「あるがまま」という言葉は、森田理論でよく使われます。
私は先に、漱石を森田理論の観点から捉えることを試みましたが、もちろん漱石は、死後確立された森田理論を知るはずはありません。けれども漱石は、その生きる過程において、真宗や禅宗に接し、有能な頭脳で吸収し、考察し、組み立てることによって、意図せずして森田理論を構築し、人生に活かしていたように思われるのです。
『体験・森田療法』の中で、辻村明は森田理論と宗教の関係について、概略、次のように記しています。――森田正馬の著書には儒教・道教の教えが出てくるし、至るところに仏教の教え、とくに禅の言葉がよく出てくる。そのようなことから、正馬が禅の悟りを開いた結果、開発されたものではないかと言った見方が出ているが、正馬ははっきりと否定して、あくまでも科学として人間心理を解明していった結果、編み出されたもので、禅の語を便利に説明することができるようになった。
森田療法をおこなう精神科医の鈴木知準は、神経症の「全治」と禅の「悟り」は同じ心理状態であると述べています。森田療法の中には禅問答のような部分もあります。しかし、辻村はおもしろいことを書いています。《禅の教えでノイローゼが治るのであれば、禅僧にノイローゼ患者はいないはずである》。ところが実際には、正馬によると、江戸時代中期の禅僧で、臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師はノイローゼ、つまり神経衰弱症に罹っていたと言うのです。正馬は、釈迦も親鸞も白隠も、政治家では北條時宗も神経質であったと診断しています。
森田理論は禅宗と親和性が強いように言われますが、正馬が白隠とともに、親鸞をあげたように、真宗ともきわめて親和性が強いのです。正馬は「形外会」という集まりで、
森田理論の特徴は、人間の中における「生の欲望」を確認すること、そして「あるがまま」の自分を受け入れること。「あるがまま」とは、人間には、不安や苦悩、恐怖や劣等感がつきもので、仏教で言う「不安常在」。生きているかぎりは、ついてくるもの。まさに漱石自身が言う「諷語」の関係にあるのです。
漱石は『吾輩は猫である』に猫の悟りを書いて、真宗の真髄を明らかにしました。もちろん、この吾輩を書いたのは他でもない漱石自身ですから、漱石は38歳にして、すでに悟りの境地に達していたことになります。にもかかわらず、漱石は精神的落ち込みを繰返し、胃潰瘍、痔疾、リューマチ、糖尿病に悩まされ、妻子に手足と言葉の暴力を浴びせかけ、なおも十年余、人間世界という甕の中で、がりがりと爪をたてながら、もがき続けたのです。
漱石がすでに1890年、子規に宛てた手紙で、《知らず生れ死ぬる人何方より来りて何かたへか去る又しらず仮の宿誰が為めに心を悩まし何によりてか目を悦ばしむると長明の悟りの言は記憶すれど悟りの実は迹方なし》と書いたように、理論的にはわかっても、それによって、悩みや苦しみから解放され、平静を得ることはなかったのです。
人生終焉の前年、さまざまな出来事に煩わされ、悩み苦しんできた人生を振り返るかのように、漱石は『道草』を書きました。煩わしい出来事は振り払っても、振り払っても、次から次へと振りかかってくる。漱石は『道草』で、健三に《「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」》と言わせています。
この世のさまざまな出来事に煩わされているうちに、人間は一生を終ってしまう。あっちの出来事にもフラフラ、こっちの出来事にもフラフラと、道草をしているうちに人生は終ってしまう。まさに人生そのものが「道草」と言ってもよい。ずいぶん自分も「道草」してきたなぁと、自分の人生をあざ笑っているようにもみえるし、永遠の生命の流れの中で、人生は仮の宿、人生そのものが「道草」なのだという、肩の力を抜いた安らぎの言葉が込められているとも、取ることができます。
漱石は最期の時までこの世を真剣に生き、与えられた賜物を見つけ出し、それを発揮し、世のため人のために役立てたいと思っていました。そのことがまた漱石の平静さを失わせると要因になるとともに、生きる原動力、エネルギーになっていったのではないでしょうか。
漱石の「厭世主義」は、生への強い意欲によって裏づけられているのであり、「生への意欲」が強ければ強いほど、「死へのあこがれ」が強くなければならない。まったく反対方向へベクトルが向いて行く矛盾、つまり「諷語」の関係、そこから生じる葛藤が漱石を悩ませ、神経を興奮させ、作品を生み出させていったと言うことができるかもしれません。
漱石は、一人の人間として、しっかり浄土の教え、親鸞の教えと向き合い、それを人生の支えとして生きてきました。「真宗嫌い」と言われる漱石は、まさに「真宗」を生きてきた人物でもあるのです。