漱石は生涯、禅宗と関わりを持ち続け、交流のあった円覚寺の禅僧釈宗演を導師に葬儀が営まれ、禅宗の戒名を与えられ、この世から見送られました。漱石は晩年「則天去私」(天に則って私を去る)を口にするようになっていました。これは漱石の造語とされています。このように四字熟語で表現されると、なんとなく禅の教えの雰囲気が漂います。『草枕』において、画家である余が山路を登りながら、《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい》と考えたのは、禅問答のようでもあります。
水川隆夫は漱石の禅宗との出会いは太田達人にあると記しています(『漱石と仏教』p179)。1883年、成立学舎に入学した漱石は同級の太田達人と親しくなりましたが、太田は散歩中に突然「あツ悟った」と叫ぶくらい、禅に傾倒していたそうです。1886年に親しくなった米山保三郎、1890年に親しくなった菅虎雄も禅に傾倒しており、いずれも鎌倉にある円覚寺(臨済宗)の今北洪川のもとに参禅しています。
漱石のまわりに、たまたまそのような人が集まったというより、当時、帝大文学部の学生の間では、禅は一種の流行で、夏休み、冬休みなどを利用して参禅する学生もあったのです。そのような中で、漱石もまた、禅に対して関心をもつようになっていったのでしょう。
漱石が初めて円覚寺に参禅したのは、1893年7月。これには疑義もありますが、水川は「参禅はあった」としています。この時、釈宗演から「趙州の無字」という公案を与えられていますが、参禅は深刻に悩んでというよりは、交友関係の中で興味本位に参加した色彩が強かったようです。
翌1894年12月、再び円覚寺に参禅し、宗演から「父母未生以前本来の面目」という公案を与えられ、この時は、何かを得よう、救いの糸口をみつけようと、真剣に悪戦苦闘したけれど、結果、漱石は公案を一つも解けず、寺を後にしています。松山、熊本と西進しても、漱石の禅に対する関心は続き、1898年、五高の舎監浅井栄凞のもとで座禅をおこなっていますが、運動不足で下痢をして中止しています。
結局、漱石は参禅によって、雑念を払い、平静な境地を得ることはできなかったようですが、なぜそうなってしまったのか。『漱石と仏教』で水川隆夫は、《明治二十七年(一八九四)十二月二十三日(または二十四日)、漱石は再び円覚寺の門をくぐった。「此三四年来沸騰せる脳漿を冷却して尺寸の勉強心を振興せん為」(明治二十七年九月四日付正岡子規書簡)に、ますます深まる苦悩を自力で克服しようとしたのであった。》と記しています。
ほんらい、禅というものが、「無知の知」同様、自分が無知であることを知ることによって、自らの心もまた無心にしていくことによって平静を得るものであるとするならば、漱石は公案に接するたびに、真剣に考え、沸騰せる脳漿はますます沸騰してしまう。つまり、知的興奮がますます高まって、平静どころではない。禅が知的な側面を持つゆえ、漱石は禅に惹かれていったのでしょうが、けっして平静をもたらすものにはならなかったのではないでしょうか。
自らの失敗からか、漱石の参禅に対する評価は必ずしも高くありません。『門』の中で、漱石は主人公宗助を参禅にむかわせています。けれども、その動機は「修行」とか「悟り」とか言うものとまったくかけ離れ、妻の前夫安井が坂井の家に投宿している間、体よく逃げただけ。私はそのように捉えています。参禅と言えば職場を休む口実としてはりっぱなものでした。