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14.漱石と旅①
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
こんな書き出しで始まる『草枕』は、日本の旅文学の代表のように扱われ、しばしば引用されます。人はなぜ旅をするのか。日常の生活を離れて、非日常の世界へ足を踏み入れることによって、日常生活の活力を再び取り戻す。ハレとケの関係で言えば、ケ(日常)の力が枯れてきた(ケガレ)ら、ハレ(非日常)によってそれを取り戻す。そんなハレの日、まつりの日のような役割が旅にはあるのかもしれません。
『行人』では、家族の絆を取り戻すため旅が仕組まれ、『彼岸過迄』では、田川敬太郎が連れ出した柴又辺りで、須永市蔵は身上話しをしています。市蔵や『行人』の長野一郎は精神的な疲れを癒すため、東京を離れ、旅に出ています。『それから』では、代助が実家の軋轢から逃れるため旅に出ようとして、支度に銀座まで出て来て用を済ませ、《これも簡便な旅行と云えるかも知れない》と考えています。『二百十日』は物見遊山の阿蘇の旅。『虞美人草』には友人同士の京都の旅が描かれています。
『坑夫』の主人公は、ある事情から東京を飛び出し、『明暗』の津田はかつての恋人清子を追って東京を後にしています。就学・就職や結婚で地方へむかう人もあれば、帰郷する人もあります。期待や不安のうちに上京する人もあれば、疲れ果てて故郷東京へ帰る人もいます。漱石はそんな旅の場面を、事細かに書き、あるいは一言で書いています。
旅は非日常の旅ばかりでなく、日常の旅と言うものもあります。しかし、旅の結論を『草枕』はこう書いています。《唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう》。所詮、旅も人の世から出るものではないのです。
坊ちゃんは四国辺の中学へ赴任するまで、同級生と一所に鎌倉へ遠足した以外、東京から出たことがありませんでした。漱石が初めて東京を離れたのは、年譜によれば1887年、中村是公らと登った富士山のようです。漱石二十歳。ずいぶん遅いようにも思われますが、今のように自在にどこへでも行ける交通事情ではないので、やむを得ないかもしれません。
「では富士山まで、いったいどうやって行ったのだろう?」。ここでも、私の性分は頭をもたげます。一般的な富士講の経路を使えば、高尾山に寄りながら甲州街道を進み、吉田口から富士山に登り、帰りは須走口を下りて、足柄峠から関本を経て、大山に寄りながら、大山道を東京へ戻る。ほぼ十日の行程です。漱石たちがどの経路を通って富士登山したかわかりませんが、この年の7月11日、東海道線が国府津まで開通しており、これを機に夏休み、富士でも登ってみようということになったのではないかと、私は推察します。国府津から関本(現、南足柄市)・足柄峠を通って、須走口か御殿場口から登り、同経路で引き返したと考えられ、これでも六日くらいかかる旅でした。
1889年、第一高等中学校本科一年を終えた漱石は、三兄直矩と興津(現、静岡市清水区)を訪れています。この年2月1日、東海道線は静岡まで開通しています。なお、東海道線は琵琶湖連絡船を利用して、4月16日、全線暫定開通しています(神戸までの全線開通は7月1日)。
1890年夏、漱石は箱根で二十日程過ごしています。国府津から小田原を経由して湯本まで馬車鉄道が開業したのは1888年です(1900年から電化)。そして漱石は1891年、再び富士山に登っています。今度は、東海道線の御殿場駅で下車、御殿場口(1883年開設)から登山したと考えられます。東京から三~四日の行程です。
1892年、漱石は正岡子規と京都・堺を旅して、その後、岡山にむかっています。前年、山陽鉄道の神戸・岡山間が全線開通しています。岡山には次兄妻の実家があり、ここで漱石は大水害に遭遇するのです。さらに漱石は金毘羅宮を経由して松山に行き、高浜虚子と初めて会い、子規といっしょに帰京しています。1893年、漱石は日光に出かけています。日光まで鉄道が開通したのは1890年です。
ここまでみてくると気がつくように、鉄道の発達にともない、漱石の旅の範囲は広がっていったことになります。
1894年、結核療養を名目に伊香保温泉を訪れた漱石は、前橋に帰省中の小屋保治を呼び出し、話し合った結果、保治に楠緒を譲ることになったと言われています(前橋まで鉄道が開通したのは1884年です)。この後、漱石は松島へ旅行しています。すでに日本鉄道は青森まで全線開通していました(1887年、仙台・塩竃、1891年、青森)。
