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13.漱石の『こころ』がわからない?②
「明治の精神」とは
それでは、「明治の精神」とはいったい何なのか?
乃木大将の殉死をきっかけにしているところから、「明治の精神」を、「国家主義」、「武士道」としてとらえる人が多いかもしれませんが、私はそうは思いません。私は、「明治の精神」と言うのは、一人一人が切磋琢磨しながら、新しいものを求め、変革をめざしていく「明治の気風」であると考えます。そこには自由な発想があり、模倣ではない個性があり、一人一人が「独立(インデペンデント)」しており、「個人主義」がある。幕末から明治維新にかけての人物が、今でも人々を引きつけるのは、生き生きとした、ものごとに捉われない個性をもっているからではないでしょうか。
そんな気風が、明治の45年間でどうなってしまったか?
日清・日露の戦争を経て、日本は台湾やサハリン南部、そしてさらには韓国(朝鮮)までも支配するようになってしまった。明治のめざした理想の国家はこんなものだったのだろうか。「明治の気風」、「明治の精神」は完全に失われ、残ったのは「国家主義」だけ!「国家主義」における人間は、国家権力から「模倣」を強制されることによって「独立」した個性を失わされ、画一化されてしまいます。ついに、「明治」は死んだ!
責任の取り方
それでは、「明治の精神」を死に追いやるような、そんな国家をつくり上げてきた責任は、いったい誰にあるのか?
伊藤博文にあるかもしれない。明治天皇や乃木大将にあるかもしれない。――しかし、みんな死んでしまった。それでは、生きている漱石自身に責任はなかったのだろうか。そう思った時、《御前は他人を批判する何の資格もない男だ》という声が聞こえてくるのです。
『こころ』の先生は、よく勉強し、知識もあり、考える力もあったけれど、社会の片隅で何の発言もしなかった。漱石自身も同様ではないだろうか。黙っているうちに、「国家主義」を大きくし、「明治の精神」を死に追いやってしまったのではないだろうか。自分にも責任があると感じた時、その責任の取り方として、「死んだ明治」に「殉死」するという生き方が出てくるのです。明治天皇に「殉死」した乃木と180度違った「殉死」。これが『こころ』の先生の「殉死」であると、私は思います。
「先生」の遺書の最後の段落には、《私の過去を善悪ともに他の参考に供する積りです》と書かれています。「二重構造」の表面である、下宿のお嬢さんと「先生」、そしてKをめぐる三角関係、Kの自殺にともなう「先生」の罪の意識では、他の参考に供するには無理がありそうです。
しかしながら、黙っているうちに、「国家主義」というものを生み出し、大きくしてしまった「明治」という歴史から多くの教訓を学び取り、「大正」という時代に生かして欲しい。「黙っていてはいけない。」「おかしいと思ったら声をあげよ。」「黙認は認めたことと同じ。自分自身、その責任をとらなければならない。」――「先生」の遺書をこのようなメッセージとして受取るならば、それはまさに「私」のような“ヤンガー・ジェネレーション”に対する素晴らしいメッセージとなり、百年後の私たちへのメッセージとしても大きな意味をもちます。
このような漱石の思いを、「二重構造」の表面で、さりげなく表現しています。妻の母が病気になり、到底治らないとわかったところです(下.54)。
私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身の為でもありますし、又愛する妻の為でもありましたが、もっと大きい意味からいうと、ついに人間の為でした。私はそれまでにも何かしたくって堪られなかったのだけれども、何もする事が出来ないので己を得ず懐手をしていたに違ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
『こころ』の先生も、一度だけ立ち上がったのです。妻の母のために。実際、漱石もこの後、学習院で若者を前に講演し、さらには選挙の応援と、「自分から手を出して」、声をあげていくようになります。
漱石が『こころ』に込めたメッセージを受取って、私はマルティン・ニーメラー(1892~1984年)の警句を思い出しました。『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』というものですが、さまざまなバージョンや訳があります。その一つを紹介します。
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチスは社会主義者を攻撃したとき、私は前よりも不安だったが、社会主義者でなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチスはついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。――しかし、それは遅すぎた。
ニーメラーは芥川龍之介と同じ年の生まれです。漱石から見れば、まさに“ヤンガー・ジェネレーション”です。ニーメラーがドイツにおいて『こころ』を読み、漱石のメッセージをしっかり受けとめることができたならば、ニーメラーは共産主義者が攻撃された時、行動していたでしょう。
Kとは誰か
ところで、『こころ』の謎解きの最後に、「静」と並んで名前が出てくるKとは誰かについて、触れておきたいと思います。この作品で名前が出てくるのは、静とKの二人だけです。静に意味があるとしたら、当然Kにも意味があるはずです。イニシャルKとは、いったい誰なのか。清沢満之説、石川啄木説、幸徳秋水説など、いくつかの説があります。
清沢満之は子規と漱石が尊敬し、大きな影響を受けた浄土真宗の僧侶です。Kの実家も新潟の真宗寺院であり、共通点はあります。
高橋源一郎氏などはKを石川啄木とする説を唱えています。啄木の本名は石川一。母カツは入籍しておらず、実家の工藤姓のまま。啄木も戸籍上は工藤一でした。したがって、イニシャルはKになります。父石川一禎は曹洞宗ではありますが、常光寺住職でした。つまり啄木は僧侶の息子であったのです。
いずれも捨てがたい説ですが、ここで作品の中に戻って、原点からKの正体を探ってみたいと思います。
Kは「先生」によって殺されたようなものでした。つまり、Kは乃木大将に殺されたようなものです。言い換えれば、「国家主義」に殺されたようなものです。Kというイニシャルで「国家主義」に殺された人物と言えば、思いつくのは幸徳秋水。
漱石は大逆事件に関して、何も行動せず、何も語らず、何も書かず、ただ黙っていました。その結果、幸徳秋水らを見殺しにしていったのです。もちろん、客観的にみれば、危篤状態に陥った「修善寺の大患」を含むこの時期に、漱石が何か行動できるはずもありません。けれども、どんなに言いわけができようとも、漱石は自分自身の良心に対して、許せない気持ちでいっぱいだったのでしょう。「Kはどうして自殺したのだろう」という質問を聞くたびに「先生」が感じたと同様に、幸徳の死を思う時、漱石の《良心はその度にちくちく刺されるように》痛むのです。そして、《早く御前が殺したと白状してしまえという声を》聞くのです。「先生」がKを見殺しにした、ひょっとしたら「先生」自身がKを死に追いやったかもしれないと同様に、漱石は幸徳らを見殺しにしていった、そんな思いが強かったのではないでしょうか。
幸徳のような犠牲者を二度と出したくない、そんな思いが『こころ』を書きあげていく原動力の底辺に流れていたのだと、私は思います。