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11.漱石は真宗が嫌いだった?③
あるがまま
「あるがまま」という言葉は、森田理論でよく使われます。
私は先に、漱石を森田理論の観点から捉えることを試みましたが、もちろん漱石は、死後確立された森田理論を知るはずはありません。けれども漱石は、その生きる過程において、真宗や禅宗に接し、有能な頭脳で吸収し、考察し、組み立てることによって、意図せずして森田理論を構築し、人生に活かしていたように思われるのです。
『体験・森田療法』の中で、辻村明は森田理論と宗教の関係について、概略、次のように記しています。――森田正馬の著書には儒教・道教の教えが出てくるし、至るところに仏教の教え、とくに禅の言葉がよく出てくる。そのようなことから、正馬が禅の悟りを開いた結果、開発されたものではないかと言った見方が出ているが、正馬ははっきりと否定して、あくまでも科学として人間心理を解明していった結果、編み出されたもので、禅の語を便利に説明することができるようになった。
森田療法をおこなう精神科医の鈴木知準は、神経症の「全治」と禅の「悟り」は同じ心理状態であると述べています。森田療法の中には禅問答のような部分もあります。しかし、辻村はおもしろいことを書いています。《禅の教えでノイローゼが治るのであれば、禅僧にノイローゼ患者はいないはずである》。ところが実際には、正馬によると、江戸時代中期の禅僧で、臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師はノイローゼ、つまり神経衰弱症に罹っていたと言うのです。正馬は、釈迦も親鸞も白隠も、政治家では北條時宗も神経質であったと診断しています。
森田理論は禅宗と親和性が強いように言われますが、正馬が白隠とともに、親鸞をあげたように、真宗ともきわめて親和性が強いのです。正馬は「形外会」という集まりで、
私どもには時と場合によっては盗心も起こります。それはおいしいものを見れば食べたいと思い、欲しいものを見れば手に入れたいと思うのと同じことであります。親鸞上人も自分でこの心を自覚されたからこそ、自分は悪人であり、罪人であるといわれたのであります。しかもそれを自分で治すことができないから、阿弥陀さまにおまかせするといわれたのであります。それが親鸞の悟りであり、強迫観念を超越したゆえんであります。
森田理論の特徴は、人間の中における「生の欲望」を確認すること、そして「あるがまま」の自分を受け入れること。「あるがまま」とは、人間には、不安や苦悩、恐怖や劣等感がつきもので、仏教で言う「不安常在」。生きているかぎりは、ついてくるもの。まさに漱石自身が言う「諷語」の関係にあるのです。
漱石は『吾輩は猫である』に猫の悟りを書いて、真宗の真髄を明らかにしました。もちろん、この吾輩を書いたのは他でもない漱石自身ですから、漱石は38歳にして、すでに悟りの境地に達していたことになります。にもかかわらず、漱石は精神的落ち込みを繰返し、胃潰瘍、痔疾、リューマチ、糖尿病に悩まされ、妻子に手足と言葉の暴力を浴びせかけ、なおも十年余、人間世界という甕の中で、がりがりと爪をたてながら、もがき続けたのです。
漱石がすでに1890年、子規に宛てた手紙で、《知らず生れ死ぬる人何方より来りて何かたへか去る又しらず仮の宿誰が為めに心を悩まし何によりてか目を悦ばしむると長明の悟りの言は記憶すれど悟りの実は迹方なし》と書いたように、理論的にはわかっても、それによって、悩みや苦しみから解放され、平静を得ることはなかったのです。
人生終焉の前年、さまざまな出来事に煩わされ、悩み苦しんできた人生を振り返るかのように、漱石は『道草』を書きました。煩わしい出来事は振り払っても、振り払っても、次から次へと振りかかってくる。漱石は『道草』で、健三に《「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」》と言わせています。
この世のさまざまな出来事に煩わされているうちに、人間は一生を終ってしまう。あっちの出来事にもフラフラ、こっちの出来事にもフラフラと、道草をしているうちに人生は終ってしまう。まさに人生そのものが「道草」と言ってもよい。ずいぶん自分も「道草」してきたなぁと、自分の人生をあざ笑っているようにもみえるし、永遠の生命の流れの中で、人生は仮の宿、人生そのものが「道草」なのだという、肩の力を抜いた安らぎの言葉が込められているとも、取ることができます。