とにかく夏休みは旅行と決めてかかった学生時代でした。やはり旅行が好きだったとしか言いようがないのですが、当時それを実現できたのですから、漱石は恵まれた境遇にあったと言うことができるでしょう。1894年12月には参禅のため鎌倉を訪れた漱石ですが、大船・横須賀間の鉄道は1889年に開通しているので、漱石は汽車で鎌倉へ行くことができたことになります。
漱石の生涯における旅は、学生時代に行った房総、日光、伊香保温泉、松島、鎌倉などから、中村是公と出かけた塩原・日光・軽井沢・上林温泉・渋・湯河原など。熊本赴任に際し、阿蘇登山も含め、九州各地の旅。イギリス留学ではパリにも立寄っています。中村是公の招待で満州・朝鮮も旅しており、講演では、信州から高田(新潟県)、関西をまわっています。当時の日本人としては、恵まれた「旅人生」であったと言えるでしょう。そして、そのような旅の体験が作品の中でも随所で活かされているのです。
1889年、興津から戻った漱石は、友人たちと房総半島の旅に出ました。船で保田に着き、海水浴などを楽しんだり、鋸山に登り、日本寺を参拝したりした後、富浦・那古から小湊へ行き、鯛ノ浦・誕生寺を訪れ、銚子まで行って帰京しています。汽車に乗ることなどまったくできない旅でした。漱石はこの二三日間に及ぶ旅の思い出を『木屑録』に表わし、正岡子規のもとに送っています。
この経験は、『こころ』(1914年発表)の先生とKが房総を旅する場面で活かされています。コースもまったく同じです。とにかく、歩きに歩き、そして泳いでいます。先生は1897年頃に大学を卒業したと考えられるので、房総の旅はその前年夏。総武鉄道が銚子まで開通するのは1897年ですから、先生たちは利用できなかったと思われますが、すでに市川・佐倉間が1894年7月、本所・市川間が12月に開通しており、先生とKは佐倉から本所まで汽車に乗ったと考えられるのです。この部分が漱石自身の旅と大きく異なる点です。
二人は本所駅で汽車を降り、歩いて《両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。Kはその勢で小石川まで歩いて帰ろうと云うのです。体力から云えばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました》。
『彼岸過迄』の田川敬太郎と親友須永市蔵は両国駅から汽車に乗って、鴻の台(国府台、こうのだい、現在のJR総武線市川駅)へむかっています。本所から両国橋(現、両国)まで開通したのは1904年です。漱石は自分の体験、先生の学生時代、そして作品を書いている「現在」における鉄道の状況をきちんと把握しています。「鉄道マニア」にとって、こんなところも、漱石の作品にたまらなく魅力を感じさせられてしまいます
坊ちゃんが赴任したのは《四国辺のある中学校》としか書かれていません。それが松山で、漱石が愛媛県尋常中学校(松山中学、現松山東高校)に赴任した体験が素地になっていることは疑う余地もありません。ところが、『坊ちゃん』を読む時、漱石の実体験と作品の間に、十年の隔たりがあることを認識しているでしょうか。
漱石が松山に赴任したのは、日清戦争に勝利し、下関条約が締結された1895年4月です。前年、広島まで鉄道が開通しており、漱石は広島の宇品港から船で三津浜に着いたのだろうと考えられます。三津浜から松山市街へは1888年に四国で初めて開通した伊予鉄道に乗っています。当時、所要時間28分、運賃3銭5厘でした。8月22日、道後温泉と松山中心街の一番町を結ぶ道後鉄道が開通しています。後に「坊ちゃん列車」と呼ばれるこの軽便は、漱石が松山に赴任している間に開通したことになります(この鉄道は途中の上一万から分岐して三津口へも伸びていました)。
10月19日、正岡子規は三津浜から広島へむけて出発。広島から奈良を回って上京した子規は二度と松山へ戻ることはありませんでした。12月27日、見合いのため上京した漱石は、翌年3月まで松山中学に勤め、熊本の五高に転勤して行きました。
その後、漱石は一度も松山の土を踏むことなく、1906年春、一気に『坊ちゃん』を書き上げました。設定時期は日露戦争期の1905年です。それは、祝勝会の場面が出てくることも明らかです。もちろん、漱石の実体験に合わせて日清戦争期と考えられないこともありませんが、坊ちゃんが帰京後、《ある人の周旋で街鉄の技手になっ》ていることから、日清戦争期でないことは確かです。街鉄(東京市街鉄道会社)が開業したのは、1903年ですから。
漱石は十年前の記憶をたどりながら『坊ちゃん』を書きました。したがって、漱石が見た松山と、作品を書いた当時の松山との間にズレが出てきても不思議はありません。だからこそ漱石は松山とは書かずに「四国辺」としているのかもしれません。これは、あくまでも架空の都市ですよ。そんなふうに。
