような人が集まったというより、当時、帝大文学部の学生の間では、禅は一種の流行で、夏休み、冬休みなどを利用して参禅する学生もあったのです。そのような中で、漱石もまた、禅に対して関心をもつようになっていったのでしょう。
漱石が初めて円覚寺に参禅したのは、1893年7月。これには疑義もありますが、水川は「参禅はあった」としています。この時、釈宗演から「趙州の無字」という公案を与えられていますが、参禅は深刻に悩んでというよりは、交友関係の中で興味本位に参加した色彩が強かったようです。
翌1894年12月、再び円覚寺に参禅し、宗演から「父母未生以前本来の面目」という公案を与えられ、この時は、何かを得よう、救いの糸口をみつけようと、真剣に悪戦苦闘したけれど、結果、漱石は公案を一つも解けず、寺を後にしています。松山、熊本と西進しても、漱石の禅に対する関心は続き、1898年、五高の舎監浅井栄凞のもとで座禅をおこなっていますが、運動不足で下痢をして中止しています。
結局、漱石は参禅によって、雑念を払い、平静な境地を得ることはできなかったようですが、なぜそうなってしまったのか。『漱石と仏教』で水川隆夫は、《明治二十七年(一八九四)十二月二十三日(または二十四日)、漱石は再び円覚寺の門をくぐった。「此三四年来沸騰せる脳漿を冷却して尺寸の勉強心を振興せん為」(明治二十七年九月四日付正岡子規書簡)に、ますます深まる苦悩を自力で克服しようとしたのであった。》と記しています。
ほんらい、禅というものが、「無知の知」同様、自分が無知であることを知ることによって、自らの心もまた無心にしていくことによって平静を得るものであるとするならば、漱石は公案に接するたびに、真剣に考え、沸騰せる脳漿はますます沸騰してしまう。つまり、知的興奮がますます高まって、平静どころではない。禅が知的な側面を持つゆえ、漱石は禅に惹かれていったのでしょうが、けっして平静をもたらすものにはならなかったのではないでしょうか。
自らの失敗からか、漱石の参禅に対する評価は必ずしも高くありません。『門』の中で、漱石は主人公宗助を参禅にむかわせています。けれども、その動機は「修行」とか「悟り」とか言うものとまったくかけ離れ、妻の前夫安井が坂井の家に投宿している間、体よく逃げただけ。私はそのように捉えています。参禅と言えば職場を休む口実としてはりっぱなものでした。
「則天去私」と言うこと
漱石は禅宗で「心」の平静を得ることはできなかったようです。それでは真宗はどうなのか。漱石は子規との直接的な交流がなくなった後も、真宗に関心を寄せ続けており、漱石は子規の影響の有無に関わらず、真宗に惹かれていたのだろうと、私は思います。言い換えれば、真宗の教えの中に、「心」の平静を得るヒントを多く見出していたのではないでしょうか。
漱石は、すでに23歳にして、子規宛の手紙(1890年8月9日付)でつぎのように記しています。
あゝ正岡君、生きて居ればこそ根もなき毀誉に心を労し無実の褒貶に気を揉んで鼠糞梁上より落つるも胆を消すと禅坊に笑はれるではござらぬか御文様の文句ではなけれど二ツの目永く閉ぢ一つの息永く絶ゆるときは君臣もなく父子もなく道徳も権利も義務もやかましい滅茶ゝゝにて真の空々真の寂々に相成べく夫を楽しみにながらへ居候棺を蓋へば万事休すわが白骨の鍬の先に引きかゝる時分には誰か夏目漱石の生時を知らんや
水川はこの手紙を引用して、《漱石は「浮世」をいとい、無常の運命によって自分の命が尽き、空寂の境地に到達できることを「楽しみ」にしている》と評しています。
この世はまさに「憂世」。「厭な世の中(厭世)」である。生きているうちに平静を得ることなど、望んでもできないことである。この世を去って、初めてすべての煩わしさから解放され、平静を得ることができる。平静を得たいと思えば、死ぬしかなく、『吾輩は猫である』の最期に、《吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ》とあるように、漱石は死んで太平を得ることを楽しみにしているのです。
しかしながら、漱石は自ら生命を断つことを望んではいません。前掲の子規への手紙で、
此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやでゝゝゝ立ち切れず去りとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか「ファウスト」が自ら毒薬を調合しながら口の辺まで持ち行きて遂に飲み得なんだという「ゲーテ」の作を思ひ出して自ら苦笑ひ被致候
と書いています。この考え方はその後も継続されており、24年後の1914年11月14日に、岡田(のちに林原)耕三に宛てた手紙においても、
私は今の所自殺を好まない恐らく生きる丈生きてゐるだろうさうして其生きてゐるうちは普通の人間の如く私の持って生れた弱点を発揮するだらうと思ふ、私は夫が生だと考へるからである私は生の苦痛を厭ふと同時に無理に生から死に移る甚しき苦痛を一番厭ふ、だから自殺はやり度ない夫から私の死を択ぶのは悲観ではない厭世観なのである悲観と厭世の区別は君にも御分りの事と思ふ。
と言うように、自殺には一貫して反対しているのです。漱石が学習院で講演する十日ほど前に書かれた手紙です。さらに、この岡田に宛てた手紙で漱石は、
私が生より死を択ぶというのを二度もつゞけて聞かせる積ではなかったけれどもつい時の拍子であんな事を言ったのです然しそれは嘘でも笑談でもない死んだら皆に柩の前で万歳を唱へてもらひたいと本当に思ってゐる、私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる。
漱石は生命の永遠性を信じており、自分が死んだら万歳を唱えてもらいたい、とまで言い切っていますが、この世における生命の灯火が尽きるまで、生きていこうとしているのです。
「死」というものに「楽」がくっ付いているとしたら、「生」というものには必然的に「苦」がくっ付いているのであって、これは表裏一体、切り離すことができない。紙から裏面だけ切り離そうとしてもムリなのと同じです。
人生から苦悩を取り除こうともがいても、所詮、切り離すことができないものだから、ムリである。ムリを通そうとするから、苦悩は増すばかりである。すべてを阿弥陀様の手に委ね、人生の苦悩も快楽も「あるがまま」に受け入れていくことが、平静を得る道なのだ。真宗の教えを通して、漱石はその道を会得していったのではないでしょうか。『吾輩は猫である』の最期の場面で、漱石はそれを見事に表現しているのです。
漱石は、結局、自殺の道を選ばず、死んで平静を得ることを楽しみに、最期の時を迎えるまで生きながらえていこうと決意しています。つまり、この世を「憂世」として、「厭な世の中」として、「則天去私」(天に則って私を去る)、つまり「あるがまま」に受け入れて、生きていこうとしているのです。「則天去私」という言葉は、漱石の禅宗の知識から出たようにみえて、じつは真宗の真髄をつかみとる中で生み出された言葉と言えるのではないでしょうか。漱石は、1916年11月発行の新潮社の日記帳『文章日記』大正六年版に、文章を書く上での座右の銘として、「則天去私」と揮毫しています。もちろん、漱石は大正6年を迎えることなく、太平の世界へ行ってしまいました。