漱石は最期の時までこの世を真剣に生き、与えられた賜物を見つけ出し、それを発揮し、世のため人のために役立てたいと思っていました。そのことがまた漱石の平静さを失わせると要因になるとともに、生きる原動力、エネルギーになっていったのではないでしょうか。
漱石の「厭世主義」は、生への強い意欲によって裏づけられているのであり、「生への意欲」が強ければ強いほど、「死へのあこがれ」が強くなければならない。まったく反対方向へベクトルが向いて行く矛盾、つまり「諷語」の関係、そこから生じる葛藤が漱石を悩ませ、神経を興奮させ、作品を生み出させていったと言うことができるかもしれません。
漱石は、一人の人間として、しっかり浄土の教え、親鸞の教えと向き合い、それを人生の支えとして生きてきました。「真宗嫌い」と言われる漱石は、まさに「真宗」を生きてきた人物でもあるのです。
それでも禅宗で送られた漱石
ここまで来ると、新たな疑問がわいてきます。これ程までに真宗を理解していた漱石が、なぜ禅宗で葬られることを望んだのであろうかと言う疑問です。私は二つの理由があると思います。
第一に、現実の真宗のあり様です。漱石は『吾輩は猫である』で、
真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられタル金箔厚き厨子があって、その厨子の中にはいつでも真鍮の燈明皿がぶら下って、その燈明皿には昼でもぼんやりした灯がついていた事を記憶している。
と書いています。これは苦沙弥先生の思い出ですが、同時に漱石の思い出でもあるでしょう。
私の実家も浄土真宗で、内部が金ぴかの大きな仏壇があり、仏壇奥の中央に阿弥陀様が掛けられており、真鍮の飾りが賑やかに飾られていました。上からぶらさがっているものもあれば、鶴の形をした蝋燭立て、花瓶などもあり、真鍮磨きで光らせるのが、子どもの私の役割でした。
漱石は飾ることを好まない。歯並びの悪さを隠そうともしない鏡子を気に入ったというくらいです。金色に飾り立てた仏壇は、浄土の世界を表わしたものと言われますが、漱石は何となく違和感をおぼえ続けてきたと考えられます。
さらに、ひな子の葬儀をめぐるトラブルが、真宗寺院に対する嫌気を起こさせる大きな要因になった、との指摘もあります。妻鏡子の『漱石の思い出』によれば、通夜に来た僧侶の下品な言動が、漱石と本法寺の不和を決定的なものにしたと言います。通夜僧は、「お寺では何でもちょうだいいたします。死んだ仏のものは、皆どこでもお宅では気味悪がられたりしますので何でもいただきますし、また宅によっては供養のためとあって遺品をご寄進なさいます方もございます」と言った調子で、
「たとえばお棺におかけになってる白いきれ、あんなものでもいただきます」に、とうとう夏目もあいそがつきたというふうに、「いや、あれは葬儀屋から借りたものです」とにべもなくそっぽを向いて挨拶しておりました。
ところが水川隆夫は、これは鏡子の記憶違いではないかとしています。通常、不愉快なことがあれば、漱石は必ず日記に書くはずだが、該当する記述はなく、通夜僧に対する反感も表れていない。それに、漱石は通夜の途中で寝てしまったと言うのです。水川はもし該当するような事実があったとするなら、それは漱石が寝てからの出来事であろうと述べています。
確かに、ひな子の急死という体験をもとに書かれた『彼岸過迄』の「雨の降る日」、通夜の場面において漱石は、
晩には通夜僧が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経がどうだの、和讃がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人と蓮如上人という名が度々出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施を僧の前に並べて、もう宜しいから御引取下さいと断わった。坊さんの帰った後で御仙がその理由を聞くと、「何坊さんも早く寐た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌だよ」と済ましていた。
と書いています。どこまで事実と一致するかわかりません。ひょっとしたら、漱石は通夜僧に「お引取りください」という前に寝てしまったのかもしれません。また、漱石が「変な話」と書いているところから、松本と通夜僧の会話に相当するものは、通常おこなうものではなく、当然、漱石もそのような会話をすることはなかったのでしょう。この一文から、漱石の真宗に対する博識ぶりと、漱石の素直な気持ちが読み取れますが、反感と言うものを読み取ることはできません。