漱石が『坊ちゃん』に仕組んだ興味深いことがいくつかあります。
船を下りた坊ちゃんは汽車で市街まで来ています。所要時間5分、運賃3銭は実態とずいぶん違います。「ここは松山ではないのだ」と言わんばかりです。にもかかわらず、船が接岸できず、艀を使っている様子はきちんと描かれています。河口港の三津浜は船の大型化にともなって接岸できなくなり、艀を使うようになっていました。大型船が接岸できる高浜港開港は、『坊ちゃん』が書かれた1906年ですから、坊ちゃんはまだ利用できませんでした。
道後温泉も住田という地名に変えられています。ところが漱石は古町(こまち)を実名で登場させているのです。
古町停車場の光景と思われる場面の描写は、かなり細かく長い。坊ちゃんは例のごとく温泉へ行くために停車場へ。二、三分前に発車してしまったので、しばらく待つことに。《やがて、ピューと汽笛が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乗り込む》。住田まで上等が5銭で下等が3銭。城下から汽車だと10分ばかり、歩いて30分。
温泉へ入った坊ちゃんが今度は古町の停車場で下りています。《学校まではこれから四丁だ》。古町は城をはさんで道後温泉と反対側、つまり西側、JR松山駅に近いところにあります。漱石が勤めた松山中学は城の東側にあるので、上一万・一番町間にある勝山町が最寄駅になります。漱石は実在の町名を書くことによって、逆に「この学校は松山中学」でないことを表わそうとしたのかもしれません。
坊ちゃんは松山からの帰路、神戸まで船を利用しています。大阪商船の大阪・宿毛線に乗船したと考えられます。各地に寄港するため、2泊くらい要したのではないでしょうか。
1896年、漱石は松山から、熊本の第五高等学校に転任しました。三津浜から虚子と共に出発し、宮島に一泊してから広島で虚子と別れています。熊本までは、1891年に鉄道が開通していましたが、広島から馬関(現、下関)・門司間は未開通であったため、漱石は広島から船で門司へ渡り、そこから汽車で熊本へむかったと考えられます。途中、博多と久留米に一泊しています。
6月には中根重一が娘鏡子を連れて熊本へやって来ました。9日、結婚式がおこなわれ、9月にはいって漱石は鏡子を連れて、博多、大宰府など、一週間程旅行しています。1897年には同僚山川信次郎と福岡・佐賀、小天温泉など、さらに1899年には宇佐八幡・耶馬溪・日田・吉井などを旅し、阿蘇にも登っています。
山陽鉄道は、1898年、徳山まで開通を機に、徳山と馬関・門司を結ぶ連絡船が運行され、暫定的に一本につながりました。神戸・馬関間の鉄道が全線開通し、関門連絡船が運行されるようになったのは1901年。この時、すでに漱石はイギリスにいました。馬関は1902年に下関と改称され、1906年の国有化によって、山陽鉄道は山陽線と呼ばれるようになりました。
三四郎上京は1908年頃と推定されます。三四郎は《九州から山陽線に移って》います。これは関門連絡船で九州から本土に渡り、山陽線に乗り換えたことを表しているのでしょう。当時、山陽線の急行は大阪・京都まで直行運転されていますが、三四郎がどこで東海道線の列車に乗り換えたかは記されていません。おそらく、夜行で下関を発って、翌日午後に京都に到着し、名古屋行きに乗り換えたのでしょう。『三四郎』は東海道線の車内から始まります。
どうして、東海道線の車内?――日が暮れて、《駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯の点いた洋燈を挿し込んで行く》と言う記述があるからです。山陽線は国有化以前、1898年から、全国に先駆けて電気燈を使用しています。にもかかわらず、官営の東海道線では相も変わらず車内灯に洋燈(ランプ)が使用されていたのです。
ひっかかりついでに、電化されていない路線で、どうやって電気燈を点したのだろうかと疑問が湧いてきたので調べてみると、山陽鉄道では、蓄電車を連結し、兵庫・姫路・岡山・糸崎(現、三原)・広島・三田尻(現、防府)・下関に自家用発電所を設けて充電していたようです。子どもの頃、蒸気機関車が牽引する客車に、確かに電気燈が点いていました。何の疑問ももたなかったけれど、よく考えてみれば、不思議なことだったのです。当時はすでに各車両に蓄電池が取り付けられるようになっていたようですが、その後、エアコンなど大容量の電力が必要になると、自家発電装置が付いた電源車が登場し、寝台列車に連結された時代もありました。蓄電車と発想は同じです。
21時30分の予定が、40分程遅れて名古屋に到着。三四郎は京都から相乗りの「九州色の女」と宿屋の一つ部屋に泊まり、何事もなく、翌朝、名古屋駅まで来て女と別れ、新橋行き急行に乗っています。