ところが、雑司ヶ谷墓地に墓ができるまで、ひな子の遺骨を本法寺に預かってもらったが、いざとなると、本法寺は引渡しを渋り、弁護士を頼んで表沙汰にすると言って、やっと遺骨引渡しに応じたという段になって、漱石は反感を強めていったとみられます。
第二に、煩わしさから少しでも解放されたい漱石は、いかなる宗派であろうが、寺院との関係を断ちたいと思っていたのではないでしょうか。漱石家は夏目家の分家にあたります。漱石の性格からして、本家の墓に入るつもりはなかったでしょうが、それなら菩提寺をどうするか、墓をどうするか、考えておかなければならなかった。その結果、漱石は雑司ヶ谷墓地に墓を買い、共同墓地を選ぶことにより、墓を寺院から独立させる道を選んだのだと思います。
禅宗によって送られたとしても、漱石はどこかの禅寺の檀家になることは考えてもいなかったのでしょう。
辻村明は『体験・森田療法』において、親鸞は「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのみたてまつる心のかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」(いずれも親鸞の弟子、唯円の著『歎異抄』)と、自力を排除していくが、
私は自己や自我を放棄するという意味では、自力も他力も同じであり、禅宗でも浄土真宗でも、あるいは時宗(一遍上人)でも同じであるように思っている。
と記しています。まさにこの「自己や自我を放棄する」ということが、「あるがまま」の姿です。
水川隆夫も、漱石は《意識的・意志的には禅の学習と修養に努力しながら、他方では、無意識的・慣習的に浄土真宗の儀礼と思想に自然となじんでいたといえよう》と述べ、漱石にとっては《禅も浄土真宗も、平静な心で人生を送るために関心をもちつづけた二つの道であって、両者が「混在」することはあっても、対立するものとは考えていなかった》と結んでいます。
真宗にも禅宗にも精通し、親鸞を「インデペンデントの人」として評価し、死後の仏事は茗荷谷にある白隠禅師ゆかりの至道庵徳雲寺に託された。こうしてみてくると、漱石が図らずも森田理論と共通の基盤の上に立っていたことが見えてきます。
(付)「諷語」について
諷語は皆表裏二面を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう。(略)表面の意味が強ければ強い程、裏側の含蓄も漸く深くなる。
漱石は『趣味の遺伝』で、「諷語」という言葉を登場させています。耳慣れない言葉です。「諷語」といったいどんな意味なのか。漱石はさらに、《滑稽の裏には真面目がくっ付いている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談の底には啾々たる鬼哭が聞える》という例を挙げ、やがて親友の恋人と判明する寂光院の女を、「諷語」の中に説明しています。
最も美くしきその一人が寂光院の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき眼、そのはなやかな袖が忽然と本来の面目を変じて蕭条たる周囲に流れ込んで、境内寂寞の感を一層深からしめた。天下に墓程落付いたものはない。然しこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。(略)上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくの如く四辺の光景と映帯して索寞の観を添えるのか。これも諷語だからだ。マクベスの門番が怖しければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。
「諷語」とは、「プラス」と「マイナス」が背中合わせに同居している状態でしょう。まさに先ほど述べた、切り離すことのできない「表裏一体」です。「プラス」が強くなればなるほど、「マイナス」もまた強くなっていかなければならない。一方が強ければ、反対のものも強くなければならない。光りが明るければ明るいほど、その影は暗く深くなるのです。
漱石は、良い成果を得ようとすればするほど、その反対に神経衰弱が昂じて破滅の道にむかって行きました。つまり、「生の欲望が強くなればなるほど、不安もまた強くなってくる」ということです。そして漱石は、「死へのあこがれが強くなればなるほど、生への欲望もまた強くなった」のであろうと思います。
漱石はそのことを、真宗の影響を受けながら、体験的に会得していきました。そして、同じように体験と科学的分析から森田正馬が確立していった森田理論と共通の基盤をもつようになっていったのです。